S'il vous plait, Madame 1
「君はまだまだ、男というものを分かっていないようだね、中尉」
その日、執務室で顔を合わせた彼女の上司は、デスクに両肘をついたまま、
皮肉な笑みを浮かべ、楽しそうに言った。
「……別に、それならそれで、おめでたいことですから」
東方司令部のある中佐に、恋の噂が立った。40歳を過ぎたばかりだというのに、
不幸にも妻に先立たれた、寡黙で堅実な男性。噂になったお相手は、通信課所属で、
この春に配属されたばかりの、17歳の事務職の女性。
「まさか、あの二人に接点などありませんし……中佐は、そんな器用な方ではありません。
――大佐と違って」
噂話について意見を求められた時、リザは即否定した。真面目で誠実な男性ではあったが、
とても親子ほども年の離れた娘と恋愛関係を持てるような切っ掛けを作れるタイプではないと。
「じゃあ、賭けようか?」
思えば、そんなつまらないことに乗せられた自分がバカだった。
「ええ、良いですよ」
職務のことならともかく、色事において、この上司が勝算の無い賭けなど、するはずがなかった。
それから程なく、例の二人が婚約したというニュースが、東方司令部をにぎわせたのだった。
「忘れてはいないかね、中尉」
「……何ですか」
良からぬたくらみを含んだような笑みに、リザは、くっと顎を引いた。
「賭けに勝ったら……何でも私の言うことを聞いてくれると」
「そんなことお約束していません。1つだけ、お願いをきくと」
「そう、1つだけ。何でも、ね」
実に晴れやかで、嬉しそうな顔をしている。ああ、嫌な予感がする。
「大佐……本気、なんですか? たかがそんな賭けで勝ったからって」
「本気だとも。大事小事に関わらず、賭けは私の勝ち。だから――これは正当な権利だ。
文句は言わせないぞ。さぁ……覚悟したまえ」
この朝っぱからナニを想像しているのか知らないが、ロイ・マスタング大佐は、いつになく
ご満悦な様子で、デスクから勤務予定表を取り出し、指でなぞった。
「さて……明後日、君は早く上がって、翌日が休暇か。丁度良い」
勤務表を閉じると、ロイは顔を上げた。
「明後日の晩、一緒に出かけてほしいところがある。フォーマルでお願いしたいな。
本来なら、こちらがレディをお迎えにあがらなければならないのだが、あいにくその日は、
私の方が帰りが遅い。申し訳ないが、支度をしてから私のところに来てもらえるかな」
「それは……お気遣いいただかなくても結構です。私がそちらに伺えば宜しいんですね」
「ああ」
どうせ、何を企んでいるかなど、教えてくれようはずもない。バカみたいな思いつきの
気まぐれに付き合わされるのも、そこそこ慣れている。こうして時々、彼の子供っぽい
我が侭を満たしてあげれば仕事も順調に進むので、それも仕方がないと思っていた。
そしてその日もその翌日も翌々日も。ロイは非常に真面目に仕事をこなした。
あまりに真面目なので、その様子を、訝(いぶか)しげな目でリザが見つめているのに気付くと、
その時だけは、そんな彼女の思惑を覗いたような、秘密めいた笑みを口元に浮かべるのだった。
そして約束の日。リザは一足先に勤務が明け、帰路についた。
一体、今夜は何処へ連れ出そうというのだろうか。コンサート? パーティー?
だが、彼が自分を連れて、あまり派手な場に行くことは考えられなかった。
仕事の必然があれば話は別だが、さすがに彼も、そこは心得ている。だが、単に食事に誘う
というのとも、違うような気がした。何か、これまでにない策略があるように思えてならない。
「――やぁ、早かったね」
支度を終えてリザがロイのところを訪れると、彼はまだシャツのカフスを留めているところだった。
あとは上を着るくらいだから、早すぎたということもないだろう。リザを招き入れて扉を閉めると、
彼はじっくりと下から上まで、彼女の立ち姿を審美するように見つめた。
「……君らしい、意地っ張りな選択だね」
ニッコリと皮肉を言われて、リザはちょっとムッとする。ロイヤル・ブルーのスーツにシルクの
ブラウス。ルージュは、普段あまり付けないローズ系だが、装飾品はピアスとブローチだけ。
髪は、彼からのオーダーがあり、何本もピンを使ったアップにしてある。
「フォーマルで失礼のないように装ったつもりですが。お気に召さないのは仕方有りません」
「うん。いや、何て言うかな……装いで華美にならぬよう押さえ込んでいるけれど……
それには、君自身に華がありすぎる」
あっと思う間もなく彼が半歩踏み込んだかと思うと、既にその手はジャケットの下。
シルクのブラウスを引きだして、素肌のウエストに触れていた。
「大佐!」
思わずよろけて後ろの壁にぶつかりそうになるが、彼がもう片方の手をついて、
事なきを得る――が。
「ちょ……何を!」
「ああ、折角結い上げた髪が乱れてはいけないから、気を付けて」
暢気にそんなことを言いつつ、自分は彼女の首筋に艶めかしい口づけを落とす。
「その手は何ですか……!」
髪が崩れないよう、必死に首を前に出す体勢は不安定で、ヘタに動けないのを良いことに、
慣れた手は器用にブラウスの前をはだけていく。何とか体勢を立て直そうとすると、脚の間に
膝が挟まれ、ますます身動きが取れない。
「やめ……て、」
スカートも下に滑り落ち、彼の手が脚をなで上げると全身が総毛立つ。
一体何のためにここに来たのか、分かるような分からないような、でもこれはいくらなんでも
違うだろうと、リザの意識は混乱の中に理屈をねじ込もうと抗った。けれど、焦らすように
口づけすら与えず、視線すら通わせない奇妙な彼の愛撫には、これまでの抵抗が通用しない。
「大佐……!」
拒絶とも求めるともつかぬ、そのすがるような声に、ようやくロイは、彼女と目線を交わした。
すっと顔が近付く――が、キスは、左の耳元に。
「――折角の化粧を崩すわけにはいかないからね」
一気に艶めいた気分が冷め、リザは彼を突き放すと、下に落ちた服をかき集めて立ち上がった。
「一体、何なんですか! 出かけるというのなら、こんなことなさらないでください!」
「いや、出かけるから、着替えてほしいなと思って。――あれを着てもらいたいのだがね」
は……? と、彼の指さす方向を見ると、リビングのテーブルの上に、幾つかの箱が載せられていた。
「では、よろしく。私も支度を終わらせるよ」
背を向けて奥に引っ込もうとするロイの背中に、リザは思い切り何かぶつけてやりたいような気持ちだった。
「あ、下着も全部ね。靴から何から、揃えてあるのだから、ちゃんと頼むよ」
「なんっ……」
一体、どういうことなのか。問いただすのもバカらしい。こうなったらどうにもならないのだから、
彼の気の済むように振る舞うしかない。――だが、用意された衣装箱を開けてみたリザは、
果たしてこれから何が起こるのか……暗澹たる気持ちも新たにさせられた。
「用意は出来たかな。――ああ、よく似合っている」
夜会にでも出かけるような黒のスーツに身を包み、艶のある黒髪も撫でつけた姿で
ロイが現れると、リザはゆっくりと振り返った。
「――一体……こんな格好をさせて、何をしようというのですか、あなたは」
黒いシフォンのドレス、黒いレースの手袋、ヴェール付きの帽子。
絹の靴下に靴下留めもみな黒に合わせるという凝りよう。
どう見ても……喪服姿の貴婦人。
「随分不吉な装いがお好みなのですね。こんな姿で、何処へ連れ出そうとおっしゃるのですか?」
「悪くないね。いや……実に良い。何とも退廃的な美しさがある」
嬉しそうに言うと、ロイはまだテーブルの上に残されたジュエルケースを取り上げた。
「申し訳ないが、ピアスも換えてもらえるかな。喪に服す女性は、真珠しか身につけないのでね」
黒真珠のピアス、ブレスレットとネックレスが揃いで。しかし服にしても装飾品にしても、
あまりに豪奢で、リザは自分には合わないような気がして落ち着かない。
「あの……つまりこれは、やはり喪服なんですね」
「ウエディングドレスにでも見えるかい」
「いえ……ですから、一体これから何を!」
「――まず食事に行こうか」
もう、さっぱりワケが分からない。何故食事に行くのに、まるで何処かの富豪の未亡人のような
装いをしなければならないのか。
迎えのリムジンに導かれ、取り合えず手を取られるまま、リザはロイに従った。
「1時間ほどかかるが、飛び切りの穴場だよ」
「あの……」
どうしても訊かずにはいられずに、リザは口を開いた。
「ん、何だね」
「食事をするだけなら、こんな格好をする必然はないと思うのですが」
「まあ、食事はついでだ。――君は今宵、オクタヴィア・シルフィムと名乗りたまえ。
一代で財を成したランバート・シルフィム氏が人生の最期に愛した、孫ほども年の違う女性。
年は離れていたが、深く愛していた夫を半年前に亡くし、今も悲しみに暮れる未亡人」
「……何なんですか、その『設定』は」
「これから説明するから、しっかり覚え込んでくれ」
「ちなみに、あなたは?」
「私はマダム・オクタヴィアを賛美する者、レニー・ダルトン。悲しみにうちひしがれ、
その若さも美しさも喪服の内に封じて一生を終えようという未亡人の心を慰め、
何とか幸せにしてさしあげたいと願う……というのは上っ面で、彼女の財産の
おこぼれに預かろうと虎視眈々な、インチキ臭い色男、という感じではどうかな」
「…………」
もう、何も言うまい。
「じゃあ、これから細かい説明に入るよ」と、車内の時間は、あっという間に費やされた。
集中講義のような車内の時間が終わって、リザはまるで試験のためだけの丸暗記をした
学生時代のような気分になった。
車が止まったのは、3つほど隣の街。何故こんな所まで食事に……というか、既にリザの頭は、
疑問符があふれかえり、何を一番に問いつめるべきなのかすら判断が付かなかった。
「店構えは地味だが、シェフはセントラルの三ッ星ホテルで修行した本格派だ」
そう言って、素朴な田舎風だが、趣味の良さを感じさせる店に連れてこられたが……。
「で、一体何の余興なんですか、この胡散(うさん)臭い『設定』の数々は」
個室で向き合う喪服姿の未亡人と、取り巻きのジゴロのような男の組み合わせは、
何ともアンバランスで、また、危なげな構図だった。
「今夜、君と私で、ある場所に潜入捜査に挑む」
「………………は?」
こうなったら精々美味しいものを食べておこうと開き直りかけたリザは、またもロイの爆弾発言に
絶句させられた。ぴくんと跳ねた指が触れ、ワイングラスが倒れそうになり、慌てて押さえる。
「潜入……捜査ですか?」
「ま、昔の知り合いからの頼まれごとでね。『エウリディスの館』というのは、聞いたことがあるかね?」
「……いいえ」
「近頃上流階級の間で評判の、まぁ、占い師らしいのだが。幸せを呼び込んでくれる、とかいう手合いの。
君は、そういうのを信じる方かね」
まさか、とリザが即答すると、だろうな、というように、ロイは笑った。
「金はあっても心の満たされない人間というのが多いようで、見料が高くても、遠方からもはるばる、
この地味な街に、それ目当てで客が訪れるそうだ」
「はぁ。まあ、それで幸せになると信じられるのであれば、宜しいのでは?」
「だが、そのエウリディスという男に心酔し、全財産をお布施にしたいという女性が現れた。
聞けば、似たようなことは他にもあるらしい」
「――その男のペテンを暴けということですか」
「それと、館に入り浸って戻ってこないその女性を連れ戻してほしい、と」
何だか厄介な話になってきた。
「つまり……私はカモにされる未亡人役を」
「その通り」
丁度メインが運ばれてきたが、リザは一気に食欲が無くなった。
「大丈夫。もし奴が本物のペテン師ならば、間違いなく食いついてくる」
何故、そんな芝居がかったことを、しかもそんなつまらない詐欺みたいな事件に、
仮にもマスタング大佐、あなたが……と、リザは何遍でも問いつめたい気持ちが
満ちあふれてきたが、この度を超した悪ふざけに、今は何も言う気は起こらなかった。
「これは、以前から予定されていたことだったのですか?」
精一杯振り絞って言えたのが、この程度。
「まぁ、自分独りで何とかしようかと思っていたのだが、女性がいてくれた方が、コトが巧く
運びそうだと思ったし。それが君であれば、これ以上に素晴らしいキャスティングは
ないだろう? この2〜3日で必死にシナリオを考えた」
真面目に仕事していると思ったら……そんなバカみたいな妄想を展開しつつも、あれだけ仕事を
こなせるのなら、普段からもうちょっと――と、言いたいことは次から次へとこみ上げてくる。
「あちこち手を回して、今夜の予約も巧くねじ込んだし。うら若き美貌の未亡人には、これ以上ない
逸材を配した。――まあ、巧いことエウリディスとやらの化けの皮をはいでやろうじゃないか」
そんなお気楽で大丈夫なのだろうか……と、リザは頭が痛くなってきた。
「――夫を深く愛し、今も喪服を脱がない未亡人という『設定』にしては……ちょっとこの
いでたちは、説得力に欠けるような気がするのですが」
ディナータイムが終わり、いよいよ目的地へと車を走らせる道中、リザは言った。
シフォンのドレスは、立っている時はそうでもないのだが、座ると、フロントに重なり合った
ドレープが開いて、気を付けていないと、結構きわどい所まで脚が露出してしまう。
「いや、それで良いのだよ。貞淑な未亡人は、何処か隙(すき)が有った方が、見る者に
危うい背徳感を抱かせる」
「それと説得力と、どう関係が……」
「まぁ、要するに私が楽しいというのが一番の理由だ」
――大佐、正直すぎます。
もうちょっと体裁を繕う言い方がないものかと、リザは絶望的に思った。
だったらせめて最初から正直に、こういうことだと説明してくれれば良いものを。
要らぬ混乱を、この数時間で何度も味わわされてきた身としては、切に願いたかった。
「ただ、これが見えないよう、それだけは気を付けないといけないな」
そう言って彼女の脚の付け根に近いところに装着されたホルスターに彼が手を伸ばすと、
リザはそれを、ぺちっと叩いた。
「で、私はエウリディス様とやらにどう接すれば宜しいのですか?」
「基本的に私が邸内を探る時間稼ぎだ。適当に話を合わせて、長引かせてくれれば良い。
ただし……気を許すな。心酔者を持つような人物だ。ペースに飲まれたら、ミイラ取りが
ミイラになりかねん。まぁ、君ほどに意志の強い女性なら大丈夫だと思ってはいるが」
何だか褒められた気がしなかったが、リザは 『設定』が齟齬を起こさぬよう、自分の中で
何度も反芻させた。
小さな街の更に郊外に、その館はあった。周囲には何もない、ぽつんとしたたたずまいで、
昼に訪れたならどうということもない場所かもしれないが、深夜に近い月も出ていない
この晩には、何とも言えぬ暗い陰を落とす、古びた館だった。
「――奥様、お手をどうぞ」
先ほどまでは運転手がドアを開けてくれていたのだが、今度はロイが手をさしのべる。
「……有り難う」
黒いレースに覆われた手を、彼の白手袋の上に重ねると、引かれるように地に降り立った。
「さあ、オクタヴィア。行きましょうか」
彼女の崇拝者を自称する男が、館へとその手を導いた。