「“愛している”と私が言ったとしても、君は信じないのだろうね」
愛しさも切なさも見せない、そのくせひどく優しい温もりを与える女に、男は言った。
その言葉は自虐的な響きを持って、湿度の高い宵闇にしみ込む。
……どうせ、彼女は答えない。きっと。
――そう思っていた。
「あなた、金髪の女が好きなんでしょう」
男が、赤みの強いブロンドの襟足に顔をうずめると、女は少しかすれた声で言った。
「……君も黒髪の男が好きなんだろう?」
彼が呟くと、女はうつぶせに向いていたシーツから身をよじり、男の体の下で、
くるりと仰向けになった。彼女は男の頬に両手を添え、如何にもしおらしい様子で、
「これでも私は愛しているつもり」
男は何も言わない。ただ、無表情と同じ意味でしかない、乾いた微笑を浮かべたまま。
「……信じてないでしょう」
「それほど自惚れてはいないだけだよ」
誠意だとか、愛情だとか。そんなものをエサに、女に襟を開かせたことなどない。
自分になびかない女を、苦労して口説き落とすとか、そんな面倒くさいこともしない。
多少の駆け引きや段取りは嗜(たしな)みの内だから、互いに礼儀、或いは戯れとして
含むこともあるが、基本的には、快楽という通貨に共通の価値を見出すかどうか。
それくらいの単純さがないと、後が厄介なだけ。だから、慣れた女は楽だった。
玄人なら尚のこと。彼女らは最終的に、男よりも仕事にプライドを託そうとする。
その玄人の女でさえ、愛だの何だのという言葉を持ち出してくるのは、それだけ女にとって
『特別』な存在になることが、重要だということだろう。自分が愛されるに足る存在であると、
そう感じられれば、それが自己のレーゾンデートルになる。だからこそ視線の先回りをして
しなを作り、思考の先回りをして言葉を発し、自分を特別に印象付けようと、必死になる。
官能的な香りと指先で絡め取ろうと、本能と計算がせめぎ合う。
――そんな彼女らの自己愛は、嫌いではなかった。欲望に忠実で、快楽に正直で。
だが、ここでの“愛”という言葉は、虚ろな音色を響かせ、郷愁をそそる鐘楼のようなもの。
わけも分からずに、泣きたいような気分にさせる、苦手な感傷だった。聞きたくもない。
生まれいずる熱は、総て動物的な生理に起因するもの。それ以外にはない。
総ては一過性。触れた箇所が離れれば、そのまま醒めて消えるだけ。
記憶の中で、その熱が蘇ることなどあり得ない。先も後もなく、ただ今現在だけの繋がり。
執着などは、不自由な窮屈さを生むだけ。するもされるも、御免蒙(こうむ)る。
愛されるに値するようなことは何一つしていないのだから、愛されるわけもない。
そう。そんなに自惚れてはいない。
もし自分に誠意なんて物があるとしたら、唯一言えるのは、「どの女が良かったか」
なんてことは考えない、ということか。
少なくとも、そうであったはず。
――それなのに。
女が切なげな表情を見せる。湿った吐息とかすれた喘ぎで、自身の快楽に耽溺しながら、
こちらの意識を離さぬよう、じっとりと絡みつく。
狭隘な世界に限定した刹那の享楽を分かち合う淫らな共犯者として、ごく当たり前の行為。
だが、その思考に割り込む不協和音。異質な記憶。
行為と思考が齟齬をきたし、違和感が生まれる。
女の中にいながら、別の女の面影が入り込む
――何故、彼女はそうじゃない?
当然と言えば当然のこと。
――何故、彼女だけが違うのか。
それは愚問。
……彼女だけは、「共犯者」ではないのだから。
一方的に、自分が引きずり込んだ。
あの、雨の夜に。
どうしてそんな、厄介なことになりかねない真似をしたのか。
見境が無くなる程に飢えていたわけでもなかった。
ただ、ひどい雨の中を馬鹿正直に、自分への報告をするためだけに、ずぶ濡れになって
現れた彼女を、そのまま帰すわけにはいかないと思った。
「では、お伝え致しました」
長い睫毛にも雨の雫(しずく)が震える。
まだ春とは名ばかりの、暖を取らねば肌寒いような、冷たい雨の夜。
敬礼をしてから、おろされる右腕を掴み、そのまま家の中に引き入れた。
その時は、まだ色めいた感情はなく、あまりに自分自身に無関心な彼女の素振りに、
呆気に取られての行動だった。
「完全に濡れたわけではありませんから」
彼女は無頓着な様子で言う。
「これから帰る間に完全に濡れるだろう。それに、みぞれになるかというような冷え込みだ。
――女性が体を冷やすものではないよ」
彼女の表情もまた冷たい。彼女はいつもそうだ。決して仕事の顔を崩さない。
常に陰であろうとするかのように、「個」を主張しない。
リザ・ホークアイ少尉。極めて有能な、ロイ・マスタング中佐の副官。必然的に、最も身近に、
最も長く共に時を過ごす女性でありながら、マスタングは彼女を、女として見ることはなかった。
理由は単純。彼は基本的に、自分からは女を口説かない。その気のない女を抱く趣味もなく、
自分に目を向けさせようというような面倒な努力も好まない。まして彼女は、補佐官として
これ以上望めないほどに優れた人物で、やっかいな私情をからめて、むざむざ仕事の
不利益を招くほどの酔狂を起こす気には、到底ならなかった。……そのはずだった。
とにかく濡れた彼女をどうにかしなければならないと、マスタングは奥へと向かった。
そして、バスタオルを取って引き返すと、雫がしたたり落ちる彼女の髪を押包むように、
すっぽりと頭からかぶせた。すっと、彼女の手がそれを押さえるようにタオルにかかると、
微かにマスタングの手に触れた。
彼は、思わず息を呑んだ。
――何という、冷たい手。
そのくせ、何だ、そのいつもと微塵も変わらない目は。
思わず彼女の頬に手を伸ばす。やはり、氷を当てたように冷たい。
目が合っても、何も映さない瞳。触れられても、何の反応もない。
少し、顔を近付けてみる。それでも、変わらない。
見つめ返す目。無感情なのに、強い光をたたえた瞳。
何故、動かない? 感じていないはずはない。この冷たさも。
そして他者の手も、これだけ冷え切っていれば、焼けるように熱く感じるはず。
頬に手を添えたまま、彼女の目に何が映っているのかを確かめるように、顔を近付けた。
彼の唇が、自分の冷ややかなそれに触れた時も、彼女は身動きもせず。
軽く触れただけで離れ、目を合わせると、やはり変わらぬままの、真っ直ぐな瞳。
何かは分からぬものに促されるように、マスタングは彼女を抱き寄せ、今度は深く口づけた。
抵抗はない。受け入れられてもいない。だが拒絶もない。
そういった事柄よりも、彼女の口内に、初めて血脈の温もりを感じたことに安堵していた。
ああ、体の芯まで冷えきってしまってはいなかった、と。そんな愚かな思いに、心が揺れた。
相手の女に温もりを感じて安堵するなどということが、これまであっただろうか。
あまりにも彼女の手が、冷たかったから。
そして、彼女は為されるがまま。火がついた男の行為を咎(とが)める言葉も、拒絶の仕草も、
眼差しもなく。しかし、応えることもなかった。ただ無感動に貪られるように、男が自分の身体に
熱を与えようとする愛撫に身を任せるだけ。彼が濡れた軍服を脱がせようとするのには、
寧ろ協力的であるかのような、奇妙さもあった。それとも単に、乱暴にされるのを好まなかった
だけなのかもしれないが。
彼女の言う通り、シャツの下まで濡れてはいなかったが、やはり肌は冷たく、マスタングは
その凍えを消すため、能(あた)う限りの熱を彼女に授けようと、身体を抱き、口づけを落とした。
無愛想な軍服の下に、窮屈そうに抑え込まれていた身体は、彼女の怜悧な容貌には、
似つかわしくないほどに、蠱惑的な丸みを帯びていた。
男がこれまで抱いてきた体に比べれば、傷もあり、柔らかさにも欠ける。
だが、その熱のない体に吸い寄せられるように、彼女を放せなかった。
裸に近い状態になった彼女を、タオルで包むように抱きしめると、暖炉の前に横たえる。
――ベッドに連れてゆくという発想は生まれぬほど、急(せ)いていた。
相変わらず彼女は、見つめていた。何処から生まれたのか分からぬ欲望をぶつけようとする
男の顔を。戸惑いがあるとすれば、それはマスタングの方にだった。
彼女は、軽く息を乱すことはあっても、それは彼の強引なキスに呼吸を阻害されて
というだけのことであり、昂(たか)ぶりなどではない。どんなに彼が熱を与えようとしても、
彼女の体は、却って冷たくなっていくかのように感じられ、マスタングは焦りを感じた。
拒絶しているわけではないのに、何故? 受け入れないのであれば、何故抱かれる?
上官の乱行にも、ただ盲従するということなのか。
単純な欲望をぶつけ合う相手しか抱いてこなかったくせに、何故――
今度は自身への疑問がわき上がる。
何故、こんな冷え切った体の女を抱かずにいられなかったのか。
自分という存在を強烈に植え付けて男を魅了しようとするどころか、自分自身にすら
ひどく無関心で、己の存在などどうでも良いように考えているとしか思えない、虚ろな体の女。
困惑でなければ、侮蔑でも構わない。男のこの所業を、彼女は何と感じているのか?
それとも、そんなこともどうでも良いのか。ただ早く終われば良い、と思っているだけなのか。
行為の最中に、相手と心を通わせようなどと考えたことなどないくせに、マスタングは
彼女の心が知りたかった。何故……そんなに自分を希薄にするのか。
口内ともう一カ所、血脈の温もりがある場所。マスタングは彼女の下肢に這わせた手を
上に滑らせ、茂みの中に指を侵入させる。やはり、というか、ほとんど濡れてはいない。
だがその奥に指を差し入れ、強引に内部の湿度を零れさせるように動かした。
彼女が唇を噛んだ。自分の内(なか)をかき回す異物に、嘔吐感にも似た違和感を
感じている様子だった。――まったく、どうかしている。心底、彼はそう思った。
到底十分とは言えぬそこから指を抜くと、疚(やま)しさに急ぐ少年のように、
いまだ服も脱いでいなかった前をくつろわせた。
まさに、楔(くさび)。ほんの少し先を挿入しただけで、彼女が苦痛を感じていたことは、
明らかだった。しかし彼女は、声は出さず、密かに唇を噛みしめるだけ。
潤いの足りないそこにあてがわれたのは、凶器でしかない。だが彼は行為を止めず、
少しずつ深く、彼女へと身を沈めた。
女性が、どれ程の苦痛を感じるものなのか、彼には分からない。だが、彼自身、かつて
記憶にないほど強引な侵入は、相当な無理を課しているには違いなかった。
彼女の表情に、ハッキリと苦悶が浮かび、その手が、背に敷かれたタオルを握りしめる。
マスタングは、その手を自分の両手に絡ませた。――更に深く進む。
彼女の手が、自分の手を、強く握りしめてくる。
「……っう!」
とうとう微かな声が零れ、そこを突き上げると、嬌声とはとても呼べぬ、小さな悲鳴が上がった。
それを待ちかねたように、マスタングは彼女をかき抱き、悲鳴の零れた唇をふさいだ。
反射的なことだったのか、彼女も彼の背に腕を回し、強く抱きついてきた。
――とてもじゃないが、彼女にとってこの行為は、快楽どころか、苦痛以外の何物でも
なかっただろう。彼にとって、セックスは単純で軽快な愉悦だったはず。
相手の体を蹂躙して楽しむ趣味など無い。
彼女に痛みしか与えていないことが分かっていながらやめられなかったのは、
歪んだ悦楽からではない。……腕の中でどんどん冷たくなってゆく彼女に、
不安をかき立てられて、止めることができなかった。
まだ痛みをこらえているのかは分からないが、横向きのまま身動きしない彼女に、
今更自分のシャツを脱いで、そっとかけてやる。
処女ではないが、こういった行為には、しばらくご無沙汰であったことが容易に伺えた。
そして、それだけではないことも。
――不感症……か。
立ち上がって、ソファーに投げられていた彼女の衣服を、広げて、少しでも乾くようにする。
自分もそのままでは風邪を引くからと、奥に引っ込んで別なシャツを引っかけ、彼女にも
バスローブを持ってきた。
戻ってくると、彼のシャツを羽織り、身を起こした彼女がいた。
目が合う。やはり、彼女は変わらない。こんなことの後なのに、職場で顔を合わせる時と、
全く同じ、怜悧な表情。
「……大丈夫かね。――自分でやっておいて、そんなことを言うのもなんだが」
膝をついて、バスローブを肩に着せかけて、彼は言った。
「大丈夫です」
彼女は、無感情に言った。突き放すようではなく、ただ、無感動に。
「……すまない」
とうとう、彼は言った。言わなければならないと思いつつ、何だかそれが奇異な行為のようにも
思えて、なかなか口を開けずにいた言葉。
「良いんです。どうぞお気になさらないでください。――私も拒みませんでした」
「……何故?」
「分かりません。何か変わると思ったのかもしれません。痛い思いしか経験がなかったので。
……中佐なら、慣れていらっしゃるようですから、もしやと」
「それは……期待に添えなくて申し訳なかった」
面目ない、と彼は苦笑した。だが、それが彼女の本心なのかどうかは、分からない。
「チャンスを与えてくれるなら、また努力しよう」
彼女の顎を取り、口づける。彼女は、極めて冷静に。
「……仕事に支障をきたしたくはありませんから、それで中佐が構わないのでしたら」
「私は恋愛はしない主義なのでね。むしろ、君がそれで構わないのであれば。
――ホークアイ少尉」
何故彼女がそんな体になったのか。或いは初めからそうだったのか。
さすがにそんなことは、彼女には訊かなかった。
ふと平静に戻ると、まだ雨音は続いていた。激しくはない。
けれど、いつ止むとも知れぬ、陰鬱で、重苦しいヴェールのように降りしきる、暗い雨。