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    ありふれた愛の物語  1



    恋愛小説なんて、読んだことはない。まして、悲恋の物語なんて。
    ――そんなものを楽しんで、涙を流すことを娯楽とするなんて、感覚として全く理解できない。

    「まあ、君は興味がないかもしれないが。たまには世間で評判のものに触れるのも、悪くないだろう」
    勤務が明けて、先に帰る報告に立ち寄った執務室で、おもむろに彼はリザに、「芝居を見に行かないか」と言った。
    それは、しばらく前から、彼女のように世間の流行に無頓着な人物の耳にも届く程に聞こえていた、ある演目。
    “永遠に語り継がれる真実の愛の物語”だの、“涙なしには観られぬ世紀の悲恋”だの、陳腐な煽り文句のポスターは、
    街中のあちこちに貼られていた。世間一般の恋人達が、女性にせがまれて、こぞって観に行くような恋愛もので、
    軍部の若い女性たちの間でも話題になっていた。
    正直、悪い冗談だと、リザは思った。本気とは受け取れず、それが微かに眉根に表れていたかもしれない。
    そして,誘いの後のロイの言葉は、奇妙なもので。
    「義理で行かなければならないんだ」
    「義理?」
    「主演女優が、昔からの知り合いでね。初日に是非来てほしいと招待された。空席にしてしまっては、彼女に恥を
     かかせることになるし。……一緒に来てはもらえないかな」
    「――他の女性をお誘いになった方が、よろしいのではありませんか」
    少なくとも自分よりも有り難がって観に行くだろう。皮肉のつもりではなかったが、とらえ方によっては、
    幼稚な嫉妬心と映ったかもしれない。だが、普段ならそういった些細なことを喜んで揚げ足を取るロイが、
    今回はそんなことには無関心そうに、デスクに両肘をついて、
    「要らぬ期待を抱く相手を誘っては、却って失礼だろう」
    「どういう意味ですか?」
    「言葉通りの意味だよ」
    さっぱり分からない、とリザは肩をすくめた。まあ、ちょっと考えれば、懇意の女優に招待されたという芝居に、
    ヘタに彼に気のある女性を連れて行くというのは、ややこしいことかもしれない。だったら独りで行けば良いのに……
    と思ったのも顔に出ていたのか、
    「連れがいた方が、あちらに誘いを受けた時に、断りやすいのでね。理解してもらえるかな」
    ……そう言われては、断る理由がない。


    * * * *


    ロイと芝居を観に行くなんて、初めてのことだった。それはまるで、ごく普通の恋人達のような行為。
    けれど自分たちにとっては、とても奇妙な行為。と、リザは思った。彼とフォーマルの席に出かける機会は、
    それ自体が皆無というわけではなかった。だがそれは、ある意味、オフィシャルな“必然”のある行為で。
    勿論、プライベートで二人連れだって外出することが、全くないわけではないけれど。
    ロイとは旧知の間柄という、その女優のことが、気にならないと言えば、嘘になる。
    彼は悪趣味な男ではないから、「知り合い」というだけであって、因縁のあった間柄の女性ではないとは
    思ったけれど。なにぶん、“女優”などという、自分の日常とは全く接点の無い世界の存在。
    どんな女性なのか、想像も付かなかった。名前だけならば、リザも耳にしたことがある。
    ということは、世間一般では相当に名の聞こえた女優に違いなかった。

    評判の芝居の初日の夜は、まさに盛況。ロビーは、肩と肩が擦れ合わずにおられない程に、ひしめく人の波で
    あふれかえっていた。――これ程に混雑していれば、彼と彼女の姿をいちいち見とがめる者もいないだろう。
    ふと、そんなことを思ってしまう。前評判の期待に胸を高鳴らせ、切ない物語に涙するのを待ちこがれるように
    男の腕を取る女と、その喜ぶ顔を嬉しげに見つめる男。誰も彼もが仲睦まじく、幸せそうに見えた。
    ここは、そういう場所なのだから当然のことだったが。
    そんな中でリザは、自分たちが浮いているのではないかと、気になっていた。ロイは黒の礼服で、撫でつけた黒髪に
    目元も涼しく、普段しょっちゅう執務室で眠たげにしている人物と同じとは思えぬ程に、紳士然としていて。
    リザは白い肌に良く映えるサーモンピンクのドレスに、ロイから贈られた生花のコサージュを胸元に飾り、
    その匂い立つ白い花のように清楚でいて艶やかな美しさで。何処から見ても、そんな二人を恋人同志と
    思わぬ者はいないであろうに。
    「どうかしたかね?」
    落ち着かぬよう、あちこち視線をさまよわせているリザに気付いたロイが問いかけると、彼女はただ、
    「いえ……」と、軽く首を振った。そんな些細なやりとりにも面映ゆくて、ロイの顔がまともに見られなかった。
    ロビーのシャンデリアも、女性達を飾る貴石も、何もかも眩(まばゆ)くて。二人で出かけたことは幾らでもあるのに、
    何故こんなにも気後れしているのか、自分でもよく分からなかった。劇場、などという、一夜の幻を皆で鑑賞するために
    集まるという、奇妙な非日常的空間が、そうさせているのかもしれない。

    ロイが客席係に案内を頼むと、若い男性係員はチケットが示す席を見て、やや緊張したような面持ちで、
    二人を桟敷席まで案内してくれた。
    「後ほど支配人がご挨拶に伺いますので」
    係員が深々と頭を下げるのを、リザは不思議そうに見つめていた。彼が去った後に、ロイに尋ねる。
    「劇場というのは、いちいち支配人が挨拶に来るものなのですか?」
    芝居を観に来ること自体、初めであったけれど、それは何だか大仰なことに思われた。
    ロイは肘掛けに片肘をついて、彼女の方に斜(はす)に顔を向けて、
    「主演女優の招待客だからと、何か言付かっているのだろう。まあ、おそらく、『終演後はそのまま帰ったりせずに
     顔を出してくれ』と、釘を刺しに来る。――そんなことを言われなくとも、逃げたことなど無いのだがね」
    にっこりと微笑む彼の口元に、含みがあったわけではないのだけれど、何故かリザは、ついと目を反らし、
    舞台の方へと視線を向けた。
    やがて開演が近付くに連れ、ロビーに出ていた人々も、席に着き始める。客層は思ったよりも広く、若いカップル
    だけでなく、熟年、老年の夫婦と見られる客も多かった。物語自体は古典的なもので、年配層にも馴染みがある
    筋書きだからだろうか。リザも、細かい筋書きまでは知らなかったが、確か高級娼婦と青年の悲恋であるという、
    大まかなことだけは、何となく知っていた。

    開演前のざわめく会場。眼下の人々は、その分かり切った筋書きに、何を期待しているのだろう。
    リザは、まるで芝居というより、そこにいる観客を見に来たかのように、じっと客席を眺めていた。
    実際、このようなアングルから人を見下ろすことは、あまりないことであるから、それは珍しい光景だった。

    程なくして、劇場の支配人が挨拶にやってきた。気品のある銀髪の老紳士で、さながら一流ホテルの
    支配人を思わせる容貌。
    「今宵は当劇場へお越しいただき、誠に有難うございます。――マスタング様には、バトラー様よりの伝言を
     お預かりしております。終演後は、そのままお帰りにならずに、是非楽屋の方に来て頂きたいと」
    ほら、な?というように、ロイはリザに目配せをして微笑した。終演後には迎えに上がるから、ここで待っていてほしい
    とのことだった。その後、支配人はロイと、幾つかそつないやりとりを交わすと、長居はせずに、その空間を後にした。
    「完全包囲網だな」
    やれやれ、と溜息を零すロイに、リザは少々皮肉めいた言葉を投げた。
    「まるで物語の中の、囚われの王子ですね」
    「彼女の正体を、魔女とでも?」
    「……そんなこと思っていません」
    「囲い込まれているのは私じゃない。君だよ、リザ」
    「――え?」
    彼の口元の笑みを見た時、彼の思う通りの反応を返してしまった自分に舌打ちする。
    だが、それでも彼の言う意味は分からなかったが。
    「彼女は悪戯好きというか、さすがに芝居がかったところのある女性でね。まだ見もしない私の連れに、
     揺さぶりをかけているんだよ。――これだから、下手な女性は連れてこられない」
    それって……どういう、と、更に問いかけようとすると、スッと場内の灯りが落ちていった。
    開演時間を告げる証だった。場内が闇に沈みゆくにつれ、人々のざわめきも、かき消すように静まりかえっていった。



    初めて観る舞台というのは、その独特の言い回しや身振りなど、慣れぬ仰々しさがあって、違和感はぬぐえなかった。
    だが、一夜の夢の楼閣に相応しい、あくまでも贅沢で美しい空間を演出されたステージは、セットも、人もみな
    きらびやかで、それを眺めているだけでも、絵画を鑑賞するような楽しさがあった。
    そして、物語は、夜会の場面。生真面目な青年が、当代きっての美女と謳われる高級娼婦と出会うシーンに。
    人々の言の端は彼女の美しさを讃え、それでいて金で買われるその身の上を蔑むという矛盾した行動を取る。
    青年は、一体どんな女性が現れるのかと、控えめな好奇心に身をくすぐられながらも、あからさまに待ち望むのは
    憚られながら、そっとその方向を盗み見るように顔を向け――
    舞台の上手(かみて)からヒロインが現れた瞬間、リザは、まるでその青年と心を同じくする者のように、
    ハッと胸を突かれた。
    艶やかな黒髪が、純白のドレスの上に降りかかるように豊かに波を打ち、身を飾る宝石より何より、その全身から
    輝くようなを魅力を放っていた。実際、ステージとはそれなりの距離があり、細かい姿の造作など、肉眼では大して
    判別できないのだけれど、そこが舞台の魔力というのか、女優の存在感というものなのか、圧倒的な美しさの
    オーラとでも言うべきものを、空間を介して、ひしひしと伝えてくる。
    可憐な乙女のような仕草に、あだめいた眼差し。陽気かと思うと、何処か物憂い表情に儚さを滲ませて。
    男というのは、こういう女に惹かれるのだろうか……と、リザは端的に思った。
    可愛らしくて、無邪気で、それでいて急にふさぎ込んだりする、不安定な、頼りなさ。

    そして純朴な青年は熱情を持って彼女に求愛し、享楽に生きていた彼女も、やがてその愛に応え……。
    だが、彼女はその愛故に、自分のような女は彼を不幸にすると別れを決めることに。その心を知らず、裏切られたと
    思いこんだ青年は、復讐とばかりに、彼女を苦しめ、蔑むようになる。もともと病弱だったヒロインは、苦しみのあまり
    病の床に伏し、華やかなりし頃が幻のように落ちぶれ、真実の愛を胸に秘めたまま、寂しくこの世を去る――

    話としては、これといって意外性もない、ありふれた悲恋ものだと思った。
    だがリザも、主演女優の魅力ゆえなのか、最初はあれだけ違和感を感じていた舞台上の台詞回しや立ち回りの
    仰々しさも忘れ、3時間近い演目ながら、飽きることなく惹きつけられていた。流石に泣きはしなかったものの、
    幕が下り、場内のすすり泣きが熱狂的な拍手に塗り替えられた時には、迷わず自身も拍手を贈っていた。
    そしてその時、芝居の間、ほとんどロイの顔を伺うこともなかった自分に気付き、初めてどれほどその場に
    引き込まれていたのか、実感した。ロイは、特に何も言わなかったけれど、きっとそんな彼女には気付いていた
    と思われた。拍手をしながら、彼女が見やると、彼はにっこりと笑みを返し、リザは何だか恥じらうような
    気持ちになり、そっと頬を染めた。
    度重なるカーテンコールにも、美しいヒロインは疲れを見せることもなく、その場にいる観客すべてが恋をする
    ことを禁じ得ぬほどに魅力的な笑みを惜しげなく降り注ぎ、初日の大成功への、感謝のキスを贈った。
    「……綺麗な方ですね」
    やっと拍手が止み、終演後の興奮冷めやらぬざわめきの中に、だがまだその場で待ち続けなければならない
    奇妙な落ち着かなさの中で、リザは呟いた。居ずまい一つただすのにも特別な意味が付いてしまいそうで、
    身動きもままならない。そんなこと、ロイが気にするはずもないのだが。
    「『女優』だね、彼女は。まさに。舞台の上でこそ最も美しくなる。――とはいえ、彼女にとっては、人生すべてが
     舞台の上のようなものだろうけれど」
    既に幕の下りた舞台の方を、遠く眺めるような眼差しでロイが言った言葉の意味を計りかねて、リザは軽く首を傾げる。
    まあ、良い。と、彼女は軽く息をつく。どのみち、これからその女優殿に拝謁賜るのだから。ロイが言わんとしている意味も、
    考えるまでもなく分かってくることだろう。

    そしていよいよ、開演前に訪れた支配人が再び迎えに現れ、二人を楽屋へと導いていった。



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