ロビーのあちこちで、まだまだ興奮冷めやらぬ観客が、舞台の熱の名残を語り合っている。
銀髪の支配人の先導で、さほど込まない場所をすり抜けるように通っていたが、時折人並みに分断されそうになり、
リザはロイに手を引かれた。
1階ホールの側面の廊下に入ると、手狭な場所ゆえに、たむろする観客もほとんどいなかった。
関係者以外立ち入り禁止の区域を示すポールが横にずらされ、「どうぞ」と通される。楽屋口から覗ける舞台は、
手早く撤収を済まされており、明日も続けて上演ということもあり、思ったよりも早く、落ち着きを取り戻していた。
奥にある、主演女優のための控室。支配人は、軽くノックをすると、招待客を連れてきたことを彼女に告げた。
「どうぞお入りになって」
あの、舞台の上から響いた、楽器の音色のように高らかな艶を帯びた声が、扉の向こうから帰ってきた。
では……と、支配人が扉を開き、そのままロイ達を室内に通し、自分はそこで深く礼をすると、そのまま扉を閉めた。
「フランチェスカ――」
ロイは真っ直ぐ室内に足を踏み入れると、迷うことなく、鏡台の前に化粧着で腰掛けていた女優に歩み寄ると、
すっとその手を取り、口づけた。贈られた花に埋もれるような空間には、眩暈を誘うほどの花の香が満ちていた。
「今宵は素晴らしい舞台を有難うございました」
リザは、何となく彼の後ろについて立っていたが、ロイのそんな姿には、少々胸に疼きを感じた。
今夜の舞台の主演女優、フランチェスカ・バトラーは暑苦しい舞台化粧は早々に落とし、ほとんど素顔で
いたようであったが、それでもその内側から滲み出る華やいだ美貌は、十分に輝いていた。
ただ――舞台の上では、精々30歳そこそこ……と見えた彼女だったが、こうして間近で相まみえると、ロイとは
一回り以上離れた年齢なのかもしれない、と思えた。そう思った瞬間、フランチェスカの漆黒の瞳が、魔力を持ったような
輝きでリザを捕らえ、疚しいことはないながらも、リザは息を詰めた。……が、彼女はニッコリと優婉に微笑んで、
ロイにそっと囁く。
「紹介してくださる?」
「ああ、彼女は……」
「――マスタング大佐の部下で、リザ・ホークアイ中尉です」
ロイが何と言おうとするのかを待つまでもなく、リザは反射的に、自分から、その場に相応しくない程、堅苦しい物言いで
名乗った。
「……まぁ、あなたも軍人さん?」
フランチェスカは、感嘆すらも華やいだ素振りで、ロイの方を見上げると、
「こんな白百合の花のようなお嬢さんが、軍人だなんて。あなた達殿方は一体、何をしていらっしゃるの?」
「仕方有りませんよ。彼女は並みの男など問題にならぬほどに有能なので」
必要以上に突き放すような名乗り方をしてしまったことを、ロイがどう思ったかという懸念が、一瞬リザの胸をよぎったが、
彼は別に気にした様子もなく、あくまで年上の女性への敬意あふれる応対をしていた。
「今宵は来て頂いて有難う、リザさん。少しでも楽しんで頂けたかしら?」
リザは、どんな男性に語りかけられても、こんなにドキドキすることがあるだろうかと思うほどに、フランチェスカの
大きな瞳に魅せられた。怖いくらいに美しい、天鵞絨(ビロード)のように柔らかく、磨き上げた黒曜石のように底の知れぬ、
冷たい深さの光をたたえた瞳。
「……私は不粋者で、マスタング大佐が、たまには一流の芸術に触れてみるべきだと、お誘いくださったのです。
私なぞには勿体ない、素晴らしい舞台でした、ミス・バトラー」
「フランチェスカで良いのよ。――ロイ、あなた随分、白々しいことをおっしゃるのね。三文芝居を芸術だなんて」
「とんでもない。あなたのマルグリットは何度観ても胸を締め付けられます。彼女が舞台の上で息を引き取った時などは、
まさに、穢(けが)れなき魂が天に召された瞬間としか言いようがなかった」
「まあ、何度も観ているくせに、その度に色々と素敵な言葉をくださるのね。――毎回考えるのが大変でしょうに」
フランチェスカは、手の甲を口元に寄せると、クスクスと笑ってみせた。
「知っていて? 芝居が上手だと褒められるのは、大層ウソが得意だと言われているようなものだと」
「またそんなことを言って、あなたはご自分を卑下なさる」
「いいえ、あなたにも同じ才能があると言いたかったのよ、ロイ」
「それは失敬致しました」
確かに……芝居がかった女性だと、リザは思った。何というか、正体が掴めない。ロイは長い付き合いだからか、
或いは彼女と似たもの同士なのか、化かし合いのような会話も楽しんでいる様子だったが、リザには何処までが
本意なのかが読み切れず、少々困惑させられていた。実は彼女は、そんなリザの様子こそを楽しんでいるのかも
しれない。ふとそんな思いが浮かんだ時、またフランチェスカの悪戯な瞳が、チラリと横目でリザを捕らえた。
「ねぇ、ロイ。お願いがあるのだけれど」
「何ですか」
「キスしても良いかしら?」
リザと目を合わせたままの彼女の言葉に、一瞬、その場が固まった。
「……リザさんに」
艶然とした微笑に、緊張が解けたのもつかの間。その言葉の意味に、リザはまた、ぎょっとさせられる。
さすがのロイも、一瞬、返す言葉を失ったようだったが、すぐに眉を上げると、軽く肩をすくめて、
「私に訊かれてもお答えいたしかねます」
「そう。じゃあ、彼女に訊くわ。よろしくて? リザさん」
「えっ……」
すっと立ち上がったフランチェスカは、サラサラと軽やかに揺れる裳裾を引きながら、立ちつくすリザに歩み寄る。
座っている時には分からなかったが、舞台女優だけあって、彼女はかなり長身な方だった。リザは、若干見下ろされる
ような角度で、しかも間近で見る彼女は、何とも言えぬ色香を醸し出しており、実際、ふうわりと包まれるような、
柔らかなパフュームの香に、リザは捕らえられた。
「沈黙は肯定。そういうこと」
あっ……と思う間もなく、右の頬に口づけられる。柔らかな唇の感触が、くすぐったい。
「男というのは身勝手なものでね。穢れない女性を愛すると、たった一点でも、彼女に過(あやま)ちを見つけて
しまっただけで、醒めてしまう」
面食らったように目を白黒させているリザに、フランチェスカはそっと囁いた。ロイに、聞こえるかどうかという、
小さな声で。それは、女同士の内緒話。
「それでいて、最初から女が、何か欠点や過ちを抱えていると、それを自分が赦(ゆる)してやることに、無上の喜びを
感じるものなの。――男は、いけない女が好きなのよ。分かるかしら?」
女としての余裕というのだろうか。それが真実であるか否かはともかく、リザは頷かざるを得なかった。
そして、フランチェスカに頬を両手で押さえられたまま、ハッとロイの方を見やると、彼は軽い溜息をついて、
けれど、心配することは何もないというように、静かに微笑んだ。
「あなたとお会いできて本当に嬉しいわ」
最後に彼女は、リザをギュッと抱きしめた。そしてまた、耳元で小さく囁いた。
――ロイのことを、よろしくね……と。
* * * *
フランチェスカの楽屋にいたのは、時間にして、10分にも満たない間。だがリザにとってそれは、1時間にも感じられる、
長い長い時間だった。決して、不快であったわけではない。でも何だか、あの女性の前では、女としての自分の存在が
丸裸にされるようで、いたたまれなくなるものがあった。非常に魅力的で、優雅な、素晴らしい女性であったと思うけれど、
上等ながら、いささか強すぎる酒のように、人を酔わせる人物だった。その名残か、劇場を出てからも、リザは何だか
頬が火照って、少々胸苦しい気がした。
「大丈夫かね?」
そんな彼女の様子に気付いて、ロイが少々心配そうに顔を傾けた。
「車で送ろうか」
「いいえ、結構です。……風に当たって帰りたいので」
彼女がそう言うと、それを敢えて制止することもなく、ロイはそのまま一緒に歩みを取った。
「今夜は有難う、リザ。――気を悪くは、しなかったか」
「いえ……そんなことは。フランチェスカさんは、素敵な方でしたし。舞台の上の、可憐で儚いイメージとは
ちょっと違っていたので、正直、驚いてしまいましたが。でも、彼女とお会いできて、良かったです。
お芝居よりも、価値があったと思います」
「芝居の方は、あまり気に入らなかった?」
「そういうわけではありませんけれど……」
そういえば、フランチェスカとの邂逅が、あまりにも鮮烈であったために、吹き飛んでしまっていた舞台のことが、
急にリザの胸に蘇ってきた。歩きながら、石畳の足元を見つめ、ちょっと唇をとがらせて。
「何だか、如何にも男性が書いた物語という気がしました。貴婦人の様に上品で、処女らしさを失わない娼婦だなんて、
その設定自体が、男性の幻想の産物じゃありませんか」
おやおや……と、急に元気になったような彼女の言葉に、ロイは静かに微笑した。
「物語だからね。だが女性客も、あの舞台には感激していたようだが」
「それは、ヒロインに同情してのことです。誰も、自分もあんな男性に愛されたいなんて、思うはずありません」
「生真面目で純朴な青年にかい?」
「彼は、自分の心の中に、勝手にこしらえたマルグリットの虚像を愛しただけです。心から愛したのは自分自身だけで、
彼女じゃない。……彼女の愛を信じなかったばかりか、いじめ殺したようなものですし」
そうではありませんか? と、顔を上げて同意を求めるリザに、ロイは苦笑した。
「まあ、とかく男女の仲というのは難しいものだからな。他人がとやかく言っても仕様のないことで」
「あら、でも、あきらかにおかしいと思われませんか? 大佐」
何だかその時は、世間一般の正論じみた言葉でお茶を濁そうとする彼の態度に、ちょっと腹が立って。
「だって彼は、彼女の愛を得ようとする時には、あんなにひたむきに、『私がどんなにあなたを愛しているか、
そのカケラでも分かってもらえたら良いのに』と訴えていたのに。彼女が、『じゃあ、あたしの言葉に何一つ
逆らわず、どこまでも思うままにさせてくれるなら、あなたを愛するかもしれないわ』と言ったら、『どんなことでも、
あなたの思う通りにします!』だなんて、懇願したくせに! マルグリットの方が、よっぽど真実に聡かったと思います。
彼女、言っていたじゃありませんか。 『あたしのような身分の女に対する愛情を繋ぎとめている絆が、どんなに
脆(もろ)いものか、あなたはご存じないのよ』って」
まるで責めるように、立ち止まって詰め寄るリザに、ロイは驚いたように一瞬顎を引いたが、すぐに気を取り直すと、
逆に彼女に顔を近付けて、そっと呟いた。
「……細かい台詞まで、良く覚えているね」
その落ち着いた低い声と、ニッコリ笑う彼の眼差しに、ハッと我に返ったように、リザは頬を染めた。
何だかんだと文句を付けながら、その実どれだけ深く心奪われたかを、言外に語ってしまったようなもの。
それを彼に悟られたことを気恥ずかしく思いながらも、知らないふりをするように、リザは顔を背けた。
「君の心に一番響いた愛の言葉は?」
「……やめてください」
立ち止まったのは、丁度川縁の橋の上。川面に映る街の灯が、水に溶いた絵の具のように、煌めいては滲んでいた。
ちょっと心を落ち着けるように、欄干に持たれ、その色を見つめる。
「――『あなたのことであれば、たとえどんなことであろうと、私は赦してみせます』」
僅かな静寂の後の、ロイの言葉に、リザはハッと目を開いた。
そして、その口をついて出たのは、それに連なる続きの台詞。視線は、水面を見つめたままで。
「『あなたは、あたしを愛してくださるというの?』」
「『気が狂うほどに』」
――それはまるで、心からの言葉のように。
リザは、彼の声をもっと感じられるように、そっと目を閉じた。
「『あたしが、どんなにいけない女であったとしても?』」
「『そんなことはどうだって良い』」
「……『誓ってくださいますか?』」
後ろから彼の腕が彼女の体を、そっと抱きしめ、その低く甘やかに響く声が、耳元に囁く。
「――『ええ』」
……何故だか、胸が震えた。
「だからどうか、今宵は私の思うままに、あなたを愛させてほしい」
そっと、彼の肩に頭をもたれかけていたリザは、その言葉に、眉をひそめた。
少し身を離して、彼の方に体をひねると、
「そんな台詞、ありませんでしたけど?」
「そうだったかな」
とぼけたような彼の素振りに、それでも疑問をぬぐえぬような顔をリザがすると、ロイは軽い溜息をついて、
彼女に諭(さと)すように言った。
「リザ。君の唯一の欠点は、物覚えが良すぎるということかな。たまには忘れたふりをすることも大事だよ」
あ……と、リザは口を押さえた。だが、すぐに、悪戯っぽい笑みを浮かべると、
「でも、その欠点を、大佐は赦してくださるのでしょう?」
それは、今夜出会った女性が教えてくれた、芝居がかった物言いで。
橋の上のヒロインは、心地よい腕に身を任せた。
「……当然だ。元より、君が私を赦してくれる数には、遠く及ぶはずもないのだから」
珍しく素直にその身を預けてくるリザを、愛おしげに抱いて、そっとその髪に口づけた。
そんな、ありふれた恋人達のワンシーンのような情景に、ひとときの陶酔を得る。
「……大佐?」
「ん?」
「本当は……今日、何故私をお誘いになったのですか?」
ふと気になり、つい、問いかけてしまった。その言葉に、ロイはまた溜息をつくと、リザの横に、その顔を寄せた。
「……そういうことは、忘れなさい」
折角、一夜の幻だとしても、良い夢を見始めているのだから――と。
7.15.2004.
記念すべき10000HITの、ノイチゴ様のリク、ロイアイお忍び観劇デート。
あ、“お忍び”じゃない……か、コレ?(汗) 作中の演目は、一応デュマ・フィスの
『椿姫』を下敷きにしておりますが、同一というつもりでもありません。まあ、世界違うし。
ノイチゴさん、随分お待たせしてしまいました! うちの大佐中尉は、愛だの恋だの
というコトバを交わすことのない方々なのですが、お芝居の台詞として
なら言わせられる……?と、姑息なことを考えてしまいました。
参考文献 『椿姫』 デュマ・フィス (新潮文庫)