Hekate −ヘカテ− 1
「初めて人を殺(あや)めた時の感触を、覚えているかね」
彼は、彼女の耳元に、そう囁いた。
――その言葉は、その場が持つ熱には相応しからぬ、冥(くら)く、冷たい響きを持って。
もう、夜も遅い時間であったにも関わらず、勤務の明けたリザが、
非番だったロイの所を訪ねたのは、何か、予感がしたから。
季節の変わり目。曖昧な温度の、ぬるい風。漫然とした雨を運ぶ、湿った雲。
……すべて、彼が苦手なもの。
こんな日に独りでいるのは、ロイにとって、あまり良いことではなかった。
いつもがそうというわけではないが、何年も共に時を過ごしてきて、
彼女には、その時季が感じられるようになっていた。
何がどうというわけではない。
何が起こると、分かっているわけでもない。
けれど、放ってはおけない。
……そんな時。
ロイは、居間にはいなかった。寝室にも、いない。
そのどちらにもいない場合は、大抵、奥にある、研究用の部屋。
書架もあるので、資料などを探しに入ることはあっても、
しかし彼が実際にそこに籠もることは、あまり無かった。
「大佐……こちらですか?」
もし取り込み中なら邪魔をしてはいけないと、そっと、扉の外から、控えめに声をかける。
だが扉は、軽く押しただけで開いた。
照明は、デスク上のが一つついているだけで、全体には薄暗い、くすんだ空気が漂う。
目が慣れず、室内の様子はよく分からない。
ボッ……と、部屋の中心に置かれたテーブルの上に、小さな灯(あかり)が点(とも)った。
――焔(ひ)の匂い。
「……大佐?」
テーブルの側には、誰もいない。
その上に置かれた金属のトレイに、布きれか何かを丸めたものが載っていて、
それが燃えていた。その焔が今度は、ふいっと消えた。
そしてまた、ヂッ……と火花が弾ける音がして、焔が点る。
音のした方を見やると、デスクの脇、灯の輪の外に、椅子に脚を組んで座る人影があった。
左肘をデスクにつき、右手は……軽く前方に伸ばして。
薄闇の中でも、その手は白い手袋で覆われていることが伺えた。
「――やあ。ホークアイ中尉。どうした?」
奇妙なトーンの声。虚ろな明るさ。
目が慣れても、ロイの口元の、少々皮肉っぽく歪(ゆが)んだ薄笑いしか見えなかった。
リザは、ゆっくりと彼の元に歩み寄る。
「火を……消してください。危ないですから」
「大丈夫」
火種は、彼が何をするまでもなく、燃え尽きていた。きな臭い匂いが、鼻腔を突く。
彼に、火の扱いについて注意を促すなど、出過ぎた行為だとリザは分かっていたが、
他に思いつく言葉がなかった。
そして、僅かな沈黙も、耐えきれない程に重く、二人の間にのしかかっていた。
「お休みにならないのですか」
「訊(き)かないのか。何をしていたのかと」
リザは暫し、答えを持たなかった。訊くのが自然だろう。だが、訊きたくはない。
けれど、これ以上の無言(しじま)には耐えられず、他に適当な会話を選ぶ余裕も無かった。
「何を……なさっていたのですか」
微妙に、眼を合わせられない。それに気付いてか、ロイが、ふっと笑うのが分かる。
「初めて――」
彼は、右手の手袋を外し、デスクの上にと置いた。
「初めて焔で燃やしたものは、何だったと思う?」
「……さぁ。木片ですか」
なるべく、ごく平凡な問いかけへの答えのように、リザは静かに呟いた。
「確か、紙だったな。当然、そういった『モノ』ばかりで燃焼実験をやっていた。
――『生体』を燃やすことなど、想定していなかったからね」
何気ない彼の言葉に含まれる意味に、リザは悟られぬよう、そっと唇を噛んだ。
「その初心を思い出していた」
軽い溜息のような声は、“自分でも忘れていたよ”、というような響きを帯びて。
沈黙を破らなければ。だが、何を言えば良いのか分からない。
そんなリザの静かな苦悩を知ってか知らずか。
ロイは、側に立ちながら、ぎこちない距離を置いたままの彼女の手を、そっと取った。
握り返してこない、つれない手。
「大佐……!」
ぐいとその手を引き、椅子から立ち上がったかと思うと、
彼は、走り書きのメモが散在するデスクの上に、リザを組み敷いた。
焼け付く網膜。
デスクのライトが直接眼に入り、眼を閉じずにはおれなかった。
まるで、真昼の太陽を見上げているように、眼が眩(くら)む。
――そのホワイト・アウトが、眼底に映るものなのか、脳裏に映るものなのか分からぬまま、
彼女はきつく眼を閉じ、ロイの口づけを受けとめた。
喉の奥まで犯されるような、強引で深いキス。
愛撫と言うよりは、窒息させられているような、甘さなど欠片(カケラ)もない、拷問に近い行為。
ギリギリの所で唇が離されたかと思うと、何の前触れもなくスカートの中の脚に手がかけられ、
一気に下着の中にまで侵入されて、リザは思わず悲鳴を上げた。
「……すみません」
彼女は、自分でもそんな声を上げてしまったことには驚いたが、流石に彼の手も、
ピタリと止まった。相変わらず、瞼を閉じても灯が眩(まぶ)しくて、眼を開けることはできない。
ロイが、どんな顔をして自分を見つめているのか分からないことが、怖かった。
怯(おび)えた顔など、見せてはいけない。そう思ってはいても、反射的に謝罪の言葉を
口にしてしまった以上、それに対する反応が、怖くてたまらなかった。
「ああ……失礼。これじゃあ、眩しいね」
ぎゅっと眼を閉じているリザに、ようやく気付いた、というような言葉。
だが、その声はまた、奇妙にとぼけた調子で。
照明の位置をずらしたのか、リザの視界が一気に暗くなる。
恐る恐る、ゆっくりと眼を開けるが、今度は暗さに目が慣れず、彼の顔がなかなか見えない。
見たくはないのだが、ずっと目を閉じているわけにもいかず。
見えないこともまた、不安を募らせる。
「――どうしたのかな。今日は、なかなか濡れないね」
自分の行為の性急さは棚に上げて、また指をゆっくりと動かしながら言うその口調は、
戸惑いを装った皮肉の色を、滲(にじ)ませて。
だが、こればかりは、自分でどうこうできる程に、彼女は器用ではない。
やっと見えてきたロイの表情は、その声音(こわね)と同様、複雑な要素が絡み合っていた。
疑問と、不満。衝動的な欲望……そして、嫌悪。
それらを、一言で括(くく)ってしまうならば――“不安定”。
「初心に返って……初めて人を殺めたのがいつだろうかと、ふと考えた。
だがね、分からないんだよ」
容易に潤わないそこを責めるのは一時断念したのか、ロイは、今度はブラウスの上から、
胸に触れた。びくん、と身をよじらせると、彼女はそれを口実に、また眼を瞑る。
見たくない。こんな危うい眼をしたこの人を、見つめ続ける勇気はない。
「紙を燃やした程度で、手応えを感じていたわけだから。
『生体』を……ましてや『人間』を燃やした経験など、勿論あるわけがない。
だから、急に実戦配置されたところで、一体どこまでやれば人間は死ぬものなのか、
なかなか分からなかった」
首筋から耳元を舐め上げられ、またリザは軽い悲鳴を上げそうになる。
「人を殺したくてやってきた研究ではなかったから……
戦場での『戦果』など、冷静に分析できるわけがない。
たとえ黒焦げにしたところで、すぐに絶命するわけではなく、
蠢(うごめ)き這い回る物体を前に、命を奪う感触など、在りようもない」
甘い睦言を囁く声で、困惑の記憶は、冷ややかに語られる。
ぞっと、身の毛がよだつような、快楽とも戦慄ともつかないものが、リザの背筋を走った。
そんな艶めいた声で綴られるには、あまりにも相応しくない、凄絶な場景。
「馬鹿なことを思い出したものだ。最初も何も、あったものではない。
戦場に赴いたその日から、私は殺人者となっていたのだから」
ぎゅっと、痛いほどに強く胸を掴まれ、リザは息を詰めた。
――そんなこと、思い出して何になるというのですか。
愚かなことだと、自分でも分かっているくせに。
……でも、彼には言えない。
唇に、彼の指が触れる。
何かと思い、眼を開けると、じっと彼女を見つめるロイが、きゅっと結ばれたその唇に、
指を二本、押し当てていた。
強制するような威圧感は無かったが、リザは、そっと唇を開き、それを受け入れた。
「ん……」
それまでの、やや乱暴な仕草とは対照的に、その指は、彼女の口腔内を、柔らかになぞった。
舌の、上に、下側に。何かの疑似行為のように、巻き付け、ゆっくりと抜き差しする。
唾液が絡む程に、動きはスムーズになり、リザの身体の奥に、ずきんと疼(うず)くものが生まれた。
彼にされるのではなく、自分からその指に愛しいものを感じ、舌をこすり付けるように這わせ、
味わうように吸う。
……今宵、初めて与えられる、陶酔。
すっ、と彼が指を引いてしまった時には、しゃぶっていた飴を取り上げられた子供のように、
何だか切ない気持ちにすらなって。
彼女のそんな表情に嗜虐心をそそられたのか、ロイは甘い余韻に浸る間も与えず、
先程は撤退を余儀なくされた部分へと、その指を滑り込ませた。
「やっ……あっ、たい……さ」
彼女自身のぬめりを得て、今度はそこも、快楽のスイッチとなる。
リザの反応を予期していたように、その腕を押さえていたロイは、
のけぞる彼女の体を難なくいなし、一気に高みへと彼女を突き上げようとする。
「いやっ……!」
思わず、自らの口から飛び出てしまった言葉に、リザは全身の血が下がるのを感じた。
「――嫌、か?」
伺うように、指の動きが緩慢になる。
「い……え、あの……」
唇を震わせながら、リザは恐る恐る、彼の方に目を向ける。
「ここでは……嫌です」
“決して、あなたを拒絶するわけではありません”
無表情な、その顔に向けて。
口に出しては空々しくなる言葉を、精一杯、眼差しに込めて、リザは呟いた。
どうせ、何処であろうと、これから自分がどんな風に抱かれるのか、
それに違いはないと分かっていた。
それでも、こんな場所よりは、普通にベッドでされる方が、まだマシ。
この、火の焼けた匂いが留まる、陰惨な記憶を喚起する、澱んだ空間よりは――