勤務が明けて、リザがロイの所に帰り着いたのは、夜半もとうに過ぎた頃だった。
居間を見回しても、姿はない。……と、もしやと思い、ソファーの前に回り込むと――
――またこんなところで……
ソファーに横たわる、黒いかたまり。しつけのなっていない飼い犬のよう。
目に良くないから、本を読む時はちゃんと起きて――と、子供に言い聞かせる母親のように
彼女がいつも言うのに、ものぐさな男。
体を横にして、手元から滑り落ちた本は床に伏したまま。
「中佐……お休みになる時はベッドで……でないと風邪を引きますよ」
肩を軽く揺すると、チロッ、と片目が開く。
「――ん……お帰り」
「『お帰り』じゃありません。お疲れだったのなら、先にお休みになってくだされば良いのに」
「珍しく勤務中に居眠りもせずに働いたからね」
彼は片手をつくと、ソファーから体を起こした。
「……それは当たり前のことです」
呆れつつも言ってしまう。そんな彼女の表情に、ロイはふっと笑うと、
「――お帰り、リザちゃん」
子供のような目で、見上げて。屈託のない笑み。
「……どうしたんですか?」
「どうもしないさ」
「中佐……近頃何だかおかしいですよ」
「何がだね? リザちゃん」
「やめてください、その呼び方……」
何だか恥ずかしい。
何がかは分からないのだが、くすぐったい。
彼女が居心地悪そうに顔を背けると、ぐいっと腕を掴まれて、いつものように
腕の中に引き込まれる。リザは、少ししわの寄った黒いコットンのシャツに、
顔をうずめる形になった。
「子供っぽくて……恥ずかしいですから」
「君が? それとも、私が?」
何をしたいのかしら、この人は――と、リザは急に戸惑いを感じた。
「私じゃあないな。子供が考えてはいけないようなことで、頭の中が一杯だ」
すっと顎に手を掛けられ、上を向かせられる。
口づけられるのかと思ったけれど、そうではなかった。
「何だか気になってね」
「……何がですか?」
彼の目を見つめたまま、リザはそっと彼の手を外した。
「君が、男の浮気について淡泊なのは、どういう思考によるものかと」
「――まさか、ずっとそれを気になさってたんですか?」
「まあ、何となく」
思いがけない言葉に、溜息が出そうになる。ちょっとうつむいて、
「……別に、他意はない発言でしたのに。中佐が気に留められるような
深刻なことではありません。忘れてくださって結構です」
「執着されるのも面倒だが、全く執着されないのも不満――」
ロイの言葉に、ぎくっと顔を上げる。と、思惑ありげな微笑が迎える。
「……という、子供っぽい男の感情と思われても仕方がないかな。そんなことを言うと」
「からかわないでください」
「諦念か、無関心か……或いは抑制か」
「何をおっしゃってるんですか?」
さっぱり分からない、というようにリザが軽くかぶりを振ると、
「君があまりにも無欲だから。いや……無欲なように私の前では振る舞おうとするから。
それは、君の聡明さと並ぶ美徳だと受け取っているがね。時として疑念が生じる」
「……どういうことですか?」
ロイは、リザの背中を抱くように引き寄せ、その耳元に囁いた。
「君が私から欲しいものは何だろうと」
「そんなもの、何もありません」
あっけない返答に、しばし会話が止まる。
リザも、あんまりな言い方だったかと、口にした後で手を口元に当てた。
ちょっと首をひねって後ろに向けると、何だか不満そうな顔のロイとぶつかる。
「……何も?」
「…………」
何とフォローしたら良いのか分からず、何も言えないまま、前に向き直ってしまう。
「まぁ、君にとって求める程の価値が私にあるかと自問すれば、確かに何とも言い難いが」
そうではなくて――言いたいけれど、うまく言葉が出てこない。
そうではないのだと。
――あなたから何か欲しいなんて、思ったことはない。
私があなたに与えられるものは何か……ずっと、そればかり考えてきたから……。
そんなこと、口にはできない。
彼女にとっては当たり前すぎて、簡単すぎて、だから――
「――それは、嘘だね」
ふと、ロイが口にした言葉に、リザはハッと我に返った。
「嘘……?」
背中から抱かれている姿勢のまま、胸元に重ねられた彼の手を取る。
「君は欲しいものがあっても、我慢する子供だったろう? リザ。
誰も困らせたくないから。良い子でいたいから。自分は何も欲しくないんだと、
周りにも、そして何よりも自分自身に言い聞かせて」
ぎゅっ……と、彼の手を握る手に、思わず力がこもった。
「何も欲しくないなんて、嘘なんだよ……リザ」
でも――と、リザは困惑した。
もしそうだったとして、今更自分が何を欲しているかなんて、分からない。
「……怒っていらっしゃるのですか?」
「私が? 何を」
怖くて、振り返れなくなった。誤解されてしまったのだろうか。あなたは自分にとって
何の価値もない存在だと――そんな風に、受け取られてしまっただろうか。
ずっと長い時を共にして、お互いに何かを言葉で確認したりすることはなかった。
“愛している”――そんな言葉も、一度も交わされたことはない。
それを、不満に思うことも、不安に感じることもなかった。
だって、彼はいつも自分を側に置いてくれたのだから。
彼が他の女性と付き合ったとしても、そんなことはどうでも良い。
そんなものを必要としないだけの繋がりを、感じていたから。
「……ある意味、君らしい応えだ」
ロイの声に、暗いものがなかったので、少しホッとする。
「頑ななまでに禁欲的だね。私とは正反対だ。だが――」
すっと彼の体が背中から離れたと思うと、肩を引かれ、振り向きざまに顎をとらえられた。
「時々は自分に正直になることも大切だよ、リザちゃん」
今度こそ口づけられ、しかもそれは容赦のないものだった。
リザは思わずロイを突き放そうとしたが、ムダだった。
執務室で夕刻交わされたキスとは全く違う。
彼女の理性を焼き切ろうとする熱さ――
「……本当に、欲しいものはない?」
僅か数日触れられなかっただけで、こんなに敏感になってしまっていたなんて。
リザは、下腹部の痛みに唇を噛んだ。
「やめてください……」
「また嘘をついているね」
「嘘じゃ、ありません」
「そうかな」
更に追いつめるように深く口づけられ、リザはこめかみがしぼられるような痺れに、
倒れそうになる。そしてそのまま、ソファーの上に体は重ねられた。
やっと呼吸できるかと安堵する間もなく、耳元に彼の唇が触れる。
自分でもどうかしているんじゃないかというくらい、体が触れられる部分が
何処もかしこも微弱な電流に当たったように感じて、おかしくなりそうだった。
「いけません、中佐……今日は、私……!」
懇願する声だった。
自分が抑えられない状態。それは彼女にとって、もっとも畏れ続けたこと。
「何がいけない?」
涙目になる彼女のまなじりに口づけるロイの声にすら、体の奥が疼く。
「私は……」
けれど、抑えなくては――
「私は……あなたに愛されるために、側にいるのではないのだから……」
“愛している”――そんな言葉を欲しがってはいけない。
愛されたい なんて 思ってはいけない
もしそんなことを思ったら
その思いが叶ってしまったら
“きっと……あなたより先に死ぬことが 怖くなる”
彼を守るためには、どんな状況でも冷静でいなければ。
何があろうと、冷徹に自分を抑えなければ。
思いすぎてはいけない。深入りしすぎては……。
どうせ、このどうしようもない深みからは抜け出せないけれど。
あの人の側にいること。
あの人を守ること。
苦しくないわけじゃない。でも構わない。
それが許された絆であるなら――
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1.29.2004.