「私を、ただの女にしないでください……」
そうなったら、あなたの側にいる価値はなくなる――
あなたを守ることよりも
あなたに愛されることを望むようになったなら
「中佐も……忘れてはいらっしゃらないでしょう? あの戦乱を……」
リザは、両手で目を覆った。
「この平穏も、ほんのひとときのものでしかない……かりそめの夢なのだと。
またいつ、死と隣り合わせの日々に引き戻されるか分からないのに――」
そうなったら、ただの女に、何の価値があるだろう。
彼の側にいるのが、自分である必要はなくなる。
彼を守るどころか、足手まといとして置き去りにされるかもしれない。
そんなこと、耐えられない。
彼女の上から、温もりが離れた。
ああ……仕方のないことだと、リザは思った。
こんな、取り留めもないことを口走るなんて。
激情に身を委ねることを畏れるばかりに、拒絶するなんて。
彼だって、あの戦争で心に傷を負ったには違いないのに、
それをこの場でえぐるような形で男女の関係を否定するなんて、最低。
逃げるにしても、あんまりなやり方だ。
寒々として、心の奥まで熱を失ったようだった。
それから、どれほどの時間が経ったのだろう。
もしかしたら、ほんの数十秒のことだったかもしれない。
「――今更……そんなこと言われるなんてなー」
リザが眼を覆っていた手を外すと、ソファーに片膝を立てて座り、まいったな、
と言うように、額に手を当てた男の姿があった。
ふぅ、と溜息をついて。
怒っているようではない。戸惑っているのとも、何か違う。
リザは、手をついて体を起こした。
「確かに……こうして今、生きてここにあることが信じがたいほどの地獄を共に見た」
「……中佐」
「同じ死地から生還して、どうしてこうも両極端なのだろうね、私たちは」
ふっと零れた笑みは、自分自身に対する幾ばくかのシニシズムを含んでいた。
ちらりと視線を寄越されると、リザは、まだ体の奥に、ずくん、と感じる脈を押さえるように、
自分の腕を掴んだ。
彼は、しばし黙っていたが、ふと、独り言のように呟いた。
「――私はね、言葉というものを、あまり信用していないんだよ」
「え……?」
「皮膚一枚の上をなぞるだけの快楽など、何の重みも残しはしない。
けれど言葉もまた、私の中に確たるものを残せはしないんだ」
一応は独り言ではなく、彼女に向けて語っているのだろうけれど、
ロイの言葉はひどく無感情で、そっけないようにも聞こえた。
彼は、軽く息をつくと、足を下ろし、またリザへと視線を寄越した。
「……触れても、良いかね?」
そういって、若干遠慮がちに、ほんの僅かだけ彼女へと手を伸ばした。
リザはそれを、少々ためらいがちに受け入れ、自分から彼の隣へと身を寄せた。
短い襟足に男の指が触れ、優しくくすぐった。
「美しく整った言葉は、耳に優しく心地よく響くかもしれないが、時として欺瞞を彩る。
私は自分の中にあるものを言い表せるどんな言葉も知らない。だから言わなかった。
言えなかった。そういう姿勢は、端(はた)から見れば、さぞ冷たく映るかもしれない。
ただ、リザ。――あの頃、私と君は、行くところまで行ったんじゃないかと思っていたよ。
その……カラダのことではなく」
彼の言葉に、思わずリザの首筋が熱くなる。そういう意味ではない、と言われても、
羞恥に彼女はうつむいた。だが、その頬を、彼の指がそっと撫ぜた。
「その時の思いを言い表す術(すべ)を、私は持たなかったから……君もそうなのだと思っていた」
その声に失望の色は感じられなかったが、リザは彼の思いがけない告白に、
継ぐ言葉が思い浮かばない。
君は、どうだったのか。
そう、問われたわけではないと分かってはいた。
だが、お互いに、拙(つたな)い言葉という不完全な道具を、それでも使わなければならない
もどかしさに、焦れる。
頬に触れた指を自分の手でそっと押さえると、リザは彼の顔を見上げた。
「あの頃……」
その温もりが、何だか寂しげな気がして、思わず強く頬に押し当てる。
「絶望の中で抱き合っていたあの時の思いを……何と言ったら良いのか――
それは、私にも分かりません」
黒い瞳は、彼女の琥珀色の瞳を見つめていた。
誰にも分かるはずがない。自分でも分からないのだから。
「あの時は、あなたの体温が、そのまま命の在処(ありか)だった……。
何一つあてにならない、明日をも信じられないような日々の中で、
その温もりだけが唯一、確かなものでした」
求めることも与えることも、区別することは無意味だった。
無我夢中で手を伸ばし、光を求めて探り合うように貪欲に。
そして意識が凍えぬよう、熱を分け合った。
その中に、愛や労(いたわ)りといった感情が、果たして介在していたか。
有ったらどうなのか。無かったとして、どうだというのか。
――そんなこと、どうでも良かった
言葉が意味を持たぬ、狂気と現実の曖昧な間(はざま)で、全身全霊で感じたもの。
魂をこすり付け合うように、意識を越えた感覚で繋がり合った瞬間の絆。
それが総てだった。
目を閉じて……と、ロイは彼女に言った。おそるおそる目を閉じた彼女の頬を、
そっと両手で包むと、彼は額からゆっくりと、輪郭をたどるように口づけを落としていった。
ひとつ、ひとつ。柔らかに。
「私たちはお互いの形をなぞり、そして確かめ合った。
――『自分たちは、まぎれもなく人の形をしている』……人間だと。
凄惨な現実に置かれた中で、そうやってひとときの安堵を、必死になって確保した」
そして彼女の手を取ると、今度は指先から口づけ、ゆっくりとその肌の上を移動させてゆく。
淡々として、極めて単純な確認作業のようでいて、リザは血管をチリチリと細いトゲが
さかのぼるような感触に、思わず唇を噛んでこらえていた。
ほんの小さな火が、肌の上に、点々と灯される。
先の見えぬ闇夜の道行きを照らす、幽(かす)かな灯火のように。
今、この体内にざわめく感情を、何と表したら良いのか。
快楽、愛情、刹那、憐憫、哀切……どれも違う。
けれど、間違いなくこれは彼との間で共有している感覚。それだけは揺るぎなく思えた。
この、痛みとも悦びともつかない、震えるような思い。
きっと、彼がどんな女性と時を過ごしたとしても、これと同じものを分け合えはしないだろう。
そんな確信があった。それが彼女達の得るものより上とか下とか、そんなことはどうでも良い。
この生のカタチを確かめ合えるのは、自分たちだけなのだと、その事実に今更気付かされる。
ほんの僅かずつ降り積もる砂時計のように、リザの体内に微かな熱が蓄積されていく。
口づけを受けた箇所から、少しずつ血が心臓へと環流するように。
指先から腕(かいな)。胸元。――彼女という実体を形作るように、丹念に落とされる印。
体の中心へと流れ込む熱。
「中佐、いけません……」
床に跪(ひざまづ)き、彼女の素足の踝(くるぶし)に唇を這わせた彼に、
リザは嘆息のような声を漏らした。
「何故?」
彼女の方は向かず、気にも留めないように、彼は自らの確認作業を続けた。
「あなたは、そんなことをして良い方では……」
スカートの下に伸びたしなやかな脚にもう片方の手が滑らされ、リザはまた息を詰める。
愛おしむように、柔らかな感触に融(と)け合う手。奉仕するように。そして支配するように。
「私が君に傅(かしず)く姿を見るのは、嫌かね?」
「何を……」
触れられていることよりも、余程言葉の方が彼女をなぶっていた
まるで自分に服従する下僕のように振る舞う男。
でも、きっとそうじゃない。これは彼女への軛(くびき)。
言葉にならない、二人の間の鎖。熱く、肌を灼く。
こらえきれず、リザは彼に抱きついた。
言葉もなく、ただその熱の在処を渇望するように、ソファーから滑り落ちて。
「例えば中央(セントラル)の広場で、何万という群衆を証人に、
君に誓いを立てる者もいるかもしれない。
だけども私は、あいにく言葉を信じていない。
それに……君と私のことは、他の誰に証明してもらわなくても良い」
彼の低く穏やかな声が、リザの耳元に囁いた。彼女は応える言葉が浮かばず、
ただ彼の背に回した腕に力を込めた。痛い。胸が、締め付けられるように痛い。
喉元を、無理矢理に焔がこじ開けて降りてゆこうとしているかのように熱く、痛んだ。
「――“信じてほしい”なんて、空々しい言葉は、君には使えない」
リザは体を離すと、ロイの頬を両手で取り、自分から口づけた。
もうそれ以上、彼が無理に言葉を継がなくても良いように。
そこまで言わせてしまったのは自分――その贖罪に。
ただの一方的な封印が、やがて求め合うものに変わる。
委ねること、求めることへの罪悪も畏れも、もう感じない。
息をつく間も忘れて交わした長い口づけの後。
「私を、壊して……」
溺れる者のように絶え絶えの声で、リザが囁く。
――怖がりな私を……迷いに囚われそうな私を
そんな彼女の髪を愛おしげに撫ぜながら、ロイが応える。
「壊してあげるよ。そして私と一つになろう」
ただし――と、彼は付け加えた。
「そうしてしまったら、もう分かつことはできないが。……それで君が後悔しないのなら」
「何を……今更」
切ない息苦しさを胸に感じたまま、リザは微笑んだ。
もう絶対に離れない。
たとえ、天が頭上に落ちてきたとしても。
そして相手が神であろうと……この人は、絶対に、渡さない。
「――繋がりましょう……」
リザはその手を、彼の両手にそれぞれ合わせ、指を絡ませた。
「ここも。そして……ここも」
唇を重ねると、彼の上に、そのまま重みを預ける。
ゆっくりと、床に降りるまで二人は一つのままで。
「――君に押し倒されたのは初めてだな」
彼の言葉に、思わず吹き出しそうになる。
「嫌ですか……?」
「慣れないことには、男は臆病なものだよ」
彼は、自分が床に落としていた本を頭の横から外すと、それでいて彼女が
逃れられないように、膝を立てた。
「慣れていらっしゃらないんですか?」
「リザちゃんにはね」
「――この……うわきもの」
悪びれない男に、彼女はお仕置きのキス。
やはり今でも、腹は立たない。そんな自分は、醒めているのだろうか?
でも、こうしていると、紛れもない温もり。
それはきっと、彼も同じこと。
確かなものは、それだけなのだと
2.5.2004.
[NOVEL] [INDEX] [HOME]