五.『築島』と爾佐能加志能爲神社





   【A】『築島』
 室町期に成立したとされる幸若の『築島』に、次のような伝承が見られる。

 福原(現・神戸市兵庫区)への遷都後、平清盛は大輪田泊(神戸港の前身)の修築に着手する。しかし工事は難航し、やがて阿部安氏により、人柱30人を立てねば工事は完了しないだろう、という卜がもたらされる。そこで、この目的のために関を設けて、通行人が次々と捕らえられたが、30人目は刑部左右衛門国春という修行者であった。

 国春が福原を旅していたのには、これとはまた別のストーリーがあった。かつて国春は鞍馬の多聞天に祈願して「名月女」という娘を得た。ところが美しく成長した名月女は、丹波国をがわの荘能勢の豪族、藤兵衛家兼に見初められて奪われてしまい、国春の妻は悲しみのあまり亡くなり、彼じしんも一時は高野山にのぼって遁世していたが、名月女のことを諦めることができず、放浪の修行者となって名月女を探し求める。そしてたまたまその途次、福原にさしかかったところでこの事件に巻き込まれたのである。

 いっぽう、偶然の機会に父が捕らえられたことを知った名月女は、家兼の留守をついて丹波を抜け出し福原にかけつける。父の代りに自分が人柱になることを願うがかなわない。また、彼女の後を追ってきた夫の家兼も身代わりを願うが許されない。
 しかしやがて人柱が立てられる当日、2人は視察に訪れていた平清盛に愁訴し、ついに国春は許されて解放される。さらに、清盛の小姓、松王健児が残る29人の身代わりを願い出て、一万部の法華経と共に海に沈められると、難工事はめでたく完了する。名月女は吉祥天女、松王は大日王、清盛は地蔵菩薩の化身であったという。


『築島』──
 幸若。別称『兵庫』『兵庫築島』。室町期の成立。『言継卿記』天文十四年(1545年)六月四日の条に「三人曲舞」として大頭流の上演記録がある。清盛の経ヶ島築港伝説に新しく人柱異伝を加える准平曲の本地もの。(『日本古典文学大辞典』の『築島』の項より)

 『築島』は一般に、「平良清盛が大輪田泊を修築した際、人柱を30人立てないと工事が竣工しないという卜があり、この目的のために30人が捕らえられたが、清盛の小姓であった松王健児がその身代わりを申し出て自ら人柱に立ち、一万部の法華経と共に海に沈められると難工事は無事に竣工した。」という伝説として知られている(と思う)。じっさい、大輪田泊があった神戸市兵庫区に行くと、松王の菩提を弔うために建立したと伝わる来迎寺という寺院があるのだが、その由来を記した境内の看板には、名月女父娘夫婦のことは全く触れられていなかった。しかし、上の要約を読んでみても分かるとおり、この物語の興味の中心は、松王のことよりむしろ名月女父娘夫婦の運命にあると思う。
 ちなみに柳田国男氏も、「『築島』を読んでみても、成程人柱に立ったのは結局松王一人には相違ないが、彼は実は横合から出て来た最後の解決者というのみで、物語の葛藤は却って名月姫父子夫婦の悲運を中心としている。(『松王健児の物語』)」と述べている。



 来迎寺は神戸市兵庫区上町にあり、付近は小さな港になっている。通称「築島寺」と呼ばれ、境内には「松王小児入海之碑」という大きな石塔がある(左画像)。



 「築島」はおそらく、ほんらいは別々であった松王健児の人柱伝説と名月女父娘の伝承が、『平家物語』の「築島」段にあるエピソードが呼び水となって、入れ子状につぎ合わされて成立したのだろう。しかし、ここで問題にしたいのはいささか等閑視されている名月女のほうの伝承である。
 とりあえず、名月女はどうして「名月女」という名前なのだろうか?、と問うてみる。



   【B】丹波国小川庄

 普通に考えれば、「名月女」というネーミングの由来は「名月のように美しい女」だろう。が、夫にさらわれた彼女が暮らしていたのは「丹波国をがわの荘」である。これは『和名抄』にある丹波国桑田郡小川郷にあった「小川庄」のことと思う。


 『京都府の地名』(平凡社日本歴史地名大系)は小川庄について次のように述べている。
 「小川郷内には野口庄小河方のほか、小川庄も成立していたと思われ、観応二年(1351年)一月足利尊氏は弟直義に敗れて丹波に逃げ、小義詮を丹波国井原庄岩屋(現兵庫県氷上郡山南町)の石龕寺に預けた因縁により、同寺に「小川庄」を寄進したと『太平記』は伝える。その後応仁(1467〜69)の頃には伊勢伊勢守(貞親)が小川庄四五〇石を領有していたという(応仁鑑)が詳細は不明。『親元日記別録』政所賦銘引付の文明六年(1474)二月十日条に「丹波国小川保」がみえ、当郷との関連が考えられるが、野口庄小河方・小川庄との関係を含めて詳しいことはわからない。(p320上段)」


 京都府亀岡市馬路町に鎮座する小川月神社。

 いっぽう、『延喜式』神名帳には丹波国桑田郡の明神大社として、「小川月神社」という神社が登載されている。

 小川月神社には大堰川の氾濫に遭ったという伝承が伝えられていたりして、現社地が創始の頃からのものであったかははっきりしないが、この神社の社名にある小川≠ヘ小川郷の地名から付けられたものなので、かつてのこの式内社が、この郷内に鎮座していたのは間違いない。
 注目すべきなのは、氏子総代のところに伝わる年代不明の『丹波國桑田郡小川月神社之事』である。そこには、「抑丹波國小川庄ニ鎮座まします月読神社(=小川月神社)は…」などという記述が見られるため、ここから当社は小川郷の中でも、さらに小川庄のエリア内に鎮座していたことがわかる。

 社名から明らかなとおり、当社は月神を祀る神社である(現祭神は月読命)。してみると、家兼にさらわれた名月女が暮らしていた「丹波国をがわの荘」は月神の聖地があった場所ということになる。その場合、名月女≠ニいう名前もまたこうした月神への信仰と何か関わりがあるのではないか。

 この小川月神社で祀られている月神は昔から丹波地方で祀られてきた土着の神ではなかった。
 当社の鎮座する口丹波いったいには、京都市右京区嵐山宮町に鎮座する松尾大社の系列社が多い(※1)。これら松尾大社系の神社群はおおむね大堰川の本流に沿って鎮座しており、同じく大堰川流域に鎮座する松尾大社の祭祀氏族であった渡来系の秦氏が、この川をさかのぼって口丹波に進入し、開発を進めながら定着していったことを感じさせる。

松尾大社

 小川月神社もまた松尾大社の系列社とされるが、後者の近くには式内明神大社で月神を祀る葛野坐月読神社が鎮座しているので、当社は秦氏によってこの神社が勧請されたものではなかったか、と言われる(※2)。

 いっぽう、小川月神社の元社ではなかったかと言われる葛野坐月読神社も元からそこで祀られていたものではなく、もともとは北九州の沖合に浮かぶ壱岐の月神が山城国に勧請されたものであった。その経緯は、『日本書紀』の顕宗天皇3年2月1日条の記事に詳しい。それによると阿閉臣事代が当時、朝鮮半島にあった任那(みまな)へ渡航する途次、壱岐で月神が人に憑依して託宣したのをきっかけに、山城国葛野郡の歌荒樔田にこの壱岐ローカルの月神が祀られたのが当社なのである。したがって、小川月神社のルーツをたどると、葛野坐月読神社を介して、古代において半島との交渉の足がかりとして重要だった壱岐にたどり着くことになる。壱岐にはやはり式内明神大社の「月読神社」があり、松前健氏はこの神社で祀られている月神はほんらい、土着の海民たちから信仰を受けていたものであろうと述べている(こうしたことについてはかつて、『石牛と月』でも書いた。)。

原の辻遺跡


 壱岐島東南部の広い平野に所在する原の辻遺跡からは、弥生期の多重環壕や住居址、祭儀用建物址、墓地、船着場等が発見されており、『魏志倭人伝』に登場する一支国の主都とされている(左画像は赤米の栽培されている田と復元住居)。

 発見された遺物には北九州系の土器などと共に、大陸や朝鮮半島との交流をうかがわせるものが多数、含まれていたが、こうした海に開かれていた王都の性質を強く感じさせるのが、平成8年に発見された船着場跡である(右画像はその復元模型)。この船着場は幡鉾川をさかのぼった船がこの王都に着岸するためのものだが、石で葺いて護岸された二本の大きな突堤をもち、低湿地の地盤に沈まないよう、大陸から伝来した当時の最新技術でもって築造されていた。


 してみると葛野坐月読神社や小川月神社は、内陸部に鎮座する神社であるにも関わらず、そこに祀られている月神には海の臭いが感じられる。そしてそれと共に、そのルーツをたどってゆくと、壱岐にいた古代海人たちが海上の道を伝わって半島や大陸との往来を支えていた遠い過去の記憶にまで連れて行かれそうな気がしてくる。

 清盛が修築しようとした大和田泊は日宋貿易の拠点であり、この港があった福原は当時のわが国の対外交渉の玄関口として大陸と向き合っていた。こうした海を隔てた他国とつながる港湾都市の伝承に、(壱岐の航海民たちが信仰していた月神との繋がりが感じられる)小川月神社の鎮座する地域と関わりがあった名月女≠ネる登場人物がみられるのは果たして偶然なのか?。



   【C】月島の信仰

 今度は『築島』のタイトルになっている築島≠ノついて考えてみる。

 築島≠ヘ埋め立てて造る人工島のことで、清盛は大和田泊を修築する際、防波と港の機能拡大を兼ねて築島の建造を実行したのである。30人の人柱を立てる必要のあった難工事というのも、この島のそれであった。

 いっぽう、築島(つきしま)≠ニいう語は月島≠連想させる。じっさい、もんじゃ焼で有名な東京の月島は明治25年頃に隅田川を埋め立てて造られた島だが、築島≠ノ佳字の月島≠かけたものと言われる(異説もあるようだが)。

 結論を先に言えば、わが国にはかつて、海外との交渉があるような港近くの島で、航海神としての月神を祀るような信仰があり、そのような信仰の行われていた島は月神の聖地として月島≠ニ呼ばれることがあった。大和田泊の場合も海外と結ばれる港であったため、築島≠ゥら連想される月島≠介して、そのような月神信仰の記憶を引きずる名月女が、この港を修築する際の物語に取材した『築島』の登場人物の一人として紛れ込んだのではなかったか、── そんなふうに考えるのも、次に紹介する出雲の築島の例があるからである。


野井から見た築島
 島根半島北東部に野井浦という海があり、そこの海岸線から500mほど沖合には築島という大きな島がある。この島は全体に岩がちで、様々な岩脈が複雑に露頭する「築島の岩脈」によって国から天然記念物の指定を受けている。

 築島はもちろん人工の島ではないが、『出雲国風土記』嶋根郡条には「附島」として登載されているため、古くからつきしま≠ニ呼ばれていたことは間違いない。おそらく、築島≠ノせよ附島≠ノせよ、いずれも借字で、ほんらいこの島は航海神としての月神を祀る「月島」ではなかったかと私は考える(※3)。




   【D】加志島さがし

爾佐能加志能爲神社

 地図で見ると築島は南から北に向かうにしたがって東に湾曲し、その先端は完全に東を向く形をしている。ここの部分は、一部が非常に狭くなり、それからその先が膨らんでいるため、あたかも本島から千切れかかっているような格好になっている。そして、この千切れかかっている箇所の先端には梶の鼻≠ニいう地名がある(参照 → )。さて、ここで注目したいのは、『延喜式』神名帳に登載のある出雲国嶋根郡の小社、「爾佐能加志能爲(にさのかしのい)神社である(『出雲国風土記』嶋根郡条の「爾佐加志能爲社」)。この神社は現在、築島を正面に臨む松江市島根町の野井という漁村に鎮座しているが、かつては築島と地続きの加志島≠ニいう場所に鎮座していた。それが現在の場所に遷ってきたのは、長元七年(1034年)八月に大風の被害に遭って吹き流されたためで、このことは明治二年に神主から藩庁に出された『上申書』に見えている。

 この旧社地であった加志島については『式内社調査報告』に引用されている浦方文書に詳しい。それによれば、加志島は「築島ノ後ニ有リ。此嶋ハ南北ニ二穴有ル。灘ノ分大穴ナリ。尚又漁船通行自在也。」とある。
 これを上の『上申書』の内容と総合すると、加志島と築島は地続きで、前者には南北に2つの穴があいているが、そのうち灘のほうにあるそれは漁船でも通行できるくらい大きいらしい。要するに、加志島と築島は上部ではつながっているが、下部では島を貫通する海蝕洞か何かで分離されているということだろう。

 浦方文書には加志島に加路島≠フ字を当てることもあるという言及があり、そこでは加路≠ノかじ≠ニルビをふっている。したがって、加志島は近世にはかじしま≠ニ発音されていたらしいが(ほんらいはかししま≠セったものが訛ったのだろう。)、だとすると、さっき言った築島の、北東部先端にある梶の鼻≠ニいう地名は、加志島のカジ≠ゥら来ていると見てよいだろう。そしてそうなると、長元七年に風雨の被害で押し流されるまで爾佐能加志能爲神社が鎮座していたという加志島とは、梶の鼻がある築島から千切れかかっているように見える部分のことではないか。


 この部分は浦方文書にもある通り、築島の後方にあって本土からはなかなか見ることができないのだが、笠浦の西側にある港付近からは観察することができる。上の画像はそれを写したものだ。ただし、上述の浦方文書だと築島と加志島は上はつながっていて、下は洞窟で離れているということになっているらしいのに、この島はそうではなく上も下も離れているように見える。あるいは浦方文書の書かれた後で、洞窟の上部が崩壊したのだろうか。いずれにしても、近代初頭までは加志島が築島とつながっていたのは上の『上申書』から明らかであり、それだけ分かれば本論に影響はないので、加志島探しはこれくらいにして月神のことに話をもどす。



月は東に、日は西に

 上の画像に写っているのが加志島なのだろうか。だとすると爾佐能加志能爲神社はずいぶん異常立地の神社だったことになる。人の住まないこんな岩島に祀られている神社なんて、そう滅多にあるはずないからだ。ただ私は、色々な意味で例外的にこれに似たケースとして、島根半島西部にある経島のそれをあげ得ると思う。

 経島は、ふきんに鎮座する日御碕神社の社伝によれば、『出雲国風土記』出雲郡条に見られる「百枝槐社(ももえゑにすのやしろ)」の旧社地で(現在でも経島には、小さな祠と鳥居がある ── 下画像)、当社はその後、遷されて、日御碕神社の「下の社」になったという。

 日御碕神社 下の宮(写っているのは拝殿。後方の本殿は修築中。)

 経島のある日御崎は日没の光景が美しいことで知られるが、「経島(ふみしま)」は「日 - 見 - 島(ひみしま)」の音転とも言われ、この岩島は日没を拝する日神の聖地であったらしい。かつては経島で祀られていたと伝わる上記、日御碕神社の下の社が日沈宮(ひしずみの宮)≠ニいう通称で呼ばれているのも、こうした祭祀の記憶がにじんでいることを思わす。ちなみに当社の現祭神は、日神の天照大神である。

 私が注目したいのは、加志島が島根半島の東のはずれにあるのに対し、経島は島根半島の西のはずれに位置していることである。そこには、島根半島の両端で、それぞれ東の海上から昇る月神と、西の海上に沈む日神を祀ろうとした意図が感じられ、古代出雲人の宇宙観を垣間見させられる思いがする。

 
 経島は海鳥たちの至聖所となった。





   【E】爾佐神社と都久豆美命

爾佐神社

 『延喜式』神名帳 出雲国嶋根郡には「爾佐(にさ)神社」という小社が登載されている(『出雲国風土記』の「爾佐社」)。当社は松江市美保関町千酌(ちくみ)に鎮座しており、千酌は律令制の時代には出雲から隠岐へ渡る船の港があって、駅(うまや)も置かれていた。『出雲国風土記』によれば、千酌はイザナギノ命の御子の都久豆美命という神が生まれたところなので、ほんらいつくつみ≠ニ呼ばれるべきなのだが、音転によって土地の人はちくみ≠ニ呼んでいるという。
 この都久豆美(つくつみの)命という神名の、つく≠ヘ月で、つみ≠ヘわだつみ≠ニかやまつみ≠ネどの場合に見られる神霊を表す「つみ」であり、したがって都久豆美命は月神であったという有力な説のあることは、『出雲の月神/一.爾佐神社』でふれた。

 現在、爾佐神社の祭神は『出雲国風土記』の記事に基づいて都久豆美命とされている(正確に言うと現祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命・都久豆美神の三柱だが、ほんらいは都久豆美命一柱であったろう)。いっぽう、爾佐能加志能爲神社の現祭神は大己貴命だが(※4)、これはちょっと説得的ではない。というのも社名からいって爾佐神社と爾佐能加志能爲神社は系列社であったと考えられるからで(※5)、だとすれば後者もほんらいこの都久豆美命という月神を祀っていたことになるからである。その場合、かつての当社が鎮座していた築島(附島)≠ニいう地名は、この月神を祀った月島≠ゥらきていると考えられないだろうか。



   【F】かしま/かししま

 いっぽう、古代の出雲東部で祀られていた月神は航海神としての神格が顕著で、かつ、とくに出雲と隠岐とを結ぶ海運の担っていた海民から信仰を集めていたのではないか、── このことはこれまでこの『出雲の月神』シリーズのテーマとして再三にわたって主張してきた。

 爾佐能加志能爲神社の祭神にも航海神として神格があったらしい。そのことを感じさせるのが、当社の旧社地の加志島(かししま)という地名である。
 志田諄一氏の『風土記を読む』から鹿島≠フ語源について述べた箇所を引用する。




 鹿島の語源は、船をつなぐ杭を打った「かし(「か」は「状」などの字のへんに羊、「し」は哥へんに戈、以下同様。)島」からきているようである。『肥前国風土記』杵島郡の条に、景行天皇が船をとめたとき、船かし(船つなぎの杭)から冷水が自然に湧き出た。または船が泊まったところが、ひとりでに一つの島となったので、天皇はこの郡をかし島の郡とよぶがよい、といった。いま杵島(きしま)の郡とよぶのはカシシマが訛ったのである、とみえる。この地は有明海に面し、杵島郡の南隣が藤津郡鹿島とよばれている。
 したがって、本来は船をつなぎとめる杭を打つ島(場所)を意味するカシシマが、一方はキシマ、他方はカシマに転訛したのである。(p 131)


 鹿島という地名も、河口や海と関係が深い。鹿島の地名の分布をみると日本海側では石川県七尾市付近があげられる。『和名抄』には能登国能登郡加嶋郷とみえる。七尾湾と富山湾に面しており、『延喜式』主税には「加嶋津」とあり、敦賀津とともに日本海航路の拠点であった。
 太平洋岸では静岡県富士市付近が「賀島(かしま)」とよばれていた。この地は富士川と潤川河口地域にはさまれた駿河湾に面している(『吾妻鏡』治承四年十月二十日条)。静岡県天竜市付近も鹿島とよばれていた。天竜川と二俣川が合流する地で、河口港として栄えた。和歌山県日高郡南部町の浜にも、鹿島と呼ばれる小島がある(『万葉集』巻九)。九州の佐賀県鹿島市は古代には「鹿島牧」が置かれた地で、有明海に面した港である。このようにカシマの地名はいずれも海や河口に沿った港に関係のある地域に分布している。(p130)






 ついでに付け足しておくと、『出雲国風土記』「嶋根郡」の条には「加志島(かししま)」という島の記事が登載されており、これは現在、千酌浦の北にある笠浦湾口の笠島に比定されている。千酌はさっきも言ったとおり、隠岐への船が出る港があった土地で、『出雲国風土記』の記載の順序では、この港の記事がある「千酌の浜」の項の次に「加志島」のそれが続く。こうしたことも、カシマ/カシシマが海や河口に沿った港に関係のある地域に分布していることの一例だろう。

笠浦の日御崎神社

 ところでこの笠浦湾口の加志島は、付近にある松江市美保関町大字笠浦に鎮座する日御碕神社の神跡地として信仰の対象となっている。当社は漁港に鎮座していることもあって、海上安全や大漁祈願といった信仰が厚い海の社である。

 常陸の鹿島神宮も海の社であった。そのことは、『常陸国風土記』「香島郡」の条で、天の大神(鹿島神宮の祭神=タケミカヅチ神)が中臣の臣狭山の命に、「社の御船を奉納せよ。」と託宣する記事によく現れている。当社においては古代にこれにちなんで、毎年 7月に津宮という所に船を奉納する神事が行われ、また、中世期には船に乗って神体の渡御を行う祭りが執行されていたらしい。
 古代の霞ヶ浦は大きく湾入した内海で、鹿島神宮が鎮座している場所は、この内海と外海を隔てる北から大きく突き出した半島の先端ふきんに当たっていた。鹿島神宮というと軍神というイメージが強いが、神宮の近くには大和朝廷が海上ルートでエミシ世界に進出する際の軍港があったと考えられ、おそらくこうしたことから、この神社の祭神には軍神と共に航海神としての神格が備わるようになっていたのだろう。

鹿島神宮

 こうしてみると、カシマ/カシシマはたんに海や河口に沿った港に関係のある地域に分布する地名というだけではなく、航海神を祀った祭祀に関係する信仰の地であったことが感じられる。その場合、やはり加志島という地名の場所が旧社地だったと伝わる爾佐能加志能爲神社もまた、航海神を祀るっていたことを感じさせる。加志島が外洋へと突き出した人の住まない岩島で、かつての当社がそんな場所で祀られなければならなかったのも、千酌などから出ていた隠岐などへ向かう船の航海を守護するためであったと考えれば納得がいく。

 『雲陽誌』には築島の項に「此処船津なり」という記事があり、築島に抱かれた野井浦には風待ちで築島の湾に帯留する船のために、寛政〜天保の頃には船宿か船問屋をしていたという家が3軒あったという。おそらく、本土の沖合500mほどのところで、外洋からの楯のように海に浮かんでいる築島は、本土側に船を休ませるのに適した小さな海を造るので、海で生計を立てる者や隠岐への航海に携わる者などから自然に信仰を集めるようになったのではなかろうか。また、『出雲の月神/四.三日月の影』でも触れたが、隠岐への航路というのは、隠岐が終着点だったのではなく、むしろそこを足かがりに半島へと通じていた可能性がある。とくに、出雲国内の政情が不安定で、出雲東部の勢力が西回りの航路を利用して半島に渡ることができないような時期があれば、この隠岐を伝わる海外への渡航ルートが彼らにとって非常に重要な意味をもつようになったことは想像に難くない。こうしてみると、航海神としての爾佐能加志能爲神社の意義は非常に重いものだったように思われる。

 なお、浦方文書によれば、加志島には2つの穴があり大きい方の穴は、漁船で自由に通過できるほど大きかったらしいが、島根半島には加賀の潜戸クゲド見られるように、海蝕洞に対する信仰があった。加志島に爾佐能加志能爲神社が祀られるようになったことは、このことも関係しているのかもしれない。


加賀の潜戸



   【G】ふたたび『築島』
 話を『築島』のことにもどす。この物語の成立には、さっきも言ったとおり、まず海外との交渉が行われるような港近くで、航海神としての月神を付近の島などで祀る基底信仰があり、この信仰に関係のある名月女父娘夫婦の物語が、築島=ツキシマ=月島という音を通じてこの幸若に附会された事情があったと思う。だがその場合、名月女父娘夫婦の物語はどうして月島≠フ信仰と関係があったのか。

 おそらく、名月女という女性には、今ではもう忘れ去られたかなり古い月神格がやどっていて、そのルーツは、彼女が夫と暮らしていた丹波国小川庄に鎮座する小川月神社に求められた。たぶん、彼女はこの神社で祀られていた女性の月神であるか、あるいは月神に仕えた巫女の神格化ではなかったか。
 いっぽう、月島≠フ信仰のルーツは、爾佐能加志能爲神社の例が示すように何となく出雲方面にあったような感じがする。してみると、小川月神社の月神信仰と、出雲のそれがどこかでクロスする地点を捜さねばならない。

出雲大神宮と神体山の御影山

 幸いなことにそのような地点を捜すのはそんなに難しくはない。『延喜式』神名帳で小川月神社の登載がある桑田郡には、当社の他に明神大社がもう1社、鎮座していて、それが亀岡市千歳町に鎮座する丹波国一宮の出雲大神宮だからである。当社の存在は上代のいつの時代かに、出雲勢力が口丹波に進出していたことを感じさす。

 出雲にはもともと航海神としての性格が強い月神への信仰があり、小川月神社のそれも、(葛野坐月読神社を介して)半島へ渡る舟運の担い手であった壱岐の海民が信仰する月神にまでそのルーツがたどれた。こうしてみると、出雲の月神も壱岐の月神も、航海神ということで通底するものがあったことになる。
 おそらく、こうしたことが基底材となり、出雲勢力と、小川月神社で月神を奉斎する集団が近接して居住していた口丹波では、両者の習合が生じたのではなかったか。

 この習合の中からはある伝説が生じた。この伝説はかつて小川月神社に伝わっていたが(当社で祀られていた月神に関するものであったのだ。)、今では失われてしまい、その全容は謎のままである。ただし、この失われた伝説からはたまたま落丁した部分があって、それが何かの拍子に清盛による大輪田泊修築に取材した『築島』の中に紛れ込み(※6)、名月女父娘夫婦のストーリーとして伝えられることになったのである。







2008.09.29







※1  口丹波にある神社のうち、亀岡市篠町の桑田神社及び村山神社、保津町の松尾神社、大井町の大井神社、そして馬路町の小川月神社などが松尾大社系の神社とされる。

※2  じっさいに亀岡市大井町に鎮座する大井神社はやはり松尾大社系の神社で、かつ、月神を祀っているが、大宝二年に当社の祭神である月読尊と市杵嶋姫命が、亀の背に乗って大堰川を遡ってきたが、途中、流れがきつくなってきたので、鯉に乗り換えて鎮座したという伝承があり、これなどは下流から月神を勧請した秦氏の事績とかんけいがありそうである。

※3  地図やガイドブックやネットのコンテンツや地名の本などこれまでの管見の範囲では、築島を紹介した文献はすべて訓みをつきしま≠ニしているようだが、私が野井浦で何人かの人と話した感じでは、現地ではつくしま≠ニ発音されているように感じた。

※4  現祭神は大己貴命と天照大神の二柱とされることもあるが、後者は合殿の日御崎神社の祭神である。

※5  『延喜式』神名帳も『出雲国風土記』も爾佐神社(爾佐社)の後に爾佐能加志能爲神社(爾佐加志能爲社)という順番で、両社の名前を登載しており、いずれの場合にも、この2つの神社が系列社であるという意識がはたらいているのは間違いない。

※6  元暦元年(1184)に起きた清盛によるクーデターにより、後白河上皇の院政が一時、停止されると、丹波は短い期間ではあったが平氏による知行国となっている。あるいはこうしたことも、名月女の伝承が『築島』に付会された背景にあったかもしれない。




主な参考文献

『幸若舞(一)』より
 『築島』
東洋文庫
『日本古典文学大辞典』巻四より
 『築島』の項
 
岩波書店
『定本 柳田国男集』から
『妹の力』所収「松王健児の物語」
柳田国男氏
筑摩書房

『風土記を読む』 志田諄一氏
崙書房

『式内社調査報告』第二十巻から
 「爾佐神社」の項
原宏氏 皇學館大學出版部
 「爾佐能加志能爲神社」の項
  〃  〃
『式内社調査報告』第十八巻から
 「小川月神社」の項
美馬恒重氏  〃
『日本の神々』7山陰から
 「小川月神社」の項
山路興造氏 白水社
 「日御碕神社」の項
藪信男氏
 〃

『風土記』 植垣節也氏校注・訳 小学館日本古典文学全集

『京都府の地名』
平凡社日本歴史地名大系
『島根県の地名』
  〃

『神国島根』
島根県神社庁編

『日本書紀』
坂本太郎・家永三郎・
井上光貞・大野晋校注
岩波文庫










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