三.月の輪神事など、総括



 本論、「三.月の輪神事など、総括」は、同じ「出雲の月神シリーズ」の「はじめに」「一.爾佐神社」「二.賣豆紀神社」が、先に読まれていることを前提に執筆してあります。したがって、これらを未読の方は、あらかじめそちらを読まれることを推奨します。m(__)m

一.多賀神社と月向山

 『出雲国風土記』巻末には、出雲国内の交通が総括して延べられている箇所がある。伯耆と出雲の国境からはじめて、次のように延べる。


  国の東の境から<中略>西へ二十一里で、国の役所と意宇の郡の役所との北の十時の交差点に至り、そこで分かれて二つの道となる。〔一つは正西への道、一つは北に曲がった道である。〕
北に曲がった道。北に離れていくこと四里二百六十六歩で、意宇の郡の北の堺である朝酌の渡りに至る。〔渡る川の川幅は八十歩である。渡船が一つある。〕又、北へ十里百四十歩で、嶋根の郡の役所に至る。郡の役所から北へ離れていくこと十七里百八十歩で、隠岐への渡り場である千酌の駅家の浜に至る。〔渡船がある。〕<後略>

   ・小学館日本古典文学全集『風土記』p271 植垣節也訳


出雲国府跡
 簡潔な記述だが、当時の交通の状況がよく伝わってくる。これによると当時、出雲国府から隠岐にまで行く際、少なくとも二回、船に乗らなければならなかった。まず、国府から十字路を通過して「北に曲がった道」を進むと朝酌の渡りに至る。ここでまず、大橋川を渡るために一回、船に乗らなければならない。続いて、嶋根の郡の役所まで進んでから、さらに北上すると千酌に至り、ここから隠岐へ渡る船に乗らなければならなかったのが、もう一回である。

 千酌には式内社の爾佐神社があり、風土記の記述から当社の祭神は月神の都久豆美命であるとともに、隠岐への海上交通を守護する神格があると考えられた。

 これと同じように朝酌の渡しのきんぺんにも、月神が信仰された痕跡がないだろうか、そう思って調べると次のようなことが注意を引く。
 松江市街を出発して国道9号線で安来方面に向かうと、しばらくして大橋川の両岸に山が迫り、道路とJRと河川が併走する区間を通りかかる。この区間はだいたい5q続くが、まるで大橋川が運河のよう見え、川中には手間天神が鎮座する小さな島があったりして、わりと印象的な感じの場所である。『出雲国風土記』にはこの付近にあった渡しとして、それぞれ「朝酌の渡し」と「朝酌の促戸の渡し」の記事がある。前者は公用の渡しであったが、後者はそこで魚が多く穫れるため、自然に商人達が集まって市場ができている様子が描かれており、その情景はたいそう印象的だ。この二つの渡しは近接していたらしいが、風土記の記事からは人や物の交流で、そこがかなりの賑わいを示していたことが伝わってくる。


手間天神の島 矢田の渡し


 ここに今でも矢田の渡しという渡しがある。各社から出版されている『出雲風土記』の注等では、この渡しが朝酌の促戸セトの渡しと朝酌の渡しの後裔のものであるとか、あるいは、この渡しのやや東側にあったなどとされている。そして矢田の渡しの左岸側ふきんに、多賀神社という神社があるのだが、この神社の鎮座する森は「月向山」と呼ばれているのである。そこは上流から見て、大橋川の両岸に山が迫って「せと」になっている区間の入り口だ。

 「月向山」という地名から想起されるのは、同じ出雲にある「日向浦」である。この地名は境港の対岸、境水道大橋のたもと辺りを指すが、地元では朝日に向かう浦だから「日向浦」という地名が付いたと言われている。が、おそらく、嶋根半島東端の日御崎と同じく、上代の日神祭祀の記憶を伝える土地のような感じがする。
 その場合、月向山は地形的に西を向いているのだが、この土地も日向浦と同じく、西に傾き始めた月を拝する祭祀が行われた場所ではなかったか。だとすれば、そうした祭祀が行われたのも、あるいは朝酌の渡しの守護神として、交通神としての月神が祀られたためではなかったか、などと思うのである。

 ちなみに、「渡しと月神」というと、「爾佐神社」のところで触れた、京都府城陽市の樺井月神社が想起される。



多賀神社
 大橋川右岸(南側)にある矢田の渡しの船着き場から見た当社の社叢
社殿

 【所 在】 松江市朝酌町970番地
 【祭 神】 主祭神:須佐之男命
 【祭 神】 配祀神:伊弉諾命・伊弉冊命・宇津名媛命・事代主命・大己貴命
 【由緒等】
 『出雲国風土記』所載の朝酌下社と考えられている。明治41年に同じく風土記所載社の朝酌上社等が合祀された。

 『神国島根』には次のような当社の縁起が載っている。『日本書紀』一書からの附会が認められるが、当社の信仰が水上交通と関係があったことを感じさせるものだ。また、下の月形神社の縁起と同じく、風雨や波浪を鎮める信仰も感じさせる。
「当社鎮守の森を月向山と言う。須佐之男命が新羅国より埴土の船に乗り沈香の青木を積み出雲国に渡り、今の多賀の地に来られたとき多賀明神月向山に在りて「この神崎を青木積みて通る日本は我が国なり此岸に船を留めて汝は岸に上るへし我は此に在り」と申された。俄に雨、波風荒くなり、土を盛りかけ、船はついに山となり青木も生つき、故に此の山を唐船山と名付け宮作りされたのが今の宮地である。」


 境内には、この地域でもっとも大きな前方後円墳である魚見塚古墳がある。川に面した台地のへりに築造されているが、おそらくこの付近の交通を支配した古代豪族の奥津城で、大橋川を行き来する船に睨みを効かす意図があったろう。

 当社には、この他に、本殿の棟木に設置された奇妙な神面や(このページの一番下の画像参照)、鳥居正面の川中にある「筌」等、神社好きの人が喜びそうな見所が多い。また、神在月には、全国からやってくる神々が立ち寄る等、伝承も豊富なので、興味のある方は、『古代出雲への旅』(関和彦著・中公新書)を参照してほしい。



   



二.月形神社

 松江から国道9号線をさらに安来の方に向かうと、松江市と安来市の境を過ぎてしばらく進んだ辺りに、荒島という土地がある。荒島で国道から旧道の方に入ると、古い街道の雰囲気を残す家並みの中に、月形神社という神社が鎮座している。祭神は月読尊である。境内にあった看板を引用する。

  荒島八幡宮に残る古文書によると、「この辺りは海が荒れ狂うので荒島と言われ、家は押し流され、田畑も流され、住民は大変苦しんだ。そこに黄金の兎が現れ、日と月の神様にお願いするのがよい、この神は、荒波を鎮め、人々の難儀を守って下さると云って姿を消した。
 荒島の人たちは早速、日形大明神(天照大神)、月向山形大明神(月読尊)をお祀りしました。あれほど荒れ狂った荒波も治まり平和な日々が続くようになったと云う。」
月形神社の一画には松江藩の建札を立てる場所があり、その向かいには参勤交代時に藩主が駕籠を止めて休憩する場所があったと伝えられています。


 これを見ると、当社は天照大神を祭神とする日形大明神という神社と対をなす、月神の社として創祀されたらしい。が、『神国嶋根』をみる限り、現在の荒島町周辺に「日形大明神」という神社は見あたらない(境内社も含めて)。いちおう、天照大神と須佐之雄命を祭神とする御崎神社という神社が同じ町内にあるが、これはおそらく日御崎神社を勧請したものだろうし、「日白神社」という神社もあるが、祭神は事代主命である。どうやら、「日形大明神」「月方大明神」のうちで、現在でも社名を失っていないのは月形神社だけのようである。このことは、この月形神社と日形神社では、通常とは逆に、月神を祀った月形神社の方がより重要だったことを示しているのではないか。


 当社の鎮座する荒島をはじめ、飯梨川の河口ふきんには、「飯島」「豊島」といった「○○島」という地名が多くみられる。これらはかって海に浮かぶ島であったものが、付近の陸化によって島ではなくなった土地である。荒島もそうで、おそらく地形図に「高塚山」とある丘陵がかつてこの名で呼ばれた島だったのだろう。
 看板の由緒から言うと、当社は荒島近辺の海が陸化し、田畑や人家ができてから創祀されたらしいので、上代にさかのぼるような古社とは思われない。ただし、看板の伝承に、「あれほど荒れ狂った荒波も治まり平和な日々が続くようになったと云う。」とあることから、当社に祀られている月神には波浪を鎮める利益があったように思われる。そしてそれは、『日本書紀』に「月読尊は、以て蒼海原の潮の八百重を治すべし」とあることや、荒れやすい日本海を渡って隠岐へと渡航する船が出た千酌に、月神の都久豆美命を祀る爾佐神社が鎮座しているのと同質の信仰を感じさせる。


 ちなみに同じ看板には、「月形神社の一画には松江藩の建札を立てる場所があり、その向かいには参勤交代時に藩主が駕籠を止めて休憩する場所があったと伝えられています。」とある。建札が立てられたり、藩主が駕籠を止めて休憩したり、 ── つまり当社の境内は交通の結節点であった訳で、ここにも、これまで何度も強調した、月神と交通との関わりが感じられる。

月形神社



 【所 在】 島根県安来市荒島町2398番地
 【祭 神】 主祭神:月弓命
 【祭 神】 配祀神:下照日女命・天真婦津命・級長津彦命・級長津姫命
 【例 祭】 10月9日
 【由 緒】 上に引用した通り



   



三.語の臣猪麻呂と月の輪神事

 荒島からさらに東へ向かうと、旧式の外観をした日立金属の工場とJR安来駅に迎えられて、安来市街にたどり着く。

 ここは山陰を代表する夏祭り、「月の輪神事」で有名だ。毎夏、8月14日から17日までの4日間(旧暦のころは7月14日から17日まで)、安来市街の目抜き通りはこの神事で繰り出された山車と観光客にわきかえる。

 月の輪神事は、『出雲国風土記』安来郷条の記事にある、ワニにより殺害された語臣猪麻呂の娘の霊を慰めるために始まったとされる。ちょっと長くなるが、この記事を引用しよう。



 安来駅近くの国道沿いにある猪麻呂の像。台座のプレートには「安来郷長」とある。
 なお、北の海に毘売ヒメ崎がある。飛鳥の浄御原の宮で天下をお治めになった天皇の御世の二年七月十三日、語の臣猪麻呂の娘が、前掲のこの崎で遊んでいてたまたま和尓ワニに遭い、殺されて帰らなかった。その時、父猪麻呂は、殺された娘の屍を浜辺に安置して、はげしく憤激の情をおこし、天を仰いで叫び地に躍り上がり、わずかに歩いてはうめき、座りこんでは嘆き、夜も昼も苦しみとおして、屍を安置した所を去ることがなかった。こうしているうちに、何日もたった。そして後、恨み憎む気持ちを奮い起こし、矢の先を研ぎ鉾を鋭くし、攻撃によい場所を選んで腰をおろした。そして神に祈り訴えて言ったことには、「天つ神千五百万、国つ神千五百万、さらにわが出雲の国に鎮座なさる三百九十九の社の神々よ、また海神たちよ、大神の安らかな魂のほうは静まって、荒々しい魂のほうはことごとくに猪麻呂の願いとするところに憑りつきたまえ。まことに神霊がいらっしゃるならば、わたしに和尓を殺させたまえ。祈りの成就をもって神霊が神の神であることを知るでありましょう。」と言った。その時、しばらくして和尓百匹余りが、しずかに一ぴきの和尓を取り囲んでゆっくりと連れて寄って来て、猪麻呂の座っている下から離れず、進まず退かず、なお取り囲むばかりであった。その時、鉾を挙げて中央にいる和尓を刺し殺し捕ることを完全に終えた。そうして後、百余りの和尓散らばっていった。腹を割くと、娘の片脚が和尓からこぼれ出てきた。それで和尓をさらに細かく切り裂いて串にかけ、道のほとりに立てておいた。〔(猪麻呂は)安来の郷の人、語の臣与の父である。その時から、今日に至るまで六十年を経過した。〕

   ・小学館日本古典文学全集『風土記』p141〜143 植垣節也訳



 『風土記』で『白鯨』をやったような記事だ。

 それはともかく、月の輪神事は4日間、執行されるが、これは猪麻呂によるワニ退治が4日間を費やしたことにちなむという。また、猪麻呂が串刺しにして路傍に立てたワニの形にちなみ、山車や大鉾の頂上、あるいは願人の手にされたえものには、三日月型の紙灯がしつらえられる。これには「商売繁盛」「家内安全」等の文字が入るが、神々にむかって娘を殺害したワニに引き合わせるよう祈念し、それが通じた猪麻呂にあやかろうとしたものだ。「月の輪神事」という名称もこの紙灯にちなむものである。

 月の輪神事のえん源については、わが国古来の祖霊祭祀との関係をみる松本興の説などもあるが、松前健は次のように説く。



「出雲国意宇郡の式内社、賣豆紀神社(『三代実録』に見える「女月神」)、『出雲国風土記』嶋根郡の条に見える都久豆美命も、月神であるらしいことは、種々な学者の指摘するところであるが、共に海浜に接した社で、漁労との関係が考えられる。安来の有名な「月の輪神事」なども、現在では、例の『出雲国風土記』に見える語臣猪麻呂に附会されてはいるが、この祭に出る三日月形の行灯は、おそらく、月神のシンボルで、漁村なるが故にまつられたのである。(松前健『月と水』p146)」



 私は、海上を生活の場とする人たちの月神信仰とこの神事の関係を示唆した、この松前の指摘に共感をおぼえる。ただ、こうした出雲における月神の祭祀は、漁労との関係だけでなく、航海安全など、海上交通神としての神格から説明する方がふさわしいのではないか。それは都久豆美命を祀る爾佐神社が、隠岐へと渡る船の港があった千酌に鎮座していた例等を挙げながら、これまで何度も強調してきた。
 安来は中海の湾入部で、湾頭に十神山(風土記の「砥神山」)があるため、天然の良港である。このため、遅くとも日本海水運が山陰地方における基幹的な交通手段となった平安末期には、本格的な港津が成立していたと考えられ、中世期以降の「安来津」は、出雲を代表する港として中国や朝鮮にも名の知られる存在であった。したがい、そこにはかなり古い時代から、日本海沿岸の各津・隠岐・遠く中国や朝鮮への渡航にたずさわった多数の航海民たちが居住していたろう。そうして、海上守護などを祈る彼らの月神信仰が、月の輪神事のえん源であったのではないかと考えるのである。



毘売塚古墳

 墳丘を登る階段。  墳丘から眺めた安来港。右側の山は出雲の神在月で、全国から参集した神々が最初に集うと伝承される十神山。

 JR安来駅の裏手、日立金属の工場の東側に山尾根があり、地元では猪麻呂がワニの到来を待ちかまえた毘売崎であると伝承されている。ここは現在、海からだいぶ離れてしまっているが、近代までの海岸線は、おおむね今のJRの線路辺りに来ていたというので、猪麻呂の頃はこの尾根の下に海があったろう。

 現在の月の輪神事は、山車や人々の行列が繰り出されて壮麗であるが、かっては、浜垣という場所でかがり火を焚いて神を祀り、四日間、昼夜を問わずに飲食をしながら、歌舞音曲を奏するだけであったという。この浜垣という場所は毘売崎の麓にあり、現在、そこから急な石段を登ると、5分ほどで毘売塚古墳に至る。この古墳は毘売崎の突端部にあり、復元全長41.8m、後円部径32.8m、高さ4.1m、後円部に比して前方部が著しく短い、いわゆるホタテ貝式の古墳である。

 伝承によるとこの古墳は、ワニによって殺害された猪麻呂の娘を葬ったものとされている。昭和41年、この古墳の発掘調査を行ったところ、後円部に設けられた埋葬施設から凝灰岩製の舟形石棺が出土し、中からは風土記にある猪麻呂の娘の記事と同じく、右すねを欠損した人骨が発見された。人骨は当初、男性のものではないかとされたが、正確な医学的判定で決定されたものではない、という説もある。

 もっとも、猪麻呂によるワニ退治は天武天皇二年の出来事とされているが、毘売塚古墳の築造時期は古墳時代中期なので、時期にして約2世紀間の開きがある。




   



四.総括

 ここで唐突だが、これまで『爾佐神社』『賣豆紀神社』『月の輪神事など、総括』と続けてきた「出雲の月神」について、ある程度、総括・補足をしておく。次の話に進む際、役立つと思うからである。

 まず言いたいのは、出雲の月神には、海上交通神としての神格があったのではないか、ということである。このことについては、はこれまで何度も強調してきた。これ以上の繰り返しは避ける。

 ところで、出雲の月神に海上交通神としての神格があったとすれば、それを祀っていたのはどういう人たちであったか?

 出雲の月神に、海上交通神としての神格が認められた以上、それを祀ったのは海民たちであったと考えられる。海民は上代における海上交通の主要な担い手であったが、そのような彼らが、洋上におれる人命と財産の安全を月に祈ったのが、出雲における月神信仰のえん源であったと考えるのだ。

米子市宗形に鎮座する式内社の宗形神社

 もっとも、「海民」などと言ってしまうと、ずいぶん漠然としてしまう。ではその海民はどういう系統であったか? 古代出雲は北九州地方との繋がりが強く、米子に式内社の宗形神社が鎮座していること等も考えれば、その海民とは宗像系であった気がしないでもない。が、やはりここではよく分からないとしておくしかないだろう。
 ただ私は、この出雲で海上交通神として月神を祀っていた海民は、隠岐への航海にたずさわっていたと思う。というのも、例えば、月神の都久豆美命を祀る爾佐神社は千酌に鎮座しており、千酌には隠岐へと渡る船の港があったからで、当然、この神社を信仰していた航海民は、隠岐への舟運にたずさわっていたと思われるからである。また、月の輪神事が行われる安来は、中世以降、安来津として知られる一大港湾都市であったが、ここは日本海沿岸の各港だけではなく、『増鏡』に後醍醐天皇が隠岐へ配流された際の出港地として名前が見られる等、隠岐と本土を結ぶ拠点の港であった。


 総じて、これまで取り上げてきた出雲国内におけるこのタイプの月神信仰 ── 爾佐神社・賣豆紀神社・多賀神社・月形神社・月輪神事 ── が分布しているのは出雲東部である(※)。これは出雲東部が、本土から隠岐へ渡航する際、最短ルートで行ける地域であることと関係があるではないか(実際、今でも本土から隠岐へ渡る船のほとんどは出雲東部の港から出る。)。とにかく、この、「隠岐への航路と出雲の月神信仰の関わり」というのは、かなり重要なことだと思う。特に、次章の『三日月の影』では大きく取り上げる予定だ。


隠岐



 隠岐というと、今では日本海沖合の孤島というイメージが強いが、古代においては出雲から半島へつながるルートの飛び石であった。行き止まりではなく、通過点なのである。
 半島との交流は、弥生期以来、出雲の古代史に深い影響を与え、この地域を文化的先進地の地位に押し上げるものであった。しかも、古代の出雲はしばしば、東部と西部にそれぞれ別の勢力があったとされ(オウ勢力とカンド勢力など呼ばれることもある)、かりに両勢力の対立する時期があったとすれば、出雲東部の勢力にとって、隠岐を足がかりとしたルートは、半島へ通ずる唯一の回廊であり、生命線となっだろう。
 この月神がそのような半島につながる海上交通の守護神であったならば、同時にこの神格は、出雲東部における政治・文化の特異な守護者であったことにもなる。出雲の月神とは本来、単なる自然崇拝の信仰ではなくして、このようなきわめて重要な文化的意義をもつものではなかったか。

熊野大社

 余談だが、ここで言う出雲東部は、古代の郡域で言うと意宇郡と嶋根郡である。このうち、意宇郡は出雲国造家の揺籃の地であり、彼らの子孫は現在、出雲大社の宮司家であるが、ほんらいの氏神は意宇川上流域に鎮座する熊野大社であった。彼らはもともと、意宇郡の首長一族の出自であったのだが、出雲が大和朝廷による支配を受けるようになってから、中央から国造として迎え入れられるとともに、出雲大社の祭祀権をも持たされ、本拠地を東部から西部に遷した、と言われている。

 さて、この出雲国造家の系図で『出雲国造世系譜』というものがある。江戸末期頃に執筆されたものと推定されているが、色々と問題の多い文献で、伝本が十数種あって内容に異同があったりするらしい。ただし、諸本でもほぼ共通する初世から二十四世までのタテ系図の部分は、平安期の成立と考えられている。

 出雲国造家の初世は天穂日命だが、この系図によればその六世孫に「櫛月命」という人物がみられる(ちなみに崇神紀に登場する出雲振根は十一世孫。)。門脇偵二によれば、この系図の十四世孫まで部分は、記紀や『神撰姓氏録』にある人名が多く、それらを作為してつないだものだから資料価値が乏しいというが、少なくとも「櫛月命」なる人物は他の古文献に登場してこない。「くし」とは「霊妙な」という意味の、マジカルな価値を讃える美称であったことを思えば、この人名には月にまつわる信仰との関係を感じさせられる。あるいは、出雲国造家がまだ意宇郡の首長であった頃に、月の信仰と深く関わっていた先祖がいて、この人名にはその記憶が溶け込んでいるのかもしれない。その場合、出雲東部の月神信仰の起源は、かなり古く見積もることができそうだ。



 この他、出雲の月神を追う中で気づいたことをいくつか延べる。

 私は出雲の月神信仰においては、「月山」というものの存在を認めることができると思う。「月山」は月神の神体山なのだが、月神信仰をもつ航海民たちが多く居住する場所から見て、いつもその上から月が昇るような山が選ばれる。

 例えば、賣豆紀神社のところで触れた嶽山は月山の一例だと思う。松江の中心部に近い普門院にある観月庵は、この山から昇る月を意識して建てられていることや、松江城下における舟運の拠点、和多見町・八軒家町で船の発着を見下ろしながら投宿していたハーンが、嶽山から昇ったと思しき月に向かって参拝する柏手の音を聞いていること等から、まさにこの山は月山であったと思う。

 月山はその頂上から月が昇ればどの山でもよいのではなく、古くから神体山として祀られていたような山がそうなった。例えば嶽山の場合、山頂には式内社の布自伎美神社が鎮座し、この山は当社の神体山である。さて、嶽山が月山になると、最初から祀られていた布自伎美神社の信仰に、海上交通神としての月神信仰が習合されることになる。そしてその場合、「航海安全の利益がある」等の信仰が二次的に加わることになろう。
 『賣豆紀神社』で紹介した伝承によれば、朝鮮から帰国する船で、暴風雨に襲われた三好半太夫は、嶽山に鎮座した嶽明神(=布自伎美神社)の加護により難を救われた。この伝承から嶽山には、海上守護の信仰があったことが伺われるが、これも嶽山が月山になった結果、二次的に派生したのではないか。

 半太夫を救った布自伎美神社の神社の祭神は風土記に登場する都留支日子(つるぎひこ)命である。この祭神は名前からして剣神であると考えられている。半太夫は嶽明神(=布自伎美神社)に救われた後、出雲に入ってから一振りの刀を鍛えさせて当社に奉納しているが、伝承のこの部分は、もしかすると風土記の時代にさかのぼる剣神の記憶の反映かもしれない。いっぽう、当社の祭神が暴風雨から半太夫を救ったという部分は、こうした本来の布自伎美神社の信仰とは全く関係がなさそうな感じがする。おそらく、嶽明神にこうした航海を守護する海上交通神としての神格が生じたのは、松江城下が発展してからではなかったか。すなわち、松江で生活する人たちの人口が増えたことにより、彼らの間で、いつも山頂ふきんから月が昇るこの山に、月との関係が自然に生じ、ついには水郷松江に多く居住する舟運にたずさわる人々(海民の末裔)から、この山が月山とみなされるに至ってからだと思う。

 月神の都久豆美命を祀る爾佐神社の場合も、その正面には、麻仁曽山という整った円錐形をした山が見えた。この山は当社の真東にあって正対している。このため、境内で会った人(神社に隣接していた家の住人)の話によれば、爾佐神社の境内から眺める月はいつもこの山辺りから昇るということだった。
 麻仁曽山の麓には風土記にも名前が見られる伊奈阿気神社が鎮座し、この山は当社の神体山らしい。伊奈阿気神社は海上を守る神とされ、終戦までは麻仁曽山上に御神燈を灯し、これに祈れば大漁あり、航海安全であるとの信仰があった。してみると、麻仁曽山もまた月山ではなかったか。

 その他、何となく私は出雲の月神のシンボルは満月ではなく、三日月ではなかったかという感想をもっている。
 そう思う直接の根拠は特になく、安来の月の輪神事の紙燈が三日月を象ったものであることぐらいなのだが、しかし、三日月のフォルムは船に似ている。月の輪神事の紙燈は、猪麻呂によって退治されたワニを串に刺してさらした時の形にちなむと言うが、船の古語はワニであったから、そこからの連想が働いている可能性も考えられる。万葉古歌の月読壮士がしばしば船に乗ったイメージで登場するのも、あるいは三日月を船に喩えたレトリックかもしれない。月神が船に乗った姿で表象される例は諸外国にも多いが、いずれにせよ、月神に海上交通神としての神格をもたせる契機の1つが、新月を過ぎた頃の月の形が船に似ていることからくる連想にあったと考えることもできる。そのようなことから私は、海上交通神である出雲の月神のシンボルには、満月より三日月が相応しいと考えるのだ。

 ということで、これまで出雲の月神について延べてきたことをまとめてみた。続いて三日月を拝した出雲の偉人について考えてみたい。






2006.08.04







木待本宮神社は月夜見神を祭神とする神社である。
 念のために断っておくと、出雲には西部や中部にも、これまで私が取り上げなかった月神を祀る神社がある。例えば、松江市宍道町上来待の木待本宮神社や大東町に鎮座する大月神社などがそれである。しかし、これら東部以外の月神を祀る神社は、いずれも山地部にあり、海岸や宍道湖畔から離れた土地に鎮座している。これに対し本文で問題としているような、海上交通との関わりを感じさせる海浜近くで行われた月神信仰は、出雲でも東部に限られると思う



主な参考文献

『出雲国風土記』 小学館日本古典文学全集 植垣節也校注・訳

 
『神国島根』 島根県神社庁編

『古代出雲への旅』 関 和彦 中公新書

『出雲祭事記』 速水 保孝 講談社
『安来の歴史』第一巻 松本 興 安来文化シリーズbP
『安来市誌』(上)(下)
『安来港誌』

『月と水』 松前健

『日本書紀』 坂本太郎・家永三郎・
井上光貞・大野晋校注
岩波文庫



多賀神社本殿の神面






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