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     秩子の活動報告
         (その1)
        2006年7月31日まで




ニュージーランドーー世界で初めての女性参政権
                     2006,7,16〜23   G-Planning主催

 女性13人のグループで、オークランド空港に17日朝着きました。
 キュウイという鳥ご存知?飛べなくて、ウズラみたいな色、くちばしが長い。この鳥がこの国の国鳥。も早200羽しかいなくなって保護鳥になっています。この鳥は、雌が卵を産むだけで、雄が暖めるということで、珍しがられています。おなじ名前の果物は、この鳥の名前から来ているのだそうです。キュウイハズバンドという言葉があって、家事育児をかいがいしく行う夫のことです。この鳥の絵葉書をたくさん、それらしき人のところへ送りました。

 この鳥にふさわしい夫婦が、妻はコーディネーター兼通訳、夫は、カメラマンとして、同行してくれました。ホテルについてすぐにみんなで紹介しあったら、妻の江頭さんはテレビ関係の仕事でスポーツニュース編集者として、アトランタオリンピック報道官の候補にあがったというのに、「女はだめ」と言われてしまったので、会社をやめてニュージーランドにきたとのこと。この夫婦は、私の初めての双子と同世代。このようにして、日本は、大切な女性を外国に追い出しているんですね。5月のジュネーブでのベアテ上映会を主催した栗崎さんも、その仲間。このことは大いに訴えていこうと思っています。

 今回の企画は、G-プランニングというNPOが主催したもので、フェミニスト議員連盟の方が半分ぐらいでした。ニュージーランドという国は、移民の国。マオリという先住民族との戦いをとことんするのではなく、早々と1840年に条約を結んで、共生を目指しました。ところがこのワイタンギ条約は、英語とマオリ語でかかれましたが、その二つが、違っていることによって、その後かなりマオリに対して、パケハ(と西洋人は言われている)がひどいことをしてきたということもあって、アメリカにおける黒人と、この国のマオリは、同じような環境におかれてしまっているように感じました。DVの発生率も、圧倒的にマオリが高くなっています。今でもマオリは15%ぐらいを占めているといわれていますが、かなり混血も進んでいるようです。最近はアジアからの移民がかなり増えているようです。

女性センター
 オークランドではじめにいったのは、女性センター。30歳の若い女性が30年前にできたこのセンターについて説明してくれ、 女性への様々な教育コース、情報提供やコミュニケーションの場を提供している団体とのこと。特に、女性のself-defence、つまり護身術のコースには、なんと7歳から入ることができます。 7歳の女の子に、自分の身は自分で守れ、と教える。裏を返せば、それほどにニュージーランドの状況は切羽詰まっているのでしょう。ユニセフの統計によると、子ども10万人に対する虐待死の割合は、メキシコ、アメリカに次いで世界第3位です。ちなみにこのself-defenceのコースでは、暴漢に襲われた時の効果的な蹴り方、殴り方というフィジカルな対処法だけではなく、危険な状況とは何か、危険に見舞われたときにそれを回避するにはどうすれば良いか、危険に巻き込まれそうになったらどこに助けを求めればいいか、といった内容も盛り込まれているそうです。
 また、話をしてくれたAnnaさんは、10代の母親に対するサポート活動も行っていました。ニュージーランドは、10代の出産が比較的多い国だそうです。
女性専用の図書館もあり、6人の職員で対応しているとのこと。
 1893年に女性の参政権が認められ、でも被選挙権は、かなりあとです。1993年に女性の首相が誕生し、その時は、保守党(だったかな?)その後労働党に変わったけど、又女性首相。ヘレン・クラークさん、その姿は、公式サイトでご覧ください。
http://www.primeminister.govt.nz/index.html

 女性参政権に取り組んできた団体の代表は、ケイト・シェパードさん。10ドル札に素敵な顔がのっています。

DV被害者のシェルター
 さて、オークランド二日めは、橋を渡って隣のノースショーワ市にいきました。この橋が不思議なんです。朝は、オークランド方面行きがラッシュで、夕方は、反対方向がラッシュになります。そこで、朝は混みあう方が5車線で、夕方は、そちらが3車線に変わるのです。お昼に中央分離帯を重機が運んで、1列ずらすというはなれ業をするのです。その工事をしたのが、日本企業だったそうで、以来日本企業の価値がぐっと上がったとのことでした。

 そちらでいったのは、DV被害者のシェルターです。たまたまこの日一人もそこで生活している人がいなかったために、中に入れていただくことができました。とってもきれいで、広くてみんな驚きの声をあげました。部屋が、7つに、キッチンが2つあるのです。部屋には、ベットが母親ののほかに子ども用もあり、またベイビー用がある部屋もあります。中高生が勉強する部屋もありました。この建物は、民間の団体が所有しており、被害者には、虐待されているということを認識してもらい、そのうえで別の生き方があるということを提案する。

 加害者には、怒りのコントロールを覚える教育プログラムを提供。8人から16人のグループセッション。1回が2時間で、15回が一コース。6ヶ月かけます。とても重たい人に対しては、1対1のセッションをする。家庭裁判所から回ってきた人には、政府からの補助が出る。自分できた人は費用負担をする。負担が難しい人に対しては、その支援プログラムも提示する。

シャクティー、移民難民のサポート
 その日の午後は、移民、難民だけを対象にしたシャクティーというアジアの女性7人が設立(1995年)したDV対策の機関にいきました。10年間で全国8ヶ所に広がり、シェルターも3箇所もっています。その日、そこのスタッフ10数人が、短い自己紹介をしてくれたのですが、バングラデシュ、インド、イラン、パキスタン、中国など多様な国の方たち、その多くは、DV体験者だということでした。だから(と言っていました)組織は、縦組織ではなく、横並びで、何でも言い合う関係を保っているとのこと。

 CYF(child,young,family)という日本で言えば児童相談所に当たる公的な機関からの助成金が一番多いとのこと。このCYF(シフツと言っていました)は虐待がわかると被害者が子どもの場合には、里親のところへ避難させたりします。
 家裁、司法、法が味方になってくれるといい、マレーシア、シンガポール、バングラデシュ、ドバイ(アラブ支庁国連邦のことでは?)では、この国のようになっておらず、DV被害者が放置されているので、去年からシャフティーと同じような機関をそこにも作ろうと活動をはじめているとのことでした。この国では、法律が味方してくれる、と強調していました。DV法は、1995年日本より6年早くにできていました。

 皆さん日本に対しては、とても親密な感情を持っていて、お茶の時間には、積極的に話し掛けてこられて、英語がわからない悲哀を味わったり、ボディランギュエッジで交流したりしていました。

女性問題省
 3日目、首都ウエリントンに着くと、一行13人は正装をして女性問題省に入った。トイレに行くにも、厳重な鍵をあけていく。ココだけは大変な警戒振りだった。1986年にたった30人のスタッフでできた一番小さな政府機関。女性の生き方をよりよいものに改善するための様々なアドバイスを提供する省。今回対応に当たったのは二人の女性、事務次官と、政策担当官だった。50歳前後に見える事務次官が雇用情勢とDVについて語った。

 まず15歳から64歳の男女別雇用率は、男76%、女64%。働く女性の36%がパートで、働く男性の18%がパート。男女の給料格差は、女性が男性の82%。このような格差をなくすために、
1、 無償労働を分け合うこと
2、 保育所を増やし、保育者資格取得者を増やす。
3、 仕事現場をもっとフレキシブルに。
4、 パートの雇用を増やす。
ことを考えている。とのこと。有給(65%)育児休暇が自営業者にも取れるようになり、その給料は政府から出ることになった。(2006,6,1より)

 次にDVに関して、政府は、経済的、社会的に大問題であると認識して、対処している。毎年殺人の50%がDVによる。そして30%の女性が何らかの影響を受けている。1995年にDV防止法ができ、加害男性への教育プログラムを実施しているが、まだ成功しているとはいえない。子どものしつけの手段としての暴力についても策を講じようとしている。

今調査を進めていること。
1、 今年がDV法の見直しの年なので、被害女性が助けを求めた道筋を集める。
2、 Keeping Ourselves Safeという虐待防止プログラムとの関係を作っていく。

 最後に、女性の議会進出について聞いた。選挙制度が、小選挙区のみだったのを比例区併用に変えたのだが、93年に女性議員比率が30%だったのが、現在32%にしかなっておらず、選挙制度によって変わったとはいえないとの説明だった。しかしその後訪ねた女性協議会では、比例区併用制に変えた直後には、かなり増えたのが、その後落ちて現在に至っている、選挙制度の変革はそのときには意味を持っていたとの説であった。女性たちは女性の活躍している政党を好むので、政党もそれに対応することになる。世界で初めて参政権を取ったという女性たちのプライドも影響している。とのことだった。

バンジー松田キリンのこと
 今回の旅の大きな事件は、20代の女性を未来の首相にまで育て上げるという計画ができたことです。

 176センチという長身の女性。どこか暗さを感じさせる、基本的には交わらないというスタンスの、関東地方からチラシを見て一人で参加した人。初めて見たときから私はこの女性に着目してしまいました。いつものようにインタビュー。
 英語がよくわかるのは、高校が私立で英語科だったから、すでにアジアの数カ国には行っていて、新婚旅行で台湾に行った。そう聞いたとき、なぜか疑うことなく去年結婚したと思い込んだ私。彼女に二人の子どもがあるときいてびっくり仰天。「子どもを置いてこんなところにきたなんて責められそうでいえなかった」と聞き、みんなで「たたえるだけよ」といった。

 夜、彼女はバンジージャンプにいった。「帰ってきたらみんなが集まっている部屋に来てね」といっておいた。やってきた彼女にまずインタビュー「あなた男に間違えられたことあるでしょ?」その前に私が、スカートをはいて赤ん坊を抱いていたら「おじさんこの赤ちゃん、おじさんの赤ちゃん?」ときかれた話で大笑いした後だった。彼女の答えは「子どもといたらパパって言われた」そうでしょう。それから、彼女の猫の皮が取れていった。

 背が高すぎて、流し台が低く、まるでキリンが水を飲むような格好になる。と実演した彼女をいつのまにかバンジー松田キリンとみなが呼ぶようになった。まず彼女に市会議員に立つ様にと提案。しばらくして「市会議員になったらフェミニスト議員連盟に入れるのですか?」と言うではないか!「いや、市議にならなくてもフェミ議に入れる。では、帰ったらすぐに入会してね。」と決まり!
 35歳までにしたいことがあるので、その後に市議を目指す、という。それでは、今度のボーナスをもらったら、パソコンを買ってね。ケータイでは不便だから、と押し付ける。
 私は、彼女の報道官に自ら立候補し、13人全員に彼女の変身振りを伝えた。するといつのまにか、未来の首相というところまで話は拡大してしまった。
 そもそも、女性は専業主婦に限るという家で育ち、疑うことなく専業主婦に。「無料託児つき」という女性センターの講座を託児の魅力で受けた。そこでジェンダーに出会い、パズルの最後の一片がはまったと感じたと言う。以来女性センターを歩き回り、その縁で市役所に職を得たのだそうだ。こんな女性がいるということに、一同感動したのでした。

警察署
 首都ウェリントンの警察に、児童虐待防止プログラムを紹介してもらった。keeping ourselves safe というプログラムを5〜6歳、7〜8歳、9〜12歳、中学と年齢別に分けて作っている。
目的は
1、暴力を避けるための知識とスキルを与える。
2、暴力に巻き込まれている子どもに、助けの求め方を与える。
3、親と先生に、もっと子どもたちは保護されるべきだということを知ってもらう。

 このプログラムを学校で使うことについて、親の承諾を得て、得られた子どもに対してだけ行うとのこと。今では、このプログラムを75%の学校が取り入れている。始めは、「知らない人に声を掛けられたら」ということをいっていたが、知っている人からの暴力のほうが多いことに気がついて、変えた。先生たちは、始め親との関係が難しくなるということを心配しているむきもあったが、今では、「こんな難しいことをはじめてくれてありがとう」といってもらっている。

 小さい子には、身を守る方法を歌にしたものをテープに入れて聞かせたり、ビデオだったり、本にしたりして、先生たちが使いやすいように工夫している。
 このプログラムを実施すると何人かの子どもが虐待を受けていることを言いに来るようになった。先生に訴えたとしても、聞き取りは警察で行う。聞いた時点ですぐに、加害者から分ける処置をとる。例えば、親からだったら、祖父母のうちに預ける。適当なところが無い子どもは、CYF(前述)が、里親を紹介する。警察で聞き取るとき、メモをとらず、ビデオにとる。それが、裁判の時の証拠として採用される。

 警察署の職員が、このときには、女性一人、男性二人で、とても熱心に話してくれ、終わってからも、英語を聞き取れる人を探して、延々と話しまくっていた。警察が、こんなにも、このことに熱を入れているということに驚かされた。

=女性協議会=
 参政権運動の中心だったケイト・シェパードさんが設立した組織で、首都ウェリントンの静かな住宅街にそっと立っていました。1896年設立ですから110年の歴史です。歴代の凛とした代表女性の写真が、私たちを見下ろしていました。1893年に参政権が、1923年に被選挙権が、女性に与えられました。その結果、女性議員が誕生したのは、1933年。女性首相の誕生は、1993年です。実現に、いかに時間がかかるのかわかりましたね。

 私たちに応対してくれた前会長さんは、図書館の司書としてフルタイムで働いていて、その日は休みを取ってボランティアできてくださっていました。ココは、31都市に支部があり、39団体と協力関係にあって、子どもと家族にかかわる問題を中心に提案するということが主な活動です。
例えば、シートベルト着用規制は、7年間話し合って法制化できました。

 この組織は、全国の女性団体から上がってくる問題を整理して、提案の形にする。実は、これが日本にはないということが大きな問題だということが判明。
 1989年から人権委員会を中心に女性の社会参加の調査に協力しているが、民間企業管理職は4%、大学教授は17%、法律関係も17%、2010年までに政府関係の組織は、すべて50%にするというのが、女性省の方針だけど、結構厳しい現状もわかった感じでした。女性の医者が少ないと言うことも問題で、資格もちの女医が働けるようにすると言うのも一つの目標だとのこと。

 選挙制度が1996年に変わり、30%だった女性議員比率が2002年には37%になったので、選挙制度の影響はあると思う。でもその後2005年には、32%に下がってしまったのはどうしてなのかわからないとのこと。32%では少ないと皆さん不満のようでした。3年間大キャンペーンを張って、比例代表並立制に変えたのだそうです。


クライストチャーチの暴力防止プログラム
 ニュージーランドは、北島と南島と大きな島が二つあります。これまでは、北島のことでしたが、今度は南に移りました。クライストチャーチというイギリス風の大きな聖堂が建っている町で、加害者のプログラムを専門にやっているところにいきました。23年間活動を続けてきたNGOで、家裁からの依頼でいやいや加害者たちはnon viorennceプログラムを受けに来る。

 1995年にDV法ができてから、保護命令が出たあと、このプログラムを受けに来る。公費が出るには出るのだが、女子どもに対してより、対象が男性だというだけで、公費が出にくくなっている。被害者が男の場合、女の場合より迅速には取り上げられないということがあるとのことでした。

 加害者はここにくるとまず、1対1の面接を受け、どのコースで行くのかを判定される。かなり重度の人は、グループではなく1対1のカウンセリングにするのだが、それほどでもない人はグループカウンセリングを受ける。そこで、どちらのコースにするのか、グループの場合だったらそのグループがいいのかなどの判定をする。グループは、25人。年間20組。つまり年間500人がグループカウンセリングを受ける。1対1のカウンセリングは、100人ぐらいが受け、これは、心理の専門職が当たる。

 1回のコースは45時間。加害者は、93%が男性。ここの加害者プログラムは、男女共通。
 始めの5回で、お互いを知り合い、共有し合い、指摘しあう。変わろうとするものを阻むものはなにか?怒りは体にどういうサインを出させるか?などに気づく。6〜10回は、コミュニケーションを暴力以外でする方法を探す。11〜15回は、これからそれをどうやって使っていくのか、を探る。

 かなり厳しい内容ですね。それで脱落者が続出だそうです。25人だったのが、8人ぐらいになってしまうとか。電話で催促しても、引越していってしまったりするそうで、日本のように住民票で追いかけることができないのだそうです。

 このようなプログラムの成果は?という問いに対して、大学の研究者が調べたところ、成果ありと成果なしはどちらも20%。残りは揺らいでいると言うことでした。何もしなければ、ゼロだったのが、それでも20%もの人に成果が上がっているとすれば、それは凄いことだと思います。

性教育のやり方ーカトリック教会の学校で
 視察最後の日は、カトリック教会が建てた小中高の共学校にいきました。カトリック教徒の家族は98%で、残りの2%はノンクリスチャンの枠にして、改宗させてしまうと言うプログラムのようでした。10時ごろ学校につくと玄関にいたのは、高校の生徒。お茶の時間で、職員は休んでいる、その間生徒が代わりとのこと。その玄関の隣が校長室でした。校長さんが、渉外係といった感じで、私たちを迎えてくれ、校長室は、生徒たちの作品でにぎやかでした。この学校は、警察が作った暴力防止のプログラムをとりいれていて、性教育も行っているのですが、それらは、すべて、親の同意が必要です。校長が言うには、10年間で、一家族だけ拒否したとのこと。こういうことは、日本では考えられませんね。移民が増えて、宗教もたくさんになったら、これも必要になるのでしょう。

 この国の学校は、5歳の誕生日になったら、入学すると言うシステムで、算数と国語は習熟度別に進められています。通訳兼、コーディネーターの江頭さんとカメラマンの依田さん夫妻の息子さんが、5歳で小学生なのだけど、学校を休んで一緒に旅をしました。両親が仕事のときにはベビーシッターさんが預かります。1週間休んでも、遅れるということがないらしく、自分のペースでやっていくので、進みが遅くなると言う程度らしいのです。速く進んだ人は、どんどん上がっていくので、大学に入る年は、人によって違うと言うことみたい。

 江頭さんは通訳ははじめてだそうで、私たちが行くまで夜中まで予習をして準備を整えていたそうです。それでも、専門用語などが出てくるとわからなくなって、夫の依田さんが助け舟を出すこともありました。そんなときに依田さんは「ごめんね、口出しして」とあとで言ったのだそうで、メンバーの一人がそれを耳にし、すばらしい夫婦と言うことになったのでした。この夫妻のサポートで、かなりきつい視察が殆んど無事、稔り多いお土産を持って帰って来ることができました。

 南のスキー場でもあるクイーンズタウンは雪で飛行機が降りられず、他の空港に降りてバスで2時間半かけたために、あちらの女性議員さんとの交流ができなくなりました。その程度のトラブルだったのは、奇跡に近いことのようでした。
 翌日は、息子さん家族が土曜日ごとに参加している日本人の絵本の読み聞かせの会に私たちも参加させてもらいました。日本語を忘れないでいてほしいと言う親たちの思いがこめられたひとときを後に、帰国の途につきました。 終わり


女政のえん、第2回「赤松さんのトーク」
              2006,7,8   於 「花のえん」東京渋谷

 7月8日佐久平から、渋谷に向かいました。
 赤松さんの知り合いとして、私が、インタビューをするという形で話していただくことになっていました。だから、彼女の著作を復習してそれなりの筋を作っていきました。まず、私は「男みたい」といわれるのがとってもいやだったのだけど、赤松さんは、うれしかったというのはどうして?
 「あなたのところみたいな高貴なうちじゃなかったから、親が、自由放任だったのよ」
 「うちの父は絵描きで、口は下手だったから、議論すると母のほうが強かった」
 労働省に入ってからの話しになると一とうり話してから、
 「私は管理職が向いているのよ」

 25年ぐらいは下働きで、そのころは、いやなことが多かった。だから、憂さ晴らしに酒を飲んでいた。自分の作る荷物は、誰かがやり直してくれないと崩れてしまう。管理職になってからは、力が発揮できた。でも、均等法を作るときには、私がどんなに平等を望んでも、労働団体と使用者団体の賛成が得られなかったら法律にはならない。使用者団体からは、猛反対がおき、女性の賃金を男性並にしたら、日本の国際競争力が落ちる、などの内容で、声明を発表する、という声まででた。 

 その反対に女性団体からは、労働省の前に座り込んで、「もしもし亀よ」のメロディーにのせて赤松を攻撃する歌が歌われる。そういう中で、とにかく作っておいて、後でいいものに改正しようと説得に努め、やっとのことで乗り切った。大臣が理解しないときには、前に進めないが、大体1年ぐらいで内閣が入れ替わるから、1年の我慢で済んだ。など、オフレコだからこそ聞ける話も多かった。

 次世代育成のMLで活躍している方が、滋賀県からわざわざこられ、「均等法第一世代ですが、会社で、男並に働くことを要請されてもとても無理でした。この法律は使えないと思って、やめた。今回の次世代育成法は使えると思いました。」と発言。このMLで知ってこられた3人は、3人ともキャリアで仕事を続けることを辞めて、出産、育児を経て、子育て支援の地域活動にかかわっている方たちでした。

 子育て支援の仲間たちに政治のはなしをしようとすると、政治とわかったとたんに引かれてしまう。なんとかして、政治を話題にしていきたいと思って、やっとの思いで参加した方たちでした。その中の一人の方が、私のHPを見て、著書9冊を注文してこられ、これはこれは、どういうことになるのかと興味津々です。

 私のメルトモ山田正人さん(「ただいま育休中」の著者)の連れ合い西垣淳子さんが、夫の育休で世にでてこられた3番目の高志君(1才)をバギーに乗せてやってきた。「男並に仕事をさせられることになってしまうということについて話し合いはなさらなかったのでしょうか?」と質問を。答えは「とにかくできるかできないかだけが関心だった」です。
 赤松さん自身、子育てはものすごく大変で、44歳で自分を産んでくれた母は、大阪から子守りにきてくれたけど、体を壊し、ベビーシッターさんに来てもらったけど、それもうまくいかず、24時間の託児所にかなりの期間預けることになった、ということでした。

 心配された人数も、いっぱいいっぱいになり、冷房なしでは、とても無理状態でした。交通費、謝礼なしでのトーク、赤松さんも楽しんでくださったようでした。



「共に育つ」ーーそして、バックミンスター・フラー
            2006,7,8  長野県北御牧中学にて
        
 7月8日(土)長野新幹線佐久平駅に、大学の後輩にあたる藻谷さんが迎えにきてくださり、9:40からの講演でした。中学生145人、その親御さんたち70人ぐらいに、教職員さん達です。その日、その前に、保健師、自動車整備士、消防士、保育士など10人の方が村の中から選ばれて、分科会にわかれて職業の話をなさったあと、私の職業遍歴を紹介するということが学校側のおもな狙いでした。「共に育つ」という演題で、始めに私は、みなさんに手をあげていただきました。

1) 「女に生まれて損したと思う人」 ゼロ!
2) 「男に生まれた損したと思う人」 ゼロ!
3) 「男に生まれてよかったと思う人」 半分ぐらいの手が。
4) 「女に生まれてよかったと思う人」 その半分ぐらいが。

そこでもう一度、始めの二つの質問をしたら、1)には少し手が上がり、その半分ぐらいの手が、2)にもあがりました。4)には、お母さんたちがかなり手をあげていました。
 この現状はそれなりに興味があります。まだまだ中学生でも、女のほうが自分の性を歓迎できていないのですね。私は、女に生まれて損した、というところから、よかったと思えるようになるには、35年かかり、その間6人の子どもを生まなくてはならなかったということを話したのです。

 又、親御さんには、子どものためだという自信を持ってしつけをしている方と聴くとゼロです!多くの場合、しつけというのは、親の世間体なのでは?ということにかなりの方が納得されているようでした。学歴、成績、しつけをめぐる親子ののトラブル、その典型が、奈良での放火殺人ですね。それに対して、嘆願署名が出ているということを昨日帰ってきてから知りました。揺光が毎日新聞に書いた記事を織部さんが送ってくださって知りました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060708-00000107-mai-soci

 尊敬もしているお父さんに認められたくて、いい子を演じ続けてきた彼、のことを話し、今日は、家で、どうか、いいにくいことを親にぶつけてみて欲しい、親は怒るかもしれないけど、親子はお互いに選べないのだから、喧嘩になっても言わなくては通じないので、どうか勇気を持っていってみて欲しい、と結びました。生徒も、親も目を見開いて聞いてくれたことが、印象的でした。

 ところが、実は、それよりも驚いたのは、藻谷さんが、始まる前に彼女の建てたうちを見せてくださり、「バックミンスター・フラーの考えに基づいて建てた」といったことでした。「フラーが僕たちに話したこと」という本をねこみさんが紹介してくれて、とっても興味深く読んだのは、確か去年だったと思います。フラーは、数学、物理学、哲学、などから、世界観を説き起こし、とっても興味深い説を小学生3人に説き起こしているのです。まず、すべての地球上のものは、三角形なら安定するけど、四角形は、不安定。力を加えたら形が変わります。そこで、この藻谷さんのお家は、三角形を組み合わせて作ってあるのです。実は、外から見るだけしか時間がなかったので、今度はぜひ夫と中を見せていただくように出かけてみようと思っています。

 彼ら夫婦は、千葉からココに移住し、インターネットで仕事をしているので、住むところはどこでも関係が無いとのことで、子どもを塾に行かせたくないから移り住んだのだとのことでした。この地域は、長野県では珍しい水田の地域で、ずうっと昔の人たちが、溜池を作って水田に水を引いていたため、とってもおいしいコシヒカリが取れるのだそうです。


コスタリカからバルガス教授来日
     平和を語る講演・対話集会

                    2006,7,4   於、弁護士会館(霞ヶ関)

 その日は朝からテレビはずうっと北朝鮮漬けでした。東京にいって聞いてきたコスタリカと反対の国なんだと理解しました。コスタリカは、ご存知のように憲法で軍隊をもたないことにした世界でただ二つの国です。でも、実際に軍隊をもっていない国は、唯一つだけ。カルロス・バルガス国際法律大学教授が、コスタリカから来られてお話を伺いました。彼は、妻も子どももアメリカ人だそうです。コスタリカは、19世紀にすでに死刑を廃止したというもともと人権を大切にする国だった。1948年に軍隊を捨てた。そのお金を教育に向けた。中立を宣言し、アメリカが、隣のニカラグアに基地を作ろうとしたときにそれを拒否して諦めさせたと言います。彼が言うには、米州機構の中で、コスタリカがリーダーシップをとっているので、コスタリカとは、アメリカも対等な交渉をするとのこと。小学校に入学すると子どもたちは「誰でも愛される権利がある」ことを習う。小学生でも違憲訴訟が起こせる。今のところ最年少は、8歳の子どもだとのこと。

 日本の憲法があぶなくなってきたので、このカルロスさんは、自費で日本にきたとのこと。日本中を16日まで回って帰る。札幌にも行くそうです。

 沖縄戦体験者、東京大空襲体験者、広島のヒバクシャの3人が体験発表をされました。沖縄の方以外のお二人は、その体験を元に訴訟を起こしておられるかたでした。

 その日北朝鮮のニュースを見ながら、軍隊がなかったら、攻め込まれることはないはずなのに、と思いながら、「戦争には、勝ちも負けもない、あるのは殺人だけ」という言葉をかみ締めています。


河野美代子講演会ー性教育
                2006 6 29  於、札幌市北星学園女子部

 6月29日、萌実が教員としてつとめている札幌の北星学園女子部の講堂で、全校生徒1000人に河野さんの性教育の講演会がありました。千歳空港で河野さんと合流して、会場に向かいました。900人しか入れない講堂に椅子を持ち込んで、中1から、高3まで全校生徒が集まるのは、初めてのことだそうです。家庭科や、養護の先生たちが、河野さんの本の愛読者で、広島から河野さんが行くということを信じられない思いで、待っていてくださった結果なのです。

 そもそも、この北星という学校は、校長教頭を選挙で選ぶという稀有な学校です。今回はじめてあうこの4月になったばかりの校長は、教頭もしたことがない音楽の先生で、まだ慣れなくて、といっておられました。

 河野さんは、広島大学の付属病院でがん患者とであったところから命ということを考えさせられ、その後土屋病院で、出産をたくさん取り上げ、そのなかで、たくさんの望まない妊娠の女性と出会い、開業に至った経過を話されました。周囲からの反対で、結局中絶することになってしまう若い女性たちも、始めは殆んどが、産むというのだそうです。そうして、針の穴ほどの細い道を通ってとうとう出産にこぎつけて、夫婦が力をあわせて育てるケースも紹介され、息を呑みました。9割以上が、中絶ということになります。セックスをするとどのくらいの確率で妊娠になるか、など細かい数字があげられます。荻野式、皆さん聞いたことがあるでしょう?避妊についての「危険日」「安全日」。このうち危険日はいいけど、安全日はないそうです。そのために、私も、「身に覚えのないときに」妊娠したことがあるのでした。
 
 そして、かつての文部省が性教育用に作ったというビデオが20分間上映されました。今では、出産シーンを子どもに見せてはいけないというのが、文科省の主流だと言いますが、このビデオは、出産にいたる過程を科学的に説明して最後に赤ちゃんが生まれます。その瞬間の子どもたちの感動というのか、ショックというのか、大きな声が会場を包みました。全体としては、眠っていたり、私語をしていたりなのですが、このときばかりはおそらく全員が、緊張したのではないかしら?

 このビデオの製作者の名前の中には、平井信義さんの名前がありました。ニイル研究会の存在を私に教えてくださった医者から、教育者になって、子どもの主体性を重んじる本をたくさん出された方です。

 学校も、教育委員会も、文部省が作ったということで、クレームをつけられないから、といつも持ち歩いているとのことでした。その上映の時間を含めて、2時間彼女は話しつづけ、あなたたちが、親になったら、子どもたちにわかるように話してあげてね。と呼びかけていました。アダルトビデオが、若い男性たちの性教育を担っている危険についても話されました。翌日の診療のためそのまますぐにとんぼ返りされました。


滋賀で5人目の女性知事誕生      2006,7,2

 私は、色々な関係で、かださんの選挙にかかわりました。まずどこからきたのかわかりませんが、情報が入った段階でHPを見て、これはいける!と思ったところから始まりました。滋賀県名簿を岡村通男さんからいただき、電話掛けをはじめました。そこで、民主が、反対だというのに、武村正義さんが「僕はかだだ」といわれたと言うので、希望を見出し、どこにかけても反対される方は〇でした。WINWINにもお願いしましたが、赤松さんが個人的に琵琶湖ホールの館長さんだったので、そのつながりで、電話掛けをしてくださいました。

 私はかださんを直接は知りませんが、京都精華の同窓生たちが、かなりはまり込んでいました。私の娘(帆姿)もそのうちの一人です。夫も、漫画科の出身なので、イラストを担当していました。
 滋賀は、環境もさることながら、福祉という点でも大変な先進県です。色々なこれまでの流れが、ココに集まったのだと思います。それにしても、かつとしか考えていなかった自民公明民主推薦の現職が落選ですから、そちら陣営の落胆は大変なもののようです。
 
 ただ、千葉で堂本さんが大変な困難に突き当たっておられることがそのまま滋賀でかださんを待ち受けているはずなので先を思いやっているところです。堂本さんは、昨3日長い時間をかけて作ってきたしょうがい者差別禁止条例を廃案にされないために取り下げるという切ない選択をしたばかりでした。

 かださんの場合にも県議会対策が大変だろうということで、市民の方々が、すでに、県議会の傍聴を呼びかけて、県議会対策に取り組み始めたということです。まわりからも大いに応援したいですね。


戦争体験を語る     2006,6,24  於、夢草堂

 「戦争体験を語る」というタイトルの集まりが、6月24日(土)夢草堂で開かれました。この企画は、大和9条の会、からの持ち込みだったのですが、そもそもこの夢草堂には、「地域交流伝承館」という名前がついているぐらいですから、私たち運営委員にとっても願ったりもないこと。共催のような形で始まりました。話を提供してくれたのは、シベリア帰りで、しばらく共産党の町会議員をつとめていた関広次さんと、ケアハウス鈴懸入居者の星浅兄さんでした。

 星さんの話は、桐鈴凛々編集委員会でよく聞かせていただいて、委員一同、体が固まってしまう思いで聞きました。今回も、原稿を書いて来ての発言でしたが、実に迫力のある、筋の通った内容で、70人ぐらいの皆さんをすっかりとりこにしてしまいました。一緒にいた兵隊に敵の弾があたって、内臓がざくろのごとく飛び出し、陸に揚げられた魚のごとく痛みで七転八倒しながら「頭を撃ってくれ」と願われてもそうすることができず、30分後に息を引き取った。その人の死体の腕を肘から切り落として、リュックに入れて持ち帰った。そのようにして持ち帰った知人の腕は8本になった。「戦争は、考え方を誤った軍人と政治家が起こしたもので、これからは絶対そうさせてはならない」と力強く訴えたのでした。

 その後、会場からの発言。始めに手をあげて話したのは、21歳の女性。「私は、戦争のことを調べるHPを運営しています。すでに3000人の人が訪ねてくれました。薬物依存の15歳の男の子がいつも死にたいといっているので、死ということについて考えていて、戦争に行き着きました。」この女性は、大地塾がはじまったばかりの頃、小学校2年生で通ってきていたので、あまりの成長振りに昔を知っているすべての人が驚いてしまいました。

 9条の会の方たちのネットワークで集まってこられた方が多かったのだけど、新潟日報を見て六日町からきましたという方もありました。ケアハウス鈴懸、グループホーム桐の花の入居者の皆さんもかなり来られていました。

 8月26日(土)には、この続きのような「死ぬ前に言っておきたいこと」というテーマで、90歳の男性と女性一人ずつのお話を聞きます。


ニートひきこもり体験記 (その2)

 去年の12月16日、渡辺正志さんのニートひきこもり体験記を報告しましたね。今回は、私どもの地域伝承交流間夢草堂で、6月21日(水)開かれたものの報告です。

 以前ひきこもりをしていた子どもを持つ人、今もひきこもっているこのお母さん、登校拒否児たちと一緒に過ごす教育センターで働く人、民生委員、去年「メタセコイアの木下で」上映会の実行委員を一緒にした車椅子の方々、など多様な皆さんが20人ぐらい夜の7時半という遅い時間に集まりました。

 正志さんの話は淡々と、ひきこもってよかった、無駄なことは何もない、感謝感謝で暮らしている、と楽しげに話していましたが、親の話しになったとたん、「今の自分は、親に会うのは怖い、自分のペースを乱されそうな気がする、親の分まで背負いきれない、だから、今は入院を続けている親たちに会いにいかないでいる」と、これもさらりと言ってのけました。これを聞いたとき、そうだ、親子を反対にして考えたら、子どものことを考えて、「いい親」をしなくてはと格闘している親たちが、「もうこれ以上は面倒見切れない」といって、家を出て行ってしまったらどうなのだろう?そのほうがお互いに自分のことだけ考えることができて、すっきりするのかもしれない、と考えました。

 最近そんな話を聞いたばかりです。大学のときに卒業しないで、5年目ぶらぶらしていたら、一緒に住んでいた父親がいなくなってしまった。そうしたら自分で稼ぐしかなく、立ち直った。というのです。これも父親だからできたことで、母親にはなかなかできないことかもしれません。でも、25歳ぐらいを過ぎたら、親のほうが家をでてしまうということも考えてもいいかも知れない、と思ってしまいました。子どもがちょっと外へと気持ちを向けると、すぐに親は、期待を込めた目つきで見始めてしまいます。そんな親子の感情のやり取りに疲れてしまうんではないのかしら?

 絵本の読み聞かせをはじめ、水害ボラ、中越地震ボラ、国際大学の外国人留学生に日本語を教えるなど、たくさんのボランティア活動に忙しく動き回り、週3日の市役所臨時職員として給料を稼ぎ、益々たくましくなってきた正志さんをまぶしい思いで見とれていました。大吾さんの「こわれ者の祭典」の力も大きかったようですよ。

 魚沼市に住んでいる車椅子の山内君、障害者の溜まり場を作りたいとこの日も提案していました。すると魚沼市議の星野邦子さんが、うちの作業場を使ったらどうかしら?と提案、そんなことが実現するといいですね。山内君は、ご両親と3人で、この5月に仙台の山田富也さんを訪ねてきたそうです。去年上映会をした「メタセコイアの木の下で」を作った筋ジスの患者さんで、もう何年も寝たきり状態の富也さんと会えたそうです。何しろ、上映会実行委員会の会長さんだった山内さんですから。

 星野邦子さんは、正志さんの講演会をはじめてしたときに力になって下さったので、この日も、主催者並に活躍してくださいました。


歌のボランティアさん夢草堂に
       2006,6,5   社会福祉法人地域交流伝承館「夢草堂」にて

 私たちの社会福祉法人桐鈴会のオープンスペース「夢草堂」に、5日は歌とピアノのボラさんが3人来てくれました。歌は、わたしの歌の先生柳元子さん。グランドピアノに合わせてお年寄りのなつかしがるような曲ばかりたくさん歌ってくれました。皆さん口ずさみながら聞いていました。終わってから、リクウェストに「北国の春」があがったので、私は、中国東北部でのことを話しました。以前、夫の弟妹が引き上げの途中餓死しているので、その供養に行ったときのこと、長距離電車の中で、「病気の人がいる。医者がいたら助けて」という放送があり、卓夫がいって診察、薬を上げて帰ってきました。その後、放送で、「お礼に」といってこの歌が流されたのです。日本人にはこの歌っていう感じなんですね。その後訪れたデパートでも、この曲が流されていました。15年ぐらい前のことです。

 夢草堂はお寺を移築してきた建物なのですが、これが、とっても響きがよくて、3人のボラさんは「楽しかった。叉来たい」といってくれました。3人が着替えをしてお寺の中の阿弥陀様などに見入っているとき一人のお年よりが手押し車を引いて戻ってきました。この方は、ケアハウスから最近グループホームに移ってきた方で、認知症が少し進んできている方です。足元がおぼつかないので、必ず職員がついて歩いています。このときも、職員が一緒でした。「お礼が言いたくて来ました。すばらしかった。もしできたら、叉来てください」と涙をこぼしながら言うんです。この方は、いつも背筋をピンと伸ばして座っている方で、わがままっぽいことは言いません。その方が、職員に話してココまで一緒に来られたと言うことに私も、館長の広田さんもそして3人のボラさんも大変感動して叉ぜひ来たい、といって帰っていかれました。ちなみに、グランドピアノは最近ケアハウスに入居した方が寄付してくださったものです。

 今月は、この夢草堂での行事がたくさんあります。それらはすべて持ち込んでこられた企画です。そろそろオープンスペースとして市民権を得てきたようです。6月17日から7月2日まで「明日への伝言」(ヒロシマ、ナガサキ、アウシュビッツ)という小田島昇吉絵画展。地元の方です。

 6月21日(水)夜7:30〜、ひきこもり・ニート体験記。魚沼市、渡辺正志さん(38才)
 6月24日(土)1:30〜、「戦争体験を語る」関広次(シベリア抑留)、星浅兄
  星さんは、ケアハウスの入居者で、ずうっと会報の編集委員会で一緒でした。
  私たち編集委員は彼の体験記を身が固まってしまう思いで聴いてきました。


高次脳機能障害リハビリテーション講習会
           2006,6,4   於、 新潟市総合福祉会館

 1月から2ヶ月間私たちとともに暮らした高次脳機能しょうがい者,Iさんのことで、メール上でであった新潟脳外傷友の会スワンの会長石井祐子さんとのやり取りの中でこの日のことを知ったのでした。岐阜医療科学大学教授、阿部順子さん(臨床心理士)がかなり具体的に説明してくださいました。広田せつ子さんもいったので、目配せしあいながら笑ったのは、病識欠落、固執性、コミュニケーション障害、などです。母が殺されたことを裁判に訴える、ということに固執していて、それだけが生きがいになっているように思えたIさんでした。それについて、そんなことは不可能だといったところで絶対にそれは受け入れられないことのようでした。

 Iさんが、助けを求めてきたのは、私たちの社会福祉法人桐鈴会にだったのですが、そこの会報にヘルパーとしてかかわってくれた男性の手記が載っています。興味のある方には、その会報をお送りしますね。お申し出でください。


南魚沼市男女共同参画会議結成総会
                      於、南魚沼市民会館    2006,6,3

 まだ大和町だった頃から、細々と続けてきたこの動きが、こんな形で稔りつつある、ということは、それなりにうれしいことではあります。来賓として会場に現れた井口一郎市長に語りかけました。「子守唄協会に行ってきました」というと「西舘好子さんですね」というのです
!(5月30日「子守唄協会」参照)

 さて、総会が始まって市長挨拶になったら、こういいました。「今黒岩さんと話していたんだけど、子守唄協会の西舘好子さんが、ココでつい最近講演をしました。私は、いちばん前のそこの席で聞いていたんです。この市では、女性は幹部にいますか?と言われたので、一人もいません、というと、それはもったいない、女性のほうがずうっと働きますよ。というんです。言われて見たら、確かにうちでも、女房のほうが働くんですね。これからは、女性を幹部に登用できるようにその道をつけなくてはと考えています」といって大きな拍手を浴びたのでした。

 総会後記念講演にたった新潟県女性財団理事長の大島煦美子さんは、合計特殊出生率の話からはじめました。1,29が2年続いた後、ドカンと1,25に落ちたこと、どの新聞も一面トップで報じていましたね。その効果が、こんな風に現れたんですよ。毎日新聞の奈良支局にいる揺光が、近隣市長の記者会見で、色々質問する中で、その市長が、わたしの子育て本を読みたいと言ったのだそうです。子育てが楽しいという気持ちを持ってもらうには、有効と判断されたようで、早速取り揃えて支局に送りました。実際、私は、もし専業主婦だったら、こんなにたくさん産む気にはならなかったと思います。仕事をしながら、つまり息抜きをしながら育てたので、楽しむことができたのだと思うのです。

 勿論それも人によりますが、私の場合には、家にいて、子育てだけをする、というのでは、エネルギーが余っていたということかもしれません。昼間、保育所にお願いすることで、それ以外の時間でも充分に子育てを楽しめたと思っています。

 会場の人たちに参加してもらいながら話を進めて行く大島さんの語り口は、やっとの思いでその会場に来ている男性たちにも飲み込みやすい形でした。女性たちからは共感の笑顔や、うなずきがいっぱいあったようです。男らしさ、女らしさ、というテーマについても、「それを押し付けられたらかなわない人たち」の存在をだすことによって、飲み込みやすい形で、話されていました。

 市長さんも、時間の許す限り会場におられたし、教育長、議会議長などは、最後まで聞いていかれ、庁舎内での女性の登用に道を開かれることに期待したいと思います。

 この会議の主管は、生涯学習課で、来年、機構改革があるので、そのときには、内閣府のような、全課を統合できるような課にもって行くといっています。でも、さんざんお願いしてやっとこの4月から、専任の職員を配置したんですよ。

 会員は、今のところ80人。この日は、記念講演を聞きに来てくれた人を入れると100人ぐらいが、集まりました。まだまだこれからです。


日本子守唄協会        2006,5,30   於 浅草橋

 5月30日、東京の日本子守唄協会へいってきました。少し前、夫が長崎県の壱岐の島へ在宅医療ネットワークの集まりでいってきました。かなり興奮気味に帰ってきて、泊まった温泉宿のリーフレットを見せます。「平山旅館」、開けたら、そこには3人の女性が赤ちゃん4人を抱えて温泉に浸かっている!とっても珍しい写真でした。「露天風呂、子宝温泉、神功の湯」と書かれています。3人の女性の一人は、ここの旅館の女将、平山宏美さん、あとの二人は、その息子の連れ合いたち、そして赤ちゃんは、彼女の孫たち、その4人のうち二人は、男女の双子。

 「とっても行動的な女将で、色々やってるんだ。今度、東京で子守唄の集まりがあるそうだから、いけたらいって見るといい」といって見せられた文書の中に小林美智子さんと言う小児科の医者で長崎シーボルト大学の教授という方の新聞の連載があり、そこに書かれていることは、共感できるものでした。

 というわけで、この二人の方に会いに行って見よう、という単純な動機で、浅草橋のビルの2階にあNPO法人日本子守唄協会にいったのです。ここの法人の理事長が西舘好子さんだときいて、11年前の選挙を思い出しました。

 95年の参院選、私がはじめて堂本さんの伝で比例区に立候補し、千葉選挙区から立ったのが、西舘好子さんでした。「まあ!黒岩です」と言っても彼女は思い出しません。選挙のことを言ったら、やっと思い出したようでした。彼女の中では、すっかり過去のことになっているようで、その後井上ひさしさんとの夫婦関係を解消し、DVの研究に励みそこから、この法人を立ち上げたということでした。井上ひさしさんのDVについては、新聞などで報道され周知のこと。帰ってからHPを覗いてみるとかなりの活動をしてこられたようです。
http://www.komoriuta.jp/cover.html

 壱岐の島から昨夜ついたと言う平山宏美さんは、写真で見たとおりの女将で、彼女が、壱岐の島で24年間取り組んできた子ども劇場による地域の文化を子ども達にという活動と、子守唄協会とが協力し合って、来年壱岐の島で子守唄大会をしようという企画の相談会だったのです。彼女は自分で作っている有機野菜と、その加工品、それから、島で取れる魚介類などを空輸して、みなさんに手巻寿司をご馳走します。
うにのおいしかったこと!

 小林美智子さんは、ずうっと長野県の保健所で仕事をしていたので、黒岩卓夫のことをよく知っていて、私が行ったのをことのほか喜んでくださいました。

 子守唄協会のイベントで、子守唄を歌っている人が、原荘介さん!この方とは、日本アビリティーズ協会の集まりで知り合い、著作や、イベント情報など送ってくださっているという縁があり、ここで出会うとは!原さんもとっても驚いて、しかも、話してみたら、原さん、西舘さん、小林美智子さんが私と同じ66歳だったのでした。原荘介さんは、おととしのレコード大賞を取ったといっておられ、また加藤登紀子の先生でもあり、支援者でもあるということなので、その筋の方々の間では、よくしられている方なのでしょうね。

 原さんたちが歌っている子守唄のCDには、南魚沼の子守唄というのがあり、聞かせていただいたのですが、私は聞いたことが無いものでした。このCDを購入してきました。井口一郎市長も、これを聞いて感動して、このCDを購入されたそうです。

 カカトットの皆さんや、もえぎ園、社会福祉法人桐鈴会、やまと調剤薬局、の職場で、子育て中の職員が仕事を続けるのにどういうことが求められているのか、を探り、仕事と家庭の両立支援を目指すプロジェクト(ハッピーケアプロ)の皆さんにも、来年の壱岐の島でのイベントを知らせて、誘って見ようと考えているところです。


NPO富士山測候所を活用する会総会
       2006,5,26  於, 新宿アイランドウィング15F、クラブツーリズム

 富士山測候所を活用する会、がNPO法人をとり、その総会があって、26日に上京しました。ここに来ると、富士山のこともさることながら、大変興味深い話が聞けるというところが魅力です。

 まずは、総会後のシンポジウムで、測候所を建設した大成建設の伊藤庄助さんの話は、迫力満点でした。以前プロジェクトXで人気を博したということでした。何しろすべてのことが初めてという環境の中で進むわけですから、すべてが実験、したがって冒険、ということなのですね。酸素濃度が低いということで、金属がさびるということを心配しなくていいので、今の測候所は、このまま100年はもつということだそうです。明治時代に立てられたものを解体したときに、80年たっていたのに、釘が1本もさびていなかったということでした。

 今回もまた、静岡大学の増沢武弘教授(植物生態学)の話しに聞きほれました。
 アンデスの4500メートルぐらいの所にとっても珍しい植物プヤライモンディーというものがあり、それの研究で何回も通っている。この植物は、100年に一回花を咲かせるといわれており、アメリカでは、センチュリープラントとも言われている。パイナップル科で、アロエのような葉っぱ。ものすごく丈が高くなるが、木ではなく、草。場所は、ペルー。ボリビアからのほうが行くには近い。

 そこには、これが群生しているので、1本だけ切る許可を欲しいとペルー政府に申し入れていたけど、アメリカもイタリアも断られ続けるなか、去年日本にだけ許可が下りた。理由はどうやら、日本だけが、共同研究ということで、現地の研究者との協力関係がうまくいっているからでは?と増沢さん。ほかは、お金は出すけど、研究成果は、全部持っていってしまうだけで、共同研究にならないという。日本の「根回し」がここでは、充分に効果を発揮して、去年切り倒した。とっても固くてのこぎりでは、切れない。チェーンソーで切って見たら、直径10センチぐらいの幹(といっていいのかな?)の中には、砂糖が詰まっていた。根っこは、どんなに頑丈なのかと思ったら、何にもなく、あっけないものだったという。はっぱは、アロエのような形で、これもチェーンソーでなくては切れない固さだった。

 4000メートルといえば、もう殆んど植物は生息しないと思っていたのに、そんな大きな固いものがきれいな黄色の花として100年目に咲くというのは、なんとも不可思議な生命体ですね。

 山登りを続けている織部さんによれば、富士山の頂上にあのような人工物があるのは、景観上もよろしくないので、この際取り壊した方がいいというお考えで、その方に管理していただいているHP上で、このようなことを報告するのは忍びないのですが、私の友人の土器屋由紀子さんは、命をかけてこのことに取り組んでいます。今年も、彼女と8月12,13日富士山に登ってくるつもりです


原子力発電発電所について
        ーーー映画「六ヶ所村ラプソディー」を見てーーーー2006,5,25

 「ヒバクシャ」、というタイトルのドキュメンタリーを制作した鎌仲ひとみさんが、最近作ったばかりのドキュメンタリーが、この「六ヶ所村ラプソディー」です。「ヒバクシャ」と二つが、このところ新潟県内を上映会としてまわっているのを知り、長岡まで見に行ってきました。

 六ヶ所村は、皆さんがご存知のとおり、世界中の原発のゴミがたまってきているところで、昔、萌実が学生の頃、バイクでいってきたりしたところ。わたしは行ったことがありません。ただ、とても興味があったのは、大学のかなり後輩にあたる人が、ある電機メーカーで、原子炉の設計をしていたとき、「安全性は?」と聞くと「全く心配なしです」と応えたのですが、その後、六ヶ所村を見学に行ってその恐ろしさを目の当たりにしたといって、会社勤めを辞めてしまったということがありました。

地下を掘って、かなり下の方にゴミを埋めた後、その上をガラスで固めているということでした。そのぐらい危険なものを世界中から集めているところで、更に、その中から、プルトニュウムを取り出して、プルサーマルというやり方でもう一度原発を動かすというのが、今なされていること。この映画では、2007年から稼動するとなっていましたが、解説した主催者の話では、この4月から、稼動し始め、4月一月間ですでに2回の事故がおきているという話でした。プルトニュウムというのは、ものすごく半減期が長く、また小量で大変な威力を発揮する危険度が高いものだということで、ここが世界で初めて取り組むことになった場所だそうでした。

 「まだまにあうなら」(柏樹社)という本が、20年ぶりで再発行されました。これについては、「感動した本」の部屋にアップしました。そこに、わたしの原発についての考えも書きました。


「ベアテの贈りもの」ジュネーブ上映会
                      2006.5.12.13  於、ジュネーブ大学講堂

 5月9日の朝7:06浦佐発で出かけることになっていました。ところが、5月8日に私の母が心筋梗塞で、無呼吸状態になってしまい、一端は、ジュネーブに行かないという選択をしました。

 ところが、なんとも不思議な成り行きでした。8日の夜、すべてキャンセルするつもりでした。でも夜は7時までしか航空券のキャンセルはできなかったのです。母のベットの下で眠った私は、夜中にピーピーという機械音で目覚めました。母が、たくさんの管をつけたままポータブルトイレに腰掛けているのです。心電図用の管が1本外れたためになっていた音でした。寝る前には、職員さんと二人で、抱き起こして用を足していたのに、そのときには、誰の手も借りずに用を足したのです。そして朝4時半までぐっすり眠ってしまいました。

 一人で、用を足せるぐらいよくなったなら、私が泊まりこむことも不要なのでは?と思い始めたら、航空券のキャンセルができていないことを思い出し、母に話すと「行けばいいじゃないの」といとも簡単にいいます。私が行かないということは、ジュネーブでは、上映会の後、質疑という時間を設けているのをどうするんだろう?考え始めると行った方がいいに決まっている。職員も、昨日とは打って変わって元気になった母の姿に、大丈夫、行って来れば?ということになり、出掛けに夫に話して、駅まで送ってもらって出発しました。

 ジュネーブ空港で、出迎えてくれた友人たち二人は、涙ながらに抱き合って喜んでくれました。BPWというビジネス・プロフェッショナル、ウーマン、というヨーロッパ全域でのNGOのジュネーブ支部が、上映会の主催団体。その会員向に通訳つきで、10日に私が、スピーチ。30人ぐらいのキャリアーウーマンに話しました。「ベアテの贈りもの」ができるいきさつや、中身、叉、文科大臣賞を受賞したこと、バックラッシュの動きなどを夕食後、10時からという時間帯にもかかわらず、どんどん質問が出て、11時過ぎまでやり取りが続きました。日本人は、友人の栗崎さんと、ピチエ亮さんの二人だけです。この方達とは、去年レマン湖畔にあるシュレーブ山に登った仲間だし、栗埼さんのお宅に泊めていただいて、語り合った仲間でもあります。イラク戦争反対の意見広告で知り合ったのが、栗崎さんでした。
 
 「早く見てみたいわ」と言ってくれる人もあって、一応の成果があがりました。11日は、記者会見を設定していました。日本のマスメディアは、読売だけで、後は、国連の重要な記者会見があるので、ということで、毎日、朝日は来ず。現地のテレビ局が、興味をもって終わってから、取材され、スイスのイタリア語圏へ流すテレビでした。(ご存知の方も多いと思いますが、スイスは、フランス語圏、ドイツ語圏、と3つに別れています。ジュネーブは、フランス語圏)どんな番組になったかはわかりません。通訳の方は、私が話すと一つのセンテンスごとにフランス語に訳して下さいます。その間に次にはなすことを考えられるので、とってもありがたいことでした。

 上映会は、12日(金)13日(土)の夜8:00から。ジュネーブ大学の講堂で行われました。チケットが売れないとぼやき続けてきた主催者からの言葉とは裏腹に、300人の会場に200人ずつぐらいが埋まりました。
 上映前に日本からのジュネーブ総領事、軍縮大使のご挨拶があり、お二人ともご夫妻で来られていました。13日には、更に、日本政府代表部ジュネーブ駐在大使も夫妻で来られました。

 上映後に質問を受けるのが私の役目。二日とも、どんどん質問が出て、10時半ごろまで質疑が続きました。日本でのバックラッシュの動きを話したら、「日本には伝統や、英知が存在する、それなのにどうして、マスコミたちがそういう動きを抑えられないのか」という実にまっとうな意見が出たり、「小泉政権は、この男女平等には、どんな取り組みをしているのか」というので、首相は、猪口邦子さんを特命大臣に任命してくれた。でも、ポスト小泉といわれている安倍晋三さんが、それにブレーキをかけるために政務次官に山谷えり子を送り込んだ。という情勢を話す。「天皇には女性がなれないというのは本当か」というので、これまでの女系、女性天皇論議が、次男のところで、懐妊したら、議論が止まっていると話すと皆さん大笑い。「それって憲法違反にならないのか?」というので、「天皇は、国民ではないので、憲法違反にはならない」と応えると、これも、日本人を先頭に笑っていました。

 日本人が、かなり遠くからきてくれていました。日本から私のほかに3人。モロッコ、ミラノ、ウィーン、ミュンヘン、スイス国内でも、チューリッヒ、ベルンなどから。チューリッヒでは、9月に上映するという朗報をお土産に持ってきました。「この映画は、日本でよりも、外国でしたほうが価値がある」という人がいて、帰ってきてから、聞いてみたら、すでにフランス語、ドイツ語にも訳されているといいます。ジュネーブは、国連機関がたくさんあるのでこの日も、WHO,ILOなどの職員が、外国人も含めてかなりきていました。政府代表部の藤崎大使が、手をあげて質問「アメリカに行ったら、アファーマティブアクションということで、大学などにも、入学の枠を黒人のためにとっていた。日本では、そういうアクションはないのか?」と。「政府の方がそう言ってくださるのはとっても心強い。今のところ政府の審議会などでの女性の数を2017年までに30%にする、というのがある程度。私も、割り当て制にして欲しいと考えている」と結びました。

 13日には、夜の11時過ぎから打ち上げ会。各地からきた日本人20人ぐらいの中に、スイス人が二人。一人は主催団体の代表キャシー、もう一人は、今回の上映会のための3ヶ国語入りのチラシを作ってくれた日本人女性の同居人で、労働組合の活動家。私の通訳をしてくださった方は、日本人女性で、スペイン人と結婚して、スイス在住の方。この方とは、行く前に原稿を送って、それについて色々調べて、私の本も読んでくださったり準備万端、だから、はじめに出会ったとき、「原稿を読むのではなく、話し言葉でやってください。一センテンスごとに訳していきます。」といっていただき、とても気が楽になりました。両方の言葉がわかる人たちが、とってもいい通訳、といってくださり、私も頼り切ってはなすことができました。全くのボランティアで、4日間付き合ってくださったのです。彼女は、通訳でいる限り、女性として差別を受けた覚えが無い上、通訳は女性の方が、ありがたいといわれているので、もし通訳をしていなかったら、きっと見に来ることはないだろうとのことでしたが、そういう方にこそ見てほしいと思いました。

 スイスというと永世中立国で、平和、というイメージを持っておられる方もあるかと思います。2年前にはじめて訪れたときに、栗崎さんが、それは、表看板だけよ。中身は、ひどいのよ。と付け加えていました。小国が生き残るには、中立とすることによって、攻めて来ないで、ということだと。軍隊はちゃんともっていて、徴兵制です。昔揺光の同級生だったフィリップも軍隊上がりです。

 叉、一番の産業は、時計つくりですが、「傭兵」というのも、「輸出産業」です。バチカンは、スイスの傭兵を雇っているんですね。
 叉、驚いたのは、スイスの女性参政権は、25年前からです。1981年です。ドイツ語圏はとっても保守的なのだといっていました。なんでも直接投票で決めるのですから、大変なことです。だから、スイスの人たちは、ベアテの映画を見て一様に「日本はすばらしい!」といったそうです。

 二日にわたる上映会の翌日は日曜日でした。その日、日本人12人(各地から集まってきた)で、電車で北に向かって1時間半走り、時計工場の見学、ということでした。ココまで行く電車の中からの景色は、実にすばらしく、レマン湖に沿って走ると向こう側にモンブランや、マッターホルンが見えます。湖がなくなったと思うと叉別の湖が登場。3つ目の湖まで行くと、景色が全然違います。山が見えず、高原という感じになります。山国スイスというのは、ある一部のスイスに過ぎないことがわかります。芸者、お侍、などと言われて、いやな思いをした日本人がたくさんあるそうですが、逆に日本人にとってのスイスというのは、「アルプスの少女」で理解してしまっているところがあります。広い国土には、いろいろなところがあると感じながら車窓を見つめていました。

 現地に着き、レストランで食事をしながら、時計工場の女性社長さんと交流しました。50歳で、起業し、今60歳ということですが、女性向けのものだけを作り、更に、その人だけの特化したものをつくっているのです。したがってものすごく高い!でも、それが、全世界にはばたいているのだそうです。ココで作られたはさみ、ナイフ、爪きりなどの小物がつまった携帯用の「道具」が、全員にプレゼントされました。登山電車で小高い岡に登り、案内された所は、工場とは程遠い、普通のお家でした。そこで、お茶をご馳走になり、製品を見せていただきましたが、だれも買う人はないまま、レンタカーに乗ってかなり時間をかけて、作っているところに案内されました。工場というのは、実は、一軒一軒のお家なのです。マニファクチャーという言葉を思い出しました。下請けに出されたところで、個人が手作業で、作っているのです!高いわけです。

 でも、子どもを育て上げてから仕事をはじめるという女性が、こんな風にして活躍しておられるということを知ることができて、勇気付けられました。この社長さんもベアテの上映会を主催したBPW(ビジネス、プロフェッショナル、ウーマン)の会員だというつながりで、今回の見学ツアーが実現したのだそうです。彼女は小さいときから日本に行くことが夢だったそうで、日本のことが書かれた本はかなり読んだといってました。日本人でも、スイスにあこがれる人がありますが、小さなものを正確に作って行くという民族性が似ているのかも知れませんね。

 栗崎さんと知り合ったいきさつをご紹介しましょう。イラク戦争に反対する意見広告をあるMLで呼びかけたら、「10万円送ります」とメールが来ました。ところが、翌日「今振り込んできましたが、もしかしたら1万だったかもしれません。確かめてください」とのメール。本当に1万円だったので、「もしできるこのなら後の9万をお送りいただけるとうれしいです」とメール。そのことに感激して、すぐに9万を送ってくださった上、以来色々とメールの交換をして、すっかり意気投合してしまったのでした。オランダにいる揺光を尋ねた折にジュネーブの彼女を訪ねたら、ピチエ亮さんと知り合いました。亮さんは、スイス人ピチエさんと結婚して、二人の子持ち、電通と繋がりあって、色々なイベントのサポートをしています。

 今回の上映会は、栗崎さんと亮さんの絶妙なコンビで、繰り広げられた国際的なイベントでした。疲れて倒れこむかと思いきや、今度は、ベアテさんを呼ぶ!と張り切っています。

  『マルクスの香りをかぎつつ散策す、巨大噴水レマン湖ほとり』

  『マロニエの咲き誇る街ジュネーブで、日本女性の足跡映し出すスクリーン』

  『ジュネーブは異なる人種が交差する、あまたの国人つなぐわが友』

  『若き日々没頭せりし「エミール」のルソー生きてたレマン湖畔に』


おもちゃ美術館        
               2006年4月29日(土)  

 中野から1キロぐらいの所にあるおもちゃ美術館。これは、ちぎり絵展の青木照代さんのボランティアとして一緒にきた二人の若い女性たちの勤務先です。障害をもつ子どもたちが「おもちゃライブラリー」を頼りにしていることを知っていたので、そことのつながりがあるというおもちゃ美術館を「とっても小さくて驚きますよ」と言われて、見にいったのです。確かにワンフロア-は狭いこと間違いなし。でも、4階までおもちゃがびっちり並んでいるのです。これは多田千尋さんとその父の親子2代で収集したコレクションで、この何倍ものおもちゃが倉庫に眠っているとのこと。

 世界中のおもちゃがあることあること。1986年にヨーロッパに行ったときにフランクフルトのおもちゃデパートで買ってきて、保育所の子どもたちが大喜びをして、とうとう壊してしまったカタカタ人形や奄美大島で買ってきたへび、これは、アダンのはっぱで編んだものですが、指をへびの口に入れて引っ張ると抜けなくなるというもので、私は、ほかのもので作ってもたりして、保育園でかなり遊びこんだものでした。

 おもちゃを作るコーナーがあり、何処かからきた修学旅行生がそろそろ帰るところ。つくられたものを見ると、つくりたくなるようなものばかり。みたことないものがたくさんでした。おもちゃ病院のコーナーもあり、治してくれる人を養成して、週に何回か、病院を開いている。

 IFは、ショップです。帰りにへびを孫に買ってきました。

 ここの職員の寺橋さんは、鈴懸から私の著書を買って帰り、それを読んで、こんなメールが来ました。

>実は、私の勤めている芸術教育研究所(http://www.toy-art.co.jp/)の多田千尋所長ととても似ています(そのパワーに負けないよう、日々過ごしています)。

 寺橋さんからのこのメールに誘われて訪ねたのですが、多田千尋さんは、新潟県には何回も来たということで、共通の知り合いがたくさんで、今度は、浦佐を訪ねてくださるそうで、楽しみに待つことにします。グッドトイ展を全国で展開しておられます。


「ダブルシフト」上映会
                 2006,4,23  於、長岡市立劇場大ホール

 2月はじめに長岡で実行委員会の初会合をしてから、すでに5回ぐらいの会合を重ねてきました。スウェーデン映画「ダブルシフト」は、男性の育児休暇がテーマのコメディータッチの映画です。若い女性監督の講演付きのため、経費だけで50万という大金でした。チケットがなかなか売れず、5日前の状況では、赤字覚悟でした。

 電動車椅子の人が見たいということで、長岡市、森市長、市立劇場皆さんに呼びかけてなんとか車椅子の方にも見ていただこうということで、交渉した結果、大ホールが開いているから、そちらを使ってください、ということになったのが、上映5日前でした。実行委員長の羽賀友信さんと、長岡市国際文化課長の女性が往復3時間かけて我が家を訪ねてくださり、決着を見たのでした。そのおかげで3人の車椅子の方が見てくださり、長岡市としては、市立劇場の建て替えの優先順位を上げるということになりました。

 様々なドキュメンタリー映画を作り、数々の受賞もしてこられた小林茂さんが、ダブルシフトの上映をしてくださいました。小ホールの予定だったので、DVDが送られてきています。小ホールが急遽大ホールになったために、小林茂さんは、それこそ悪戦苦闘だったのです。前夜は寝る時間がなかったそうです。DVDでは、遠くから映したのでは、画面がきれいにならないということなのです。これも急遽その日の朝、新潟から、茂さんの知り合いの新潟映研の和田豊治さんに頼み込み、機材を持ち込んでいただくことで、乗り切ったのでした。そのおかげで、上映会は大成功。午前も午後も、思いのほかたくさんの方がおいでくださり、皆さんが感動して帰っていかれました。何しろ、黒字になったのですから、たいしたものです。私は、今までこういうイベントをして赤字になったことは一度もなかったのですが、今度ばかりは赤字を覚悟していたのにです!10数人の実行委員の方々が死に物狂いでチケット販売をしてくださった結果です。新聞社の協力もありました。県内各地から見に来られていました。

 午前の上映中に長岡に到着した監督さん、映画終了後に挨拶をして、会場からの質問に答えて、色々話してくださり、これが結構面白かったのです。はじめにマイクを持った方は、自分で育休をとったことがあるという若い男性でした。「映画の中では、男のほうが子育てに向いていると言っていましたが、日本では、子育ては女性のほうが向いているといわれています。どうしてなのでしょうか?」などたくさんの質問に答えて、また、その人から感想も聞いたりして監督も楽しんでいました。この男性は、自ら育休を取ったことがあるという方で、監督さん「日本に来てはじめてであった育休男性です」とのこと。何しろ2日前に日本にきたばかり、まだ時差ぼけ最中でした。

 午後は、上映の前に監督が30分話をすることになっていて、9年間スウェーデンに住んでいたことがある福本歌子さんがスウェーデン語の通訳をしてくれました。ところがこういうことは初めてという37歳の若い監督さん。時間の配分がうまくなく、予定の半分はなしたところで時間になってしまい、それでは、終わった後この続きをして質疑もしもしょうということになったのです。ところがです。終わっても、観光に行った監督が帰ってきません。仕方ないので、深くお詫びをして皆さんに帰っていただきました。帰っていく方々を見送っていたら、戻ってきた監督さん、ごめんなさいを繰り返していましたが、質問したい人が取り囲んで、心ゆくまで話し合っていました。と言っても最後の10人ぐらいの方だけなので、多くのかたは、ただ残念ということになってしまいました。北欧の方は、のんびりしていて、映画が終わっても待っていると思ったのでしょうか、一緒に行った日本人の方(この映画の版権を取った方で、日本語字幕を作った方)がせかしても、のんびりだったのだそうです。私が司会者としてうまく時間を持たせるなどの対応をすべきだったのでしょう。反省させられました。

帰ってきたら、子育て中の方からこんなメールが届きました。

> 映画は笑いあり、グッと涙ぐむことあり、色々な思いで見ました。
残念ながら、私に半葉強引な誘いで見た夫は、ずっとふてくされたまま・・・・。とても感想を話し合う状態ではなく、ましてや、監督に質問したい気持ちもあった私ですが、隣の夫のイヤーなオーラに、質問を諦めました。

 こんな夫婦ですが、帰宅してからは、夫は<子煩悩>に変身し、公園で遊び、夕方不機嫌な長男にも、我慢強く接し午前と、午後とでは、まるで別人格!! 口には出さないけど、子どもとのかかわりに映画が影響したのかな?

 ママ友ならぬ、パパ友が出来るところは、素直に(いいなー)と感じました。父と子の触れ合いはあっても、それを同じ立場で共感したり、情報交換するパパ友がいないうちの夫。

 時に妻の愚痴を言い合いながら、子どものことを話し合える男同士ていうのもこれからの日本の課題かな・・・・。
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 かと思うと、銀行の支店長さんは、「あれを見てとっても怖くて男に育休はとらせられないと思いました。それに、家などでは、長い休暇を一人が取るというのは無理なので会社独自の7日間の休暇を取らせる次世代育成プランを作ることになっています」とのこと。
危ないというのは、妻に、「明日から仕事にでるから、あなた育休を取ってね」といわれて赤ちゃんを託されるのですが、小さなタクシー会社では、それが言い出せず、助手席に赤ちゃんを乗せて、客を運ぶんですから、その姿を妻の母親に見付かりそうになって慌てて逃げようとしてほかの車にぶつかったりするのですから。

 帰りがけに「僕は絶対育休をとろうと思います」と宣言する若い男性や、「夫に取らせたい、夫に見せたかった」という若い女性など、様々な結果を皆さんの心に届けられたのではないかしら?

 この日、皆さんに配った資料がとってもすばらしく、高校の先生が作ったとは思えないような、「教える」感じがしない内容の濃い日本の現状を浮かび上がらせられるもので、皆さんとっても喜んでくださいました。この資料に、協賛してくださった企業のコマーシャルを入れるという形で、 赤字の回避が行われたこともご報告しましょう。長岡の実行委員の皆さんは、こういうことになれた方ばかりで、本当に心強く、5回ぐらい長岡通いをしましたが、いつもとっても楽しく、最後の打ち上げの5月25日を今からたのしみにしています。



パ-キンソン病のリハビリのためのちぎり絵展と作者のトーク
                                2006,4,16〜23 於、夢草堂

 私たちの社会福祉法人桐鈴会のグループホーム桐の花に隣接してお寺を移築してきた地域交流伝承館夢草堂で、展覧会を催しました。それに先立ち、初日の日曜日、パーキンソン病患者であるちぎり絵の作者青木照代さんと、その支援者和田行男さんのトークを企画しました。青木照代さんはこの町の出身で、現在東京在住。夫と二人暮しの49歳。

 青木照代さんとその支援者3人が前日到着。15日(土)はいつものようにこちらのメンバーの手作り料理で、4時からの交流会が盛り上がりました。パーキンソン病の青木さんの現状は、パーキンソン特有の薬が2時間しか持たず、その間だけは体が動くのだそうです。1日24時間で、12回も飲んだら強すぎるので、夜中は、省く、そうすると体が動かないので、体位交換に人手がいります。それを毎日やっているのは夫君。それが余り大変なので、照代さんの弟春男さんが、浦佐から上京して時々変わってあげるのです。そうすると、夫君はとにかくずうっと眠り続けているということです。いかに寝不足状態で生活しているかということでしょう。

 ところが、その夫君が骨折して2週間入院した時、なんとか工夫をして夜中は一人で過ごしたのだそうです。支援者の和田行男さんによると「恵まれた環境の中で生きてきた人なので、考えが甘い。はじめてであったときには、自分ほど不幸な人はいないと思い込んで、死にたい、離婚したい、というので、死ねばいい、離婚すればいいとうなづいていたら、最後には、難病リハビリのデイサービスに来る気になって、年寄りしかいないところへ、40代の人が来たので、80代のおばあさんが、『あんたみたいに若い人が、こんな病気になっても一生懸命生きている、そのすがたにはげまされた』と言ったのです。すると照代さんは、それに対して『私こそ、そんな年の方が一生懸命生きている姿に励まされました』といったそうで、それからどんどん元気になったということでした。

 翌日の講演会では、青木照代さんは、原稿を書いてきてそれを読んだのですが、これが大変な迫力で、涙をぬぐいながらの人が大部分です。お母さんが毎日負ぶって小学校に通ってくれたことなどを感謝し、「親を恨んではいけない」といってくれた担任の先生に感謝し、・・・・と感謝から話ははじまりました。
 小児麻痺によってびっこを引き引き歩いたために腰痛になったり、結婚してからは、卵巣膿腫の手術を2回、そして、とうとうパーキンソンに。大変なことばかりが彼女を襲いました。パーキンソンが診断されるまでに3年かかりました。小児麻痺があるために、診断ができにくかったそうです。その3年間は全くの寝たきり、「死にたい」を繰り返していたのです。

 第2部は、青木さんが、和田さんを呼び、和田さんはまずこう言いました。「ちょっと聞きたいのですが、自分のことは人にしてもらいなさいといってそだてられた人」と聞くと誰も手をあげない。「自分のことは自分でしなさい」といわれた人、といわれて殆んどが挙手。「そんな人がみんな年をとるとしょうがい者になるんですよ」

 照代さんのお母さん、弟さん、お姉さんとその子どもたち、孫たち、照代さんの夫君のお母さん、担任の先生、小学校からの同級生、東京のパーキンソン友の会の方7人、小出の友の会の方3人、そんな方々を前に話すというのは、照代さんにとってはとってもうれしいことだったようで、それだけに緊張も大きかったことでしょう。でも、皆さん感動して、終わっても帰らない。作品を買う人がいっぱいで、2日間で、26,000円もの売上でした。

 ケアハウスを作った大元は、鈴木要吉,ひろ子夫妻から資金と450坪の土地が提供されたためでした。鈴木夫妻はケアハウスの隣に住んでいます。ケアハウスの反対の隣にできたのが、グループホームと夢草堂。夢草堂で今までにも色々な行事をしてきましたが、要吉さんが顔を出されることはあってもひろ子さんは、顔を見せたことがありませんでした。私は、今回はひろ子さんにきていただきたくて、お願いしました。あなたと同じように車椅子で生活している青木照代さんは、あなたがきたらとっても喜ぶと思う。と話したのです。ひろ子さんは、リュウマチ、脳梗塞などで、かなり体が不自由です。要吉さんが、家事は殆んどやっておられます。

 そのひろ子さんが、前夜の交流会に一人で電動車椅子にのってこられたのです。これには、みんなこちらのメンバーが、「何年ぶり!」と歓迎しました。中でも照代さんが感激して、隣に座って、二人の写真をとってもらいました。ひろ子さんも涙ながらに交流をしていかれました。16日に講演会が終わると新潟日報の取材を受け、(その記事は、19日中越版に大きく載りました。)その後4人は帰っていきました。

 東京から来た「パーキンソン友の会」の方々7人は、日帰りでは疲れるので、16日泊めて欲しいといわれ、鈴懸のショートステイと、18日入居することになっている空き部屋にわかれて雑魚寝することになりました。そのうちの一人の方は、かなり高齢で、椅子に座っているとどんどん頭が下がってきて膝に頭がついてしまっていました。何人かの方が講演会の途中でそれを気にして「眠ってしまって、倒れるのでは?」と私にいってきてくださったのですが、大丈夫、と成り行きに任せていました。そうしたら、なんと、それは眠っていたのではなく、そういう姿勢の方なのだそうで、食事もそのスタイルのママ取られるのだそうです。

 さてその御一行様が、夕食後タクシーを呼んで、カラオケバーに繰り出したと言うのです!運転してきたなり高齢の男性も、一緒に飲みたかったからのようです。帰ってきたのは10時半だということ。それからお風呂に入ってみんなでねたとのこと。よく眠れたそうで、代表の松本さんだけがよく寝られなくて大変だったというのですが、ほかの人たちは、「これからゆっくり寝ていくんだから心配要らない」と情け容赦なしでした。そして帰りには、食べたコシヒカリがおいしかったからとそれを売っている米屋さんから取り寄せて、総量50キロをお土産を積んでいき、更にしんこ餅も皆さんがお土産に買っていったのでした。

 朝、その方たちを見送りにいって、また色々インタビューをしました。「2時間しか持たない薬ってなんていうの?」「20も30も種類があって、どれっていえない」どれも、不随意運動が副作用としてある。頭の手術をすれば治る。医者は、100%の確率で治ると言うが、それは、不随意運動のことだけを見ているからで、体全体を見ると50%程度だ。その手術で、全く頭が動いていない方に聞くと、手術の結果手足がしびれるようになったので、してよかったとは思えない。のだそうです。

 見ただけではわからないいろいろなことがあるというのに、どのかたもみんなとっても元気で、私たちを励ましてくださいました。

 4月19日の新潟日報中越版に大きく写真入で載ったためにその日から見学者がぐっと増えました。ところが、その日の朝、照代さんが入院してしまいました。命をかけて話をしてくださったと思っていました。
 ところが20日夕方、和田さんから電話。「照代さんの脊髄にばい菌が入ってそのばい菌を調べるために手術するといわれ、これ以上痛い思いはしたくないと言ってこのまま死んだ方がいいと頑張って長引いたのですが、和田さんの説得でやっと20日夕方手術を受け入れた。夫婦を描いたちぎり絵を送って欲しいと言う電話だったのです。危篤状態なので、弟さんがすぐに上京するというので、その絵を持って、走りこんで、浦佐の駅のホームで、絵を手渡すことができました。

 夜中の手術が成功して、菌を取り出し、膿を出したら後は良くなるだけということが翌朝わかりホッとしました。と言っても2〜3ヶ月の入院とのこと。こちらに来られたときにも、腰が痛いといっていつもよりたくさんの鎮痛剤を卓夫に頼んでいたのでした。作品の製造日をよく見たら、3月末から4月はじめにかけて、1日に色紙を3枚も作っているんです。この展覧会にむけてどんなに無理をしたかそのことだけでもわかります。

 22日、お見舞いに行った照代さんの弟と母ミネさんが帰ってこられ、夢草堂に報告にきてくださいました。その話しによると、和田行男さんが、「あなたにはげまされてきた人たちがたくさんいる。その人たちは、あなたがそんなことで死んじゃったら、どんなにがっかりするだろう。」ということで説得に当たったということでした。麻酔が切れて、鎮痛剤も、そんなにたくさん打てないので、切れたときには痛みで大変らしいということでした。

 3月26日、上京したので、青木照代さんのお見舞いに東大病院にいきました。ココは、青春の香りのするところです。

 電話で手術後の声を聞いていたので、すっかり元気になっているのかと思っていたのですが、そうではなくて、まだまだ大変そうでした。まず、取り出したばい菌をまだ特定できていない。おなかにも膿がたまっているので、その手術をしなくてはならない。不整脈があるので、心臓にも問題がある、などなど。まだいたみがあるらしく、笑ったりするのは、押さえ気味。

 夫君が、「このまま死んだ方がいい」という彼女に「君の大事な絵をかけなくなるよ」と言った。本当は「僕と生きていこう。君なしでは生きていけない」といって欲しかった。和田さんは、「全国の皆さんが君にはげませれてきた。そんなことでは、みんながどんなにがっかりするだろう。」というような説得をしたらしいのです。実際、ちぎり絵展の感想として「励まされた」と書いた人がとってもたくさんでした。

 東大病院は、大地塾で人気を博していた広田さんの娘、愛さんの勤務先です。愛さんは、東京選挙でも来てくれていたので、美春さんも知っているとのこと。この日は、愛さんには会えませんでした。でもきっと今ごろ、照代さんのところにいってくれているのではないかしら?愛さんは、中学、高校を飛ばして、大検をとって看護学校に行き、その後、東大医学部の保健学科に編入、東大病院外科の看護婦となっています。照代さんは、ベットがなくて皮膚科に入院、だから、私が行ったときの看護婦さんに広田愛さんと聞いてもわかりませんでした。
 照代さんの回復を祈りつつ・・・・。

 社会福祉法人桐鈴会の会報「桐鈴凛々」48号の原稿をいただいた二人の文から、その後の様子などを汲み取ってください。

 わが故郷へ、ちぎり絵から愛をこめて
       ――青木照代ちぎり絵展。講演会に寄せて――2006,5,22
                                    <夫 黒岩卓夫>

 青木照代さんのちぎり絵展が、4月16日、夢草堂でオープンした。その記念講演を青木さんの相談役でもある和田行男さんとのデゥエットのような形で進行することになっていた。パーキンソン病のリハビリの一環としてちぎり絵に挑戦して今日にいたったお話ぐらいを予想していた。

 講演が始まった。夢草堂にあふれるように集まった人たちに真正面から、書いてきた原稿を大きなはっきりした声で語りかけるように読み上げた。私は、彼女の講演の内容をここで紹介するよりも、彼女がどんな気持ちでこの日のために準備し、何を訴えようとしたのか、その心意気に感動したことを書きたいと思う。
 まず、小児麻痺で足の不自由だった自分を、雨や吹雪の中を背負って学校や病院へ必死になって連れて行ってくれた母に「お母さんありがとう」と礼を述べた。私は、この冒頭の下りから、想像していたより遥に心の深いところから、49年生きてきた自分のすべてをぶつける語り口であることがわかった。

 ついで、足の不自由なことから母をうらむなと教えてくれた小学校の先生にお礼を述べた。老いた母親も、先生も、この席の片隅で静かに耳を傾けていたのである。私はこのあたりから涙をこらえることができなくなっていた。彼女の話は上体を漕ぐように揺らしながら、淡々と続けられた。
 パーキンソン病の診断が三年間もつかなかったこと。家で落ち込んで寝ているときの夫や友人たちのこと。そしてついに東大病院で診断がつき、薬の効き目に感謝したことなど、実に率直で具体的な語りは、私たちを魅了し、感動させ、話が終わったときの拍手は鳴り止まなかった。みんな何物かに憑かれたように青木照代の人生に取り込まれてしまったのだと思う。

 今から5年ぐらい前だろうか、照代さんのお母さん(私の患者さんで岡村ミネさん)が小さなちぎり絵を、私にと持ってきてくれた。りんごを真二つに割ったシンプルなものだったが、りんごの芯にある種が実に新鮮に見えた。私は一目でこのちぎり絵が気に入り、その後大きな絵をもえぎ園として譲っていただくことになった。こうした交流を深めていく中で、この展覧会が実現する運びとなった。
 照代さんは24歳で結婚して東京へ出てから25年、故郷の肉親や先生、同級生に自分のたどってきた道程をはじめて報告し、心情を披露したかったのだと思う。それは、誰しも抱く、自分を生まれ育ててくれた故郷への感謝の儀礼でもあったと思う。

 彼女のこの舞台で、どうしても必要だった聞き手はすべて揃っていた。肉親、友人、同級生、先生、東京と地元の患者会のメンバー、そして関心のある人たちであった。そして彼女を取り巻く人たちの多いことに驚いた。これも彼女が障害をもっており、その障害をしっかり見つめ、多くの人たちに助けを求めながら、ひたすらに生きてきたことへの共感からではないだろうか。
 青木照代さんのお話が終わり、拍手の波が静かに引いていくとき、夢草堂に飾られたすべてのちぎり絵が、急にきらきらと輝くように見えてきたのも、私だけではないと思う。
 青木照代さんありがとう。


 いのち架ける
                    <東京グループホーム連絡会代表 和田行男> 

  「わださん、もういいでしょ。死んでもいいでしょ」
 魚沼で彼女の人生をかけたメッセージを聞いて4日後、飲み会に出かける途中で電話を受けた。彼女とは、ちぎり絵作家 青木照代 49歳。
  「どないしたんや」
  「もう耐えなくていいでしょ。楽になってもいいでしょ。楽にさせて」
 彼女は、魚沼へ出発する前から体中に激痛がはしる状態だったようで、魚沼から戻って受診すると、とんでもない状態だった。
  「このままにしておくと3日の命です。早急に手術を」と告げられたのだ。
 駆けつけると、どうやら脊髄に何やら悪いものが入ったようで、それを調べるために必要な手術を拒んでいたのだ。旦那さんは「少しでも可能性に賭けてやりたい」と切に願うが、断固として受け付けない。魚沼から親族もこちらに駆けつけてきているようだ。
 医師から話を聞くと、「手術をしたとしても原因がつかめるかどうかはわからない」と言われた。
 僕は「全身障害で動けなくなる可能性もあるのか」と問うと「そうだ」と。
 彼女にとって動けなくなることは死よりもつらいこと。そのことは旦那さんも僕も十二分にわかっている。
 さらに「全身に障害が出て動けなくなっても、喋ることはできるか」と医師に問うと「その可能性は高い」と聞き、なぜか安心した。
 続けて「判断する時間の猶予はどのくらいあるのか」と問うと「ない」と告げられた。
 自分に何ができるかわからないが「やってみます」と自信をもって彼女の元へ引き返した。
  「俺はどっちでもいいと思う。このまま死んでいくのもいいやろ、それもあなたの人生」
  「そうよね、私の人生だものね」
  「ここまで支えてくれた旦那さんは、少しでも可能性に賭けたいと言ってくれてるで」
  「・・・・」
 いろいろ話すも、いつの間にか自分の自信はどこかに消え失せた。自分のなかに、このまま死なせてやりたいと、弱音がよぎったのだ。
  「な、手術を受けよ」
 握手を求めるも彼女は拒む。所詮僕は他人。彼女の痛みや苦しみなんてわかりっこないことは百も承知している。
  「私の人生なんていいこと何にもなかったわ」
 僕自身の中に芽生えつつあった弱音を、彼女のこのひとことが吹き飛ばした。
  「何言ってるんや、パーキンソンになってたくさんの人に出会えたこと、あんなに喜んでいたやないか。あんたをここまで支えてくれた旦那さんにも会えたし、俺にだって会えたやろ。それでもそんこと思いながら死んでいくんか」
 泣けた。涙があふれてきた。どれほどの時間、どんな会話をしたか全く思い出せない。こんな話をしたかどうかも憶測で書いているが、最期に「人生何もいいことなんかなかった」と思いながら死んでいこうとする彼女の心に食い下がったように思う。
  「な、また可能性にかけよ。あのときのように投げやらないで可能性にかけてみよ」
 必死に激痛に耐えながら、震える体を押さえ込みながら最期の闘いに挑む彼女になすすべもなく、ただ心に食らいつくしかできない無力さに悔しさがこみ上げるが、僕も負けられない。
 もいちど「受けるか」って握手を求めると、しばらく間を置いて握手に応じてくれたのだ。
 あの時とは、8年前、自分ほど不幸な人間はいないと逃げ回っていた頃、僕に出会い、人生を投げないで必死に生きる生活障害をおった年寄りたちに出会い、ちぎり絵に出会い、たくさんの仲間に出会い、自分を心底支えてくれている旦那さんに感謝できる心に出会い、生き返った時のこと。
  「これで安心して飲み会に行けるわ」そう言い残して引き上げたが、全身にアルコールが回りきった飲み会になった。
 翌々日、電話が鳴った。笑っている。声が弾んでいる。げんきんなもんである。
 彼女は未来に命を架けた。何が待ち受けているかわからない未来だが、命を架けた。
彼女と旦那さんの闘いは、まだまだ続く。僕は二日酔いが続く・・・ハハハ


土井たか子トークー(女政のえん) 第1回
              2006,4,8  於、有機の食卓「花のえん」(東京都渋谷)

 去年、私のトークをしていただいたご縁で、女性と政治を語り合い、そのネットワークを広げていくことをめざして、「女政のえん」を定期的に開催することにしました。その第一回が、8日(土)3時半からの土井たか子さんのトークでした。30人の定員だったので、早くに満杯なり、かなりの方をお断りしなくてはなりませんでした。6時までの第一部は、コーヒーブレイクを間に入れて、土井さんのトーク。6時半からの第二部は、花のえんの有機野菜を主体とした夕食をとりながら聞きに来た方たちのトーク。殆んどの人が、何らかの活動をしている人たちでした。

 土井さんには、始めから質問をしながら話していただきました。
 「自分が女性だということをどう思っておられるか?」私が女性でなかったら、党首になることも、議長になることもなかったでしょう。崖っぷちにたったときだけ女性を活用する。全てなりたくてなったものはない。
 党首になるときには、成田委員長から、朝に夕に電話が来る。男性から、そんなに頻繁に電話をもらったことはないので、(と笑わせて)引き受けた。「女に委員長をさせるほど社会党は落ちぶれていない」という声があり、3ヶ月、6ヶ月、1年、といわれていたが、結局5年することになった。政務(外務委員会に長く在籍)ばかりで、党務を知らない私が、党務をはじめたので、女性というよりは、何事も風変わりと見られていた。

 小泉さんが首相になる前の街頭演説で、「自民党の抵抗勢力はぶっ壊す」と言っていたが驚いた。人権の根幹をなすものが抵抗権である。それをぶっ壊したら、民主主義ではない。
 小泉チルドレンは、みんなイエスマン、お気に入りばかり。それに対して、土井チルドレンといわれてきた人たちは、みんな私の抵抗勢力。私のことを書いた本で、一番いいとおもっているのは、保坂展人のもの。これは、かなり厳しい批判が載っている。私の後援会の機関紙「ふくろう」はいつも、批判と提言ばかり。自民党の女性が「これが機関紙?厳しいですね」といったほど。私も、はじめてみるときはいい気持ちはしない。
 司会の大海(おおがい)さんは、「土井さんも人間だってわかって安心しました」と。
 土井チルドレンといわれる人たちをリクルートするには、日頃の活動を見ていて、候補者を探していた。そういう活動をしている人は女性が多いから、女性候補が多くなる。

 労組については、労組と関係ない人であっても、労組の票をあてにしないと勝てなかったり、労組には、色々やってもらってきた。でも、いうべきことはキチンといっていかなくてはならないと思っている。

 女性が増えなくてはだめだと考えているので、クオータ制を敷くことがいいのだが、政党で取り入れることは簡単にできる。労組が、殆んど民主党にいったので、社民党は比例区を5対5にすることもあった。

 憲法は、その前文において、よく変えることは認められているけど、悪く変えることは認められていない。とのことだったので、帰ってくるなり前文を読んで見ました。はじめの段落の最後に「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」とあるのです。
 それだから、自民党の改憲案が、「自民党新憲法草案」となっていて、改憲草案となっていないということなのでしょう。土井さんがそう言っておられました。

 土井さんのフランクな飾らない生の姿と接することができて皆さんが満足されたし、土井さんも、皆さんの声を聞くことができて、それもかなり強力な支持の声が聞けて、うれしかったにちがいないと思います。インターネットで社民党に入党できるようにしてください、そうしたらすぐに入党します。なんていう人がいましたから。また、母が土井さんのファンで、よく見てきてっていわれたと言う人など。

 土井さんて笑うこともあるんですね。って言われるのだそうです。テレビでは、常に怒っている顔しか出ないとか。でも昨日は、終始笑顔で、気さくなおばさんでした。かの有名な五島さん(元秘書、でも、実は今も秘書)がこういってました。「土井さんはいつもアパートに住み、車を持ったことなく、質素に暮らしてきました」父が医者だけど、医者にはかかったことがない。歯医者と、最近腕を骨折して整形外科にかかったのみ、とのこと。
 まだまだお元気でした。

今後の予定

 第2回  7月 8日(土) 赤松良子さん
 第3回
 10月14日(土) 三木睦子さん



カカトット(子育て支援の会)スタート
                                  2006,4,7〜

 4月7日カカトットという名前の子育て支援の会がスタートしました。
 南魚沼市の男女共同参画準備会の代表を務めていた鈴木智子さん(桐鈴会の評議員でもあり、夢草堂の運営委員でもあります。)が呼びかけて、公民館の和室で、初めての集まりがありました。「15日に発行される市報に載るので、今日は、殆んど来ないと思う」というのが、鈴木智子さんから聞かされていたことでした。ところが、私が行ったときには、すでに数人の母子、それも、殆んどが0歳の赤ちゃん連れ。最後には、9組の母子が集まりました。こんなに赤ちゃんがいる光景は、壮観でした。

 昨日、公民館がやっている子育て支援の集まりがあって、そこで、公民館の人が話してくれたら、皆さん誘い合わせてやってきたというのです。それだけ、こういうところが必要とされているということなのでしょう。
 公民館の事業は、月1ぐらいなのだそうです。広い市内を公平に回っていくので、一箇所では、月1になってしまうそうです。カカトットは、週2回午前10時から12時です。

 専業主婦の人、育児休暇中の人、二人の子どもづれも2人ありました。昔登校拒否をして大地塾に来ていた人もいて、なんと彼女は10代ですでに第一子を生み、その子は保育園に行っているので、下の赤ちゃんだけを連れてきていました。一日中赤ちゃんと二人で過ごすことは耐えがたい、誰かと繋がりたい、というのが、共通の意識です。

 カカトット(かかとととということで、かかが先というのが、とも子さんのポリシー)は、こちらからは、何も働きかけない、"親子が自由に交流する"というのが趣旨です。
 と言っても色々な話題が飛び交います。家のすぐ前の小学校の教員で、育休中の方は、「去年出産がわかっていたので、担任をはずしてくれました。それはうれしかったのだけど、担任として緊張感を持ってやっているほうが、生きがいがありました。育休も、子どもといられるのはうれしいけど、なんだか置いていかれてしまうのでは?というあせりもあって複雑です」といっていました。

 こういう話しになるといつも思うのです。休みがとりやすいということは、その人でなくても、誰でも代替がきくということ。つまりそれだけやりがいはないということ。休みがとりにくいということは、それだけ仕事のやり甲斐があるということ。ドッチを選ぶかということになりますね。子育て卒業組みが3人、親子の様子を見て楽しんでいたのですが、その中の一人はこう言っていました。「何か資格をとって置けばよかったって悔やんでいるの。やりがいのある仕事なんてないんだもの」ずうっと専業主婦として子育てをしてきた方です。

 卒業組みも、最中組みも、みな一家族100円、お茶菓子代として払うというシステムも若い頃我が家を会場にして「100円の会」をやっていたことを懐かしく思い出しました。



高次脳機能しょうがい者
   Iさんとのかかわり
(その2) 
 2006,3,20
                            (その1)2006,1,17

 2月9日に退院してきた恵子さん。東京都M町に居たときには、一月136時間のヘルパーを頼んでいたというのに、去年11月23日にボランティアさんに車で送ってきてもらって、ホテルを点々としていた間、ホテルのボーイさんをヘルパーとして活用していたらしく、支援費は全然使わずにやってきた恵子さん(59才)の生活力たるや大変なものです!M町に居たら殺されるといって逃げてきたのです。何の保障もないところにこうやって来てしまうのも高次脳機能障のなせる業なのでしょう。

 入院前に入っていた浦佐駅前のホテルに、今度は、月ぎめでアパートのように暮らすことになったということを訴えて、東京の住民票がある町に支援費を使うことを了承してもらったのが、私の友人の広田せつ子さん。確かに支援費は、介護保険と違って、全国どこでも使える制度です。

 自薦ヘルパーってご存知?このことを知らない福祉関係者が多いと遁所さん(無年金障害者で、裁判の原告。新潟市にある自立生活センターの副代表)が言ったとせつ子さんから聞きました。

 自薦ヘルパーというのは、ヘルパーの資格がなくても、受ける側が、この人がいいと言ったとき、特別な講習を受けてなるヘルパーのこと。遁所さんは何人もの自薦ヘルパーに支えられてCILの副代表として活躍されています。恵子さんが、ヘルパーをこの人と指定するとM町では「わがまま」と言われてしまったりしていたようなのです。

 今回遁所さんに聞いたら、支援費のヘルパーは全国どこでも使えるけど、支援費用のヘルパーステーションとして登録してなくてはだめという事で、私たちの社会福祉法人桐鈴会のヘルパーステーションは高齢者のみなので、支援費の申請を出さなくてはならないことがわかったのです。申請を出してから2週間はかかるといわれ、とっても2週間は待てないね、といっていたら、遁所さんから救いの手が!

 申請が受理されるまで、新潟市の自立生活センター(CIL)の登録ヘルパーとしてせつ子さんが登録すれば、それでやれる、と遁所さんからメールが来ました。スワット連絡したら、なんと、2日後に新潟市からCILの職員が来てくれるというのです!15日に職員が来てくれて、恵子さんとも契約を結び、登録ヘルパーとして広田さんともう一人男性を登録して、早速起動し始めました。

 「90歳の誕生会」でご紹介した清水スイコさんの誕生会にも恵子さんが参加し、周りの人たちに気を使いながら、お皿を回したり、スイ子さん作の漬物を一人一人に盛ったりと使える手で参加していました。これで恵子さんのお茶会は3回目ですが、これまでは、自分のことがはなしたいばっかりで、時々私に制止されたりしていたのですが、今回は、ヘルパーが認められて心にゆとりができたのでしょう。こんな楽しい時間を過ごせるなんて、何年ぶり、といいながらせつ子さんに送られて帰っていき、たくさんの買い物をしてホテルの1室に戻ったそうです。人の幸せが一緒に喜べるというのは、かなり心が回復してきたという指標だとおもいます。

 一日中掛け続けているケータイが、2台壊れてしまって、せつ子さんと隣町のドコモに買いにいきました。2時間かかって買い終わったら「本当は、AUが買いたい」というのだそうです。ドコモならポイントがたまっていて、ただなのだけど、AUだと2万するよ。と説得して終わったというのです。「せつ子さんのおかげで一日で買い物が終わった」と喜んだそうです。高次脳の障害のためなのかどうかはわかりませんが、このような恵子さんと平和に付き合えるというのは、せつ子さんの特技だと思っています。

 3月14日、かかわり始めて丁度2ヶ月にして、彼女を住民票のある東京都のはずれのM町に送っていって、この地でのかかわりは一応終わりとなりました。一応というのは、まだ度々電話がかかってくるので、去年の11月がそうだったようにまた、彼女が突然この地にきてしまうかもしれないという可能性を否定しきれないからです。

 2月9日に退院してきて(彼女が入院を希望していたので、広田さんの夫を主治医として、六日町病院に3週間入してもらって、その間に、色々と動き回って調査しました。その間だけは、何しろ3食ご飯が出てくるというメリットがありました。月ぎめで借りたホテルでは、食事は出ないので、殆んど3食カップめんでの生活でした。

 高次脳機能障害というものが、どれだけ大変なものなのかということを入り口までたどり着けたかと言う感じがしています。彼女の場合は、12年前に階段から落ちて、数日意識不明だったということで、入院中にMRIを取ってもらったら、典型的な高次脳機能障害で、前頭葉が壊れていたということです。それを見たリハビリ科の医者がいうには、こういう人は一人で暮らすことは無理。だそうで、と言っても、子どもや、弟に縁をキラレ、5年前にお母さんがなくなってからはずうっと一人暮らしだったのです。

 新潟県にも、高次脳機能しょうがい者友の会というのがあって、遁所さんの紹介で、連絡してみました。その方は、夫が数年前に事故で、怪我をして以来だということでした。やっぱり、新しいことは、自分にとって都合がいいことだけしか、頭に入っていかないのだそうです。私たちは、Aかな?Bかな?・・・・と色々推測して、それぞれに対策を立てます。でも、それって結構大変な脳の作用を必要とするのですね。そこで、この障害をもつ人はどうするかというと、予想できる事柄の中で、自分に一番好都合な事柄をそうなると決めて、事を運びます。例えば、彼女の場合には、自分のお母さんが、行政によって殺された、という裁判を起こそうとしています。その結果、2000万を要求し、少なくとも500万は入ると見込んでいます。生活保護をもらうとその後に、多額の収入があった場合返さなくてはならないそうで、それがいやだからといって生活保護を受けません。障害年金8万ぐらいの生活なので、都営住宅の1万円を払ったほかに、こちらにいれば、ホテル代を払って、どんどんお金がなくなっていきます。

 また、自分も、いじめられて、命からがら逃げてきたといっていて、だから、住民票がある東京のM町に自分の住所は教えられない、というので、行政と電話でやり取りしたのですが、彼女が課長とならば話すというので、課長が電話してきて話しました。「そちらには帰らない。ここの住所はいえない」と言ったので、3月までは、特例として支援費を出していたけど、4月以後、行方不明人として扱うので、支援費は出せない。といわれてしまったのです。そういう行政に対して批判することは容易です。でもそれでは、4月から本当に命にかかわります。

 更に、自分の住所を教えることをせず、M町の郵便局に郵便物を局留めにしているため、現況届けのハガキを出せば、4月からもしょうがい者年金をもらえるのだけど、彼女ががここに居る限りそのはがきが届かないシステムにしてしまっているのです。そのために、ここに居る限りしょうがい者年金ももらえないことになるのです。

 彼女が生きがいにしている裁判なのですが、どう考えても、成り立つ裁判ではなさそうで、私があるとき、裁判の協力はできない、と告げました。その日彼女はパニックに陥り、翌日ヘルパーとして尋ねた広田さんを「秩子さんとグル」ということで追い返してしまったのです。でも、またその翌日から落ち込んで、「裁判を支援してもらえないなら、ここに居てもしょうがないわ。住民票があるところに帰ろうかしら?」ともいいだします。

 結論的に、彼女が生きていくには、M町に帰るしかないということになり送っていったのです。息子が結婚するときに、母親と手を切るという条件をつけられ、弟とも、両親の遺産を巡って対立し、親戚一同みんな手を引き、一人だけ、従兄が、ここまで会いに来てくれて、私たちとも話しました。恵子さんとかかわるのなら離婚、と配偶者からいわれた人もあるそうで、親戚はすべて、こりごり状態になっています。

 以前、スズランさんのことでたくさんの力を貸していただいた栗田さんは、精神科のソーシャルワーカーがかかわるしかないのでは?ということなので、今、M町付近の人にそこら辺を頼んで、引継ぎができたらと取組中です。

 広田さん作成の行政へのお願いの文章をM町の行政に渡してきたのですが、なんと、今日で5日になるというのに、行政は、誰も訊ねてこないと言うことです。全く独りぼっちになってしまっている恵子さん、でもこれまでもそうしてきたように旺盛な生活力で、携帯電話だけを頼りに人の力を借りながら、何とか生きていくということになるのか、ここで改めて、生きてくということはどういうことなのか、考え続けていきたいと思っています。

 かかわるなといい続けてきた夫に聞いてみました。「もし、ある日突然もえぎ園の玄関に高次脳機能障害の人がおいていかれて、助けを求めてきたらあなたはどうするの?」「それは、事情をよく聞いて判断するよ」何だそれなら私と同じじゃない。私だって事情を良く聞いて、判断するのに2ヶ月かかったのよ。ということでした。


沖縄報告
                         2006,3,4〜8

 私の敬愛する富山光枝さんの福祉施設の開所パーティーに近々沖縄に移住することになっている小泉邦恵さんと二人で出かけました。私は新潟空港から、小泉邦恵さんは羽田から、3時ごろに那覇空港につきました。迎えに出てくださったのは、学生運動仲間だった宮地文子さん。沖縄県立看護大学の地域看護の教授です。2年前まで埼玉県立大学の学長をしていたのですが、出会ってみると、45年前の学生そのままの姿でした。以前、卓夫が、大和病院にいたとき、宮地さんが見学に来られて出された名刺に「教授」と書いたあったのが、おかしくて噴出してしまったと卓夫が言っていました。「あのかわいこちゃんが、教授?」と。当時、東大医学部衛生看護学科というのは、女子だけのクラスで、学内では、相当差別されていたそうですが、この20年ぐらい、高齢社会に伴って、医療看護の分野で、学長になる資格がある人は限られているようで、多くの方々が、大活躍されているのです。

 ホンの1時間足らずで、富山さんの弟の連れ合いのお母さんが大阪から来られて、それを迎えに来たその方の孫の車で平安座(へんざ)島に向かいます。それまでの間空港のレストランで、昔の思い出話に花が咲き、最後の夜は、宮地さんの単身赴任先に泊めていただくことを約束して別れました。

 平安座島というのは、沖縄本島与勝半島から海中道路という名前の長い橋がかかっている島です。そこに平安卿という名前のデイサービスと老人アパートを中心とした富山光枝さんの夢を実現する施設が開設されるのです。そこに着くと、三角屋根の上は、草がはえているという、かなり個性的な建物でした。夏、冷房を使わないですごせるようにという工夫が、その草屋根(背の高い芝という感じ)です。富山さんの相棒で、この施設の事務局長をすることになっている東浜光雄さんが、私に「明日・・・」といって何かを依頼されました。私は、「え?、お食事?」と聞き返すと「お祝辞です」と言うではありませんか。いかに意地汚いか、この聞き間違いでわかりますね。大笑いでした。

 よく朝早く目覚めて、散歩に出かけ、平安卿の前から隣の浜比嘉島まで橋を渡って、歩いて帰ってきましが、帰り道で見た平安卿は、屋根の緑がとっても映えていました。さて、翌日の「オショクジ」で、富山さんと知り合った経過から、私の家族全員がお世話になっただけではなく、富山さんは、たくさんの方の命を救ってきた方で、いまも、そこにおられる小泉邦恵さんは病気を抱えて、富山さんに命を託して近々こちらに移住して来ることになっています。地元の皆さんも、富山さんは、すべての方をありのまま受け入れて楽しい人生に変えてしまう方ですから、先ほどの祝辞の方は自分は入りたくないとおっしゃいましたが、どうか、お入りになってみてください。と結びました。

 その後、施設長として話をした富山さんは、「人の悲しさ、喜び、寂しさ、苦しみなどをたくさん体験してきました。みんなそれらをそのままもってこられるような施設にしたい。ここの施設の《売り》はスタッフです」といいました。そのスタッフのうち二人は、宇洋の新潟市での結婚式(2005、10,1)に参加する富山さん、東浜さんと一緒にここに来て、結婚式当日はここにおいていかれて、もえぎ園で、研修をしていたのでした。その若いお二人が、実にこまめに動き回っていました。富山さんも、「凄いよ、これしてね、って言っただけで、完璧なものができてくるんだから」と言っていました。

 このパーティで乾杯の音頭を取ったのが、京都西陣で在宅医療に取り組んでいる永原宏道さん。この方の診療所の職員が、がんの末期を沖縄で過ごしたいという事で、富山さんに預けました。最後に2時間富山さんに語り続けた後眠り込んで、翌朝亡くなっていた、という事実がありました。永原さんは、それ以来、富山さんに傾倒し続けています。

 この施設には、夢作りリハビリクラブというのがあって、その一つに「海学校クラブ」というのがあります。それは、昔猟師だったり、海女だったりした人たちが、もう海にはいけないと悲しがっているそうで、この施設のオーナーである富山さんの弟さん(薬局経営)が300万で購入した漁船で、海を体験するコースです。パーティが余韻を残して終わりに近付くと、弟さんが、誘ってくださって、私一人のためにボートを出してくださいました。運転手は、富山さんの従弟。原子力艦隊が停泊しているホワイトビーチを遠くから見て、深さ10メートルまできれいに見えてしまう透明度の高い津堅島まで行って帰ってきました。そのとき遠くに見える島を「神の島」だと教えていただきました。3日後に小泉さんが、奇跡を期待して、この神の島に船で渡ることになるとは、そのときには、予想していませんでした。

 この夢作りリハビリクラブの中で、光っているのは、「一日ぼんやりクラブ」です。私が大地塾をしていたときに、「ここは何かしなきゃいけないところなの?」と登校拒否の子どもに聞かれて、以来「今日は何する?」と聞くことをやめたのでした。

 地元の方たちがたくさん参加されて、たくさんのお花の鉢や生け花に囲まれたとても暖かなパーティーが終わりました。

 ハンセン病療養所「愛楽園」

 6日は、沖縄本島北部へ連れて行っていただきました。私がレンタカーを借りて運転していくつもりだったのだけど、小泉さんの不安げな様子に、富山さんが助け舟。「海学校クラブ」の船長さんで従弟の高屋充さんを運転手として派遣してくださいました。東京でトラックの運転をしていたと言うだけあって、実に安定感のある運転です。高速道路を使わずに北部の屋我地島にある愛楽園にいきました。10年ぐらい前に行った長島愛生園にこの3月末に娘たち全員行くことになっていて、そこの方からもよく愛楽園の話が出ていたので、2001年のハンセン病裁判の勝訴後「控訴断念」を訴える街頭行動でも一緒に行動したこともあって、ぜひ一度行ってみたいと思っていたところです。富山さんの知り合いの入所者に、紹介状を渡したところ、全くの突然だったにもかかわらず、職員が、案内して回ってくださいました。現在300人以上の方が住んでおり、一番若い方は47歳ということに驚きました。発病もほとんどなくなったはずの時期に幼くして発病して、連れてこられた方でしょう。

 らい予防法が廃止になって、全国13箇所の療養所からふるさとなど、外に出て行った人は、数少なかったようですが、納骨堂の遺骨をふるさとのお墓に返したのは、ここ沖縄が一番多かったようです。1900体ぐらいあったお骨が、今では、100体だそうです。祖先崇拝の伝統がなせる業のようでした。以前東京の多摩全生園で見た納骨堂よりはずうっと立派な建物だったのも、同じ理由なのでしょう。

 沖縄戦に備えて、自分たちが逃げ込むための壕を掘らされ、手足の神経が無いためにぶつけては削られて、手足が亡くなってしまう人が増えたということでした。長さ200メートルの壕を二つ掘らされたのだそうです。地層の中に貝殻がたくさん埋まっていて、その貝殻で削られたというのが、実に痛々しく感じられました。しかし、驚いたことには、ここがハンセン病の療養所であることがわかったら米軍は攻撃をしなかったということです。よって爆撃で亡くなった方は、たった一人とのこと。沖縄地上戦のとき、沖縄の人たちは、がまという自然の壕に避難していたのですが、その中に、南京虐殺に立ち会った人がいたところでは、捉えられたら全員殺されるのだからという事で、全員自決した。それに対して、別の壕には、ハワイで、米軍を知ったという人がいて、「米軍は、降参した人を殺すことはない」といい、みんなで白旗を出して、全員が助かった、という話があります。あの頃の米軍と、日本軍はそんな違いがあったようです。今の米軍はそうともいえないみたいですが。

 この療養所の中心部に、カトリック教会があって驚いたのですが、もともと1938年にキリスト教が、伝道のために青木恵哉を派遣し、彼が、迫害を受けながら患者と共にやっとのことで住処をものにしたのが、愛楽園のはじまりだったとのことでした。

 とっても丁寧に案内していただき、丁度昼食時に、何の前触れもなしに訊ねた非礼を詫びながら、海岸に埋められたと言う胎児や、新生児のことを思い、胸の痛みとともに岐路につきました。

 辺野古の戦い

 辺野古ってご存じない方もあるかしら?娘に話し始めたら、「場所の名前なの?それを先にいって」などといわれて驚いてしまいました。ただ、子育て真っ最中の頃は、私も全く新聞を読まない時期があって、首相の名前も知らなかった頃を懐かしく思い出します。

 1995年、北京世界女性大会から帰ってきた女性たちは、米軍による少女暴行事件を告発して、8万人の大集会がもたれました。それに対する懐柔策として、普天間基地の全面返還がでてきました。ところが、どこへ移設するかで、もめ続けています。名護の東海岸にある辺野古の海の中に浮かぶ軍用飛行場建設ということで、96年末に日米両政府が合意。97年始めから、その近所のおじいおばあが反対の声をあげ始めた。さんご礁が広がるきれいな海にジュゴンが生息している。

このきれいな海を孫たちに残してやりたい、という声に押されて市民運動の人たちが動き出し、97年末には、名護市民投票で52%の人たちが反対を表明。ところが、市長選では、推進派が勝利。それから反対派の座り込みなどが続く中、防衛施設庁は、2004年11月、基地建設のためのボーリング工事用にやぐらを海の中に4つ立ててしまった。反対派は非暴力による阻止行動で、深夜は、工事をしないという約束で昼間は、4つのやぐらをみんなで守っていた。ところが、2005年4月の深夜、やぐらに金網を張られてしまい、その中に入り込んで、24時間体制で、このやぐらを守った。海人(うみんちゅ)も含めて、4つのやぐらを24時間体制でというのは、並大抵のことではない。とうとう、施設局は諦めて、さび付いてしまったやぐらを取り外して、ここでの工事を諦めたのが2005年10月。今はこの場所のすぐそばで、米軍基地を含めたもっと陸地よりの所に作るといっている。これには、名護市長も、県知事も反対とのこと。

 私たちは、愛楽園からの帰りにここに立ち寄りました。以前連れてきていただいたこともあるのですが、その頃はまだ反対行動が始まっていないときでした。さんご礁が広がっている浜辺を歩いて、米軍基地との境に行くと、反対協の人がガイドをしていたので、聞かせてもらいました。基地の境目には、鉄条網様の針金が、ぐるぐる捲いてあるのですが、その針金に、布切れが結んであり、一人一人の思いがその布切れに書いてありました。

 やぐらが撤去されたことを私は知りませんでした。やぐらが4つもあることも知らなかった。世界中の人たちが、ここを訪れて、やぐらに座り込み、とりあえずの「勝利」を勝ち取ったということを知りました。揺光が、オランダでお世話になっていた方も、泳げないのに、このやぐらに入って阻止行動に何回か加わっていました。テントの中には、いろいろなものがおいてあり、写真集や、ジュゴンのタオル人形を買ってきました。ジュゴンを孫たちに渡すと、3歳の孫はとっても喜んで、自分で紐で首にかけてジュゴンと遊んでいます。

 ジュゴンの住む辺野古がこの先どうなっていくのか、私も、見守り続けていきたいと思います。ガイドをしてくれた反対協の人は、平和丸という船の船長だとのこと。実は、以前、その平和丸を買うためのカンパをしていたことを思い出しました。

 小泉さんの武勇伝

 7日は、小泉さんが、ご自分の病気を神の奇跡によって治したいということで、神の島久高島に渡りました。ここは、以前富山さんがその奇跡によって腰痛が治ったということだったので、期待が益々膨らんだのでした。でも期待した奇跡は、「ちょっとまだ早いみたい」と小泉さんが言っていましたが、前日、私も、小泉さんもマッサージをしていただいてすっかり体が軽くなって、その後一緒の宿舎に泊まったマッサージ師の坂田さんも同行しました。夕方は、坂田さんと3人で、那覇の宮地さんを訊ね、おいしいものをたくさんご馳走になりながら、初対面の女性4人は、それぞれに自己紹介をし、小泉さんから、初めて「長崎市長への手紙」という径書房からの本を出すに当たって、彼女が大活躍したということを聞くことができました。

昭和天皇の戦争責任について発言した当時の長崎市長本島さんが、右翼に打たれたとき、全国から、本島さんへ、7000通の手紙が届きました。それを編集して本にするということが、当時の径書房では、ボランティアの力を頼るしかない状況で、小泉さんが、そのすべてを仕切ったのだということです。それを聞いてはじめて、彼女の新潟選挙での活躍が読めてきました。目立たないながら、隅々まで心を配って、みんなが気持ちよくやれるように様々な工夫をしてくれたのでした。その結果、新潟選挙では、なくてはならない存在になっていたのですね。

 宮地さんが、まだ沖縄にいって2年しかたっていないのですが、私が、富山さんの伝で訪ねたことを同僚たちに話したら、全員が、富山さんの名前は知っていたといって驚いていました。私がはじめて沖縄を尋ねた10年前に「沖縄にきてこの人に会わない手はない」といってくれた由井さんの見識を改めて認識しました。

 きっと、後1年の任期だという宮地さんが、これから、富山さんとつながるだろうことを期待しているところです。


11回目の結婚披露宴
           2006,3,1、18:30〜20:30  於 ホテルオークラ別館

 県内各地の披露宴、後3月21日の南魚沼市を残して終わりとなっていますが、東京の友人たちからぜひやってという声があって、3月1日の会が催されました。300人来て下さればいいと言っていたのに、400人を越えた参加者で大賑わいでした。

 宇洋がHPで報告したものを引用しますね。

 先ずは地元南魚沼後援会石田会長の開式の辞。いきなり前原代表の名前を忘れ私に聞く始末。会場は最初から和みました。
 続いて、発起人を代表して前原代表(写真3枚目)、鳩山幹事長がご挨拶。開始前、前原さんとは「式が昨日でなくて良かったですね」と話した通り本当に今日で幸いでした。前原さんも鳩山さんも「こんなに多くの人前で晴れがましい挨拶ができるのは久し振りだ」と仰り、会場の笑いを誘っていました。
 来賓ご挨拶は角田義一参院副議長。祝電を多くの方から頂きましたが代表して扇千景参院議長、堂本暁子千葉県知事、日野原重明聖路加国際病院理事長からのメッセージをご紹介致しました。

 東京近辺の方だけにご案内したつもりだったのに、高松から、喜田清さん、石川県加賀市議の林俊昭さん、鳥取の森本益雄さんなど、遠くからの方がいらしてびっくり!そしてまた、政治家の皆さんの話が上手なことにも皆さん、シーンと聞き入ったり笑ったり、私語が無いのも凄いこと。また、政治家は30分でいなくなるといわれているのに、なかなかいなくならなくて、前原さんも、出て行ったら、修羅場、と思われているのか、ゆっくり楽しんでいってくださいました。江田五月さんは、確か最後までいらしたのではないかしら?
ご自分のメルマガに次のように報告されていました。

>18時半から、「黒岩宇洋くんと美春さんの結婚を祝う会」に出席し、乾杯の音頭を取りました。私はご両親と、学生運動当時からの知り合いで、当時の知人も多く出席していました。また、ご母堂の秩子さんは、堂本暁子さんに代わって参議院に議席を持っていたこともあります。第1次安保世代の共通の息子のような黒岩さんの洋々たる前途を、みんなで祝福しました。

 本当に、故今井澄さんを含めて、私たちの友人の皆さんは、自分の子どものように宇洋をかわいがってくださっています。今回のパーティ-では、美春さんが、いかに議員会館で注目の的だったかが明らかになりました。「宇洋君が誰と結婚するかというよりは、美春さんを射止めるのは誰なのか、という関心のほうが高かった」のだそうです。新党さきがけだった方がたくさん見えていました。美春さんは、新党さきがけの職員だったこともありますから。その後、自民党に戻られた園田博之さんも来て下さっていて、鳩山さんは民主党の宣伝をしようとして、「自民党の方もおいでで」と言葉を飲み込んでおられました。

 東京選挙にかかわってくださっていた方がたくさん来られました。二次会を15人で予約していただいていたのだけど、行こうかなということで、出口にたむろした方があんまりいっぱいで、困ったなと思っていたら、やはり帰ることにするといって帰っていかれた方が多く、それでも、20人が同じホテルの別フロア-に集まって、お互いが交流しました。大学時代の女子寮の仲間だった黒田瑞江さんは、1960年6月15日の国会での怪我のあと事情聴取に応じたら、そのことをめぐってかなり責められたりしたのだけど、何十年もたって、そのときの被告として裁判をやってきた人に聞いてみたら、彼女たちの証言がかなり意味を持っていたといわれ、安心したと言うような話をし、聞いていた人たちが、そんな話を聞くのははじめて、と深い関心を寄せていました。この日は、樺美智子さんの遺体を病院に運んだという当時医学生だったという方も来ておられました。その方は、今は、厚労省の精神障害者問題の審議委員をなさっています。このことをその日私に話してくれたのは、当時の学生だったら知らない人はいなかったであろう故島成郎の妻、ひろ子さんでした。

 学生運動時代の仲間がたくさん来てくれていたのには、江田さんのみならず、驚きでした。また、宇洋が双子として私のおなかに居たとき、私は、文京区にある京華女子高校で組合の執行委員をしていました。そのときの委員長だった方も見えていて、二次会では、乾杯の音頭を取っていただきました。

 東京選挙のときに栃木県から、4時間かかってよく事務所に来てくれていた「ひきこもり」青年だった人も来ていて、東京選挙のときには、精神病院入院中だったという人とお互いに知り合いで、一緒に写真をとったりしました。

 何はともあれ、あの東京選挙がことの始まりでしたから、皆さんが来て下さって、本当にうれしかったです。
ありがとうございました。


90歳の誕生会
             2006,2,16 於、ケアハウス「鈴懸」

 その日は、清水スイコさんの90歳の誕生会でした。
 この方は、90歳とは誰も信じないぴんぴんシャンシャンの人です。
 ずうっと昔、我が家に集まって、この地域をどうするとかどんな障害があっても一緒に暮らせる地域にしようとか、話し合っていた頃、私たちとはかけ離れた年齢の清水スイコさんが仲間になってくださり、私が大地塾をしていた頃には、登校拒否の子どもたちと仲良くなって、よくスイコさんの家に遊びに行っていたものです。そのせいでしょう。1998年、大地塾を閉じるときのさよならパーティーを子どもたちが開いてくれたときには、私に「卒業証書」を渡してくれたのが、清水スイコさんだったのです。子どもたちが書いてくれてその証書は、今も、私の居間に飾ってあります。

 その後、「ともに育つ会」」が中心になってケアハウス鈴懸ができ(1999年11月)、2004年には、グループホームができ、いつの頃からか、毎月第一第三木曜日に、役員たち(作る過程で参加してきた人たち)も参加してのお茶会が行われていました。雪が積もってしまった12月のお茶会のときには、2キロぐらいはなれたところに住んでいるスイコさんを手違いで迎えにいけないことになってしまったら、スイコさんは、歩いて一人でやってきてしまったのでした。前もって、漬物を用意して待っているのですから「車がなければ脚がある。」とばかりにほほを紅潮させてやってきたのでした。

 2月15日が、スイコさんの誕生日、1日遅れだけど、色々準備してサプライズパーティーにしました。花束を贈呈したのは、隣に住む鈴木要吉さん、彼が、土地と資金を提供してくださったからこそ出来た法人です。私の「カンカン娘」をみんなで歌い、ケーキカット、そしてメインは、スイコさんの昔話でした。

 結婚して子どもができても自分のことしか考えない夫に業を煮やして、背負い商いをして生計をたて、子育てをしてきた実績を話してくださいました。その後、民生委員としても活躍。夫が亡くなる半年前に夫が「世話になった。有難う。」というようになって、すっかり壁が溶けて夫婦になって別れたということでした。

 このサプライズパーティーを準備してくれたのは、いつも行動をともにしている広田せつ子さんでした。カンカン娘の歌詞カードをインターネットで取り出して、みんなに配るという用意周到振りです。「こんなうれしいことはない」とスイコさんは、何回もその喜びを口にしながら、私の車でお家まで送りました。


銀座のカンカン娘ーーーー
    「これあんたのことね」

                     2006,2、 於、グループホーム「桐の花」

 「あの娘かわいやカンカン娘」で始まる歌、ご存知かしら?この二番三番が振るっています。「ままよ銀座は私のジャングル、虎や狼、怖くはないのよ」「指をさされてカンカン娘、ちょいと啖呵もきりたくなるわ、家がなくてもお金がなくても、男なんかにだまされないぞよ、これが銀座のカンカン娘」

 私の母が入居している認知症対応グループホーム「桐の花」で、入居者の皆さんとこれを歌ったら、みんながものすごく気に入って何回も何回も歌いました。最後に私の母がつぶやきました。「これ、あんたのことね」

 毎日訊ねている私に、毎日「どうしてここにいることがわかったの?」と聞き続けている母のこの発言、その判断力に感動し、その後毎日この歌を口ずさんでいます。

 これをいっしょに歌っていた別の入居者の方が、私にいいました。「あんたの声はいい声だね」生まれて始めて言われた言葉です。実は、この方耳が聞こえないのです。でも耳元に口をつけて言いました。「ハナさんの双子の姉妹のお孫さんに歌を習っているからなの」ハナさんは、同じ入居者の方です。

 この歌の先生は、私が大地塾をしていたときに、夜数学を習いに来ていた塾生だった人で、三女の同級生。昔の生徒から歌を習うという贅沢をこのところ週1で、味わっています。
 実は、昔小学3年の頃、「あんたの声は、音楽を壊すから」とか言われて、クラスで3人、音楽の時間に教室の隅で歌わないでいることを命じられていたのです。(凄い先生がいたものですね)その後遺症で、ずうっと人前で歌わないという習慣になってしまっていたのです。

 最近、孫に歌ってやるようになって、高い声が出なくて、裏声になってしまうと、孫が裏声をまねするようになったのです。保母試験を受けるとき歌を習っていたのですが、そのときには、かなり高くまで声がでたことを思い出し、習いに行くことにしました。その先生に、この間は、このカンカン娘を歌って上げました。


山本美智子さんと
  ユニフェム(国連女性開発基金)総会

                                    2006、2,11

 11日は、旧広神村の住む山本美智子さんと二人で、横浜までユニフェムという国連の専門機関の総会に参加してきました。ユニフェムというのは、国連女性開発基金というのが正式名ですが、山本美智子さんの物語を聞いてください。

 彼女は、60歳のときには見附に住んでいて、私がやっていた大地塾の親子お泊り会にボランティアとして参加し、当時、玉川大学の通信の大学生だったことで、大地塾の子どもたちの輝きの星でした。

 その後、62歳のときに、旧広神村の、もち米を作り、それで餅を作る農家に嫁いできたのでした。離婚後、子ども二人を女手一つでそだて上げ、小さいときに両親を無くしたために年寄り恋しさもあって、一人暮らしの気楽さをなげうって、90歳のおじいちゃんの介護をしてほしいと言う山本さんの願いを聞き入れて結婚という形で、魚沼市(旧広神村)の田舎に移り住むことになったのでした。

 どこか外国にいってボランティアをしたいということで、ユニフェムの会員になっていたけど、外国の代わりに田舎にボランティアにきたという感じらしいのです。こちらに来て11年になるそうで、自民党員だったにもかかわらず夫君を宇洋の応援団にしてしまうのですから、彼女の力は大変なものです。

 ユニフェムの総会では、埼玉県知事選に出た坂東真理子さんに3年ぶりで会い、その他、樋口選挙、坂東選挙、新潟での多賀選挙などで知り合った方たちと再会しました。

 ユニフェムの助成を受けてバングラデシュの子どもたちや、お母さんたちに識字教育をしている新潟ボランティアセンター(NVC)の渡部順美(なおみ)さんの感動的なレポートを聞きました。

 これまで、アジアに学校を作るという話しにどうも乗る気になれなかったのは、日本で学校に痛めつけられている子どもたちとかかわってきたからなのですが、このレポートは、学校を作るのではなく、字の読み書きが必要に迫ってきて、場所は特別に作らないで、ベンガル語や、英語をおしえていくのです。その結果、仕事にありつけたり、子どもにも教えて上げられるようになったりと、日本の学校とは違う次元で、現地の方たちの要求にマッチしているのでした。


高次脳機能しょうがい者Iさん、とのかかわり
                       2006,1,17〜

 皆さん、高次脳機能障害、ってご存知です?
 このような障害を持った人が、最近はかなり増えて、社会問題化しているそうで、時々テレビでも取り上げられているのだそうですね。

 たまたま、最近その障害を持った人と出会うことになり、急遽アマゾンから取り寄せて読んだのが、「壊れた脳、生存する知」という本でした。講談社から出ていて、4ヶ月で6刷までいっているので、かなり売れたのでしょう。
 山田規畝子(きくこ)さんという女医さんが自らの体験を記したものです。3度の脳出血、その後遺症としての高次脳機能障害です。前頭葉が壊れると、古い脳は健在でも、新しい脳が壊れて、様々な障害が現れます。ところが、残った脳を総動員して、こんな本が書けるところまで回復してくる、命の不思議さ!
 交通事故や、様々な事故が原因のこともあるし、脳梗塞など病気が原因の場合もあるけど、共通していえることは、外からは見えない障害であるために、理解されにくいということが一番大変そうです。

 記憶がおぼつかない。整理整頓がうまくいかない。なんだか私のことをいわれているようです。あまりにも、自分と似ているので、のめりこんでしまうのかもしれません。最近であった、この障害をもつ方を近くのホテルに訪ねたら、その部屋の様子が、全くなじみ深い私の部屋そのものです。忘れると困るからということで、目に見えるところに書類を積んでいくので、いつも、私の机は無造作に積んだ書類の山。無造作、というのは、人が見るとそう見えるということで、私は、なるべく見えるところに置こうと思って積んでいくので、揃っていないのです。

 さてこの方は、訴えたいことがたくさんある方で、初めて訊ねた日2時間半喋りまくられたのですが、あとさきが殆んわかりません。ノートを取りながら聞き取ったのですが、「それはいつのこと?」と何回も聞きます。でも返事は、全然違うことについての話しになることが多く、まとまりがつきません。時系列に並べられないのです。そこで、こういう時にはいつも頼りにしているせつ子さんに同行していただき、その後、彼女が一人で行ったり、私が一人で行ったりして、お互いの情報を共有して見ると、そのことが起きた日時が違うと全くそのことに意味が違うということになったりして、まだまだ全体像が見えてきません。

 前記の本は、高次脳機能障害というものが、どんな現象になるのか彼女を理解する助けにはなりますが、それですべてがわかるということではないし、彼女のもともとの性格がどうだったのかということもわからなくて、本当のところ何を一番訴えたいのかということもすでに10日を経過しているというのに見えてこないのです。

 「生存する知」の部分を頼りになんとか、彼女の意に沿ってことを運びたいとは思っているのですが・・・・・。       (ここまで、1,27記)

 「深くかかわらない方がいい」といわれれば言われるほどかかわりたくなってしまうのは、私の「癖」だと沖縄の友人はいいます。「趣味ね」とも。きっと、自分も殆んどそんな感じに思われてきたもので、「同類項」って思ってしまうからなのでしょう。

 まず、夫が、「かかわるな」といいました。数日たって、私はいいます。「まさか、あれで私が、諦めたとは思っていなでしょ?これから続きを話すから」「10分にしてくれ」「それじゃ無理だから止めるわ」翌日ニコニコしながら夫はいいます。「話を聞くぞ」長々と伝えたら「その人のいうことはすべてうそだと思ってみろ」と。(でも、このとき私の中のものを吐き出したら、とたんに風邪が治ってしまった!)

 それから、私は、彼女の「裏」を取ることを始めました。昔のことを知っている人を聞き出して、連絡を取ります。福祉、医療、ソーシャルワーカー、どこでもうんざりしている様子が手にとるようにわかります。弟、いとこと話がつながりました。「トラブルメーカ-」と一言で言えばそういうこと。二人の一致した意見で、私に「深くかかわらない方がいい」と忠告してくれるのです。彼女の子どもは、彼女と手を切るという条件で結婚したということで、私が電話しても出てくれません。

 何はともあれ、頼み込んで入院させていただいた病院の期限が切れるので、9日には退院して、またもとどうり、家の近くのホテルに朝食つきで1月6万以下で置いてもらうことになったのです。住民票は、東京都にあるのですが、この夏60歳になるという彼女は、支援費で、こちらでもヘルパーをお願いすることはできそうです。そうすれば、今までボランティアでかかわってきたせつ子さんが、ヘルパーとしてかかわれそうですが、本当のところ彼女が訴えたいことが何なのか、これから、長い道のりが始まりそうです。    (2月10日記)


スズランさんの引越し
                       2006,1,29   長岡にて

 以前から時々お伝えしてきたスズランさんと言う長岡の女性(54歳、脳性まひによる身体しょうがい者)が、今日、施設から改装されたアパートに引っ越しました。なんと、大雪など嘘のように晴れ上がって、引越しを祝福するかのように春のような晴天が、待っていてくれました。
 内山さんが、スズランさんから自立生活がしたいと打ち明けられたのが去年の5月。9ヶ月ぶりで、その夢が実現にこぎつけたのでした。施設のほうから3人、私と内山さん、栗田さんの3人が、引越しの人足でした。つい先日、施設の園長が「家に帰るのではなく、自立していくのだから、お祝いに引越しは園のほうでやろう」といってくれ、明日は、自立祝賀会ということです。

 施設のほうから来てくれた3人の人と少しの間ですが、一緒にいて、彼女が自立したかった気持ちが手にとるようにわかりました。3人のうち、私があったことがあるのは、女性課長だけだったので、他の二人を紹介してもらいました。「この人は、お母さん」と言って担当の職員をその課長が紹介しました。スズランさんにとっては、娘といえるぐらいの年齢の人です。確かに「お母さん」ぽい口の利き方です。うちわが3本ありました。「1本しかいらないでしょ!どれがいい?」有無を言わせず、1本に決めてしまいます。命令形がたくさん。
 課長さんは、自分が今日は休みだけど出てきた、と少々恩着せがましいことも気になりました。支援センターのケアプランを立てたと言う人は、取り付く島もない感じの人でした。
 四六時中こういう人たちに囲まれているのだもの、「自立できたら死んでもいい」といわせるほど、自立を熱望させてくれるのだということが良くわかったのでした。

 施設側は、出ることに賛成だといいながら、「自立するんでしょ。みんな自分でやりなさい」という対応でした。これでは、実際は、自立など不可能です。お金があれば、タクシーを頼むことも可能。ぎりぎりしかないのが多くのしょうがい者です。だから、引越し先のアパートとの契約が終わって、1月末に引越しというところまで来ても、電気、ガス、水道の契約。アパート代を振り込む銀行口座の開設など、とっても一人でやっていられません。そこに女神の登場です。以前お知らせしたように、地震のおかげで知り合えた栗田いね子さんが全部やってくださっていたのです。更に、この方は、大変なことまで引き受けてくださっています。

 引越しとか、その前の体験入居には、どうしても手助けが必要。そのためのボランティアをニート中の女性Kさんに頼みました。栗田さんも、Kさんもスズランさんの施設のそばに住んでいます。スズランさんとKさんとも、スズランさんと栗田さんとも時々行き来しています。そんな中で、スズランさんは、内山さんのことは、安心して攻撃できる対象と心得たらしく、かなりきつい言葉も内山さんにはぶつけています。それが、最近では、Kさんにまでぶつけられるようになりました。そのとき、栗田さんは言います。「こういうことが起こるだろうと思っていた。家族や、施設職員を仲間にできないでいることからくる自立生活への不安がスズランさんをそうさせているのだから、あなたは、いやなことはいやとはっきり言って、とにかく無理をしないでね。」この言葉によって救われるKさんは、できる限りのことはしようと思いなおすのでした。
 実際、引越し当日も、起きられなくて、やっとの思いでスズランさんのアパートにたどり着いたのは、私たちが帰ったあとでした。それでも、やってきてくれたことに、スズランさんは、深く感謝したようでした。

 栗田さんは誰のストレスも、そのまま受け止めてしまう大変な能力の持ち主です。だからこの方を女神様と呼んでいます。

 園のほうで引越しはみんなすると言っても、スズランさんは、自分が3年前まで住んでいたお兄さんの家からもたんすなどを運びます。それは、栗田さんが引っ越し業者を頼んでくださり、お兄さんの家にいって寸法を測り、引越し屋さんに伝え、・・・としていたのですが、今朝アパートにいってみたら、すでにお兄さんが引っ越し屋さんと荷物を運んできていたと言うのです。お兄さんは、お前の顔なんか見たくない、お前とは縁を切る、などといいながらも心配で、これからもきっとこのアパートを訪ねてくれるにちがいないと思わせてくれ、そのことも、スズランさんを幸せにしてくれました。
 更に、一人生活が始まってから、きてくれるヘルパーさんが、施設に入る前に家にきていた人でした。荷物の整理を少し手伝って、引越しは完了しました。

 終わってから、内山、栗田と3人で、心ゆくまで語り合ってきました。これがうまくいったら、施設の人の中に自立への流れができるのでは、ということです。栗田さんは、何回も施設を訪ねて、引越しに向けて準備万端整えてくれました。それはとっても楽しいことだったそうで、施設の職員に「このつぎのときにも手伝わせてね。」といって来たといいます。3人はお互いに知り合えたことを喜び合って別れて来ました。
 きっとこれからも色々なことがあこるのでしょうから、そのたびにまたこの3人のプロジェクトが動き始めることになるのでしょう。
 失敗が特技である秩子にしては、珍しく成功といえる結果となりました。


韓国映画「マラソン」観劇
                 2006,1,27    於 小出郷文化会館

 揺光からの誘いかけに乗って小出郷文化会館に韓国映画「マラソン」を見に行きました。揺光のところへ訊ねてきているソウル在住の彼女スージンの話しによれば、去年の韓国映画で、一番の人気を誇っているノンフィクションの物語なのだそうです。自閉症の男性が、国際マラソン大会で、優勝する物語なのですが、ほかの家族を省みることなくチョウォンに全生活を投入する母が書いた本が元になっているそうで、ランナーとしての彼を鍛えることが彼女の生きがいになっています。ところが、そのために現れる様々な壁との戦いに疲れて胃に穴があき、手術した後、夫に心情を吐露します。「いつも彼には、いやと言わせなかった。私は悪い母親だった」そして治ってからは、彼にマラソン大会に出なくていいといいます。ところが、10月10日のチュンチョン国際マラソンを覚えていて、母の手を振り解いて大会にいってしまい、そこで優勝してしまうのでした。

 俳優がすばらしい。チョウォン役の俳優が、自閉症児になりきる姿、そして母の役も結婚子育てで、23年ぶりにスクリーンに登場したと言う有名な女優だったキム・ミスクが名演技でした。

 チュンチョン国際マラソンは、本当の大会がでているのです。景色といい、映画の撮り方といい、韓国ならではのすばらしいものでした。

 ただ、私は、この映画が、夫に心情を吐露したところで終わって欲しかった!
 だって、このサクセスストーリーによって、この先どれだけの子どもたちが痛めつけられるのだろう、とそのことが気になってしまいました。


差別禁止法シンポ〜合理的配慮義務とは
                    2006,1,15 於 弁護士会館大ホール

 全国に先駆けて、自治体として障害者差別禁止条例を作ろうとしている千葉県の知事堂本暁子さんの報告が、まずは、会場の皆さんを感動させました。自分は何もしなかったのに、しょうがい者関係の方たちが、タウンミーティングをしたり、審議会を作ったりして、みんな整えてくださって、その上に乗っかっただけという報告でした。それは、「県民参加」の県政という公約があったからなのだと思いますが、私も、市川市のタウンミーティングに参加して本当に驚きました。500人の会場に700人が詰め掛けて、通路いっぱいに座り込んでも外にあふれて、ロビーでも、聞けるようにしてあったのでした。そして出てきて発言する方たちは、これでもかこれでもかと思うほどたくさんの障害者団体があって、最後には、ホームレスの方たちまでが発言して大変な熱気だったのです。そういう地域住民の盛り上がりがあってこその差別禁止条例だったということを、報告して下さったのでした。

 中でも共感したのは、「差別する人とされる人」というわけ方をせず、差別行為があったときの解決策として、対決するのではなく、差別した人にその後よき理解者になってもらうというやり方にする、ということでした。

 差別禁止法というものと、雇用促進法における割り当て制(法定雇用率)というものは、整合性が取れないのでは?という問題提起がなされましたが、自らも視覚障害者である藤井克徳さん(13団体が加盟する日本障害フォーラム幹事会議長)が、オリンピックを例に出して、女子と男子と分けることは差別にはならないという反論をされ、説得力をもっていました。そして、差別禁止法というものは、しょうがい者だけの問題ではなく、あらゆるマイノリティー(少数派)に関しても広げられるので、とどのつまり、これは「世直し」なのだとのことでした。

 内閣府の参事官という方は、「障害者基本法を改正したので、その中に差別禁止が含まれているので、それを活用すれば、差別禁止法を作らなくても」という発言をされていましたが、宇洋をはじめ多くの方が、反論して、やっぱり差別禁止法が必要だと言っていました。でも、こんな発言をする官僚の方がこのシンポに出てきたということに意義があるのかもしれません。そもそも、この差別禁止法を作りたいと言いだしたのは、障害者基本法が理念法であるために裁判規範性を持たない、(それに違反したということで訴えることができない)ということで、たくさんの裁判に負けてきたためだったのですから、このような発言はこの場で通用するわけはないのでした。

 視覚障害者の弁護士竹下義樹さんは、いつもながら、大変な迫力で、「合理的配慮義務」ということは、司法試験のときに点字受験を認めること、ということだと、具体的な説明をいただきました。つまり、受験してもいいよと言っても、実際に点字受験が認められなかったら、視覚障害者は受験できないので、結果的には差別されることになるということです。この合理的配慮義務という言葉は、訳語として適当なのか?という疑問も出されていました。

 会場からの発言として、大分県中津川市議の方が、喉頭ガンで発語できなくなったのに、代理者による発言を拒否され続けている(この時も代読という形で発言された)という話、就業後に視覚障害をもった教員が提訴してきた裁判の勝訴報告、運転免許の適性検査が、道交法の欠格条項見直し前よりも、(適性検査について定めている道交法施行規則自体は何も変更されていないが)、格段に厳しい運用になって、免許更新を拒否される人が出ている、という聴覚障害者からの発言など、出されていました。

 叉、毎日新聞の野沢和弘さんは、自らもしょうがい児の父親で市川市のタウンミーティングの仕掛け人ですが、彼は、その後千葉県の差別禁止条例を作る審議委員として活躍。その委員会は、30人で構成されているのですが、経営者や、教員など、なるべく多様な人が入っているようにしてあるとのことでした。そういう方たちは、はじめのうちはしょうがい者の話を憮然として聞いていたのに段々に反論するようになり、最後には、けんけんがくがく議論ができるようになっていったということでした。

 大きな会場に250人ということはとても残念だったと思います。でも、弁護士の一人は「このテーマでこれだけ集まればたいしたものよ」といっていました。


2006年 明けましておめでとうございます

 12月半ばからの大雪、地球が怒っているとしか思えません。しかし、ここ雪国は、除雪体制が整っているので、道路が通れなくなるということは殆んどありません。

 昨年は、女性たちの力で作った戦後女性活動史ともいえる「ベアテの贈りもの」の上映会続きでした。東京に居たときのご縁で、私もこれの製作に協力することができ、出来上がった35ミリ映画を県内各地で上映させていただきました。高校生や大学生には、貸し出し料を半分(5万円)に割り引いていただくことができ、長岡大手高校で、1300人の生徒さんに見ていただくことができました。昨年秋からは、英語版のフィルムが、ヨーロッパに行き、ジュネーブの友人たちがジュネーブで上映することを企画し、5月の上映会には、私も少しお話をしに行くことにしました。暮には、ジュネーブ、ウィーンの友人が帰国するのに合わせて、この映画の監督藤原智子、製作委員会代表赤松良子さんたちを含めて7人の会合を東京で持ちました。

 15歳で親元を離れていった揺光が、去年5月にオランダのユトレヒト大学移民学修士を卒業してもどってきました。9年間日本を離れていた彼には、日本での就職活動はかなり大変でしたが、ようやく毎日新聞社からの内定が取れ、今年4月から記者生活を始めます。これで、ようやく私たちの「親家業」に終止符が打たれますが、子どもたちの連れ合い4人(長男宇洋が去年結婚)、孫5人を含めると18人という大家族は、お互いに支えあって行くことは続くでしょう。

 地元の社会福祉法人(ケアハウスに隣接して、認知症対応のグループホームを作り、そこにお寺を移築してフリースペースとし、さまざまな活動を始めています)の運営を始め、県内各地で、様々な取り組みをしている友人たちとつながりながらの活動は、今まで通り続けていくつもりです。今年もよろしくね。


「女の心意気」
                 2005,12,27 於 日比谷資生堂パーラー

 暮も押し迫った27日、ベアテの贈りものヨーロッパ上映会プロジェクトということで、東京の資生堂パーラーで集まりを持ちました。ジュネーブ上映会をすでに準備しはじめているジュネーブ在住の栗崎由子さん、ウィーンの国連機関(ユニドウという途上国技術援助専門機関)の副代表を務める広瀬晴子さん、この映画の監督藤原智子さん、製作委員会代表の赤松良子さんと事務局長の岩田喜美枝さん、そして、朝日新聞記者の竹信三恵子さんというメンバーです。私以外はすべて、海外生活体験者ばかり。話は、世界中に及びます。

 その中で一番感動したのは、このベアテの贈りものの映画を作るきっかけになった岩田さんの厚労省の退職金1000万の言われでした。藤原さんは、新潟上映会で「赤松さんが、岩田さんに提案とも脅迫とも付かないやり方で」と言われたのですが、岩田さんはこう言います。「赤松さんが、退職金をはたいて、赤松良子賞を作り、女性問題で貢献した人に送って、励ましておられたので、私も、やめるときには、退職金を有効に社会還元したいと思っていました」と3000万の資金を作り出したのでした。もともと、赤松さんと藤原さんの間で、作りたいねという話はできていたけど、資金の当てがなく、1年ぐらいは、寝かしておいたのだそうです。岩田さんは、厚労省の雇用均等・児童家庭局の局長を退職して、自分で、資生堂のCSR(社会的責任部門)になられたのですが、そのとき丁度、この映画の話が赤松さんからあって、喜んで乗ったのだそうです。

 ジュネーブの栗崎さんは一緒に実行委員会でやっていこうと言っているペティエ亮さんと12月10日にパリの上映会を見に行ってきて、これは、決して日本だけの問題ではない。世界中どこにいても、女性は、息苦しいと感じている。だから、この映画は普遍的、ジュネーブで世界中の人に見て欲しい。といって張り切っているのでした。

 3月8日ウィーン、5月12,13日ジュネーブの上映会が決まり、世界中の方から見ていただけるというのは、とってもうれしいことです。ウィーンは、この映画のロケ地で、画面にウィーンの風景がたくさん登場するので、喜ばれるにちがいないと思っています。



ニート、ひきこもり体験記
                 2005,12,16  於、魚沼市広神コミュニティホール

 「こわれ者の祭典」という番組が、11月24日、フジテレビで放映されたのですが、関東地方だけしか見られない番組でした。このビデオが出演者の渡辺正志さんに送られてきたのを見て感動し、いくつかダビングしてみんなで見ました。

 脳性麻痺の木原大吾さん、その他拒食症、同性愛、など様々なマイノリティー(少数派)が登場しては自分のこわれ具合を自慢する舞台を紹介していました。でている人全てが壮絶な人生を歩んでいます。このグループのリーダーは、月之光司さんで、新潟日報のコラムを不定期で書いています。ひきこもりの人のうちを訪ねたりこのような表現活動をしたり、たった3年という年月で、すっかりその名を県内に広めてしまいました。

 ひきこもり5年という渡辺正志さんは演劇をしたり、市役所の職員としてこの4月から臨時で働いたり、そんな彼の姿も出てきます。極め付きは、5年間閉めっぱなしだった彼の部屋のカーテンをテレビスタッフが開けてみたら、窓枠の隙間から木の枝が入り込んでカーテンに隠れていたのを発見!部屋のなかの散らかりようは、我が家の上をいっていて喜びました。
 
 そんなまさしさんが、12月16日夜、広神コミュニティーセンターで、「ニート、ひきこもり体験」を一人で語るというので、誘い合わせて聞きにいきました。
 コミセンの和室には、15ぐらいの座布団が用意されていましたが、はじまる頃には30人を越え、何回も座布団を補充するはめになりました。魚沼市議の星野邦子さんが、司会をし、正志さんの経歴を話してくれました。正志さんは淡々とひきこもりの状況を話して、「楽になりたいと思ってひきこもったけど決して楽ではなかった」。「生きるための手段としてひきこもったのだと思う」人に助けてもらわなくては生きていけない自分を認められるようになったのは、様々なボランティアをして「有難う。来てくれてうれしい」といわれながら段々に元気が出てきた。たくさんのボランティアをしたけど、それらすべては、自分のためだった。「助けてもらっていいじゃないか」と思えるようになって、そんな自分が好きになった。

 ボランティアの種類たるや大変なもの。去年の7,13水害、自分の村の子どもたちへの絵本の読み聞かせ、外国人花嫁に日本語を教える、国際大学の外国人学生に日本語を教える、中越地震・・・・・。中越地震が起きたとき、「こんなときこそニートの出番」と思ったそうです。24時間フルにつかえるので、人が足りない深夜、早朝の介護をしたのだそうです。この明き小出郷文化会館で上映した「メタセコイアの木の下で」のときにも実行委員会に入って活躍してくれました。この間彼を経済的に支えたのは、弟だったそうです。文句をいわずにお金を渡してくれていたことに深く感謝していました。

 こうなれたのは、大勢の人たちのおかげ、感謝の気持ちでいっぱい。といえるまさしさん、初めて私のうちを訪ねてくれた1年半前とは全然違って、本当に成長してきた姿がそこにありました。誰を攻撃することもなく、質問には丁寧に答え、私が「ご両親のことが出てこなかったけど」と質問すると、「忘れていました。以前は、心配事相談に行って親の悪口ばかりえんえん言っていたように思いますが、父はアル中で精神病院に入院、母は、2回の自殺未遂で入院。だから家には二人ともいません。そのおかげで、早くよくなったと思います。まだ、親とのやり取りがあった後は、混乱したりしてしまうので、今の自分には、親との交流は無理なんだとおもっている。自分は長男なので、母はあなただけが頼りというので、プレッシャーが大きかった。アダルトチャイルドだと自認している」小さい頃から、両親が仲が悪くて、父の暴力もあり、隣のうちへ駆け込んだこともある。小3の時のことで、隣の人は来てくれ、両親は、ばつが悪そうに喧嘩を止めた。そういう近所の助力もうれしかった。

 周りに何を望むかと聞かれて、「生きていてくれるだけでいい」という無条件の愛情、がほしいと言う。会場の精神しょうがい者の人が、精神病院は、駆け込み寺で、入院すれば仲間もできるし、薬でよくなることもある。恥ずかしがらないで、精神病院に行くとよい。と発言、正志さんも同調していました。自分も駆け込んできた、と。

 正志さんは、しょうがい者のことを笑凱者と書きます。笑って凱旋するのだそうです。

 南魚沼から行った人たちは、今度夢草堂で話してもらいたい。と言っていたので、そのうち企画されることでしょう。


しょうがい者自立への道
                                  2005,5、〜12月

 スズランというハンドルネームで、私のHP掲示板にこんな投稿がありました。

おはようございます(^O^)/
自立出来そうな女に変りました!
昨日、家族と話し合った結果です。
これからが大変ですがやるだけやる事だと思っています。

 内山孝子さんがやっている結び屋(新潟市)で体験入居して自立生活を楽しんでいるMさんの影響を受けて、長岡の施設に入居中のスズランさんが、自立生活を始めたいということで、内山さんがかかわり始め、なんと、アパートも、その改装も決まっていて、保証人が必要とのことなので、私は、内山さんの熱意に動かされて「引き受けましょう」ということで、11月15日に長岡へスズランさんと会いにいきました。

 しょうがい者支援センターを会場にして月に1回集まりを持っているしょうがい者グループの集まり(Mさんとも、ここでの知り合い)でスズランさんと出会い、経過をゆっくり聞かせていただきました。内山さんは、今でも月1回新潟から長岡まで高速を使わずにMさんをこの集まりに運んでいます。

 脳性まひで、車椅子生活のスズランさんは、54歳。7人兄弟の7人目。小学校の時は、お母さんがおんぶして学校に連れて行ってくれたけど、中学では、上の子のこともあってそれができなくなり、かといって施設に入れるのは忍びないということで、以来ずうっと在宅で過ごしてきた方です。ところが、母は今93歳、介助が大変になり、一緒に住んでいた長兄の家から、今の施設に入所したのが、3年前。時間どうりの生活や、男性介助にも抵抗があり、何よりも、出歩くことに対して、「叉?」という反応があることが耐えられない、ということで、自立生活を決心したといい、内山さんとMさんを呼んでお願いしたのが5月のこと。9月には、Mさんのお父さんが持っているアパートが空いている、そんな事情であれば家賃を6万から4万に下げてあげるという話が来て施設や家族にこのことを告げます。
 これに対して、施設は、家族の賛成を条件に支援するというスタンス。家族は、長兄が反対であるために、母も姉兄も賛成しないのでした。

 そこで私たちは、施設の職員に支援してもらうことを申し入れようということで、スズランさんの案内で、担当女性課長Kさんに会いにいきました。言語障害があり、緊張するとうまく話せないスズランサンに、「自分で兄の説得を」といってきたKさんに、私が保証人をするからということで、なんとか長兄への説得をと、お願いしたのです。スズランさんは、障害年金と、その他の助成金で、4万の家賃を払いながらの生活は可能ということです。

 その結果、Kさんと一緒に兄に会いに行き、とうとう兄からのOKを取る事ができたということで、いったんは「おめでとう」と言ったのでしたが、なかなかことはスムースには行かないんですね。そんなに簡単なことならもっとずうっとしょうがい者の自立は進んでいたはずですもの。

 以前、DVで逃げてきた人を受け入れたことがありますが、2ヶ月間の格闘の末、夫の元に帰っていったという結末でした。平均して、でたり入ったり7,8回だということですが、この自立生活も似ていると実感しています。
 障害を持っている人たちは、介助を受けているということが「負い目」となっていてどうしても、周りの気配を感じ取ってそれに合わせて生活するというのが習い性になってしまい、周りがなんといおうと私はこうしたいということがなかなかいえない。(黙従反応というのだそうですね)圧力がかかると、心ならずも反対のことを言ってしまう。

 スズランさんも、その後色々な経過があって、家族の元に一人で行って「もう諦めます」といってしまい、施設に帰ってきてから「やっぱり諦めきれない」と手紙を出します。こちらには「きびしいです」というメールがくるだけ。そこで、叉内山さんと、施設に彼女を訪ねました。一人で家族と話すと、どうしてもいえなくなるから、一緒に行って、といわれ、すぐ内山さんの車で母、兄夫婦が住む、3年前まで彼女が住んでいたうちにいきました。

 お兄さんはかんかんに怒っています。「やめたと言ったのはうそだったのか。人を連れてくるなんて卑怯だ、お前の顔は見たくない」とそっぽを向いてしまいます。それでもだんだんに心を開いて話してくれるようになり、妹のことが心配で、家族でさえ、思うように行かないのに、他人が介助して、生活できるわけがない、これから年を取っていけば、どんどん体がかたくなって介助も大変になる。みんなが我慢して生活しているのにわがまま言うものではない。と、確か多くの人が思っていることと同じことを伝えてくださったのでした。

 それに対して内山さんと二人で反論。
 家族ではうまく行かないことが、他人だからうまく行くことが多い、それが、介護保険。支援費でしょうがい者がどんどん自立している。その結果、楽しい生活ができるようになると言語障害も減ってくるし、身体もやわらかくなってくる。我慢は、しなくてもいいものは、しなくていいのでは?と話して行くと、どうしたってやるというなら、やればいい、家族の縁は切る。と。

 「縁を切るのは書類上で、スズランさんはご家族をこころから愛しているしこれまで育てて下さったことに感謝しています。4月から自立支援法が施行されるので、そうなると、どんな支援になるのかまだわかっていません。でも、3月までに受けている支援は引き続くといっているので、3月までにでたほうが安心です。また扶養を外すことでご家族の負担も少なくなりますし、スズランさんも生活保護を取りやすいのです」と内山さん。
 でも結局、スズランさんが幸せになれば、一緒に喜んでくださるのでしょう?というところで一致して、玄関の外まで見送っていただいて帰ってくることができました。

 早速アパートとの契約書つくりが始まりました。自立生活を目指すスズランさんの思いが届いて、アパートとの契約書が、12月2日に私の所に届きました。
 それが、実は去年の地震のおかげだったのです。「桶屋が儲かる」式のことですが、それよりはもっと因果関係がはっきりしています。

 1年前、地震見舞いをくれた大学のときのバレー部のコーチが、「長岡にも後輩がいるよ」と教えてくれたのが栗田いね子さんでした。当時から電話では色々やり取りして、私が大地塾をしていた頃、かかわってきた子どもやその親たちと栗田さんも関係が深いことがわかり、彼女がカウンセラーとして、その人たちの支えになっていることがよくわかりました。

 その彼女と直接会えたのは、先日スズランさんと初めて会いに行った11月15日でした。スズランさんの施設から車で3分ぐらいの所にあるおうちから、迎えにきてくださって、おうちを訪ねたのです。そしてわかったことは、スズランさんの入っている施設を運営する社会福祉法人の理事長が運営するもう一つの医療法人の方で、看護部長をしていたこともあるということでした。とことん患者さんに寄り添う彼女の姿勢に感動した帰ってきて、スズランさんのことが暗礁に乗り上げると栗田さんに電話をして相談していました。

 そうしたらとうとう彼女は12月1日、スズランさんを訪ねて、契約書を交わす立会人を引き受けて実行してきてくれたのです。何しろ、長岡は、新潟からも、ここ浦佐からも車で1時間半というところです。私も内山さんもそう毎日訪ねていられる距離ではないのです。その上、私たちは施設で働く経験もなく、施設職員の気持ちや、状況もわからないので、かなりのストレスを施設職員に課してしまっていたようです。栗田さんは、精神しょうがい者の自立を奨めて来た体験もあったので、すっかり施設職員の信頼を勝ち得て、ことがスムースに運んだのでした。

 実は、この施設の理事長の息子が、地震のとき電車が通らなくなって、5ヶ月間我が家に下宿していたということもあったので、いざとなったら、理事長に直談判もできるという私にとっての「お守り」も地震のおかげでいただいたものでした。今回は、栗田さんのおかげで、直談判をすることなく、連帯保証人の私のところへ、12月2日、契約書が届くことになったのでした。

 スズランさんと内山さんの7ヶ月間の活動が稔った瞬間に立ち合わせていただく光栄に浴しました。何しろアパートの大屋さんは、新潟で自立生活をしているMさんのお父さんだということもあって、アパート代は、安くしてくださったし、入りたいという人があっても断って待っていた下さっていたのです。そこのバリアーをリホームするのも新潟の「ゆいまーる」というしょうがい児を普通学校へという集まりのメンバー(品田さん)が、建築士として引き受けてくださってあって、後は、スズランさんが施設を出るだけ、というところまで用意ができていたのですから。とってもたくさんの方々の善意が、事を稔らせたのでした。日本も捨てたものではない!

 ところが、ここでもまた大きなハードルが!12月1日、大屋さんの所に栗田さんといって契約書をもらってきた後、つかれきってスズランさんが熱を出してしまったのです。私が判を押して契約書を送り返しても、メールを出しても返事が来ない。叉栗田さんに行ってもらって、状況がわかり、栗田さんがスズランさんの判を押して、12月7日に契約を取り交わしてきたのでした。

 1月に引っ越すことになり、その前に体験入居をして見るということですが、施設に入居している人にはヘルパー派遣はできないそうで、ここもボランティアで支援するしかありません。でも、すでにしてもいいといってくれている人が現れています。

 まだまだ様々なことが残っているようですが、ご本人の熱意が、周りを動かしていく一番の原動力、今までは、長岡には、このような自立生活の基盤が無く、Mさんは新潟市での生活となっているのですが、スズランさんが、長岡での道を切り開いて後に続く人を勇気付けてくれることになることを期待しています。

 施設の課長Kさんに寄れば、自立生活がうまくいかなくてスズランさんが戻ってくることまで考えて、2月から入居する人を選んでいるそうです。栗田さんが言うには、それは当たり前のこと。栗田さんも精神しょうがい者を病院から外に送り出すとき、帰ってこられるようにしていたそうです。これからなにが起こるかわかりません。スズランさんは、週50時間ぐらいのヘルパー派遣で賄えるだろうとKさんは言います。スズランさんが、Mさんのような晴れやかな顔になる日に期待をこめて。


富士山測候所活用NPO設立総会
                            2005,11,27  於、神田学士会館

 東京で、富士山測候所活用NPO設立総会があり、私は、その監事として、参加してきました。以前ご報告しましたように、大学の同期で、農学部に進んだ土器屋さんの熱意に促されて、去年7月に富士山に登ったのが「運のツキ」。その日もスピーチを聞いていたら、何人もの人が華奢な体の土器屋さんに「騙されて」という人がいるくらい、彼女の熱意が、人を感動させてしまったのです。

 NHKニュースが、その模様を報道しているようです。私は、ピンクの上着を来ていったので、画像的に映えるのでしょう。喋っているところが放映されていました。

 気象庁が、無人化にしてしまったのですが、この会に、気象庁からかなりの責任あるポジションの方が来られていて、中心メンバーの皆さんを喜ばせていました。
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http://www3.nhk.or.jp/news/2005/11/28/d20051127000101.html
(↑あと数時間でサーバから消されそうです)
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 今井通子さんなどのような有名人もおられましたが、、概して皆さん専門家で、その道では、一筋という方が多く、話がとっても興味深くて聞きほれていました。例えば、インカ帝国をスペインが攻めたとき、白人たちは、4000Mの高度では、赤ちゃんを育てられず、現地人を全滅させるはずだったのに、現地人との混血によってかろうじて生き延びた、というように、高所では、低地とは違う生態系になるというのです。

 言われて思い出すのは、私の本を読んだ方がボリビアの首都ラパスから手紙をくださいました。そこには、5人目の子どもを産んだけど、10日でなくなってしまったので、今度生むときには、もっと低地で生む、と書いてありました。ラパスは、4000メートル。この方は、日本人でした。

 山岳会の方が半分ぐらいでしょうか?私のように富士山に登ったのはたった1回なんていう人は一人もありませんでした。

 浦安に、来年大学を作るという方がありました。芸術学部と、健康科学部だけの了徳寺大学というのです。芸術による癒しをテーマにしたいそうで、私の夫のテーマに通じそうです。


農村にもバックラッシュが押しよせてきた
        2005,11,18 男女平等推進対話集会in南魚沼 於、南魚沼市民会館

 昨年合併により南魚沼市になって、男女共同参画条例つくりに向けて、準備会が官主導で、今年の春から始まりました。合併した隣町には、全く市民サイドの動きが無く、私の住んでいる旧大和町で数年前から細々と語り合ってきた仲間たちが、この準備会の中核となりました。

 今までまだ2回のイベントを主催しただけですが、確実に定着しつつある感触を得ています。この準備会で、バックラッシュと言っても、皆さん全く聞いたことがないという状態だったのですが、今回、目の前にバックラッシュが現れて、とうとう農村にも攻め入ってきたという実感を持ちました。

 男女平等推進対話集会in南魚沼、という集会が、18日六日町文化会館で行われました。これは、県が主催しているものですが、南魚沼市が共催で、「本音でトーク」のパネラーを選出することなど、私達も協力しての開催でした。4人のパネラーのうち二人を南魚沼市から出したのです。

 ところが当日4人ではなく、5人になっていました。一人多くなったのは、最近になってどうしても出してくれと交渉して来た十日町市の中学の教師で、男性。その人のために8分ずつというスピーチが6分にさせられ、当日になって、スピーカーたちはそのことを知らされ、原稿を縮めるのが大変だったというのです。

 その、中学の教師の発言は、ジェンダー批判で、パソコンを持ち込んでの発言です。「女子が赤いカバンはだめ」というのはおかしいといいます。誰かそんなことを言っている人がいるのでしょうか?「女子は赤」と決めないで、といっているだけです。一番のメインは、混合騎馬戦、男女同泊、同室での更衣、人間椅子でした。人間椅子というのは、男女混合で、ぐるりと輪になって、みんなが隣の人の腿を椅子にして座って、体ほぐしをするというものです。それが、コミックタッチで図解されています。「それをやっている学校の名前は?」と聞くと、それはいえない、といいます。事実だったらいえるでしょ?といってもその学校に迷惑がかかるからいえない、と。それを追及していたら「名前を言わなくていい」という声があがりました。

 そこで、最後に挙手をして発言しました。山谷えり子派が、更衣室が男女一緒と言っている学校をマスコミが取材に行ってみたら、すべて部屋がないためにそうしているだけで、ジェンダーに基づいてやっているのではない。ということがわかったのです。デマに基づいて批判している、だけなので、人間椅子についても、どこの学校なのか正したかったのです。と。

 新潟県にも、このジェンダーパシング派がいるということがわかった出来事でした。男女平等と聞くとどこにでも入り込んで、彼らのデマに基づいた発言をして、自分の実践については何も語らずに批判のみに徹するというのが、彼らのやり方だということが皆さんによくわかってよかったと思ったのです。

 でも、終わってから仲間たちと話してみると、皆さん結構興奮していて、こういう人が入り込んで発言すると、それを信じてしまう人がいることがこわい。というのです。どうやら、同じCDが出回っていて、どこにでも入り込んで、やっているらしいということもわかりました。農村では、男たちが力仕事をするのが当たり前という世界なので、こういう言説が大勢を占めていく下地があると考えさせられました。


知的しょうがいを持つ人たちの発表会
                          2005,11,12 於、小出養護学校体育館

 この地域にすむ知的しょうがいを持つ子どもたちの多くが一度はその門をくぐる一部事務組合立の知的しょうがい児施設魚沼学園の発表会を一寸だけ見に行ってきました。

 この学園の職員である関直樹さん(43才)からのお誘いがとても魅力的だったからなのです。ずうっと前、浦佐保育所に居たかなり重度のしょうがいを持つマリ子ちゃんタカヒコ君が、合唱、合奏をするというのです。
 学園に併設されている小出養護学校の高等部を卒業して、多くの人が作業所などに行くのだけど、そこにはいけない重度の人が、学園に併設されているデイサービスに通っている、その人たちの担当をしているのが関直樹さんです。彼は、ずうっと昔、私が、県内の施設職員の皆さんにお話したときに、その内容に共感を持って以降、手紙のやり取りが始まり、社会福祉法人桐鈴会を立ち上げてケアハウス鈴懸建設のときには、資金提供をしてくださり、時には、一緒にのみに行こうと誘われたりする仲です。

 当日、学園の入り口ですでにマリ子ちゃん、タカヒコ君のお母さんとばったり出会って、一緒に体育館にいきました。母さんたちなんだかとっても晴れやかな顔です。私がくることを関さんから聞いていたといいます。初めての出し物が彼らの出番でした。幕があくと真ん中ににこやかに立っているのが、マリ子ちゃん。タカヒコ君は、ピアノを弾く関さんの隣に腰掛けています。曲が始まるとマリ子ちゃんの動きが出てきて、グルっと回るときには、一緒に回っています。とにかくとても楽しそうにリズムにあわせて動いている姿にとてもびっくりしました。5歳、6歳の頃のマリ子ちゃんしか見ていなくて、今は19歳なのですものね。小出養護学校に入学した頃には、担任の先生が、言葉が通じないからということで、髪の毛を持って立ち上がらせるというようなひどい虐待をし、それを同僚の先生から聞いてなんとかしようと悩むお母さんと一緒に悩んだものでした。

 タカヒコ君は、ある一つの曲が気に入って、それを早くやってくれといって、練習のときにピアノの隣に座ることが、癖がついてしまったということで、それでも、太鼓演奏になったら、関さんと一緒にステージに上ってバチを持ってたたいていました。
 これを見ていた学園職員の男性(関さんと同じぐらいの年)が、私の耳元で解説してくれました。「毎日毎日練習したんですよ。始めのうちは、ただごろんと寝転んでいるだけだったのに、ああやってみんなが立っているのを見るだけで驚いてしまいますよ」 関さんを始めとする職員たちの熱意が、伝わった結果でしょう。この人たちは重度だから何もできない、という思い込みを捨てて、諦めないで取り組んできた結果なのだと思いました。


ピープルファースト全国集会in新潟
                           2005.11.5〜6  於朱鷺メッセ

 ピープルファーストは、さすが、ステージに上る人の殆んどは、知的しょうがいを持つご本人たちです。軽い重いという言い方には問題があるとは思いますが、殆んどが軽い人たちだと思います。

 5日は、全体会で、厚労省専門官大塚晃さんによる「自立支援法」の解説とそれにに関するやり取りや、オランダ、スウェーデンのピープルファーストの方たちの報告、などがありました。大塚さんは、火の中の栗を拾いにやってきた方です。「自立支援法断固粉砕」というのが、この大会のスローガンだったのですから、かなりの罵声を浴びながら、それでもかなり誠実に答えていました。給料は?ときかれて「50万」と答えたり、自立支援法は、「自立破戒法」と言われているが、3障害(身体、知的、精神)を統一すること、障害者の就労支援をすることなど、改革する内容があるので、理解して欲しい、と訴えていました。質問者の中には、自立支援法を通さないで欲しいという人がいて、「もう通ってしまった」といわれて、「え?いつですか?」と聞く人もあったりしました。

 実際は、ガイドヘルプなどが減らされて、自立生活をしている人たちが今よりも、外に出られなくなると言うことを訴えていたのですが、大塚さんは、今より減る人はないはず、ということです。

 ここに集まっている人たちは、グループホームなどで生活し、昼間は作業所などに行っているという人たちが圧倒的です。一番驚いたのは、小児科医で新潟には何回も講演にきている山田真さんの娘梅村涼ちゃん(夫婦別姓でお母さんの苗字を名乗る)が、かなり重度なのに、アパートで一人暮らしをしていると聞いて驚きました。木金土は、実家に泊まるとのこと。アパートでは、自分で食事も作っているそうです。左手が使えないし、足も悪いし、知的しょうがいもあるしで大変なはずです。昔私が、この町にお父さんを講演に呼んだとき、3人の子ども連れでやってきて、4人でうちに泊まったことがありました。そのとき、私が、「お母さんの名前、なんて読むの?」と聞くと「私頭悪いからわかんないの」と答えたのは12歳ぐらいだったでしょうか。浄という字をきよらと読むことを後で知りました。今は、32歳とのことでした。ヘルパーさん付きで来ていたのです。

 スウェーデンからのゲストは、アンナ・ストランドと書いてあったので、2年前に訪れたときに、受け入れてくださったグルンデンと言う本人組織が運営するレストランの代表だった人で、再会を楽しみにしていたのですが、なぜか、違う人が来て、「アンナは?」と聴くと知っている、というので、よろしくね。といっておきました。同じ、イエテボリに住んでいる方で、スピーチは、英語でしました。オランダからのゲストも、英語のスピーチでした。それを日本人が通訳してくれたのです。

 5日の全体会終了後、交流会がありました。なんとその会費が7000円。障害者の方たちは、自分の介助者の参加費まで自己負担なのですから、この交流会費はどうしてこんなに高いのだろう?と皆さん首を傾げていました。大会の参加費は2日間で、3000円と凄く安くなっています。

 交流会では、新潟県の今までいろいろなところで出会ってきた関係者がみんな集まって、歓談。その中に、全体会で、ただ一人だけ女性だった佐藤由梨さんがいました。おどろいたことに、ステージに上っている人、会場から発言する人の中で、女性はこの由梨さん一人だけだったのです。手をあげている女性がいても指されない。障害者の総数では、圧倒的に男性のほうが多いという現実はあります。でもそれにしても、十数人中女性が一人と言うのは、障害者の世界も、やっぱり男権社会なのかと考えさせられました。

 その日の夜は、十日町から母子できていた春日靖子、新さんたちと飛び切り安い宿「全逓会館」に泊まりました。この春日新さん(15才、女性)は、視覚障害、知的しょうがいの重複です。3歳のときに、大地塾に母子で来て以来の付き合いです。(靖子さんとは、結婚前からの付き合いでしたが)新さんは、小中学校9年間普通学級で過ごし、お母さんは、点字を教えようと大変な努力をしてこられ、今回初めて私の点字の名刺を手で触って、読んでいただくことができました。今は、作業所に通っています。佐渡の鼓童という世界的な太鼓に合わせてステージで踊ったときに、新さんと一緒にあがって踊らせてもらいました。

 6日の分科会は、その新さんが中越地震の体験を話すところにいくことにしました。ここでは、新さんのほかに海津さんという車椅子の青年が発表者でした。新さんは、姉、兄、母と4人で車の中で地震を体験、だから、物が落ちてきて怖かったということもないし、見えないので、何が起こっているか理解できなかったらしく、翌日学校の文化祭にいかれないと言うことを気にしているのみだったそうです。みんなもいかれないんだということをよく説明したとのこと。電気水道がこなくて、自家発電ができるお母さんの実家に行って、おいしい食事で、困ったことはなかったという発言でした。

 海津さんは、福祉ホームに居て、建物が頑丈だったので、外に逃げることもなく、困ったことは、電気ガス水道が、通らなかったこと。情報は、ケータイのメールが一番。そのための充電器を用意しておくことが必要。とのこと。

 司会の黛さんからは、避難所がバリアフリーでなかったことを申し出たら、避難所を変えてくれたところ、更には、その人の部落の避難所全体を変えてくれたところもあったということで、何でも言っていくべきという結論でした。

 参加者総数700人と言うことですが、確実に力をつけてきて、世の中に向かって知的しょうが者たちが、「施設は要らない」「障害者である前に人間だ」と叫ぶことができるようになってきたことが感じられました。

 7日には夕方ピープルファースト全国実行委員会に出て、その後委員である4人の方が見えました。二人がしょうがい者で、残りの二人が支援者。本人の一人は、東京ピープルファーストの事務所で出会って以来、東京に居た時は、そこここでお目にかかっていた佐々木信行さん(32才)。もう一人の本人は、名古屋のグループホームに居て、この13日から自立すると言うかなり重度の脳性まひの安井伸一さん(30才)。コミュニケーションは、文字盤でしていて言葉では通じないのですが、いろいろな方法で意思を表現します。タバコが吸いたい、背中がいたい、トイレにいきたい、など介助者の柳井さん(女性)、安里さん(男性)には通じていました。安井さんは殆んど車椅子なので、二階が玄関である我が家には、安里さんがおぶってこられました。家の構造がよろしくないのがこういうときに響きます。

 佐々木さんと安井さんは、同じ「言葉とコミュニケーション」分科会での発表者どうしでした。安井さんは、自分のいいたいことが通じないときに、暴れてしまうことがあって、そういうときにコロニー(施設)のショートステイに入れられてしまうのだそうです。それがいやで自立生活に踏み切ることにし、13日を楽しみにしている様子でした。佐々木さん、安里さんも名古屋まで行って安井さんの自立を支援してくるそうです。安井さんが、車に長時間乗れないためにここで中休みを取るいわれがわかりました。

 安里さんは、海映、たかひろを知っており、共通の知り合いもたくさんいることがわかりました。その晩は、夫がやっているもえぎ園の地蔵の湯と言うデイサービスに泊まって、翌日東京へ向かいます。

 佐々木さんは、軽度の脳性まひです。言葉が聞き取れにくいのですが、慣れてくるとわかるらしく、支援者の二人による通訳で理解できる状態です。

 8日朝、朝ごはんを食べにこられて、随分長い時間ここで色々おしゃべりしました。安井さんは、実は、その日東京にいって5日間自立体験室で体験をして、13日にアパートに住むということで、その日は、ベット、布団など新居の家具について支援者からケータイに電話が入っていました。私だと、殆んど彼の言葉は聞き取れないのに、電話で話してなんとかしてしまうんですから、本人も、支援者もすごい。タバコをすうにも、介助が必要だし、食事は勿論で、自立したら、何時間の介助?と聞くと、24時間とのことです。これだけ重度の人の自立生活を完成させようと言うのですから、その意気込みたるや大変なものです。

 その日は、文字盤を使ってかなり安井さんと話しました。去年、ピープルファーストで佐々木さんと知り合って自立生活への意思が固まったそうです。養護学校卒業の18歳からの夢が13年で実現できると言うのは、早いほうだと、安里さん。佐々木さんは、障害程度は、軽いほうですが、それでも、自立生活を始めるときには、心配する親と喧嘩して出て行ったということです。勿論安井さんの親も反対。世界中のしょうがい者の皆さんがこうやって、身体を張って実現にこぎつけたのが自立生活だということが、よくわかってきました。

 そもそも、今回この方達がここに泊まると言うことを私に頼んだのは、田中瑞木さん(自閉症の画家)の御両親でした。どういう関係?と聞いたら、田中瑞木さんと佐々木さんは、特殊学級(中学)、高等養護学校で、瑞木さんと同級だったというのです。忘れていました。瑞木美術館準備室ができたときにお祝いに行ったときにも、佐々木さんと出会っていたのです。佐々木さんはちゃんと覚えていてくれました。彼もかなりの言語障害があるし、足も不自由ですが、よく気が回って、東京ピープルファーストの外交官でした。私が事務所を訪ねたときにもお茶を出したり、色々気を使ってくれました。

 帰りには、安井さんは、玄関から安里さんの背中にぶら下がりながらも、自分の足で階段を下りていきました。自立生活への意気込みが、彼の生活意欲を高めていると言う感じがしました。


(「想う事」にも関連文章を書いてます)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~chizuko/think4.htm


二戸市での講演会    2005,10,29

 29日は二戸市で、カシオペア連邦障害者団体連合に呼んでいただいて、殆んど障害者に関係する皆さんに聞いていただきました。
 カシオペアと言うのは、5市町村の連合体を指すそうで、知的、身体、精神、3障害が統一されている連合体でした。国では、今回の自立支援法でやっと統一することになるのですが、ここでは、3年前からすでに一緒に活動して来た歴史があります。その動きをつくってきたのは、県から派遣されていた公務員だったそうで、その人の部下だったと言う県職の矢作淳さんが、「平井信義さんとか、サマーヒルとか関係されているので楽しみにやってきたら、想像通りの話だった」と終わってから言っていました。

 障害者のコーディネーターを勤める佐波麻帆子さん(35才)は、東京から来て10日ですっかりここの言葉を使いこなしていた、という迫力満点の方でした。翌日お邪魔する宮古市の知的しょうがい児者が、車で2時間かかる二戸まで子どもたちを預けにきてしまうのは、この佐波さんの存在が大きく、宮古市の中心的存在である斎藤れい子さん(「宮古での感動」、に詳細アリ)の娘さんは、佐波さんが属しているカナンの園の児童施設で佐波さんに担任されていたというつながりがあり、佐波さんは、斎藤さんからの絶大な信頼を勝ち得ているのでした。

 佐波さんは、私の話を聞いてからこう言っていました「こんな話だとわかっていたら、もっと大勢に声をかけたのに」これは、紹介者である工藤茂広さんが何者であるのかわからなかったということがあったらしいのです。今回も、工藤さんが、司会ということで始まったのですが、彼は、自分のことを何もいわずに、私の紹介だけしてマイクを私に渡したので、「工藤さんの紹介をしますね」といって話し始めたら、そこで、どよっと笑いが起こり、会場が和んでしまいました。「宮古養護学校の教員だったときに、内地留学で上越教育大学にきていて、そのときに各子配布した宇洋のリーフを見てメールしてきたのが私のところだったと言うつながりで、それから延々とメールのやり取りを経て、昨年宮古に呼んでいただいたというご縁です。今年の4月に二戸少年自然の家の職員として転勤してきたので、明日宮古に行くついでにこちらへも、と呼んでいただくことになったのでした」

 私をすっかり変身させてくれた知的しょうがいを持つまあちゃんとさっちゃんのこと、別名「迷惑の出前」耕輔学校のことなど、いつもの話を皆さんとっても喜んでくださって、たくさん送っておいたつもりなのに著書が4種類売切れてしまうと言う盛況ぶりでした。

 夜の懇親会では、今回の人集めの中心人物が集まって、それはそれはにぎやかに盛り上がり、精神障害者のソーシャルワーカー玉木かおりさんと佐波さん女性二人だけで充分なくらい話題が豊富な方たちでした。佐波さんは、ありのまま舎にも行ったことがあるし、以前ご紹介した埼玉の知的障害者更生施設という名前を持った9軒のおうち「アナン」にもいったことがあって、ルーテル大学の後輩がアナンに勤めているということでした。
 アナンに連絡してみたら、カナンの園の方はたくさん訪ねてこられているということでした。それで、宮古の方たちがたくさんカナンの園に子どもさんを預けていると言うことの意味が更にわかった気がしました。

 「メタセコイアの木の下で」の上映会もすぐ実現しそうな感じだったし、来年また私を呼んでくださることにもなって、別れをおしんで、工藤さんのおうちに泊めていただいて、翌日、宮古に向かいました。




宮古市(岩手県)での感動     2005,10,30〜31

 去年と同じ会場で、同じように障害者関係のNPO法人いきいきワーキングセンター主催の講演会です。「地域活動を考えるーー被災された知的障害者と大地塾とのかかわりを通して」というタイトルをいただきました。

 今回は、宮古市長夫妻が聞きに来られて、市長が、始めの挨拶でした。去年もきっと報告したと思いますが、この熊坂市長は、もともと医者で、数年前在宅医療ネットワーク(代表が夫黒岩卓夫です)の全国集会に、後二人の市長とともにシンポジストとして、参加されていました。旧宮古市では教育委員5人のうち女性が3人を占め、そのうちの一人が委員長。というようにほかでは考えられないような改革に取り組んできた方です。今年は、610区画のバリアフリーの市営墓地を売り出したということでした。当然のことながら、このことはお寺を敵に回すので、自分はお寺の墓地には入れないだろうから、この市営墓地を一区画申し込んだ(人気があり抽選になる)と言うことでした。

 妻の熊坂伸子さんは、頼まれて滝沢村の助役をしていました。というのは、夫義裕さんが宮古市長になってから、財政の勉強をしてくれないかというので、東北大学の大学院で、財政学を学び、その結果として滝沢村に乞われたのです。そのときのことを「助役日記」として盛岡タイムスに毎週連載しています。実は、助役を無くすと言う任務を帯びて赴任し、この春からフリーになられています。赴任のときの村長の紹介は、「助役をリストラします。」といつも付け足していたそうです。こういうときには、女性が使いやすいらしいですね。ほかにも、ポストをなくすときにそこに女性を置いたということを聞いています。

 最近回りの町村を合併し、7月に合併後の市長選がありました。そのとき、熊坂氏の対抗馬は、民社系の労組出身、民主党推薦、労組や、様々な団体が運動し、小沢一郎も相手候補を強力に応援し、熊坂氏は、自民公明推薦、草のね選だったのだそうです。それに勝ち抜いて、新しく教育委員を任命するときに、今回私を呼ぶのに中心的役割を果たした斎藤れい子さんをいれました。この方は、しょうがい児(と言ってもすでに25才)を持つお母さんで、二戸地区にあるカナンの園へ子どもさんを預けた方。知的障害者の作業所とリサイクルショップを持つアトリエSUNの代表を務めています。委員長は今までと同じ女性平井ふみ子さん、この二人が組めば何事か起こるはず、とこれからの活躍に期待しているところです。こうした人事に、市長夫人伸子さんの男女共同参画の観点からの意見を充分に取り入れている市長さんでした。

 夜の懇親会までの間に、市長ご推薦のタラソテラピ-の市営大型施設にいき、マッサージ効果抜群の海水の中に浸かって来ました。

 ご夫妻が話を聞いてくださったばかりか、夜の懇親会にもご夫妻で参加し、皆さんが帰られたあとも、最後まで残って、懇談しました。殆んどが、障害者関係の方たちだったので、その方たちの話しを一人一人聞いて回っていました。

 去年もご紹介しましたが、知的障害者だけの職員で運営するカレーレストラン「カリー亭」、今回もここで昼食をいただきました。入るとすぐにレジの方が「バイキングになっています。料金を先に払ってください」と誰に対しても同じ台詞が飛んできます。美人で、愛想のいい20代の女性です。
 ここの社長小幡勉さんは、なんと私と同じ小学校、中学はとなり(目黒8中)というご縁なのですが、25年前にご夫妻でここに住み着き、焼き鳥屋を始めた。そこへ、実習にきた宮古養護学校の生徒が練習すれば串刺しができるようになるのを見て、この人たちだけで運営する店をと考えて、カリー亭を創設。レストランのみではなく、レトルト商品が、東京のデパートで人気を博し、去年は、そのフランチャイズ店が、滋賀にもできたそうです。千葉県が、障害者就労のモデルとして、表彰したとも聞いています。
 新潟市でも、フランチャイズ店を出さないかと小幡さんから、言われていますが・・・どうでしょうか?

 今回この方がうちに泊まれば、といってくださって、夜、連れて行かれたのは、陸中海岸国立公園内の林の中の一軒家でした。国立公園内では、道を通る人から見えるところには家を建ててはいけないという規則があるそうで、やまんばが出そうな真っ暗な林の中にはいっていくのです。道からは見えないところに立っているペンション風のおうちに泊めていただき、朝日に出迎えられて、目覚めました。小幡さん、工藤さんと3人で朝の散歩、リアス式海岸の見事な眺めに圧倒されながら歩きました。

 家に戻ると妻佳子さんの朝食が出来上がっていて、カリー亭作の雑穀粥(レトルトですが、これがとっても美味)でいただき、その後、勉さんの1400というどでかいバイクに乗せていただいて、海岸線を走って、町に行き、斎藤れい子さんのリサイクルショップに着いてもまだ、体が振動していて、実に気持ちのよい初体験のドライブでした。お客で込み合っているリサイクルショップ(斎藤れい子さんが代表)でいくつか買い物をして宮古を後にしました。

 31日に帰りついたのですが、翌日は、斎藤れい子さんから、もの凄く大きい荷物が届きました。皆さんからいただいたお土産、売れ残った本に、リサイクルショップで私が買ったものたちを数を増やして入れてある、その知恵にも感心しました。さらに「がんづき」というそれはそれはおいしい蒸しパンがたくさんいれてあったのでした。月に雁が飛んでいる感じがするように胡桃やごまが表面にかかったものなのです。この魚沼では、大好評で、どこに持っていってもおいしいと言ってすぐに平らげられてしまうのでした。6個がパックになっていて、それが30パックぐらい詰まっていました。今(5日)、2パックしか残っていません。


仙台ありのまま舎訪問     2005,10,28

 10月28日、仙台の「メタセコイアの木の下で」を製作したありのまま舎を訪ねました。去年に続けて2回目の訪問です。それでも、山田富也さんの呼吸が5年前に止まって、妻である浪子さん(保健士)の手に青あざができるほどたたいてようやく復活し、以後5年間人工呼吸器と心電図の機械を取り付けたまま生活している富也さんに面会すると言うことは、とっても緊張しました。

 緊張を解いてくれたのは、富也さんその人で、あれこれ質問したり、私の質問の答えてくれたり、そのやり取りが、なんともユーモラスなのです。「全身動かず」なんていう題名の本を出されている富也さん、もう5年以上、病院以外には出歩かない生活をしているというのに、世間のことはなんでもよく知っていて、どんな話題にでもコミットします。

 「メタセコイア」上映会の実行委員長だった車椅子の青年山内俊博さんのことを「ここに来ないかなあ」というので、往復最低10時間かかるので、かなり難しいのでは?というと、「中村に迎えに行ってもらったら?」というのです。驚きました。そこまで気合を入れて考えてくださっていると言うことです。山内さんがありのまま舎を訪ねる日を夢見ていきたいと思います。だって、山内さんが目指している自立生活を、13年前に自立ホームを自力で立ち上げることによって実現させてしまった富也さんですから、先輩として、色々な智恵を当事者同士で、伝えていきたいと思われているのでしょう。この自立ホームと言うのは、当時の厚生省の「福祉ホーム」とい制度を利用した初めての施設だったのですが、厚生省は、軽度身体障害者向けに考えていたというのに、ここでは、重度の方ばかりを入れたので、介助の必要な方には、ボランティアさんの手を借りているだけだというのです。3食の食事は自分たちで作ります。自立している老人の為のケアハウスは、食事を提供しますが、ここではそれがありません。9人の方が入居されています。

 この自立ホームの体験室に私は泊めていただきました。部屋が、ベットも、流しも低くなっていて、使いやすくなっていました。この自立ホームでは、暮らせなくなった人や、もっと重度の人たちのために難病ホスピスが、その後何年かしてできました。こちらは、60床で、女医さんが医療的サポートをしています。

 富也さんは、ものすごく重度なのに、難病ホスピスではなく、自立ホームのほうで暮らしておられるのが不思議だったのですが、富也さんは、ありのまま舎の常務理事ということで、その部屋は、彼の執務室だと言うことが今回わかりました。下記のプログで、様子を探ってください。

 私が訪ねたときの写真を富也さんのプログに貼り付けてありますので、アドレスをお知らせします。
      http://tomiya.way-nifty.com/tomiya/2005/10/post_6a5e.html


 ありのまま舎の本にはよく登場している白江浩さんとはじめて出会うことができました。ここに来る前は?ときいたら驚いたことに「八代英太の秘書をして、自民党に入った時にやめて、美濃部さん、青島さん、の政策秘書をしていました」というのです。八代英太さんが、まだ議員になる前、怪我をして落ち込んでいるときにありのまま舎を訪ねてきて以来、山田富也さんとは親しく、富也さんが自分の分身として白江さんを八代さんの秘書に提供したと言うことらしいのです。自民党にはいるときに白江さんがやめたということについて、富也さんは「そこまでしなくても」という言い方で、白江さんの正義感が浮き彫りになっていました。白江さんは、8年間の国会生活はとっても楽しかったと言っておられ、富也さんが動けなくなって戻ってきたのだそうです。

 そもそも白江さんは、どうしてここに?ときくと、東京での学生時代にテレビで「車椅子の青春」のことを知り、大学を辞めてありのまま舎にきてしまったということでした。国会に行っているときに結婚して、だから、今も家は東京にあって、週末は帰るのだそうです。その日も金曜日だったので、最終で東京にいかれました。

 私の夕食を、この白江さんと、上映会にきてくれた中村さんと、富也さんの娘綾佳さんと4人でセットしてくだったのは、富也さん。まず、仙台駅についたときに、迎えにきた中村さんは、私に飲み物を聞き、ビールと日本酒、という回答を電話で知らせて用意して待っていてくださったのでした。

 綾佳さんは、富也さんのはじめての妻の子どもです。今は、難病ホスピスの施設長(副、とついているのですが、長が、白江さんなので、白江さんは、富也さんの代理として全体を見ているので、実質的には、この方が長なのです)として、活躍されています。最近結婚したと言うのがビッグニュースでした。相手は、トルコ人で、ムスリム。綾佳さんは、クリスチャンなのです。どちらの神も同じ神だからということで、お互いに相手の教会に行っているそうです。

 富也さんは、このアリさんをとっても気に入っていて「この人は、何でも受け容れる人」といっていました。私の為に、アリさんを呼びつけてくださった富也さん。仙台の語学学校でトルコ語を教えているので、夜9時ごろに現れたアリさんは、本当に素敵な娘婿さんでした。

 今製作中の「母山田外与子」という映画、来年公開されたら是非こちらで皆さんと見せていただきたいと心に決めています。お母さんの人並みはずれた行動力と子どもたちへの愛の深さが、今のありのまま舎を作った原動力だと思うからです。

 ありのまま舎は、1999年から自立大賞という賞を作って、障害者の自立をサポートしています。盲聾という重複しょうがいを持つ福島智さんが、東大先端研の助教授として障害を持つみなさんの輝きの星となられる前に(私の推定です)この大賞を受賞しています。

 この大賞の審査委員に、福祉の世界では、知らない人がいない大熊由紀子さん、叉たかひろの沖縄の母、富山光枝さんが揃ってなられました。皆さんの周りにも、この賞にふさわしい方がありましたら、ご紹介ください。自立生活を実践している個人または団体、自立支援大賞は、支援している個人または団体ということです。今まで新潟はこの網に引っかからなかったみたいです。

 ここまでの報告を読んだ方から、早速脳性麻痺の夫婦で、新潟の障害者運動の草分け、篠田隆、恵夫妻を推薦したいと言うメールが届いたので、その方に推薦状を書いてとおねがいしています。二人には、二人の息子がいて、上は、今高校3年だと言うことで、子どもたちが両親の介助をしているようです。篠田隆さんは、新潟自立生活センターの代表を務めています。



「メタセコイアの木の下で」上映会、
                       2005,10,16   於、小出郷文化会館

 10月16日は、私たちの45周年結婚記念日でした。丁度その日に行われた上映会があんまりにも感動的だったので、まるでご褒美を頂いたような感じでした。

 「メタセコイアの木の下で」という映画は、ありのまま舎が去年製作し、今年の5月に公開したものですが、すでに賞を二つも取っています。ヒューストン国際映画祭、恋愛部門で銀賞。もう一つは日本のもので忘れました。

 仙台のありのまま舎から事務局の中村さんがフィルム(DVD)を持ってきて、自分で上映してくださり、30分の講演もしてくださいました。

 「こんなに科学技術が発達した社会で人を殺しあう戦争が行われるなんて許せない。われわれの戦いは、病気と、社会が相手」「この病院は、われわれの生活の場だというのに規則が多すぎる」などの社会へのプロテストがあります。
 西多賀病院という結核の為の国立療養所に山田富也さんの3兄弟(3人とも筋ジス患者)が入院したことから、そこが、筋ジスの人たちの住処になったのでした。そのおかげで、3人は力を合わせて「ありのまま舎」を立ち上げます。治療法がなくて治療を施すということがないのに入院させるということは、それだけ柔軟だったはずの病院でさえ、規則ずくめでした。でもその中で、看護婦さんたちの助力もあって、全国の筋ジス患者への発信と、その人たちの詩を編集して初めての「車椅子の青春」を出版します。そして映画化。映画は、これが8本目。本の出版は、かなりの数に登ります。

 これは富也さんの長兄寛之さんの看護婦さんとの恋愛の実話を元にした劇映画です。映画の中では、寛人さんのパートナー「さっちゃん」は妊娠がわかると職場を変え、一人で出産し、死期がおとおずれたことを元の同僚から知らされて、3歳になった娘をつれて元の職場西多賀病院を訪ねます。結婚ということを考えられず、一緒に子育てするという事もありえず、叉住処を考えても、当時は出口なしだったのでしょう。積極的に二人の関係をつくっていく女性の姿、また毅然と一人で出産、子育てをこなしてしまうさっちゃんの生き方が、見る人の感動を呼びます。叉、不治の病であることにめげず、初めて作った詩集「車椅子の青春」を厚生大臣に届けにいく積極性、諦めない寛人の姿勢と、弱音の相克。

 午後の部は、300席を埋め尽くし、前に出した椅子20もなくなって、通路に腰掛けている人もあり、チケットが売れないで走り回ったこの1週間はなんだったのだろう?と思われるほど、当日券(同じ500円)できた人が多かったのでした。たくさんの障害者がきてくださり、中でもおどろいたのは、新潟からバス(結び屋というフリースペースを運営する内山孝子さんが企画して、私たちの社会福祉法人桐鈴会が建てた夢草堂見学とセットでした)できた中に視覚障害者の小黒さん(旧姓)がいたことです。山田富也さんを知っている、と中村さんに話し掛けていました。全く目が見えない人が一番前に座って耳を傾けている姿は、「心で見ている」という感じでした。昔、黛さん のうちに同居していた頃、お目にかかっていたのでした。今では、確か結婚して2児の母です。そのころもう一人黛家に同居していた篠田隆さんも、同じ脳性まひのめぐみさんと結婚して、2児を儲けています。当時はまぐみ小児医療センターの整形外科の医者だった黛家が、新潟の障害者運動の発祥地に思えます。

 新潟からのバスには、アンリさんというベルギー人の牧師さんも乗っていました。この方も新潟の障害者運動にはなくてはならない方。篠田さんが、自立生活をはじめられたのも、アンリさんあってのこと、同じアパートの別の部屋に住んで、介助をし続けてきた方でした。お名前を聞くことは度々だったし、新聞や雑誌ではお目にかかっていたのですが、直接会うのは初めてでした。

 実行委員長の山内俊博さんの挨拶も心を打ちました。魚沼に自立生活センターの拠点を作りたい、障害者の生きる場が、両親と同居か、施設しかないことにふれ、「障害があったって、地域で普通に暮らし、社会活動に参加したり、恋愛をしたり、旅行をしたりと、そういう生活が送れるような社会が当たり前なんだということを信じて、これからも活動を続けていきたいと思っています。」と訴えたのです。彼は、新潟大学の学生だったときに、交通事故で頚損、車椅子での生活になっています。私は、この映画を持ってくると考えたときに、真っ先に彼に実行委員長をお願いし、すぐに引き受けてくれたのでした。

 目を泣き腫らして帰っていく人たちもありました。アンケート用紙がたくさん集まったほか、ありのまま舎発行の本やDVDがたくさん売れた、カンパ箱にたくさんの紙幣、貨幣があり、すでに3年間寝たきり生活になっている山田富也さんへのおみやげになりました。山田富也さんは、その迫力だけで生き続けているという感じで、奇跡的といわれるほど、今53歳を迎えています。
最近プログを始めました。

http://tomiya.way-nifty.com/tomiya/2005/10/post_6a5e.html
すさまじいものです。ちょっと覗いて見てください。はじめに彼の写真があってまずびびってください。人工呼吸器をつけて、大きな近眼のめがねもつけているので、顔が殆んど見えません。

 昼、夜合計で、460人の方が見てくださっています。中村さんは、こんなに集まることは珍しいとおっしゃっていました。


「日本のシンドラー」--6000人の命のビザ
                                 2005,10,11 読売テレビ製作

 読売テレビ製作の「日本のシンドラー」を見ました。見ておられた方がたくさんかと思いますが、うちでは、揺光が新聞のテレビ覧を見て、見始めたのを、たまたま私たち夫婦も見入ってしまって最後まで感動しながら見たのでした。

 外交官として、日本国のためになることをしたい、といっぱいの抱負を持ってヨーロッパに赴任し、そこで遭遇したのは、ナチスから逃げてきたユダヤ難民。日本を経由してキュラソーに逃杉原千畝は悩みに悩んで、人間の命こそが一番の価値、国より人間、と決断して、外務省からの命令に反して、夜を徹してビザを発給します。「渡航目的」の欄に「生きるため」と書かれていました。杉原氏が署名する一枚の紙が、その人の命を救い、でもその結果、戦後、解雇され、悲惨な生活に追い込まれますが、1968年、そのとき助けられたユダヤ人の一人が、イスラエル大使館の職員となっていて、やっと探し当てたということで、連絡が入ります。外務省は、消息を教えなかったそうですが、それでも、千畝はアウシュビッツに送られることもなく、解雇されただけで、生き延びていたからこそ、自分のしたことの結果を知ることができたのでした。すっかり年をとった杉原千畝が大使館でそのユダヤ人と抱き合うシーンは、本当に感動的でした。

 神戸の震災で6000人がなくなった、その10年後に、6000人の命を救ったこの出来事を映画化してくれた読売テレビに深く感謝しました。こんな日本人がいたという事実に勇気をいただきました。


ベアテの贈りもの上映会  
                      於新潟市ユニゾンプラザ   2005,9,24

 新潟上映会は、魚沼と違うのは、監督の藤原さんが30分話をしてくださったということでした。彼女は、子育てを終わらせて、47歳のときに監督に復帰し、長編映画を作り出したのは、63歳からで、73歳の今日までに5本の長編を作ったというのです。63歳という年齢は、緒方貞子さんが国連難民高等弁務官に赴任した年と同じです。これから年をとっていく私たちへの励ましになりますね。そのことを始めの挨拶とさせていただき、藤原さんのお話になりました。

 彼女が初めて作った映画は、「杉の子達の50年」というもので、これは、学童疎開を取り上げ、10年前に新潟市でも上映会をしたのだそうです。日本の近現代史の中で、何故日本があのような戦争に突き進んでいってしまったのか、を突き止めたくて、映画を作ってきた。ということでした。だから、今回も、ベアテさんがいう「日本国憲法そのものを、平和をもたらす国際貢献として、世界に売り出して」を強調しておられました。

 私が、藤原さんの映画と対面したのは、「ルイズその旅立ち」で、大杉栄と伊藤野枝の娘、伊藤ルイさんを描いたもので、大杉栄が、中学時代をすごしたという新発田で上映会があったのを見に行った時でした。そのとき、藤原さんもきてお話され、終わってから、東京に帰る彼女と、浦佐まで一緒で、色々おしゃべりしてきたのが、5〜6年前でした。2001年の私の東京選挙のときには、四谷の選挙事務所によく来てくださっていました。今回藤原さんの話を聞きながら、以前の藤原さんとは別人のように感じてしまいました。そう伝えると、「あの頃はまだ始めたばかりだったのですもの」が答えでした。確かに、何が変わったのかというと、一言で言うと「自信」ということになるのかもしれません。

 彼女の話で、印象にのこったのは、「映画ができて試写会を何回もしたのですが、それを見た男性が、一様に『全然知らなかった。女性たちがこんなことをしてきたって』といったことに驚きました」でした。朝日新聞で、「女の働き」というシリーズを企画して、この映画の宣伝をしてくださった早野透さんもその一人だったそうです。このシリーズは、今年の4月26日から始まり、16回まで連載されたのですが、1回と2回がこの映画ができるまでのいきさつです。魚沼でも、新潟でも、このコピーを参加者の皆さんに配ったのですが、魚沼では、たくさん残ってしまいました。欲しい方にはお送りします。

 実は、この日も、私の敬愛する間藤侑(すすむ)新潟青陵大学教授(教育心理)が、とっても感動した、全然知らなかった、学生たちに見せたい、と言って帰っていかれました。彼の想いが実現する日を気長に待ちたいと思います。この方のことは、私のはじめての著書、「おお子育て」に書きました。当時、新潟大学付属幼稚園長をしておられ、「能動的な子ども」というテーマで、私たち現場の保母達をリードしていた方です。確か、数学科出身というのも、共通点だったと思います。

 この日、さすが、新潟市、と思ったのは、昼間の上映は、450席の会場が、満杯でした。夜は、150です。小出では、昼と夜の人数が同じだったのに、夜が少ないのも、都会だからかと思いました。ここらでは、土曜日でも、昼は仕事という人が、大勢です。


ベアテの贈りもの
                     2005,9,17  於 魚沼市小出郷文化会館

 ここ魚沼の地で、この映画の上映会ができるかと心配していたのですが、17日なんとか、成功裡に終えることができました。「成功裡」というのは何をさすのか、定義は難しいのですが、見てくださった方々のアンケートが、、かなりたくさんあって、それら殆んどが、よかった、さらには、実行委員に上映を感謝するというのまであって、その日は、夜9時に二回目の上映が終わり、10時過ぎまで、余韻を楽しんできました。

 この映画は、81歳のベアテさんが、日本で講演会をしている姿が全体を通じて流れていて、ベアテさんのお父さんレオシロタが音楽家として世界に認められ、結婚、ベアテの誕生、そして来日、それらが、世界史をバックに語られ、世界大戦(レオシロタの弟はアウシュビッツで消えた)、日本の敗戦、が映像をもって迫ります。その中で、憲法草案に男女平等、同一労働同一賃金にいたるまで書き込んだベアテさん。
かなり熾烈なやり取りのあと、14条と24条にしか彼女の努力は稔らなかった。でもその贈りものを日本の女性たちがいかに育て、使ってきたのか、を何人かの女性たちの語りでつないでいきます。私の知っている方では、山口みつ子、赤松良子、石原一子、植本真砂子、井上輝子などです。語りの部分が長いために、中学生の何人かは、退屈して場外に出てしまったということもあったようです。

 女性の権利というだけでなく、9条との絡みも含めて、女性のほうが、平和を希求するという点も強調されていました。はじめの挨拶をした星優子さんも、このことに触れていました。ベアテさんからにじみ出てくる優しくて、楽しい人柄にもひきつけられたようで、ベアテさんも、9条をとても大切にして世界に誇れるもの、といっておられました。

 チケットが500枚ぐらい売れていたのに、実際にみにきた人が300人(昼150、夜150)だったというのも驚きでした。(いつもは歩留まりが8掛けなのに、今回は6掛けです)お寺が経営する小出保育園の園長が、28枚も買ってくれたというので、お礼の電話をかけたら、保育園の研修費で100枚買って、保護者にプレゼントする、と言うではありませんか。これは、実行委員をとても喜ばせたのですが、このチケットを頂いた方たちがどのくらい参加してくださったのか、そこは、よく聞いてみたいと思っています。私から買った、200人の方々でも、かなりの方が、こられなかったので、「義理買い」「押し売り」があったことは確かのようです。

 アンケートに、「憲法を勉強したいと思った」と書かれた方があって、一人でもそういう方が出てきたということを成功と言ってもいいかなと思いました。「出てくる女性たちが、みんな自信をもって堂々と発言している姿に勇気付けられた」というのも何人かありました。また、帰りがけに、「感動したから、夫と娘を、新潟会場に見にいかせます。」といって帰られた方がありました。早速、24日の新潟会場のチケットを、お持ちすると約束しました。

 ところで、昨日、上映会に来てくださった方々に殆んどお目にかかれませんでした。というのは、私は、保育の担当だったからです。去年試写会で見た上に、今回午前中に試写会で見て、午後、夜どちらも保育担当となり、久しぶりに幼児や、学童の子どもたちに遊んでもらいました。

 小出郷文化会館というのは、保育室がキチンと用意されているばかりではなく、親子室という部屋まであるのです。それは、後の部屋で、防音になっているのでしょう。親は、ちゃんとステージをみながら子どもも見ていられるようになっているのです。この会館を作るときに徹底して住民の意見を取り入れて作った新潟県ではそれなりに有名な会館なのです。館長さんが大工さんと言うのも凄いでしょう?つまり、民間人なのです。

 保育室でも、テレビを通して、ステージを見られるのですが、それでは、なかなか集中して見ることができないので、保育担当の方にも、会場に行ってみていただき、私ともう一人の実行委員で、預かりました。昼夜あわせて、7人の子どもが預けられました。小さい子どもを抱えたお母さんには、特に見てほしいと言う思いがあって、無料の託児をしたのでした。

 中ノ島や津南など、遠くからも来てくださいました。叉、石川県加賀市の男女共同参画室の方が二人はるばるこられていました。加賀市でも上映会をしたいからとのことです。


シンポジウム「女(ひと)と男(ひと) みんなでつくろう! 
       ずーっと住みたい南魚沼市」

                           2005,9,3 於、南魚沼市民会館

 3月ごろから活動を続けてきた南魚沼市男女共同参画準備会主催の初めての行事「女(ひと)と男(ひと) みんなでつくろう! ずーっと住みたい南魚沼市」が9月3日(土)午後、成功裡に終わりました。

 準備会として、何回も議論を重ね、えらい先生の話を聞くのではなく、身近な問題を語り合う会にしよう、ということでまとまり、育児、介護、地域、職場という4分野に分けて、それぞれの不得意分野をシンポジストに語ってもらって、第二部で、グル-プトークをしようということになりました。

 育児、介護は、男性が、職場、地域は女性が、問題提起をしました。これがなかなかなものでした。育児について語った40代の男性(準備で集まったときに、「家の弟が宇洋さんと高校で同級」と話してくれました)が「俺は疲れてるがんだ」と言ってしまうのを「君も疲れてるの?」といえる様になりたい。と結び、拍手を浴びていました。職場について語った女性は、建設会社の総務部長で、欠席が続く女性に退職勧告をするようにと上司に言われ、健康が回復してからにして、とお願いして、引き伸ばしていたら、実は、原因がつわりだということがわかって、産休に入り、出産後復職して、実に大切なスタッフになった。退職勧告をしなくてよかった。ということでした。

 そのあとの1時間のグループトークでは、かなりいろいろなことが話し合われたようで、最後にそれぞれのグループの書記さんが、話し合いの報告をしてくれて、散会になりました。

 この企画に一体何人の方が来てくれるだろう?と心配しながら参加を呼びかけました。80人来てくれたらいいね。と言っていたのに、当日の参加者は、100人にのぼりました。終わってからののアンケートは、60人以上の人が書いてくれ50人ぐらいが、「よかった」との回答でした。



上越「マミーズネット」訪問記        2005,9,6

 中條美奈子さんが代表を務めておられる上越市のマミーズネットという子育て支援グループに、新潟市で不定期に行われているジェンダー研究会のメンバーである石川伊織さんからの奨めで、9月6日、広田せつ子さんに運転してもらって片道2時間かけて行って来ました。帰りの車で、「行ってよかったねと言い合いながら帰ってきました。

 上越市民プラザの子育て広場の奥にある講座室と言うところに行くと膝に子どもを乗せたお母さんたちがごったがえしていました。10時から11時半までのおしゃべり会が長引いているそうで、12時過ぎだと言うのにまだ話が続いていました。後で聞いたところでは、普段人には言えないような家の中のトラブルが語られ、それが共有されることで共感が広がり、なかなか席を立つ人がいない、状況だったようです。それに抗して、傍らに椅子を用意してマミーズの人たち15人ぐらいが昼食を広げて自己紹介から始めました。私の本を読んだとか、私の話を聞いただとか言う人が何人かいて、初めてという感じがしない集まりとなり、色々な話題で意気投合したりしました。

 その1先月ヌウェックにいって来た人が、「講習会を受けたので、これからは、ジェンダーを教える立場」だと言う人がいたといい、そのことをめぐって教えるとか、サポートしてあげるとか言う姿勢の人がいると、サポートされる人との意思疎通が難しくなるのでは。

 その2、子どもを預ける、ということに対してかわいそうと思っている人が多い。特に保育者に多い。かわいそうでない保育をすればいいのに。「親が見ているからかわいそう」ということだってあるのに。

 「子育てするなら上越市」という本は、行政が作り上げたもののように書かれてい田と記憶しているのですが、マミーズネットのような市民団体あっての行政だと言うことがいってみてよくわかりました。色々な審議会に会員がかわるがわる参加して力をつけてきたことがよくわかりました。中條さんが、婦人相談所の職員のため相談業務が入って席を立つことがよくあったのですが、皆さん色々話してくださって、中條さん不在が問題になりませんでした。叉、私と殆んど同じ年の上石さんが、若い皆さんの中に入って、違和感なく溶け込んでおられ、随分昔から色々な場でつながりあってきていた仲ですので、それもとてもうれしく思いました。

 婦人相談所というところが、パートさんで成り立っているというのも、女性差別の典型のように思いました。DVのようにとっても専門性が要求される相談業務を女性であるがゆえに経費節約している、こんなこともこれからの課題ですね。

 運転をしてくれた広田さんが、帰りにこう言っていました。「専業主婦で損したと思ったことがなかったのだけど、今日は初めて損したと思った。やっぱり情報量が違うものね」そんなことを広田さんに言わしめたマミーズさん、どうもありがとうございました。

 今年の春、県内のほかの子育て支援グループにいったことがあるのですが、そのとき、一緒に行ったねこみさんが、「支援する人の思いと、される人の思いが食い違うことはありませんか?」と質問したことから話が広がって、親子で集まるところでも、子どもだけが預けられるところでも、家からおもちゃを持っていってはいけないことになっていると言うことが判明し、一緒に行った石黒さんも含めて、みんなで、そんな規則はいらないのでは?といったのですが、なかなか納得しそうもなく、「保育園でも、幼稚園でもいけないことになっている」というので、確かにそうだけど、私は、自分の勤めていた保育園では、家の匂いがするものを持ってやっと登園する子どもの気持ちを大切にしたいからその規則を無くしてきた。と話したのですが、とうとう平行線のまま帰ってくることになってしまった経験があるので、今回も、少々不安があったのですが、この点についても、マミーズの皆さんとは共感しあうことができました。


「田中瑞木展覧会と講演会」
                     於、地域交流伝承館夢草堂     2005,8,14〜27

 8月14日、お盆で帰省している人たちが見てくださるだろうということで始めた田中瑞木展覧会。27日の最終日までに270人を超える方たちが見にきてくださいました。小学生が見ている途中で「この絵、ぼくの教科書にある!」と言って指差したのは「ねこの原っぱ」という100号の油絵でした。本当に小学3年、4年の教科書に載っているのだそうです。

 最終日は、お母さんの阿部愛子さんの講演会でした。お母さんは、「絵はコミュニケーション」(感動した本のコーナーをご覧ください)の本を出してすぐに離婚し、この本を読んでラブレターを出した阿部公輝さんと再婚したので、瑞木さんとお母さんの苗字が違うのです。
 14日から毎日10時から5時まで、殆んど番をしてくださったのが、広田せつ子さん。私は、差し入れにいったり、最後の二日間だけ番をしたぐらいでした。

 講演会は、私が想像したよりもはるかに少ない人数だったのですが、その方たちの熱心なこと!途中休憩を入れて、お茶を出して懇談会に切り替えたのですが、そのときに帰った人が殆んどなく、最後まで、熱中し、終わりを宣言しても誰も立ち上がらないんです。自閉症の子どもを持ったご家族を始め、仕事としてかかわっている方や、家庭問題で打ちひしがれていた人が、帰るときには、人が変わったように笑顔になって帰っていかれる姿を見て、瑞木さんの絵や、愛子さんの語りが、その方の癒しになったと信じられるのです。そのことをメールでかいてきてくださった、知的障害者更生施設職員の方の感想文を披露します。この方は、愛子さんの話は聞いていないんですが、聞いた方の感想もキットこんな感じだろうと思うのです。
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 黒岩先生、(この言い方やめてと言っているのですが、頑固な方です)昨日はありがとうございました。とてもいいものを見せていただきました。

 オレなりの絵の感想を。実は、絵を見て、かなり感動していました。絵の巧拙に、ではなく、迫力に圧倒されていました。

 どうも、その感動が普通ではないような気がして帰ってから理由を考えてみました。会場がお堂でしょう?いろんなモノ、信仰心とか、救いを求める心とか、悩み、煩悩が集まってくる場所ですよね。いい年こいてオカルティックな言い方で恐縮ですが、お堂に渦巻いているそういう感情の群れが瑞木さんの真摯さいっそう際立たせていたのではないでしょうか。

 それであのレイアウトでしょ?意識されて並べたのでしょうか、瑞木さんの描く人、猫、動物はすべて真正面を見据えてますが、その絵がすべてお堂の中央を向いて飾られています。そうすると、絵の中の瞳が全て、常にそこに立つ鑑賞者を射抜くんですね。鑑賞者、この場合オレですが、たえず自分の中の醜さ、汚れをまっすぐな目にさらされているような気持ちになったのだと思います。

 もうひとつ。技術的にはわからないですが、自閉の方が、あれほどバラエティに富んだ技法、画風を扱えるということにも少なからずびっくりしました。オレたちは、やっぱり障害を一定のものさしでしか測れていないんだなあと思ったりもしました。今、オレの受け持ちの子と、11月の発表会に向けて合唱、合奏の計画を立てているんですよ。浦佐の湯本真理子、宮崎タカヒコとかといっしょに、ですが。和太鼓、リズム楽器主体でやる予定です。瑞木さんの絵、ほどには人を感動させられるかどうかわかりませんが、楽しいことになろうかと思っています。

 それではまた、お会いできるときを楽しみにしています。選挙が終わったら、飲みに行きましょうね。
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この方のご両親と、同僚の方が翌日きてくださいました。彼の感動が伝播したのでしょう。
叉、愛子さんのお話を聞いた方からの感想を一つだけ披露しますね。
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 お母さんのお話に感動し、涙をこらえながらお聞きしました。瑞木さんとの32年間、ことばには言い尽くせないほどたくさんのドラマがあったことでしょう。でも今はそれを前向きに振り返りながら瑞木さんの好きなことを夢中になれることをとことんつき合い支えながら歩んでこられたのですね。瑞木さんの絵から本当に不思議なパワーをもらえました。自分は自分、今もっている自分のよさ自分ができることを精一杯やっていけばいいんだなー。そんな人生の応援歌のようなものを感じました。お母さんの穏やかなお話ぶりと、瑞木さんの誇らしげな笑顔、お父さんのあたたかいサポートぶりにもとても感動しました。すてきな講演会と原画展をありがとうございました。

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私や、瑞木さんの写真が載っているHPをご紹介しましょう。 http://umi.or.jp/


タイ、ラオス、家族旅行  2005,7,29〜8,5

一、赤ちゃんを大切にする国

 夫卓夫を何処かに連れ出そうという娘たちの企画に、やっと乗って、「チベットに行こう」と言い出した卓夫。それにたいして、7ヶ月の赤ん坊を抱える帆姿「そんなに標高が高くてはムリ」そこで、旅のプログラム作りの萌実がラオスを提案。結局、タイ、ラオスのたびとなったものの、参加する人数が、今までの最低。赤ん坊を含めて5人ということになりました。
 この赤ん坊がいたことがとっても面白い発見をすることにつながりました。

 赤ん坊に対して、日本人とは違う反応なのです。女同士ではよくあることですが、人が抱いている赤ちゃんに笑いかけたり、触ってみたり、というのが、男性でも、何の抵抗もなくやれるのです。中には、抱いてしまう人もあります。これは、タイも、ラオスも共通でした。ラオスでは、モン族の人たちの刺繍に興味があって、刺繍の出店によくいきました。そうすると男性も女性も、商品はそっちのけで、赤ん坊をあやしています。抱き取って夫婦でかわるがわる渡しあって楽しんでいます。そのあいだに私たちは心ゆくまで品物を見て、選ぶコトができます。赤ちゃん好きの人は、赤ちゃんの方でもよくわかって、抱かれても泣きません。

 ラオスに駐在している日本ボランティセンターの名村さんが言うには、ラオスの人が日本に行くとき、こんなことを言って見送る人がいるというのです。「日本に行ったら、ここにいるときみたいに赤ちゃんの頬をつついたりしてはいけない」そのぐらい、日本と文化の違いがあるようなのです。頬をつついたり、手に触ったり、とにかく、かわいくて仕方がないという感情を伝えてくれるのです。たくさんの出店には、赤ちゃんを連れて店番をしている人もたくさんあります。

 日本で、仕事場に赤ちゃんを連れて行くのはいいか悪いか、という論争があったことがありますが、あちらでは、そんなことが論争にはならないようでした。あのときにも、アグネスチャンが、中国では、当然のこと、と言っていた様に思います。日本にも、そんな文化があれば、1,29にまでは落ちなかったのではないでしょうか?

 この話しを聞いた私の友人が言うには、江戸時代に欧米の人が日本に来て、日本の男性が裸で、裸の赤ん坊を抱いている姿に驚いたと書いていたということで、彼女が言うには、アジア、アフリカでは、赤ん坊を肌にくっつけて育てるのに対して、欧米では、早くから別室で寝かせて、バギーに入れて離して連れ歩く。そんな子育てが、日本にも入ってきてまずいことになったのでは、というのです。飛行機の中で、赤ん坊が泣いていると黒人の男性が抱き上げて、一生懸命泣き止ませようとあやしてくれていたのも、印象的でした。実は、もっと大声で泣くようになってしまったのですが、その涙ぐましい努力がうれしいことでした。

 ラオスのビエンチャンに着いた時にも、こんなことがありました。空港で、ビザを取るのに待たされること50分。あまりの退屈さに泣き声をあげた赤ん坊の泣き声を聞きつけたのか、私たちのパスポートを先に集めて持っていく職員がいました。明らかに、少し先に手続きを終えてくれました。こんなことなら、もっと早くに泣かせるんだった、などと怪しげなことを言う人もあったくらいです。

 キット日本も昔は、アジア式に赤ちゃんを大切にしてきたのではないでしょうか?

二、野良犬王国、タイ

 バンコクの空港に着いたのが、夜中の1時、ホテルに行く前に屋台でクイッティオというビーフンのスープをみんなで食べました。タイでは、24時間何処かで、何かを食べることができる体制になっています。それはいいのかどうか、ヨーロッパでは、夕方はもとより土日は、すべての商店が閉まっているということで、どちらも極端な感じがします。

 札幌の北星女子高校で英語科の教員をしている萌実のクラスに1年間留学にきていて、今年の2月に帰国した生徒のボウが、翌朝迎えにきてくれて、彼女が住む南西部のペチャブリーにいきました。ドライバーをしている叔父さんの車でお母さんも一緒に来てくれて、いくつかの観光地(お寺や、昔の離宮など)を見た後、ボウの高校のときの先生のうちに行き、ご夫婦に歓待を受け、そこに泊めていただきました。ボウのうちは、お母さんと二人暮し、お母さんは一人で、クリーニングを生業としています。そんな家庭のボウが、AFSの交換留学の試験を通ったものの、交通費など、かかる経費を負担することは難しいので、この先生が、同じような家庭環境の生徒二人を連れて、笹川財団の奨学金をもらう試験を受けにバンコクに行き、彼女一人通って、日本にやってきたのだそうです。ボウは、萌実のクラスにしっかり溶け込み、5月の連休には、札幌の同級生が、お母さんと二人でボウを訪ね、すでにその生活ぶりについては、報告されていたのです。ボウは、帰国後3週間で受験をし、タマサート大学の人文学部日本語学科に入学。まだ新米の大学生でした。

 ボウの先生は、その高校の国際交流課の代表、その夫君は、その高校の教頭先生でした。翌日、その高校に案内されて、びっくりたまげました。ここは、中高一貫の元女子校で、数年前から、男子生徒も中学から入るようになっています。進路は、100%進学。とても広いキャンパスは、大学を思わせる雰囲気です。かなりの部分が、寄付によって賄われているのだそうです。国際交流棟に行ってみたら、階段の踊り場にボウの留学体験の写真が展示されている70×50センチぐらいのコーナーがあり、北星での生活が写真で紹介されているのでした。萌実もその中にいて、うちの学校でもよそに留学している生徒があるのに、こんな紹介はしてこなかったといっていました。
 
 その階段を上って2階の教室に行ってみたら、なんと、生徒の机と椅子の間に、犬が寝そべっているではありませんか。人間がいっても、驚きもせずに寝そべり続けているのです。となりの部屋にも、いました。そのことに気がつかずに、ドアを閉めてきてしまったらどうなるのかと心配になりました。仏教の教えによって、「殺生はいけない」ということで、どこにでも野良犬がいるのです。

 その日は、日曜日だというのに、校長も出勤していて、挨拶したのですが、背の高い格好いい、と言ってもいいような男性の校長が、真っ先に、赤ん坊をあやし、赤ん坊を話題にするのでした。翌日は、創立記念日だから、その式典の準備に忙しそうでした。

 校門を出てから、記念写真をとろうとすると、なにやら巨大な看板があり、ボウに読んでもらうと、この学校が表彰を受けたその賞状なのでした。どんな規準かはわかりませんでしたが、3年に一度、全国の高校から10校が選ばれて表彰されるのですが、この高校は、3回続けて表彰され、そんな高校はここだけとのこと。ボウの先生が、自分の私材をなげうって、国際交流に尽くす姿を見て、(その分自分の子どもたちには、我慢をさせて)そんな一途さが、表彰に通じているのかしらと思いました。ボウは、この先生のうちをまるで自分のうちのようにしてたびたび泊まっているのだそうです。先生の子ども二人は、それぞれ外国の高校、大学に行っていて、会えませんでした。
 バンコクに戻って、王宮を見て、ラオスに飛びました。

三、社会主義国、ラオス

 ラオスは、2004年から、アセアンの議長国となり、丁度今年は7月25日から、29日までビエンチャンでアセアンの国際会議が開かれていました。そのために、29日までは、ビザが下りません。30日も危ないというので、31日にビエンチャンに飛びました。

 ビエンチャンは、端から端まで歩いていけるほどの狭い市街地です。大きな市場があり、そこで昼食を済ませてからバスで少しはなれたところにある仏陀パークにいきました。たくさんの仏像が、セメントで作られていてちょっと異様な光景でしたが、空気がよくて、見晴らしもよく、塔の上から見下ろすと、メコン川の流れが見え、のんびり過ごしてココナッツやしの汁を水代わりにおいしく飲んで、戻ってきました。丁度雨季だったので、メコン川は濁流でした。日本の濁流よりも赤みがかっていて、切り株なども流れていて、迫力がありました。

 夜は、日本ボランティアセンター(JVC)ラオスの名村さんと昼食をともにする約束でした。日本を経つ日、地域の班長の仕事をお隣に頼みに行ったら、ラオスに行くと聞いて「今、ラオスの人がここに来るのよ」といいます。うちの町にある国際大学の学生がお隣に毎週日本語を習いに来ているというのです。そこで、レッスンが終わる時間に訪ねていっていろいろ聞くことができました。30代前半に見える彼はビエンチャンに住む病院勤めの医者で、コンピューターを習いに日本にきたということでした。これまでは、ラオス人は国際大学に一人しかいなかったけど、この秋からは、何人かはいってくるということでした。発つ直前ラオス人を出会うという不思議なっめぐり合わせに歓喜しました。

 彼は、ビエンチャンのレストランを詳しくメモしてくれ、いいところから順に番号が振ってありました。なんとJVCの事務所は、その1番とされた番号のホテルの一部だったのです。そこで、名村さん夫妻とその子ども(じょうじ、4才)と一緒に典型的なラオス料理をいただくことになりました。主食は、もち米で、手で小さく握ってたくさんのおかずと一緒に食べるとのこと。トムヤンクン以外は、タイとは違う、ラオス料理で、ラオスの民俗音楽に合わせて民族ダンスを舞台でしてくれ、多くの日本人客と一緒に、最後には、日本の曲もサービスしてくれました。大人6人でたらふくいただき、踊りも見て、なんと全部で5000円でした。

 名村さんから伺った話は、色々興味深いものでした。彼は、大学院で、林学を学び、森の保全に現地の人と一緒に取り組んでいます。ラオスが社会主義国だということがどういうところでほかと違うのかとの質問に対して「不断は全くわかりません。ところが、アセアンの国際会議となったら、ビエンチャンの商店の軒先が格好悪いから、すべて自分の責任で取り壊すように、と通達した」というのです。「我慢強いラオス人たちも流石にこのことには怒っていました」とも。

 ラオスの人たちが好きで、(「タイ人は、微笑みの裏に経済が隠されている感じ」だけどもとのこと)ラオス入りした名村さんですが、お連れ合いの雅代さんがデング熱にかかったとき、ビエンチャンでは、だめ(1週間たっても好転しない)で、バンコクの病院に行ったということでした。

 翌日、昔首都だったルアンパバン(世界遺産に登録されている)に飛びました。空港から、ビエンチャン市街地への交通は、タクシー、ツゥクツゥク(三輪タクシー)どれも5ドルと決まっていました。値段の交渉もいらなくて、ラッキーでした。私たちが泊まるホテルは、町のど真ん中にあり、すぐ前から屋台が並んでいます。ラオスには、屋台がないと聞いていたのに、屋台大好きなわが家族には、うれしいことでした。ハエがたくさんとまっている肉を使ってできたビーフンスープは、上に新鮮な青い葉っぱを乗せライムをかけて食べるのですが、とってもおいしく、叉、生春巻きなどのヴェトナム料理も屋台でおいしくいただけました。

 モン族やラオ族による刺繍を施した布製品の出店もたくさん並んでいます。モン族は、アメリカが占領したときに、モン族を使って、ラオ族を統制したという歴史があり、独立後は、モン族に対しての復讐があり、多くのモン族は、アメリカに難民として移住したということでした。モン族の刺繍を気に入ってしまったわれわれ一同、モン族のお店を回って、色々な製品を買い集めて、お土産にしました。

 ここでは、あんまり吹っかけられることもなく、名村さんが気に入ったというラオス人気質に接することができ、欧米人がたくさん登山のような姿で長期滞在しているわけがわかったような気がしました。殆んど日本人に出会うことはありませんでした。ただ一度、熊本の人と出会い、聞くと菊池郡泗水町の竹熊さん(百姓医者として有名)の家の近くにすんでいるというので、親しくさせていただいている黒岩家族と逢ったことを伝えてくださいといって別れました。

 世界遺産だというのに、国宝級のものが、ほこりにまみれていたりするのが、いかにも社会主義だと思いました。そこに勤めている人は、官僚ということで、だから働かない癖がついているのかもと感じしたが、郵政民営化問題とも通じる気がしています。官から民へ、という、小泉改革の趣旨については、私も、このように理解しているつもりなのですが、今回は、そのことそのものよりも、ほかの要素がたくさん入って法案は骨抜きになるし、流れてよかった、とも思っています。

 政権交代がなければ、本当の改革はできないのでしょう。



富士登山  2005,7,16〜7.18

 7月16日、翌17日の富士登山に向けて新横浜の友人(土器屋由紀子さん)の家に泊まりました。この友人が、富士登山の仕掛け人で、測候所と深い関係がある人なのです。彼女は、大学入学が一緒で、農学部農芸化学に進学して以来、お目にかかったコトがありません。大学の女子卒業生の同窓会「さつき会」の会報に、土器屋さんの名前が登場し、夫と、娘をなくしたと書いてあったので、びっくりたまげて彼女の研究室にいたことがある後輩の鈴木美和子さんからアドレスをうかがって、土器屋さんとメールのやり取りが始まりました。去年、富士山頂上の測候所が無人化されたことに対して残念に思う人たちが、今年測候所をたずねるというのが、18日の予定。そこに便乗して、一度訪ねたかった富士山にいって見ようというのが、私の企画でした。

 2004年12月に「変わる富士山測候所」(春風社)という本が出ました。江戸川大学の土器屋由紀子ゼミ編というものです。気象観測という点については、気象衛星ひまわりができた段階で、不要になった、そこまでは誰もが理解するところ。でも、大気化学観測(地球温暖化、大気汚染などにとって不可欠な問題)という点では、まだまだ利用価値が高いという段階での無人化(=閉鎖)には納得できないという人たちが先日、東京のお台場にある日本科学未来館「みらいCANホール」で富士山測候所の未来を考える集会があり、参加してきました。そのとき、土器屋さんと45年ぶりの再会を果たしました。ものすごく美人で、チャーミングだった彼女が、どんな風に年を取られたのか、興味をもって参加しました。予想にたがわない変貌振りを見ることができて、富士登山への期待がっますます膨らんでいきました。

 16日、江戸川大学の土器屋ゼミの学生6人と土器屋家に合宿をして、7日朝、出発しました。新幹線新富士駅から富士宮口までバスで行き、富士山の南側斜面5合目から登り始めました。前日、夜中の2時に目がさめて、それからずうっと二人のおしゃべりが4時まで続き、睡眠時間3時間半ぐらいで登り始めたのがいけなかったのでしょうか、土器屋さんが早くから呼吸困難状態で、でもそのお陰で、とてもゆっくりな登りだったので、私にはありがたいばかりでした。3460メートルの9合目小屋まで6時間ぐらいで登り、そこに泊まります。山小屋で寝るのは何十年ぶりでしょう。なんと一部屋4人なのですが、女性は二人だけなので、男性二人も一緒です。その部屋には、掛け布団は3枚しかなく、土器屋さんと私は、大きな一枚の布団を二人でかけて寝ました。防寒具をたくさん持っていっていたので、寒くはなかったのですが、私の背丈でも、頭と足が、それぞれの壁についてしまうという広さだったので、長身の方たち、外人さんなどは、縮こまって寝るしかなかったんでしょう。

 翌朝、雲ひとつなく、天気は上々で、ご来光も見ることができ、何とか無事に頂上に着きました。18日9時に測候所で開かれる「無人化された富士山測候所の現状を確認するとともに、将来の活用方法を探るための現地見学会」に参加して、下山するという予定です。土器屋さんの学生6人と、亡くなった土器屋さんの夫君の元学生5人、研究者は、土器屋さんのほかに二人、後はマスコミ各社が10人ぐらいという登山隊です。

 富士山という山は、見てのとおり曲率が負、つまり、凸ではなく凹なために、見晴らしのいいことこの上なしです。これから登っていく曲線も目当てにする小屋も、見えている上に登ってきた道のりも見えているという見晴らしのよさです。5合目が2400メートルなので、1400メートル弱登るだけなので、うちの町にある八海山が1600メートルぐらい登ることを考えれば、空気の薄さが問題なだけです。

 高所科学研究会のメンバーに、高所生理学が専門の浅野勝己さんがいらして、血中酸素濃度を測りながらいくので、これはとてもありがたいことでした。私は、9合目に登りついたときに75まで下りたけど、後はすべて87とかだったので、高山病の気はなしでした。90以上が正常だということです。土器屋さんや、学生の一人は、65とかに落ちていて、高山病の症状も少し出ていて、学生は、帰りには、ブルで下ろしてもらうというはめに陥りました。

 高所科学研究会主催の測候所存続に向けた測候所での記者会見が9時から11までつづき、その間、土器屋さん、浅野さん、のほかマスコミ各社(NHK、読売、東京新聞、静岡第一テレビ)が測候所の中でやり取りしている間、ほかのメンバーは外で待っていました。その後、一同が、中に入って、全体を案内していただきました。この建物は、5つの棟からなっていて、随分頑丈にできているから、あと100年は健在だということです。ここには、去年まで、4人の職員が、交代で泊まっていたそうで、その職員たちのベットと机が、ビジネスホテルのようにつながっており、まだ、主が戻ってくるのを待っているように思えてしまいました。雪を貯めて、溶かして使う水の給水も止まっているし、部屋の中に青いシートが掛けられているものが多くあり、中を覗くと新品のソファーなど、生活の香りがするものたちでした。

 気象衛星ひまわりが活躍を始めてから、確かにレーダーが取り外され、測候所の主な機能はなくなったとはいえ、大気化学物質の測定は、重要性が増すことこそあれ、減ることはありえないでしょう。中国、スイス、オーストリア、ハワイ、ドイツなどでは、同じような事情にもかかわらず、存続しているそうです。今回の記者会見に向けて、硫化酸素と、すすの測定器が運び込まれていて、細かい観測データ-が紙に記録されプリンターから流れています。

 測候所はもともと気象庁のもので、気象庁は、現在国土交通省に属しています。ここは、全く存続するつもりはないので、環境省または、文科省に働きかけて存続を模索しているのが、高所科学研究会に集う皆さんの共通の願いです。1936年生まれの浅野さん、1939年生まれの土器屋さん、のお二人は、この活動に余生を掛けると言って、お二人とも、この登山は体力の限界を越えているのではと心配してしまいました。でも、地球環境の保全という観点から考えたときに、富士山だからこそ観測できる貴重なデータ-が失われるということは、日本のみならず、世界の損失、なので、私もできる限りの協力をしたいと思いました。

 18日、昼前から、下山が始まりました。御殿場口への火山灰を滑り降りるコースです。登山コースは全部で4つあり、のぼりに使った富士宮口が、一番短く、南斜面をまっすぐに取るコース、少し東にとってあるのが、御殿場口コース、後は、東北からのコースが河口湖口、須走口とあり、頂上へはこの二つが合流しています。私たちが登った富士宮口と、下った御殿場口の両コースの中間に宝永火山という出っ張りがあります。宝永年間(江戸時代)に爆発があり、火口が3つあるそうです。この宝永山は2693メートルなので、2400メートルの5合口から登り始めたときには、見上げていたのが、途中から見下ろすことになります。頂上付近には、草はなく、火山灰のみです。その色が薄茶だったり、こげ茶だったりして、見ごたえがあります。この火山の溶岩が流れたのが、富士山の東側斜面だったようで、東側から見ると、裾野にいたるまで草がありません。なんと、3000メートルあたりから大砂走りと名づけられて1400メートルまで駆け下りるのです! 

 火山灰というのは、そんなに細かいものばかりではなく、とんがった石が、2センチ平均で、大きなものは3センチ以上あります。普通にここを滑るとどういうことになるかというと、靴が埋まってしまうので、反対の足によってはねかされるのとあわせて、靴底が10センチ以上あっても火山灰が靴に入り込んでしまいます。途中へばりこんだところで、教えていただいたのは、かかとを先につけるように踏み込んで、蟹股のように両足を広げる。ということでした。そうしたら、靴に入り込む石は減りました。ところがこの同じ歩き方で休みなく歩いていたら、慣性の法則で、私の意志に無関係に動いてしまうようになりました。止まろうと思っても止まれない。やっと止まって、休むと、次に立ち上がるのが、大仕事!だから、土器屋さんは、止まっちゃうと起きられなくなると言って、休むときも立ったままです。私は、立ったままでは休まらなくて、いちいち座り込んで休みました。砂ぼこりで手も顔も真っ黒状態。くたくたになって、バス停にたどり着きましたが、その日の最終バスは、3時で、それには間に合わず、麓にある太郎坊小屋の方(土器屋さんたち高所科学研究会の仲間)が、2台の車で迎えにきてくださり、御殿場口まで送っていただき、6時半の高速バスに乗ることができました。新宿に着いたのは、渋滞で1時間遅れ、9時半となりました。ここまで一緒だったのは、4人でしたが、40歳のマスコミの方は、階段を下りるのに横向き。私も、ゆっくりゆっくリ痛いのをこらえながら、歩いて、目黒の海映の家にたどり着いたという次第でした。

 大砂走りというコースを下りながら、周りを見渡すと、なんだか見たことがある景色です。砂漠の中にところどころ草がはえているアフリカの草原、または、モンゴルの砂漠?富士山の裾野の傾斜に沿って自分の目を少し斜めにしてみると、そんな感じがするのです。ものすごく広い砂漠が見渡せ、こんな景色は、北海道にしかないと思っていた、そんな驚きがありました。

 実は、そんな広いところに、自衛隊と、米軍基地があり、18日、海の日の朝7:15、ドカーンという音聞こえました。雷?いえ、それが大砲の砲撃演習だったのだそうです。北富士演習場、って聞いたことがある地名ですね。日米共同訓練をしているそうです。

 登りでも、最後には、若いマスコミの方が私の荷物を一つ持って、さらに自分の杖を分けてくださり、下りでは、最後には、私の持ち物がなくなるように、周りの方にもっていただいてしまいました。今までの登山では、人のを持ってあげるだけでしたが、今回初めて持っていただく経験をしました。ありがたいことでした。帰ってから、二日間の筋肉痛では、足のみならず、腕もだったので、いただいた杖にしがみついていた姿が浮かび上がってきました。

 19日朝のNHK「おはよう日本」で、前日の記者会見の模様が報道されたそうですね。


皆さんの善意が集まった桐鈴会 2005,5,20

 H8年春、鈴木要吉さんから「土地と資金を提供するから社会福祉施設を作って欲しい」という要望が黒岩卓夫に出されたことからコトは始まりました。それまで20年ぐらい障害児者が地域で普通に暮らせるようにという地域活動を続けてきた「大和町共に育つ会」が集まってこの有難い申し出でについて検討を始めました。

 何の制度にもよらず、縛られることもない、どんな人でも何かができてもいいしできなくてもいい「夢のハウス」を作りたいと夢を膨らませました。しかしやっぱり社会福祉法人を作ってから色々広げていくということにしようということになり、それには、何かの施設を作らなくてはということになりました。県に問い合わせたら、この地域には、不足しているものはケアハウスしかないといわれ、私たちは、ケアハウスとは何物? というところから調べにかかりました。みんなでいくつかのケアハウスを見学に行き、それは、自立可能な老人(60歳以上)の食事つきアパートであることがわかりました。そんなものが、ここら辺で必要とされているのだろうか?アンケートを携えて近所を回りました。するとわかったことは、一人暮らし、二人暮しのお年寄りだけでなく、家族と一緒に暮らしている方の中にも、要望がたくさんあることがわかりました。

 「共に育つ会」のメンバーを中心に26人がお金を持ち寄って、社会福祉法人設立に向けて動き始めたのでした。そこで、ケアハウスの建設が決まり、建設費の半分が国、残りの半分が県、最後の残りが入居者負担です。その分を私たちが集めることになりました。個人から借りようということになり、地元の方や全国の知り合いの方々にお願いしたら、なんと70人もの方が寄付または貸し付け、という形で資金提供をしてくださいました。貸付の方の殆んどは無利子です。たったの2週間で必要経費が集まり、また丁度厚労省が景気浮揚策で公共事業を前倒ししており、事務に携わった森山さんの夜を徹しての作業によって、予定より1年早く、翌年の開設が決まったのでした。
 鈴木さんからご寄付いただいた450坪の土地には、大きな桐の樹が5本立っていました。それを切り倒すので、一つには名前に「桐」を残そう、それから、建物の中にこの切り倒した桐を使おうということで、各部屋の引き戸と、表札に使うことになり、出来上がると皆さんから「温かみがあっていい」と喜んでいただくことになりました。叉、鈴木さんの鈴を、桐鈴会にも、鈴懸にもいただくことにしたのでした。

 H11年11月、30人の方が、30通りのドラマを伴って、入居されました。家族の中からこられた方が8人、夫婦が2組、男性は6人のみでした。何人かの方が、退去され、そのあといつも待機者の方が入居してこられて、一度も部屋を空けるということがなく来ています。それは、「終の棲家を目指す」と宣言したことにも寄りますが、職員の皆さんたちの献身的な努力の賜物でしょう。
 ゲストルームが、いつのまにかショートステイに利用されるようになり、介護保険適用外のショートステイの必要性が高いことがわかって、増築し、二床のショウトステイルームができあがりました。そのお陰で、若い夫婦とその子どもたちが必要に迫られて住んでいたこともあります。
 介護度がある方たちは、ヘルパーさんの助けを借りることになるので、始めのうちは外からヘルパーを頼んでいましたが、桐鈴会として鈴懸の中にヘルパーステーションを置いて臨機応変に動こうということになり、鈴懸おはようヘルプがスタートしました。朝とか、夜とか本当に必要な時間に介助していただけるようになり、今では外にも出て行って活躍しています。この介助は、介護保険ですから、本人は一割負担です。

 「終の棲家」を謳った鈴懸ですから、「あの時は、辞める寸前だった」と後に告白した職員もありました。昼も夜もなく数分おきに鳴るナースコール、自分の部屋がわからなくなってしまった方が、誰の部屋にも入ってしまうので、皆さん自分の部屋にかけてしまった鍵。とうとう違う施設を探してそちらに移っていただいたこともありました。そんな中から認知症対応のグループホームを作ろうという声があがって、H16年秋、「桐の花」が完成しました。鈴懸では、皆さんが個室で生活し、食事や、何かの行事があるときだけみんなで集まります。桐の花では、毎日昼間は居間で過ごす方が殆んどです。桐の花は介護保険の適用があり、個人負担は皆10万程度ですが、鈴懸は、建設費を月に2万ずつ返しているほか、食費、事務費などで、収入に応じて8万から15万を月に払います。

 桐の花建設に伴って、以前から黒岩卓夫が購入、解体していたお寺を移築しようということになったのですが、桐の花の一部として地域との交流の場にしよう、ということで、建物の一部として併設することになったのでした。これについての費用は、何人かの寄付によって賄われました。地域交流伝承館「夢草堂」と名づけ、6月11日には、喜田清さんの戦争とハンセン病の語りをしていただきました。
 このようにして、社会福祉法人桐鈴会は、多くの皆さんの善意に支えられて活動を広げてきて今にいたっています。


マレーシアからの来訪客 2005,6,8〜9

 6月8日、8年前にこの家にホームステイしていたマレーシアの青年ラザックが家族8人を連れてきました。ラザックは、97年3月から98年2月までここにいて、国際情報高校に通っていました。帰ってから、マラヤ大学の中にある日本外務省が建てた日本留学コースに2年行って、新潟大学工学部に入学、去年卒業して日本企業に入社。そこで希望どうり、情報関係のものづくり会社に就職して、いずれは、マレーシアにある支社に転勤したいと夢見ています。6人兄弟の末っ子である彼のところへ、4番目のお兄さん夫婦とその子どもたち5人が、ラザックのお母さんを連れてやってきたのです。

このお母さんは、字を読んだり書いたりはできない人で、(12人きょうだいで学校に行けなかった)ラザがここにくる直前夫をなくし、とても落ち込んでいたので、私が訪ねていった99年には、なんだか消え入りそう、という印象でした。それが今回は全然違っていました。英語ができないので、私たちとは殆んど通じ合えないのに、かなり積極的に話し掛けてくれます。今回は、お産のことで盛り上がりました。お母さん(61才)は、子ども6人すべて自宅出産でした。お兄さんのパートナー(31才)は、5人とも病院で産みました。なんと出産費用は、5人までは公費で出ます。6人目からは自費だというのです。1,29にあえぐ日本となんて違うんでしょう!

 お兄さん夫婦は、以前は二人で小学校の先生でした。マレーシアは、今でも二部授業ですから、(小学校は高学年と低学年で別れる、中学は午前、高校はその校舎で午後となります)先生は、5時間のパートさんということでお兄さんは早々と退職して、99年には、衣料品のお店を出していました。今では、3000人を擁する生命保険会社に勤務して、毎年会社もちで、海外旅行をしているということです。

今回の旅行は、小学生の子どもたちの2週間の休みを利用して、お母さんの費用はラザは持って、ディズニーランド、大阪の何とかワールド、京都などに行って、8日はわが家、9日は、ここらを案内しました。夜は夫の運営しているデイサービス「地蔵の湯」(200年前の庄屋様のお家)にラザ以外全員で泊まります。ラザは、勤めに行ってしまうので、電子辞書携帯でのガイドです。マレーシアの経済発展の姿が、ここにいながら目に浮かびました。二部授業は、99年のときにも、当時のマハティール首相が何とかすると言っていたままになっています。

 このうちは、みんな敬虔なムスリムなので、肉はすべてだめ、料理用の酒もだめ、それでいて、日本料理を、という注文だったので、黒井さんと二人で、腕を振るいました。子どもたちも満足して、地蔵の湯に送っていく前頃には、私に近付いて色々アタックしてくれました。9,8,6,4,1歳という5人でした。「有難う」をみんなが覚えてくれました。この夫婦は後二人生むのだそうです。

 9日は、まず、社会福祉法人が運営するケアハウス、グループホーム、そして毘沙門様に行ってから診療所を案内します。お兄さん夫婦は、好奇心に満ちている方たちで、色々質問してきます。辞書に頼ってもなかなか難しいことは、夜ご飯を食べにやってきたラザにちゃんと通訳をしてもらって、質問となりました。医療法人、社会福祉法人、それらが運営するデイサービス、デイケア、ケアハウス、グループホーム、ヘルパーステーション、居宅介護支援センター、たくさんの事業所とたくさんのスタッフ、そしてどこにいってもたくさんの高齢者、それらの運営の財政状況まで、メモを取りながら聞いていました。お母さんは自分と同じ年齢の人たちを興味深く観察していましたが、言葉の壁が大きく、残念でした。

 お母さんは自分と同じ年齢の人たちを興味深く観察していましたが、言葉の壁が大きく、残念でした。この61歳のお母さんは、とっても気がきく方で、食べ終わったものはどんどん片付けて洗っていきます。私が、皆さんに食べ物を運んでいると、早く座って食べるようにと目と手と体中で表現してくれます。言葉がなくても、気持ちは十分伝わりました。

 最後に、ヤナに行き、魚を生きたままとってきて、跳ねる魚に串を通して、囲炉裏で焼くところをみんなできらきらとした目で見つめ、焼きあがった魚をおいしそうに食べていました。焼いている間に、ヤナにかかった魚たちと遊び、お母さん、おばあちゃんまでが、すっかり童心に返って、楽しみました。

 4年前、私の選挙の後、東京で、ボランティアをしてくださった皆さんが、このヤナにきてくださって、この魚たちと遊んだことを昨日のことのように思い出していました。


喜田清講演会 2005,6,11 社会福祉法人桐鈴会地域伝承館「夢草堂」にて

 人が集まらないのでは、と心配していた皆さんに、集まりすぎて困ることを心配していた私。ところが、どちらの予想にも反して実に丁度よい集まり加減で、座布団と椅子の数ぴったりの参加(70人ぐらい)で喜田さんの話が始まりました。「戦争と、ハンセン病の語り部」ということで、遠く高松からきていただいたのでした。そもそも、喜田さんとの出会いは、7年前、韓国のハンセン病の定着村に肉体労働のボランティアとしていっていた17歳の揺光が、帰ってきて「66歳の人とお友達になった」と興奮気味に語ったことからでした。彼の書いた「なぐわし島の詩」をすでに読んでいた私は、揺光にそれを見せ、彼はびっくり!その後喜田さんが、ここにきたり、うちの子どもたちが喜田家にいったり、宇洋の選挙にきてくださったりと交流が続いています。中学卒業後、難聴のため長くて3月、短くて2時間で解雇、解雇、叉解雇。やっと人との交流がいらない鉄工所のさび落しを30年したという方です。土日を利用して、瀬戸内海の長島に往復13時間かけてハセン病の韓国人の話を聞きに通ったのでした。それが「名ぐわし島の詩」です。
 
 空襲の話し、ハンセン病の話し、やり取り、を3部に分けて、間に5分ぐらいの休憩を入れて、これもぴったり時間どうりに終わったのでした。子どもたち、中1が3人、中2が1人、20歳ぐらいの不登校体験の女性と、若い方が来てくれたことがとってもうれしく、終わってからの懇親会に出た中学生の3人は、揃って「学校では聞けないような話しが聞けて、今まで知らなかったことについて、これからは、もっと知って行きたいと思うようになった」といってくれました。やり取りの中では、次々にマイクを持って質問する人が現れ、喜田さんの話は、人の言葉を誘い出す力があると感じました。
 
 喜田さんは、自分のボストンバックのほかに重たいダンボールを下げてきたんです。その中には、いつも出しているミニコミユーテ(言うてみいの意)のバックナンバーの残りをたくさん、お土産の豆煮をたくさん、その上、焼夷弾を入れてもって来たのです。私にはとっても下げられない重さです。普通(という言い方いけないのだけど)宅急便で送るところを下げてくるところがいかにも喜田さん。焼夷弾というものが、どうやって落ちてくるのか、初めて知りました。高松空襲というのが、長岡空襲と規模など、死者の数も含めて、殆んど同じだといい、具体的に聞き取ったことを臨場感を持って語ります。

 耳が聞こえない(4歳の頃耳の病気をしても医者にかかれなかったために片耳は全く聞こえず、もう片方は、補聴器使用)ために、呼んでも返事をしないということで、学校の先生には殴られていたということでした。それなのにどうして、不登校にならずに学校に行き続けたのかと、不登校の子どもを抱えるお母さんから聞かれていました。

 ハンセン病のことでは、見たことがないという人たちから色々質問され、結核菌とらい病菌は、殆んど同じ物で、らい病の方は、外に見えるという違いだけ、結核が治ると同じようにらい病も治るようになった(1947年ごろから)のに、隔離が続けられ、らい予防法が廃止されても、帰るうちもない人が多い実態も話されました。

 誰しも、人のためになりたいと考えているのに、なかなか人のためになれない、そんな中で、喜田さんは、本当に人のためになることばかりできていて、ハッピーな方だと思いました。どうしてそんなにエネルギーがあるのかときかれた返事は、「スキー場を見てよくわかりました。滑り始めると後は滑っていくだけですよね」でした。

 ところが、家に来てから、スキー場は、少しは登らないと滑らないと夫が言うと、喜田さんは、痛く感動して、スキーは、滑ることにエネルギーがいるのではなく、登ることにいるのですね。といいます。スキーをしたことがないのでわからなかったとのこと。昔、私がはじめてスキーをした頃は、いつも足で登って、一日の最後にやっとリフトを使うというやり方だったというと、リフトはただじゃないんですか。という。喜田さんがスキー場を開いたら、きっとリフトはただでしょうね。


男女共同参画基本計画公聴会 2005,6,10、於、女の仕事の未来館

 10日午後、上京して、男女共同参画基本計画公聴会に参加しました。樋口選挙、堂本選挙などでおなじみの方がたくさん見えていました。

 基本計画の中間報告が披露され、数値目標はかなりあやふやな官僚用語になっていますが、座長の岩男寿美子さんほか、当日審議委員として前に座った鹿嶋敬、後藤弘子さんたちそれぞれ頑張ってくださっていました。男の働き方の見直しが、今回の次世代育成法に盛り込まれたのを評価して岩男さん、鹿嶋さんが、発言されていました。会場からの意見を聞くのが今日の目的ですから、ということでかなり会場の意見がたくさん出され、それも、「こちら側」(といわせてください)は、殆んどの方が、シェルターを運営しているとか、DVの被害者であるとか、当事者、といえる方が多かったのに対して、「あちら側」は、評論的で、教科書にエプロンをかけた男子が登場するのは、腑抜けになるのではと心配、とか、男の自殺が多いのは、男が痛めつけられているからだ、とか専業主婦を選んだ人を差別するな。とかの意見で、髪を三つ編みにして頭の上にぐるぐると束ねている女性の集団(キリスト教の一つの派だということです)が目立ちましたが、いつも同じ人が特別大きな音が出るような拍手のやりかたをしていました。全体の2割ぐらいしかいないのに、半分と思わせるぐらいの拍手です。

 たくさん手が上がっている中で、幸運にも私が指名され、「男性の自殺者が増えている」との意見ににたいして、「それは、男らしさ、女らしさを強制するから、でしょう。」と切り替えしました。大きな拍手をいただき、終わってから、何人もの方が来てくださって、「あなたの発言ですっきりした」といっていかれました。ほとんど知らない方でした。「男性たちへのメッセージとして弱虫でいい、泣き虫でいい、逃げてもいい、というのを届けて欲しい。」とアンケート用紙に書いてきました。

 固定的性別役割分業は、年をとって介護が必要になってから、女性が恨みを配偶者にぶつけ
て、「仕返し」をするケースがある、ということで、男性にとってもマイナスになっている、
ということを心理相談室を運営している男性が発言していました。

 最後に、局長の名取はにわさんが、1999年に男女共同参画基本法ができた時は、じじ連立時代(小渕内閣)で、衆参とも、反対ゼロで可決した、こと、さらに、政府が提案したものには、前文がなかったのに、審議の過程で、自民党から前文をつける提案があり、そのために議員提案で前文がついた、という報告がありました。

 実は、この法案が成立してから、バックラッシュという動きが始まったのですね。

 大学生からもかなり先進的な意見があり、後藤弘子さんが、これからの社会をになう人たちから、そんな発言があったことをうれしく思うとコメントしていました。


オランダから   (2005,5,24〜28)

 5月27日が揺光のユトレヒト大学移民学修士過程の卒業式だったので、それにあわせていってきました。
 今回のオランダは、いくつかの社会施設の見学ができたことが揺光の卒業式の副産物でした。往きの飛行機の中で読んでいった「オランダの教育」(平凡社、リヒテルズ直子著)からヒントを得て、ユトレヒトについた翌日真っ先に市役所に行って、私が見てみたい施設の連絡先を調べました。小学校、保育所、老人施設、養護学校、障害者施設。25日(水)午後、ダルトン公立小学校というところにアポなしで行ってみたら、水曜日は午後がない日で、誰もおらず、翌日改めていくことにしました。いつも揺光がお世話になっている粟生さん、がいうには、オランダの学校は8時始まりだというので、その日は早起きをして8時前に学校につきました。ところがきいてみると8:50始まりとのこと。家にいる校長さん(週に1,2回しか登校しないらしい)に職員が電話でお願いしたら、自分はいけないけど、見てもいいと言う教師がいたら、そのクラスを見てもらっていいし、インタビューを受けてくれる人がいたら、それもOKだというので、早速先生たちとやり取りをし、幾つか受け入れてくれそうな先生を見つけました。そもそも、職員室というものがあるのかないのか、玄関を入ったラウンジが、先生の溜まり場で、それぞれお茶を飲んで、歓談しています。始まるまで、事務の女性(英語が話せない)が学校中を見せてくれました。先生たちの休む部屋というのが、あることはありました。

 オランダの小学校は、4歳の誕生日から入学します。多くの私立学校が公立と全く同じように補助を受け(そのように憲法で定めてあります)、全国に存在しています。モンテッソリ-、シュタイナー、フレネ、ダルトンなどが代表的な私立学校です。これまでダルトンだけは知りませんでした。生徒の主体性を大切にするために、先生が話す時間、生徒が質問など話していい時間、黙って自分の作業に取り組む時間の3つを信号機で表示する、と本に書いてありました。今回の学校は、ダルトン方式の公立小学校で、信号機はなかったけど、小さいクラスは、椅子が車座のように並べてあり、話し合うということが、できやすい環境になっていました。私が、保母をしていたとき、いつも子どもと相談しながらことを進めていたその感じが伝わってきました。4年生のクラスに行ってみていると、先生が話をしている間は、生徒たちは聞いている。(と言っても内容は、昨日までキャンプだったので疲れたね。という程度のこと) 生徒たちの自主的勉強の時間になったら、二人の女の子が先生のところに来て断ってから、外に出て行きました。「二人で静かなところでやりたい」と言ったそうで、外(廊下というものはなく、空間はどこでも、机などが置いてあって、自主勉強に使えるようになっている)の机に向かって取り組み始めました。算数だったり、国語だったり、みんなそれぞれの自主勉強、そのテキストは、公のもののようでした。

 次に5年生の工作の部屋に行きました。20人ぐらいが、4つのグループに分かれて、それぞれの物を作っています。英語が堪能なインドネシア系の女の子が揺光に語りかけてきて、すっかり仲良くなってしまいました。その子のグループは、お化け屋敷を作っていました。空き箱二つの中にある滑車にかけてある紐でお化けが、でたり入ったりするという仕掛けです。揺光がオランダ語を話すと、その子がほめてくれたりして、最後には、名刺交換になりました。自分の名前を紙に書いて切ってくれました。

 4,5歳クラスが二つとも、小さな体育館の中を裸で走り回っていました。4歳になったばかりの子達は、親のどちらかが送ってきていました。朝の登校風景は、なんだかとっても楽しそうに見えました。

 このようなオルタナティブの学校が、オランダ全体の教育を先導しているそうで、その後にいった普通の小学校も似ていました。

 揺光が、オランダ語や、英語の通訳をしてくれたので、何とか通じたという程度で、言葉の壁は厚いものがありました。

 25日に、学校がだめだったので、障害者施設に電車(新幹線並)に乗っていきました。下りてから、かなり探し回って、歩き疲れた頃に2階建ての回りの建物と変わらない普通の家という感じの2階の窓からそれらしき人が外を見ていました。そこへ出勤してきたらしい30才ぐらいの男性が現れたので、きいてみるとそれが、探していた所そのものでした。中には入れてもらえず、玄関で、色々インタビューして10分ぐらいで、忙しいからと言って別れることになりました。とても感じのいい人で、揺光は「こういう仕事している人は、感じいいね」というので、実は日本ではそうでもないという話をしたぐらいでした。突然やってきた人に呼び止められて話し掛けられても困るのは当然です。申し訳ない思いでした。

 その短いインタビューでわかったことは、1階は、20人がグループホームとして住んでいて、2階はもう少し自立可能な人が住んでいて、仕事にいっているとのこと。それにしては、帰りにも窓から見ていた40才ぐらいの女性は、2階の住人ではないということなのか、そこはわかりません。つい最近、施設を無くして街に出ようということが法律で決まったのだけど、まだなかなかそうはいかないという感じです。先に報告したダルトン公立小学校には、障害児はいませんでした。 ヒリテルズさんの本によると、最近、軽い障害児は普通学校にはいることになった。と書いてありましたが、それでは、重い障害児は、どうなっているのか、追及したかったのだけど、今回は無理でした。



南魚沼市男女共同参画プラン        05,5,16

去年、六日町と合併したことから、新しい南魚沼市としての男女共同参画プランを作るための集まりが何回か開かれてきました。16日はとっても面白かったので報告します。
 旧大和町の公民館が会場だということもありますが、大和町には、「つどうかい」というのが、1999年に始まり、それなりの活動をしてきたという経過があって、旧六日町の方は、昨日は、たった3人、全部で、市民16人、社会教育課4人という集まりでしたが、市民は全員が自発的に発言したというのが凄いこと。男性も4人いたのです。男性の側からは「こういう会に出ると男はつるし上げられるという体験があるので、警戒してしまう」というのが先手を打って出され、今回はそういう事態は出現しませんでした。

 新潟県女性財団からの補助を受けて4回の講座を開こうということで、先日その企画委員会をやったのですが、地元の事情がわからない遠くの人が話すのを聴くというのではなく、地元の人がパネラーになっていろいろな意見を出し合い、それを聞いた会場の人たちも議論に参加するという形の方がいいのでは、ということになっていました。

 県の男女共同参画審議会20人のうち何人かは公募で決めているのですが、この町からも公募に通って委員になっている男性があることを知り、その方も参加し、こういいました。「審議委員に女性を何人とか決めるけど、そうやって員数あわせをして参加した女性たちは、会議で2年も全く意見をいわないということがある。」それにたいして、大和町初の女性議員志太喜恵子さんは「学歴もなく、百姓バサだった自分が議会に出て発言するのはとっても大変だった。女たちがもっとそういう機会を多くもてるようにしなくては」と発言。区長や、農業委員など、女が全然いないことが問題に。ところが、この会の会長を引き受けた鈴木とも子さんは言います。「中学生と高校生を持っているけど、子どもたちの世界では、小学校では確実に、中学ではかなり女生徒がリーダーを務めている。それを女の癖に、とか言うことは全くなくなっている」ということで、未来は明るいのではと思わせられました。

 第1回目のイベントを柏崎の素人劇団「桃太郎一座」に、男と女を入れ替えて演じてもらおうという意見と地元の人がパネラーになって議論しあおうというのが対立し、議論が飛び交いましたが、司会をしていたとも子会長は、見事に纏め上げました。「第1回目は、自前でやりましょう。そうして、その劇は、2回目にやってもいいし、そのときには、私たちが、演じることもできるかもしれない」ということで、反対なく決まり、色々話せたことで、みんなが満足してかえって来たのでした。

 そして、行事での人集めは、広報に載せるというようなことではなく、ここにいる人が、自分の知り合いを何人呼んでこられるかにかかっているということを確認して別れたのです。前回、役所の4人に、それぞれ知り合いを一人ずつ呼んできて、と注文を出しておいたのですが、今回誰も果たしませんでした。実は、これが一番難しいことなのでしょう。でも、確実にスタートを切りました。


やっと実った粟島行き    2005,5,5〜6

 5月5日、新潟県最北の粟島(佐渡の東)へ、1泊でいってきました。たかひろと、秘書の川久保さん、連休で帰省していた海映とその子ども2人と。その報告です。

 おそらく、全国の島という島は、どこも、それが小さければ小さいだけ、自民党の基盤となっていることでしょう。粟島浦村は、現在388名の島です。少子化白書に寄れば、2003年に赤ちゃんが一人も生まれなかった村、3つの中の一つとして紹介されています。

 2002年、参院補選で、粟島浦村で、野党候補のたかひろが思わぬ票を取ったということで、事情を知っている人は相当驚かれたようです。その秘密には、長い歴史があるのです。
 1991年、私たちは、家族旅行で、夏休み粟島に行き、民宿に泊まりました。1992年、私たちの町大和町に、その後、「県立予備校」と揶揄された国際情報高校ができました。その入学式直後、粟島の民宿から「家の息子が情報高校に入ったので、よろしく」との電話がありました。普通高校は、学区があるので、国際情報という特別な学区のない高校をつくり全県から集まった進学に強い生徒を叱咤激励して進学校として売り出そうというのが、県の狙いでした。
早速、寮に連絡して、粟島からの生徒をうちに呼び、夕食を共にしました。本保正義君は、すっかり我が家に溶け込んで、自分の学校の教育批判まで、共有してしまいました。
 3年間たびたび会う機会があって、卒業式には、お母さんも一緒に我が家に現れました。そのときはじめてわかったことは、寮の門限は7時半だったので、風呂場の鍵を開けておいてもらって、そこから忍び込んでいたというのです。1日4時間の勉強が義務づけられているために、7時半の門限は学校としては必要だったのです。この正義君は、今、千葉で、中学の教員になっています。

 そんなことがあって、2002年の選挙のときには、そこの民宿を中心にたかひろの票が拡大したのでした。終わってから、お礼方々、たかひろと粟島に行くという計画を何回か立てたのですが、風や雨で、船が出ず、今回は、連休に入ってから急遽計画したのに、やっと実現できたのでした。

 港には、10人ぐらいの出迎えがあって、びっくり。そして、村長が待っているからということで、早速たかひろは役場へ。本当は、6日に役場へ行くつもりだったのです。休日に村の3役が出てきて迎えてくださるとは、思ってもいませんでした。この村長さんとは、次のような因縁もあるのです。

 2002年新潟の新聞のみならず、全国紙をもにぎわした粟島の村長立候補妨害事件。それは、このようにして始まりました。
 2002年1月8日(月)は、1月の第二月曜日が成人の日になった最初の日でした。その日、粟島浦村では、村長選挙の告示日でした。現職の神丸村長は、粟島を村上市と合併させるということを、村民に諮ることなく、突然村上市での記者会見で発表。その村長に対して誰も対立候補が出ないということは、その行為を認めてしまうことになると真剣に悩んだ当時役場職員だった本保建男さんは、ぎりぎりになってから立候補を決意。6日(土)に、県の選管に問い合わせたら、8日は、休日でも、村の考えで、戸籍謄本(立候補に必要)を発行することは可能。ということで、8日告示日当日戸籍謄本を出すことを要求、ところが、選挙管理事務と戸籍係は兼務なのに、村長が、村長印を金庫にしまって出さず、5時まで待ってもとうとう出さなかった。このことは、その後裁判
の過程で、総務課長が証言したということです。

 この立候補妨害事件はその直後マスコミで報道され、本保建男さんは村の選管に異議申し立てを行いました。ところが、選管は拒否。県の選管もそれを支持。そこで、弁護士と相談の上で、県選管を高裁に民事提訴、高裁は、「立候補妨害」を認め、選挙無効となる。県は、上告。7月末、最高裁は、高裁判決を支持。立候補妨害が認められ、選挙は無効に。この弁護団長が、無年金裁判の全国弁護団長和田光弘さんです。「あんなに感動した判決は、ほかにない」とあとになっていっておられました。

 そこで、9月に出直し村長選挙となったのです。それが決まった段階で、本保正利さん(民宿の主)から電話があり、建男さんを応援して欲しいというではありませんか。いわれなくても応援したかった私。当時は、たかひろの秘書として、新潟事務所に通っていました。たかひろと私の為書きを送ったり、たかひろも、応援に島に行くといったり、していましたが、何しろ、粟島では、建男さんが、街頭演説をしているということだけでも初めてだというニュースになるぐらいですから、島の外から応援が来るなんていうのは、受け入れられない方が多かったようで、実現せずでした。

 選挙の結果は、なんと14票差で、敗れたのです。その建男さんは、それ以来無職。聞けば、役場職員というのは、保育士を含めて27人だというのですから、その中から反町長という立場で立候補するということ自体大変なことだったに違いありません。
 村上の小学校に勤めているお連れ合いさんに変わって、家事子育てをする毎日です。5日は、港に迎えに出てくださっていて、初めてお目にかかることができました。現村長の前の村長さんの息子さんで、実に均整の取れた体つき、顔つきで、この方が、どうして落ちることになってしまったのだろうと、不思議な感じでした。6日には、この方が運転する車を含めて、4台で、島巡りをさせていただきました。建男さんの末っ子さん(5才)や、私の孫たちを含めてにぎやかな島巡りでした。

 皆さん、オオミズナギドリってご存知?環境に深い関心を持っておられる方々は、きっとご存知でしょう。実は、粟島に、この渡り鳥の生息地があるのです。この鳥は、穴を掘ってそこを巣にするそうで、昼間は、みんなで狩に出かけ、夜には、一斉に帰ってくる。私たちは、昼間いったので、ご本人(?)たちには会えませんでした。

 鳥たちの生息地というのは、無人島がほとんどだというのに、ここでは人と共存しているというのが、凄いこと。それだけ、この島は開発されていないということでもあります。以前、串田孫一さんが、朝日新聞夕刊(1982,9,21)にこんなことを書いていました。「粟島には野生の馬がいました。春になると、田んぼに杭を立てて、その野生の馬をそこにつなぐ。そうすると、野生なので、大暴れする、それで、耕される。農民はそれをあぜに腰掛けてみながら一服している。」

 今回食卓に乗った野菜は、全部、山菜と海草で、「無農薬です」と薦められました。山菜の宝庫であるこの魚沼でも見られないような珍しい山菜がいっぱいです。
 このところ、ぶりの大漁で、その水揚げしたものを見ましたが、どでかいものです。でも、寒ぶりでないと脂がなくておいしくないのだそうです。しまだい、そい、など、飛び切りの味でした。毎年きているという方が、必ず5月2日の島開きにくると言っていました。この時期が、一番食べ物のおいしい時期だということです。

 突然「松浦栄子さんに会いますか?」と運転している本保建男さんがいいました。よくよく考えてみたら、選挙のときにどなかたに紹介された方のようで、建男さんの同級生だということで、お家に案内されると、栄子さんと初対面となりました。聞いてみたらたかひろの応援団、富樫和史さん(都庁勤務)からの紹介だということがわかりました。しかも、驚いたことに、高校時代に、社会思想史研究会という団体があって、70年の学生運動を大学生といっしょにやっていたのだそうです。新潟市議小泉仲之さんも高校は違うけど仲間だったのだそうです。たかひろに紹介したら、これまた共通の近い知人がいることがわかり、ほんの10分ぐらいの時間でしたが、中身の濃い出会いとなりました。栄子さんは、粟島浦村の教育委員をしておられます。

 この島の中学生は、卒業すると島を出て村上にある村の学生寮に住んで、高校生活を送ります。栄子さんは、新潟市の高校なので、きっとその寮には入らなかったのでしょう。情報高校にいっていた本保正義君も、寮に入らなかった一人です。

 様々なドラマのあった粟島行きでした。


アナン見学                       2005,4,30

「想う事」知的障害者の更生施設における、「遮断」とは? 2005・04・10の続きです。}

 たかひろと厚労省の方が、以前4月中に見学に行くと約束してきたそうで、4月28日は、私も、3回目の見学に行きました。今回私が一番驚いたのは、アナン入居者の方々が働いている工場をどのようにして作ってきたかということでした。農産物を販売できるように結束、袋詰、などをする工場へ吉澤さんがパートさんとして働きに行き、仕事をしながら、アナンの方々にできる仕事を物色。自分の次には、アナンのスタッフをパートさんとして派遣。この二人の仕事振りに信頼をした工場の方が、少しずつ仕事を分けてくれるようになり、とうとう、自分たちの工場を作ることにこぎつけたのです。マリエというこの有限会社の社長は、パートさんとして派遣されたアナンのスタッフだった女性みどりさんでした。ねぎの結束、きゅうりの袋詰などを見学していたら、「秩子さん」と呼ぶ声が!何と、2月に来たときに話し合った女性で、彼女の目の前でお母さんが車にはねられて即死、という体験を持つ方で、私のことを名前まで含めて覚えていて下さったのでした。私の方は、叉して名前を聞き「100回ぐらい聞くから宜しくね」と言ったのでした。

 たかひろも、厚労省の方も、9軒の家全部と工場をみて、感嘆の声ばかりでした。全くの素人なのに吉澤さんが一人で設計をした。8角形など、壁の角度が、90度ではないところもあったり、自閉症の方で、狭い部屋がいい人には、4畳ぐらいの部屋、普通は、8畳ぐらいの個室でした。どの部屋も、絵がかかっていたり、花がいけてあったり、飾り物や、絵本が置いてあります。文化の香りがする、そして、全体として和風なお部屋です。家具も揃っていました。

 5つのお家に26人が住んでいますが、お家ごとにそれぞれ違うものを食べているのです。効率、経済、が優先されていたら、こんなことはしないでしょうね。自分のお家で、好きなものを作って食べた方が楽しいですものね。

 厚労省の方は「これからは3障害(知的、精神、身体)を総合してやっていくことになっており、基準もみんな見直したのですが、知的障害者のところだけ、『遮断』なんていう言葉を見落として、残してしまった。大変申し訳ないと思っている」とのことでした。

 吉澤さんが、以前フランスのラルシュにいって来たということを聞いて、厚労省の方は、自分も、ラルシュのことを調べようと思って資料を集めていたと言い、とても興味を引かれておられました。ラルシュと言うのは、フランスのジャンバニエさんと言うカトリックの神父さんが始めた共同体で、日本にも、静岡県にあり、農業や、石鹸つくりを生業にしています。そこにいって来た方から話を伺っています。吉澤さんは、「ラルシュに行ったら、バニエさんが、ひっそりとしていらしたのが印象的で、私も、そうありたいと思ってきました」とのこと。

 厚労省の方は、18歳の息子さんが、知的障害者で、この3月に養護学校を卒業して、かなり遠くの作業所に通っているそうで、お連れ合いさんが、その息子さんの送り迎えをしているそうです。今丁度、障害者自立支援法や、介護保険法改正などで、大いそがしの中を朝の通勤途中に時間を割いて来てくださいました。

「聞くのとみるのとでは、大違い」今日はじめての二人は、相当驚いている様子でした。「豪華なのはいやだけど、豊かな暮らしになるようにと工夫しました」と吉澤さん。これまで、どこにいても、あなたはこれで我慢しなさい、とばかりに人間以下の扱いを受け、自分でも、そういうものと思わされてきている方たちの心を溶かし続けてきた吉澤さんたちの努力が偲ばれました。


中川とも子講演会                2005,4,16

 私と内山さんが勝手に決めて、はじめたことだというのに、皆様、ご協力、どうもありがとうございました。勿論、内山さんが一番大変なところを引き受けて、乗り切ってくれたのですが、それを周りで支えてくれた多くの皆さんのお陰で、200人ぐらいの方の参加を得て、「楽しかった-」という言葉を残して帰っていかれた方々を見送りながら、ホッとしたのもつかの間、ユニゾンプラザ1階のレストランでの二次会が始まりました。ここでは、全員の一言に続いて、中川さんのし足りなかった話を実演入りで聞かせていただきました。ヤコブ病のこと、ハンセン病のこと、介助犬シンシアのこと、など、それはそれは熱が入って、泣いたり笑ったり、皆さんを引き込んでしまいました。

 まず始めの講演では、2003年11月9日の衆院選で落選した直後、日本の製造業の北京支社長だった夫が過労死、その夫を9ヶ月間追いまわして、彼女に対して何の興味もなかった男を夫として獲得したこと、その夫がいかにすばらしかったのかということを語りました。
一つだけ例をご紹介しましょう。彼女が、生まれた赤ちゃんに夜中授乳していると、夫も起きてタオルを絞って授乳後のお乳を拭いてくれた、「二人の子どもなのに自分はお乳を上げることができないから」といいながら。この話しを私の隣で聞いていた卓夫は「言われないでしたのか」とつぶやきました。ここの家に帰ってきた智子さんに、「言われてしたのと言われないでしたのとは随分違いますね」と語りかけていました。

 被災地支援では、まず、「ボランティア登録をしないこと」行政に頼らず、個人のネットワークで、テレビや、洗濯機を仮設住宅に配るとき、10円でも、5円でも、お金をいただき、受ける側との対等な関係を大切にした、などなど。その被災地支援法をしっかりと作るために出馬し、思いがけない当選、ということになったのだそうです。

 後半のやり取りでは、木原大吾さんのこわれ者の祭典の話がとっても楽しくて、中川さんの楽しさを更に引き立ててくれました。皆さん、本当にどうもありがとうございました。

 この日の司会を引き受けてくれていた袖山さんの義母さんが16日朝亡くなり急遽、石黒さんが引き受けてくださって、助かりました。袖山さん、ご愁傷様でした。


無年金控訴審判決=全面敗訴        2005/03/26 

 3月26日の新聞に大きく報道されたので、判決結果は皆さんご存知と思います。
25日、10時半に始まるということなので、東京高裁に10時ちょっとすぎにつきました。受付で聞くと、10時半という公判は一覧表になく、探し回って、最後に梅谷さんに電話して法廷の番号がわかり、たどり着いたのは、10:35.(日ごろのいいかげんさをまたして反省!)するともう終わって皆さんが出てくるところでした。大阪原告の坂井さんが「ひどい!棄却だ」と悲痛な声。報告集会でわかったところによれば、全く、審理する気配もなく、結果ありきの判断だったようなのです。

 ご存知のように、東京、新潟、広島と地裁判決はどんどんよくなって、広島では、年金の中で解決しなかったのは、憲法違反とまでいって、今回の特別給付金では、解決にならないということを知らしめてくれたすばらしい判決でした。それらすべてを全壊にした、25日のたった5分の法廷!

 皆さんと悲痛な思いで、隣の弁護士会館での報告集会に行きました。ここにいって唯一つだけほのかな希望が、わいてきました。それは、和田弁護団長の話の中で、新潟判決の控訴審の裁判官は、今回のライブドアの判決を出した裁判官だと聞いたからです。これって、希望ではありませんか?
 勿論、すでに高裁の判断が出てしまっているという負荷を背負っての上だから、大変なことにはちがいないのですが、キチンと審理さえしてくれたら、原告の言い分が伝わるはずなのです。学生にとって任意加盟だった頃、加入していたのはたったの1,2%。それだけしか加盟していないのに制度はあった、などといえるのでしょうか?

 更に、60年の年金改正のときに、学生たちが取りこぼされたというが、改正の法律に付帯決議がついていた、などと言って、国会の不作為はなかったというのです。実は、付帯決議は、ついていただけで、「速やかに対処する」という決議は、全く省みられもせず、長年放置されていたのでした。
 次回の新潟の控訴審に期待をかけることにします。

千葉知事選、三井マリ子裁判       2005/03/17

 13日、千葉県知事選、投票日は、上京して、WINWINの事務所に行きました。WINWINは、堂本さんや、赤松良子さんが作られた「女性を議会に」という団体です。赤松さんが代表を務めておられ、この活動に大きな力を注いでおられます。

 スキー帰りの人でごった返す日曜日の夕方雪国を脱出。9時前に到着して開票が始まると森田優勢。皆さんが落ち込むので、田舎選挙経験者の私が「今は郡部ですから、これから都市部になると抜きますよ」と慰めます。ところがなかなか抜かない。やっと、10時半頃抜いた!というとき、気仙沼の人から、当確が出たという電話がかかったと夫から電話。喜びもつかぬま、逆転!「気仙沼を信じましょう」を合い言葉に慰めあい、11時15分やっと、NHKの当確!結果的には、たったの6000しか差がない!

 これは、森田の属する派閥の長山崎拓が、大量の資金をつぎ込み、石原軍団と、その信奉者たちの活躍と、堂本陣営の緩み、の結果でしょう。選挙では、勝つと思うことが一番の敵です。「堂本さん圧勝でしょう」といわれるたびに不安が高まりました。それでも、私も、結果は、9時までに出ますよなどと言ってしまっていました。

 2年前の樋口選挙で、石原の手堅さを肌で感じました。それが全国展開をしているのです。14日朝早い新幹線で、大阪地裁に行きました。豊中市の女性センターすてっぷ館長だった三井マリ子さんが、館長を辞めさせられたことで、民事裁判で、豊中市と女性財団を訴えているのです。
三井さんは2000年、ここができるときに全国からの公募で館長になり、1年契約の臨時職員として、週に3日出勤し、様々な取り組みで、全国からの視察者が絶えない女性センターになっていました。
1年契約と言っても、毎年更新するのが当然という形でやってきたのに、2004年2月に「館長は常勤にします」という形で、更新をしない(雇い止め)ことを言い渡されます。すでに、そのときには次の館長になる人は決まっていました。ちゃんと、交渉がしてあったのです。形として、公募となっているので、三井さんもそれに応募しましたが、当然のことのように、跳ねられました。

 ここにいたるまでには、石原勢力(埼玉県で、教育委員に、その勢力の幹部、高橋史朗を起用する、千葉では、男女共同参画条例を3回も廃案にする、歴史教育グループと一緒になって、3月4日の参議院予算委員会での山谷えり子の質問へとつづきます。)の執拗な嫌がらせが繰り返され、豊中市も、もともとは、公募して三井さんを起用し、それを盛り立てていたはずなのに、彼らの勢力になびいてきて、今回の結果を招いたようなのです。

 全国の女性たちが、傍聴席を埋めましたが、マスコミは、この勢力を恐れているのか、殆んどこの報道はしていません。こういうことに関心が深いはずのWINWINに集まった方々の大半が三井裁判を知らなかったということに驚きました。

いのちを語る      2005年3月7日(月)

 3月5日(土)、「いのちを語る」という集会が神戸であり、スピーカーとして参加しました。
 4日夜西宮の友人菅沢順子さんの家に泊めてもらい、そこで震災の体験をたくさん伺いました。夫君が牧師をしておられる公同教会が運営する公同幼稚園は、被災者に開放され、近くの視覚障害者の施設がそっくりここに避難しました。

 5日のフォーラムは、「感動した本」でご紹介した「絵はコミュニケ-シャン」にある自閉症者で絵描きの田中瑞木さんの絵を神戸に広めるということが、主題でした。だから、神戸の障害者団体の方たちがそれぞれ集団で来ておられ、瑞木さんの絵5枚に見入っていました。実は、この絵を見たひきこもりの青年が涙ぐみ、それを契機に引きこもりから脱して、社会生活をするようになったそうです。つまり、この絵には、そんな力があるんですね。
  
 終わってから、ホテルへ歩く道中、私は、瑞木さんに話し掛けました。「あなたのお陰で、こんなに皆さんと出会えて、どうもありがとう」それには全く無言だった瑞木さんが、少したって、私の手をしっかりと握り、手をつないでホテルまで歩いたのです。瑞木さんは全くの無言、でも握り合った手を通して、ふたりの心がつなぎあいます。ときどき、瑞木さんがぎゅっと握り締めてくれます。
心地よい、暖かさのある夜の散歩をさせていただきました。

 今回のフォーラムのテーマは、「命をつなぐ」だったのですが、本当に瑞木さんがたくさんの命をつないでくれたのでした。

 当日のチラシを兵庫県内の皆さんにお送りして置いたら、その日7人もの方が来てくださり、35年前の保育園の同僚だった方や、障害児の親御さん、などなど、そんな方々ともつないでいただけたのでした。


女性議員をふやす会         2005年2月28日(月)

 26日、新潟市へ、出かけました。「女性議員をふやす会」の総会兼樽川通子さんの講演会のためです。樽川さんという方の人柄に触れたかったというのが大きな目標でした。

 そもそも、女性議員の比率が、都道府県の中で、長野が9位。これは大変な数字なのです。皆さんお気づきと思いますが、1位が東京、2位は、大阪かな?とにかく8位までは、大都会ばかりなのです。大都会を除いた県の中では最高です。その立役者が、この樽川さんだということを伝え聞いていたので、ぜひ、そのお人柄に触れてみたかったのでした。いやいや、なるほど!と感嘆するばかりでした。

 1983年、彼女が下諏訪町議に立候補、お金をかけない市川房枝方式に町民は驚く。「金をもらうんじゃなくて、出して選挙するって!」長野婦人問題研究会を立ち上げ、婦人会費が年500円だったときに年会費6000円で、勉強した。でも勉強だけではだめだから、行動する会を、と、1997年「女性議員をふやすネットワークしなの」を立ち上げる。そのとき、10年で止めると宣言。すべての組織は、設立も大変だけど、それ以上に大変なのが閉じること。だから作るときに、閉じることまで決めておく。さすが!と思った。

 下諏訪町は、23000の町、そこが6区に分かれて、それぞれに区長がいる。2001年にその中の600〜700戸の区の区長になった。区長こそ本当に女がいないポジションです。選挙でなったのですか?と野暮な質問をしてしまった。「推薦です」「えっ!」すっかり驚いてしまった私の質問に丁寧に答えてくれた。町議5期で、実力を買われたにちがいない。

 75才とは思えない迫力で、聴衆を圧倒した樽川さんでした。と言っても聴衆は、30人足らずで残念!

次世代育成勉強会       2005年2月19日(土)

 17日に東京で行われた次世代育成の勉強会に行ってきました。この日は、厚労省の審議官辻哲夫さんのお話ということでしたが、厚労省の次世代に関係する方々が、たくさん来られていました。謝礼なしの会だというのに、皆さん二次会の最後(23:10)まで付き合っていかれました。そんなのは当たり前、という声も聞かれます。でも、いまどき、ものすごく悪名高き厚労省の皆さんが、どんな批判にさらされるかわからないような会に多数こられると言うことは、それなりだと思いました。

 この辻さんという方は、私が議員だったとき、年金局長で、無年金の質問に、「年金の根幹を揺るがすから無理」と回答し、その直後に大臣が「何とかします」と言ってしまって、現在の特別給付金につながってきたのでした。辻さんは、少子化対策の厚労省としての歴史を話し、「ドイツ、イタリア、日本は、戦争のときの国家の強大さが、反省されてきたために、国が、少子化対策をするということ自体に大きな抵抗があり、ほかの先進国に遅れてきてしまった。

しかし、1,29となっては、国として、立ち行かないという認識が広まってきて、いまや、子どもを産み育てることを楽しめるような環境つくりが大切だということは、燎原の火のごとく広がっていくにちがいない。労働省からの椋野美智子さんが部下としていろいろ教えてくれたが、専業主婦のほうが出生率が少ないと言うことも彼女から聞いた」

 今回の次世代育成対策法案の一番の目玉は、働き方の見直しということで、300人以上の従業員を持つ企業に対して、次世代育成に向けたプランつくりを義務と課したのです。これは、労働省と一緒になったからできたことといい、厚生省、労働省合併記念法案だと言っていました。二次会では、今の年金局長渡辺芳樹さんと隣になって、いろいろと盛り上がりました。埼玉県庁で、次世代育成のプランを作り上げた小峰弘明さんともはじめてお目にかかったのだけど、今埼玉県の食品安全局長をしている加藤ひとみさんの部下として官民の協力の仕方を加藤さんから教わったと言っていました。
加藤さんは、昔から町作りというテーマで、この町にも何回も来られてやりとりしていた方です。小峰さんが、埼玉県のHPで、このプランを公開しているのですが、そこに上田知事のあいさつ文があり、それは、小峰さんが書いたものだということです。「知事が書いたの?」と私が聞いたのです。なかなかの文章でしたから。

 この勉強会を主催している杉山千佳さんという方が、なかなかの方です。いつも、何事もなかったようにさらりと大変なことをやってしまう人、という感じがしています。


ミニミュンヘン、子どもたちの創造力 2005年2月19日(土)

 18日、麹町区民館で行われた「子どもの参画情報センター」主催の遊び都市の魅力と日本における試み、という勉強会があって、参加しました。1979年の国際児童年に、ミュンヘンで始まった夏休み3週間にわたる子どもたちの遊び都市(ミニミュンヘン)のビデオ、と報告。

 これは、ミュンヘン市や、企業などの経済的バックアップを受けて2年ごとに開かれている。2004年のそれは2500万円ほどの規模。毎日11時から6時まで、オリンピック競技上の一角で開かれており、7歳から15歳の子どもたちは、まず入場すると住民登録をします。
その次には、ハローワークに行って職業を見つけ、仕事につきます。市役所職員、デパート、大工などの職人(玩具、洋服、陶器、などなど)美術アカデミー、レストラン、園芸、ゴミ処理、テレビ局、新聞社、郵便、病院、などで仕事をすると、その中だけで使える模擬貨幣がもらえ、それで買い物をします。市議会議員、市長なども、1週間ごとに選挙で選出されます。
失業者のデモもあります。それを受けて、市議や、市役所職員が仕事を創出します。11時に開館すると大量な子どもの群が、走りこみ、失業すまいという彼らの心意気がしっかり伝わってきます。

 20年以上つづいてきた、この試みに勇気付けられて、日本でも千葉県の佐倉市で、「ミニさくら」がはじまって、今年は第3回目。3月27日(日)〜4月2日(土)の1週間中志津中央商店街で開かれます。ここは、幼児から18歳まで。これを仕掛けた若い女性中村桃子さんに聞きました。「知的障害児はきましたか?」「きましたよ」「仕事はどうしました?」「幼児たちは砂場遊びも仕事でしたから」とのこと。商店街を遊び都市に変身させたので、病院は、離れたところになっていく患者が少なく、そこで工夫された結果、マッサージを無料ですることにしたのだそうです。そうしたら繁盛したとか。

 今回のフォーラムを仕掛けた中心人物、木下勇千葉大助教授は、自分の子どもと一緒に参加、大人は、お金を稼げないので、子どもに頼んで稼いでもらって、やっと昼食にありつけたとのことでした。申し込むと言うこともなく、ただチラシを配るだけなので、当日まで何人参加者があるかわからないところがはらはらどきどきだそうです。

 ミュンヘンでは、過去にミニミュンヘンに参加したことがある若者たちが、今では、スタッフとなって活躍しているそうです。日本では、大人のスタッフが足りなくて、募集しています。子どもたちにとって、本当の生きる力がはぐくまれるすばらしい試みだと思いました。

 17日の厚労省の方々との集会で、私は、すべての子どもたちに子どもの権利条約を手渡したいと言ったのです。特に、子どもの意見表明権だけはどうしても知らせたいと思っているのです。「自分の意見は何でも言っていいんだよ」」というメッセージをプレゼントしたいのです。それには、それを聞き取れる大人の存在が不可欠ですが、市町村の行政が、権利条約を子どもたちに配ったら、心ある大人たちは、聞き取ることが可能な
心の準備ができるのではと思っています。

 そんな発言をしたら、すでに川崎市では、そのことの実現に向けて動き出しているのだそうです。こんなにそこらじゅうにそんな大人たちの存在があるのだもの。辻元年金局長の言うように、いつか燎原の火のごとくに、子どもたちの存在を大切にしたいというメッセージが日本中を駆け巡るのかもしれないと思えるようになってきました。

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