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秩子の活動報告 (その1) 2006年7月31日まで |
ニュージーランドーー世界で初めての女性参政権 |
女政のえん、第2回「赤松さんのトーク」 |
「共に育つ」ーーそして、バックミンスター・フラー |
コスタリカからバルガス教授来日 平和を語る講演・対話集会 2006,7,4 於、弁護士会館(霞ヶ関) その日は朝からテレビはずうっと北朝鮮漬けでした。東京にいって聞いてきたコスタリカと反対の国なんだと理解しました。コスタリカは、ご存知のように憲法で軍隊をもたないことにした世界でただ二つの国です。でも、実際に軍隊をもっていない国は、唯一つだけ。カルロス・バルガス国際法律大学教授が、コスタリカから来られてお話を伺いました。彼は、妻も子どももアメリカ人だそうです。コスタリカは、19世紀にすでに死刑を廃止したというもともと人権を大切にする国だった。1948年に軍隊を捨てた。そのお金を教育に向けた。中立を宣言し、アメリカが、隣のニカラグアに基地を作ろうとしたときにそれを拒否して諦めさせたと言います。彼が言うには、米州機構の中で、コスタリカがリーダーシップをとっているので、コスタリカとは、アメリカも対等な交渉をするとのこと。小学校に入学すると子どもたちは「誰でも愛される権利がある」ことを習う。小学生でも違憲訴訟が起こせる。今のところ最年少は、8歳の子どもだとのこと。 日本の憲法があぶなくなってきたので、このカルロスさんは、自費で日本にきたとのこと。日本中を16日まで回って帰る。札幌にも行くそうです。 沖縄戦体験者、東京大空襲体験者、広島のヒバクシャの3人が体験発表をされました。沖縄の方以外のお二人は、その体験を元に訴訟を起こしておられるかたでした。 その日北朝鮮のニュースを見ながら、軍隊がなかったら、攻め込まれることはないはずなのに、と思いながら、「戦争には、勝ちも負けもない、あるのは殺人だけ」という言葉をかみ締めています。 |
河野美代子講演会ー性教育 |
滋賀で5人目の女性知事誕生 2006,7,2 私は、色々な関係で、かださんの選挙にかかわりました。まずどこからきたのかわかりませんが、情報が入った段階でHPを見て、これはいける!と思ったところから始まりました。滋賀県名簿を岡村通男さんからいただき、電話掛けをはじめました。そこで、民主が、反対だというのに、武村正義さんが「僕はかだだ」といわれたと言うので、希望を見出し、どこにかけても反対される方は〇でした。WINWINにもお願いしましたが、赤松さんが個人的に琵琶湖ホールの館長さんだったので、そのつながりで、電話掛けをしてくださいました。 私はかださんを直接は知りませんが、京都精華の同窓生たちが、かなりはまり込んでいました。私の娘(帆姿)もそのうちの一人です。夫も、漫画科の出身なので、イラストを担当していました。 滋賀は、環境もさることながら、福祉という点でも大変な先進県です。色々なこれまでの流れが、ココに集まったのだと思います。それにしても、かつとしか考えていなかった自民公明民主推薦の現職が落選ですから、そちら陣営の落胆は大変なもののようです。 ただ、千葉で堂本さんが大変な困難に突き当たっておられることがそのまま滋賀でかださんを待ち受けているはずなので先を思いやっているところです。堂本さんは、昨3日長い時間をかけて作ってきたしょうがい者差別禁止条例を廃案にされないために取り下げるという切ない選択をしたばかりでした。 かださんの場合にも県議会対策が大変だろうということで、市民の方々が、すでに、県議会の傍聴を呼びかけて、県議会対策に取り組み始めたということです。まわりからも大いに応援したいですね。 |
戦争体験を語る 2006,6,24 於、夢草堂 |
ニートひきこもり体験記 (その2) 去年の12月16日、渡辺正志さんのニートひきこもり体験記を報告しましたね。今回は、私どもの地域伝承交流間夢草堂で、6月21日(水)開かれたものの報告です。 以前ひきこもりをしていた子どもを持つ人、今もひきこもっているこのお母さん、登校拒否児たちと一緒に過ごす教育センターで働く人、民生委員、去年「メタセコイアの木下で」上映会の実行委員を一緒にした車椅子の方々、など多様な皆さんが20人ぐらい夜の7時半という遅い時間に集まりました。 正志さんの話は淡々と、ひきこもってよかった、無駄なことは何もない、感謝感謝で暮らしている、と楽しげに話していましたが、親の話しになったとたん、「今の自分は、親に会うのは怖い、自分のペースを乱されそうな気がする、親の分まで背負いきれない、だから、今は入院を続けている親たちに会いにいかないでいる」と、これもさらりと言ってのけました。これを聞いたとき、そうだ、親子を反対にして考えたら、子どものことを考えて、「いい親」をしなくてはと格闘している親たちが、「もうこれ以上は面倒見切れない」といって、家を出て行ってしまったらどうなのだろう?そのほうがお互いに自分のことだけ考えることができて、すっきりするのかもしれない、と考えました。 最近そんな話を聞いたばかりです。大学のときに卒業しないで、5年目ぶらぶらしていたら、一緒に住んでいた父親がいなくなってしまった。そうしたら自分で稼ぐしかなく、立ち直った。というのです。これも父親だからできたことで、母親にはなかなかできないことかもしれません。でも、25歳ぐらいを過ぎたら、親のほうが家をでてしまうということも考えてもいいかも知れない、と思ってしまいました。子どもがちょっと外へと気持ちを向けると、すぐに親は、期待を込めた目つきで見始めてしまいます。そんな親子の感情のやり取りに疲れてしまうんではないのかしら? 絵本の読み聞かせをはじめ、水害ボラ、中越地震ボラ、国際大学の外国人留学生に日本語を教えるなど、たくさんのボランティア活動に忙しく動き回り、週3日の市役所臨時職員として給料を稼ぎ、益々たくましくなってきた正志さんをまぶしい思いで見とれていました。大吾さんの「こわれ者の祭典」の力も大きかったようですよ。 魚沼市に住んでいる車椅子の山内君、障害者の溜まり場を作りたいとこの日も提案していました。すると魚沼市議の星野邦子さんが、うちの作業場を使ったらどうかしら?と提案、そんなことが実現するといいですね。山内君は、ご両親と3人で、この5月に仙台の山田富也さんを訪ねてきたそうです。去年上映会をした「メタセコイアの木の下で」を作った筋ジスの患者さんで、もう何年も寝たきり状態の富也さんと会えたそうです。何しろ、上映会実行委員会の会長さんだった山内さんですから。 星野邦子さんは、正志さんの講演会をはじめてしたときに力になって下さったので、この日も、主催者並に活躍してくださいました。 |
歌のボランティアさん夢草堂に |
高次脳機能障害リハビリテーション講習会 2006,6,4 於、 新潟市総合福祉会館 1月から2ヶ月間私たちとともに暮らした高次脳機能しょうがい者,Iさんのことで、メール上でであった新潟脳外傷友の会スワンの会長石井祐子さんとのやり取りの中でこの日のことを知ったのでした。岐阜医療科学大学教授、阿部順子さん(臨床心理士)がかなり具体的に説明してくださいました。広田せつ子さんもいったので、目配せしあいながら笑ったのは、病識欠落、固執性、コミュニケーション障害、などです。母が殺されたことを裁判に訴える、ということに固執していて、それだけが生きがいになっているように思えたIさんでした。それについて、そんなことは不可能だといったところで絶対にそれは受け入れられないことのようでした。 Iさんが、助けを求めてきたのは、私たちの社会福祉法人桐鈴会にだったのですが、そこの会報にヘルパーとしてかかわってくれた男性の手記が載っています。興味のある方には、その会報をお送りしますね。お申し出でください。 |
南魚沼市男女共同参画会議結成総会 |
日本子守唄協会 2006,5,30 於 浅草橋 5月30日、東京の日本子守唄協会へいってきました。少し前、夫が長崎県の壱岐の島へ在宅医療ネットワークの集まりでいってきました。かなり興奮気味に帰ってきて、泊まった温泉宿のリーフレットを見せます。「平山旅館」、開けたら、そこには3人の女性が赤ちゃん4人を抱えて温泉に浸かっている!とっても珍しい写真でした。「露天風呂、子宝温泉、神功の湯」と書かれています。3人の女性の一人は、ここの旅館の女将、平山宏美さん、あとの二人は、その息子の連れ合いたち、そして赤ちゃんは、彼女の孫たち、その4人のうち二人は、男女の双子。 「とっても行動的な女将で、色々やってるんだ。今度、東京で子守唄の集まりがあるそうだから、いけたらいって見るといい」といって見せられた文書の中に小林美智子さんと言う小児科の医者で長崎シーボルト大学の教授という方の新聞の連載があり、そこに書かれていることは、共感できるものでした。 というわけで、この二人の方に会いに行って見よう、という単純な動機で、浅草橋のビルの2階にあNPO法人日本子守唄協会にいったのです。ここの法人の理事長が西舘好子さんだときいて、11年前の選挙を思い出しました。 95年の参院選、私がはじめて堂本さんの伝で比例区に立候補し、千葉選挙区から立ったのが、西舘好子さんでした。「まあ!黒岩です」と言っても彼女は思い出しません。選挙のことを言ったら、やっと思い出したようでした。彼女の中では、すっかり過去のことになっているようで、その後井上ひさしさんとの夫婦関係を解消し、DVの研究に励みそこから、この法人を立ち上げたということでした。井上ひさしさんのDVについては、新聞などで報道され周知のこと。帰ってからHPを覗いてみるとかなりの活動をしてこられたようです。 http://www.komoriuta.jp/cover.html 壱岐の島から昨夜ついたと言う平山宏美さんは、写真で見たとおりの女将で、彼女が、壱岐の島で24年間取り組んできた子ども劇場による地域の文化を子ども達にという活動と、子守唄協会とが協力し合って、来年壱岐の島で子守唄大会をしようという企画の相談会だったのです。彼女は自分で作っている有機野菜と、その加工品、それから、島で取れる魚介類などを空輸して、みなさんに手巻寿司をご馳走します。 うにのおいしかったこと! 小林美智子さんは、ずうっと長野県の保健所で仕事をしていたので、黒岩卓夫のことをよく知っていて、私が行ったのをことのほか喜んでくださいました。 子守唄協会のイベントで、子守唄を歌っている人が、原荘介さん!この方とは、日本アビリティーズ協会の集まりで知り合い、著作や、イベント情報など送ってくださっているという縁があり、ここで出会うとは!原さんもとっても驚いて、しかも、話してみたら、原さん、西舘さん、小林美智子さんが私と同じ66歳だったのでした。原荘介さんは、おととしのレコード大賞を取ったといっておられ、また加藤登紀子の先生でもあり、支援者でもあるということなので、その筋の方々の間では、よくしられている方なのでしょうね。 原さんたちが歌っている子守唄のCDには、南魚沼の子守唄というのがあり、聞かせていただいたのですが、私は聞いたことが無いものでした。このCDを購入してきました。井口一郎市長も、これを聞いて感動して、このCDを購入されたそうです。 カカトットの皆さんや、もえぎ園、社会福祉法人桐鈴会、やまと調剤薬局、の職場で、子育て中の職員が仕事を続けるのにどういうことが求められているのか、を探り、仕事と家庭の両立支援を目指すプロジェクト(ハッピーケアプロ)の皆さんにも、来年の壱岐の島でのイベントを知らせて、誘って見ようと考えているところです。 |
NPO富士山測候所を活用する会総会 2006,5,26 於, 新宿アイランドウィング15F、クラブツーリズム 富士山測候所を活用する会、がNPO法人をとり、その総会があって、26日に上京しました。ここに来ると、富士山のこともさることながら、大変興味深い話が聞けるというところが魅力です。 まずは、総会後のシンポジウムで、測候所を建設した大成建設の伊藤庄助さんの話は、迫力満点でした。以前プロジェクトXで人気を博したということでした。何しろすべてのことが初めてという環境の中で進むわけですから、すべてが実験、したがって冒険、ということなのですね。酸素濃度が低いということで、金属がさびるということを心配しなくていいので、今の測候所は、このまま100年はもつということだそうです。明治時代に立てられたものを解体したときに、80年たっていたのに、釘が1本もさびていなかったということでした。 今回もまた、静岡大学の増沢武弘教授(植物生態学)の話しに聞きほれました。 アンデスの4500メートルぐらいの所にとっても珍しい植物プヤライモンディーというものがあり、それの研究で何回も通っている。この植物は、100年に一回花を咲かせるといわれており、アメリカでは、センチュリープラントとも言われている。パイナップル科で、アロエのような葉っぱ。ものすごく丈が高くなるが、木ではなく、草。場所は、ペルー。ボリビアからのほうが行くには近い。 そこには、これが群生しているので、1本だけ切る許可を欲しいとペルー政府に申し入れていたけど、アメリカもイタリアも断られ続けるなか、去年日本にだけ許可が下りた。理由はどうやら、日本だけが、共同研究ということで、現地の研究者との協力関係がうまくいっているからでは?と増沢さん。ほかは、お金は出すけど、研究成果は、全部持っていってしまうだけで、共同研究にならないという。日本の「根回し」がここでは、充分に効果を発揮して、去年切り倒した。とっても固くてのこぎりでは、切れない。チェーンソーで切って見たら、直径10センチぐらいの幹(といっていいのかな?)の中には、砂糖が詰まっていた。根っこは、どんなに頑丈なのかと思ったら、何にもなく、あっけないものだったという。はっぱは、アロエのような形で、これもチェーンソーでなくては切れない固さだった。 4000メートルといえば、もう殆んど植物は生息しないと思っていたのに、そんな大きな固いものがきれいな黄色の花として100年目に咲くというのは、なんとも不可思議な生命体ですね。 山登りを続けている織部さんによれば、富士山の頂上にあのような人工物があるのは、景観上もよろしくないので、この際取り壊した方がいいというお考えで、その方に管理していただいているHP上で、このようなことを報告するのは忍びないのですが、私の友人の土器屋由紀子さんは、命をかけてこのことに取り組んでいます。今年も、彼女と8月12,13日富士山に登ってくるつもりです |
原子力発電発電所について |
「ベアテの贈りもの」ジュネーブ上映会
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おもちゃ美術館 2006年4月29日(土) 中野から1キロぐらいの所にあるおもちゃ美術館。これは、ちぎり絵展の青木照代さんのボランティアとして一緒にきた二人の若い女性たちの勤務先です。障害をもつ子どもたちが「おもちゃライブラリー」を頼りにしていることを知っていたので、そことのつながりがあるというおもちゃ美術館を「とっても小さくて驚きますよ」と言われて、見にいったのです。確かにワンフロア-は狭いこと間違いなし。でも、4階までおもちゃがびっちり並んでいるのです。これは多田千尋さんとその父の親子2代で収集したコレクションで、この何倍ものおもちゃが倉庫に眠っているとのこと。 |
「ダブルシフト」上映会 |
パ-キンソン病のリハビリのためのちぎり絵展と作者のトーク 2006,4,16〜23 於、夢草堂 私たちの社会福祉法人桐鈴会のグループホーム桐の花に隣接してお寺を移築してきた地域交流伝承館夢草堂で、展覧会を催しました。それに先立ち、初日の日曜日、パーキンソン病患者であるちぎり絵の作者青木照代さんと、その支援者和田行男さんのトークを企画しました。青木照代さんはこの町の出身で、現在東京在住。夫と二人暮しの49歳。 青木照代さんとその支援者3人が前日到着。15日(土)はいつものようにこちらのメンバーの手作り料理で、4時からの交流会が盛り上がりました。パーキンソン病の青木さんの現状は、パーキンソン特有の薬が2時間しか持たず、その間だけは体が動くのだそうです。1日24時間で、12回も飲んだら強すぎるので、夜中は、省く、そうすると体が動かないので、体位交換に人手がいります。それを毎日やっているのは夫君。それが余り大変なので、照代さんの弟春男さんが、浦佐から上京して時々変わってあげるのです。そうすると、夫君はとにかくずうっと眠り続けているということです。いかに寝不足状態で生活しているかということでしょう。 ところが、その夫君が骨折して2週間入院した時、なんとか工夫をして夜中は一人で過ごしたのだそうです。支援者の和田行男さんによると「恵まれた環境の中で生きてきた人なので、考えが甘い。はじめてであったときには、自分ほど不幸な人はいないと思い込んで、死にたい、離婚したい、というので、死ねばいい、離婚すればいいとうなづいていたら、最後には、難病リハビリのデイサービスに来る気になって、年寄りしかいないところへ、40代の人が来たので、80代のおばあさんが、『あんたみたいに若い人が、こんな病気になっても一生懸命生きている、そのすがたにはげまされた』と言ったのです。すると照代さんは、それに対して『私こそ、そんな年の方が一生懸命生きている姿に励まされました』といったそうで、それからどんどん元気になったということでした。 翌日の講演会では、青木照代さんは、原稿を書いてきてそれを読んだのですが、これが大変な迫力で、涙をぬぐいながらの人が大部分です。お母さんが毎日負ぶって小学校に通ってくれたことなどを感謝し、「親を恨んではいけない」といってくれた担任の先生に感謝し、・・・・と感謝から話ははじまりました。 小児麻痺によってびっこを引き引き歩いたために腰痛になったり、結婚してからは、卵巣膿腫の手術を2回、そして、とうとうパーキンソンに。大変なことばかりが彼女を襲いました。パーキンソンが診断されるまでに3年かかりました。小児麻痺があるために、診断ができにくかったそうです。その3年間は全くの寝たきり、「死にたい」を繰り返していたのです。 第2部は、青木さんが、和田さんを呼び、和田さんはまずこう言いました。「ちょっと聞きたいのですが、自分のことは人にしてもらいなさいといってそだてられた人」と聞くと誰も手をあげない。「自分のことは自分でしなさい」といわれた人、といわれて殆んどが挙手。「そんな人がみんな年をとるとしょうがい者になるんですよ」 照代さんのお母さん、弟さん、お姉さんとその子どもたち、孫たち、照代さんの夫君のお母さん、担任の先生、小学校からの同級生、東京のパーキンソン友の会の方7人、小出の友の会の方3人、そんな方々を前に話すというのは、照代さんにとってはとってもうれしいことだったようで、それだけに緊張も大きかったことでしょう。でも、皆さん感動して、終わっても帰らない。作品を買う人がいっぱいで、2日間で、26,000円もの売上でした。 ケアハウスを作った大元は、鈴木要吉,ひろ子夫妻から資金と450坪の土地が提供されたためでした。鈴木夫妻はケアハウスの隣に住んでいます。ケアハウスの反対の隣にできたのが、グループホームと夢草堂。夢草堂で今までにも色々な行事をしてきましたが、要吉さんが顔を出されることはあってもひろ子さんは、顔を見せたことがありませんでした。私は、今回はひろ子さんにきていただきたくて、お願いしました。あなたと同じように車椅子で生活している青木照代さんは、あなたがきたらとっても喜ぶと思う。と話したのです。ひろ子さんは、リュウマチ、脳梗塞などで、かなり体が不自由です。要吉さんが、家事は殆んどやっておられます。 そのひろ子さんが、前夜の交流会に一人で電動車椅子にのってこられたのです。これには、みんなこちらのメンバーが、「何年ぶり!」と歓迎しました。中でも照代さんが感激して、隣に座って、二人の写真をとってもらいました。ひろ子さんも涙ながらに交流をしていかれました。16日に講演会が終わると新潟日報の取材を受け、(その記事は、19日中越版に大きく載りました。)その後4人は帰っていきました。 東京から来た「パーキンソン友の会」の方々7人は、日帰りでは疲れるので、16日泊めて欲しいといわれ、鈴懸のショートステイと、18日入居することになっている空き部屋にわかれて雑魚寝することになりました。そのうちの一人の方は、かなり高齢で、椅子に座っているとどんどん頭が下がってきて膝に頭がついてしまっていました。何人かの方が講演会の途中でそれを気にして「眠ってしまって、倒れるのでは?」と私にいってきてくださったのですが、大丈夫、と成り行きに任せていました。そうしたら、なんと、それは眠っていたのではなく、そういう姿勢の方なのだそうで、食事もそのスタイルのママ取られるのだそうです。 さてその御一行様が、夕食後タクシーを呼んで、カラオケバーに繰り出したと言うのです!運転してきたなり高齢の男性も、一緒に飲みたかったからのようです。帰ってきたのは10時半だということ。それからお風呂に入ってみんなでねたとのこと。よく眠れたそうで、代表の松本さんだけがよく寝られなくて大変だったというのですが、ほかの人たちは、「これからゆっくり寝ていくんだから心配要らない」と情け容赦なしでした。そして帰りには、食べたコシヒカリがおいしかったからとそれを売っている米屋さんから取り寄せて、総量50キロをお土産を積んでいき、更にしんこ餅も皆さんがお土産に買っていったのでした。 朝、その方たちを見送りにいって、また色々インタビューをしました。「2時間しか持たない薬ってなんていうの?」「20も30も種類があって、どれっていえない」どれも、不随意運動が副作用としてある。頭の手術をすれば治る。医者は、100%の確率で治ると言うが、それは、不随意運動のことだけを見ているからで、体全体を見ると50%程度だ。その手術で、全く頭が動いていない方に聞くと、手術の結果手足がしびれるようになったので、してよかったとは思えない。のだそうです。 見ただけではわからないいろいろなことがあるというのに、どのかたもみんなとっても元気で、私たちを励ましてくださいました。 4月19日の新潟日報中越版に大きく写真入で載ったためにその日から見学者がぐっと増えました。ところが、その日の朝、照代さんが入院してしまいました。命をかけて話をしてくださったと思っていました。 社会福祉法人桐鈴会の会報「桐鈴凛々」48号の原稿をいただいた二人の文から、その後の様子などを汲み取ってください。
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土井たか子トークー(女政のえん) 第1回 2006,4,8 於、有機の食卓「花のえん」(東京都渋谷) 去年、私のトークをしていただいたご縁で、女性と政治を語り合い、そのネットワークを広げていくことをめざして、「女政のえん」を定期的に開催することにしました。その第一回が、8日(土)3時半からの土井たか子さんのトークでした。30人の定員だったので、早くに満杯なり、かなりの方をお断りしなくてはなりませんでした。6時までの第一部は、コーヒーブレイクを間に入れて、土井さんのトーク。6時半からの第二部は、花のえんの有機野菜を主体とした夕食をとりながら聞きに来た方たちのトーク。殆んどの人が、何らかの活動をしている人たちでした。 土井さんには、始めから質問をしながら話していただきました。 「自分が女性だということをどう思っておられるか?」私が女性でなかったら、党首になることも、議長になることもなかったでしょう。崖っぷちにたったときだけ女性を活用する。全てなりたくてなったものはない。 党首になるときには、成田委員長から、朝に夕に電話が来る。男性から、そんなに頻繁に電話をもらったことはないので、(と笑わせて)引き受けた。「女に委員長をさせるほど社会党は落ちぶれていない」という声があり、3ヶ月、6ヶ月、1年、といわれていたが、結局5年することになった。政務(外務委員会に長く在籍)ばかりで、党務を知らない私が、党務をはじめたので、女性というよりは、何事も風変わりと見られていた。 小泉さんが首相になる前の街頭演説で、「自民党の抵抗勢力はぶっ壊す」と言っていたが驚いた。人権の根幹をなすものが抵抗権である。それをぶっ壊したら、民主主義ではない。 小泉チルドレンは、みんなイエスマン、お気に入りばかり。それに対して、土井チルドレンといわれてきた人たちは、みんな私の抵抗勢力。私のことを書いた本で、一番いいとおもっているのは、保坂展人のもの。これは、かなり厳しい批判が載っている。私の後援会の機関紙「ふくろう」はいつも、批判と提言ばかり。自民党の女性が「これが機関紙?厳しいですね」といったほど。私も、はじめてみるときはいい気持ちはしない。 司会の大海(おおがい)さんは、「土井さんも人間だってわかって安心しました」と。 土井チルドレンといわれる人たちをリクルートするには、日頃の活動を見ていて、候補者を探していた。そういう活動をしている人は女性が多いから、女性候補が多くなる。 労組については、労組と関係ない人であっても、労組の票をあてにしないと勝てなかったり、労組には、色々やってもらってきた。でも、いうべきことはキチンといっていかなくてはならないと思っている。 女性が増えなくてはだめだと考えているので、クオータ制を敷くことがいいのだが、政党で取り入れることは簡単にできる。労組が、殆んど民主党にいったので、社民党は比例区を5対5にすることもあった。 憲法は、その前文において、よく変えることは認められているけど、悪く変えることは認められていない。とのことだったので、帰ってくるなり前文を読んで見ました。はじめの段落の最後に「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」とあるのです。 それだから、自民党の改憲案が、「自民党新憲法草案」となっていて、改憲草案となっていないということなのでしょう。土井さんがそう言っておられました。 土井さんのフランクな飾らない生の姿と接することができて皆さんが満足されたし、土井さんも、皆さんの声を聞くことができて、それもかなり強力な支持の声が聞けて、うれしかったにちがいないと思います。インターネットで社民党に入党できるようにしてください、そうしたらすぐに入党します。なんていう人がいましたから。また、母が土井さんのファンで、よく見てきてっていわれたと言う人など。 土井さんて笑うこともあるんですね。って言われるのだそうです。テレビでは、常に怒っている顔しか出ないとか。でも昨日は、終始笑顔で、気さくなおばさんでした。かの有名な五島さん(元秘書、でも、実は今も秘書)がこういってました。「土井さんはいつもアパートに住み、車を持ったことなく、質素に暮らしてきました」父が医者だけど、医者にはかかったことがない。歯医者と、最近腕を骨折して整形外科にかかったのみ、とのこと。 まだまだお元気でした。 今後の予定 第2回 7月 8日(土) 赤松良子さん |
カカトット(子育て支援の会)スタート |
高次脳機能しょうがい者 Iさんとのかかわり(その2) 2006,3,20 (その1)2006,1,17 2月9日に退院してきた恵子さん。東京都M町に居たときには、一月136時間のヘルパーを頼んでいたというのに、去年11月23日にボランティアさんに車で送ってきてもらって、ホテルを点々としていた間、ホテルのボーイさんをヘルパーとして活用していたらしく、支援費は全然使わずにやってきた恵子さん(59才)の生活力たるや大変なものです!M町に居たら殺されるといって逃げてきたのです。何の保障もないところにこうやって来てしまうのも高次脳機能障のなせる業なのでしょう。 |
沖縄報告 |
11回目の結婚披露宴 |
90歳の誕生会 |
銀座のカンカン娘ーーーー |
山本美智子さんと |
高次脳機能しょうがい者Iさん、とのかかわり |
スズランさんの引越し 2006,1,29 長岡にて 以前から時々お伝えしてきたスズランさんと言う長岡の女性(54歳、脳性まひによる身体しょうがい者)が、今日、施設から改装されたアパートに引っ越しました。なんと、大雪など嘘のように晴れ上がって、引越しを祝福するかのように春のような晴天が、待っていてくれました。 内山さんが、スズランさんから自立生活がしたいと打ち明けられたのが去年の5月。9ヶ月ぶりで、その夢が実現にこぎつけたのでした。施設のほうから3人、私と内山さん、栗田さんの3人が、引越しの人足でした。つい先日、施設の園長が「家に帰るのではなく、自立していくのだから、お祝いに引越しは園のほうでやろう」といってくれ、明日は、自立祝賀会ということです。 施設のほうから来てくれた3人の人と少しの間ですが、一緒にいて、彼女が自立したかった気持ちが手にとるようにわかりました。3人のうち、私があったことがあるのは、女性課長だけだったので、他の二人を紹介してもらいました。「この人は、お母さん」と言って担当の職員をその課長が紹介しました。スズランさんにとっては、娘といえるぐらいの年齢の人です。確かに「お母さん」ぽい口の利き方です。うちわが3本ありました。「1本しかいらないでしょ!どれがいい?」有無を言わせず、1本に決めてしまいます。命令形がたくさん。 課長さんは、自分が今日は休みだけど出てきた、と少々恩着せがましいことも気になりました。支援センターのケアプランを立てたと言う人は、取り付く島もない感じの人でした。 四六時中こういう人たちに囲まれているのだもの、「自立できたら死んでもいい」といわせるほど、自立を熱望させてくれるのだということが良くわかったのでした。 施設側は、出ることに賛成だといいながら、「自立するんでしょ。みんな自分でやりなさい」という対応でした。これでは、実際は、自立など不可能です。お金があれば、タクシーを頼むことも可能。ぎりぎりしかないのが多くのしょうがい者です。だから、引越し先のアパートとの契約が終わって、1月末に引越しというところまで来ても、電気、ガス、水道の契約。アパート代を振り込む銀行口座の開設など、とっても一人でやっていられません。そこに女神の登場です。以前お知らせしたように、地震のおかげで知り合えた栗田いね子さんが全部やってくださっていたのです。更に、この方は、大変なことまで引き受けてくださっています。 引越しとか、その前の体験入居には、どうしても手助けが必要。そのためのボランティアをニート中の女性Kさんに頼みました。栗田さんも、Kさんもスズランさんの施設のそばに住んでいます。スズランさんとKさんとも、スズランさんと栗田さんとも時々行き来しています。そんな中で、スズランさんは、内山さんのことは、安心して攻撃できる対象と心得たらしく、かなりきつい言葉も内山さんにはぶつけています。それが、最近では、Kさんにまでぶつけられるようになりました。そのとき、栗田さんは言います。「こういうことが起こるだろうと思っていた。家族や、施設職員を仲間にできないでいることからくる自立生活への不安がスズランさんをそうさせているのだから、あなたは、いやなことはいやとはっきり言って、とにかく無理をしないでね。」この言葉によって救われるKさんは、できる限りのことはしようと思いなおすのでした。 実際、引越し当日も、起きられなくて、やっとの思いでスズランさんのアパートにたどり着いたのは、私たちが帰ったあとでした。それでも、やってきてくれたことに、スズランさんは、深く感謝したようでした。 栗田さんは誰のストレスも、そのまま受け止めてしまう大変な能力の持ち主です。だからこの方を女神様と呼んでいます。 園のほうで引越しはみんなすると言っても、スズランさんは、自分が3年前まで住んでいたお兄さんの家からもたんすなどを運びます。それは、栗田さんが引っ越し業者を頼んでくださり、お兄さんの家にいって寸法を測り、引越し屋さんに伝え、・・・としていたのですが、今朝アパートにいってみたら、すでにお兄さんが引っ越し屋さんと荷物を運んできていたと言うのです。お兄さんは、お前の顔なんか見たくない、お前とは縁を切る、などといいながらも心配で、これからもきっとこのアパートを訪ねてくれるにちがいないと思わせてくれ、そのことも、スズランさんを幸せにしてくれました。 更に、一人生活が始まってから、きてくれるヘルパーさんが、施設に入る前に家にきていた人でした。荷物の整理を少し手伝って、引越しは完了しました。 終わってから、内山、栗田と3人で、心ゆくまで語り合ってきました。これがうまくいったら、施設の人の中に自立への流れができるのでは、ということです。栗田さんは、何回も施設を訪ねて、引越しに向けて準備万端整えてくれました。それはとっても楽しいことだったそうで、施設の職員に「このつぎのときにも手伝わせてね。」といって来たといいます。3人はお互いに知り合えたことを喜び合って別れて来ました。 きっとこれからも色々なことがあこるのでしょうから、そのたびにまたこの3人のプロジェクトが動き始めることになるのでしょう。 失敗が特技である秩子にしては、珍しく成功といえる結果となりました。 |
韓国映画「マラソン」観劇 |
差別禁止法シンポ〜合理的配慮義務とは? 2006,1,15 於 弁護士会館大ホール 全国に先駆けて、自治体として障害者差別禁止条例を作ろうとしている千葉県の知事堂本暁子さんの報告が、まずは、会場の皆さんを感動させました。自分は何もしなかったのに、しょうがい者関係の方たちが、タウンミーティングをしたり、審議会を作ったりして、みんな整えてくださって、その上に乗っかっただけという報告でした。それは、「県民参加」の県政という公約があったからなのだと思いますが、私も、市川市のタウンミーティングに参加して本当に驚きました。500人の会場に700人が詰め掛けて、通路いっぱいに座り込んでも外にあふれて、ロビーでも、聞けるようにしてあったのでした。そして出てきて発言する方たちは、これでもかこれでもかと思うほどたくさんの障害者団体があって、最後には、ホームレスの方たちまでが発言して大変な熱気だったのです。そういう地域住民の盛り上がりがあってこその差別禁止条例だったということを、報告して下さったのでした。 中でも共感したのは、「差別する人とされる人」というわけ方をせず、差別行為があったときの解決策として、対決するのではなく、差別した人にその後よき理解者になってもらうというやり方にする、ということでした。 差別禁止法というものと、雇用促進法における割り当て制(法定雇用率)というものは、整合性が取れないのでは?という問題提起がなされましたが、自らも視覚障害者である藤井克徳さん(13団体が加盟する日本障害フォーラム幹事会議長)が、オリンピックを例に出して、女子と男子と分けることは差別にはならないという反論をされ、説得力をもっていました。そして、差別禁止法というものは、しょうがい者だけの問題ではなく、あらゆるマイノリティー(少数派)に関しても広げられるので、とどのつまり、これは「世直し」なのだとのことでした。 内閣府の参事官という方は、「障害者基本法を改正したので、その中に差別禁止が含まれているので、それを活用すれば、差別禁止法を作らなくても」という発言をされていましたが、宇洋をはじめ多くの方が、反論して、やっぱり差別禁止法が必要だと言っていました。でも、こんな発言をする官僚の方がこのシンポに出てきたということに意義があるのかもしれません。そもそも、この差別禁止法を作りたいと言いだしたのは、障害者基本法が理念法であるために裁判規範性を持たない、(それに違反したということで訴えることができない)ということで、たくさんの裁判に負けてきたためだったのですから、このような発言はこの場で通用するわけはないのでした。 視覚障害者の弁護士竹下義樹さんは、いつもながら、大変な迫力で、「合理的配慮義務」ということは、司法試験のときに点字受験を認めること、ということだと、具体的な説明をいただきました。つまり、受験してもいいよと言っても、実際に点字受験が認められなかったら、視覚障害者は受験できないので、結果的には差別されることになるということです。この合理的配慮義務という言葉は、訳語として適当なのか?という疑問も出されていました。 会場からの発言として、大分県中津川市議の方が、喉頭ガンで発語できなくなったのに、代理者による発言を拒否され続けている(この時も代読という形で発言された)という話、就業後に視覚障害をもった教員が提訴してきた裁判の勝訴報告、運転免許の適性検査が、道交法の欠格条項見直し前よりも、(適性検査について定めている道交法施行規則自体は何も変更されていないが)、格段に厳しい運用になって、免許更新を拒否される人が出ている、という聴覚障害者からの発言など、出されていました。 叉、毎日新聞の野沢和弘さんは、自らもしょうがい児の父親で市川市のタウンミーティングの仕掛け人ですが、彼は、その後千葉県の差別禁止条例を作る審議委員として活躍。その委員会は、30人で構成されているのですが、経営者や、教員など、なるべく多様な人が入っているようにしてあるとのことでした。そういう方たちは、はじめのうちはしょうがい者の話を憮然として聞いていたのに段々に反論するようになり、最後には、けんけんがくがく議論ができるようになっていったということでした。 大きな会場に250人ということはとても残念だったと思います。でも、弁護士の一人は「このテーマでこれだけ集まればたいしたものよ」といっていました。 |
2006年 明けましておめでとうございます 12月半ばからの大雪、地球が怒っているとしか思えません。しかし、ここ雪国は、除雪体制が整っているので、道路が通れなくなるということは殆んどありません。 昨年は、女性たちの力で作った戦後女性活動史ともいえる「ベアテの贈りもの」の上映会続きでした。東京に居たときのご縁で、私もこれの製作に協力することができ、出来上がった35ミリ映画を県内各地で上映させていただきました。高校生や大学生には、貸し出し料を半分(5万円)に割り引いていただくことができ、長岡大手高校で、1300人の生徒さんに見ていただくことができました。昨年秋からは、英語版のフィルムが、ヨーロッパに行き、ジュネーブの友人たちがジュネーブで上映することを企画し、5月の上映会には、私も少しお話をしに行くことにしました。暮には、ジュネーブ、ウィーンの友人が帰国するのに合わせて、この映画の監督藤原智子、製作委員会代表赤松良子さんたちを含めて7人の会合を東京で持ちました。 15歳で親元を離れていった揺光が、去年5月にオランダのユトレヒト大学移民学修士を卒業してもどってきました。9年間日本を離れていた彼には、日本での就職活動はかなり大変でしたが、ようやく毎日新聞社からの内定が取れ、今年4月から記者生活を始めます。これで、ようやく私たちの「親家業」に終止符が打たれますが、子どもたちの連れ合い4人(長男宇洋が去年結婚)、孫5人を含めると18人という大家族は、お互いに支えあって行くことは続くでしょう。 地元の社会福祉法人(ケアハウスに隣接して、認知症対応のグループホームを作り、そこにお寺を移築してフリースペースとし、さまざまな活動を始めています)の運営を始め、県内各地で、様々な取り組みをしている友人たちとつながりながらの活動は、今まで通り続けていくつもりです。今年もよろしくね。 |
「女の心意気」 |
「ニート、ひきこもり体験記」 2005,12,16 於、魚沼市広神コミュニティホール 「こわれ者の祭典」という番組が、11月24日、フジテレビで放映されたのですが、関東地方だけしか見られない番組でした。このビデオが出演者の渡辺正志さんに送られてきたのを見て感動し、いくつかダビングしてみんなで見ました。 脳性麻痺の木原大吾さん、その他拒食症、同性愛、など様々なマイノリティー(少数派)が登場しては自分のこわれ具合を自慢する舞台を紹介していました。でている人全てが壮絶な人生を歩んでいます。このグループのリーダーは、月之光司さんで、新潟日報のコラムを不定期で書いています。ひきこもりの人のうちを訪ねたりこのような表現活動をしたり、たった3年という年月で、すっかりその名を県内に広めてしまいました。 ひきこもり5年という渡辺正志さんは演劇をしたり、市役所の職員としてこの4月から臨時で働いたり、そんな彼の姿も出てきます。極め付きは、5年間閉めっぱなしだった彼の部屋のカーテンをテレビスタッフが開けてみたら、窓枠の隙間から木の枝が入り込んでカーテンに隠れていたのを発見!部屋のなかの散らかりようは、我が家の上をいっていて喜びました。 そんなまさしさんが、12月16日夜、広神コミュニティーセンターで、「ニート、ひきこもり体験」を一人で語るというので、誘い合わせて聞きにいきました。 コミセンの和室には、15ぐらいの座布団が用意されていましたが、はじまる頃には30人を越え、何回も座布団を補充するはめになりました。魚沼市議の星野邦子さんが、司会をし、正志さんの経歴を話してくれました。正志さんは淡々とひきこもりの状況を話して、「楽になりたいと思ってひきこもったけど決して楽ではなかった」。「生きるための手段としてひきこもったのだと思う」人に助けてもらわなくては生きていけない自分を認められるようになったのは、様々なボランティアをして「有難う。来てくれてうれしい」といわれながら段々に元気が出てきた。たくさんのボランティアをしたけど、それらすべては、自分のためだった。「助けてもらっていいじゃないか」と思えるようになって、そんな自分が好きになった。 ボランティアの種類たるや大変なもの。去年の7,13水害、自分の村の子どもたちへの絵本の読み聞かせ、外国人花嫁に日本語を教える、国際大学の外国人学生に日本語を教える、中越地震・・・・・。中越地震が起きたとき、「こんなときこそニートの出番」と思ったそうです。24時間フルにつかえるので、人が足りない深夜、早朝の介護をしたのだそうです。この明き小出郷文化会館で上映した「メタセコイアの木の下で」のときにも実行委員会に入って活躍してくれました。この間彼を経済的に支えたのは、弟だったそうです。文句をいわずにお金を渡してくれていたことに深く感謝していました。 こうなれたのは、大勢の人たちのおかげ、感謝の気持ちでいっぱい。といえるまさしさん、初めて私のうちを訪ねてくれた1年半前とは全然違って、本当に成長してきた姿がそこにありました。誰を攻撃することもなく、質問には丁寧に答え、私が「ご両親のことが出てこなかったけど」と質問すると、「忘れていました。以前は、心配事相談に行って親の悪口ばかりえんえん言っていたように思いますが、父はアル中で精神病院に入院、母は、2回の自殺未遂で入院。だから家には二人ともいません。そのおかげで、早くよくなったと思います。まだ、親とのやり取りがあった後は、混乱したりしてしまうので、今の自分には、親との交流は無理なんだとおもっている。自分は長男なので、母はあなただけが頼りというので、プレッシャーが大きかった。アダルトチャイルドだと自認している」小さい頃から、両親が仲が悪くて、父の暴力もあり、隣のうちへ駆け込んだこともある。小3の時のことで、隣の人は来てくれ、両親は、ばつが悪そうに喧嘩を止めた。そういう近所の助力もうれしかった。 周りに何を望むかと聞かれて、「生きていてくれるだけでいい」という無条件の愛情、がほしいと言う。会場の精神しょうがい者の人が、精神病院は、駆け込み寺で、入院すれば仲間もできるし、薬でよくなることもある。恥ずかしがらないで、精神病院に行くとよい。と発言、正志さんも同調していました。自分も駆け込んできた、と。 正志さんは、しょうがい者のことを笑凱者と書きます。笑って凱旋するのだそうです。 南魚沼から行った人たちは、今度夢草堂で話してもらいたい。と言っていたので、そのうち企画されることでしょう。 |
しょうがい者自立への道 2005,5、〜12月 スズランというハンドルネームで、私のHP掲示板にこんな投稿がありました。 おはようございます(^O^)/ 自立出来そうな女に変りました! 昨日、家族と話し合った結果です。 これからが大変ですがやるだけやる事だと思っています。 内山孝子さんがやっている結び屋(新潟市)で体験入居して自立生活を楽しんでいるMさんの影響を受けて、長岡の施設に入居中のスズランさんが、自立生活を始めたいということで、内山さんがかかわり始め、なんと、アパートも、その改装も決まっていて、保証人が必要とのことなので、私は、内山さんの熱意に動かされて「引き受けましょう」ということで、11月15日に長岡へスズランさんと会いにいきました。 しょうがい者支援センターを会場にして月に1回集まりを持っているしょうがい者グループの集まり(Mさんとも、ここでの知り合い)でスズランさんと出会い、経過をゆっくり聞かせていただきました。内山さんは、今でも月1回新潟から長岡まで高速を使わずにMさんをこの集まりに運んでいます。 脳性まひで、車椅子生活のスズランさんは、54歳。7人兄弟の7人目。小学校の時は、お母さんがおんぶして学校に連れて行ってくれたけど、中学では、上の子のこともあってそれができなくなり、かといって施設に入れるのは忍びないということで、以来ずうっと在宅で過ごしてきた方です。ところが、母は今93歳、介助が大変になり、一緒に住んでいた長兄の家から、今の施設に入所したのが、3年前。時間どうりの生活や、男性介助にも抵抗があり、何よりも、出歩くことに対して、「叉?」という反応があることが耐えられない、ということで、自立生活を決心したといい、内山さんとMさんを呼んでお願いしたのが5月のこと。9月には、Mさんのお父さんが持っているアパートが空いている、そんな事情であれば家賃を6万から4万に下げてあげるという話が来て施設や家族にこのことを告げます。 これに対して、施設は、家族の賛成を条件に支援するというスタンス。家族は、長兄が反対であるために、母も姉兄も賛成しないのでした。 そこで私たちは、施設の職員に支援してもらうことを申し入れようということで、スズランさんの案内で、担当女性課長Kさんに会いにいきました。言語障害があり、緊張するとうまく話せないスズランサンに、「自分で兄の説得を」といってきたKさんに、私が保証人をするからということで、なんとか長兄への説得をと、お願いしたのです。スズランさんは、障害年金と、その他の助成金で、4万の家賃を払いながらの生活は可能ということです。 その結果、Kさんと一緒に兄に会いに行き、とうとう兄からのOKを取る事ができたということで、いったんは「おめでとう」と言ったのでしたが、なかなかことはスムースには行かないんですね。そんなに簡単なことならもっとずうっとしょうがい者の自立は進んでいたはずですもの。 以前、DVで逃げてきた人を受け入れたことがありますが、2ヶ月間の格闘の末、夫の元に帰っていったという結末でした。平均して、でたり入ったり7,8回だということですが、この自立生活も似ていると実感しています。 障害を持っている人たちは、介助を受けているということが「負い目」となっていてどうしても、周りの気配を感じ取ってそれに合わせて生活するというのが習い性になってしまい、周りがなんといおうと私はこうしたいということがなかなかいえない。(黙従反応というのだそうですね)圧力がかかると、心ならずも反対のことを言ってしまう。 スズランさんも、その後色々な経過があって、家族の元に一人で行って「もう諦めます」といってしまい、施設に帰ってきてから「やっぱり諦めきれない」と手紙を出します。こちらには「きびしいです」というメールがくるだけ。そこで、叉内山さんと、施設に彼女を訪ねました。一人で家族と話すと、どうしてもいえなくなるから、一緒に行って、といわれ、すぐ内山さんの車で母、兄夫婦が住む、3年前まで彼女が住んでいたうちにいきました。 お兄さんはかんかんに怒っています。「やめたと言ったのはうそだったのか。人を連れてくるなんて卑怯だ、お前の顔は見たくない」とそっぽを向いてしまいます。それでもだんだんに心を開いて話してくれるようになり、妹のことが心配で、家族でさえ、思うように行かないのに、他人が介助して、生活できるわけがない、これから年を取っていけば、どんどん体がかたくなって介助も大変になる。みんなが我慢して生活しているのにわがまま言うものではない。と、確か多くの人が思っていることと同じことを伝えてくださったのでした。 それに対して内山さんと二人で反論。 家族ではうまく行かないことが、他人だからうまく行くことが多い、それが、介護保険。支援費でしょうがい者がどんどん自立している。その結果、楽しい生活ができるようになると言語障害も減ってくるし、身体もやわらかくなってくる。我慢は、しなくてもいいものは、しなくていいのでは?と話して行くと、どうしたってやるというなら、やればいい、家族の縁は切る。と。 「縁を切るのは書類上で、スズランさんはご家族をこころから愛しているしこれまで育てて下さったことに感謝しています。4月から自立支援法が施行されるので、そうなると、どんな支援になるのかまだわかっていません。でも、3月までに受けている支援は引き続くといっているので、3月までにでたほうが安心です。また扶養を外すことでご家族の負担も少なくなりますし、スズランさんも生活保護を取りやすいのです」と内山さん。 でも結局、スズランさんが幸せになれば、一緒に喜んでくださるのでしょう?というところで一致して、玄関の外まで見送っていただいて帰ってくることができました。 早速アパートとの契約書つくりが始まりました。自立生活を目指すスズランさんの思いが届いて、アパートとの契約書が、12月2日に私の所に届きました。 それが、実は去年の地震のおかげだったのです。「桶屋が儲かる」式のことですが、それよりはもっと因果関係がはっきりしています。 1年前、地震見舞いをくれた大学のときのバレー部のコーチが、「長岡にも後輩がいるよ」と教えてくれたのが栗田いね子さんでした。当時から電話では色々やり取りして、私が大地塾をしていた頃、かかわってきた子どもやその親たちと栗田さんも関係が深いことがわかり、彼女がカウンセラーとして、その人たちの支えになっていることがよくわかりました。 その彼女と直接会えたのは、先日スズランさんと初めて会いに行った11月15日でした。スズランさんの施設から車で3分ぐらいの所にあるおうちから、迎えにきてくださって、おうちを訪ねたのです。そしてわかったことは、スズランさんの入っている施設を運営する社会福祉法人の理事長が運営するもう一つの医療法人の方で、看護部長をしていたこともあるということでした。とことん患者さんに寄り添う彼女の姿勢に感動した帰ってきて、スズランさんのことが暗礁に乗り上げると栗田さんに電話をして相談していました。 そうしたらとうとう彼女は12月1日、スズランさんを訪ねて、契約書を交わす立会人を引き受けて実行してきてくれたのです。何しろ、長岡は、新潟からも、ここ浦佐からも車で1時間半というところです。私も内山さんもそう毎日訪ねていられる距離ではないのです。その上、私たちは施設で働く経験もなく、施設職員の気持ちや、状況もわからないので、かなりのストレスを施設職員に課してしまっていたようです。栗田さんは、精神しょうがい者の自立を奨めて来た体験もあったので、すっかり施設職員の信頼を勝ち得て、ことがスムースに運んだのでした。 実は、この施設の理事長の息子が、地震のとき電車が通らなくなって、5ヶ月間我が家に下宿していたということもあったので、いざとなったら、理事長に直談判もできるという私にとっての「お守り」も地震のおかげでいただいたものでした。今回は、栗田さんのおかげで、直談判をすることなく、連帯保証人の私のところへ、12月2日、契約書が届くことになったのでした。 スズランさんと内山さんの7ヶ月間の活動が稔った瞬間に立ち合わせていただく光栄に浴しました。何しろアパートの大屋さんは、新潟で自立生活をしているMさんのお父さんだということもあって、アパート代は、安くしてくださったし、入りたいという人があっても断って待っていた下さっていたのです。そこのバリアーをリホームするのも新潟の「ゆいまーる」というしょうがい児を普通学校へという集まりのメンバー(品田さん)が、建築士として引き受けてくださってあって、後は、スズランさんが施設を出るだけ、というところまで用意ができていたのですから。とってもたくさんの方々の善意が、事を稔らせたのでした。日本も捨てたものではない! ところが、ここでもまた大きなハードルが!12月1日、大屋さんの所に栗田さんといって契約書をもらってきた後、つかれきってスズランさんが熱を出してしまったのです。私が判を押して契約書を送り返しても、メールを出しても返事が来ない。叉栗田さんに行ってもらって、状況がわかり、栗田さんがスズランさんの判を押して、12月7日に契約を取り交わしてきたのでした。 1月に引っ越すことになり、その前に体験入居をして見るということですが、施設に入居している人にはヘルパー派遣はできないそうで、ここもボランティアで支援するしかありません。でも、すでにしてもいいといってくれている人が現れています。 まだまだ様々なことが残っているようですが、ご本人の熱意が、周りを動かしていく一番の原動力、今までは、長岡には、このような自立生活の基盤が無く、Mさんは新潟市での生活となっているのですが、スズランさんが、長岡での道を切り開いて後に続く人を勇気付けてくれることになることを期待しています。 施設の課長Kさんに寄れば、自立生活がうまくいかなくてスズランさんが戻ってくることまで考えて、2月から入居する人を選んでいるそうです。栗田さんが言うには、それは当たり前のこと。栗田さんも精神しょうがい者を病院から外に送り出すとき、帰ってこられるようにしていたそうです。これからなにが起こるかわかりません。スズランさんは、週50時間ぐらいのヘルパー派遣で賄えるだろうとKさんは言います。スズランさんが、Mさんのような晴れやかな顔になる日に期待をこめて。 |
富士山測候所活用NPO設立総会 |
農村にもバックラッシュが押しよせてきた |
知的しょうがいを持つ人たちの発表会 2005,11,12 於、小出養護学校体育館 この地域にすむ知的しょうがいを持つ子どもたちの多くが一度はその門をくぐる一部事務組合立の知的しょうがい児施設魚沼学園の発表会を一寸だけ見に行ってきました。 この学園の職員である関直樹さん(43才)からのお誘いがとても魅力的だったからなのです。ずうっと前、浦佐保育所に居たかなり重度のしょうがいを持つマリ子ちゃんタカヒコ君が、合唱、合奏をするというのです。 学園に併設されている小出養護学校の高等部を卒業して、多くの人が作業所などに行くのだけど、そこにはいけない重度の人が、学園に併設されているデイサービスに通っている、その人たちの担当をしているのが関直樹さんです。彼は、ずうっと昔、私が、県内の施設職員の皆さんにお話したときに、その内容に共感を持って以降、手紙のやり取りが始まり、社会福祉法人桐鈴会を立ち上げてケアハウス鈴懸建設のときには、資金提供をしてくださり、時には、一緒にのみに行こうと誘われたりする仲です。 当日、学園の入り口ですでにマリ子ちゃん、タカヒコ君のお母さんとばったり出会って、一緒に体育館にいきました。母さんたちなんだかとっても晴れやかな顔です。私がくることを関さんから聞いていたといいます。初めての出し物が彼らの出番でした。幕があくと真ん中ににこやかに立っているのが、マリ子ちゃん。タカヒコ君は、ピアノを弾く関さんの隣に腰掛けています。曲が始まるとマリ子ちゃんの動きが出てきて、グルっと回るときには、一緒に回っています。とにかくとても楽しそうにリズムにあわせて動いている姿にとてもびっくりしました。5歳、6歳の頃のマリ子ちゃんしか見ていなくて、今は19歳なのですものね。小出養護学校に入学した頃には、担任の先生が、言葉が通じないからということで、髪の毛を持って立ち上がらせるというようなひどい虐待をし、それを同僚の先生から聞いてなんとかしようと悩むお母さんと一緒に悩んだものでした。 タカヒコ君は、ある一つの曲が気に入って、それを早くやってくれといって、練習のときにピアノの隣に座ることが、癖がついてしまったということで、それでも、太鼓演奏になったら、関さんと一緒にステージに上ってバチを持ってたたいていました。 これを見ていた学園職員の男性(関さんと同じぐらいの年)が、私の耳元で解説してくれました。「毎日毎日練習したんですよ。始めのうちは、ただごろんと寝転んでいるだけだったのに、ああやってみんなが立っているのを見るだけで驚いてしまいますよ」 関さんを始めとする職員たちの熱意が、伝わった結果でしょう。この人たちは重度だから何もできない、という思い込みを捨てて、諦めないで取り組んできた結果なのだと思いました。 |
ピープルファースト全国集会in新潟 |
二戸市での講演会 2005,10,29 |
仙台ありのまま舎訪問 2005,10,28 |
「メタセコイアの木の下で」上映会、 |
「日本のシンドラー」--6000人の命のビザ |
ベアテの贈りもの上映会 |
ベアテの贈りもの |
シンポジウム「女(ひと)と男(ひと) みんなでつくろう! |
上越「マミーズネット」訪問記 2005,9,6 |
「田中瑞木展覧会と講演会」 於、地域交流伝承館夢草堂 2005,8,14〜27 8月14日、お盆で帰省している人たちが見てくださるだろうということで始めた田中瑞木展覧会。27日の最終日までに270人を超える方たちが見にきてくださいました。小学生が見ている途中で「この絵、ぼくの教科書にある!」と言って指差したのは「ねこの原っぱ」という100号の油絵でした。本当に小学3年、4年の教科書に載っているのだそうです。 最終日は、お母さんの阿部愛子さんの講演会でした。お母さんは、「絵はコミュニケーション」(感動した本のコーナーをご覧ください)の本を出してすぐに離婚し、この本を読んでラブレターを出した阿部公輝さんと再婚したので、瑞木さんとお母さんの苗字が違うのです。 14日から毎日10時から5時まで、殆んど番をしてくださったのが、広田せつ子さん。私は、差し入れにいったり、最後の二日間だけ番をしたぐらいでした。 講演会は、私が想像したよりもはるかに少ない人数だったのですが、その方たちの熱心なこと!途中休憩を入れて、お茶を出して懇談会に切り替えたのですが、そのときに帰った人が殆んどなく、最後まで、熱中し、終わりを宣言しても誰も立ち上がらないんです。自閉症の子どもを持ったご家族を始め、仕事としてかかわっている方や、家庭問題で打ちひしがれていた人が、帰るときには、人が変わったように笑顔になって帰っていかれる姿を見て、瑞木さんの絵や、愛子さんの語りが、その方の癒しになったと信じられるのです。そのことをメールでかいてきてくださった、知的障害者更生施設職員の方の感想文を披露します。この方は、愛子さんの話は聞いていないんですが、聞いた方の感想もキットこんな感じだろうと思うのです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 黒岩先生、(この言い方やめてと言っているのですが、頑固な方です)昨日はありがとうございました。とてもいいものを見せていただきました。 オレなりの絵の感想を。実は、絵を見て、かなり感動していました。絵の巧拙に、ではなく、迫力に圧倒されていました。 どうも、その感動が普通ではないような気がして帰ってから理由を考えてみました。会場がお堂でしょう?いろんなモノ、信仰心とか、救いを求める心とか、悩み、煩悩が集まってくる場所ですよね。いい年こいてオカルティックな言い方で恐縮ですが、お堂に渦巻いているそういう感情の群れが瑞木さんの真摯さいっそう際立たせていたのではないでしょうか。 それであのレイアウトでしょ?意識されて並べたのでしょうか、瑞木さんの描く人、猫、動物はすべて真正面を見据えてますが、その絵がすべてお堂の中央を向いて飾られています。そうすると、絵の中の瞳が全て、常にそこに立つ鑑賞者を射抜くんですね。鑑賞者、この場合オレですが、たえず自分の中の醜さ、汚れをまっすぐな目にさらされているような気持ちになったのだと思います。 もうひとつ。技術的にはわからないですが、自閉の方が、あれほどバラエティに富んだ技法、画風を扱えるということにも少なからずびっくりしました。オレたちは、やっぱり障害を一定のものさしでしか測れていないんだなあと思ったりもしました。今、オレの受け持ちの子と、11月の発表会に向けて合唱、合奏の計画を立てているんですよ。浦佐の湯本真理子、宮崎タカヒコとかといっしょに、ですが。和太鼓、リズム楽器主体でやる予定です。瑞木さんの絵、ほどには人を感動させられるかどうかわかりませんが、楽しいことになろうかと思っています。 それではまた、お会いできるときを楽しみにしています。選挙が終わったら、飲みに行きましょうね。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この方のご両親と、同僚の方が翌日きてくださいました。彼の感動が伝播したのでしょう。 叉、愛子さんのお話を聞いた方からの感想を一つだけ披露しますね。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー お母さんのお話に感動し、涙をこらえながらお聞きしました。瑞木さんとの32年間、ことばには言い尽くせないほどたくさんのドラマがあったことでしょう。でも今はそれを前向きに振り返りながら瑞木さんの好きなことを夢中になれることをとことんつき合い支えながら歩んでこられたのですね。瑞木さんの絵から本当に不思議なパワーをもらえました。自分は自分、今もっている自分のよさ自分ができることを精一杯やっていけばいいんだなー。そんな人生の応援歌のようなものを感じました。お母さんの穏やかなお話ぶりと、瑞木さんの誇らしげな笑顔、お父さんのあたたかいサポートぶりにもとても感動しました。すてきな講演会と原画展をありがとうございました。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 私や、瑞木さんの写真が載っているHPをご紹介しましょう。 http://umi.or.jp/ |
タイ、ラオス、家族旅行 2005,7,29〜8,5 |
富士登山 2005,7,16〜7.18 |
皆さんの善意が集まった桐鈴会 2005,5,20 |
マレーシアからの来訪客 2005,6,8〜9 6月8日、8年前にこの家にホームステイしていたマレーシアの青年ラザックが家族8人を連れてきました。ラザックは、97年3月から98年2月までここにいて、国際情報高校に通っていました。帰ってから、マラヤ大学の中にある日本外務省が建てた日本留学コースに2年行って、新潟大学工学部に入学、去年卒業して日本企業に入社。そこで希望どうり、情報関係のものづくり会社に就職して、いずれは、マレーシアにある支社に転勤したいと夢見ています。6人兄弟の末っ子である彼のところへ、4番目のお兄さん夫婦とその子どもたち5人が、ラザックのお母さんを連れてやってきたのです。 このお母さんは、字を読んだり書いたりはできない人で、(12人きょうだいで学校に行けなかった)ラザがここにくる直前夫をなくし、とても落ち込んでいたので、私が訪ねていった99年には、なんだか消え入りそう、という印象でした。それが今回は全然違っていました。英語ができないので、私たちとは殆んど通じ合えないのに、かなり積極的に話し掛けてくれます。今回は、お産のことで盛り上がりました。お母さん(61才)は、子ども6人すべて自宅出産でした。お兄さんのパートナー(31才)は、5人とも病院で産みました。なんと出産費用は、5人までは公費で出ます。6人目からは自費だというのです。1,29にあえぐ日本となんて違うんでしょう! お兄さん夫婦は、以前は二人で小学校の先生でした。マレーシアは、今でも二部授業ですから、(小学校は高学年と低学年で別れる、中学は午前、高校はその校舎で午後となります)先生は、5時間のパートさんということでお兄さんは早々と退職して、99年には、衣料品のお店を出していました。今では、3000人を擁する生命保険会社に勤務して、毎年会社もちで、海外旅行をしているということです。 今回の旅行は、小学生の子どもたちの2週間の休みを利用して、お母さんの費用はラザは持って、ディズニーランド、大阪の何とかワールド、京都などに行って、8日はわが家、9日は、ここらを案内しました。夜は夫の運営しているデイサービス「地蔵の湯」(200年前の庄屋様のお家)にラザ以外全員で泊まります。ラザは、勤めに行ってしまうので、電子辞書携帯でのガイドです。マレーシアの経済発展の姿が、ここにいながら目に浮かびました。二部授業は、99年のときにも、当時のマハティール首相が何とかすると言っていたままになっています。 このうちは、みんな敬虔なムスリムなので、肉はすべてだめ、料理用の酒もだめ、それでいて、日本料理を、という注文だったので、黒井さんと二人で、腕を振るいました。子どもたちも満足して、地蔵の湯に送っていく前頃には、私に近付いて色々アタックしてくれました。9,8,6,4,1歳という5人でした。「有難う」をみんなが覚えてくれました。この夫婦は後二人生むのだそうです。 9日は、まず、社会福祉法人が運営するケアハウス、グループホーム、そして毘沙門様に行ってから診療所を案内します。お兄さん夫婦は、好奇心に満ちている方たちで、色々質問してきます。辞書に頼ってもなかなか難しいことは、夜ご飯を食べにやってきたラザにちゃんと通訳をしてもらって、質問となりました。医療法人、社会福祉法人、それらが運営するデイサービス、デイケア、ケアハウス、グループホーム、ヘルパーステーション、居宅介護支援センター、たくさんの事業所とたくさんのスタッフ、そしてどこにいってもたくさんの高齢者、それらの運営の財政状況まで、メモを取りながら聞いていました。お母さんは自分と同じ年齢の人たちを興味深く観察していましたが、言葉の壁が大きく、残念でした。 お母さんは自分と同じ年齢の人たちを興味深く観察していましたが、言葉の壁が大きく、残念でした。この61歳のお母さんは、とっても気がきく方で、食べ終わったものはどんどん片付けて洗っていきます。私が、皆さんに食べ物を運んでいると、早く座って食べるようにと目と手と体中で表現してくれます。言葉がなくても、気持ちは十分伝わりました。 最後に、ヤナに行き、魚を生きたままとってきて、跳ねる魚に串を通して、囲炉裏で焼くところをみんなできらきらとした目で見つめ、焼きあがった魚をおいしそうに食べていました。焼いている間に、ヤナにかかった魚たちと遊び、お母さん、おばあちゃんまでが、すっかり童心に返って、楽しみました。 4年前、私の選挙の後、東京で、ボランティアをしてくださった皆さんが、このヤナにきてくださって、この魚たちと遊んだことを昨日のことのように思い出していました。 |
喜田清講演会 2005,6,11 社会福祉法人桐鈴会地域伝承館「夢草堂」にて |
男女共同参画基本計画公聴会 2005,6,10、於、女の仕事の未来館 |
オランダから (2005,5,24〜28) 5月27日が揺光のユトレヒト大学移民学修士過程の卒業式だったので、それにあわせていってきました。 今回のオランダは、いくつかの社会施設の見学ができたことが揺光の卒業式の副産物でした。往きの飛行機の中で読んでいった「オランダの教育」(平凡社、リヒテルズ直子著)からヒントを得て、ユトレヒトについた翌日真っ先に市役所に行って、私が見てみたい施設の連絡先を調べました。小学校、保育所、老人施設、養護学校、障害者施設。25日(水)午後、ダルトン公立小学校というところにアポなしで行ってみたら、水曜日は午後がない日で、誰もおらず、翌日改めていくことにしました。いつも揺光がお世話になっている粟生さん、がいうには、オランダの学校は8時始まりだというので、その日は早起きをして8時前に学校につきました。ところがきいてみると8:50始まりとのこと。家にいる校長さん(週に1,2回しか登校しないらしい)に職員が電話でお願いしたら、自分はいけないけど、見てもいいと言う教師がいたら、そのクラスを見てもらっていいし、インタビューを受けてくれる人がいたら、それもOKだというので、早速先生たちとやり取りをし、幾つか受け入れてくれそうな先生を見つけました。そもそも、職員室というものがあるのかないのか、玄関を入ったラウンジが、先生の溜まり場で、それぞれお茶を飲んで、歓談しています。始まるまで、事務の女性(英語が話せない)が学校中を見せてくれました。先生たちの休む部屋というのが、あることはありました。 オランダの小学校は、4歳の誕生日から入学します。多くの私立学校が公立と全く同じように補助を受け(そのように憲法で定めてあります)、全国に存在しています。モンテッソリ-、シュタイナー、フレネ、ダルトンなどが代表的な私立学校です。これまでダルトンだけは知りませんでした。生徒の主体性を大切にするために、先生が話す時間、生徒が質問など話していい時間、黙って自分の作業に取り組む時間の3つを信号機で表示する、と本に書いてありました。今回の学校は、ダルトン方式の公立小学校で、信号機はなかったけど、小さいクラスは、椅子が車座のように並べてあり、話し合うということが、できやすい環境になっていました。私が、保母をしていたとき、いつも子どもと相談しながらことを進めていたその感じが伝わってきました。4年生のクラスに行ってみていると、先生が話をしている間は、生徒たちは聞いている。(と言っても内容は、昨日までキャンプだったので疲れたね。という程度のこと) 生徒たちの自主的勉強の時間になったら、二人の女の子が先生のところに来て断ってから、外に出て行きました。「二人で静かなところでやりたい」と言ったそうで、外(廊下というものはなく、空間はどこでも、机などが置いてあって、自主勉強に使えるようになっている)の机に向かって取り組み始めました。算数だったり、国語だったり、みんなそれぞれの自主勉強、そのテキストは、公のもののようでした。 次に5年生の工作の部屋に行きました。20人ぐらいが、4つのグループに分かれて、それぞれの物を作っています。英語が堪能なインドネシア系の女の子が揺光に語りかけてきて、すっかり仲良くなってしまいました。その子のグループは、お化け屋敷を作っていました。空き箱二つの中にある滑車にかけてある紐でお化けが、でたり入ったりするという仕掛けです。揺光がオランダ語を話すと、その子がほめてくれたりして、最後には、名刺交換になりました。自分の名前を紙に書いて切ってくれました。 4,5歳クラスが二つとも、小さな体育館の中を裸で走り回っていました。4歳になったばかりの子達は、親のどちらかが送ってきていました。朝の登校風景は、なんだかとっても楽しそうに見えました。 このようなオルタナティブの学校が、オランダ全体の教育を先導しているそうで、その後にいった普通の小学校も似ていました。 揺光が、オランダ語や、英語の通訳をしてくれたので、何とか通じたという程度で、言葉の壁は厚いものがありました。 25日に、学校がだめだったので、障害者施設に電車(新幹線並)に乗っていきました。下りてから、かなり探し回って、歩き疲れた頃に2階建ての回りの建物と変わらない普通の家という感じの2階の窓からそれらしき人が外を見ていました。そこへ出勤してきたらしい30才ぐらいの男性が現れたので、きいてみるとそれが、探していた所そのものでした。中には入れてもらえず、玄関で、色々インタビューして10分ぐらいで、忙しいからと言って別れることになりました。とても感じのいい人で、揺光は「こういう仕事している人は、感じいいね」というので、実は日本ではそうでもないという話をしたぐらいでした。突然やってきた人に呼び止められて話し掛けられても困るのは当然です。申し訳ない思いでした。 その短いインタビューでわかったことは、1階は、20人がグループホームとして住んでいて、2階はもう少し自立可能な人が住んでいて、仕事にいっているとのこと。それにしては、帰りにも窓から見ていた40才ぐらいの女性は、2階の住人ではないということなのか、そこはわかりません。つい最近、施設を無くして街に出ようということが法律で決まったのだけど、まだなかなかそうはいかないという感じです。先に報告したダルトン公立小学校には、障害児はいませんでした。 ヒリテルズさんの本によると、最近、軽い障害児は普通学校にはいることになった。と書いてありましたが、それでは、重い障害児は、どうなっているのか、追及したかったのだけど、今回は無理でした。 |
南魚沼市男女共同参画プラン 05,5,16 |
やっと実った粟島行き 2005,5,5〜6 |
アナン見学 2005,4,30 「想う事」知的障害者の更生施設における、「遮断」とは? 2005・04・10の続きです。} たかひろと厚労省の方が、以前4月中に見学に行くと約束してきたそうで、4月28日は、私も、3回目の見学に行きました。今回私が一番驚いたのは、アナン入居者の方々が働いている工場をどのようにして作ってきたかということでした。農産物を販売できるように結束、袋詰、などをする工場へ吉澤さんがパートさんとして働きに行き、仕事をしながら、アナンの方々にできる仕事を物色。自分の次には、アナンのスタッフをパートさんとして派遣。この二人の仕事振りに信頼をした工場の方が、少しずつ仕事を分けてくれるようになり、とうとう、自分たちの工場を作ることにこぎつけたのです。マリエというこの有限会社の社長は、パートさんとして派遣されたアナンのスタッフだった女性みどりさんでした。ねぎの結束、きゅうりの袋詰などを見学していたら、「秩子さん」と呼ぶ声が!何と、2月に来たときに話し合った女性で、彼女の目の前でお母さんが車にはねられて即死、という体験を持つ方で、私のことを名前まで含めて覚えていて下さったのでした。私の方は、叉して名前を聞き「100回ぐらい聞くから宜しくね」と言ったのでした。 |
中川とも子講演会 2005,4,16 私と内山さんが勝手に決めて、はじめたことだというのに、皆様、ご協力、どうもありがとうございました。勿論、内山さんが一番大変なところを引き受けて、乗り切ってくれたのですが、それを周りで支えてくれた多くの皆さんのお陰で、200人ぐらいの方の参加を得て、「楽しかった-」という言葉を残して帰っていかれた方々を見送りながら、ホッとしたのもつかの間、ユニゾンプラザ1階のレストランでの二次会が始まりました。ここでは、全員の一言に続いて、中川さんのし足りなかった話を実演入りで聞かせていただきました。ヤコブ病のこと、ハンセン病のこと、介助犬シンシアのこと、など、それはそれは熱が入って、泣いたり笑ったり、皆さんを引き込んでしまいました。 |
無年金控訴審判決=全面敗訴 2005/03/26 3月26日の新聞に大きく報道されたので、判決結果は皆さんご存知と思います。 25日、10時半に始まるということなので、東京高裁に10時ちょっとすぎにつきました。受付で聞くと、10時半という公判は一覧表になく、探し回って、最後に梅谷さんに電話して法廷の番号がわかり、たどり着いたのは、10:35.(日ごろのいいかげんさをまたして反省!)するともう終わって皆さんが出てくるところでした。大阪原告の坂井さんが「ひどい!棄却だ」と悲痛な声。報告集会でわかったところによれば、全く、審理する気配もなく、結果ありきの判断だったようなのです。 ご存知のように、東京、新潟、広島と地裁判決はどんどんよくなって、広島では、年金の中で解決しなかったのは、憲法違反とまでいって、今回の特別給付金では、解決にならないということを知らしめてくれたすばらしい判決でした。それらすべてを全壊にした、25日のたった5分の法廷! 皆さんと悲痛な思いで、隣の弁護士会館での報告集会に行きました。ここにいって唯一つだけほのかな希望が、わいてきました。それは、和田弁護団長の話の中で、新潟判決の控訴審の裁判官は、今回のライブドアの判決を出した裁判官だと聞いたからです。これって、希望ではありませんか? 勿論、すでに高裁の判断が出てしまっているという負荷を背負っての上だから、大変なことにはちがいないのですが、キチンと審理さえしてくれたら、原告の言い分が伝わるはずなのです。学生にとって任意加盟だった頃、加入していたのはたったの1,2%。それだけしか加盟していないのに制度はあった、などといえるのでしょうか? 更に、60年の年金改正のときに、学生たちが取りこぼされたというが、改正の法律に付帯決議がついていた、などと言って、国会の不作為はなかったというのです。実は、付帯決議は、ついていただけで、「速やかに対処する」という決議は、全く省みられもせず、長年放置されていたのでした。 次回の新潟の控訴審に期待をかけることにします。 |
千葉知事選、三井マリ子裁判 2005/03/17 13日、千葉県知事選、投票日は、上京して、WINWINの事務所に行きました。WINWINは、堂本さんや、赤松良子さんが作られた「女性を議会に」という団体です。赤松さんが代表を務めておられ、この活動に大きな力を注いでおられます。 スキー帰りの人でごった返す日曜日の夕方雪国を脱出。9時前に到着して開票が始まると森田優勢。皆さんが落ち込むので、田舎選挙経験者の私が「今は郡部ですから、これから都市部になると抜きますよ」と慰めます。ところがなかなか抜かない。やっと、10時半頃抜いた!というとき、気仙沼の人から、当確が出たという電話がかかったと夫から電話。喜びもつかぬま、逆転!「気仙沼を信じましょう」を合い言葉に慰めあい、11時15分やっと、NHKの当確!結果的には、たったの6000しか差がない! これは、森田の属する派閥の長山崎拓が、大量の資金をつぎ込み、石原軍団と、その信奉者たちの活躍と、堂本陣営の緩み、の結果でしょう。選挙では、勝つと思うことが一番の敵です。「堂本さん圧勝でしょう」といわれるたびに不安が高まりました。それでも、私も、結果は、9時までに出ますよなどと言ってしまっていました。 2年前の樋口選挙で、石原の手堅さを肌で感じました。それが全国展開をしているのです。14日朝早い新幹線で、大阪地裁に行きました。豊中市の女性センターすてっぷ館長だった三井マリ子さんが、館長を辞めさせられたことで、民事裁判で、豊中市と女性財団を訴えているのです。 三井さんは2000年、ここができるときに全国からの公募で館長になり、1年契約の臨時職員として、週に3日出勤し、様々な取り組みで、全国からの視察者が絶えない女性センターになっていました。 1年契約と言っても、毎年更新するのが当然という形でやってきたのに、2004年2月に「館長は常勤にします」という形で、更新をしない(雇い止め)ことを言い渡されます。すでに、そのときには次の館長になる人は決まっていました。ちゃんと、交渉がしてあったのです。形として、公募となっているので、三井さんもそれに応募しましたが、当然のことのように、跳ねられました。 ここにいたるまでには、石原勢力(埼玉県で、教育委員に、その勢力の幹部、高橋史朗を起用する、千葉では、男女共同参画条例を3回も廃案にする、歴史教育グループと一緒になって、3月4日の参議院予算委員会での山谷えり子の質問へとつづきます。)の執拗な嫌がらせが繰り返され、豊中市も、もともとは、公募して三井さんを起用し、それを盛り立てていたはずなのに、彼らの勢力になびいてきて、今回の結果を招いたようなのです。 全国の女性たちが、傍聴席を埋めましたが、マスコミは、この勢力を恐れているのか、殆んどこの報道はしていません。こういうことに関心が深いはずのWINWINに集まった方々の大半が三井裁判を知らなかったということに驚きました。 |
いのちを語る 2005年3月7日(月) |
女性議員をふやす会 2005年2月28日(月) 26日、新潟市へ、出かけました。「女性議員をふやす会」の総会兼樽川通子さんの講演会のためです。樽川さんという方の人柄に触れたかったというのが大きな目標でした。 そもそも、女性議員の比率が、都道府県の中で、長野が9位。これは大変な数字なのです。皆さんお気づきと思いますが、1位が東京、2位は、大阪かな?とにかく8位までは、大都会ばかりなのです。大都会を除いた県の中では最高です。その立役者が、この樽川さんだということを伝え聞いていたので、ぜひ、そのお人柄に触れてみたかったのでした。いやいや、なるほど!と感嘆するばかりでした。 1983年、彼女が下諏訪町議に立候補、お金をかけない市川房枝方式に町民は驚く。「金をもらうんじゃなくて、出して選挙するって!」長野婦人問題研究会を立ち上げ、婦人会費が年500円だったときに年会費6000円で、勉強した。でも勉強だけではだめだから、行動する会を、と、1997年「女性議員をふやすネットワークしなの」を立ち上げる。そのとき、10年で止めると宣言。すべての組織は、設立も大変だけど、それ以上に大変なのが閉じること。だから作るときに、閉じることまで決めておく。さすが!と思った。 下諏訪町は、23000の町、そこが6区に分かれて、それぞれに区長がいる。2001年にその中の600〜700戸の区の区長になった。区長こそ本当に女がいないポジションです。選挙でなったのですか?と野暮な質問をしてしまった。「推薦です」「えっ!」すっかり驚いてしまった私の質問に丁寧に答えてくれた。町議5期で、実力を買われたにちがいない。 75才とは思えない迫力で、聴衆を圧倒した樽川さんでした。と言っても聴衆は、30人足らずで残念! |
次世代育成勉強会 2005年2月19日(土) 17日に東京で行われた次世代育成の勉強会に行ってきました。この日は、厚労省の審議官辻哲夫さんのお話ということでしたが、厚労省の次世代に関係する方々が、たくさん来られていました。謝礼なしの会だというのに、皆さん二次会の最後(23:10)まで付き合っていかれました。そんなのは当たり前、という声も聞かれます。でも、いまどき、ものすごく悪名高き厚労省の皆さんが、どんな批判にさらされるかわからないような会に多数こられると言うことは、それなりだと思いました。 この辻さんという方は、私が議員だったとき、年金局長で、無年金の質問に、「年金の根幹を揺るがすから無理」と回答し、その直後に大臣が「何とかします」と言ってしまって、現在の特別給付金につながってきたのでした。辻さんは、少子化対策の厚労省としての歴史を話し、「ドイツ、イタリア、日本は、戦争のときの国家の強大さが、反省されてきたために、国が、少子化対策をするということ自体に大きな抵抗があり、ほかの先進国に遅れてきてしまった。 しかし、1,29となっては、国として、立ち行かないという認識が広まってきて、いまや、子どもを産み育てることを楽しめるような環境つくりが大切だということは、燎原の火のごとく広がっていくにちがいない。労働省からの椋野美智子さんが部下としていろいろ教えてくれたが、専業主婦のほうが出生率が少ないと言うことも彼女から聞いた」 今回の次世代育成対策法案の一番の目玉は、働き方の見直しということで、300人以上の従業員を持つ企業に対して、次世代育成に向けたプランつくりを義務と課したのです。これは、労働省と一緒になったからできたことといい、厚生省、労働省合併記念法案だと言っていました。二次会では、今の年金局長渡辺芳樹さんと隣になって、いろいろと盛り上がりました。埼玉県庁で、次世代育成のプランを作り上げた小峰弘明さんともはじめてお目にかかったのだけど、今埼玉県の食品安全局長をしている加藤ひとみさんの部下として官民の協力の仕方を加藤さんから教わったと言っていました。 加藤さんは、昔から町作りというテーマで、この町にも何回も来られてやりとりしていた方です。小峰さんが、埼玉県のHPで、このプランを公開しているのですが、そこに上田知事のあいさつ文があり、それは、小峰さんが書いたものだということです。「知事が書いたの?」と私が聞いたのです。なかなかの文章でしたから。 この勉強会を主催している杉山千佳さんという方が、なかなかの方です。いつも、何事もなかったようにさらりと大変なことをやってしまう人、という感じがしています。 |
ミニミュンヘン、子どもたちの創造力 2005年2月19日(土) 18日、麹町区民館で行われた「子どもの参画情報センター」主催の遊び都市の魅力と日本における試み、という勉強会があって、参加しました。1979年の国際児童年に、ミュンヘンで始まった夏休み3週間にわたる子どもたちの遊び都市(ミニミュンヘン)のビデオ、と報告。 |
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