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     秩子の活動報告
         (その3)
        2009年4月1日から






「たまりば」20周年コンサート

       2011,7,2    於、川崎労働会館サンピア

2日は、川崎の労働会館サンピアで行われた「たまりば」20周年コンサートに行ってきました。

 以前ご紹介しましたね.「夢パーク」という冒険遊び場の中にできている不登校の人たちの居場所「たまりば」です。

ここにかかわっている音楽系統の専門家たち(歌手、チャランゴ奏者、パーカッション・キーボード奏者、ケーナ奏者)がそれぞれの曲を奏でてくれたあと、最後に「たまりば」で育っている人たちが日ごろ演奏している曲を専門家の人たちと一緒にそれはそれは楽しく演奏してくれたのです。ここの会場は、1000人ぐらいの会場なのですが、760人が詰めかけたということです。2500円というチケットだったのですが、多分それ以上の感動がいただけたのではないかしら。聞き終わって私も含めてものすごく感動してなかなか会場から出ていかない人たちがたくさんでしたから。なにしろ、一時は、自殺を考えていたぐらいの人たちが、実に楽しそうにリズムに乗っていたのですから。のりのりで演奏していた「たまりば」のメンバーは20人ぐらいなのですが、この日に演奏してくれた専門家の方々と一緒に常日頃演奏を楽しんでいる子どもたちの様子が想像できる素晴らしい場面でした。

ここのステージにつるされていた染めあがっている布が私にはとても印象的でした。1メートルぐらいの幅で、長さは、8〜10メートルぐらいでつるされているのですが、照明の色の変化で、この布がまるで違ったもののように見えるのです。青や黄色やピンクなどが、マーブル状に染め上げてあって、説明がなかったのが不思議でした。二次会で私が、感想としてそれを述べたら、やっと理事長の西野博之さんが説明してくれました。大勢の力を合わせて染め上げたのだというのです。毎年、イベントのたびにしているので、中にいる人にとっては全然珍しくないとのこと。

私の弟が送ってくれた本(たまり場を応援している外部の人たちが話したことの収録)を作った友兼さんとも出会えて、いろいろと伺うことができました。友兼さんは、教育雑誌「ひと」の編集をしていたそうで、私が、編集長の遠山啓さんを批判して投稿した文章を強烈に覚えているということでした。遠山啓さんはとてもリベラルな方でしたが、男と女の関係については自分で「明治男だから」ということで、譲らずにいた人だったとのことでした。「僕のように頭を使う人が火を使ったら、本当に火事になってしまいます」と私の批判にこたえて書いていたのですから。共通の知り合いがたくさんあることもわかって話が尽きませんでした。

二次会に行ったら、ここもものすごい人で、入るときに名前を書いたら、後ろの人がそれを見て「あら!黒岩秩子さん? 私の夫が高校で同級でした」というではありませんか。東京シューレを作った奥地圭子さん、「障害児を普通学級へ」で一緒だった石川憲彦さん、先日クッキングハウスで一緒だった松崎運之助さんに松浦幸子さん。ほかにも実にたくさんの方々に出会ってしまって、どこかでみんなつながっていたんだと確認した時間でした。

以前からお互いに文章でしか知らなかった佐々木賢さんと二次会で出会えたのも感動でしたが、帰り際に「『交流』で黒岩さんを知っていました。お目にかかれて幸せです」と言ってくださった女性がありました。佐々木さんとも「交流」つながりだったのです。ますのきよしさんという方が、ミニコミの走りといった感じで、「男の子育て」などをテーマにして、今ならちっとも珍しくないけど、当時は、ちょっと皆さんがびっくりするようなテーマで論じあっていたのがミニコミ「交流」だったのです。

「たまりば」は何と言っても西野さん(「にしやん」と呼ばれている)の人柄にひかれて集まっている集団という感じでした。新しく出たペーパーパック「居場所とわたし」(これも友兼さんが作ったようです)を買って帰ってきました。子ども、親、スタッフなどが書いているものです。

 

 

 

 

東京平和映画祭

2011,6,26    於、オリンピック記念青少年総合センター

26日(日)は、東京のオリンピック記念青少年総合センターで、東京平和映画祭が開かれました。今回の映画はすべて、福島の被災に関係した原発関係の映画ばかり。私は午後地元での行事があるので、午前中だけしか参加できないことは分かっていた上での参加でした。

この映画祭は、今回が7回目。この映画祭のプロデューサーきくちゆみさんは、あいさつでこう言っていました。「この映画祭の準備を始めてから3,11が起こりました。そんな中で映画祭をしていいのか? から始まりいろいろ考えた末、初めからプログラムを練り直して、今回のもので実行することになった」

朝の10時から夜の19:40までという長時間のものです。事務局長も女性で、平野あやさん。「源八おじさんとタマ」「隠された被爆労働〜日本の原発労働者」と2本映画を見て、柴野徹夫氏の講演。そこまでで帰ってきました。藤田祐幸、上杉隆、飯田哲也などの講演が入っていました。

「隠された被爆労働〜日本の原発労働者」は、日本でではなく、イギリスのテレビで放映されたものが、映画になっているのです。実は、この取材申し込みがあったとき、作者の樋口健二さんは、即座に断ったそうです。というのは、同じ内容の取材がNHKからあり、番組つくりになった段階で、上層部から没にされたという体験があったからです。日本では、マスコミといわれる世界は、すべてこういう報道はされないので、本当にマイナーな出版とかいう方法で語り継がれてきた内容でした。私は、かなり前に「原発ジプシー」という本を読んでいたので、実態をある程度は知っていました。柏崎原発が近い十日町あたりでも、実際にそこで働いている人たちの家族に異変が起こったりすることを周りの人たちが見ているので、「噂」としては十分に知っているのです。それでも直接の因果関係は証明できないために、裁判などに持ち込んでも勝ち目はないままだったのです。今回もどんな強引なやり方で現地で働いてくれる人を連れてくるのか、わかった事件がありましたよね。大阪の「あいりん地区」といわれるところで、高給がもらえるから、と誘われて、ついたところが福島。その人は「言われた場所と違う」と抗議したということで、これはマスコミに乗りましたね。本当にウソをつかなくては、福島で働いてくれる人を探せない。というのが被爆労働の実態ですね。

9,11の件で、活動が多くの人に知られるようになったきくちゆみさんが、このような映画祭を7回目にわたるまで続けてこられていたということにも感動しながら見てきました。






夢パークに行ってきました

2011,6,25      於、川崎市溝口夢パーク

25日は、夜溝の口で岸本祐有乃さんが指揮をする洗足学園音楽大学の学生さんたちのコンサートを聴きに行くのでその前に、すぐ近くにある川崎市の夢パークに鈴木智子さんといってきました。先日来本などの紹介として、この夢パークのことは少し紹介したと思いますが、またあらためて。

3000坪の敷地に、川崎市が作った夢パークがあり、その一角に不登校や、ニーと引きこもりの方々がかよう「えん」というのがあるのです。武蔵溝ノ口のとなり津田山駅から、6分ぐらいあるいたらカラフルな看板「夢パーク」が現れました。建物の周りにもカラフルなそれとすぐにわかるような絵が、描かれています。これらはそれなりの絵かきさんに書いてもらったものだということでした。土曜日の夕方4時半です。そこここで子どもたちが遊んでいます。木工で作った箱にペンキで色塗りをしている女の子のところには、スタッフらしい女性がいます。地面の中に埋められたトンネルが、結構長く伸びています。途中から入ることができるように穴があいてはしごで降りられるようにもなっていて、トンネルは四方に延びて全長は、60メートルぐらいありそうでした。大人にはちょっと入りにくい高さです。その向こうには、泥水の池があって、その中に滑っていける滑り台が手作りでできていました。この日は女の子ばかり6人ぐらいで、水着で滑って水の中に飛び込むのをとっても楽しそうにやっていました。そのすぐ隣にログハウスがあって、そこが更衣室にもなっています。一周り回ったところで、若い男性から「もしかして黒岩さん?」と声がかかりました。「えん」を運営しているNPO法人の理事長西野博之さんが、自分はこの日は留守なのだけど時間と人数を知らせて、と言われていたので、私たちを案内するようにと頼まれた古谷さんでした。

夢パークは、財団法人生涯学習財団とNPO法人フリースペースたまりばが「子ども夢パーク共同運営事業体」という団体を組織し、指定管理者として2006年から夢パーク全体の管理運営にあたっています。財団雇用の職員(9人)とたまりば雇用の職員(11人)が協力して、20人で夢パークを運営しており、たまりばの代表である西野博之さんが所長を務めているのだそうです。

古谷さんの話によると、財団雇用の職員9人のうち3人は、事務系統。6人は、プレイリーダーということで、子どもたちと遊ぶのが仕事。私たちと出会ってからも小学生らしい男の子二人に絡まれていて、なかなか離してもらえず、私がそのこどもたちにお願いをして、「少し古谷さんを貸して」もらうことになったのでした。全身で遊ぶので、6人全員が20代とのこと。朝は9時から、夜の9時まで開いていて、3つの勤務時間帯があるとのこと。月、水、土、日の4日は、「プレイパークの日」と言って火や工具が使える日となっている。川崎市内の学校や、保育園などが集団で来ることもあるとのこと。

ここの土地は、昔工場があったところで、今では、結構木がたくさん生えているので、虫や鳥など自然の観察もできるとのこと。建物は、四角いものではなく、壁は局面になっています。2階建てで、1階は一番大きな空間が、「全天候ひろば”たいよう”」となっていて、バスケットや、サッカーができて、大きな鏡があるので、バレーやダンスなどに使われる。床は、少し弾力性がある。この日は、神奈川県立百合丘高校のダンス部が使っていた。使用料はいらない。防音装置が付いているスタジオが二つある。これも使用料はなし。フリースペースには、木工をやっているおじさんがいた。リタイアをしたかたらしく、この日は、フクロウを作っていた。ボランティアで毎日のように来ているそうで、子どもも一緒にやることもあるという。入り口の門から玄関までが緩やかな坂になっているのだけど、この坂を自転車で下りおり、途中に跳び箱の跳ね板のようなものが置いてあって、それを使ってジャンプする。やっているのが、4,5歳の幼児なので、普通だったら、「危ない」といわれるところだろうが、母親たちは平然とおしゃべりを楽しんでいる。常連なのだという。自転車は、いらなくなったものをここに置いていくという形で、ここのものになっているのもたくさんあるが、自分のを持ってきてやっている子もある。

2階を案内してもらったら、「川崎市子ども会議事務室」という部屋があった。「子ども一人ひとりが大事にされなければならない」と考えた子どもと大人がたくさん話し合いをして「川崎市子どもの権利に関する条例」を作りました。子ども夢パークは、この条例を基に作られた施設。それいらい、子ども会議が続いていて、今も小4から高3までの子どもたち20人から30人が、月に二回集まって市への提言などをまとめているのだという。

屋上には、どでかいハンモックがある。6畳ぐらいの大きさ。これも手作りで、今は修理中とのこと。

1階の一番端に「えん」があった。中に入ったら、西野さんから話を聞いていたという山下さんという女性がいた。あがりこんで、中を見せてもらった。40人からの子どもたちが集まるので、30畳ぐらいの広さがあるようだったけど、狭いのだと言っていた。何しろここでは、毎日昼食をここで作って食べているというのだから。次回は、平日に来て、「えん」の子どもたち(といっても4歳から41歳までだというが)の様子を見てみたいと思う。

「ゆるり」というスペースがあった。乳幼児や障がい者優先の部屋で、絵本やおもちゃ、授乳スペースもあって、私たちが昔やっていた「カカトット」みたいな所。「ごろり」というスぺースは、周りの壁に本棚があって、本も読めるけど寝ていることもできる。20畳より広いと思った。

「えん」は今年20周年記念で、7月2日(土)、川崎市の市立労働会館サンピアかわさきで3時からコンサートがあります。日ごろ「えん」と音楽を通じてかかわっている専門家の皆さんが一堂に会してその技を披露し、また、「えん」の子どもたちのフォルクローレバンドの披露もあります。ここにも行ってみるつもりです。

 チケットは2500円。申し込みは044−833−7562.
URL http://www.tamariba.org.






飯舘村に行ってきました

2011.6.19    つくばから飯舘村に6人で

私は、明後日の日曜日に、飯舘村に行ってきます。同行する5人の方々は、みな物理系統の専門家たち。放射能の測定器を積んでいきます。私は、飯舘村との関係があったので、緩衝材というところかもしれません。

18日夜、つくばに泊まって、19日(日)朝7:30、2台の車に6人が乗って出発しました。私以外はすべて、放射線関係の研究者の皆さん。つくばにある大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構の職員が3人と、今回の呼びかけ人田尾陽一さん(私の2年下の物理学科の出身)とその友達、というメンバーです。放射能で汚染された地域で、どのようにしたらその汚染を取り除いて住める地域にできるのか、その地域の方々との共同作業で、模索しようというプロジェクトです。放射能の測定器を積んでいきました。私はたまたま飯館村の村長を知っていて、その仲介役を果たすことができるかもしれない。という思いで同行することにしたのでした。そうしたら、そのためかどうかはわかりませんが、菅野村長が時間を作って会ってくれることになっていました。田尾さんのグループは、6月の初めに福島の各地を回って、そういうプロジェクトを受け入れてくれる地域を探してきて、飯舘村が一番可能性があるということで、今回のことが決まったのでした。相馬市に住む女性大石ゆい子さんと、飯舘村で酪農をしながら農業委員をしている菅野宗夫さんが、受け入れ先でした。

初めに伊達市内の保原というところに菅野宗夫さんが、今度引越しをする家があって、そこの放射能を測定しました。家の周りにある側溝の周りだけが、極度に高くなっています。カウンターが振りきれてしまうのです。放射能を含んだ水が流れてきて、そこで濃縮されるからとのこと。しかしその周りは、少し離れたら、もう普通の計量になっています。畑の土の測定をしました。表面を測定した後、畑を掘り返して、20センチ下の測定をすると、1,3から0,4にまで下がりました。畑は、表面を取り去れば大丈夫だということがわかりました。

飯舘村に入るとすぐに村長の家があり、そこに止まって測ったら、3,4.そんなことをしていたら、村長の妻が出てきました。あいさつに行くと「まあ、その節はお世話になって。息子さんの応援団に入っているんですよ」とのこと。そういえばそうだったと思いだした。学校の先生をしていて、最後は、校長として退職されたとのこと。

菅野宗夫さんの田んぼは、「水素水で処理」して、47だったのが、17にまで下がったとのこと。水素水ってなんだろう?とみなで首をかしげていました。その田んぼの計測をしている間、宗夫さんの妻と話していました。彼女が言うには、遠くの役場職員が助けにきてくれているのだけど、土地勘がないし、村民のことが分かっていないので、頼んでも事が進まない。被災して仕事がなくて困っている村の人を雇用すれば、どんなにいいかと思う、と言っていました。菅野村長が、3期目の選挙のときに、彼女のいとこが対立候補として出て、戦うことになった。テーマは「合併」。合併をしないという菅野村長がかなりの差で勝ったのだそうですが、宗夫さん夫妻は、菅野村長につき、宗夫さんの兄は、いとこのほうについて戦ったとのこと。今回のようなことがあると、合併しなくてよかったということになるのではないかしら?合併したところでは、小さな町村が後回しにされて、とかいう話がありますものね。

役場にいって少し待って、村長との会談となりました。「やあ!」とお互いに握手をしあってなつかしみました。私は、彼が送ってくださった村長としてのあいさつ記録を持って行ったら、「本を送らなかった?」「はい、これだけでした」「じゃあ今持ってくる」といって、「男からのラブレター」という題名の彼の著書を持ってきてくれたのでした。私のことが書いてあるというのでした。それによると、私が飯舘村を訪ねたのは、1991年で、「夫婦共学ゼミナール」の第一回だったということがわかりました。

さて、本論に入って、田尾さんから、こちらがしようとしているプランを話しました。村長は、今、いろいろな企業などがいろいろと持ってきている、勝手連的な形でやっていただくことは大いに結構、という感じの返事でした。その後、待っている人がいるから、この人と話し合って。といって、経産省から、内閣府の原子力災害対策本部、現地政府対策室長として出向している由良さんにバトンタッチ。いかにも官僚という感じの方でした。「飯舘村の方に退避を勧告しているのに、別の人たちに来ていいとは言えないから、外に作ってくださいと」のこと。私たちは年寄りだし、たまに来るだけだから、放射能による障害は考えなくていいと思っているのだけど。

その後、いくつかのところで放射能を図って見てわかったことは、一番放射能が高いのは、落ち葉でした。これからのことを立ち話で話し合って、帰ってきました。この日はなんと3食ともコンビニ弁当で、車の中で食べるというハードスケジュールでした。東京の乙水の家にたどり着いたのは、翌日になっていました。

飯舘村の中は、すべての田んぼが、干からびていて、畑は草ボウボウだし、村としては、特養など9事業所だけを残して、全村避難ということで、役場も明日(22日)から隣の市に移ることになっていて、本当に大変なことです。「までい」という言葉で大切にしてきたものは、これからも残っていくに違いないとは思うものの・・・「感動した本」の中の「までいの力」を参照してください。

 

 

 

 

  福島原発暴発阻止行動プロジェクトの院内集会

 2011,6,16      於、参議院議員会館B106

16日参議院会館で福島原発暴発阻止行動プロジェクトの第4回の集会があったので行ってきました。牧山ひろえ参議院議員(民主党神奈川選挙区)が、紹介議員ということで、この会場を借りてありました。

私より一つ上の理科1類から、工学部に行き、住友金属の社員だった山田恭暉さんがおおもとの呼びかけ人です。5月24,25,26日に続けて院内集会を開き、26日の午後東京電力本社において、細野豪志内閣総理大臣補佐官、山下和彦東京電力原子力設備管理部長と行動プロジェクト山田恭暉・塩谷宣弘との会談が行われました。その結果、5人が代表として現地を見に行くということが決まったそうです。その中の一人は、東芝で33年間原子炉の設計をしていたという折井さん。

山田さんからの報告の後、会場から活発な意見やら質問やらが飛び出します。滋賀県から来た鳶職だという男性は「いくつもの原発を造ってきた。最後の始末をする仕事もしたい」

おととい議員会館全部を回って16日のお誘いをしたグループの一人は、「こんなすごい事態になっているというのに、東電に任せておいていいのか?国家プロジェクトを立ち上げなくていいのか?」

61歳の男性「院内集会は今日で2回目。我々が現地に行って何ができるのか?施工図が引けるのか?ゴミ拾いだけか?いまやっている人たちと一緒にやるのか、総取り替えをするのか?」

山田さんの答えは「相手があることだから、今は決められない。見に行ってきてから考える。ゴミ拾いといっても、がれきの始末は大変だ」

原子炉の設計をしてきた折井さんは「こんな仕事をすることになると思う。たとえば、鉛の塊を運んで、それで壁を作る。その壁の陰に隠れて壊れた配管を直す作業をする。ここは、高濃度の放射能があるところで、15分しかいられないところだから、交代要員がたくさんいる」

沓掛衆議院議員(石川県、元参議院議員)「民主党国会議員11人で視察に行った。それでも東電からはだれも出てこなかった。そのぐらい東電は大変なところだ」

元教員だったという74歳男性「3月終わりに現地に行ってきた。『これは戦争だ』という思いだ」

「ここの目的は何か?廃炉?」

山田さん「まだ決めていない。廃炉、冷却系が出来上がる・・などいろいろあるが、視察後に決めたい」

院内集会に4回とも出ている男性「こんなことをして時間を無駄にしていていいのか?1秒たりとも早くに現場に入りたい」

牧山ひろえ衆議院議員「院内集会が、まだ4回しか開かれていない。もっと重ねていくことも一つの行動だ」

議長「最後に発言させて。原発を許してしまったのは、われわれ。だから終息させるのもわれわれ。1秒でも早く行きたい人は行けばいい。我々はちゃんと組織を作ってその力でやる」と涙ながらに訴えた。

山田さんは、どんなに議論が混戦状態になっても動ずることなくご自分の意見を冷静に述べ、この人が呼び掛け人だったら、なんとかなるかもしれない、とちょっと希望が持てる思いでした。






ボスニアヘルツェゴビナの画家タイダさんの展覧会

     2011,6,11〜19     於、夢草堂

ボスニアヘルツェゴビナの画家タイダさんの展覧会が、11日から19日まで夢草堂で開かれました。展示時間は、11:00〜18:00.19日だけは、16:00で終わります。

11日は、17:00からオープニングです。タイダさんが、作品の紹介などをしてくれて、軽食で乾杯します。タイダさんは、日本に7年おられるので、日本語は堪能です。その上、日本人的な方で、遠慮とか、奥ゆかしさとか、身長が高いこと以外は、ほとんど日本人と変わりない感じの方でした。こちらにいるときには、鈴懸のショートステイに泊まっていました。

旧大和町後山に家を買って、そこで制作に励んでおられる小林基輝さんが、女子美術大学の教授だった時の生徒さんだったという御縁で、夢草堂に来られた時に、「こういうところでこそ私の展覧会をしたい」とタイダさんは強烈に思ったのだそうです。そこで、今回の展覧会が企画されました。タイダさんはとっても喜ばれて、この日のために夢草堂にふさわしい作品をたくさん制作されました。ハスの花、ハスの実、ハスの葉、その他すべてが「ハスの花」に関係するものばかりがたくさんあるのですが、どれも夢草堂に実にぴったりくる構図に色遣いです。

タイダさんは、最近賞を取られて受賞のために中国に行ってきたり、この4月から、埼玉県立高校で、美術の授業を持つことになったりで、思いがけず時間がとられてしまい、10日は、夕方から大慌てで作品を展示し、11日いっぱいかかってオープニングに間に合わせたのでした。オープニングの日は、終わってから、みんなで後山の小林亭に押し掛けて、建坪140坪というどでかいおうちを見て回りたくさんの美術品を堪能して、帰って行きました。

畳一畳ぐらいの大きさの和紙にハスのつぼみが一つある、というその絵が、夢草堂の山門につるされ、これが「呼び込み」となりました。夢草堂の中にもそれと同じ大きさの絵が、紙のままつるされて、度迫力です。小さい額に入った絵も壁に飾られていました。

14日付日報にタイダ展の記事が載りました。お寺の梁に大きな和紙をそのままつるしてあります。高知の阿波和紙という特別な和紙に銅版画で印刷したものだそうです。日本が、そのような技術が特別進んでいるために留学先として日本を選んだというタイダさん。日本に来て初めて和紙と出会い、幸運だったということでした。ハスとも日本で初めて対面したのだそうです。

一週間で、130人ぐらいの方々が、見に来られ、何人かの購入意欲もそそり、5枚の絵が、売れていきました。18日には、ボスニアヘルツェゴビナの駐日大使館から、代理大使が来られて、激励していかれました。日本にいるこの国の方は、20人ぐらいだということなので、そのお一人の展覧会とあって、大使館をあげて応援してくれたのでした。18日には、近くにある池田美術館で、ワークショップがあり、この銅版画の作り方をタイダさんと小林先生が、講習してくださり関係者の方々は、かなり満足されたようでした。

 

 


「災害・復興と男女共同参画」6.11シンポジウム

      2011,6,11     於、日本学術会議講堂

 

この日は、災害から3カ月という日で、全国各地で災害をテーマにして、支援していくための様々な集会やデモが催されました。私は、日本学術会議講堂を会場にした「災害・復興と男女共同参画」6.11シンポジウムに呼びかけ人の一人として参加してきました。ここで語られた数字は、インパクトがありました。

阪神淡路大震災の時(1995)の死者、女性3680人、男性2713人。

 2004年のインドネシアの大津波では、北アチェ県の死者の77%が女性だった。

 被害を受けるのも女性のほうが男性よりも人数が多いということ、言われてみればそうだろうということは想像できるのですが、これまで、どこからも耳に入ってきたことはなかったのです。しかも、その被災者の男女比は、女性の社会経済的地位が高い国ほど縮まっているというのです。

夕方から、夢草堂でのボスニアヘルツェゴビナの画家タイダさんの展覧会のオープニングが始まるので、午前中だけで帰ってこなくてはならず、残念でした。会場は、600人だと思うのですが、事前申し込みで、早くに満杯になって、かなりの方をお断りしていたそうで、午後帰ってくるのが申し訳ない思いでした。全国各地からいろいろな方々が、来ておられ、会場からの発言の時間をたくさん取るように計画されていて、たとえば男性の方が「皆さんにお聞きしたいのですが、男性に望むことは? そしてされたくないことは?」と聞いていました。どなたかが回答されていましたが、メモを取っていなかったので、忘れてしまいました。

猪口邦子さんが、こんな発言をされていました。「私が大臣だった時に202030という数字を出したのですが、その時にさんざん言われたことは、『数字さえ出さなければいい大臣だったということになるのに、数字を出したら、実現できっこないんだから、ダメな大臣ということになってしまう』ということでした。」

この数字は、2020年までにすべての意思決定機関に女性を30%入れるというためのものです。この数字によって物事が動いている面があるので、やはりそれは、猪口さんが大臣だった「成果」なのでしょう。

このときの集会は、その後いろいろな形で報道され、学術会議の講堂で開くことによって国会議員や、活動的な方々と、研究者との共同作業になったということが、とても高く評価されていました。

 そしてまた、岡崎トミ子さんが、東日本大震災復興特別委員会(6月14日)で首相に対して質問し、次のような回答を得ることができました。

「復興基本法案が成立すれば委員数が15人から25人に増える復興構想会議の構成について、女性と障害者を増やす」




  
       元気な96歳さんのお葬式

   2011,6,1    於、 夢草堂

31日の朝亡くなった鈴懸入居者の方のお別れ会が、夢草堂で、1日開かれました。参加した理事の鈴木智子さんは、「夢草堂のお葬式っていつも感動的なのよね。私もあそこで葬式してもらいたくなっちゃった」とほかの会合で語っていました。その時に私が読んだ弔辞を披露しますね。

弔辞

小俣當枝(まさえ)さん、

「元気な96歳」さんは、本当に見事に、急いで坂を下って行かれましたね。10日前には、食堂でお仲間と楽しそうに食事をとっておられたのですものね。膀胱がんが見つかってからすでに2年が過ぎようとしていますが、お元気なので、私たちはそのことを忘れていたぐらいです。血尿が出るようになって、ベットから起きられなくなった初めのころは「いいとこに入れたから、あと2年ぐらいは生きていたい」とおっしゃっていました。出血を補うために輸血をするということで、その準備にかかったころには、もう、それを受け入れる体力がなくなっていました。去年6月に亡くなったご長男が、迎えに来たのかもというと「そうかもしれない」と受け入れておいででした。

平成8年に八王子から、六日町に住むご長男のうちに引っ越してこられ、その後長男が、肺がん治療のために入院するということで、平成21年10月鈴懸のショートステイに入居され、22年6月には、ご長男を見送ることになりました。今年の1月鈴懸が空いたので、やっと入居という運びになり、楽しいお友達もでき、ボーイフレンドまでできて、月2回のお茶会には、よく参加してくださいました。

「明治女」というのはかくあるものかと思わせるような自分をそのまま表して、ストレスをためることなく生活しておられるように見えました。そんな小俣さんを戒名の中に夫卓夫が表現しました。夢草庵純真當春大姉というものです。

 あなたが愛した息子さんのもとで、お幸せに。

    2011年、6月1日

            社会福祉法人桐鈴会 理事長  黒岩秩子

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広田施設長の弔辞では、亡くなる3日前頃に「ここでみとってもらえないか?」と本人から言われたそうで「黒岩先生が付いているから大丈夫」というととてもうれしそうだったとのこと。31日の朝、卓夫は起きるとすぐに小俣さんを訪ねたら、息をしていないということで、私もすぐに行ってみました。まだ、体中が温かいままでした。指の先まで温かかったので、直前に(6:30ごろ)誰も付き添いがいない時間帯に、独り静かに苦しむことなく旅立たれたということでした。

親族は誰も来ないといわれていたのに、3女の夫が隣町小出の出身で、そのきょうだい4人がみんなカップルで来られたので、そのうえ入居者、職員、役員たち総勢60人ぐらいのにぎやかな葬儀となりました。

 

 

 

問題を解決しない知恵

           2011,6

不登校を続けている孫娘志重、3年生になってから、いろいろと変化してきて、私の手からほとんどはなれて生活する日もあるようになってきました。夫卓夫は志重が学校に行かないでいることをなかなか認められず、ある時志重に語りかけました。

「志重ちゃん、学校に行くっていうことは、自分で考えないで、言われたとおりにしていればいいから楽なんだよ」

黙って聞いていた志重は、納得している様子はありません。その後、私と二人になったときに「おじいちゃんがあんなことを言っていたけど、うちは学校には行かないんだ」

それからかなりたって、いつものように学校の保健室でママと、担当の先生(志重担当なのです)と、お友達2人とで、給食を食べているときに、こういったそうです。「おじいちゃんは学校に行ったほうが、自分で考えなくてすむから楽だって言っていたけど、うちは、自分で考えて好きなことをしているほうがいいから、行かないんだ」

といっても実は毎日ほとんど学校に行っているんです。先生たちの駐車場で、一輪車に乗る練習をしたり、図工室で制作をしたり、図書室で本を読んでもらったり、ママが空いているときには、ママが付き添い、ダメなときは、私が付き添います。給食は保健室で、志重が指名したお友達2人と一緒に食べます。このごろは、自分のクラスに行って、給食を受け取ってくるようにもなりました。食べ終わると昼休みは、友達と遊んで、帰りの時間には、教室で一緒に過ごして、お友達と一緒に帰ってきたりもします。放課後こそが、彼女が輝く時間です。ついこの間までは、二人で遊ぶ、ことしかできなかったのに、このごろでは、何人でも大勢で遊ぶということが楽しめるようになってきました。

卓夫が投げかけた言葉は、志重にとっては、逆に自分が教室に行かないでいることを確信させたのかもしれません。まさに彼女が嫌なのは、「自分で考えて行動ができない教室というところ」らしいからです。

当の卓夫には、こんな変化が起こりました。

最近読んでいた「般若心境」(ひろさちや著)によると次のものが大事だとのこと。

1、損をする知恵

2、問題を解決しない知恵

3、世の中を良くすることを考えない知恵

これによって、「志重は、今のままでいいのだ」と言い出しました。
 親鸞、良寛と勉強してきた甲斐があったというものです。
 でも本人はまだ「変貌の可能性」にすぎないと言っています。


 ちなみに、この3つの中で、私には、3、世の中を良くすることを考えない知恵、が一番大切かもと考えました。

結果的に、卓夫が志重に語りかけたということは、そのことによって双方にとって変化が生まれた、ということになるのかもしれないと考えています。ちょうど志重もこんな卓夫の言葉を受け止めて考えられるようになった時期だったのかもしれません。







NPO法人クッキングハウスの総会と記念講演会

2011,5,21   於、クッキングハウス(調布市)

21日(土)はNPO法人クッキングハウスの総会と記念講演会、そして交流会に参加してきました。東京の調布市で3つの有機レストランを精神障がい者の皆さんが運営しています。ここの理事長の松浦幸子さんは、新潟県栃尾市の出身で、新潟とは縁の深い方。以前は、毎年人間ドックにゆきぐに大和総合病院に来ていて、そのときには、我が家に立ち寄っていかれていました。そんなご縁で、調布のレストランには行ったことがあるのですが、会員でありながら、総会に出席するのは初めてでした。

一つは、この4月にオープンした障がい者のGHに入ってきた入居者の一人が、クッキングハウスのことを知っていて、さらに彼は昔調布の西友で働いていたというのです。私が、クッキングハウスに行ってこようかな?と言ったらとても喜んでくれたのと、もう一つ、この日の記念講演が、松崎運之助さんだということもありました。松崎運之助さんは、私が4冊本を出した教育史料出版会で本を出している方で、昔夜間中学の先生をしていた。そしてその彼をモデルとした山田洋次監督の「学校」が、大地塾に集っていたあのころの若者たちに大変人気があったのでした。

桐鈴会もつい先日、決算報告の役員会を開いたばかり。よその決算も見てみたいという思いもありました。会場はぎゅうぎゅう詰めで、120人の参加とか。しょうがい当事者の皆さんも大活躍でした。

松崎さんの話は、まとまって聞くのは初めてでしたが、とっても穏やかな彼の性格がそのまま話にかもし出されていて、笑いあり、涙ありの、貴重な1時間半でした。次の交流会で、驚いたのです。新潟県関川村の「ママや」の皆さんと出会ってしまいました。これを中心にやっているのは平田ゆかりさん。この方の名刺には「全国不良主婦友の会」と書かれています。一期目の村会議員だとのこと。私が名刺を出したらとっても驚かれて「宇洋さんのお母さんですか。応援したんですよ。頑張ってほしいの」と。一緒に来ている方々も戸根さんが、新発田事務所の厨房に入っていたとか、宇洋の選挙と関係している方が多くて驚きました。「ママや」は、週に一回有機の昼食を出し、もう一回は、有機のお弁当を配達しているのだそうです。これが「不良主婦」という名前の由来なのでしょう。クッキングハウスをモデルにして、その関川版をもう10年もやってこられているのでした。平田ゆかりさんの関川甚句は実に見事で、アンコールが起こってもう一度やってくれました。素晴らしい声の力でした。

松浦さんは、「今日に向けての決算などの準備があったのですが、私にとって一番楽しいのは、出し物の計画を練ることでした」とのことで、劇の脚本を書いて、みんなで大笑いのひと時を持ちました。キャストの中には、精神しょうがい者の人たちもいて、見事に役をこなしていました。その上クッキングハウスの歌も作られていて、皆さんでギターに合わせて歌いました。また、トーンチャイムというベルの一種を10人ぐらいが持って「見上げてごらん」を演奏しました。すると、松崎さんが、「この歌は、夜間中学で、毎日歌っていたものです。そして今は、路地裏という集まりで、いつも歌っているのです。ここでこんな演奏が聴けるとは、本当にうれしかった」と。

交流会に出てきた食べ物は、すべてクッキングハウスの手作り、どれもとってもおいしくて、健康にいいものばかり。会費が1000円では、かなりの赤字だったのでは、と心配になりました。

さらに、6時半ごろから3次会がありました。スタッフ、ゲスト、30人ぐらいが残って残り物をいただきながら、自己紹介をしあいました。すると「黒岩秩子さんと出会えてうれしい。秩子さんの本で、おねしょうしたらご褒美をあげる、というのを読んで子育てが楽になりました」という発言があったり、「母の友で秩子さんの文章を読んでいました」とかいう発言があって、お互いに喜びあいました。クッキングハウスの職員たちは、若い人が多くて、松浦さんの娘さんも来ていて、後継者はちゃんと育っているのだな、と感心しました。

翌日は、私の母の3周忌、弟の妻の一周忌ということで、草加に泊まって、お墓参りをしてきたのでした。

 

 

 

 

男女共同参画の視点から問う災害の現状と今後の課題

〜女性議員とともに考える

      2011,5,19    於、参議院議員会館B106

「男女共同参画の視点から問う災害の現状と今後の課題〜女性議員とともに考える」に参加してきました。19日(木)12:00から13:30参議院議員会館B106。実は、堂本さんから呼びかけがあって、私は既に呼びかけ人の一人になっているのです。被災地でこれまでにもさんざん問題になってきたのですが、被災者団体のまとめ役が多くの場合男性であるために女性たちのほしいものが言い出せない、というような不便が蔓延していて、これは何とかしなくては、という思いを持っていたので、呼びかけ人になっていたのでした。たとえば、放射能被害で、立ち退かされている人たちの一時帰宅が行われるにあたって、初め「一所帯一人」と言っていましたね。それを聞いてたまげました。ひとりだとすれば、男が行くのだろう。男が一人で行って何を持ち出してこられるのだろう。と考えていました。そうしたら、やっぱり一世帯二人になりました。生活の隅々を知っている女性が行かなくては、何を持ち出すのかの判断が狂いますよね。

ところで当日、始まりの時刻12時についたら、入り口はあふれていて、入れるのかと心配になりました。実際主催者が用意をした資料が足りなくなって、もらえない人には郵送することになっていました。

「災害・復興と男女共同参画6,11シンポ」実行委員会が主催です。実行委員長堂本暁子さん、事務局長原ひろ子さん、そして司会は、皆川満寿美さん。

衆議院の本会議が1時から始まるということで、衆議院の皆さんが初めに話します。井戸まさえさん、兵庫から出た方だけど、夫さんが、仙台市若林区の出身でご両親などが被災。岡崎トミ子さん、郡和子さんはそれぞれ参議院、衆議院でどちらも宮城県。金子恵美さんは福島の参議員、藤田一枝、福田りえこ、大河原雅子、牧山ひろえ、石毛えい子、林久美子、神本美恵子、末松義規などの議員が参加。石毛さんは、こんな発言を。「東日本大震災復興構想会議のメンバーが発表されたとき『ぎゃあ』という声が上がった。15人中女性がたった一人。私たちは、目の前のことではなく、ずうっと先を見越して活動しなくてはならない、これからは、こういうことがある場合、私たちで情報を共有して、ふさわしい方をリストアップして推薦するといって政府に提案していくことにしませんか?」と。ここで私たち会場にいた参加者はおおきな拍手をしたのでした。

神本さんは、数日前に議員会館を訪ねた堂本さん、樋口さん、原さんなどを「錚々たる怖い方々が来られて、被災地に男女共同参画を、ということで、私はすぐに動き出しました。どこに行っても今はそれどころではないという言い方で、なかなか聞いてもらえなかったのですが、内閣府副大臣末松義規さんの所に行ったらやっと『そうです。やります』という回答をいただきました」そして末松さんは、取り組みを宣言して会場を沸かせました。

樋口恵子さんは、7080代は、その年齢の人にしかできないような技があり、十分被災地支援で活躍できる。被災者としてみるのではなく、その力を活用してほしい、といつもながらのユーモアを交えて発言。東京大学の大沢真理さんは、「復興会議が近々その結論を出すのだが、中間整理を発表してパブコメをとるというのが普通だというのに、中間整理が公表されていない。これでは、国民の声が取り入れられない」そして、復興会議から出されている「復興7原則」に対して、一つ一つ「生活の復興を」という観点から男女共同参画の視点を入れて意見を述べ、「中間整理の公表とパブコメ」もこの中で求めて「要望書」を採択しました。

終わってから堂本さんの所に行ったら、車いすでした。私と同じように膝の具合が悪くて前日から車いすとのこと。そんなことを全然感じさせないようにお元気そのものでした。樋口さんがおっしゃるように高齢女性は元気ですね。

611日の全国行動の一環としてのシンポジウムに向けて、皆で取り組むことを期して散会しました。

 

 

 

「福島原発震災ーいわきからの報告」

      2011,5,7     於、十日町情報館

5月7日(土)午前、十日町情報館で、「福島原発震災ーいわきからの報告」というイベントがあり、参加してきました。

いわき市議の佐藤和良さんがご夫妻で来られ、午後は、新潟市で講演とのこと。100人ぐらいの参加者でした。いろいろなところからこられている見知った顔がありました。

柏崎原発の問題で中心的に活動している津南町在住の小木曽茂子さんとの関係で、今回は以前福島原発の事故のときに支援にきてくれたお返しにやってきたとのこと。市議は、二期目で、民主、社民、無所属7人で会派を作っている。

2005年スマトラ沖地震の津波で、インドの原発が今回と同じ事故を起こしている。福島では、ずうっと今回のような事故が起きるからということで、警告し続けてきているので、「想定外」どころか「想定したくなかった」だけ。9カ月の工程表ができているが、そんな期間で終わるわけがない。100年戦争だと思っている。

立地4町協議会というのがあって、ここがすべて受け入れたために原発ができてきた。東電と経産省のダミーとも言える組織でありながら、今になって「被害者面」をしている。

終わってから近くの食堂で、主催者、講演者、と一緒に昼食をとって帰ってきました。6月11日が、全国各地での脱原発の行動。そして9月11日には、全部が東京に集まって大集会を企画しているとのことでした。






障がい者グループホーム始まる

2011,4,18     於、グループホームひまわり

桐鈴会にとって初めての障がい者グループホーム(GH)が誕生しました。18日()に二人の方が入居して、その日は、私も参加して歓迎会をしました。Aさん(61歳)は、東京で40年間企業で働いて、定年を迎え塩沢の実家に帰ってきて、塩沢にあるこぶし工房に通っています。Nさん(56歳)も、東京で西友の売り場で働いていて、腰痛になり、そのことで、躁うつ病になった。それで石打の家に戻ってきて精神障害者授産施設「魚野の家」に通っています。ヘビースモーカー。「この家の中では飲みません。飲みたくなったら、駅の喫煙所に行きます」と言います。といっても一日に20本も飲むのにいちいち歩いて6分の駅まで行くのは大変だろうということで、キッチンの一隅を喫煙場所と決めました。

世話人の3人と管理者の星野淳子そして私の7人で、18日は夕食会をしました。二人の入居者たちは、二人ともとても喜んで「今日はうれしくて眠れないかも」と安定剤を飲んだりしていました。そしてこれまでの人生を二人が語ってくれ、賑やかな昼食会となりました。

その翌日は、この家が含まれる隣組の集まりがあり、星野淳子が参加しました。1月の地域説明会のときには、たまたまものすごい大雪の日で、出足が悪かったのが幸いしてか、そんなに警戒心が強いとは思えなかったのですが、この日は、本当に近くに住んでいる方ばかりで、火事が出たらどうするか、など、障がい者への警戒心が強く打ち出された意見がたくさんだったそうで、星野が「大丈夫だと思います」というと「原発だってそう言っていたのにあんなことになった。本当に大丈夫か?」と詰め寄られる場面もあったそうです。星野が帰った後は、またまたいろいろな意見が飛び交って、私が、障がい者の問題に足を踏み入れることになったきっかけを作ってくれてまあちゃん(今は45歳、GHと同じ班なのです)のお母さんは、「あんなにみんなが警戒していると思わなかった。私がいないところでは、さんざん言われているということがよくわかってショックだった」と電話をくれたりしました。桐鈴会の事務局長島村君もこの班で参加していたのですが、「みんなやさしい気持ちを持っているんですよ。あのぐらい言うのが普通なのでは?」との意見でした。実際助成金も降りて作ることになってから、近所の反対で取りやめになっているところも、近くにあるのです。

それでしばらくは、泊まり込む、と約束してきたと星野。18,19日は星野が泊まり、20日「今日泊まる人がいない」と夕方わかって、鈴懸の施設長広田セツ子「私が泊まるわ。私は、2泊ぐらいまでなら、何の用意もいらない人なの」と家に帰ることもなくそのまま泊まって、翌朝出勤してきました。「興奮して、4時半ごろから起きだして洗濯なんかを始めるから、こっちも寝ていられなくて」と言って鈴懸の当直室で「朝寝」をしてから仕事についていました。近所の方々が、安心してくれるまでみんなでボランティアで泊まりこもうということになり、私も24日に泊まりました。25日までボランティアとして職員や、役員たちが泊まり込んで、何事もなかったということで、26日に行われた田町代議員会で、私と星野がくわしく紹介をしたところ、何の質問も出ることなく、「了承」していただけたようでした。

そして皆さんにお願いです。

あと4部屋空いています。入りそうな方をご紹介いただけないでしょうか?

知的、精神の障がい者で、世話人が泊まらなくてもいいぐらいの自立生活ができる方、費用は月46000円です。近くに作業所があります。どうか、ご紹介をよろしくお願いします。

21日は、十日町で、トイレットペーパー作りを主な作業にしている障がい者の複合施設NPO「あんしん」を経営している樋口功さんご夫妻が訪ねてこられ、「こんな素晴らしいところだもの、すぐにいっぱいになりますよ」と励ましてくださいました。十日町では、GHなどを作っても市からの助成はないそうで、改装費の半分が国、4分の1が県、残りの4分の一は、丸々自分のところで出さなくてはいけないのだそうです。南魚沼市の場合には、その4分の1の負担分を半分市が出してくれることになっています。ありがたいことです。旧大和町で初めてできた障がい者のGHだったのでした。それなのに、今のところ、旧大和町からの入居者は零です。

土日は、昼間は世話人さんがいないのに、入居者の方はいることになります。そこで、高齢者のGH桐の花にボランティアとして行って、昼食はそこで食べる、夕方は、鈴懸の展望風呂に入る、ということで、Nさんは、この連休にも桐の花に通って庭仕事や、掃除など活躍してくれました。

連休明けには、十日町から、58歳の方が、入ってこられるとのことです。







「竹信三恵子さんの再出発を祝う会」

2011,3,31     於、女性と仕事の未来館(東京田町)

31日に「女性と仕事の未来館」で、「竹信三恵子さんの再出発を祝う会」が開かれました。

「女性と仕事の未来館」は、事業仕訳で廃止ということが決まって、31日までで終わり、なので、最後の集会でした。

竹信三恵子さんは、朝日新聞社に34年も勤めていたそうで、この4月から、和光大学の教授になります。井上輝子さんが定年退職するので、その後任ということです。井上さんは、私にとっては、大学時代からの女性問題についての「同志」でしたから、こっちに来てからもよく彼女の家に行ったりしていました。そして、竹信さんにとっては、大学の社会学科の先輩にあたる人でした。去年、スイスの山歩きをしたときに、「もしかしたら、和光に」という話を聞いていたのでした。

竹信さんは、おととし南魚沼市の男女共同参画会議の総会で話をしていただいたので、この町の人も誘ってみました。するとこの集会の呼びかけ人の名前を見て、「この人たちに会ってみるだけでも参加する価値がある」と言ったのです。上野千鶴子、雨宮処凛、湯浅誠、辛淑玉、福島瑞穂、小宮山洋子、堂本暁子・・・・・と有名人が連なっていました。ところが、結局地元の人は行けなくて、私が一人で上京したのでした。

2000円という会費だというのに、ごちそうが並んでいて、驚きました。裏方をやった、皆川真寿美さんが、ケータリングを見つけたのだそうです。参加した世話人たちが、1分スピーチをした後、竹信さんのミニ講演。それから、また会場の人たちの1分スピーチ。なかなか楽しい会で、いろいろな人と交流もできたし、いろいろな話も聞けて、竹信さんの34年の足跡もわかり、有意義な上京となりました。朝日新聞社の中には、「労働問題チーム」というのができているそうで、そのチームの後輩たちも、また、ライバルである他社の記者さんたちも語っていました。

一つ驚いたのは、「計画停電」で東京では、足立区と荒川区だけが停電しているそうで、この二つの区に住んでいる人が、夜は公共の建物も一切使えない。図書館もダメ、と訴えていました。足立と荒川、は、東京の中の下町です。「差別」だと問題視されているそうですが。

竹信さんは、ジェンダーと労働問題を主に書いてきたのですが、かなりマイナーなテーマで、それも大企業などからは、嫌がられていたのですから、まさか大学が自分をとるとは思っていなかったようで、採用が決まった時には、かなり驚いたそうです。「でも、人間が仕事を決めるのではなく、仕事が人間を決めるのだ」と納得して、今までのようにデモに行くのに会社に内緒で、というようなことがなくなることはうれしいし、今までどおりに「取材してほしい」というような要請を受けたら、どこに持って行ったらいいのか、振り分けて、役に立つこともできると納得したとのことでした。学者、といわれるのは嫌で、今までと同じように生きていきたいとのことでした。






グループホームひまわり内覧会

2011,4,1    於、浦佐田町262番地 「ひまわり」

南魚沼市浦佐262番地、浦佐スキー場の下、になります。浦佐駅西口を出て、線路と垂直な道を突き当たり、左に曲がって、200メートルぐらいの右側です。歩いて6分ぐらいのところです。車の方は、新潟方面から17号線を来て、浦佐駅を通りすぎて、右側に浦佐スキー場があるところの信号を右に折れると旧道に入ります。そこを下ってくると左側に「ハイマートハイム島田」という緑色の看板があります。ここは、萌気園が運営している有料老人ホームです。その向こうが広い道で、そのあと5件目ぐらいの左側になります。

GH(グループホーム)ひまわりは、桐鈴会としてはじめて立ち上げた障がい者のGHです。家賃をとても安くして貸していただくことができ、中をいろいろと改装しました。その費用は、半分が国、4分の1が県、残りの4分の1は、当事者負担だったのですが、その半分を南魚沼市が負担してくれることになりました。

2階にある10畳の洋間を半分に仕切って2階が5部屋、下が1部屋で、6人の個室ができました。今まではなかった二階に便所を付け、屋根を片流れにして、雪の処理をしやすくしたりと、3月いっぱいかかって改装が終わり、28日には県の係が検査に来ることになっていました。ところが、この震災で、県庁職員が不足して来られず、検査もないままにオープンとなりました。31日には、世話人をしてくれる職員4人、管理者の星野淳子と私で6人の初めての職員会議を持ちました。

さて1日は、私も9時半ごろから会場に行き、職員たちがいそいそと準備をするのを手伝ったりしながら、10時を迎えると、田町集落の区長さん夫妻が、新旧二組とご近所の方々と一緒に来られました。新しい畳が入って、壁もかなり新しくなり、みなさん「よくなったねえ」と言いながら見て回った後、茶の間でお茶のみ。いろいろと質問され、星野淳子が答えます。「規則は、こちらで決めないで、入居された方々と話し合って決めます」。近所でラーメンなどを出す飲み屋をしている方から「夜ラーメンを食べに来たら食べてもらっていいのですね。酒をほしいと言われたら?」「普通にここらに住んでいる方と同じようにしていただけばいいです。やってみて問題が起きたら、そこで話し合ってみます」と星野。全体で50人ぐらいが来てくださいました。その後3,4日にも内覧会を催したので、桐鈴会役員の皆さんからもたくさん来ていただくことができました。

入居したいという方が兄夫婦と一緒に来られました。なんとその兄夫婦というのが、萌実 が高校時代に親しくしていて、いまも帰省すればほとんど連絡を取り合っているお友達のご両親だったのです。「アンボ」というあだ名しか私は知りません。お母さんがびっくりされ、義理の弟にあたる方を紹介されました。「中学を卒業してから、東京で企業に勤めて、定年まで40年一人暮らしをしていました。去年帰ってきて、知的障害者の働く場に勤めています。お酒が好きなのですが、ここでは飲めるのでしょうか?」「毎晩1杯だけということで、晩酌をつけましょう」と星野。とっても嬉しそうでした。さっそく入りたいということで、部屋を自分で決めて帰られました。

もう一人の55歳の入居希望者も働いているところ(六日町にある「魚野の家」)の関係者と一緒に来られ、とても気に入って、自分の部屋を決めてうれしそうでした。二人とも、体験入居などいらない。すぐに入りたいとのこと。他にも希望者が見つかりつつあり、近々GHでの生活がスタートすることになりそうです。そして二人とも土日は、昼間GH「桐の花」にボランティアで行って、女性だけしかいないおばあちゃんたちを若返らせる役割を担ってほしいとお願いしました。







  浦佐認定子ども園の内覧会

2011,3,20,21    

20,21日両日、浦佐認定子ども園の内覧会でした。

私は、桐鈴会の入居者の皆さんをお連れするということで、20日朝、前もって一人で行っておくことにしました。大和中学校前に立っているのですが、玄関前の駐車場は、すべて車が止まっているという感じで、その盛況ぶりが見てとれました。(後で分ったところでは、二日間で4800人が見学に来られたとのこと)200メートルぐらい離れたところにある浦佐幼稚園の園長並木さと子さんが、この3月に退職して、4月から認定子ども園の職員になるので、案内をしてもらいました。

南魚沼市立城内中学校の学校林にあった杉の木を切り倒してその材木で作った木造1階建ての園舎です。全体はドーナッツ型になっていて、玄関から一周歩いてくると又元の玄関に戻ってきます。ドーナッツの内側が、ローカになっていて、一周すると150メートル。外側にいろいろな部屋があります。子育て支援、一時預かり、乳児室、厨房、幼児室、学童、病後児保育室、職員室と並んでいました。途中防火壁で遮断される構造になっていました。幼児室の前のローカは広くなっていて、そこが遊戯室です。グランドピアノがあって、元同僚だった南雲美智子さんが、きれいなメロディーを奏でていました。去年保育園を退職して、今度ここの職員となります。美智子さんの夫は南雲権治さん、南魚沼市の教育部長です。1級建築士としてこの認定子ども園を作る任務を帯びて、建設課とか、都市計画課ばかりを動いていたのに学校教育課長に抜擢されたのでした。そして今年度から、部長になっています。彼がこだわりにこだわって作り上げた認定子ども園なのです。南魚沼市の木材を使う、そのことだけでも経費的には高かったようです。公設民営で、医療法人萌気会が、もう一つの候補と争って、受託したことはお知らせしましたよね。

さて、中に入って一番驚くのは、木製の机と椅子です。零歳児クラスは、円形の机、1歳からは、机は台形です。二つ合わせると6角形になったり平方四辺形になったりします。一つの机に3人が掛けるようになっています。5歳児になると一人で使う机で、やはり台形になっており、8個並べて中がくりぬかれた8角形になります。椅子は、0、1歳児用は、3枚の板を立方体の3面にして、その断面図がコの字型になっている断面に板をはめ込んで、そこが座るところになります。ちょうど真ん中ではなく、少しずらしたところにはめてあります。ひっくりかえして使うと少し高さが違うようになっているのです。横にしても、裏返してもいろいろな使い方ができる椅子で、私は、どこかに見学に行って同じものを見てきたことがありました。2歳児になると普通の椅子です。乳児室(0、1,2)には、畳のコーナーがあって、そこで昼寝をします。

 この机といすを作るにあたって、園長になる坂西美和子さんは一番頑張ったのだと言っていました。市長と何回も交渉をしてとうとうOKをもらえたのだそうです。美和子さんの情熱が伝わったということでしょう。5歳児用の机は経費が3倍かかったということでした。5歳児の部屋には、子どもたちの隠れ家もありました。これも、美和子さんのこだわりです。

3,4,5歳児クラスは、扉を閉めることも可能だけど、基本的にはドアがオープンになっています。それぞれ2クラスずつあるのだけど、この二つに部屋も、つなげることもできるし分けることもできるという作りです。24人定員の部屋が6個あり、これだけで144人。全部の定員は、180名、学童が50人。職員は、全部で50人です。この日は、ほとんどの職員が、案内して回っていました。

午後は、鈴懸、桐の花入居者の皆さんを私も運転手としてお連れしました。皆さん一様に感激して、特に玄関にかけてある柱時計が、木製だということに深い興味を持っていた方もありました。この時計は、美和子さんの妹さんからのプレゼントだということでした。

4月の開園式以後、子どもたちがどんなドラマを展開してくれるのか、一緒に楽しんでいきたいと考えています。私の孫も2歳児に一人だけ入ります。桐鈴会とは、雪が溶けたら歩いて5分もかからない距離(雪があるときは、ぐるっと回らなくてはならず、歩いて10分ぐらい)のご近所です。いろいろの交流が楽しめるのでは?とそれも楽しみにしています。







「第2次世界大戦と日本」

2011,3,19     於、新潟市ときめいと

19日は新潟まで敬和学園「戦争とジェンダー表象研究会」主催の「第2次世界大戦と日本」のシンポジウムに行ってきました。シンポジストの一人が、女川の出身で、両親やきょうだいが心配で帰ってみたら、避難所で、みな無事だったという話から始まりました。

午前中のプレ企画「戦時下映画に見る女優像:原節子と高峰秀子」では、1945年8月5日封切だった「北の3人」という映画についての話と上映があったのでした。私は、例のごとく映画を見てもほとんどわからない人なので、この映画がどういうものなのかはわかりませんでしたが、原節子と高峰秀子が、女子通信隊員でした。これが、男たちがたくさん死んでしまったがために女を軍隊の中に入れたということなのですね。女のパイロットなどもぼつぼつ生まれてきていたそうですが、「女に使わせる飛行機はない」と言って排除していたのに、「女の手」を借りなくてはならなくなって、通信隊員という形で使ったのでした。仕事としては、飛行機が着陸できるのかどうかなどの情報を集めるということだったと思います。「女で初めて」ということで、彼女たちは誇りを持って任務に就き、仕事としては、男たちが評価するのです。これについて、加納実紀代さんは、「戦争という悪が、ジェンダー平等という善を導くこともある」と説明していました。

 終戦10日前という時点で、こんな映画を作るゆとりがあったのかとそのことに驚いてしまいました。

午後のシンポが始まるときに敬和学園学長の鈴木佳秀さんがこんなスピーチをしました。「今日は、加納実紀代さんの最終講義です。普通の先生は講義をするだけなのですが、加納さんは、学内にチームを作ってこれだけの研究をまとめてきたのです。著書を最近読み始めたのですが、もっと前から読めばよかったと後悔しています」こんなことがいえる学長も素敵だと思いました。午後は、1部が「世界のメディアが見た日本」ということで、予定としては、4人の女性がそれぞれ米、英、中、独、について語ることになっていたのですが、「米」の方が被災地の方で、ぬけたので、3人が語ってくれました。

加納さんが「表象」ということについて話されました。「文字文化というものは、それ自体権力性を持ってしまう。識字率という点でもそこにはジェンダーが入り込む。世界中で字の読めない人の8割は女性。そういう人たちへの情報の伝達は、絵であったり、映像であったりする。そこまで含めようということで、《表象》という言葉を使っている」

そういうわけで、3人の方々は、それぞれの国で、女性たちに影響を強く及ぼした雑誌を取り上げて、そこに描きだされた「日本」について語っていた。イギリスは、「ピクチャーポスト」という写真週刊誌、中国は、上海の大衆画報「良友」、ドイツは、「ナチ女性展望」それらにある写真から受け取った情報について論じていました。私の最も不得意とする分野でした。

第2部では、加納実紀代さんの「大東亜共栄圏」とジェンダーでした。彼女は1940年生まれで、私と同じ年。5歳の時に広島で被爆。60歳まで生きられるだろうかと思いながら生きてきた、とのこと。ところが還暦を過ぎたころに、初めて大学教員として敬和学園大学に勤めました。そこで10年間仲間に恵まれて楽しい研究生活ができた。

 上野千鶴子さんが、60歳を過ぎて大学に職を得たと加納さんを尊敬していて、二人で作った本もあります。

加納実紀代さんの「大東亜共栄圏」とジェンダー、これはなかなか凄いものでした。

 第1部の方々の発表は、申し訳なかったけど途中居眠りとなりましたが、加納さんのは瞬きもせずに聞き入っていました。

「大東亜共栄圏」という言葉は、1940年8月松岡洋右外相が初めて使ったもの。この1940年というのは、加納さんも私も生まれた年です。それまでの「満州事変」や、「日中戦争」には、侵略だとして反対していた人たちも、米、英の植民地主義と闘ってアジアに共栄圏を作るのだという考えには納得がいったということで、この言葉が出てきたことで、がらりと情勢が変わっていったのだそうです。あの竹内好でさえ、12月8日を境にして「世界は一夜にして変貌した」といい、「空が晴れた」とまで言っていた。のち(戦後)に彼は、自己批判をしたそうですが。

理念としての「大東亜共栄圏」は、物質主義、個人主義の西欧近代に対して、「和の精神」を重んじる精神主義をもって「近代の超克」をしようとするもの。政府刊行物「写真週報」にみる、共栄圏の女性<日本人女性<日本人男性、この不等号に表れているような価値が、見る人にしみこんでいくそういうやり方で、表紙が飾られているのです。「大きいほうの人」が「小さいほうの人」に指導している図、「小さいほうの人」は、ただ微笑むだけ、という感じ。「ビルマや、シンガポール、マレーをイギリスから解放して独立させてあげた日本」ということを印象付ける。

1943年に伊地知進が書いたもの。

「日本はアジアの指導者である。アジア大陸の換言すれば男性民族である。南方は女性民族である。逞しい情熱を以って抱擁してやらなければ生き得ない民族である」

金子光晴の詩「ビルマ独立をうたふ」

「アジアは一つの家族。いたいけな妹ビルマは長らく別れて他人の家で辛い悲しい日を送った。待ち焦がれた晴れの日、独立の日がビルマにも来た」

かくて理念としては「欧米からの解放・平等」=男性表象、でも実体としては「侵略・支配・服従」=女性表象ということで、「大東亜共栄圏」は、ジェンダー視点から見れば、二面性を持っていた。

「被ばく者」についてもその2面性を指摘する。被害者であると同時に加害者でもある。加害者だというのは、アジアの人々に対するもの。加納さんの著書「ひろしま女性平和学試論」をその日に買ってきたのですが、その中に加害者としての「責任をとる」ということはどういうことか。について触れている。

1、謝罪をする。

2、補償をする。

3、二度としない。

4、戦争犯罪者を処罰する。

今までは、3、までを考えていたのだけど、松井やよりさんたちが取り組んだ女性国際戦犯法廷という活動を知って、4、が付け加わったといいます。この本が出たのは、2002年ですから、2000年の国際戦犯法廷で「従軍慰安婦に関する犯罪者は天皇である」という判決になったことから気付かされたというのでした。

加納さんの柔らかな語り口から出てくる話は、かなり的を射たシビアのものでした。広島の爆心地から2キロ以内で被爆しながら、70年も生きてきたというのは、それだけ免疫力が高かったということね、と終わってから話し合いました。私が思うには、御父さんが被ばくで亡くなり、母子家庭であったにもかかわらず、母の故郷高松でストレスから解放されて伸び伸びと育つ中で、自分の考えにまっすぐに沿って生きてきたことが免疫力を高めてきたのでは? ということでした。

加納実紀代さんとの初めての出会いは、何十年か前に彼女が「女性たちの60年安保」という本を書くにあたって、1960年6月15日の事を私の母が朝日新聞の「ひととき」に投稿したその文章を載せたいということで連絡がきたことから始まっています。この「ひととき」は、名古屋に住んでいた私の親から、電報で問い合わせが来て(当時は、電話はなかった)私が長々と6月15日の事を書いて手紙を出したのです。その手紙は、「黒岩さんも私の友人たちもけがをした」という事実に加えて、「人類は、人々の命と引き換えにさまざまな権利を勝ち取ってきたのです。たとえ娘の命がなくなったとしても『全学連に娘を奪われた』などという恥ずかしいことは言わないでください」というような「過激」なことが書かれてあったのですが、その手紙に感動したといって母が投稿したものだったのです。この投書に対して「親子もろともぶっ殺す」とか共感とかが新聞社に殺到したので、その後2回にわたって朝日新聞紙上で特集が組まれたのでした。加納さんとは、これまでに何回も出会っているのですが、今回終わってから、そんな話をする時間が取れたのでした。

 

 

 

 

         野中広務講演会

       2011,3,5     於、藤沢市民会館大ホール

5日は藤沢の市民会館まで、野中広務の講演を聞きに行ってきました。本当の目的は、「女政のえん」に野中さんを呼ぶということだったのですが、講演会はかなり興味深いものでした。人気があるわけがよくわかりました。

主催は、社民党衆議院議員阿部知子さんです。なんとこの野中講演会は今回が3回目。おととしから、毎年3月に来ているのです。去年は、知っていたのだけど行かれなかったので、阿部知子さんに野中さんへの伝言をお願いしたのでした。

市民会館の大ホールが会場でびっくりしました。今日はいつもの半分しか集まっていないと役員の人がぼやいていたけど、300人は優に来ていたと思います。それでも会場の写真はとらないことにすると言っていました。最後に写真入りのhpを紹介しますね。

小泉構造改革の話から入りました。それ(構造改革)が出た時にまず「怖い」と思った。「間違った道へ行くのではないか?」と直感した。学者たちもこぞって、小泉が作る審議会に入りたがった。私は、死ぬときに後悔したくないので、記者会見をして引退声明を発表した。「小泉改革は間違っている!」と。これは、2003年の9月ですね。その頃は、まだ小泉改革で浮かれていた時期ですから、この記者会見は、大変な反響だったと思います。

小沢一郎がやった「政治改革」もいけない。49,9%の人の票が無駄になってしまう小選挙区制はよくない。政党助成金は、議員一人に年間4500万出すことになったが、これもひどい話。

政治家生活522カ月、「戦争だけは絶対にしない、そして、福祉重視、この二つだけが政治家の使命だと考えている」そういう政治家と手を組んでやってきた。阿部知子さんもその一人。これからは、どの政党に属しているかとは無関係に「戦争だけは絶対にしない」という政治家が、大同団結をしてほしい。

ポストをほしいだけの人が多くて困る。加藤紘一幹事長、私が副幹事長のとき、いよいよ明日橋本龍太郎政権が誕生するという前夜、二人が橋本さんに呼ばれた。「明日は、大変な日になるから、僕は今日はこれで寝るから、後は頼む」といって、閣僚名簿つくりまでまかされてしまった。その夜遅くポストがほしい人が3人やってきた。加藤さんがこう言った。「みんな僕と同じ大学を出た人ばかり」その中の一人が与謝野だった。山崎拓はどういうわけか、いまだに自民党の中に一部屋もらっている。岩国もひどい。

鈴木宗男は、彼だけが、北海道のこと、日本のこと、考えていた。彼がいる限り北海道の漁師たちがロシアに拿捕されることはなかった。彼が、500万円の収賄で、収監されたその日から、拿捕が始まった。北方4島にロシアが乗り出してきたのも彼がいなくなったから。彼は、それなりの外交力で、ロシアをちゃんと押さえていた。

京都の蜷川知事が辞めた後、共産党が、府政を私物化してきたことの後始末をするようにということで、副知事になっていた。その頃、重度障害者の施設を造るにあたって、別府の中村さん(多分「太陽の家」の創始者だと思う)やオムロンに世話になった。それから、徳田寅雄にも世話になった。彼は、医療という点では、すごいことをやっていた、親しくしている。

鳩山、菅、は野党のときには、素晴らしい力を発揮していたのに、政権を取ったら残念なことになっている。でも最近、菅は、官僚の力を借りなくてはいけないということが、少しわかってきたみたいだ。

軍備と原発はいらない

神様が、日本を創る時、資源は何も与えてくれなかったけど、力がある人間を与えてくれた。

野中さんは、案の定話し終わるとさっと帰って行かれた。私はそれを見込んで、始まる前に逢うことを追求したのです。受付の女性が、あの人に、と言ってくれた男性に話したら、「息子さんが新潟から出ている黒岩さんですよね。わかります。」と言って楽屋裏に案内してくれたのです。(実は、会いたいという人をその前には断っていたそうです)そこでは、阿部さんと野中さんが打ち合わせをしていた! そこに入って行って、自己紹介をし、女政のえんのお願いをしたのでした。阿部さんも助け船を出してくださって、「堂本さんの後参議院議員を」と紹介して、秘書さんとやり取りするようにということで、東京の事務所にいる秘書さんが紹介されたのでした。阿部さんの秘書さんは、私とも電話で話したことがあるとのこと。たかひろとは、障がい者関係のところできっと出あっているのでしょう。おかげでこれからは、東京事務所とのやり取りで、女政のえん、の日取りを決められそうです。秘書さんに深く感謝をして帰ってきました。

あべともこと共に歩む会 http://abetomoko2.exblog.jp/

ここに私と野中さんと阿部さんの写真もあります。市民会館前に咲いていた早咲き桜の写真もあり。

 



 

「口から食べよう!サポート研修会」

    2011,2,26,27     於、南魚沼市北里学園大学ホール

2627日の土日にわたって、萌気会、桐鈴会、うおぬま調剤グループ共催合同セミナー(第4回)が開かれました。湯布院厚生年金病院から森淳一言語聴覚士、木本ちはる摂食・嚥下障害看護認定看護士を呼び、千葉県柏市で開業している大石歯科医院院長大石善也さんも来られての研修会でした。

数年前に卓夫がどこかで森淳一さんの話を聞いてぜひうちに呼びたいと「片思い」を続けていたことが発端だったそうです。去年、萌気園に初めて、言語聴覚士が誕生しました。訪問看護ステーションに属する金本優理さんです。また、もえぎ歯科医院(名板貸しで別経営)が、廃業してそこの職員が、どっと萌気会に来たので、その中の歯科衛生士と組んで、「口から食べよう・サポートグループ」が誕生しました。そこで、金本さんが、実行委 員長になって、今回の企画が成立したのでした。

全体を通して、新しく知りえたことがたくさんありました。

 嚥下障害による誤嚥ですが、普通の人は食物が気管に入ってしまいそうになると「むせる」という形で防御するわけですが、この「むせる」という機能が無くなってしまう人がいるということ。

また、食物ではなくて唾液でさえ、誤嚥するということ。だから、夜中でも自分の唾液で、誤嚥してしまう、事があるのですね。肺炎全体の86%もが誤嚥性肺炎だということでした。

「平穏死のすすめ」の石飛さんによると、胃瘻などの延命装置が、誤飲性肺炎を生むことがあるとのことでしたが、今回も、「胃瘻」は、食べることができるようになるための装置だとのことでした。

由布院から来られたお二人は、病院に勤めておられるので、入院患者が対象ですが、二人とも医者ではなく、それでいて医者に提案するという形で、「口から食べる」ことを推進してきています。口の中を清潔に保ち水分補給をすることと、口の周りの筋肉を鍛える、ということに要約されるようです。「息こらえ嚥下」ということも教わりました。飲み込みが難しい人の場合、食べ物を口に含んだ後、ちょっと息をこらえてから、飲み込むとうまくいくことがあるそうです。

「もっと食べたい」と言ってもらえるように食事を作る人、食事介助をする人などなど周りの人たちが努力する、ということに要約されると思いました。

すべて終了した後、一緒に昼食をとって、その後桐鈴会を15分間(新幹線の時間まで)でご案内しました。3人の講師の皆さんが、とても興味深く鈴懸、桐の花、夢草堂を見ていってくださいました。

由布院とは、私たち夫婦はかなり長い付き合いなのです。1980年代に、私たち夫婦が呼んでいただいて、福祉の話をしたのです。それ以来、玉の湯の溝口薫平さんや、亀の井別荘の中谷健太郎さんとの付き合いが続いています。由布院の街づくりは、その当時から有名で、この町の役場の皆さんは、訪ねて行ったりしていました。私が、大地塾を始めてからだったのですが、当時発行していた会報「大地」を読んでくださっていたのです。そんな溝口薫平さんの娘、桑野和泉さんが、玉の湯の社長になり、由布院だけでなく、大分県のみならず、全国に講演をして回るようになって、ときには、テレビでお姿を見ることもあります。その桑野さんの夫が、由布院厚生年金病院の副院長をしておられ、今回は、そこに連絡を取ってきていただいたのでした。今回来られたお二人に伺ったところ、この厚生年金病院は、往診をしていないのだけど、副院長の桑野さんだけが往診をしているということでした。

由布院のお二人は、雪渡り(当地では、「しみわたり」という)を楽しんで行かれました。






岸本祐有乃コンサートin夢草堂

2011,2,20      於、夢草堂in桐鈴会

20日()午後、岸本祐有乃(きしもとゆりの)コンサートが夢草堂で開かれました。19日お昼に浦佐駅に迎えに行ったら、なんだか昔と全然違う感じの岸本さんで、見間違えてしまいました。太ったこと、パーマをかけたことかな? 午後城内中学校に行って、吹奏楽部の生徒20名と指揮者の対面。私は、鈴懸入居者が骨折で入院したためにこの時間お見舞いに行っていて、練習風景は見ませんでした。

その後、岸本さんは、夢草堂のピアノとの対面。入居者の方から寄贈されたグランドピアノです。「このピアノは、下の音がよく出るいいピアノです」とのことで一安心。

夕方は、夢草堂運営委員4名との会食。話が楽しくって一同が岸本さんの虜になってしまいました。それから、私と二人、さくり温泉健康館で温泉につかってゆっくりしてそこに泊まりました。朝、もえぎの施設を案内すると、一つ一つ深い関心を持って質問をしてくれて、また歓声をあげて見てくれ楽しい案内でした。お昼を鈴懸の食堂で、入居者と一緒に食べました。これもおいしがって、周りの入居者たちと歓談しながらの食事でした。

食事中から、城内中学校の生徒さん達が現れます。1時集合だというのに40分も前から来てくれ、その期待度が測られました。1時からリハーサル。指揮者の言葉に敏感に反応して、どんどん良くなっていきます。会場は、前に座布団を敷き、座ることが難しい人たちには、後ろに椅子を置きました。始まるころには、座布団も椅子もほとんどなくなっています。70名ぐらいの聴衆でした。

夢草堂運営委員長の鈴木智子の司会で始まり、私がゲストの紹介。

大学の女子卒業生のmlで知り合い、2006年ジュネーブでの「ベアテの贈りもの」上映会にウィーンから来てくれて初めて出会いました。岸本さんは、音楽の道に進むことをご両親に反対されて仕方なく進んだ大学が東京大学。あきらめきれずに29歳で東京芸大に入学、31歳でウィーンの国立音楽大学に入学し、卒業後はヨーロッパで活躍し、才能が認められて、去年の暮に日本に帰ってきました。日本での初めてのコンサートが今日です。最近、アメリカのグラミー賞を日本人がたくさんいただいたとニュースになっていますが、岸本さんもいずれいろいろな賞に輝くに違いないと思っているので、今日こうして岸本さんのピアノ演奏や指揮を見ることができたということが、誇りになるのでは? と内心思っています。

すぐにピアノ演奏が始まります。ハイドンのソナタが静かに滑り出します。力強い演奏にみんなシーンと息をのみます。一曲終わるとトークをはさんで、短い曲を6曲、つづけました。「エリーゼのために」は、「本当はこういう曲だったのだ」と驚きました。いつもたどたどしいものばかり聞かせられているからでしょうか? 最後のトルコ行進曲では、すっかり行進している気分でした。その前の「ドビュッシーのアラベスク」はうちの職員島村のリクウェストでした。ちょっと曲の感じが違って、岸本さんのレパートリーではないけれど、リクエストに答えたとのことでした。

みんながうっとりとしたところで、私が岸本さんにインタビューをして彼女のトークの時間となりました。

 1、あなたはご自分の音楽についての才能をいつ頃から認識してこられましたか?

 ・ 小学校の1年生のころから、全校で歌うとかいうとき、何の前触れもなく「今日は春の小川を歌います。伴奏をしてください」といわれるのです。田舎の学校だったので、音楽の専科がいなかったからでしょう。それを何とかこなしてしまっていました。

 2、赤ちゃんが生まれて3ヶ月であなたが入院した時や、それ以後も、あなたのお姑さんがしてくださったことは?

 ・ 夫とそのご両親が助けてくれて今の私があります。

 3、あなたの子どもさんや夫さんは、あなたのお仕事をどう思っているの?

 ・ 4年生になる娘は、私が、大学に入りなおしたばっかりに言葉のわからないウィーンで、私と二人で住むことになったり  大変な思いをしてきたのですが、幼稚園の先生の話では、「お母さんのことを誇りに思っているようです」とのこと。夫は、自分が、指揮者になりたかった人で、だからとっても協力的なのですが、いろいろと細かいことを注意されるので、喧嘩になることもあります。

 4、これからのあなたの夢は?

 ・ 小さいときから、音楽と文章を書くことが好きだったから、その両方にまたがるオペラをやりたいと考えています。本当は、人と人と心をつなげる、っていうこと、が、一番の目標です。音楽という手段で。^^

オペラは音楽と言葉に美術(視覚的なもの)も入り、時にバレエも入るから、総合芸術ですよね。

次が吹奏楽部の演奏です。生徒たちがきりっとしていて、自信を持って演奏しているという感じで、それはそれは大変な迫力で、3曲聞き覚えのある曲を聞かせてくれました。前日からの練習の成果が実った感じでした。私たち、運営委員会は、リハーサルをしているときに、会場つくりをしていたので、指揮者が、メンバーにどんなことを伝えているのかが、漏れ聞こえていました。岸本さんは決して否定することなく、もっとこうしてほしい、と注文するのですが、生徒たちはそれを受けて、ちゃんと直していくのです。そういう練習風景が見られて、指揮者の存在がいかなるものなのか、のぞき見ることができたのでした。

最後に私は聞きました。「あきらめきれずにやっぱり芸大に行こうと決意したきっかけは?」

 ・病気で入院しているときに周りの人たちが死んで行くのを見て、私は、今死んだら何を後悔するだろうと考えた。そうすると大好きな音楽をあきらめたことを悔やむだろうと思ったのです。やっぱりあきらめないでよかった。皆さんもどうか、夢に向けて取り組んでください。と生徒たちに語りかけていました。

最後に全員合唱を岸本さんに提案され、運営委員が選んだ曲は、「北国の春」でした。一日中眠っているという感じのおばあちゃんが、この曲になるとパッと目を覚まして大きな声で歌うところを見たから、というのがその理由です。カラオケに合わせて歌って、岸本さんの指揮をしてもらうことになっていたのに、カラオケのセットを忘れて、結局岸本さんの伴奏で歌うことになりました。岸本さんは、この曲名を聞いた時、さすがびっくりしていました。でもちゃんと伴奏をして合唱ができたのでした。ところが、中学生は、半分の子どもたち口を閉じていました。「知らない人」と言ったら、半分以上の手が挙がりました。そこで、「さっきはみなさんからお年寄りへのプレゼントだったので、今回は、お年寄りからのお返しと思ってください。」ということで幕を閉じました。終始笑顔を絶やさない岸本さんの明るさにみんなが虜になってしまったようでした。

終わった後、長男たかひろの祝賀パーティに一緒に行って、またピアノ演奏をしていただきました。たった2曲だったこともありますが、「アンコール」のコールが起こって、ショパンのワルツをもう一度演奏していただきました。参加者の皆さんにとっても喜ばれたのでした。

7月3日()東京渋谷のさくらホールのこけら落としで、「椿姫」の副指揮をするというチラシがあり、何人かが、行こうという話になっていました。






  コスタリカ報告

  2011,2,3〜11

「軍隊を捨てた国コスタリカ」という呼び名で、私の中では、ぜひ行ってみたい国3つの中に含まれていました。だからメールで、このツアーを知ったときに、後先考えずに申し込んでいまいました。6人そろわなくては実現できないと知って、年賀状で呼び掛け、3人が、はいってくれたことで、実現したのでした。だから、企画していた足立力也さんとマイチケットという「こだわりの旅行会社」からは、とても喜んでいただいたのでした。去年の8月のこのツアーは、参加者2人だったために実現しなかったそうで、その2人のうちの一人が今回参加した最年少の21歳、望月さんでした。

行く前に読んでいった2冊の本の紹介を「感動した本」の部屋に入れてあります。これらを読んだ人に向けて書いているので、そちらを先に読んでくださることを期待しています。

さて、今回のツアーは、エコと「軍隊を捨てた」と二つに分かれていて、前半は、エコで、モンテベルデ自然保護区を探索することになっていました。これは、かなり歩くということもあって、私の膝の状態では、不安でした。だから、パスポートを忘れたのだろうというのが、フロイド心理学的な私の「分析」です。

初めの2日間は、首都サンホセから数時間バスで行くところに泊って、雲霧林を探索するなどして、6日にサンホセに戻ってくることになっていました。私は、一行より2日間遅れで、5日の夜サンホセにつき、翌日一行と合流することができたのでした。5日夜、飛行場には、「黒岩さん」とローマ字で書いた看板を持って日本人女性が出迎えてくれていました。飛行機は、1時間以上遅れたので、迎えが来るとは聞いていたものの心配していました。だから、その看板を見たときには、とっても嬉しかったのです。「阿部真寿美です」とその方が言います。(2003年に19人のツアーで行った報告集に阿部さんは、通訳として文章を寄せていた方です)「妊娠するならコスタリカ」と書いていた方ですね。あの時の子どもさんが、7歳ですか?「そうです。もう一人生まれて、6歳のもいます」とのこと。現地の方と結婚して、タコス屋さんをしているそうですね。「明日は、うちのレストランにおいでいただくことになっています」とのこと。よくよく伺ったら、足立力也さんは、日本の福岡に住んでいるので、現地でのコーディネイトは、ほとんどこの阿部さんが、してくださっていたのでした。ツアーの一行は9人で、足立さんを含めて10人のグループです。

・最高裁判所第4法廷
 さて、一番初めに見学したところは、最高裁判所。ここに憲法裁判所があるのです。玄関でパスポートなどを提示しながら、ネームシールをもらって衣服に貼って中に入るのです。その手続きを待っている間に、メンバーの一人が、スペイン語を読んで(この夫妻は、スペインにもペルーにも住んだことがある)ここに来た人たちへの呼び掛けの看板に「user」と書いてあることを発見。裁判所を使う人、という意味ですね。この感じが日本とはずいぶん違うとみんなが納得。日本だと、「お上」からの目線で書かれているのに、裁判所と、それを使う人、という対等な感じを受けますね。気軽に使える感じがします。

いつもなら、大法廷で、説明をするのだけど、今日は審議に使われているからということで、別の部屋で女性のスタッフから説明を受けました。足立力也さんの通訳です。最高裁判所は、民事、刑事、家庭のほかに第4法廷があります。ここが違憲訴訟をするところで、ここに訴えるのは、原告適格が問われません。つまり誰でもが、訴えることができるのです。子どもでも、外国人でも24時間、電話ででも受け付けます。「違憲」というだけでなく、基本的人権を侵されたというようなことも、ここに訴えられる。だから、夜中でもそういう事態が起こりうるので、24時間体制になっている。

最高裁の判事は全部で22人。民事、刑事、家庭がそれぞれ5名、第4法廷が7人。22人のうち8人が女性。まあなんて沢山!と思っていたら、男女同数にしようと言っているとのこと。「女性が少なくて何か弊害があったのですか?」と質問が出た。この質問をした方は、会社員の夫のもとで、専業主婦をしてきた方、発達障害のある子どもさんを育ててきて、その子どもさんが、30歳になり初めて1週間も二人で家を空けたという。夫さんは、2003年に訪ねてきていて、その時の報告集に名前も文章も載っていた。「コスタリカに学ぶ会」の事務局をしている。この質問に対しては、こんな答えだった。

「スペイン語のオンブレは、英語のMANと同じで、男という単語がそのまま人間という意味にもなっている。まずは、憲法に書かれていた『オンブレ』(hombre)を『人』(persona=英語でperson)と変更した(=改憲)。そして、あらゆる分野で、男女が半々になるようにと取り組んでいるのです」

私はこんな質問をした。「訴えた案件のうち勝訴するのはどのくらいの割合か?」その答えはこうだった。「訴えが出てから、いろいろとやり取りをして、足りないことを補いながら、最後に法廷に行くので、法廷までいったものは、ほとんどが勝訴する」

でも負けたこともあった。同性愛者の結婚。私は、その当事者だったら、ずいぶんがっかりするだろうと思い、「もう一回同じことを訴えることはできるのですか?」と聞いた。すると、少し変えた形をとって出すしかないとのこと。同性愛者の結婚については、私は、いずれどこの国でも認めるようになると考えているのだが。

国会が、今作っている法案を、違憲がどうか問い合わせることもあるという。大統領は、再選できないことになっていたのだが、アリアス元大統領が、違憲かどうか調べるようにとこの第4法廷に出したら、再選されることは、憲法に違反しないという結論になり、その結果、アリアス大統領は、もう一度大統領になることができた。といっても続けてではなく、間があいている。

2003年3月にアメリカがイラク戦争を始めたときに、時の大統領が、アメリカに賛意を表明したのは、違憲であるということで、当時のコスタリカ大学の法学部3年のサモラ君が訴えて、勝訴したときには、すぐに大統領は「賛意」を取り消したことは有名な話である。この第4法廷の結論は、覆すことはできないようになっている。そのぐらい重要な役目を担っているということだ。

・国会
 二つ目に行ったところは、国会だった。後でわかったことだが、私が元国会議員だったということを伝えてあって、そのためか、今回は、与党議員も野党議員も女性の方が、説明に来てくれた。そして私にだけ英語で書かれた資料をくれた。電子辞書を引き引き読んできた。

国会は一院制で、全部で57人、そのうち22人が女性。選挙制度は、ブロック比例制で、7ブロックに分かれている。このスタイルのおかげで、地域政党が存在できるというメリットがあるそうです。今のところ8政党があるとのこと。各政党に候補者を男女交互にすることを義務付けている。

立候補できる条件は、
1、21歳以上、
2、コスタリカで生まれたか、または、コスタリカ国籍を取ってから10年経過している。

初めに話したのは、与党・国民解放党(社民主義のイデオロギーを伝統的に持っていたが、現在実質的にはイデオロギーとしての社会民主主義はとっておらず、どちらかというと新自由主義的色彩が強い)の女性議員、アリシア・バルガスさん。「わが党は、60年前にできて、その間7人の大統領を出している。軍隊を亡くしたフィゲーレス大統領は、国民解放党。そして女性議員を増やしてきたのも国民解放党。また、現在の初めての女性大統領も国民解放党」大統領のみならず、議員も再選が禁止されている。だから、4年間の任期がおわると全員が議員でなくなる。このアリシア・バルガスさんは、今は2期目で、1期目は、1998〜2002年まで。そのときにdv防止法を作った。今は、重要な二つの法案を審議している。

1、税制改革。財政赤字のために、増税しなくてはならない。
2、クリーンエネルギー資源法

次の方は、野党最大党、市民行動党のジャネットさん。「私の党は、10年前に国民解放党から分かれて、できました。それまでは2大政党だったのですが、この時から、そうではなくなりました。国民解放党は新自由主義。エネルギーでも、電力は国営なのにそれを市場開放して民営化しようとしている。そうすると地方がだめになる。クリーンにすることは賛成なのだが。それから米国との自由貿易協定も推進してきたのが国民解放党」

 出産休暇は4週間で、育児休暇はなく、育児時間が1時間。このジャネットさんは、私たちからの質問に答えられず、この育児時間については、国会職員の方が答えた。

その後、国会職員の男性が、いろいろと説明をしてくれた。1882年に死刑が廃止されたのは、その時の独裁的な大統領が、妻の誕生日プレゼントとして、彼女が一番ほしいものを上げるといい、それが、死刑廃止だったからとの逸話があること。大統領が死刑になることもあったりしたからかもとの話だった。

市民が法案を提出することができるとのこと。作った法案を全議員に配り、だれか一人でもそれに賛成の議員がいれば上程されるとのこと。高齢者対策は、そのようにしてできたという。

国会議事堂というのが、ちょっと豪華な普通の民家のようなところだった。57人が審議するところは、ちょっと大きな教室みたいで、楕円形の席が並んでいる。自分の席で発言するようになっていて、日本の委員会室のようだった。その両側が、ガラスで仕切られていて、片方がマスコミ席、もう片方が、傍聴席となっている。

最近は投票率が低くなって困っているとのこと。去年は大統領、国会議員、地方議員の選挙だったが、投票率は60%。以前は80%を超えていたとのこと。そのわけは最後に分かった。

・女性省
 1995年の北京会議の後に、政府が女性省を作ると宣言しました。その昔「文化庁」の中のあった民間のNGOを「女性問題研究所」という名前にして、それを女性省にしたということでした。

ここは、元議員が行くということを聞いたら、説明をすると決まった人が辞めて、何人かが辞退して、だれが説明するかわかっていない、という状況で行きました。結局その日は戦略局の女性が説明をしてくれました。職員は、全部で、162人、運転手とか、限られたところ以外はすべて女性で、それが96%を占めるとのこと。

いちばん興味深かったのは、親権責任法というのができたということでした。1998年のこと。これもどうやら、1995年の北京会議の成果なのでしょうね。女性が妊娠したときに、父親を指名できる。ということになり、指名を受けた父親がそれを否定したときには、DNA鑑定をする。父親だということになった男性は、生まれてからの養育費を出す。というものです。この法律のおかげで、ずいぶん男性に対する女性の力がついたといいます。

このことを日本の人に話すと「それって当り前じゃないの?私たちいつでも父親の名前を書いているわ」と言われます。それは、日本のように「結婚した両親をもつ子どもがほとんどだという国」でのことでしょう。ヨーロッパをはじめ多くの国では、結婚しないで生まれる赤ちゃんのほうが多くなっているのでは?

とくにコスタリカのようにスペインの影響下にあった国では、カトリックの習慣で中絶ができないので、とっても若いお母さんも誕生しています。そんな中では、この法律が大きな意味を持つのですね。

私の娘たち3人とも、別姓事実婚です。とっても愉快なことがあります。別姓夫婦の子どもたち、今のところはすべて、父親の姓を名乗っています。その孫の一人が、幼稚園に行くようになって、こういったというのです。「○○ちゃんてば、お母さんとおんなじ名前なんだよ」母親と子どもの名字は違うものと思い込んでいたのでしょうね。子どもって、自分の家のなかが、常識だと思っているのですから当たり前。さらにうちの孫の一人が、中学の入学試験で、「結婚した夫婦は、同じ名字」というのにバツを付けて間違えてしまったのだそうです。実際彼のおばさんおじさんが、違う名字なのですものね。

去年女性大統領が誕生して、「家族大臣」というポジションを作ったとのことでした。「父子家庭は?」と質問した私の答えて、「女性とは関係がない家族の問題に取り組む部署として作ったとのことでした。

・お二人の話
 次の報告は、最後の日に話を聞いたお二方のことです。

 一人目は、コンスエロ・バルガスさん、小学校の女先生をずうっとしてこられて、今は、その小学校の中にある幼稚園の園長先生です。足立さんの本の中にも登場するので、再会した気分でした。

バルガスさんの学校は、ニカラグアからの難民がどっと押し寄せた地域の学校なのです。両親がいなかったり、いてもとっても貧乏だったり、なにごとかが起こらないほうが不思議というぐらいの地域です。若者たちは麻薬におぼれます。ここで平和文化教育、に取り組むのです。理念をずうっと語られていて、私は眠くなりました。ノートが無意識状態の線があるのみで、とれていません。話が終わってから、「具体的なことを聞かせてください」と言いました。すると驚きました。この国の教育は3部制です。朝7時から、夕方までどの先生も抜けることなく、授業にあたります。「あなたは幸せか?」という問いを授業の中に埋め込んでいきます。それが、平和文化教育。

マレーシアに行った時、この国は、二部制で、午前と午後に分かれていて、先生も、午前の先生と午後の先生がいるのでした。だから、午前の先生は、午後はほかの仕事をしていたりしました。ところが、ここコスタリカは、同じ先生が3部すべてをやるというのです。よほどの覚悟と体力がなくてはできませんね。それには、「理念」が必要なのだと足立さん。「具体的なことを話しながら、理念に持っていったら」と私が言うと「それではだめなのです。日本はそれですが、欧米は、とにかく理念をしっかりと立てなくては」フランスでは、高校生に哲学を教えているそうですから。なるほど、とうなづきました。

子どもたちが遊べるスペースを作ったり、クリニック、図書館、老人ホームなどを政府に作ってもらった。麻薬の若者たちに対しても「幸せか?」で詰めていった。2時間ばっちり講義をしてくださったのに、途中転寝をしていて、報告がこれだけしかできないのが現状です。

「平和をつくる教育」(岩波ブックレット)参照。

次の講義は、とっても興味深かった。
 コスタリカ大学法学部3年の時にイラク戦争に加担するのは、違憲であるということで、訴訟を起こして勝訴したサモラさん。今は、弁護士になっています。

イラク戦争に加担することは、違憲であるという判決の中に「平和に生きる権利」という言葉が出てきて、これが、判例として定着したことに大きな意味がある。

サモラさんはスペイン語で話す。足立さんが通訳するのだが、スペインやペルーでの生活をしてきた、宮島夫婦は、スペイン語を理解しているので、サモラさんが話した直後に笑ったりうなずいたりしている。ところが次第に二人とも反応をしなくなっていった。それがなぜなのかは、最後になって分かった。サモラさんの話がいつものような方言というか、砕けた言葉になっていったので、足立さんには通じても、宮島夫婦には通じなくなっていったのだった。そういう言葉になってからの話が面白かった。

「政治腐敗」というので具体的に聞いてみたらびっくりした。まずは、現大統領の夫が、スペイン人企業家で、アリアス大統領の二期目に、鉄道を敷いたのだが、このスペイン人企業家から、列車を買った。ところが、広軌なのに狭軌のものだった。したがって、開通式の時に脱線した。アリアスと現大統領は、同じ政党で、現在は与党。

 また、最近、高速道路ができたのだが、できて2カ月で大穴があき、今もなおっていない。「盗人だ!」とサモラさん。民主主義というものは壊れやすい。メディアもどうしても政府寄りになっている。という。
サモラさんの話を聞いてやっとコスタリカの実像が見えてきたという気がした。

彼は、その後も一人で、自由貿易協定を結んだのは違憲だと言って提訴している。2008年には「核開発を認める」決定をしたので、これも違憲訴訟を起こしている。誰も後押しをしない。どこかで何かされそうで、なるべく出歩かないようにしているという。そこで聞いてみた。「弁護士としてクライアントは来ますか?」すると苦笑いをするサモラさん。足立さんの答えはこうだった。「弁護士というのが日本と違って、司法書士でもあるし、行政書士でもある。文書を書いてくれというような依頼はいくらでもある」とのことだった。

国立こども病院は、ここに直接かかるのではなく、全国の診療所や病院で、手に負えない子どもたちが、医療機関の紹介状を持って訪れるところでした。1954年のポリオが大流行し、手が足りなかったために、こども専門の病院を作ろうという話が、合意されることになりました。出来上がったのが、64年です。

中に入ってみると、たくさんの親子連れ。この子たちがみんな難病を抱えているのか、と思いをはせてみる。新生児室をガラス越しに見たら、そこには、どぶねずみぐらいの大きさの赤ちゃんが、ガラス器に入って、手足をバタバタさせていました。となりの赤ちゃんは、普通ぐらいに大きいのですが、静かに眠っているだけです。この赤ちゃんと比べて、ネズミ赤ちゃんは、本当に元気で、バタバタ動き続けていました。このまま元気で行けるのだろうか?この子の将来に思いをはせました。

国立だと言いながらもお金が足りなくて、募金を求めていました。私たちは、それぞれお土産を持って行き、私は、折り紙を子どもたちと一緒にしようと思っていたのだけど、時間がなくて、説明してくださった方に渡してきました。募金は、全体の中からそれなりのものを出してきたようでした。

・国立こども病院
 国立こども病院は、ここに直接かかるのではなく、全国の診療所や病院で、手に負えない子どもたちが、医療機関の紹介状を持って訪れるところでした。1954年のポリオが大流行し、手が足りなかったために、こども専門の病院を作ろうという話が、合意されることになりました。出来上がったのが、64年です。

中に入ってみると、たくさんの親子連れ。この子たちがみんな難病を抱えているのか、と思いをはせてみる。新生児室をガラス越しに見たら、そこには、どぶねずみぐらいの大きさの赤ちゃんが、ガラス器に入って、手足をバタバタさせていました。となりの赤ちゃんは、普通ぐらいに大きいのですが、静かに眠っているだけです。この赤ちゃんと比べて、ネズミ赤ちゃんは、本当に元気で、バタバタ動き続けていました。このまま元気で行けるのだろうか?この子の将来に思いをはせました。

国立だと言いながらもお金が足りなくて、募金を求めていました。私たちは、それぞれお土産を持って行き、私は、折り紙を子どもたちと一緒にしようと思っていたのだけど、時間がなくて、説明してくださった方に渡してきました。募金は、全体の中からそれなりのものを出してきたようでした。

・おわりに、いろいろ
 最後の日にお二人の話を聞いたところは、Hoy Si Antojeria(オイ スィー アントヘリーア)という名前のレストランでした。hは、サイレントなので、これをローマ字読みすると「オイシイ」となります。空港まで私を迎えに来てくれた阿部眞寿美さんとコスタリカ人の夫君が経営しているところでした。Hoyは「今日」Si[yes」です。

コスタリカの食べ物は、主食は、米で、それに黒い小豆のようなものが煮てあってかけてある場合もあるし、コメに混ぜて炊いていることもありました。長粒米なのですが、この豆との相性が良くて、日本人には、なじみやすいです。大きなお皿にいろいろなおかず(野菜がたくさん)と一緒に御飯が盛りつけてあって、これは、ブルキナファソと同じでした。

コーヒーは、香りがよくて、苦みや酸味がないのが特徴で、お土産はこれだけでした。

生物多様性研究所ということろに行って、10年かけて造られたたくさんの種類の動物たちが住んでいる森の中を車いすを押していただいて回りました。着いた翌日だったので、まだ歩く自信がなかったのです。ツアーのメンバーがかわるがわる押してくれました。「怠けもの」をたくさん見ましたよ。本当に動かないで、木につかまっているだけでした。1週間に一度だけ下に降りて、排泄をするのだそうです。鳥や、植物が見たこともない種類がたくさんでした。イグアナが、たくさんいるし、ワニなんかも私たちが歩く道を歩いていたりします。

ここは、半官半民というか、どちらかというと国からも補助金をもらっているNGOそうです。
 だんだんに歩くことに自信が出てきて、最後の日は、30分ぐらいサンホセの街を散歩しました。杖も要らなくなりました。何回かつえを忘れそうになったけど、仲間がだれか注意してくれて、持って帰ってくることができました。そして、帰ってからは、歩くことには、自信が出てきて、階段だけは、用心しながら、平らなところは、普通に歩くようになりました。一緒にいって世話をしてくださった皆さんに深く感謝しています。ありがとうございました。


http://auxchampsde.jugem.jp/

小沢陽子さんのブログですが、写真がたくさんあって、また、解説もなかなか
素晴らしくって、ぜひ皆さんにものぞいていただきたいと思います。





「玄牝」(げんぴん)映画鑑賞

     2011,1,30    於、十日町シネマパラダイス

大雪の中、峠を越えて十日町シネマパラダイスまで見に行ってきました。

 鈴木智子さんと行く約束をしていたのですが、30日こそ本当に大雪だということで、智子さんは、運転したくない。という「じゃあ私が運転する」といってもそのほうがもっと怖い智子さん「電車で行こう」

そこで私は、夫を誘いました。このところ若い医者が来てくれているために、土日の仕事がかなり軽くなっている卓夫は、行くというので、智子さんと大喜び。じゃあ運転はお願いできるのね。はい。というわけで、前日その約束ができました。ところが当日の朝です。本当にすごい降り!卓夫が辞めると言い出す。「それは困るわよ。智子さんがとっても喜んでいるんだからさ。」そこで私が出した譲歩案は、「行くべき往診に私たちも付き合うから、行ってよ」ということでOKになったのですが、智子さんに「少し早く行く」と電話しました。その電話を切った途端智子さんの娘さんはこういったといいます。「やっぱりいかないといってきたでしょ?」「行くんだって」とびっくりさせたそうです。

いやいや実際に道路はすごくて、峠越えは、命からがら状態。

この映画は、河瀬直美監督自らカメラを回し、インタビューもするドキュメント映画。対象は、愛知県岡崎市にある吉村医院。うっそうと茂る森の中にある江戸時代の旧家。その中で妊婦さんたちが生活している。大きなおなかで、まき割り、鏡戸を上下に拭くなどの労働をしている。骨盤を広げるためだとか。スクワットという運動に似ている。赤ちゃんが生まれ出るところもあるが、「おなかの赤ちゃんの心臓が止まっている!」と泣き出す妊婦も。「生まれることもあれば、死ぬこともある」と吉村先生。ひげのおじいさんだ。

妊婦さんたちが語り合っているシーンがたくさんある。その中の一人は、「妹は、一度来たけど、この雰囲気になじめないと言って、よそに行った。」と発言する。もしかしたら、吉村正さんが教祖となっている新興宗教のように感じるのかもしれない。助産婦さんも言う。「ワンマンというか、私たちの言う事を聞いてくれないこともある」よそに住んでいる娘が言う。「パパは、妊婦さんたちには優しいけど、私たち家族にはそうではない。もうしばらくはここに来ないことにする」「そういうことは分かっているけど言わないでくれ。」と吉村先生。

出産のシーンは、何回見ても感動的。喘ぎながら出てきた赤ちゃんを抱いて「ありがとう」と繰り返す人。二番目の出産は、上の子どもが立ち会っている。お母さんが、苦しんでいるのを見て、泣いている男の子。お母さんの顔の汗を拭いてくれている女の子。「赤ちゃんが生まれてうれしいね」と語りかける女の子。子どもにとっては、ものすごいインパクトだろうと想像する。分娩室は、どこにでもあるような分娩台で、仰向けになって産んでいる。

「命からがら見た映画だったけど、それだけの価値はあったね」と言いながら3人で、また命からがら峠を越えて帰ってくることができた。運転してくれた卓夫に深く感謝した。

ここの存在は昔から知っていたので、私はぜひ見たかったのです。「分娩台よさようなら」の著者大野明子さんが、実習をしたところがこの吉村医院です。この本に影響されて、帆姿は、助産院や、自宅で出産したのでした。帆姿は今、看護学校に行っていて、助産師になったら、こっちに戻ってきて、萌気園で、助産師として働くということを夢見ています。だから、卓夫にとっても深く関心があるテーマだったのでした。

大野明子さんも東京杉並区に「お産の家」をたてて、自宅分娩ができない環境にある人に提供しています。ここでは、分娩の時の体の形は、さまざまで、仰向けになる分娩台はないようです。「重力に逆らって出てくる」というのが分娩台とサヨナラをする理由です。

それにしても、この日はこの冬一番の降りでした。 

 


 

講演会「発達しょうがいが織りなす豊かな世界」

2011,1,29  社会福祉法人りとるらいふ理事長 片桐公彦さんによる

29日()は夢草堂で、「発達しょうがいが織りなす豊かな世界」という片桐公彦さんによる講演会でした。その日も雪の影響で来られなかった人もあって、30数名というさびしさでしたが、みなさん聞き入ってしまって、終わっても誰も立ち上がらないという状態でした。

まずは自己紹介から。

 千葉にある淑徳大学の野外教育のゼミで学んだとのこと。精神科のソーシャルワーカーを3年経験した後、フリーター、スキーのインストラクターののち上越市役所の相談業務を9時から4時までのパートとして勤務。家族全員がそろう夜の時間に家庭訪問をしてはいけないと言われ、「自分には公務員は合わない」と思い、1年でやめて、りとるらいふを始めた。障害を持っている子どもたちとキャンプをしたりして、子どもを預かって1時間700円もらう。それは家賃や、必要な家具などに使い、職員は、はじめは無報酬。そののち委託の仕事などもらえるようになって、今では、50人の職員がいる社会福祉法人になっている。大学生などのボランティアが、300人登録してくれている。第4銀行から1億円の借金をして、去年社会福祉法人になった。35歳の理事長は、全国でも一番若い。

発達障害についての誤解。

 育て方が悪いとか、しつけができていない、というのは誤解。家庭のせいでもしつけのせいでもない。病気ではない。関係者は、「病気」という言葉に気をつけよ。「治る」ことはないが、状態を改善していくことはできる。

「みなさん、僕がやることをまねてください」と言って手を挙げてバイバイをする格好をする。みんなそれぞれ右手や、左手を挙げる。彼が言う。「あ、みなさん違います、一番後ろの方一人だけが正しい」片桐さんは、手のひらをこちらに差し出している。私たちも手のひらを前にむける。でも発達障害の人は、手のひらを自分のほうにむけるのだそうだ。つまり、片桐さんと同じ格好をするということが、発達障害の人にとっては、手のひらを自分のほうにむけるということになる。

「廊下のカレンダーをはがして」と頼むと「どこにもなかった」と言って帰ってくる。ローカと言われたから、床を見ながら歩いていて、壁を見ない。順番を守れないのは、列を作っているという全体を見ることができず、自分のいるところだけしか見えないためである、などたくさんの例を示された。

「空気が読めない」「抽象的なことはわからない」本人にとっては、とっても住みにくい世の中なのだ。

耳からよりも目からの情報のほうが処理しやすい。音がたくさん入ってきて混乱する人には、イヤーマフという耳栓様のものをつける場合もあり。片桐さんが見ている人で、もっと早くにそのことに気がつけば、今のようなことにならないで済んだと反省の弁を述べていました。「今のようなこと」というのは、音が大きく入りすぎるので、それ以上の大声を出し続けて、動き回るのだそうです。

注意欠陥多動障害(ADHD)というのは、自分のことだと言った後「黒岩さんもそうでしょ?」「そうなのよ、本当に」と私。この名前を聞いてから、私は、それだ、と確信したのです。「心の中に情報をためおくことができない」まさにそのとおり!言っていいことと悪いことの区別がつかないのです。

せめて、小中学校の時代には、地域の普通学級に入って友達と一緒にお祭りに行ったというような体験をさせてあげたい。上越市では、今、養護学校に行く人が減って、どんどん普通学級に入っている。高校になるときに養護学校に行くのは仕方がないかも、と。

最後に、障がい者アートの世界を見せてくれました。りとるらいふの日中活動の場には、アトリエがあって、そこでいろいろな芸術作品ができている。作品を見せていただけました。

会場からは、たくさんの質問や、意見が出され、南魚沼市の教育部長南雲権治さん、南魚沼市の障害者相談支援センターの白井さんなどの紹介もして、片桐さんは、次の仕事で、2時間が過ぎたら長岡に立っていかれましたが、なかなか話が尽きない人たちで、茶話会をしました。今度桐鈴会で作る障がい者部門の責任者である星野淳子(現桐の花管理者)とその娘の若井美由紀が、日中活動の場で働くことを皆さんに紹介することができました。この4月にオープンする浦佐認定子ども園の園長坂西美和子と副園長の小幡裕美の二人と、子ども園の年長さんに入ることになっている二人の発達障がい児の母二人を引き合わせることもでき、入ってから、「加配」の保育者をつけることなどについて話し合われて、有効な懇親会となりました。

しかし今日の一番の収穫は、昼食をとりながら、鈴懸施設長広田セツ子と二人で、片桐さんから、日中活動の場についていろいろと教えていただけたことでした。

その後片桐さんからこんなメールが来ました。

>昔、自分が遊んだ場所で講演をするというのはなんだか感慨深いモノがありました。

 これも、本当に縁だなあという気持ちを持ちながら、お話をさせていただきました。

実は、夢草堂というお寺が、片桐さんの出身部落(上越市旧吉川町国田)のもので、初めて来たときに「これ、僕が小さい時、遊んでいたお寺だ!」と言って私たちを驚かせたのでした。なんだか「赤い糸」でつながっていたようなのです。

片桐さんは、りとるらいふで活動を始めるときに二つのことをあきらめた。それは、親の死に目に合うことと、結婚すること。ところが1年前に仕事上のパートナーと結婚し、その一つが崩れた。という話を結婚式に招かれて、本人のスピーチで聞いた。そのあと、親から、責められたとのことでした。






円より子講演会

          2011,1,28     於、国際大学

28日は大雪の中国際大学で円より子さんの「これからの政治と経済」という講演会がありました。まあ! 参加者の少ないこと! 申し込みは50人を超えたというのに、30人に満ちなかったようです。やはり雪の中を出て行くのは億劫なのかもしれません。

このオープンセミナの主催者は、信田智人さん。国際大学の政治学の教授。信田さんと円さんは、

ずいぶん長い付き合いだとのこと。

円さんは、「女性のための政治スクール」を18年関してきて、今年になって、田中秀征さんを講師に呼んだ、というところから話し始めた。「会うなり私に『まだ民主党をやめないのか!』だったの。そして菅さんは、秀征さんが政治の世界に引っ張り込んだ人だというのに『菅を早くやめさせろ』というの。『旗印を持たない政党には政治はできない。菅はなぜ支持率が落ちているのか分かっていない』って」「私も落選中だけど、バッチがあったころと同じように民主党の中でもいろいろ意見を言っている。やはり民主党を愛しているから」と言いながら話を続けました。

「老人のための政策ばかりが進んで、子どものそれが進まないのは、子どもに選挙権がないから。

だから、子どものいる親にそのぶんの投票権をあたえたらどうか」 と先に出版した「女と通貨と政治文化」に書いてあったので、私は質問した。「その意見は支持を得ているのか?」「全然支持されない」が答えでした。

「私は大賛成です」と言いました。

農業政策についての質問にこたえて、「TPPについては、党内議論を経ずに菅さんが言いだしたこと。私は慎重派。アメリカ以外、中国もインドも大きな国は入っていない。入ることのメリットが少ないと思う。私は、内需拡大という時、中国やインドも含めたアジア全体を内需と考えたらいいと思っている」とのことでした。

終わってから、駐車場まで一緒に歩いた。「仙石さんが、浦佐にはよく来るんだって」というと、信田さんも円さんもとっても驚いている。「フォレスト」っていうイタリア料理店に官房長官のときにもSPと一緒に来たそうだ。「そんなおいしいところがあるの」と二人ともびっくり。円さんとは、WINWINで一緒に活動しているので、私がいったらとても驚いていた。「こんな所に住んでるの?」と。浦佐に降りたのは初めてだという。

円さんは、女性として初めての財政金融委員会の委員長をしたり、女性のための政治スクールを主催したりと、活躍してきたのに、誰も彼女が落ちると思っていなかったので、安心が落選につながったらしい。

 

 

 

重度の障害者の親御さんたちとの話し合い

       2011,1,27      於、鈴懸相談室

 

27日は、大雪の中、重度の障がい者の親御さんたちが7人、鈴懸に来られて、今度新しく作ることになっているGHCHの管理者になることになっている星野淳子と二人で、話を伺いました。小千谷から3人、魚沼市が1人、後の3人は、南魚沼の方々で、魚沼の方は子どもさんが小さい時からよく知っている方ばかり。

7人のうち、子どもさんが女というのは一人だけ。また、子どもさんが話ができるのも一人だけ。その方たちから、自己紹介という感じで、子どもさん(ほぼ全部20代)の今を語っていただきました。18歳までという施設にいる人は、もう年齢が高くなっているのだから、どこかに出るようにと言われ、具体的に行き先を示されたので、そこを見に行ってみたら、10人ぐらいの部屋で、ほとんどの子どもたちが、「縛られている」状態で、びっくりして帰ってきたという。

子どもが小さいうちはよかったけど、大人になったので、重たくておむつを替えるのも容易ではない。親も年をとってきて(40〜50代)腰が痛くて、という。ほとんどの人が、昼間はデイサービスに行っていて、夜は自宅で見ている。昨日も、3時過ぎには、「子どもが帰ってくるから」と言って帰って行かれた。

この日のただ一人の女の子は、小学校に入ったばかりの頃、目が見えない、耳が聞こえない、という感じで、養護学校の先生は、その子に「立て」と命令するのに、なんと髪の毛を引っ張って立たせていた。それを同僚の先生が、お母さんに教えてくれたということがあった。ここまでは私も知っていたのだが、その後、その先生が難病にかかって入院した。退院してからは、人が変わって、まったく穏やかな「いい先生」に変身したとのこと。

帰ってから、桐鈴会の評議員で、この集まりを設定してくれた井口美賀さん(最重度の健彦君の母)からこんなメールが届きました。

>今日はお忙しい中をありがとうございました。

集まってくれた人たちは、みなさん、子どもさんとの生活をもう親の限界ぎりぎりでがんばっている感じで、切実に伝わってきました。

今回は、今の大変な状況をおもに話してもらえましたがまたそのうちに、ケアホームでどういう生活をさせたいかなど聞けたらいいなと思います。こちらからも、お金のことや日中活動など、具体的なことがらを話せるようになっているかもですね。

星野さんの気持ちがとても共感できて、また、預けるほうとしては安心できて感動して聞いていました。どんな障害でも、その人なりに満足のできる生活ができたら、健常と言われながらも不自由な思いで毎日を送る人生よりどれだけ幸せかと思います。

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というわけで、この会合は、この日が第1回で、今後続けていく気配です。





隣の畑を購入して施設を二つ新築します

2010,12〜2011,1

桐鈴会の隣の畑360坪を購入して、そこにしょうがい者施設を建てること、こんなことがトントンと運んでしまって怖いくらいです。

ケアハウス鈴懸と、GH桐の花が、鍵の字に建っているのですが、その鍵で囲まれた部分は、畑になっています。ここは、3人の人たちが借りて、畑として使っています。そのうちの一人が、つい先ほどまで、桐鈴会の評議員をしてくださっていた森和夫さんです。

 今年の初夏のころです。畑で森さんに話しかけてみました。「この畑を借りるとか、売ってもらうとかいうことは可能かしら?」いや、畑はどこにでもあるから、ここでなくてもいい。地主さんにお願いしてみたら? というので、地主さんの連絡先を聞いて、交渉を始めました。すると、貸すよりも売りたい、というではありませんか?

そこから値段交渉のため第3者に入ってもらって、この秋に値段を示され、こちらも了承をして、購入することになりました。福祉施設は、建物については様々な助成制度があるのですが、土地については全くないので、自前で用意しなくてはなりません。ところがありがたいことに助成金が出る建物を造るということが分かっている場合には、土地の取得税が、掛からないのです。そのおかげで、地主さんが、手取りとしてほしいと言われた額が、そのままこちらが用意する額なのです。

その上、驚いたことに、地主は、300坪だと言っていたのに、間に入った方が、測量してみたら、360坪あったのです!

 だから、300坪の値段で、360坪いただけることになってしまったのでした。

さて、それからがいろいろと大変です。まず、農業委員会に用地転用(宅地に変える)を申請する。国と県に助成金の申請をする。この二つが、どちらも、相手の認可が前提なのです。用地転用ができなければ、助成金の申請はできない。逆に助成金が下りたという証明がなければ、用地転用はできない。ここを突破するには、こんな「解」があることが判明!

助成金によらないで、自前の資金で、建てられるという資金の融資を受ける証明によって用地転用を突破する。ということで、これから早速農地転用と、助成金の申請、に取り掛かります。

この土地に建てる物は、重度の人が夜とまるケアホーム(CH)と、しょうがい者が日中過ごす場(重度の人には、デイサービスの場、軽度の人には、就労継続B型)の二つです。CHには、新築の場合2500万を上限とし、半分は国、4分の1は県、残りが、自分持ちです。日中活動は、20人以下ならば、4160万を上限として全額出ます。この日中活動の場というのは、旧大和町地域に一つもないという現状のため、市のほうから、ぜひ作ってほしいと頼まれているものです。

12月7日は、桐鈴会の役員会の後、職員たちとの合同で忘年会でした。ここで顧問という肩書になった卓夫が、最後の締めをしたのですが、その時にこんな発言をしました。「今日は、鈴木要吉さんの乾杯の音頭が聞けてとてもうれしかった。要吉さんが、僕の選挙の後、町長にならなくてもできることをしようといって、450坪の土地と5000万の資金を提供してくれて、桐鈴会(450坪の土地に大きな桐の木があった。それが名前の由来)ができた。もともとしょうがい者のことをするということで集まっていたのに、とりあえず高齢者のことから始めたというのが現状で、今やっと入り口に立つことができた。これからが始まりです」実は、鈴木要吉さんは、かなり認知が進んできていて、この秋、入院して帰ってくるときに一人暮らしは無理だとご本人が観念して、鈴懸で暮らすことを選択しました。といっても「空き」がないためにその時は、ショートステイで、入居待ちをしていたのですが、入居者の皆さんも要吉さんの存在を歓迎しており、要吉さんも、カラオケなど、行事があるたびに参加して、場を盛り上げていました。要吉さんの元気な乾杯の声が聞けるのも、もしかしたら最後になるかもしれないという思いもあって、卓夫がこんな発言をしたのでした。みんなで要吉さんへの感謝をこめて終わりとした忘年会でした。

その後、鈴懸の部屋が空いたので、要吉さんは入居者となっていますが、ショートステイの部屋が、ご自分の家の隣のために「同じ景色が見えて、本当に自分の家みたい」と気に入っておられたので、ショートステイの部屋を空いた部屋に移して、要吉さんは、そのままそこに住んでいただいています。

翌朝から早速二つの新築する建物の設計コンペの説明を業者にして、とりかかりました。設計師には、すでにできているCH、日中活動の場を見てもらおうということで、12月21日(火)には、見学に出かけました。

 来年4月にオープンすることになっている古家を改造したGHには、水落幸子さんが入るから、ここは女子寮にする。と決めていたのですが、鈴懸の隣の畑に来年度CHを新築することになっているので、そっちに入ってもらって、今度のGHは男子寮にする、ということを考えつきました。そこでまずは、水落さんの家に行って、1年遅くなるけど、新築のCHに入ってもらうのはどうか、と幸子さんもいる(月曜から金曜までは、魚沼厚生園に住んでいる)月曜日の朝訪ねて行ったのでした。幸子さんは、すぐに納得してくれて、それでは次が世話人です。実は、このGHの近くに住む男性が二人世話人をしたいと言ってくれていたのですが、女子寮だからということでお断りしていたのでした。二人に連絡をしたら、二人とも乗り気です。

そこで、21日(火)に新築するCHと日中活動の場を設計してくれる設計士の人に、すでに存在するこれら二つの建物を見学に行こうと誘ってあったので、この二人の世話人候補も誘ってみたら、二人とも行くといいます。また、日中活動の場の職員になりたいという若手二人(男女一人ずつ)も行くといい、障がい児を子どもに持つお父さんが、新潟フォーラムで一緒になったので、話したらいくといい、設計士二人と8人で、見学に行きました。こしじ工房で、働いている障害者の様子をまず見てもらい、ここは実にたくさん(80人ぐらい)の障害者が、毎日通ってくるところです。みんな客が来ることをとても喜んでくれる感じがしました。質問をすると実に丁寧に答えてくれるし、自分たちの作業を教えてくれて、一緒にやらせてくれる人もあります。世話人になろうとする二人の男性は、障がい者との付き合いがほとんどなかった人たちみたいで、興味しんしんの感じでした。日中活動の場の職員になりたいという人たちは、一人は、すでにそういうところで働いた経験がある、もう一人は、重度の障がい者を兄に持っています。

次に案内してもらったのは、こしじ工房が、運営するCH。ここはやはり8人で、今年の8月に見学に来ています。そのときには、「来年作ろうと思ったのに、今年作ってくれと言われて8月にオープンした」ということを聞いて、それならうちでもということで頭がいっぱい。せっかくの見学なのにあまり見もせずに帰ってきてしまっていました。今回は、設計士の二人が、長さをはかったりしながら、いろいろと質問してくれたので、かなりちゃんと見ることができました。このCHは、重度の人4人が、下に、軽度の人3人が、二階に住んでいます。昼間なので、みんな日中活動の場に行ってしまっていて、入居者とは会えなかったのですが、説明を受けて世話人候補が驚いていたことがありました。それは、重度の人で、20年間精神病院に入院していたという人のことです。知的障害者の多くは、たぶんその生活しにくさから、ストレスがたまって、躁鬱病とか、統合失調症などになる人がたくさんいるのですが、これまで精神病院に入院していたという人と接したことがなかったら、驚くのでしょうね。

最後に、小出の町中にあるケアステーションという重度の人たちのデイサービスに行きました。この日は、3人だけ。そのうちの一人は、生まれたばかりという感じの赤ちゃんで寝ています。説明によると、生まれた時から、乳を吸うという動作をしない赤ちゃんだということで、鼻から管を入れて、胃袋に直接食物を入れているとのこと。眠っている赤ちゃんの顔は、どこかが悪いという感じがしなくて、顔色もよくて、すやすや寝ているという感じでした。今、5カ月だけど、そのうち動かさないでいる手足が、硬直してしまうだろうとのこと。どんな赤ちゃんでも生まれてきたら、お乳を吸うのだと思っていたら違うんですね。食道とかの問題ではなく、指令を発する脳、の異常だということでした。後の二人は、それぞれ、テーブル付きの椅子に座って、食事介助を受けながら、昼食を食べているところでした。その昼食は、十日町にあるお弁当屋さんが、刻み食とか、ミキサー食とかでも注文に応じてやってくれるところがあるとのことでした。

22日は、GHの改造工事の入札でした。私は初めて入札というものを見ました。六日町の本庁舎の2階で、毎週行われているというもので、前日一緒に見学に行った設計事務所の方も来ていて、会場まで案内をしてもらいました。20数人の工事のほうの方々と、私たち桐鈴会の3人だけ(あとの二つは、どうやら市役所が発注しているらしい)。入札は、全部で3つあり、3つの箱にそれぞれの値段がはいった紙を入れます。全部が入ったら、市役所の人たちが、それを見て、10分ぐらい待っていたら、結果の発表でした。桐鈴会のGH改造工事については、二社が出しただけのようで、480万で一社が落札。大和町一の土建業者、島田組の子会社で、創建というところでした。いつも評議員として文書作りをやってくれている鈴木智子さんの夫が勤めているのが、島田組の不動産屋さんなので、ちょうどいいかな。そして、その会社と工事現場がとっても近い(歩いて5分かからない)ということもありがたいことです。3月3日の浦佐のお祭りが終わってから、着工して、4月1日にオープンということになります。

かくて、桐鈴会として、初めてのことになる障がい者部門が、一斉に活動開始となります。





わいわいフォーラム

2011,1,13     於、小出町ボランティアセンター

13日は、午前午後を通して研修会があり、孫は、シッターさんにお任せして、朝、鈴懸と桐の花の打ち合わせに参加した後、隣町小出のボランティアセンターに行きました。魚沼市のしょうがい児の親が作る「虹の会」主催の「わいわいフォーラム」という集会でした。午前中は、福岡寿さんの講演、午後は、3人のシンポジウム。「これからの福祉の話をしよう」というのがテーマです。

福岡寿さんの話は、いつもながら楽しい中に大事なことが含まれている話でした。長野県のコロニー西駒郷を解体して、それぞれの地域にGHCHを造ってきて言うには、「もうそういうものを作るということは古くなってしまった。その中身の問題だ。そして今では、施設から地域へ、ではなく、施設も地域の中にあって、地域が利用していくもの」そう言われても、まだこの地域では、GHCHを作ることが初めて、なんですよ。と言いたかったけど、ここは黙っていました。でも、次のように言われた時には、ついつい発言してしまいました。「建物を建ててから、入る人を決めて、できた所に入る、というのではなく、初めに入る人を決めて、その人にとって必要なものを建てていくことだ」「でも、建物を作るときには、助成金をいただくために設計図を出さなくてはならず、建物が建ったら、初めに職員を決めて、最後に入居者を決めるという順序になりますが、どうすればいいのでしょう?」それの答えはこうでした。「制度としてそうなっているので仕方がないけど、入居者の思っていることをどれだけキャッチしていけるかがカギですね」今までずうっと施設の中で、言われたことをそのとおりにすることがいいことだと思わされてしまっている人たちが、本当はこれがしたい、ということが言えるようになることが問題だということ。

実は、今度作るGHの名前ですが、「ひまわり」となっています。これも入居者の皆さんがそろったところで、違う名前にしたいということであれば、その時点で変えるということも考えてもいいのでは? と考えていたのでした。

西駒郷は今、149人になったが、最終的には、80人は残るだろうというので、その80人というのはどういう人? と聞いたら「触法障害者」とのこと。実際に福岡さんの地域で、刑務所から戻ってきた人が、地域の人たちになじめなくて、西駒郷に入ってもらったことがあるという。でも、3年後には戻れるようにその人の支援会議を続けているとのこと。そのようにして、地域が、施設を利用することがありうるということでした。

午後は、関係者3人のうちの一人が、桐鈴会のヘルパーを使ってくれている山内俊博さんでした。桐鈴会でも話してもらったことがありますが、彼の話は、胸に響きます。彼が言うには、24時間のヘルパー体制があれば、一人暮らしができるんだけど、今は、1日6時間平均しかヘルパーが来られない。新潟市に行けば、24時間に近いサポートが可能なので、そちらに行って自立生活をしようかと考えている。というので、私が、会場から発言しました。「山内さんは、桐鈴会で、脊椎損傷について話してくれ、ヘルパーたちは、とっても良く分かって感動したのですが、そのようにして、あなたには、魚沼に残って、この地域を耕していただきたい」とラブコールを送ってしまいました。でも、もしかしたら、彼には、気の毒だったのかもしれない、と思い直しています。

この日の司会をした井口美賀さん(桐鈴会の評議員)が、最近、重度障がい者である息子の健彦君のために親の家をバリアフリーに改装したので、帰りにそこに立ち寄って見せていただき、また、健彦君を育てる中で大変だったことなどを話していただいて帰ってきました。夜寝ないで、声が出るので、アパートにはいられず、夜中じゅうドライブに連れて出ていて、両親が、ダウンしそうになった時、デイサービスや、ヘルパー派遣などの事業所を運営している「かけはし」に「夜あずかって」と頼んだことがあるとのこと。実際に一晩あずかってくれたのだそうです。24時間体制って本当にほしいと思う、と言っていました。

健彦君のためのエレベーターが、松葉づえの私には、とってもありがたい存在でした。私の家にもそろそろエレベーターが必要になります。階段の上り下りは、一段ずつ両足をそろえなくてはならないのですから。

大雪の中でしたが、行ってよかった集会でした。

 

 

 

大雪の中の地域説明会

2011,1,12       於、浦佐田町むつみ会館

今年4月1日オープンすることになっている桐鈴会の障がい者GHについて、田町という地域の皆さんへの説明会が今終ったところです。大雪が降りしきる中を、区長さんが準備してくれて、こちらからは、私のご挨拶文と、設計図、今度管理者になる星野淳子が作ったGHに関する資料を持って松葉づえとともに会場に行きました。

私の挨拶文は、ちょっと長いけど引用しますね。これでも、実際のの半分ぐらいなのですが。

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田町の皆様からは、これまでも、いろいろのことにかけて、お世話になってまいりました。豊野ぜん(認知症GHの入居者で、100才だった)さんのお宅が田町でしたね。葬儀のときには、大勢の方にお見送りいただきました。

私がこの道に入ったのは、田町の幸平屋さん、牛木正和さんとの出会い(40年前に浦佐保育所に知的障がい児として入園。私が担任をさせていただいた)が大変大きかったので、そういう意味でも、この障がい者のグループホーム(以後GHと略させていただきますね)第1号が、田町にできるということは、とてもうれしいことです。正和さんのお母さんたちと「ともに育つ会」ということで、いろいろ取り組んできていたのでした。

その上、ここで働いて下さる世話人さんたち3人がみな田町の方であることもうれしいことです。中島絹代さん、行方浩一さん、関志郎さん。中島さんは、月に1,2回しかできないといわれているのですが、看護師を経験しておられるので、なにかあった時の駆け込み寺として、機能していただけるのでは?と期待しています。このほかにも女性の方をと考えているところです。

GHというのは、障がい者にとっての家庭の役割をするところで、昼間は、どこかに行って夕方帰ってくるというところです。だから、世話人さんは、朝夕の食事とか、身辺の世話を朝と夕方にしていただきます。開設当初は、泊まりも必要かもしれませんが、原則としては夜は泊りません。

入居者の皆さんは、入居した時点から、田町の住人ということになるので、皆さまから、温かく迎え入れていただくことを、切にお願いいたします。ときには、手をお貸しいただくこともあるのではと考えています。一方、町の行事などには、積極的に参加するようにし、住民としての清掃などの務めにも喜んで参加するつもりでおります。

皆さまからのご理解を頂いて、仲間に加えていただけたら、「共生社会」に向けての試行として、さまざまなものを乗り越えて、ご一緒にあたたかい地域を作っていきたいものと念じております。どうかよろしくお願いします。

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アパートも入れて全戸180もある田町ですが、今日の参加者は、11人、こじんまりしていたので、たくさんの意見が出ました。区長さんからは、「入居者に精神障害の人がいることになったら、事件を起こすなど心配はないのか?」の質問。「多くの知的障害者は、とっても住みにくくて、その結果として精神障害になることが多く、そううつ病や、統合失調症を併発しているんですね。ただ、犯罪のことについていえば、健常者の犯罪率に比べて、精神障害者の犯罪率は、ずうっと少ないのですが、マスコミは、よく犯罪の記事に≪精神障害者だった≫とか書くから、心配になってしまうんですよね。サービス管理責任者の星野淳子が、入居者の皆さんのメンタルについては、気を配っていくので心配はいらないと思います」

設計図を細かく見てくれた人がいて、この家の横に小さな川があります。その川に面した所に、開き扉があって、そこを出るとそのまま川に落ちてしまうから、危ない、と指摘。ここは見落としていました。さっそく工事の業者に連絡してその扉を閉じることにしました。

また、その川に落ちての死亡事故があったとのことで、転落防止の策をつけるようにともいわれ、さっそく市の福祉係に連絡して、お願いしました。

15歳の障がい児の親御さんも参加して、発言。世話人は、いつも何人いるのか?と。「いつも一人なのです」

帰りに「あと3年考えます。今、入居施設に申し込んでいるのですが、空きがないらしくてね」とのこと。GHは、18歳からなのです。

結果的に、皆さんが納得してくれて、区長さんからは、今日参加できなかった近所の方々に、理事長さんの感動的な挨拶文と星野さんの資料を足して、配ったら? と提案していただき、散会となりました。

そのうち、星野と二人で、近所周りをしようと話し合って、戻ってきました。

一つ肩の荷が下りたというところです。

 

 

 

松葉づえとの旅

2011,1,8〜10    於、札幌、函館、五稜郭

膝の痛みが、ひどくなってきて、1月4日は、私の兄弟会が東京であったのだけど、急きょ行くのを取りやめました。そして、整体に行って治療をしてもらって、6日には、恐る恐る東京でのベアテの製作委員会の集まりに出かけたのです。なんとかなるとは思ったものの、出かけるとどうしても歩きすぎてしまうので、卓夫が松葉づえを持ってきてくれました。

8,9,10の連休は、この年末年始に来られなかった札幌勢のところへこちらが出向くことになっていたのでした。この旅を松葉づえとともに決行しました。8日は、札幌で、萌実、巌志の二家族と夕食をとり、9日朝早くに飛行機で、函館に萌実カップルと4人で行きました。函館は、去年の7月に完成した五稜郭の中の奉行所に古いもの大好きな卓夫を連れていくということが、萌実カップルの趣旨だったようです。(五稜郭は、これまで星形の公園として観光客に親しまれてきたのですが、幕末から明治にかけて7年間だけ使われていた奉行所が去年復元されたのでした。)

その隣に五稜郭タワーというのがあって、この塔も星型が断面図なのです。この上からは、函館の景色すべてが見えます。雪が晴れて、きれいに4方が見えました。ここから奉行所までは、歩いてかなりの距離があります。「私はここで待っているから、3人で行ってきて」と言ったのですが、萌実の夫工藤さんは、車いすで行こうといいます。雪の中を? といぶかる私をさっさと押して外に出ました。雪の上でも走ることができます! ものすごく寒い風。それでも、ホッカロンが入っているので、なんとかなります。奉行所に着くと、今度は、畳の上を走れる車いすに代えて、また押してくれるのです。

奉行所というのは、江戸時代の末期に幕府が、地方をおさめるのに作った官庁なのですね。行政、司法など、ここに全部詰まっていたのが、文献資料や、発掘調査などによって、復元できるところをすべて(全体の3分の1)復元したというのです。20年がかりの構想を4年で作り上げたといいます。

元々1857年から7年がかりで作り上げたのですが、この星型というのは、蘭学者武田斐三郎が、ヨーロッパから持ってきたもの。ところが、函館戦争で、幕府軍が負けて、1871年には、奉行所は解体されてしまいます。たった7年間の命だったのです。その後は、五稜郭の形が残って、その中が公園として使われてきたのですが、今回復元工事が完成していたのでした。日本中の様々な匠の技が、ここに集まって完成させたこの見事な建造物は、素晴らしいものでした。

ゆっくり鑑賞をして、夕方ホテルの風呂につかって、暖をとり、4人で居酒屋に出かけました。そこで、私は、奉行所についてそこの主人にインタビュー。「奉行所を建てるお金はいくらで、どこから?」すると、別の部屋の客に聞きます。函館市の教育委員会の人たちだとのこと。「協議してきます」と言って、しばらくして「29億、国が半分と県と市が残りの半分ずつです」そこでまた質問。「国は、文科省ですか?国交省ですか?」また協議してきて「文化庁です」というわけで、納得。文化庁はそれでもこんなことをしているのだなと、納得したのでした。

松葉づえの威力は大変なもので、障がい者だということが一目瞭然なので、ぶつかってくる人はいないし、皆さんがとても親切。これさえあれば、ちょっとぐらい痛くたって、世界中どこにでも行ける、って心強くなりました。2月3日から11日までのコスタリカにも行ってこよっと。





「女政のえん」南野千恵子さん、第14回目

2010,12,25    於、東京ウィメンズプラザ

25日、会場を変更して、初めて東京ウィメンズプラザで開きました。初めて自民党関係者がゲストだということで、それに期待する人たちが集まったという感じでした。私は、ゲストをお願いする担当であり、また当日の司会者として、「ちょっとだけ参議院にいたときに、南野さんと一緒に厚生労働委員会にいました。その後、息子が議員になってからは、無年金障害者の議連で、大変お世話になりました。親子でお世話になってきた南野さんです」と紹介しました。

DV防止法を作る過程、そして、「性同一性障害者性別取扱特例法」を作る過程を話していただきました。

 南野さんは、「ここは自民党嫌いなお方が多いのでしょう」と切り出して、みなさんが笑いに誘われました。まさにその通り、何しろはじめの自民党さんですから。でも「私は看護協会から出されてきたのですが、看護協会は、野党的だったのですよ」とも。

はじめに「私は、リプロダクティブヘルス・ライツということから考えていました。母子保健というかね。参議院では、橋本聖子さんが、出産するときに産休という制度を作りました。衆議院には、産休がありません」これについて、水島広子さんに伺ったところ、衆議院でも、参議院に遅れること1年(2001年)で、水島さんの出産に合わせて、産休制度ができたということでした。

参議院の中にできていた「共生社会に関する調査会」が、「女性に対する暴力防止法」を作ってさあこれから上程という日の新聞が、「フライパンで妻にたたかれて殺された夫」という記事が載り、急きょ「配偶者からの暴力」に名前を変えた。エビデンスが残るものでなくては、ということで、身体的な暴力だけしかそのときには、入れなかった。だが、言葉の暴力というのも結構きついので、3年後の改正で、入れた。6年後の改正では、国の責任というところを地方にも移した。デートDVは、エビデンスが難しい。男女のカップルの間に暴力があったとしても、この二人が緊密な関係があるという証拠がなかなかね。

「助産師だった私は、赤ちゃんを取り上げるとすぐに男女を決めて証明をしていました。中には、半陰陽の赤ちゃんがあって、そういう場合には、すぐに決めなくていいことになっていました。男女が決められて大きくなってから、その性であることがいやだという人について、性転換の手術が、行われるようになった。ところが、その後も、戸籍上の性別が変わらないでいる、それでは、とても困るということで、次のような条件を付けて、戸籍を変えてもいいという法律を作った。

 120歳以上

 2、結婚していない

 3、子どもがいない

 4、性転換手術を受けている

 5、二人以上の医者の合意

自民党の中には「オカマかおなべか」などと揶揄される中を説得して回り、勉強会を立ち上げて、当事者の話を聞いたりした。最終的には、全員一致の賛成を得て、2003年に法制化することができた。賛成しかねる人は、「僕は、本会議に遅れて行くよ」といった人もあった。各政党段階で、通すことを決めていたので、反対することができず、会議に出ないという形での意思表示をした人もあった。与党のPTのメンバーだった山谷えりこさんもその一人だったそうです。

 2、の子なし要件については、当事者からの異論がたくさん出た。「子どもができたら、自分のこの苦しさから解放されるのでは?」と期待を込めて出産に臨む。だけどやっぱり駄目だった、ということがあると。でもいっぽうでは、男の母親、女の父親が出現したら、子どもは戸惑うだろうということで、3年後の改正で「未成年の子どもがいない」というように要件の緩和が行われた。親としての責任を果たしてもらうということで。

1時間の講義の後、1時間にわたって質疑が行われた。実は、会場には、それこそたくさんの論客がいた。はじめに南野さんが、「一緒にやってきた坂本洋子さん」と言われていた坂本さんに発言を求めた。民法改正に取り組むMネットの活動をしてきたので、南野さんの並々ならぬ活躍をそばで見てきた、と話した。この方は、社民党から立候補したことがある方。

 その後、歯科医の岡田弥生さんが二つ質問。

1、男性助産師について、どのくらいの男性助産師がいるのか?

2、法務大臣のとき、死刑についてどう考えていたか?

1、については、反対が多くてまだ制度ができていない。私は、赤ちゃんを取り上げるときの感動を男性にも分けてあげたいと思うのだが、女性たちは、男性の助産師に抵抗があるという人が多い」と南野さん。

ここで、私は、司会者として、みなさんに聞いてみました。男性助産師への賛否です。するとほぼ同数ぐらいの手がありました。賛成の人の中には、独身で、出産経験がない方が多いように思えました。実は、南野さんもそのことは二次会でおっしゃっていました。「私は、独身で、出産経験がないからね」と。出産体験がある人はこう言います。「産婦人科医の男性はたくさんいるけど、出産のときには、かならず助産師さんが付いているから、一対一になることはない。それに対して、助産師とは一対一になるという事情がある、妊婦として男性助産師を信頼できるかどうか」私自身は、どちらの意見にも賛成なので、賛否は、ニュートラルです。

2、「死刑について、日本人では、80%以上の人が賛成している、そうすると、法務大臣としては、自分の意見は差し置いて、国民の考えを代弁しなくてはいけないと思っています」としたうえで、出身地である山口県にPFIでできた民間の刑務所がある。「私は、刑務所は母体、受刑者は胎児、だと考えています。胎児が、大きく成長して、誕生するのを待つのだと思う。それを記念して、ここの刑務所には、『再誕の丘』という石碑が建っている」

DV防止法や、性同一性障害者特例法などが、通ったのに今になっても民法改正ができないのはなぜなのかということが議論になり、北京ジャックの共同代表をしている船橋邦子さんが、こんな発言をしました。

 「DV被害者とか、性同一性障害者はWHOが病気だと認めたというような事情もあって、どちらも《かわいそうな人》、ということで、賛成が得られたのでは? それに比べて夫婦別姓などという女たちの要求は、受け入れられないということがあるのでは?」

 千葉景子さんが、法務大臣に就任してすぐに「民法改正をする」と発言し、福島瑞穂男女共同参画大臣もそれに続いたのに対してすぐに反発が起こって、今この問題が立ち消えになりそうになっている。南野さんは、「千葉さんの発言が不用意だったのでは?」と言われ、もっとちゃんと根回しをしてから言わなかったのが失敗だったと。会場の方々もそれに賛同していました。南野さんは、与党議員としての活動が長かっただけにそこらへんのさじ加減をよく心得て、事に当られたのだということがよくわかりました。

南野さんが、「男性の方はどうですか?」と意見を求めたとき、その男性は、「セクシャルマイノリティーですから」と言って辞退した。そしてその後に私から促されて発言。「デートDVはエビデンスが難しいと言われたのは、戸籍上での証明が必要ということなのか?」と質問。「いえ、そうではなくて、二人の関係が、周りからも親密だと認められている場合いいのだけど、一人は、恋人だと言っても、もう一人が、違うといえば、このカップルはデートDVにはならない」というのが回答でした。

大学一年生だという40歳ぐらいに見える女性が「15年間DVを受け続けて、今裁判をしているのですが、裁判官が、頑固で、困っている」と発言。裁判官を訴追することもできるし、裁判官に対する教育が問題、などとの議論があったが、南野さんは、「教育というより、社会の変化に敏感であってほしい、その人の人柄によるところ大だと思う」とのこと。ちょうどこの会場に、私の次女が初めて弁護士としてかかわったDV裁判の原告のお母さんが来ていて、この方に帰りがけその話を紹介していました。何しろ全面勝訴したのですから。

 教育について、南野さんから提案があった。

 1、用語の教員が教壇にも立てるようにして、その教員が、ちゃんとした聖籠町教育が出来るようにしたらいい。

 2、司書教諭という人をすべての図書館に配置して、図書館に来た子どもたちの興味に従って、いろいろな提案ができるようになったらいい。

 >「リプロダクティブヘルス・ライツということから考えていました。母子保健というかね」

という南野さんの発言に対して、「リプロというのは、母子保健より広い概念なのでは?」と質問した方があった。それに対してのお返事は、ちょっと記憶できていない。

この日、マレーシアから日本とフィリピンの女性と政治について記録映画を作るために半年間来日しているローさんという女性監督が取材という形で参加しており、二次会にも一緒に行きました。

南野さんは、参加者にお土産と言って、南野さんの顔が、ユーモラスにのっている瓦煎餅の箱を持ってこられ、各自にひと箱づつ配りました。その上、最近書かれた著書をこれも全員に1冊づつ、お送りくださって、皆さん感激して持って帰られました。その後近くの「野菜畑」という有機のレストランに移って二次会をしました。参加者全員の自己紹介をいつものようにして、その後たくさんの新しい出会いを楽しんで、いつまでも語り合っていました。南野さんの親しみやすさと、やろうとしたことは、とことんやり通す力強さにたくさんの勇気をいただけたと皆さん話しながら帰って行かれました。

 

 

 

森山浩之さんの死

          2010,10,29〜12,25

10月29日に脳出血で、救急車で入院した鈴懸入居所の浩之さんが、意識不明のまま12月15日に退院して、すずかけで看取るということが、病院との交渉で、成立したのは、12月7日でした。

浩之さんは、私と同じ年、てんかんがあって、鈴懸ができた直後に入居して、いつも玄関のホールに座って、来客を迎えてくれていました。会報桐鈴リンリンの折りたたみをいつもそこでしてくれたりいろいろと職員の手伝いをしてくれたりもしていたのです。入院して一月たたったころ、きょうだいたち3人が、病院から、「意識が戻ることはほぼゼロに近い確率」と宣言され、「胃瘻をつけて入れる施設を探すように」と言われてきて探しているときに、「ここに戻ってくるという選択はありませんか?」というと3人とも「そんなことが可能だとは思いもかけなかった」というのです。つい先日石飛さんの話を聞いたばかりなのですが、このごきょうだいは聞いていませんでした。私が持っている石飛さんの本を見せると購入され、「浩之が、知らない施設に行くなんてかわいそうだと思っていた」ということで、病院に連絡をし、家族の意思を伝えました。そこで、私たち受入れの職員も会議をもって、看取りの体制を整えて、7日は、私たち受入れ側と、主治医との話し合いが成立、15日の退院が決まったのでした。職員たちは、浩之さんへの手紙をノートに書き込んで、浩之さんは、そのノートを読むことをとても楽しみにしていたのだそうです。職員たちは、ほとんどは、ひらがなの字で書き、絵が入っているのです。たまたまそのノートが新聞紙などを捨てるところにあったので、私ははじめてその存在を知りました。何と7冊にもなっていたのです。職員たちも、このノートへの書き込みを楽しんでいる、浩之さんは部屋で一人微笑みながらそれを読んでいるという10年間だったのです。廃棄物にこれを捨てたのは、家族だったそうで、最後の7冊目だけは、部屋にあったといいます。家族は、もうここの部屋には戻ってこられないと思って、ほとんどのものを処理してしまっていたのでした。

12月15日管を抜いて退院してきて、8日間の命でした。職員たちは、痰の吸引の講習を受けたりして、心をこめて看護に介護に、取り組みました。前夜夜中に胆汁を吐いて、苦しみ、当日朝は、往診した卓夫が、「今日中にはなくなるだろう」と言ったのです。私もすぐに駆けつけましたが、まだしっかり息をしていたので、今日はこのまますぎるだろう、と考えていました。12時ちょっと前に無呼吸が始まったということが分かっても私の母は何カ月も無呼吸でしたから、そんなこともあるさ、ぐらいに思っていました。そうして家に帰ったら、「亡くなった」との電話、そのときは12時。

前日の朝まで、「わかったら握って」というとほんの少しの力で、左手が、握る動作をするのです。「浩之さん」と呼べば、声のする方向を向きます。職員やヘルパーが、入れ替わり立ち替わりベットサイドに行って声をかけていました。彼の好きな曲も掛けていたのでした。

遠くに住むごきょうだいたちは、死に目には会えませんでした。長丁場になると思っていたので、まだまだ先になってから来ていただこうと思っていたのです。その日の朝連絡したけど、間に合わなかったのでした。

25日にクリスマス会をやめて、お別れ会をすることになりました。葬儀場の込み具合で、午後にしかできないことになり、私は、「女政のえん」で上京しなくてはならず、初めのうちだけ参加して、弔辞を読ませてもらって、失礼することになってしまいました。

職員会議で退院して受け入れることを全員一致で決めたのですが、実際に受け入れてみると当直の人たちは、仮眠することも不可能な仕事状態でした。でも、なんだかみんなやり終えたという満足感に支配されていたようでした。

お別れ会は、桐鈴会特約の僧侶榎本宏さんの読経で始まり、私の弔辞の後、卓夫が、医学的な経過報告をし、そこまでで、私は、「女政のえん」のために上京してしまいました。

 帰ってきてから、その後のことを話してもらうと、職員二人と入居者一人が、弔辞を読んだ後、一つ違いのお兄さんが、長々と「謝辞」を述べてくれたそうです。

「小学2年までは、きりりとしまった顔をした少年だった。てんかんの発作が起きるたびに知能が減退していき、学校では、いじめられ、その後も、幸せとは言えない生活が続いた。ここに入ってからの10年が、一番幸せだった。最後に病院から入れる施設を見つけるようにと言われて、きょうだい3人で途方に暮れていたときに、鈴懸に戻るという提案があって、一同ほっとした」

卓夫の話で、こういうことがありました。「一般的に延命治療は、やめようということはそれまでも考えていたところですが、石飛さんの話を聞いて、実は自力で食物が摂取できなくなった人への、栄養補給を経管で行うということが、本人にとって苦痛なのだということがわかったのです。退院してきて管をはずしてから、言葉かけに反応して、手を握り返したりしていたのは、脳が余計な水分で圧迫されなくなって、少し動くようになった結果なのでは、と考えています。」そして卓夫がつけた戒名について説明しました。彼が、戒名を付けるのは、これで二人目です。

森山さんのお気に入りの一番年が若い職員の弔辞は、「私が結婚するまでは、森山さんのことを≪私の彼氏≫といい、彼も≪僕の嫁さん≫と言っていた。遠くから送られてくる食品を私にだけくれたり、二人だけでレストランに行ったりしましたね。私が天国に行ったら、またお付き合いしましょうね」

森山浩之さんへの私の弔辞

浩之さん、貴方は私と同じ年、まだまだ生きていて欲しかった。貴方は、いつも玄関のホールで、門番のように座っていてくれましたね。お客を歓迎しているかのようにそこで挨拶してくれていました。また、月に2回のお茶会には、美味しい玄米茶を用意して待っていてくれました。一番の活躍は、会報「桐鈴凛々」の折りたたみでした。それから冬は、雪片付け。職員たちのサポートをいつもありがとうございました。でも時々へそが曲がります。職員たちは、浩之さんが太りすぎることを心配して、食事を少なくしたり、というところで「へそが曲がる」のです。そういうときには、凛々のたたみ拒否などはもちろん、時には、断食で応戦することもあります。あるときは、職員が、「二人でレストラン小玉屋に食べに行こう」といったことで、ようやく断食が解除された事もあります。

森山さんは、1029日に脳出血のため、小出病院に救急車で運ばれ、そのまま経管で意識不明のまま命をつなげていました。1122日に訪ねてこられたごきょうだいに、病院側はこういいました。「意識が戻る可能性は、ゼロに限りなく近い。胃瘻を付けた状態で、おいてくれる施設を探すように。」それを聞いて私たち夫婦が、ごきょうだいと話し合いました。「鈴懸に戻ってくるという選択は?」といったところごきょうだいは「そんなことができるなら、こんな嬉しいことはない」と。それを聞いた職員たちは「嬉しい!」という反応でした。職員会議で、黒岩卓夫も交えて話し合い、皆で「看取りをしよう」ということになりました。そこで病院と話し合って、1215日に退院してきました。職員たちが心をこめて看病し、話しかけたり、音楽をかけたりして、23日に旅立っていかれました。

職員たちは、浩之さんあての連絡ノートを書いていました。私は、このノートの存在をつい最近知りました。その中身はなんとも愉快なもので、職員たちが、楽しみながら書いていることが手に取るようにわかるのです。とっても愉快な絵入りなのです。その内容はダイエットするようにというようなことが多いのですが、このノートを浩之さんは楽しみにしていたということがわかったのです。いつも受け取るときには、そ知らぬ顔だったのに、あるとき夜中に見回りをしていた職員が、明かりがついていたので開けてみたら、嬉しそうに読んでいたというのです。

ヘルパーステーションの職員たちにとっては、浩之さんは、ゆで卵の思い出が強烈です。何しろいっぺんに20個もゆでて、それを食べてしまっていたのだそうです。ヘルパーたちが、体に悪いからといって止めるようにというと、それでも徐々に少なくしていって止めたといいます。ジュースも体に悪いからと説得していたころ、玄関の自動販売機で買って飲んでいたところを見つかってくるりと回って隠したりするので、職員たちは、「可愛いね」と言い合って、浩之さんとの交流を楽しんでいたのでした。

10年間、浩之さんにとっては、どんな生活だったのかしら?

マージャンを一緒にやりましたね。貴方が持っていたパイでした。ボランティア指導者清水昭博さんが、厳しく教えてくれることに対して初めはちょっと抵抗があったみたいだけど、そのうち、このスパルタ教育に抗して上達しないまま続けていましたね。

 私たちは、これから貴方の思い出話に花を咲かせることでしょう。天国でも、人気者になってくださいね。

         平成221225

               社会福祉法人 桐鈴会 理事長 黒岩秩子






法務大臣政務官就任報告会

2010,12,19       於、新発田市月岡温泉

19日の報告会、私もしばらくぶりに新発田にいって参加しました。宇洋の住んでいる部屋の番号を忘れてしまったぐらいしばらくぶりでした。でも懐かしい皆さんと出会えて、私にとっても楽しいひと時でした。

宇洋が、法務大臣政務官というのは、どういう仕事をしているのか、ということを初めに話しました。私も初めて聞く話で、これには、皆さん緊張して、そして感動して、聞いてくださっていました。宇洋が就任すると決まった翌日が、例の検察の証拠改ざん事件発覚の日でした。その後できた「検察の在り方検討会」に政務官は入れないということだったのを、はいれるようにし、発言してはいけないといわれていたのに、チャンと発言して、「政治主導」を貫こうとしたという話でした。霞が関の官僚たちは、「国家公務員上級職試験」を突破してくるのですが、それよりも難しい「司法試験」を突破して、その中でも優秀と目される人だけがなれる検事という人たちが法務省のほとんどの職員なのだそうです。その人たちがやってきたことを正そうというのですから、並大抵のことではありません。でも、部屋に来てもらって、「敵対しようというのではない」ことを話して、同じ方向を向いて仕事をしていこうと呼びかけたといいます。

玄葉光一郎国家戦略担当大臣は、本当に忙しい中をやりくりしてやっと来たという感じ。「僕の弟分の黒岩宇洋」と言って激励。逆風の中でも勝てる選挙をして、と要望。TTPではなく、2国間協定によって、米を例外にする、ことを図っているとのことでした。

新発田市長さんは、宇洋が応援した方とは違うのですが、宇洋自らおいでくださいと願ったようでした。二階堂市長さんがそのように話していたのでした。

3区の皆さんに育てていただいて、宇洋も、何とか仕事をさせていただけているようです。ありがとうございました。

 

 

 

にいがたフォーラム6in長岡

 2010.12.18〜19   於 長岡技術科学大学

121819日は、恒例のにいがたフォーラムでした。

新潟県の障害者にかかわる多くの人が集まります。今回は、400人ぐらいだったでしょうか? 長岡技術大学の大ホールが満杯でした。今回は、講師陣のなかに海映が入っています。鈴木智子さんの車で3人で会場に着きました。

まずはじめは、車いすの弁護士東俊裕さん。いま彼は、内閣府障がい者制度改革推進会議担当室長です。この推進会議は24人、その中の「総合福祉部会」は55人ものメンバーなのだそうです。当事者団体をみんな入れたためにこういうことになったそうで、自己紹介だけで二日かかったといいます。「障がい者総合福祉法の行方」ということで1時間20分でした。

彼は16か月の時に小児麻痺にかかって歩けなくなった。国連で2006年にやっと「障がい者権利条約」ができ、「施設から地域へ」という流れができてきた。この条約を作る時にも、日本代表として活躍してきたのが、この東さん。この条約を日本は調印したけど、まだ批准していない。

ヘルパーが、「ホームヘルプ」という名前になっており、まさにホームでしか使えない。仕事場では、使えないので、そのうち「私が握力がなくなって自分で車いすの移動ができなくなったら、仕事はできなくなる」。自立とは何か? 普通の人だったら、仕事をして生活するということになると思うが、障がい者には、「仕事」場へのヘルプがない。ここには、労働、雇用、のほうからのジョブコーチでしかなく、ここには、身体介護が入らない。つまり、ジョブコーチは、あくまで仕事のサポートであって、トイレのサポートはしない。そういう意味では、もっと総合的なサポート体制が必要だということになる。

日本では、障がい者関係の法律というと「福祉」という言葉が入るが、国際的には、「人権」という言葉が使われる。日本人は、この「人権」を嫌う。と東さん。

昨日6時間にわたって、推進会議を開いて、夜遅くに、この結果がまとまった。今日は3時間しか寝ていない。と言いながら、眠そうな顔をしながら、実に的確に私たちが聞きたいことを話してくれました。当事者がこんなにもたくさん検討会議に入れたのは、なんといっても政権交代したからだとのこと。たくさんの意見が出るから、調整は大変でしょうが、当事者でしか言えないことが施策の中に入れられるということはかけがえのないことだと思います。

質疑の時間になったら、車いすでの参加者が、二人手をあげて、質問していました。無年金障害者の裁判の原告だった遁所さんは、「新潟市の差別禁止条例を検討しているが、国の法律が通ってから考えようといわれる。どうしたものか?」その答えは、「細かいところまで決められるので、地域で作ったほうがいい。」でした。

1819日にわたって、午前中は、1時までという熱心さです。午後は、2時から始まるのです。18日の午後は、海映と全日本手をつなぐ育成会理事長の副島宏克さんです。海映は、司法界の人たちはほとんどが、しょうがい者と接したことがない、それは、学校が分離教育になっているからだということで、この日も、いつも土日は、子どもたちといるのに、仕事で出かけるということを子どもたちが嫌がるので、こういうお仕事のために行くと話したら、納得してくれた。といい、子どもたちはそういうことはよく理解する。保育所では、一緒にいるのに入学するときに分けられてしまうところを何とかしたい、と話しました。

私にとって初めて聞いた言葉は、「社会的事業所」。これは、すべての従業員に最低賃金を保障するのだけど、労働がそれに見合わないときには、税金からその事業所に補てんするというものだそうで、滋賀県や、箕面市では、かなりこれに取り組んでいるということです。健常者も、障がい者も同じ最低賃金をもらって仕事をしている職場です。

合理的配慮ということについて出された質問に答えて、こんなことを言っていました。「私の話し方が、早口で、今日は手話通訳の方がおられないけど、おられるときには、いつも早いといわれてしまう。その結果、耳の聞こえない人には、言葉が届かないことになり、こういうことが合理的配慮に欠けるということ」

副島さんは、広島の因島(いんのしま)で、かなりユニークな活動をされているようです。親子で入れるGHを作っているそうで、これは必要性が高いでしょうね。家で面倒を見ていた親が、高齢になって、その親と一緒に入れるGHが必要になるのです。この話は、楽屋裏で、海映が聞いてきたことです。うちの地域でも水落幸子さんの家は、まさにその状態です。だから、お母さんは、鈴懸に入り、その隣にできるCHに幸子さんが入るということを今考えているところです。

副島さんの話で一番印象深かったのは、養護学校から来た卒業生が、気に入らないことがあるとパニックになる、仕事どころではないので、校長さんにこのことを話したら、校長がこういったというのです。「申し訳なかった。とにかくこの子がパニックを起こさないようになんでもOKでやってきた。その結果こんなことになるとは、申し訳ない」といって、この子のこういう行動が収まるまで、養護学校の職員が、付き添ってきたというのでした。社会に出て通用する子どもにしてもらわなくてはならない。というのが、副島さんの考えでした。養護学校の校長さんも随分柔軟な方だと思うけど、副島さんが、地元で信頼されているからそうなるということもあるのでしょうね。

「自立支援法から生まれた若手の実践」では、小規模作業所で、細々とやってきたことが、自立支援法になって、職員を採用できることになり、事業を大きく拡大して、利用者を増やすことができたということを二人の若手から聞きました。NPO法人支援センターあんしんの樋口理事長の娘久保田果奈子さん(31歳)と、社会福祉法人中越福祉会工房こしじの鈴木裕平さん(32歳)。どちらもその現場を見せていただいているので、その発展ぶりには目を見張ります。それが、自立支援法のおかげであったということは知りませんでした。確かに昔の小規模作業所というのでは、補助が少なくて、障がい者の親御さんたちのボランティアによって細々と続けていたというイメージでしたから。

自立支援法については、賛否両方があって、反対の人たちもかなりたくさんあって、あの頃は、厚労省の周りがものすごくにぎやかだった。そして、実際に、自立支援法の1割負担に加えて、作業所に行くにも必要経費を払わせられるということで、まだそれが、施行される前だというのに、親子心中になったりしていました。結局、1割負担についても、低所得者には、免除したりして、改善されながら来ていたのでした。この日、誰かが、自立支援法に賛成か反対かを挙手で求めていましたが、賛成が6割、反対が4割という感じでした。

私は、施設から地域へ、という流れを作ろうとしていること、それから、身体、知的、精神と3つの障がいを分けていたのだけど、一言で、「障がい者」ということにしたことなど、大きな流れとしては、良かったのではと考えています。そのおかげで、今回桐鈴会として、様々な取り組みをすることになったとさえ思うのです。自立支援法がないまま、旧体系のものを作るということには、エネルギーをかけられなかったと思うのです。

しかし、この自立支援法に反対する人たちが、旧体系の施設を守ろうとして反対している人と、もっと前進させようということで反対している人たちが、正反対の考えでありながら、「自立支援法反対」というところで、一緒になっているというのが、わかりにくい構造になっていると思っています。

民主党、自民党、公明党、三党の議員立法として、通称「つなぎ法案」、実際は、「自立支援法等の一部を改正する法案」が、臨時国会最終日12月3日に可決しました。

3年後に「障害者総合福祉法」ができることになっているのに、それまでのつなぎ法が必要なのかどうか?

民主党内では、もめた挙句に「3年後の新築の母屋ができるんだから、それまで、雨漏りがする家で我慢しろっていう話はないだろう」ということで、自立支援法の「雨漏り」を手直ししたのだということです。

初鹿明博、衛藤晟一、高木美千代の3氏が手を結んで通したというこの「つなぎ法案」のメリットは、「応益負担」を「応能負担」に変えるとしたこと、障がい者のGHCHの入居者への利用料補助、障がい者の中に発達障害を含める。などなどいいところはあります。ただ、これが議員立法であるために予算が計上されていないので、これからその予算を要求するので、GHの利用料補助も一体いくらになるのかは、未定なのだそうです。

初鹿明博さんは、東京都からの衆議院議員で、41歳。都議を2期やったあと、国会議員はまだ1期目です。宇洋が政務官になったために議連の事務局長などをやめなくてはならず、無年金障害者の事務局長を引き継いだのだとのことでした。

19:00からの交流会では、海映を私の知り合いに引き合わせるということを意識してやりました。

翌19日は、9時から1時までびっちりとプログラムが並んでいました。

「ノーマライゼーションは子どもから」では、4人全員が女性。18日には、女性がパラパラしかいなかったのが不思議に思えていたのですが、この4人のおしゃべりは、実に楽しいものでした。マミーズネットの中条美奈子さん、りとるらいふの斎藤久美子さん、そしてコーディネーターの西川紀子さん、もう一人の方は、知らない方でしたが、4人とも共感することばかり話されていて、メモがとれていません。

「おなかの中にいるときから、その子の子育てチームを作ったらいい」という提言、それから、学校に行って「ふつうクラス」の障がい児について、その子の当番が決まっている、というようなのは、統合教育だろうか? も話題になっていました。

最後を飾った小山剛さん、涌井幸夫さん、二人の内容豊かな実践報告は、胸を打ちました。小山剛さんは、長岡市にある特養を解体して小さなグループホームに分散化させた実践を、涌井さんは、法人が持っているたくさんのGHCHを対象に24時間のコールセンターを作った実践を、二人とも大変な迫力で語ってくれました。

この2日後に涌井さんが代表を務める工房こしじに見学に行ったときには、疲れて休んであえずでした。実行委員長、お疲れ様でした。






納骨堂建設、認可される

   2010,12,16

8月25日に納骨堂のことに関して、南魚沼市長と対話をしてきた。と書きました。そのあと、御近所を回って、「承諾書」という形で賛同を表現していただきまして、ご近所11軒すべての同意を市役所にもっていきました。その時に井口一郎市長は、三つのことを言いました。

1、永続性の問題。

2、これからどこもここも納骨堂と言い出したら困る。

3、周りの土地を持っている人たちの同意。

どちらにしても、問題が発生しないような形で作ってもらいたい、という市長さんは、OKを出すつもりがあるなってその時には思うことができました。「永続性」という言い方については、地方公共団体でさえ、夕張市のようなところも出てくるし、公益法人、社会福祉法人は、永続性というのは担保されているのでは?

と言ってきました。

2、については、実は、ほかのケアハウスがこんなことを言い出す心配はないのです。なぜなら、市内には、あと二つケアハウスがありますが、どちらも看取りはやらず、「ポータブルトイレは部屋に置かないこと」「介護度3になったら、出ていく」という感じで軽い人だけの入居者で運営しているのですから。

その上で、周りの土地所有者を確認して、一軒一軒回りました。すると一軒だけOKがいただけないところがあったのです。「誰だかわからないような人の骨がそばにあるのは気持ち悪い」というのです。でも「うちだけが反対ということで作れなかったらそれも困る」という言葉を聞き逃しませんでした。だから、実は、「お宅だけ」なのだということで、なんとかお願いをしに行こうと考えているのですが、そこは、忘年会、スキーシーズンは、猫の手も借りたい家なので、このシーズンが終わったら、みんなでお願いに行こうということになっています。

そこへ、「納骨堂について市の見解を伝えるから16日に来てくれ」という連絡があり、16日広田施設長と出向いてきました。その結果、市は、いくつかの条件を付けて、許可するという内容を伝えられたのでした。その条件は、たとえば、納骨堂を建てる土地は、南魚沼市に寄付をする、というような受け入れ可能なものでした。このところ、いろいろと望みが実現していきそうな気配が濃厚になってきています。

22日は、来年4月にオープンするGHの改装工事の入札となっています。どこの業者が請け負ってくれることになるのか、楽しみに22日を待ちます。

いいことばかりではありません。14日のことです。夕方鈴懸に行ったら、広田さんがいません。「片方の目が見えなくなったというので、書類を作りに来た鈴木智子さんに運転してもらって、六日町の目医者に行った」というではありませんか? 過労? 何か見たくないものがある? 検査の結果は、どこも何ともない、医者に行って待っているときに、見えるようになったというのでした。それにしても目が見えなくなったという事実は、変わりません。

このところGH改修工事、隣の畑を購入して作る建物の設計図作りなどなど普段以上の仕事が広田さんに襲い掛かっています。何とか、私が手を出せるところは出したいと考えています。

納骨堂を作ってほしいと言っている入居者の方が、もう十分なお年なので、できる限り早く完成するようにもっていきたいと考えています。

 

 

 

桐鈴会隣の畑、購入する!−役員会決定

     2010,12,7     於、浦佐えつみや

桐鈴会の隣の畑360坪を購入して、そこにしょうがい者施設を建てること、こんなことがトントンと運んでしまって怖いくらいです。

 ケアハウス鈴懸と、GH桐の花が、鍵の字に建っているのですが、その鍵で囲まれた部分は、畑になっています。ここは、3人の人たちが借りて、畑として使っています。そのうちの一人が、つい先ほどまで、桐鈴会の評議員をしてくださっていた森和夫さんです。今年の初夏のころです。畑で森さんに話しかけてみました。「この畑を借りるとか、売ってもらうとかいうことは可能かしら?」いや、畑はどこにでもあるから、ここでなくてもいい。地主さんにお願いしてみたら? というので、地主さんの連絡先を聞いて、交渉を始めました。すると、貸すよりも売りたい、というではありませんか?

そこから値段交渉のため第3者に入ってもらって、この秋に値段を示され、こちらも了承をして、購入することになりました。福祉施設は、建物については様々な助成制度があるのですが、土地については全くないので、自前で用意しなくてはなりません。ところがありがたいことに助成金が出る建物を造るということが分かっている場合には、土地の取得税が、掛からないのです。そのおかげで、地主さんが、手取りとしてほしいと言われた額が、そのままこちらが用意する額なのです。

 その上、驚いたことに、地主は、300坪だと言っていたのに、間に入った方が、測量してみたら、360坪あったのです!

 だから、300坪の値段で、360坪いただけることになってしまったのでした。

さて、それからがいろいろと大変です。まず、農業委員会に用地転用(宅地に変える)を申請する。国と県に助成金の申請をする。この二つが、どちらも、相手の認可が前提なのです。用地転用ができなければ、助成金の申請はできない。逆に助成金が下りたという証明がなければ、用地転用はできない。ここを突破するには、こんな「解」があることが判明!

 助成金によらないで、自前の資金で、建てられるという資金の融資を受ける証明によって用地転用を突破する。ということで、これから早速農地転用と、助成金の申請、に取り掛かります。

この土地に建てる物は、重度の人が夜とまるケアホーム(CH)と、しょうがい者が日中過ごす場(重度の人には、デイサービスの場、軽度の人には、就労継続B型)の二つです。CHには、新築の場合2500万を上限とし、半分は国、4分の1は県、残りが、自分持ちです。日中活動は、20人以下ならば、4160万を上限として全額出ます。この日中活動の場というのは、旧大和町地域に一つもないという現状のため、市のほうから、ぜひ作ってほしいと頼まれているものです。

7日夜は、桐鈴会の役員会の後、職員たちとの合同で忘年会でした。ここで顧問という肩書になった卓夫が、最後の締めをしたのですが、その時にこんな発言をしました。「今日は、鈴木要吉さんの乾杯の音頭が聞けてとてもうれしかった。要吉さんが、僕の選挙の後、町長にならなくてもできることをしようといって、450坪の土地と5000万の資金を提供してくれて、桐鈴会ができた。もともとしょうがい者のことをするということで集まっていたのに、とりあえず高齢者のことから始めたというのが現状で、今やっと入り口に立つことができた。これからが始まりです」実は、鈴木要吉さんは、かなり認知が進んできていて、この秋、入院して帰ってくるときに一人暮らしは無理だとご本人が観念して、鈴懸で暮らすことを選択しました。といっても「空き」がないために今は、ショートステイで、入居待ちをしているのですが、入居者の皆さんも要吉さんの存在を歓迎しており、要吉さんも、カラオケなど、行事があるたびに参加して、場を盛り上げています。要吉さんの元気な乾杯の声が聞けるのも、もしかしたら最後になるかもしれないという思いもあって、卓夫がこんな発言をしたのでした。みんなで要吉さんへの感謝をこめて終わりとした忘年会でした。

ここで、桐鈴会が、また一段飛躍する時を迎えたようです。

 

 

 

マザーズジャケット講演会報告

  2010,11,29     於、横浜のアートフォーラムあざみ野

11月29日(月)横浜のアートフォーラムあざみ野での講演会の報告をします。主催者のマジャーズジャケットは、しょうがいをもつ子どもたちの親の集まりです。そこで、私はこんなレジュメを作りました。

・ 私の「へんてこ」ぶり

・ まあちゃんとさっちゃんとの出会い

・ 「人を測る物差しはある?」

・ 「ともに育つ会」――地域活動――陽子ちゃん、健彦君

・ 「大地塾」――不登校児、しょうがい児者をふくめて

・ 国会へ――女性議員の活躍の必要性

・ 「桐鈴会」―-鈴木さんが寄付してくれた桐の木畑に建てたケアハウス

・ 「あぶあぶあの奇跡」――しょうがい者の楽団(西宮市)「あぶあぶあの風」参照

・ 「こころみ学園」――重度しょうがい者によるブドウつくりとワイナリー(足利市)

      「ぶどう畑の笑顔―こころみの実践が自閉症の子供をかえた」参照

・ 「国をつくるという仕事」(西水美恵子著)

参加すると言ってくれた友人の一人福田光江さんの家に泊めてもらうことになり、前日の夜は、もう一人の大学時代の友人も誘って、3人で、光江さん手作りのごちそうに舌鼓を打ちながら、おしゃべりに花が咲きました。光江さんは、私の家によく来ていて、黒岩たかさんが亡くなった時には、夫婦で訪ねてきてくれたこともあります。それなのに、今回私は、彼女の様々な話を「驚きながら」聞きました。つまり、私が一方的にしゃべっていて、彼女の話を聞くことがいかに少なかったのかという現実を見せ付けられたのでした。子どもたちがまだ小さかったころは、子ども同士で泊まりに行ったり来たりもしていた仲でした。

朝、二人で家を出ました。会場に着いたら、すでに友人たちが何人か来てくれていました。一般の人よりその数のほうが多いみたい。話し終わると、司会者が、「黒岩さんのお知り合いの方が多いみたいなので、一体黒岩さんは、どんなふうにして育ってきたのか、語っていただけないかしら?」といったものですから、小学校の同級生から、はじまって、高校、大学と語られ、その後知り合った方々も全員が、それぞれに語ってくれ、いくつかの質問などいただいて、閉会。この司会者が、私を呼んでくれた人中畝治子さんでした。この方は、1993年に「未来をはぐくむ大地から」という本の出版記念会を東京でしたときに参加していたという方で、重度の障害を持つ子どもさんを育てていたのだけど、18歳で亡くなってしまっています。夫とは、美術大学で知り合って二人とも絵描きさん。「ひげのおばさん子育て日記」という本を二人で出版されています。挿絵が、治子さんによるもので、とっても愉快な絵なのです。その時にいただいてきた「旨味−しょうがい児を持って」を帰りに読みながら帰ってきました。書いている方々が、ほとんど今回聞きに来てくれていた人たちで、これから、交流が続きそうな気配を感じました。

そのあと、主催者の皆さんとの昼食会。ここではしょうがい児を育てている生々しいエピソードなどが語られ、お互いに励ましあいました。その後、私の友人たちが、その日に知り合ったまま、新横浜の駅前に住む大学の時の友人の家に集まっていたところへ私も合流し、ここには、又いろいろな人たちが来て、いろいろな交流となりました。新横浜の友人は、「富士山測候所を活用する会」を立ち上げた人で、数年前には、この家に泊めてもらって、一緒に富士山に登ったのでした。 





    市民オペラ団体「リリカ」合唱会

      2010,12,4         於、夢草堂

4日(土)は、夢草堂で、市民オペラ団体リリカの皆さんの合唱会でした。このマネージャーをしている岡村勝さんが、以前私のミミセンコンサートに来て、一緒に歌ってくださって以来、「来てね」と頼んでいたのでした。その結果、何年振りかで、コンサートが実現できたのです。男性3人女性8人がきてくださいました。指導しているのは、鈴木規子さんというプロのオペラ歌手で、六日町出身の方。冬の歌をメドレーで歌ったり、お年寄りにとってポピュラーな曲を一緒に歌ったり、会場は、入居者だけではなく、役員や、ボランティアの方々、萌気会のデイケア「ほのぼの」のみなさんも来てびっしりになりました。

男性が入って4部合唱になったりするので、とっても素晴らしい合唱です。

終わったときに、「アンコール」の声が沸き起こり、ひときわ高い声に盛り上がってしまい、鈴木規子さんが、「素人なので、アンコール用の曲を持っていないのです。それでは、今歌ったものの中から一曲します」ということで、「北国の春」になりました。そうしたら、またして岡村勝さんが、私にも一緒にと誘ってくれたので、でていきました。「みなさん、耳栓をしてください」といいながら。

歌い終わってから、私は、10数年前の思い出話をしました。満州からの引き上げ者である黒岩卓夫は、その時引き上げの過程でなくなってしまった弟と妹の供養に中国へ行きました。その列車の中で、「病人が出ました。お医者さんはいませんか?」の放送が入り、卓夫が、通訳の人と一緒に行って直してあげたのでした。するとまた放送が入って「今、日本人のお医者さんが治してくれました。そのお礼に≪北国の春≫をお送りします」と言って日本語の歌を流してくれたのでした。

その話をした後、私は言いました。「鈴木規子さんの歌が聴きたいのですが、ねえ皆さん?」すると大きな拍手が起こってしまって、とうとう鈴木規子さんが、「では」と言って≪雪の降る街≫をうたってくださったのです。それはそれは素晴らしくって、歌い終わった彼女のところに行って私は抱きついてしまいました。彼女の声をそのまましまっておきたいという思いだったのです。この≪雪の降る街≫には、また別の思い出が詰まっています。

高校1年の時に、クラスに放送部の男性がいて、1年が終わろうとしているころにクラスで歌ったのをレコードにしたのでした。このレコード、今はもうなくなってしまいましたが、20歳代ぐらいまでは、聴いていたような気がします。1955年ですから、滅多にそんなことはできなかったころだと思います。

終わってから、残ってお茶のみをして名残惜しくお別れをしたのでした。そして、これからは毎年来てね。とお願いしました。






 「介護保険制度改正の焦点討議」

    2010,12,1      於、星陵会館

12月1日、星陵会館で行われた「介護保険制度改正の焦点討議」1000万人の声を届けよう、という集会に参加してきました。前日この広報を送ってくれた人があって、急きょ出かけたのは、認知症グループホームを運営している私として、今回の改正(24年度から)に向けて意見を言っておかなくてはと考えて、「提言」を作り始めていたところだったからです。

それは、こういうことでした。

まず、認知症の人たちにとって、家に一人でいるのに比べたら、グループホームで適切なケアをしてもらえ、仲間もいて、安心して暮らせる状態が望ましい、という前提に立っているということ。

そのうえで、グループホームの料金体系が、介護度が上がってもあまり上がらないシステムになっているということが、何を生み出しているかということです。1日の利用料が、介護度1の人が831円、介護度5の人が900円です。介護度1の方は、自分でトイレにも行けるし、食事も介助が要りません。それに対して、介護度5の人は、全面介助になる場合がほとんどです。それなのに単価がこれだけしか違わない、ということは、事業所にとっては、手間に関してだけ言ったら、介護度が低い人だけをとっているほうがいいことになります。そこで、多くの事業所では、介護度が高くなってくると特養に行くことを勧めているのが現状です。

うちでは、「終の棲家」ということで、看取りまでやっているので、入居者や、家族の皆さんが安心していられると言ってくれています。そして、仕事に対してやりがいが感じられることもあって、職員たちは、辞めていくということがありません。

そこで、この料金体系を何とか直してほしいと考えているのですが、多くのところから出ている「提言」には、このことが取り上げられていません。受付で、何人かの議員さんたちとであったので、早速このことを訴えました。するとこんな答えを返してくれた人がありました。「そこはねえ、厚労省の役人がかえたがらないところなのよ」それでは、やりがいがあります事!

そして、会場で始まりました。

樋口恵子さん、白澤政和(大学教授)、高見国生(認知症の人と家族の会)の3人が主催者。政党代表が、6人。郡和子、田村憲久、古屋範子、高橋千鶴子、阿部知子、川田龍平(議員数の多い政党順)。社会保障審議会介護部会が、11月25日に「介護保険制度の見直しに関する意見書」を提出したことについての討論でした。

この意見書では、財源論から始まってしまって、とにかくどうやって抑制するか、の方向に行ってしまったということです。例えば、要支援1,2、介護度1,2、の人たちへのサービスを減らして、介護度3,4,5の人たちに手厚くする。このことによって120億円動かす。こんなことはとんでもないとみんなが口を揃えます。樋口さんは、「《重度になるための傾向と対策》なんていう本が出るでしょう」と。

また、ケアプランを自分で作るという提案と同時に、ケアマネがプランを作るのに対して、1割負担にする、という提案もなされている。これに対しても、すべての人が、「介護保険の根幹がケアマネであり、そこを有料化したら、入口のところで拒否しているようなもの」と反論していた。

Pay as you go」という言葉が、多くの人から語られていました。これって、応益負担ということでしょうか? 小泉改革を思わせる言葉だと思いました。スピーカーは、すべてこれに反対していました。認定子ども園にまで、応益負担が出されているとのことでした。

今回の介護保険部会の提言は、肝心なところについては、両論併記という形で逃げている。軽度の人のサービスを減らす、というのは、認知症を考えていないからだろうとの意見あり。身体の障害であれば、なるべく自立するという方向で、サービスを減らす考えも成り立つかもしれないが、認知症の人は、早期の対応が重要なのだ。とその人は言う。

その日、会場に笑いを誘ったのは、自民党と、民主党の議員のやり取りでした。

民主党の人は「あなた方が政権党だったときに、これこれのことをやりました」といい、自民党の人は「私どももいつまた与党になるか分からないので、何でも反対というわけにはいかない」

そして「社会保障は、与野党そろってテーブルについて取り組まなくてはダメ」ということで、ラウンドテーブル、ということがこの日の全員の一致点でした。

私が議員をしていた短期間でも厚生労働委員会では、「社会保障は超党派で」という言葉がよくいわれていましたから、本当にそうだと思います。誰が、与党でも野党でもやるべきことはやらなくてはね。

もう一つ大事なこと。それは、去年から、2年半という期間限定で出されている介護職員待遇改善交付金のことです。

去年の3月、うちの法人では、介護従事者にこの交付金を一時金として配りました。月々8時間働く常勤換算で15000円を上積みするようにということでこの交付金が支給されました。うちの法人では、ケアハウスが一番大きな施設として存在するのですが、ここの職員には、この交付金は支給されませんでした。ほとんど同じ仕事をしているのに、その人達には、上積みされないというのは、なんとも不公平なので、なんとかやりくりをして、支給量は、少ないですが、一緒に上積みしてきました。

この交付金が、来年度で期限が切れてしまいます。そこで、この交付金を続けていくのに、その財源をどこから持ってくるのか、この介護保険部会で議論されたそうです。介護保険から出すとすると、その分介護保険料を上乗せしなくてはならなくなるので、それでなくとも保険料を上げなくてはやっていけないというのに、その分まで上乗せするのでは無理。だからといって、今まで通り一般財源から出すということでは、財政赤字を膨らますだけなので、これも困るということで、財源論が、かなり厳しい情勢だということがわかりました。でも、この上積みをなくそうという意見は出ていないようです。

介護職員をたくさん抱えている桐鈴会としては、この議論の行方に関心を持ち続けていくでしょう。

もうひとつ、GHの入居者負担に比べて、特養は、補足給付が行われているために多くの人にとって、特養のほうが安いという現状があります。その結果、低所得者は、GHに入りたくても入れない、という現状に対して、GHにも補足給付を行うべき、との意見があったと書かれていました。本当にそうです。うちのGHは、大体月10万ぐらいなのですが、近くにある特養だと、安い人は、5万円台だということです。これは何とかしてほしいですよね。認知症の方にとっては、GHでの暮らしが、家庭的で、とても落ち着けるようです。

とにかく、現場からの意見をどこに向かってでも出していかなくてはならない、ということを思い知らせてくれた集会でした。

 

 

 

   コスタリカに行ってみませんか?

      旅行期間 2011,2,3〜10

「軍隊を捨てた国」として名をはせたコスタリカに行ってみたいとかなり前から思っていました。そうしたら、下記のような案内が届いたので、私が早速申し込みました。そこで、皆さんもお誘いします。

コスタリカは、軍隊にかけるお金を教育に回したそうです。教育という点では、すごいと思ったのは、選挙のたびに、子どもたちは学校で、模擬投票をするのですが、何と3歳の子どもまでが、模擬投票をするというのです。きっと好き嫌いの範囲で選ぶのでしょうが、選挙ということに対して、小さいうちから関心が向くのですもの、結構な話だと思います。

以下の案内を最後まで読んでみてください、これだけでも結構すごい内容が書かれています。

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足立力也 
---以下転送・転載大歓迎---

■■■「軍隊をすてた国」コスタリカ・ピース&エコツアー■■■

 特別企画 【今回限り】298,000円!

http://www.adachirikiya.com/tour1102/tour.html

◆毎年恒例のコスタリカツアー企画、今回に限り大幅値下げ断行!!!

 来年もやります!コスタリカ・ピース&エコツアー。「軍隊をすてた国」「エコツーリズム発祥の国」として知られるコスタリカ。「平和の現場」は戦場ではなく、日々の暮らしの中や、私たちを包む自然環境にあります。

 コスタリカの「平和の現場」をつぶさに見ていくこのツアー、もちろん、私・足立力也が全面プロデュース&徹底ガイド!

 今回は、内容はほぼそのままに、なんと前回企画より旅行代金を10万円値下げ!298,000円でコスタリカの真髄に触れられます!

 またとないチャンスです。ぜひこの機会に、実際に現地に行き、コスタリカの人びとの話を直接聞いてみませんか?

【日程】

2月3日発 6泊8日(2月10日帰国)

【視察・交流予定】

●ツアーはエコツアーと社会見学の2部構成になっています。

・第一部・エコツアー

 このツアーには、2泊3日のエコツアーが組み込まれています。 今回は、「幻の鳥」ケツァールがよく現れる、サン・ヘラルド・デ・ドータ国立公園へ赴きます。ケツァール観察ツアーもあります!(オプション)

 ・第二部・コスタリカの歴史と社会の仕組み・形

 国家機関や病院、NGOなどを回りながら、社会のしくみと、その土台となる考え方を学びます。コスタリカの人びとにとって「へいわを作る」とはどういうことなのか、訪ね歩いて確かめていきます。

○視察と交流

 下記の候補の中から4ヶ所の訪問と、コンスエロ・バルガスさんまたはロベルト・サモラさんとの懇談を予定しています。

◇最高裁判所・憲法小法廷

国籍・年齢を問わず、24時間365日、憲法違反や人権侵害に関して訴えることができる法廷。イラク戦争後、パチェコ前大統領のアメリカ支持に対して大学生などから訴訟が起こり、大統領と政府が敗訴したケースは有名。

◇国立女性問題研究所

女性問題に関するあらゆる行政を司る研究所。元はNGOで、所長は女性問題担当大臣となる。こと女性問題に関しては他の省庁に対して排他的権限を持つ。

◇国立子ども病院

コスタリカ唯一の国立小児専門病院。すべて無償で医療を受けることができる。基本的に重篤な患者を扱い、中規模の病院などでは不可能な手術などを担当する。その医療技術はラテンアメリカでもトップレベル。

◇国会

国立博物館の前に建つ、こぢんまりとした建物の中にある。57議席の一院制を敷き、腐敗防止のため、国会議員は連続再選禁止になっている。

◇国立生物多様性研究所(インビオ)

NGOと国が協力し、国内の生物多様性について研究・教育を行う機関。多数のボランティアと専門家が協力し、高度な薬品開発まで行う。

◇コンスエロ・バルガスさん

ラ・カルピオ小学校教諭。平和文化教育プロジェクトリーダー

◇ロベルト・サモラさん

2003年、アメリカがイラク攻撃をした際、それを支持した大統領に対して違憲訴訟を起こして勝訴した大学生(当時)

※詳細な旅行日程は以下のURLをご参照ください。

http://www.myticket.jp/sjo201102.html

http://www.adachirikiya.com/tour1102/tour.html

※同サイトの下部にチラシ(PDF4枚)へのリンクもあります

○エコツアー:サン・ヘラルド・デ・ドータ国立公園

コスタリカで最も新しい国立公園。周囲には有機栽培のコーヒー農家も広がる。熱帯雲霧林にあり開発が進んでいないおかげで、「幻の鳥」といわれるケツァールやハチドリたちを観察する絶好のスポットとなっている。

【添乗員・ガイド・通訳・現地案内】

添乗員は同行いたしません。現地では足立力也がガイド・通訳・現地案内に当たります。

※足立力也の著書・作品

映画「軍隊をすてた国」(アシスタント・プロデューサー)

「平和をつくる教育」(共著、岩波ブックレット)

「コスタリカを知るための55章」(共著、明石書店)

「丸腰国家」(扶桑社新書)

「平和ってなんだろう」(岩波ジュニア新書)

【旅行代金】

298,000

※旅行代金のほかに必要な費用

・成田空港使用料  2,540

・米国空港税等   5,530

・コスタリカ空港税 26ドル(現地払)

・燃油特別付加運賃 21,000

・海外旅行傷害保険

・日程に記載されない食事

・個人的な費用

・サン・ヘラルド・デ・ドータのオプショナル

 (1)ケツァール探訪 2,000

 (2)森林散策と乗馬 4,000

 (3)キャノピー   4,000

【最少催行人数】

6名

お申込み・お問い合わせ

株式会社マイチケット

0648693444

info@myticket.jp

http://www.myticket.jp

【参照URL】

http://www.adachirikiya.com/tour1102/tour.html

(足立力也へいわ本舗)

http://www.myticket.jp/sjo201102.html

((株)マイチケット:このサイトの下部に

パンフレットのPDF(計4枚)へのリンクがあります)

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この足立力也さんは、2004年の参議院選にみどりの会議から出て、中村敦夫さん以下全員が落選してしまったのだそうです。同じようなところを歩いてこられていることを知って、コスタリカって、共産党系の方が多いので、警戒していたのですが、一安心でした。

足立さんが、私のイントロを見て模擬選挙の様子を送ってくれました。

想像していたのとは全然ちがいます。まず、模擬投票は、親子連れ、私は、学校とか、保育園でするのかと思っていた。

親の考えがそのまま出るかと思っていたら、連れてこられたきょうだいたちが、みんなそれぞれ違う人を選んでいるのでした。投票するときには、親と別れて、かなり小さい子まで、一人で投票所で、選んでいるのには驚きです。

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http://www.youtube.com/watch?v=Zk4Owy_0kK0

http://www.youtube.com/watch?v=YXnoVodRqh4

すべて私が撮影・編集したものです。

足立力也  





WIN WIN 2010年を振返る会」

     2010,11,24      於、東京KKRホテル

 24日は、「WIN WIN 2010年を振返る会」がKKRホテルで行われ、上京してきました。

 森山真弓、江田さつき、円より子、大河原雅子、林久美子、くちぶし万里、広津素子、など、現、前議員のみなさんの参加もあり、にぎかな会となりました。森山真弓さんは、足の具合が悪いということで、つえをついての乾杯の音頭でした。

 江田さんとは、同じテーブルだったので、いろいろと話ができたのですが、今の状況には、まいっているとのこと。スピーチの中では、「僕はずうっと菅直人を支援してきているので、彼の尻を蹴っ飛ばしているところです。めんどりがトキを告げなくてはならないのでは?」

 広津素子(佐賀3区で、保利耕輔を郵政解散で落として当選した)前衆議院議員が、御自分は、自民党であったにもかかわらず、こう言いました。「今回政権交代して本当によかったと思っています。65年間かかって作り上げてきた自民党的なものを変えていくには、必要だったのですから。そしてそれが変わるには、10年はかかります。だから、今は、民主党政権を応援します。

 自民党は、その後保利耕輔を公認し、広津さんは、みんなの党から出て落選したのでした。

 林久美子さんは、滋賀県から出た参議院議員で、今、文科省の政務官です。帆姿によろしくとのことでした。「お世話になりました」って。

 私は、最後の中締めをしたので言いました。

 「本当にめんどりがトキを告げるしかないでしょう。今世界で一番女性議員が多いルワンダの方をうちの方にお呼びして話を聞きました。ルワンダでは、憲法で、女性が30%いなくてはならないと定め、80人のうち22人は、11あるすべての県から2人ずつ出すことにして、30%を達成した。2008年の第2回目の選挙では、女性こそが平和を作るということが広まって、45人つまり56%を女性で占めることになった。日本でも、クオータ制を入れることしか、女性を増やす方法はないと思う」ということで、また、小選挙区で、男女一人ずつ選ぶという選挙制度について、披露しました。

 8時半に会場を出なくては、最終電車に間に合わないので、中締めをして帰ってきてしまいました。まだおいしそうなデザートが配られていたのをしり目に・・・・

 会が始まる前に、司会者の伊勢桃代さんと森山真弓さんが出会い、私が伊勢さんを森山さんに紹介しました。「国連で長いこと働いておられた伊勢さん」すると「え?! 国連の伊勢さん?よく知ってるわよ。」ということになり話が盛り上がっていました。そこで、世銀の副総裁をしていた西水美恵子さんは、と聞くと二人とも「知っている」そうで、森山さんは、「あなた本を書けば?と言ったら去年本ができて送ってくれた」とのことでした。やはり国際的に活動していた方には、知られているのですね。





「あぶあぶあの奇跡」長岡上映会

    2010,11,20、     於、長岡中央公民館

 20日は鈴木智子さんと「あぶあぶあの奇跡」を見に長岡に行ってきました。

 主催者が、ウィメンスタディーズ、という、女性団体であることが不思議だと思いながら、南魚沼から何人か誘って出かけました。私は、またいつものように鈴木智子さんの運転で行きました。

 長岡中央公民館大ホールという100人の会場に50人ぐらいです。10日の西水さん講演会で、ぱったりここの主催者と出会ってしまったら、「今のところ35人です」と言われてびっくりして、それから、障害者関係のmlにたくさん流したのですが、それを見てこられた方は、たった一人でした。

 映画の感動は、私にとっては2回目ですから、改めて記述することもありません。

 終わってから、まず、主催者から、この「あぶあぶあ」の創始者、東野洋子さんが、がんで入院するところで映画が終わっているのですが、その後も、入退院を繰り返していて、他にも何かあって、今年の定期公演会はできなかったと伝えてくれました。そのあとで、感想を述べ合うなど、15人ぐらいが残って話しこみました。そこで、私は主催者に聞きました。「この映画をどこで知ったの?」その答えは巻町(今は、新潟市西蒲区)在住の小林博子さんが、去年内山さんがやった上映会で見て感動したから、だということでした。内山さんの上映会は、私が、去年2月に岩波ホールで見てきて、「新潟でやろう」と誘った結果だったのです。ということでつながりあっていたことがわかりました。

 この話し合いに若いお母さん方が3人参加されました。この方々は、そろって2歳のダウン症の子どもさんのいる人たちでした。そのうちの一人は、子どもさんが会場に来ていて、一緒に来たおばあちゃんらしい人が楽しそうに一緒に遊んでいてくれたのでした。みんな「死にたい」状況をくぐりぬけてきた方たちでした。「実は、うちの町のダウン症の直君のお父さんが、土地と資金を提供してくださってできたのが、鈴懸だったのです」と私が話しました。「ダウン症の子どもさんは、宝ですよ」とも。今回の映画の主人公たちの半分以上は、ダウン症の方々でした。音楽を特に好み、性格が、神様見たいな方々ですもの。

 会場に入って行ったら、見覚えのある人が近づいてきました。内山先生といって、保育所や、小中学校の障害を持っている子どもたちのサポートをしている教育委員会所属の方。月が岡養護学校の教頭さんだったのですが、南魚沼市(学校教育課長だった南雲権治さんによって)に抜擢されたそうです。私からのお知らせをメールで見てきてくださった只一人の方でした。

 鈴木智子さんは、学校の中にボランティアとして「だんぼの部屋」という形で入り込んでいて、そこに現れる様々な悩みをこの内山先生に相談しているのでした。「だんぼの部屋」というのは、多分文科省が、予算を付けて、地域の方が学校の中の住み心地が悪い生徒や親の駆け込み寺(大きな耳で聞くという事からの名前)として存在させるということで発足したのですが、去年から、予算が無くなって、ボラで続けているのです。鈴木智子さんの話を聞いていると、かなりの親子がそこを必要としている様子です。

 今回もう一人、私からの誘いで行った人がありました。それは、グループホーム桐の花の管理者星野淳子の娘若井みゆきさん。彼女は、障害者による洋服作りや、小物つくりなどのメニューをいろいろなところから探してきたり、自分で開発したりしていて、かつて、障害者の作業所に勤めていたこともあって、今度、桐鈴会で始めようとしている日中活動の場で働いてもらおうと考えている人です。

 桐鈴会では、来年4月1日(今年度最後の日)に障害者のグループホーム(6人定員)がオープンすることが決まり、その後、来年度には、桐鈴会の隣の土地が手に入ることになるので、そこで、ケアホームと日中活動の場を新築しようという計画になっており、これらの発足記念に私の中では、この「あぶあぶあ」の上映会をしようと考えているのです。そのことを話したら、「上映会ではなく、楽団を呼んでください」と主催者の皆さんが口々に。どうなるでしょうか?





桐鈴会11周年記念行事

「石飛夫妻講演会」   2010,11,14

14日は、桐鈴会11周年記念行事でした。前日から準備をしておいたリンゴケーキを焼いて、鈴懸に歩いて行くとちょうど講師の石飛さん御夫妻が到着したところ。テレビで見ているので、石飛幸三さんは予想どうりでしたが、佐々木静枝さん(通称使用)は初対面。でも、なぜかずうっと前からの知り合いという感じで、桐鈴会、萌気会と案内して12時までの時間を過ごしました。案内しても、何の反応も示されない方々もあるのですが、このお二人は、興味しんしんで、次々に質問されたり、感嘆されたりするので、案内し甲斐がありました。

帰って来る途中95歳の桐鈴会評議員清水スイ子さんを拾って12時前に鈴懸に戻って昼食会。厨房職員たちが腕をふるって呉れた料理が、大盛りにそして数多く出されます。佐々木静枝さんは、たかひろの秘書宇野さんのおばさんで、新津出身。なんと広田セツ子施設長と三条高校で、1年違いだった。新潟出身だけあって、ぜんまいをおいしいおいしいと絶賛。

 私は、家から持ってきた「越の寒梅」をついで回ります。家族の方々もたくさん見えているけど、多くの方が車なので、なかなか受けていただけない。

余興となって、入居者のカラオケの後、職員による出し物。これがなかなかふるっていて、皆さんの笑いを誘いました。桐鈴会一の古株で、かつ職員最年少の小林裕子が、1月から産休に入るのです。その赤ちゃんが生まれたということで、「こんにちは赤ちゃん」をみんなで歌いました。それぞれが妊婦になったり、ベビーカーを押したりして小林の「ママ友」となるのですが、小林が押して出てきた乳母車に乗っているのは、50代の島村義彦。顔だけ出して後は、赤ちゃんの服に可愛い手が出ている。その姿がまずは笑いを誘い、小林の語りがまたその上をいった。「この赤ちゃんは、ミルクをちっとも飲まないで、ビールとたばこだけが好き」そして、哺乳瓶からビールを飲む。

2時からの講演会。松代病院から3人こられるという情報があったので、遠くから大勢こられたら大変、と会場つくりに頭をめぐらせたのですが、100人ぐらいで、何とかみんな坐れて、始めることができました。

 まずは、佐々木さんから「訪問看護の魅力」。病院にいたのでは、味わえない醍醐味について語られました。

 石飛さんは、5年前に特養の医者になってからのことをたくさんの数字をあげならが、話します。「老衰末期の人が胃瘻をつけたくないと80%が言っているにもかかわらず80%の人がつけられている。入居者や家族の60%がホームでの最期を望んでいるが、80%の人が病院で最期を迎えている。」ところが、老衰末期の方々は、基礎代謝が下がって、必要カロリーは下がっているのに、胃瘻で入れるカロリーは不変。そのためにあふれて、肺炎になる。「病気と老衰は違う」「老衰に対して病院ではすることがない」「救急車を呼べば病院に行って、治療することになる。だから、何もしないでと思っていたら救急車を呼んではいけない」

 石飛さんが、入ってから、ホームで看取りをするようになったら、介護職の人たちが変わってきて、辞めなくなった、という。その前は、辞める人が多かったのだそうだ。それだ!と思いました。実は、桐鈴会の職員は辞めないのです。ケアハウスでも、グループホームでも看取りをする。それは、大変ではあるけど、やりがいがある。それが、結局仕事を続けていく源泉になっているのだろうと思いました。

1時間半があっという間に過ぎて、残り30分をやりとりにしたのですが、いろいろの方が思いを語りました。元理事長だった滝沢エミカさんは、「以前八色園(大和病院に併設されている特養)に勤めていたのですが、そこでも斎藤園長が、石飛先生と同じ考えでした。看取りをしていました」そこへ当時大和病院長だった卓夫が登場「斎藤園長は、本当に病院に来させなかった。病院のベットが空いているから、よこせばいいのにと思っていたくらいだった。」と言った後、会場の方が、看取りができるホームとできないホームがあるが、どうしたらできるようになるのか?の質問に対して、「理念でしょう」と答えました。トップが理念を持っているかどうかで決まってくる。「30年前すでに斎藤園長はその理念を持っていたからそれができた」と。

 月に1度萌気園に内視鏡をやりに来ている二男巌志が、会場にいたので、彼にしゃべらせました。「僕は、ずうっと急性期の病院で、胃瘻を作ってきました。でも、本当は、病気だけを見るのではなく、石飛さんがおっしゃったように人を見ていきたいと思っている」数年後には、もえぎに来ることを皆さんに紹介しました。

佐々木さんのお姉さん(宇野君のお母さん)が、家族5人で来られていて、その紹介をしたり、4時を過ぎても、立ち上がる方はなく、終わりにしてからも石飛さんの著書を購入してサインを求める人の列となりました。お茶を飲みながらの懇親会を呼びかけ、その後、職員たちや、役員たちとの夕食会をワイナリー「ブドウの花」で持ち、皆が口々に石飛夫妻の話の感想を述べ合ったりして、別れました。ここには、わざわざ大宮から、石飛さんに会いたくてやってきた谷合医師も参加。谷合さんは、この11月から、もえぎ職員となって、名古屋の全国集会にも参加していたのですが、石飛さんの本をすでに読んでいて、でも講演会には来られないから夕食会にだけ、ということでの参加でした。 

浦佐温泉に泊まっていただき、朝、我が家に立ち寄っていただいたのですが、やっとからくりがわかりました。

 いただいた名刺が、お二人同じ形式のもので、「社会福祉法人世田谷社会福祉事業団」。佐々木さんは、その「訪問サービス課長」で、いくつかのヘルパーステーション、訪問看護などの人事もしていて、経理なども想像できないような大きな会計を預かっているのでした。石飛さんは、そこが運営している特養の医師なのでした。石飛さんが、そこに赴任した時には、ちょっとの事でもすぐに入院させてしまう看護婦がいた。介護職の人たちは、心をこめて介護している、外科医だった石飛さんにとっては、始めてみる介護職場だったので、介護の人たちの努力が、入院させることで、続いていかないことに問題を感じ、なるべく入院させない方向にもっていきたいと思った。佐々木さんの力を借りて、看護婦を人事交流させ、同志を得て、ホームの改革が進んだとのことでした。 

もともと石飛さんは、「医者は、点滴のやりすぎよ」という佐々木さんの言葉に動かされたといいます。医者としては珍しく自分に対する批判をちゃんと受け止められる人。佐々木さんが、日ごろの夫婦関係の中でも主導されている実態がよくわかってしまったのでした。

お二人とも「素晴らしい方々と出会えて、いろいろと勉強させていただいてうれしかった」と言いながら帰って行かれました。

桐鈴会の入居者のご家族や、入居者も参加されていて、満足していただけたようでした。

 

 

 

  西水美恵子講演会

 「私たちの国づくりへ・ブータンの国から学ぶ」

     2010,11,10    於、リリックホール(長岡)

10日は驚いてしまいました。この西水美恵子さんという方を今まで知らなかったということについてでした。どこから来たのか分からないけど、チラシがあって、これは行ってみなくてはという思いで長岡のリリックホールまで一人で行ってきました。

「私たちの国づくりへ・ブータンの国から学ぶ」というタイトルで、主催は、長岡商工会議所青年部・長岡青年会議所・長岡法人会青年部・長岡GNH研究会です。

2時から5時までで、チケットが2000円です。心配だったので、午前中に電話してみました。「チケットはすべて売りつくしているのですが、今日は天気が悪いし、来ない方もあると思うので、当日券をお買い求めいただいて、はいれるようにします」ということで、出かけました。前から3列目に座って、よくよく見ながら聞きました。西水美恵子さんは、1980年から23年間世界銀行の副総裁をしていました。彼女が言うには「世界銀行というのは、世界から貧困をなくすのが仕事でした。だから顧客は貧民」ということで貧しい現場に行きます。世界中のまずしい現場をたずねてカシミールにホームステイをしたとき、そこのお母さんが、「水を汲みに朝1時間かけていきます。帰りも1時間。それを1日3回やります。そんな生活想像できますか?」毎日毎日何の変化もなく同じ生活です。はじめてそこの家に行って荷物を置いたときに「こんなところで、この人から世話になる生活をするなんていやだ」と思ってしまったのです。このことが私のとげになって、そのあといろいろなことが考えられた。と西水さん。

実に静かな語りです。途中しばしの沈黙が、言葉よりも内容を伝えてしまっていると感じました。化粧っ気のないあるがままの姿で、「頭とハートがつながっている」語りでした。「silence is power」という言葉を終わってからのやり取りの中で紹介した西水さんでした。

ブータンの王様の話はすごい。16歳で即位し、17歳の時に僥倖。全国を足で回って、国民の声に耳を傾けます。標高200メートルから、7000メートルの山坂を上り下りしながら歩きます。国民に暖房がないなら、王様も暖房なし。そんな生活の中で、国民の幸せを祈るのに毎日1時間半を使う。2007年には97%の国民が「自分は幸せ」という。「ブータンはもういいから日本に来て」と言ったら、「為政者に頼るのはダメ。国は人々が作るのだから」という。「上に立つということは下に立つこと」などなど「さかさま信念」を持っている国王4世は、2007年すっかり身を引いて、5世に渡した。

日本には、かつて、上杉鷹山がいた。と西水さんが語り、「ブータンの国際空港に降り立ったときに感じたオーラが、庄内空港に降り立ったときに同じものを感じた」とのこと。庄内空港は、上杉鷹山の当時の領地内にある。

 この西水さんは、どうやら、経済界の人たちはよく知られているらしく。彼女の著書「国をつくるという仕事」(「感動した本」のコーナーに紹介あり)を読んでいない人は、ほとんど会場にいないようだった。リリックホール大ホール満席の聴衆は読んでいる人らしかった。私の隣の人は、山形県から来ていて、「2年前にテレビで見てびっくりして彼女のHPで講演をチェックしてきた」とのこと。

帰ってきてさっそくその本を注文した。会場で買わなかったのは、アマゾンでもっと安く買えるのでは、との魂胆だったが、ほとんど安くはなっていなかった。

 西水さんからの一番のメッセージは「think out of box」枠から出て考えろ、ということだった。

 年齢は、63歳ぐらいか? 東京都立西高校を飛び出して(彼女は「逃げ出した」と言っていた)アメリカに行ってそのまま世界中を生活の場にしてきたようだった。逃げ出したのは、「女子にとって日本では夢がないと思ったから」のようだった。

主催団体の一つ長岡GNH研究会は、羽賀友信さん(国際交流協会代表で、夢草堂で講演していただいたことあり)が代表でした。さっそく私も会員になりたいと伝えるつもりです。羽賀さんもブータンに行ってきたばかりで、そこからのお土産をいろいろと披露してくださいました。

 

 

 

柏崎で堂本暁子講演会

2010,11,7    於。柏崎市市民プラザ

柏崎市制70周年記念事業でかつ第25回男女共同参画社会を目指す柏崎フォーラムが、6日7日に市民プラザで開かれました。7日午後は、堂本さんの基調講演でした。鈴木智子さんの運転で、高速を使って会場に行きました。

堂本さんと昼食を一緒に取るということで、12時に控室に行ったのですが、堂本さんは、話の前には、食事をとらないことにしているとのことで、柏崎市の男女共同参画の中心メンバーである関根冨紀子さん、新潟県女性財団理事長の大島煦美子さんと私たち2人での昼食でした。

堂本さんは、柏崎に住んでいた女性を二人紹介されました。

 14歳から政談をしていたという西巻開耶(にしまきさくや)、その後女性政治犯として逮捕され、罰金刑に処される。5人の子どもを残して42歳で亡くなる。年の離れた80歳代の夫が亡くなってすぐだった。婦人参政権を唱え、女性の地位向上に活躍した田中キンは、その夫が内郷村長として、女性参政権を唱え、市川房枝も、内郷村に来ていたという人。

柏崎市の男女共同参画条例を高く評価。各種審議会の女性登用率40%のほか、防災災害復興時における女性の人権の尊重が入っているのは珍しいという。

ベビーホテルのキャンペーンから、政治に出るように言われたが、9年間決心できなかった。参議院議員になった時、イギリス人の友人から、「日本人は政治をバカにしすぎる。今までは、自分のために生きてきたけど、これからは、人のために生きる人生ですね」と言われ、自信をつけていただけた。

自・社・さ政権のときには、橋本総理のほか土井たか子さんと堂本さんがいて、二人女性だったことから、いろいろとうまくいった。1995年の北京会議から、男女共同参画2000年プランや、男女共同参画ビジョンに「女性の健康」を入れることが出来たりした。男女共同参画社会基本法ができ、男女共同参画本部が、各省庁をカバーするように内閣府の中に作ることができた。

千葉県知事になって、女性外来を作ったら、その後2年間でほとんどの県が、女性外来を作った。それだけ必要とされていたということでしょう。と堂本さん。女性の調査をしたら、男性のことも浮かび上がってきた。たとえば、脳梗塞は、男性は40歳代がピークだが、50歳代がピークとなる。そんなことがあって、男性外来も作ることになった。

障害者差別禁止条例ができる過程も話され、迫力ある話に皆さんとっても勇気づけられ、参加者150人ぐらいがエンパワーされた感じでした。会田柏崎市長さんも、ご夫妻で初めから終わりまで熱心に聞いて、最後の見送りまでされていたのが印象的でした。実は、この同じフォーラムに私たち夫婦が呼んでいただいたことがあったのですが、そのときには、市長さんは、姿を見せることもなかったのでした。その頃は会田さんの前の市長さんでした。

みんなで堂本さんを見送って、私たちも帰路につきました。「楽しかったね」と話しながら帰ってきました。

 

 

 

マリールイズさん講演会「新しい命をつなぐために」

2010,10,31    於、南魚沼市浦佐、夢草堂

31日、からりと晴れた空のもと、ルイズさんの講演会が夢草堂で開かれました。

 浦佐駅に現れたルイズさんは、とても背が低くて驚きました。写真を見ていると背が高く見えるのです。「頭に物を置いて運んでいたから高くなれなかった」と笑っておられました。日本では、頭に物を置いて歩いていると車の中から運転手が振り返ってみるので、危ないからやめました。とのことでした。とても流暢な日本語です。

人数はきっと少ないねと言っていたのですが、早々と会場に現れたのが、新潟大学の宮田教授(国際センター)。それで急きょ椅子を鈴懸から運んで、席を増やしました。湯沢から、チラシを見たという親子(息子が20代)など何人か知らない方も見え、40人近くの方が、身を乗り出して聞いていました。

長女萌実が教員をしている札幌の北星女子中高校でルイズさんの講演を聞き、生徒たちが大変感動して、すぐに校内新聞を作って報道した、ということを話して、講師紹介としました。また、昼食を食べながら伺った「出産のとき、親子ともに元気となる確率は50%、どちらかがなくなる確率も50%というのがルワンダの現状」4人目を日本で生んでどれだけ安心できたかということも報告しました。

ルワンダという国の位置、気候、歴史と進んで、内戦が始まる日のことに至るとだれしも握りしめた手に汗がにじみ出る感じでした。ものすごい地響き(これが、大統領の乗っている飛行機が撃ち落とされた音だった)に続いて電気が消え、真っ暗に。それでも始の2日間は電話が通じた。初めにかかってきた電話が、日本からで、その電話で内戦だということを知る。2,4,6歳の子供を一人でつれて、(夫は、遠くに赴任していた)歩いて逃げた。

日本には、その2か月前まで、海外青年協力隊のカウンターパートナーとして福島に10ヶ月間暮らしていたから。その10ヶ月間は、夫が子どもを見ていた。日本の友人たちの尽力で、難民キャンプにいたルイズさんたちを日本に救い出すことに成功した。1994年12月から、親子5人で(その後4人目の子供が生まれた)福島に暮らしている。生きていればなんとかなる。内戦の悲惨さよりも、生きていればなんとかなっていくという「希望」を語っていきたい、という。

内戦は、部族対立という言い方で報道されていたが、そうではなく、もともとルワンダは、王国だったのだが、クーデターで大統領が権力を握り、王様は、ウガンダに難民として逃げた(1973年)。その勢力が、17年後に国に戻ってきて愛国戦線を立ち上げる。1994年この二つの勢力の権力争いで、4ヶ月間の内戦、大虐殺。宗主国だったベルギーによって作られた対立という面もある。

12歳のときに、学校で習って、日本という国を知った。ODAによって日本は、大型バスをルワンダに送っている。このバスは、首都キガリから、各都市に毎日朝8時に一台が走る。各都市からもキガリに来る。大きな字で「日本から」と書いてあるので、みなその事実を知っている。ODAの悪口ばかりが届いていましたが、こんな風に役立っていることもあるのね。

内戦後、ルワンダは、憲法で女性議員が30%を超えなくてはいけない、と決めた。ところが、自然に任せていたら、きっと立候補者がいないだろうということで、11ある各県から、二人ずつ女性を出すようにと決めて、とりあえず、22人は確保することができた。その選挙では、80人中24人でぎりぎり30%だった。ベルギーや、ドイツによって植民地化されていたので、ヨーロッパと同じころに女性の参政権はととのっていた。第2回目の選挙で、女性国会議員は45人となり、56%になった。だれか切れ者の人がいたのですね。22人の女性議員をそのようにして確保したということを聞いて、やはり日本でもクオータ制(30%とか割り当てる)を敷くことしか、女性を増やす方法はないと改めて感じました。ただ、私のアイデアは、全国の小選挙区を男女一人ずつ選ぶ形にするというのが一番だという思いには変わりがありません。これで、50%が一挙に達成できてしまうでしょう。このことをもっと大きな声で提案していかなくてはと思っています。

質疑の時間になってから、いろいろな話が出ました。新潟大学の宮田先生は、「ついこの間までの情報を知っているので、最近の新しいニュースは?」と質問。

「いい質問をいただきました。実は、ついこの2週間前ルワンダに行っていたのです。それは、日本の母子手帳をルワンダに普及したいと思っていたら、最近、知り合いが、市長になって、その市で、母子手帳を作るというので、行ってきたのです。」というではありませんか。日本人にとっては、母子手帳などまるで空気のようなもので、あるのが当たり前、になっているのだけど。蛇口をひねれば水が出るということもいかにありがたいことであるか、と話していました。

ルワンダでは出産時の死亡確率が高いことから、日本での出産がとってもありがたかったそうで、母子手帳をもらったときに、「まだ生まれないうちから歓迎してくれているという事にとっても感動した」のだそうです。

親子で参加の湯沢の「子ども」のほうの方が「ルワンダ語を教えてください」と言って、こんにちは、ありがとう、さようなら、を教わりました。ルワンダ語は、文字がなかったので、文字がある言語として今まではフランス語を学校で全員に教えていたのだけど、3年前から英語に変えたのだそうです。それってものすごく大変なことだと思いました。案の定、学校を3ケ月間休みにして、先生たちが、住み込みで英語を習ったのだそうです。

 そうはいってもルワンダは、国全体が同じ言語であるというのがとってもありがたいことなのだそうです。ヨーロッパ人が、アフリカにかってに線を引いて分けてしまったので、単一言語の国は少ないらしいです。

 ラジオでは、常に4ヶ国語で、同じ内容を語っているとのこと。ルワンダ語のほかに仏、英、スワヒリ語なのだそうです。

3人の子どもをつれて、命からがら歩いて逃げたところは、コンゴ共和国の難民キャンプだった。そこにfaxが1台だけあったので、日本に平仮名で書いたfaxを送った。それを見ていたアムダという国際的に活躍している団体(アジア医師連絡協議会)の人が、日本語が分かる人だということを見てとって話しかけてくれ、そこの通訳として雇われて、給料がもらえるように。そうして福島との連絡が取れて、日本に逃げることができたという。さまざまな「奇跡」が重なってようやく家族そろっての日本への脱出が成功したのでした。

しかし、難民キャンプでの生活があまりにひどかったので、自分たちだけがそこから抜け出したのは、何か使命があるのでは?と考えて、教育が受けられていたから、日本へ脱出できた、という思いから、母国に学校を建てる活動を続けてきました。小中学校で、280人の子どもが勉強している。年に1回は、それを見に行っている。

終わってからの懇親会で、「講演料はいくらなのですか?」とだれかに聞かれ、「聞いていただけるところなら、どこへでも行っています。講演料は問題にしていません」私と同じ考えの人だと思ってしまいました。アフリカの人たちが作っている壁掛けや、ネックレスなどを販売したら、3万近く売れたので、謝礼とともに持ち帰って、学校つくりに役立てていただけそうです。

すぐ隣の人との間で殺しあうというような悲惨なことを繰り返さないように、女性が政治を行ったらそのことが実現できるのでは?と国中の人たちが思い始めたとのことでした。難民キャンプから、もと住んでいたところに戻ってくると、そこには、自分の家族を殺した人たちも近くに住んでいる、という状況です。そこで、憎しみ合うことから解放されるには、字が読めて、正確な情報を得られることが必要だと、ルイズさんは言います。彼女のお母さんは、字が読めないので、日本に来たときに、80歳ぐらいのおばあさんが新聞を読んでいるということにとても驚いたそうです。「母と手紙のやり取りができないということだけは、心残りです」

みんな貧しくて食べていくことさえままならないときに、武器を持って殺しあう、その武器をだれがその人たちに渡したのか、そう考えられれば、殺しあうことはしないだろうというルイズさんのオプティミズムが、羨ましくさえありました。

 

 

 

新発田市長選、佐藤浩雄応援の会

2010,10,28    於、新発田市生涯学習センター

28日夜新発田で開かれた佐藤浩雄さん新発田市長選への応援集会に私たち夫婦二人、スピーカーとして参加してきました。

ずいぶんしばらくぶりの新発田でした。会場入り口で出会った後援会長の大橋さんとは抱き合ってしまったぐらいなつかしかったです。ステージに座ると懐かしい方々がたくさん見えます。でもよくよく見ると半分以上の人は、見たことがない人たち。たぶんそれは、現新発田市長片山氏の後援会の方々だったのでは?

2週間ぐらい前に片山さんが来られることになって急きょ広い会場(300人)に変えたといういきさつもあったようです。片山さんが、はじめにマイクを持って語りだしました。「福祉に取り組むには、何といっても財政がしっかりしていなくてはならない。新発田市は、私が市長をしていた12年間の間に新潟県で1、2の財政力になっている。それを背景に駅の橋上化をしたい。新発田病院は、日本でただ一つのリューマチセンターを持つ。にもかかわらず、駅が階段のまま。その階段を駅員が車椅子のまま持ち上げているのが現状。橋上化というのは、福祉の問題。黒岩たかひろさんの力を借りて、国交省馬淵副大臣につないでもらい、55%の補助率で国から助成が受けられることになった。このことを市議会が全員一致で決めたにもかかわらず、これに反対だと言っている市議が市長選に立っている。このことをきちんとやりとおしてくれる佐藤浩雄さんにどうしても市長になってもらいたい」と訴えました。

その後、私たちの番となり、「コミニュケーション」というテーマを与えられての話です。まず、卓夫が出て行きました。

「男性と女性を比べると女性のほうがつながりやすいですね。昔あった井戸端会議みたいなやり方で話していく。私のところの患者さんでも女性たちは、夫が亡くなってからも元気ですね。そこに行くと男性は、プライドとか、沽券とかが邪魔をして、なかなか語りかけられないし、弱音を吐けない」

「デイサービスに来ているお年寄りが、なかなか若者たちと話す機会がない。職員たちはいつも忙しそうにしている。だけど本当はゆっくり年寄りの話を聞いたり、若者との会話があってもいいと思う」

「年寄りのほうから、自分の戦争での体験を広告の裏に書き始めたことがある。片麻痺で、きかなくなった手のリハビリのために拙い絵をかいて、それに辞書を引き引き文字を書いていた。それを出版社に持ち込んで、絵本にした。偉い人ではなく、農家の息子が書いているので、ありのままを書く。殺したり、殺されたりもあれば、従軍看護婦が風呂に入っているところをのぞき見したところなどが書かれている」と言いながら、「一兵卒の日中戦争」という本を紹介した。

そこへ私が登場して、佐藤浩雄さんへの感謝と彼の持つ力について話した後、「しかし彼は、妻の恵美子さんあっての浩雄さんですよね」と語りかけると、皆さんがうなずいて、肯定してくれた。「恵美子さんと宇洋の選挙で一緒に回りましたが、それはそれは、関係つくりがうまい。卓夫が言うようにやはり女性のほうがこういうことでは上なのかも」

「我が家のコミュニケイトでは、初めに夫婦のことを話します。今年金婚式をしてもらって、子どもたちが作ってくれたアンケートに基づく冊子にたかひろは『この15年ぐらい異様に仲良くなった。なぜだ』と書いています。私たちは、さんざん喧嘩をして、別居だの離婚だのを繰り返して、33年たってようやく夫婦になれたと感じました。やはり喧嘩をしあいながらお互いの理解を深めたのでしょう。子どもの前で喧嘩してはいけないというけど、私は、こそこそするより、堂々としたほうがいいと思っています。子どももなぜぶつかっているのかわかるから。」などと話した後、親が子どもにしてあげられることは、子どもがとことん落ち込んだ時に、大きな風呂敷を広げて待っていて、どこに落ちてきてもそれを受け止めて、包み込んで抱きしめるということぐらいなのでは?

 そして不登校の子どもたちのことなどを話して締めくくりました。

最後が、浩雄さん、財政学に詳しいだけに、数字を挙げて駅の橋上化のことをわかりやすく話しました。どれだけかかって、JRがどれだけ出して、国からの補助がいくらで、後は、必要な6億円を借りて、それを20年で返すので、1年間には、3千億円しかいらない、と実に明快です。そして市民との関係を対等にして、いつでも市長と語り合えるような工夫をしたいとのことでした。

終わってから、浩雄さん夫妻が玄関口にダッシュしたとき、私も走って追いかけ、帰っていく皆さんにあいさつをしました。卓夫が紹介した「一兵卒の日中戦争」を注文していった方や、「いいお話をありがとうございます」と言いながら握手をしていく方々などあって、とりあえず、私たちの役目は、果たせたのかと安心して帰ってきました。

11月21日投票の新発田市長選挙、あと二人出ている人があって、最近手を挙げた鬼島さんがどんどん追い上げているとのことでした。21日の朗報を待つことにします。

(実は、とても残念な結果になってしまいました。市議会議員として駅の橋上化に賛成したのに、反対と述べた方が当選されました。)

 

 

 

なじょもネット

2010,10,25     於。南魚沼市大和庁舎

25日、函館市議の竹花郁子さん、松山市議の武井多佳子さんのお二人が視察に来られました。この二人とは、4年前にニュージーランドに一緒に行って以来の友人です。あちらの議会事務局から、南魚沼市の議会事務局へ連絡があって、南魚沼市の福祉を聞かせてほしいと言ってあったのでした。浦佐の駅から市庁舎に直行しました。私も一緒に聴かせていただくことにしていたので、3人で入っていくとすでに議会事務局の方は、会議室で待っていてくれました。そこへ、関係者がぞろぞろと入ってきて、10人を超える人たちで椅子がなくなる始末。「遠来のお客様なので」と福祉部長さんの挨拶でした。大歓迎ぶりに私たちは感激して席に着きました。

一番の説明は、「なじょもネット」でした。実は、私もこのことを知らなかったし、帰ってきて話したら、卓夫も知らなかったのです。今年の4月から始まったもので、介護保険からこぼれている高齢者などへのサポート体制で、有償ボランティアの集まりです。「生活・介護サポーター養成講座」5回を受講した人たちで構成されます。一番多くの要請があった「仕事」は「住居の掃除、整理、ゴミだし」2番目は、「話し相手」3番目は、「官公庁・医療機関などへの連絡」です。30分までが150円と言う経費です。これから冬になるので、雪片づけなどが入るのでは?とのこと。社会福祉協議会が、受託して運営しています。社協の方も二人参加して、具体的な話を聞くことができました。

「話し相手」ということで、行くことになっていたボラの方が、「大切な用事ができて、翌日にしてください」と連絡したら、「私のところに来るのは、大切ではないのか」というクレームがついたこと。週1回の来訪をこちらが思っているよりもずうっと大事に思っている利用者さんの思いが伝わってきました。

そこでの1時間が瞬く間に終わって、桐鈴会、萌気会を案内して、さくり温泉に一緒に泊まって26日の午前中も萌気会の施設や、「まちづくり委員会」で検討して作り上げたコミュニティーホールの緞帳(保育園児作)や、23年4月にオープンする浦佐認定子ども園の工事現場などを見て帰って行かれました。

武井さんは、もともと訪問看護婦をしていた方だったので、医療福祉には明るくて、かなり専門的な質問もされていました。竹花さんは、今回初めて知ったのですが、大変な経歴の持ち主だということがわかりました。パリで8年間服飾デザインをしていたという話は聞いていたのですが、服飾デザインの仕事が軌道に乗ってパリで、独立の事業所を立ち上げる矢先に、夫の関係や、3人の子どもの学校のことなどがあって、帰国した。「文化服装学院」という当時は、大学にはなっていなかったところを卒業しているので、大学卒の資格がないままに大学で教えることができるということをキャッチして、トライ。いくつかの大学でかけもちをしたり、市議をしたりしながら、市民運動もたくさんしていて、DV関係でも活躍してきました。さくり温泉では、3人が同じ部屋で、畳の上に3枚の布団を並べて、語り合うことができたのでした。

彼女たちが来てくれたことによってはじめて知ることができた「なじょもネット」は、きっとこれから、この地でいろいろな力を発揮してくれることでしょう。私たち夫婦も必要な方を見つけたら、これがあることを知らせて、利用させていただきたいと思いました。

 

 

 

  「女性=健康」ー健やかな日本の今日と明日のためにー

   2010,10,12      於、東京、赤坂プリンス

「女性=健康」ー健やかな日本の今日と明日のためにーというシンポジウムが赤坂プリンスホテルで開かれ、名古屋の帰りに東京で泊まって、これに参加しました。

 日本看護協会とMSDという製薬会社の主催です。後援団体には、厚労省、文科省、日本医師会などが入っています。

 そもそもこのタイトル「女性=健康」というのは何なのか、女性の視点で健康を広く考えていこう、というような感じで、どうやら世界では、すでに始まっているもののようでした。

基調講演の3人は、堂本暁子さん一人が日本人で、後はブルントラント元ノルウェー首相、もうひと方は、アメリカの医学関係で活躍しておられる女性。

堂本さんが、ご自分の「菜の花日記」では、このように書かれていました。

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 世界の女性指導者の中で、「心から尊敬できる!」と思える方は、そう多くはありませんが、その中のひとりが、ノルウェーのブルントラント元首相です。心の底から尊敬しています。

 グロ・ハーレム・ブルントラント氏は1975年、35歳で環境大臣に抜擢され、1981年、41歳のとき、ノルウェーで最年少、かつ、初の女性首相となり、以降、3期・10年以上、首相を務められました。

 198387年、国連・「環境と開発に関する世界委員会」の委員長となり、報告書『地球の未来を守るために』において「持続可能な開発」の概念を提起し、1992年にリオで開催された「地球サミット」を実現しました。

 199803年には、WHO(世界保健機構)初の女性事務局長に就任、途上国の貧困の視点から、マラリア・結核などの疾病の撲滅に取り組まれました。

 1012日、赤坂プリンスホテルで日本看護協会などが主催した【「女性=健康」ー健やかな日本の今日と明日のためにー】というシンポジウムで、私は、そのブルントラントさんとご一緒させていただきました。相変わらずバイタリティいっぱい。懐かしさがいっぱいに広がり、旧交を温めました。

 ブルントラントさんは「ライフスタイルと女性のリーダーシップ」という基調講演の中で、女性が意思決定のポジションにつくことが、どんなに大切であるかを力説されました。私にとっての彼女は、すでに男女の域を超えた、世界政治のリーダーに思えるのですが、今回は日本の男女共同参画に照準を合わせてのおはなしでした。

 日本では、政治・経済・大学・公務員・医学などの領域で、意思決定の場に女性があまりにも少ないことを知って、総理大臣としてジェンダー主流化を進めてこられたブルントラント元首相は驚きを禁じ得ない様子でした。

 壇上で彼女はさっと日本語の著書を出し、サインをして私にくださったのですが、その本には、次のように書いておられます。

     **************

 「初の女性首相、初の女性事務局長であったために、はじめのころの私の仕事の進め方は、どちらかといえば男性的であったといえます。しかし、仕事の経験を積み上げるにつれて、女性としての視点も示したいと願うようになりました。ただし、これまでのあり方を全面的に変えようとしているのではありません。

 国の政治を動かしたり、世界の保健を考えるときには、必ず基礎となる事実や数字があり、これは性別には全く関係ありません。しかし、何に疑問をもつか、何を評価するかといったものは、性別によってしばしば異なることは確かです。私は、仕事の中に、こうした女性としての視点、いわば「ソフト」な方向も持ち込みたいと考えました」

  (『世界で仕事をするということ』PHP研究所・2004年刊)

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私はこれを読んでさっそくアマゾンにブルントラントさんの本を注文しました。

堂本さんは、国会議員、千葉県知事として取り組んでこられたことをパワーポイントでとってもわかりやすく話されました。千葉県独自で、女性の健康に関する疫学調査を実施して、それをもとに女性外来を立ち上げ、それが、瞬く間に全国に広がったのは、それだけ必要性がたまっていたということでしょう。

その後のパネリストたちの発言では、いちばん興味深かったのは、古川貞二郎元厚生省事務次官の発言でした。まったく聞いたこともないことばかり聞かせられて「深く反省」を述べ、この「女性=健康」というスローガンを常識への挑戦、だというのでした。女性たちが何を考えてきたのか、このように全く知らない男性たちが多いということに改めて対策を考えなくてはと思いました。

 樋口恵子さんの発言は、いつもながら会場を沸かせました。どことかの調査で、60歳以上の男性の死亡率は、飲みすぎ吸いすぎ、であるのに対して、女性は、「夫が生きている」なんだそうです。

この会に参加した目的には、もう一つあったのです。

 今年の2月に堂本さんがゲストとしてきてくださって以来、開店休業になっている「女政のえん」のことなのです。次回は野中広務さんだと予告したのですが、これが暗礁に乗り上げ、次は、南野智恵子さんにお願いしようということで、連絡を取っていたのですが、今年の7月で、参議院議員をおやめになって、その前から連絡はしていたのですが、どうしても届かないのでした。今回、このシンポの主催者の中に南野さんのお名前を見つけ、ここに行けばお目にかかれると思ったのです。案の定山下清子さんがとってくださった前のほうの席に座った途端に、いちばん前の席に座ろうとする南野さんを発見!

さっそくご挨拶にあがってお願いをしたところ、実に快くお引き受けいただけたのです。スケジュール調整もできて、12月25日(土)の午後ということになりました。(お知らせ参照)

シンポジウムが終わってから、グループインタビューがありました。これは、シンポの感想を述べたり、日ごろの活動を報告しあったりして交流するということが目的で、MSDという製薬会社の主催でした。18人の活動的な人たちの集まりなのですが、本当のところ何が目的の会なのかよくわからないまま1時間半が過ぎてしまったという感じでした。ほとんどの方は、首都圏に近い方なのですが、山下清子さんが富山から、他には山形からのほかは新潟だけ。その新潟が、私のほかに魚沼市から3人も参加しています。不思議なことだと思っていたら、魚沼市の職員が、内閣府に出向していて、このイベントにかかわっていたのでした。その魚沼市の職員は、宇洋と同じ六日町高校の出身で、海映と巌志が同じ学年だったという佐藤豊さんでした。

次世代育成のMLで知り合った方々が数名いらして、この子育て支援にかかわっている若い女性たち(男性も一人)は、とってもエネルギーのある方たちで、改めて頼もしいと思った次第です。





    こころみ学園のココファーム

     2010,10,13           於、栃木県足利市、こころみ学園

今日は、栃木県足利市にある知的しょうがい者の施設・こころみ学園の農場と、工場を見学してきました。うちのとなりに住んでいる権平康子さんが主宰している「安全な食べ物を求める会」の研修旅行として、こころみ学園が決まった時から、この日を楽しみにしていました。

数年前、岡田弥生さんが、私の誕生日に、送ってくださったのが、こころみ学園ココファームのワインでした。とっても美味しくてラベルを見たら、知的しょうがい者の施設で作っているということを知り、それまでその存在を知らなかったことに驚きました。町田の施設に行ったとき、そこの山林に「こころみ学園から」と書かれた立札があって、そこに原木のシイタケが栽培されていたりしました。

10人で、3時間バスに乗って目的地に着きました。まず驚いたのは、大変な急斜面にブドウ畑があるということ。後で聞いたら、平均38度の傾斜だとのこと。ここの創始者川田昇さん(今は、なんと89歳!)は、この急斜面をこそ選んで、昭和33年に購入して開墾を始めたのだそうです。川田さんが、中学の教員だったときに、受け持っていた知的しょうがいをもつ子どもたちと一緒に住んで一緒に仕事を始めようと考えたのがここの場所だった。なんとここは、今では、90人の定員で、しょうがい程度区分4,5,6の人だけで、平均は、5、3という重度の人ばかり。そうとは信じられないほど入居者の皆さんは活躍しています。まず、厨房は、一人の調理師と一人のパートさん以外、7〜8人の入居者が150人分の3食の食事を作っていました。洗濯係もあり、ブドウ畑の下草刈り、カラスを追い払うためのかんからたたき、ブドウの選別、葡萄酒の検品(ゴミが入っているかを調べる)などなど全ての入居者が、その人ができることを見つけてその作業をする。

初めて入ってきた人が必ずする仕事は、原木運び。この原木は、山の木を切って、90センチの長さにそろえてあるものを「刺激を与えるために」場所を変えるのだそうです。しいたけの菌を植え付けた後運ぶのだけど、傾斜のある山道だから大変なのです。

4つの我慢を強いている。暑い寒い、腹が減った、眠い、疲れた、この4つを我慢するのだそうです。それでも、自分にしかできない仕事を見つけることができた人は、自信を持って働いているとのこと。説明をしながら案内してくれた人は、事務長のサイさんで、40代に見えました。川田さんがしてきたことについて情熱をもって話してくれます。川田さんが、職員も入居者も汗水流して働いて、家族のように暮らす、という信念でやってきているので、今も独身の職員は、住み込みだということでした。

ここは、重度の人の就労訓練の場所としてあるので、入居者の給料はなしだということでした。

説明が終わってここのワイナリーで昼食をとりました。すべてのものがおいしいことにみんなすっかり満足して、たくさんのお土産を買って帰ってきました。ここのワインは、沖縄サミットでも、洞爺湖サミットでも使われたということでした。そういうことが、入居者の皆さんの誇りとなっているとのことでした。

川田さんの書かれた本を購入して、これから読んでみたいと思っています。(「感動した本」のページに紹介してあります) 

 

 

 

在宅ケアを支える診療所・市民ネット全国の集いin名古屋

   2010,10,10〜11     於、名古屋市名城大学天白キャンパス

10月10,11日に行われたこの長ったるしい名前の集会を報告します。

 今回は、第16回目。それではじめて大会長が、医者ではなく、看護婦でした。その藤村淳子さんが奄美大島の出身だということから、奄美大島の物産展や、歌や踊りの方々がたくさん奄美から来ておられました。

今回、私にとって特筆すべきことは、「迷惑をかけあえる人間関係を根底に」という言葉が副題に入ったことでした。私の名刺の裏に掲げてある「迷惑をかけあおう」という標語が、ほんの少し日の目を見たということでしょう。

大会の初日は、黒岩卓夫の「良寛さんの看取り」で幕が開きました。今回初めて参加した巌志と、11月からもえぎに勤めることになっている若い内科医谷合さんも初参加。彼と巌志が一つ違いで、もえぎの次世代を担っていってくれることになるであろう人たちの参加で、卓夫も私も、二人をたくさんの方々に紹介して回りました。

今回初めて、私も出番がありました。「しょうがい児・者」という実践交流会(120人ぐらい)でスピーカーとしてこれまで地域でしてきたこと、それから提案、などを語りました。「しょうがい児・者」という実践交流会は一部と二部に分かれていて、二部のスピーカーは、私のほかに4人いたのですが、この4人ともとっても興味深い話をしてくれました。二部から参加した人が、会場からこんなことを言ってくれました。「一部は、他の所に行っていたのですが、そこでは、眠くて寝てしまったりしていたのに、ここに来たら、興味深い話ばかりで、眠気どころではなく、最後の黒岩秩子さんの話で、すっかりしゃんとしてしまいました」と。私はただ、いつも言っているようなことを言っただけなのですが、名刺の裏にスローガンが書いてあることを紹介し、もらってくださる方は、取りに来て、といい、また、「ヘンテコおばさんと子どもたち」の本を1500円でお分けするといって話を終ったのですが、たくさんの人が前に来て、私の名刺をもらってくださり、ほとんどなくなってしまいました。本のほうも結局持って行った5冊売り切れて、後からほしいと言った人には、「ごめんなさい」ということになってしまったのでした。

スピーカーの一人に斎藤シンイチさんがいました。この方は、武蔵野市の車いすの市議で、去年の衆議院選挙の時には、新発田事務所に来てくれていたのです。1969年山形県で、脳性まひ児として生まれ、入れる学校は、養護学校だけだった。だから、親と暮らしたのは、ほんのわずかの期間だけ。でも、15歳のときに喜納昌吉の活動を知って、音楽活動に、政治活動に、地域の活動にとサラリーマンをしながら携わる。今は、議員をしながら、障害者自立支援センターで、相談業務についていることを話して、会場の皆さんを勇気づけました。

石川恒さんは、「かりいほ」という施設を運営しています。ここは、刑務所から出てきた知的しょうがい者の生活するところ。「かりいほ」というのは、ここが最終的な住みかではない、ということだそうで、人を信じることができるようになったら、どこか自分の居場所で暮らす、そうできるようになるための仮の住まいだとのこと。

この交流会の座長は、宮坂圭一さんと飯島恵子さん。宮坂さんは、長野県諏訪市で、医療法人の理事長をしているお医者さん、いろいろの高齢者、しょうがい者の施設を持っていて、来年の長野大会の大会長です。飯島さんは、栃木で、NPO「ゆいの会」の理事長をしており全国に大変顔が広い。このお二人による人選が、功を奏したのでしょう。終わってからも、そこここで話が続いていて、いかに名残惜しかったのかが分かるようでした。

この在宅ケアに関する全国ネットができたいきさつが今回よくわかりました。

 19924月の町長選挙に落ちた黒岩卓夫が、その年の615日に萌気園を開設しました。その翌年のことです。NHKが、医師会に関する3回連続の番組を報道した。そのうちの一回が「往診」というテーマで、名古屋と大阪の高槻で、往診を主体にしている診療所がある、ということでそれらを紹介し、この番組のコメンテーターとして、診療所を始めたばかりの黒岩卓夫が話をする。この番組は、NHK名古屋が作り、それを作った福島広明(今はクローズアップ現代)さんが、今回も参加していました。いま40代の彼が、20代だったときのことでした。このときに、卓夫は家に帰ってから興奮気味に語っていました。「名古屋のあいち診療所も高槻の中嶋診療所も、看護婦がたくさんいて、訪問看護をしており、昼間お年寄りを預かるデイサービスもやっている」その時一緒になったあいち診療所の畑医師、中嶋診療所の中嶋啓子医師、そしてその夫の久矩事務長(70年代の学生運動で、退学になり医師免許は取れず事務長として夫婦で診療所を運営)らとその翌年「在宅ケアの支える診療所ネットワーク」を結成したのでした。1994年に第1回の全国大会を開き、今回が16回目ということです。介護保険ができたのは、その後5年たってからでした。

今回の大会長藤村淳子さんは、あいち診療所の婦長さんで、初めから深くかかわってきました。彼女は言います。「始めたばかりのころは、患者さんから頼まれればなんでもするという感じだったのに、介護保険ができてからは、できないことが増えてしまった」そして「あの頃は、患者さんからの要求を何とかして看護婦が受け止めて、医者のところにはなるべく持っていかないようにしようと頑張っていました。いまは、介護職の人たちに看護婦がいらないようにやってねと言っています」そんなものすごく馬力のある方で、一部の人たちからは怖がられている存在です。

黒岩卓夫が、医療にとって必要なのは、科学とアートだが、看取りには科学が不要になって、アートが大切になると言いました。それを受けて、藤村淳子さんは、「私たちは、アートなんだ、と納得しました」と言っていました。国立長寿医療研究センター総長の大島伸一さんはこのことをこんな風に言っていました。「日本は、WHOから世界一と言われた医療体制を作った。そのおかげで、安いお金で、寿命を延ばした。生まれる時から死ぬまで病院でみるという体制を完成させてしまった。病院は、『治す医療』を徹底させた。そうして世界一病院が多い国になってしまった。その結果今危なくなっているのが医療費、そして急速な高齢化。『死と戦う医療』になっている。なぜなら、『治す医療』は死を認めない」と問題を提起しました。

最後に、今回の最大のお土産話を送ります。

 というのは、私が理事長を務めている桐鈴会が運営している認知症グループホーム「桐の花」がやっている「共用型デイサービス」に関することです。三重県桑名市で診療所を経営している多湖光宗さんが理事長を務めているウェルネス医療クリニックの認知症グループホーム(GHと略す)でのことです。

認知症GHは、出来てから3年たつと共用型デイサービスができるようになります。桐鈴会でも始めています。共用型というのは、新たに増築などしないまま、そこにあるGHのデイルームで、外からの利用者を受け入れるデイサービスのことなのです。そのため利用者にとっては、利用料金が、普通のデイサービスの半分で済むというメリットがあります。桐鈴会では、ケアハウス鈴懸に住んでいる方で、認知が始まった方々に利用していただいています。9人定員のGHでは、一日3人までが利用できることになっていますが、なかなか3人そろうことはありません。

でも、この制度がとってもありがたいのは、鈴懸の入居者が、認知が始まって「桐の花」に空きができたときにそこに移動するのが、実にスムースにいくようになったということです。デイサービスを利用しているので、GHの入居者や、職員たちとすっかり親しくなってから入居するので、移行がスムースにいきます。

ウェルネス医療クリニックでは、多湖光宗先生が、もともと子どもたちとお年寄りが同じ所で過ごすということを先進的に取り組んできていました。今回しょうがい児・者の実践交流会で発表されたのは、認知症GHの共用型デイサービスをしょうがい児が利用しているという事実でした。3人の定員が満たされていない場合において、という条件付きだというのですが、これはありがたいこと。「桐の花」では、いつも1人か2人しか利用していないので、常に空きがあるのです。そこを、しょうがい児が利用してくれたら、お互いの違いを認め合う、という点で大きなメリットがあると思うのです。このことを具体的に取り組んでいきたいとの思いを胸に帰ってきたのでした。

 

 

 

     15年ぶりの再会

   2010,9,27     於、新潟県魚沼市駒の湯(ランプの湯)

私の前に初めて現れた不登校の少年S君、先日朝日新聞9月4日の新潟県人というコラムに取り上げられ、元気に活躍している様子が報道されていました。そこで、彼に連絡をして、彼が経営している「ランプの湯」を夜遅くに訪ねてきました。

彼は中学1年の2学期からいじめが原因で不登校となったということで、新潟日報の「何でも相談」を担当していた斎藤次郎さんからの紹介で、私のうちにやってきたのは、中2のもうすぐ冬という時期でした。ちょうどそのころ、私は保育者をやめようとしていて、やめた後何をするのか考えていたところでした。彼と出会ったら、こういう人たちと昼間の塾をしよう、とすぐに構想がまとまり、保育所にやめることを伝え、3学期が始まったころに彼を訪ねて言いました。「私保育所を辞めることにしたの。一緒に昼間の塾をやらない?」その答えはこうでした。「黒岩さんが始めるのは、いいけど、僕はそういうところには行けません。二人の敵との戦いに疲れてしまって、外に出ていくエネルギーは残っていません」頼りにしていた彼に振られて、私は、仕方がないから、夜の塾から始めることにしました。

ところがです。私が、昼間の塾をしようとしていることが新聞に載り、1990年当時の新潟県には、そういう塾がなかったようで、新聞に出るなりたくさんの問い合わせが来て、5月に開設したら、県内各地から、親御さんと一緒の子どもや、友達と一緒の小学生やいろいろの人がやってきました。その中に中学3年生になったS君も入っていました。「両親が理解してくれるようになったから、頭が楽になって、勉強するしかなくなった」と言って参考書などを持ってきたのです。彼の話はとっても興味深くて、私の知らないことばかり、ほとんど毎日のようにやってきて、私は質問攻めにして、彼の話を聞いていました。そしていつの間にか彼が私の「不登校の先生」になってしまっていました。彼が言います,「黒岩さん、僕をあなたのコンサルトにしないでください。僕が相談したくて来ているのですから」

そして5ヶ月経ったときに「両親は僕を黒岩さんに預けっぱなしにして自分を変えようとしない。僕が両親を教育するから塾をやめる」と言って私の前から去って行きました。自分の子どもより親しくなってしまって子どもから嫉妬さえされていたS君がいなくなって私は、「もぬけの殻」のようになってしまいました。文章を書いても驚くような作品があり、絵を描いても魂が揺さぶられるような作品になったり、それらの作品を私が発行しているミニコミで、皆さんに紹介したり、たった5ヶ月しか付き合いがなかったとは、信じられないほどの濃密な付き合いでした。

その後彼は、19歳の時に「ハイティーンジャーニー」という自叙伝を出版しました。そのことを新聞で知ってすぐに買って読みました。そこには、大地塾とか、黒岩とかいう文字はなく、あったのは「ペンギン塾の伊藤さん」という女性が出てくるだけでした。当時大地塾に遠くから来ていた青年が「浦佐には、大地塾のほかにペンギン塾っていうのがあるのですか?」と聞くではありませんか。読者にとっては、ペンギン塾が、実在するものになっているのです。S君からは、何を批判されても仕方がない、私自身、不登校の子どもたちの心の闇をほとんど理解できないままに大地塾を始めてしまって、S君を始めあの頃やってきた子どもたちには、本当に申し訳ないという思いでしたから、「ハイティーンジャーニー」を読むときには、それなりの覚悟をして読んだのですが、名前が本名になっていない。まだ、本名を出して批判するところまでには、成長できていないんだな。と理解しました。不登校の子どもたちと私との決定的な違いは、思っていることと口に出すこととの違いです。彼らは、思っていることをそのまま口にしたら、相手が嫌な思いをするだろうということがわかってしまう人たちで、そこがほとんど分からない私との決定的な違いでした。

今回の再会では、そこらへんのことが話題になるかと想像していたのですが、その後彼がどうやって生きてきたのか、そして今何をしていて、これからそれをどうするつもりなのか。それを一方的に聞いているだけで、あっという間に夜の3時間が過ぎてしまいました。お父さんが亡くなって、その直後に彼の子どもが生まれ、家業である旅館を引き継いで切り盛りしているところまでは、風の便りに聞いていました。子どもはすでに二人になって、冬場は、道が通れなくなって旅館を閉めるので、その冬期間にいろいろなことに取り組んできて、今は、ある専門学校に行っている。そこでは、とっても成績がいいのだけど、漢字がわからないので、小学生のドリルを勉強している、とのこと。実は、20代半ばまで、作家志望だったので、いろいろの新人賞などに応募した。結構いいところまでいったこともあるが、「誤字脱字がひどい」「文章の基本を身につけてほしい」などの評をいただいた。不登校を続けている孫の志重の未来と重ね合わせながら聞いていました。

「黒岩さんは、僕の中にある枠を全部外してしまった。その枠を作っていく作業をカウンセラーの内田良子さんから手伝ってもらった」とのこと。枠というのは、人との距離感だという。一月に1回東京へ行って内田さんと会う、その日に何を話すか、という形で、自分の人生を言葉にしていく作業ができた。34歳の彼は、数年で旅館を妻に任せて、自分が本当にやりたいと思っていることにとりくむのだと言っていました。大地塾当時のS君を知っている人に今の様子を話すと一様に驚いています。そんな成長した姿のS君がまぶしく感じられました。





プラダー・ウィリー症候群協会主催の研修会

   2010,9,25      於、新潟市ユニゾンプラザ

25日は、プラダー・ウィリー症候群協会主催の「教育から社会人への架け橋ーー移行を支える連携とは」「知的障害・発達障害を持つ人たちの将来を考えよう」という研修会が新潟市ユニゾンプラザ大会議室で開かれました。私がやっていた「大地塾」に来てくれていた綾子さんがそのプラダー・ウィリー症候群だということもあるし、この協会の事務局長を務める庄司英子さんから頂いたメールが忘れられなかったからということもあって、参加してきました。

私が、「子どもというのは、その子がやりたいようにすることをなるべくさせてあげられるように環境を整えるのが、大人の仕事」というような事を書いたことに対して、「例外を除いてそれでいいと思う。その例外とは、プラダー・ウィリー症候群の人たちです。彼らには、食べたいだけ食べさせてはいけないのです」というようなことを書いておられたのでした。今日参加してみてよくわかりました。プラダー・ウィリー症候群の人たちは、普通の人に比べてカロリーが少なくて済むから、同じだけ食べても太ってしまう、にもかかわらず満腹中枢が壊れていて、満腹感がないためにいつも食欲がある、ということで、その結果どんどん太ってしまって糖尿病を発症する。ということらしいのです。だから、かなりしっかりと食物制限をしないと生命の維持ができないという「病気」なのですね。知的障害が併発されている場合が多いけど、そうでない人もいるそうでした。

食物制限をされる結果パニックを起こしたりすることがあって、発達障害といわれる人たちに通じるものがあるとのこと。

 この病気の診断は難しいらしく、今日発表された中には、30歳になってはじめて診断されたという人がいた。庄司さんが言うには、諸外国の例からいったら、日本でももっとずうっと多いはずなのに、かなり少ししかカウントされていないという。

「施設からグループホームへの移行」という演題もあって、桐鈴会も今年度中にGHを立ち上げるので、そこに入居者としてこの病気の方がこられるかもしれないので、他人ごとではない、という思いもありました。食事制限をされて、見ていないところで、買い食いをしたり、また、盗み出して食べてしまうとか、そんな、二次的な障害もあるとのことで、大変なことだと認識しました。

 

 

 

頭山満の大アジア主義

    2010,9,22      於、日本プレスセンター

頭山満ってご存知でしょうか? 大川周明、北一輝と並び称される戦前の「右翼」と呼ばれる人です。その人の孫という方に以前集会で出会って名刺の交換をしました。そうしたら、彼は、新党さきがけのころの園田博之さんの秘書をしていたと言いました。そこで、私は聞きました。「あなたからみると新党さきがけはどうでしたか?」彼の答えは「面倒見がよくないですね」それには大変納得できました。「右翼」という方々は、面倒見がいいですものね。そして新党さきがけの場合には、一人ひとりが、自分で立っていくというような自負心を持っていたようにも思います。そのことと面倒見がいいということは、本当は両立すると思うのだけど、実際には、人のことを面倒見るゆとりがなかったということもあったかもしれません。

ところで、その孫というのは、頭山興助といい、その後彼が代表を務める「呉竹会アジアフォーラム」のイベントのチラシがよく送られてきていました。たとえば母田神なんていう防衛庁の人がいましたよね。ああいう「右翼」の確信犯みたいな人ばかり呼んでいたのです。ところが今回は、講師が、田原総一郎です。いったい彼は、頭山満をどんなふうに考えているのだろうか? ということに興味があって、行ってみることにしたのでした。

入るなり、目に飛び込んできたのは、演題裏の両側に張り出されている「右翼」そのものの文字!「皇国」「靖国」など。

 開会の後の頭山興助会長の話「皆さん今回は驚かれたのでしょうね。それでこんなにたくさんの方がきてくださったのでしょう。田原総一郎さんがこんな話をしてくださるなんて!」でした。300人近くの参加だったと思います。

田原総一郎さんの話はこうでした。「日本の学校では、小学校から高校まで、明治以後の歴史を教えない。そこで自分で調べ始めた。頭山満、大川周明、北一輝の3人は、よく状況を見ている。3人に共通するのは、社会主義、特権階級はあってはならないというもの。それから、多くの知識人が≪脱亜入欧≫に属していたが、頭山は≪興亜≫。つまりアジアから抜け出て、ヨーロッパナイズするということに反対した、それが≪アジア主義≫と言われた。そのことから、頭山は、満州事変に反対した。

この後は、政局の話になり、彼の見方はとっても興味深いのですが、あまりにも差しさわりがありすぎるので、ここでは、伏せることにします。

 後、質問に答えて、頭山満の魅力は「面倒見がいいこと」と答え、アジアの独立運動をしている人たちをずいぶん面倒を見た。その中に孫文がいた。「中村屋のボース」の中にも出てきますから、インドの人たちをも支援したのでしょう。そういう意味で、≪大アジア主義≫というのは、もう少し広がればコスモポリタン、さては、宇宙主義にまで伸びそうな気配を感じてしまいます。「右翼」というと日本だけの排外主義に通じるのでは?と考えてしまうのですが、田原総一郎さんの話は、なかなか興味深いものでした。

 

 

 

岩手旅行−障害者の就労

     2010,9,18〜20    於、岩手県各地

もともとこの9月の連休には私たちの金婚式をしようということで、いろいろとアイデアを出し合っていたのですが、どうしても参加できない家族が出てきて、お盆に全員が集まれることがわかったので、その時に終わらせたのでした。でも、元々の連休はいける人だけで行こうということで、岩手旅行となりました。

萌実のパートナーが、岩手の人だということに加えて、乙水が電通の新聞局で、岩手日報の係だったことがあって、岩手に入れ込んでいるのでした。何年か前に岩手日報130周年記念の時、「壬生義士伝」(浅田次郎著)をテーマとして新聞だというのになんと20ページにわたる特集を組んだのだそうです。この「壬生義士伝」が、文庫本上下なのですが、来る前の必読書でした。この本はとりつくまでが大変ですが、とりついてしまうと面白くて、読み進めます。私は、「新撰組」さえ何なのか知らないほどの歴史音痴ですが、インターネットで調べながら読みました。この中に出てくる盛岡の石割桜を見る、そして「南部藩」がこの本の舞台故、南部藩の中を巡る。

そもそも、工藤さん(萌実の夫)が宮古養護学校の教員だったときに私が知り合い、私が初めて岩手入りをしたときには、まっすぐ宮古に行ったのでした。(ちょうどその日が中越地震でした)そこには、鳥もとという焼き鳥屋さんがあって、なんとそこの主人は、私の小学校(品川区立第二延山小学校)の後輩。中学は、目黒9中の隣8中だったという人。この人が素晴らしい。宮古養護学校の知的障害児が実習先としてこの鳥もとに行くと、ここの主人小幡勉さんが、仕事を教えると実に正確にきちんとやれるようになる。そこで、小幡さんは、工藤さんに言いました。「おれたち素人が教えるとこんなに早くできるようになるのに、専門家の先生たちはいったいなにをやっているのか?」工藤さんは、「尻を叩かれた」と言います。そして小幡さんは、それなら、障害者だけの職場を作ろう、カレーライスならできるだろう、と考え、カレーだけのお店≪カリー亭≫を作った。ここのカレーは、レトルト食品として、デパートなどに出すとよく売れる。とても美味しいカレーなのだそうだ。(私は、カレーは苦手)このたびもここを訪ねて、みんなでカレーを購入。スタッフは5人、そのうちの2人は、運転免許も取っている。小幡さんが、漢字を一生懸命教えたそうです。

岩手旅行の初日、鳥もとで初めての夕食をとりました。いやいやものすごい御馳走で、私は、「過食症」で夜中にダウン。翌朝は、食事抜きでした。ここ鳥もとにも知的障害者が働いています。焼き鳥を焼くのは、その人たちの仕事、かなりの年月をかけて上手になったのだそうです。小幡さんは、堂本さんが千葉県知事だったときに、障害者雇用ということで千葉県から表彰を受けています。

浄土ヶ浜に行き、そこで観光船に乗ったら、人間から食べ物を貰うべく、海猫たちが船を追いかけてきて、パンを手から取って食べたり、投げられてパンを空中でキャッチしたりするので、孫たちは、「おっかなおもしろい」体験をしました。卓夫は、先日の「仏教看護・ビハーラ学会」の続きで、「浄土」というものがどういうものなのかということに深く思いをはせていました。

最後の日、宮沢賢治博物館と童話村に分かれて見学。うちの女の子のパートナー二人が、宮沢賢治大好きで、たった1時間では足りなかったから、またぜひくると言っていました。大人も子供もそれぞれに楽しむことができた旅でした。





ムリナーリニ・シン絵画展

2010,9,11〜12     於、南魚沼市立池田美術館

家から歩いて行けるところにある市立池田美術館で、今月28日まで開かれているムリナーリニ・シン絵画展のオープニングセレモニーが、11日(土)4時からありました。ポスターに出ている絵を見ただけで、そこに何かを感じてしまうような力があるのです。絵を見るというようなことを趣味とはしていない私をそんな気持ちにさせてしまうムリナーリニさんに会ってみたいという気持ちもあって参加しました。いつも閑古鳥が鳴いているような美術館なのに、この日は込み合っていました。

美術館の館長佐藤さんの話を聞いてこの絵画展が実現したいきさつがわかりました。後山に移り住んでいる小林基樹画家が、ムリナーリニさんを知って、まだ、井口優さんが館長だったときに、話を持ちかけ、井口さんと小林さんが、新館長(この4月に就任)に頼んで実現したということでした。まず絵を見て回ってびっくり、ほとんどは、花が描かれているのですが、その色合いといい構図といい実にユニークで、力強く色彩がとってもきれいなのです。中でも「太陽」と名付けられた花は、本当に太陽そのもの。たかひろが2歳半の時にクレヨンで書きなぐった「太陽」を思い出させてくれました。動きがあって、色合いが素晴らしくって、その熱が伝わってくるような感じがしたものです。

いろいろな方のスピーチを聞いた後、パーティーとなりましたが、なんとたくさんの人が来ていたことか! 南魚沼市の市会議員さんや、協賛をした企業の社長さん達。「山田光江です。萌ちゃんとたかちゃんの担任だった」と声をかけられました。40年ぶりぐらいです。萌宇が、幼稚園だった時の担任です。浦佐幼稚園ができたのが、彼らが5歳の9月でしたから、たぶんたった半年受け持たれただけだったのでしょう。彼女が、魚沼市のほうへ「嫁」に行ったことを知っていて、しばらくは文通をしていましたが、会うのは、39年ぶりでしょう。とても懐かしがっていろいろと話しました。花を生産している農家に嫁いだと思っていたら「夫が画家になってしまったのです」というではありませんか。それで今回の絵画展に二人で見えていたのでした。そして、夫の桜井幸雄さんの絵も子どもたちが登場する独特な雰囲気の絵たちも掲げられていたのでした。

「濱田です」と言われて思い出したのは、幼稚園で紙芝居をしているという方。よく聞いてみたら、ウシオ電機の社員として内地留学で国際大学に来ていて、そこで先生をしていたアメリカ人女性と結婚し、浦佐駅前に住んでいる。夫婦で、レインボウという英会話などの塾をしているとのこと。この方の発言には驚きました。静岡に住んでいた母親を呼び寄せて同居し、母親が認知症になってここら辺の介護施設すべてを訪ねて回った。「鈴懸というのは、奇跡です!」だって。こんなに入居者本位の施設が存在することが奇跡だというのです。先日鈴懸の入居者に施設長の広田セツ子がこう言われたといいます。「あなたみたいな世間知らずと、理事長のような世間知らずが二人でやっているのだから、どうしようもない」世間知らずだからできることもあるかもしれませんね。

八海山社務所の神主山田泰利さんは、そこに入ってきていいます。「ここの家の卓夫さんは、それでも常識の範囲だけど、この秩子さんは、この地域にあった伝統とか文化とかを全く無視して、『改革』とやっていった。驚きましたよ。そんな人がよくこの地に40年もいられましたね。」彼が、そう思っていることはすでに分かっていましたが、ここまでちゃんと言葉に乗せて表現されたのは初めてでした。お酒の力を借りてやっと言ってくれたのかもしれません。

後山に住んでいる小林基樹さんとも会えました。たかひろの応援団大森ミチさんの隣に住んでいる画家ということで話には聞いていたけど、はじめて会えて、今度お互いに行き来しようということになりました。後山小学校のオープンスクールにも見えていて、美術の校長先生とも仲良しのようでした。後山小学校に、東京にあるインド人学校の先生たちが来ていたのも今回の絵画展と関係があるようでした。実行委員をしてきた人たちは、インド人を数名ずつ自分の家に泊めることになっていました。

ムリナーリニ・シンさんのお友達ということで、鳩山幸さんが来られました。お琴の演奏に合わせて、≪さくらさくら≫の歌を披露されました。たかひろの母だと言って名刺を渡したら、「知ってますよ。一緒に写真撮ってありましたね」とのことでした。

来賓の方たちによっての餅つきなどあって、それこそ満腹になって終わったのが7時半という長時間のパーティーでした。

翌12日(日)にはインド大使夫人ムリナーリニさんの講演会が池田美術館でありました。「エンパワーメント」というタイトルのお話だったのですが、彼女の世界観が披露され、それはとても不思議な世界でした。

 「私は、『どこから来たの』と聞かれると『地球から』と答えます。きっと相手は、『インドから』と言ってほしいのでしょう。でも私は、そういうことは関係ないと思っているのです。人間だけでなく、動物も植物もみんな宇宙とつながっています」

 「私は、死を楽しみにしています。それは、終わりではなく、始まりだと思うから」

 「宗教は特定なものを信じていません」インド人としては、特異なのでは?

 小さい時から絵を描くこと、物を作ることなど好きだったのに、させてもらえなかった。結婚してから、夫に励まされて、子育てが終わってから始めたのだそうです。「きれいなものを見るとプラス思考になるでしょ? 心配事にくよくよしないで、いられるでしょ? だから、私は、自分をエンパワーするために描いたり、作ったりするのです」彫刻もありました。また、見事な日本画が、屏風になってもいたのです。

すでにお孫さんもあるとか、今回お母さんが一緒に来られていました。たぶん70代の方だと思います。

 「チャクラ」で何かを受け取るとも言っておられました。何だったか聞き取れませんでした。

一方的な話では嫌なので、話し合いということでやっていきたいと始めに言われ、30分ぐらいの話の後やりとりになりました。初めに手を挙げた方が、魚沼市で絵画教室を開いている桜井幸雄さん。その方からの質問が、とても素敵なものでした。すでに書いた様な話も、その方の質問に答えてされていました。そのほか覚えている質問は、「日本では、草食系とか肉食系とか言われていますが、このような素晴らしくエネルギッシュな絵を描くには、何を食べているのですか?」に対して「結婚前は、ベジタリアンの家だったので、私もベジタリアンでした。結婚したら、夫が何でも食べるので、私もベジタリアンをやめました」というものでした。単に男性に従っているだけとも見えるけど、それだけ柔軟だとも思えます。

終わりの時間が来てしまっても「時間は逃げていかないから、いくらでもありますよ」と言って延長しても質問を受け続けていた彼女の大きな世界を感じながら帰ってきました。

               (絵画展は、9,12日〜28日)

 

 

 

後山小学校のオープンスクール

2010,9,11     於、南魚沼市立後山小学校

11日の午後は後山小学校のオープンスクールに行ってきました。後山小学校は、今年から特認校と言ってどこからでもはいれるような形にしたのです。そのために浦佐小学校から二人が転校して、全校生徒が15人という複式学級校です。転校した二人は、姉弟で、弟は、2年生で、志重の隣のクラス。志重は、週に一日夕方から預けられている家があり、そこには、2年生の男の子がいて、後山に転校した中沢健太郎君が放課後いつもその家に遊びに来ているので、いろいろな話を聞いて知っています。志重の仲良しのほっちという友達は、健太郎君と同じクラスだったので、そのほっちと一緒にオープンスクールに行ってほっちに健太郎君を見せたい、というのが、志重の参加の動機でした。以前後山小学校に立ち寄ってみようといって二人で行ってみたのですが、玄関までいって「やめた」といって戻ってきたことがあるのですが。今回は、母親の海映と弟の悠士も一緒でした。

まずは、学校で作っている野菜で調理された自校給食の試食からです。野菜たっぷりのスープと芋サラダ、どちらも薄味で一つ一つの野菜の味がよく出ていておいしいものでした。15人の生徒と9人の職員の昼食を作っているそうです。この日は、見学者が、親子合わせて17人。この学校は、全部木で作られていて、とっても温かな雰囲気があります。いま、教育部長をしているごんちゃんこと南雲権治さんが、建設課にいたときに夢を描きながら作った学校です。この日も教育部長としてその場にいていろいろな人と語り合っていました。東京にあるインド人学校から、教職員が10人以上訪ねてくるということもこの日の行事に合わせていたのでしょう。

階段に掲げてあるこの学校の生徒たちの絵が、あんまり素晴らしくって、びっくりしていたら、ごんちゃんが、「校長が、美術の先生で」といって、校長室に案内してくれました。とても物腰の柔らかな校長然としていない方でした。志重たちが入ってきて見つけたものは、校長自らが作ったという鳥の巣です。裏山から拾ってきた木の枝を組み合わせて、接着剤で繋げてあり、中には、ちょうどいい大きさの石が、「卵」として置いてあるのです。校長は「体育館の中に鳥を飛ばせたり巣を置いたりしようと考えているのです」とのこと。

清掃の時間が終わると、5時間目の授業が始まりました。12年生の教室では、1年生が、コンピューターに取り組み、2年生は、中沢健太郎君が一人で、算数の授業です。なべややかんなどを並べて、そこに1リットルカップの水が何杯はいるのかを予想し、実際に入れてみる、ということを教頭先生(元桐鈴会理事長滝沢エミカさんの娘婿)がやっています。健太郎君は一人でノートにその結果を書いていましたが、この日は、見学者がたくさんだったので、予想はみんなでしました。教頭いわく「ほかの学校だったら、代表者が、やってしまうところを、ここだと全部自分でやれるのが特権」バケツなどに1リットルカップの水を入れてみるのは、すべて健太郎君が一人でやっていたからです。志重、悠士、ほっち、なども予想が当たるのかどうか現場にいって必死で見つめていました。34年のクラスでは、国語の授業で、一人が前で、意見を述べ、それに対して5人の子どもたちが、質問をするという授業だったのですが、質問をしているのは、私が見ていた時には、すべて先生だったのが残念でした。5.6年生は、体育館で、バレーボールなのですが、何しろ全員で6人。3人ずつに分かれてボールをパスするのではなく受け取って、3人全部に回して相手のコートに投げるということで、ゲームになっていました。こういうところが、少人数だと大変ですね。

その後、特認校についての説明会でしたが、私は一人次の行動があるので帰ってきました。子どもたちは、後山の子は、歩いて帰り、隣の部落(といっても結構離れている辻又)の子と浦佐の子は、バスで帰ります。外部から来ていた参観者たちは、どうやらほとんどが、不登校に関係している人のようでした。一人だけ、十日町の小学校の先生が、子どもを連れずに見学していましたが。

中沢健太郎君は、5年生のお姉さんが自然の中での生活がいいからということで希望し、一緒に行ったのですが、2年生は一人だけだということを知らなかったらしく、行ってびっくりだったとのこと。でも今ではすっかり慣れて、この学校生活を楽しんでいるようでした。

志重にとっては、自分が行ってみるという選択肢は、考えていなかったようですが、私は、美術の校長がいるというのは、物を作ることが大好きな志重にとっては、大変素晴らしい環境だと思えてしまうのでした。

 

 

 

島田裕子さんのレポート

2010,9,11      於、浦佐の我が家

南魚沼市の教育センターに勤務していた島田裕子さんが、仕事を辞めて敬和学園大学の学生になったのは、1年半前でした。今年で50歳ですから、当時は、48歳かな? 短大を出ているので、編入で、3年生に入ったのです。彼女は3人きょうだいの一番上、女が学歴を持つのは良くない。女の幸せは家庭、という祖父の考えを否定できなかったことや経済的な理由などで大学には行かせてもらえなかった、それがショックで、かなり落ち込んでいた。それを見て親が心を痛めて、弟と妹には大学と大学院に行かせた。お父さんが亡くなる前に「自分の人生は幸せだった、でも一つだけ悔いがのこっている。それは裕子を大学にいかせなかったこと」と言って、これからでも遅くはないからチャレンジすることを勧めてくれた。そこでお父さんが亡くなってから、かねてから行きたいと思っていた敬和学園大学の福祉過程に入学し、今夏休みで帰ってきている、ということで、11日の朝我が家に来られました。

8月は、20日間アリゾナ州のナーシングホームなどに研修に行っていたそうで、アメリカ人の多くは「ナーシングホームには行きたくない」と思っているということを聞いていたので、感想を求めると「素晴らしかった。各部屋には、自分の家から持ってきた家財道具があり」というので「あら、うちの施設はみんなそうよ。あたりまえじゃない?」「そんなことないんです。日本では塵箱を置いてはいけないところもあるぐらいです」認知症の方が食べてしまうからだそうです。

一番驚いたのは、登校拒否というのは存在しないということだったそうで、その理由の一つには、45%の子どもがホームスクールを受けていることがあるのだそうです。アメリカやイギリスには、ホームスクールという制度があるということは本で読んで知っていましたが、45%にも上るというのは驚きました。これは、アリゾナ州の数字です。

この方の夫君は、今、大和地区で一番大きい土建屋さんである島田組の社長で、この春萌気園が運営するハイマイトハイム島田という有料老人ホーム(ここの施設長が、新発田事務所でおなじみの青山さんです)を建設したのが、この島田組なのでした。去年の暮れにたかひろの当選祝賀会を南魚沼でしたときに、島田の社長や、その親などが参加して、井口市長をびっくりさせました。「会場を間違えたかと思った。今日は自民党の方が大勢で」と。そうしたら、なんとこの島田裕子さんのお父さんは、亀田の方で、白根市の市役所に勤めていて、保健福祉課に勤務していたときに私を2回ほど呼んでくださった方だということでした。そうして彼は、社会党を応援していて、五泉の松沢さんの応援にまで行っていて、裕子さんも選挙事務所に詰めたことがあるとのこと。裕子さんたちの結婚式には、自民党の田中角栄の秘書や桜井新と社会党の衆議院議員などがそろって、大変だったということでした。

裕子さんからのアメリカレポートはまだまだ続くようで、楽しみに待っていることにします。





障害者施設経営セミナー

2010,9,3      於、新霞が関ビル灘尾ホール

 3日は、新霞が関ビルの灘尾ホールにタイトルのような会があっていってきました。

 ーインクルーシブな社会を目指して〜就労支援の現状と課題、という副題が付いています。

 先日お伝えした桐鈴会が運営する障害者のグループホームを8月18日から申請書類作りを始めて、20日締め切りに間に合わせたものが、なんと県でOKとなり、「国に挙げた」との連絡がきました。改装費用が助成を受けられるのです。この話の中で、南魚沼市からは、日中の過ごし場所(働ける人は働き、働けない人も一緒に過ごす)も作ってほしいといわれています。私たちも、次はそのことに取りかかろうと考えているので、このセミナーは、きっと稔が多いのでは? と期待していきました。

 期待ほどではなかったのですが、「社会的排除をなくす第3の就労の道」と題して、名古屋で活動している斎藤懸三さんの話が私にとっては、興味深いものでした。

 1971年に「しょうがいがある人ない人も共に働く・暮らす『わっぱの会』」を創立。

 1975年には名古屋市心身障害者共同生活作業事業開始。

 1984差別とたたかう共同体全国連合結成(共同連、と約す)

 そんな結果が2010、内閣府に設置された障がい者制度改革推進会議総合福祉部会委員となったのでは?

 「共同連」がしていることは社会的事業所(一般就労でも福祉的就労でもない第3の道)の普及活動なのでしょう。

 これの全国大会は、去年は新潟で行われ、卓夫はそこで話をしていたようです。私が議員をしていたときに厚労大臣だった坂口力さんが、その議連の会長だとか言っていました。「社会的事業所促進法」を作るための議連です。

 社会的事業所というのは、しょうがいがある人もない人もそのほか労働から排除されてきたあらゆる人々を排除することなく、また使う人と使われる人という概念もなくして、みんなが対等な権利を持って社会事業を行う、というのです。実現できたら素晴らしいですね。民主党政権が使い始めた「新しい公共」の概念にぴったりのものみたいです。

 実はとっても驚いたことがありました。見たことある人がいる、と思って近づいて「大分のみんなの家の・・・・・」と私が、相手の方の名前を思い出していると「黒岩さん? 私寄村です」と言われてしまいました。それで名前は思い出しました。「仁子さんですよね」何と20年ぶりの再会だったのです。ちょうど20年前に、障害を持つまあちゃん、さっちゃん、綾子ちゃんの3人と健常者4人で、大分県宇佐市にある「みんなのいえ」を見学に行ったのでした。たぶん、この3人の障害を持つ人たちは、後にも先にも飛行機に乗ったのは、あの時だけだったのでは? 羽田飛行場で、まあちゃん(当時24歳)が、うれしくて駆け回ってしまい、飛行場の職員をあわてさせたのでした。

 20年たってもちっとも変わりがない寄村さん、でも、こちらの4人のメンバーは、一人が亡くなり、一人は認知症になって、今では、健常者は、私ともう一人(初代桐鈴会理事長大久保勝彦さん)だけになってしまっています。亡くなったのは、当時役場職員で、4人の中で一番年が若かった上村一郎さん。一番年上だった鈴木要吉さんは、認知が進んで、今、肺が悪くて入院中ですが、一人暮らしの家には帰ってくるわけにはいかず、桐鈴会のショートステイに退院してくることになっています。なにしろ、要吉さんが、畑と資金を提供して下さってできた桐鈴会なのですから。

 寄村さんは、私と同じように、社会福祉法人の理事長になっていました。二つのケアホームを運営しているとのこと。あの頃「みんなのいえ」に住んでいた人たちは、結構軽度の方もいらしたのに、そういう方々は、就労したりして、離れて行き、離れられない人だけが、ケアホームに残っているということでした。

 ケアホームの入居者は、重度の方なのでよく病気になって入院するのですが、入院してしまうと日割り計算で、とたんに収入が減ってしまい、職員に払う給料が出なくなってしまう。そういう事態を何とか理解してもらって、対策をお願いしに民主党の議員さんのところ(石毛さん、郡和子さん)に行くと言っていました。実は、高齢者のグループホームも同じことが言えるのです。ところがうちがありがたいのは、往診してくれる医療機関があるためにめったに入院しなくて済みます。それから、入院したときには、そこのベットをショートステイとして利用できるようにすることができます。そのためには、そのための研修を受けなくてはならないということがネックなのですが、桐鈴会では、今年こそその研修を受けてショートステイを利用できるようにすることになっているのです。ところが、寄村さんのところは、大きな施設を持っていないためにそれができないのだと言います。いやいや実は、桐鈴会でも今回グループホームを作るにあたって、その「支援施設」というのが必要だということが分かり、県に電話して聞いてみたら、「鈴懸があるからいい」というのでした。てっきり障害者施設がなくては駄目かと思ったのですが、鈴懸でいい、といわれてほっとして事が進んだのでした。

 しかしなぜ、そのようなことが必要なのかということになると、? ですよね。寄村さんのところは、在宅医療機関がないことも含めて大変だということがわかりました。20年違う道を歩いてきたのに、また同じようなところで出会ったこの不思議な出会いをかみしめながら帰ってきました。





仏教看護・ビハーラ学会

   2010,8,27〜29   於、上越市浄興寺、上越教育大学

 今年は第6回年次大会とのことですが、私は初めての参加です。夫が、記念講演をするといって、いつになく張り切って夜中まで机に向かっているので、それは聴きに行かなくては、ということでした。

 卓夫と一緒に行くことにしていたのですが、孫の志重が、午前中遊び相手が見つからなくて、(夏休み中、いつも誰か遊び相手がいて、本当によく遊んでいたのですが)私の家に来ることになったので、電車を1台遅らせていきました。卓夫の秘書をしてくれている笠原さんと二人で、ほくほく線に乗り直江津まで、それから信越線で高田駅、そこから10分ほど歩いて行ったのですが、浄土真宗の本山である浄興寺まで行く途中に一体何軒のお寺があったことか! 道の両脇に大小さまざまなお寺が並んでいるのです。「寺町」とはまさにこういうことだと感心しながらつきあたりの浄興寺につきました。そこは、本山だけあって、とっても大きなお寺で、周りはお墓で囲まれていました。200人はゆうゆうはいれる大きさですが、120〜30人位しかいません。赤いTシャツを着たボランティアさんが、2〜30人。ほとんどは、上越教育大学の学生さんだそうです。共同大会長を務める得丸定子上教大教授、今井洋介、今村達弥両医師もこの赤いシャツでした。

 ごぜ歌のオープニングの後卓夫の講演。まず「今日は、暑いのに、お寺には冷房がないので、涼しい恰好で来るようにと言われました。そこで、こんなスタイルできたのです。これは、お盆に子どもたちがやってくれた僕たちの金婚式にプレゼントしてもらったおそろいのカリユシウエアです」卓夫が家を出た後、私はその姿に気がついて、ちゃんとおそろいのカリユシウエアを着てきたのでした。何人もの人がそのことに気が付いてくれました。終わった後かねてからの知り合いに出会い「卓夫の話どうだった?」と聞くと、「難しくてわからなかったけど、洋服がよかったわ」と答えるではありませんか!

 この学会を作ったのは、田宮仁(まさし)さんだそうです。この方は、長岡にある田宮病院院長だった(今は、名誉院長)田宮崇さんの弟さんで、今は、淑徳大学の教授です。そもそもビハーラというサンスクリット語で、仏教ホスピスを表現したのもこの田宮仁さんだということです。

 といっても、実は私も、本当の意味を知りません。今調べてみたら、「サンスクリット語で僧院寺院あるいは安住・休養の場所を意味し、現代では末期患者に対する仏教ホスピス」と出てきました。

 そのつながりで、長岡の田宮病院には、ビハーラ病棟があり(正確には、長岡西病院という田宮病院系列の病院にある)、25ベットで、緩和ケアが行われています。また、この田宮仁さんつながりで、韓国や、台湾の方々が、10人以上こられていて、国際シンポジウムも開かれました。韓国語、台湾語それぞれに通訳の方が一人おられましたが、話される日本語のすべてを通訳してはいられないので、多くの方々は、ほとんどの内容がわからなくて、大変だったのではないかと心配しました。

 大井玄さん(「痴呆の哲学」などの著者)が来られると聞いて、心待ちにしていました。大井玄さんも、田宮さんとのつながりで、このビハーラ学会創立から、かかわってこられたのだそうです。28日夜のトーク&ライブでは、いろいろと語ってくださり、特に私はこのことがとっても興味深かった。コンビニでモノを買う客に対して、店員が、体のどこかに触った客と触らない客とに分けて、その後の行動を追跡したら、触ったほうの人が有意にその後も買い物に来ているという結果が出たというのです。そのことを応用して、老人の施設でも職員は、なんとかして、入居者(利用者)の体に触る努力をすべきとのことでした。おかげで翌日は早速桐の花に行って、デイルームに座っている入居者全員の体に触ってきました。

 大井さんは、弟の武正さん(数年前にがんで亡くなってしまった)とは、学生運動で出会っているのですが、お兄さんの玄さんとは、今回初めて出会いました。本を読んで、内容もさることながら、そのお人柄が、素晴らしいと思っていたので、「誤解の天才」としては、出会うことが少々心配だったのですが、さにあらず、本で感じたようにすばらしい方でした。29日朝は、同じホテルだったので、朝食を3人で食べ、その後は、近くにある高田公園のハス畑(東洋一のどでかい物)を見に行っていろいろなおしゃべりをしてきました。

 大井玄さんは、台湾の方にこう言っておられました。「『緩和医療」と言われましたが、私は、その前に『安寧』を付けて『安寧緩和』としてほしいと思います。安寧というのは、安心できるということで、それがあって痛みをとることに意味があると思うのです」

 ところで、五体投地という言葉、ご存知ですか? 私は、今回初めて聞きました。5体というのは、2本の手足と額で5体なんですね。それを地面に投げるということでしょうか?うつぶせに寝て、額を床につけます。これを108回行うワークショップがありました。3つのワークショップの中から、私は、これを選んだのでした。それは、講師をよく知っていたからです。野口法蔵さん。2〜3年前まで津川(現阿賀町)のお寺にいた住職さんです。彼は、ずうっと前に新潟大学医学部の学生などを誘って「よろず相談」というのをしていました。私は、その集まりに津川まで行ったことがあります。今回の学会の大会長をしている今村、今井両医師は、そのころ新潟大学医学部の学生で、野口さんの仲間だったのです。

 野口法蔵さんは、新聞社勤務ののち、フリーカメラマンとして、ソ連、中国、インドを取材。インドのラダックで得度。ダライラマより寺名禅処院寄与。全国各地で座禅断食指導を行っている。臨済宗僧侶。

 五体投地をしながら、全員の自己紹介やら、野口さんのトークなど。野口さんによれば、この五体投地は、カトリックにも同じような形式があって、ただ、額と唇の違いがあるといいます。

 どちらもお祈りのひとつの形式、と考えていいようです。野口さんは、この五体投地が、思いがけない効果を生んだことを具体的に話されました。彼は、全国の断食道場で、その指導を続けており、札幌での断食には、長女萌実も参加し、その友達は、野口さんの住む松本の道場にも何回か行っているとのことでした。

 カール・ベッカーさん(京都大学)はこの道の方々の中では有名人なのだそうです。私は初めてお目にかかりました。国籍は、どこだか知りません。たぶんUSAでは? 容貌は白人で、背が低くて日本人並み。日本語は完ぺきで、日本文化にひかれて日本に移り住んだようでした。「西洋文化は、細胞に関心を持つ。悪い部分を切り取ってしまえばいいという考え。それに対して東洋では、体全体をみる。死の看取りを東洋では、在宅で大家族が行ってきた。それが、今では、ほとんど病院で、医療従事者が看取っている。そうすると亡くなっていく人は、死への恐れなどが口にできないまま死を迎えてしまう。遺族の悲しみも外に出せない。したがって遺族のグリーフケアが必要になる。西洋の哲学者たちは、カントを始めみんな『細胞』で考えているのでだめ。日本の文化がそれを超えると思う。」という感じで話されたのに対して、

 国立病院機構新潟病院副委員長の中島孝さんは、治らない疾患にかかわり続けてきて、医療とは本来治癒できない慢性疾患、障害者、治癒できないがん患者、難病患者などのために存在しているにもかかわらず、「治癒」「健康」を目的とし、リハビリテーションも、機能回復訓練とされ、機能が回復しない患者を対象から外した。そのことが「医療崩壊」の原因。アメリカや、アイルランド、イギリスなどで、世界的な悩み・問題意識を共有してきたので、ベッカーさんの「西洋哲学」を切り捨てることに納得できない。と切り込んだ。

 また、彼は「ぴんぴんころりを求める人たちは、不安を造成している」と指摘した。ぴんぴんころり願望の人々は、自分の死に向き合うことを避けているということだと思った。

 このシンポの後昼食となったが、カール・ベッカーさんと中島孝さんは、ずうっと語り合っていた。

 今回は、黒岩卓夫は良寛や吉本隆明が書いた親鸞を研究していて、親鸞に出てくる往相、還相(げんそう)という概念を使って「浄土」に迫っていました。往相というのは、「この世」(今の自分)から自分が成長していく将来を想像することで、それに対して還相は、「あの世」(人生を終わりや死の時点)から今を逆方向から照射する、あるいは考えるということなのだそうですが、この概念、なかなか難しいのです。でも話を聞いてみると、ターミナルケア、というか、死に行く人々のことを考えるときには、とても大切な概念であるということがわかってきました。

 ターミナルケアとは、還相で考えればいい、とのことでした。

 そして、「浄土」です。これはもともと「あの世」の世界だったのに、親鸞によって、「この世」にも「浄土」があると信じられるようになってきた。良寛にとっては、死ぬ3カ月前に村祭りで踊り明かしたとき、そこが浄土だったのでは? また、最後の4年間40歳も年下の貞心と心を通わせることができた、そこにも浄土があったのでは?

 今、この世での浄土とは、「安心できる人とのつながり」「縁」なのでは?

 そして自分自身のことについてこう言いました。「病院長として邁進していたころ、往相でのみ考えていたが、48才のとき、母が亡くなり、翌年長女長男が進学で家を出た。この時点で初めて自分の老と死を見つめ、縁の薄くなる実感と恐怖を覚えた。そこから今の自分を眺め、朝飯づくり、高校生の弁当作りをするなど、ライフスタイルを大きく変え、現在にいたっている。その結果が、『金婚式』をしてもらえるといった幸せを感ずることができた。これこそ私の往相と還相の視線だったと思う」

 27日(金)の初日、卓夫の講演の後、ピアノの演奏がありました。その日の会場である浄興寺には、大きなグランドピアノがあり、暑い暑いと汗を拭きながら出てきた’瞑想のピアニスト’ウォン・ウィンツァンさんが言うには、このドイツで作られた大きなピアノは、知る人ぞ知るすごいものなのだと。「どうぞ寝転んだり、動いたりしながらきいてください」この方は、国籍は日本ではないようですが、日本で生まれ育ったかたで、風貌は日本人の中に含められるでしょう。魂に響くような演奏でした。

 演奏が終わって、夜の懇親会場で話しかけたら、なんと「黒岩さんの話に出てきた吉本隆明は、僕も読んでいます」と言い「中でも好きなのは、『言語にとって美とは何か』です」と。それから、吉本談議になりました。彼は、私たちより一世代以上若いのですが、「吉本バナナのお父さんとは言ってほしくなかったです」と吉本を尊敬しているのでした。

 28日(土)の夜は、ト―ク&ライブでした。初めに現れたのは、上越市後谷(ここには、家が一軒しかないとのこと)というところに自分で建てた家に住んでいるギターリスト瀬谷佑介さん。7キロ登ったところに家があり、そこで、有機の米などを作っているとのこと。さっそくその米を注文しました。演奏がまた素晴らしくって、自分で自分の生活の中から出てきた言葉に乗せて音楽があります。子どもが3人となって、二つ目の家を建てた。その材料は、やこぼしのところに行ってもらってきた。もらうということは相手にとっても喜ばしいこと。少し広い家を3万円の出費で建てた。出費は、釘とか、とたんとかだったそうです。

 9月1日夜、桐鈴会の年一回の全体職員会議があり、仏教看護・ビハーラ学会に28日だけ参加したグループホーム管理者の星野淳子が、その報告をしました。マイクを持つなり彼女はこう言います。「みなさん、二人づつペアになってください。一人の人がもう一人の人の背中に両手を置きます。おかれた人は、大きく息をしてみてください。吸って、吐いて。」そのとき手は、何を感じたか、また、息をするとき何を感じたか聞いていきます。これが、彼女が受けた瞑想のワークショップだったというのです。そして、日ごろ息をするということに何の引っかかりもなく自然のままだったけど、こうして心をそこに集めてみると、人間の命が分かる。それが第一の発見だった。と。

 そしてこの星野淳子さんは、カールベッカーさんが、西洋人であるにもかかわらず、日本文化にひかれたということにとても驚いたと言っていました。

 仏教看護・ビハーラ学会というのが、かなり風変りな学会であることをご理解いただけたらと思って長々と書いてきました。

 

 

 

納骨堂、市長との対話

       2010,8,25      於、南魚沼市役所

 25日、桐鈴会役員4人で、市長さんの所に行ってきました。

 桐鈴会では、納骨堂を建てるということで、設計図もできて、いよいよ着工と思っていたところ、県から、厳しいと言ってきた。その後、市の環境課長が、部下二人を連れてきて、「とても駄目だ」という。今までは手続き的なことを言ってきたけど、その前に「前例がない」「永続性」に問題がある、「周りはどうなのか」などなど言われ、こちらからは、はじめて、趣旨説明をさせてもらった。「せっかく来てくださったのだからご案内します」といって、鈴懸、桐の花、夢草堂を案内して「乗り掛かった船ですからどうぞ・・・」というと広田施設長は「乗りかかってないんじゃない?」

 前例がないという点では、私たちは、「さきがけ」として取り組んでいますから、どうか、同志になってください。などと言って帰ってもらった。その後、検討した結果は?と聞く電話をしたら、やはりだめだという。では、市長さんにお願いすることにします。

 ということで、アポを取り、25日午前中広田さん、市議で評議員の佐藤剛さん、元農協専務で、元市議、今は、桐鈴会の監事高橋満幸さんの4人で市長室を訪れ、次のような要望書を提出しました。

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 日頃私どもの活動におきまして、いろいろとご理解を頂き、そしてまた支援をいただいており、深く感謝しております。

 このたび、私どもの法人として、法人の敷地内に納骨堂を建てたいということで、理事会評議員会でその決議をいたしました。その趣旨は、下記のような内容です。

              記

1、ケアハウス鈴懸は、今年で11年になります。入居者30人は、さまざまなことがありながらも新しい「家族」としてとも  に生活しております。子どもさんが無い方にとっては、こここそが唯一の家族となっています。

2、桐鈴会では、桐の花の「地域交流伝承館」としてお寺を移築してきて「夢草堂」という建物を持っています。ここでは、さまざまなイベントのほか、告別式も執り行ってまいりました。入居者たちは、「私が先に死んだら、あなたが弔辞を読んでね」と言い合っている方もあります。実際その約束通り生前にお願いしてあった入居者が弔辞を読んで見送った方もありました。

3、ケアハウス鈴懸の入居者から、「お墓を持たないので、ここの入居者と同じ所で一緒に眠りたい」という要望がかなり前から出されていました。中には、子どものいないご夫婦で、お金を用意してまで、納骨堂ができるのを待っている方があります。

4、私たちは、前例がないような形で、桐鈴会を立ち上げました。それは、450坪の土地と資金を提供してくださった方があって、そのほか70人もの方からの貸し付けや寄付などで建てられた施設だからです。役員一同は、「自分が住みたい施設」を目指して取り組んでまいりました。ですから、入居者が、希望されることは、なんとかして実現させたいという一心で、この納骨堂つくりに邁進してきたのでした。

5、私たちは、このことを目指して、県内の共同墓地や納骨堂らしきところを見学してきたりしました。生きること、死ぬこと、これらは、たぶん同じことなのではないか? いやもう少し正確に言うと、「生きること」の延長線上に「死ぬこと」があり、だから一緒に家族として暮らしてきた入居者の皆さんは、「死後も共に眠りたい」と夢を語ってこられたのではないかと思います。

6、一方、社会は確実に変化しています。100歳以上の方々の行方不明に言及するまでもなく、農村でも、共同体が崩れて、墓守をする人がいなくなった、ということが、かなり広まってきています。そういった社会構造の変化に対応するには、私たちの中にある習慣を見直すことが求められます。そういう意味で、私たち桐鈴会は、先駆けとして、納骨堂を建立し、地域社会、共同体、生と死、などを日常的に考えていくきっかけにしたいと考えます。

7、また、現代社会で老いて死に直面する者にとって、最も大切なものは「安心」であることがわかってきました。自分の家でなくても気の合ったものと暮らし、心あるケアを受けることによって、安心した生活を送っていますが、その中でただ一つ「死んだらどうするのか?」という不安が残ります。

  しかし人生の最後をともにした仲間たちにいつも見守ってもらえるという納骨堂が、安心の総仕上げと見ることができると思います。

  家族とも疎遠になってしまった冷たい墓石の下には入りたくないという人がいても不思議ではありません。

  桐鈴会の納骨堂は、これからの高齢化社会に一燈を灯せるものと確信しています。

8、このような入所者の皆さんや、地域の要望にこたえられるのは、市長さん、あなたしかないのです。どうか、意をおくみとりくださって、納骨堂建設に認可を与えていただけるようお願いいたします。

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 市長は、うなずきながら聞いていて、「どうしてもだめということではない。近所の人たちがいいといい、区長さんも理解してくれたら、また考えるということで、これからも話し合いを続けていきましょう」ということで辞してきました。広田さんが言ったことが、大変説得力がありました。

 「H18年ごろからどうも情勢が変わってきたという感じがするんです。入居者の方が、100万円出すから、納骨堂を作って、そこに納骨して、といわれていたのですが、実際に亡くなってみると親戚や本家の人が来て、うちの墓に入ってもらうことにします、といって引き取って行った。その後は、生きている間に何とか墓に入れるようにしてもらおうと、まきに頼んでみたが、どうしてもだめだと言われ、納骨堂にお願いするしかなくなった。と言ってこられた。本家とか、まきとか、これまで支えあっていた地域の組織が崩れだしているんです」

 そのあと私は、近所周りを始めました。なんとどこの家も大変協力的で、中には、「まあ!死んでからの面倒まで見てくれるのね。すぐにはんこうを押すわ」と言って承諾書を書いてくださった方もあったくらいでした。ほかの家は、そのまま置いてきて、届けてくださった家あり、私が取りにいっていただいてきた家ありで、9軒の家から承諾書をいただきました。またすぐ隣にあるJAの事務所からも、承諾書が届きました。





ごんちゃんと井戸端会議

2010,8,20     於、南魚沼市民会館

 南魚沼市男女共同参画会議子ども教育部会主催で「ごんちゃんと井戸端会議」が六日町市民会館で開かれました。「ごんちゃん」は、南魚沼市の教育部長さん。この3月まで学校教育課長で、4月から部長に昇格したのでした。彼の本名は、南雲権治、昔「ともに育つ会」を我が家でやっていた時の中心的なメンバーでした。彼が結婚するときに、いかに情熱的にパートナーを口説いたのか、私は、つぶさに見ていました。パートナーの美智子さんとは、そのころ同じ保育園で保母をしていたのですから。

 さて彼の話は、「仙台の大学で、建築を学び、新卒では、熊谷組に入って3年したときに、大和町役場で、一級建築士を募集しているから帰ってこいと親父に言われて帰ってきて試験を受けたら通って職員になった。公務員というのはとってもおもしろいことが分かった。建物を建てるとき、何のために作るのか、ということから始められる。町民にとって何が必要か、そういう点で、全国の先進県を見に行った。大分県の大山町。宮城県の中新田町のバッハホール。そこの町長から、『建設の過程が文化』という言葉を聞いてきた」

 「そのころ、黒岩さんのうちで集まっていた『ともに育つ会』では、『迷惑をかけあおう』とか『教えないで育てる』とか、とんでもないことを秩子さんから聞いた」

 「私の次女が中2で不登校を始めた。今では、それが発達特性だと思うが、数字に弱い、自分は子どものことより街づくりのほうに関心が向いていて、子どものことをよく理解していなかったのではと思うし、嫁しゅうとの不仲もあった。次女は、引きこもっている時、親と一緒にビデオを見たがる。妻は眠たい。私が一緒に見るようになった。黒岩さんのところは、卓夫さんがご飯を作ったりするが、私もこの時から料理、洗濯、なんでもできるようになってしまった。埼玉県飯能市にある自由の森学園の中学を卒業して、そこの高校にはいかず、美容師の学校を出て就職するが、数字を扱わなくてはならなくなると怠けているといわれて首になる。ひきこもる。1月ほどするとむっくり起き上がって、就職する、また首を切られる。ひきこもる・・・・を繰り返し、この1年半、介護の仕事を続けることができ、できちゃった婚で、今年6月結婚して、12月に出産する」

 「仕事は、技術畑で終わると思っていたのに、4年前に教育委員会に来た。遠山教育長と出会っていろいろと教えられた。英語特区ではなく、国際理解ということで特区を申請した。乳児、幼児、学童、と役所の係が分担していて、その間が切れている、これを切れ目のない支援にしていきたいと思って、自分は今、保育所の園長会議に出ている。月が丘養護学校の先生をしていた内山先生に来てもらい、保育園を回って相談に応じてもらったりしている。『笑顔あふれる子』という事をメインテーマにしていきたい」

 「『発達特性』という言葉は、私が作った言葉。『発達障害』っていうのいやでしょう?」

 「次女の問題に取り組んで、妻とは、同志という関係になれたと思う」

 その後、井戸端会議となり、会場の人たちが色々な意見を言った。誰かが言ってくれるだろうと思って最後まで手を挙げなかったのだけど、最後に手を挙げていった。「ごんちゃんは、コミュニティーホールさわらびを作るときに、町民会議ということで一緒にやった。足のない人のアッシーになり、町を一周して運んでいた。役場の職員と町民が本当に同じ立場で話し込んだ。

 ところで『笑顔あふれる子』というのはどうなのか? 子どもたちの世界では、明るくふるまわなくてはいけないというのが常態化していて、みんなが無理をして笑顔を作っている。泣いてもいいよ、弱虫でもいいよ。逃げてもいいよ。というメッセージを与えられる標語にしてほしい」すると会場からいろいろな意見が出てきた。「笑顔って言われるといい子にしていなくちゃいけない、ということになるのでは?」ごんちゃんはそれに対して「それもわかるけど、それをテーマにして語り合えたらいいのでは?」という。

 全体としては、かなりユニークな、やる気満々の市役所職員「ごんちゃん」に対してそこに集まった20人ぐらいの人は、すっかり応援団になってしまったようでした。

 


 

みのわの里、工房こしじ見学記

2010,8,18      於、長岡市旧こしじ町

 187人で見学に行きました。しょうがい者を子どもに持つ人が4人、桐鈴会評議員1名、その夫1名と私です。

 みのわの里は、新潟県知事による「ミニコロニー構想」に基づいてできた入居者50名という施設です。30年ぐらい前に、第1号として六花園ができ、多分第2号として、みのわの里が、療護園(身体障害者)、厚生園(知的障害者)を作りました。

 今では、「施設を地域に開く」という点で新潟県の先頭を走っているところとなり、すでにGH(グループホーム)が12個あるところへ、この81日に新築のCH(ケアホーム)がオープンしたのです。工房こしじ施設長の涌井幸夫さんの案内で、まずこの「CHいわの」を見せていただきました。ここは「程度区分2から6までの方7人が入居している女子寮でした。5月ごろすでにここの経理を印刷したものを送っていただいていたので、この資料を車の中で皆に回してみていただいてありました。それをいただいたときに説明を受け、重度の方4人には、夜泊って見守る世話人の方がつく、残りの3人の軽度の方にはつかない。ということでした。建物もそれに合わせて建てられていました。1階に4部屋、2階に3部屋です。2階には、階段で上ります。階段を上ることが可能な3人の部屋が2階にあったのでした。入居する人が決まってから、その方々に合わせて設計をしたということでした。「入居する人が決まってからでなくては、できたのにはいる人がいないなんて言う事態になったら大変ですからね」と涌井さん、とっても豪快な方ですが、細かく経理面にも気を配っておいででした。

 このケアホームの世話人の方二人は、その建物の目の前のうちの方々でした。これはすごいことですね。こういう障害者の施設を作ろうとすると近所からの反対にあって、すっかり用意ができた段階で、だめになることがあると話に聞いています。確かに、H7年に初めて作ろうとしたときには、そういう反対があったそうです。でも今では、「家を使って何か作らないか。近所の説得はおれがするから」と言ってくる人があったり、「できたら、そこの世話人として使って」と言ってくる人もあるとか。GH12個はすべて古家を使って運営しているそうで、それらの実績から、旧越路町(現長岡市)の地域では、障害者への抵抗がなくなっているといいます。実際、GHCH13個には78人もの人が住んでおり、そこには最低2人ずつの世話人さんがいる。それだけでかなりの雇用を創出するのですから。

 ただ、CHは重度の方が多いので、世話人任せにするのではなく、工房こしじのスタッフが二人夕方からつきます。昼間こしじで働いている人の保護者は、「おらこを知っている人がいねば心配」というので、できたばかりの今は、そのようにしているとのこと。

 次に案内していただいたのは、工房こしじ(就労移行支援生活介護)。ここは閉鎖された公立保育所を町から払いうけて始まったもので、定員40人のところに現在62人が昼間通っているとのこと。皆さんが熱心に仕事に取り組んでいました。工場の下請けのような仕事や、透明な封筒に宛名などを貼る仕事、お正月用のしめ縄とか、さまざまな飾り物の一部を作ったりしています。

 最後にいった部屋では、若い人ばかりが作業をしているので聞くと、養護学校や、特別支援教室に通っている中学生たちで、夏休みの間だけここで作業をしているとのこと。15人が作業をして、ほかの15人は、映画鑑賞に出て行っている由。かなりたくさんの中学生がここを利用してくれ、卒業後には、ここの利用者になることが多いとのこと。養護学校のパートさんたちは、夏休みは、仕事がないので、その方々にここで働いてもらっているそうです。

 40人定員だから、40名しかとらないと、休みがいるだけ収入が減るので、定員よりも多く取っておけば、その分人を増やすこともできてありがたい、とにかく「来る者は拒まず」がここのモットーだといいます。

 とにかく涌井さんは、「地域とのかかわりを大切にして、囲い込まないようにしている」と言います。有償ボランティアとして、60歳過ぎた方々が、一緒に仕事をしてくれ、「お茶のみしているよりも役に立っていることがうれしいし、その上お小遣い程度の収入がある」と喜ばれているとのこと。

 最後に案内していただいたところが、実は、一番すごいところでした。「中越しょう害者総合支援センター」という看板が掛かっています。本当に総合的に支援する、名前の通りの場所でした。ここは、何か工場のようなものが1階にある、2階の場所でしたが、「いずれは、この工場がなくなって全部使えるようになるのだ」と涌井さん。階段を昇って2階につくと、単独短期入所という部屋が3個あり、ここは体験入居などに使っているとのこと。親子だけでここに泊るということもありだそうです。「安心安全コールセンター」というのは、去年の12月に湯沢で開かれた「にいがたふぉーらむin湯沢」で涌井さんがレポートしてくださったものです。78人ものGHCHの入居者や、施設入居者、在宅の障害者などからの相談を24時間にわたって受け付ける場所です。3人の職員で、対応しているとのこと。一人が8時間労働だとすると、1日を3人で分け合うことになり、それでは、3人が30日間勤務しなくてはならなくなります。そんなわけにはいかないので、きっと、夜中は、仮眠がとれるので、少し労働時間が長くなるのでしょうね。この体制があるということは、本当に「安心安全」が保障されるでしょうね。「居宅介護事業。行動援護事業」「相談支援事業」「長岡市内障がい者共同販売ネットワーク」など多様な事業が展開されています。

 話をケアホームに戻しますね。実は、隣の土地を買って、これから、日中活動の場所を作るのだそうです。自立支援法では、昼間過ごすところと夜寝るところは、離れていること。となっているのに、隣とは! ところがどういう解釈によるのか忘れましたが、県のほうから許可が来たのだそうです。しかも、CH(泊るところ)と日中活動の場を来年度に一緒に作ろうとしたら、県から「CHは、予算が残っているから、今年中に作っていい」と言われて、急遽8月1日オープンとなったというのです。これはとっても耳寄りな話でした。それなら、私たちが作ろうとしている古家を使ってのGHも、来年と言わず、今年作れるのかもしれない。そう思い立つや、帰り着くとすぐに、市役所の係りに電話。今日聞いてきたことを伝えて、「うちも今年度に可能性があるならば、8月20日締め切りの申請をします。県と連絡を取ってください」というと、それからが大変なことになりました。18日の夕方から、20日までに申請書類を作ることになったのです。古家を貸してくれる大家さんと賃貸契約を結ぶ。改装の設計図を明日までに作ってもらう。見積書を最低二か所から出してもらう、などなど…この申請を一手に引き受けてくれている評議員の鈴木智子さんと施設長の広田さん、私と3人がフル回転をして、なんとほぼ書類をそろえることができ、20日の朝、速達で県庁に送る算段ができたのでした。

 さてこの書類で、今年度中に6人定員のGHが、来春出来上がってしまうとしたら、びっくりですね。今、大家さんのうちにいってきたのですが、彼は、20日から出張でいなくなるのだそうで、19日だから、契約書を作ることができたのです!

 見学の成果が、あまりに大きくてびっくり! です。

 後日談。

 なんとこの計画は通ってしまって、県は、国に挙げたということが、8月27日に連絡がありました。23年4月1日(この日まで22年度)がオープンです。入居者の発掘、世話人捜し、などなど夢を膨らませて取り組むことになります。

 なにしろ、国としては、23年度までに自立支援法による「新体系」に移行しようとしているのですが、「旧体系」のままの施設は、そのままにしておきたいらしく移行がはかどっていないというのが実情のようなのです。実際、うちからいちばん近い「魚沼学園」では、知的障害者の厚生施設ですが、まだ一つもGHを作っておらず、移行は、0%しか進んでいない現状です。

 うちのGHの助成金(国が半分、県が4分の1、残りの4分の1が自分持ちです)が正式に決定するのは、9月末ごろのようですが、とりあえず、県からは、OKが来たのでびっくりでした。

 

 

 

私たちの金婚式

    2010,8,13     於、龍言(南魚沼市六日町)

 今年は私の古希と金婚式と両方で、全員がそろえる8月13日、この近くの温泉旅館で祝ってもらうことになりました。滋賀に住んでいる3女が、11日私と一緒にこっちに来て(志重が行ってみたいというので、9日に滋賀に行って2泊してきた)、次女の家に泊まりこんで、次女と二人で準備をしているようでした。私たち夫婦には、それぞれにあてて、質問が来て、何日か掛けてそれにこたえました。子どもたち、その連れ合い、そして孫たちにもアンケートが配られているようでした。

 さて当日は、プログラムとそのアンケートの答えが冊子になって配られました。私たち二人がひな壇に並び、子どもたち孫たちは、向き合って座ります。なかなか到着しない札幌の二男家族を待っている間にその冊子を読んでいました。色々と言いたいことや、「絶対にまねしたくないこと」などをユーモラスに書いている子どもたちでした。

 40分遅れて到着した二男家族を迎えて開会。

 参加者全員のスピーチの中でひときわ大きな拍手を浴びたのは、「初めての孫」16歳のもの。「初めての孫、としてずいぶんかわいがってもらいました。4歳で浦佐に泊まっていたとき(次の子の妊娠で母親が動けなかったため)には、五箇保育所に連れて行ってもらったり・・・・おばあちゃんとお母さんとは、考え方が、まったく違っています。そのおかげで僕の人間としての幅が広がったと思っています」私は自分の高校時代を思い出してみて、こんなことがいえただろうか? もっと実に単純な人間観しかもっていなかったことに改めて考えさせられました。

 私たち二人で選んだ写真をスクリーンで見せながら、50年の歴史を披露し、みんなが歌ってくれた「お祝いの歌」が実に愉快でした。おなじみの曲に合わせて私たちの50年を替え歌にしたもので、私たち二人は、特等席で聞きながら思わず笑ってしまうようなものばかりです。

 卓夫が昔から「押し掛け女房だ」と言っていたのですが、その証拠となるものが出現しました。19606,25付の私から卓夫へのラブレターに「結婚を延ばす理由は私のほうからは全くありません。あなたには何かあるの?」というまるで脅迫状のようなものです。こんなものをとってあるとはびっくりでした。「二人の歴史」の始まりがこのラブレターだったのです

 そのあとは「サプライズ」でした。地元の友人たち3人に書いてもらったメッセージ、だれからとは言わずに読み上げ、途中で、だれだかを私たちがあてるというもの。この3人の選び方は、さすがです。私に選ばせても全く同じ人になる、そんな3人に、とっても楽しいメッセージを書いてもらっていたのでした。

 離婚だの別居だのと、周囲を巻き込んではハラハラさせてきた私たちが、50年も続いてきたのはなにゆえなのか? 一同の関心事は、解答が見つかったのかどうか?

 私はただ一つ、「自分を変えていこうとする努力」なのではないか? と提案しました。何といっても全く違う環境で育った女と男が、共同生活を始めるのですから、思いがけないことが起こるのが当たり前。そこを乗り切るには、話し合っていくしかないけど、「自分を変える」という意識がなかったら、話し合いは成り立ちませんものね。私たち夫婦もはじめのころは、この話し合いということができなくて、喧嘩になるばかりでした。50年かかってやっと話し合いができるようになったということなのかもしれません。まだまだこれからも「修行」は続きます。





香川知事選挙応援

2010,8,2〜4     於、香川県高松市

香川知事選挙は、8月29日(日)です。渡辺さと子さんは、WINWINで推薦を決めました。

それで、私は、2日から、2泊で高松に応援に行ってきました。実は、私が毎日一緒に過ごしている孫の志重が、この1週間叔母(父親の妹)の結婚式で、ロンドンに行っています。その間私がフリーになっているので、それを利用して、高松に行くことにしたのでした。

知事選候補者は現在三人。渡辺さと子。浜田恵造。名目は無所属ですが、実質自民党応援。元・東京の税関所長。もう一人、松原昭夫。共産党候補。

渡辺さんの新聞によると、「嘉田由紀子滋賀県知事に会ってきました」とあって、新幹線の新駅がすでに決まっていて、着工式まで行われていたのに、それを凍結して、そこの場所に知事自らがトップセールスをして、電気自動車用リチュウムイオン電池製造企業の誘致に成功したとのこと。そんなこともあって、先日の滋賀県知事選挙では、大差をつけて2期目の当選を果たされましたね。

WINWINでの面接のときに、「嘉田知事や、堂本知事を手本にしたい」と言っておられたのが、もうすでに嘉田さんと出会っていた、ということを知り、行動力もすごいなと思いました。

2日は、鈴懸の職員会議があったので、終わってから出て、高松駅前のホテルについたのは、夜11時でした。揺光が高校生の時に、韓国のハンセン病の定着村にボランティアとして行ったときに知り合った高松在住の喜田清さんと、3日の朝9時にホテルで約束をしました。彼は、今年78歳だというのに、自転車をこいで50分かけてきたというのです。いつも渡辺さと子さんの選挙事務所に来ているといいます。事務所が開く10時には、一緒に行きました。ホテルから、事務所まで1分もかかりません。

ここで渡辺さと子さんと出会い、彼女の後援会の名簿に電話掛けをして、と頼まれて、新しくできた選挙事務所に移動しました。県知事選にしては、かなり狭い事務所です。ここで、もう一人の方と二人で電話掛けをしました。12日(木)の告示日に来てほしいというのと、さと子通信をポスティングして、という二つのお願いです。12日というのが、お盆前日なので、皆さん忙しくてほとんどだめ。150件ぐらいにかけたでしょうか? 来られるという人は、3人だけでした。

でも、通信の注文はたくさんいただきましたよ。

3日夜小豆島で集会があるというので、高速船で30分のところへ連れて行っていただきました。候補者と、後援会長と、わたしの3人です。小豆島には、高校の修学旅行で来て以来53年ぶり。

さと子さんが、知事になろうと思ったきっかけが、この小豆島に作ろうとしている巨大なダム建設への疑問だったのです。だからなのか、小豆島で、そのダムに反対し続けてきた人たちにとっては、さと子さんを何としても知事にしたいという意欲にあふれています。この日集まったのは、30人ですが、(小豆島の人口は、3万人)今回は、さと子さんの話ではなく、ほかの人の話が聞きたい、と言われたそうで、後援会長の真鍋宣子さんが、話しました。

「15年前、さと子さんが県議に初当選したその時から選挙にかかわり続けてきた。今までは、1万票とればよかったが、今回は20万票取らなくてはならない。本人は、知事になってやっていけるか、ということは考えたそうだが、選挙のことは頭になかったという。人が、空母対お椀の船、の戦いだという。空母は動きが鈍いが、お椀は、小回りが利く」

そのあと、さと子さんが話して、会場からの意見を聞く。

「四国88番のお寺のどれかで育ったのでは? 大学で、弓道部だったというのは本当?」の質問を受けて、「63番の寺で育ったが、7歳の時に父が亡くなって、4歳の妹、1歳の弟の3人を母が育ててくれた。大学は、奨学金とバイトで、仕送りなしだった。弟が、小さな寺に婿に行った。そういう環境で育ったことで、神か仏かは知らないが、誰かがきっと見ていてくれる、という思いを持っている」

「いろいろなことを言いたいだろうが、小泉の時のように一つに絞って訴えたほうがいい」という人があって、その一つを何にするのか、いろいろなアイデアが出された。結局「四国初の女性知事を香川から」ということに落ち着いた。そこで、私も手を挙げて、発言。「女性を議会にということを掲げてWINWINという組織が11年前にでき、赤松良子さんが代表で活動を続けています。推薦委員会でさと子さんの面接をしたのですが、そこにいた全員が、『こういう人こそ知事にしたい』ということで一致したのでした。それで、新潟から応援に駆けつけました。小豆島の方は、女性も男性もいろいろな意見を持っていらして、こういう方々に支えられてさと子さんの選挙があるということを全国のみなさんに報告して応援をお願いしますね」

自民、公明、連合、それから民主の県議団、などが、相手について選挙がおこなわれており、さと子さんは、あくまで手作りの選挙です。「議員特権の廃止」を言い続けてきたために民主の県議団が、反発しているそうです。でも、民主の国会議員の一部は、さと子さんの応援だそうです。

さと子さんが知事になったら、本当に素晴らしいことが起こると思います。どうか、みなさん、知り合いがあったら、電話をしてくださいね。




男女平等社会推進審議会委員の懇談会

2010,7,29    於、ユニゾンプラザ(新潟市)

 29日は、タイトルのような会があって、新潟市のユニゾンプラザに行ってきました。

 そもそも、男女平等社会推進審議会というのが、まるでアリバイ工作のように開かれているのでは? との疑いを持っていました。2年前に委員を公募するというので、私は、DVのシェルターへの新潟県からの助成金を増やしてもらいたい、というテーマを持って応募し、3人の面接官による面接を通って、委員になったといういきさつでした。その時の応募の要領には、「年2回ぐらいの会議を開く」とあったのですが、結果的に年1回ずつ2年に2回開かれただけで終わってしまったのでした。2回目のときに、そのことを指摘し、いろいろと提案をしたのだから、テーマがない、というのなら、提案についての討論をするということだっていいのでは? と発言したら、その後、「様々な意見に対する回答」というような文書が郵送されてきました。それですっかり終わりにするということだったので、私はすぐにメールを送って、「納得がいかない」ことを伝えました。議会でさえ、質問に対して答えたら、その後「再質問」「再々質問」まで許されている。それなのに、回答を出して終わりというのでは、本当に「審議会というものはアリバイ工作にすぎない」という常識どおりなのでは? と。

 するとそれが届いてすぐに中山課長(教員上がりの女性)が電話をくれ、「これからお宅を訪ねたい」という。びっくりしたけど、「このメールに対する返答いかんでは、新聞に投書しよう」と思っていたことが通じてしまったのか、と思い、都合を合わせて、来ていただくことにしました。6月初めのころだったか、課長と係長が二人で来られて、3時間か4時間私の話を聞いていかれました。その後「その話し合いを無駄にしないように、7月31日までの任期の間にぜひ一度懇談会を持ちたいとのメールも来て、委員の都合を問い合わせるFAXも来たりして、29日の日が決まったのでした。

 22人の委員のうち今日参加したのは、10人でした。そのおかげで、今までは遠くてよく顔が見えなかった方々も近くでよく顔が見えるというメリットもありました。さらにフリートークとなったら、結構楽しい意見交換もできて、私の隣の方は、今まで一度も発言されなかったのに、今日はいろいろと発言して、「たぶん黒岩さんあたりが何か言ったので、この会が持たれたと考えていました」とまで言っていたのです。彼女は、新潟県医師会の代表として、もうずいぶん長いこと(10年ぐらい)この委員をしているそうで、「こういうものなのかな」と思っていたといいます。でも、彼女は、医師会の中で、意識改革を迫ると、とっても大変なことになるという話をし、「一番難しいのが意識改革」とまとめていました。この方は、帰るときに「今日はおかげさまで楽しかったわ」と言い残して行きました。

 連合新潟の方は、働き方の問題をいろいろと発言。新潟県の最低賃金は、669円。これではとっても生活ができない。女性の多くが、非正規で、シングルマザーは、パートを掛け持ちでしなくては成り立たない。など様々な問題を提起。新潟県女性財団の大島理事長は、「男女共同参画というだけで、聞きたくないという感じを表現しているお父さんたちに対して、一つ一つ丁寧に話していくとそうだったのかと理解してくれることもある」と発言。

 若い女性の中で、専業主婦志向が強まっていることが問題、と新潟大学の先生が指摘。それはなぜなのか、皆で議論。

 私はこう言いました。「意識改革ということもあるけど、その前に、30代の男性が一番労働時間が長いという統計が出ていますが、子育て世代の男性が、もっと家庭に目を向けられるような施策が必要。それがなかったら、意識改革はできないのでは? それから、大人になってからではなく、保育園時代から、男は泣くな、男らしくあれ、と言われていて、それが、男の自殺につながっている。保育園で、『かわいいかわいい女の子』といって手を挙げさせ『強い強い男の子』といって手を挙げさせている。生命体としては、弱いはずの男に強くあれというのは、苛酷である」

 最後に自治体の首長さんの代理で参加した役場の男性がこういいました。「はじめてこういうところに参加して、感じたことを言います。婿に成りたいという男性はいない。だけど、今日のような議論をしているとまずくいくと働くのをやめるという男性が出てくるのではないかと心配」「いいんじゃない? そういう男性がいても」と混ぜ返す人も。私は言った。「あなたのような考え方をする人は、男性の9割ぐらいだと思うから、あなたが多数派で、私たちが少数派なのよね」

 この審議会の座長を務める新潟大学法学部の教授は、「年1回というのは、私が決めました。もともとこの審議会は、県が、諮問したことにたいして、審議をするのが役目です。その点、今期は、諮問されることが少なかったので、年1回で済んだと思う。懇談会形式は、私が提案しました」

 5月に南魚沼の男女共同参画会議で講演をしていただいた一正蒲鉾の長谷川次郎さんは、7月に60歳定年で退職。最後の一月(6月)は、皆に休めと言っていたのだからあなたも休むように、と部下に言われて有給で休んだ。そうすると今までと違う世界が見えてきて、楽しい。いろいろなことに挑戦している、とのこと。おわってから、彼に駅まで送っていただいて、またいろいろな話を聞くことができた。

 ユニゾンプラザのトイレに入ったら、「あんしん」のトイレットペーパーが使われていてうれしくなりました。




スイス山歩き

2010,7,3〜7,13     於、ツェルマット、グリンデンワルトなど  

 参議院選挙もある中での行動なので、前もって広報するのもはばかられて、静かにスイスの山歩きに出かけていきました。2年前からの計画で、「ベアテの贈りもの」仲間と登山家としては有名だという加藤滝男さんのガイドで山を歩くというものでした。日本から、夫婦2組を含めて6人、スイスから、4人、ミラノから1人合計11人での山歩きです。すべて日本人でした。私より高齢なご夫婦が1組あっただけで、あとはすべて歳下、40歳代の夫婦も入っています。一人、単独で、マッターホルン登頂に成功したという方も入っていました。この方の山に関する知識と、装備が、とてもありがたかった。私の靴は、行ってすぐにはがれそうになったのに、それを彼が持ってきたテープでぐるぐる巻きにして、その日をしのぐことができたりしました。

 実は、今回の山歩きのガイドをしてくださった加藤滝男さんは、堂本暁子さんのお知り合いで、「どうもっちゃん」「たきおちゃん」と呼び合う仲なのです。たきおちゃんが、アイガー北壁を今井通子さんたちと初めて直登したときに、どうもっちゃんはTBSのプロデゥーサーとして取材に行かれたのではないでしょうか?

 今回ユングフラウヨッホの測候所まで登山電車(3454メートルの駅で、ヨーロッパ一の高地ホームでした)とエレベーターで上り、そこから歩いて降りたのです。だから、アイガー北壁を見上げつつ、直登されたコースなどの話をうかがいながら歩くという稀有な体験をさせていただきました。歩いていると「加藤さんではありませんか? 一緒に写真を撮らせてください」などという申し出でがあったりするのです。

 ユングフラウヨッホの測候所には、4年前に一人で行っているのですが、今回いろいろ他のところを回って驚いたことは、「観光立国」としてのスイスを見せつけられた思いでした。山という山にケーブルがかけられています。ハイヒールで、山の景色を楽しむ人や、車いすの人達もありました。たとえば、マッターホルンにのぼる登り口ツェルマットまでは、車で行かれないようになっていて、テーシュという駅で車を乗り捨てて、そこから電車で行きます。テーシュの駅には、荷物を運ぶカートがたくさんあり、私たちは、9人(その日は、9人だけだった)で、3個のカートに荷物を積んでそのまま電車に乗り込みました。電車の中には、そのカートをとめておく装置が付いています。ツェルマットにつくとそこで、カートを返せば、借り賃はいらないシステムです。

 ユングフラウ、メンヒ、アイガーという名物3山から溶け出る氷河の水が、岩を削って岩を通り抜ける滝になって落ちるところがありますが、ここにも斜めのエレべーターが付いていて、見栄えのするところまで登らせてくれ、そこからてっぺんまで歩いてそれはそれはゴーカイな滝を見た後、帰りは歩いて降りてくるシステムです。日本と同じように細かいところにまで心が行き届く精密機械の製造は、スイスも得意とするところなので、たぶんここらの交通網は、1900年より前に始まっているのです。測候所まで行く登山電車は、アイガーとメンヒの中をぶち抜いたトンネルを通って、3454メートルまで行くのです。その途中、アイガーの中をぐるりと回るのですが、北壁と南壁には、外が見える窓が付いていて、そこに来ると止まって、窓から外を見る時間をとってあるのです。そんなことまで考えて、トンネルを設計したのですから、遊び心も十分に存在して、作る人もそれなりに楽しんでいたのでしょう。

 国土交通委員会に所属する長男宇洋は観光のことも考える必要があります。できることなら、視察に行って、日本も観光地として、もっと売りだしてほしいと考えました。

 最後に別れるときに加藤滝男さんは、「どうもっちゃんにくれぐれもよろしく」とのことでした。

 11日には、選挙結果を聞くために電話をしました。あまりの惨敗ぶりに一同、びっくり、千葉景子さんの後輩に当るスイス在住の人は、その落選にすっかり気落ちしていました。在外投票などで、投票依頼をしてきたのだそうです。

 日本に帰ってきて1週間もたたないうちにスイスの「氷河特急」が転覆しました。ツェルマットから8時間かけて、マッターホルン、アイガー、メンヒ、ユングフラウを車内から見られるという電車です。スイスでは、ほとんど鉄道事故が起きないと聞いていたので、エッ? という感じがしました。点検もしたばかりだというし、特別の暑さで、線路が膨張しているのを補正したとも報道されていました。この「氷河特急」の高架線を眺めたことはありましたが、実物は見なかったし、私たちは乗らなかったのです。この電車は、歩くことなく、電車の中だけで、山を堪能できるようになっているので、かなり高齢の方々も利用されていたようです。事故の原因は、まだまだ追究されているのでしょう。

 日本人客がたくさんでした。山が日本とは違って、ほとんどが岩であるということ、それによってかなり景色が変わってきます。だから、逆に、スイスの人が日本に来ると日本の山を「きれい」と感じるようなのです。




グループホーム「桐の花」家族会

2010,6,27       於、「桐の花」

 27日()富山で泊まって朝帰ってきたのですが、浦佐駅から、桐の花に直行しました。11時から、桐の花の家族会が予定されていたからです。

 入居者9人のご家族は全部そろったのみならず、ほとんどが、子どもさん夫婦でとか、複数で来られていました。その上、デイサービスに来始めた方の息子と娘も参加され、実ににぎやかな会となりました。入居者の皆さんと職員、家族、みんなで豪華な昼食を取った後、入居者の皆さんのお昼寝時間に家族と職員の懇談会をしました。この日のメインテーマは「看取り」。わたしのほうから、「平穏死のすすめ」の本の紹介をしながら、この著者の石飛幸三さんを11月14日()、桐鈴会11周年記念にお呼びすることを紹介したり、新潟日報の投稿欄のコピーを配ったりしました。

 それに対する家族の方のご意見には、目を見張りました。まずは、一人の方が、自分の親をみとったときに、管をつけられてしまっていかに苦しんだか、ということを話されました。次は、消防署の職員だった方が、定年退職後に救急対応を消防署の職員に研修をする、そんな仕事に就いている方が、「実は、今では、なるべく管などをつけないほうがいい、という方向で研修を行っています」といいます。そしてまた別の方は、遠くから来た親戚が、延命治療を要求して、管をつけたら、その後3年間意識不明のまま延命されたそうで、家族は、ほとほと大変だった、という話をされ、そこに集ったすべての方から、自然に、木が枯れるように亡くなっていくというのが、いいということで話が終わりました。

 そのあと、皆さんの交流で、最近入所された方の娘さんがこう言いました。「認知症というのは、こんなに性格が悪くなるのかとショックを受けています」そこで私が聞きました。「具体的にはどういうことですか?

 「物を隠すんです。リハビリパンツとかをたんすに入れ込んだり、トイレットペーパーをため込んだり…」

 その時職員が言いました。「その点では、先輩がおられますよ」6年前の開設当時からの入居者で、トイレに置いてある予備のためのトイレットペーパーをすごいときには、一晩で5個自分の部屋に運びました。それで、みんな高い所に乗せたら、つえを使って落として取ったのです」そして、その行為は、女性にとっておもらしということが不安で、トイレットペーパーをお股に挟む人がほとんどで、それがなくなったら困るという不安から、日ごろためておくんですね。と解説。

 入居者が、昨年は、9人中5人がなくなったので、半数以上の方が新しく入所された方なのでした。まだ、親の認知を受け入れられないでいた人たちは、先輩の話を聞いて少し受け入れ態勢ができたのでは?

 

 

 

ワークショップ「女性の政治参画10年を振り返って」

2010,6,26     於、富山市サンフォルテ

 山下清子さんからのお誘いで、26日富山の女性会館サンフォルテに行ってきました。

 「シャキット・富山」という団体からの御誘いだったのですが、この団体は、10年前に富山県全体の市町村長35人に男女共同参画に関するアンケートを出して、一件ずつ取りに回ったその活動から始まったものです。その報告を見たときから、すごい団体だと認識していました。今でも富山はそうですが、自民党王国で、首長さん35人は、ほとんどが樋口恵子さん言うところの「草の根封建おやじ」ばかり、そこへ押しかけて彼らにとっては全くのちんぷんかんぷんな質問をして、回答を求めるのですから、その報告書は実に興味深いものでした。

 そんな印象を持っているシャキットだったので、山下清子さんからのお誘いに乗って会員になったら、そのmlのすごいこと。何人もの人が、毎日のように発言しているというだけで、びっくりしていました。そこからのお誘いとあって、どんな人がおられるのか、見るだけでも価値あり、と二つ返事でOKしたのが、26日のワークショップだったのです。女性の政治参画をメインテーマに私が50分お話をして、その後シンポジウムと全員によるトークです。

 シンポジストが面白い。

 宮崎さゆりさんは、沖縄や、アメリカでの活動ののち、7年前に故郷である富山に帰ってきました。今年の3月、富山県議会をはじめ、各市町村議会で、「選択的夫婦別姓に反対する決議案」というのが出されて、そのチラシを見てこれは何とかしなくてはということで、「選択的夫婦別姓を実現する実行委員会」を立ち上げたのです。宮崎さん自身夫婦の姓について特にこだわりがあったわけではなかったそうですが、こういう決議が行われるということに、そしてチラシの「夫婦別姓は、家族のきずなを壊す」という文言に危機感を持ったといいます。

 土井由三さんは、北日本新聞の記者をされていたときに、社説で、「男女共同参画」を呼びかけた方で、それをきっかけにこのグループとつながって活動されています。その後、小杉町で町長になられて、女性を係長にしようとしたら、退職されてしまったということを話されました。女性たちにリーダーになるための研修を早くから始めなくてはと思ったそうです。結局そのときには、教育委員会にお願いし、校長になる直前の女性教頭を委嘱して力になっていただいたそうです。

 これをきっかけに、庁舎内での女性のお茶くみは廃止し、お茶は飲みたい人が男性も女性も、自分ですることを徹底しました。女性も男性と同じく、研修を重ねる機会を多くし、管理職に登用するシステムをつくり上げるさなかでの市町村合併で、思い半ばにして退くことになったそうで残念なことでした。

 この時に言わなかったことを後から、メールで知らせてくださいました。

 「あの日は言いませんでしたが、北日本新聞時代には労働組合専従書記長を2年やり、その間に嘱託傭員という身分が不安定な女性10数人の社員化闘争を勝ち取り、定年制が55歳と60歳の2本立て(合併・統合会社であるため)であったものを60歳に一本化するなどストライキをかけて実現してきました。理不尽なことが許せないのは、あなたと同じです。」

 すごい方ですよね。

 山本夕起子さんは、専業主婦だったときに、夫を交通事故で亡くし、県主催の講座を受けて、このことに関心を持ち始めたそうですが、今では、共同代表をされて、ml上でいつもお名前を見ていました。

 その後の会場の参加者全員によるトークが、シャキットの素晴らしさでもあると思いました。





社会福祉法人「アートかれん」見学記

2010,6,21      於、神奈川県横浜市港北区大倉山

昔堂本暁子さんの秘書をしていて、堂本さんと一緒にこちらに来たことがあって、夢草堂での田中瑞木さんの展覧会のときに横浜から見に来てくださった松園典子さんが 理事長をしている[社会福祉法人かれん]を見学に行ってきました。渋谷から東横線で大倉山。昔目黒区に住んでいたころよく通ったことがある東横線、大倉山は懐かしい響きです。10時半に大倉山駅で落ち合って、歩いてすぐのところにある「みんなのお店」(1984年から営業)に行きました。とっても狭い3坪の土地で、有機の野菜を売っています。ニンジンや、長ネギに泥が付いていて如何にもおいしそうでした。その時間は、3人ほどのしょうがい者が、お店の用意をしていました。帰りに買いたいものを目星をつけて、次のところに行きました。

「アートかれん」という看板があるお店は、駅前通りにあります。前の半分は、いろいろな団体に場所を貸して、展覧会をしたり、洋服のお店を出したり、そして奥に入ると、しょうがいを持った人たちが、絵を描いたり、お昼ご飯を作ったりしていました。壁には、たくさんの絵が展示されていて、その絵の作者がいるとその紹介があり、いないときには、どういう方かと話があります。どれも個性的な絵で、ハガキにして売ったりしているそうで、ここの利用者さんは、ちゃんと収入を得ているとのこと。ここの施設長さんは、ご両親が、村上だというので、さっそく宇洋のことをお願 いしてしまいました。

駅前通りをもう少し行くと「モアかれん」というお店がありました。ここは、結構ゆとりのあるスペースで、「みんなのお店」の本店であり、同じ自然食品店です。働いている人たちが10人近くいて、その中の一人は、一人旅が趣味で、今度の休みには、九十九里浜に行くと言っています。 暑い中を歩いて行ったので、のどが渇いて、冷蔵庫の中から、五穀大黒茶というペットボトルを買いました。これがはじめていただくおいしさでした。横浜でとれたというはちみつも売っていました。今、はちみつがそこここで姿を消しているというのに、横浜では、取れているのだそうです。

少し裏に入って住宅街の中の2Fが、「メープルかれん」というやはり制作活動が主体の場所でした。メープルというのは、もみじなので、人生の中の「秋」に当たるかなり高齢の方の集まりとのこと。「アートかれん」に絵が掲げられていた「厚生年金をもらっている」ことが自慢な65歳の男性に会いました。有名な自動車会社で働いていた経 験がある方でした。ここには、織物の機械があって、とっても素敵な色の縦糸がかかっていましたが、縦糸は、職員が、横糸を利用者さんが掛けるのだそうです。

最後が、昼食をいただくことになっている「オーガニックスペースかれん」は一番はじめにできた「かれん」です。喫茶とランチのお店。ここは、商店街に面している4階建ての建物の、2、3,4階を「かれん」が占めています。2Fがレストラン、3Fは、パンやクッキーを焼く調理室とメンバーの食堂をかねています。4Fは本部です。松園さんが、経理までしていると聞いてびっくり! この部屋で、二人で少しおしゃべりをしました。そもそも松園さんと二人で話したことがほとんどないのです。年は、私の一つ上だということがわかりました。堂本さんとは、東京女子大の山岳部の先輩後輩にあたるとのこと。1年半ぐらい秘書を務めたのだそうです。堂本さんが、知事の時代に山岳部の同窓会で、白馬に登ったことがあるとのこと。「かれん」が、出来るときからかかわっていて、初代の理事長が、高齢になって引退された後2年前から2代目の理事長に。

2Fのレストランで、玄米と有機の肉や野菜を使った昼食をいただきましたが、そのおいしいこと!しかも6色のおかず付きで、900円。客がたくさんで込み合っていました。私達が食べている隣に来た方が、息子さんがほかの作業所で絵を描いているという方で、私が、新潟だと言ったら、「あら、私新潟の六日町によく行きます」どこ? と聞くと「さくり温泉」というではありませんか! 「それ、うちの夫が理事長を している医療法人がやっているんですよ。正確に言うと、医療法人ではできないので、事務長が社長になって別会社を作っているのです」その方は、息子さんが今33歳だけど、まだ小学生だったころからずうっといっているというのです。それから、さ くり談義となりました。みんなで行こうという話が盛り上がって、とにかく、まずは、松園さんが偵察隊としてくるということが決まったのです。何しろ温泉の質がいいことと安いことです。

その時一緒の輪に入っていた人で、横浜の特別支援教室の先生をしていたという方が、昔々私が子育て真っ最中の頃、テレビに出ているところを見たという人でした。 私という実物に出会えてうれしいとのことですが、松園さんと二人で、私の家の中を見たときの驚きを表現できなくて困っていました。「よくぞこんな所に住める!」という驚きだったと思います。

今日の見学が、桐鈴会のGH,CHつくりに参考になるだろうと期待しています。





自閉症のピアニスト、コンサート

2010,6,19      於、桐鈴会夢草堂

19日は待ちに待った自閉症のピアニスト石月誠人(まさと)さんのコンサートと、そのお母さん石月純子さんのトークでした。

一番待っていたのは、「発達障害」だと言われた子どもを持つお母さんたちでした。会場は、なかなか人が現れないね、と話しているうちに、始まる10分前から、行列ができてしまって、椅子はおろか、座布団にも座れず立ち見席、その上、外にまであふれて、150人ぐらいが聞くことになったのではないでしょうか? 誰も数えている人がなかったのです。

初めて夢草堂に来た人が多そうなので、少し桐鈴会と夢草堂の話をしてから、演奏が始まりました。体中が弾いてるという感じで、会場がシーンとなり、「発達障害」と言われた子どもたちがたくさんいるのだけど、その子どもたちも演奏に聴き入っています。曲目が、「崖の上のポニョ」「ノクターン」などしたしみのあるものばかりでしたが、その演奏が激しくなったり、静かになったりとっても多様な感じなのです。認知症のお年寄りたちもいつもだと、おしゃべりが始まったりするのですが、この時ばかりは、シーンと聞きいっていました。夢草堂のグランドピアノが、初めて蓋をあけてひかれたのです。お寺中に響き渡ります。

最後の曲が終って、拍手が鳴りやまず、「アンコール」の声が飛ぶと親指を立てて喜びを表現しました。そうして、「情熱大陸」が奏でられます。本当に素晴らしい演奏でした。

その後、お母さんのトークになったら、誠人君から「戻りたい」の声。お母さんが言います。「自分のことが話されるのは嫌なので、どこかに行っているでしょう」彼の姿が消えて、お母さんは話し始めます。「コミュニケーションがうまくいかない子でした。『誠人』と呼びかけると手で払いのける。だから、2歳半で『ママ』と呼ばれた時には、感激しました。高機能自閉症と診断され、医師から『自閉症は決して母親の育て方や愛情不足が原因でなく、脳の機能障害です』『また病気と違って直す事は出来ないが、家族が協力し、早期療育する事で色々能力を伸ばす事が大切です』そう励まされ、ようやく子どもの障害を受け入れ、この子のために前向きに頑張ろうと決意しました」

まだ3歳にならない頃、長岡でカシオの光るキーボードを見つけたら、そこに吸い寄せられてしまって、離れず、4万出して購入しました。三条に住んでいては、はまぐみに3カ月に1度療育を受けに行く、そんなのでは心配だったので、お母さんの実家がある東京に親子で引っ越して、週に一回療育を受けに行っていた、そうして保育園に行っていたら、音楽に対して特別の才能があることが保母さんに伝わって、「ピアノを習わせたら」と言われた。それから、先生を探した。1年半ぐらい、東京で暮らして三条に戻り、青山先生にピアノを習い始める。その日も青山先生が、夫君と一緒にきておられた。お母さんの話の中で紹介された。なにしろ、座っていることができない人なのに、ピアノを弾く時だけは座っている、でもいろいろとこだわりがあるのによくここまでしてくださったもの、と先生に感謝。絶対音感が分かるので、1〜2回聴くと簡単な曲なら弾けてしまう。小学校は、普通の学校に。低学年では、上級生にかわいがられたが、上級生になるとそうはいかなくなった。6年の時、左手を骨折し、その結果躁鬱になったので、中学は、月が岡養護学校に行くことにした。小学校では行かれなかった修学旅行に中学では行くことができた。中3のときには、生徒会長に立候補し、会長になる。お母さんも、PTA会長に。

2009年9月、カナダのバンクーバーで、障害者国際ピアノフェスティバルがあり、初めての飛行機、初めての海外。直前「乗らない」と言い出すが、好きな女の子に「がんばって」と言われたでしょ? で気持ちが変わって、乗ってくれた。そこで受賞し自信をつけて進めるようになった。

話が終わっても座ったまま動かない人がいる。そのうち皆さんがかえって、関係者だけで、お茶のみをしようということになっていました。ところが、その時になってから、誠人君が、またピアノに向かって弾き始めました。きっと気分がよかったのでしょう。ベートーベンの「悲愴」とか、自分が作曲したものとかを乗りに乗って弾いてくれました。

お母さんは、特にはじめの頃の話をするときには、涙ながらだった。関係者は、胸にこたえたに違いない。その日の夜、こんな感想が届いた。連れてきた子どもの都合で途中退席せざるを得なかった方のものです。

>お母さんの「専門医から、お子さんの障害は子育てや愛情が足りなかったのでなく、生まれ持った障害のせい」と涙ながらに話した、あの言葉を聞き、私もこどものこと思い涙が止まりませんでした。 石月君のピアノ演奏、とても感動、素晴らしかったです。 CDがあるなら、購入して聴いていたいです。 また石月君のピアノ演奏、機会を設けてもらいたいです。 もっともっと、大勢の人から聴いてほしい、と願います。 友達も涙してました。私も友達も石月君と同じ発達障害を持つ親として今日の日は忘れられない一日となりました。本当にありがとうございました。

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終わってから、夢草堂の運営委員会をしました。皆さんがあまりに感動したようなので、次回は、「発達障害」の話を聞くことにしよう。ということで、片桐公彦さん(NPO法人りとるらいふ理事長)にお願いすることになりました。

 

 

 

ケアステーション魚沼見学

2010,6,16     於、魚沼市小出

桐鈴会で今作ることを検討しているケアホーム、これを提案したのは、重症心身しょうがい者井口健彦さんの母井口美賀さんでした。この健彦さんが週3回通っている日中活動の場、ケアステーション魚沼を16日に見学しました。その日、健彦さんは、長岡療育園にいて、熱が出たために戻ってこられず、お休みだったのですが、井口美賀さん、鈴木智子さん、志重の4人で見学しました。

隣町小出の商店街の中にあります。山萬という食品店が閉店になったところを改装して、とっても明るい感じの玄関をはいっていくと、20坪ぐらいの大きな部屋とその奥に風呂場がありました。そこにその日は5人でしたが、平均すると8人ぐらいになるとのこと。午後の「創作活動」の時間に合わせていったのですが、この日は、小麦粉粘土の日でした。一人具合が悪くて寝ている人がありましたが、4人が取り組んでいました。志重は、さっそく粘土をいただいて、大喜び。家でも作ってみたいと言って作り方を聞いていました。小麦粉に、塩、油、酢、水を入れるとのこと。油が入ることによって手に付かなくなり、酢が入ることで腐敗予防なのだそうです。

数年前にここができて、38人が登録しているとのこと。その中には、養護学校在学者があって、その子どもたちは、長い休みのときに利用していて、いつもは、学校で過ごしている。これができる前は、みな長岡療育園まで行っていた。長岡は、ここから45キロ。南北中魚沼十日町の人たちがここを利用している。長岡療育園は、精神病院である田宮病院の系列で、重症心身障害児施設です。井口健彦さんは、時折そこのショートステイを利用していて、今回はおじいちゃんの葬儀で預けられていたのですが、熱が出たために帰ってこられなかったのでした。お年寄りのショートステイは、熱が出たといって帰されてしまって困っているという話をよく聞きますが、ここは反対なのです。そこに医者がいるので、帰ってこないほうが安全、というわけです。

利用者の5人は、一人が女性で、あとは全部男性でした。それは偶然ではなく、圧倒的に男性のほうが多いようです。この日は、3人の女性職員が、ほとんど1対1でついて、一緒に小麦粉粘土の感触を楽しんでいるという感じでした。この日のただ一人の男性職員が、私たちの応対をしてくださいました。午前中は、入浴、医師の診察(月1)、リハビリ(週1)など、長岡から出張で来られる方から受診したり、特別な浴槽での入浴介助があります。特別な浴槽、これは初めてみました。これまで見ていたのは、寝たままの状態で浴槽につかるのですが、寝ている台のほうが下りていくものでしたが、ここのは、寝たままでいると浴槽のほうが上がってくるという構造になっていました。重症心身の皆さんは、実にセンシティブなので、こういった配慮が必要なのでしょう。

利用者の女性は、見たことがあると思ったら、なんと私と同じ町内の浦佐天王町の方でした。小さい時、町のしょうがい児訪問指導をしていた大沢紀恵さんが、よく彼女を乗せたバギーとともに散歩していたからでした。もう20歳になっていて、鈴木智子さんも、井口美賀さんも同じ年の子供がいるとのことでした。近くにある小出養護学校に通っている間、ほとんど出会うことがなかったのです。この日はとっても楽しそうに粘土に取り組んでいました。でも、終わったら、寝転んでいて、座っているという姿勢に疲れるのだろうと推測しました。

4歳の幼児もいましたが、20歳ぐらいに見える男性、年齢を聞いたら「その倍ぐらいです」と言われてしまいました。このギャップは何なのでしょう?

ここに通っている人たちは、みんな体調に変化が出たら、長岡療育園に行くのだそうです。車で1時間ぐらいかかります。小出にも往診をしてくれる医者がいるのだから、そういう人を頼んだら? と素人考えを述べたら、「発作のコントロールなど出来ますか?」と井口さん、それは、医者もかかわることによってできるようになるのでは? と言ってはみたものの、親の気持ちとしては、「実験」「見習い」のために自分の子どもを差し出す勇気はないのでしょうね。先日報告した小出在住の山内俊博さんは、上村医院の上村先生の往診を受けています。脊髄損傷の山内さんです。この上村先生は、卓夫が代表を努めている在宅医療ネットの会員で、最近出た日本医師会からの医師会雑誌特別号「在宅医療ー午後から地域へ」で彼の活動が報告されています。

長岡より南には、こういうところはここだけとのこと。健彦さんもほかの人たちもここだけではなく、ほかの日中活動も使っていますが、そこは、軽度の人たちもいるところです。重度の人だけの日中活動の場は、ここだけ、南北中魚沼十日町の総人口は、15万ぐらいでしょうか? ケアホームに住むことになる重度の人たちが昼間通うところ、ということで見学させていただきました。

 

 

 

日本グループホーム学会

2010,6,12,13     於、日本教育会館(神田一ツ橋)

1213日と1泊で神田の日本教育会館でおこなわれた日本グループホーム学会に参加してきました。12日は、弟の妻の告別式が終わってからだったので、会場に着いたのは、5時。一つだけ「人間らしい住まい方」に参加できました。その後の交流会。これこそが参加する意味のある時間です。見渡すところ、毎日新聞の野沢和弘さんしか顔の分かる人がいません。ここで知り合いを作るチャンス。とばかりに誰かれ構わず名刺交換をして語りかけました。

船橋市でGH、CHを運営している方によれば、結構いろいろの名目で助成金が出ているとのことでした。その成果を持って、後は、楽団の演奏だとか言っているので、帰ってきました。そしてその翌日は、午前中いっぱい参加できました。「入居者委員会」の皆さんによるワークショップの報告が興味をそそりました。グループホームに住んでいる人たちが、過去に2回出向いて行ってワークショップをしているので、その報告でした。数人が話していたのですが、その中の一人の女性が実にしっかりとしていて、言葉も語彙が豊富で、この人のどこにしょうがいがあるのだろうと首をかしげていました。所が、質問を受け始めるとてきめんでした。ワークショップの報告では、反省会の中で、「世話人がいないほうが良かった」という意見が出ていたのにもかかわらず、質問を受けると、回答は、世話人さんに頼んでいるのでした。やはりとっさの判断などは、彼らには難しいのでしょうね。「世話人さんが、ワークショップに出ると、入居者が頼ってしまって世話人がいなければ、ちゃんと自分でやれるのに」ということだったのだそうです。私が「世話人がいなければ、どこがもっと良くなったのですか?」と質問したのに対する答えとして、こう言っていたのでした。

その質疑のときに、新潟県からの参加者を見つけました。越路町にあるみのわの里の涌井さんでした。終わってから彼のところに聞きに行ったのが、何よりの収穫でした。今年の8月にCHを建てると聞いていました。そこでの収支がどうなるのかと聞いたのです。そうしたら、かなりいろいろの費用が、助成されるということがわかりました。GHから、日中活動の場所に行くには、車を運転してくれる人を頼んでもその費用が、助成されるのだそうです。そうであるならば、車で5分ぐらいのところにある物件でも使えるということです。これは大きな情報でした。涌井さんから、具体的な収入をメールで送っていただく約束をしてきました。

翌日は、鈴懸に行って早速報告してきました。つい先日、CHの収入は、足りなくて、GHを3つぐらいもっていて、やっと収支が合うというような情報が入っていたのですから。





脊髄損傷について

2010,6,8   於、鈴懸食堂

桐鈴会のヘルパーステーション「おはようヘルプ」のヘルパーを利用してくれているただ一人のしょうがい者山内俊博さんに、「そのしょうがいについて聞かせてください」とヘルパーが頼んだら、快く引き受けて8日は、いつものようにガイドヘルパーさんと一緒に来てくれたのでした。ヘルパーステーションの勉強会ということだったのだけど、ほかの職員や、入居者の方々にもどうぞ、ということで公開したら、思わぬ数の参加者で、用意されたレジュメをどんどん増刷しながらの勉強会となりました。参加者は、40人ぐらいとなったのです。

山内さんの話は、以前にも、聞いたことがありましたが、そのときには、一般的な「身体しょうがい者」の話でした。こんかいは、脊髄損傷に限定してのお話。彼自身のことをかなり語ってくれたので、どんどん質問が出て、それにこたえる彼の表情が、どんどんリラックスされてきて、「山内さんのあんな笑顔を見るの初めて」といつも訪問をしているヘルパーが言っていました。

脊髄損傷の中でも頸髄損傷は一番重くなる可能性が高く、肩から下は麻痺して、動かせないほか、皮膚の触覚もほとんどない。いろいろなレベルがあることを検定試験の教科書から取って示してくれた。「僕がこうして座っていると、座っていると思うでしょう? 実は、縛ってあるので、滑らないだけで、ここにただ置かれているにすぎないのです。」

痙性という言葉を初めて聞きました。麻痺している部分の筋肉が刺激によって自分の意思とは無関係に動いてしまい、足が、突っ張ったり、曲がってしまったりするのだということです。「それが起きたときに、私たちはどうすればいいの?」とヘルパーが聞きます。「何もすることはありません。治るのを待っててください」清拭しているときに、少し強く拭くとそれが起きたりするので、手加減が難しいのだそうです。自律神経過反射、起立性低血圧、呼吸機能の低下、などなど日ごろ山内さんの介助は難しい、とヘルパーたちが言っていたことがどうしてなのか、よくわかった感じでした。

鈴懸ができた時から車いすで生活していた入居者の星浅兄さんが手をあげます。「一番大変なのが、便のことです。お医者さんに聞いてもなかなかわかりません」星さんは、山内さんに比べると両手が動くので、生活はずうっと楽なのですが、二人とも、大変なのは便、ということでは一致していました。便意も尿意もないので、管理するしかない。結局、日を決めて下剤とか、浣腸、摘便。という感じで、外からの力が必要なようでした。「仲間内での話を聞きながら、ヒントを得ています」と山内さん。当事者が、一番の「専門家」なんですよね。

最後にヘルパーステーションの管理者が聞きました。「山内さんが、一番必要だと考えている社会資源は?」その答えはこうでした。「ヘルパーの行為を禁止しないでほしい」。というのは、摘便は医療行為だからいけないとか、山内さんの場合には、家にある車を使ってくれたら、自分にとっては一番使いやすいのに、ヘルパーは、使ってはいけないことになっていて、鈴懸入居者の通院介助もタクシーで、行ってもらって、ヘルパーは、車で行って、おろすところから、介助をするのだそうですね。法律を変えていくのは、当事者たちの力でしょう。最後のあいさつで、「当事者主権」のことを話しました。

それから、入居者の参加がたくさんあって、星さんと山内さんのやり取りは、みんなにとってとても感動的でした。だから言いました。「これから、障害者の問題に取り組むということを会報でお知らせしたときに、入居者の皆さんから、『私達への関心が薄くなるのでは?』という声が上がったと聞きましたが、高齢者は、大部分いずれしょうがい者になるのですから、このように、しょうがい者の話は、身近なんですよね」

こんな企画をしてくれたヘルパーたちに深く感謝しました。「山内さんの笑顔が何よりの成果」と管理者の佐藤雪江さんがが言っていました。

 

これを点検してもらうために山内さんに送ったら、こんなメールが返ってきました。

>昨日はこちらこそお世話になりました。

ヘルパーさんにもっと早く私のほうからちゃんと説明しておけばよかったなと反省しています。ただ、昨日は本当にいい機会で、こうした勉強会を開いていただけたことを感謝しています。

 

 

 

ドキュメンタリー映画「葦牙」を観てきました

2010,6,4      於、ルネこだいら中ホール

岩手からの多数のお誘いを受けて、4日は、東京の小平まで、「葦牙」(あしかび)を見に行ってきました。いやいやすさまじい映画でした。戦後、戦争孤児たちの生活の場として作られてきた児童養護施設が、今では、全国的に被虐待児の生活の場となっているのですね。

映画は、盛岡にある児童養護施設「みちのくみどり学園」の子どもたちの日常が、淡々と紹介されているのですが、内臓破裂になっているのでは? と心配なぐらい本気で、殴りあっている二人の子ども。それを何とか落ち着かせようとしている職員。親に電話して、「今度帰ったら、おんぶして」とねだる小学女児、電話がおわると「疲れた」とつぶやく。親との関係を修復させて、家庭を立て直しながら、家庭に帰すことを模索している施設。家庭を知らないまま生活している子どもたちに「家庭」を体験させたくて、職員と数人の子どもで、合宿をする。虐待をしてしまった母親がインタビューを受ける。

 家庭復帰を目指して、帰宅する子どもの姿。家に入ってみるとぞろぞろと子どもたちがいる。施設から帰った子どもは、母親にとっての第1子。下に6人ぐらい乳児、幼児、小学生といる。我が家の光景を思い出す。インタビュアがきく「子どもの中で誰が好き?」しばらく考えて、第1子の名前を言う。

 上映会2時間の後、トークショウということで、実行委員会の方(司会)、映画の監督小池征人さん、小平市にある養護施設二葉むさしガ丘学園の施設長黒田氏の3人でトーク。これのおかげでいろいろなことが分かった。小池征人さんが、2008年に作り上げた「いのちの作法」というドキュメントの撮影で、沢内村(今は合併でなくなった)に入っているときに、そこに合宿に来ていたみちのくみどり学園の園長藤沢氏が、カメラマンを気に入って「うちの子どもたちをとってくれないか? 泊るところと3食は保証する」といったことから始まった。長期間寝食を子どもたちと共にしたからこそ撮れた映像だったのだ。二葉むさしが丘の黒田さんは、何回か、みちのくみどり学園に行っていて、藤沢園長とも同じ方向を目指して活動している。この映画のサブタイトルが「子どもが拓く未来」となっているが、施設も何とかして「拓こう」と努力をしている。小平にもう一つある児童養護施設は、学校からの帰り道施設外の友達のうちに遊びに行くのは禁止されているという。でも、むさしが丘学園では、家庭にいる子どもたちと同じように遊びに行ったり来たりを自由にしているとのこと。沢内村での合宿に誘われて、行ったことがあるとのこと。

 去年この映画ができて、一番初めにこのみちのくみどり学園に上映をしに行ったのだそうです。そうしたら、子どもたちが2時間真剣に見ていて、「僕のことどうしてもっと撮ってくれなかったの?」と言ったり、本気でけんかしている場面では、自分のことを恰好いいと思ったとのことでした。そうして、子どもたち同士お互いになぜここに来たかという事情を知らないでいたけど、この映画を見てわかりあったという成果もあったということでした。「そこまで言うか」とハラハラするほど、職員たちは、子どもたちに食い下がって質問をします。スピーチコンテストに出す発表の原稿を作るときには、職員と子どもが一対一で、真剣に取り組みます。子どもが書いたことをもっと掘り下げられるようにと職員が食い下がっていくのでした。

今は萌実のパートナーになっている工藤さんが、毎年私を岩手に呼んでくれていたときに、工藤さんの案内で、訪ねた養護学校が、このみちのくみどり学園の隣にあって、私は、この学園を外からは見せていただいているのでした。この養護学校は、病弱児の養護学校で、だから隣にこども病院も併設されているのでした。

岩手で知り合ったたくさんの方々から、是非この映画を魚沼で上映して、と言われているので、そのチャンスを探ろうと思い始めています。葦牙とは葦の若芽のことで、生命力の象徴だということです。





韓国映画「外泊」上映会

   2010,5,29     於、埼玉県川口市キュウポラ7F

 フェミニスト関係のMLで盛んに話題になっているドキュメンタリー映画「外泊」を見に、埼玉県川口市に行って来ました。東京在住の揺光のパートナー・スージンも一緒に行きました。川口駅前のキュウポラという名前の建物の中です。女性たちが大勢の中に男性が少し、という観客。100人はいなかった。

 隣にいるスージンに時々耳打ちをしてわからないことを聞きながら見ました。スージンが言うには、「日本のジャスコみたいなところの非正規労働者」が主人公のドキュメンタリーです。お店の売り場にその女性たちが、段ボールを敷きつめて寝転んで眠っている場面が最初に出てきてびっくりします。2007年から2008年のかけての510日のストライキでした。非正規のレジ打ち部門を雇止めにして、外注化した(その翌日「非正規食保護法」が施行されるために)ことに抗議をして、正規職員も一緒になってストライキに入ります。「おばさん」としか呼ばれないパートの女性たち、結婚以来初めての外泊だと言います。夫から、帰ってくるようにと言われる人、「独身だったらよかったのに」という言葉が印象的でした。女性たちが作り出した解放空間で、彼らが、歌い、踊り、泣き、笑い、作って食べ、語り合います。

 終わってから、トークの時間があり、私は、スージンを韓国人だと紹介をして、彼女に語ってもらいました。「日本に来て4年、このストライキのことは、印象に残っています。テレビや新聞に、その戦っている女性たちの家族が登場して、『お母さん、僕たちは大丈夫だから頑張って』と言ったりしていた。労働組合の連合体が二つあって、韓国労連と、民主労連、今回は、そのうちの一つ民主労連が、全面的に入り込んで支援していました。韓国では、デモをするということは、日常的なこと」

 映画の中で、「私たちのストライキで、社会が変わるならいいわね」というような会話があった。日本では、そういう感覚がなくなってしまってもうかなりたっているのでは? 60年安保のときには、私たち学生は、確かに「この戦いで、日本が変わるのでは?」という予感があったように思います。

 最後には、警官隊が突入して、ごぼう抜きにして排除してしまうのですが、この警官隊が女性なのでした。スージンが言うには、今のイ・ミョンバク政権になってからだったら、ストライキなんて、1日で排除してしまったのでは? そして排除する警官も男性だっただろう。と帰りの電車で言っていました。その頃は、まだノテウ政権だったから510日もストライキが続けられたのだろうとのことでした。

 韓国に留学経験を持つという女性が、発言していました。「韓国には、労働運動の中で歌うこと、踊ること、などが、定着していて、そのためのグッツを売っているところもあるぐらい」日本では、とっくになくなっているものなのでした。スージンは「長い軍政に対してたたかってきた民主化闘争があるから、そこが日本と違うのでは?」と発言していました。

 この戦いが終ったあとどうなったのかと質問した男性があり、主催者からの答えでは、「鬱になったり引きこもったりしている人もあるし、新しい職場を得ている人もある」とのことでした。

 

 

 

伊藤弘美さんの面接

2010,5,26     於、東京新宿WINWIN事務局

 26日は、急きょWINWINの面接が入ったので、上京してきました。参議院宮城選挙区民主党候補伊藤弘美さん(35歳)

 母と祖母を見送って、その介護体験から、日本で初めての「リハビリ介護靴」を開発、起業。女性起業家大賞最優秀賞受賞(全国商工会議所選定)など様々な賞を受け、著書を表し、テレビなどマスコミにも登場。全国を講演して回っている。

 35歳といえば、私の5番目の子ども乙水と同じ年。お母さんは、さぞ若くてなくなったのだろうと思って聞くと、41歳で難病を発症し、53歳で亡くなった。発病したとき、離婚が成立して、母子家庭となり貧困を生きる。

 「結婚は?」と聞くと「亡くなっちゃったんです」幼馴染の男性と、靴作りを一緒に始めて、同志だったのだけど、がんで、32歳で亡くなったという。身内を3人も看取って、リハビリ介護靴から、福祉の世界に入ってきた。そこで、政治が生活にとっていかに重要かを理解して、公募に応じたのだという。会社の名前が、すごい! [KKおくりもの」だって。

 選択的夫婦別姓や、非嫡出子差別をなくすことには、もちろん賛成。子どもの貧困問題とは深くかかわっていて、子ども同士が、お互いのボランティアをする仕組みを作ったとも。

 「あなたは多分国会議員になったら、厚労委員会に所属すると思うので、そうしたら、医療のことをお願いしたいの」と切り出して、「政権交替したおかげで、中医協から、医師会を追い出したのはいいけど、その代わりに入った人たちが、みな、病院系統の人らしいの。病院というのは、治療するところだと思っているので、どうしてもいろいろな管をつけてしまう。不必要な栄養まで無理やりに注入して医療費の無駄遣いをしている。多くの人たちは、延命をしないで、老衰のような形で、家で死にたいと思っているのに、病院系統の人は、その観念がない。在宅医療のことが分かる人にかじを取ってもらいたい」と演説をぶったのですが、こういう話を真剣に聞いて賛同してくれる人でした。「平穏死のすすめ」を薦めておきました。

 「泣き虫でも社長になれた〜夢をカタチにする方法〜」(祥伝社黄金文庫)という題名を聞いただけで、購入しようと思い、すぐにアマゾンで購入しました。いやいやすさまじい35年を生きてきていました。

 不登校を続けている孫を置いて上京したけど、こんな素晴らしい方と出会うことができて、本当にうれしかった。宮城在住の知人を紹介することにしました。





県立国際情報高校に行ってきた

2010,5,22      於、南魚沼市国際情報高校

浦佐駅から歩いて20分ぐらいのところに県立国際情報高校(進学校として有名)があり、ここの生徒さんが、2,3年前から桐鈴会にボランティアとしてきてくれています。このことは、桐鈴会に住んでいるお年寄りたちをとても喜ばせています。

つい先日、夕方私が、鈴懸に行ったら、ちょうど、どやどやと20人ぐらいの女生徒が、先生の車で到着。広田セツ子さんが、「理事長がいるんだから、少し話をしてもらいましょう」と言い出して、私が、桐鈴会ができたいきさつを15分ぐらい話しました。とっても真剣に聞いてくれ、質問も出たりしました。その後、数人が、グループホーム「桐の花」に行きそこの管理者の星野淳子さんが、先生にこんなことを話しました。「生徒さん達がせっかく来てくれても歌を歌ったらお年寄りが喜んでくれてうれしかったと言って帰って行くだけではもったいない、と思うのです。認知症について話してみたい」と申し出たのです。先生は、「それはありがたい、さっそく今度の土曜日の午後来ていただけますか?」ということになり、星野さんはちょうど休みで都合がいいと言い、私も、その時時間が空いているので、一緒に行って、二人でそれぞれ話そう。ということになって、その日を迎えました。22日(土)午後1時から、1時間。

40人ぐらいの生徒さんと、先生が、6人ぐらい、「医学系進学希望者勉強会」というタイトルが掲げてありました。1年生で、医学系希望者が、40人ぐらいで、その人たちが、入れ替わり立ち替わり桐鈴会に現われているのでした。すでに来たことがある人、と聞くとその中の10人ぐらいが手を挙げました。「お年寄りと同居している人」は、10人よりは多かったようです。3分の1ぐらいかな?

私の「桐鈴会のできる過程」の話の後、すでにボラできたことがある生徒3人がその報告をして、その後、星野さんが、認知症の話をしました。その後質疑の時間で、結構いろいろな質問が出ました。「認知症という病気は治す薬があるのですか?」星野さんが答えます「一応アリセプトという薬があって、効く人もいますが、ちょっと進行を遅らせる程度で、今のところ治す薬はないと言ったほうがいいのでは?」そこで私は言いました。「アリセプトという薬は、かなり個人差があって、それを飲んで、よくなったと思える人もある代わりに、問題行動が増えて飲むのをやめたらおさまった、ということもあります。そもそも『治す』という考え自体が、それは悪いことだから、という考えが含まれてしまうのだけど、大井玄さんという方の本で紹介されていた沖縄のある島では、年をとったら、物忘れなどひどくなるのが当たり前、認知症も、年をとったということとしてとらえているので、みんながそのままを受け入れているので、問題になっていないということでした。」と言いました。その前に、星野さんが、「認知症の方をあるがままで受け入れるという体制があれば、そのことはちゃんと通じる」という話をしてありました。

大人になったら、認知症を治療する薬を見つける研究をしたい、と発言した男子生徒もありました。「まだ行ったことがないのだけど、行ったら、お年寄りにどんなふうに接したらいいのでしょうか?」 というような質問もありました。

たった今ご飯を食べたかどうか忘れてしまっている人が、昔覚えた教育勅語を全部そのまま言っているDVDを見てもらったりしたので、少しは、認知症についての理解が進んだのではないでしょうか?

21日(金)夕方、突然羽賀友信さん(ジャイカなどで、世界を回ってきている国際交流の専門家。今は、新潟県の国際交流協会の理事長だと思います)が我が家に現われました。「今国際情報高校で話をしてきたので立ち寄ってみました」1年生全員に話をしてきたというのです。「まあ!私は明日情報高校に話に行くんですよ」ということになりました。これまで、かなり外とは隔絶していると思われていた、この高校が、羽賀さんの話を聞かせたり、桐鈴会にボラできたり、私たちの話をする場を作ってくれたりと、ずいぶん地域に開こうとし始めているのだなあと思うことができてうれしかった。

ちょうど羽賀さんが訪ねてきたとき、昔不登校をしていて大地塾に来ていた山田正和君(28歳)が、釣った魚を持ってきてくれていたところで、まだ生きている魚を志重や友達が捕まえようと懸命になっているところでした。羽賀さんも、釣りに関しては、かなり経験があるようで、正和と二人の釣りに関する話には、私などとても入り込めないものがありました。ヒヨコが放し飼いになって糞だらけになっている居間で、魚の水が飛び散っている、そんな環境のところに飛び込んできた羽賀さんは、とても楽しそうでした。我が家の庭のタケノコをお土産に持って帰って行かれました。

情報高校から帰ってくるとき見送りに来た主任らしき先生が、こう言っていました。「生徒たちにはとてもいい刺激になったので、今度は、2年、3年にも話していただく機会を作りたいと思います」生徒以上にうなづきながら聞いてくれていた先生たちでした。

 

 

 

上野千鶴子講演会―女のスペース10周年記念ー

2010,5,16    於、長岡グランドホテル

16日は、女のスペース10周年記念ー上野千鶴子講演会ーが、長岡グランドホテルで行われました。当地からは鈴懸の車を出して、全体で、7人が参加しました。何と534人が参加したとのことでした。あいさつの中で、森民夫市長は、「この会場でこれだけ集まるのは異例」だとのことでした。新潟からも、上越からも、県内各地から来ていて、知っている方とずいぶん会えた機会でした。上野さんとは、2年ぶりの再会で、ハグしあいました。

市長のあいさつ。「女のスペースとは、パートナーという関係でお世話になっています。本来市がやるべきことをやっていただいているというのではなく、市がやることは情報公開して皆さんに理解していただくことが必要ですが、DV防止法の仕事は情報公開にはなじまない、だから、協働という関係なのです」「上野さんの講演が聴けないのです。公務がありまして、それが終わってから、懇親会には出られますので」と言って去った。

上野さんのタイトルは、「女と男のおひとりさま道」

政権が代わって、福井県立図書館から、危険図書として一緒にパージされた福島瑞穂が、大臣になってしまったので、びっくりしている。また辻元清美さんも政権に入ってしまった。でも、私は、東京都からは呼ばれない。石原都政では、「危険人物」とされている。

「家族持ちから人持ちへ」

「施設は、本人のためではなく、家族のため」→私は、家族がなくてよかった。

「富山型デイサービス」を紹介。「このゆびとーまれ」を始めた惣万さんは、お年よりも子どもも、しょうがい者も一緒に集えるところとして始めたのだが、助成金を得ようとすると介護保険か、自立支援法か、どちらかしかだめ、だったのを小泉特区で申請して、結果として、特区から、だれでもが使える介護保険+自立支援法のシステムが出来上がった。

「障害者運動に学べ! 要介護高齢者の当事者運動を!」→脱施設化。

在宅医療ネットワークの小笠原医師(岐阜県)のところに密着して、「おひとりさまの看取り」を研究している。

「長岡市長が来られることを2,3日前に聞いたので、これは、市長に聞いてもらいたくてあたらしく追加したもの」と言いながら、行政への要望を語り、「市長聞け!」と何回か叫んだ。

懇親会は、グランドホテルのフルコースで行われた。上野さんの隣が、市長、その隣が、市長夫人。同じテーブルに私の席があり、右隣が松川キヌヨ県議、左隣が大島句美子(くという字がこれしか出ない)新潟県女性財団理事長。市長夫人に「どこでお目にかかったのかしら?」と聞くと「あの寒い観桜会で」と言われて思い出した。4月17日新宿御苑だった。今回上野さんの話をしっかり聞いて、市長に伝えるのが、彼女の役目ということになっていた。市長さんは、右翼にがなりたてられてフェミニストカウンセラー平川和子さんの講演会を中止してしまったつくばみらい市に対して、毅然と講演会を決行した長岡市の市長は女性たちの中で「男をあげた」と上野さん。市長は、「講演録を読んだのですが、上野さんは、切り込み系(この言葉正確ではない)から癒し系に代わったそうなので、私もいやしていただこうと思って」と発言。市長は、東大の建築学科の出身で、建築というのを使う人の観点から考えるということで、社会学的な手法を取り入れて調査させられた、ことを上野さんに語っていた。

会場の人たちが、リレートークをした。児童虐待に取り組んでいる長岡中央病院の田中篤小児科医、高校でそれと同期だった映画監督の小林茂などなどのあと私も発言。「保母をしていた時の担任の子どもが大きくなって結婚し、DVで、女のスペースに駆け込んで荻野さん(NPOの理事長)にお世話になった。上野さんとは、つくばみらい市に抗議に行って以来≪ちずこ≫コンビでやったこともあり、−−−おひとりさまのまま看取りまで、という条件ですが、魚沼では、満たされていますので、どうか、移住してきてください」と結んだ。

懐かしい方々とも何人も会うことができて、再会を喜びあいました。

 

 

 

グループホーム見学

2010,5,12    於、新潟県十日町市・魚沼市

12日は、桐鈴会で取り組むしょうがいしゃのグループホーム(GH)ケアホーム(CH)建設のために近くにあるGH,CHの見学に行きました。親御さんが、6人、建築やさん関係3人、桐鈴会職員役員が3人、それに私の孫で総勢13人、十日町にあるワークセンター「あんしん」がこの3年間に作った4つのGH,CHを見学しました。まず、ワークセンター「あんしん」につくと先回もそうでしたが、社長自ら出迎えてくださいました。いったい何分待っていてくださったのでしょうか?「見学者が見えると、従業員たちが喜ぶのでうれしいんです」と言っておられました。

初めにワークセンターを一回りしました。トイレットペーパーを作る現場を見せていただきましたが、1月に来た時より1,5倍ぐらいの人数に増えていました。トイレットペーパーを包む紙が、いつものと違ってカラフルになっているテーブルがあります。それは、新商品で、その包み紙におみくじが付いているのだそうです。誰のアイデアか知りませんが、トップが、耳を澄ましていれば、いろいろな人のアイデアが、耳に入ってくるのでしょうね。とてもきれいな包み紙の端にちゃんとおみくじが付いていました。

一通り見てから、係の方が、GH,CHに案内してくださいました。車で5分とかからないところにありました。CHが一つとGHが3つありましたが、4つともお互いがすぐ前に見えるぐらいの近くにあるのです。4つとも改装した古家です。改装といっても3つのGHはほとんど何も作り変えてありません。GHに入る人は、しょうがいの程度が軽くて、身辺自立の方ばかりですから、普通の家なら改装しなくても住めるわけなのです。どこも日中活動に出て行ってしまっているので、人はいないのですが、一人だけ精神障害で、どこにも出ないという方が部屋に入っていました。3つのGHはどれも大変古い建物で、たぶん築50年以上のようでした。その中の一つの部屋について、案内の福原さんは、「スイッチを入れてくる」と言ってその場を離れました。何をするのだろうといぶかっていたら、部屋の中にかすかな光が点滅し始めました。それは、「聾」の方の部屋でした。音が聞こえないので、警報を光の点滅でするのだそうです。どの建物にも、自転車置き場があって、ほとんどの人が、自転車で移動しているとのことでした。

ひとつだけあるCH、ここは、「逢坂の家」と名付けられていました。ここはほとんど新築と思われるほどきれいに作られていました。でも後で聞くところでは、「新築だと補助が出ないから、改築にした」ということです。どうやら、そこら辺については、H20年度から変更があったそうで、これから私たちが作るものについては、新築なら、2500万、改築だと600万だそうです。「逢坂の家」は、重い方々の住まいだから、バリアフリーになっていました。全員が、階下に住むようになっていて、ここだけは、夜世話人が泊まり込みます。その部屋も一階にありました。というか、茶の間の一角にカーテンで仕切りをして、そこにベットがあるという感じに作られていました。

全部見てから、ミーティングルームで、社長の樋口功さんから話を聞きました。樋口さんは、毎日散歩をしているのですが、その散歩コースに面した家が「売家」となったのを見て、すぐに「買いたい」と言ったら、その日の午後には、契約が成立したとのこと。それが4年前。無認可で住み始めたそうです。初めから整っていなくても使っていくうちに整ってくるとのこと。中越地震の後だったので、地震で使えなくなったというようなものをいただいたりして、何でも安くあげるようにしているという。1年後に県からの認可を受けたそうです。

GHは、3軒とも不便なところにあります。車がいけない位置(家の前までは、階段で行くところあり)だったり、冬は、除雪がされていないところをコザいて玄関まで行くとか。そういうところにあるので、住めなくなって出て行ったという感じなのでしょう。おかげで、家賃が安い。ここの住人たちは、月6万ぐらい払っているそうです。樋口さんは、6万では、年金をすべて出さなくてはならないので、もっと安くしたいのだが、周りとの兼ね合いもあって、そうせざるを得なかった。と言います。

作るときに近所回りをしましたか? と聞くと「しません」が答え。「自分の子どもが住むアパートについて、近所回りをしますか?」と反対に聞かれた。確かに、日本中の話を聞くと、近所の人がそういうものは作るな、と言ったりして、できなくなったりしているそうですが、ここでは町内清掃があったりすると、入居者全員で参加して、近所の人たちにどういう人が住んでいるのか知ってもらうようにしている。とのこと。

「一番大切なのは、建物ではなくて、世話人です」と樋口さん。「子どもも、孫も育て上げたというような人で、炊事洗濯をやりながら、少しきついぐらいの言葉がかけられる人がいい」そういう人を探すのは、結構大変だそうです。でも、この4軒のGH,CHの近所に住む人が一人世話人になってくれたので、これはとってもありがたい。何か困ったときには、その人の家を訪ねればいいから。できたばかりのときには、親御さんが、心配するので、世話人が夜も泊まっていた。GHについては、慣れてからは、泊らないことになっている。

全体として、有償無償ボランティアに支えられているけど、コアメンバーの10人ぐらいについては、ちゃんと高給を払って、教育して育てていかなくてはならない、とも。GH,CHの世話人は、リタイアした人に、時給400円ぐらいで、頼んでいる。午前中3時間は、700円で、午後の3時間は、ボランティアで、というようなやり方で、最低賃金は守っているそうです。

樋口功さんをこのような道に導いたという三女の方と今回は出会うことができました。CHに住んでいて、昼間は、デイサービスで生活。ワークセンター「あんしん」の工場の隣の借家に二人の利用者と一緒にいました。私たちのグループの中に魚沼学園に子どもがいた方があり、樋口さん(三女)を見つけてお互いに再会を喜び合っていました。

13人全員にトイレットペーパー2個ずつお土産にいただいて、「まだ購入していない方は、ぜひ購入してください」と私からお願いして、樋口功さんのゆったりした人柄にひきつけられる思いをかかえながら、十日町名物「小嶋屋のそば」に舌づつみをうって、戻ってきました。

午後は、魚沼福祉会が運営する魚沼市にあるGH二つを見せていただきました。これは、どちらも男性だけの住みかで、ひとつは、すでになくなった会社の男性寮をそのまま使って、10人が住むGH、もう一つは、住宅街の中の普通の家をほとんど改装せずに5人が生活していました。こちらは、どちらも月55000円とのことでした。

いよいよ桐鈴会もどんな建物を造るのか、設計の段階に入ることになります。





一正蒲鉾の取り組み

2010,5,9     於、南魚沼市庁舎

 9日は、鈴木なつ子さんが司会をすることになっていた南魚沼市男女共同参画会議の総会でした。その後の講演は、一正蒲鉾株式会社の長谷川次郎管理部総務課長による「WLB(ワークライフバランス) わが社の取り組み」というものでした。

 長谷川さんとは、新潟県男女平等推進審議会のメンバーで出会っています。一正蒲鉾は、新潟県では、大きい会社で、正規職員が884名、そのほかに非正規職員は、500人から800人とのこと。70%ぐらいが女性であることから、20年前に無料の託児所(50人定員)を作った。職員が、気持ちよく働けるということが、いい製品を生み出すことにもなる。というのが、社長の考え。2007年に次世代育成企業としての認定を受け、「くるみん」というマークをもらった。これが、新潟県第1号だったため何億円もの宣伝効果となった。

 子どもが生まれる時の立会いを父親がすることを有給で保証し、その上、1週間の育児休暇を取ることを奨励。育児介護休業を1年から1年半に延長。

 「子ども参観日」という独特な行事あり。これは、託児所の子供たちが、親の仕事場を見学に行くという。

 委託で出していた社内の清掃を障害者雇用によって賄うことにした。はじめは、なかなか長続きしなかったが、今ではみんな3年以上働いている長い人は6年にもなる。CSR(企業の社会的責任)という考え方を取り入れ、CSR大賞を受賞。

 長谷川さんは、今年の7月に60歳となり、定年で辞めるので、この肩書での講演はこれが最後になるとのこと。話が終わってから、質問がどんどん出て、その中の一人は、司会者が、「時間となりました」というのが、惜しく思われたと言っていました。

 

 

 

下諏訪サロン

2010,5,9    於、長野県下諏訪

 5月1日(土)、長野県下諏訪町の下諏訪サロンに行ってきました。樽川さんが3年前に造られたもので、一度見に行きたいと思っていたところです。樽川さんは、81歳。足腰が痛そうで、歩くのが大変そうですが、しゃべりだすと樽川節健在なり、でした。

 樽川さん個人で、下諏訪駅前の建物を購入して、月曜日から金曜日までは、昼食をサラリーマンに提供するレストランを、土曜日には、誰かを呼んで、話を聞く会をする。日曜日は休み。という活動を続けています。職員は、有給の方に無給の方にあるらしく、無給の方は、一月に1回とか2回とか、ほとんど毎日という方は、有給のようでした。樽川さんが、下諏訪町議を4期務める間、支え続けてきた人たちがそこに集っているのでした。

 2階の畳の部屋で、1時間半ぐらい私の話を聞いていただいて、質疑をやり、終わってから、階下に来て、レストラン用のテーブルと椅子にかけて、いろいろと話しこみました。生ビールまで出てくる食堂になっています。

 一番驚いた話は、樽川さんの選挙では、夫や子どもたちは無関係、ということでやりとおしたということです。そんなことが通るのですから、下諏訪の女性たちはすごかったのでしょうね。「お願いしますもいわない」と樽川さんは言っていたけど、これはなかなか難しかったようです。それにしても、家族を動員しないで選挙がやれるというのは、すごいですよね。ちょっと驚きました。





鈴木なつ子さん葬儀

2010,5,8     於、鈴木家自宅

 5月5日朝、いつも元気に満ちていた桐鈴会評議員の鈴木なつ子さんが、亡くなりました。58歳。4月10日ごろから、変調があって、4月16日大和病院に入院。リンパ腫とのこと。27日には、長岡の日赤に転院し成人T細胞白血病リンパ腫との診断で、抗がん剤を投与。でもそれも一度しただけで、肺炎になってしまい治療のかいもなく坂道を下って逝ってしまいました。成人T細胞

 なつ子さんは桐鈴会の隣に住む鈴木要吉さん(土地と資金の提供があって桐鈴会ができた)の義姪にあたります。桐鈴会ができた時から評議員として活動を続けてきてくださいました。気仙沼出身のなつ子さんは、鈴木章二さんと結婚して、浦佐に来て23年。初めは、保母として、私の同僚でした。萌気園ができてから、17年間ケアワーカーとして、ケアマネーギャーとして、献身的にお年寄りに寄り添ってきました。歌に踊りにレクレーションなど何でもござれ、司会者としては、プロ並み。何の行事でも大活躍。桐鈴会10周年記念では、桐の花管理者の星野淳子と黒岩卓夫に扮して「おこさ節」を踊って会場を沸かせました。

 その他、国際大学と地域の交流グループ「ゆめっくす」でも大活躍。8日の葬儀には、外国の学生たちが、目を泣き腫らしていました。なつこさんの仲介で、毎年「ゆめっくす」の新年会を夢草堂でやっています。南魚沼市男女共同参画会議でも企画委員として、5月9日の総会の司会者の予定でした。あちらの世界でもきっと大活躍するのでしょう。何年も寝たきりで過ごすというイメージからはほど遠いなつこさんには「魔法をかけられたような」(卓夫が読んだ弔辞)亡くなり方がふさわしかったのでは?

 男女二人の子どもさんたちは、それぞれ調理師、理学療法士にと社会人となっています。





「えにしの会」第10回目

      2010,4,24    於、東京プレスセンターと松本楼

 「バックラッシュ裁判を勝ち抜く会」を早々と後にして、日比谷公園の中の松本楼に「えにしの会」第3部に行きました。今回初めて参加の黒岩卓夫が、スピーカーになっているということもあります。また、主催者の大熊由紀子さんをはじめ知り合いの方がたくさん参加されるので、できるだけ参加しようと思っていることもあります。

 5時に終わって私がついたときには、5時から始まっている第3部、司会の日経新聞記者の浅川澄一さんが、会場の皆さんのアンケートを取っているところでした。医療・介護に関する意識調査だったのでしょうか?

 それから、スピーカーが次々に持ち時間7分で、交替します。

 はじめは、ベテルの家の向谷地生良さん。この方の話は、統合失調症の皆さんの幻聴大会などいつも皆さんのお耳に届いていることが多かったと思います。

 次が、富山型デイサービスの惣万佳代子さん、赤ちゃんや、しょうがい児者、お年寄りも含めたデイサービスのこと。基準該当という初めて聞く言葉、「脱官僚」よりは「脱縦割り」、との提案あり。ここでの実践が広がってきて、少し法律のほうが変わってきているようですね。

 次は、新潟県では有名な長岡こぶし園の小山剛さん。それから岐阜県の小笠原内科の小笠原さんが、「独居の認知症がん患者を自宅でみとるコツ」を語り、白十字訪問看護ステーションの秋山正子さんは、「訪問看護の活用を」を、尾上浩二さんは、小学校を養護学校で、中学からは普通学級で、という変わった経歴について語りました。なぜそういうことになったのかというと、山本先生という方が、「中学からは普通学級や」と言い続けていたので、そうなったのだというのでした。休憩時間に私は彼のところに行って聞きました。「山本先生って、和義さん?」そうですというのです。私は、どこでお目にかかったのか覚えていないのですが、障害児を普通学級へ、の運動の中で知り合った理学療法士の方だと思うのです。手紙などのやり取りははっきり覚えていて、数年前になくなってしまったのでした。年齢は、たぶん私と同じぐらいだと思うのです。この尾上さんは、「欠格条項をなくす会」の共同代表をしておられたこともあるので、私のほうからは知っていました。脳性まひの身体障害者で、車いす生活を続けている関西の方ですが、国会へのロビー活動などで、ご一緒したこともあるのでした。

 その次が黒岩卓夫です。「大熊由紀子さんは、どこで死ぬかと言っておられるけど、私は、場所ではなく、誰と一緒にいたいか、というのが問題なのだと思う」と異論をはさみました。

 その後、この問題は、結構コメントする方がありました。訪問看護の方々が、一人でも、訪問看護ステーションを開けるようにしたい。と希望を述べたり、「風の家」の池田徹さんが、「多床室ではなく個室を」と力説。権丈善一さんは、週刊東洋経済に、「成長のための負担増」について、書いたから、帰りにぜひこの週刊誌を買っていってほしいと述べ、私たちが駅で買おうとしたら売り切れていました。その後、卓夫がどこかで手に入れてきてくれたので、ゆっくり読んでみるつもりです。

 ホームホスピス「かあさんの家」の話は共感しました。宮崎県にある普通の家のホスピスなのです。もっと近かったら行ってみたいと思いました。

 大熊さんが、今年で10回目になるのですが、この会を開催するのは、大変な力仕事だと思います。おむすびと水だけで、ボランティアをしてくれる人に支えられている、と感謝の言葉を述べておられたけど、500名を超える参加者名簿の作成は本当に大変なことだと思います。そして参加者が配りたい資料を袋に詰めて、全員に配るというのも実に大変なこと! えにしの会だからそれが命なのですよね。お疲れ様でした。




「バックラッシュ裁判を勝ち抜く集会」

     2010,4,24     於、文京区男女平等センター

 大阪府豊中市の女性会館(すてっぷ)の館長だった三井マリ子さんが、バックラッシュ派の攻撃によって、雇止めにされ、裁判に訴えて、大阪地裁で、敗訴していたのですが、控訴して、330日にほぼ全面勝利の判決を勝ち取りました。本人も、周りも負けると思っていたのに勝訴という結果にとても驚いたそうです。

 3月31日にフェミニスト議員連盟の世話人会で上京して、ご本人からその報告を聞くことができました。

 「人格権侵害」という概念を使っての勝利判決だったそうです。何年か前に山梨県の昭和町で、やはり公務員の女性二人が、雇止めにあって、その結果が、最高裁で、「人格権侵害」ということで、勝訴したのだそうです。今回、敗訴した豊中市と女性財団が、上告したとしても最高裁ですでに同じような結論を出しているので、「上告棄却」となるだろうとのこと。

 バックラッシュ派の議員が、豊中市を脅かし、それに屈して、三井さんの職を解いたということが判決の中で、認められたということです。このところ、ほかにも思いがけないいい判決が下りたりしているのは、「政権交代」の結果でもあるのでは?ということが話し合われました。

 この判決を書いた裁判長は、塩月秀平さんで、かつて、地裁の判事だったときに、DVで逃げている被害者に給付金が届かないという問題で、勝訴判決を出した人だということでした。

 24日()文京区男女平等センターで、「バックラッシュ裁判を勝ち抜く集会」が開かれました。

 今回は、高裁における勝訴の決め手となった意見書を提出された朝倉むつ子さんと、弁護団の一人紀藤正樹さんが、スピーカーとして参加されました。

 朝倉むつ子さんは、今は早稲田大学大学院教授で、その昔は、都立大学を卒業後、都立大学の職員になっていた。そのころ、フェミニストになりたいと思っていたのに、社会学ならともかく法学の分野では、なかなか踏み切れないでいた。1991〜92の1年間アメリカのバージニヤ大学に留学したら、ロースクールの学生は女性が半分以上。そんな環境でやっとフェミニストになることができた。初めからフェミニストだった三井さんを仰ぎ見ていたので、中島通子さん(国際婦人年をきっかけに行動を起こす会の主催者で、三井弁護団の一人、2007年没)の葬儀で一緒になり、意見書書きを依頼された。これは自分の仕事そのものと思ったこともあって、引き受けた。

 この時配られた意見書は本当に素晴らしい構成だと思った。いくつかのキーワードがある。「人格権侵害」という概念が、判決のなかに使われていたが、それは、朝倉さんが提出したものそのままだった。そのほか、「職場環境保持義務」。これは、労働法の中で決められている使用者側の義務で、労働者が、人格権を侵害されずに働くことができる職場環境保持の義務。バックラッシュ派の北川市議(民主党)や、その後援会長などによる「館長をやめさせろ」圧力を館長である三井さん本人に対してもかけていたのに対して、それから、三井さんを守ることをしなかったばかりか、その圧力に屈して、嘘をついてまでやめさせてしまったことを「義務違反」だと述べたのだ。

 当時民主党だった土屋都議などが七生養護学校の性教育で活躍した。そのころ、都立大は、事務長あてに電話をかけて脅かした。そのとき朝倉さんはこう言った。「大の男が震え上がるんです」この「大の男」という言葉を何回も使われたのが印象的だった。つくばみらい市でもその脅しに震え上がってフェミニストの平川和子さんの講演会をやめてしまって、いまだにそのことをめぐる補償のやり取りが続いる。2008年のことだが、朝倉意見書には、この事件も取り上げられている。

 朝倉意見書は、読む人すべてが「これで勝てる」と思えるような説得力に満ちているのだが、それでも大阪地裁での一審で負けているので、原告や弁護団は、勝てるとは思えなかったようだ。だから、判決が出た後、原告と弁護団が皆抱き合ってその場で泣いてしまったということだった。

 なぜかわからないのだが、私の中では、朝倉むつ子さんは、70代の女性だという像が結ばれてしまっていた。実物とであって、その若さにびっくり。たぶん50代なのでは? 話すことが、とっても冷静で、それでいながら、熱い思いが伝わってくるものだった。

 この裁判は、大阪地裁で始まった。私も初めのころに傍聴したことがある。弁護団25人は、ほとんどが、大阪付近の方々。

 ところが、紀藤さんは、東京の人。「いちばん近い裁判所は、最高裁判所」とのことで、今回はそんな地の利から、参加された。法律的な話が多く、ついていけないところもたくさんだったが、「裁判に勝てたのは、一番は、原告の人柄」と言われたことが一番印象深かった。「原告と弁護団の関係が対等に議論ができる関係だったこと」をもって「人柄」と表現されたようだった。そして、「50歳代のほとんどを裁判に費やしたということはすごいこと」と言って、三井さんの労をいとわれた。

 最後に登場した三井さん、「人柄の三井です」と言って登壇したので、爆笑。くじけそうになりながらもなんとかこれまで続けてこられたのは、弁護団や、支援者のおかげ、と感謝の言葉を述べた。「これで終わってほしかったのに、上告されてしまったので、またこれから頑張ります」とのことで、「勝ち抜くこと」を皆で共有して終わりとなった。

 私からの誘いで、参加された岡田弥生さんは、「来てよかった、素晴らしい話が聞けて」と言って帰って行かれた。




渡辺さと子さん推薦――WINWIN

2010,4,20    於、WINWIN事務局(新宿)

20日は、WINWINの推薦委員会でした。8月に行われることになっている香川県知事選に立候補する予定の渡辺さと子さんとの面接をしたのです。

 彼女は県議会議員4期目、15年の経験者です。現知事が、全くの無駄なダムを造ると言って、しかも自分は、今期限りやめるというので、その無責任さに「未来に責任を持つ」ということで、立候補を決意したのが、昨年の秋。なんといまだに彼女以外誰も立候補を表明していないのです。「自民党は出すでしょうが」と彼女。56歳の働き盛り。教育、福祉、環境と未来を見据えてほとんどの県議会議員を敵に回しても多くの市民とご自分の良心に従って、県議会最多の発言を続けてきた実績が、対立候補を怖気づかせているのでしょう。

ところで、話を聞いて驚いたことがあります。彼女が問題にしたダムについて、国交大臣に着いてすぐ前原さんは、「いらないのでは?」と見直しを要請したというのですが、なんと今年の3月には、そのダム建設に予算が付いてしまったというのです。やはり官僚は強し、ということなのでしょうか? でも、彼女が知事になったら、来年度からは、つけないようにすると言っていました。

香川県といえば、30年以上前だと思うのですが、学力テスト日本1でした。それは、特殊学級の子どもには、受けさせない。成績の悪い子どもには、当日休むように言う、などの結果だったのです。このことを渡辺さと子さんもご存じでした。彼女が知事になったら、教育も、県庁も、環境も、福祉も、がらりと変わると思いまます。面接に立ち会った、WINWINの推薦委員一同、こういう方にこそ知事をしてほしいと早速推薦を決めました。

赤松さんが、「これまでの女性知事で、あなたがモデルとしたい方は?」と聞くと「嘉田さんと堂本さん」と答え、二人とも県民との対話で県政を進めてきたことを学びたいと言っていました。「夫が医者なのが、あなたと共通ね」と赤松さん。

みなさん、香川県に知り合いがあったら、どうか、この渡辺さと子さんのことをお願いしてみてください。



殻を脱いだナメクジーー「迷惑をかけあおう」

2010,4,19      於、南魚沼市浦佐近辺

19日、日経新聞の記者、足立則夫さんが、取材に来られた。黒岩卓夫の講演会で私の「迷惑をかけあおう」というスローガンに興味を持ったからだといいます。どうやら、その取材によって書く記事は、5月1日の夕刊のコラム「遠みち近みち」(生活や人の生き方をテーマにした欄)に載るようです。

それはさておき、この足立さんという記者が、ナメクジを研究しているということに大変興味を持ってしまいました。ナメクジは、カタツムリが、殻を脱いだだけの生き物。彼は、今年1月17日の「遠みち近みち」に「殻の脱ぎ方」というコラムを書いています。その記事の締めくくりがこうなっています。「その昔、カタツムリから独立し殻を脱ぎ去ったナメクジは、自分の中身をさらけ出しながら、ゆったりとわが道を歩み、今も地球のあちこちで自在に生きている」

自分の身を守るために必要だったはずの「殻」を脱いでしまっても長々と生き延びているナメクジの生態に興味を持っているというこの足立則夫さんに、関心を持ってしまった私でした。

後日談。「迷惑をかけあおう」に関するコラム「遠みち近みち」は、5月8日(土)日経夕刊に掲載されました。足立則夫さんが、「迷惑をかけあおう」という言葉の意味することをとても的確に表現して、この言葉を「全国津々浦々にひろげるてだてはないものか」と書いてくれました。





GH,CHのため県庁に行ってきた

2010,4,15      於、新潟県庁障害福祉課

15日、グループホーム(GH)ケアホーム(CH)を作るにあたって、鈴懸の8人乗りワゴン車で、県庁まで行ってきました。しょうがいを持っている子どもさんがいる親御さんが4人(子どもさんが入院してしまって行かれなかった人も一人あった)その他が私を含めて3人です。新潟県障害保健部障害福祉課の係長と主任が対応して1時間半を超えてしまいました。

官僚というイメージとは違う方々で、よくこちらの話を聞いて、的確に答えてくれ、必要ならば、別の人を呼んできてくれたりと、とても親切でした。

高齢福祉と、障害福祉と、似ていながら、ちょっとずつ言葉が違うということを発見しました。介護保険で「サービス提供責任者」が、が自立支援法では「サービス管理責任者」、となっています。「管理」という言葉、いかにもという感じで気になりますね。それになるには、かなりの実務経験が必要のようですが、兼務もできるということなので、今ヘルパーステーション(おはようヘルプ)でサービス提供責任者をしている人が当たることも可能だということがわかりました。また、世話人などの職員は、何の資格も要求されていないので、ここは楽です。

補助金が、新築なら2500万、改築だと600万まで出るが、それらの費用の半分が国、四分の一が県、残りの四分の一が事業者持ちとのこと。だから、今年中に設計図をつけて詳細な計画を提出しても、県と国の審査を受けてその助成金がもらえるのかどうか、決まるのは大体来年の6月ごろとのこと。二つとなると、ひとつは通らない可能性もあるが、通ったら、その後、入札にかけて、業者を選定。出来上がるのは、早くても来年の11月ごろだろうとのこと。私はこれまで、鈴懸ができる時も、桐の花ができる時も、その建設過程に深くはかかわってこなかったので、今回初めてのこと、多くの皆さんのお力を借りて、「夢の実現」にこぎつけたいと考えています。

それにつきましては、土地の購入や、建物を建てるにあたって、かなりの出費が必要となります。貸し付けや、寄付など、お力を貸していただける方は、どうかお申し出でください。お待ちしています。

これらの設計について、私たちも勉強して、いろいろと提案したいので、さっそくいろいろな所に見学に行こうと話しています。





「社会起業支援サミット」

2010,4,10      於、万代市民会館

 10日は、内山さん、斎藤さんと約束していた「社会起業支援サミット」(於、万代市民会館)に参加してきました。つい数日前に宇洋に渡すものがあるので、「10日に渡す」と連絡をしたら、宇洋から「10日ってなんだっけ?」というメールが来てビビりました。えーー!忘れてる?そこで、このサミットのお知らせを送ったのです。

 そんなわけで心配していたのですが、宇洋の「基調講演」があんまり素晴らしくって内山さんもビックリ! 私も今までないあんなに素晴らしい話をするのを聞くのが初めてでした。内山さんが言いました。「いつも早口で、手話通訳の人が大変だったのだけど、今日はそれも大丈夫だったわ。ゆっくりしゃべってたね」

 たった20分だったのだけど、社会起業とは、がとってもよくわかる話でした。まず、「自分は、起業をしていないのだけど、肉親がしてきたこと」を話すといって私がやっていた登校拒否児や、しょうがい児者を含めた塾のこと、それから、卓夫がやっている「支えあい生協」のことなどを話してから、「社会起業家とは医療、福祉、教育、環境、文化などの社会サービスを事業として行う人たちです。しかし、この分野『行政もやらない社会問題の解決』を『営利企業もやらないビジネス』を通じて図る大変困難な領域とされています。この困難な事業を成功するには人の心をおもんばかる『思いやり』と自らの心を押し通す『おせっかい』が必要である」と言いました。今はそれが、NPOで取り組んでいることが多い。1998年にできたNPO法人法によって毎年その数は増えてきて4万ぐらいあるが、このところその増え方が減ってきている。また、実際に活動しているところは、その半分にも満たない。税制の優遇措置が取られるのは、認定NPOのみだが、その認定をとる条件が厳しすぎる、総収入の2割以上の寄付があること、というのだ。そんな条件を満たすところは、ほんのわずか。

 鳩山政権は、「新しい公共」という概念を持ち出した。これは、今まで「官」が独占していた分野を開いて、民間にやってもらい、そこに助成する。そのようにして、「官」をスリムにしていくというのだ。その「新しい公共」には、税制の優遇措置をとって、設立が容易になるようにしたいというのが、鳩山政権。

 ちょうど10日の新聞にNPO法人法が、改正されること、そしてその中で、NPO法人への寄付に対して、50%の税額控除とする。と書かれていました。(新潟日報)この法律ができるときに、堂本暁子さんが、ものすごく一生懸命取り組んで「これが通ったら革命よ」と言っていたのに、最後の段階で税の控除がほとんどないことになってしまって、「革命」がしぼんでしまったと聞いていました。

 宇洋が話の中でこのことに触れ、所得控除と税額控除の違いを話しました。所得控除は、所得からその分が差し引かれるので、その残りの額に対して税がかかる。ところが、税額控除だったら、もし100%の控除ということになれば、寄付した金額がそっくり税金から差し引かれるので、結果的には、まったく懐が痛まない、ということになります。このことを私ははじめて知りました。いつも所得控除だとして考えていたことに気づかされました。そして今回の改正では、50%の税額控除だというのです。ということは、1万円寄付すると、5000円返ってくるということになるのですね。

 ところで、それが決まるときのことを宇洋は話しました。財務省はそんなことをしたら、税収が減るということで抵抗し、それに対して鳩山さんがこういったというのです。「あなた方は、NPOと行政の関係を上下関係で考えているのでは? 私は、対等に考えています。行政ができないことをNPOにやっていただくのだから、NPOへの寄付は、行政に寄付されたと同じ効果になる」ここはとってもおもしろかったですね。

 宇洋に続く基調講演は、新潟大学社会連携研究センター、松原幸夫教授。「チャンスはピンチの顔をしてやってくる」この言葉を冒頭に掲げています。「江戸の知恵を生かす現代のものづくり」という言葉もあって、江戸時代を「パックストクガワーナ」と言います。260年の長きにわたる平和、ということらしいです。二宮尊徳の言葉などもあって、私たちが学校で習った「農民は生かさず殺さず」というような社会ではなく、武士と町民も対等な関係にあって、車座で話し合う習慣があったという。暗黙知と形式知と「知」を二つに分けて考えるというのが興味深かった。学校で教えるのは、形式知、見よう見まねで覚えるのは、暗黙知、ということで、形式知よりも暗黙知のほうがはるかにたくさんあって、重要だといいます。

 配られた紙からの情報量がものすごくたくさんあって、彼の経歴を見て、話したいことがたくさんある方だと思いました。東大、北大にそれぞれ入学して、その後退学する。また入学して、いろいろの職業に就く。そんな経歴が、最後の「講評」を素晴らしいものにしているように思いました。

 二人の話が終わると、10の社会起業の代表が、自分のところの説明をします。これは、15分ずつ。

1、しゅわるハンズ、これは、内山さんが、手話を習っている団体です。手話の使える新潟県人を1万にする(でよかったかしら?)という夢を持って、手話を広めているといいます。

2、NPO伴走者 しょうがいを持つ人に寄り添って走るという活動をしています。

3、全国父子家庭支援連絡会 このmlでおなじみの片山知行さん。去年初めて出会ったのが、確か6月だったと思います。まだ1年もたっていないというのに、父子家庭支援の目覚ましい活躍ぶり。本当にすごい! 内山さんは、「どうしてこの人の妻は、この人と別れたんだろう?」というかなりポピュラーな疑問を発していました。

4、ナカムラ瓦工業 ごめんなさい、この時眠気に襲われていました。

5、葵学園 長岡にあるフリースクールで、全国チェーン。わたしは、ここの存在を知らなかった。終わっ てから話したら、向こうは大地塾を知っていると言っていた。大地塾にいた子が、そっちに行っているとも。

6、NPOホワイトハンズ ずいぶん前に紹介したことがあると思うのだけど、男性障害者の性について介助 (射精介助)するというヘルパーの事業所です。普通の介助と同じように介助していると言っていました。 全国展開になっています。オランダでは、多くの州で、行政が負担して、1回11000円で介助されているとのこと。ユトレヒトの障害者が、語ってくれました。

7、総合フードサービス ここはいろいろなことをやっていて驚きました。一番は、越冬隊というホームレス支援をしていることでした。

8、新潟青年協力隊 農業で、楽しくやっていこうという感じでした。

9、KKペットウィズ ここでまた眠気。

10、ソーシャルワーク・パレット わが中山祥世さんが、構想中の事業です。「子どもの話を聞く」ということ に取り組む教育と福祉の融合体。

 新潟県にこれだけそろっているというのは、すごいことだと思いました。社会起業サミットというのは、2008年に早稲田大学で第1回が催され、2009年には、25か所で開かれ、今年になって、これで、2か所目、新潟では、初めての催しでした。実行委員長が、中山祥世さん、副委員長が、片山知行さん、と二人ともこのml参加者であったことがうれしかったです。お二人さん、お疲れ様でした。





自閉症・発達障害啓発フォーラムin新潟

     2010,4,3    於、新潟市民プラザホール(ネクスト21内)

 3日(土)新潟市民プラザホールの自閉症・発達障害啓発フォーラムin新潟に行ってきました。

10分前に会場に着いたら、何と400人ぐらいの席がほぼ埋まっていて、あいているのは一番前だけ。前から二番目に座っていると、一番前に斎藤久美子さんの姿が見え、声をかけるとさっそく私も最前列に行くことになりました。隣にいたのは、新発田事務所でも活躍してくださった方。

 開会でグランドピアノに向かったのは、月が丘養護学校1年の石月誠人さん。笑みを浮かべて誇らしげに出てきて、ピアノを弾き始めるとびっくり! ショパンの英雄ポロネーズ、すばらしい迫力の演奏でした。終わってから、お母さんと出てきて、お母さんが話をしている間の彼のしぐさは、「発達障害」を感じさせるものでしたが、演奏中の彼のしぐさには、全然それらしきものがなく、自信に満ちており、時に笑みが浮かび、時には、緊張し、と最前列にいたからこそ、彼の表情の変化が手に取るように分かりました。彼は、すでにいろいろな賞を国内外で取っているそうです。7分間の演奏が終わると、立見席がいっぱいになっていたらしく、前の空間に椅子が持ち込まれました。50ぐらい並んだと思います。

 隣の方の解説によると、今回は「第2回」で、去年と比べると3つの団体(新潟自閉症協会、NPO法人にいがた・オーティズム、新潟いなほの会ー発達障害者親の会)が一緒になっている上、新潟県、新潟市、新潟県教育委員会が共催しています。だからこんなに参加者が多いとのこと。私は、こう思いました。これだけ、その当事者の数が増えているということだと。

 基調講演に立った新潟大学教育学部準教授 有川宏幸さんは、日頃大学生を眠りに誘わないようにと様々な工夫をされているそうで、今回も、私の眠りを誘わないお話でした。まずはじめにある動作をすることを参加者に要請しました。それが、自分の思うようにいかないのです。そういうことがいろいろとあるのが、発達障害者なのだ、といい、これはとっても理解しやすいものでした。

 他にも色々と工夫をして、発達障害を理解しやすく解説してくれました。最後に4分の一ずつ分け合おうという提案がありました。発達障害の大変さを、本人、家族、学校や幼稚園・作業所など、地域、この4つで分け合おうということです。本当にそうですね。今は、ほとんどが、本人と家族だけで分け合っている様ですものね。

 いや、実際に分け合っているいろいろな取り組みが、その後に分かってきました。一番可能性を感じたものは、「プレジョブ」という取り組みでした。倉敷から始まって、新潟では、1年前にできました。企業で働く体験プログラムです。当事者は、1週間に1時間だけ働きます。地域のボランティアさんが、ジョブコーチをします。半年経ったら、企業を変え、ジョブコーチも変えます。なるべくたくさんの人や企業を出会うことが目的。新潟市内に6か所、そのほか、長岡と佐渡にあります。代表の連絡先は、090−7252−5575 石畑健一さんです。こういうのがあれば、その地域全体を耕すことになると思いました。魚沼にも作りたいものです。

 最後にパネルディスカッションがありました。といってもただ壇上の人たちがそれぞれ話しただけで終わったのですが、その中に当事者の方が二人あって、この二人の話は、興味深く聞きました。二人ともテクノスクールを終えて、ひらせいホームセンターで働いている方でした。Oさん(男性)は、サングラスをかけています。すべてのものが目に入ってきてしまうので、それを遮るためです。コンピューターが得意なので、そんな仕事をしています。一番苦手なものは、犬の鳴き声。自分が嫌だというのに、家で犬を飼い始めたのがきっかけで、犬の声が特別の響きとなって恐怖が襲うのだそうです。今では、犬を放してくれたのですが、その時の後遺症は続いているとのこと。もう一人は、金子めぐみさん(女性)。ほとんど普通に話しています。でも、疲れや、落ち込みなどが外に出ないので、そこが大変そうでした。爪を切った後つま先が触ると痛かったり、他の人とは違う神経過敏なところがたくさんあって、大変そうでした。

 テクノスクールの職員の方が、インタビューしてそれにこたえる形で、お二人の当事者が話してくださいました。フリーズ(固まってしまう)することがあって、その時は大変なのだそうです。

 先日、「読書の森」で、追悼集会をしていたときに、そこのオーナーの依田めぐみさんが、外を指さして「あら、火が!」と言ったので、みんなで飛び出してみました。すると、枯れ草が、燃えていて、広がろうとしているところ。靴で火消しを始めた人。そのうち、水が届き、すぐに消し止めることができました。火をつけたらしい男の子は、逃げていって下のほうに小さくなっています。「アスペルガーなんだ」と誰かが言います。よく聞くと、小学3年生の双子で、二人とも発達障害、でもその時火をつけた子のほうが重くて、その子は、特別支援教室、もう一人は、普通学級とのこと。お母さんは、結構落ち着いていて、こんなことは日常です。という感じでした。お父さんも一緒に来ていて、お父さんが二人の子どもを見て、お母さんは、家の中に入って、私達との語らいの輪に入りました。このとき、初めは、お父さんあたりが「いけないんだよ」と言って、もう一人のほうに「こういうことがあったら、親を呼ぶんだよ」などと言っていましたが、それ以上本人を叱る人はいませんでした。この日の有川さんの話では、とにかく叱る事を減らして、褒めることを増やしてほしい、とのことでした。この時のご両親も、きっとそのことを言われ続けてきたのでしょうね。「世間」では、「親が叱らないから、子どもが悪くて困る」という言い方をする人が多いけど、叱ってはいけない世界なのですね。

 自閉症、・発達障害の世界に3時間半浸ったのち、内山さん、斎藤久美子さんと新潟駅前で、長々とお茶をして帰ってきました。




           読書の森、森田明生追悼会

2010,3,27     於、長野県小諸市「読書の森」

長野県小諸市の御牧が原台地にある「読書の森」というところに27日(土)いってきました。ここに行くのは、10数年ぶりです。建物は全然変わっておらず、入口が二つあります。左の玄関に入るとレストランなのですが、周りは本棚で囲まれています。右の玄関をはいるとここは、子連れの人がくつろげる読書スペース、絵本がたくさんあります。

http://www.caferepo.com/repo/sabou/sabou.html

そもそもそこを私に紹介してくれたのは、森田明生さんという医者でした。1980年代に、夫が院長をしていたゆきぐに大和総合病院に内科医として赴任してきました。「今度来た森田君は、とってもおもしろい医者だよ。≪医業≫より≪料理≫のほうが得意なんだって」それでは早速我が家に来て料理を作ってもらおう。ということになりました。まだ森田さんは、20代だったのではないかしら?25年ぐらい前ですから、まだ我が家に7人の子どもがいました。子ども向けにということで、お子様ランチを作るというのです。まず、針金で、テーブル全体を蔽うほどの楕円形をかたどり、そこにアルミホイルを巻きつけて、銀色の巨大なお皿が出来上がり。その上に、チャーハン、スパゲッティーミートソース、プリンなどが並びます。それはそれは巨大なお子様ランチが出来上がり、子どもたちの大歓声が響いたのは、8時を過ぎていました。おいしいおいしいとみんな平らげてしまったことを、ついこの間のように思い出します。

それからしばらくして、このまちで一番腕がいい男性と料理比べをすることになりました。当時おもに我が家を会場にして「男の手料理の会」というのをやっていました。男性は一品持ち寄り、女性たちは食べるだけ、という会です。「料理が出来ない男たちが作る街なんて大したことにはならないでしょ。生活を担えるようになるには、料理が一番よ」などと言われて始めた催しです。この会で一番腕を上げた坂西茂男(ばんざい)さん(今は、萌気園の事務長)と腕比べをすることになりました。開始予定時間の7時には、20人ぐらいが集まり、茂男さんが作った料理を食べ始めます。おいしいおいしいの合唱となります。みんな食べて、おなかがいっぱいになっても彼は現れません。「森田さんは、どうしたんだろう?」と言いながら待ちます。2時間が過ぎてやっと現れました。持ってきたのは、大きな鮭の腹の中に栗おこわが入っている、名前はなんていうのかしら? それをオーブンで焼いたものです。なんとこの大きな鮭を冷凍庫に入れて少し固めたら、扱いやすくなると思って、冷凍庫に入れたまま眠ってしまって寝過ごし、すっかり固まってしまったので、それを溶かすために抱いて風呂に入っていて遅くなったというではありませんか!

開会から2時間も経っていれば、誰だって満腹になっています。今回は、茂男さんの料理ですから、なんといってもおいしいので、みんなたらふく食べて、それ以上入る余地はないというのがほとんどの人でした。その上、風呂に一緒に入ってきたという鮭に手を出す勇気を持ち合わせている人はほとんどありませんでした。だから、すでにこの勝敗は決まっていました。でも、食いしん坊の私は、「別腹」というのがちゃんとあって、鮭の中に詰まっている栗おこわをしっかりといただきました。鮭の味がしみ込んでいるこのおこわのおいしさは、たとえようもないものでした。その上、お風呂で彼の体臭までしみこませてくれたのですから、これは本当に「ゼッピン」というべきものでしょう。

その後、大和病院では、いろいろな「事件」が発生して、そのたびに、森田さんには辞めてもらおう、という話が持ち上がって、私たち夫婦は、その「火消し」に奔走。本人も反省していることだし、改善されると思うので、と言っていました。でも本当は、卓夫は、本人には「医業」から撤退して、料理の世界で身を立てたらどうか? と提案していたんです。料理というのは、「健康」という山に登る別ルートでもあるので、卓夫の中では、医業と対等だと思っていたように思います。ところが、彼の中では、そうは思えなかったようで、とうとう同じことが繰り返され、私たちの力で、守ることができなくなって、彼は、大和町を去ることになってしまったのでした。

その後行ったところは、群馬県の三枚橋病院。ここは、閉鎖病棟のない精神科病院ということで知られている病院で、ここの院長は、卓夫と医学部の同期だった石川さん。そこに赴任してしばらくして、彼は私をその病院の勉強会に講師として呼んでくれました。当時、私は、登校拒否の子どもたちやしょうがいを持つ子どもたちを含めた塾をやっていましたから、そこでの話をしたのでした。このとき、彼に聞きました。「大和病院と比べて、ここは住みやすい?」その答えは「なんといっても誤診の確率がぐっと減ったのが一番ありがたい」それはそうでしょう。内科の病気は、300を超えているし、精神科の病気は、一桁でしょうから。

そんな彼が、そこでも長くは務まらず、次に行ったところが、長野県丸子町(今は上田市)にある滝沢病院。そこに赴任して、この「読書の森」と彼が出合い、そこで、私の講演会をしてくれたのが始まりでした。そこでも彼の腕を利かせた料理をいただきました。

その彼が、52歳で亡くなったということを「読書の森」の依田恵さんが知らせてくださったのは、2月のことでした。去年も今年も年賀状が来ないことが気にかかりながら、連絡もしないままでいたことを恥じました。「家族が増えました。でも人間の家族は増えません」という言葉に犬と一緒に口輪をはめた写真付きの年賀状が来たこともありました。この犬というのが、そもそも坂西茂男さんから貰って行ったものなのですが、その後相当増えて、なくなったときには、10匹ぐらいいたそうで、今でも滝沢病院で、その犬たちを飼っているということです。

 27日は、その森田さんの追悼会が「読書の森」で行われたので、私も参加したのです。滝沢病院の院長を始め職員の方や患者さんたちも来られて、彼を偲びました。滝沢病院の院長吉田さんは、信州大学で、彼と一緒だった(彼のほうが1年上)方で、「僕たちは、1日に30人ぐらいの患者を見るけど、彼は、3人ぐらいしか見ません。でもそれを徹底してみるので、自分で作った料理を持っていったり、夜中でも起きていくし、だから、実は、彼がなくなった後、一人の患者さんが自殺したんです」

彼はとってもたくさんの力を持っているのにそれらがうまく発揮できなかったからなのか、理由は分かりませんが、学生時代から、糖尿病だったということが昨日分かりました。にもかかわらず、酒を飲みすぎては、「コト」を起こし、そこここに齟齬をきたしてきていました。彼の家は、鳥取県米子市にあり、彼の父親は、そちらでは、かなり有名な米子市長で医者。中海の干拓で、その周りの首長はすべて賛成なのに、早くから、彼だけが反対し続けて、とうとう、実現しなかったことが大きな新聞記事になったこともあります。

精神病院では、彼はいつも患者さんと間違われていました。そんな彼を偲ぼうと、赤ちゃん連れの方や、アスペルガーの子ども連れの夫婦など、また千葉県から何人もが来られていたりして、私が知らない彼のこと、いろいろと伺うことができました。ここの空気というのが本当に、「すべてウェルカム」なので、とっても居心地のいい時間を過ごしてくることができました。「読書の森」オーナーの依田雄、恵さんご夫妻の人柄がそうさせているのです。森田さんありがとう。




  浦安事件裁判結果

    2010,3,25     毎日新聞朝刊

知的しょうがい者の証言能力について、こんな素晴らしい判決が出ました。

 私の次女海映が、弁護団の一人です。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100325-00000070-mailo-l12

浦安の教諭わいせつ:控訴審 少女の訴え扉開く 暴行広く認め賠償額引き上げ /千葉

3251129分配信 毎日新聞

 ◇裁判のあり方に一石

 知的障害を持つ少女の訴えに、刑事公判は2度扉を閉ざしたが、民事法廷の扉は再び、より大きく開かれた−−。小学時代に性的暴行を受けたとして浦安市の少女(18)と両親が元教諭(50)らに損害賠償を求めた訴訟の控訴審で、東京高裁は1審千葉地裁よりも暴行を幅広く認め、賠償額を引き上げた。元教諭は強制わいせつ罪に問われ、無罪となっている。被害を正確に申告できないとされる知的障害児に高裁判決は救済の可能性を広げ、裁判のあり方にも一石を投じた。【中川聡子】

 判決が言い渡された瞬間、両親は思わず手で顔を覆った。涙がせきを切ったように流れてくる。閉廷後の廷内で、両親と弁護団が抱き合う光景に、傍聴席から拍手が起きた。

 「1審よりもいい判決が出たよ−−。そう言って娘を抱きしめたい」。判決後の記者会見でもなお、母親は声を詰まらせた。父親は「多くの裁判官が今日の判決を重く受け止め、障害への理解を深めてほしい」と語った。

 民事訴訟で少女と両親が訴えた性的暴行は合計22件。このうち1審判決は、▽03年6月27日に頭を2回殴った▽同7月4日に胸をつかんだ−−とする計3件の暴行を認定した。それ以外は「日時、場所が特定できない」と退けた。県と市はこの判決を不服として控訴。原告側も、1審が認めていない暴行も認められるべきだとして付帯控訴していた。

   ◇  ◇

 控訴審判決では、あいまいさを含んだ被害少女の証言の信用性が大きく認められた。

 一宮なほみ裁判長は判決で「下半身を触られたことについての当初の被害申告は、家族に少女が自発的に供述を始めた。身ぶりを伴い、具体的」として、日時、場所を特定できない被害についても暴行を認定した。続けて「(知的障害児や性的虐待の被害児童は)被害直後に被害を申告するとは限らず、相当時間を経過した後に話すことも多い。少女の知能レベルからすると、他の性的被害について申告しなかったとしても、不自然とはいえない」と判断した。

 判決はさらに、元教諭が捜査段階で行ったわいせつ行為を認める供述についても信用性を認定。「捜査官の誘導によるものとは考えがたい。(自白を否定した)刑事公判廷での供述は信用できない」と指摘した。その上で「状況理解能力の劣る少女に対する元教諭の行為は許し難い」と厳しく指弾した。

   ◇  ◇

 判決後の会見で、弁護団は「知的障害児の供述の信用性を認めた画期的な判決だ」と語り、知的障害者や性的被害にあった児童が証言する際の▽日時、場所が具体的でない▽被害申告に相当期間が必要なケースがある−−などの特性を判決が考慮した点を評価。「1審では十分に理解されておらず、被害直後の訴えしか認められていない。(日時、場所などを特定する)従来の事実認定から大きく踏み出した」と話した。

 母親は会見の途中「感無量。初めに声を上げてくれた子どもたちに感謝したい」と笑顔も見せた。

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 ■解説

 ◇証言特性に大きく踏み込む

 24日の東京高裁判決は、知的障害者や性的被害を受けた児童の証言特性に大きく踏み込んだ画期的な内容だ。被害発覚から7年に及ぶ原告家族の闘いは、知的障害者が司法に参加する道を切り開き、救済の可能性を大きく押し広げた。

 1審判決は原告の訴えを一部認めたが、基本的に「日時、場所を特定できない被害は認めない」という従来の事実認定の枠組みを踏襲し、大半の被害を認めなかった。

 性的虐待を受けた子供は知的障害の有無にかかわらず、被害を誰にも言えず、長い時間が経過してから訴えるケースが多い。日時や場所があいまいになりやすく、被害の影響で記憶に空想が混ざり、証言全体が信用できないとされるケースもある。こうした弱者は事実上、司法の場から閉め出され、救済の道が閉ざされてきた。

 今回の控訴審で、弁護団は専門家の鑑定書などを証拠として提出し、知的障害者の証言特性について立証。判決はこれを大筋で認め、日時などを特定できない被害も認定した。無罪となった刑事事件の経緯も検討し、捜査段階の自白も事実認定の足がかりとした。

 刑事と民事で判断が分かれた背景には、司法関係者の障害への理解不足や対応の不十分さが横たわる。

 弁護団は「知的障害者が被害にあう事件の中では警察、検察が立件したまれなケースで評価できる」と立件自体は評価するが、一方で「当時は被害児童からの聞き取りのスキルや証言特性の専門的な立証が足りなかった」と指摘する。

 性的被害者にとって裁判は自らの傷口をさらす行為だ。早期救済には知的障害者や児童から信用できる証言を引き出し、信用性を立証する捜査機関のスキル向上や司法システムの確立が不可欠だ。【中川聡子】

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 ◇少女が性的暴行被害を訴えた事件の経緯◇

03年4〜7月   少女(当時小学6年)が教諭から性的暴行を受けたとされる

04年 2月16日 県警が教諭を強制わいせつ容疑で逮捕

    3月 5日 千葉地検が教諭を起訴

05年 3月24日 千葉地裁で検察が懲役7年を求刑

    4月28日 千葉地裁が無罪判決、翌月、千葉地検が控訴

06年 2月15日 東京高裁が無罪判決、確定

    5月11日 少女と両親が教諭と県、浦安市に2000万円の損害賠償を求めて千葉地裁に提訴

07年 3月31日 教諭が依願退職

08年12月24日 千葉地裁が県、浦安市に60万円の支払いを命じる判決

09年 1月    県、浦安市が東京高裁に控訴。原告も判決の変更を求めて付帯控訴

    7月13日 東京高裁で控訴審の初弁論

10年 3月24日 東京高裁が1審判決を変更し、県、浦安市に330万円の支払いを命じる判決

 

 

 

21年度第3回目の自立支援協議会

2010,3,24     於、南魚沼市ふれあいセンター

21年度第3回目の自立支援協議会が、24日にありました。

第2回目のときに障害者の就労について皆で話し合って、南魚沼市と、南魚沼郡湯沢町に行政として、新規にしょうがい者を雇用するようにという申し入れをすることにしました。3月初めにどちらにも、申し入れ書を持って行って、交渉してきたそうです。その結果、南魚沼市では、まず、この4月から、新規に臨時ではあるけど、一人雇用する、との回答を得ました。そして、さらに23年度からは、正職員として入れるとも。ところが、この時に井口一郎市長は、「障がい者」と平仮名で書くのはどうなのか?と言われ、実は、先回、そのことでさんざん話し合って、「障がい者」と書くことにしたのでしたが、さらに検討するようにと言われたそうです。

湯沢町のほうは、「法定雇用率2,1を上回る2,4になっている。しかも新規で入れた」との回答だったそうです。申し入れに行った方の報告では、「それらしき人はいないので、怪しいと思う」と言うので、「内部疾患を持つ障害者などは、外から見てもわからないということがあるから、それにもかかわらずこのような公の場で怪しいといわれる根拠は?]と質問したら、「前回今いる障害者はすべて新規ではなく、職員だった人が、障害者になったというようなケースばかり、と言われたので、あれからまだ数カ月しかたっていないので、全部新規で取ったというのは、信じられない]とのこと。だから、もっと詳しく内部調査をしてみる、と言って終わりとなりました。

行政が率先して障害者を雇用していくべきですよね。

 

 

 

 インヴォルブフォーラム2010

     2010,3,22    於、上越市リージョンプラザ

22日は、上越市のリージョンプラザでタイトルのような催しがあったので、行ってきました。主催は、NPO法人りとるらいふで、このNPOは、この4月から社会福祉法人になります。1月にここが主催した「発達しょうが者のアート展」を見に行ったときに、ちょうど新しい施設「りとるの家」が建設中で、理事長の片桐公彦さんが、わくわくする思いを表現しながら案内してくださった建物が、4月にオープンするのです。

このフォーラムは、今年が3回目ということでしたが、日浦美智江さんの講演が聞きたくて行ったのでした。何人かの方から、この日浦さんのことを聞いてぜひ伺ってみようと思ったのでした。

日浦さんは、こんな風に話を始めました。「私のように70歳ぐらいの人が理事長だといってもだれも驚かないけど、片桐さんのように30歳代の方が理事長だと言ったら、びっくりしますよね。私は、いまその話を聞いて、こんな若い方がこの世界で活躍してくださっているということ、そしていま新しい法人を立ち上げるということに深く感動しています」実際一週間後には、その新しい「りとるの家」が一般公開されるのでした。

1972年、横浜市が、普通学校の中に訪問学級を開設した。この学級の担任は、ソーシャルワーカーだった。それが日浦さん。教育委員会からの出向という形で、この学校に行っていた。重症心身しょうがい児施設の施設長である医師に学級医になってもらい、月1できてもらって、教員たちの相談に応じてもらっていた。ここではすでに医療、教育、福祉一体の取り組みが始まっていた。制度はなかった。首の据わらない一年生がいる。哺乳瓶を持ってきた子の母に「学校に来たら、哺乳瓶はやめましょう」と教員が言う。母は答える。「では、学校をやめます。哺乳瓶がなくてはこの子の命がなくなります」ということろから始まった。何とかなれて夏休みになると、行くところがない子どもたちが不安定となる。卒業を考えると親たちは「恐怖」という。

そこで、初めての卒業生が行けるところを作業所という形で作った。2回目の卒業生の時に作ったのは、3部屋がある家で、8人が暮らし、そこを「朋」と名付けた。広い学校の中を動き回っていた男性には、この狭さに抵抗があり毎日ふすまを蹴飛ばしていた。そこで、横浜市と交渉した。1984年、市は、かなり広い土地を提供してくれるという。両隣が、小学校、中学校、そして、富士山がよく見える素晴らしい場所だった。ところが近所の人たちからクレームがつき「しょうがい者施設はなじまない」と言って計画中止が申し入れられた。そこで説明会が持たれ、360人が参加した。「散歩に出ますか?」の質問に日浦さんは「なるべく出たいと考えています」と答える。すると一番後ろで赤ちゃんを抱いていた若いお母さんが、発言。「頻繁にでてきてください。友達になりましょう」という。結局計画は実行されることに。日浦さんは言う。「こんなお母さんがいるこの横浜に住みたいと思った」以来地域となじんで、さまざまな行事に参加していく。日浦さんは、11年で学校をやめて、作業所専属となる。以来、ソーシャルワーカーが、学校にいるということはなくなった。今は、社会福祉法人「訪問の家」の理事長。

両隣にある小中学校との交流会。はじめは、施設側の挨拶は、大人がしていた。何回目かに「あー」という言葉が出せる脳性マヒの男性にしてもらうことにした。「あー」という言葉の通訳は、職員がした。そのあとに学校の教師から来た手紙。「今まで交流会というのはなんだかやらせっぽいといぶかっていたが、今回初めてこれがいいんだと思えるようになった」それから、垣根がとれてきた。突っ張りで、学校嫌いな男子中学生が、「朋」にいるゆう子さんとの交流で成長していく。誰かが、しょうがい者の名刺に「職業、笑顔」と書いた。ゆう子さんの笑顔が、この男子学生を励ます。

最後に二人の人を写真で紹介してくれた。その一人が、たけし君というムコ多糖症の男の子。私は、昔陽子ちゃんというムコ多糖症の子どもを保育所で受け持ったことがある。この陽子ちゃんについては、既に絶版になってしまった「育てあい家族」の中に報告したことがある。2歳半で発病。関節という関節に糖がたまってしまって、関節が動かなくなっていく進行性の病気だ。陽子ちゃんは、4歳で、保育所への入所申請書が出されなかったので、こちらから連絡をして、入所することになったのだった。この街の保育所はしょうがいを持つ子どもの受け入れはすでに始まっていた。町の保健婦さんと保育者と話し合いを持っていたので、どんなしょうがいを持つ人が、どこにいるのか、情報を共有していたからその存在を知っていたのだ。今生きていれば32歳になるはずだが、25歳で亡くなってしまった。今回写真で紹介されたたけし君は、26歳で亡くなっていた。病気の進行につれて、陽子ちゃんと同じ顔になっていくことに驚いた。あれは、陽子ちゃん特有の顔ではなくて、あの病気を持った人の顔だったのだ。首が短くなって口と目が大きく、顔はまあるくなる。陽子ちゃんは、親指はお父さん、人差し指はお母さん、というように指でいろいろなことを表現し、言葉が出なくてもそれなりの会話が成立していた。小学校5年生で、目が見えなくなってからは、聴覚だけで、人の声を聞き分けてくれていた。弟二人、ご両親、おじいちゃんおばあちゃん、おじいちゃんの妹、の8人家族の中心の地位を占めていた。亡くなってからは、家中が火が消えたようだと言っていた。たけし君についても今回同じような経過が報告されていた。

今では、横浜市の学校4校に養護学校が併設されている。日浦さんが勤務していた中村小学校には、70人の生徒がいる。そのうち60%が、医療を必要としている。という。

日浦さんがスライドで見せてくださった写真を見ていたら、「朋」は、私が、去年尋ねたところととてもよく似ていた。去年の3月に横浜市内の福祉施設を伊藤晶宣さんが案内してくれたときに尋ねたところは、きっとその4つの学校の一つなのだろう。でも、もう一度訪ねてみたいと痛切に思った。というのは、いま、しょうがいを持つ人たちのケアホーム、グループホーム建設に取り掛かるべく、土地の購入に着手しているからです。

日浦さんの話が終って、楽屋に入って行かれたので、私も楽屋に回ったら、日浦さんの前で、片桐公彦さんが、泣いています。感動して、感極まった様子でした。名刺交換をしようと思ったら、日浦さんは、なくなってしまったということなので、片桐さんに連絡先を聞くしかありません。私の名刺はお渡ししてきました。とっても感じのいい素敵な女性でした。

 

 

 

      浦佐幼稚園評議員会

       2010,3,12     於、浦佐幼稚園

私が不在中に浦佐幼稚園の評議員会があることになっていたのですが、帰ってからにしてもらって、12日午後子どもたちが帰ってから、職員全部と、保護者会長と、私を含めた二人の評議員とで会合を持ちました。この役になったのは、去年までやっていた私の友人が、後任として私にやってくれといったことから、「お鉢」が回ってきたのでした。

もう一人の評議員は、この街の少年サッカーのコーチをずうっとやり続けてきて、かなりの成績を上げている清水さん(40代男性)、です。この方は、鈴懸でも、ボランティアとして、麻雀のコーチをしてくれています。会合の初めに清水さんが、こう言いました。「ずいぶん長い付き合いになるけど、子どもたちが変わってきた。弱くなった」と。それで、「なぜ?」と聞くと、親たちが、子どもに対して、危ないことをさせないようになったからでは? という話になりました。私の孫の不登校児志重(7歳)は言います。「大人ってば、ちっとも危なくないことでも危ない危ないって言うよ。ママもパパもだよ」実際に「ここからは、川に落ちられないのに落ちたら危ないからって言うんだよ。」とやって見せてくれます。本当に命の危険があることは、やめてもらわなくてはと思いますが、そこまでの危険はなかなかありません。

それから、もう一つ食育、ということについて。本当は、生きている魚をそのまま殺して食べさせたり、鳥や豚など見ているところで殺して「いつも食べている肉は、それまで生きていた動物なんだ」ということが分かるようにしたらいいんだけど。という話になりました。我が家では、子どもが小さい頃、庭の池から掬ってきた大きなコイを子どもの前で首をはね、その首が、水の中で1時間もパクパクやっている姿を見せてきました。「こんなに生命力がある命をいただいているんだよ」といいながら。

そんな話を黙って聞いていた保護者会の会長さん、「今伺ってそうだなあと思いました」という。そこで私は、職員たちに聞きました。「保護者会はやっているの?」「要望が出たらやっています」要望が出なければやらないということ。実際に去年は出なかったのでやらなかったそうです。私は言いました。「幼稚園のほうから、積極的に保護者会をやって、保護者同士、または、職員と保護者が話し合って、お互いに考えていくということが必要なのでは?」それは、「危険」「食育」に限らず、どこの親でもどうしたらいいのか分からないままにしていることがたくさんあるはずだからなのですが。私自身、保育所や、学校の会合で、ずいぶんといろいろなことについて考えさせていただいたという思いがあるからでもあるのですが。

認定子ども園を萌気会が受託することが正式に南魚沼市議会で決まりました。浦佐保育所、浦佐幼稚園が、来年3月で終わりになり、4月から、認定子ども園として発足します。保護者や、地域の皆さんと力を合わせて、子どもたちにとっていいと思うことをどんどんやっていけるそんな子ども園にしていきたいものと考えています。





  ブルキナファソレポート

    2010,3,1〜3,10    エールフランスにて、成田から、ワガドゥグ

40度を超えるブルキナから昨日帰ってきました。今日は雪が降っています。

大変な歓迎を受けて、まるで竜宮城のような、1週間を過ごしてきました。ベアテの贈りもの、の上映会に限ってはじめにご報告しますね。3日の夕方パンアフリカ女性映画祭の開会式でした。女性映画祭は、今回が初めてだということがわかりました。奇数年に行われているパンアフリカ映画祭は、去年40周年を迎えているので、広報も十分なされていたのですが、今回は初めてとあって、広報が遅れていて、人の集まりは全体として少なかったそうです。

 この日は、500席あるシネマブルキナ、での開会式。色とりどりの肌の方の集まりで300人は超えていたと思います。すべてフランス語で語られるので、私には何も聞き取れませんでした。大統領夫人が見えると言っていたのに、外国出張で来られなくなって、大統領の次に偉い国会議長の夫人が名代で参加され、挨拶されていました。フェスパコというパンアフリカ映画祭をやっていている主催団体のあいさつや、歌などの後、ひとつだけ、ベナンで作られたフィルムの上映がありました。ほとんど何も分からない私には、睡眠時間のほうが多かったようです。ベナンで青年海外協力隊として活動していた大使館員の若い女性が、後で説明をしてくれて少し理解したという程度です。

4日の夕方、ベアテの、上映会でした。200人ぐらいの観客です。私の方でお願いをして、上映の前に少しお話をし、終わってから、質疑の時間を設けていただきました。できたいきさつ、そして、これまで世界の国々で上映してきて、ジュネーブで上映会を友人がしたときに、ここにいる宮嶋さんは、ご夫妻で見に来られたこと、チューリッヒでは、ブルキナに住む日本女性が見に来られていたこと、39日には、ロンドンで上映され、ベアテさんが、ロンドンに行かれること、などを話したのです。見終わったときに、拍手が沸き起こったのは、これまでになかったので、とてもうれしく思えました。次々に質問の手が挙がりました。はじめは、「ベアテさんはどうして、アメリカに帰ってしまったのか、日本にとどまらなかったわけ」という初めての質問でした。「起草委員会の中のアメリカ男性と結婚してすべての起草委員は、アメリカに帰国されたからだと思います」その後、「感動した」という意見や、「今の日本はどうなっているのか」など、どこでもされる質問がありましたが、次の上映を控えているので、「あとは個人的にロビーで」ということでおわりました。ロビーでは、国営テレビや、新聞などからの取材があったり、ドイツ人女性が、「日本は、どうしてそんなに男女平等が遅れていたのか、何か、宗教的な原因などがあるのか?」との質問、「お寺」という言葉まで使っての質問でした。なかなか高度な質問で、あまりちゃんとは答えられませんでした。日本の女性は、よその国と違うとすれば、一家のお財布を預かっている、ということによる満足感があって、家の中だけにいると差別を感じないということもあるでしょう。実際は、女性の貧困は深刻度を増しているのですが、というあたりで終わってしまいました。

 日本の現状という質問については、バックラッシュということがよく説明できず、というか、あちらの皆さんには、伝えきれずに、終わってしまった感じがします。

5日は、主催者フェスパコ主催で、日本大使館が、経費を持つ昼食会が催され、100人ほどの参加者に対して、まず、日本大使杉浦勉さんが、丁寧にこの映画の解説をしてくださいました。 私には、そのフランス語が分からなかったので、その次の私の番には、何も話せず一緒に行ってくれた宮嶋美子さんの話が、受けていました。「日本には、人、という字があってそれはこういう形です」と両腕で、字の形をとり、「この支えているのは、女性ですか?男性ですか?」と聞くとみんなが、「女性」と答えてくれ「本当は、両方で支えあう関係になったらいいですね」と結んでいました。彼女は、夫君が、ホンダの駐在員で、ナイジェリア、ペルー、シンガポール、スペインなどに行っていて、フランス語もかなり理解していて、とても頼もしい存在でした。

その日の夜10時半から、別の会場で、上映会があり、私たちも、行ったのですが、「あと十分」と言い続けられ1時間後に始まったそうですが、11時になって、大使館の方が、かえりましょうと言ってくださって、その方(村田さんといい大使館の参事官で、岩田さんが日経新聞の「交友抄」に書かれた「ベアテの贈りもの」の記事を読み、岩田さんに連絡をとり、今回の上映会が実現しました)3人でかえってきてしまいました。大使館職員の若手3人が残って深夜であったにもかかわらず20人の方がこられたそうです。何しろ終わったのが、1時。遅れた原因は、その前のフィルムの上映時間が間違って伝わっていたからのようです。

7日が、閉会式でした。首都ワガドクから、車で1時間半西に行ったところのクドゥグという都市の野外劇場が会場でした。7時開始というのが、1時間遅れで8時に始まりました。この日は、大統領夫人が来られてその到着が遅れたのが、開始遅れの原因だったようです。この日のメインは、上映会参加の映画監督に記念品を贈る、という授与式です。私が、その役になることになりました。その日、日本からは、大使夫妻も村田夫妻もほかの用事があって参加されず、私たち二人のほか、大使館の若い職員が二人だけでした。トロフィーが、30本近く並んでいました。上映されたフィルムの監督が呼びあげられて、壇上に上がると、そのあと文化大臣などなど政府のお偉方が壇上に登ってトロフィーを渡す役です。監督はすべて女性、ブルキナファソが、半分ぐらいで、ベナン、チュニジア、ガーナなどアフリカの国の方が拍手で登壇します。トロフィーを渡してから、ここでの親愛の情を表す二人のほほを右左とすり合わせて、カメラに収まって下りてきます。最後が、インド、日本となり、私もいただいて降壇したら、大使館職員が、促してくれてまん前に座っていた大統領夫人と握手、その時「ありがとう」という日本語が聞き取れました。そこで私も、「ありがとうございました」と言ってお別れしました。

 このトロフィーは、女性兵士のブロンズ像で、高さ30センチぐらいの結構重たいものです。現地の方々は、すべて知っているということですが、この国の伝説にある女性で、ヤネンガという王女だそうです。昔、南の方の王国の王女で、男勝りで、戦争に強く、ある日馬に乗って北にさまよっていたときに、北から狩にきていた王子と恋に落ち、生まれた男の子(馬が縁で出会った男との間にできたので、牡馬という意味のウエドラオゴと名づけました。ブルキナファソには苗字がウエドラオゴの人がたくさんいます)が、モシ族の王様になったということです。モシ族は、この国の中で一番大きな部族で、ワガドクでは、モシ語が話されています。トロフィーを持ち帰ろうと空港に運んだのですが、そこで留め置かれ、持ち帰れないことになってしまいました。

 機内持ち込みするには、この女性が持っている剣と楯が、「武器」になりうるということなのでしょう。預ける荷物に入れればOKだったのですが、夜中の便で帰ってくることになっていて、その日の夜お別れのレセプションを村田さん宅で開いてくれ、ここで皆さんに見ていただきたかったので、手荷物の方に入れていたのでした。空港まで送ってくれた職員が、持ち帰ってくれ、今月末に帰国するスタッフが、日本から送ってくれるということです。とても素晴らしいものなので、ぜひ皆さんにお見せして、藤原監督のところにお渡ししたいと思っています。

私たちを泊めてくださった大使公邸は、とっても広くて快適な空間でしたが、何しろできたばかりで「昨日ドアがつきました」というところです。大家は建設費を安くするために建材を中国からコンテナで運んだそうですが、浴槽だけ入っていなかったということで、まだそこは、工事中のままでしたが、熱いお湯の出るシャワーがあって、一日に何回も、汗を落とすことができました。公邸の料理人が作ってくれる朝食を毎朝、大使夫妻と一緒にいただき、このお二人がとても素敵な方なので、その朝食の時間がとても楽しみでした。

 両替をしないでいったら、向こうでは、できないそうで、ちゃんと「講師謝礼」ということで、現地通貨で二人にいただいてしまい、驚きました。そのおかげで、向こうでの食費やら、お土産やらを買うことができて、こちらから持っていった日本円は、不要となりました。二人の分で残ったのは、現地で、孤児院作りをしている日本人男性(飯田勉さんといって、大使と名前が同じばかりか、生年月日まで同じという方で、「我が家」という名前の日本料理店を去年開いた方)に孤児院作りに使ってと言って置いてきました。

 ・「女性の日」
 3月8日は「国際女性の日」です。そのことは私も知っていました。でも、その日が「祝日」になっている国があるとは知りませんでした。ブルキナファソは、祝日だったのです。国を挙げて、女性のことを考える日だそうで、国中で、さまざまなそれに関する行事がありました。コンパオレ大統領夫人はクドゥグ(首都ワガドゥグから西に100KM)の式典に参加するということなので、杉浦大使夫妻もそこに行くことになっていました。そこで、私たちも大使館職員と一緒にクドゥグまで行きました。9時開会だということでしたが、やはり遅れて10時に開会。私たちもちょうどそれに間に合いました。クドゥグ中心地の道を挟んで、野外式典が開かれます。道は封鎖されて、道の真ん中に演台が置かれています。道の両側に屋根の付いたテントが立ち並び階段状になった椅子には政府関係者や、外国要人が並びます。私たちは、そのテントの裏を歩いて、式典の中心地まで行きました。大使館の関係者であるというとたいていは、どこにでも歩いて行けます。車でもどこも大使館の緑ナンバーなら大概通してくれるそうです。

ここに集まっている人の大多数は、この日のために特別の柄に染められた布でこしらえた洋服を着ています。赤青黄の3色あるのですが、女性たちだけでなく男性もアロハシャツにして着ています。杉浦大使夫妻もそれを着て私たちより先に出発しています。青地のグループや、赤地のグループがあり、とても複雑な模様が付いているので、赤という原色とはかけ離れています。でも、国中の人たちが、同じユニホームを着るという発想に少々驚きました。ユニホームといっても、それぞれ個性的なデザインで、自分なりの自己主張はしています。

この日はものすごく暑い日で、午前中に40度を越していました。大使館のスタッフは、何とか私たちのイスを確保したいと頑張ってくれ、初めに私のイスが一つだけ運ばれてきました。その椅子をテントの裏の日陰において座っていました。まわりは、ほとんどユニホームの方ばかり、中には、少し外国の男性がいたりします。どちらにしても、私は、言葉が通じないと思って、話しかけずに引っこんでいました。(私らしい?)すると隣のかっぷくのいい女性が、私に、もっと前に出るようにと手で合図してくれ、私は、喜んで、前に出ました。そこですでに英語での会話が始まってしまったのですが、私に理解できる言葉が少ないので、「通訳はいないのか?」と聞かれてしまうほどでした。少し離れたところに、宮島さんや、ベナンで海外協力隊にいた坂巻絵吏子さんがいることを話して、会話を続けました。そこで分かったことは、1995年の第4回世界女性北京会議にこの国から10人行って、そこで、すっかりエンパワーしてきたのだというのです。その結果、女性省もでき、さまざまな女性たちがそこここで頑張っているとのこと。この方も10人のうちの一人だそうでした。そして、この方は、栄養失調で、死にかけている子どもたちにベビーフードを届けるという支援を行っているといいます。そして、そのベビーフード会社の社長もしている方でした。やせ細った子どもの写真の隣のページにその子が太って元気になった写真が貼られているアルバムを見せてくれました。そのうち、宮島さん、坂巻さんの席も見つかって、4人で話しこみました。そのうち大統領夫人のあいさつになり、皆さん聞き惚れているという感じでした。宮島さんが、後で話してくださったところでは、「女性にとって、大切なことは、識字教育と就労支援」だということを力強く語っておられたとのこと。

大使夫妻とは、その会場でお別れとなるので、出会いたいと探していました。すると、坂巻さんとは違う女性の大使館員の姿が、テントの端に見えたので、式典が終わると、その人がいるテントに入って行きました。彼女は、草の根無償資金協力委託職員で、次の日に大使とともにブルキナファソ西部のバンフォラ(映画「女たちの村」の撮影現場の近く)で「エイズとともに生きる女性たちのための職業訓練センター」引渡し式に同行するため大使夫妻と同行していたそうです。すぐそばに、大使夫妻を見つけだすことができました。ものすごい人数の式典の中から探し出せたことを大使夫妻も喜んでくださって、1週間のお礼を述べて、ほほをすり合わせるブルキナ式お別れをしてその日そのままバンフォラに出張に出かけるお二人をお送りして、私たちは戻ってきました。

・大使夫妻のお人柄
 3月1日、成田を夜10時に出て、早朝パリに着き、6時間待って、ブルキナファソの首都ワガドゥグまで6時間、途中ニジェールの首都ニエメーで、3分の2ぐらいを下していきます。飛行機は、350人ぐらいの大きさで、満員です。向こうからの情報では、3月の平均気温が40度、乾期のため砂漠の粉じんが舞い上がるので、マスク を5枚ほど持ってくるようにと言われたり、マラリア蚊がいるので、防虫スプレーをなど、と言われました。夕方アフリカの空に差し掛かると、眼下の雲が、茶色に変わりました。これが砂漠の粉塵かと納得したものです。

 空港は、タラップを降りて行かなくてはならず、預けないで機内に持ち込んでいたすべての荷物を持って階段を下ります。出口には、私たちの名前を明示した紙をささげている若い女性が待っていてくれ、ほっと一安心。すでにご紹介したSさんでした。すべての手続きを彼女がしてくれ、ここですでに「大使館」の威力を認識しま した。空港が工事中で、実は、預けた手荷物を配るベルトコンベアを作っているとのこと。

ワガドゥグは、150万の都市で、かなりの大都市です。でも、空港からは、大使公邸はすぐでした。大使館員4名と大使夫妻が待っていてくださって、私達と8人での夕食会が始まりました。まず出てきた食べ物が、にぎりずしとホタテ貝柱の焼き物、公邸の料理人は、25歳の男性で、フランス料理と、日本料理の修行を受けてき たといいます。大使夫妻の人柄が、この場を和ませました。

杉浦勉さんは、丸紅を退職して大使に。東大の教養学部フランス科を卒業して丸紅に就職したそうで、東大の卒業式のない年だったそうです。数年で、辞表を出し、絵描きになろうと考えた。そうしたら、丸紅の中でもそういう仕事があるからと言われ、辞表を出さずに芸術関係の仕事をするようになった。丸紅は、美術品をたく さん持っていて、それらの代表作を掲載して、分厚い「丸紅コレクション」の図録を作り上げたのが、杉浦勉さん。パリ日本文化会館事業部長に出向したりの経歴です。彼のメールアドレスをいただいたら、zuolaという珍しい文字! 聞くと「僕の中の空想の神の名前です」「その神は、いつごろから?」「小学生のころ」。一番好き な勉強は数学だった、とも。矢野健太郎の数学本をたくさん読み円周率を数十桁まで読み上げます。なんと広々とした方なのか!

 つれあいの寛子さんは見るからに沖縄の方。那覇の出身だという。寛子さんのアドレスは、アダンクッキンギスタディオ。去年の6月にここに越してくるまで埼玉の自宅で、料理教室を開いていたそうです。私が高校の頃、「大人になったら、外交官夫人になるの」と言っている人と出会ってとってもびっくりし、その時作り上げ た私の中の「外交官夫人」のイメージとはかけ離れています。大使公邸では、寛子さんが切り盛りしているという感じでした。従業員の人たちに日本語を教える(隔日15分間)様子を見せていただきました。その姿は、教師であり、働いている人の姿でした。私たちが、朝の散歩に出ようとすると、危険があるといけないから、一 緒に、と言って、3人で散歩したりもしました。来客がある日は、花を買いに市場へ行くというので、私たちも車に同乗させていただき、お土産を買うところまでお付き合いいただきました。

 私たちが泊めていただいている部屋のこともこまごまと気を配って、ときには、大使が「使い走り」のようにモノを持ってきてくださることもあります。(何だったか、今になると思い出せません)

大使館の職員が口をそろえて言うのは、大使の人柄のおかげで、とても楽しく仕事をしている、というのです。お二人が、とても穏やかな人柄で、その許容量の広さから、大使館員全体が、心をこめて仕事に励んでる、という感じがするのでした。


・女性省

 4日の空き時間に女性職業訓練学校、女性センターの見学を大使館が企画してくれました。この日は、大使館のNさんが付き添いで通訳です。初めに行った女性職業訓練学校は、中高等教育省が運営する国立の施設で、女性たちが、手仕事をしているところを見学しました。刺繍をするグループ、絨毯を作っているグループなどがあります。この人たちは、ここの中学校の卒業生たちで、職業訓練を受け、刺繍や絨毯を生産しているのでした。中学校というのは、自分が行っていた中学校を止めなくてはならなくなった女生徒たちが、ここに集まって、職業訓練がカリキュラムに入っている中学校で学ぶことになったということでした。この中学の職業訓練は、3コースあって、絨毯、刺繍、レストランです。このうちレストランだけは、男子生徒も入ります。

次に行った女性センターは、支援を必要とする女性たちが、日々通って織物の機械で布を織ったり、その布を売ったりしています。その女性たちは、夫と死別生別などで寡婦になった人たちや、エイズなどに感染している人たちです。「女性問題一般の広報などはどうしているの?」と聞くと「パトロンのところで聞いてくれ」と言われ、どうやら、パトロンというのは、代表者という意味らしいです。小さな事務所にいたパトロンは、女性で、公務員だということでした。ここを運営しているのは、社会行動・国民連帯省で、日本でいえば、厚労省です。上の3人だけが、公務員で、後は、通ってくる利用者のようです。ここでも女性政策一般の質問をしたら、「ここではわからない、女性地位向上省に行って」と言われて、初めて女性地位向上省があることを知りました。そこで翌日、アポイントを取って尋ねました。今回は、付き添いが、二人でした。若い日本人と、ブルキナファソ人の中年の男性、どちらも大使館員です。現地人の方は、日本語がとっても上手で、聞いてみたら、湘南にある東海大学の工学部を卒業して、少しブルキナ電電公社に勤めてから、去年まで、コートジボワールの日本大使館に20年勤めていて、ブルキナの大使館ができた去年から、ここの職員になったといいます。この方が通訳してくれてかなりのことがわかりました。

私たちが尋ねたところは、女性地位向上省そのものではなく、ワガドゥグ市の中に11区域がありその中の一つの女性局で、女性局長が説明してくれました。全国には、女性局が13あり、女性局長はしたがって13人いるとのこと。ここの女性局長さんは、実にかっぷくのいいアフリカ女性の典型的なスタイルの方でした。なかなか迫力のある方です。女性地位向上省には、6つの課題がある。という。

1、女性の社会的立場の改善

2、決定権のあるポジションに女性を入れる

3、女子教育、学校をやめてしまった女性を教育している(女性会館)

4、子どもと母の健康対策、家族計画、エイズ対策など

5、貧困対策、技能を授ける

6、システム作り

 これが2005〜2010のアクションプランだった。

 ジェンダーイッシューとアクションプランがある。
ジェンダーイッシューについては、各省庁の中に女性委員会(3〜5人)があり、女性地位向上省から連絡して、支援組織を作ってもらう。女性センターだったら、社会行動・国民連帯省の女性委員会にお願いする。女性職業訓練学校だったら、中高等教育省にお願いする。3月8日の女性の日についても1997年にできた女性地位向上省が音頭をとる。今年のスローガンは、「女性の識字率をあげる」。去年は「貧困対策」だった。

この建物の中にも女性たちが技能を使って稼ぎだすようなパートがあった。そもそも、玄関で、物が売られている。私は、気に入ったネックレスを買った。ふと下を見ると売り場の裏では、ネックレスを作っているではないか。売り場で作っている。来客には、何でも売りこもうという迫力が伝わってくる。

部屋で、織物や刺繍をしている人もある。また、この日は、4日後に控えている女性デーのための出し物の練習をしているグループもあった。10人ぐらいの10代の女性たちが、ダンスの練習をしているのだった。

 裏のほうの建物は、早朝に道のごみを拾うグループのゴミ集めの場所になっていた。空き地には、たくさんのごみが捨てられていたり、買い物を入れてくれる黒いナイロン袋が、とっても破けやすくて、ちりぢりになったナイロンがそこここに引っ掛かっていて、そこらじゅうにカラスがいるかと錯覚してしまう。ところが、広い道幅のある幹線道路は、とてもきれいで、ごみがない。聞いてみたら夜中の3時におばさんたちが集まってゴミ拾いを始めるというのだ。これも、女性地位向上省の就労支援の仕事だという。その後朝早くに散歩にでかけたら、ごみ拾いの集団を見かけるチャンスがあった。紺のユニホームを着て、10人ぐらいの女性たちが、手に手に箒を持って道の掃除をしていた。その時は、7時半ごろだったので、どうやら、場所によっては、3時よりは、遅く始めるところもあるのでは?と思った。昔日本でも失業対策事業(失対)といって、日雇いで、ごみを拾っていた時もあったと思いだした。最近は、本当にポイ捨てが、減ってきたと思う。

日本では、「女性省を作るとそこにまかせっきりになってしまうから、今のように内閣府に局として存在するほうがいい」という人がいて、そういうものかな?と思っていたりしたのですが、今回行ってみて、それどころではなく、各省庁に女性地位向上省からの命令を受けて実行する女性局があって、ジャンジャン活動しているということがわかりました。大統領夫人が先頭を切って頑張っており、韓国の金大中の妻のような方なのですね。

dvのことは聞いてみましたが、まだ取り組みは始まっておらず、調査の段階のようでした。性器切除のことを聞くチャンスを逸してしまいました。25歳以上の人は、多かれ少なかれその被害者だということは聞きましたが。次回はぜひ聞いてこようと思っています。

・《シアバター》
《シアバター》というのご存知ですか? L’Occitaneからハンドクリームやら保湿クリームが出ていて日本でも大々的に宣伝をしていますが、その原料がカリテという木の実から取れるシアバターで、ブルキナファソでもたくさん取れます。

 バンフォラという村で活動していた海外青年協力隊の女性が発案し、エイズ感染女性の社会復帰の一環としてシアバターの石鹸を作る職業訓練センター建設を大使館に申請し、大使館開館後第1号の草の根無償資金協力になったそうです。日本の石鹸業者が『これは上質』とのことで協力も得て、材料としてJICAの協力プロジェクトで指導している村から取れたシアバターを使うことになっているようです。ちょうど今回その石鹸業者が来ていて、大使館で名刺交換をしました。ベアテの贈りものの上映会にも来てみてくれました。

(このプロジェクトは「コモエ県における住民参加型持続的森林管理」。

http://www.jica.go.jp/project/burkinafaso/0605205/news/index.html

これから製造化するようですがブルキナファソ国外にまで売り出すものかどうか未定です。
そうなればLOccitaneより安くていいものが出るだろうと期待しているのですが。

お味噌のようにナイロン袋に入った1キログラムをお土産用に買ってきました。結構皆さんが、シアバターを知っていて驚きました。テレビでも宣伝しているし、六日町の自然食レストランで、小さなクリーム(直径3センチぐらい)の入れもので2000円とかで売っているそうです。私は今回初めて知りました。

・文化大臣公邸のパーティー
 ブルキナファソの文化大臣が、公邸で、今回の映画祭関係者を招いてパーティーをしてくださいました。広い芝生のある庭で、初めに裏庭で数人の楽団の音楽を聴きながら、飲み物を飲んでいました。主賓が全部そろったところで、表庭に移ります。そこには、たくさんの料理が用意されていて、並んでほしいものを皿に入れてきて、丸いテーブルを囲みます。その時に知っている人同士で固まらないようにと言われ、私たち6人は、3つのテーブルに分散しました。私の隣には、開会式の時に通訳をしてくれたNさんが来てくれて、今回も通訳をしてくれました。そうしたら、Nさんの隣の方が、今回のホスト役の文化大臣と昔文化省で一緒に仕事をしていたといい、ジャーナリストで、映画評論家でもあるというその方が、自分が編集長をしている雑誌を持ってきて、その中に黒沢明の追悼文があると言って見せてくれました。書いたのは、ご本人です。日本映画が大好き、中でも黒沢明を非常に尊敬しているといいます。黒沢の写真が入っていて、フランス語の文章が載っています。「これをぜひ日本の人に渡したかった」と言って、もうあと3冊しかないのに、その1冊を渡してくださったのです。私は、藤原智子監督へのお土産にしますと言って持ってきました。これから、藤原さんにお送りすることになっています。

その方が、もう一冊キネマ年報らしき分厚い写真満載の冊子をくださいました。監督、プロダクション、俳優などのページがあります。これを持ち帰って、翌朝大使夫妻にお見せしたところ、大使がこう言われました。「アフリカでは、体重が重いほうが価値があるんですよ。この年報には、俳優のところに体重が載っていますよ」と言われて、開いたところには、50歳ぐらいに見える女優さんのプロフィルには、体重95キロ、と書いてあるではありませんか!

「メタボ」など全く問題にされないばかりか、体重が多いということに価値がある! 言われてみたら、下半身が、どっしりしている女性が大勢だということに気付きました。

日本では、少子化が問題となっていて、ブルキナでは、産児制限が問題になっています。リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(http://www.kaigamori.com/jyourei/what/repuro.html)の問題として、先進国と発達途上国とは、反対方向を向いて努力していることになります。

 閉会式で、先の黒沢の追悼文を書いたという男性にまた会いました。私はこの方は、自分と同じぐらいのお年だと思って年齢を尋ねたら、53歳といわれてびっくり! 17歳も違うのでした。それだけ、私は苦労が少なかったのだと思いました。そして、この閉会式では、彼に挨拶をしに来る人がたくさんで、いかに彼がこの分野で有名な人なのかがわかりました。いただいた2冊の冊子は、どちらも、彼が編集長として作っている冊子でした。

アフリカの女性たちは、髪の毛をいろいろな形にして、おしゃれをしています。三つ網を何百本も作っている人に聞いてみました。すると2週間ぐらいに1回結いなおすそうで、1回には、2時間ぐらいかかるとのこと。友達にしてもらう人もあるけど、自分は、専門の所でしてもらっているとのこと。ストレートパーマをかけている人がたくさんいました。かなりの高温が続いているのに、2週間髪を洗わないというのは、大変なものだと思いました。3月の平均気温が、40度。夜もずうっと冷房をつけておかなくては、汗で目覚めてしまうのです。冷房が嫌いな私でさえそうでした。

・村田参事官宅でのお別れパーティー
 最終日、3月8日、ワガドゥグの空港から発つのは、23:25でしたから、クドゥグでの「女性の日」の行事が終わって公邸に戻ってシャワーを浴びてすぐに最後のパーティ会場に行きました。そこは、今回の上映を企画して、全面的に取り組んでくださった村田参事官のお宅でした。≪その6≫でご紹介した文化大臣のお宅の隣が女性大臣の公邸、その隣が村田さんのお宅です。文化大臣の公邸と同じぐらいの広さがあって、芝生の庭には、ヒョウタンの形をしたプールがあります。アフリカではクーデターがよく起こり、その際には邦人が大使館、公邸、館員宅に避難することもあります。そのような場合は断水、停電になることが多く、避難した邦人の飲み水、生活用水を確保するためにはプールや発電機、備蓄燃料が重要とのことです。プールの水は飲料水にも使えますし、水洗トイレにも使えます。村田さんはクーデターで治安が悪化し、大使館を閉鎖した中央アフリカ共和国にいたこともあり、家を探す際にこのような点も考慮したそうです。

 村田さんの家族は、お連れ合いがミッシェルさんというフランス人で、もう一人[ユニット]という名前の大きな犬がいます。この家の外交官という感じで、客が行くと、まずユニットがしっぽを振って迎えに出てくれます。ユニットをなるべく一人だけにしないように、ミッシェルさんが、途中で帰られたりしていました。

二日前の文化大臣公邸でのパーティーの時にみんなで村田宅に集まってそこから歩いて行ったので、どんなお宅なのかはわかっていました。でも、この日は、5時に始まるということなので、まだ日が差している中、裏庭の会場に行ってみたら、うわさに聞くプールがあって、そのほとりに用意されたテーブルに次々に料理が運ばれてきます。かき揚げてんぷら、ちらしずしなどがあります。ちらし寿司は、村田さんが作ったといいます。「すし太郎に乾燥した具ですから作ったとは言えません」と謙遜しておられましたが、いやいやそんなことはありません。ご飯を炊いて、すし飯にして、具を混ぜて、卵焼きなどで飾るのですから。てんぷらもすしもとってもおいしかった!

参加者は、大使館の方々8人のほかちょうど日本から来ている総務省のお役人、台湾から仕事の関係で来て住みついている方や、外務省アジア・アフリカ・太平洋・中東局長夫妻、ミッシェルさんのお友達親子などなど、20人ぐらいで言葉の壁に阻まれながらもなんとかいろいろな話が聞けて、楽しい時間を過ごしました。途中で、アスパラのバター炒めが出てきて、驚いたのですが、それは、台湾の方のお宅の庭から取ってきたというのです。私にとってのアフリカは、14年前に観光で尋ねたケニアだけなのですが、ナイロビで、野菜を食べたという記憶がありません。毎日肉ばかり出てきてうんざりしたという記憶です。ところが、今回ブルキナでは、いろいろな野菜を目にしました。頭の上に大きなボールを乗せて売り歩く姿は、どこにもありますが、その中にニンジン、イチゴ、玉ねぎなどが乗っているのです。イチゴがとれるのは、アフリカで唯一だとのこと。それは、地下水が豊富だからだそうです。村田さん宅のプールも、60メートル掘ったら出てきた地下水とのこと。ワガドゥグ市内を走っていると、5カ月も乾季が続いているというのに池の水があって、そのほとりに畑があったりしました。

この時の参加者で、ベアテを見た方々からは、一様に「素晴らしかった」「勇気をいただいた」などの感想をいただきました。その日の午前中女性の日の行事でも、その前日の閉会式でも私たちをみると寄ってきて、同じような感想を述べてくださる方がたくさんあって、本当に来てよかった、この映画を見て戴けてよかった、と思いました。

ナイロビとは、緯度があまり違わないのに風景はずいぶん違っていました。こちらのほうが、緑が多い。そのためか、すんでる動物も違います。ところによって「象が出るから注意!」という標識が立っていたりしましたが、象を見ることはないし、キリンや、シマウマはいないということでした。たくさんいたのが、頭から胸にかけては黒くて、あとのところは白いという「山羊」だとばかり思っていた動物が、実は、「羊」だとのこと。それから、牛の背中にこぶがあって、ラクダと同じように油をためているとのこと。この牛が、少し小さめでした。飛んでいる小鳥たちも、小さいのです。雀らしき鳥が、こちらの雀の半分ぐらい、ハトは、4分の3ぐらいの大きさです。花は、ブーゲンビリアが圧倒的ですが、そのほかに沖縄で見かける木に咲く花がたくさんあって、風景としては、沖縄を思わせるところがいっぱいでした。人々が、攻撃的でなく、「ボンジュール」と声をかけるとだれもが、笑顔で「ボンジュール」と返してくれ、それも、沖縄を思わせてくれました。大使夫人の寛子さんは、沖縄の方で、彼女も「沖縄と似ていてうれしい」と言っておられました。

村田さん宅のパーティでは、串に刺した焼き肉がいろいろと出てきました。羊など美味しそうだったのに、その日の昼食が3時過ぎだったので、しかも、最後にアフリカ料理が食べたいとリクウェストしたら、これが、とんでもない分量なのです。イモをすりおろしてふかして固める(タロイモといったかな?)、そこへソースがかかっているのですが、このソースがおいしい!オクラソースとか、トマトソースとかがあります。お米も取れて、ご飯にも、これらのソースがかかっているようです。この昼食がおなかにこたえて、村田さん、お肉には手が出なかったのです。ごめんなさい。

市場に行ったときに、私は、乾燥オクラを買ってきました。オクラソースを作ってみるつもりです。

最後に私と宮嶋さんが、この1週間の夢のような生活を保障してくださった皆さんに、深く感謝の意を表現して、お別れとなりました。この時私は「竜宮城のような1週間でした」と表現したのでした。

そして最後にSさんが、空港まで送ってくださったのだけど、そこで、トロフィーが引っかかってしまって、Sさんが持ち帰って、直後に帰国される大使館員の方が持ってきて、送ってくださり、私の手元に届いたのでした。周りの人に見てもらっていますが、とても素敵なブロンズ像で、「トロフィー」という言葉から想像するのとは違う芸術作品という感じの女性戦士の毅然とした像なのです。製作委員会の皆さんに見ていただける機会を楽しみにしているところです。

長い長い報告にお付き合いくださって、本当にどうもありがとうございました。




奥州市議会、自民党零

2010,2,27      於、まえさわふれあいセンター

27日は、岩手県奥州市に日帰りで行ってきました。昨年、11月に「シロタ家の20世紀」の上映会で行ったときに、女性団体の皆さんと会食をしたのですが、その中の一人が、奥州市議で、3月14日投票の市議選に立候補するにあたって、私の話を皆さんに聞いていただくことで、女性たちを力づけたい、との申し出でがありました。私は、喜んでお受けして行ってきたのでした。選挙応援という形ではなく、あくまで、超党派の方々に私の話を聞いていただくという形だったので、かなり気楽に私のしてきたことや、思いを語ってきました。

ここで一番驚いたことは、34人いる市議会に自民党は〇だということです。日本にそんなところがあったのか、と思われるのではないかしら? 理由は簡単。小沢一郎さんの生まれ故郷だからです。今回の西松建設の献金問題で、胆沢(いさわ)ダム、という名前が、よくマスコミに登場していましたが、この胆沢ダムが、奥州市にあるのです。奥州市というのは、最近の合併でできたところで、前沢、胆沢、江刺、などが合併したのでした。胆沢ダムは、小沢ダムとか呼ばれているとの報道もありましたね。

この奥州市とのご縁は、今、萌実の夫になっている工藤茂広さんが、ここの出身だということで、紡いでもらったご縁です。今回たまたま工藤カップルが、札幌から岩手入りしていて、この日この会場に二人でやってきました。工藤さんの父上まで一緒に!

 ここで一通り私の話が終ったときに、萌実に一言しゃべってもらいました。「今の話で、母がどんな人柄か、少しわかっていただけたと思うのですが、この人と一緒に住むのは大変なのです。人まね子ザルのジョージそのもので、好奇心が強くて、私が、高校の頃、ボーイフレンドと電話で話していたら、もうひとつの電話ですべて聞いていたことがあります。そんな母と大学に行って一緒に住まなくなって和解しました。いちばんよかったのは、3年間アメリカに行っていた時でした。母とは、《遠くにありて思うもの》ということになりました」と言っておお受けしていました。

その後いろいろな有意義な質疑があって、2時間の時間があっという間に過ぎて、その後関係者の皆さんと萌実カップルとお茶飲み会で、自己紹介をしあいました。この自己紹介が、とても有意義だったのは、今回の話を私に繋いでくださっていた玉山幸芳さんが、とてもユニークな方で、アメリカで始まっていたペアレントプロジェクト(PPJ)を日本に持ってきて、岩手県じゅうに広めているという方です。親の在り方、をテーマにしているグループなので、私ともすっかり方向が同じ向きになっていると思えるのでした。

 後日談ですが、関笙子さんは、3月14日の市議選に当選されました。ますます活躍していただきたいことです。奥州市には、これで3回目になるのですが、関さんがお住まいのまえさわには今回が初めてだったので、参加した方のほとんどは、私とは初対面でした。民法改正の話などは、「寝耳に水」という感じで、ほとんどの方は、うなずくこともなく、理解に苦しんでおられたようでした。




  女政のえん第13回、堂本暁子さん

2010,2,20    於、東大駒場ファカルティハウス

千葉知事を去年の4月に辞めた堂本さん、今は、売れっ子真っ最中です。何と2月20日(土)は、午前中東大本郷、午後1時20分から、千葉大、そして、4時には、東大駒場で「女政のえん」。こんな過密なスケジュールです。千葉大のシンポジウムが終わってから「そこを5時に出れば間に合うかしら?」と言われたのが、数日前です。「4時に始まります。5時に出るなんてトンでもありません」と言ってしまいました。世話人一同かなり心配していました。

すると救世主が現れました。佐藤百代さん! 元船橋市議会議員、そのあと、堂本暁子さんの私設秘書を務めていた方が、前日の夜「参加します」のメールをくださった。それを見た世話人の西山千恵子さんが、百代さんと知り合いで、連絡を取ったら、千葉大のシンポジウムに百代さんが参加することが判明。そこで、ちゃんと時間に到着するように途中で引き上げることを依頼。百代秘書さんは、堂本さんと一緒に見事に15分も前に到着してくれたのでした。

「結婚するより離婚するほうが大変、という話をよく聞きますが、政治家になるよりやめることのほうが大変」と話を始めた堂本さん、「落選して辞めるのは嫌だし、逮捕されてやめるのもいや、・・・・後継者を見つけて引き渡してやめるというのが理想だったのだけど、その後継者が、落選してしまって…」その後フリーになって行ってみたかったミクロネシアのヤップ島に行ってきたことの報告がありました。実に澄みとおった海岸にあるサンゴ、バナナやヤシの木に囲まれた木の皮や草のようなもので作ったホテルが印象的でした。そのホテルの女性主人がこう言った。「日本の神風特攻隊の若者の母親はどんな思いだったでしょうね。世界中の母親が戦争をやめさせる努力をしなくては」

「新たな公」という言葉はこの頃そこここで使われていますね。そのことの意味がわかりました。千葉県には、14の圏域があり、その一つ一つに「中核地域支援センター」があります。ここは、あらゆることの相談を受けています。縦割りを排して、すべての相談を受けているために家じゅうが、生活困難家庭であるという実態があぶりだされてきている、ということを毎日新聞の野沢和弘さんが、書いていたことがありました。一人が知的障害で、その姉は、精神障害で、その母親は、認知症、というような家庭が、今までだったら、別々の相談機関に行かなくてはならなかったのに、この支援センターができたために一括して支援できるようになったという記事でした。実は、この支援センターというのが、NPOとか、民間の団体とかと行政がつながりあって運営しているというのです。24時間の相談体制を行政だけで運営するのは、とっても無理。でも、民間の力を借りて、一緒にやるからこそ可能になったというのです。これが、「新しい公」ということなのだそうです。

これってちょっと胸が痛むのは、民間の安月給に頼っているということなのでは? 堂本さんに聞いてみることにしますね。

「健康福祉千葉方式」というのがあります。これは、行政が、まっ白白の紙しか出さないというのが基本だということです。どこでも、行政が、基本的な提案を出して、審議会などで、少し修正をして作る、というのが一般なのに、千葉では、「白紙の中から作る」ということを基本にしているというのです。そうだったからこそできたのが、通称「差別禁止条例」なのでした。子どもサミットなんていうのを白紙でやってみると、子どもたちは「公園なんかいらない、自分たちで好きなように作っていける場所がほしい」というのだそうです。

会場からの質問に答えて、「今知事だったとしたら何がやりたいか、と言われたら、ただ、白紙の中から、皆さんの声に耳を傾けてその声を形にしていくことでしょう」と言っておられました。

また、会場からこんな声が上がりました。「千葉県で、男女平等の副読本を作るということで、そのお手伝いをしたものなのですが、その後それがどうなったのか全く分からないままなのです。このことをぜひお聞きしたいと思いました。」そうしたら、この副読本は、原稿が出来上がったまま、男女平等条例が、何回も否決されてしまって、日の目を見ないまま眠っている、という答えでした。すると、会場に来られていた原ひろ子さん(堂本さんのお友達で、お茶の水女子大学名誉教授でしたかしら?「子どもの文化人類学」の著者)がこう言われました。「それをぜひ探し出して、とっておきましょう」堂本さん「気がつかれないように探して、見つかってから、なんとかします」との答えでした。

参加者46人のうち大部分が、3500円会費の懇親会に残って、また一人ひとりの自己紹介かたがた、堂本さんの話の感想を述べ合って、それが終わった後も、そこから帰らずに、いろいろな語り合いが続いていました。

ひざの具合が悪いというのに、「這ってでも行くわ」と言ってくださった堂本さんのその心意気に、皆さんが勇気をいただけたひと時でした。




ベイシックインカムって何?

2010.2.6.    於、アートフォーラムあざみ野(横浜)

 6日の午後は、横浜のアートフォーラムあざみ野に「ベイシックインカム」の話を聞きに行きました。雑誌[WE]の編集部とマザーズジャケット(しょうがい児をもつ親の会)が主催者です。何と100人がひしめきあっていました。関西からも北海道からも、結構遠くからの参加者がたくさんです。

 [WE]にとてもわかりやすいベイシックインカム(BIと略す)の解説記事を書かれていた堅田香緒里さんが、資料をもとに実にわかりやすく語ってくれました。そもそもBIとは「すべての個人に、その基本的必要を満たすに足る所得を、無条件で保障する政策構想」ということで、「すべての個人」[無条件]というのがキーワードです。

 これに対して、「それでは、働く意欲がなくなる」といわれるが、生活保護は、働いて収入を得るとその分だけ差し引かれるので、そのほうが働く意欲がなくなるのでは? BIは、働いた分だけ上積みされる。また、働くという概念そのものが広がる。たとえば、「絵を描く」「音楽を奏でる」[詩を書く]などもそこに入れるのでは?

 生活保護の問題は、「無条件」ではないので、なんと必要な人の1割か2割ぐらいしかもらえていない、という現状があります。役所の窓口でもらえないようにしていて、餓死者が出たことは、ご存じの通り。そればかりではなく、役所に申請しない人がたくさんでもあります。役所に行って屈辱的な対応をされた人たちがたくさんいるので、その人たちからその現状を聞いて身を引いてしまう人もあるのでしょうし、そもそも「人の力」を借りたくない、そんな恥ずかしいことはしたくない、などと、自己規制してしまう人もたくさんなのでしょう。「迷惑をかけたくない」これが、日本的な考えの根本にあるからだと思われます。誰かが一緒に申請に行ってくれると通りやすいということも今では、派遣村の人たちの活動で、広まってきました。

 フリーライダーという言葉があります。タダ乗りということだそうですが、このBIについて、フリーライダーという言葉によって反対する人があるそうです。これについて、ふつうは、働かなくてももらえるということで、使われているのですが、女たちは、家の中での「労働」を男たちがしていない(統計によると、家事労働の時間が、男は、女の6分の1とのこと)ということに対して「男こそがフリーライダー」と言っていました。質疑の時間に男性が立つと「フリーライダーですが」と前置きして話しだします。

 性別役割分業は、労働市場での男女賃金の不平等を生み、家の中では家事労働の不平等も生んでいる。この不平等を解消するのにBIが有効だという人と、反対に助長するという人がある。すべての個人がBIによって収入があるようになると、無収入だった時と比べて、家の中での男女が対等に近づき、DVなどに対して離婚がしやすくなるという説と、収入が保証されるからということで、専業主婦が増えるのでは?という反対論がある。

 介護労働の賃金が低いのは、介護が、家事労働の一部だからで、以前は、「タダ」だった労働だから。BIによってその価値は、相対的には上がるだろう。BIは、家事労働に対する報酬ではないのだが、家事労働だけしている人にも収入が発生するから。

 「無条件」ということが一番大きなことだと思いました。条件を付けると、その条件を満たすかどうかという「審査」があり、ここでいろいろなことが発生してしまいます。金持ちからは、たくさんの税金を取るということで、「金持ちにはやらなくていい」という人たちへの回答になるのでは?「金持ちからは取らない」とすると、子ども手当のときに問題になっているように、どこからが「金持ちか」という、その引かれた線を維持するための膨大な費用がかかります。

シングルマザーの方々が、語ってくれました。子どもがいるというだけで、働く場合にはかなりの制限を受けます。これは、実は、父子家庭も同じです。でもなぜか、平均収入となると、父子家庭のほうが上になるのですね。それは多分、女性のほうが、正規職員になれる確率が低いというような、社会的な原因があるはずです。一人の方は、子どもと二人暮らしで、その子どもが不登校。だから、その子どもに関わる大人全員が「保護者」という感じで、生活しているとのこと。子どもをめぐってつながりができている。

 財源は?については、いろいろの構想があるが、総じて、税金を上げるということになる。消費税、所得税、環境税、などなど。その税金を金持ちからたくさんとるようにすれば、より平等になるのではないか。一人月8万という数字が上がっていた。5人家族だったら、所帯収入が40万となる。ここに「固定資産税」がないのは、「土地はすべてタダにする」という考えがあるからのように思いました。その方法については、聞けませんでしたが、私は、小さいころから、「土地代」というものがとても不思議でした。だから、「土地がタダ」という考えは、それを実現するための方法など考慮せず、すとんと落ちてしまうのでした。

 最後にこれから、BIの全国組織を立ち上げようとしている男性がまとめてくれました。「福祉国家を批判するツールとして、BIを広めていきたい。」ここでいう「福祉国家」とは、「分断される社会」と言います。生活保護は、「かわいそうな人」に対する手当ですから、誰が「かわいそう」なのかを誰かが判断し、ここで分断します。年金は、かけた人しかもらえない、という形で分断する。

 私が会場から手を挙げて「大雪の新潟から出てきました」と前置きをして質問したのですが、それを聞いて終わってから「僕も新潟です」と言ってきた男性がありました。小池克弥さん。「12月の湯浅誠さんの講演会のときに、名刺交換をしましたね」と言われて思い出しました。この時再度いただいた名刺には、「週刊金曜日読者会、新潟ベイシックインカム研究会」と書かれていました。大きな全国チェーンの店に勤めていて、転勤で全国を歩いている方でした。札幌で、自然食や、原発反対をやっている橋本まほろさんを紹介してくれましたが、どうやら、去年の11月に札幌で萌実に連れて行ってもらった自然食関係の集まりであったことがある人でした。小池さんは、中山祥世さんと「生きさせろにいがた」でつながっている方でした。

 全国各地で、いろいろな活動をしている人たちがBIに思いを託しているようで、何やらうごめいているマグマのようなものを感じて戻ってきました。

ベーシック・インカム入門 (光文社新書) 山森亮 (新書 - 2009/2/17)を私も注文しました。

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下記は、その後に出した補足です。

 先日のベイシックインカムのフォーラムで、主催者の一人としてあいさつされた中畝治子さん(マザーズジャケット)のお話がとっても素晴らしくって、共感したので、終わってからご挨拶に行きました。そうしたら、なんとその方が、「あなたと会ったことがある。あなたの出版記念会で」というのです。「未来をはぐくむ大地から」という25人の共著が1993年に出版されたときに、東京に住んでいるしょうがい児を持つ親二人が、神田のホテルで出版記念会をしてくださったのでした。

 帰ってきて、報告を流そうとした時、私が感動した中畝さんの言葉が思い出せなくて、連絡を取り、彼女がメールで、くださったものをここにご紹介しますね。中畝夫妻は、「障害児もいるよーーひげのおばさん子育て日記」(フェミックス刊)というとっても楽しい本の著者です。

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 障害児の母親は弱い立場に立たされています。障害が重ければ働くことは困難です。いつも、とても不安です。今の日本は弱者をどんどん切り捨てる社会になってしまいました。そんな中、ベーシックインカムという考え方に出会い、すばらしいと思いました。今までのように、貧しい制度の下、弱い人同士が分断されることなく、つながっていけるからです。自分だけがお金持ちになろうなどというセコイ考えではなく、皆が幸せにならなければ安心できるよい社会にならないとわかっている人たちが連帯できるからです。今日、BIについて学び、話し合ったことを私たちがつながっていくための力にしたいと思っています。

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 中畝夫妻は、二人とも絵描きさんで、家事育児も半分ずつ、仕事も半分ずつという今でいう「ワークシェアリング」を早々と実践されてきました。翔太君という今は亡き重度のしょうがいをもった息子さんと17年間一緒に暮らしてきたというキャリアです。上記のメールの下にこんな文章が付いていました。

 >十数年前、子供たちが保育園に行っていたころ、黒岩さんの著書にとても励まされ、勇気付けられました。それで思い切って神田まで出かけていきました。あのころは必死で生活していました。その黒岩さんからお声をかけていただき感激です。これを機会にどうぞよろしくお願いいたします。

    中畝治子





認定子ども園を南魚沼市から萌気会が受託

2010,1,29    

 幼保一元化の入り口である、認定子ども園を南魚沼市では、公設民営で作ることになり、去年、公募しました。2年前の3月に浦佐幼稚園園長を定年退職した坂西(ばんざい)美和子さん(知的しょうがいしゃ耕輔君の母で、萌気園事務長茂男さんの妻)が、園長を引き受けて、この認定子ども園の運営にあたろうということで、2年前から様々な準備に取り掛かっていました。昨年11月が、公募の締め切りで、分厚い書類を作って市に提出、もうひとつすでに認定子ども園を経営しているところが応募しました。この1月19日には、査定委員20人ぐらいに、双方が、プレゼンを行って、結局萌気園に軍配が上がったのでした。3月議会で承認されて、正式に決まるのですが、一応市として、もえぎに卸すということを29日に連絡がきました。プレゼンには、理事長である黒岩卓夫と、坂西美和子がいって、萌気会として、「安心して死ねる地域作りをやってきたのだが、安心して産み育てる地域にもしたいので、今回は、子ども園に取り組みたい」と卓夫が話し、美和子さんは、保育の理念を語りました。

 坂西さんの保育は、子どもたちの意思を一番大切にして、さまざまな決定を子どもたちに任せ、失敗することも子どもたちの大切な「権利」というところでやってきました。浦佐幼稚園の保護者たちは、この保育を気に入って、今回も自発的に「美和子さんの保育を希望します」という署名活動を展開して、800筆ぐらいが集まっていました。そんな後押しもあっての決定だとは思いますが、もう一つ名乗り出ていたところが、全く対称的な管理保育をしているところだそうで、井口市長、遠山教育長、南雲学校教育課長など市の幹部が、美和子さんの保育と、萌気園の医療的バックを選び取ってくれたということはとても大きなことでした。新しくできる子ども園は、浦佐地域にできるので、相手は、30キロぐらい離れている塩沢地域にあるという地域性もあってのことなのですが、今回の子ども園は、0歳から、学童保育まで、今ある浦佐保育所と、浦佐幼稚園を統合して来年の4月にオープンするのです。30日夜は坂西夫妻、私たち夫婦とその関係者が集まって、お祝い会をしました。

 場所は、浦佐幼稚園の裏、元交通公園があったところです。設計は、コンペでドーナッツ型の園舎に決まっています。

 美和子さんは、7,8月、選挙応援に新発田事務所に来てくれていたので、事務所で出会っている人は、彼女の年が、62歳だとはだれも思わなかったようです。50歳前に思う人もいるぐらい若々しくて、元気です。祝賀会は、みんながそれぞれ、夢を語り合って、盛り上がりました。

 いつからか、医療法人が、保育園を運営することができるようになったそうで、そのことを市の職員が、見つけてくれたために、学校法人、社会福祉法人を立ち上げずに済んだので、書類作りは、とっても楽になりました。でも、保育に懸ける意気込みを文章に表すために、何回も集まりをもって心をこめて作り上げてきただけに、その努力が報いられたという満足感が皆の中にしっかりと息づきました。

 海映のところの次女夏央が、来年は、3歳児として、この子ども園に入園します。海映は早速、部屋にテレビを置かないでほしいとか、おやつは手作りで、などと美和子さんに「陳情」しそうな気配です。




「ベアテの贈りもの」製作委員会

2010,1,27    於、東京国際文化会館

 27日は、自立支援協議会の後、上京しました。「ベアテの贈りもの」のイタリア語版の字幕を作ってくれたミラノ在住の石橋典子さんが、お母さんの一周忌で帰国しているので、みんなで集まろうということになったのでした。中心メンバー6人が、麻布の国際文化会館で、夕食会でした。イタリアでは、すでに3回の上映会が開かれ、私は、その第一回に参加したのですが、ローマでの上映会は行くつもりにしていたのに、母の具合が悪くて、キャンセルしたのでした。そうしたら、ちょうど上映会当日に倒れて、意識不明になり、12日後に亡くなったのでした。

 石橋さんにとっては、赤松さんや、監督の藤原さんは、ほとんど親の年齢です。私にとっても、子どもとほとんど同じ年の石橋さん。そんな若い方が、女性の活動に関心を持ってくださることが心強く、頼もしいので、出かけて行ったのでした。

 今回一番興味深かった話は、カナリア島に日本国憲法第9条の碑があるということでした。いや、その碑があることは、すでに「シロタ家の20世紀」の中に取り上げられています。今回、その碑ができるいきさつを聞くことができました。カナリア島は、スペインの南に浮かぶアフリカに近い島です。

 1982年、スペインがNATOに加入した。それに対する反対運動が、国中を覆った。ところが、EUに加盟するという悲願を達成するには必要と考えられて、カナリア島民の意思(戦略的に考えて、この島は、基地にされそうだということもあって、島を挙げて反対した)はつぶされてしまう。その時、この島にあるテルデ市の若い市議会議員だったマリアさんが、反戦と平和の意思を記念碑として残そうと提案。市議会を通ったものの、いろいろな経過をたどって、広島・長崎広場に9条の碑が建ったのは、1996年だった。マリアさんも、市長だったサンチアゴさんも、「日本人に感謝しています。武力で問題は解決しないと憲法に明記した日本人にです」と語っているという。

 「シロタ家の20世紀」のナレーターをした宇野淑子さんが、現地に行って取材をし、2009,11月号の‘潮’に書いた記事によりました。

 

 

 

南魚沼自立支援協議会居住部会

      2010,1,27   於、南魚沼市ふれ愛支援センター

 27日は、南魚沼自立支援協議会居住部会でした。

 南魚沼福祉会(南魚沼全体をカバーする半分官製の福祉法人)が、障害者のグループホームをこの4月に立ち上げるという報告でした。このGH(グループホーム)は、南魚沼の二つ目のものです。ひとつ目が、5人、今回のは、7人の定員です。すでに21人もの応募があるといいます。六日町坂戸の旅館が閉鎖になったところを借りるので、改装がかなり楽のようです。このGHは、朝、6時から、10時頃までと、夕方4時ごろから、10時まで職員がいるだけで、昼間は、日中活動の場所に行っているし、夜中は寝ているから職員がいない、というところです。

 この居住部会に参加している重度のしょうがいしゃのお母さんたち二人は、「夜人がいなくなるようなところには、重度の子どもは預けられません」と口をそろえて言います。「子ども」といってもすでに30歳ぐらいになっている人たちで、兄弟が、結婚して同じ家にいるとどうしても縮こまってしまっているというのです。

 桐鈴会で、重度の人たちが入れるケアホームを今年中に作りたいと思っていることに期待が高まっていました。

 最近、企業が、障害者雇用を進めてきているという話がありました。南魚沼に接している魚沼市に魚沼学園という知的しょうが児の施設があるのですが、そのすぐ近くに新和コンクリートという土建業の会社があるのですが、その会社が、数年前からわさび畑(というより、田んぼのような感じだそうです)を始めており、ここにしょうがい者を雇うということで、この4月から、魚沼学園の人たちが数名雇用されることになっているのだそうです。就労継続A型という自立支援法の新体系によるものとのこと。GHや、CHができて夜泊る所が確保されても、日中いるところがなくては、かなわないので、企業が、そういった取り組みをしてくれていることはありがたい、ということで、関心が集まっていました。

 

 

 

「こんにゃくおばさん」

2010,1,26     於、浦佐幼稚園

 街を歩いているときなどに「こんにゃくおばさん」と呼びかけられることがあります。去年の1月に浦佐幼稚園で、こんにゃくを作ったことからです。今年は、浦佐幼稚園から、年賀状が来ました。子どもの字で「ことしもこんにゃくをつくってください」と書かれていました。さっそく26日に行くという返事を出しました。

 26日は、ちらちら雪が降っている中を、いろいろな道具を車に詰め込んで出かけました。今年は、いつになく、こんにゃくが不作でした。一番大きな芋でさえ、直径が10センチぐらいにしかなりませんでした。いつもなら、20センチぐらいまで大きくなるのですが、今年は、7月8月を選挙で新発田に行きっきりだったということも影響しているのかもしれません。夫に草取りを頼んで行ったのですが、帰ってきたときには、雑草の中にこんにゃくの「木」が埋まってしまって見えないぐらいでしたから。

 10時、みんなが遊戯室に集まってきて、真剣なまなざしでこちらを見つめています。泥がついた芋を希望者に洗ってもらい半分に切って中を見てもらいます。まっしろだけど、少しピンクがかっている部分もあります。本当は子どもたちに皮をむいてもらいたいのですが、たぶんこんにゃくのあくによって手がかゆくなるので、免疫ができている私がむきます。そして目方を計ったら、300グラムぐらいしかありません。それに合わせて、水、こんにゃくソーダを計ります。皮がむけたこんにゃく球を水とともにミキサーにかけるとピンク色に変身します。これを15分おいてから、火にかけてこねまわします。これを全員にやってもらいました。子どもから子どもにしゃもじを渡すときに私が素早くかきまぜて焦げないように気をつけます。子どもの力では、かき混ぜることだけでも結構大変。火が通ってくるとピンク色がだんだんに灰色になってきます。すっかり灰色になると火からおろして60度まで温度を下げて、こんにゃくソーダの水どきを入れてかき混ぜ、バットに流し込んで冷まします。その後、熱湯で20分加熱してあく抜きをして終わりですが、私は、孫の小学校に行かなくてはならなかったので、出来上がりは見届けずに帰ってきました。その日、体育の授業で、クロスカントリーがあり、孫の志重は、ママと一緒にやりたいということで、海映が付いて行ったのですが、私がその後バトンタッチということになっていました。

 今回は、園長が、声をかけたとかで、二人の保護者が赤ちゃんを連れて見に来ていました。「こんにゃくって、イモと同じものなのにどうしてカロリーがゼロなのですか?」と質問されました。とっさには、わからなかったのですが、保母試験の勉強で習ったことを思い出しました。こんにゃくマンナンという炭水化物は、ゴボウなどの繊維と同じように、消化酵素が、人間にはないために全部そのまま出てきてしまう。だから、カロリーがゼロだということを。それゆえ、「こんにゃくは、おなかの掃除機」といわれるのですね。保母試験がはじめて役に立ったと思いました。

 子どもたちが食べるところを見届けられなかったことはとても残念でした。




新発田女性集会

2010,1,24      於、黒岩たかひろ新発田事務所

 新発田事務所での女性集会にお招きいただいたので、他にも色々とあったのだけど、それらをキャンセルして出かけました。3か月ぶりの事務所です。新しい秘書さんが、かいがいしく働いてくれていました。鈴木智恵子さん、この方は、事務所のすぐそばのアパートに住んでいる方で、この1月21日から勤め始めたということでした。以前、ウグイスとしてかかわってくださり、又、コンピューターの打ち込みなどでもお世話になっていた方です。宇洋が、「新発田の方に秘書になってほしい」と言い続けていたことが実現したのでした。新発田在住の初めての秘書さんです。

 11時半からというのに、1時間ぐらい前に着き、大橋後援会長などは、すでに来られていて、手作りのお稲荷さんや佐渡(出身地)からのあらめの煮物など、持ってきてくださっていました。ボランティアで、昼食つくりに来てくださっていたのは、プロのシェフ佐藤さん(男性)です。韓国風雑煮が、この日のメインでした。とってもとっても美味しいものでした。

 元保育者だった斎藤さん、浮須さんと、保育の話などに花が咲いているうちに、みなさんが来られて、総勢20人ぐらいで、はじまりました。いつものように美春さんが、司会を務め、皆さんを盛りたてます。

 宇洋のあいさつで、女性の力があって当選できた、というので、「やっと女性に認めていただけたのね」と混ぜ返したら、こう言っていました。「これまでいつも女性より男性のほうがずうっとたくさん入れてくださっていたのだけど、今回は、男性との差が、たった1%となったのです。民主党自体が、女性より男性のほうが支持者が多く、平均6〜7%の差が付いているのです。それとの比較で、僕の場合は、かなり女性の支持が高かったことになります」と。

 乾杯をしてから、一人ひとりの自己紹介。これが結構楽しいものでした。大橋さんと「足湯仲間」だという方が、数名あり、皆さんここに来てみて足湯仲間が沢山であることに驚いていました。足湯って、結構親しくおしゃべりができるところみたいですね。そうして、親しくなると、ころ合いを見て大橋さんが、誘うのだそうです。さすが後援会長ですね。

 又、この間、浦佐を訪ねてこられた方々もたくさんでした。「舌切雀」の劇団の方も何人か。1月19日の新潟日報下越版にその活動が紹介され、それによってまたオファーが来ているとのことでした。この劇団の主演女優さんも来ていて、楽しい話をしてくれました。「私の住んでいるところは、みんな稲葉ばっかりのところで、朝も、夕方も『いなばおさむーー』とくるばっかりで・・・・」宇洋が「もしかして、修ではなくて大和では?」と言ったのでみんな大笑い。あまりに話術が巧みで、誰もその間違いに気がつかないのでした。

 一通り終って、○×ゲーム。宇洋編、家族編、事務所編、政治編と進んでいきます。政治編となって公職選挙法のことになったら、圧倒的に強いのが、県議佐藤浩雄さんの妻恵美子さんでした。「秘書が刑事罰を受けたときに、議員が辞職しなくてはならないのは、連座制のみである」というのは、皆さん×をつけたのだけど、恵美子さんは○でした。「実は、150000票もいただいているので、そういう方々からの支持に対して、やめさせるのは、その票をお金で買ったことが分かる時だけ、というわけなのでした」と宇洋の解説。

 お茶の時間に出てきたお菓子が、皆さんの会費で買ったケーキのほかに古田さんの夫君手作りのフルーツケーキがありました。これがとっても美味しくできていて、みな感激。退職してから、料理の腕を磨いているとのことでした。家族の中での存在感を高めるためとのことで、我が家の夫が、朝食と高校生の弁当を10年間作っていたのと動機が同じだったことにうれしくなりました。

 「宇洋の両親は、今年金婚式である」というのも、○×ゲームの問題でした。実は○で、私の古希と合わせて、すでにそのお祝いのダブルベットを去年子どもたちからもらってしまっているのでした。宇洋「7分の1取られたんです」だって。




りとるらいふアート展

2010,1,21   於、上越市福祉交流プラザ

 NPOりとるらいふ理事長の片桐公彦さんからの末尾のようなお知らせを見てぜひ行ってみようと思ったのは、「狂喜する才能たち?Overjoyed Aritists?」というタイトルに大変ひかれたからでした。

 片桐さんが、木曜日が休日だというので、その日を選んで、21日に志重と二人で行ってきました。高田の駅に出迎えてくれた片桐さんの車で、初めに行ったのは、来年度オープンする予定の「複合型生活支援スペース りとるの家」の建設現場でした。6千万円で買い取ったという土地つきの3つの建物を改装しているさなかでした。それら3つの建物をぶち抜いて、ローカでつなげるのだそうで、いろいろな彼の夢が詰まっていく可能性がいっぱいの建物になりそうな予感がしました。その中の一角が、アトリエになるそうで、そこで活躍しそうな芸術家たちの作品展の会場にそれから行きました。

 上越市福祉交流プラザは、昨年できたばかりで、片桐さんたちも制作にかかわったということで、12月のにいがたフォーラムin魚沼で片桐さんが、コマーシャルしていたものです。もとは、高田盲学校があったところとのこと。最近は、盲の児童がほとんどいなくなって、学年一人だったり、いない学年が続いたりしたので、閉鎖することになったとのこと。このプラザの1階の小さな部屋にあふれるように陳列されていました。たくさんの紙にたくさんの文字を書いている人、この人も、自閉の方というのですが、書いてある言葉の種類が豊富で、1枚1枚が別の内容を表現しています。「この紙を1枚見ても、何も感じないかもしれないけど、これだけたくさんの紙を並べておけば、その世界を感じることができるのでは?」と片桐さん。それから、驚いたのは、壁紙をはがしてそれを素材に蛇や、カメを作っているのです。何年か前に私が尋ねたりとるらいふの古家の壁紙はとうとう全部はがされてしまったというのです。これで作った蛇がなかなかユーモラスです。そのほかに二人ほど、「絵描き」になれそうな人たちの絵が並んでいました。私には、その価値はわからないのですが、自閉症の絵描きさん田中瑞木さんのように、1枚1枚書き方も、材料も全然違う、個性的な絵が並んでしました。「この人たちをサポートできるスタッフとして、美大(長岡造形大学)の卒業生をこの4月から雇用する」とのこと。

 志重のリクウェストで、ラーメンを食べた後、りとるらいふ本部(私にとっては新しいところ)に行き、全員若いスタッフが、志重を見てくれている間、片桐さんとゆっくり話ができて、随分いろいろなことがわかりました。彼が、りとるらいふをはじめて7年ですが、上越市では、存在がすっかり根付いていて、市から学童保育を委託されたり、今回の改装工事に対して、1億円を第四銀行が貸し付けてくれたというのですから、そのかち得た信頼は大変なものです。その利率が3%と聞いてびっくり!利子の返済はどんなに大変だろうか?と、ほとんど無利子で貸し付けていただいている桐鈴会としては、その大変さがわからないでいるのです。そもそもNPOに銀行が資金を貸してくれるというだけで、新潟県初の事だそうです。

りとるらいふについては、HPを参照してね。http://www.littlelife.jp/

片桐さんからのが下記です。
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この度、上越市福祉交流プラザ様http://www.city.joetsu.niigata.jp/lifeguide/fukushi/plaza/index.htmlのご協力により、「りとるらいふ作品展」を開催させていただくことになりました。

来年度オープンする予定の「複合型生活支援スペース りとるの家」の中に開設する「生活介護・就労移行支援事業書 Ki-Ra(きら)」の常設される、障害者アートの可能性を追求するアトリエ「アトリエ オーバージョイ」に所属するであろうアーティスト達や、私たちがこれからの活動に、大変期待を寄せているアーティスト達の作品展です。

皆様、どうぞ福祉交流プラザに足をお運びいただき、「狂喜する才能たち」に触れていただだければと思います。

NPO法人りとるらいふ作品展「狂喜する才能たち?Overjoyed Aritists?」

   2010.01.11-01.31

上越市福祉交流プラザ 1F 情報・展示コーナー

※入場無料です。





ワークセンターあんしん見学記

2010,1,19  於、十日町市NPO法人 支援センターあんしん

 12月7日の昼、長岡駅で、中山祥世さんの紹介で、矢澤篤さんと出会い、昼食を食べながらお話を伺いました。昭和26年生まれ、栃尾にあった普通の小学校に通っていたが、仲良くしていた友達が、見附のまごころ学園(知的障害児の施設)に行ってしまったので、自分も行きたいと「志願」して小学6年のときにそこに入った。中学卒業までいて、カーテン屋に勤めたので、自宅から通うようになった。まごころ学園は漢字を教えてくれなかった。お姉さんに漢字を教えてもらって、免許を取ることができた人もある。いじめにあって6カ月ぐらいでやめたが、その後もスーパーや、額縁や屋、八百屋、ラーメン屋などに勤めていた。

 32歳のとき、酒を飲んで女性に手を出して捕まり、刑務所に入った。そこで、療育手帳があるということを聞いた。親が申請しなければ、療育手帳はもらえない。刑務所から出て、療育手帳を貰った。彼は、一度入っただけで、再犯はなかったらしい。といっても、その後もいろいろな仕事に就いていた。ところが、このところ体の具合が悪かったりして、失業のままになっている。母と長岡で二人暮らしをしているが、仕事がほしい。遠くてもそちらにアパートを借りて通うつもり。ただいま58歳。

 政治についてのさまざまな発言があり、中山さんに、「議員さんを紹介して」と言ったそうで、とりあえず私に紹介、ということになった。マイクを持っていろいろと語ってみたいと言っていた。

 新潟市の自立生活支援センターにも行ったことがあるし、ピープルファースト(知的障がい者、本人の集まり)の会報を持っていて見せてくれた。共通の知り合いがたくさんいることが分かった。

 ラーメン屋に勤めていたときには、ラーメンを作っていたそうで、味について、かなり微妙なことまで言っていたので、かなりの腕なのかもしれない。

 年が明けて、1月19日、矢澤さんの仕事を探す目的で、十日町駅近くにあるワークセンター「あんしん」に行ってきました。中山祥世さんと矢澤さん、孫の志重と4人で行きました。大雪のために、道路がふさがれていたりして、時間がかなり遅くなってしまいました。いただいた地図で、うろうろしていたら、社長の樋口功さんが、出てきて、案内してくださいました。案内されたところは、古い家を改装した工場です。初めにトイレットペーパー工場全体を職員の小山里美さんが案内してくれました。静岡県富士市で作られているという直径が1メートルぐらい、高さが1,5メートルぐらいのどでかい紙のロールから、トイレットペーパーの大きさに巻き取る機械があり、その1,5メートルある長いロールをこれまた機械で、普通の大きさに切っていきます。1本から、13個とれます。それを知的しょうがいを持つ人たちが、箱に入れて次の工程の所に移します。切り取った時にはじっこが出ますが、それを集めて大きなナイロン袋に詰めて一つ50円で売っていました。私たち大人3人は、みんな一つずつこの50円の袋を買うことにしました。というのは、これをティッシュボックスなどに入れておくと、ちょっとこぼれてしまった水をふきとったりするのに丸めて使えるからなのです。キッチンに洋服状になったそれをつるすものも、そこで作って売っていたので、それも一緒に買ってきました。50円の袋は、すべて、「プレゼント」としていただいてきたしだいです。

 トイレットペーパーになって箱詰めされたものが、運ばれてくるとまずは、取り出しの所を三角に折ります。ホテルなどでは、そのようにしつらえているのですが、普通は、出るところが分かりにくくて新しいのを使い始める時ちょっと厄介ですね。そこをちゃんとわかるように三角に折ってある、それがこの「あんしん」の制作物なのです。はじめてそれを見たときに、「心がこもっている!」と感心したものです。それを紙に包んで出来上がりという工程です。

 作業の分担表があって、そこには、職員が青、利用者さんは黄色の名札になっていました。

 さて、今回訪問の主要な目的は、矢澤さんの仕事探しでした。樋口社長にメールを送り矢澤さんの紹介は済んでいました。初めに樋口さんから、「どういう立場での仕事を考えているのですか?」と質問されました。私なりに理解したのは、青の名札か、黄色の名札かどちらですか?という質問だと思いました。それを確認して、「黄色です」と答えました。樋口さんは、さらに「地域で生活することを支援してきているので、矢澤さんも長岡に住んでおられるなら、長岡で探したらどうでしょうか?」といって、具体的に名前が挙がりました。ところが、矢澤さんは、ほとんど可能性のあるところはすでに尋ねているのです。樋口さんから言われたところも訪ねていて、言うことには「できる範囲でする」というところだというのです。私が解説を入れて、「樋口さんは、できなそうなことでも何とかやってみようというリスクを負ったチャレンジ精神がありますよね。そこで、矢澤さんは、ここにアタックしようとしたのでしょう」

 矢澤さんは、これまでいろいろなところで働いてきていて、彼にとっての「地域」と言えば、新潟県全体なのです。なんと、この「あんしん」にも、すでに2回訪ねてきていて、石打ちのロッジで働いたり、ソバ屋でそば打ちをしたりと技能もいろいろあります。そこで、体験入居という感じで、雪が落ち着いたらここに来てみるということになりました。

 住むところは、4つのグループホームがあり、そこには、体験室もあるとのこと。2週間の研修を経て、お互いに納得がいったら、ここのメンバーになるということで、話を終えました。

この間、樋口社長の人柄がそこここに出てくるのですが、この人あっての「あんしん」だと痛く納得がいきました。中山さんは、自己紹介で、ベテルの家にいたことを話します。そうすると樋口さんは、ベテルに大変興味をもって、小山さんに「今度行ってみよう。書き留めておいて」と言います。「不勉強で何も知らないから」というのです。

 今回、ワークセンターしか見てこなかったので、樋口さんの3女であるここが出来るきっかけになった娘さんとはお目にかかれずでした。実は、樋口さんの片腕になっている長女の方にはお目にかかれて、「妹は、隣のデイサービスにいますから、会ってやってください」と言われたのに、帰りに立ち寄ることを忘れてしまってきたのでした。実は、ワークセンターで働くのは無理という人たちが、デイサービスに行っているようなので、今度行ったらぜひデイサービスや、グループホームを見せていただこうと思いました。この日、大雪のため、多くの男性職員たちがグループホームの雪堀で、不在でした。グループホームは、3年間に4つ作ったということでした。

 話し終わって、帰りに十日町のおいしいソバ屋さん(小島屋)に入って、中山さんが言うには、「あんしん」に行くときと帰る時では、志重の顔が全然違う人みたい、とのことでした。行くときには、とっても緊張して、能面のようだった顔が、帰りには、にこにこして、いつもの志重になっていました。小山さんが、志重に特別のお茶や、お菓子を出して、チャンとベビーシッターもしてくれていたからでしょう。いや、「あんしん」の工場を見たときから、すでに興味しんしんで、ここは自分を受け入れてくれるところと納得したからなのでしょう。

 実は、樋口社長は、このところ、引きこもり、ニートなど、学校が終わってもどこにも行っていない人たちへの支援も始めていて、そこら辺への配慮も持っている方だったのでした。

 こちらからも、何冊かの著書を持っていったのですが、樋口さんの著書を帰りにいただき、感動をもって読ませていただきました。北越融雪という土建業から、樋口功さんの活動が、福祉に広がっていく過程が、見事に描かれていました。

 「あんしん」のトイレットパーパーは、100個入りで3000円です。再生紙を使って、塩素漂白をしないでエコに徹しています。一重巻きですが、値段は安いのでは?このトイレットペーパーを使うことで、しょうがいしゃの雇用が進むということなので、私は、宣伝にこれ努めることにしました。新発田にあるたかひろの事務所でも、大量に取り寄せて、皆さんで使うということになりました。100個入り4箱で11600円。

 注文は NPO法人 支援センターあんしん(HPをのぞいてみてください)

 〒948-0065 新潟県十日町市子371 TEL.025-757-5511 FAX.025-757-1144へどうぞ




かるた大会

2010,1,16    於、浦佐働く婦人の家

 毎年1月中に浦佐公民館主催のかるた大会があります。なかなか予定が合わないので、今まで参加できたのはたった1回でしたが、今日はその2回目の参加でした。1回目のときには、もうすでに認知症がかなり進んでいた母と一緒に行ったので、今日は、ケアハウスの入居者に声をかけました。一人だけ81歳の女性が一緒に行ってくれました。全体では、10数人「働く婦人の家」の和室で、はじまりました。小学生とその妹の幼稚園児が来て賑やかでした。小学生は、二人とも1年生なので、孫の志重の友達です。この二人が、結構取るんでびっくりしました。去年一人は参加したのだそうで、下の句をとるということを理解しているのです。その子の妹は、視覚障害で全く目が見えません。志重のピアノの発表会の時に一緒だったからよく知っています。カルタ取りの間は、近所のおじいちゃんの胡坐の中にすっぽりと入っていました。ところが、合間になるとそのおじいちゃんが読んでくれる「大和町歴史かるた」を聞いて、「はい」と返事をして、かるたごっこを始めました。その光景がとっても楽しくて、大人たちの笑いを誘い、柔らかい空気が流れ始めます。

 カルタ取りは、高校時代、日本かるた協会に行って、スポーツ並みに鍛えていたこともあって、目の前のを人に取られたりはするものの、どうしても、一番たくさん取れてしまいます。そこで、3回目は、私が読み人になりました。

 3回の合計の枚数を競い合って、最後の表彰式となりました。私の2回分が、優勝ということになってしまい、一番大きな商品をものにしてきました。中は、すべて、サランラップでした!

 一緒に行った鈴懸の入居者は、5位で、賞品は、歯磨き粉。鈴懸に帰って、職員に報告することには、「公民館長がイケ面で」と。「まだかなり若くていい顔していた」と思い出すだけで楽しそうな感じでした。「あああ、楽しかった」と言って帰ってきたのです。80歳を過ぎてもこんな若やいだ感じが出てくるんだと思い、また来年もぜひ一緒に誘おうと思いました。

 女性の参加者が、「今度は、マージャン大会をして」と公民館長に頼んでいました。昔は、マージャンのパイは高くて買えなかったから、紙で作ってやったもんだ、という男性の声もありました。




エネルギーいっぱいの若者たち

    2010,1,9      於、萌気園デイサービス「地蔵の湯」

 揺光が、11月12月平和構築に関する研修を受けた時、寝食を共にした仲間が、泊まりに来て、揺光に「鈍太」という名前をつけようとした母親の顔が見たいという人もあるというので、福島瑞穂講演会から直行したつもりなのに、寝込んで、気がついたときには、浦佐を通り越して長岡駅に着いていたというドジでした。でも、1時間遅れで、地蔵の湯(萌気園のデイサービス)に着いたのは、夜8時半ごろでした。すでにいろりを囲んで鍋を肴に宴会が始まっていました。私が行くまでの1時間を卓夫が語っていたようで、それから、参加者の自己紹介となりました。揺光が参加した平和構築人材育成研修生たちが5人、卒業生が一人、広島大学の平和学の教授の妻がやっているNGOピースビルダーのスタッフが二人とスージン、の9名が東京からバスでやってきたのでした。ピースビルダーというところが、外務省から委託されて「平和構築人材研修生」の選考をしているのでした。スタッフ二人というのが、男性は日本人で、女性が韓国人、二人は結婚しようと思っているのだけど女性のうちで猛反対、という状態で、2年前のスージンのうちとほぼ同じ状況。だから、揺光カップルは、二人の相談相手らしい。

 大学卒業後IBMに入ってそこで、ものを「買う」するスキルを身につけてやめ、国連のそのスキルが生きる仕事をしたり、世界中を飛び回った後、このプログラムを卒業し、次の国連スタッフとしてローマにいくことになっている葉子さんは、有島武郎の「ある女」の主人公の名前をもらったという。父親が、囚われのない自由奔放な葉子のようになってほしいと名付けたとのこと。

 東北大の栄養学を出て、ケニアの伊藤忠の現地職員などを経て、このプログラムに入ってきた有花さん。三重県の鈴鹿市で、同じ小学校を卒業したというまさかずさんとともひろさん、まさかずさんは、お父さんが本田の社員で、世界中を回ってきていて、今度カープベルデ(アフリカ西部の島で国の名前)に行くことに。また、内閣府が出している世界中を回る船(ピースボートみたいなのが、公費で行われている。はじめて知りました)に2回乗って、それこそ世界を旅してきたそうです。ともひろさんは、弟に家を任せて出てしまっていることもあって、親の介護のことなどに興味を持っている人、今度はスーダンにいくことに。彼は、このグループ最年長で、36歳ぐらい。マスコミで働いた経験もあったり、イギリスの大学でスタッフをしたり、小さい時から政治に関心があったということで、私との会話時間が一番長かった。街つくりにも興味があって、コミュニティーホールさわらびの緞帳(私が勤務していた保育所の子どもたちの原画をもとに西陣織で織ってある)を見てとっても感激していました。私たちが、この町では、圧倒的な少数派でありながら、一人ひとりが力を出せば、できることがあるということを納得したようでした。うらないで生計を立てられると言われている‘みちえる’(倫得)さんは、今度キプロスに行く。付き合っている彼女がモルドバ人だということで、近くてよかったねとみんなに冷やかされている。人身売買にかかわるNGOで働いていたことあり。中学校の教師、コスタリカにある国連平和大学を卒業し今回ウガンダに行くという温子さん。

 とにかく、大変なエネルギーをもった日本の若者がこんなにいるということ、嬉しかったです。ただ、毎日新聞のような、終身雇用制の企業から転身したのは、揺光一人だったようです。




福島瑞穂講演会(フェミギ連主催)

2010,1,9       於、文京区男女平等センター

1月9日雪が降る中、上京し、文京区男女平等センターに行きました。フェミニスト議員連盟の世話人として、準備をして、開会の2時には、ほぼ80席が満杯になっていました。

 福島さんは、まず、自分は議員になる前から、フェミギの会員だったこと、だから、ここで話ができるのは、身内に話しているという感じなので、とてもうれしい。と前置きをして、「小さい声で言いますが、民法改正は絶対にやりたい」といい、なぜ小さい声かというと、作用反作用の法則があって、こちらが大きな声を出すと反対派も大声になってくる。以前、反対派の声が大きくなってしまったという後遺症がまだ消えていない、と明かしました。フランスに行ってきたんですが、そこでは、閣僚が、シングルマザーで出産し、その赤ちゃんの父親が誰であるかを明かさないままで、マスコミもそれを追及もしない。そういう国に比べて、日本は遅れていると思う。

 大臣になってやれたことがある。

 1、「男女共同参画を広める会」というのを作って、今のところ4人の世話人をお願いした。樋口恵子、香山リカ、佐藤可士和(かしわ)(愛媛県今治市のタオル産業を再生させた人)、前田資生堂社長。これからはもっと人数を増やしたい、とのこと。

 2、東京タワーをパープルにした。あれは、福島さんの仕業だったのかと思った。

 3、全国の女性首長大集合を企画した。いま全国で市町村が1800ぐらい、そのうち女性の首長は29人。この大集合に来た人へのアンケートでは、このような女性の集会に参加するのは初めてという人が75%にも上った。

 日本の年齢階層 別女性労働力率が示す「M字型雇用」(M字型曲線)を、「台形(逆U字型)にしたい」と繰り返し強調し、民法改正についてもぜひ実現したいと強調していました。

「男女共同参画は自分こと」と思ってくれる人を増やしていきたい。と結んだ。

 そのあと、函館、高知、香川などから「地域の声」としての発言がありました。フランスで出産・子育て を経験した北海道・函館市議竹花郁子さんは、地方議会の女性割合算出に 際し、女性のいない部会をあらかじめ除外するというやり方を暴露しました。香川の県議渡辺さと子さんは、今年9月に行われる香川県知事選に立候補することを表明し、皆さんから多くの拍手が送られ、当選したら、7番目の知事になるという渡辺さと子さんをたたえました。今年4月から、国の役人になるという人がこんな発言をしました。「内閣府の面接を受けた時、ジェンダーを勉強していると言ったら、ジェンダーって何ですか?と面接官が言った。びっくりした」会場が笑いに包まれました。福島大臣は、「内閣府の職員研修もしなくてはね」と応えていました。

 渡辺さと子さんは、フェミギの合宿で知っていましたし、喜田さんからも、さと子さんの日常活動のことを聞いているので、WINWINとして推薦がしたいと考えました。さと子さんもそれを望むというので、代表の赤松さんに9日は、ぜひおいでください、とメールを出しました。そうしたら、初めから来るつもりだったと赤松さん。そこで、会場から発言していただくことを提案しました。それが受け入れられて、最後に赤松さんが発言しました。

 「ずうっと後輩になる福島さんが、社民党党首から、大臣になって、いままでは、攻撃しているだけでよかったのに今度は自分がその攻撃を受けることをしなくてはならない。大丈夫かしら?と後援会長としては心配していましたが、なんとかなっているようで、安心しました。唯一つ福島さんが書かれたものの中で気になることがありました。『我が国の女子差別撤廃条約実施状況報告に対する最終見解について』という文書において、『教育分野における男女共同参画のさらなる推進』と書かれていますが、国連から来たものを直接読んでみると、そんな生易しいものではなく、安倍政権が、教育基本法を改悪したことに対して、ひどいと抗議し、差別撤廃条約にある『学校では、男女共学が保証される』をきちんと守るようにとあり、これがこの最終見解の一番大切なところ」

 さすがは、赤松さん。発言が光っていました。福島さんはこれに対して「内閣府が作った資料をそのまま持ってきてしまったので、後でよく点検します」と応えていました。「政治主導」は、まだ道半ばですね。

 終わってから、私は、福島さんの著書を販売する係で、かなり頑張って押し売りも含めてたくさんの販売を確保して、すぐ家に帰ってきました。というのは、揺光が、11月12月平和構築に関する研修を受けた時の仲間が、泊まりに来て、揺光に「鈍太」という名前をつけようとした母親の顔が見たいという人もあるというので、直行したつもりなのに、寝込んで、気がついたときには、浦佐を通り越して長岡駅に着いていたというドジでした。でも、1時間遅れで、会場の地蔵の湯(萌気園のデイサービス)につくことができました。




湯浅誠講演会

      2009,12,27    於、ユニゾンプラザ大ホール

 新潟市小規模福祉施設連絡協議会主催の湯浅誠講演会に参加してきました。会場に着くと、新潟市小規模福祉施設連絡協議会代表の内山孝子さんがいて、歓迎してもらい、川西町からきているお二人と3人で一番前の席をとりました。

 湯浅さんは、9:52に新潟駅着でくるということで、会場に着くのは、10時すぎることから、それまでの間、クマさんバンドの演奏がありました。このクマさんバンドを作った人は、阿部真裕さん、彼の風貌がクマに似ているからつけた名前だそうです。私の議員就任祝賀会の時にも、このクマさんバンドは、演奏してくださったのでした。ところが、2004年、阿部さんが亡くなってしまいました。そのため、内山さんは、1年ぐらい落ち込んでいたそうですから、よほど彼を頼りにしていたのでしょう。そしてそのとき、彼は、障害者の新潟フォーラムの第1回目の準備中でした。それを片桐公彦さんが、引き継いで、先日の第5回が、湯沢で開かれたのでした。

 今回4曲の演奏でしたが、そのうちの1曲は、阿部さん作曲のものでした。要約筆記の人が出してくれる字幕に「阿部真裕さんは多彩な人で…」と書かれていました。そして、今回、阿部真裕さんの追悼会でもあったようです。演奏者の一人が、千葉から駆け付けた米山亜樹さん。彼女は、鈴懸施設長広田セツ子さんの娘です。2004年にクマさんバンドを夢草堂によぶ計画をしてくれている最中に阿部さんが亡くなってしまい、翌年他の人を代わりに立てて演奏を実現してくれたのでした。阿部さんのお母さんが、新発田で、「くろたか会」というたかひろ応援団を作ってくださった方なので、その日は早速お母さんに演奏会の報告をしました。とても喜んでくださいました。

 阿部さんをしのぶ演奏が終わって、10:15湯浅さんの登場。「去年の今日は」と語りだしました。去年の12月24日に電話相談を56回線使っておこなった。2万件もがアクセスされたけど、受けられたのは700に過ぎなかった。そこで、26日に当時の麻生首相に申し入れを行った。実際にそれを受けたのは、内閣府の参与だった。現在自分は、その内閣府参与になっている。10月初めに菅直人さんから、呼ばれて、打診された。多くの人に相談をして、賛否両論の意見を聞き、自分で受けることにした。

 政権交替したからといって、なんでも通るというわけではない。麻生政権で、100通っていたとしたら、鳩山政権では、150とか200ということでしょう。それが実現できるかどうかは、すべて世論の後押しがあるかどうかにかかっている。なにしろ、厚労省でいえば、たくさんいる役人はそのままで、変わったのは、政務3役、つまり大臣と副大臣二人、政務官二人の5人が代わっただけ。それでも、政務官の山井さんは、生活保護家庭の母子加算(これは、正確には、ひとり親加算だ)について、議員連盟で14回も勉強会をやってきた。そのこと自体が異例のこと。この勉強会の座長が、長妻大臣。だから、二人は、「これができなかったら、政権交代の意味はない」と首相に直談判した。結局、これは通った。父子家庭への助成も、父子家庭の人たちが頑張ったから、来年8月からつくことになった。

 自己責任という人たちが多い。僕たちは、それとの綱引きをやっている。そういう事態は変わらない。その綱引きの一方に加担して、綱を引き続けるという責任が、市民の責任なのではないか。一人ひとり事情は違うが、労働市場と社会保障の間に溝がある。その溝に落ちてしまった人が、ホームレスになる。これは、社会政策の問題。自己責任では、解決ができないから、どんどん溝に落ちる人が増えている。去年より今年のほうが、自殺者も多いし、相談件数も圧倒的に多い。でも、去年のように、バサッと切るという事態がないために、今年のほうが明るいと思われてしまっている。マスコミも去年ほど報道しない。

 自分は、3つのことをやるために、参与を受けた。一つは、総合相談窓口を各地に作ること。これは、まだ136自治体でできただけ。ちょうど、27日の朝日朝刊が、湯浅さんへのインタビュー記事を載せていました。仕事はハローワーク、生活保護は自治体、などと、必要なものを求めるとたくさんの窓口が違ったところにある、という事態を何とかしようということで、ハローワークに行けば、すべての申請ができるようにする、それをワンストップサービスといって、今回かなりの自治体(136は、1割でしかない)が、これを実施したのですが、「ホームレスを助けるなんてとんでもない」とはっきり言う首長さんもあったという。

このワンストップサービスのことを、総合相談窓口というのですね。

 二つ目は住宅対策。日本には低所得者の住宅をどう整備するか、という行政政策が全くない。欧米は家のない人のシェルター政策を行政がやっている。

 日本ではどうしてできないのか。

 そして3番目が年末年始対策。年末年始は非正規労働者が無収入になる。ゴールデンウィークやお盆も無収入になるが気候が温暖なので外で寝ることはできる。が、年末年始は寒くてそうはいかない。だから14年前から年末年始の支援を続けてきた。

 彼は、はじめから終りまで、話し方が同じ、淡々と話し続ける。質疑になって、中山祥世さんが、「インターネットのtwitterで、昨夜湯浅さんと勝間和代さんとの対談がありました」と呼びかけると「実は、勝間さんのブログを読んでいる人が多いので、今年は、マスコミが伝えてくれない代わりに、なんでも使って呼びかけようと考えているのです。知らせなくては、必要な人たちに情報が届かないのですから」

 先の朝日の記事を見ると、政権交代前にも、実現していることはかなりあって、「第2の安全網」というのが、去年からできていたのですね。失業保険が掛けていない人、切れた人、が一気に生活保護に至らないように、ということでできたいくつかの制度(就職安定資金融資、住宅手当など)のことです。ところがこれが、一つのところで全部もらえるわけではなく、いろいろな所に行かなくてはならない。今回は、そこを何とか解決しようとして、1歩前進したということなのですね。ここら辺に住んでいると、住宅が失われるという事態が、ピンとこないのです。でも、もしかしたら、私が、そういうことが分からない「位置」にいるだけなのかもしれません。この寒さの中、北風が吹き仕切る中で、睡眠をとるということを、想像するだけで、震えてしまいます。ほんの少しでも、その方々に「暖」をとっていただけるものを送ることにしました。

 湯浅さんは子どもの貧困のことも数字を挙げて話していました。イギリスでは、それを減らすためにかなりの努力をして、減らしたのに対して、日本は、1985年からずうっと増え続けている。とのことです。貧困率(平均賃金の半分以下)が、OECDの中で最低になっていることが、発表された。それ自体が、政権交代の成果だそうです。

 「子ども手当は、所得制限をつけなければ、単なるばらまきでは?」との質問に答えて。「出すほうで差をつけるか、入るほうで差をつけるか、という選択があるが、僕は、考え方を変えて、出すほうは、一律に、税収は、金持ちからたくさんとることで、再分配をするほうがいいと考えるようになった。それは、神野直彦さんの『選択の余地のない基礎的なサービスは、無償にすべき』という意見に納得したから」とのこと。選択の余地のない基礎的なサービスとは、医療、教育、住宅などのこと。神野さんは、スウェーデン方式を考えている。教育費は、大学まで無償。医療費も、無償です。うちに来ていたスウェーデンの留学生は、いつも言っていました。「なにも心配がいらないから、スウェーデンは、世界一」と。

 派遣村で忙しいこんな時期に湯浅さんが本当に来るの?と皆さん心配しておられました。実際、湯浅さんは、11月に入ってだったかに、断ってきたらしく、内山さんが「5000枚もチラシを配ったのに取りやめる?」と困って電話が来たことがありました。「そんなわけにいかないでしょ?『代わりの人を出して』と言ってみれば」といったことがありました。内山さんは、「代わりの人」には興味がなかったそうですが、とにかく来てほしいと再度伝えたら、湯浅さんが「そうですよね。」ということで、午後だったのを午前に変えて実現したのでした。

 内山さんからは、300人の参加者だったとのことです。もっと大勢に聞いてほしかったです。という私も、年末でもあって、当地からだれも誘っていかなかったのですから、仕方がありません。私は、川西町の二人に車で家まで送っていただくことができました。彼らとは、スウェーデンに一緒に行った仲間です。

 湯浅さんの講演は、なにも見ないで語り続けるのですが、かなり細かな数字がぼんぼん出てきます。1995年から、もう14年も同じことにかかわり続けてきたのですから、すっかり頭に入っているのでしょう。




「幸せの魔法使い」を訪ねて

    2009,12,15〜17    於、沖縄県うるま市

那覇空港に富山光枝さんと、小泉邦江さんが、運転手の座間味さんと迎えに来てくれていました。座間味さんは、琉球大学の女子学生だったときに、富山さん、東浜さんに連れられて当地に見学に来たことがあり、今は、那覇市役所の障害福祉課の嘱託として、障害者関係の相談事業をしている方です。

何回も沖縄に行っているのですが、これまで一度も雨にあったことがなかったのに、この日は、かなり強い雨でした。その中を案内していただいたのは、対馬丸記念館でした。対馬丸の名前は、沖縄の本で耳にしたことがあるけど、詳しいことは忘れていました。1700人からの乗組員があった、その船が、アメリカの潜水艦に攻撃されて沈んでしまい、乗客の8割がなくなってしまったという悲劇です。今回一緒に行った人たちに行く前に「何人ぐらい亡くなったの?」と聞くと100人とか130人とかまちまちでしたが、実際は、1600人からの老若男女が亡くなっていたのです。本土への疎開ということだけど、乗った船は、かなりぼろになった貨物船で、攻撃を受けたらひとたまりもないものだったそうで、修学旅行に行くような楽しい気持ちで出発した子どもたちが、亡くなった子も生き残った子もそれぞれに大変な人生を強いられたのでした。

その後、「だいこんの花」という有機のレストランに行きました。バイキングです。これは、たくさんの料理が全部美味しくて、思い切り食べて、しゃべって、満足したひと時でした。その後、私が泊めていただくことになっている小泉さんの家にいきました。

小泉さんのアパートは、海の見えるとても見晴らしのいいところですが、朝は、なかなか明けません。7時半ごろやっと明るくなってきます。前日、道の駅で買ってきたたくさんの「沖縄もの」が、小泉さんの手料理で並ぶ朝食でした。雨なので、散歩というわけにもいかず、10時ごろ小泉さんとバスに乗って、富山さんが、理事長施設長を兼務している障害者地域活動支援センター「あいとぴあ」を訪ねました。去年、NPOが取得できて、昔保育所だった建物を市から借り受けて広々と様々なことを展開していました。NPO法人の名前を聞いてびっくり!「幸せの魔法使い」というのだそうです。富山さんがいつも「魔法使いになりたい」と言っていたことから付いた名前だとか。よく聞いてみるとすでにかなり魔法が利いているようでした。知的、精神、自閉症など、多様な障害を持った人たち30人が利用しているところで、職員は、5人ぐらいかしら?ちゃんと数えてありません。朝、早くに富山さんが「出勤して」弁当作りをしているのですが、その弁当(注文があった分)を配達するのが、利用者さんと職員の仕事。200〜300毎日配達するとのこと。その弁当と同じおかずを私たちのお昼に出していただきました。これがとっても美味しいものばかり。種類が豊富です。富山さんが料理が出来るって知らなかった!初めて、彼女の手料理をいただきました。てびちのだし汁で煮たものとか、チャンプル、ごぼうのきんぴらでも一味美味しいのです。「中味汁」(ホルモンの吸い物)などなど。

最近あったイベントで、利用者さんたちが、コントをしたというので、見せてもらいました。診療所の風景です。知的、精神、両方を持つ男性が、白衣を着て医者に扮します。看護婦を母に持つどこも悪くなさそうな女性が看護婦。(実は、てんかんの発作があって大変なのだとか)患者さんが、次々に来ては、笑わせて帰ります。この医者にふんした男性が、うつで、もじゃもじゃ頭でいたのに、その舞台の前日、富山さんが「散髪してきてね」と言って置いたら、本当に髪を切って別人のようになって出勤してきて、それはそれは、名演技をしたのだそうです。それまで、ほとんど言葉をしゃべらないでいたような人が、このコントをきっかけにあいとぴあになくてはならない人になったとのことです。

言葉がなく、ほとんど何もできないかに見えた男性が、ペットボトルの中をのぞく行為が癖になっていて、それは、カメラがほしいのでは?と思いついた富山さん、カメラを渡してみたら、没頭したので、その人が撮った写真が、玄関脇に展示されていました。仲間の姿を撮っているのですが、ポーズをとったらシャッターを押さないのだそうです。だから、すべての写真は、実に自然で、日ごろの風景がおさめられているのでした。私の手を引いて、この写真を見て、と引っ張って行ってくれたこともありました。

手作業をしている人たちは、実に細かい仕事を熱中してやっています。3センチ、1,5センチを縦横に持つ楕円形の厚手の紙を切っている人、その楕円形に布をかぶせて草履にしている人。一足の草履が、キーホルダーになっています。「思い出ぽっぽ」と名付けられています。これをたくさんお土産に買ってきました。孫たちは喜んで、さっそく自分のカバンに取り付けました。もう一つ買ってきたお土産は、ゴム草履のサンダルです。これはカッターナイフでゴムを削って模様を作り出しているのです。2〜3ミリ削ると違う色が出てくるようになっているゴム草履なのです。そこに、ヤシの木やら、沖縄をイメージさせるデザインが、さまざまあって、いい感じなのです。夫と、娘婿に買ってきました。

それらの手仕事をしているわきに一人で小さな石をカチカチさせて、その音を楽しんでいるという男性がありました。この人は、パニックを起こすと暴れて、それを止めようとする職員の腕にかみついたりするというので、「そういう時は、毛布をかぶせるといいんだって。そうすると安定するって聞いたわ」と話すとこれは、単に片桐公彦さんからの受け売りなのですが、「いい事を聞いた。そうしてみよう」とのこと。

富山さんは、障害を持っている人たちのファッションのお店を開いていたことがあります。今回もたくさんのアイデア商品を見せてもらいました。車いすの人が、椅子に座ってから、巻きスカートをはくように後ろには腰から下には布がなく、横と前にだけ布がある形のスカートで、脇は、マジックテープで留めるようになっています。寝たきりの人の寝巻は、後ろに縫い代がないようにして、前で、マジックテープで留めるスタイルです。とってもおしゃれなツーピースが、やはりマジックテープで留めるように作ってあるのですが、外からは見えないので、お出かけ用のスーツとしか見えませんでした。その作品を2点借りてきました。というのは、桐鈴会のグループホームの管理者星野淳子さんの娘さんが、障害者用の洋服を作りたいと言っていたことを聞いたので、その人に見せたいと思ったからでした。

ずうっと昔、まだ補助具が商品化されていないころ、富山さんは、伊東弘泰社長が運営する日本アビリティーズ社が、補助具の展示会をしていると東京まで見に行ってきて、それを自分で作ったりしていたのだそうです。たとえば、片手で、包丁を使うには、まな板にくぎを刺しておいて、そこに野菜を止めれば、片手で切れるというような工夫を見習ってきたのだそうです。

うるま市議で、8月には、新発田に5日も滞在して電話かけをし、手はだるくなり、耳は聞こえなくなりと大変だった東浜さんは、ちょうど議会の開催中で、15日は来られず、でも、16日は途中で抜け出してきてくれました。午後から、天然の塩を作っている工場に行くことになりました。東浜さんが議員をしているうるま市の宮城(みやぐすく)島にあります。与勝半島から一番近い島が平安島(へんなしま)その次が宮城島、そこまで橋がかかっているのですが、その橋を「海中道路」と呼んでいます。海の中をくぐるわけではなく、確かに海の上を通っているのですから、海中といってもいいのでしょう。宮城島の突先に工場がありました。「ぬちまーす」という名前の会社です。「ぬち」は命、「まーす」は塩のこと。工場で生産するというので、不信感が少しあったのですが、行ってみたらわかりました。海水を扇風機で飛ばし、網にかかった塩の結晶を下に落して、それを取り上げるのです。天日で今までのようなやり方で塩を取ると大切なミネラルが、砂に吸い取られてしまうので、そうしないようにと考えて、このような工法が編み出されたというのです。したがって、最もミネラル分が多い命を作り出す塩だというわけ。これを考え付いたのが、このうるま市の方で、高安正勝さん、今はこの会社の社長で、かつ琉球大学、沖縄大学などの講師として教えたりもしているのです。

この塩を使ったアイスクリームや、ちんすこう、などが、とてもおいしいので、お土産に買ってきました。

そのあと、読谷村の陶芸市場に行きました。元村長の山内徳信さんが、登り窯を作って、そこに全国から力のある陶芸家を集めようとしたとのこと。そして、この山内徳信さんが、村長のときに、村役場の建物を米軍基地の中に建てて、そこに碑を建て、これができたのは、村民すべての思いが集まったからだ、だから記念すべき、というような内容の文章があるのです。書き取ってこなかったので、今は、思い出せません。山内徳信さんは、社民党比例区でおととし当選し、参議院議員として、今は活躍中です。彼がどんな村長さんだったのかが垣間見られ、感動しました。

いろいろと食材を買って、4人で小泉さんの家で、食卓を囲みました。その時に分かったことなのですが、沖縄では、すしが、とっても安くて、10個入った折が、550円。東浜さんは、そのつもりで、たかひろが東京で富山東浜両氏にご馳走しようとしたときに、「ここは自分が」と言って払いに行ったのだそうです。請求書を見たらびっくりたまげて食べたものを吐き出したくなったということでした。

翌朝は、何とか雨が上がったので、小泉さんと近くにある勝連城址に上りました。沖縄の城址すべてが、世界遺産に登録されたのですね。とっても眺めがいいところで、どこから敵が攻めてきてもすぐに見えるという位置が選ばれているのでしょう。といっても、沖縄では、武力が強い人が王様なのではなく、踊りが上手な人が王様だったそうですね。

17日は帰る日なので、荷物がいっぱいで、タクシーで、あいとぴあに行きました。タクシーの運転手と話しながら行って興味深かったのは、少子化の話になり、一番出生率の高い沖縄でも、小学校は、3クラスが、2クラスになってしまっているそうです。そして運転手(男性)はこう言いました。「男の子が生まれないと後継ぎがいなくて困るんだ」まだまだそういう世界なのかと再認識しました。もともと沖縄では、男が墓を守ることになっていて、男の子が生まれないうちは、女の子のところに婿入りした人ではだめで、男を養子として迎えて、その人に後を継がせる、という習慣だと聞いていましたが、今でも、脈々と流れていることを知りました。富山さんも、東浜さんもそういう伝統は受け継いでいないようなので。

またこの日も、富山さん手作りの昼食をいただいて空港に向かいました。利用者の皆さんが、別れを惜しんで次々に握手を求めてくれ、最後まで手を振っている人もあって、この方々に笹団子を送ろうと心に決めました。この日も、東浜さんが、議会最終日だというのに、途中で抜け出してきてくださったのでした。3人に見送っていただき、再会を期して機内の人となりました。大雪のために、新潟空港に着陸できないかもしれず、その場合には、羽田に飛ぶという条件で離陸したのですが、かろうじて、新潟空港に着陸できたのでした。

 

 

片桐公彦さん結婚式

    2009,12,13    於、上越市高田

13日(日)は、上越の高田で、新潟県の障害者福祉のけん引役片桐公彦さんの結婚式でした。

にいがたフォーラムが今年で5回目でしたが、1回目のときに、実行委員長だった阿部真裕さんが、準備途中でなくなってしまい、(そのお母さんは、新発田でのくろたか会の会長さんです)急遽その後釜として、にいがたフォーラムin妙高を仕切りとおしたという人です。以来、にいがたフォーラムの主催者として大活躍。その人の年齢を聞いてビックりでした。当時まだ、30歳になったばかりだったのです。

今、34歳とかで、妻の金子由紀さんとは、おもに発達障がい児を支援するりとるらいふというNPOを一緒に立ち上げた仲間です。彼が、理事長をしていて、彼女は、りとるらいふの今度できるデイサービスの施設長になるとのこと。

参加者130人が、8人ぐらいずつ丸いテーブルに座るのですが、受付で、テーブルを指定されるだけで、席は固定されていません。私のテーブルは、なんと二人のひな壇のすぐ前でした。そこには、二人のそれぞれのお母さんもいて、(どちらもお父さんは亡くなっている)一番いいところに親が座るというのは、韓国式で、日本でもはやってきているそうですね。最初の司会者の話がふるっていました。「片桐さんと金子さんからの指名で、リトルライフの職員である私が、司会を務めます。二人は、恥ずかしいから、そんな席には、でない、というのですが、そういうわけにはいかないと言って出てもらうことになりました」そして、着物姿の二人が入場してきました。はじめに祝辞、片桐さんから、「この方があって今の自分がある」という紹介をされて大島誠さんが登場。この方も私のテーブル。話がとってもうまい!二人との馴れ初めから語り始め、最後には、「二人の家庭を幸せに築くというだけではいけない、キチンと社会貢献を続けていってほしい」と結びました。かれは、くびきのNPOサポートセンターというNPOを10年前に立ち上げた人で、片桐さんは、市役所職員を辞めて、りとるらいふを立ち上げるためにそのサポートを得たくて、くびきのNPOサポートセンターに行ったというのですが、結局、そこの職員として、収入を得ながら、りとるらいふを立ち上げたのだそうです。

大島さんという方の話が、あまりに上手でびっくりして名刺交換に行きましたが、彼は、名刺がないという。今は、無職で、とも。隣の人に聞いたら、なんと、先日の上越市長選に出て落ちた人だというのです。いやいや、私の夫は、町長選に出て、2回落ちたのですが、その時に「あなたの話が下手だから落ちた」と面と向かって言われたことがあるのです。ところが、こんなに上手な人でも落ちるのかと変な驚きをもってしまいました。上越市は、合併で、ものすごく広くなってしまい、選挙期間が圧倒的に足りなかったということでした。是非、4年後に出てね。と言いました。

さて、食べたり喋ったりした後、ひな壇の反対側にステージがあって、そこで、シンポジウムが始まりました。これが、にいがたフォーラムの中心メンバーばかりです。武井さん(県職員で、以前障害福祉課長として、大活躍。今は、新潟学園という児童自立支援施設の園長)西川さん(NPOトライネット理事長)坂井さん(太陽の村園長)コーディネーターが、竹田一光さん(工房はたや所長)コメンテータ、が片桐さん、というメンバーです。今回の参加者は、障害者関係の人は、たぶん半分ぐらいで、二人の同級生たちが後の半分ぐらいだったのでは?いや、その中には、ボランティアとして、りとるらいふに関係している人たちもあったのでしょう。とにかく若い人がいっぱいでした。でも、障害福祉のことを全然知らない人たちに、そのことを少しでも知ってもらおうとそれぞれのスピーカーがいろいろ工夫をしていました。

この中で一番皆さんの関心がそそがれたのは、竹田さんが、パワーポイントで、ハウスハズバンドのことを流したことでした。大熊由紀子さんのHPから、取り出したというので、いいのかな?と思いながら見ていたのですが、村瀬春樹が妻からの告発で、彼自身が、ハウスハズバンドになった過程が、出ていて、とっても面白く、会場の笑いを誘っていました。

最後に、りとるらいふの利用者さんたちからのビデオ、これも大変興味深いものでした。自閉症、発達障がい、知的障がいといわれる子どもたちの「結婚おめでとう」が流れるのですが、いろいろと工夫されていて、特に、しょうがいを持った子どもたちの弟や、妹たちのけなげな姿が印象的でした。言葉を話せない姉兄に代わって、しゃべってくれるのです。お父さん、お母さんが、カメラを回して、解説を入れて、素晴らしいビデオでした。新郎新婦が一番喜んだのは、これだったのでは?金子由紀新婦がこう言いました「本当はこの人たちにも来てほしかったのですが、このような形で参加してくれてとっても嬉しかった」

片桐さんの最後のあいさつは、「りとるらいふを立ち上げるときに、二つの覚悟をしました。一つは、親の死に目には会えないだろう、だから、その前に母と二人で旅行をしました。もう一つは、結婚はできないだろう、ところが、その一つがこうして、崩れてうれしいです」二人のお母さん同士は、まだ出会って3カ月とかだというのに、とっても気が合っているようで、ほのぼのとした気持ちになりました。

こんな楽しい、そして希望が持てる結婚式に招待していただいて、嬉しかったと二人に伝えて、帰ってきました




にいがたフォーラムinうおぬま

   2009,12,5,6      於、湯沢カルチャーセンター

 5,6日の土日を使って、第5回目のにいがたフォーラムが開催されました。堂本暁子さん、田島良昭さんを迎えることができて実行委員会のメンバーは大喜びで、4日の夜お二人を囲んで懇親会をするというので、私も、たかひろも同席しました。この懇親会が、まずは、とっても興味深い話ばかりで、お酒を飲んでいるなんてもったいないという感じでした。

 田島良昭さんは、「小学校5年の時に、厚生大臣になると決めた。大人になって、福祉は、厚生大臣でなくても自分で始めればいいということが分かり、32歳のときに、雲仙コロニーを作り、そこに家族が移って、入所者と同じ家に住み込んだ。これまで、内閣総理大臣を作るときに3回かかわっている。中曽根、細川、今回。1993年に10人の人が自民党を出て、新党さきがけを作ったときに、僕も自民党を出てさきがけ長崎を作ったんです。私は、自分が福祉の現場にいるので、政治家になろうとは思わなくなっているのですが、深く政治にかかわっています。」ということで、「障害者福祉のお金をどこから出すかということで、細川内閣の高支持率をバックに福祉税をとるというのを僕は知らなかったのだけど細川さんとごく一部の人が考えて、それが挫折して以来、介護保険として統一するというのが、僕の考え方です。介護保険というのは、高齢者全部ではなく、しょうがいを持った高齢者に給付されるのですから、生まれたときからのしょうがいをもった人すべてに給付するという考えは成り立つはずです。日本人は、税金を取られるということには抵抗があるので、医療保険と同じように介護保険を全部の人に適用すればいい」ということ。大変説得力のあるお話でした。

 堂本さんの自己紹介は、「私の小さいときの夢は結婚して6人子どもを作ることでした。田島さんとは反対に、私は、人に言われてそれを受け入れるという形で、参議院議員になり、千葉県知事になりました」そして、精神障害者の取材をしたときに、「人間らしく生きたいだけ」と言われたことがとてもショックだったとのこと。ほとんど、動物並みに扱われてきたのですから。

 翌日私が堂本さんの紹介をする(講師紹介)ことになっていました。何分ぐらいしたらいいのかしら?というとすかさずたかひろが「2分」と言います。私は、「3分?5分?」と聞こうと思ったのにその前に2分と決められてしまいました。

 5日、11時にフォーラムが開会しました。そのトップが堂本さんの「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例」に込めた思い、という特別講演でした。だから、私の講師紹介がトップということになりました。「ベビーホテルのキャンペンをなさっていたときに、私の保育所に来られて以来のお付き合いです。土井たか子さんに請われて参議院議員になり、鳩山由紀夫さんに請われて新党さきがけに入り、私を誘って一緒に比例区の選挙を戦いました。その時に、全家連(全国精神障害者家族連合)の本部に行ったら「堂本さんは、精神障害者のテレビ番組を初めて実名入りで作ってくださった方ですから、私たちは、支援し続けています」と言われた。その後、私が開いた大地塾で、障がい者や、不登校の子どもたちに慕われていました。今日も多分、みなさん堂本さんの虜になるのでは?と思います。

 そのあと登場した堂本さんは、パワーポイントで、ベビーホテルの映像から始まり、国会・国連での活躍、そして千葉県での条例作りへと流れていくのですが、ベビーホテルも、参議院も国会もすべてが、千葉県へとつながっていくのです。堂本さんが、リーダーシップを発揮して条例を作ったのではなく、「真っ白いキャンパスにみなさんが、絵を書いてくださいね」と言いながら当事者の声を聞き続けるという姿勢でかかわってきました。「県が主催してタウンミーティングを開いたって、いいところ200人ぐらいしか集まらなかったでしょう。ところが、当事者の皆さんが、訴えて人集めをするのですから、第1会場では足りなくなって、第2会場を用意したところもあるし、外のモニター画面で聞いている人もたくさんありました。」そういうやり方だから、県議会で条例案が否決されるということが確定したときに、堂本さん一人の判断で、提案を取り消します。このことがその後の展開になっていくのです。その時反対していた自民党の議員が「負けた」と思ったそうです。堂本さんは、その後修正協議に入って、3ヶ月後に見事成立させたのでした。県会議員に対して、その地域のしょうがいしゃ関係の有権者が説得して回ったので、一人ずつひっくり返っていき、最後は、全会一致でこの条例が通ってしまったのでした。

「差別する人、される人」という区分をなくして、味方を増やすという方向で、活動する。という堂本さんの提起が一番感動した。という方がありました。多くの人に納得してもらおうということで、この長い長い条例の名前ができたようでした。

5日午後は、田島良昭さんの特別講演「罪を犯した障がい者のなくしていたものを見つけに」で始まりました。

雲仙コロニーを32歳で立ち上げ、浅野史郎さんが宮城県知事になると、県立舟形コロニーの運営を任され、浅野知事の顧問を12年間、そのために宮城に引っ越した。

山本譲司さんが、秘書の給与問題でつかまり、刑務所の中で、たくさんの知的障害者の世話をしたレポート「獄窓記」が出版されて、世の中を驚かせて以来、累犯(再犯を重ねる)障害者に関心が高まった。

 日本の知的障がい者は、547、000人。と言われている。ところが、普通、人口の2〜3%いるはずなので、250〜300万はいるだろう、とすると残り200〜250万はどこに?と考えられていたが、どうやら、そのうちのかなりの部分が刑務所にいる!ということで、2006年調査班を作り、代表となって実態調査を始める。知的障害者の受刑者のうち、療育手帳を持っているものは6%にすぎない。療育手帳は、申請した者だけがもらえるので、親が、申請をせず、ほったらかされている場合、療育手帳は取れず、何の支援も受けられない。

主な犯罪は、窃盗で43%。犯罪の動機は、生活苦が37%。平均受刑回数は、6,75回。犯罪時無職者、81%。

療育手帳がなければ、障害年金はもらえない。仕事をしなければ、まったく収入がない。住むところがなく路上生活をしていると、冬になると寒いから、刑務所に入ろうということで、放火をする。何回かしていると、公園に放火した程度では、刑務所に入れない。冬の間入っていられるような刑期の犯罪を選ぶ。「施設に入れば住むところも、食べ物も心配ないのでは?」というと「終身刑と同じで、出てこられないからいやだ」という。

 「そこで、地域生活定着支援センターを作って、刑務所を出てきたらそこが受け入れる。まだ、14県ぐらいしかできていないが、これから、全国に広がっていくだろう。」

 「S62年ごろの雲仙コロニーでの実践が、自立支援法の中に相当入っている。家族から見たら、違うかもしれないが、本人の立場から見たら、自立支援法は、とってもいい法律だと思う。『施設から、地域へ』という方向は、今後も変わらないだろう。」

 ところで、今回のにいがたフォーラムで、どなたかが、「自立支援法」への賛否を会場のみなさんに手を挙げてもらっていましたが、この会場では、8割ぐらいが賛成だったのでは?そして、反対という人は、1割に満たなかったのでは?私の席が前のほうだったので、正確にはわからないのですが、そんな感じがしました。そもそも、このフォーラムの主催者たちは、自分たちが、自立支援法を作ってきたのだ、という自負を持っている方々です。だからこの数字は、当然なのです。「施設から地域へ」という流れを作ってきた人たちなので、「障がい児を普通学級へ・全国連絡会」ができたときからの会員であった私の考えとは通じ合っていると思っています。

 5日午後の二つ目は「障がいのあるわが子の権利」について語る! というもので、いつもおなじみの大塚晃さん(厚労省専門官から、去年上智大学教授に転身)沼田夏子さん(新潟いなほの会)西川紀子さん(柏崎市トライネット)という3人の鼎談でした。3人とも、子どもさんが発達障がい者という共通点があります。大塚さんはいつものように、息子さんと妻の3人で来られており、息子さんの小さいときからの写真などを見せてくださいました。沼田さんは、発達障がいを持つ子どもたちの実態を数字で示してくれました。会員324名のうち療育手帳を持っているのは105名で、32%でしかない。知能指数で測られるので、その範囲に属さない人が多いということでもあるし、「治るのでは?」と思いながら手帳を取らない人もあるのでは?これは私の推測です。沼田さんは、「知能テストによるのではなく、その人の生活しづらさで測ってほしい」と要望していました。

 西川さんは、息子さんが、障害程度区分6(最高)で、まさにその通りだと思うとのこと。というのは、大塚さんの息子さんも程度区分が6なのだけど、皆さんがどうして?といわれる由。実際、毎回出会っているので、今回は、どうやら私を認識してくれたようで、朝食を一緒に食べていると、「おばちゃん」などと呼びかけてくれます。前日の交流会では、話しかけられたけど、私に通じなくて、お母さんの通訳で会話をしました。程度区分というのは、高齢者の介護度と同じもので、高齢者は、5が最高ですが、障がい者は6までです。

 3つ目は、「地域で暮らす」ことを後退させないために〜障害者自立支援法3年間を振り返る〜

 片桐公彦さんのコーディネイトで、竹田一光さん(工房はたや所長)片桐宣嗣さん(新潟県手をつなぐ育成会)黒岩宇洋がスピーカーです。

 初めに宇洋「国会に初めて行ったときに、無年金障害者のことに取り組んでいたら、先輩議員から障害者のことをやっても票にならないよ。と言われてびっくりした。そういう意味で、国会の中では、障害者問題への理解はとても厳しいものがある。でも鳩山さんは、野党の時から、障害者差別禁止法を作ろうと代表質問で、首相に迫ったりしてきているので、今回の政権は、障害者問題には、ぶれないで取り組むことになるでしょう」と前置きをして、民主党の政策をいくつか話しました。自立支援法をなくして、もっと総合的な「障がい者総合福祉法」を作っていこうとしている。「障害者制度改革推進会議」が首相を代表として発足する。

 片桐宣嗣さんは「障がい者団体で唯一、自立支援法に賛成を表明して、『厚労省の手先』と言われてしまった。入所施設で生活をしていたものの中には、1000万を超える預金があるものもあった。そういう人たちからは、自立支援法になって、金がかかって大変だといわれる。障害年金を親が使ってしまっているところもある。今年の3月に自立支援法改定が提起されたが凍結されてしまった」

 このことについては、だれが言ったか忘れましたが、自民党の丹羽雄哉氏が「こんなものを通したら選挙に落ちる」と言って凍結したとのことでした。通さなくても落ちてしまっていますけどね。

これについてたかひろが言いました。「民主党は、3月の改定はそのまま通すという考えです。発達障害、高次脳機能障害、難病、内部疾患などを『障害者』の中に入れることになっています。」

 竹田さんや、片桐公彦さんが、利用料が月割りではなく日割になったことに触れて、「何も努力しない事業所は、月割りで利用料が入ってきたほうが嬉しいけど、利用者の声に耳を傾けて営業努力をしている事業所は、日割のほうがやりがいがあって、と喜んでいる」基本的に、施設存続を主張する人たちは、月割りのほうがいいのだし、地域で暮らす人たちにサービスを提供するところは、日割のほうがいいということがわかってきました。そうすれば、利用者たちは、その日その日に選んでいろいろな事業所を使うことができるのですから。

ここで、民主党は、「月割り」と言っているといったうえで、宇洋が「党に持ち帰って、皆さんからのご意見を実現できるようにします」という一幕もありました。

 夜の交流会の前、ホテルのロビーで、宇洋と田島さんと3人で話す機会がありました。障がい者と高齢者を同じ介護保険でと提案する田島さんは、直前の宇洋の話を聞いて「お母さん、こんな息子さんがいて幸せですね」と声をかけてくれました。ここでまた、介護保険に統一するという考え方について詳しく伺いました。

 実は、障がい者と高齢者を同じ保険にということを強く批判していた方の議論では、「高齢者は、車いすのレンタルでも構わないが、若い障がい者は、これからリハビリをすれば、もっと機能が回復するかもしれない、そういうことに対応できるように、若い人たちは、その人の体に合わせた車いすのほうがよい」だから同じにされては困る、というのでしたが、考えてみれば、若い人に対するメニューと高齢者へのメニューを変えればいいだけなのですから、これでは、反対の論拠にはなりません。財源をどこから持ってくるのかということを考えたら、介護保険に統一するというのは、現実性のある考え方なのだということが理解できました。

 交流会では、いろいろな方と知り合うことができ、また、話したい人と結構自由に語り合えるので、会費が高いけど、参加する意義は大きいものです。堂本さんは、午後帰ってしまったのですが、田島さんは、まだ残っていたので、数年前、雲仙コロニーを訪ねた時、?、を付けて帰ってきたことについて、聞いてみました。それは、雲仙コロニーがそうめん工場を経営しているのですが、そこでは、かぶる帽子の色によって、その人のポジションがすぐにわかるようになっているのです。このことはなぜなのかと聞いてみました。田島さんの答えはこうでした。「就労継続支援A型なんですよ。だから、いずれ全部一般の会社に就労することになります。そこでは、すべて、職階があるんですから、うちでもそうしています」そのときには、それ以上何もいわずにいましたが、これでは、人の目に着くように帽子で色分けすることの必要性は、論じられなかったと思いました。これは、まだ疑問のまま、次回の時に取っておくことにします。

 6日は、「昨年のにいがたフォーラムで登場した『安心コールセンター』について〜全国初・工房こしじの実践から」ということで、工房こしじ園長の涌井幸夫さんの実践に基づく話がありました。施設を解体して、グループホーム(GH)ケアホーム(CH)をたくさん作り、それらの新しい施設や、自宅やアパートで生活する人が困った時に24時間電話で相談ができるコールセンターを今年の10月に作った話。自民党参議院議員の衛藤晟一さん、厚労省社会援護局企画課長の藤井康弘さんは、これが終わり次第、こしじの新しい実践を見学に行くとのことでした。

 二つ目は、「人にやさしいまちづくりを目指して」というセッションで、樋口功さん(NPO法人支援センターあんしん副会長)による活動報告と隣町の町会副会長と十日町市長関口芳史氏によるサポートを福岡寿さんのコーディネイトで、聞きました。樋口さんの3女が、知的障害者で、魚沼学園を卒業した時に、自分がやっている北越融雪株式会社の片隅で3女と二人で仕事を始めたのが、作業所の始まり。2005年から、トイレットペーパー工場ができ、今では、80人がここを利用して、50万個(年間)を製造。この日、参加者全員にトイレットペーパーを配り、その中に申込書が入っていたので、さっそく我が家の分を申し込んできました。桐鈴会の職員もいたので、帰ってから、コストを検討して、今使っているのと変わらなかったら、ここに切り替えるということにしてあります。帰りにかなりの人が申し込んでいたから、50万個を100万個にしたいという目標に少し近づけたのでは?と思います。功さんの長女が、功さんの片腕として働いていますが、最近職員の一人と結婚したそうで、前日の交流会で、みんなに祝福されていました。ほかにも何組かのカップルが祝福されたのですが、その一つが、このにいがたフォーラムの主催者新潟県地域生活支援ネットワーク代表片桐公彦さんのカップルでもありました。13日には、その二人の結婚披露宴が上越であり、私も招待されているので、参加するのを楽しみにしています。

 午後は、「おくりびと」のバリアフリー上映会でした。バリアフリーというのは、視覚障害者のために活弁士が、音声で、画面を説明してくれるほか、聴覚障害者には、字幕を付けてあるのです。映画を見ることに慣れている人は、その活弁がないほうがいいと言っていましたが、私のように、画面から情報を受け取るのが苦手な人にとっては、この活弁がとってもありがたい存在で、たぶん、それがなくて見たら、もっと感動が少なかったのでは?と思われます。私は、本当に感動して、しばしそのほかのことを口にするのが嫌なくらいでした。

 

 

 

男女共同参画社会実現に向けた要望書提出

2009,12,3    於、衆議院議員会館第2会館

 衆議院議員会館第2会館の玄関には、30分前だというのにすでにごった返していました。何人か知りあいの顔があります。第4会議室に入って腰を下ろしたとたんに堂本さんから、「黒岩さん、船橋さんと一緒に太田和美さんの所に行ってきて」と言われ、雨の中を飛び出しました。13:55分には出てしまうから、それまでに届けて、というお願いです。太田和美さんは、民主党の男女共同参画の担当だということです。第1議員会館なので又して、入館願を出さなくてはなりません。そんな事をしていたら、間に合わないので、「元参議院議員の黒岩です」と言って強行突破。守衛さんは困って、後を付いてきました。1分前に到着し、無事に要望書をご本人に手渡すことができました。帰りは、地下道を通って第2会館へ帰ってきました。

 汗だくだくで戻ったら、もう始まっていました。堂本さんが、「優生保護法の改定に反対したときには、改定賛成派が、500万の署名を集めていたので、反対の署名を500万集めようといって頑張りました。500万までは届かなかったけど、女性たちの大きなうねりが、起りました。今回もそういううねりにしていきましょう」

円より子さんは「17年前に日本新党から出て、参議院に入りました。日本新党のマニフェストの中には、クオータ制も入っていました。今の民主党では、党の中が男女共同参画になっていません。幹部には一人も女性がいない。」

 神本美恵子さんは「参議院議員になって7年目です。ついこの間までネクストキャビネットの子ども家庭大臣でした。仕分けは、確かに国民の皆さんに見ていただけたという効果がありましたが、削ってはいけないところが削られています。そこをこれから何とかしましょう」

 下田敦子さんは「仕分け人が、6月ごろすでに個人ブログで、ヌウェックの攻撃をしていました。あの攻撃の仕方は、ひどい」

 大坪久子さんは、日大の理系の研究者として、「日本の女性研究者は、17%しかいません。韓国にも抜かれて、OECDで最低です。そこを何とかしようということで、『女性の参画加速プログラム』が行われていました。自民党の政府でさえそこまでやってきたのです。今回3分の1縮減と言われましたが、それでは、新規の事業に取り組めない。」

 次に私が、2点を指摘しました。「一つは、ヌウェックが、天下り先で、幹部が、かなりの高給を取っているという点を是正しなくては、他のことが言えない。もう一つは、男女共同参画に関係ない宿泊者とは、値段の上で、差をつけたらどうか。それから、呼びかけ人のひとり長崎暢子さんは、彼女が好きではない『東大名誉教授』です。東大の中で、女性研究者をリーダーの中に増やそうということで頑張ってきたので、今回来られないけど、頑張ってほしいとの伝言がありました」

 原ひろ子さん「元帝国大学の学長が集まって、大学を男女共同参画に変えていくと発表した。ところが、この学長たちすべて男性だった」

 堂本さん「アメリカの8大大学の学長は、そのうち4人が女性」

 神本さん「独立行政法人になってから収益事業に偏っていった」

大野曜さんは、NPO全国女性会館協議会の理事長さん。「今、ヌウェックの理事長をしている神田さんは、東洋大学の学長だった人で、天下りではありません。給料もそんなに高くはありません。女性だから低くしてもと言われているような気がして、それはおかしいと思う。独立行政法人になる前は、国立だったので、国立でしかできないことをやってこられました。それは、膨大な資料を集めることとか、研究をするとか。」

円より子さん「この際『国立に戻せ』という運動をする、ということも考えられる」

 そのあと、ヌウェックで、ボランティアをしているという方が二人発言。一人は男性で、「女性たちが、議会の中でこんなに少ないということは、この戦争は、勝つしかない戦争だ。戦争だという意識で、改革していってほしい。」もう一人は女性でこの方は、お茶の会をして、国際交流をしているとのこと。そのようなボランティアに支えられてヌウェックが存在してきたということがよくわかりました。

 この会の後、堂本さんたち数名が、文科省に要望書(後記)を持って行き、担当の鈴木寛副大臣、高井美穂政務官に渡すということでした。同じ内容のものを14日には、首相にも渡しました。

 残った人たち数名でお茶をしたのですが、私の「給料を減らして」の発言は、みんなが言いたかったのに言えないでいた。よくぞ言ってくれた、と言われました。

 第2議員会館は、宇洋の部屋があるところなので、立ち寄ってきました。秘書の川久保孝子さんが忙しそうにしていました。彼女は、以前、中村敦夫さんの秘書でした。参議院と衆議院、野党と与党の違いがいかに大きいか実感しているとのことでした。とにかく立ち寄ってくださるお客が多いとのことでした。4日が、国会最終日なので、ロビイングをしている人たちが、とてもたくさんでした。外には、日の丸の旗を一本ずつ立てかけてたくさんの人が会館前の通りを埋めていました。書いてある看板は「外国人の参政権を認めるな」怒鳴っている声を聞き取ってみると「民主党は、ナチだ!」「民主党をつぶせ」などでした。

あちらさんも頑張っていることが分かり、こちらも頑張らなくては、と緊張する思いでした。

鳩山由紀夫殿

呼びかけ人代表

江尻美穂子(国際婦人年連絡会世話人)

相馬芳枝(神戸大学特別顧問)

都河明子(東京大学・男女共同参画オフィス特任教授)

寺尾美子(東京大学大学院法学政治学研究科教授)

堂本暁子(女性と健康ネットワーク代表、前千葉県知事)

原ひろ子(日本女性監視機構代表、城西国際大学客員教授)

樋口恵子(高齢社会をよくする女性の会代表)

連絡先:gender.equality.new2009@gmail.com

男女共同参画社会実現に向けた要望書

 鳩山政権が成立して3カ月が経ちました。この間の、透明性を求めた国民に見える政治への転換、改革に向けた大胆な取り組みに心から敬意を表します。また、先般開催されました男女共同参画会議における首相の「男女共同参画社会は、友愛社会の前提である」という発言に私たちは勇気づけられました。男女共同参画社会の実現は、民主党がめざす「コンクリートから人へ」というビジョンにとり、最も重要な課題の一つであると考えます。

 しかしながら、先般の事業仕分けにおいて男女共同参画に付随する文部科学省関連の重要施策が対象となり、今後、男女共同参画政策の展開や女性研究者による科学技術の推進を遅滞させるものとして危惧しております。

 つきましては、今後、新政権において男女共同参画基本計画が大きく前進することを期待し、以下の政策が実現されることを強く要望いたします。

1.男女共同参画推進本部の機能強化と充実

 この間、「男女共同参画社会基本法」や「配偶者からの暴力の防止および被害者の保護に関する法律(DV防止法)」の制定、全国各地における男女共同参画の取り組みなど、男女共同参画政策は一定程度進みました。

 しかしながら、国際的に見ると、ジェンダーギャップ指数においては世界で98位(世界経済フォーラム)が示すように、日本の女性の経済的・社会的地位は極めて低いと言わざるをえません。この状況を改善していくために、最優先課題として、総理を本部長とする男女共同参画推進本部の機能の強化と充実をはかり、全省庁すべてにおいて男女共同参画の視点をもった政策が推進されることを要望します。

2.「独立行政法人国立女性教育会館(NWEC)」の質的転換と事業拡充

「独立行政法人国立女性教育会館(NWEC)」は、男女共同参画に貢献する人づくりや女性たちの全国およびアジアのネットワークの拡大に大きな役割を果たしてきました。その結果、NWECで力をつけたリーダーたちが、国内外の各地で活躍しています。NWECの果たす役割は、民主党のいう「コンクリートから人へ」のビジョンと合致するものであり、NWECの活動は今後ますます必要とされるものです。私たちは国内外の女性団体や草の根の地域グループとともに、NWECが質的転換を果たし、時代の先取りをしたより魅力ある事業を展開していくよう連携・協働していきます。そのため、予算の大幅な削減ではなく、NWECの活動を充実・発展させていくことが新政権のめざす「きずな社会」の形成にとって極めて重要だと考えます。

3.女性研究者の支援

 我が国の女性参画の現状をみると、「民間企業における課長相当職」「国家公務員の管理職」「各種団体における役員」など「実際に意思決定において指導的地位に立つ管理的職業従事者」において特に女性の進出が遅れています。また、医師、研究者といった専門職分野においても女性の割合が低く「女性の参画加速プログラム」でも女性研究者の支援は重要な施策の一つとして位置付けられています。それにも関らず、今回の事業仕分けにおいて削減の対象となったことは、男女共同参画社会の推進に逆行するものです。

 女性比率が30%以上である欧米諸国では、長期的に女性研究者育成策を実施しています。科学技術分野の人材獲得は、国際的競争下にあり、我が国の女性科学研究者を積極的に支援し、長期展望の元に人材を育成しない限り、日本は世界の潮流から取り残されかねません。

 また、女性研究者が子育て・介護と研究を両立しやすい状況は、男性研究者が働きやすい環境でもあります。そのことは研究職を魅力あるものにするとともに、研究活動を躍進させ、世界的に評価されるような研究活動を効果的に推進することにもつながります。
 我が国の発展のために、女性研究者支援策を引き続き充実させていくことを強く要望します。







南魚沼市障害者自立支援協議会

2009,12,1       於、南魚沼市ふれ愛支援センター

 1日はずいぶんしばらくぶりで、障害者自立支援協議会に参加しました。かなりたくさんの業種の方が集まります。50人ぐらいだったでしょうか?今回は初めて、この会として、行政(南魚沼市と湯沢町)に対して提言を出そうということになり討論しました。その提言は、行政の職員として障害者を雇ってほしい、という就業に関する提言でした。これがかなりの討論になったのです。というのは、どこの行政も法定雇用率2,1%は満たしています。ところが、それはすべて、既に職員として働いていた人に「障害者手帳」を取らせることによって確保したものなのです。南魚沼市も湯沢町も今までに一人も「外」から障害者を雇用したことがないという実態が明らかとなりました。私の友人で、眼が、片方みえないために車の免許は取れないのだけど、普通に保母の仕事をしていた人がいて、ある日呼び出されて診断を受けて障害者手帳をとるように、と言われたのです。ほかにも、何人かそうされた人がいました。「障がい者つくり」と私は言っています。そうすることで、外からの障害者はいまだに一人も取ったことがなかったのです。というわけで、提言には、「外から雇って」という言葉を入れることにしました。

 ところが、今回わかったことは、来年の7月から、雇用率の分母が変わってくるということでした。分母が今は、正職員だけになっているのを今度は、臨時、パート、など非正規職員も入れることになるというのです。そうするとかなり率が減ることになるので、「外」からとらざるを得ないことになるのでしょう。行政は、「頭がいい」ので抜け道を考えるのが本当に上手で、法律など何のそので、「抜けて」いってしまうのですね。

 民主党政権になったのだから、ということで、障害者の皆さんはいろいろな期待を持っておられるようでした。12月5,6日の障がい者のフォーラムinみなみうおぬまに宇洋が参加して発言するということに期待を表現されていました。






退職教員劇団「青空」、新発田から来訪

       2009,11,30       於、夢草堂

 30日は、朝から、新発田市の退職した教員仲間が作っている「青空」という劇団が、桐鈴会に来られました。新発田市応援団長の大橋敏江さんもそのメンバーです。男性が3人、女性が7人、グループホーム「桐の花」の職員休憩所で、着替えをして、夢草堂で「舌切雀」の劇をしてくださったのです。

 鈴懸と桐の花の入居者が20人ぐらい、付き添いの職員が数名。ちょっと変わった筋のお話でしたが、結構楽しくアレンジしてあり、また、雀のお宿でのもてなしには、地元の酒「八海山」が用意されていたりするので、見ている人たちは、笑いが絶えません。雀たちの「芸」によるもてなしのときには、本物のマジッシャンが出てきたり、とっても上手な沖縄の踊りが出てきたり、大橋敏江さんのフラダンスが出てきたりします。これらの「芸」は、みんなすばらしいものばかりで、見ていた人はみんな笑ったり感心したりでした。終わってから、みんなでお茶のみをして交流。おばあさん役の方が、なかなかの演技派で、皆が感心していました。北村泰さんを知っているという方が、おじいさん役をこなしていました。

 教師っぽくないというのが、何よりの共感を呼んだようでした。今日は、「楽しかった」という見た人たちの声が、桐鈴会中に響き渡っていて、これはぜひ来てくださった皆さんに伝えたいと思いました。

 公演が終わると、すぐ近くのワイナリー「ブドウの花」で、食事をし、午後は、桐鈴会、萌気園を案内して回りました。ほとんどの方が私よりは年上の方なので、ご自分のこれからの生活を考える上で、役に立ったと言って帰って行かれました。




奥州市男女共同参画講演会・映画会

      2009,11,29   於、岩手県奥州市文化会館

 去年の7月、奥州市で、「ベアテの贈りもの」の上映会と私の講演会があったのですが、その続きのような形で、奥州市などの主催によるタイトルのような催しが11月29日(日)午後に開かれました。今回の映画は、「ベアテの贈りもの」の続きとして、同じ藤原智子監督が作った「シロタ家の20世紀」でした。この映画を観るチャンスがなかなかなかったので、これを機会に奥州市の皆さんとも再会したいし、との思いで、出かけて行きました。

 今回の催しを私に知らせてくださった菅原圭子さんは、WINWINの会員で、赤松さんのユニセフ代表就任祝賀会などに上京されたりして、あれ以後もメールでつながってきていました。今回私が、行くと言ったら、奥州市長にも連絡して、始まる前に15分間ご挨拶に行くことになりました。相原正明市長は、去年名刺を交換していらい、メルマガを送ってくださっていましたので、読み返してみました。すると、障害者自立支援法のことなどに精通されていて、「応益負担から、応能負担へ」と提案していたりしたので、民主党政権は、応能負担に変えると思います。ということで、たかひろのまつりごと通信を差し上げて、会場に行きました。

 相原市長の初めのあいさつでは、「女性の登用について、県下1とは言えないのですが、登用の伸び率については、県下1となっている。今後はもっと進めていって、なんでも女性が30〜40%にまでなるようにしたい」と話されました。

 講演会のほうは、フジテレビのアナウンサー笠井信輔さん、3人の息子の名前がふるっている。優之介、春の丞、涼之心(すずのしん)。妻の幸(美由紀)さんは、テレビ東京のアナウンサーで、15年前初めての出産のときに、「お願いがあります。出産に立ち会ってください」と改まっていった。いつも強気の妻が、お願いと言ったので可愛いと思った。上司にそれを伝えたら、「実況放送が条件だ」と言われ、まだケータイなど無い頃だったので、公衆電話で、実況を報告した。すると視聴者の反応は、大変よくて驚いた。二人目は、その後4年、今度の上司は「何考えてるんだ。二人目なんて恥ずかしいだろう」といった、それを聞いていた同僚の女性アナ、反撃に出る。「そんなことを言うほうがよっぽど恥ずかしい。」上司はそれにめげて「わかった、でも立ち会いだということを言ってはならん」そして当日、いつもは二人で並んで、放映されるのに、その日はその女性アナが一人で、最後にこう言った「明日笹井さんは、パパになって戻ってきます」上司が怒ったら、「立ち会いなんて言わなかった」。3人目は、気功をしてくれる人、カメラマン二人と全部で5人で産むという。これも実現。よく、うちの夫は何もしてくれない、という女性がいるが、それは、すべて「あなたが悪い」ということにしている。まずはじめが肝心。蒸気機関車は、初めに回すときに、一番エネルギーを使う。これも同じ、出産のときにかかわり始めるのが一番エネルギーを使うが、それから始めるのがいい。

 笠井さんは、「とくダネ!」の司会者兼チーフで、もう10年間やり続けているという。一度も見たことがなかったので、翌朝つけてみました。

 「シロタ家の20世紀」は、「ベアテの贈り物」をパリで上映したときに、「映画の中に出てきた子ども二人のうちの一人です」と名乗ってくれた人がいた。そこに居合わせた藤原智子さん、びっくりたまげてその方の話を聞き、すぐにカメラを回し始めた。「ベアテ」の映画では、この二人の子どもは、ベアテさんのいとこたちと説明されていたけど、実際は、いとこの子どもたちだった。そのひとりであるアリーヌ・カラッソが、たくさん集めていた資料に基づいてベアテの父親レオ・シロタの弟ピエールが、ナチスのユダヤ人狩りに引っかかってアウシュビッツに送られてしまったことを追求した。そのピエールの死亡通知が、アメリカでミルズカレッジに在学していたベアテさんのところに届いた。当時、アメリカが一番安全と思われていたので、ピエールが、ベアテさんのところを連絡先に選んだのだろうとのことだった。ほかにも、シロタ家の親せきが、ユダヤ人として抹殺されたり、さまざまな迫害にあっている。シロタ家の20世紀を記録することで、戦争に明け暮れた20世紀前半の世界を映し出し、戦争のない世界の出現を切望している藤原監督の視線が透けて見えるようにしてあるのだった。

 終わってから懐かしい皆さんとの会食会。2008年には、1月と7月に奥州市に行って皆さんから私の話を聞いていただいていたのでした。1月に初めて行ったときには、奥州市の教育長の女性と、普代村の教育長の熊坂伸子さんと、3人のパネルディスカッションも私の講演の後についていました。岩手県の女性教育長二人と話し合えたのはとっても意義深いもので、その後「胆江日日(たんこうにちにち)新聞」が、テープおこしをして一言一句残すことなく連載で報道してくれたというのも、実に稀有な出来事でした。そんなことを主催してくれていた女性グループや、はじめて私を奥州市に呼んでくれたペアレントプロジェクトジャパン(PPJ)を立ち上げた玉山幸芳さんなど、たくさんの忘れられない個性豊かな人たちとの夕食会でした。「みんな赤い糸でつながっているって玉山さんが言ってたじゃない?その赤い糸は、どんなにもつれても、いつかはほどけるのだから、ハサミで切ってはいけないのよね」と佐藤ひろ子さんが、いうと、玉山さんは、「実は、それをもっと広げる話になっているんですよ。糸では、どんなにつながってもその間からこぼれてしまうから、パッチワークのような面でなくてはならないって言われたんですよ。」それを言ったのは、新潟県聖篭町の元教育長だった手島勇平さんだとのこと。この手島さんと玉山さんをつなげたのは、新潟市の清水義晴さんだそうで、玉山さんは、手島さんを岩手に呼んで、講演をしてもらっているのでした。私は、手島さんの妻幸子さんが、聖篭町に呼んで講演会を開いてくれたのが、20年ぐらい前のことでした。勇平さんが教育長のときに建てたとってもユニークな中学校を勇平さんが案内してくれたのは4,5年前でした。

 夕食をつつきながら、事業仕分けのこと、男女共同参画審議会のこと、ジャイカのことなど、話は果てしなく広がって、私が持っていった手創りのリンゴケーキも喜んでもらえて、どうしても翌朝こっちに帰ってこなくてはならなくて、大宮のホテルに泊まって翌朝帰ってきたのでした。




WINWIN「激動の2009年を想う」パーティー

       2009,11,26    於、東京KKRホテル

 受付で配られた参加者名簿を見てびっくり。とっても少ないのです。時間になっても席の半分は埋まっていない。実際名簿にありながら来なかった方もたくさんで、その上、議員さんたちは、ちょっとだけいて、挨拶したら帰られる方がほとんどだったので、空席が目立ってしまうのでした。

 でも、皆さんのスピーチはなかなか興味深かったので、もっとたくさんの方が来られたら、と改めて思いました。トップバッターの江田五月さん「私の父親江田三郎は、議員歴25年の時に『議員25年、政権とれず恥かしや』と言っていたのですが、その後30年たってようやく政権交代が実現しました。野党時代は、議長として、それなりにしていればよかったのですが、与党になったら、大臣の答弁を聞くのが、気が気ではなく、神経がとても疲れるようになった」とのこと。

 はじめて立候補されるときに、仙台まで面接に行った郡和子さん、今回の衆議院選で、2期目となります。「先日東ドイツの女性議員が来られて、ベルリンの壁がなくなる前、東ドイツの女性たちは、『戦争はたくさん、平和を』ということでいろいろと活動していた。その結果があのような歴史的事件となった、という話を聞かせてくれた。どこでも女性の働きが大きいのですね」

 堂本暁子さん、「初めて千葉知事選挙に出たときには、泡沫候補だと言われ、自民党、民主党、共産党、無所属がそれぞれ立てているところに、千葉県の市民ボランティアの皆さんのほかには、WINWINだけが支援してくださって、当選することができました。68歳から、77歳まで現職でした。女性の知事さんが、まだまだ少ない、出てくださる方を応援したいと思う」

 コンピューターの会社を経営している若い社長さん大里真理子さん、「うちの会社は、女性が30%います。そうするとマイノリティーという感じではなくなります。どこの議会でも30%になるようにしたいですね」

 途中、堂本さんが、マイクを持って、国立女性会館(ヌウェック)のことを話し始めました。「昨日、そこに泊まってアジアの女性たちと語り合ってきたのですが、アジアの女性たちにとっては、トイレやテレビがないなんて言うことはなんのその、1泊1000円というのは、とってもありがたい存在です。こんな施設をなくすとは、とんでもないです。昔、私の家から発信していたFAX通信〈JJネット〉というのがありましたが、変な人を大臣にしようとしたときに、みんなでFAXを流し続けて、それを止めたという実績があります。今回も、みんなでメールを送ってヌウェックを存続させましょう」と呼び掛け、赤松さんも、それから、いろいろな方が発言を続けていたのですが、私は、最終新幹線に乗るべく、中座してしまったのでした。残念!

 参加者の中に、セブンイレブンの取締役の女性がおられました。セブンイレブンに女性の取締役が存在することに驚いてしまいました。この方もWINWINの会員でした。

 堂本さんとは、12月5日に湯沢にこられることについて打ち合わせをすることもできました。4日の夕方湯沢のホテルに来て、雲仙コロニーの理事長田島良昭さんと一緒に夕食をとることにしました。

 赤松さんとは、何も話せないまま帰ってくることになってしまいました。

 江田さんと堂本さんには、宇洋の「まつりごと通信」を渡しました。二人は、まるで、宇洋の父と母のような存在ですから。




12回シェルターシンポinとちぎ

       2009,11,22,23    於、栃木県総合文化センター

毎年11月22,23は、シェルターシンポです。今年は宇都宮で行われました。金子兜汰講演会が終わってから、出かけたので、22日の交流会途中からの参加でした。

会場に入ると新潟県のシェルターのみなさんが、たくさん見えました。「おとといの審議会での発言、とっても良かった。議題がないから開かないなんてとんでもないですよね。本当にアリバイ工作なんですよね。近々知事さんとの懇談会があるから、そのことを言っておきます。」と傍聴に来られた方がいいます。ちゃんと聞きとってくださったことに感謝。

富山からの山下清子さんは、広島の廿日市市議会議員井上さちこさんを紹介してくださり、交流会終了後もいろいろとお話を伺うことができました。市長の談合について議会で指摘をしたら、市長の名誉を傷つけたというかどで、彼女を除くすべての議員の賛成で、議員辞職勧告を出されたというのです。それにもめげず議員を続け、次回の市長選に出るつもりだというので、応援に行くと言いました。

交流会の途中から入って行ったので、食べ物はほとんどなくなっていました。でも、山下さんや、井上さんが、探しては持ってきてくださるのです。福島大臣や、その日午前中からの講演のゲスト(スウェーデンとアメリカから)など、多彩なメンバーが見えました。でもいつもなら、何人かの国会議員が来られるのに、この日は、福島さん以外どなたとも会えませんでした。

翌日は、午前、午後と二つの分科会に参加しました。参加できるかどうかなかなか見通しが立たなかった(海映の家のサポート体制が整うかと思うとインフルでだめになったりと流動的でした)ので直前の申し込みとなり、会場が広い部屋だけしか残っておらず、選択の余地はなしでした。午前の「男はなぜ暴力を振るうのか」という分科会は、竹下小夜子さん(沖縄で精神科クリニックを開業)と沼崎一郎さん(東北大学教授)から、1時間ずつの講義を聴いた後、会場との質疑でした。男が暴力を振るうのは、女性を完全にコントロールのもとに置く(支配下に置く)ためであって、それこそが「男らしい」と思い込んでいる。男であることの証明として暴力を使い、支配下に置くという快感を手に入れている。「加害者プログラム」とかが工夫されているけど、ほとんどの加害者は変わらない。

沼崎さんは、料理が得意で、「今日はおいしいものを食べよう」と誰かが言うと、必然的に一郎さんが作ることになる。片づけの得意な妻は、どうでもいい時だけ料理をする。とのこと。

竹下さんが、こう発言しました。「沼崎さんの奥さんが、すばらしいですね。奥さんの影が、沼崎さんの話から見えてきました」ここで「奥さん」といったことに注目した私。

会場からの発言が、おもしろかったのです。「私は、神奈川県で、司法書士をやっています。主人とけんかをしたりしたこともあるのですが、今では、主人を立ててうまくやっていくということにしています。亭主関白とか、主人を立てるとかいうのが、日本文化としてありますね。文化や伝統を大切にしながらやっていこうと考えていますがどうでしょうか?」これに対する沼崎さんの回答が愉快でした。「私は、文化人類学が、専門です。文化というのは、だめです。文化を壊していくのが歴史の進歩では?日本には武士という文化があります。当時は、法律には関係なく、武士の刀が物事を決めていました。そういう文化がいいと思うのですか?私は、それでも少しずつ良くなってきていると思っています。」このとき、私の隣から、「いまどき主人なんて言っているのね」とささやく声が。「でも、竹下さんでも奥さんて言うんだからね」と答えていました。次の発言者は男性。「私も神奈川の司法書士なのですが、加害者の男性たちは、どうすればいいのですか?」沼崎さんの答えは「彼らは、そのままでいいのです。家族以外の人には危害をくわえないのですから」


 それから沼崎さんは、先の女性司法書士に聞きました。「男らしい」ということを一つだけ言ってみてください。するとしばらく考えてから「志」と答えました。沼崎さん「それは女性にはいらないのですか?」相手は困っていました。次は「女らしい」ということを一つだけ言ってみてください。「しぐさ」との答え。ところが沼崎さん、「ちぶさ」と聞き間違えて(ここで大笑いをした後)「そうですね、本当に僕も乳房がほしかったです。夜中の授乳は僕の仕事だったのだけど、本当の乳房から吸っているときのほうが赤ちゃんが幸せそうで、羨ましかった」とのこと。「しぐさ」についての彼の発言は忘れました。

午後の分科会では、WRさんという被害者からのサバイバー(生き残り)の話が、胸を打ちました。知り合ったころは、かわいいと言いつづけ、結婚したその途端に暴力が始まり、あらゆることが監視され、管理され、働かないで負債を作る。結婚して14年後(41歳)自殺未遂。車には盗聴器を、そして走行距離を確かめている。周りの人は「奥さんが可愛いからそうしているのでしょ?」と言うばかり。ウィメンズサポートと出会い、すばらしい弁護士さんと出会い、二人の息子も一緒に体験を語ってくれるようになった。私は、今とっても幸せ。元夫の負債を抱え込まなくてはならず、自己破産をするのだが、こんなに多くの方が同じ高さの目線で支援してくださり、今日も、こんなに多くの方に聞いていただけてうれしい」私は、休憩時間に彼女の所に行って語りかけました。「私の知り合いで、あなたと同じように、二人の息子と一緒にやっと離婚が成立して、まるで別人のようにきれいで明るい顔になった人を知っています。息子たちとも、腹を割って話し合えるようになったし、と喜んでいます」語りかけたことをとっても喜んで、まだ50歳にならない彼女は、息子が二人ともまだ学生だということが、私の知り合いと違うのですが、まだ50歳ぐらいの男性弁護士の力が大きかったと言います。「わかめのようになりなさいと言われました。わかめというのは、海が荒れるほど成長する。波が来たら、波に揺られるままにさまよって、荒波を受けて成長して、というのがとっても力になりました」この話を知り合いへのお土産にしようと思っています。




金子兜太講演会

   2009,11,22     於、北里大学保健衛生専門学院ホール

 22日午後この街の北里大学で、金子兜太の講演会が開かれました。私には、聞いたことがない名前です。私にとってはまさに「豚に真珠」です。卓夫が、チラシを作って呼び掛けていたのだけど、それを読んでも全然興味がわかなかったのです。それでも、夫がそばで人集めの電話を毎日毎日かけているのを隣で見ていたらいかないわけにもいかず、行ってみました。ケアハウスの入居者3人が行きたいということで、私が自分の車でガイドしました。

初めに井口一郎市長があいさつ。「南魚沼市は、新潟県の中で、長寿なんです。男性は1位、女性は2位で、全体では、1位です。そんなところへ、90歳でかくしゃくとしておられる金子先生をお迎えするということはうれしいこと」

次に卓夫が、講師紹介。「萌気園にパートの医者として秩父からきている金子先生の名前が、桃刀(ももと)というので、よく聞いてみたら、金子兜太先生の甥だったのです。金子兜太さんの父親は、医者で、山本周五郎の小説「赤ひげ診療譚」の主人公のモデルといわれている方です。その長男なのだから、本当は兜太さんが医者になるところだったのでしょうが、弟の二男さんが医者になり、その息子が桃刀さんというわけです。」

「金子兜太 養生訓」というタイトルなのですが、90歳の講師さん、卓夫の「老いの復権」「大地の子と地域医療」を読んでおられ、その感想などを述べた後、60歳のときに、歯が全部歯槽膿漏で、抜く羽目になり、これをインプラントできれいにしたので、なんでも食べられるし、入れ歯と違って、言葉もはっきり出る。またその頃痛風になって、それを医者の力を借りずに自分で直そうと決めた。「食べ物と漢方で直す」と決め、肉をやめ、魚に切り替え、酒、たばこもやめた。それから、夜中に寒いトイレに起きださなくて済むので、しびんを持ち歩く生活をしている。しびんは、女性用のはとってもいいそうです。もうひとつ、「立禅」というのをやっている。これは、電車などに乗ったときに、目をつむって立ったまますでに「あの世」に行ってしまった人を思い浮かべて語りかけている。今は、120人ぐらい。だから結構時間がかかる。亡くなった方を順番に思い出しているので、記憶力を確かめるという副産物もある。

「私は、無宗教だが、神にも仏にも手を合わせる。日本的なアニミズムということか?自然を拝む。」

そして最後に、俳句の評価をしてくださった。実行委員の方々が作った俳句を5句並べていろいろと語ってくださった。これは、さすがに専門家。なるほど、俳句というのは、そのようにして作るのか、と納得。といっても自分で作ることはとっても難しい。

笑いの多い和やかな講演会だったのは、金子兜太さんの人柄が素晴らしかったからだと思いました。




男女平等社会推進審議会

     2009,11,20     於、新潟県自治労会館別館

 私が公募の委員になって第2回目の男女平等社会推進審議会が11月20日に開かれました。DVシェルター関係の方々に傍聴においでくださいと声をかけたのですが、どなたも来られず、でも、新潟女性会議の方3人が傍聴に来られました。傍聴の方があるのは、応援していただいているようで、嬉しいことでした。

1)21年度男女平等推進プラン推進状況

2)ハッピーパートナー企業の登録状況

 という二つが議題だそうです。1)については事前に配ってあったので、こちらも予習することができました。初めに連合の小柳さんが、「前に配ってくださってあったので、よく読んできました」と前置きをして、「満足度調査についてですが、男女別の数字はあるのでしょうか?」と聞きました。するとちゃんとあったのです。

 満足は  男が35,3%、女が25,7%

 不満足は、  15,9%、  23,0%

 これこそが意味がありますよね。明らかに男性のほうが満足が多く、不満足が少ない。優位の差があるのですよね。出された資料では、満足が30,6%、不満足が19,5%とあるだけです。これからはこういう資料は男女別で出していただきたいものです。

 次に私が挙手をして発言しました。「公募する時の案内には、年2回開催となっていたので、去年11月に開催され、次は、5月ごろだろうと考えていました。知らせが来ないので、電話したら『議題がないから今年は1回です』と言われました。私は、皆さんと一緒にいろいろと発言したので、それらのことがその後どうなったのかということが知りたくて、次回を楽しみにしていたのです。『不満足と答えた方はどういう理由なのか』と質問された方がありましたね。だから今回の調査には、それが入るかと思っていたら入っていません。不満足の理由こそが大切なことだと思うのに」それに対する答えは「この調査は、うちがしているのではないから」というので、「調査しているところに今度はこうしてくださいと言えるのでは?」と言ったのです。「はいわかりました」とのこと。

 「審議会を開催するというのは、誰が決めるのですか?事務局が決めない限り開かれないということなのでしょうか?私は、今まで出された意見がその後どう取り入れられたのか、ということだけでも審議会を開いてほしいと思います。そうしなかったら、まるでアリバイ工作のようなもので、やったという事実だけが大切ということになってしまうのでは?」そうしたら、開会は会長と事務局で決めるということだそうです。

 そうして、先回私が言った「DVのシェルターへの助成金を」ということがどうなったのか知らせてほしい。と言いました。答えを聞いて分かったことは、全く何も動いていないのでした。

 次にハッピーパートナー企業について、パワーポイントで説明がありました。ハッピーパートナー企業というのは、従業員が、家庭生活と両立しやすいように、勤務形態について配慮している企業ということで、いくつかの条件を満たしていれば登録ができる、というシステムです。この1年間で、予想以上に登録企業が増えたのは、22年度以降の県の工事の入札資格についてこのハッピーパトナー企業登録が、加点されることになったために、建設業界が、たくさん登録したから、とのこと。そういえば、南魚沼市は、ずうっと夫が理事長をしている萌気会だけだったのが、今年桐鈴会が入って二つになったと思ったら、その後すぐに二つの建設業が入り、不思議だと思っていたのでした。

 県内全部で217社ですが、そのうち建設業が57社でトップとなりました。

 そもそも、ハッピーパートナー企業に登録するとどんなメリットがあるのか?大学生が、就職先を探すときに、この登録をしてある企業を選ぶ、ということがあるのだそうです。そういう意味で、優良企業であるというブランドに輝くというメリットのほか、今回は、商工中金からの融資を、金利を優遇してもらって受けられるという特典付きとなりました。職員たちにとって働きやすい環境があるということは、それだけ利用者、入居者、お客などへのサービスがいきとどくということになり、結果として、経営も良くなるということなのでは?

 最近、ハッピーパートナー企業のロゴが決まりました。募集をして集まったうち数点を投票で選んで決めたのです。このロゴがいきわたって、市民権を得るようになったら、もっと関心が深まるのでは?ということで、終わりとなりました。県の男女平等社会推進課の人たちが、朝早く企業の勉強会に行って説明したり、勧誘したりしているそうで、役人としては、かなり頑張っているらしいことがわかりました。

 その後、さる会合で一緒になった人が、この日傍聴していた人の一人で、こう言ってくれました。「黒岩さんの発言、よかったわ。今度知事との会談があるからそのときに、『議題がないから開催しない』と言ったと話してみますね」とのこと。やはり傍聴はありがたい、とつくづく思いました。




河野太郎の話

   2009,11,19    於、国際大学(IN南魚沼市)

この町にある国際大学で、河野太郎の話を聞いてきました。アメリカ人の妻を持つ政治学者信田教授が、河野太郎を友達として呼んできたのです。これまでも年に2〜3回「オープンセミナ」をしてきています。

「自民党の衆議院議員は高齢。20歳代は小泉進次郎一人、30歳代が3人、46歳の私が下から18番目。私の上に100人もいる。そんな状態だから、あと10年は、与党にならないだろう。」

共産化への恐れが取れてから、自民党は「与党だ」と言っているだけでよかった。今「野党だ」といってもダメ。何が自民党なのか。自由主義、民主主義、資本主義、なら、民主党、国民新党、公明党、みんなの党、みんな同じ。私は、「小さな政府で経済成長する」が自民党で、「大きな政府で、再配分」が民主党だと考えている。

小泉政権が間違っていたことは二つある。ひとつは、社会保障費を削ったこと。もうひとつは、規制緩和を小さいところでだけやり、大きなところは、抵抗にあってできなかった。本当は、電力とか、飛行場とかそういった大きなところで規制緩和をすれば意味があったのに。

質問時間になって私は真っ先に手を挙げました。「基本的なことですが、小さい政府にするとどうして経済が成長するのですか?」答えは「小さい政府なら、税金をたくさん取られないから、企業の収益が上がる、そうすればその富が国民にいきわたる」「それって小泉さんが言ったことでしょ?」と私は、座ったまま発言。「そうです」が答え。

これって説得力がないと思いました。経済成長は、税金が少ないだけで達成できるものではないことをみんな知っています。「そもそも日本では、もう成長はあり得ない」という悲観論をねじ伏せられないでしょう。

私たちの仲間で、南魚沼市の学校教育課長南雲権治さんが質問しました。「子どもたちを豊かな心を持つようにそだてるには、どうすればいいのか?」この質問についての回答を聞いて、教育のビジョンは、持ち合わせていない人、ということがとてもよくわかりました。幸福の基礎は、経済だといい、世界の幸福度を比較するのに、GDPで比べているのですからオールドファッションです。経済学者の中谷巌までが、GDPではなくてGNH(国民総幸福量)で比べることを提唱しているというのに。

今日も聴衆の少なさに驚きました。席が足りないぐらいになるのかと思ったら、最後まで空席ありでした。全部で70席ぐらいでしょうか?女性が4割ぐらいでした。新潟5区の自民党候補者米山隆一が、質問していましたが、活舌が悪くてとても聞きにくいので、これで街頭演説をしたのでは、さぞ大変だったろうと思いました。しかも、内容がはっきりしないのですから。

加藤紘一と、河野太郎の話を聞いて、二人とも自民党が政権奪取をするという迫力に欠けていると思いました。河野太郎は、原発に反対したりするので、もう少しいろいろなことが分かっているのかと思っていたら、少々残念でした。




加藤紘一の話

    2009,11,18     於、憲政記念館

東京の憲政記念館に加藤紘一の話を聞きに行ってきました。彼の家が放火されて3年がたちます。1周年のときには、彼の家がある鶴岡で、高校のクラス会方々「言論の自由を守る」石碑のお披露目があったのでした。今回は、その3周年ということで、言論NPOを立ち上げた工藤泰志氏と加藤紘一の対論が催されたのでした。聴衆が30人足らずだったことにも驚きました。高校と大学の同級生が少しずつ来ていたという感じです。

2時間の予定をオーバーしていろいろと語られたのですが、一番驚いたのは、「自民党と民主党は、違いがない」と二人が言った時でした。「公助を少なくして、共助、自助を多くするという点で同じ。」加藤さんは、「官が嫌いという点が違うかな?」という言い方。

でも、政権交代したのは良かった、と加藤さん、せめて2回は、同じ政権が予算を作ってほしいとのこと。

民主と自民の違いは、こんなことだといいます。「地域の共助を大切にするのに、自民は、小学校区ぐらいの広さの地域で、お互いに助け合う関係を作る、それに対して、民主は、組合などの組織を基盤にする」これが一番の違いだというのでした。

いやいや、国民は、いろいろと変わったということを実感しているのではないかしら?今まで中医協(中央社会保険医療協議会)にいる医師会出身の人たちに抵抗できなかった自民党に対して、今回中医協から、3人の医師会を追い出してしまったのですから、これ一つとってもすごいことだと思います。今朝、堂本暁子さんと電話で話したのですが、彼女も「特殊法人をなくしてしまうなんて、自民党にはできなかったのだから」と言っていました。

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ちなみに、二人の講師の紹介をしておきましょう。主催者が、チラシに載せたものです。

工藤泰志氏は東洋経済新報社「金融ビジネス」編集長、同「論争 東洋経済」編集長を経て200111月「言論NPO」を立ち上げ、多彩な言論活動を作りだしている。

 加藤紘一氏は、事件発生後の「テロルの真犯人」「強いリベラル」の上梓に続き、先頃「劇場型政治の誤算」を出版し、日本の目指すべき方向についての提言を続けている。




魚沼での宇洋祝賀会

    2009,11,14,15   於、坂戸城、魚新

14日15日は魚沼での宇洋祝賀会でした。

 南魚沼には、夫卓夫も参加しました。出がけに、めずらしく卓夫が私に服装のことでクレームを付けました。自分が主催者でもないのだからとカジュアルな服装をしていたのですが、「お祝いの会なんだぞ」というではありませんか。そこで私は着替えて、先日桐鈴会10周年の時に着た白の上下のスーツを着用しました。これは、東京で選挙をした時に、中村敦夫さんの妻が選んでくれた選挙用のスーツで、2着持っています。10周年用に前日東京でコサージュを買ってきたのでばっちりです。それを着て、浦佐の駅に宇洋を迎えに行きました。宇洋は「おっ!いいの着てるじゃん!」というので、これも驚きでした。

実は、卓夫は、「今日の祝賀会は、黒岩家の祝賀会なのだ」と言っていたのです。1992年に卓夫がゆきぐに大和総合病院の院長をやめて町長選に立候補して敗れ、萌気園という診療所を立ち上げました。そのころは、まだまだ、「変えていかなくては」という意識は盛り上がっていないころでした。ほかにもいろいろと落ちる要素はありました。どちらにしても、この街では、受け入れられなかったのです。2002年の宇洋の選挙でも、皆さんがご存じのとおり、大和町では、得票率がぐっと低かったのです。今回やっと受け入れられたという思いがあったのでした。

実際、1992年から黒岩の選挙にかかわってくださった方々が沢山坂戸城にも来られました。その方々は、口々に「あの時の悔しさが、やっと報われた」と言っておられたのでした。そんなことは、今は関係ないのかもしれません。でも、卓夫にとっては、やっと「霧が晴れた」思いなのです。

14日の会場は、私がついた時には、ごった返していて、座るところは、一番前のほうにしか残っていませんでした。孫たちが来ているので、その子守りをしなくては、と近くを探したけど見当たらず、何しろ300人を超しているので、後ろの人は、前が見えないという長細い会場です。そのうち、立っている人まで現れて、椅子を持ち込んでようやく即席の席ができるという具合です。

秘書の小林君が作ったという2年半の闘いの記録は、みなさんの胸に響いたようでした。たくさんの写真が、次々に出てきて、時に文字が書いてあるけどそれもすぐに消えるという仕組みです。BGMが、オリンピックで歌われたというのですが、私ははじめて聞きました。タイトルはわからないのだけど、つらい思いを乗り越えて今があるというような歌詞です。この映像で一番皆さんの共感を呼んだのは、雪が降りしきる中を宇洋が、自分でポスターを貼っているもの。さらには、美春も雪の中一人でポスターを貼っている、後で皆さんが、「涙が出た」と言ってくださいました。スピーチでは、若月県議が、こんなことをはなしました。「先日新聞で、落選した翌日、宇洋さんが、布団の中で涙したという記事を読んで、宇洋さんにもそういうところがあったのかと再認識しました。」涙した日々が、宇洋を鍛えてくれたのだと思います。昔から宇洋をよく知っている友人たちが、「2年間でずいぶん成長した」と言ってくれました。とてもうれしいことでした。

井口一郎南魚沼市長が個人的に話していた時に「会場を間違えたかと思ったよ。自民党の人ばかり沢山だから」とのこと、南魚沼市議でも、自民党の人が何人か。また、卓夫が出た時に、反対の急先鋒だった人も来ています。そういう意味でもこの地域に受け入れられた結果だということなのでしょう。

15日の魚沼市での祝賀会も、2002年の選挙から深くかかわってくださった皆さんとたくさんお目にかかることができました。宇洋の中学の時の森山信郎先生は、「今年中で一番うれしかったこと」と言っておられました。心配して、新発田まで訪ねてきてくださったのでした。司会をしてくれた星野邦子さんもご夫妻で、お友達と一緒に訪ねてきてくださったのでした。アナウンサー並みの司会をしてくださいました。

2日間、地元の温かさを私たちも感じさせていただきました。





桐鈴会10周年記念講演会

     2009,11,8     於、コミュニティーホールさわらび

朝10時、10周年記念講演会の会場に行ってみると、もうすっかり用意が整っていて、私が心配していた車いすが入るところの椅子は、すでに片付けられていました。入居者の皆さんが、かなり車いすで参加されるほか、地域の障害者の皆さんにも声を掛けてあったので、会場の真ん中に位置する車いすの場所を空けておいてと頼んでいたのでした。卓夫が理事長をしている医療法人萌気会と、調剤薬局からの花束も届いていました。

入居者と家族の皆さん、そして役員の方々とは、昼食会でお祝いをすることになっており、その会場作りを職員と一緒にやり、104人ものメンバーが、ケアハウス鈴懸30人用の食堂とその外のホールに集まるのですから結構大変です。11時からは、鈴懸家族会の集まりをしました。職員のほうから、入居者同士の人間関係の難しさや、入居者からのクレーム対応のことなどが話され、家族の方から「入居者同士は、どんなことでトラブルになっているのでしょうか?家族の対応いかんで、解決できることがあったら言ってください」と言われ、「いやいや、ほとんどそういうことはないんですよ。好きな人、嫌いな人があったり、職員と親しくしていると見える人に『あなただけの職員ではない』とかいう無記名の投書をその人の部屋に投げ込んだり、どこにでもあるようなトラブルと同じものです。何しろ、六日町にあるケアハウスでは、入居者同士の殺人事件があったくらいですから」というとすごくびっくりされていましたが、実際日常的なトラブルの結果、隣の入居者を殺してしまって、刑を受けている人があるのです。そんなことにならないようにと、職員は、小さいことでも耳を傾けて、何らかの解決策を探していきます。職員へのクレームだと、「理事長を呼べ」まで来ることがありますが、なんとか、私が出て行って、一応の解決は見てきました。たった30分なので、心行くまで語り合うというわけにはいきませんでしたが、いろいろな情報交換は出来ました。

11時半から、昼食会です。メインは、10年間住み続けてこられた12人の入居者に、感謝状を渡すということでした。中でも一番はじめの日に入居してこられた小倉さんが、代表で、賞状と、お花を受取りました。小倉さんは、10年間鈴懸の隣の畑で、作物を作り続けてこられ、ずいぶん食卓をうるおしてくれました。グループホームは、はじめからとても高齢な方々ばかりだったので、5年前(中越地震のその日が出来上がりの日でした)から引き続いて入居されている方は、たった二人でした。本当は、3人の賞状が作ってあったのですが、前日、心臓の発作で一人が亡くなってしまい、二人になってしまったのでした。ずうっとミキサー食を続けてこられた方で、今年80歳という大変若い方なのですが、最近は、ミキサー食も誤嚥するようになり、径管栄養になっていたのでした。グループホームはほぼ全員家族が来られて、皆さんとっても嬉しそうでした。

食後、桐の花の家族会。その後、会場を移して、コミュニティホールさわらびにて、桐鈴会10周年記念講演会となりました。30分前に会場に行ったら、ちょうど講師の福岡寿さんが到着したので、すぐ近くの桐鈴会を30分でご案内しました。開会すると、はじめに私が桐鈴会の歩みを簡単にお話しし、職員や、役員、地域のボランティアの皆さんへの感謝を述べた後、福岡さんにタッチしました。福岡さんの話は、いつもながら、笑いに包まれている間に、とっても大切なメッセージが、皆さんの胸に届いてしまう、というまるで魔法使いのような話でした。

大学の時に、金八先生にひかれて、中学の教員になったのだけど、現実は、なかなか大変で、4年たったある日突然「今日で辞めさせて」という電話を教頭にかけてしまう。その日すぐに精神科に連れて行かれて、「療養休暇診断書」が出されたそうです。自分は、まったく現場に戻る気がなかったのだけど、治ったら、帰って来いという感じだった。

休んでいるのに、工事現場で働く土方をしていて、これも結構いい仕事だった。でも親たちは、なんとかせい、というので、長峰学園という知的障害者更生施設の職員募集に応募。そこで働き始めたら、知的障害者の魅力に引き込まれた。周りを和ませてくれる、悪気のない人ばかり。ところが、こういう素敵な人たちがどうして一つ所に集められているのか?という疑問を持ち続けたという。

その頃の彼にとっては、新潟県にあるミニコロニー六花園が先進地で、見習いたいと思っていたという。この六花園には、2年前まで鈴懸の施設長をしていた森山里子さんが、指導員として働いていて、ヨーロッパの施設を見に行ってきて、さっそく六花園としてグループホーム作りに取り組んだのでした。新潟県全体で、グループホームが3つしかない時、その3つは全て六花園のものだったのですから、六花園の先進性は、明らかでした。その後長野県は、田中知事を迎え、5年間福岡さんは、週末を県の職員として、2足のわらじで、長野県のコロニーを解体していきます。各地にグループホーム・ケアホームを作って、その人の出身地に返すことをやり続けたのです。グループホームに移った知的障害者の人たちは、何しろ「好きな時に好きなものが食べられ、好きな時に外に出られる、自分の部屋で、いつでも音楽を聴ける、とにかく自分の意志で行動できることが一番うれしかった」ということでした。グループホームに移った時には、炬燵の付け方もわからず、すべて職員がやっていたことを自分でできるようにし、まさかと思われるような能力を発揮したそうです。

「今、二つのトンネルを掘っているところです。一つは、施設に住み続けていた大人の障害者が、地域で暮らせるようにとその方向を目指しているトンネル。もう一つは、生まれてきた赤ちゃんに障害がある場合、その子どもが、地域で暮らすには、どんな連携が必要なのかを地域で模索するトンネル。いずれ、このトンネルは、つながって一つのトンネルになるでしょう。」これが、楽しい話の結論でした。「福祉と教育のWEコラボー障害児の〈育ち〉を支える」(加瀬進編著、エンパワメント研究所刊)というできたばかりの本がその片一方のトンネル堀の内容で、今までの本はみんな持っているという人たちが、この本を買って帰って行かれました。

この日、新潟県の障害福祉を背負って立つといわれている上越の片桐公彦さんも参加しており、夜の懇親会までの間、私が二人を案内して、もえぎの施設巡りをしました。夜は、職員、役員にこの二人が入って、30人ぐらいのパーティーを近くのワイナリー「葡萄の花」で行いました。80歳を超える役員の方の感想が、皆さんの思いを伝えていると思います。「今まで聞いたことがなかったいい話だった」ほかの役員も、職員もとっても喜んでくれて、本当によかったと思いました。

そのあと、職員たちのアトラクション。桐の花管理者の星野淳子さんが、役員の鈴木なつ子さんと踊った「おこさ節」、桐の花夜勤専門員の関勝造さんがプロの三味線を聞かせてくれ、最後に職員が大勢でうたった「ありがとう」の歌には、またして(8周年記念のときには、歌っているほうも、聞いているほうも涙でした)、涙涙で帰って行った方がありました。この日のためにもくもくと準備をしてくれていた職員たちに深く感謝しています。




女政のえん、12回、上原公子さん

    2009,11,7    於、東大駒場、ファカルティハウス

7日(土)秋晴れの中きれいな紅葉を見ながら上京しました。会場である東大駒場は、昔と違って今では木が生い茂って、建物がその中に埋まっていて、なかなか会場までたどり付けないのです。だから私は、途中まで出て行って道案内をしていました。何人目かに着物姿の女性が現れて、「上原さんの講演会ですか?」と伺うと「はい、私が上原です」のお返事!ついこの間9月に新潟でお目にかかったばかりだというのに、薄暗かったこともありますが、着物姿ですっかり違う人に見えてしまったのでした。

上原さんのお話は、着物のことから始まりました。着物が出来上がるには、実にたくさんの工程があって、そのどの一つが欠けても出来上がらない。一つ一つの技術者を「政治」がつぶしてきた。と上原さん。あとでそのことを質問しようと思っていたのに、すっかり忘れてしまって、今、メモを見て、しまったと思いました。でも、きっと読者の皆さん方は、そこを埋めてくださることでしょう。

「1999年から2007年までの8年間市長でした。市長の大変な生活を考えたら、8年が限度だと、私の尊敬していた富野逗子市長が言っていたけど、本当にそうでした。ここに議員の方がいらっしゃると思うので、申し訳ないのですが、議員は、自己主張していればいいけど、首長は経営者なので、常に圧力にさらされながら決断を迫られる。市民からの圧力と、利害関係がある人たちからの圧力。両方からの圧力でおれそうになってしまう。そこを踏んばるときには、殺される覚悟までしなくてはならないことがある。そういう意味で、体を張ってやってきたので、8年が限度だった。」

東京の水に深くかかわっていたので、八ッ場ダムが、東京の水を地下水で賄うのをやめて川から取り込むことにするという方向に転換するためのものでもあるとの事だったので、それはやめてほしいという思いで、現地に行ったりしてかかわりました。はじめはほとんどの住民たちは、自分が住んでいるところがダムに沈むのは困るということで、大多数が反対だった。ところが、町を挙げて反対となると、「補助金をやらない」という形で、首を絞めていく。その結果、ボロボロこぼれていく人たちが出てきて、住民たちが分裂して、まとまりがつかなくなる。どこのダムもそういう形で、建設が進められてきた。「八ツ場ダムの政策は、人の心を潰していったのです」と上原さん。それを見ていて、これは住民自治の問題だと理解した。そのことが、市長になろうと思ったきっかけ。

私のバイブルは、「憲法」ということでいろいろお話しいただいたのですが、肝心なところで、ぬけてしまったりしていて、メモがとれませんでした。

その後国立の風景から様々な取り組みをパワーポイント(写真がほとんど)で見せながら話されました。国立の駅前にある幅44メートルの立派な道路は、堤康次郎が1934(昭和9)年に作ったものとのこと。両側の緑地帯には、イチョウと桜を交互に植えてある。春も秋も楽しめる。桜が、年をとって枯れそうになってきたので、それについての勉強会をした。初めの参加者は、100人。その人たちを「桜守」と呼んだ。その後350人の桜守が様々な取り組みをしてくれて、市民がどんどん元気になっていき、取り組みも広がっていく。その様子が写真を通してじかに伝わってきました。上原さんのやりたかった住民自治はこれだったんだと納得しました。

40人の参加者からの質問を受けて、「民主党から出るのではなく、社民党から出たのは(2007年の参院選)宮崎出身で、福島みずほと高校がおなじという縁で、1日に数回の電話があったりして、断りきれなかったのが実情」とのことでした。この質問をしたのは、2007年たかひろの選挙に木更津から来てくれていた市議の高橋てるこさんでした。

大阪の岸和田から来られた小林ちずさんは、ワンルームマンションなどの住民が地域のことに全然関心がなくて困るということについて聞いていました。国立も同じだということでした。でも「境界なき市民」というグループを作った話などしていただきました。国立周辺の人たちも含めるということでしょう。

6時から8時までの1次会終了後、隣のレストランに移って懇親会となりましたが、申し込まなかったけど面白かったから出てもいいかという人が続出して、27人での懇親会となりました。いつものように一人一人が自己紹介を兼ねて、感想を述べ最後の上原さんが話して閉じる、というものです。今回は、はじめて私の子どもが参加しました。揺光が、連れ合いのスージンと一緒に懇親会までの参加でした。武内光路さんが、「私は黒岩さんの名刺を拡大コピーして持ち歩いています。ここに書いてある『差しさわりのあることを言い合おう』という言葉が好きで、私が、人に差しさわりがあることをいう時に、これを見せることにしているのです」これを受けて、揺光がこう言いました。「うちの子どもたち7人のだれがこの母と一緒に住むのかということになるのですが、差しさわりのあることを言い合うことに耐えられる人がいないかもという事態なのです。今日は、母を愛してくださる方がたくさんあることがわかったので、安心して皆さんにお任せします」と笑いを誘っていました。

上原ワールドに浸っていた皆さんは、レストランがしまおうとしてもなかなか帰ろうとせず、新しくできたつながりを深めるべく会話が続いていました。6人の世話人が全部顔をそろえたのは、ずいぶんしばらくぶりだったので、会場を移して、2月20日に堂本さんを迎えることや、これからのこと語り合って、帰りはかなり遅くなりました。その日、揺光の家に泊まって朝早く帰ってきました。




       浦佐小学校の学習発表会

        2009,10,17(土)   於、浦佐小学校体育館

今日は何十年ぶりに浦佐小学校の発表会に行ってきました。志重にとってのもう一人のおばあちゃんも東京から来ての参加。体育館に入っていったらもう1年生がずらっと並んでスタンバイしていました。9時になると始まりです。1年生による開会のあいさつ。

 次が、1年生の出し物「大きなカブ」です。教室でモルモットのころちゃんを飼っていて、それが、総合学習のテーマになっているらしく、ころちゃんも参加しての「大きなカブ」でした。志重は、ナレーターで、「やっとカブは抜けました」と最後に大きな声で言っていました。1年生に一人「場面緘黙」(家では、いくらでもしゃべるけど、学校ではしゃべらない)の女生徒がいて、その子は、ころちゃんの役で、しゃべらなくていいようになっていました。

3年生は、自分の家に赤ちゃんが生まれてくることを喜ぶことができない子どもの心理を中心に据えて、その子どもの気持ちを受け止めながら、赤ちゃんの出現を歓迎できるようにサポートしていく周りの大人たちを描いていて、なかなかの力作でした。

5年生は、総合学習で、イネの栽培です。無農薬、有機栽培で作ったとのこと。この有機栽培についての賛否両論が展開されていました。絶対に毒があるものは駄目、という人に、労働力と収量のことを考えて、少しは、除草剤を使っても仕方がない、という人。はっきりいって、生徒たちの家は、圧倒的に有機ではないので、両論併記にするしかないでしょう。

6年生は、30人31脚、という競技で、今年で3回、新潟県代表になっているのですが、今回もまた新潟県優勝までの経過をいろいろな方法で伝えてくれました。今回は、全国大会には出られなかったのですが、今回初めて、6年生全員44人で、これをやったということでした。タイムだけを競うのであれば、早い人を30人選んで、隊列を組むのが、一番のはずなのに、生徒たちとの話し合いの結果、全員で出場するという結論を出したのだそうです。その結果が、全国大会不出場だったのです。この話には、感動しました。最後の閉会式の時、司会の先生が、6年生がいかに頑張ったかという話をしてくれているときに、閉会のことばのために壇上に並んでいた6年生の一人は、涙があふれてしまって後ろを向いていたのが印象的でした。

最後に、小学校hp大会で、最優秀賞を取ったという報告があったので、今のぞいてみましたが、全校の活動状況が、たくさんの写真でつづられており、たしかに保護者たちが読みたくなるような内容でした。「1年生掃除デビュー」というコーナーには、志重の写真がありました。

hpにしろ、発表会にしろ、昔とは全然違っていて、興味深いものが多かった。総合学習という時間ができたことが大きいように思いました。

 

 

 

南牧村での田中瑞木美術館展

        2009,7,25〜10,12     
        於、長野県佐久郡南牧村美術民俗資料館

7月25日から、10月12日まで長野県佐久郡南牧村美術民俗資料館で田中瑞木美術館展が開かれていました。去年の9月に、ちょうどその近くにある私の友人の山荘に行ってきたばかり、そして、今年もまた秋に行こうということになっていたので、この展覧会が見られるようにと計画してもらいました。中学時代のバレー部友だち5人で、10月12日から2泊という日程で、「合宿」となりました。

新宿から高速バスで野辺山まで来る人たちと、高崎、佐久平、小海線で野辺山までいくわたしが、野辺山駅で落ち合って、駅前の資料館に入りました。その日は、最終日とあって、田中瑞木さんとご両親が出迎えてくださり、説明を受けながら見ることができた貴重な体験でした。

田中瑞木さんは、自閉症の画家として、障害を持つたくさんの人たちを勇気づけてきています。彼女の描いた「ねこの原っぱ」は、小学校の美術の教科書に載ったほか、さまざまな賞を受賞している100号の油絵です。私のところの夢草堂でも展覧会をしましたが、その時には、せいぜい20点ぐらいしか展示できませんでした。当時、彼女の作品は、64点で、卓夫はその全ての中から、15枚ぐらいを選んで、コピーを購入して、萌気園の中に飾っています。だから、展示されている物のうちのいくつかは、私にとってはなじみ深いものだったのですが、見たことがないものもかなりありました。今回の展覧会に向けて製作した作品もあるとのことでした。全部で74点の中から、今回は、50数点が展示できたそうです。作品の半分ぐらいには、お母さんの筆による解説が付いていて、これがまたとっても温かな雰囲気を醸し出していました。

私の友人たち4人は、とっても感動して、絵葉書とか、お母さん(阿部愛子さん)の文と瑞木さんの絵で作られている本を購入したりしていました。瑞木さんの絵が、とっても多様で、色もすごくたくさんのものが使われています。どこからこんなにたくさんのアイデアや色が出てくるのかと不思議がっていました。調布市布田に田中瑞木美術館があります。http://umi.or.jp

私は、この日一番感動したのは、瑞木さんが絵筆を持って制作しているビデオを見られたということでした。対人関係でも昔ほどの臆病さがなくなって積極的に語りかけてくることもあるようになっていましたが、それにもまして、製作中の彼女は自信たっぷりに、頭の中にある構想を絵筆に乗せて描いてゆく、その姿勢に大変感動しました。

その後、八ヶ岳の中腹にある山荘(標高1700メートル)の周りを探索したりして、八ヶ岳の秋を満喫して帰ってきました。




在宅ケアを支える診療所・市民ネットワーク全国集会

      2009,9,20〜21      於、前橋県民会館

 黒岩卓夫が代表を務めている在宅ケアを支える診療所・市民ネットワーク全国集会in群馬に参加しました。20日は朝の9時から始まるので、八ヶ岳の山荘を5時半に出発しました。

 上州名物の空っ風が吹く中、県民会館に早くにつきました。大勢の人を外で待たせて、8;30にやっと玄関が開きました。どんどん参加者が押し寄せて南魚沼からのバスもつき、私の桐鈴会からも職員が二人、卓夫の萌気園のバスに乗せてもらって30人ぐらいに混じってやってきました。そのころにやっと玄関が開いたのです。

 はじめにこのネットワーク代表である黒岩卓夫の「講演」があり、「今度こそ代表を辞めようと思ったので、最後に30分話そうと思ったのですが、実は、まだやめられないことになってしまっています」が最初の挨拶でした。今回が15回目なので、15年も同じ人が代表をしているのです。これは何なのでしょう?72歳ですから、もう後進に譲ったらいいと思っているのですが、後任が決まらないという現実があるようです。その後の話は聞きながら眠ってしまっていて、後で「どうだった?」と聞かれても何も言えず、気の毒してしまいました。

 記念講演は、高橋泰国際医療福祉大学教授の「ライフステージと医療制度〜生活を守る医療を目指して〜」と中村桂子JT生命誌研究館館長の「生老病死と向き合う医療」の二つでした。中村桂子さんは、大学の先輩で、去年さつき会で講演していただいたというご縁で、私が、出演交渉をしたので、出迎えたり見送ったりしました。高橋泰さんの講演が始まる時に来られ、それを聞きたいということで、会場の一番前の席にご案内しました。彼女の講演が始まってその意味がわかりました。「ライフステージという言葉は、私が初めて作り出したものなのです。それまでは、生命保険会社が、ライフサイクルと言っていただけでした。」とのこと。現代生物学は、地球上にいる多様な生き物たちが祖先を同じくして38億年という歴史を共有する仲間であることを明らかにしました。人間を自然の中の生き物の一つとして見つめるのが彼女の言う生命誌。

 ゲノム、DNAなどの研究をする自分と日常子育てをする自分との関係を考えていって、いきついた所が生命誌だった。というのを聞いて、私は、「女性だなあ」と感じました。最後に質問に答えて「孫のいない人は、未来の社会とつながれないということはない。あなたが生きてくる中でたくさんのつながりを持ってきて、そのつながりは遺伝子だけでつないでいくものではないから、大丈夫です」と言われたのも説得力を持ったと思いました。

 その日の午後は、「認知症高齢者の人権をめぐって」の分科会に行き、大熊一夫さん(「ルポ・精神病棟」の著者で、最近、イタリアで精神病院をなくしたことを「週刊金曜日」で連載報告し、近々本になるのですが、この活動で、イタリアから表彰を受けた)が、精神病院の実態を写真で紹介し、日本とイタリアとの違いを浮き彫りにしてくれました。弁護士の高野範城さんは、「認知症高齢者の意思をどのようにして尊重するのかということが、介護保険法には定められていない。家族や、ヘルパーの意思ではなく、本人の意思を尊重するように介護サービスを変えていくべき」と熱っぽく語りました。二人とも知り合いなので、終わってから前に行くと、二人とも宇洋の当選を喜んでくださって、特に高野さんは、学生無年金裁判の東京裁判の弁護士だったので、たかひろが、無年金議連に戻ってきたことをとても喜んでくださいました。

 その日の夜の懇親会には、たかひろも来て、お世話になった皆さんへのお礼のあいさつをしました。その後にもえぎ会、桐鈴会、を交えて、調剤薬局の社長さんが招待してくださっての懇親会にも参加してご挨拶でした。

 翌日は、実践報告の「認知症」分科会に行きました。以前に比べて、報告がなかなかレベルアップして利用者本位になってきたと感じました。ただ一つ驚いたのは、グループホームで、入居者がなくなった時に、ほかの入居者に知らせないでいたというところがあったことです。そういう感覚そのものに驚いてしまいました。桐鈴会では、夢草堂というお寺があるので、ご遺体をそこに移して、皆でお別れをします。菩提寺でお葬式をする場合でも、入居者の皆さんとのお別れはここでしてから、菩提寺に運んでいます。ついこの間101歳で亡くなってしまった駒形タケノさんが、般若心経を詠みあげて、皆で供養もしていたのでした。 

 11月8日(日)が、桐鈴会の10周年記念行事です。そのメインイベントは、「福祉界のヨシモトといわれている福岡寿さんの講演です。「小児の在宅医療」という分科会で、重症心身の子どもたちがテーマになるところで、この福岡さんが講師となっておられました。打ち合わせも兼ねて、昼食の時からご一緒しました。「黒岩さんの旦那さんが、この会の代表なんですね。驚きました」が最初の挨拶でした。

 いつもながら、彼の話は面白い。例えばこういうことになります。

 「皆さん、通勤途中で、人の車が道の側溝に落ちているのを見つけてしまったとしますね。見なければよかったと思いますよね。でも見てしまった。そうしたら、自分一人でそれを何とかしようと考えないで、人の力を借りようとしましょう。まず、行きかう車を止めます。何人かが下りてきてくれたら、仕事を分配します。そして自分は、何もしないでみている人になりましょう。みている人が必要なんです。」

 「見なければよかったと思いますよね」というこれが入っていることで、彼の話は、皆さんの心にしみていくのではないかしら?と考えました。だからいつかもご紹介したように、彼の考えに反対する人から、「福岡には喋らせるな」と言われてしまうのですね。

 側溝に車が落ちる、というのは、重症心身障害児が生まれる、ということのたとえでしょう。それは、認知症高齢者にもそっくり当てはまります。とにかく、そういう当事者を中心に据えたグループで、任務分担してケアをしていこうという呼びかけなのでした。それを桐鈴会の10周年でも話してね、と言ってきました。

彼のほかにも、この分科会の講師がありました。愛媛県松山市で、訪問看護ステーションを運営している梶原厚子さんは、ステーションを開設して10年間、患者さんの半分が小児だったそうで、新生児集中治療室から連絡が入って退院直後から訪問しているケースが増えているとのこと。入院中から相談が入って、やり取りしてから退院となるケースも出てきて、継続的な支援ができつつあるとのことでした。

 夕方浦佐について、たかひろがいつもいっていたホルモン焼きの店で、海映家族と私たち4人が落ち合うことになっていました。その店に入ったとたん「いま卓夫さんがテレビに出ていた」と店の人やお客一同が言います。前橋でNHKの記者からインタビューを受けたのだそうです。家に帰ると留守電でも、そのテレビを見たという報告が何件かありました。

 「長寿から天寿へ」というスローガンが、そこここで唱えられていた大会でした。いたずらに延命をするのではなく、天命を待つという姿勢で、天寿を全うしたいものだと改めて思いました。



志重(海映の長女、6歳)のことば「ママの気持ちわかるよ」

             2009,9

 海映の長女志重は、この4月に浦佐小学校に入学し、放課後は、学校のすぐ前にある学童保育に通う日々を過ごしていました。そのうち、朝の登校班で、いやなことを言う上級生がいる、というようなことから、登校班には入らないで、親が送っていくようになり、朝電話してきて「おばあちゃん、今日ぼく(自分のことをこう言います、母親もそうでした)と遊べる?」「うん」というと休んで、私と過ごしたりしていました。私の都合がつかないときは、母親の事務所で過ごしたり、3時間目から行ったりと、自分の考えで決めていました。

 夏休みは、私が新発田に行って留守だったので、学童には1日行っただけで、後は、友達を遊ぶこともあったし、母親の事務所で遊ぶこともあったようですが、9月に入ってからは、母親が言うには、少しずつ落ち着いてきたようでした。9月15日朝、母親が突然腹痛で、病院に行くとそのまま入院、その時の診断では、腸閉そくでしたが、後では、ビールス性腸炎ではないかとのこと。結局3泊して退院してきました。24時間の点滴で2日間過ごし、安静で治ってきたのでしょう。

 入院中は、朝7時に海映の家に出勤(?)7;30に家を出て、司法修習に向かう海映の夫を送り出した後、3人の子供に朝食を食べさせ、下の子どもたち(4歳と1歳)を病院に運んで授乳してから保育園に送りだし、1年生の長女は、3時間目から学校に行ったり、1日中休んだり、夕方からは、夕食つくりに保育園のお迎え、そして寝かせつけまで。3日ですっかり疲れてしまいました。1歳の次女は、生まれて初めて母親がいない夜を過ごすことになりました。その結果、入院中に夜中の授乳を卒業し、その後断乳までできたのでした。

 そんな中で長女志重との会話が、結構楽しくて、二人で過ごす時間は、それなりに受け取るものがたくさんです。

 「おばあちゃんは、萌ちゃんとたかちゃんを、実験して育てたんだよね。実験て楽しいよね。夏央(1歳になったばかりの次女)ちゃんはいつも実験しているね。受話器をなめてみるとどうかな?受話器をかじってみるとどうかな?ママの鼻の穴に指を突っ込むとどうかな?ってね」

 学校を休み始めたころは、平気で、学校の庭にあるブランコに乗ったりしていたのに、この頃は、学校のそばを歩くのは嫌だといい、友達が「ずる休み」というから嫌だ、というので「どういうのをずる休みっていうの?」「病気でないのに休むこと」「じゃああなたのはずる休みそのものじゃない」と私。すると「学校てば、いってもいいし行かなくてもいいんだよね」というので「そうだよ」というと「ママもそういうよ。でもパパはいかなくちゃいけないって思っているよ」

 私「おばあちゃんは小さい時、しょっちゅう病気をしていたから、学校はたびたび休んでいたけど、そういう時、私の知らないところで、みんなが楽しんでいるかもしれないって不安に思ったりしていたけど、君はどう?」「ときどきそう思うよ」

 「どうして学校行かないの」と聞いてみました。「おばあちゃんといるほうがいいから」「学校のどういうところがいやなの?」「本読むの好きじゃないのに読まされるんだもの」というのですが、担任の先生は、この上ないと思われるほど柔軟で受け入れがいいのです。何時に行っても笑顔で受け取ってくれ、15日にママが入院した日、休んでいたのだけど「明日は、先生にママが入院したってお話しするから学校に行く」と言って出掛けたのでした。帰りには友達二人連れて、我が家に来ました。我が家の内外で、それはそれは楽しそうに遊んで、でも、途中で思い出したように帰ってきて「ママにお花をプレゼントする」と言って花屋に行き、自分で選んで花束を作りました。ママを喜ばせてご機嫌でした。

 9月の末になって、ほとんど毎日学校には行くようになってきました。「今日は、何時間目から行ったの」と聞くと海映が「2時間目から、この頃はいつも2時間目から行ってくれてママはとっても助かっている。志重ちゃんありがとう」すると志重が言いました。ぼくね、ママの気持ちがわかるよ。悠士(4歳の弟)がいうこときかないときどんな気持がするかっていうのと同じでしょ」




日韓若手音楽家のコンサート

      2009,9,14    於、新潟市音楽文化会館

日韓若手音楽家のコンサートに新潟市音楽文化会館へ行ってきました。袖山さん、伝さんのほか、新潟の方が数名、浦佐からは、かつての黒岩秩子後援会長の大久保マサイさんも一緒に行きました。

 スイスのバーゼルから主催者の野川等さんが来られて、宇洋の当選をことのほか喜んでくださいました。「ベアテの贈りもの」バーゼル上映会で知り合った方です。かなり前から、この上映会について、スポンサー探しのご協力をしてきたのでした。

7人の演奏者は、ほとんどが20代。30代が少しという若さです。演奏について論評ができるほどのものではありませんが、私にとっては、何年ぶりかで生の演奏を聴くチャンスだったので、とても素晴らしい時間をいただくことができました。それにしては、観客が少なくて、演奏者にとても申し訳ない思いでした。バイオリンが二人のほかは、ビオラ、チェロ、ピアノ、オーボエ、クラリネット、が一人ずつ、日本人4人韓国人3人、すべて、バーゼルに住んでいる方々でした。

音楽文化会館は、音響がいいということで、音楽家の皆さんには喜ばれている会館とのことですが、400席ぐらいの会場が、100人ぐらいという状態でした。演奏者の一人が、亀田町(今は新潟市)の出身で、その方の知り合いがかなり見えている感じでした。

最後に野川さんが挨拶をされ、「日本と韓国が政治的には不幸な関係になってしまってきましたが、ヨンさまのお陰で、かなり近づくことができた。それが文化の力です。去年から始めた催しですが、来年は、東北各地で催したいと考えています。」今回はソウルをかわぎりに新潟、富山、群馬、東京、と回ります。

 私は、ピアノを習い始めた小1の孫を連れてくればよかったと思ったくらい、私にとっては素晴らしい音の世界でした。




上原公子講演会

        2009,9,12      於、新潟市アルザ

 「女性議員を増やす会にいがた」の主催で行われたのですが、いつもの会場がいっぱいで、やっと座るところがあるという状態でした。

 上原さんは、娘さんがアトピーで、そのためにいい空気を求めて国立に引っ越したのが国立との付き合いの始まり。初めての市民運動は、学校のそばを大きな道路が通るという計画に対して、子どもたちの安全を求めての反対署名運動だった。いろいろと抵抗があったが、結局は道路は通らないことになった。

 生活クラブという生協にそこで出会い、2番目の子どもさんがおなかにいる時に、そこの代表となって、都議会へ女性を送る。その後生活者ネットとなるところから、市議になり、その後市長となった。生活者ネットでは、議員は、「代理人」ということで、1700万の年収から、本人の月給20万が支給され、あとはみんなで使うという仕組み。女性市長は、全国で4人目だった。

 市長になると50億の借金を返済した。無駄な支出を見つけ出しては減らしていって捻出した。

 国立には、大学通りという実に見事な緑に覆われた素晴らしい景観の通りがあります。ここに業者が建てようとした14階建てのマンション。それに対して住民が裁判を起こした。もともと大学通りにかかろうとした歩道橋を「車優先」ではなく、歩く人間を優先にすべきということで、1969年ごろ日本で初めての環境権裁判を起こした土地がら。その歩道橋は、今もそのままかかっていますが、そこを通る人はほとんどないとのこと。マンションに反対する裁判は、市民の運動が裁判所を動かしてとうとう勝利となりました。

 今話題になっている八ッ場ダム、上原さんは、水を飲む立場から、現地に行ったそうです。観光地として栄えていた現地の方々と交流し、ダムの底に沈む部落は、そこの歴史が一切なくなってしまうということを訴えた。「こんな水は飲みたくない」ともっと早くから訴えるべきだった。と上原さん。

 新潟県でも、ダムに反対する運動があり、その中心を担ってきた三橋さんが、新聞で見てきた、と言って参加されました。魚沼の揚水ダムを反対してつぶし、たかひろが参議院になって間もない頃、清津峡ダムに反対して、宇洋も三橋さんと一緒に行動をとったことがありました。だから、三橋さんは、新潟2区であるにもかかわらず、たかひろの選挙はがきを送ってきてくださり、私は、お礼の電話で、彼女と知り合っていたのです。この日初めてお目にかかりましたが、物静かなふるまいの中にしっかりとした芯をおもちのかただと感じ取りました。

 上原さんの話が終わると、司会者が、議員さんたちを指名しました。初めに西村ちなみさん、「上原さんが、与野党が逆転したのに、今まで通り与党は与党、野党は野党、みたいな発言があって、おかしかったといわれましたが、私も、今度は、与党として、恥ずかしくないような行動を取りたいです」と発言して、笑いを誘いました。

 終わってからいつものように第一ホテルの喫茶店で懇親会をして、同じ新幹線で浦佐まで帰ってきました。無防備都市宣言のことや、日本で初めての知的障害者施設滝野川学園のことなど、共通している市民運動のことを語り合ってきました。社民党から参議院議員に出馬して落選されたことも、裏の事情などいろいろと伺うことができました。




雪国青年会議所勉強会−バイオマス

      2009,9,11       於,南魚沼市民会館

たかひろが元会員だったために届いた雪国青年会議所からの便りを開けてみたら、とても興味深いテーマだったので、私が参加してきました。「バイオマス利活用で持続可能な循環型社会の実現」というタイトルに惹かれました。
そもそも「バイオマス」という言葉に初めて出会ったのは、2001年私が、参議院にいたときでした。原子力発電に代わるオルタナティブエネルギーということでバイオマスが挙げられており、全国では、いくつかの市町村が取り組んでいるという資料がありました。バイオマスというのは、再生可能な、生物由来の有機性資源で、化石燃料を除いたもの、とのことだそうです。

今回聞いて一番驚いたのは、「バイオマス活用推進基本法」が、この春に国会を通って、2009,9,12にその法律が施行されるということでした。つまり明日から、この法律が生きてくるというのです。市町村などという段階ではなく、日本国が、バイオマスを活用するというのです。

今回の政権交代で、鳩山さんが、温室効果ガスの削減を25%といったことで、そこここに波紋を広げていますが、8%といわれていたのを一挙に25%とあげたのですから、関係者の驚きは相当なものでしょう。今日の講師は、二人とも私は初めて聞いた名前ですが、宇佐洋二(日本有機資源協会会員)、金屋年展(慶応大学教授)とても興味深い話をされていました。二人とも、民主党政権になったことを喜んでいる感じがしました。

南魚沼市も「バイオマスタウン構想」がすでにできているのでした。地産地消もバイオマス構想に含まれています。地元の食材で生きていく、ということは、輸送コストもかからないし、保存料もいらない。省エネを考えれば当たり前のことです。地元の人たちが作った食材を安く、新鮮なうちに消費者に届ける「8人8色」という名前の直販所が歩いて行けるところにあります。ここは本当に安くておいしいので、観光バスがよく止まっていて、遠くからも買いに来る人がいる(地産地消に反しますが)地元にとってはとてもありがたい直販所です。農協がテコ入れをして運営しています。

金屋さんの話でとても興味深かったのは、カタツムリの殻は、どんなに汚れたところを歩いてきてもいつもきれいですね。それがどうしてそうなっているのかを追求したら、そのメカニズムがわかったそうで、それを利用して、決して汚れない壁とか天井を作ったりできたらいい、という話でした。これこそ、私にはうってつけ、少々高くても手に入れたいです。金屋さんは、大学教授のほかにいろいろな起業をしていて、例えば、青森で、ラーメン屋をしているそうです。そのラーメンは、体に悪いといわれている「かん水」の代わりに何かの貝のからの成分を使っているとのこと。青森の海で取れる貝です。

知らない間にこんなことが進行していたことを知って少しうれしくなった勉強会でした。なんと驚いたことに50人ぐらいの参加者のうち、女性は私が一人だけでした。先日、村上や、新発田で、青年会議所主催の公開討論会がありましたが、そこには、ちゃんと女性の会員もいたのでしたが、南魚沼の青年会議所には女性がいないのか?それともこのテーマでは来る女性がいなかったのか?知る由もありませんでした。私の知っている顔は、たった二人だけでした。40歳までという条件があって、確か、たかひろはすでに卒業しているのでした。




選挙報告

     2009,9,1       黒岩秩子

 今日の夕方自宅に戻りました。

 それにしても、こんなに大差がつくとは思っていなかったのでただただびっくりでした。66%の得票率は、新潟県では、一位でした。2年前に落選した直後、この新潟3区の人たちが何人も、「3区で出て」とのラブコールをくださいました。これはとっても嬉しいことでした。その中核メンバーがとっても熱心に運動してくださいました。各地に後援会組織ができて、昨日今日と、その方々が、ポスターはがしをしてくださり、事務所では、応援してくださった皆さんへのお礼の電話賭けをしてくださっています。

 そんな後援会の方々のぼらんてぃあに支えられての選挙活動でした。投票日が近くなってもちっとも増えてこないボランティアさんの数に少々不安になったりもしましたが、電話賭けの方々が、電話帳に電話してみて、8割の方が、入れるといった、などということを驚きとともに報告して下さったりしたので、たぶん落選することはないのだろうと思うことができて、余裕をもって活動することができて、本当にうれしかったです。

 最後の週には、ものすごいネガティブキャンペーンのチラシが、村上地域で配られ、こういうのは、落選する側の最後のあがきだと言ってはみるものの、以前、夫が町長選で落ちた時にも、こういうありもしない悪口を書いたビラが出たことがあったので、必ずしもこれは,優勢を信じる証にはならないと思い直したりしていました。

 最後に親ばか発言として聞いていただけばいいのですが、たかひろと美春が二人でそれぞれにたった一人で、一軒一軒飛び込んで行っては、支持をお願いしてきたことや、土日を除く毎朝、7:30からのおはよう行動が人々の共感を呼んできていたこと。私は、紹介者はがきを送ってくださった方にお礼の電話をするのが仕事でしたが、電話の向こうで語られることには、このような行動によって支持が拡大してきたということを読み取れるのでした。

 これまでの政治家は人の家を訪問するときに、何人かを従えていたのですが、彼らは、まったく一人で飛び込んだのでした。「本当に本人か」と聞かれることもあったそうです。そうやって出会って、応援したという方が本当にたくさんでした。

 8時が過ぎたらすぐに当確が出てしまってまだ当選の心の準備が整っていなかった方が多かったようです。しばらくして、巨大な鯛をもって登場した方がありました。日頃支援してくださっている料亭の方でした。この鯛をたかひろは、胸に抱いてマイクの前に立ちました。それを両手で高く持ち上げたのですが、胸に抱いたときにしみ込んだ鯛のしずくで胸が汚れ、美春さんは、それを自分のハンカチで拭きました。翌日の新潟日報は、その鯛を持ち上げたたかひろと、その胸を拭いている美春さんの写真が大きく載ったのでした。この鯛の目方は知りませんが、両手で持ち上げるのがとても大変だったとたかひろが言っていました。翌日、さばいていただいて、たくさんのボランティアさんと一緒に鯛の刺身とタイの潮汁で大勢の昼食となったのでした。お米は、皆さんから届いたいただきものだし、すべていただきものばかりの食卓で、お祝いをしたのでした。たかひろ夫妻は、お礼参りで不在だったので、夕食に運んで食べたのでした。

 翌朝から早速活動開始です。最後の1週間7:20〜8:00通勤途中の車にご挨拶をし続けてきたのですが、31日の朝は、美春さんのお母さんや、たかひろの兄弟(義兄一人弟二人)などを含めて10数人で新発田インターお早う行動をしました。マスコミ各社が、それを今日は報道してくれていたようでした。

 30日スタッフたちとの祝勝会で、卓夫がこんな話をしました。「今回のたかひろの当選に貢献してくれたのは、2年前の森裕子さんと、候補者を出してくれた社民党です」確かに、森さんが頑張らなかったり、社民党が出なければ、たかひろが当選してしまい、そうしたら、衆議院に鞍替えというわけにもいかなかったので、今日の勝利はなかったでしょう。そしてまた、稲葉さんの敗戦の弁を聞いて、相手候補が稲葉さんだったことも大変ありがたかったと思いました。「なぜ負けたのか分からない」というのです。だから負けたのですよね。恐らく。

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 今日は9月5日です。

 宇洋の得票率が民主党で8位、全国では12位だと教えてくださった方がありました。鳩山さんとほとんど同じだったということに驚きました。


民主党     (1)玄葉光一郎 福嶋3区   73.76
         (2)岡田克也           72.20 
         (3)
大島 敦 埼玉6区     67.56 
         (4)川田 徹 岩手3区     66.99 
         
(5)古川元久 愛知2区     66.61 
         (6)渡辺 周  静岡6区    66.53 
         (7)鳩山由紀夫          66.36 
         (8)黒岩宇洋           66.03

  みんなの党 (1) 渡辺喜美 栃木3区     95.30%  

 7月18日から一月半、新発田の宇洋の宿舎に泊まり込んでいました。桐鈴会理事長としての最低限の任務には、戻ってきていましたが、最後の3週間は戻らずでした。

 2年前の選挙で悔しい思いをした方々が、県内各地から訪ねてきてくださり、特に、魚沼や、新潟市の方々は、頻繁に事務所に来てくださいました。沖縄、北海道、東京、石川県などからも激励に来られ、泊まって活動をしてくださった方も何人もあり、全国の皆さんからの応援があって、今回の勝利に結びついたと思います。

 新潟県は、6区まであり、3区以外はすべて民主党の候補者が既に現職として存在していました。私が住んでいる魚沼地方は、5区なのですが、ここは、会派が同じ田中真紀子さんがおられます。3区だけが民主党空白区となっていたので、3区の住民からも、民主党からも求められるという形となりました。3区は、新潟県の一番北、山形県や、福島県と接しています。農山漁村地帯が多いところです。生まれてこのかた「稲葉」としか書いたことがないというお年寄りも多い地域でもあります。中選挙区時代には、自民党と社会党が2議席ずつだったといいます。自民党の二議席は、稲葉、渡辺で占めていたのがほとんどとのこと。その渡辺良夫の子孫が、私たちの次女海映の夫真一郎だったということも、大変ありがたいことでした。真一郎の父親肇さんは、元衆議院議員として大きな集会のたびにメッセージをくださいました。渡辺家の親族や、後援会だったという方々が、そこここにおられ、今回の選挙に深くかかわってくださいました。

 もう一つ、たかひろの妻美春の母方が、村上市(旧山北町)の出身で、親族や同級生などたくさんあって、これも大変ありがたいことでした。相手候補から「よそ者」といわれる中、美春の出身が山北だということでどれだけ救われたことか。私が「たかひろの母親」と言ったとたんに「山北ですか」といわれることがたびたびでした。「ごめんなさい、私は魚沼です」と何回言ったことでしょう。

 民主党の出したマニフェストについては、全国各地で議論になったことが、たぶん同じような議論になって、やり取りをしたものです。子ども手当、高速道路無料化、専業主婦の税控除撤廃、農家の所得補償。電話で受けたクレームは、それぞれが書き留めて、たかひろの机に上の箱にためておくことにしていました。利害が対立する問題が多く、その調整が、「政治」ということになると実感しました。

 私たち夫婦は、「これで親業は終わりにしたい」と言い合っています。「次回の選挙はきょうだいでサポートしてくれ」と卓夫は言い渡していました。「あのご夫婦の息子さんなら」と言ってくださる方がたくさんあったことはうれしいことでしたが、これからは、たかひろ本人の力で、開拓していってほしいと考えています。もちろん今回だって、たかひろの力で開拓したものですけどね。




志重のピアノ発表会

      2009,7,5      於、南魚沼市コミュニティーホールさわらび

 5日(日)は、志重のピアノの発表会でした。先生の柳元子さん(私の歌の先生でもある)のやり方がとっても子どもにいい感じなので、発表会自体がいい感じでした。そもそも一番初めに登場したのは、3歳の全盲の女の子。この子のお姉さんは、1年生で、志重と同じ誕生日。この子たちのお父さんは、石田泉君。萌宇の1年下です。私が4歳の時に受けもった。この全盲のノアちゃん、ものすごくかわいくて、人気者。最後に全員合唱があったのだけど、志重は、もう出たくなくなっていてぐずっていたら、「ノアちゃんが呼んでるよ」の声でステージに行きました。ノアちゃんの手をつないでうたった志重でした。志重のピアノは、上手だった。大きな音が出ていた。元子さんの伴奏つきです。

 3歳ぐらいの男の子もいたり、とっても上手な高校生もいたり、卓夫は途中で帰ると言っていたのに9:45〜12:30、ばっちり聞いていました。

「ノアちゃんのお姉ちゃんは、ピアノやらないの?」と志重に聞いたら、「好きじゃないんだって」との答えでした。





黒岩たかひろ木崎ミニ集会

         2009,7,4      於、木崎公民館

 早通の駅に迎えにきてくださった今井重稔さんは、浦佐在住の小尾アキさんの息子さん。この小尾さんは、卓夫が大和病院でずうっといっしょだった保健婦さん、その後、もえぎ園でずうっと働いて、この3月に80歳で、退職となったのですが、その方の息子さんが、木崎に住んでいて、たかひろにとっては、小学校の3年先輩にあたります。たかひろは顔を覚えているそうですが、私は覚えていませんでした。また二男の巌志を同じ子守りさんに預けていたので、当時は、兄弟のようだったのですが。といっても、彼は、すでに小学生になっていて、赤ちゃんだった巌志のことは全く記憶にないでしょう。

 今井重稔さんの車で公民館につきました。今井さんは、地域の伝統文化を継承する会の会長さん。この方の存在があって初めて、木崎の集会が企画されたというのです。というのは、木崎村という大きな地域の中の木崎という集落は、地主の集まりで、ほとんどが保守。ということを知らずに、私は、あいさつの中で、「木崎争議で、よく知っていました。ここで活躍をしていた三宅正一さんは、魚沼のほうの昔の新潟3区で、衆議院になっていました」と言ったのだけど、どうも反応がいまいちでした。懇親会になってわかったことは、木崎といっても周辺の集落で、小作争議となり、ここ木崎集落は、争議の相手方だったというのでした。そういうわけで、この集落で集会をしたのは、常に自民党。野党の集会は今回が初めてだというのでした。しかし、80軒しかない集落で30人以上が参加されていて驚きました。

 たかひろが初めに聞きました。「私と初めての方」すると4分の3ぐらいの手が挙がりました。そうだということは、とっても効果が上がる集会だということです。美春、私、たかひろと話してから、会場の方が手を挙げて話し出しました。「私は、建設業界に属しているものです。これまで建設業界はいつも自民党を推薦してきました。ところが今回はそれをやめ、自主投票ということになりました。」そして、かなり長々と持論を展開して、今回はたかひろを支援すると結んだのでした。この地域の後援会長さんも実は,JAの方で、JAもこれまでは、自民党支持できていました。こんな方々が増えてきて、うれしいことでした。

 1時間ぐらいで、懇親会になりました。これが結構興味深かった。女性のグループのところに注ぎに行ったら、こんなことを言われました。「お母さんの話を聞いてとってもいい環境の中でたかひろさんが生まれたことを知りました」それは、私が、こういったからなのでしょう。「たかひろが生まれる前、私は、男女の双子が生まれるようにと願を掛けていました。すると願いどおりに生まれてきたので、この子は、おなかの中から親孝行だったのです。」「男女を同じに育てれば、同じになるのだろうと思って育て始めたのに、全然結果が違っていた」ということが興味深かったとその方は言います。「男女平等といっても重たいものは、男の人に持ってもらったほうがいいと思うのです。男女の違いを認めたうえで、同権にするのがいいと思っています」と言われ、私もそう思うといって共感しあいました。「たかひろは、女性の中では、男性の中でよりも支持率が低いんですよ。どうか、女性のみなさんに広げてください」とお願いしたら、最後のガンバロウコールのときに、その方が、「お母さんの話では、女性に人気がないとのことですが、この中の女性はみんなたかひろさんのファンです」と叫んでくださいました。

 翌日は、孫のピアノの発表会が午前中にあるので、その夜帰ってくるつもりで、駅まで美春に届けてもらったのに、時間を間違えていて、終電に乗れず、また、公民館に引き返したのでした。たぶん、私の無意識が、もっとこの会場にいたいと思って、時間を間違えたのでしょう。翌朝の一番で戻ってきました。



「地域の茶の間」大交流会

       2009,7,4      於、トキメッセスノーホール

 「地域の茶の間」大交流会に参加してきました。「地域の茶の間」というのは、新潟県が発祥の地で、それを始めたのは、河田珪子さん。だから、今回の集会の主催者です。入口のところで、参加者の応対をしていました。

 集会は、3部に分かれていて、1部は、さわやか財団の堀田力さんの基調講演の前に、河田珪子さんと篠田新潟市長の話がありました。河田珪子さんは、「20年ぐらい前でしょうか?茶の間つくりをしていたときに、黒岩卓夫さんが、地域医療の中で、お茶の間をやっていると聞いてつながったのでした。今日は、奥さんが見えています」卓夫は、往診先で、お茶をごちそうになり、そこに何人か集まって、一緒に診察をするということを今でもしているのです。

 篠田さんが、パワーポイントで、新潟の個性を発信しました。その中に、お茶の間もあったり、こわれれ物の祭典、水と緑の大地、などがあり、お笑い事業団の写真には、袖山さんがしっかり映っていました。

 その次に出てきた堀田さんは、まずこういったのです。「水とか緑とかはいいんです。人と人がつながらなくては始まらない」「人なんです人!」と強調していました。「つながらなくては始まらない」というのがスローガンのようでした。

 第2部は、くじ引きで、8〜9人のテーブルを囲んで、話し合います。「地域の茶の間」は新潟県ではかなり広がっていますが、県外はそうでもないのだそうです。でも、沖縄から北海道までの県外者が80人、総勢770人の参加者です。私のテーブルは、学生さんと2〜3人を除いて、皆さん、お茶の間の実践者たちでした。古くは、10年前から、新しくは、分水町で、1年前からしているとのことで、それぞれの悩みを語り合って、交流していました。私も、ケアハウス鈴懸で、月に2回お茶会をしているので、その報告をしました。このテーブルに、新発田市の方が二人もいたので、リーフを渡してお願いしました。それを見ていた秋葉区の方が「私も、3区に知り合いがありますから、ください」と言ってリーフを数枚持って行ってくれ、新発田の方々も、数枚ずつ持って行ってくれました。そのうちの一人は、新発田女子高で、河田さんと同級生だったという方でした。

 第3部は、リレートークということで、まずは、河田珪子さん、「お茶の間には、赤ちゃんも、お年寄りも、障害を持っている人も集い、そこにいると人が優しくなれるからいいといわれています。」10分ずつなので、河田さんの話は、しゃべり足りない感じでした。次の清水義晴(えにしや)さんが、河田さんにインタビュー「どうしてそこに行くと人が優しくなれるのですか?」「いろいろな人がいるからでは?」清水「それだけ?もっとあるでしょう?私は、はじめてお茶の間に行ったとき、森林浴ならぬ人間浴だと感じました。居心地がいい。その秘訣は?」

河田さんのこたえは

1、「あんた誰?」というかおをしない。

2、「仲良しグループを作らない」

3、「エプロンをしない」

 この3、は、働いている人がいて、受け身になってしまう人がいる、というようにならないためだそうです。

 このようにして、人の良さを引き出していくのは、清水義晴さんの「えにしや」を標榜するゆえんだと思いました。清水さんは、篠田市長の選挙で、たぶん過労のために脳こうそくで倒れて、車いすの生活です。

 新潟市社協常務理事の仁多見浩さんが興味深い話をしていました。三重県の伊賀市の社協が、「断らない社協」という本を出しているのだそうです。実は、ほとんどの社協は、社会福祉協議会という名前を持っている割には、公務員に準じていて、楽な仕事しかせず、大変な仕事は、民間任せなのです。わがほうも同じ。社協がやらないところを桐鈴会がやっています。ところが、伊賀市の社協は、相談されたら、どんなことに対しても、どこかにつなぐ。つなぐところがなかったら、自分のところで作る。ということを徹底していて、たくさんの事業を作り出しているのだそうです。伊賀市というのは、山岸会に住んでいる弟が、いるところなので、今度行ったらぜひ訪ねてこようと思いました。

 帰りに、「あぶあぶあの奇跡」のチラシを配っている人がいて、私を覚えていてくれて、内山孝子さんとも出会うことができました。先日結び屋の総会に行ったときに出会った人たちでした。




黒岩たかひろ早通ミニ集会

      2009,6,27

 新潟市北区早通のミニ集会に参加しました。新潟市北区の中の旧豊栄地域は、3区に入っています。ここはなかなか大変なところなのですが、今回樋口玲子さん、が役員としてかかわってくださっていることがわかっていたので、ぜひ行ってみたいと思っていたのでした。去年の10月に選挙事務所が豊栄にできて、その事務所開きに行ったら、なんと参加者の女性はたった一人だったということが忘れられず、豊栄市内の女性たちに「女性集会をして」と声をかけていたのでした。

 早通の駅に樋口さんが迎えに来てくださっていて感激!新潟女性会議のメンバーで、私は出会ったことがあるのに、お顔が思い出せなかったのです。ごめんなさい。駅に来てくださって、すっかり胸に刻むことができました。

 今回も、美春さん、私が、5分ぐらいずつ話して、たかひろに。彼の話で、3つのことが私にとって新鮮でした。

1、土日の高速道路1000円、には必要条件がある。[ETCをつける」という。それでETCを販売しているところは大もうけ。そこは、悪名高き特殊法人で、(今いろいろと調べてみたのだけど、その法人の名前はわかりませんでした)国交省の天下り先、とのことです。民主党が、政権を取ったら、高速道路料金無料化、と言っています。そうなったら、このETCカードは売れなくなるので、今のうちに売っておこうというのでは?

2、天下り官僚たちへの税金の投入が、毎年12兆6000億円。消費税1%が、2兆5000億なので、ちょうど5%の消費税が、天下り官僚に流れているということになる。

3、政権が民主党に移りそうということで、「埋蔵金」と言われてきたものを今、補正予算などで、どんどん使ってしまおうというバラマキをやっている。政権を取った民主党には使われたくないからということらしい。

 45分で集会を終えて、その会場で懇親会。ここではいろいろな方と親しくお話できて、たかひろ、美春、私もそれぞれが楽しませていただきました。最終新幹線で帰ってくるために、中座することになってしまいました。また、来週の土曜日、豊栄地区の木崎ミニ集会に参加することにしました。





松浦集会、たかひろ

      2009,6,25       於、松浦公民館

 私たち夫婦は行ってみて本当に驚いてしまいました。何しろ600世帯ぐらいの地区で、150人もの方がきてくださったのですから。窓を開けても人いきれで、汗だくになってしまうのでした。

 ここ松浦地区には、土井光信さんという本当に熱心な後援会長がおられ、去年、それ選挙!ということで、私は新発田に住み着いていましたが、その時に、土井さんが、松浦地区を引きまわしてくださいました。巌志も、それから渡邉真一郎(渡辺良夫さんの孫で、私の次女の夫)も多分ひきまわしていただいたのでした。

 だから、顔なじみの方もあって、初めから笑顔で迎えてくださったのでした。私たち夫婦は、二人で、20分という時間をいただき、私は、宇洋が生まれたときからのいくつかのエピソードや、登校拒否のことなどを話し、最後に、私のところで運営しているケアハウス、グループホーム、では、ほとんどの方が、入院せずに自分の部屋で、亡くなっていっている。それには、夫が運営している萌気会の訪問看護、訪問医療、訪問リハビリがあるおかげなので、卓夫からは、在宅医療の話を、と言ってマイクを渡しました。

 すると卓夫は真っ先に「宇洋から褒めるようにと言われているので、ひとつだけほめます」と前置きして「去年秩子の母がグループホームで亡くなったのですが、その時、母の意識がなくなって、自分の力では、食物がとれなくなって、点滴などの管をつけないままにするというのに対して、宇洋は、おばあちゃんに対しての思い入れがあって、もしかして意識が戻ることもあるかもしれないから、せめて点滴だけでもと主張してくれ、私たちもそれに負けて管を復活させたことがあります」と話し、「命を大切にするということが、国の一番の仕事。生まれてくる子どもたちを温かく迎え入れ、老いてからの心配がないように手当てをするのが政治であるはず。また、こんなにたくさんの自殺者を出しているということも政治の責任。命を大切にできる政権を!」と訴えました。

 たかひろは、年金の話をする時に「ここには若い方ばかりなので、年金をもらっている方はないと思いますが」と前置きをしたので、笑いが広がりました。




「向井承子、古希を歌う」

        2009,6,21    於、恵比寿駅前アートカフェ・フレンズ

 21日は、東京恵比寿駅前のアートカフェ・フレンズにて「向井承子、古希を歌う」というイベントがありました。向井承子さんは、まだ上越新幹線が通っていないころからの友人で、そのころは、東京に出ていくと彼女に家に泊めていただくというのが、常でした。そもそもは、「障害児を普通学校へ・全国連絡会」の全国集会で彼女の話を聞いて感動した私が、この町に彼女を呼んで話をしていただいたというのが、事の始まりでした。彼女の誕生日が、私とおなじ1月4日で、私より一つ上、お姉さんです。

 「古希にねえ,私がシャンソンを歌うの」「聞きに行く!」と言い合ったのは、去年だったかもしれません。小雨が降る恵比寿駅に降り立って、駅の地図を眺めていたら、そのすぐ前に「向井承子」という看板を持っている女性がいることを発見。声をかけると傘をさして送り届けてくださいました。「とっても分かりにくいところなので、これで10人ぐらい送ったんですよ。向井さんが、誰だか分らないぐらい変身していますよ。期待していてください」確かに駅前2分とはいえ、とっても分かりにくいところで、送っていただけたことを感謝しました。あるビルの地下のレストランです。30分ぐらい前だというのに、ほとんどの席が埋まっていて、私は、背もたれのない小さな丸い椅子しか見当たりませんでした。隣のカップルは、札幌北高時代の同級生同士で結婚した夫婦でした。見渡しても一人も知っている人がいません。そのうち、田中喜美子さんが来て、受付にいたWE編集長の稲邑さんも会場に入ってきて、開演となりました。200人を超える聴衆が、目を凝らすと本当に変身しきった向井さんが、登場!

 ピアノに向って音をいくつか叩きました。それは、「海ゆかば」だったそうです。すると爆弾が落とされたような効果音が響き渡ります。なんだろうと全員の注目を集めて、承子さんのトークが始まります。「1945年3月10日は第1次の東京大空襲でした。4月13日は、第2次の城北空襲で、私はその時焼け出されて逃げました。今のはその時の爆撃の音でした。火の中をかいくぐって逃げ、北海道に移り住みました。その後兄は衰弱して亡くなり、東京では、たくさんの方がなくなりました。私は、生き延びて70年にもなります。戦地や、満州など、さまざまなところで、たくさんの方が亡くなり、生き延びた私たちは、いのちへの感謝をこめて、記憶に残す最後の世代としてレクイエムのような感覚で歌いたかった」

 さて、シャンソンです。すべての歌が、日本語でした。初めは「ふるさとの山」。彼女の声は、かすれています。歌う時には、どんなに声が変っているのだろう、とそのことに関心を持っていた私は、彼女の歌を聴いて一番驚いたのは、彼女が普通の声でうたっているということ。終わってからそれを伝えたら、「シャンソンというのは、語りと歌の間なの。語りでもないけど歌でもない。だから、普通の声で、話しかけるように歌うものだって先生に言われてね」

 「シャンソンとトークライブ」となっていたことに改めて気がつきました。テレビで、歌の番組などを見ていると、歌と関係なく作り笑顔をするところが気になることが多いのだけど、向井さんは、第一部は、「記憶の中の戦争」というタイトルです。戦争の話から始まって、深刻な歌が多く、笑顔は全く見られませんでした。そのことに大変好感を持ってしまいました。バックの音楽は、ピアノ、アコーディオン、バイオリン、ベース。それが、どの方もプロ。その迫力ある演奏に引けを取らない迫力で歌う向井さんの姿に見とれてしまいました。第一部の最後は、ピアニスト永畑雅人さんとの共演。永畑さんは、永畑道子さんの息子さんで、小さい時から知っている向井さんにとっては、息子のような存在なのでしょう。承子さんの息子さんも一人は、音楽家になって、今は、アメリカで、演奏活動をしています。それでも、母の古希とあって、帰国して参加し、裏方さんをしていました。「永畑道子さんへ」という手紙を向井さんが読んだのですが、それは、専業主婦として子育てをしていた承子さんが、二人の子どもの手を引いて、仕事を求めて市川房江さんの事務所を訪ねる姿が描かれていました。「あなたのような方を待っていたのよ」と市川房江に言われて、政治にもかかわるようになったそうです。

 第2部は、物書きという点では、妹分に当たる宮淑子さんが、友情出演、物書きとしては、永畑道子、向井承子、宮淑子が3姉妹だったのだそうです。この宮さんが、承子さんをシャンソンの道に引き込んだとのことでした。後半は、「コメディアン」をはじめ最後が、「愛の賛歌」と一緒に体を動かして歌ったり踊ったりしたくなるような曲が、続き、何と20分の休憩が入ったとはいえ、2時間以上を一人で、歌いまくった承子さんでした。歌の指導をされている浅川喜雄さんは「こんなに素晴らしく歌えるとは思っていなかった。来年もこれをやろう」と絶賛。終わっても皆さん席を立たず、余韻を楽しんでいるという感じでした。私も、結局シャンソン仲間との懇親会に出ることになり、今度、稲邑さんが、こちらに来られたら、二人で、夢草堂で、カンカン娘を歌おうということにまで発展しました。早速カンカン娘の楽譜を彼女に送ったことでした。




「誰が私たちの面倒を見るの?」(Who cares?)

         2009,6,20    於、龍谷大学深草学舎

 今回京都にいったのは、タイトルのような催しが龍谷大学深草学舎であったからです。2年前に私や赤松さんが、ベアテの贈りもの関係で長崎暢子さんから龍谷大学に呼んでいただいたのと同じように、今回は基調講演が上野さんで、外国人労働者の問題のフォーラムでした。上野さんとの橋渡しを私がしたということから、また私としてもそのテーマに興味があったので、長崎さんとも会いたいし、出かけたのでした。

 500人の会場の通路にいすを出して、結局660人も入ったというのは、上野千鶴子の「人寄せパンダ」が響いたこともあるのでしょうし、朝日新聞が共催なので、紙面で宣伝した効果もあったのでしょう。

 初めのあいさつで、前研究所長だった長崎暢子さんがアフラシア平和解決研究センターについて話しました。5年間の期限を切って世界の紛争解決について研究する場所なのだそうです。長崎さんは、去年の3月で定年となり、後任は、オーストラリアの女性ポールケントさんとなっていますが、その方の都合がつかなくて、長崎さんが話されたのでした。世界中の紛争を平和的に解決するという素晴らしい理想をもった組織なのですね。

 上野さんの講演「介護労働者は、本当に足りないのか?--グローバリゼーションとケア」です。「日本では、介護福祉士とか、ヘルパー2級など、資格を持っている人で、介護の仕事をしていない人が、30万人もいる、だから、介護労働者が足りないわけではない」それなのになぜ外国人介護士を入れているのか?

 EPA(経済連携協定)をアジア諸国と結んで、日本の製品を買ってもらうのに、日本として輸入しなくてはならない。そのために労働力として輸入することになった。

 インドネシアも、フィリピンもそちらの国で、看護師の資格を持った人たちが来るのだけど、こちらに来て4年間の間に、日本の看護師(本国での経験が、2年以上ある人)、または、介護士(経験が2年未満の人)の資格が取れなかったら、帰国してもらう、というとっても厳しい条件が付いている。すでに看護師の資格を持っているので、試験の内容が、言葉さえ分かれば、理解できているのだけど、漢字が読めなくて受からないというケースが多発しそう。せめて、試験問題にひらがなでルビを振る程度の配慮が必要なのでは?と上野さんは提案。

 そのような話を聞いた後登壇したのは、インドネシアから来た二人の介護福祉士候補者。二人は、横浜の同じ特養に勤めていて、初めは戸惑いもあったけど、9ヶ月経って慣れてきた、日本人の上司もとても親切に教えてくれると、すべて立派な日本語で語ってくれた。後で懇親会で聞いたら、二人は、インドネシアにいたときからの学友で、同じ施設に配属されたことがとっても嬉しかったとのことでした。200人余りが一緒に日本に来たようですが、おそらく、今回のこの二人は、一番恵まれている環境にいるのでしょう。その後いろいろな人の話を総合すると、たった一人で施設に配属された人や、一緒に配属された人と気が合わなかったりすると、それはそれは大変な生活になるようで、すでに、二人ぐらいが、帰国してしまっているそうです。

 外国人介護士を受け入れている特養の経営者の男性は、かなりあからさまに、「もう受け入れたくない」と表現していました。ただ、なぜなのかを具体的に聞くことはできませんでした。当事者が同席しているので、言いにくかったのでしょう。こんな話も出ていました。「日本人であればふるさとなどを歌えばお年寄りが喜ぶけど、そういう体験ができない人たち」また、入れ歯など見たこともないそうでした。そういう環境の違いに対して、お年寄りが、興味を持っていろいろと聞いて話が続くということもあるのでは?という意見もありました。

 実は、私のところのグループホームに、今ネパールの国際大学の学生の妻が、2時間働きに来ているんです。それは、それなりの事情があってのことなんだけど、結構、職員も、入居者も、その人の人柄がいいことも手伝って、うまくいっています。違いがあるからと言って、すぐに排除するということにはならないと思うのです。それだけ、許容量が広がって、お互いにその違いを楽しめたらいいと思うのですが、どこかで、ボタンをかけ違えてしまうと、どんどん悪くなっていってしまうこともあるのでしょうね。

 ただ、今の日本の介護の世界が、30万人も資格がありながら、介護の仕事をしていない、という状況をこの外国人介護士が入ってくることによって、改善する方向に持っていかなくても、待遇が悪いまま続いてしまう、ということになったら、これはまずいですよね。ここをどう考えていったらいいのか難しいところだと思いました。

 終わってからの懇親会に参加して、いろいろな人と語り合えました。海映と大学で同期で、隣のクラスだったという内田さん、妻が茨木市会議員をしている(別姓で、桂さん)という清水さんは、市民新党にいがたの皆さんをよく知っている方でした。

 夜は、長崎さんのおうちに泊めていただき、彼女の愛する夫君と3人で、いろいろな話が弾み、夫君が私のために購入してきてくださった瀬戸内海の魚、うおぜがとってもおいしく、始めていただく味でした。




アウンサンスーチーさんの64歳の誕生日

        2009,6,19       於、衆議院第一議員会館

 今日は、アウンサンスーチーさんの64歳の誕生日に寄せて、ビルマ女性連盟日本支部では、国会内で集会を開きました。衆議院第一議員会館にて、小宮山泰子議員の紹介で、1時からということで私も5分前に行ったのですが、入口の所に傍聴券を配っている人の姿が見えません。案内係に聞くと、会場に連絡を取ってくれ、小宮山泰子さんの秘書さんが出てきてくれ、会場に着いたらもう始まっていました。急きょ1時から本会議が入ったので、12時半にしたのだそうです。フェミ議連の木村民子前文京区議の呼びかけで参加しました。

 だから、既にほとんどの国会議員はいなくなっていて、小宮山泰子さんと下田敦子さんが残っているだけでした。1時すぎて、二人がいなくなってしまったら、私たちフェミニスト議員連盟の世話人3人とビルマ人女性たちとの交流会となりました。ビルマ人女性たちは、30人ぐらいが色とりどりの民族衣装で座っていました。

 初めに、フェミギの共同代表、三鷹市議野村羊子さんが、フェミギとしてのスーチーさんへのメッセージを読み上げ、その後、私たち3人が、スーチーさんへの個人的なメッセージをマイクの前で話しました。スーチーさんの毅然とした姿は、世界中の人達に勇気を与えるもので、神々しさを感じてしまう、と話し、大変な状況になっていると思いますが、どうかどうかお元気で。と結びました。

 その後、全員の自己紹介となり、私は、息子黒岩揺光がビルマからタイへの難民支援にかかわり、そこで知り合った韓国人スージンと結婚しました。と言うや、「スージンを知っている」という人がたくさん。「あのかわいい人ね」とも。難民支援のNGOに勤めているので、その仕事の関係での付き合いがあるのでしょう。揺光も、毎日新聞で、ビルマのサイクロンのことや、難民の皆さんのことなどを記事にしていると話しましたが、それは知られていないようでした。ビルマ市民フォーラムの運営委員をしていたことも話したのですが、これも知っている人なしでした。

 ビルマ人たちは、カレン族、チン族、モン族、カチン族、のほか、私の知らない民族の方もあって、それぞれが、それぞれの民族衣装をまとって、とても素敵な感じでした。5か月前に来た人もあれば、30年も日本に住んでいる人もあり、それでも、10年ぐらいの人は、まだ在留許可が下りていないようで、すでに下りたという人は、二人ぐらいしかいないようでした。日本語を勉強したいという人や、「お国のために頑張る」という人などがあって、同じ日本で生活をしていながら、その意識の違いに驚かされたりしました。元文京区会議員の木村民子さん、三鷹市議の野村さんと3人を含めて一緒に記念写真を撮ったりして別れました。30分ぐらいの短い時間だったので、ゆっくり話が聴けず、心残りでした。

 そのあと、私は、WINWINの推薦委員会に出席しました。




黒岩たかひろ阿賀野市大集会

      2009,6,14     於、水原総合体育館

 しばらくぶりに新潟3区に行ってきました。阿賀野市というのは、人口が4万5千。4町が合併してできた所。中心は、瓢湖で有名な水原町。白鳥の飛来地として新潟県では度々テレビに登場します。

 私は、朝、長岡で催された「第16回日本死の臨床研究会関東支部大会」で卓夫が良寛の話をするので、それを聞きに行って、途中退席で、水原に向かいました。2時に始めるというのに、長岡を11:09で発たなくては、間に合わないという実に交通が不便なところです。新津から、たった一台のワンマンカーに揺られて広い広い蒲原平野を進みました。初めての駅「京ヶ瀬」は、畑のど真ん中にあるという感じの駅で、周りにはほとんど家がありません。水原は、それでも商店街などがあって駅前通りなどがあります。

 会場は水原総合体育館、とっても広い所で、支援者の皆さんが会場つくりをしてくださっていました。何しろ、この会場には、椅子が500しかないそうで、前方は、ござを敷いて座る、500の椅子は、その後ろに、ということで、準備が終わらないうちから入場が始まります。開会10分前には、もう座るところがなくなって、会場係が2階へと案内します。ちょうどその頃、まずは履物を入れるナイロン袋がなくなりました。総合責任者の小林誠君は、「うれしい悲鳴だ」と困っているとは思えない嬉しい表情!「買いに行けば」と私が言ってもそんな気配はありません。いいやいいや手に持ってもらえば。次は、配るべきリーフレットがなくなった!

 1000人の目標ということで、まさかそんなにとみんなが思っていて、すべて、1000人分しか用意しなかったのだそうです。あとから来られた方に、すでに座っているスタッフが席を譲ります。そうしてとうとう二階も埋め尽くされてしまったのでした。

 私が、日頃はがきをくださった方々へお礼の電話をかけているのですが、その電話で話した方々から、かなり声をかけられたので、卓夫に早津剛展覧会の納会に代理出席をしてもらってこちらに参加してよかったと思いました。

 時間になると、旗を掲げた「親衛隊」に守られながら、候補者たかひろが登場、後ろから、真ん中の通路を歩きながら、両側の人たちと握手です。そのあとを水戸黄門のテレビの音楽とともにまた親衛隊と渡部恒三民主党最高顧問の登場。会場が沸きました。

 さて、肝心の話のほうは、まず、阿賀野市長の話から、予定より長引いています。新潟のマスコミを騒がせた、地元としては深刻な水原病院の医師不足について市長が訴えます。そもそも、この市長、現職市長と戦って、サプライズの当選。阿賀野市民の中で、「変えなくては」という意思が表現された選挙だったのでした。たぶん去年のことだったと思います。おととしかな?

 福島出身の渡部さんの話は、あの悠長な東北弁ですから、話がはじまったときから、笑いが始まっています。なぜ水戸黄門といわれるようになったのかということから、いけないのは、小泉と竹中だと断じ、心に残ったのはこういうことでした。東京駅の周りにたくさんの高層ビルが建っているが、あのひとつに平均6000人が入れるマンションがある。つまり、一つ建つと、6000人の村が、地方から消えるということ。小泉竹中の「規制緩和」による地方切り捨ての象徴としてこのことを話されました。「水戸黄門と、暴れん坊将軍が一緒に見られるなんて、皆さんは幸せ者」などと笑わせながら、必要なことはきっちりと言ってくださいました。

 たかひろは、天野市長が話された医師不足対策についての解決法を披露。学校の先生たちが、僻地にいったんは赴任するということを義務付けられているように医者たちにもそういう義務付けをすべきというのです。また、14日に出た世論調査の結果から、国民が一番不満に思っていることが、断トツで、「税金の無駄遣い」なので、民主党が掲げる天下り規制、特殊法人改革を訴えていく、それから、地方に企業が来なくなったのは、高速料金が高いためで、高速道路無料化で、地方には、いくらでも企業が来る。などなど。

 そのあとで、また、美春さんの情に訴える話があって、拍手喝采でした。

 天野市長が、予定より長く、渡部さんも15分超過、3時半に終わる予定が、たかひろが3時半から話をするというはめになったのですが、途中退席がほとんどなく、「トイレ」と言って立つ人がたくさんだったのは、驚きました。孫を連れてきた人が何人かありましたが、幼児や、小学生が、最後までおとなしくしていたことも驚きでした。

 終わってから懇親会でいろいろな話を聞くことができ、皆さんが、「これがはじまり」と声をそろえていたのが印象的でした。「たかひろさんも美春さんもすらすら話ができて感激」と言っていた人があって、みんな大笑いをしたのですが、どうやら、これまでここら辺の野党候補者は、話ができないと思いこまれていたようなのです。

 新発田の宿舎に袖山さんと泊まって、前日の片づけを手伝ったりして帰ってきました。事務所にたくさんのボラさんたちがきてくださっていて、本当に力強く思いました。




早津剛展覧会

     2009,6,7〜14    於、浦佐、地域交流伝承館夢草堂

 浦佐にある夢草堂で、7日から14日まで、毎日10:00から17:00早津剛展覧会が開かれていました。早津さんは、定年まで県立小出高校の美術の先生をしながら、かやぶき屋根の絵を描き続けてきました。この地域には、彼のファンがたくさんです。早津剛ギャラリーが隣町小出にあり、そこには、100号や50号の絵を含めてそれはそれはたくさんの絵が保管されており、夢草堂運営委員たちで見に行ったこともありました。夢草堂が、このかやぶき屋根の絵と溶け合って、とってもすばらしい雰囲気が醸し出されることが確信できたので、この展覧会への運びとなりました。絵と夢草堂が、お互いを引き立てあっていました。早津さんは、私の一つ上。

 8日間の展覧会はドラマに満ちていました。描かれているかやぶき屋根の家は、今ほとんど取り壊されてしまっているというのに、それでも、展覧会に並んだ絵のうち2つは確実に現存しています。屋根だけは、かやの上に何かをかぶせてしまっているのですが、そのまま使われているそうです。展覧会が始まるとすぐ「これは、私の母が住んでいた家です。」という若い女性が現れました。旧大和町の一番の僻地、辻又(小学校がなくなってもう30年にもなります)の家です。「明日は、母が来ます」と言って帰った後、本当に翌日そこに住んでいた方が現れました。この方は、ゆきぐに大和総合病院の看護婦さんだった青木せつ子さんで、私が、揺光を出産したときに世話してくださった方でした。辻又に学校があったころは、先生たちがよく家に来てご飯を食べていき、今でもその先生たちと交流があるとのことでした。今も、屋根は、かやぶきではなくなったもののそこに建っていて、兄の家族が住んでいるとのことでした。

 もう一つの「下原新田の家」は、今住んでいる家族の方が来られました。下原新田という部落が大きいだけに入居者や、職員たちが、「この家知っている」と何人もが言っていました。「魚沼の四季」というタイトルにして、魚沼地方を描いた絵だけを集めた甲斐があったというものです。

 4日は、その最終日で、夢草堂運営委員の方々と、早津剛さんとの懇親会が予定されていました。もともとこの展覧会の言いだしっぺではあるし、桐鈴会の理事長として、出ないわけにはいかないので、たかひろから14日の阿賀野市大集会に来てほしいといわれていたのに、とっても行かれない、と返事をしました。そのことを卓夫に伝えたら、卓夫がこう言います。「懇親会には、僕が代理で出るから、阿賀野集会に行ってくれば?阿賀野集会に僕が行っても意味がないから」と。そこで、夫の代理に妻が出るのはいつものことなので、妻の代わりに夫が、というのもまたいいかもと考えて、私が、阿賀野集会に行くことにしました。阿賀野市には、何人か知っている人もあるし、毎日、はがきをくださった皆さんにお礼の電話賭けをしているので、そこで知り合った方々も沢山なので。

 そんなわけで、6月5日の絵の搬入の日も私は、研修会に上京していて参加できず、また最終日の片づけにも参加できないまま終わることになってしまいました。

 実は、今回の展覧会の展示方法について、卓夫が提案して、二日目から、配置替えをして、とっても良くなったといういきさつもあるので、早津さんも卓夫が懇親会に出ることを喜んでくださるだろうと思うのでした。それに、絵のことはほとんどわからない私だし、卓夫は日曜美術館を毎週家にいる限り見ているほどですから。

 13日(土)の午後から、早津さんによる「解説」という時間が設けられていました。私は、数日前に「その時どんな解説をしてくださるの?」と聞いてしまいました。ちょうどその日はあまり混雑していなかったので、早津さんから私が一人で解説をうかがうことになってしまいました。民家の歴史ともいうべきもので、大変興味深いお話でした。日本の建築の歴史といえば、ほとんどが神社仏閣の建物が対象で、普通の民家は、壊されてなくなっているし、ほとんどその資料がないこともあって、やっと最近取り上げられるようになったばかりだということでした。

 破風(はぶ)というのは、三角屋根の三角の下に風が通る窓が付いているその名前です。いろりの煙がそこから外に出たのだそうです。これができたのは、江戸時代でしょうか?その前は、それがなくて、「めくら破風」と呼ばれていたのだそうです。このめくら破風の家も描かれているのですが、早津さんは、それらのことを「貴重品なんですよ。でも、どんどん壊されてしまっています。もったいないことです」とおっしゃいます。

 それから、家の向きについて、大広間が、山の頂上の方角になるように建ててあるというのです。岩手県の「南部曲がり屋」は有名ですが、こちらでも鍵型に建ててある家が多く、それは、雪や風に対する抵抗力が増すからだそうですが、その曲がり方が、川を挟むと対称形になっているというのです。つまり、どちらも広間が、川上に向くので、川の反対側には、対称形の家があるということになります。山岳信仰の名残だとのことでした。

 部曲がり屋は、曲がってくぼんだ位置に玄関があるのだけど、それは、雪が少ないからで、魚沼のように大雪の地域では、そのくぼんだところに沢山雪が落ちてくるので、そこには玄関を作れず、玄関は、破風の下あたりに作ることが多いとのこと。

 その翌日は、萌気園のデイサービスの方々が、集団で来られ、その中にとっても関心が深い方が3人ほどいらしたので、このときにもまた、この解説を聞くことになったのでした。お年寄りの皆さんにとっては、昔自分が住んでいた家とそっくりな家の絵なので、それはそれは喜ばれて、卓夫がいうところの「想い出療法」となっていたようでした。

 いつもひっきりなしにお客が見えていましたが、最終日だけは、とっても人数が多く、一日だけで、50人を超えるという盛況ぶりでした。夢草堂運営委員6人もみな大変ではあったけど楽しめたようで、その日私の代理で、懇親会に参加した卓夫もとても楽しかったのだそうでした。




南魚沼法律事務所開設パーティー

     2009,6,6    於、南魚沼法律事務所

 海映の法律事務所が、4月にオープンしたので、次のように皆さんにお披露目をする日を設けました。6月6日(土)13:00〜17:00  南魚沼法律事務所にて
025−777−4144

 6日午後から事務所開設のパーティーを開くというお知らせを私たち両親の知り合いも含めて1200枚ぐらい発送しました。当日は、午前中からお客様が・・・・。9時に来たけど留守だったからと出直してきた方もありました。海映もいつもは、土曜日は、子どもたちの保育園などを休ませているのですが、この日ばかりは、学童保育に保育園にとお弁当持参で預けて10時から、事務所に詰めました。まずは、大学の時の友人(海映によると京都大学の同期生で新潟県から行ったのは、その人と自分だけだったそうです)のご両親とその母親の3人が「昔浦佐に住んでいたんです。懐かしい」と言ってこられました。おじいさんが何と浦佐小学校の先生として、浦佐に住んでいたのだそうです。お父さんは、高校の数学の先生だったそうで、私も昔同業者だったので、不思議でした。固辞されるのをなんとか中に入っていただいて、お茶を飲んでいただいていると、もうその頃から、宅急便が、どかどかと到着し、同じ人が10個も配達してくれるので、30坪という事務所としては広いほうだというのに、歩くスペースがなくなるほど。私と秘書の笛田さんとで、どんどん中身を出して(ほとんどがお花)段ボールを処分していきます。

 海映の事務所は、半分ぐらいでいいと言ったのだけど、倒産した土建業者の事務所で10人ぐらいが勤務していた広さがあり、「安くしておくから全部借りてほしい」と言われて、なんと上越新幹線浦佐駅前3分のところで、30坪が、9万というお値段です。そこを3つの空間に仕切って、「来客用」「事務室」玄関とキッズコーナーとなっています。どこの部屋もお花でいっぱい、観葉植物などもあって、まるでお花屋さんのようになってきました。

 1時からという事なのに、お年寄りの気の早い方々は、まだ昼食中から来てくださいます。地元の方ばかりではなく、海映、夫真一郎の友人たちは、大抵東京から、それもほとんどが子ども連れです。中には、奈良から一人で来てくださった方も。とっても嬉しかったのは、水戸事件という障害者虐待事件の民事弁護団をやっていて、全面勝訴を勝ち取ったその原告のMさんが来てくれたこと。その人を乗せてきてくれた水戸事件弁護団の一人望さんの家族や、もう一人水戸事件を支える会を中心になって盛り上げていて、刑事事件の被告として務署生活をしてきた平島さんと弁護団の中西紀子さんが結婚し、この二人の子ども1,5人も。水戸事件関係者は、すべて泊まって行ってくれたのでした。

 海映がスリランカからの難民の支援をするのに、萌実ルートで紹介されたスリランカ語の通訳をしてくださった栢森さんも東京から来られたのですが、その方の夫は、週1回六日町病院で、診察をしています。以前、私と広田セツ子さんとで、かかわっていた高次脳機能障害者の方を診察してくださったのが、この栢森医師だったのです。ちょうど広田セツ子さんが、娘とその娘親子3代で来ているときに、栢森さんと出会うことになり二人とも感激していました。ささやかな食べ物と飲み物を囲んで、できる限りそこにいる方を皆さんに紹介して、ここでの出会いをその後につなげていくように配慮していた結果、このような不思議な出会いがたくさんありました。

 入ってくるなり「北大路さんですね」という人がいて、これまたびっくり。この旧姓を知っている人は、大学時代の知り合いしかありません。よく聞いてみると駒場で一緒に学生運動をしていたといいます。そして今、上越で弁護士をしていると名刺でわかりましたが、どういうルートで、海映の事務所開きがわかったのか、不思議でした。そうしたら、海映は、県内の弁護士には全員にお便りを出したのだそうです。それで、たぶん私たち夫婦の子どもだということが分かってきてくれたのでしょう。しばらく歓談して帰って行きました。

 弁護士で来られたのは、彼を含めて2人でしたが、花の鉢や、アレンジメントなどは、弁護士の皆さんからたくさん届いていました。同業者としては、司法書士や、税理士、行政書士の方はたくさん来てくださいました。近藤晃さんは、豊栄から来てこの地域の司法書士さんと一緒に来られ、その中には、巌志の友人の弟さんで、この町の人(和久井君)もいました。

 浦佐小学校の校長をしていた方が、大和病院に入院中だということで、息子さんの付き添いで外出許可をとってこられてびっくり、宮田学さんです。海映のころではなく、帆姿のころで、宮田先生が定年退職を迎えられた時には、帆姿が、手作りクッキーをプレゼントしたので感激され、その後湯沢町で町会議員をしていて、宇洋を応援してくださいました。自民党でありながら、応援したということで、かなり攻撃されたということでした。

 「海映ちゃん」と言って現れたのは、東京家庭裁判所の判事藤原典子さん、司法修習生の時に一緒だったので「海映ちゃん」なのだそうです。弁護士として依頼を受けたという方々も、遠くから来られて、総勢110人ぐらいが、来てくださいました。その中には南魚沼市長さんも入っています。

 当日の私の大事な役目はお金を持ってきた方に持ち帰っていただくこと。案内状に書いておけばよかったのですが、2,3日前に大町の親戚から「福沢諭吉を何人連れて行ったらいいのか」というメールが来てびっくり。そこで考えたのは、受取らないで、来てくださったことがうれしいと伝えようということになりました。だけど、秘書さんは、そんなことはできないというので、私が引き受けたのでした。「とにかく来ていただけただけでうれしいのです。」程度ではだめで、「私の仕事だから協力してね」という感じになります。それでもどうしても駄目だった方が4人ありました。「あなたにあげる」と言われた方もあって、そういうのは、桐鈴会への寄付としました。

 依頼事があってこられていた方もありましたが、当日はごった返していて、とてもそれどころではありませんでした。地域の皆さんのお役にたてれば、こんなにうれしいことはありません。この日海映のきょうだいたちは誰も来られなくて、私たち夫婦、海映夫婦、秘書さんと二人のお手伝いで接待したので、行き届かないところがいっぱいあったようでした。ごめんなさい。

 とにかく、新潟県は、長岡までしか弁護士がいなかったので、それより南側の十日町、小千谷、南北魚沼の広いエリアの方々が、4月の開設を待っていてくださったように毎日依頼者としてきてくださっています。




21年度施設開設・経営実務セミナー

      2009,6,4,5、   於、新霞が関ビル灘尾ホール

 21年度施設開設・経営実務セミナーが、東京霞ヶ関灘尾ホールで、4,5日に開かれ、初めて参加してきました。広田セツ子施設長が行くことになっていたのに、私に代って、と節子さんが言ってきたのは、卓夫によれば「経理などがどんなに大変なのか分かってほしいというセツ子さんの願いだろう」と私も考えていた通りのことを言って私を送り出しました。

 独立行政法人福祉医療機構が主催なので、ちょっと?をつけたままでかけました。ところが思いがけず興味深い話が聞けて、有意義な二日間でした。

 まず、厚労省の社会援護局福祉基盤課長の話では、不況対策、介護人材確保のための助成金があることを聞き逃さなかった。さっそく使わせてもらえるかな?

 公認会計士、税理士などの専門家たちの話を二日間ばっちり聞いて、いろいろと興味深いことを理解することができました。福祉というのは、ずうっと「措置制度」ということで、「お上」からのお情けで「やってあげている」というやり方だったのが、介護保険ができて「契約」という対等な考え方が導入され、会計の在り方にも「損益」という考え方が入ってきた。企業会計に近付いてきたということ。

 しかし、企業と社会福祉法人の違いは、利益が出た時に、株式会社だったら、株主への配当として配る。それに対して、社福(社会福祉法人)は、地域の制度的福祉から漏れたニーズを掘り起こして、そこに投入できる。それが社福。社福には、税金が投与されている。それは、公が行うべきセイフティーネットを公に代わってやっているからであって、倒産してなくなってしまうということは許されない。会計というのは、倒産しないための道具である。

 今回いろいろな形で、コスト削減の可能性が見えてきたのだけど、そうすることによって損益の「益」が増えることになり、その分だけ、地域の福祉が向上する、ということがありがたいことだと思った。

 私のやっている桐鈴会でも、制度適用外ショートステイという公益事業があって、南魚沼地域では、ただ一つの事業所。だから、介護保険とは関係なく、若いお母さんの産後鬱の治療や、DVからのシェルターなどにも利用してもらえている。まさに地域の制度的福祉から漏れたニーズをフォローしてきているのでした。

 経営上のかなり大切なことを、終わってから質問して、いい答えを頂いてくることもできたのでした。




ウーマンズアクションネットワーク設立集会

   2009,5,31    於、京都駅前キャンパスプラザ

 5月31日京都駅前のキャンパスプラザで開かれたウーマンズアクションネットワーク(WANと略す)設立集会に顔を出してきました。たまたま31日に甥っ子の結婚式が、芦屋であったので、ちょこっと顔を出す程度ですが、それでも、雰囲気が少しはつかめるのでは?と思って、帰り、夫と別れて、私は、集会が終わる1時間前に到着しました。上野千鶴子さんが、見つけて、一番前の席から、後ろを向いて手を振ってくれました。250人ぐらいの会場が埋め尽くされていました。

 13:30〜16:30という集会に、私が到着したのは15:40、大方のプログラムは終わって、参加者が会場から発言する、という時間になっていました。いくつか興味深い発言があったので、それを報告します。

 そもそも、ジェンダースタディーズのmlがかなり早くからこの集会の広報をしていました。呼びかけ人がどんどん増えていくことも見えていました。でも、私は、いつまでたってもその中に登場しない人がいることが気になって、そういう人の一人に聞いてみました。そうしていくつかの問題点を挙げてくれました。

 今回会場の方の発言を聞いていたら、その時に聞いた問題点と同じようなことを指摘する人がいました。「これまでも、日本のフェミニズムは、学者たちと、活動家たちの間に溝があったが、今回も呼びかけ人の多くが学者たちで、年会費10000円について払うのが難しいという感じのする人を思い浮かべてしまった。ウェブへの登録は無料だというが、この会費を払った会員とはどう違うのか、それから労働関係の人がすくない」と。これに対して、上野千鶴子さんは、「おっしゃる通り労働関係の人が少ないです。それのみならず、医療、芸能、DV相談関係、平和など少ない分野がたくさんあります。どうか、みんなの力で、それを埋めていこうではありませんか。」

 バックラッシュと闘わされている遥洋子さん、韓国における従軍慰安婦のことに取り組んでいる山下ヨエン(はっきり聞こえなかったので、正確ではない)さん、イスラム社会での名誉殺人について「ストップ」の署名運動をしているオープンという団体の山本よし子さん、シングルマザーズフォーラム関西の中野さん(これも定かではない)、元ドーンセンター館長の竹中恵美子さん、ウイメンズカウンセラーの須藤さん、草津市で女性運動を続けている「イーブン学舎」を続けている早田さん。などの発言を聞くことができました。発言する人が後ろの方に座っているとみんなが後ろを向くので、多くの人の顔が見えるのですが、その中では、知っていると思える人がたった一人でした。ということは、ここにいるほとんどの人が関西方面の方なのだと理解しました。

 終わってから、前に行って、上野さんに話しかけ「関西の人が多いのね。東京の人が見えなかった」というと、「東京では、これと同じ集会を7月20日にするのよ。」とのこと「さっき言ったでしょう?」とのことでした。「ジェンダースタディーズのmlとはどんな関係?」と聞くと「あっちは、MLだし、こっちはHPだから全然違うわよ」

 この日、隣の人がくれたチラシには、呼びかけ人の中に赤松良子さん、樋口恵子さんなど年配の方々も加わっていました。5月29日現在244人という呼びかけ人でした。そのチラシの書き込みに7月19日名古屋、7月20日東大、とのメモがありました。私が到着する前に今後の集会の話があったようでした。

 上野さんの記念講演は、「女から女たちへ、ウェブ時代の新しいシスターフッドを求めて」というものでした。初めから聞けなかったことはとっても残念でしたが、ボランティアで参加している人たちが、最後に立ち上がって紹介されていましたが、若い人が多いのに希望を感じました。呼びかけ人に学者が多いだけにその人たちの学生がたくさんいるように思えました。上野さんのところには、列を作って、話したい人が待っていました。私の前にいた人は、二人で、盛んに涙を拭きながら語っていました。上野さんは、そういう悩みを持った人たちの相談相手になっているのだと理解しました。

 帰りに私も会員になろうと考えて、登録を済ませてきました。

http://wan.or.jp/

これが、その建設中のHPです。

 滋賀県からよく「女政のえん」に来てくれている子育て支援関係の平井育恵さんからも声がかかり、京都駅までおしゃべりをしながら帰ってきました。




定額給付金

      2009,5,26

 皆さん、そろそろ定額給付金が届いているのでは?

 その使い道なのですが、かなり前に、揺光が新聞記事として、路上生活者支援に定額給付金を!と書きました。私は、それを心にとめていたので、今回揺光に送り先を知らせてもらいました。そこには、銀行の口座しか書いていなかったので、郵便局の口座はないかしら?と電話したのです。

 「新潟の黒岩といいます」と名乗ったとたんに「毎日新聞の揺光さん」と向こうが言います。「はい、その母親です」と言ったつもりなのに、しばらくしゃべってから、「揺光さんのお姉さんですか?」ときました。「私は、41歳で揺光を生んだんですよ。もうすっかり年寄です」なんて、余計なことまで言ってしまいました。それで話は盛り上がって、結局、郵便局の口座を聞くことができました。15110-2105971平田弘子さん。

 結局、父子家庭への支援であるフレンチトースト基金(10190−70010431)、にっぽん子育て応援団(00110−7−318481)、と3か所に送ることにしました。

 この定額給付金については、反対だったので、もらおうかどうしようかと考えていた時に、揺光の記事で、そんな使い方があるのだ、と気づかされ、もらうことにしたのでした。

 平田さんが言うには、揺光が記事を出したおかげで、ほかの新聞もみんな報道してくれて、それらの報道で、ずいぶんたくさんの人からカンパが届いたということでした。



NPO法人eばしょ結屋発足総会

             2009,5,23     於、結び屋

 内山孝子さんが代表を務めてきた結びやが、この3月から、NPO法人としてスタートしました。23日(土)は、その初めての総会だったので、会員の一人として参加しました。数日前に内山さんからとどいた案内によると、予算決算などを含む総会がたった5分で終わるようになっていたので、あれっとメールしたら、間違いで、30分だという修正の案内が届きました。ことほど左様に内山さんは数字に弱く、そこをカバーしているのが早川美江子さん。いいコンビです。

 つくとすぐに理事のひとり田村時蔵さんが打ってくれたおいしいおいしいソバをごちそうになり、また同じ田村さんによる三味線の演奏。

 総会が無事終了した後、理事の小柴幸子さんのトークから、利用者さんたちのトーク、そして、参加者全員のトークとなりました。このトークが聞きたくて参加したのですが、これが実にすばらしく、さまざまな方の話から、日ごろの結びやが何をしているのか、手に取るようにわかったのでした。

 利用者が、12人、そのうち今回トークをしたのは、半分ぐらいだったかな?一番年長の男性は、「ごーたれじじー」と呼ばれているそうですが、父親というよりは、祖父の役割をしている感じとのこと。「木曜日の料理が一番楽しみです」と。もう一人誰かのお母さんかと思っていた女性は、むすびやの「ボス」で、ミシン賭けの元締めだとか。みんなの世話を焼いているという若い女性は、手話をつけて発言。言葉を発するのが不得意な仲間については、彼女が、お母さんに様子を伝えてくれているそうです。ただひとりご両親が参加しているゆうじさんは、恥ずかしがってなかなか立ち上がれずにいたけど、意を決して前に出て、手話で「仕事がんばります」と発言。お母さんの発言によると、中学まで普通学級で来て、ずうっといじめられていた。結び屋に来てやっとのびのびとできるようになった。とのこと。

 のちに内山さんが言うには、このゆうじくん、学校にいたころは、落ち着きがなく、一瞬たりともじっとしていられなかった、だから結び屋に来たばかりのときには、その延長だったらしい。それが、今では、他の人のように思えるほど、落ち着いていて、笑顔がいっぱい。

 それぞれの方が、ここにきて、受け入れられて、やっと自分が出せるようになってきたようで、本当に笑いが多く楽しいトークでした。私も最後に、当地で取り組んできた「耕輔学校」で名をはせた耕輔君の話をしました。中学時代にいじめられていて、休み時間には教室にいられなくて、授業が終わると先生について職員室に行き、次の授業の先生と一緒に教室に入っていたというのです。このいじめを先頭でやっていたのが、今、相撲取りになっている「天一」。耕輔君は、今で言う「発達障害」の人で、できないことはいっぱいあるけど、相撲については、各力士の出身地、生年月日など、細かいことまでみんな知っているほどの相撲ファン。そこで、力士になった天一は、毎回番付表を耕輔に送ってきます。たぶん、学校時代自分がいじめていたことを後悔しているからなのでは?耕輔は、だからよく国技館まで相撲を見に行っています。「いじめ」というのも、そこだけを見れば、ただつらいだけかもしれないけど、加害者が後悔をして、その後変化するということもあるので、人生長い目で見てみるといろいろに変化することもあるのでは?と言ったのでした。

 内山さんは、この1月に初孫が生まれて、かわいくてたまらないと言いながらも、まだ一度も会いに行くことをしないまま、4月末に両親が、連れてきてくれて初対面をしたというのです。そのぐらい結び屋に入れ込んで、わき目も振らずまっしぐら、ですから、その一途さが、周りの人たちを動かしていってしまうのだと思いました。




後藤田圭博(よしひろ)さんの葬儀

    2009,5,13    於、東京青山葬儀所

 東京の青山葬儀所に、後藤田圭博(よしひろ)さんの葬儀で行ってきました。

 圭博さんは、後藤田正純さんの父で、卓夫とは、医学部の1年下。私が、初めて1995年に新党さきがけから立候補したときに、たぶんその関係でカンパをくださったので、私の名簿に存在します。2001年に私が、東京選挙区で立候補することになったときに、電話かけの方が、名簿で電話をかけてくださったときに、後藤田圭博さんの連れ合いの方が出て「うちの息子は自民党の代議士です」と言われたのだそうです。それを聞いて赤面しました。電話しないほうがいい方には、それなりのしるしをつけたのですが、そもそもその事実を知らなかったのでしるしをつけられなかったのでした。2000年の選挙で当選していたようです。今では、よくテレビに出ているので、皆さんはきっと知っておられることでしょう。女優の水野さんとの結婚でも有名なのでは?

 以来ずうっと後藤田さんの名前を聞くたびにこの「赤面の至り」を思い出していました。ところがつい最近のことです。卓夫が生協パルシステムの集まりで、後藤田正純さんと行きあって、後藤田正純さんが最近出した著書を頂いてきたのでした。正純さんが、卓夫と出会ったことを家に帰って話したらしく、直後にお父さんから電話があったと言っていたのですが、それからそんなに時間がたたないうちに亡くなったという知らせが届きました。卓夫が葬儀に行きたいけどいけないということで、私が、代わりに行ったのです。2001年の失礼をお詫びもしたかったし。

 青山葬儀場に20分ぐらい前に着いたのですが、もうすでにたくさんの人が行列をなしていました。「香典はいただきません」とはがきに書いてはあったのですが、二人の名前でご霊前をしたためていったのです。でもやはり受け取らないようです。ただ、どこで知り合ったのかというようなことを書くカードを記入して、「医療関係」「国会関係」「親戚」など部門別に分かれている受付にカードを出しただけで、入場しました。11時に葬儀が始まりました。葬儀委員長は、後藤田さんが理事長を務めていた調布にある東山会という医療法人社団の東山病院の名誉委員長、喪主は、長女で、東山病院の医者小川聡子さん。弔辞を読んだ方は、東大ボート部の10年先輩で、医学部を卒業したあと入局した外科の医局が一緒だった方と、ボート部の同期で、医局闘争を一緒にやり横浜労災病院院長という人、医学部同期で、卒業後厚生省の研究所に勤めた方、そして、徳島の高校が同期で、調布の東山病院の近くに住んでいるという方の4人でした。皆さんの話を総合すると、1939年1月生まれの後藤田さんは、大学を卒業して2年ぐらいたった時に、医局闘争が始まり、それが全国の学生の大学闘争の口火となったのでした。医局闘争で問題としたことは、患者の立場に立つということでしょうか?しばらく医局にいても、変わらないとあきらめて、医局闘争を戦った人たちは、どんどん医局を去り、自分の病院を作っていったのだそうです。後藤田さんは、今回の葬儀委員長にも呼びかけて、納得がいく医療をする病院を調布の駅前に作りました。(1982年)ところが過労がたたって、5年後には、体を壊して、人工透析が始まりました。2年前には、骨髄腫というような人工透析の患者さんが掛かりやすい病気になって、最後は、突然亡くなったという感じだったみたいです。

 徳島の東山というところが出身地だったので東山(とうざん)病院と名付けたそうです。私たちは、この浦佐に引っ越してくる前に住んでいたのが、調布でしたが、その後にこの病院ができ、卓夫はそこを訪ねたことがあるそうでした。調布の地で、地域の方々に信頼されて、今では、250人の職員がいる大きな病院になっているとのことでした。喪主の小川聡子さんのお話では、父親が作り上げた理念を引き継いでいけるという力強さを感じました。

 藤原研司さん(横浜労災病院院長)という方の話は大変な迫力でした。「後藤田」と呼び捨てで語りかけ、「君の人生は戦いの歴史だった」と結んだのでした。医学部時代に一緒に当直のアルバイトをしたことから、後藤田さんは外科、自分は内科で、二人の連係プレイで一人の患者さんの命を救ったことなどを披露。ボート部で、後藤田さんのリーダーシップで、それまで勝てたことがなかった慶応大学に勝ったこと、医局闘争で戦い、東山病院では、できたときから、地域医療を作り上げる戦いだったと。卓夫とは、医局闘争の流れで、その後「地域医療研究会」などでの仲間だったそうで、亡くなる直前の電話では、声に力がなく、体調が悪いとは言っていたけど、息子と卓夫が出会ったことをとっても喜んで、電話をかけてきたということでした。会場の入り口で、正純さんにお礼を言って、卓夫からの伝言を伝えました。

 葬儀は無宗教ということで、白いカーネーションを一人一人が献花するということで閉じました。帰りにつれあいのてる子さんと初めてお目にかかることができて、お詫びをして、帰ってきました。




竹信三恵子講演会報告

    2009,5,9     於、南魚沼市役所大会議室

 5月9日(土)午後、南魚沼市男女共同参画会議の主催で、総会の後竹信さんの「あなたが元気で働くために〜女性の貧困脱出のABC」という講演を聞きました。

 総会参加者の40人ぐらいのほかに、チラシ(市報に折り込んで全戸配布)を見てきた感じの人もたくさんで、80人ぐらいが聞き入りました。実に熱心に聞いていた後、質疑がどんどん手が上がって、時間を延長すること10分。なかなか活発な意見交換となりました。

 竹信さんの話は、まずはじめの「これから話すことは、暗い話ですが、それを聞くと暗くなる人もあるかもしれないけど、からくりがわかって元気が出る人もあると思う」という言い方が私には共感できました。そのからくりというのは、「高度経済成長期には、職場で働くことに没頭する父親と、無償で家事育児介護をする母親、というのが、男性と女性のモデルだった。ところが、派遣、期間工など非正規労働者が増えて、家族を養うだけの収入が得られない男性が多くなって、女性も働かなくてはやっていけなくなった。ところが、それに対応する保育所や、家の中の役割分業などが、働く女性を支援する方向で変われていない。夫婦で働くという生活のモデルが、出来上がっていないので、今それを作っていく過程なのだろう」ということでした。だから、そこに希望が見えるとも。

 離婚とリストラを合わせて「二つのり」と竹信さんは呼び、「二つのりがないという条件で、成り立っていた専業主婦家庭」と言います。そういう家庭だった人が、共働きになって、今までどうり完ぺきにこなそうとしたら、1日が48時間必要になってしまう。男には、「妻」がいるけど、女には「妻」がいない。でも、竹信さんには、「母」という「妻」がいた。

 同じ新聞社に勤める夫は帰りが遅い、子どもは、母が見てくれていた。保育園に入れようとしたら、母が病気だという診断書を持ってこいと言われる。母は、三恵子さんが小さい時から、未亡人として一人で薬局をしながら3人の子どもを育ててきた。だから、三恵子さんが仕事を続けられるように支えてくれた。実は、三恵子さんも5年前に夫が亡くなって未亡人。「未亡人は、2代目だから、慣れている」という。医者をしている姉が、母の具合が悪いという証明を書いてくれて保育園に入園できた。そんな体験を披露。

 竹信さんの取材のありようは、感動を呼びます。ホームレスの方々の取材をしていて、自分も一度やってみたいということで、渋谷の路上に寝たのだそうです。段ボールの中にすっぽり入ってしまうと蹴飛ばされたりするので、それを避けるには、顔を出すとよい、と言われたそうだけど、それは、男性にしかできないそうで、女性たちは、顔を出して寝たら、セクハラとかレイプにさらされるので、隠すしかない。ビルの玄関で寝ると、夜中に管理人が起こしに来るけど、それには知らん顔をして寝ていればいい、と教えてもらって、過ごすことができた。というのでした。学生時代ワンゲルで、寝袋に寝るのは慣れているから平気だったそうです。

 一番心に響いたのは、「棺桶の中からの人生観」というものでした。生きている限りは、人がどう思うかということに左右されやすいけど、棺桶に入ったときにああしなければよかったと思うようなことはしたくない。とのことでした。本当にそのように生きていきたいですね。

 開け広げな彼女の人柄が皆さんの心を打ったのだと思います。「ルポ雇用劣化不況」が、全部で42冊も売れ、(聞きにこられなくて本だけ買った人たちもある)6時からの夕食を交えた1000円会費の懇親会には、17人の参加。ここでしか聞けなかったこともたくさんあって、参加者一同満ち足りた気分で帰路に着きました。懇親会の会場が、さくり温泉健康館で、竹信さんはそこに泊まったので、皆さんが帰ってから、私も温泉につかり、裸の付き合いをして、帰りました。

 友人たちが手作りの料理を一品ずつ持ち寄って、さくりでも盛り込みを出してもらって、たらふく食べて飲んで、参加者全員の自己紹介と聞いた感想が結構みんな面白くて、満足しました。鈴懸施設長の広田セツ子さんが、娘の亜樹さんとその娘(9か月)と親子3代の参加でした。セツ子さんは、ずうっと長い専業主婦だったのに、56歳の時にいきなり鈴懸施設長になり、正規職員として働き始めたことを話し、それを受けて娘の亜樹さんは、「働き始めて大変だとは思うけど、若返ったようでうれしい」という。高校1年の時に、妹が入院して、母が付き添っていなくなり、私が、父と二人分の食事を作ったのだけど、とっても大変で、5時間目ぐらいからは、頭が、夕食のことでいっぱい。料理の本を見て考えていた。でも、食べ終わると父が「まずい!」という。家事の大変さを思い知らされた、とのことでした。ちなみに、この父親の「まずい」発言以後、セツ子さんは、亜樹さんに父親のご飯は作らなくていい、と解放してあげたのだそうです。

 懇親会だからこそ飛び出したと思われる話がたくさんあって、竹信さんは、夫が海外特派員志望で、まだ子どもが小さい時に3年もシンガポールに行っていた。帰ってきたときに「夫を更新します」と三恵子さんが宣言。夫は考え込んで、反省し、それから、家の中のことに協力するようになったということでした。「離婚」を決意して要求を出すと通ることってありますよね。それから、言わないでため込んで、散々ためてからぶつけるというのも結構いい方法で、70歳に近くなって夫に一晩中かかって訴えたら、それから夫が変わってきたという私の友人の話をしました。離婚しても一人で子どもを育てられないから、諦めて我慢してきたけど、今になって思いをぶつけられて、聞いてもらえて満足したというのでした。

 登録派遣というまるで人材紹介所のような人を馬鹿にした制度をなくすことに向けて竹信さんは、今を逃したら難しくなるばかり、ということで、がんばっていくと言っていました。本当に登録するだけで、仕事がなければそのまま、失業保険などもなくただ無収入のまま放置される、この登録派遣を真っ先になくす法案つくりに取り掛からなくてはということが身にせまってきました。

 かなり前のこと。竹信講演会のチラシを卓夫に渡して「萌気園で配って」というと「こんなところに参加する人は一人もいない」という。私は、むっとして無口になっていた。翌日「そのチラシを職場の数だけコピーすればもっていく」という、どうやら前日のことを反省したらしい。そうして、講演会当日は、講演を聴きに来て、終わると講師控室にいってしゃべりこんで、お茶飲みに誘って、竹信さんと語った後、二日町診療所を自ら案内した卓夫でした。彼の心にも届いたものがあったようです。



福祉の町、横浜と町田見聞記

         2009,4,3〜4    於、横浜市、町田市

 世織書房の代表伊藤昌宣さんがやっている障害者の作業所カプカプが既に2か所で展開しているのですが、今度3つ目の作業所を出すので、沖縄の人が就職しないか沖縄の人に話してもらえないか?というので、伊藤さんが、沖縄大好き人間のことは知っていたので、富山光枝さん(元勝連町の町議で、我が家のほぼ全員が、沖縄に行くたびに世話になっている)に話したら、彼女がちょうど4月の初め上京するので、現場を見たいというのです。それなら一緒に行こうということになっていました

 4月3日に、沖縄から富山さんが横浜に着く時間に合わせて、伊藤晶宣さんとも落合いました。伊藤さんが、福祉のことに深くかかわってこられたことは知っていたのですが、世織書房の伊藤さんと世織で付き合ってきただけでした。今回、富山さんをカプカプに案内するというので、これを機会に見せていただこうと便乗したのでした。

 大型活動ホーム どんとこい・みなみ

 こんな名前のところにまずは連れていかれました。ここは社会福祉法人 横浜共生会が運営する地域の活動拠点ともいうべきもの。地域活動ホーム統括所長 渡辺幹夫さんが応対してくださいました。地域活動ホームというのは、横浜市の18ある行政区すべてに最低一つはあり、相談支援、デイサービス、一時ケア・ショートステイ・余暇活動・おもちゃ文庫を含む生活支援、地域交流、地域訓練会等の活動を幅広くやっているのです。中でも、ここ南区の活動ホームは、「どんとこい」という名前が示す通り、相談に来られた方から出てくる問題には、すべて応えていこうという姿勢で貫かれています。

 施設は、横浜市が作って、民間委託しています。まだできて5年という新しい木の香りがする建物で、多様な部屋があって、ITの部屋や、フェルトなどでの制作部屋、グラフィックデザインの部屋など。障害者の皆さんが、多様な活動をしていました。時間帯が、昼休みだったので、くつろいでいる人たちが多く、のんびりした感じでした。トイレと風呂場が、たくさんあったという印象でした。喫茶室があって、そこは、地域の方々が、利用するので、ノーマライゼーションという点では、とてもいい場所。さらに、外に出たら、実にきれいな花壇があり、そこでは、地域の方を講師にして、地域の方向けにガーデニングの講習会をしているとのこと。そんな形も、地域交流にはいいですね。

 昔(と言っても3年ぐらい前)この地で私たちがやっていた「カカトット」のような活動をしている部屋もありました。保育園にまだ行っていない親子が過ごす部屋です。

 横浜共生会という社会福祉法人は、高齢者の施設から、障害者の各種の施設(グループホーム、ケアホームも)をたくさん持っている法人で、1993年に認可が下りています。理念として、ノーマライゼーションを掲げているので、昔風の大型施設ではありません。横浜市は360万の人口を抱えているだけにたくさんの施設を持っていますが、私たちとも、同じ方向を向いて活動しているという同志感を持ってしまいました。

 障害を持つ3人の女性がウェイトレスをし、親や支援者が即時を作っているレストランで、2時すぎてから昼食を取りました。インド風のカレーがおいしい店ということでしたが、私と富山さんが辛いのが苦手で、ハヤシライスとなりましたがどちらもとってもいい味でした。ここは県のスポーツセンターで大きなビルディングの1Fにある公設民営の施設のようでした。

 メインの見学先しょうがいしゃの作業所カプカプは今のところ二つあります。初めに行ったことろは、緑区竹山という商店街にありました。目の前が、桜が満開近くなっている池で、お花見ができるロケーションでした。建物は、天井がとっても高くて、広々としている商店街の一部屋を借りて、玄関から、木を使って手作りで装飾した温かみが醸し出されている空間でした。ちょうど仕事が終わる4時頃だったので、10人ぐらいのしょうがいを持つ人たちはお茶を飲み終わってくつろいでいるところ。いろいろな手作りの作品が陳列されていて、商品として売りに出されているのでした。この建物自体は、鉄筋モルタルつくりで、周囲の白壁には、ギャラリーができるようにステンレスの糸がつるされています。時々、ここを貸し出してギャラリーになるとのこと。利用者さんたちも、絵を描いたり、いろいろな作品つくりをしていました。ここの建物は、1Fのお店と2Fの宿舎が一体となっており、2Fは、泊まる人はいないものの、作品つくりをするお部屋として、また休憩室としても利用されていました。

 次に行ったところは、同愛会という法人が運営する作業所「織人」(おりじん)でした。名前通り織物をして小物やバック、Tシャツの詩集や洋服までセンスの良い品が数々ありました。所長の菊池すおさんのセンスなのでしょうか?私もそんなTシャツを求めようとしたのですが、試着してあきらめることになってしまいました。パツンパツンです!残念無念!

 横浜線鴨居駅近くの「織人」から、二つ目のカプカプに向かいました。そこは旭区上白根町にあるひかりが丘団地の中の西ひかりが丘商店街にあり、また近くの地域ケアプラザの中にもコーヒーコーナーを開いています。所長の鈴木励滋さんからお話をいただきました。この時間では、すでに利用者は、帰ってしまって職員だけが残っていたのですが、ここに店を出した時には、八百屋やよろず屋が商売敵として対応してくれて、また蕎麦屋や寿司屋もそっけなく大変でしたが、10年の間に寿司屋とは仲良くなり、蕎麦屋も経営者が変わり、理解してくれるようになったとのこと。3、40年前にできた団地は、高齢化して、購買力が落ちてきているので、寿司屋としても大変だろうとのこと。カプカプでも同じ現象があるのでしょうが、利用する障害者の皆さんは、増えるばかりで、入りきれなくなっているのが現状で、すぐ近くの店舗が閉店するので、そこを借りてスペースを広げるということでした。ここでは、クッキーを焼いて喫茶店に出したり、売ったりしています。

 最後に行ったところは、伊藤さんが代表を務める世織書房が経営しているコーヒー工場と百屋という自然食品店。出版社がお店?と前から不思議だと思っていたのですが、実物を見たら、なるほどという感じがしました。出版でつながっている人たちと共にボリビアで、学び舎つくりをしている団体事務局もしたりしているので、ボリビアのコーヒがあったり、喫茶コーナーには、世織で出している本の紹介があったり。沖縄が大好きで、毎年社員たちと沖縄に行っている伊藤さんとしては、沖縄の失業率の高さから、沖縄の青年が、社員になってくれたら、またそこから沖縄とのきずながもっと太くなるという目論見があるのでしょう。このお店の店長西山哲也さんが、カプカプで働いてくれる職員の勤務形態を富山さんに話していましたが、富山さんは、伊藤さんのやっていることが、自分のやっているとこと通じていて、すっかり仲間気分になってしまっているようでした。さっそく紹介したい若者がいる様子で、縁結びが成功することを祈って、JRで町田へ向かうことになりました。

 最後に、伊藤さんのもう一つの「仕事」がありました。それは、お連れ合いが養護施設の職員で、その施設は、大舎制ではなく、法人が「見てくれ普通の家」を立て、そこに職員家族と家族と住めない子どもたちと一緒に暮らす小舎制グループホーム型というやり方で、4〜5人が、家庭に分散生活する養護施設(親がいない、または、いないに等しい環境の子どもたちの施設)に住んでいます。日本で初めてそのやり方をしたのだと言っていましたが、伊藤さんは、そのグループホームの当直担当なのです。「夜警」というのかしら?15年ぐらい前に泊めていただいたことがあります。伊藤さんの子どもたちと、その施設の子どもたちが一緒に生活をしていました。親がいる伊藤さんの子どもたちを嫉妬する施設の子どもたちからの攻撃を受ける伊藤さんの子どもたちの大変さをも垣間見させていただきました。

 カプカプが喫茶店なので、「全国喫茶交流連絡会」というようなものがあるのでは?と水を向けてみたら、数年前に横浜でその全国集会をした時に、伊藤さんが若者に引っ張り出され、すべての企画、講師の交渉、ほとんどのスタッフの手配、お金集めの指示まで、事務局長役をやり、当日朝4時に起きて講師の弁当も作ったのだそうです。私は、この存在について、今萌実のパートナーとなっている工藤茂広さんから、聞いていました。たぶん工藤さんは、その横浜の全国集会にも参加していたのでは?そこで、伊藤さんと出会っていたのでは?

 ここで伊藤さんと別れて、富山さんたち(学生さんが一人同行)と町田に向かいました。町田の福祉祭りに参加するというのが、そもそもの上京の趣旨でした。私も、町田の福祉はかねてからみてみたいと思っていたので、ここにも同行したのでした。

 「東の町田、西の豊中」と言われていた時代は、1970年代でした。これは、障害者福祉先進地という分野でのことです。わが大和町で、「ともに育つ会」を頻繁に開いていたころ、そのメンバーの一人が、大和町議会事務局長をしていた関係があって、議会の総務文教委員会の視察先にこの二つの先進地が選ばれたことがありました。当時の町田市長は、大下勝正さんでした。要(かなめ、という苗字)さんという校長さんがいて、この方は、すべての障害を持つ子どもたちを普通学級に入れることに尽力していました。大下勝正市長が書かれた本をその当時読んで感動したことは覚えていますが、中身は忘れています。ただ、「福祉のまち町田」を出現させたのは、この市長だということだけは覚えていました。

 沖縄の富山さんは、町田との関係が深く、よく町田を訪ねていることは知っていましたし、以前、富山さんのやっている知的障害者の作業所の皆さんが芝居をやっていて、その公演を町田でしたときに見に行ったことは覚えています。今回、4,5日が、町田の桜祭りだから行くんだと聞いていただけなのですが、横浜で落ち合って、見学の後は、富山さんと一緒に町田に行って、翌日のお祭りに参加してみることにしました。町田の駅に着くと、8年前の東京選挙で街頭演説をしたことが、まるで昨日のことのように思い浮かびます。

 迎えに出てくださった黒坂昌範さんは、なんと、大下勝正さんの秘書をしていたこともあり、町田の福祉すべてに通じている方だったのです。5年前に定年で市役所を退職し、今は、町田市福祉サービス協会という社会福祉法人の常務理事として、たくさんの福祉事業所に関係しているという方でした。今回のお祭りも、市が主催するもので、桜の開花に合わせて、「さくらまつり」という名前で、市内各地の作業所などが、桜街道に出店するというのです。町田は、40万の都市で、作業所が、50とか60とかあるといいます。前日360万の横浜に作業所が、200個だと聞いてきたことと比べると、かなり多くあることがわかりました。

 そもそも1970年に市長になった大下さんは、障害者のことなど知らなかった人で、当時の社会党委員長鈴木茂三郎さんの秘書をしていただけでした。でも、とにかく、市民のための市政を行うということに徹していて、市民の声が聞こえるように風通しが良くなっていたのだそうです。ある時、障害を持った子どもの母親が来て言ったそうです。「いまは学校に行っているのでいいのですが、中学を卒業したら行くところがありません。」それを聞いて、あなたと同じような人がいたら、みんな呼んできてください。というので、その方は、仲間をたくさん呼んで一緒に行った。その人たちの声を聞いて、中学卒業後の居場所を作ることになったのだそうです。町田市が、作業所の建物を作り、皆さんが運営してください。という形で親の会の人たちに提供したのだそうです。

 このたびその中の一つに泊めていただくことになりました。迎えに来てくださった黒坂さんから、市政についていろいろと伺いながらたどり着いたところは七国山(標高が300メートルぐらい)のてっぺんにあるシイタケを作っている「こころみ農園」という作業所でした。「こころみ」という名前は、栃木県にあるこころみ学園というぶどう園からワインを造るという作業所から名前をいただいたのだそうです。こころみ農園のワイン、今年の私の誕生日に岡田弥生さんからプレゼントしていただいたのがそれでした。「知的障害者の作業所で作っているのです」と私に教えてくれたのは、萌実の夫工藤茂広さんでした。

 こころみ農園の作業所には、富山さんと一緒に沖縄から来た東浜さん(8年前の選挙の時に富山さんとたかひろの選挙事務所に来て、「がんばれーがんばれーたかひーろがんばあれ」と歌うのに、三振で伴奏してくださった現うるま市議)や、あと二人の女性が、先についていて、翌日の祭りで店を出して売るサーターアンダギーを作り始めていました。できたサーターアンダギーをさめてから袋詰めにすることや、時には、サーターアンダギーを揚げることなどを手伝って、夜を迎え、私は、入浴後先に寝てしまったのですが、なんと皆さんは、夜中の3時まで作っていたのだそうです。5個入りの袋が200以上できましたから、大変な労働だったに違いありません。

 早くに寝ただけあって、私は翌朝早くに目覚めました。たくさんの小鳥の鳴き声が聞こえます。鶯がすぐそばにいることがわかります。誘われたかのように外に出てみると、桜、桃などの花のほか高い欅のような木が茂っている林の中でした。その中を歩いて行くとシイタケの菌を打ち込んである原木がたくさん並んでいて、今は端境期で、シイタケの形は見えませんでしたが、最盛期には、どんなにたくさんとれるのだろうと想像しながら、歩きました。作業所の建物にもどったら、どんどん人がきはじめました。「7時半にはお母さん方が見えるから」と前日いわれていたのを思い出しました。今日の出店に必要なものを運びに来られたのでした。3時まで作業をしていた人達も起きて、朝食をとる暇もなく桜祭りの会場にたくさんの荷物と一緒に着きました。

 店ができ、呼び込みの看板ができ、10時頃には、売れる体制になりました。でも、お客が来る感じがしないので、富山さんとその仲間の方々と、ほかの店の探索に行きました。町田市の作業所が小物を作って売っていたりボタン園の経営している作業所が、ぼたんの苗を売っていたりします。この作業所がボタン園の経営をしているということは、15年ぐらい前に視察に行った大和町の議員さんたちから聞いていました。サザエを焼いているところがあるので、見ると、そこの店は、大島から来ているのでした。山形、長野、宮城など遠くからの出店もたくさんあります。私たちは、買って食べて、すぐに戻ってきてしまいましたが、4キロにわたって店が出ているとのことでした。

 私たちの店の隣は、がっちりとした立派な建物で、その中では、作業所で作った小物が売られていました。珍しいものとして、はすの実をとったあとの蜂の巣状のものが色をつけられてたくさん売られていたことでした。この建物の名前は、大賀藕絲館(おおがぐうしかん)とあり、なんと寝殿造りの建物なのでした。これは、大下市長の時に市が作って作業所として民間委託したのだそうです。渡辺昌範さんが「大下さん直筆の看板がありますよ」と案内してくださいました。額の中には次のような文字が力強く書かれていました。「大賀一郎博士に捧ぐ。はすの実にいのちをかけし学究の夢ここにあらん。大賀藕絲館 1990,2 町田市長 大下勝正」大賀一郎博士の孫だかが、町田在住とのこと。大下さんは、1970年から、1990年まで市長を5期され、その後後継者に指名された寺田市長が4期、2006年に寺田さんが後継指名をせず、乱立した選挙で、今の市長が来年2期目の選挙だということでした。当然のことながら、2006年からは、市政の方向が変わって、皆さん、いろいろな目に逢っているとのことでしたが、具体的なことまでは聞けませんでした。

 さて、私たちの店は、奥まっているので、道を歩いている人たちは、通り過ぎて行ってしまいます。私は、呼び込みをすることにしました。試食用にこまかくしたサーターアンダギーを差し出しながら、「沖縄からのサーターアンダギーです。どうぞ」食べてくれた人は一様に「おいしい」と言い、そのうちの何人かは店に行ってくれるのでした。「帰りに寄るね」という人もありますが、店は繁盛し、東浜さんの三振に合わせて踊りだす人もあります。沖縄ムードが盛り上がってきました。そのうち、サーターアンダギーを揚げる実演も始まり、「出来立てですよ」と呼びこんで、暖かいところを食べていただくことにもなりました。富山さんも、東浜さんも、背が低いことも含めて、いかにも沖縄、という風貌なので、「懐かしい!」と声をあげて近づいて行く人もありました。私まで沖縄からの人と思ってくれて、「あら、この洋服いいわねえ。沖縄の手作り?」「ええ」とここは「嘘も方便」です。

 渡辺昌範さんの部下だったという富岡さん(男性)は、ずうっと福祉畑を歩いてきて、今も市役所の職員ですが、沖縄の人たちと一緒にこころみ農園にとまって、私からのインタビューを受け続けてくれました。この方も、店で売り子をしていて、私の呼び込みを喜んでみていました。市役所の職員がこんな風に全くのボランティアでかかわっているのでした。それもそのはず、この2月に沖縄に研修に行って、富山さんたちにこのお祭りがあるから、来ないかと誘った張本人だったのですから。富山さんたちは、毎年町田には来ていたようですが、この祭りに来るのは初めてだということでした。

 車いすの方々や、知的障害の方々が、たくさん店番をしたり、買い物をしたり、生き生きと活躍していました。私は4日の夕方帰りつきましたが、私が帰った後もどんどん売れてなくなってしまい、揚げるのを待つ行列がつづいたとのことでした。その夜もまた、翌日のために夜を徹して揚げ物を続けたようでした。

 沖縄と町田が、福祉でつながっている様子を一緒に体験できて、本当に有意義な一日でした。



全国女性議員サミット

        2009,4,11,12   於、ホテルメトロポリタン高崎

 全国女性議員サミットが1112日、高崎で開かれました。総勢700人ぐらいの参加でした。

11日は、午後から、糸数慶子(無所属)、小渕優子(自民)、紙智子(共産)、 亀井亜紀子(国民新)、古屋範子(公明)、福島瑞穂(社民)、円 より子(民主)と各政党から一人ずつの参加でシンポジウム。

 小渕優子少子化対策・男女共同参画大臣は「男女共同参画社会基本法は成立して十年たっても制度や予算が不十分。政治の責任は重い。 担当大臣として強いリーダーシップを取りたい」と述べ、拍手を浴びていました。このサミットに閣僚が参加したのはこれが初めてとのことです。自民公明以外はすべて、参議院議員です。衆議院の皆さんは、選挙で手が離れないのでしょう。全体として、年齢が低い方が多かったのですが、亀井さんなんかも、島根県で、いかにして、皆さんの意見を聞くようにしているかなど、とてもしっかりとした意見を述べていました。

 北欧などで女性議員が半数近くいるような国では、クオータ制(何パーセントかを割り当てること)を敷いて女性議員の数を増やしてきた。日本でもクオータ制を敷いて増やしていこうというような意見が飛び交っていました。

 マスコミ各社がかなりの座席をしめていました。その日の夕刊から報道が始まりました。テレビでもやったそうですね。

 夜は、交流会。これまで女性議員サミットを主催した団体の長が、挨拶をしたので、経過がわかりました。1998年に青森県弘前市で開かれてから、長野、熊本、仙台と続き、今回が5回目でした。2回目のサミット主催者樽川通子さんが、群馬県の出身だということもあって、今回群馬の人たちに働きかけて実現したのでした。700人ぐらいが参加する大規模なものとなりました。交流会では、私はもっぱら、人と人をつなげる役目を引き受けました。去年岩手を回ったときに知り合った、滝沢村の保母を定年退職して議員さんになった佐藤さんには、奥州市の議員さんや、その他大勢を紹介しました。また、会いたい人を探している人には、代わりに探してあげたり、そんな風に動き回っていると、私自身も、本当にたくさんの人と知り合って、名刺交換となります。WINWINや、フェミギの人がたくさん来ているし、いろいろなところで出会って来た人たちとの再会を喜び合いました。

 終わってから、樽川さんと、群馬の実行委員会の人たちと懇談。樽川さんは、今回の小沢党首秘書逮捕について、「恐ろしい世の中になってきた。民主主義などなくなって、戦争が近付いてきているように思えて怖い」との感想を述べていました。

 12日は、9時から12時まで、6分科会に分かれて話し合いが持たれました。私は、その第5分科会のコーディネーターでした。「女も男も生涯現役ー高齢社会の主役はわたし」というタイトルで、後期高齢者に属する国峯溌子さん、樋渡紀和子さん、二人とも、教員生活を定年で退職してから、取り組んでいることについて発言し、参加者の大多数を占める高齢者を勇気づけました。国峯さんは、大正生まれでありながら、「群馬くらしの会連絡協議会会長」など様々な役職をこなしています。樋渡さんは、70歳で、港区会議員となり、現在2期目で、いろいろと活躍してきました。一人だけまだ50歳代の甘利てる代さんは、彼女が取材して歩いてきた希望が持てる試みの場所をスライドで紹介したり、取材で訪ねた施設の入居者の言葉などの紹介がありました。高齢者施設(老健、特養など)入居者1000人中自分で入りたかったから入ったという人は、たった一人しかいなかった。家族の都合で仕方がなかった、という人がほとんど。地域で暮らし続けるために何が必要か考えたい、と提起。

 前日は、ただ聴くだけだったので、しゃべりたい人たちに今日こそはたくさん話してもらおうと、はじめからそのことを言っておきました。会場からどんどん手が上がります。会場の半分近くが、議員さんたちなので、それも当然でしょう。うちの分科会が多分いちばん議員さんの比率が少なかったと思います。自分の老後のこと、介護施設を運営している人、介護の悩みなどをもった一般の参加者が、半分以上でした。

 パネラーの甘利さんからは、いくつかの提起がありました。それと、会場から提起されたのとを合わせて報告しますね。

・買い物難民

  過疎化が進んだ地域で、小さな店もなくなり、集落の中に運転できる人もなくなって、買い物に行けない年寄りが、買い物難民化している。議員さんたちは手立てを講じて欲しい。また、公共交通の使い勝手を検証するべきではないか。議員さんたちは議会に行くのに公共交通を使うのはどうか。それも議員としての責務と思える。と甘利さん。

  このことでは、うちの町の僻地「後山」という部落があるのですが、ここに住む80歳ちょっと前の大森ミチさんは、私のところのケアハウスに入居待ち待機者です。ところが、その部落の人達の「私設タクシー」になっているので、これができなくなったら入居すると言っています。こういう人がいる部落は、今のところなんとかなっていますが、彼女が入居してしまったら、全員が、買い物難民になるのでしょう。

・刑務所の高齢化

  とっても小さな犯罪を犯す高齢者が多く、刑務所を出たり入ったりしている高齢者が多く、受刑者の中でも認知症高齢者が増えている。しかし、刑務所の職員は認知症について学ぶ機会がないため、今後の対応が必要だと思う。例えば「認知症サポーター養成講座」を受講するという動きがあるが、まだ数例ほどしか実施されていないので、広がっていくといいのではと思う。

  この話を聞いた会場の方が、「うちの部落は全員で、認知症サポーター養成講座を受けました」と発言。この方は、確か、北海道の議員さんでした。

  実は、認知症の始まりが、万引きから、というケースがあるということを話しました。テレビでも聞いたし、実際に私も見ています。認知症と万引きとは深い関係があるので、このサポーター養成講座を刑務所の職員が受けるというのは、必要なことでしょうね。私たちも、それを受けることに取り組んでみようと思いました。

・ 帯広の議員さんが、高齢者の問題に取り掛かったら、住むところが必要だということが分かり、資材をなげうって、その上、多額な借金をして、アパートを作り、今では、40人がそこで暮らしている。娘がヘルパーステーションをやっているので、介護が必要な人には、そこのヘルパーに頼んでいる。生活保護の人も、介護度がある人もない人も一緒に生活したいと考えているので、制度に乗ることができない。たとえば、「有料老人ホーム」として届け出れば、助成がもらえることもあるけど、そうすると生活保護の人が使えなくなる。というわけで、一切の補助金がないので、経営が大変。そして、ヘルパーさんたちが、やめてしまって困っているとのこと。私のところでは、職員が辞めないんですよ。と言ったら、今度視察に来るとのことでした。

・ 行政を敵に回すのではなく仲間にしてくことが大切、との意見に対して、議員というのは、皆さんの代表として、戦っていかなくてはならないのだから、行政と仲良くばかりしていてはダメ、という意見もあって、討論になりました。

・ 新宿区の議員さん、小野さんが、「平和の問題を話してもいいでしょうか?」と言われたので、「どうぞ」と言ったら、「私は72歳ですが、私たちの世代が、戦争のことを語らなかったら、今の若い人たちは、わからなくなってしまうので、皆さん、大いに語っていきましょう」との発言でした。本当に、靖国神社の遊蹴館に行ってみると、若い方々が、愛国心を持って戦争がしたい、ぐらいのことを書いているので、本当に心配になります。年寄りは、ちゃんと戦争のことを語り継がなくてはね。という事で結びました。

・ 最後に、「サロン下諏訪」(樽川さんが始めた地域活動の拠点)の方が、こんな発言をされました。「国峯さんからは、認知症予防のことをうかがい、血縁から志縁(志でつながる関係)へという素晴らしい言葉を学びました。樋渡さんからは、議会ということろは、いろいろな年齢層がいることが大切ということを学び、甘利さんからは、たくさんの希望が持てる試みをお聞きできました。」これは、コーディネーターがまとめをしないですむ発言でした。

 皆さんが競って手を挙げて発言してくださり、こんなに楽なコーディネートはないように思いました。昼食をいただきながら、いろいろな人と話してみたら、どこの分科会も盛り上がって、時間には終わらなかったようでした。