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     秩子の活動報告
         (その2)
      2006年8月〜2009年3月




シンポジウムin水戸      
          
2009,3,15    於、茨城県総合福祉センター

15日(日)は、5年ぶりに水戸に行ってきました。5年前の3月31日に水戸事件の勝訴判決が出て、感激したことをご報告しました。それ以来のことでした。偕楽園の梅が、満開で、「偕楽園」という駅で、私が乗っていたフレッシュひたち(特急)が止まっていました。

水戸事件を告発して刑事事件に持って行った大海日出子さんが主宰するNPO法人「創」の創立25周年記念事業のシンポジウムにシンポジストとして参加したのでした。「障害者の自立支援及び性の問題について」という不思議なタイトルです。

シンポジストが沢山なのも、いかにも大海さん。飯沼和三(ダウン症専門 愛児クリニック院長)、加藤チャボ(打楽器奏者で、障害児者にも教えている)、国枝秀美(知的しょうがいのある子供たちのプロダクションを設立した。「筆子・その愛」のプロデゥーサー)、関根幹司(知的しょうがいしゃ授産施設 工房「絵」主宰。エイブルアート)、辻真(TBS記者)、福岡寿(長野県北信圏域障害者生活支援センター所長)、渡辺仁子(NPO法人ほっとアクト/ライフサポートあるく主宰)、大海日出子(舞踊家)、和久田修(弁護士)という面々でした。

自立支援法のことは、福岡さんに、性教育のことは、飯沼さんにお願いということのようでした。福岡さんの話は、前日の魚沼フォーラムでの大塚さんの話と通じていました。「なにはともあれ、施設から地域へ、ということが、国会で取り上げて議論され、結果的には、いろいろとまずいこともあったけど、施設の人たちが地域に出てきて、本人たちも、家族も、職員たちもほとんどの人が、元に戻りたくないと言っているのがうれしいこと」私は、そういう動きは確かにうれしいのだけど、学校が、分けられてしまっているので、文科省まで含めて地域へという動きにしてほしいのだということを述べました。ここ浦佐の地でやってきたことの中で、学校に入るところまでは、周りがいくらでも支援できたのだけど、学校に入ってからは、親子の孤独な戦いになって多くの場合に負けてしまう。井口健彦君の場合には、母子通学させられていたお母さんが登校拒否になってしまいました。何もすることがないのに、別の部屋で待機しているという牢獄のような生活を5年間頑張った末のことでした。学校でこのようにして分けられているのですから、社会で生活を一緒にするというのは、かなりの抵抗があるはずです。おととし国連で、障害者権利条約が調印されて、日本も調印してきたので、批准に向けて、国内法の整備をするかと思っていたら、今の政局の混乱に乗じて、整備をしないままこの国会で、批准を通してしまおうという動きがあるのだそうです。それで、ちゃんとインクルーシブな教育が保証されるように国内法の整備をするようにという署名運動をしています。していただける方は、添付で送ります。申しつけてください。ただし、3月25日が一次の締め切りです。

性教育についての飯沼さんの話はとっても興味深く聞きました。ダウン症専門というクリニックは、世界では、30ぐらいあるそうですが、日本ではただ一つだということでした。この方の話は障害を持った子どもの親御さんにはうれしかったのではないかしら?ダウン症の子どもさんの親にこういうのだそうです。「男の子なら、運転免許を取るのを目的にして。女の子だったら、出産ができることを目的に」と、親はびっくりするけれど、世界では、たくさんのダウン症の人たちが、活躍しているといって、具体的に沢山の事例を報告してくれました。俳優として、画家として、音楽家として、活躍しているのですね。子どもさんがダウン症だと言われた段階で、親御さんは、子どもについて、かなりのことをあきらめてしまうようなのです。どうかそうしないで、子どもさんに自信をつけさせてあげてほしいと話されました。

スウェーデンでは、身体障害者の人が、機能はあるのに性交ができなくなっていた場合、介助して、できるようにさせてあげたり、その介助用の器具もあるとか。またマスターベーションの介助もしているとの話も出されました。日本でも、「セックスボランティア」という本に色々と紹介してありました。

終わってからの交流会を途中退席して帰ってきたのですが、飯沼さんも一緒だったので、上野までの電車の中で、たくさんのインタビューをして遺伝子の世界の最新情報をかなりいただいてきてしまいました。

シンポジウムが始まる前に、「創」の大人や子どもが、たくさんのダンスを見せてくれました。また、障害を持つ人たちのアーティストが、絵を描いていたり、発言したり、まさにインクルーシブな世界が醸し出されていました。





うおぬまフォーラム(6)
        2009,3,14     於、十日町ロステン

14日は桐鈴会の職員一人と一緒に、十日町のクロステンまで、魚沼フォーラム参加のために行ってきました。行きは雨、帰りは、雪でした。

いつもこのフォーラムに来ている大塚晃さんが、今回から肩書が変わりました。厚生労働省専門官から上智大学教授に。去年のフォーラムのときにそのことは話していたのですが、現場を離れたら、ずいぶん違う感じのしゃべり方になっていました。しかし彼は、一貫して、どんなに攻撃されようとも、障害者自立支援法の精神を具現化するために高崎コロニーから、厚労省に連れてこられたor自ら転職していった?人です。

「箱の中に閉じ込めておくのはいけないんだ」という言い方で、施設の在り方を批判して、地域で多様な事業所などを使いながら、その人にふさわしい生活を送れることを目指して頑張ってこられたかたです。今回は、自分の息子さんの写真や、息子さんの生活の仕方なども交えて、話されました。「こんなに口をあいている顔、可愛いとは思わないでしょう?でも、僕はいつも見ているのでかわいいんですよ。」と、そして今日も、妻と息子が同伴でした。ただ、息子が、眠ってしまって、ほかの部屋にいるので今回は会えませんでした。

「親なき後」を考え始めたとのことでした。ケアホームを考えているそうです。

今、障害程度区分(介護度につながる)が5だそうです。6が最高で、他の区に行くと3になっちゃうだろうとのこと。日中は、事業所を選んで行っているそうで、選べるというところが自立支援法のいいところだとのこと。息子さんは、ショートステイに行く時でも、嬉しそうにしたり、いやな顔をしたりして、自分にとってその事業所が安心かどうかを家族に知らしめているとのことでした。そのようにして、本人が選べるようになったというのは、何としても良かったことなのだと思いました。

これまでは、行政の職員としての話だったので、自分の息子の話は出来ないでいたようでした。そんなことにとらわれてしまっていたのだな、と理解しました。民間人となって開放感があるような感じでした。

自立支援法について、これは悪法だとか、自立阻害法だとか、たくさんの批判があるが、それらの批判のおかげで、いちばん評判が悪かった「応益負担」を「定率負担」と言い換えることにした。また、いろいろな方法で、実際には、1割負担が、0,3割負担に抑えられたのだそうです。やっと「施設から地域へ」という流れまで来たのだから、何としてもこの流れを絶やさないでほしいと訴えていました。

一緒に行ったヘルパーの佐藤雪江さんも、私と同じ運転は苦手というので、私の運転で、山を越えていったのです。送り出してくれた鈴懸の職員たちは、「二人が亡くなったら一緒に夢草堂で葬儀をしてあげるから安心して」というんです。無事に帰りついて、「残念でしたね」とあいさつしました。




女性集会

     2009,3,8      新発田市地域交流センターその他

3月8日は、国際女性デー、そんなことを知ってか知らずか、加治川の森谷健さんからこの企画が伝えられたのは、かなり前のことでした。それを聞いた新発田の後援会長大橋敏江さんが、新発田でも午前中にと発案され、10時から新発田、2時から加治川ということで、私は、しばらくぶりの3区入りを楽しみに待っていました。

新発田地域交流センターでは、10時近くなると人がたくさんになって椅子を増やす作業や、お茶を買い足す作業に世話人たちは、追われていました。この会場には、たかひろは来られないので、美春さんが、挨拶。大勢お集まりくださっての感謝の後「母の話は、ハチャメチャなこともあると思いますが」と言ってくれたので、いつもより舌が滑らかになったとこういうこともありますが、たかひろがいないということが何より。本人がいては話しにくいことをありのまま話すことができ、これが多分皆さんの心をとらえてしまったのだと思います。1時間半私が話した後、会場とのやり取りになったのですが、次々に手が上がって、かなりいろいろなことに言及することができました。いつも事務所を預かって事務局長としての仕事をこなしてくださっている皆藤さんは、ご夫妻で来ていて、こう発言しました。「私たちのころは、子どもが5人6人いたものですが、今は、少なくなって、塾だの習い事だのと大事に育てているのを見ていると、何か言いたくなるのだけど、自分の子どもではないと思い直して言葉を飲み込んでいる」

そこで私は言いました。「今様々な事件が起きているのは、たいていは、教育ママの子どもでしょう?教育ママに育てられて、それが耐えられなくなって、自殺する子もいますが、自殺ができないから、人を殺せば殺してもらえるという殺人事件がいっぱいありますよね。そういうところにまで行ってしまわないように、そばにいるおじいちゃんおばあちゃんは、そこまでしなくても、と声をかけてあげられたらいいと思うのです。それを聞き入れるかどうかは、相手のことですが、何十年もたってから、おじいちゃんおばあちゃんの言ったことは、こういうことだったのか、と気がつくということもあるので、とにかく、意見は言っておくことがいいと思います」

卓夫がやっている在宅医療のこと、私が取り組んでいるケアハウス、グループホームのこと、障害児との出会いや、引きこもりの青少年のこと、何を話してもとっても真剣に聞いてくださり、驚いたことに、著書がたくさん売れてしまったのでした。卓夫のも少しあったのですが、なくなり、私のは、3冊も買っていく方があるほどで、今、本て言うのは、なかなか売れなくなってきているというのに、不思議な現象でした。

司会をした古田さんが、元教師で、その教え子の方が養護学校の先生をしているのですが、マイクを渡されて「会場に入ってきたとき、あまりに年齢が違うので、私が来てもいいのかと一瞬戸惑った」と前置きをされていました。たぶん平均年齢は、60歳を超えていたでしょう。全体は、男性4人を含む60人ぐらいでした。

加治川の会場は、男性10数人を含めたくさんの女性がおいでくださってびっくり。ここの平均年齢は、70歳を超えているように思えました。たかひろが初めに30分、私からは、小学校2年ぐらいからほとんど何もしてもらわなかった。部屋の掃除も中学に行ってからの弁当作りも、・・・それは、自分のことは自分でするようにということだったのでしょう。と話すのを聞いてから、まず私は、「皆さん、初めての子育ては、失敗ですよね」と呼びかけました。何しろ親にとっては初めてのことですから、うまくいくわけありません。長男である宇洋は、失敗作です。私は彼に謝り続けてきました。ほめたら威張るからと思ってほめないようにしていた。反対なんですよね。ほめていたらきっと威張らないですんでいたのでしょう。そのことが後でわかってくるのでした。ごめんなさい。

「自分のことは自分でする」ということも、保母をやめて、大地塾を始めてちょうど更年期障害とぶつかり、手足が冷えて、腕の力が落ちて、マイクや、受話器が持てないほど、だから、人に持つことを頼むと、こんな軽いものが?という顔をされ、「実は、」という時涙声になっていた。人にものを頼む練習をするのが、更年期障害だと思った。年をとれば、だれしもかを人に頼まなくては生きていけないのだから、「自分のことは自分で」という言葉がいかに冷たい言葉であるか分かるようになってきた。本当にたかひろごめんなさい。

「北風より太陽」と理念では分かっていても、上の4人ぐらいまでは、実践できていませんでした。たぶん5人目からは、やっとたたかないで済むようになったと思います。難しいですよね。

そんな私の失敗談をたくさん聞いていただきました。ありがとうございました。





ケアホーム見学記

      2009,2,18      於、長野県中野市

うちの町で最重度のしょうがいを持つ井口健彦君(21歳)のお母さんの提案で、ケアホームを作るために、今日は、長野県中野市のケアホームを見学に行きました。

井口さん夫妻のほか、障害を持つ人の親ごさんばかり5人、私を含めて8人が、鈴懸のワゴンで行ったのです。しばらくぶりの大雪で、朝、電話が、複数かかってきました。「行きますか?」私は答えます。「だめかもしれないという予想で、中止するという文化を持ち合わせていません。やってみてダメだったら、そこで引き返します」何しろ対応してくれるそこの法人の常務理事福岡寿さんは、2時以後しかあいていないというのに、私たちが、見学を案内してくれる人をとお願いしたら、ご本人が、やりくりして、12時から3時まであけてくださったのですから、親が死んだということでもない限り、吹雪などなんのそのとことん行きます。こちらのメンバーは、子どもさんを預けていくので、帰りが早くなくてはならず、2時からでは、とても見学ができないからでした。

大雪が降る中を出発しました。スピードは出せません。ところが、天気予報通り、長野県に入ったら、日が差し始め、からからの天気となりました。

中野市笠原にある北信圏域障害者総合支援センターぱれっとにつくと、福岡さんが、説明してくださいました。社会福祉法人高水福祉会が運営している施設23個が全て写真入りで紹介されている紙が全員に配られ、それに基づいて説明されます。飯山市10個、中野市12個、山ノ内町1個となっています。福岡さんが、ここに勤め始めた24年前には、知的障害者入所更生施設長峰学園(飯山市)、が一つあっただけだったのだそうです。5年後に福岡さんが、コーディネーターになって地域を耕して、地域生活が可能になるように一つ一つ必要なものを作っていった結果これだけたくさんのものができていったのだそうです。長峰学園だけだった時、当時の年間収支が2億円だったのに、今では、7億円になっているとのこと。

何しろ驚くことばかりでした。厚労省が、音頭を取って、入居施設から地域生活へ、とかじを切ったのが、「支援費」そして「自立支援法」で、地域生活でなくてはならないのが、グループホーム、ケアホーム(それぞれGHCHと略す)なので、それらが運営しやすいように今年の4月から、どばっと給付費が増えるというのです。例えば、程度区分6(介護保険の介護度に当たるもので、軽い順に1から6まである)の人には、夜間加算等も積み重ねると、月々、30万円ほどの報酬単価になり、これは、これまでの2倍になる。4人暮しのGHに対する助成が、年間600万だったのが、900万に上がる。建てる時には、新築で2500万、改築で500万が助成される。入所者の負担は、高水福祉会では、平均月5万。高水福祉会では、すべてのGHに夜職員が泊っている。

ここのところで、みんな驚きの声。今入所施設に二人の息子を入所させている石田さんは言う。「新潟県では、GHには、職員が泊りません。」そう。私も、先日新潟県の有力な人に質問したら、「GHは、泊まりの人がいない。CHはいる。それが大きな違い」と言われたのでした。ところが、高水福祉会では、すべて泊っている。どうやら、長野県独自の「上乗せ」があるらしい。田中知事が誕生したときに、福岡さんは、ここの支援センターの所長でありながら、長野県の職員を兼務して、コロニー西駒郷から、各地のGHCHへ入居者を移す作業をしてこられた方です。このことについては、NHKが、長い番組を作って流したことがありました。「地域生活のススメ」−西駒郷の地域生活移行にかかわってー(sプランニング)に彼が書いています。

よくよくいただいた「全体マップ」を見てみるとGHは一つもなくて、11戸すべてCHでした。福岡さんの法人では、職員の勤務体制は、夕方4時から朝の9時までで、16時から21時までと、6時から9時が食事作りとか、身辺の世話、洗濯、掃除など、21時から6時までは、休む。実働時間は8時間。これで、1日9000円。入浴は、ヘルパーがする。認知症のGHには、ヘルパーが入れないのだけど障害者のGHは違っていました。一つの施設には大体二人の職員がいる。サービスセンターりんくというバックアップセンターがあり、そこのサービス管理責任者、スタッフ5人が、全体の職員30人分ぐらいの勤務表を作っている。CHが全体で11戸あるから。

日中は、通所施設などですごします。そこは、月から金までしかないので、土日は、バックアップセンターが、引き受けていたり、家に帰ったりしている。

重症心身の方のケアホームには、看護師が常駐しています。泊まりの場合には、1泊15000円払っているが、これもほとんど助成金が下りるので、負担にはならない。

日中活動は、二つ持っている入居施設に併設されたデイケアや、通所施設などを利用する。ケアホームの人が日中活動に行く時には、お弁当を持っていく。だから、ケアホームの職員は、3食作ることになる。

自立支援法で一番評判が悪かった「応益負担」は、今年の7月から「応能負担」に戻る。この情報は、どうやら、まだ公にされておらず、厚労省の審議委員などしている福岡さんだから、早く判ったことらしい。しかもその能力は、所帯ぐるみではなく、本人の収入だけになり、また、資産要件も撤廃されるので、かなり低くなるようだ。

大体の話を聞いた後、二つの施設を案内してもらった。支援センターのすぐ裏にある重症心身障害児者デイサービスセンターかすたねっとは、本当に重症の方ばかりで、総勢5人。そのうち2人は、ベットに寝ている。起きている3人は、一人が床に足を投げ出して座って、きょときょと見回しているかわいい感じの男の子、3歳とのこと。ベットに腰かけているのは自閉症という感じがする反復運動をしている男の青年。車いすの方ひとりだけの女性。全員言葉がない、そして、医療が必要という感じ。だから、ここには看護士が常駐している。今日の人たちは、全員夜は家に帰るという。8人が登録されていて、その中には、ケアホームから通っている人もあるという。一緒に行った井口夫妻の息子さん健彦さんも、このようなところで、昼間を過ごしているという。

次に行ったのは、ケアホームさんぽみち、車で3分ぐらいの畑の中に、4軒の家。その中の一つが、さんぽみち。日中は、出払っていて誰もいません。日中活動の場所に行っているのでした。ここは多分、重度の方も入れるようにしてあるところなのだと思いました。風呂場に、リフトが付いていて、つるして入れる装置になっていました。「ほっとするー」という名前が付いていたのが目を引きました。

ここはできて4年というけど、まだ新しい木の香りがするようなところでした。助成金のほか、日本財団からももらったので、ほとんど建設費はいらなかったのだそうです。だから、家賃はゼロでいいのだけど、他との兼ね合いがあるから、1万円もらっているとのこと。

外に出たら、周りにある三軒の建物のうち、ひとつが、よそのもので、二つは、同じ法人の持ちものでした。一つは、ケアホームで、もう一つは、ケアホームからアパートに移行した方のアパートです。このアパートに三人が住んでいるのですが、それぞれ別の玄関が付いていて、一人暮らしとなっています。でも、周りにケアホームがあるので、いざという時には、手を出してもらえそうです。こういう感じがいいのでしょうね。

帰りの車の中は明るい声が響いていました。何かいいことが起こりそうな予感が、参加者一同の胸に湧きおこっているようでした。




冬の屋台デー

           2009,2,25     於、鈴懸

今年で4回目かしら?25日は、桐鈴会の「冬の陣」という看板がぶら下がり、職員たちが、腕をふるっていろいろな料理を作って、屋台を出しました。私も、今年は、「いも煮」を出したのです。卓夫が山形に行って食べたからと作ってくれたのが発端で、我が家の人気料理のひとつになっています。里芋を向くのが大変でなかなか回数は多くできないのですが、今回は、助っ人がいて、助かりました。乙水の同級生で、知的障害を持つ「丸ちゃん」が実に手早く、きれいにむいてくれたのでした。この「丸ちゃん」、桐鈴会の生みの親鈴木要吉さんのダウン症の息子直君が、なくなってしまったので、その代わりに職員となったのでした。「丸ちゃん」の気がきくことは天下一品。私は何時も大抵歩いて行くのですが、ある時、雨が降り出して傘を借りて帰ってくることにしたのでした。玄関に出てみると「丸ちゃん」が、共用になっている傘を持って私に差し出してくれたのでした。日ごろ本当に気配りがすごくて、職員たちの人気者になっています。

お好み焼き、おでん、ラーメン、五目おこわ、大根の酢漬け、あんぼ(米の粉の皮で、あんこや、菜っ葉を包んで、焼いたもの)草餅、デザートにホットケーキと、プリン。みんなおいしいおいしいと食べたのですが、終わってから出てきた「文句」は、「全部食べられないから、品数を減らして」だったそうです。月2回のお茶会にいつも漬物を作って持ってきてくれる評議員の清水スイ子さん(92歳)も2キロの道を歩いて参加。以前夢草堂で、話をしてくれた山本美智子さんは、夫に送ってもらって参加。理事の高橋満幸さんは、手品師として参加。グループホーム桐の花の入居者の皆さんも真剣に手品を見つめて、帰りたいという人が一人も出なくて職員たちが驚いていました。楽しんで、食べて、皆さん満足してお開きとなりました。往診の途中で、卓夫も寄っておいしがって食べていきました。海映も来て、皆さんに紹介しました。4月から、浦佐の駅前に法律事務所を開きます。と紹介したら、入居者の男性が来て言うには、「娘さんのご主人が弁護士なんですか?」弁護士は男だと思い込んでおられるようでした。

山本美智子さんは、もち米から作って餅を売る農家に62歳で嫁いできたかた。来年は、そのもちで、ぜんざいを作って参加すると宣言してくれました。楽しみにしましょう。



ガイア合宿

       2009,2,21,22     於、栃木県塩原郡塩谷町野口宅

21,22日の土日は、何年振りかで、栃木県の塩谷町の林の中にある野口忠義さんのお宅で、毎年夏と冬に行われているガイア合宿に行ってきました。今回は、テーマを決めず、野口さんに話したいことを話していただこうということになっていました。

いつものように、お宅に着くと、昼食を取って、すぐに勉強会が始まります。今回は、16人という参加者で、人数が多くなったので、炬燵の数が、3個となりました。参加者は、弁護士、ロウスクールの学生など、法曹関係者が、ほとんどで、環境省の役人(と言っても去年就職したばかりの男性)とか、2〜3名そうでない人がいる程度です。というのは、もともとは、そうでない人がいたのに、ガイア勉強会に参加するうちにロウスクールに行きだす人が多く、いけば、司法試験に合格する人が続出しているからなのです。

そもそも、このガイアとの関係は、海映が、まだ京都で学生をしていた時に、上京していた折、友達に誘われて、ICUの大学で、中下裕子さんが、慰安婦についての講演をし、それを聞きに行ったのがきっかけでした。中下裕子さんは、海映より20年前に弁護士になっていて、野口さんと知り合って、猛烈に勉強をし、ガイアのリーダーです。ご自分の法律事務所を月一の勉強会の会場にしています。

中下さんは、朝日新聞の記事で、私のことを知っていたそうで、海映がその子どもだということは知っていた。中下さんが、海映のことを野口さんに話したら、「新潟の黒岩卓夫さんの子どもだろう」といったそうです。野口さんの連れ合いは、東大医学部の衛生看護学科(のちに保健学科となる)で、卓夫と同じ学年、学生運動で、お互いに知っていたので、野口さんは、卓夫のことを知っていたようです。

海映から誘われて、我が家は、ずいぶんたくさんの人が参加しています。帆姿、揺光、卓夫。ガイアというのは、政策提言ができるグループとして、あらゆる分野の勉強をしようということで、古典を読んだり、哲学、宗教、経済、福祉、教育、環境、などテーマを決めて、レポートを聞きながら討論をしています。15年ぐらい継続してきました。海映は10年、私は8年ぐらいです。今回は、「あなたが子守をして、海映さんを参加させればいいのに」と野口さんに嫌みを言われてしまいました。私は、子守よりも、まだ自分が参加したいのです。今回は、何年振りで、やっと予定がつけられたので、うれしかったのです。

そもそも野口さんという方は、1960年の安保闘争の後、総評に書記として就職。春闘などの渦の中で、利害が対立する人同士の戦いを体験し、30代前半に総評をやめて、栃木の山の中に引きこもり、「百姓」をしながら本を読んで著者と対面する生活を続けてきたそうです。森林や、畑をかなり広く持っていて、いろいろな実験に取り組んでいます。有機でいろいろな肥料を取り込んで野菜を作っています。そのおいしいこと!カボチャとか、ホウレンソウなどは、甘みがすごい!栗、梅、ブルーベリーなどを作って自分でジャムにします。そこでとれた野菜を入れて鍋にするのが冬合宿の恒例です。翌朝は、カボチャと牛乳のスープ、野菜たちをそれぞれ炒めてパンのおかずにします。ガイア合宿のためにおいしい野菜を作って待っていてくださるのが野口さん。

ご自分で建てたという天井の高い家には、作り付けの本棚がたくさんあって、天井までびっしり本が詰まっているのに、それでも足りなくなって、テーブルと言えるテーブルには、ほとんど本が積み上げられています。それらすべてに目を通しているようなのです。本が話題に上るとすぐに取りに行って、その本が私たちの目の前に出てきます。

あるとき塩谷町に採石場ができるという話が、町のほうから、住民に説明がありました。それは、ただ言葉だけでなされました。その住民の中にいた野口さんは、発言をします。「そういうことであれば、その業者とは、長いおつきあいになるでしょう。だとすれば、その業者ともいい関係でお付き合いをしたいので、お願いしたいことがあります。このように重大な決定であれば、重役会議で了承されているはずで、その時の議事録があるのではないでしょうか?」「はいはいありますよ。次回お見せしましょう。」ということで、出てきた文書をマスプリして、関係する地区の商店に配った。そこには、大型ダンプが日に何台も道路を通るということが出ている。その道路を赤く塗って配ったら、瞬く間にその情報は、地区内に知れ渡った。こんなことは許せない早く集会を、と騒ぎ出す。訴訟を起こそうとか、町長のリコールだとか、過激な発言が飛び出してくる。その過激発言を抑え込みながら、野口さんは、700件の戸別訪問をして、一軒につき1000円を集めて回る。買収されてしまっている家とその親戚ぐらいが、仲間にならず、あとはすべて、700軒から、1000ずつが集まった。けちだと評判の家に行くと「あんた本気かね。1000円ばっか集めるとは」といわれる。チラシを作るだけなので、1000円あれば十分です。と答えて、会員になってもらう。700軒が、会員になってくれたところで、集会を開く。そこで、中下さんにも講演してもらい、みんな意思統一ができてしまったら、町長は、引っ込めざるを得なくなるし、その直後の町長選には出られなくなってしまった。新人同士の戦いで、住民派から出した人が当選し、町政が刷新された。

こういう時に必要なのは、「礼節」。それは、相手に対しての姿勢なのだが、そういう時には、大衆が見ていて、礼節がなかったら、大衆がそのことを分かってしまうから。

野口さんの話を総合すると、「今という時代は、とってもおもしろい。いろいろなものが崩れて新しいものが出てくることを待っている。だから、ガイアが、提言することに大きな意味がある」

初めに、日本で自殺が多いということから始まりました。なくなってしまう人は、3万人だけど、自殺を試みる人は、はるかに多い。心を病んでいる人は20%にのぼり、引きこもりといわれる人は、100万人もいる。こういうことに対して「天は自ら助くる者を助く」という考えでは、対処できない。

スポーツは、競争でいいけど、市場原理主義(=競争)でいいのだったら、国家はいらない。

どんなことに対しても、「自分だったらどうするか」と考えてきた。自分は、名刺を作ったことがない。僕にふさわしい肩書はないと思っているから。

教育については、子どもが自分で学ぶ環境を作らなくてはだめ。

自治体による基盤整備は、住民のそれができる能力を取り上げてしまっている。弁護士も同じように、住民の調停能力を取り上げてしまうことがある。自分がかかわったこの近くでのこと。親戚同士が、二つに割れて、30年来の争いになっていた。一方が、弁護士を頼み、仮処分申請をした。その結果どうにもならなくなっていたが、自分が入って、両方が納得いく解決ができ、仮処分を取り下げたということがあった。その時、お礼がしたいと言ってきたので、どうしてもお礼がしたいのなら、こういうことをお願いしたいと言った。それぞれの家が持っている木を一つ指定して、その木の枝を数本刺し木にして、根が出たのを一本ずつください。それを内の公園に植えて、両家が仲直りをした記念にする。

説得力というのは、「相手の体験を論理化することによって得られる」これは本当にそうだなあと思いました。昔はいつもトラブルメーカーだった私が、このところ、調停らしき事をすることが多くなり、そういう時、とことん相手の体験を聞き出して、それを論理化すれば、納得してくれるのだと思いました。

資本主義という体制について質問をしたら、こんな回答でした。「スーパーとか、チェーン店和民などが、自分のところで、野菜を作り始めている。つまり市場からではなく、非市場原理を取り込んだ。こういうことが1割を超えたら、市場は大きな影響を受けるだろう。いろいろな試みが出てきて、新しいものが生まれていくのでは?」

私も、もっともっと勉強がしたいという意欲を駆り立ててくれる合宿なのでした。



小田浩之さんという人

              2009,2,19

19日に我が家に現れた小田浩之さん(47歳)という人を皆さんに紹介したいと思いました。

東大の工学部を卒業後、建設省(現国交省)の技官で16年。その後、北大の医学部に行き、卒業後、研修医として、二男巌志の妻由紀の勤める札幌NTT病院で研修。由紀がその指導者なんです。由紀を通して、今回こちらに来たいという話があって、19日夜を迎えました。

あらわれたその方は、背が高く、ハンサムで、官僚と思わせる雰囲気が全然ないのです。16年も、霞が関にいて、よくそんなあなたのままでいられたのね。と言ってしまいました。

建設省で、「道の駅」という事業が始まった時、なんて変な事を!と思ったそうです。ところがその後見事に成功してしまっているのを見て自分は何て、先を読めない人なのかと思ったそうです。石川県に出向しているときにも県議会で、大河ドラマを呼び込もう、と提案がなされ、そのときにも「そんなバカな」と思ったそうですが、その後実際に呼び込めたら、観光などがものすごく伸びたので、世の中のことは自分では判断できないと思ったそうです。だから、医者になっても、診断には自信がないという。そういう医者ってでもうれしいですよね。自信たっぷりの医者って怖い!

私は、翌日桐鈴会を案内しました。彼が一番感心してみていたのが、夢草堂の梁でした。夢草堂というのは、250年ぐらい前にできた御寺を移築してきたものです。梁をずうっと見ているので、私は何が関心の的なのか、聞いてみました。すると、そこに彫りこまれている唐草の図柄が、興味の対象だったのです。唐草のくるりと伸びた丸が、年を追って潰れていくのだそうで、まん丸だと一番古く、ひらべったくなるにつれて後の時代になってくるというのです。さすが、建築出身。と感心しながら、今までその唐草模様などあることにさえ気がつかなかったことに驚きました。それについての知識が、なければ、そのものは、「ないもの」となってしまうのだということ。思い知らされました。ちなみに、夢草堂の図柄は、丸がほとんどつぶれていないので、古いものだということでした。

宇洋が、以前勤めていた住宅産業研修財団、理事長の松田妙子さんのことはよく知っていて、こちらとのつながりを驚いていました。NTT病院で、由紀と出会った時に、黒岩卓夫とつながりがあるのか?と思ったそうで、若月俊一さんの佐久病院などを何回も訪ねているので、卓夫のことはよく知っていたそうです。今回来る前に、私のHPもよく読んでいたのには、たまげました。地域医療をやりたいという人なので、今後の活躍を期待したいです。



マンションの管理組合総会

          2009,2,14      於、 長岡

14日は長岡に行ってきました。私が所有するマンションの管理組合の総会で、大改修工事をするかどうかという議題なので、負担金も高いようだし、行って反対してこようという魂胆でした。

そもそも私がなぜマンションを購入したのか、それは、結構せっぱつまっていたのです。以前、ご報告した「スズランさん」が、施設から出て、自立生活を始めた直後にマンションの所有者が、倒産してしまって、競売にかけられそうになってしまい、スズランさんが、切羽詰まった結果です。彼女が今までの所有者に払っていた家賃を私に払えばいいということで、ただ私が肩代わりをしただけなのです。それで、今までにも管理組合の総会などありましたが、いつも委任状を出すだけだったのに、今日は行ってよく聞いたうえで判断しようと長岡まで出かけました。入居者28人のうち13人ぐらいが集まっていて、遠くに住んでいる所有者が「反対」と意思表示があっただけで、大方の人は、賛成だということがわかりました。

確かにできて30年がたち、外壁は、見るも無残に黒ずんでいます。雨が降るとローカがぬれて滑るといいます。直さないわけにはいかないというのが住んでいる人たちみんなの意見。行く前に「スズランさん」の家に立ち寄って聞いたら、彼女は何の不便も感じていないと言っていましたが、他の人たちの感じとはかなり違っているようなのです。私は、最後の採決では、どちらにも手を上げずに棄権をしました。管理組合の人が「黒岩さん」と言ったので、終わってから女性の参加者といろいろな話になりました。

スズランさんが、引っ越してきてもあいさつに来ない。すれ違った時に挨拶をしても何にも返ってこない。また、「助けて」という声が聞こえたので、だれだれさんが助けに行って、車いすから落ちたのを抱きかかえて乗せてあげた、とも。「あら、うちには挨拶に来たわよ。ヘルパーさんと一緒に」と言ってくれたのは、当時の班長さん。「黒岩たかひろさんのお母さんでしょ?。初めの選挙の時に、長岡の事務所にいって電話かけをしました」それを聞いて助けてあげたという人は「やっぱり宇洋さんのお母さんね。私は、岡村通男さん(宇洋の中学の同級生で、中学時代のプール事故でしょうがいしゃになり、自分だけでマスターしたコンピューターでは、私の師)の叔母さんと友達で、通男さんが立川病人に入院した時にお母さんの代わりをしたりしたの」それを聞いて、挨拶をしないと文句を言った人まで「あら、黒岩さんのお母さん?私は、金杉さん(卓夫が、浦佐の診療所に赴任した時の診療所長)の友達で、黒岩さんの応援団よ」そこに立ち止まった5人のうち、3人もが応援団だったのです。

さらにその中には、視覚障害者の方がいて、こう言いました。「私も障害者だからわかるんだけど、人から挨拶されてもあいさつを返さない気持ちがわかる気がするの。する気にならないのよ。きっと」そして、今度スズランさんの家を覗いてみると言って別れて行きました。私が、ここに来たのは、このためだったのだ。と思いながら帰ってきました。スズランさんにも報告をしますね。彼女は、私が立ち寄ってすぐにデイサービスへの迎えの車が来て行ってしまい、帰りに寄ってと言われたけど、彼女が帰ってくる時間は、私が帰ってしまってからだったのでした。

さてこのようなことをいろいろな人に報告したら、また少しわかったことがありました。彼女が自立生活を始めた時に、一緒に頭を悩ませて、長岡在住だという地の利を生かして、2カ月に一回スズランさんを訪ねてくれている元田宮病院看護部長だった栗田いね子さんからの情報です。そもそもスズランさんは、小学校6年間は、お母さんがおんぶして通わせてくれていたけど、中学になると重たくてそれが不可能になり、以来ずうっと、家の中で過ごしてきたのでした。50歳ぐらいで、施設に入所。53歳で、自立生活を始めたので、社会生活の体験は、極度に少ない方です。

その人が、ひとりで生活を始めた直後に、いろいろと彼女に聞いてきた人がいて、彼女はそれをとてもわずらわしく思い、以来、人と目を合わせないように生活してきたというのです。だから、挨拶をしても返事がなく知らんふりとなっていたのだろうということで、今度栗田さんが訪問した時に、そこらへんのことを聞いてみると言ってくれました。栗田さんは、水道料とか、家賃とかを2カ月に一回支払う係として、ずうっと付き合い続けています。

私は、前日聞いてきたことのうち、助けを求めて抱き上げて車いすに乗せてもらった時のことをスズランさんに聞きました。それは、お酒を飲んで帰ってきたときのことだったというので、そういうことができるということにホッとしたのが正直なところでした。「助け起こしてもらったとき、相手の人の名前と部屋番号を聞いた?」というとしていないという。つまりそれっきりお礼が言えていないわけね。ということで、これからはそういう時に名前と部屋番号を聞いておこうということになりました。

管理組合の総会にいったおかげで、彼女の身の回りのことがいろいろとわかって、よかったと思っています。




揺光の結婚式

    2009,2,   ソウル教育文化会館(という名前のホテル)

 揺光は、広島に、スージンは東京に住んでいるので、別居生活なので、私たち日本の親族は、結婚式とか、披露宴とかの考えはなかったのですが、去年スージンの国際大学の卒業式に来日されたご両親の意向で、結婚式をソウルでするということが決まり、すべてあちらに任せて、当日を迎えました。

 ただ、私たち親族は、みんなで出し物を出そうということになり、韓国語で、韓国の歌を歌おうということになったのは、今年に入ってからだったと思います。選曲は、スージンがしてくれて、サランウロ(幸せに)という、韓国では、子どもからお年寄りまで知らない人がいないという曲になりました。インターネットで調べて、その分野でのプロである巌志の妻由紀が、ユーチューブで、送ってくれたのですが、私のコンピューターでは、ほとんど聞き取れません。そうしたら、由紀は、自分で、ピアノを弾きながら、歌ったのを、録音して、家族みんなに送ってくれたのです。それを聞きながら、送られてきた歌詞で毎日毎日練習しました。1番が、韓国語、2番が、日本語、3番が、揺光スージンへのお祝いの替え歌。3番の歌詞を作るには、海映のソウル在住の友達が、協力してくれたのです。揺光とスージン、結婚おめでとう、末永く幸せに、というような内容でした。

意味のわからない言葉を覚えるというのが、こんなに大変だということを初めて思い知らされました。孫たちのほうが早くに覚えてしまったようでした。

 スージンのお母さんから、私に「チマチョゴリを着ませんか?」という提案があり、もちろん私は喜んでそれを受けました。私用の寸法で、作ってもらい、プレゼントしていただくことになってしまいました。

 さて、当日、ヒョンさん(スージンの父)は、お友達と二人で、インチョン空港に出迎えてくださり、韓国料理のレストランで昼食をとり、式の会場へ行きました。私だけ、先に行って、チマチョゴリを着せていただきました。会場で、由紀のピアノに合わせて、全員で練習、萌実の夫工藤さんがとてもいい声で上手だということが分かり、由紀との二重唱をやったのち、全員がステージに上って二回目の歌を歌うということにしました。

 夕方6時、式の始まりは私とスージンの母が、手をつないで花道を歩いていってステージにある二本のろうそくに灯をともす、という儀式でした。これは、韓国での一般的なやり方だと後で聞きました。その花道を次に新郎新婦が、腕を組んで歩いて登場。式は、牧師であるヒョンさんの御祈りが主なもの。父親として二人に言いたいことを、牧師のお説教として伝えている感じがしました。大変迫力のあるお説教で、参加者450人を飲み込んでしまう力を感じさせました。

 その後二人の宣誓、「難民支援から、世界平和に貢献する夫婦になります」

日本語に通訳してくれる方がありました。お母さんのいとこたちで、日本に留学したとか、商社マンとして、日本に滞在したとか、日本語が堪能な方が何人もおられました。そのうちの一人は、私のhpを中国語のサイトで見つけて、印刷して持ってきています。「カンニングペーパー」と言いながら、中身を見せてくださいました。日本語のhpにはないようなことまでが、書かれています。というのは、私の著書の中に「おねしょをしたらご褒美をあげる」というくだりがあり、これについてのコメントが載っていたりするのでした。東大の大学院で、医療経営を学んだというナムさん(南さん)が、私たちのテーブルでのお世話役でした。私たち家族25人(私の弟二人のカップルも含めて)のほか、二人の友人たち10人ぐらい(これが、韓国人ではない人達)で、3つのテーブルに座りました。それぞれに一人ずつ日本語通訳がつきました。でも、あとで思ったのは、スージンの国際大学での同級生は、韓国語も日本語もわからないアメリカ人などもいたのでした。

式が終わって、披露宴に入ると、司会者は、揺光で、スージンが通訳です。初めに二人のスライドショウ、二人の出会いまでをそれぞれが話しました。スージンが話したことで、驚いたことがあります。小さい時の写真を見せて「生まれた時の私がかわいくなかったので、母は泣いていたそうです」というではありませんか。信じられないことでした。スージンは、美人という感じではないけど、誰にでも好かれて、とっても感じがいい人。後でお母さんに聞いたら、こう言っていました。「本当に赤ちゃんの時、顔がかわいく思えなかったので、もう一人すぐに産みたい、と言っていた」。でも、幼稚園に行くようになったら、周りから頭がいいといわれ始めて、やっと安心したのだそうです。

二人は、ビルマの民主化についてアセアンが、バンコクで国際会議を開いたときに、それぞれ日本と韓国の代表として参加し、その後、タイとビルマの国境に二人で行ってすっかり意気投合して帰ってきたのでした。2005年の秋のこと。帰ってきてすぐにスージンは我が家に現れました。どんな話題にでも、彼女は意見を言い、好奇心を持って質問してきます。私たち夫婦がすぐに気に入ってしまったことは、もちろん、その後きょうだいたちとその子どもたちとも会うことになりますが、子どもたちからもすぐに好かれてしまいました。去年の乙水の結婚式にも私の母の葬式にも、参加しています。

 二人のスライドショウの後、スージンのお友達と私のスピーチとなりました。お友達は、高校時代からの友情だそうですが、スージンがいるところは、すぐに周りが和やかになってしまう。スージンはそういう才能を持っている人。とのことで、会場は、みんながジーンときてしまいました。

私は、揺光のことを「教えないで育てる実験」をさせてもらったこと、かわいくてかわいくて、なめまわして育てたこと、小学校5年までおむつをして寝ていた、おむつをもって友達の家に泊まりにもいったなどなど。それからスージンと出会って、わが家族全員スージンにぞっこんほれ込んでしまったことなどを話しました。教育ママが多い韓国人には、ぎょっとする話だったようで、後でいろいろな反響がありました。

わが家族の合唱は、大変な感動を参加者に与えたようでした。由紀と工藤さん(萌実の夫)の二重唱で初めに1番まで歌い、その後、全員20人が、ステージに上がって全員の斉唱。このときには、かなり迫力のある声が出ていたらしく、会場から、「アンコール」との叫びがあがっていたということを後で聞きました。私たちには、わからない言葉だったのでしょう。私も、歌を習いに行くたびに、先生と一緒に歌って、それこそ血のにじむ努力をしていったので、大きな声で歌うことができ、達成感がありましたが、何しろ、自分が歌うことでせいいっぱい、他の人たちの声を聞くゆとりはなしでした。でも、まず、揺光とスージンが、とっても感激してくれ、ご両親も涙ながらに聞いたというし、ともかく、この企画は大成功だったようでした。

その後、向こうの親類が総勢で、チマチョゴリ姿で歌を歌ってくれたのですが、それは、日本語ではないので、通訳もつかないし、意味が全然わかりませんでした。せっかくの歌が、かわいそうでした。

最後は、揺光から、ご両親への韓国語によるメッセージでした。「はじめ、ご両親は私たちの結婚に賛成してくださらなかった。それは、日本人への偏見に基づくものと思い込んでいました。でも、そうだとしても、自分のほうから、近づいて『お願いします』というべきでした。ごめんなさい。」というような内容でした。かなり堂々と、大きな声でやれたので、卓夫は、「揺光も政治家にむいているぞ」とのたまっていました。スージンのお母さんは、実際に祖父を日本軍に殺されたという体験があるので、無理もないと私たちは考えていました。

これが最後で、結婚式は終わりとなりましたが、それからは、ヒョンご夫妻から、ケーキや、果物、オードブルなどがたくさん届いて、黒岩、北大路の一部屋は、にぎやかになりましたが、小さな孫たちが、部屋に行ってねることになり、大人たちは、それぞれ、外に行く人、小さな人数で語り合う人さまざまでした。

翌日、私たち夫婦は、ヒョン夫妻に昼食の招待を受けました。私たちが泊まったホテルとは別のホテルで、バイキングのレストランでした。ご夫妻と、スージンカップル、母の姉、いとこ、スージンのいとこたちとその子ども、などで、食べながら、みんなで前日の結婚式の感想を述べ合ったのでした。韓国勢は、みんなとっても感動して、新郎新婦が披露宴の司会をするなんて言うのは、韓国ではありえなかったけど、これからは、こういうのが望ましいなんて言うことになるかもしれない、という人がいたり、きょうだい全部が来てくれた、それも、赤ちゃんまで連れてきたと感激して、私の孫の一人は、お友達から借りてきて、チマチョゴリをきていたのが喜ばれました。私の弟の妻も、チマチョゴリが着たいと言ったら、スージンが自分のを貸してくれ、ご満悦でした。

 その日の午後は、国立博物館を、ご夫妻と、ナムさんが通訳として付いてきてくれました。彼のお父さんは、医者としてハンセン病の人たちにかかわり、その人たちの施設を持つ社会福祉法人を立ち上げ、そこは、日本の別府にある太陽の家と姉妹関係を結びました。太陽の家は、私たち夫婦が、湯布院で福祉集会に呼んでいただいたときに、見学させていただいたことがある障害者が働いている工場です。当時は、身体障害者だけでしたが、その後、知的障害者にも雇用を広げると言っていましたから、今では、広がっていることでしょう。オムロン、ソニーなどの大企業が、社会的貢献ということで、出資し合って建てた、障害者の雇用を進める工場でした。この工場を造った中村さんについて、私の上の子どもたちの道徳の教科書に載っていたという記憶があります。

スージンの母が、揺光の存在を知って悩んでいたころ、このナムさんや、お姉さんたち、日本との関係が深い方々は、「そんなこと気にしないで、結婚させてやれば」と言ってくれていたそうです。ナムさんは、さらに、卓夫がどんな事をしているかまで知っていたので、なおさらその子どもなのだからと後押しをしてくださっていたようでした。実は、親族一同皆さんクリスチャンです。揺光も、教会に行き始めて、暮れに韓国に行った時にお父さんから洗礼を受けさせていただいたのだそうです。我が家では、思いかけないクリスチャンの誕生となったのでした。

ハンセン病といえば、実は、海映が大学生の時にFIWCというボランティア団体に参加して、韓国のハンセン病回復者の定着村に何回か行っていました。そこで今回歌った歌も聴いていたと言っています。今回が、韓国6回目という彼女は、韓国語もちょっとできるようになっていました。このボランティアには、巌志も、揺光も参加しています。揺光は、17歳の時に、アメリカから参加し、その後もう一度行っています。この時に、船で釜山に就いた後は、ヒッチハイクで現地まで行ったそうです。当時揺光は、韓国語が全くできず、車の運転手は、日本語も、英語もわからない方で、それでも、行き先を聞いて乗せてくれ、次の車を見つけるまで一緒に待って、つないでくれて別れたというのです。そのようにして、3台の車にお世話になって現地に到着したということを当時聞かせてもらってとっても感動したものです。車の中では、話が全くできないという環境でありながら、乗せてくれた3人の運転手が、「韓国人は親切」という観念を植え付けてくれました。

今回海映のその時のお友達の家をたずねました。FIWCという団体は、日本と韓国の学生で成り立っているものです。そこで知り合った日本人同士が結婚して、企業のソウル支社に勤務となり、夫婦がそこに住んでいるのです。そこに、昔のキャンプ仲間が集まっての同窓会でした。韓国の学生だった方と、日本の学生だった方も来られて、それはそれはにぎやかな同窓会でした。ここのご夫妻が、サランウロの替え歌つくりに協力してくれたのでした。このご夫妻が、二人で腕をふるってたくさんのごちそうをいただきました。

一泊で帰る人、2泊、3泊の人それぞれに気配りをして、できる限り飛行場まで送りとどけてくださったヒョンさんたちでした。去年、国際大学の卒業式で来られた時には、まだ揺光を受け入れるかどうか悩んでいる最中だったので、眉間にしわが寄っていたご両親でしたが、今回は、晴れ晴れとして実ににこやかな笑顔で迎えてくださり、最高のもてなしをいただいたことに深く感謝して帰ってきました。

揺光たち二人は、翌日から新婚旅行に行き、二人が出会ったビルマとタイの国境で、取材をしながらの新婚旅行を楽しんできたようでした。その成果か、次のような新聞記事が、3月25日、毎日新聞大阪版に載りました。

ニュースUP:ミャンマー逃れた「ロヒンギャ」=尾道通信部・黒岩揺光

http://mainichi.jp/select/opinion/newsup/news/20090325ddn005040042000c.html

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 後日談があります。先日の結婚式で通訳をしてくださった朴世用(パクセヨン)さんからのお便りが届きました。そこに書いてあったことは驚くべきことでした。

 披露宴の時に揺光が話したときに、ハンセン病の定着村にキャンプに行っていたと言ったのを聞いて、自分も行っていたということを揺光に話に行ったのだそうです。それで、FIWCにお互いに行っていたことが分かり、喜田清さんが共通の知り合いだということがわかったそうです。

 そして、喜田さんとご自分のことが出ている朝日新聞と四国新聞の記事が同封されていたのです。喜田さんが書いた「名ぐはし島の詩」の本を朴さんが、韓国語に翻訳していたのでした。驚きました。

 喜田さんとのはじめの出会いは、感動的でした。初めて韓国キャンプに参加した揺光は、帰ってきて興奮気味に「66歳の人と友達になった」と言います。名前を聞くと聞いたことがある名前です。私の本棚を探しに行くと、喜田清さんの著作「名ぐはし島の詩」が見つかりました。揺光に見せたら、揺光が驚いたこと!ご想像ください。喜田さんは、そんなことをおくびにも出さず、ただ黙々と作業をしていたようです。ところがその姿を見ると多くの学生たちは、そんな年の人にそんな重労働はさせられないと思うらしく、「僕がやります、休んでいてください」というので、喜田さんは内心困っていたらしいのです。それがやりたくて来ているのに、そのことを理解したのが、揺光とその友達の二人だったようで、二人で、喜田さんが、仕事ができるようにと配慮したらしいのです。そこで結ばれた友情だったようでした。

 私は、揺光から聞いたアドレスに手紙を出し、今度は私との友情が芽生えたのです。彼は、山形に行くのでそのついでに新潟に立ち寄ってくださり、その後は、たかひろの選挙の手伝いに1週間ぐらい来てくださったのでした。以来、こちらの会報と、彼の会報とが、行き来しながら友情が続くばかりか、新潟の事務所で知り合ったボラさんたちとの交流も続いているのです。

 そして今、この朴さんは、スージンの親戚(上記のナムさんの母)が理事長を務める社会福祉法人で、ソーシャルワーカーとして働いているのでした。社会福祉法人のパンフを朴さんが送ってきてくださり、日本語の解説付きだったので、全貌が明らかとなりました。それによると、この社会福祉法人は、韓国で初めての障害者の施設だったそうで、はじめは、結核や、ハンセン病、その後障害者一般が対象となってきたそうです。大分県別府市にある太陽の家と姉妹関係になっているとのこと。私たち夫婦は、この「太陽の家」には、かなり前に見学に行っているのでした。

 この韓国の社会福祉法人の標語は「国家は制度で、社会は参加で、自身は自立で」というものだそうです。「自身の自立」というところが、どんなふうに定義されているのか、気になりました。

次回の韓国訪問にはぜひこの施設を訪ねてみようと夫婦で話しています。




13回在宅ケアネットワーク栃木
         2009,2,11    於、自治医科大学

13回在宅ケアネットワーク栃木の集まりがあって11日は朝早くから、自治医大に行きました。去年、柏崎の障害者のアメニティーフォーラムで出会い、帰りの電車で話し込んだ方(内納さん)が、在宅ケアネット栃木のメンバーで、この集まりがあることを知らせてくださったのでした。卓夫が「行くならだれか連れて行くんだな」というので、私もそれを追求してみたのですが断念し、前日一人で行くことを内納さんにメールしました

自治医大に行くのは初めてでした。結構時間がかかって、行きも帰りも、3時間半ぐらいかかりました。会場にはすでに大勢の人がたまっていたのですが、いつも在宅医療の会合では、顔を合わせている太田秀樹さん(おやま城北クリニック院長)が見つけてくれて、大喜びの表情で握手となりました。曰く「MLであなたが来ることが流れて、いろいろ飛び交ったのです」そして、「昼に一言アッピールの時間があるから、その時はなしてください」びっくりたまげた私。その後、内納さんに出会ったら、「交通費も出さないで来ていただいて申し訳ありません」などというので、さらにびっくり。

初めのご挨拶が、寺沼幸子さん(事務局長)

「先日101歳のお坊さんの話を聞いてきた。『生涯修行、臨終定年』という素晴らしい言葉、私もそれを実践したい」この方も、看護学校の先生だというのですが、80歳に近いと感じた方でした。朝、7時前に出ないと、この方のあいさつが聞けないと思って、早くに出たかいがあったと思いました。

基調講演 山口晴保さん(群馬大学医学部保健学科教授)

 「認知症の介護負担〜ケアと尊厳のバランス〜」はとっても面白く、大学の先生にしておくのはもったいない人だと思いました。まず、今回の総合テーマが「頑張らない介護生活」となっているのを、「頑張りすぎないと言ってほしい、頑張らないわけにはいかないのだから」と。古いものが好きで、と前置きをして、明治29年に発売された健脳丸という薬の古い広告を写真で見せて、「脳の病気すべてに効く」と書いてあるけど、当時は、誇大広告が禁止されていなかった。禁止されてからは、「便秘薬」となった。脳のすべてに効く薬などない、とのこと。

そもそも認知症とは?

私はこう定義します。と言って、忘れるだとか、妄想だとか、認知障害があっても、それだけでは認知症とは言わない。生活に支障が出て初めて、認知症という。

 アリセプトという薬は、初期の認知症に効くといわれているが、これには、精神を高揚する働きがあるので、暴力的な人は、かなりひどいことになるし、屁理屈をこねるのがうまくなったりする。そもそも認知症医療とは、本人のためにするものではなく、家族(介護者)のためにするものだから、こういう人にアリセプトは使わないほうがいい。

認知症の認知症状は治せないが、行動や心理症状は、ケアや、医療でよくなる。抑肝散もその一つ。受容的な介護ができれば、よくなる場合が多い。介護による充実感が、子育てに比べて低い。ちょうど子どもが育つにつれて、獲得していく能力を反対の順序で失っていくのだからやむを得ない。充実感が得られるのは、夫>妻>娘>息子>嫁なのに、嫁の介護が一番多い。

拘束についてどう思うか?という質問があり、みんなが手をあげました。拘束は絶対だめという人が、とっても少なくてびっくりしました。最小限はやむを得ない。という人が圧倒的に多いのです。それに対して、自分は拘束されたくない、という人はたくさんになります。いやいやこれは不思議な現象。私は、単純だから、自分がされたくないことは、人にはしない。という原則で、転倒して骨折するから拘束、というのだったら、骨折してもいいから、またさらに、寿命が縮んでもいいから、拘束しないでほしいし、拘束はしたくない。と思ってしまうのです。

 工夫によって介護負担を軽くする方法がある。と言ってこんなことを紹介してくださいました。ひとり老人がふらふらしていたら、徘徊だけど、大勢が「パトロール」という腕章をして歩けば、子どもを見守るボランティアとなって、地域に溶け込む。いいですね。

山口晴保さんの本「認知症の正しい理解と包括的医療・ケアのポイント」(協同医書出版)を早速注文しました。

 4320時から、「ご近所の低力」NHK、で認知症の予防を山口さんが語るそうです。

それが終わったら、一言アッピールです。太田さんが真っ先に私を指名。「この在宅医療ネットの全国の代表である黒岩卓夫さんの奥さんが新潟から」との紹介で、少し、桐鈴会でやっていることなどを話しました。すると太田さんが、それに続けて「今の話にあった卓夫さんが、100万で買ったというお寺では卓夫さんが白衣を脱いで帷子に着替えて葬式をします」などとありもしないことを言うので、後の懇親会で「嘘ばっかり!卓夫は白衣を着ませんから」というと「白衣を着なければ、入居者と間違うでしょ」だって。「いいんです。間違えてください」

いろいろな方が、活動をアッピールなさいました。その後、昼食タイムになった途端、いろいろな人が現れました。一番すごかったのは、卓夫の伝記みたいな「大地の子と地域医療」という小冊子を持ってきて語ります。この本が私のバイブルだとまでおっしゃいます。「ところで、あなたは何の職種でしょうか?」「医者です。去年、黒岩先生が出たテレビを見てすぐに尋ねました。それで、往診かばんをいただいてきました。その往診かばんで、夫と始めた在宅診療所をやっています。」「いつ始めたの?」「去年の6月」だったかな?とにかく卓夫の番組というのは、去年の2月でした。その中で、往診かばんが、主人公だったというのは、前に報告しましたね。なぜかというと、患者さんが、作ってくださったもので、タスという山菜を採りに行くときの藁でできた買い物かごのような形をしているものなんです。今はビニールの固いひもで編んでいて、軽くて丈夫で、物の出し入れが簡単、そして超安価。今では、もえぎの看護婦が作っています。往診かばんが研究テーマだという鶴岡優子さんは、同じ日が誕生日という珍しいカップルで、「主人」と言ったら、卓夫にたしなめられたので、以来「コーキクン」(本名、浩樹)と呼んでいるのだそうです。

その彼女にとって、なぜ、その小冊子がバイブルかというと、あとがきを私が書いていて、卓夫が、10年間朝食と高校生の弁当を作っていたと書いてあるからです。さらに卓夫のことを「猛獣使い」と言っている人がいるというくだりがあるので、その「猛獣」に出会えたということで、ものすごく喜ばれてしまいましました。彼女は、3人の子どもを育てながら、今、少子化対策と女医さん対策で、幼児のいる人は短時間勤務という制度ができているので、自治医大の勤務が少ないので、自宅を改装して、二人で在宅診療所を始めたというのでした。 

 他にも色々な方と出会いました。午後のシンポはごめんなさい。ほとんど寝ていて、覚えていないのです。一つだけ家族ができる介護は、一緒にいるだけでいい、と言われたのが、本当にそうだと思いました。

懇親会にまで参加して帰ってきました。
誘ってくださった内納さんに深く感謝しつつ。




「生き心地のいい社会へ」
          2009,2,7    於、朱鷺メッセ(新潟市)スノーホール

 7日(土)、友人の鈴木智子さん(元南魚沼男女共同参画会議代表、現教育センター職員)と広田セツ子さん(鈴懸施設長)と3人で行きました。県司法書士会の主催で、聴講料は無料です。やっと会場を見つけて入口にたどりつくと、司法書士の近藤晃さんが待っていて申し込みをしていないままの参加にしていただき、入場しました。そこで、中山祥世さんと出会えました。一番前のほうに席を取ったら、すぐ前に清水康之さんの姿があり、あいさつに行き「大熊由紀子さんの友人で」と自己紹介をすると「大熊さんからメールが来ていました」と言われました。さすが「えにし」の大熊さん、忙しい中をありがとうございました。

 さて、この催しは、すごいものでした。はじめ1時間半清水さんのお話、その後2時間、4人の方々のシンポジウム。どちらもたくさんのハートをいただくことができました。清水さんの基調講演は、たくさんの数字を挙げながら、パワーポイントでいくつかのメッセージをくださいました。清水さんは、NHKのクローズアップ現代の製作にかかわっていて、自殺遺族との出会いから、NHKをやめて、「ライフリンク」というNPOを立ち上げた方です。

 自民党の尾辻さん、竹見さん(前回落選)、民主党の山本孝さん(亡くなってしまった)の3人が中心となって、自殺対策基本法を作り、2006,6に施行された。とても素晴らしい理念を掲げているが、それが生かされているとはいえない。そこで、自殺実態解析プロジェクトチームを立ち上げて、検討している。

 まず、3つの数字をあげて、注目を集めた。初めが[98,3].これは、1998年3月の決算で、いきなり自殺者が急増した.というもの。バブルがはじけて、たくさんの企業が倒産。それが引き金になっているケースが多い。自殺者数のグラフは、98年から99年が、急こう配で増えている。また、月別変化のグラフは、3月から4月にかけて、急こう配になっている。やはり3月決算の結果でしょう。

  次は[4].これは自殺への危機経路は、一つだけではなく、一人平均4つぐらいある。失業、生活苦、うつ病、とか、昇進、過労、仕事の失敗、職場の人間関係。など。だから対策は、総合的でなくてはならない。

 最後は[72] 亡くなる前にだれかに相談していた人は、72%。ひと月以内では、45%。

周りの力を期待していることが分かる。

 「自殺実態白書」2008、から見えてくるもの。ということで、地域特性が浮かび上がっていた。この白書は、地域ごとに、年齢別、性別ごとにその数が載っている。例えば、さいたま市浦和区では無職の女性の自殺が多い。これからは都市部の専業主婦たちの孤独が浮かび上がってくる。愛知県豊田市は、圧倒的に働き盛りの男性。トヨタという会社の従業員を大切にしない体質が出ているのでは?このように、地域別の特性を取り出すと、対策が取りやすい。

 自殺対策とは、結局、支援のための社会全体の面を作っていくことになるし、社会問題が、もっとも深刻化したのが自殺なので、自殺対策は、「生き心地のいい社会」を目指す社会作りということになるのでは?

 第二部のシンポは、もっと複合的に展開した。

 はじめは、新潟いのちの電話の理事長真壁五郎さん、妻のようこさんが、幼稚園の先生で、自宅でピヨピヨ文庫をしており、田代俊子さんの友人だったので、田代家に泊めていただくときには、いつも真壁宅をも訪ねていたご縁で、ずうっとお世話になってきました。いのちの電話では、「聴く」ということに徹することで、自殺予防にも貢献。

 新潟では、「自殺」という言葉の代わりに「手じまい」と言っていた。自分の手でおしまいにするということでは?と真壁さん。

 次が、湯浅誠さん。

 今の社会は「滑り台社会」だといいます。一つ崩れて滑り下り始めたら、とことん下まで滑り下りざるを得ない。そこまで来ると「NOと言えない労働者」が続出する。そこを、脱出するには、階段を取り付けて、一段一段登っていく。下から「シェルター+総合相談」、「緊急小口貸付」、「生活保護」、「アパート」という4段の階段でした。その階段を上り詰めたら、「NOと言える労働者」になれるというものでした。そしてそれがすごいのは、この4段階の提案のすべてについて、かなり具体的に提案しているところです。

 佐高信さん。評論家で、「週刊金曜日」発行人。口が悪くて名をはせている人。

 「どうして僕はここに招かれたのだろう?取材のつもりで行こう。」「大企業の社長は自殺をしません。中小企業の社長だけです。大企業は、ミドルの立場の人が自殺する。それは、社長は、下の人に相談して事を運ぶということになっているから、まずいことになると下の責任にする。麻生みたいなのが、社長にちょうどいいんだ。麻生A、麻生Bみたいにね。大体、小泉がいけない。竹中平蔵と中谷巌と3人で、会社が儲かるようにというだけで、規制を緩和した。ところが、中谷巌は、今度出る文春で、『自分は間違っていた』ということを書いている。」

  2月8日の毎日新聞の書評欄に中谷巌著「資本主義は、なぜ自壊したのか」−−「日本」再生への提言(岩波新書)について出ていました。アメリカに留学して、それにあこがれて米国市場主義が、この繁栄をもたらしたと思った。ところが、実は、アメリカに貧困があることを知り、考えを改めた。これは、『懺悔の書』。キューバとブータンにひかれているという。

 最後に清水康之さん。

 中小企業の社長は、無限責任なのに対して、大会社の社長は、有限責任。10年間で、30万人以上の方が亡くなった。このことから何を学んだか。私は、市民活動家の層が厚くなることが、解決策だと思う。湯浅A、湯浅Bとたくさん出てきたらいい。

 その湯浅さんは言います「失業して、貯金も尽きて、生活保護を申請しようか悩みに悩んで、ようやくの思いで、役所に行くと、そこを蹴っ飛ばされる」その結果の自殺、などなど。

 コーディネーターの岩野秀人新潟県司法書士会副会長が言いました。「電話相談で、魚沼の方から失業して今では、コメと家があるだけで、食事もとれない。というので、近くの司法書士を紹介して、役所に一緒に行ってもらった。生保は1週間かかるので、それまでの緊急援助をと言ったら、前例がないので、検討する。と言ったという。」「六日町の役所」と言っていたから、実は、魚沼ではなくて、南魚沼の話らしかった。

 最後に会場の発言を求めたので、私は手をあげていった。「私は、『迷惑をかけあおう』という標語が大切だと考えて、それを名刺に刷り込んでいます」

 そして閉会になったら、一人の男性がきて「南魚沼の黒岩さんですか。秩子さん?」「そうです」その方は、川上という弁護士さんで、かなり前に亡くなってしまった市民活動家の川上圭子さんの夫だということがわかった。海映が来たことも、夫の真一郎が、司法修習をしていることも知っていた。「遠慮しましたね。もう少し話せばもっと大勢の人に理解してもらえたのでは?でも、拍手があったから、その人たちは理解したのでしょうね」と言ってくれた。

 帰りの車では、鈴木智子さんと話し込んでしまって、大和のETCを通り越して六日町ICまで行ってしまった。

 

自立支援協議会の専門部会居住部会            
           2009,2,6    於、
地域振興局(六日町)

 6日午後、六日町の地域振興局で、自立支援協議会の専門部会居住部会があり参加しました。参加者は、20人足らずで、ほとんどが、施設職員と、障害者の家族、一人だけ、障害者で一人暮らしをしている池田博さん。施設の方々は、23年度までに新しい施設に生まれ変わらなくてはならず、それらの報告はとても大変そうでした。一つの知的しょうがいの方の施設は、すでに一つグループホームを持っていて、そこが、増築するために新しい家に移転するので、その新しい家で、体験入居をした。5人の人が体験し、「ここに住みたい」と言ったのは、1〜2人、3人かな?とその職員、あとの二人は、理解できない様子だった。とのこと。長年施設に住んでいた人にとって、新しいところに移るというのは、抵抗がありますね。

 精神障害者の施設の方は、今、福祉ホームに住んでいる人たちに聞いてみると「今のままがいい」がほとんど。精神の方々は、人と一緒に住むことに抵抗がある人が多く、そのために独り暮らしができるアパートを探している支援センターの職員が言うには、「駅の近く、日当たりが良く、25000円」という条件で探しているが、見つからないとのこと。もっと障害年金を増やしてもらいたいとのこと。市営住宅が全部駅から遠いいので、交通手段を持たない人たちには、住めない。池田博さんが、何十年も前に、一人暮らしをするために市営住宅を改装してもらったのですが、そこも駅までは、歩いて1時間という場所です。彼は、車いす生活ですが、車の運転ができるので、そこの市営住宅でよかったのです。車いすバスケットなどで楽しんできました。今は、「ドリームハウス」(後述)でボランティア。

 桐鈴会の評議員で、言葉を持たない一人(かずと)君のお母さん、井上はるみさんは、桐鈴会の隣にあった「ドリームハウス」という共同作業所を作ってきた人です。今は、特養が新しくなったので、その古い建物の中に「ドリームハウス」は移りました。そこのメンバー8人中7人が、グループホーム(GHと略す)で生活したいということで、最近十日町にあるGHを見学に行った。そうしたら、その夜8時ごろそこの入居者が二人、メンバーの家を訪ねてきて「遊びに行こう」と言ったというのです。二人のうち一人が運転できるので、車で来たのだそうです。それで、井上さんは、たまげてしまい、夜職員がいなくなるGHには、とっても住まわせられない。夜も職員がいるケアホーム(CHと略す)でなくては、とのこと。それで、桐鈴会の会報で、CHを作るとあったので、ぜひ仲間に入れてほしいといわれました。そこで、18日に福岡寿さんのCHを見に行くことになったので、一緒に行こうということになりました。

 役所の方の話では、魚沼地域(南北中の3地域)全体で、GHが11、CHが25、必要だと言われている。その3分の一と考えると、GHが4、CHが8ということになるそうです。障害程度区分1までが、GHで、2から6までが、CHということで、共用型つまりGHCHというやり方もあるとのこと。

 今のところ、身体しょうがいしゃは、GH、CH、の対象になっていないけど、近くそれも含めるということになっているとのこと。自立支援法ができたときに、3しょうがい統一といわれていたのに、ここだけは、外されてきていたのでした。

 桐鈴会のCHは、在宅の方々の住処として考えられていますが、今回の参加者の中では、すでにある施設の人たちの行き場所として考えている所ばかりでした。

 とりあえず、南魚沼圏域の現状がわかったというところ。18日には、長野県中野にある福岡寿さんのところに見学に行くことになっています。

 

 

「あぶあぶあの奇跡」        
    2009,2,3     於、ヤクルトホール(東京汐留)

 「感動した本」のコーナーでご紹介した「あぷあぷあの風」のの中でご紹介した東京のヤクルトホールでの上映会に3日行ってきました。「あぷあぷあの奇跡」です。

 これはすごい!まさに「奇跡」です。東野洋子さん、というたぐいまれな女性の周りでその奇跡は起こりました。1982年に東野さんを含めて6人が話し合って、名前もその時に決めて楽団を結成したのでした。しばらくして、自分のことを「しょうがいしゃ」といったメンバーに対して「私はあなたたちをしょうがいしゃだと思わない。私のお友達。お勉強は嫌いだし、うまくやれないかもしれないけど、あなたたちは、・・・・・・」このテンテンテンのところを正確に覚えていないのです。たぶん「人間として成長し、お友達を思いやることもできるし、力を合わせて作り上げることもできる」というような内容だったと思います。

 初めは一つの音を出すにも「血がにじむ努力」とメンバーのお母さんは言います。この一男さん(ダウン症)にはお姉さんがあって、指導してくれるのですが、どちらも10代の若者。弟の覚えの悪さに姉はイライラして声が大きくなる。それを聞いているお母さんが、「血のにじむ努力」だったのかもしれません。弟はと言えば、ただただマリンバが上手になりたくて、どんな言い方をされようと姉の愛情と受け止めてついていきます。楽団の中で、一番覚えるのが遅くて、彼が出来るようになるまで、みんなが待っていてくれるのでした。学校や、職場が終わってから、一週間に一回だけ集まっての練習。1年かかって1曲、仕上げると、コンサートをし、アンコールといわれては、同じ曲を何回も演奏。ところが、2年、3年経つうちにメンバーも増え、観客もどんどん広がっていきます。

 それには、多分、メンバーの一人一人が、人を思いやり、一緒に楽しみたい、というメッセージが込められていて、コンサートの観客たちもその世界に溶け込んでしまうからなのでしょう。終わった時の観客達の満ち足りた表情が映画を見る私たちにまで語りかけてきます。メンバーの一人一人をまさに「友達として」大切にしている東野洋子さんが、必要なところにだけ登場します。

 言葉が話せないメンバーがいる、その自閉症の幸彦さんに心を寄せるメンバーたちは、「ゆきひこダンス」「ゆきひこコーラス」を生み出します。「あなたの幸せが、私の幸せ」をみんなが、習得していきます。楽団結成10周年の時から、作曲家の水本誠さんが加わり、メンバーの言葉に曲をつけていきます。それが、「あぷあぷあ」のオリジナル曲。[with you smile」は、皆さんご存知なのでは?「友情を明日へ」が副題です。私でさえ、この曲は聞いたことがありました。この曲の歌詞は、水本さんの妻英美さんと誠(せい)さんが、メンバーの言葉を拾いながら作ったもの。

 「友栄(ともえ)の嘆き」という曲(踊り)もあります。友栄さんの職場が火事で焼けてしまい、失職します。そのつらさを訴えて、みんなでそれを曲にした。「みんなに理解してもらえて、勇気がわいた」と友栄さん。その友栄さんがそのあと突然夜中に窒息して亡くなってしまいます。その時の皆さんの悲しみ、そして、それと向き合う東野さん。直後のコンサートで「友栄さんの嘆き」を演奏しようといいます。でも、そうすると、その日初めて来てくれる人たちにとっては、どうだろうか、と投げかけ、友栄さんのお別れ会は別にやろうとの提案にみんなも納得します。一人ひとりの発言を大事にして物事を決めていきます。

 この楽団は、日本国内はおろか、ニューヨークにも、スペインにも公演に行き、そこここで、この風を起こしてきました。なんと、今までにこの楽団の演奏を聴いた人は、15万人とのこと。27年間での数です。にもかかわらず、私が知らなかったというのは、いかにも「うかつ」でした。こういう情報が届くところにいなかったということでしょう。橋本ひとみさん(「あぷあぷあの風」の編集者)が、この本を送ってくださったことに深く感謝しています。

 新潟で上映会をしようと考えていますが、内山さん、まずは、新潟市でしませんか?そこに、魚沼の方も見に行ってもらって、それから、こちらでしようと考えています。こんな奇跡を新潟にも起こしたい!1回の上映が、10万、2回が15万、3回が18万です。120分の上映。

 終わってから、監督の船津一さんがトークをしました。「この映画は、12年かけて作ってきました。東野さんが、この人たちはしょうがいしゃではない、ということが理解できるようになるのに12年かかったのでした」印象深いトークでした。そのあと、楽団のメンバーの一人北野智子さんのトーク、次が、一男さんのお母さん、この方は、毎年2月には、2週間かけてくぎ煮というものを作ります。長さが5センチぐらいの魚を揚げて、佃煮にします。これを世話になった方に送ります。そして、一男さんのマリンバの音に耐えてくれたご近所にも配ります。そのお母さんは、「始めたころには、こんなことになるとは、全然予想できなかった」と繰り返していました。

 東野さんが、がんにかかり、入院して手術します。退院すると抗がん剤で、頭がつるつるです。彼女は、かぶっている帽子をペロンと取り、「本当はこんなのかぶらなくていいのだけど、自閉の人たちがリセットできないからかぶっているの」そんな所も素敵でした。

 しょうがいを持つ人たちが、自信を持って、周りの人たちと手を携えて、「こんな世界を作ろうよ」と呼びかけてくれる、そんな姿を皆さんに紹介したいです。彼らが自信を持ったということは、両腕が、スキっと伸びていることに表れています。

 次の上映会は、4月8,9日、文京区のシビックホールです。




「グローバル化する女性労働〜ケアをめぐって」
         2009,1,31    於、新潟市女性センターアルザ 
 
 新潟市女性センターアルザで行われた「グローバル化する女性労働〜ケアをめぐって」を聞きに行ってきました。新潟ウィメンズ企画が主催です。このグループは、新潟県立女子短大の助教授だった田代俊子さんが、乳がんで若くして亡くなった後、お連れ合いさんが、1千万円を女性学の活動にと、グループにポンと寄付をし、倉元正子さんらが中心となって、『田代俊子記念基金』を設立したのだそうです。田代俊子さんは、私が、浦佐に引っ越してきてすぐ、新潟日報で知り、連絡を取って以来、新幹線がなかった当時は、新潟に出張に行くと、彼女の家に泊めていただくというのが、恒例でした。彼女を通して、「家庭科の男女共修をすすめる会」などと出会い、新潟での女性運動の先駆けを作った方でした。 
 
 今回は、横浜国大の教育人間科学部準教授小ヶ谷千穂さんの講演が、2時間半、その後、すぐ前の喫茶店で懇親会でした。小ヶ谷さんは、とっても若くて34歳。フィリピンをフィールドにして、女性が国境を超える国際移動について研究している方でした。介護士が、外国から来るという話は、数年前からあって、はじめは、フィリピンからといわれていたのに、去年、インドネシアから到着したというニュースをテレビで見ました。そこらへんのことがどうなっているのか知りたいと思って出かけて行ったのでした。

 グローバル化の中で、はじめは、物の製造のための労働力が、「安い」ということで、アジアに求められていったのだが、最近では、人間の再生産のための労働力が求められるようになった。先進国の女性が、社会進出することによって、それまで「主婦」がしていた再生産労働が、外注化されるようになった。それは、家事労働、介護労働など。アジアの女性は、「器用で、従順」ということで売り込まれる。家事労働よりは、介護のほうが、専門性が高いという位置づけで、技能化される。

 フィリピンよりも、インドネシアのほうが先に来ることになったのは、フィリピンで経済連携協定が「不平等だ」との反対運動が起こったために、フィリピンでの批准が遅れ、結果としてインドネシアが先になったとのことでした。インドネシア人のほうがフィリピン人よりも低賃金という事情もあるようですが、インドネシアの場合には、ほとんどが、ムスリムなので、5回の御祈りだとか、食べ物だとか、大変なのでは?と、懇親会で話題になっていました。

 フィリピンは、「最大の輸出品」が労働力だそうで、ヨーロッパや、香港、台湾、クウェート、サウジアラビア、イスラエル、カナダなど、それも大半は、女性労働。日本へは、2年間で、看護師400人、介護士600人とのこと

 このような専門職の人を除くと、エンターテナーなど前もって研修を受けるが、その研修の費用が、貸し出されているので、初めの何カ月分かの給料は、返済に充てられる。斡旋業者を通してなされる場合には、かなりあくどい業者もある。人身売買まがいの場合も。

 結婚でやってきた人が、ヘルパーの資格を取って介護職に就くというケースもある。

 2時間半もの講義だったが、フィールドを持っているからなのか、彼女の人間性なのか、かなり柔軟な方なので、聞くことに疲れることなく聞けた。

 懇親会で、私はこんな発言をした。「新潟県の中で、一番外国人花嫁が多いのは、南魚沼市。それは、東京に近いということもあるが、それよりも国際大学があって、大学生に日本語を教えるための『ゆめっくす』というボランティア団体があるので、『外国人花嫁』にも日本語を教えたりしている。国際大学関係者の論文で、その花嫁たちの聞き取り調査を読ませてもらったら、どの人も初めはとっても苦労するのだけど、何年かするうちに一家の大黒柱になって家族のリーダーになってしまうケースもある。違いがある者同士が出会うことによって、お互いの許容量が広がって豊かになるということがありうるのでは?」それに対して、小ヶ谷千穂さんも「本当にそうですね」という返事だった。

 帰りは、同じ新幹線だったので、いろいろと話せた。「京都にある龍谷大学にフィリピンの方が来ていて」とそこまで言ったら「カルロス先生?」と彼女が言う。実は、そのカルロス先生が、フィリピンからのケア労働者の問題で、6月に開くフォーラムに上野千鶴子さんを呼びたいということで、長崎暢子さんからの依頼で、私が、上野さんのOKをいただいたばかりでした。さらに、「東京外国語大学の学長をしていた池端雪浦さん知ってる?」「フィリピン史の権威の方でしょう?」という。長崎暢子さんも、池端雪浦さんも、女子寮の仲間だったのでした。

 手術後に麻酔が切れてきて、講義を聞いているうちに痛みが始まったのですが、それでも、行ってよかったと思いながら帰ってきました。



手術室初体験
      2009,1,30     於、斎藤記念病院  

 30日は、こんにゃく作りの後で、幼稚園から帰ってきて、その後、入院したんです。なんと一晩だけの入院だったのですが、実にスリルに富んでいました。
 10月13日に、新発田の選挙事務所で転んで、肩のはく離骨折となり、その後さまざまな治療や、リハビリを体験しましたが、一番簡単だと言われた非観血的授動術なるものを試すことにしました。これは、簡単に言うと、肩に麻酔をして、動かなくなってしまっているところをはがすというのです。バリバリバリという音がすると聞いただけで、それは嫌だと思ってしまったのでした。ところが、毎日昼間にも入浴して、痛いのを我慢して腕を伸ばすリハビリを続けて1月が経ちましたが、どうも、かける時間と効果を比べて納得がいかず、その簡単だというものをやってみようと考えたのでした。
 
29日にやっと予約がとれて、斎藤記念病院(知る人ぞ知る県会議員の斎藤隆景が理事長)にいきました。それで、翌30日(金)に手術と決まりました。萌気園で土日に診察をしてくれている元大和病院の整形外科医藤原稔泰先生が、この手術を提案してくれ、それをやるには、この病院にと言われたのです。月から金までは、藤原先生がこの病院の外来をしているのです。

 さて着くとすぐいろいろと説明があって、納得して手術室に入りました。5人ものスタッフがいろいろやってくれ、いよいよ麻酔の注射となりました。右肩と首の中間よりは首寄りの位置に注射針を入れます。ひじが、ピリッとして体中が痙攣します。「動かないで」と言われても無理、動いてしまうのです。その後、指先とか、いろいろなところがピリッとするのですが、それは、そこの神経に麻酔が届いたということだそうで、なんと肩の一部に麻酔をするのだと思っていたのに、右腕が、すべて動かなくなってしまいました。藤原先生は、麻酔が効くまで、いろいろとおしゃべりをしてくれます。

 25分たって、ほぼ全域にいきわたったと判断して、「これから腕をあげるから、音を聞いていてください」確かに低い音だけどバリバリって聞こえました。それで、くっついてしまっているところが動くようになったというのです。その後、肩の下側でもバリバリと言います。しかし、まったく痛みはなし。腕を持ち上げてごらんなさい。と言われて、左手で、右手を持ったら、なんと重たいこと!5キロぐらいあると思えました。普段は、自分の力が入っているのでしょうね。神経のない腕は、死体の重たさです!

 藤原先生は、楽しそうに、「バリバリという音を聞かせたかったし、この重たさを経験させたかったのです」だって。実は、看護師さんが、手術室に案内してくれる道中、私は「怖いというよりは、初体験なので、わくわくしています」と言っていたのです。いやいや本当に面白かった。神経がなくなると、どこにあるのかもわからなくなるのです。左手で、右手を探すのですが、見つからない。あると思うところにないのです!これは、翌朝6時まで続きました。夜中に、右手を動かそうとすると、2本ぐらいの指がかすかに動くだけ。それが、6時には、5本とも動いて、握れる!麻酔が解けてきた!

 翌朝7時に藤原先生が顔を出してくれました。萌気園二日町診療所に行く前に立ち寄ってくださったのです。「麻酔が切れて痛くなったでしょう?」が第一声でした。「それが、全然痛くならないのです。ほら見てください。こんなにまっすぐ上に上がります。」と見せてあげました。
8時の朝食のときには、もうすでに、右の手が使えるようになっていました。昨夜の夕食は、左手で、スプーンで食べたのに、今朝は、右手でお箸で食べました。ここの食事はとってもおいしくて驚きました。二食とも、おいしいものばかり。それも、外注に出しているんですよ。といっても、食事を作るチームが、派遣されて病院内で作っているのですが。

 一晩中右手をだらりとして、3角巾でつって、点滴をくっつけてトイレに行っていたのが他人のことだったように感じるほど朝になったら、普通に両手を振って歩いているのでした。

 会計を済ませて、一人で運転して帰ってきたのですが、右手でシートベルトをすることができて、4か月ぶり!と感慨無量でした。

 帰ってきてからも、手はさっと上がり軽々だったのですが、それで、前から行こうと思っていた新潟のウィメンズ企画主催の勉強会に行ってから、やはり麻酔が切れてきて、手を挙げるのが、痛いと感じるようになりました。なあんだ。ただ私の感度が鈍かっただけ。藤原先生が言いました。「1週間、痛みに抗して、リハビリをすれば治るのです。」
帰ってきてから早速リハビリを始めました。痛みに抗して!本当に痛い!

 それにしても、今までできなかったことができるようになることはうれしいこと。頑張ってリハビリに励むことにします。既に、可動域が広がったことは確かなのですから。

 藤原先生は、名物先生で、大和病院を辞める時に患者さんたちが、引きとめの署名活動をしたのです。大和病院で、そんな待遇を得たのは、後にも先にも彼一人です。そしてその後、萌気園二日町診療所と、斎藤記念病院を掛け持つ生活となったのでした。



浦佐幼稚園でのこんにゃくつくり
      2009,1,30      於、浦佐幼稚園

 うちの子どもたちのほとんどが卒業しているうちの近くの浦佐幼稚園。去年、七夕の竹をほしいというので、裏の畑の周りに生えてきた竹を取っていくようにと言い、ついでにその畑に植えてあるこんにゃくの「木」を見ていくようにと言っておきました。その日私が留守だったからです。その後、こんにゃくが掘られてからは、こんにゃく芋を幼稚園に持って行って見せ、そのうち、こんにゃくを作って食べようね。ということになっていました。

 今日がその日となり、さまざまなものを持って幼稚園に行きました。ミキサー、鍋、ごむべら、大小のボウル、木のかきまわしヘラ、はかり、計量カップ、卓上コンロなどなど。まず、直径10センチぐらいのこんにゃく芋を見せて、これを畑に植えたら、もっと大きな芋ができるんだと説明。とがったピンクの芽も見せました。まずは、一人の子どもに洗いに行ってもらい、それの皮むきをしながら、こんにゃくの木がいかに気持ち悪いものなのかを話します。幹が、まるで蝮のような模様になっている、そのことを覚えていた子はほとんどありませんでした。

 洗われた芋をまず半分に割ると、白くてとてもきれいな中身が見えます。ところが、それの皮をむいているうちにピンクがかってきます。少し小さく切って分量の水と一緒にミキサーに2分かけると淡いピンク色のジュースのようになります。これを鍋に移して15分置くと固まってきます。これを火にかけてかき回すのです。焦げないようにね。と言って、年長さんに一人ずつかき回してもらいます。次の人に代わる時に、わたしが、ざっくりこげないようにしておきます。ちょうど18人全部が終わるころには、ピンクが、灰色に変わってきて、熱が通ったことがわかりました。

 そのような変化を幼稚園の60人がじっと見つめています。これを雪の上において冷まして、60度ぐらいになったところで、炭酸ソーダ水を入れます。今度は、年中さんにかき回してもらいました。熱くないので、ゆっくりできます。すっかりかきまわって同質になると、また雪の上ですっかり冷まし、熱湯で20分あく抜きです。待っている間は、子どもたちは、それぞれが好きなことをして遊んでいますが、さあ出来たよ。と言えば、さっと集まってきます。今度は、年少さんからこんにゃくを切ってもらいました。こんにゃくのぷりぷり具合が触って分かるので、全員にひとかけらずつ切ってもらいました。さて、しょうゆだけの皿と、スダチの汁と皮を入れた皿と両方に分け、すきなほうから手づかみで食べてもらいました。

 「おいしかった、ありがとう」と言いに来てくれた年少さん、皿の周りを囲んで、最後の一滴まできれいにしてくれる子どもたち、一人だけ「苦い」と言って返しに来た年少さんがあり、その子の姉(年長)が、さっと来て、もらって食べていました。

 「僕のお母さんも作ってくれた。同じ作り方だった」と言いに来てくれた子もありました。今日は、こんにゃくを作るんだと家で話した年少さん(女)がいて、その子のお母さんが、「固めるのに何を入れるの?」と聞いてきたそうで、「来てみたら?」といったけど、仕事もあって、来なかったのですが、その子は、自分で、マスクをして、頭に三角巾をかぶって、すっかり調理をする支度となっていました。

 子どもたちが、畑でできるものに興味を持って、大人になってから、自分で、野菜をとって食べるというような大人になってくれたらうれしいな、と思いながら、なるべく、子どもにも参加してもらいながらのこんにゃくつくりとなりました。

 この芋は剣持さんが、群馬から運んできてくださったものです。ありがとうございました。




NPO富士山測候所を活用する会
      2009,1,25     於、小柴ホール(東大本郷時計台裏)

 24日に東京にとまって、25日は、10時から、小柴ホール(東大本郷時計台裏)で行われた20年度富士山測候所利活用に関する成果報告会に参加しました。

 17人の研究者からの発表があり、昼食時間には、昼食をとりながらの理事会でした。このNPOの活動によって、19年度から、測候所を3年間借りることができ、この2年間で、かなり多くの研究が可能になったのでした。研究の内容は、私にはわからないことが多く、ただ眠いだけというのもありますが、でも、研究者が、一つの事象を突き止めていくやり方には興味がもてて、途中で帰ってくることもなく、6時まで、聞いていました。

 中でも、私がいつも興味をひかれてしまうのは、静岡大学の増沢武弘さんの発表です。富士山の永久凍土の研究は、以前温暖化の問題との絡みで、NHKで増沢さんの富士山での研究を放映していました。そのころ「永久凍土」というのは、地面の下に、氷が存在し、それが温暖化で流れ出すのだと勝手にかんがえていました。ところが違うんですね。凍土、という文字の通り、0度以下の温度の土なのね。

 今回一番驚いたのは、富士山の頂上付近にコケが存在するということ。それもたくさんの種類があり、南極にあるものがあるということ。全然気がつきませんでした。この苔と永久凍土との深い関係。今年のぼることができたら、ぜひ、苔を見つけてこようと思いました。

 それから、宇宙線の発表者(放射線医学総合研究所の保田浩志さん)が、「ベルン大学と提携して」と言ったのを聞き逃しませんでした。数年前に私が、ベルン大学に行って通訳の方を介して、フリュックガー教授を国際シンポに来ていただく交渉を成功させたことがあるからです。その時に、フリュックガーさんは、中学生に宇宙線を理解してもらうための英語の[cosmic ray]という冊子をくださったのでした。その時はじめて宇宙線というものを少し理解したのでした。そしてまたその時、ベルン大学で、お財布を取られて、大変な思いをしたことも一緒に思い出しました。保田さんは、去年、フリュックガーさんのところへ行ってきたということでした。

 高山病の予防に、風船を膨らますとか、その他いくつか予防法があることなども仕入れることができました。今年は、また、富士山に登ってみたいと強く思いました。

 しかし、このNPOも、ご多分にもれず、財政難で、去年は、電信柱が、5本倒れてその修復にずいぶん出費がかさんだようです。電通からの補助がかなりのウェイトを占めているようで、いつも、電通の方が見えています。3男乙水が電通に入社した時に、新入社員全員富士登山をしたというのが、実は、毎年の行事で、新入社員よりもたくさんのスタッフが登っているということでした。今回来られていたのは、女性のCSR(企業の社会的貢献の部署)の方で日下部佳代子さんでした。電通が、女性をこんなところに配置しているということが、少々驚きでした。

 大学の同期、土器屋由紀子さん(このNPOの副理事長)を少しでも、応援できたらというのが私の気持ちです。



国際シンポジウム報告
        2009,1,24   於、文京区男女平等センター

 24日、文京区の男女平等センターで2時から140人を超える参加者とともに、ルワンダ、ノルウェー、韓国の方を交えてのシンポジウムが、盛大に行われ、幕を閉じました。北海道、四国、松江などずいぶん遠くからの参加者もあり、3年前にニュージーランドを視察したグループは、半分以上が参加で、懐かしみました。

 富山からの参加者山下清子さんと越後湯沢で合流していきました。参加者が少ないというので、主催者フェミニスト議員連盟の事務局長木村民子さんは、不眠症になっていたそうですが、なんと一時は、受付を待つ人の列が、外まであふれるという盛況ぶり。当日まで参加が危ぶまれていたシンポジストのアリス・カレケジさん(ルワンダ)が真っ先に登場。頭には高々とターバンを巻いて、目に鮮やかな民族衣装でさっそうとにこやかにあらわれました。

 テーブルは、90人分しかなく、あとは、横や後ろの通路にいすを出して、びっちり座りました。ステージには、シンポジスト5人(チリのことを語った方が日本人で、日本のことを語る赤松さんとが上記の方に加わります)コーディネーター兼通訳の三井真理子さんのほか、二人の通訳さんも椅子に並んだら、狭いこと狭いこと。その上、各シンポジストを紹介する人がシンポジストの後ろに立った時には、本当にぎゅうづめでした。一人一人別の方が、紹介するというのは、とてもいい方法で、皆それぞれを知っている人が紹介をするので、プログラムに書いてあるような経歴の紹介ではなく、心をこめての紹介となりました。

 ルワンダのアリスさんは、ルワンダ日本大使の夫人で、国際弁護士、スウェーデンのイエテボリ大学で、ジェノサイド後の裁判について、博士論文を執筆中。1994年のジェノサイドで、たくさんの男性たちが殺されて、その後の再建を女性たちが担ったという話をされました。女性たちが「ポロファミ」という団体を作った。「みんな一緒」という意味だそうで、たくさんの利害が対立する人々が、一つにまとまったということで、政府にモノが言えるようになった。それが平和運動となり、憲法に男女平等を入れることに成功した。

 カーリ・ヒルトさんは、駐日ノルウェー大使館で、文化、広報、報道担当の参事官。1960年代に地方議会に女性が進出。1970年代には国会に女性が進出。男女平等は、経済効果もある。育児休暇などは、コストがかかるが、女性が企業に進出することが、経済効果を上げる。母親の85%が仕事を持っている。閣僚は、19人中9人が女性、大学教員は、22%、市長は、23%。それを、彼女は、「23%しかいない」と表現する。私たちから見たら、そんなにいるの?なのだけど。その結果、特殊出生率は、1.9に上っている。

 チャン・ジョンファンは、駐日大韓民国大使館の立法官。今回のシンポジストただ一人の男性。日本語で、がんばって話してくださいました。元は、国会の職員。比例区がクオータ制になったために、女性議員が増えた。13,7%になり、日本を抜いてしまった。以前、ハンナら党が、クオータ制をやめると言ったときに、女性団体が、「落選運動」をはじめ、落選運動が、韓国発で世界に広まった。当事者ではないので、質問された時には、困っていることを率直に述べていた。

 後藤政子さんは、東京外語大で、ラテンアメリカ現代史を専攻。神奈川大学スペイン語学科教授で、女性大統領を出現させたチリのことを話していただいた。バチェレ大統領の誕生は、彼女の資質が大きい。女性閣僚を半数にするということで、はじめは11人いたのだが、いろいろな事情で3人が辞め、今は9人になっている。もともと社会党と共産党が強かった。大統領が女性になっても、働く女性に数は、まだまだ少ない。

 赤松良子さんの紹介は、私の担当でした。2001年の参議院選挙で、ウィンウィンから推薦をいただいたご縁で、赤松さんと出会いました。「今巷では評判が悪い官僚出身の赤松さんは、ウィットに富んでいて、周りの人を楽しく働かせてしまうという特技を持っていると元の男性同僚が言っていた」と紹介。
するとそれに合わせたかのように出てくるなり冗談で始まりました。「歌舞伎で言うと、さてどん尻にひけーし(控える)は赤松良子でござい」そして「世界は進む、日本は進まず」というタイトルに対して、私は、オプチミストだから「進まず」の話はしたくない。「進めよう」の話をする。戦前に婦選獲得同盟ができたあたりから、婦人参政権の歴史から、小泉チルドレンによって、戦後の初めての選挙での女性の進出を凌駕したところまでの女性たちの歩みを、若い人たちにわかりやすく話された。途中「女だてらに」という言葉を使うとアリスさんとカーリさんについている「囁き通訳」のことを心配して「even woman」と言いなおし、「私だって英語できるんだから」などと笑わせながら、こんな話をされた。
「戦前は、女性には参政権がなかった。男性でも低所得者には参政権がなかった。それが、1925年に男性に普通選挙権が導入され、1945年に女性に広がったのだ。たった20年で女性に広がったというのは、ほかの国々に比べて速かった。
1946年4月10日が初めての女性参政権に基づく選挙だった。それにちなんで、4月10日から、一週間が女性週間となった。私が、婦人少年局にいたときに、毎年その時期にポスターを作る。ある年、女性の政治意識向上、というようなスローガンを上司に上げていき、課長、局長までOKだったのに、その上でダメという。『今年は選挙の年だから』が理由。選挙の年だからこれがいいと思っているのに、女性の進出を苦々しく思っていたのです。本当に男の牙城だった」

 休憩を入れて、第二部は、質疑でした。どんどん手が挙がり、手を挙げた人全員には回らずでしたが、この質問に答える中で、また随分いろいろなことがわかるのでした。

 ルワンダでは、1996年のジェノサイド法、ができた。それまでは、レイプ=器物破損、ということで処理されていた。レイプの被害者のところに国会議員を連れて行って、聞き取りをしてもらった。その結果、「カテゴリ4」から緊急度「カテゴリ1」にまで上げることができた。ルワンダは、階級社会。だから、女性のグループは、階級の高い男性のところに行って支援を求め、仲間に入ってもらった。

 コスタリカは、クオータ制も女性省もあるが、女性の地位はちっとも高くない。キューバのほうが進んでいて、44%もの女性が国会にいる。

 赤松さんは、こんなことも言われた。
「2005,9,11の衆院選で、小泉首相は、7ブロックある衆院の比例区すべてで、女性を一位にした。その結果最低7人は女性が入る。これは、クオータ制のバリエーションと言える」
「WINWINは、女性たちが、お金がないという現実があるから、立候補者に資金援助をしようということで、99年に始めたが、だんだんにお金が集まらなくなってきてしまったので、解散しようかとも話し合ったが、女性の議員を増やす努力をやめるべきではないから、他の方法で続けようと考えた。日本では、政治参画が進んでいないわけではなく、進み方が遅いのだ。それは、ポリティカルウィルが乏しいからだと考えられる。今は、インターネットでこの人なら推薦できます。という情報を送るという仕方で活動を続けています」

 最後に「宣言」を読み上げて第一部の終了となった。

 話に熱が入って30分オーバーしてもだれも立ち上がることなく、同じ会場での交流会にも60名もの参加 者で、食べ物を追加購入しなくてはならず、うれしい悲鳴でした。主催が、フェミニスト議員連盟で、後援が16団体もあり、それらの団体から、挨拶があったり、まだほかにもいろいろな宣伝があり、テーブルを移動しながら、様々な交流に花が咲いていました。私も、次回の「女政のえん」(3月21日、大脇さん)の広報をしました。

 さてそれからが、拡大世話人会。8時から、10時です。ここでは、いつものようにとっても活発な意見交換ができました。                                                



故井口とくさん物語
                  2009,1,22

 鈴懸入居者の井口とくさん(93歳)が、20日に亡くなりました。18日(日)往診にいった卓夫は、今夜中持つかどうかと言っていました。もうかなり前から、老衰だということで、毎日のように往診をしていたのです。18日夜から、仙台にいる息子さん夫婦と、長岡にいる娘さん夫婦と、もうひと組旧大和町五箇集落の井口要吉さん夫婦がきて娘息子夫婦は、泊まり込みました。

 19日朝、私が、井口さんを訪ねたら、とくさんは、ほとんど眠っているのですが、両腕を宙に浮かせて動かし続け、手を握って語りかけると、まるでそのことがわかるような反応でした。そこへ、井口要吉夫妻が入ってきて、私とあいさつしていたら、両腕が、どちらも私たちのほうに向かってまるで呼びかけているかのように動き出します。要吉さん、「変わりませんね」があいさつでした。「え?どこかでお目にかかっていますか?」「小学校でPTAを一緒にしていました。」要吉さんの妻は「今度海映さんがこっちに来たんですよね」「あらどうしてご存じ?」「娘が海映さんと同級でしたから、お宅にも遊びに行っていました」井口直美さんだということで、海映も、ブラスバンドで一緒だった、とのこと。

 仙台の息子さん夫婦と話していて、「去年、仙台白百合大学にお話しに行ったのです」というと「うちの娘が仙台白百合を卒業して、今アメリカ人と結婚してダラスに住んでいます」というではありませんか。

 長岡まで帰っていて、午後から来た娘さん夫婦が「よく知っています」と私のことを言います。「金沢育子さん」と娘さんが言うのでびっくりしていたら、ガイドヘルパーとして金沢さんにかかわっているとのこと。金沢さんは、「すずらん」というハンドルネームで、3年前に施設から出て、53歳でアパート暮らしを始めた車椅子の身体しょうがいとともに生きてきた人です。私のHPの掲示板に時々投稿してくれています。

 息子さんから聞かせていただいた話は、強烈でした。3歳の時に、貰われて養子として育てられたけど、労働力として使われただけだったので、中学2年の時に家出をして、本家のうちで育ったというのです。その本家の方が現れてまたびっくり。井口建設の社長井口一成さんとその母でした。一成さんは、萌実、宇洋と同級生。その妹は、海映の親友ともいえる智子さん。そして、彼らの父は、浦佐小学校でPTA会長をしていたのですが、その時の副会長が私でした。

 ところで、井口とくさんです。去年の3月に入居されて、(当時92歳)その直後私が、部屋を訪ねました。「これから、都屋に買い物に行く」というのです。都屋は、衣料品屋。そこで何か買ってお世話になった人に届けるのだというのです。そのお世話になったという人が、井口要吉さんで、「そこまでどうやっていくの?」と聞くと「歩いて」というではありませんか。都屋まででも、2キロあり、五箇までだと、さらに5キロぐらいあるでしょうか?心臓が悪くて、その直後入院ということになってしまったとくさんにはとても無理な話だったのです。でも、そのぐらい要吉さんへの感謝の気持ちを持っていたのでした。遠くに住む子どもたちに代わって、一人暮らしになっているとくさんの面倒を見てこられたのです。

 とくさんは、鈴懸に入ったことを納得できないと言い続けたにもかかわらず、入院すると「うちに帰る」と言って看護師さんたちを困らせたのですが、「その『うち』というのは?」と聞かれると「鈴懸」と答えていたといいます。一人暮らしは難しく、子どもたちが考えて、体験入居をした後、鈴懸に入居したことを、とくさん自身でも納得せざるを得なかったようですが、90年間自分がしたいことは通してやってきたとくさんにとっては、納得しがたいものだったのでしょう。でも、今回集まった人たちはここに入ってよかったのだとおっしゃっていました。とくさんは、最後まで、認知症はなかったと職員たちは言います。とってもしっかりしていて、自分の意思ははっきりと口に出す。「どこに住んでいたのか」と入居者に聞かれて「お前さんいつから、警察みたいにひとの戸籍調べをするようになったのか」と言ったので、その後誰も聞かなくなったそうです。ほかの入居者の方も「これまでの生活をすべて捨ててきたのですから、前のことは聞かないでください」という方があります。

 今回どこかでつながっていた人たちをとくさんがつなげてくれたという感じがして、20日夕方亡くなって、みんなが勢ぞろいした時に、「とくさんありがとう」とみんなで言ったのでした。

 今日は友引で、お葬式が明日に延びました。私が、招待され、葬式、お斉、と参加してきます。



南魚沼市支援教育センター発足記念フォーラム
             2009,1,17    於、南魚沼公民館

 タイトルのような会に参加しました。教育センターに勤めている友人たちから誘われてのことでした。

 第一部は、南魚沼市のいろいろな役職を持った人たちによるパネルトーク。私は、申し訳なかったのだけど、かなりの間眠っていたのですが、目覚めた時に耳に入ったこの言葉が気になりました。「問題のある家庭の方々は、近所と付き合いがない。付き合えばもっと開けるはずなのに」

 会場からの発言を求められたので、言いました。「不登校や、引きこもりといわれている人たちは、『常識』によって痛めつけられることが多いので、付き合わないほうが正解ということがあると思います。小学6年生の子が言いました。『黒岩さん、天気好き?私は、嵐や吹雪が好き』それは、天気の日には、みんなが楽しそうにしているからで、たぶん自分がみじめになってしまうのでしょう。昼夜逆転というのも同じこと。誰からも見られていない夜中が一番楽なので昼間は寝ている方が、エネルギーを使わないですむ。寝るのは夜、子どもは学校に行くもの、などの『常識』をはぎ取られてきたのが、私の大地塾8年間でした。問題の家に働きかけるのではなく、周りの常識に働きかけるほうが必要なのでは?」何人かの人がうなずいて聞いてくれました。

 第二部は、コミュニティーホールさわらびで、早稲田大学の河村茂雄さんの講演。この話で面白かったのは、こんなことでした。「家庭が問題だといわれるが、家庭の構成が問題なのではない、家族関係の質が問題なのだ。アメリカの研究結果によれば、母子家庭の親子が一番幸福観が強いのだそうだ。」

 この話をしたら、卓夫が「それはそうかもしれない、だれにも気兼ねなく家族が好きなように暮らせるんだから」だって。男がそう言っていいの?家族関係の質については、河村さんのお話では、うっすらとしたものしか受け取れませんでした。

 最後に学校教育課長南雲権治さんなども含めて楽しい踊りなどがあり、手作りの会であることがわかりましたが、不登校の子どもたちと日ごろ接している教育センターの職員たちは重たい問題に打ちひしがれているのではないかと想像しています。そんな具体的な話が少しでも聞けたらよかったのに、とアンケートに書いて帰ってきました。




「家族が危ない!」

       2009,1,11  於、三条・燕地域メッセピア

          主催 社団法人成年後見センター・リーガルサポート

レジュメ

・ 殺人で被害を受ける女性の過半数は、夫からの被害者
   (日本では3日に一人が殺されている)

・ 子ども・高齢者が殺されるのも大半は、家族から

・ DV家族の悲劇(介護保険適用外のショートステイに駆け込む人たち)

・ 桐鈴会の生い立ち(しょうがいを持つ人たちと「ともに育つ会」から
  社会福祉法人設立まで)

・ 「迷惑をかけあおう」というスローガン、知的しょうがいしゃとの出会い

・ 我が家の嫁姑のけんか、から、「差し障りのあることを言い合おう」まで

・ 「思ったことは言わないことにしている」Kさん

・ 「変身」(カフカ)を教えてくれたNさん

・ 認知症の方の看取り、家族にはできない介護とは?

・ 「高次脳機能しょうがいしゃ」Iさんの成年後見とは?

    Iさんの息子さんは、母親と手を切るという条件で結婚できた。

 こんなタイトルでお話ししたのは、初めてのことでした。殺人の加害者は、肉親、なかでも家族が圧倒的に多いということから話を始めて、聞いてくださっている方は、40人ぐらいのうち女性は5,6人、という少なさですが、男と女の違いや、登校拒否の子どもたちのことなど司法書士の方々が、日ごろ相談業務の中でかかわっているであろう方々のお話をしました。

 そして最後に、「高次脳機能しょうがいしゃIさん」について語りました。実は、この方とのかかわりの中で、成年後見ということが必要になり、それなりの勉強をさせてもらったのですが、最終的には、彼女は、成年後見の人にすべてをお任せするということは、できないだろうというのが結論でした。彼女の一番大きなテーマは、「母親が行政と介護会社によって殺された。それを裁判で訴える」というもので、そのことについて、私なりに「裏」を取ろうと試みた結果、彼女の妄想だというのが、その時の結論で、「その裁判には協力できない」と宣言したのでした。そのときには、Iさんはパニックを起こし、私の名代のようにしてヘルパーをしてくれていた広田セツ子さんを「秩子さんのグルなんでしょ」と言って追い出したというほどでした。

 まずはじめに高次脳機能しょうがいというものを知っているかどうか手を挙げてもらったところ、4分の3ぐらいの方が知らないといい、その説明から入りました。実は、いまこの障害を持った人がどんどん増えていて、医療機関でも、その理解に苦労していて、つい最近の南魚沼障害者自立支援協議会でも話題になっており、病院で、その勉強会をしているというところもありました。本当に理解しにくいしょうがいで、ご本人たちが一番苦労しているようです。

 さて、話を終えて質疑に入った時に、長岡に事務所を持っている方が、「Iさんという方はどこに住んでいるのですか?」と質問。「東京です」「だったら、私のところにもその人から電話がありました」というではありませんか。あらゆる方法で、相談先を探して、携帯でかけて、相談された人が、何を提案しても「それをしてみたけどだめだった」というようなことを言い、結局、自分で、電話を切ったというのでした。ここにいた2ヵ月間で、携帯を二つも駄目にして、新しいのを購入したぐらい、ケータイが、彼女の人生のすべて、というような生活をしているのです。今でも、ときどき電話があり、留守電にはたびたび同じ内容の長い長いメッセージが入っています。息子が「彼女はひとりで生きていける人ですから、何もしないでください」と確信をもって言うほど、彼女は生活力があるのでしょう。その息子が、結婚するときに「母親と縁を切る」という条件を付けられたそうですが、その時、実は、まだしょうがいを負っていなかったのです。高次脳機能しょうがいというのは、それ以前に持っていたその人の性格が、もっと強烈になる、のだそうで、彼女の独りよがりは、もともとあったもののようでした。その結果、親族はすべて付き合いから手を引いてしまっているのでした。

 終わってから、懇親会では、興味深い話がいろいろと聴けました。司法書士という職業の方は、たいていの場合、他の仕事をしてからとか、登校拒否で閉じこもってから、とかいろいろな体験を持っている方が多く、そんな経過を聞くのはその方々にとっても興味深かったようでした。今回の成年後見リーガルサポートというグループの副会長をしている五十嵐てる子さんの話は、こうでした。大学を卒業して、就職したら、そのときはじめて女性が差別されていることを知った。それで、仕事に打ち込めず悩んでいた時に、こんな職業があることを知って試験勉強に挑戦した。また男性の3人が、サラリーマンをしてから挑戦したそうで、そのうちの一人は、仕事をやめないまま受かったので、無職になったことはない、もう一人は、リストラされ、無職になって勉強した。合格して仕事を始めた時に、税金を払うということがこんなにうれしかったことはないとのこと。近藤晃さんは、中学から不登校、高校は3ヶ月で辞め、大検を通って24歳で、司法書士に。もうひとり女性で、登校拒否、大検、の道を通ってきた人がありました。ただ一人、大学を卒業と同時に司法書士としての仕事に就いたという方は、大学3年の時に結核で入院し、そこで、知り合った人から聞いて勉強を始め大学在学中に取ったのだそうです。

 長岡の方二人と一緒に新幹線で帰ってきたのですが、その方々が、海映が引っ越してきたことをとても喜んで、勉強会をしているので、そこに出てきてほしい、特に女性にしか相談できないことがあると言っておられました。セクハラの相談などでは、男性の弁護士では、わからないことが多いそうです。

 大地塾をしていたときに知り合った近藤晃さんからの依頼で、こんな貴重な体験をさせていただきました。ありがとうございました。




日本女子大学学長後藤祥子さん
             2008,12,26   於、東京会館(二重橋前)

 2008,5,4、幕張メッセで、9条国際シンポジウムがありましたね。世界中の9条を愛する人たちが、かなりたくさん集まって盛り上がったという話が、メールで、そこここから伝わってきました。私はそこに参加できなかったのですが、この国際シンポの呼びかけ人に日本女子大学学長後藤祥子という名前があってびっくりしました。なぜかというと、昔、私は同僚だったので、その頃の彼女は、そんなことしそうには見えなかったからです。

 新卒ではじめて社会人になった時に勤めたのが、東京都文京区にある京華学園の女子部でしたが、同じ時に同じ講師として勤め始めた人の一人が後藤祥子さんでした。「9条国際シンポの呼びかけ人になっていることを驚いている」というコメント付きで、年賀欠礼を送ったのです。すると「会いたいなあ」という返事が来て、すぐに約束ができて、26日(ちょうど25,26と東京で集まりがあり、泊まっていたのです)にお茶のみをしたのでした。30年ぶりぐらいだというのに、彼女は、全然変らず、化粧気の全くない若々しい顔でした。

 話し始めたら、興味深いことばかり。彼女は、日本女子大の11期目の学長で、2期8年を今年の3月で終えて辞めるのだそうです。これまでの学長さんたちが、いかに反戦という点で、動いてきたのかをうかがいました。私が、知っている一番が瀬康子さんは学長になったのかしら?と聞くと彼女の答えは「強烈過ぎて、それに反対する勢力があって、駄目だったの。私はおとなしくしていたから、安心だと思われたんじゃない?」ところが、彼女は、財政再建のために大変なことをいろいろやってきて、3期目もといわれたが、体調の関係で断った由。乳がんになったり、他にも、体のことではいろいろありそうな感じでした。

 女性で、長がつくつく人ってとっても少ないので、文科省関係では、たくさんの審議会などに呼ばれて、かなり激務だとのこと。国立大学でも、女性の学長は、たった二人だという。お茶の水女子大学と東京外語大学。この東京外語大の学長は、私と女子寮で一緒だった池端雪浦さんで、後藤さんは、よく知っていました。学長になったばかりの頃、女子寮の同窓会で出会い、死にそうだといって、とっても大変そうでした。女性だからということもあって、まるで「いじめ」という感じの対応を受けていると言っていました。その点、後藤さんは、女子大だということもあって、彼女自身が卒業生だし、職員は女性が多いのではないでしょうか?昔同僚だったころとは、全然違う彼女を見せていただいて、人ってこんなの変われるんだ、と感動しました。




ロビイング報告
   2008,12,8,と11。   於、参議院議員会館

 北京ジャック(1995年第4回世界女性会議in北京をきっかけに作られた)によるロビイングに行きたいと思いながら、なかなか日にちが合わず、今回初めて参加することになりました。参議院議員会館第4会議室で、8日午後1時から、文科省、厚労省、のかなり若手の役人たちが、次々に出てきて、こちらから、前もって渡しておいた質問に答えるという形で進行しました。まず驚いたのは、こちら側の人数の少なさでした。今までは、北京ジャックだけでやっていたのを、同じような趣旨で活動している5団体(I女性会議、均等待遇アクション21、ジェンダー平等教育を目指すネットワーク、シングルマザーフォーラム、mネット・民法改正情報ネットワーク)と共同で取り組むことになったというのに、10人より少ない人数でした。

 初めに文科省。北京ジャックの共同代表の船橋邦子さんの司会で、紹介議員の神本美恵子さんのあいさつで始まりました。性教育、暴力防止教育、高等教育機関における女性教員の割合、などなどについての質問に答えて、私たちと目指すところは一致しているというスタンスで答えていました。私は、DV防止教育では、民間の人たちが高校に出前講座をしているが、そういうところとの提携はありうるか?と質問したら、担当の、初等中等教育局児童生徒課課長補佐塩原さんは、「アウェアーとかですよね」と受けていた。山口のり子さん(東京)中田慶子さん(長崎)など活発に動いておられるのを知っているようで、よかったと思いました。
 性教育普及事業に2900万しかないのでは、とても足りないと皆で訴えました。

 次に厚労省。性差別を禁止した労基法4条、同一価値労働同一賃金を定めたILO100号条約、育児・介護休業制度、フリーター等正規雇用化プラン、子育て支援策、母子家庭等自立支援対策、養育費相談支援センターなどがテーマ。母子家庭の問題がたくさん出ていたのですが、今日は突如シングルマザーフォーラムの方が参加できなくなったために、ここの討論は十分にできませんでした。労基法4条の問題など、実際に裁判で戦って、最高裁までいっている原告の方が参加され、いくつかの裁判について、役所の方に、「ご存知ですか?」とただす場面もありました。結構知っていて、勉強しているらしいことはわかりました。せいぜい30代ぐらいの役所の方々です。私が、育児休暇については、代替要員派遣をすれば助成金が出るということで助かっているのですが、産休については、代替要員派遣ということが制度になっておらず、私たちのような地方在住者は、中小企業に勤めている方が多く、その場合は、産休を取らずに退職し、子どもの数だけ転職しているというケースが多い。そのために、少子化が避けられない。という状況なのですが、産休中の代替要員について、考えていただきたい。と発言したら、雇用均等・児童家庭局職業家庭両立課企画係長進士順和さんは「そのことは、初めて伺いました」と何回も言って深く受け止めた様子でした。文科省も、厚労省も、現れた職員中女性は、それぞれ一人だけというのが実情でした。男性の場合の多くは実情が分からないのでしょうね。

 船橋さんは、いいます。「私たちは、皆さんと一緒に考えて、一緒に、現状をよくしていきたいと思っています。だから、皆さんからも、私達NGOに望むことがあったら、どうか提起してください」確かに、保育所の待機児童のことなどになると、役所の方も、私たちも、同じ方向を見てそれに向かって何とかしたいと考えているということがよくわかりました。事務次官だった人が殺されたり、何かと矢面に立たされている厚労省の職員たちの熱意も感じられて、あまり追及するという感じではなく、協同してやっていこうという感じが強くなってきました。

 次の12月11日、厚労省の残りの問題(女性の健康支援、周産期医療、妊婦健診などなど)と内閣府とやり取りしました。
 午前中は、内閣府とのやり取りでした。さすが、内閣府からのメンバーには、7人中2人の女性がいました。でも、女性だからいい発言が出るということもなく、バックラッシュについての質問に対して、若い女性で総括調整担当補佐南順子さんは、「こちらの力が強くなれば、反対の力も強くなるので、そういう勢力の出現は、ありうること、内容は、誤解に基づいているので、こちらが、ちゃんと啓発をしていくことによって一般の方々に理解していただくようにしたい。」というのです。これに対して、北京ジャック共同代表で、I女性会議の清水澄子さん(元参議院議員)は、反論。「誤解ではない、イデオロギーを持ってとことんやっている。これまでも毎年同じことを言い合ってきた。なんとかならないものか?」内閣府というのは、省庁横断的に、政策を遂行していくためにできているのに、総務省がしないから駄目だというようなことを言っていてはならない。もっと内閣府の権限(ナショナルマシーナリー)を使って、各省庁に提言し、遂行するように促していってほしい、とみなが口々に言いました。今回は、こちらは15人がメンバーでした。

 DVに関するやり取りでは、成果がありました。推進課・女性に対する暴力対策担当課長補佐藤島克己さんは、今年の9月に全国のDV関係の役所の人と、民間の支援グループとが、東京のウィメンズプラザに集まって、非公開(被害者や、被害者支援の人たちに危害が加えられる危険があるため)の全国会議を開いたら、450人も集まって驚いた。と興奮を隠せずにいい、そこで記念講演をした札幌のシェルターを長年やってきた近藤恵子さんが、皆さんと同じようなことを言っていた。というのでした。そこで、また、民間シェルターへの助成をと発言したら、都道府県が助成をするのに国としては予算が取ってある。というのです。「あら、新潟県は知らないのかしら?」というと「そんなわけないでしょう」の大合唱でした。先日の県の審議会で、このことを知っていれば、もっと突っ込めたのに。と思う一方、このことは、早速県の係に問い合わせようと思っています。

 午後は、厚労省とでした。妊娠出産をめぐる次々に起こる死亡事故で、当然のことながら、厚労省はその対応に追われている様子が伝わってきました。2005年に出された「男女共同参画社会基本計画」の中に、妊娠出産について満足している人が、84%だが、2010年には、満足度を100%にすると書いてある事をめぐって、「そんなわけないでしょう、できっこんないでしょう」ということを口々に言いました。とにかく、第一子出産後、仕事を辞める人が、7割で、そのために、日本では、いつまでたってもM字型カーブ(女性の就職者の数が、30歳ぐらいで、ガクンと落ちて、その後また右肩上がりになるそのグラフをM字型という)が、修正されない。産休を取るなら辞めるしかないと思わされてしまっている中小企業で働いている人たちの、就業続行を保証する政策を、と訴えました。

 産科小児科医の不足については、厚労省として、かなりいろいろな政策を取り始めています。特に、この二つの科は、女性が多いので、女性が働き続けられる基盤が必要です。そのために、短時間勤務制とか、交代勤務制などが提案されていました。また、何よりも、その人たちが必要としているのは、院内保育所で、しかもそれは、24時間体制でなくてはならない。そのために院内保育所を作るときの助成金が、15億、用意され、それは、人件費に充てるとのこと。また、仕事を辞めてしまっている女性医師資格保持者に対しての、研修機関を都道府県に設置する。女性医師バンクを作る。
 そこで私は、こう言いました。「私の息子の連れ合いが、小児科医なのですが、ポケベル当番のときに、夜中起こされて、寝ている赤ん坊を連れて診察をするという事態がありました。だから、院内保育所は、24時間態勢が必要です」
 それから、助産師を増やし、院内助産所、助産院を増やす、そのために助産師の養成と潜在助産師の活用。社会人枠を広げて助産師を増やして、お産ができる場所を増やすというのでした。実は、私の3女帆姿が、一人目を助産院で産み、二人目を自宅で産み、今年の3月仕事をやめて、助産師になるため、看護学校の社会人枠で、合格しました。(この9日のことです)ところが、そのあとの助産師養成がそこではできず、探さなくてはならない現状です。と訴えたら、それは、文科省の権限だというのです。こういう時に、内閣府から、文科省に指示を出す必要があるのですよね。このとき、「病院出産が、子どもをおかしくする」という本を紹介しました。役人たちは、すぐにメモしていました。皆、係長や、その補佐という若い人たちで、実際に政策を作り上げている人たちなので、このようにして交流できることには、意味があると思われます。
 助産院の顧問医師が、産婦人科でなくてはならないと要件を狭めたために閉鎖を余儀なくされた助産院があることを指摘したら、それは、すでに知っているようで、何とかしなくては、という様子でした。

 脳内出血のためにタライ回しの後なくなったことを受けて、総合周産期母子医療センターがない県が二つ(佐賀と山形)あり早急に作ることをはじめ、NICU(新生児のICU)の不足が統計上明らかになっているので、早急にその対策をすると言っていました。出産を断る場合の97%がこれの不足によることも明らかになっています。断る場合の理由に妊婦健診を受けていないから、というのもあるので、この妊婦健診を国と県で、770億だしあって、14回目でを無料にするという案が検討され、これが出せない都道府県には交付税で出すことにしているとのこと。

 幼稚園と保育園を統合することに向けて、認定子ども園という制度ができましたが、あまりに手続きが複雑で、当初考えられていたほど沢山はできていません。実は、この街でも、その取り組みがあるのですが、そのためにいろいろと検討を重ねてきているのですが、このところ、頓挫していました。
 その理由がわかったのです。役所のほうでもあまりに広がらないので、厚労省、文科省、内閣府、3者で検討会を立ち上げたのだそうです。だから、話がとりあえず中断しているということがわかりました。南魚沼市では、うちの子どもたちがみんな通っていた、幼保一元化モデルとしてできた保育時間が長い町立幼稚園が、建て替え時期を迎え、それなら、浦佐幼稚園、浦佐保育所を統合した浦佐認定子ども園を作り、公設民営で23年に開始ということで始まっていたのです。今年浦佐幼稚園長を定年退職した坂西(ばんざい)美和子さんが、萌気園の職員として、これを引き受けるということで、準備を進めてきたのでした。検討会での結果を待って、また始まることになるのでしょう。

 母子家庭の自立支援、についてですが、障害者も自立支援ということで、その趣旨は、誠に申し分ないのですが、自立ができない人たちを年数で区切って、手当を廃止する、ということで、これはとっても無理があるのでは?ということで、皆が口々に意見を言いました。5年で手当てを切るといっても、子どもがいるためになかなか職がみつからない人に手当を切ったら、死ねということに等しいでしょう!と。
 これについては、納得がいく回答はなしでした。

 妊娠出産を、健康保険の適用にすること、これは、世界的に見ても、当たり前になっているということで、強く要望してきました。



DV講演会in南魚沼by西澤真知
      2008,12,9     於、南魚沼市役所大和庁舎大会議室

 9日夜は、南魚沼男女共同参画会議主催の、タイトルのような講演会が、市役所大和庁舎の大会議室で開かれました。始まるまで、どのくらいの人が来てくれるのか、不安でしたが、何と50人もの方が、それも20人以上の男性を含めて集まってくれたのです。市役所の職員が、半数ぐらいだったかもしれません。
 去年、企画委員会で、DVの講演会を提案したら、「そんな暗い話嫌だわ」と言った人がいて流れていたのです。でも、そういった人まで来てくれていました。

 西澤真知さんは、25年ぐらい前から、新潟市でDVのシェルターを作って運営してきました。今から15年ぐらい前に、札幌でDV国際シンポジウムがあった時に、西澤さんと出会い、「黒岩さん、帰りのチケット買うお金を貸して」と言われて、すっかり私の仲間だと認識してしまったのでした。今から4年前に、首都圏からのDV被害者をここで受け入れたときに、すぐに飛んできて、実に適切な処方箋を出してくれた方です。話を聞いてすっかり納得がいきました。たった二人の専従職員(と言っても給料はないのだそうですが)で、運営しているシェルターのH19年度の利用者は、延べ1841人。それを聞いただけで、びっくりです。子どもが含まれているといっても、一軒の家に1泊1500円で、泊まった人が、こんなにいるとは!

 はじめのうち、さまざまな統計が、グラフで示されていて、新潟県では、女性の51%が、DV被害経験ありです。全国平均は、3割程度。かなり高いですね。自殺率も高い。我慢強いということも関係がありますね。

 段々に実際の話に入っていきます。具体的に5つのケースを詳しく話されました。DV家庭で育った子どもは、問題を言葉で解決するという体験を持たないことから、大人になって、また暴力で解決しようとしてしまう。暴力の連鎖。これは、男権社会で、男は、そのようにしてもよい、と思い込んでしまっているからでは?女性による暴力も確かにある。でも、女性からの被害を受けた男性たちは、命が脅かされていると感じた人はほとんどいないのに対して、その反対に被害女性は、半数ぐらいが、命の危険を感じている。それだけ腕力に違いがあるということ。

 おばあちゃんの自殺、のケースでは、孫が両親に「個室がほしい」といい、両親は、「少し待って」といった、おばあちゃんは自分が死ぬのを待っているのだと思っての自殺。夫婦が教員という家庭で、母が、離婚を決意したら、父が、「職場にばらすぞ」と脅かした。そこで、母は退職して、他県に逃げた。幸い子どもがひとりだったので、母の少ない収入で、生活ができた。30過ぎの女性が仕事を求めても、低賃金の職しかないのが現実。だから、子どもが独立するまで我慢するという人が多いが、少しでも、dv環境にいる時間を少なくしたほうがいいと西澤さん。子どもにとって、その環境にいること自体が、「虐待」を受けていることになるのだから。

 旧ユーゴの女性団体との交流で分かったことは、戦争の後、DVが増えた。それは、戦争中のストレスがそれを誘発している。戦争での暴力と、平時の暴力とはつながっている。究極的には、戦争のない世界を作り出していくには、あらゆる暴力をなくしていくしかないのでは?女性問題の究極は、DVだと感じている。もともと、女性問題に取り組み始めたのが、きっかけで、この問題にいきあたったのだということでした。DVは、家庭内の問題でありながら、実に社会的な問題。だから、社会的にしか、解決はできない。というのが、まとめでした。1時間半の話があっという間に終わり、人権擁護委員をしている方から、かなり突っ込んだ質問が出て、質疑が続き、最後に私のほうから、ウィメンズサポートセンターから発行している事例集(1000円のと500円のとある)の注文票をいただく広報をして、副市長の力強い挨拶で閉会となりました。副市長は、「男性の参加が多く、心強い。今日の話をよくかみしめて、これからの活動に役立ててほしい」

 終わってから、駅前のレストラン小玉屋で、10人ぐらいで西澤さんを囲みました。新幹線の時間まで、1時間ぐらい親密な話し合いがあって、その中には、お茶の水大学で、このような問題に卒論で取り組んでいるという塩沢出身の若い女性もありました。戒能民江さんの学生さんでした。戒能さんは、西澤さんも、私も、よく知っているこの方面では、名前の通った方です。

 ウィメンズサポートセンターの運営は、新潟市からの助成を受けてはいるものの、相談料はなしだし、1泊1500円というのも払えない人が多く、離婚後は、生活保護をいう場合が多いので、経済的には、運営がとても大変な様子でした。さっそく私も、会員になって会費を払ったという次第です。



女政のえん、園田天光光さん
      2008,12,6    於、東大駒場ファカルティハウス

 6日(土)4時から、東大駒場のファカルティハウスでの初めての「女政のえん」でした。今回は、定員がないので、申し込みを取らなかったのですが、参加するという方が少なくて、とっても心配していました。でも50の席が足りなくなりそうなくらいの参加者で、みんなが、89歳という年を感じさせない迫力ある園田天光光さんのお話に聞き入りました。

 参加者は、いつものメンバーに加えて、世話人の大海(おおがい)さんが講義をしている武蔵工大の学生、もう一人の世話人漆田和代さんが、講師をしている生涯学習の受講生など、多彩なメンバーで、まさに老若男女さまざまでした。

 学生たちには、1946年という当時を解説しないとわからないのでは?ということがあって、パワーポイントや、NHKが放映した「大選挙区連記制」にかかわる番組のDVDなどをはじめに流しました。これが結構全ての参加者にとって、いろいろ思い出すところとなり、中でも、園田さんは、その映像から話をはじめられました。そこには、マッカーサーを一人で訪ねた天皇の写真がありました。園田さんの夫直さんが、外務大臣として、アメリカでマッカーサーと会って聞いたことがまず話されたのです。「戦争の後、負けた大将が、勝った大将のところに行くというのは、たいてい命乞いだと思うが、天皇は、そうではなく、すべての責任は自分にあるので、どうか国民を救って、と訴えたので、驚いた。その時、だれもおつきのものを従えずに風呂敷包みひとつだけ持ってきた。その中身は、皇室の財産すべてだった。それを差し出したのだった」
そして、そのあとで、ご自分の体験の話。1945年、8月以後、自分は生き残ってしまった。どうすればいいのか?悶々として、家にこもっていた。10月1日、ラジオで聞いた言葉に刺激を受けた。「家族を喜ばそうと思って帰ってきたその復員軍人の家族はすべて亡くなっていた。なぜ生き残ったのか、上野に行って大勢の餓死者、浮浪者を見て、これに取り組むために生き残ったと思った。」それですぐに父を誘って上野に行った。死者たちのすさまじい臭気、おびただしい浮浪者。その帰り道、新宿駅の西口で、父が、秘書に「今見てきたことを話せ」と言った。ところが、秘書が話すのを聞く人はいない。父は私に言った。「女が話せば、きちがいだと思われるかもしれないけど、聞く人がいるだろう。お前、話してみないか?」そこで、話し始めたら、聞いてくれた。どんどん人が増え、私は背が低いので、後ろの人が見えないから切り株のもえっかすの上にあがれと言われてそのうえで話した。見てきたことをそのまま話すだけ。夕方になり、「続きは明日にしよう」の声で、みんな帰路に就いた。翌日行ってみるとみんなが来ている。そのようにして毎日毎日集まった。そのうち、「餓死防衛同盟」という旗ができた。首相に陳情に行こうということになった。国会に行って首相と会いたいというと、「紹介議員は?」と言われ、押し問答をしていると、紳士が来て、「規則があるから、守衛さんの言うとうりなのだが、少し待ってもらえるか?」というので待っていたら、5人の国会議員が来た。先の紳士は、松本治一郎だった。あと西尾末広、浅沼稲次郎、平野、片山哲。首相と取り次いでくれるという。遅くなってから、幣原喜重郎首相とあって、二つのことを申し入れた。
 1、家が焼かれた人たちに、兵舎を開放せよ。
 2、政府が保管している米を放出せよ。
 首相は、それを受けて、12月中に二つとも実現した。
 そして選挙に出るようにと言われて、「お金がない」(戦争で焼け出されて)というと「そんなものはいらない。私たちの代弁をしてくれるのだから」と言ってカンパを集めてくれた。
 そのころの選挙制度は「大選挙区、連記制」東京では、3人の名前を書いた。一人は保守党、二人目は改進党、3人目は、女性という書き方をした人が多かったそうです。39人もの女性が当選したのは、選挙制度にもよるものだった。そんなのは、「分裂病だ」とかいう批判が多く、その時一回限りで、この選挙制度は無くなってしまった。その結果二回目は、女性は15人に減り、3回目は、11人になってしまった。

 6時までの一次会ののち、ファカルティハウスのレストランに場所を移して二次会を。ここにも20人ぐらいが来て、次々に質問をして、8時に送り出すとき、世話人の一人伊藤晶宜さん(世織書房社長)が園田さんに許可を得て、ハグをしました。そのあと、男子学生たちにハグを勧め、数人の若い男性からのハグを受けて、「ありがとう、今日は若返れた」とうれしそうに帰って行かれました。9月に足を骨折して、入院し、退院後も、つえをついて歩いておられるにもかかわらず、話は、立ったままされ、その元気さに皆驚いてしまいました。4人姉妹だったそうですが、すぐ下の妹さん(85歳)と二人暮らしで、誰も人を頼むことなく、二人で家事をして生活しているとのことでした。

 4人姉妹の名前についてお話しくださいました。初めての子どもには、世の中で一番素晴らしいのが「天」で、そこにまた、光という素晴らしいものを二つ、二つ目は、特にお父さんの思いを付け足したということでしたね。そもそもお父さんという方が、相場師をしていらして、先を見通せるかただったとのこと。男の名前としか思われないこの名前を女の子につけたのですから、それ自体凄いことですね。それで、3番目の子どもまで「天」がつきます。4番目は、生まれてすぐに母が亡くなってしまい、父は失意のうちに打ちひしがれて、子どもが3歳まで「赤ちゃん」と呼んでいた。それではあまりにかわいそうだからといって、おじがつけてくれて、徳子と言いましたかしら?ごく普通の名前が付いているのでした。この、お父さんの妻への思い入れの強さに感動したのでした。

 初めて選挙に出る時に、女であることをポスターに書き込みたいといったけど、選挙管理委員会が駄目という。そこで、そこの役所の人たちにこの名前で、どの性別か、アンケートを取ったら、99%男と答えた。それで、一回目だけ「女」と書くことを許されたのだそうです。

 また、所属政党ですが、46年には、「餓死防衛同盟」からだったので「諸派」に分類されていました。(当時28歳)その後、首相と出会う仲介の労を取ってくれた社会党の代議士さんとの関係で、社会党に所属します。芦田内閣の時、社会党は連立を組んでいて、与党として国鉄運賃と、電気代の値上げを政府が提案したのに反対して、青票を投じます。そのグループは、はじめ40人いたのに、いざとなったら7人に減ってしまった。その7人で、社会党を抜けて、労農党を結成しました。天光光さんは、労農市民党にしたいと言ったのだけど、労も農も組織がある、市民も組織ができたら、名前を入れようといわれて、そのままになった。49年の3期目の選挙は、労農党ででた。
 49年には妻子がある衆議院議員園田直と結婚、出産。「白亜の恋」とマスコミを騒がせ、その後は4回出馬するが落選。夫の死後、無所属で出て、落選、夫の前妻の息子博之さんとの戦いに敗れたのでした。

 今年3冊の本を書かれました。「女は胆力」(平凡社新書)「うす紫の色深ければ」(マネジメント社)「園田天光光生きがい上手」(たちばな出版)

 園田さんの実に冷静沈着の中に、物事をどこまでも推し進めていく迫力を感じ取りました。



赤松良子賞の授賞式、受賞記念講演会
         2008,11,30    於、女性と仕事の未来館(東京田町)

 東京田町にある「女性と仕事の未来館」で30日(日)赤松良子賞の授賞式と、受賞記念講演会があり、揺光とその彼女スージンと3人で参加しました。赤松良子賞というのは、1997年、「国際女性の地位協会」創立10周年を記念して、女性差別撤廃条約の研究・普及を通じて、女性の地位向上に尽くした国内外の個人または団体を表彰してきたものです。今回の受賞者が、イ・ヨンスク(韓国)だったので、私は、スージンを誘いました。丁度、その日、揺光が、広島から上京していたので、二人で来ることになったのでした。

 イ・ヨンスクさんは、去年の日本女性会議(イン広島)の政治の分科会でお目にかかっている素敵な女性でした。ハンナラ党の副党首を務めたこともあり、韓国女性団体協議会の名誉会長もしていました。女性差別撤廃条約(CEDAW)を批准するには、いくつかの条件をクリアーしなくてはなりません。その一つが、韓国の戸主制度でした。男性しか戸主になれないという制度を改めなくては、批准できなかったのです。憲法裁判所が違憲判決を出した1月後には、もう民法の改正ができたということで、2005には一挙に解決してしまったのだそうです。それには、女性団体の長年の活動があったからだということでした。

 私は、日本だって、戸籍筆頭者は、男性だし、所帯主は、男性だし、と思っていたのですが、日本は、結果として、夫婦が健在だったら、筆頭者も、所帯主も男性であることがほとんどなのだけど、女性が申請すれば、女性がなることもできるそうで、そこが、韓国とは全然違っていたのだということでした。赤松さんは、はじめから筆頭者だったとの事でした。

 赤松さんのご挨拶は、いつもながら、聞かせてしまうものでした。「私は、前から、韓国にお友達がほしいと考えていました。観光としてではなく、仕事として、韓国に行ってみたいとも思っていました。それが、今回こんなに素敵なイ・ヨンスクさんとお友達になれてとっても嬉しい」そして、今年からは、「ユース賞」という、若手研究者を支援する賞を始めました。正確には、去年から始めたのですが、去年は該当者がなく、今年初めての受賞で、青山学院大学大学院生のオーストラリアのステファー二・クープさんがもらったのでした。

 日本は、すでに批准しているのですね。アメリカはしていないそうです。

韓国では、国会の比例区のところだけ、2004年に50%の枠を女性に明け渡したので、一挙に女性議員の数が増えたのでした。

 揺光がスージンと結婚するということで、来年の2月28日には、みんなで韓国ソウルでの結婚式に行くことになっているのですが、おそらく宇洋夫妻は、いけないのでしょう。それまでに選挙が終わっているということはほぼあり得ないことでしょうから。

 今回、韓国からも、ニューヨークからも、お祝いにたくさんの方が駆けつけていました。日本の民団からも大勢でした。スージンにできるだけそういう人を紹介したのでした。



仙台白百合女子大学での講演
         2008,11,29    

 29日午後、太田將勝さんが教授を務める仙台白百合女子大学で、1,2年生がほとんどの100数十人の女子学生にお話をする私にとっては初めての機会をいただきました。これまでの大学は、みな共学だったのですが、今回女子学生だけというので、私としては、女性問題に絞ってお話ししようと意気込んでいました。ちょうど、太田さんからの紹介によって受けてくださった槇石多希子教授が、人間発達学科長として、家族社会学、ジェンダー論などを講義されているということもあって、なるべくそれにふさわしい話をということもありました。

 女に生れて損をしたと思っていた私の人生で、よかった女で。と思えるようになってきた経過をいろいろと話しました。その中で、ボーボワールの「第二の性」に話が及んだ時に、「ボーボワールを知っている人」と手を挙げてもらったら、一人も上がらなかった。「サルトルは?」というと3本ぐらいが上がりました。女政のえんの話で、土井たか子さんと言ったら、10人ぐらいの手が挙がりました。
 そんな少女たちに、話し終わってから、感想、質疑などを求め、槇石さんや、太田さんが、マイクを渡して発言を求めると、どの人もしばらく「精神の統一」でしょうか?何分かの沈黙の後話し始めるのが、皆、自分の体験。「私は、弟と二人なのですが、弟は、何にも家事をせず、ある時私に家事をしないと言って殴ってきたので、私は、家を出て、おばあちゃんのところにいって訴えたら、おばあちゃんは、『昔から、女が家事をやってきた』というようなことをいった」なかには「私も家族と折り合いが悪くて、何回か家出をしました。でも、帰っていくと入れてくれたので…」というような深刻な話も。仲良しグループにも、今まで話してこなかったことがここで語られたと終ってから、まわりにいた友達が言っていました。
 一番前で、大笑いしながら聴いていた人に、私が発言を求めると、やはりしばしの沈黙ののち、意を決して話し始め、すでに泣き声になっています。「知的障害者の話が、胸に響きました」とすすりあげながら話し、後は、声にならないのです。「あなたのご家族に障害を持った人がいるの?」と聞くとそうではなく、知り合いにいるということだけがわかりました。

 槇石さんや、太田さんが、笑顔で表現してくれる反応に支えられて、話していたのですが、学生たちもいろいろな反応を返してくれ、彼らの体験を語りたくなってくれたということは、私にとってはうれしいことでした。槇石さんの閉会のあいさつでは、「これからが始まりです」と言ってくださったので、「hpに掲示板もあるし、メルアドもあるので、よかったら、メールをください」と言って終わりにしました。
 終わってから、個人的に、「友人が登校拒否になっているのだけど、どういう付き合い方をしたらいいのか?」と相談をしに来てくれた人もありました。

夜の会合まで、槇石さんのご自宅にいって、槇石さんのことをいろいろと伺うころができました。家族社会学といえば、落合恵美子、江原由美子、井上輝子など共通の知り合いがあり、彼女が大学院生をしていたお茶大の社会学の先生だった小川剛さん(新婚旅行がたまたま一緒だったという御縁)ともつながっていたり、また、孫の子守に駆り出されているのも共通していました。

 夜の会合は、私の大好きな貝が次々に出てくるスペイン料理で、5人の全く毛色の違う人たちが、なぜか、共通の話題があって、盛り上がっていましたが、今では、その内容をほとんど覚えていません。でも、またぜひ同じメンバーで会いたいという思いを抱いて帰ってきました。太田さんの家に泊めていただいて、たくさんのご馳走の朝食をとって、午後は、東京の赤松良子賞受賞講演会に行きました。そのことはまた後ほど。
太田さん、ありがとうございました。



宮本なおみさん出版記念会
        2008,11,27     於、中目黒GTプラザ

 海映一家が引っ越してきて4日目、27日は、まだまだ手が足りなくて困っている様子でしたが、海映が目黒の家に住む前、私の母が浦佐に引っ越してきた時に、目黒の家を借りて住んでくれたのが、目黒区議を5期続けていた宮本なおみさんでした。彼女が、一生に一冊はだれもが書きたいと考えている本を70歳過ぎてやっと書き上げた。というお便りとともにご案内があった出版記念会に参加してきました。

 中目黒の駅前、どでかい建物が建っているそこの地下のホールが会場でした。着くとすぐに宮本さんが、「海映ちゃんにお世話になった方」と紹介してくれたのは、彼女が裁判で勝ち取ったという方でした。帰ってきてから海映に報告したら、まだこれからも続く夫婦間の訴訟があり、とってもややこしい関係なので、こちらに来ても自分で続けるのだと言っていました。

 私が東京で選挙をした時に宮本さんの周りの方がかなり来てくださっていたので、その時のたくさんの方も見えていました。そして、会が始まると一番初めに宮本さんの挨拶。「これまで何回もこのようなパーティーをしてそのたびに振り回されてきた皆さん、今回もありがとう」でした。来賓のあいさつの初めは、吉武輝子さん。酸素ボンベを抱えて、呼吸が大変そうでしたが、話し始めるとボンベなどどこへやら、大きな声で、迫力のある挨拶でした。東京都の区議や市議、目黒区で、宮本さんを支えてきたたくさんの方々が、立ち見席まで出るような盛況でした。一人ひとりに手渡されたお弁当が、玄米食で、有機野菜のそれはそれはおいしいものがいっぱい詰まっているもので、パーティー会場では、希有な食事をいただくことができました。

 私もスピーチが回ってきて、「初めに出合ったのは、弟が、宮本さんの初めての選挙にかかわったことから、私は、≪目黒区民新聞≫の愛読者になりました。どんな方なのだろうと想像しながら読んでいたのですが、初めてであったときには、びっくりしました。その若さと美貌に!父や母も宮本さんのお世話になり、宮本さんが新しい家を建てて私の母の家から出て行かれた後、娘が住んでいたのですが、娘まで大変お世話になって、・・・・」そして、宮本さんが、「スピーチをする時には、今何をしているか、何を考えているか、ということを」と注文されたので、「民間の力で社会福祉法人を立ち上げて、ケアハウス、グループホームなどを運営しています。父が倒れた時に、父が入れるところを目黒区で探しまわりましたが、病院しか見つからず、大変な思いをしました。終の棲家としてのグループホームは、これから後期高齢者の生活の場として大変必要とされていると考えるので、お互いに、これから、手を取り合って、作っていきたいですね」

 帰りの新幹線で、彼女が書かれた「革新無所属」という題名の本を読みながら来ました。1936年生まれの彼女が、福島の三春町から上京して、労働者としての生活の中で、結核で療養していた1年半が、彼女の知的好奇心を満たす期間だった。1971年から区議会議員として、さまざまな問題に取り組んできたのですが、私が新潟でやってきたこととなんと似ていたことか!まず、障害を持った幼児の保育園入園問題、在日韓国人の指紋押捺、そして、議員バッチをつけないということで、どれだけ多くの議会関係者を敵に回したことか!そして、だからこそ、区民からの支持は圧倒的で、その後毎回選挙運動をあまりやらないで当選を続けた。議員とは?議会とは?と問い続けてきた。子ども二人を育てながらの議員活動は、すさまじいものだったと想像します。
 この本は、オーロラ自由アトリエ(遠藤京子)によって出されました。2800円。
  03−3792−9651、 F9780



いい夫婦の日(11月22日)
      2008,11.22    於、静岡県島田市プラザおおるり

 皆さん、昨日の「いい夫婦の日」はどんな夫婦でいらっしゃいましたか?
私たちは、静岡県の西方にある島田市の行事に呼んでいただいて、夫婦で朝からいってきました。まだ島田市に合併されていないころ、大井川の上流にある川根町の役場の職員数名で、うちに来られたというのがご縁で、今回お呼びいただくことになったのでした。

 上越新幹線の中からでさえ、くっきりとその姿を見せてくれた富士山、新富士駅あたりからは、雲ひとつない晴天にそびえたつ素晴らしい姿に見とれながら静岡駅から、東海道線に乗り換えて、島田駅に降り立ちました。こちらを出る時には、道にこそ雪はないけど、道端は、すでに雪に覆われていたので、かなりの寒さだったのですが、島田市の温かさ!もっと年をとったら、ここらに住みたいと思わせられる温かさでした。

 教育長、教育部長、教育委員長、という3人の教育畑の「長」と控室で打ち合わせ。その中の一人教育委員長が女性で、この方が、私たち二人の話の後、コーディネーターをしてくださる染谷絹代さんでした。

 会場は、600人は入れる大ホールでしたが、第一部、第二部の「暴力追放」「青少年健全育成」が終わって帰られた方が多かったようで、半分ぐらいの席が埋まっていました。「33年間、離婚だの別居だのとけんかを繰り返してきた私たちを『いい夫婦の日』に呼んでくださるとは、島田市はすごいところだと思いました。」などの発言で、高らかな笑いが広がったのですが、中でも一番前で大声で笑っていたのが、島田市長だったとあとで聞きました。私が、「ものはなるべく買ってあげないほうがいいと思って、本当にけちけちをしていたので、宇洋は、7人目が生まれるという時に、これ以上ものが買ってもらえなくなるということで反対した」と言っているそばから「ものは十分かってやったほうがいいです」とコメントをする夫の姿勢にたくさんの拍手が送られていました。この日会場は男性のほうが多く、質疑も、男性のみ3人手が挙がり、染谷さんからの質問や、会場からの質問で、1時間半、私も、夫も楽しい時間を過ごすことができました。

 この日は、海映一家が浦佐に引っ越してくる日でした。私たち夫婦は、夜10時半に帰ったので、引っ越し荷物を出して、浦佐に到着する一家を迎えることができず、近所の友人(海映にとっては、英語塾の先生)に夕食を頼み、ひと月に一回診察に来る巌志を含めて5人分の食事が、食べきれないほど用意されていたのだそうです。その日、みんな我が家にとまり、23日は、こちらの家に荷物が届くので、私も、朝から大勢の食事作り、子守と一日中活躍することになりました。この日はちょうど海映の娘志重の6歳の誕生日で、そのプレゼントにハムスターをということで、十日町まで遠征しないとペットショップがなく、初めて十日町ムサシに行き、孫を喜ばせました。十日町は、ここからは、ひと山越えなくてはいけないのでした。私の「危ない」運転にもかかわらず、二人の孫と何とか無事に行ってこられたことに感謝。



男女平等社会推進審議会
      2008,11,17     於、自治会館別館会議室

 何十年ぶりの面接試験を見事通過したタイトルのような審議会、初会合が17日開かれました。県庁わきにある自治会館別館の会議室です。
 私のような公募委員は3人、すべて参加。あとは県中学校校長会の代表や、県経営者協会専務理事、長岡市総務部長、一正蒲鉾KK管理部総務課長、新潟大学の教授が二人、県女性財団理事長、連合新潟執行委員、県医師会からの派遣の村上保健所長、労働局雇用均等室長補佐、女性経営者2名、県保育連盟代議員、など役職を持った方々。

 全部で20名ですが、参加者は16名。男性は全部で7名。初めにみんなが自己紹介をしたのですが、あまり心に残る発言はなかった。その後、この会の会長の選出が、ちょっとおかしかった。役所のほうで初めから決めていて、その提案をする人も決めていたらしく、男性が、男性を推薦して、あとは拍手で決まってしまった。その会長が司会をして、議事が進みます。

 初めに、役所のほうから、「20年度県男女共同参画計画推進状況」の説明があり、それで、はじめの一時間が終わった。残る一時間が審議。公募委員は活発です。女性たちは、日ごろたまっていることを早速口にし始めました。男性で発言した人は、一正蒲鉾の方のみ。彼は、職場内託児所があることで、ハッピーパートナー企業として、宣伝して戴けて、こんなにありがたいことはないといい、でも、その託児所から、小学校に行くや、学童保育が、時間が短いし、土日はないしで、託児所のように残業だからと言って遅くまで頼めなくて困ると訴えられる。何とかならないか、と訴えました。

 私は、DVをなくすための事業がいろいろあるけど、民間シェルターには、助成金を出しているのか?と聞いたら、長岡市、新潟市が出しているけど、県は出していないという回答。そこで言いました。「民間のシェルターのほうが、行政のそれより、機動力があり、また情報もたくさん持っていて、本当に役立っている。どこも、経済的に苦しい中でやっていて、新潟だけでなく、遠くから逃げてきた人までサポートしてくれている。どうか、県としても助成金を出してほしい」と訴えました。

 実は、傍聴席というのがあって、この審議会はいつも公開されているのです。次回の審議会のときには、多くの方に傍聴を呼び掛けたいと思いました。きょう選出されたばかりの会長さんは、新潟大学教授西野喜一さんという方でしたが、審議が始まって30分経ったときに、「この会は、3時半までですが、3時半にはきっちり終わらせますので、3:15をめどに審議を終わらせたいと思います」と一方的に言うのです。時間どうりに終わらせるのが、司会者の最も大事な役割なの?もしかして、それを行政から頼まれたの?私の中では、疑問が膨らみました。実際は、どんどん手が上がって、3時20分「他にはありませんか?」とも言わず、「これで終わりにして、あとは、事務局から」と閉会にしてしまったのでした。このことは、どこをつつけばいいのか、これから探ってみようと思います。

 連合新潟の女性部の方や、保育連盟の代議員の方など、終わってから話しかけたいと思っていたのですが、新潟大学の五十嵐由利子教授とは、何十年ぶりの再会だというのに、新潟大学におけるセクハラ、パワハラなどの被害者からの訴えを受けているので、そのことを話し合うために、他の人たちと話せないまま帰ってくることになってしまいました。

 また、育児休暇のことも話題になり、ここ南魚沼では、小さな会社が多く、育児休業どころか、産休さえも取れず、3人の子どもを産むたびに転職してきた、という人が何人もいる。産休や、育休を取ることで、助成金をもらえるという制度があることをもっと宣伝してほしい、とも訴えました。

 ハッピーパートナー企業の申請書をもらってきたので、早速、桐鈴会も申請しようと思っています。



掘澤祖門さん第204回講話会
       2008,11,16     於、万代市民会館(新潟市)

 MLで、滋賀在住の壇原さんから、掘澤祖門さんという小千谷出身の方で素晴らしいお話をされる方という紹介があって、この5月に皆さんに呼びかけて年二回の新潟での講話を聴きに行くことにしていたのですが、母の様態が悪くて行かれず、16日、初めて参加してきました。袖山さん、内山さん、とりさんも一緒でした。テーマは、般若心経。

 100人ぐらいの熱心そうな皆さんが、ぎっしり集まっていて、ぼつぼつとあいている席を見つけて一緒に行った袖山さんとは、離れて座りました。司会の方が、東京、横浜、高地から来られた方を紹介。初めに15分の座禅。椅子に腰かけたまま、呼吸法を教えられて、精神を統一しました。今日は、般若心境の解説でした。聞いたことがない仏教用語ばかりがたくさん出てきますが、それでも、何とか付いていって、「禅キリスト教の誕生」という本の解説では、カトリックの人たちが、坐禅を始めていること。祖門さんも、3年前から、鎌倉へ、坐禅の修行に行っているとのことでした。叡山大学の学長さんで、滋賀県にお住まいです。実は、40年前に勧められた時には、その気が起こらず、最近、めぐりめぐって、また同じ方から勧められて行ってみたら、ものすごく感動したとのこと。「40年損をした。でも、いつ始めてもいいのだから」と鎌倉の道場に月2回行っているそうです。坐禅のことに関する質問には、「まだ、修行に身なので、鎌倉に行ってくださいとしか言えない」とまことに謙虚な姿勢でした。

 3時間の会の途中で、休憩が入り、袖山さんが、話しかけた方が、胎内市の方で、「やっぱり3区!」ということになり、私がたかひろの母だというと「まあ。奥さんですか」「いえ母です」「ホント?若ーい!」胎内市の中条地区だというので、「星の宮っていうところがあるでしょ?そこにたかひろの習字の先生が」と言うや、「伊藤先生?」というんです。伊藤先生が、浦佐で習字教室を開いたときの初めての生徒の一人がたかひろだったそうで、強力な応援団なのです。つながっていました!名前が、若林さん。萌実から頼まれた私学助成のための署名をしていただいたので、名前がわかったのでした。若林さんというのは、この会にずうっと以前から来ておられ、5月の会には参加された若林佑子さんと、親戚かと思ったら、そうではないようでした。
 また来年も行こうと思っています。



早津剛美術館
     2008,11、15     於、小出

 福祉文化セミナと銘打って「笑顔あふれる魚沼の福祉」という集会が小出ボランティアセンターであるというお知らせが、遁所さんからあったので、先約をキャンセルして出かけました。挨拶だとか、記念講演だとか目次を見ても一切知っている人の名前がないという不思議な会で、。恐る恐る覗いたというのが正直なところでした。
 行ってみたら、本当に知っている人は一人もいない。50人ぐらいの席が半分も埋まっていない。これは一体?と思いきや、「日本福祉文化学会事務局長渡邊豊」という方の話が始まるや、「今日は村上からも来られているし東京や妙高など…」そしてご本人は、新発田在住とのこと。これはこれは…休憩時間になるとすぐに渡邊さんにアタックしようとしたら向こうから「黒岩さんじゃないですか。昔お宅に伺った事があります」というので、「たかひろの」と言いかけると「よく知ってます」新潟県社会福祉協議会の課長代理とのこと。それから、村上の人の所に行くと「あら黒岩さん。おととい集会に行ったんですよ」と二人共。村上で、地域の茶の間を開いているとか、それも、村上事務所のすぐそばだって。今日は、この人たちに会いに来たんだ。と納得。鈴木優子さんと塚田さん。ずうっと前からたかひろの応援団だそうな。

 さらに、隣に座った人が、魚沼市社会福祉協議会の理事だというので、名刺を渡したら、「あら、黒岩さん、わたし、井口慎也の母です」乙水の友達のお母さんでした。

 話はあんまりおもしろくなくて、ほとんど眠っていたのですが、最後にすぐ近くにある早津剛ギャラリーに行きました。早津剛さんは、小出高校の美術の先生をしながら、かやぶき屋根の民家を描き続けて、今や、このあたりではだれもが知っている画家です。うちの近くの池田美術館で早津剛展が開かれた時には、卓夫と二人で行ってみたものの、早津剛ギャラリーに行くのは初めてでした。本人もいて、10数名の観客に対して話をしてくれました。1976年に初めて描いて以来、休日になると出かけて行って一日で一枚仕上げていたのだそうです。日本中どころか、パリや、モロッコなどのスケッチが画集になっていたりしました。先にご紹介した渡邊豊さんとは、親戚関係で、豊さんが子どものころから知っていたとのこと。二階の倉庫に行って皆がたいへん驚きました。100号の絵などが立てかけてあるところもあるのですが、水平に空間を保って並べてあるところは、ケースごと移動ができるようになっていて、ものすごくたくさんの絵が収納されているのです。何千あるのか、何万あるのか分からないけど、とにかくものすごい数がありました。もう今ではほとんどなくなってしまっている日本の原風景といった感じの油絵で、骨董品が大好きな夫を連れてきたらどんなに喜ぶか、という空間でした。早速うちの夢草堂で、展覧会をしてくださいと申し入れてきました。

早津さんの話で面白かったのは、ヨーロッパでは、今、かやぶき屋根の家を建てるのが流行っているのだそうです。日本では、とにかくお金がかかるからということで、ほとんど取り壊してしまったけど、オランダや、北欧では、これから建てようとしているのだそうです。エコという観点だとのこと。来年モロッコに行く予定なので、モロッコの画集を友人のモロッコ大使へのお土産にしようと買ってきました。



黒岩たかひろ村上・岩船後援会結成大会
       2008,11,13    於、村上ふれあいセンター

 新発田に住み着いていたときに、電話で参加を呼び掛けていたこともあって、私も参加してきました。いやいや本当に大勢の方が来られていてまずはそのことにびっくり!
 集会そのものも、実に感動的なものでした。鳩山由紀夫さんは、「小沢さんが来るべきところだったのですが、小沢さんが来られなくて、そのおかげで私が来られて本当に良かった。」から始まって、「たかひろさんが、障害を持った方々や、弱い立場の人のことで、とことん活躍した」といい、「そこが麻生さんとは違う」と言った後、「私もそう思われているかもしれないが、私は違う」と強調されていました。「もう少しいいでしょうか?」と言いながら、結構たくさん話され、いつもテレビで見ている人たちは、鳩山さんの楽しい話を聞けて満足だったようです。

 たかひろは、3区が全く取り残されて、地域の課題がそのままになっている。民主党が政権を取って高速道路が無料化されれば、もっとたくさんの企業を呼び込むことができ、そうすれば、若い人たちが戻ってきて、子どももたくさん生まれる、そうすれば、病院もできる、学校もできる。などと語り、皆さんの共感をいただきました。

 最後に、美春さんの話が皆さんの胸を打ちました。「去年父が亡くなりました。なくなる二日前にたかひろさんが父のところに来て、『絶対に当選します』といい父もそれを願っていました。その後、お世話になった方々も何人かなくなりましたが、その方々に対しても、絶対に当選してほしいと考えています。そのために頑張ります」と涙ながらに語ったのでした。

 この日の模様が、写真入りで民主党のhpで紹介されました。
http://www.dpj.or.jp/news/?num=14528



桐鈴会9周年記念行事
    2008,11,8,9      於、桐鈴会

 桐鈴会9周年の行事が終わりました。
 8日は、グループホーム桐の花の4周年行事で、昼食を家族の皆さんと一緒に取った後、桐の花での看取りについて、報告をし、話し合いを持ちました。桐の花では、この4年間に3人が亡くなり、3人とも、病院でではなく、桐の花でみとることができたのでした。

 夫が理事長を務めている医療法人の訪問看護部や、医者がサポートしているから可能だともいえます。でも、私は、看取りができる施設で働きたい、という強い意志をもったケアワーカー星野淳子さんが、管理者として、職員を育ててきたということが大きかったと思うのです。亡くなった3人のうちの一人Kさんは、脳梗塞、腎臓など、急性期の病気で入院し、スパゲッティ状態になりました。それらの管を外してしまうので、手をそれが出来ないように拘束されていました。そんな状態のKさんを見た若い職員が、「退院させられないものか?」とつぶやいた。その一言で、管理者は、退院を決意。職員をまとめ、家族をまとめ、病院と交渉して、とうとう、管をはずして退院させてしまいました。「そんな無謀なこと」と反対していた医者や看護婦も、退院の当日は、玄関まで見送りに来て、「Kさんは幸せだね」と声をかけたというのです。その3日後に、静かに亡くなって行きました。

 その話を受けて、家族の方に、入居者の最期はどのように看取りたいですか?と質問を向けましたが、自分も既にそのような年になっている、でも、なかなか考えられないでいる。という感じでした。

 9日は、ケアハウス鈴懸の9周年行事でした。30人の入居者のうち、9年前から住んでいる方は、すでに13人になってしまっています。そのうちの一人星さんは、はじめから車いすの生活でした。「迷惑をかけたくない」という彼の「常識」によってこの9年間鈴懸から外に出たことがありませんでした。ところが去年の誕生会のときに、8年ぶりにここを出て、外食に行ったのだそうです。鈴懸の誕生会は、この2,3年該当者の食べたい物を食べに外に行く。というやり方で祝ってきました。3000円以上は自己負担、ということで、すし屋とか、ビフテキとか、思い思いの好物を食べに出かけているのです。去年の誕生会の時、肉が大好きな星さんは、焼き肉を食べに8年ぶりに外に出たのでした。排泄についての心配が大きかったようですが、それについての相談に乗った職員が、心配がないように薬で調節することを提案し、それが実った結果でした。今年は、ビフテキを食べに行ったそうです。
 そして、9日は、9年ぶりにして初めてマイクを持って「支那の夜」をアカペラで歌ってくれたのでした。

 彼は、2年前に、大和9条の会の主催する戦争体験を語る集会が夢草堂で開かれた時、歩兵として、前線での体験を話してくれました。並んで歩いていた隣の戦友が、弾にあたって亡くなる時の模様を、昨日のことのように語ってくれ、知り合いの遺体から、肘の先だけ腕をもぎ取って、8本ザックの中に入れて持ち帰り、それぞれの遺族のところに届けに行ったとのことでした。その時に彼ははっきりとこう言いました。「誤った考えを持った政治家と軍人によって引き起こされた戦争」。この言葉は、素晴らしいと思ったのです。今も、まったく同じ状況が存在していますね。防衛庁の制服組も、森元首相をはじめとする一部の政治家も、また時計の針を逆回りさせようとしているのではないかしら?

 桐の花でも、鈴懸でも、職員たち手作りの料理が、とっても豪勢で、入居者、職員のみならず、参加した役員や、家族の皆さんも大変満足されて、語らいにも気が入り、鈴懸では、若手職員による余興も大人気でした。

 来年は10周年となります。今から、どんな会にしようかと考えていきます。



佐藤キイさんの葬儀
      2008,11,4     於、夢草堂

 選挙が伸びてしまったので、11月3日の午後帰る予定だったのに、朝電話があって、鈴懸(ケアハウス)の入居者の方がなくなったので、急きょ午前中に帰ってきました。

 亡くなった佐藤キイさんが、鈴懸に入ったのは、黒岩卓夫との深いきずながあったからでした。3日は、ほんの数人でのお通夜で、お坊さんのお経が終わってから、卓夫がキイさんとの出会いを語りました。20年ぐらい前、まだゆきぐに大和総合病院の院長をしていたときに、新聞記事に載った卓夫と会いに小千谷から病院に来られたのが、佐藤キイさん。そのころ60代の後半、ちょうど今の私ぐらいの時でした。キイさんの夫が、実験動物の飼料を販売する会社をしていて、その手伝いをしていて、キャリアーウーマンだった頃、子どもがおらず、夫とも仲が良いわけではなく、これからどう生きていったらいいのか(それが実は死に方だった)を話しに来たというのです。

 その後、白菊会という献体をする人の会に入り、また尊厳死協会にも入り、死の準備を始めました。だからというのか、死ぬことが怖いとかいうこともなければ、どこかが痛いという訴えもなく、ただひたすら感謝のみという最期を迎えたのでした。だから、とっても手がかかる介護度5であるにもかかわらず、職員たちからは人気者で、死に方のお手本のような最期でした。

 若かりしころを知っている甥ごさんや、お坊さんたちは、よくぞそこまで変われたもの。と感心していました。そもそも、父親が事業家で、たくさんの事業を起こしたのだけど、その中の一つ湯沢の温泉旅館を彼女(7人きょうだいの一番上)が継いだのだけど、好きな男と駆け落ちをしてしまって、温泉旅館を放棄した。その時に、妹たちとトラぶって、今では、行き来しているのはただ一人のみとのこと。自分の考えを持って人におもねることがなく、実に堂々とした人生を歩んでこられた方でした。
 4日の夢草堂での告別式に来たのは、親族ではおいっ子さんが一人だけ。彼が最後にスピーチをし、「親族との間では、トラブル続きで、今日も誰も来ないという状況ですが、最後に鈴懸に入居したことで、彼女の人生がやっと穏やかに閉じることができたと思います」と述べられた。3日の早朝、入院していた大和病院から電話があり、「延命はしない」という彼女の意を受けて、黒岩卓夫をはじめ、鈴懸の職員や、入居者の力を借りて、退院させ、自分の部屋で45分を過ごして亡くなっていったのでした。火葬せず、新潟大学に遺体が運ばれました。
 「黒岩先生はオレの親友だ」と語っていたキイさん夫妻と卓夫の12年前の写真が、キイさんの日記帳から出てきて、会報「桐鈴リンリン」を飾りました。



幼稚園保育園周り
       2008,10,24    新発田市内

 24日は、私がかねてからお願いしていた保育所回りを支持者の女性が案内して下さって実現しました。公立の保育園は、自治労傘下なので、自治労の役員の方に案内して頂くことにして、今回は、民間の保育園幼稚園を回りました。ランドセルを販売するために保育園回りをしていた方の案内だったので、どこでも、彼女の顔を知っている人がいるということがありがたかったのですが、園長の一人は、「暫くです」と挨拶されたので、彼女への挨拶かと思ったら、私へのそれでした。事務室に招き入れて下さって伺ったところ、ずうっと前に私が新発田市保育会でお話をして、終わってから数人でおしゃべりをしたというのです。言われてみるとかすかに思い出すという程度でした。もう一つの保育園では、「保母になったばかりのころお話を伺いました」と、園長さん。そういうところは警戒なく、宇洋が私の子どもだということも、皆さん感づいて下さっていました。だからリーフを職員全体に配って頂けたのですが、中には、「今、保育中ですから」とけんもほろろに締め出されるところもあり、「かいつまんで話して下さい。これから出かけるので」と立ったまま言う園長さん。でも、付き添ってくれた女性が、その園長の姉と話し始めたら、ガラッと変わって、「大変ですね」などといい始め、帰りには、玄関まで見送って、沢山のリーフを受け取ってくれたのでした。

 出向いて理解して頂けるというのが一番有難いこと。でも幼稚園では、私が、「19年保育所に勤めていた」というのが災いして、「保育所とか、福祉とか、みんな言うけど、幼稚園という人はいない」などといわれてしまい、それからは、幼稚園に行ったらば、「幼児教育に19年」というようにしました。
 お寺が経営する幼稚園では、住職さんが園長で「職員たちといつも話し合っているのです。今の体制を変えなくてはいけないということを」というので、公選ハガキをお願いしたら、みんなで書きますからと沢山注文を受けることができました。私のところの夢草堂と同じ浄土真宗のお寺でした。その住職のいとこの娘さんが、大地塾に来ていたということも親密度を増したのでした。

 公立の保育園を訪ねられる日を楽しみに待つことにします。



寺尾愛さん(97歳)との対面
      2008,10、9     於、ビィラ菅谷(老人保健施設)

 戦争直後の県会議員選挙で、新潟県初の女性県議になられた寺尾愛さん(97歳)の親戚の方が、愛さんの入居されている施設に連れて行ってくださいました。明治44年(1911年)生まれの愛さんは、転んで足を骨折し、ビィラ菅谷という老人保健施設に入居されていました。車椅子で、風呂上りの愛さんは、80代にしか見えません。大柄な女性で、ネックレスでおしゃれをして私のインタビューに一つ一つ明快に答えてくださいました。

 「1948年、家では喋らない夫が、私が知らない間に私が立候補すると申請を出してきて、街頭で演説をしていた。驚きました。夫とは、新潟師範を出て4年間小学校の教員をして、辞めた10日後に親がきめた家に「嫁」に行って出会った。夫は獣医で、稼業は牧畜。何でもやりました。2回も火事を出したので、それこそ何をやったのか覚えがないほどです。
 夫が申請して選挙活動の後議員になって、やる事は本当に一杯ありました。福祉、教育、経済、農業研究所も作りました。保育所だけが今も残っています。岡田県知事が、『寺尾は女にしておくのは勿体無い』といった」そうですが、私(秩子)から見たら、女だからできた事が一杯だったのでは?と思えます。

 「4年後議員を辞めて、出産をしました。結婚して17年後に41歳で、2ヶ月早く小さな小さな男の赤ちゃんを生みました。元気に育ち、今は、56歳。稼業を転職して、あられ屋をはじめ、さくら製菓という工場とさくら堂というお店を切り盛りしました。夫は後に新発田市議を長期間務めました。
 96歳でなくなる前に『お前さんはえらかった。俺一人ではここまでやってこられなかった』といった。この言葉を聞いて実にすっきりした。」

 このことを私の夫卓夫に話したら、「僕は既に何回も言ってきたから、もうこれからは言わない」とのことでした。
 さくら堂というお菓子屋さんは、新発田では有名。新潟の消費者センターでも、そこのお菓子を売っていますから、多分毒が入っている添加物は使っていないのでしょう。

 寺尾さんの入居されている施設は、竹内病院が運営している所でした。竹内病院の院長は、今年の初め、萌気園と、桐鈴会に研修にこられました。卓夫が、グループホームの研修に、桐鈴会にきたのと同じ様に、竹内院長もグループホームの研修に、こられたのでした。早速、新発田市の中心部にある竹内病院に電話を入れ、選挙のお願いをしました。



赤松良子祝賀会
         2008,10,7    於、KKRホテル(東京竹橋)

 10月7日は、KKRホテルで、会費7000円という赤松良子さん日本ユニセフ代表就任の祝賀会を開きました。ユニセフだからということで、会費を抑えてきたのです。
 私が言いだしっぺだというのに、たかひろの選挙だということで、9月下旬から新発田に移り住んだために準備会に出られず、当日少し早く行っただけの参加でしたが、いろいろなところで一緒だった人たちがたくさん来ていて、誰かも言っていたようにまるで同窓会のようでした。赤松さんのこれまでの広い人脈がたくさんの方を引き付け、当日参加がたくさんで、それ用に用意していた名札が足りなくなるといううれしい悲鳴でした。労働省、外務省、文部省、WINWIN、国際女性の地位協会、文教大学、さつき会、などなど。

 会の始まりの祝辞の後、赤松さんのスピーチは、「79歳の後期高齢者の心意気を知らせたい」と言って、笑いに包まれた素晴らしいものでした。その後登壇されたお名前は忘れましたが、元官僚だった男性の方が、「以前赤松さんと一緒の職場だったけど、赤松さんの周りには、いつも笑いがあって、周りの人を楽しく働かせる能力をそなえているリーダーシップを持った人」と表現されていました。その人望でこんなにたくさんの方が集まられたのだということがよくわかる会でした。
 参加予定者は、230人とのことでしたが、当日不参加、当日参加どちらもあって、最終的に何人だったのかは、まだよくわかりませんでした。これから、世話人の皆さんが集計してくださることと思います。ユニセフ大使のアグネス・チャン、堂本暁子さん、など「生で見るのは初めて」とたくさんの人に囲まれていました。赤松さんと話したい人は、会が終わってから長い列を作って順番待ちでした。議員さんたちは、福島瑞穂をはじめ、参議院の人が3人だけ。さすが、衆議院議員は一人もいませんでした。みんなそれぞれ自分の選挙で大変なはずですから。

 ユニセフというのは、皆さんご存じのように世界中の飢餓に苦しむ子どもたちへのサポートをしているので、赤松さんは、大好きな高級ワインをやめたと言っておられました。

 7月に奥州市で、ベアテの贈り物の映画と私の講演をセットしてくださった方が、出てこられたので、いろいろな方を紹介したり、終わってから、彼女はそのホテルに泊まるので、彼女の部屋に行っていろいろと語り合って、東京にとまって、翌朝の一番で帰ってきました。浦佐で必要な作業を終わらせて、新発田に向かいました。



「希望の家」
             2008,10,2    新発田市三日市

 毎日電話掛けと集会参加の明け暮れです。たかひろ夫妻も頑張っています。4日は、土曜日だったので、卓夫もやってきて、一晩泊って電話掛けと集会参加でした。

 2日、新発田市内にある知的障害者授産施設「希望の家」に行ってきました。ここの施設長さんと去年の暮れに出会い、以来行ってみたいと思い続けていたところです。この施設長とであったのは、長岡で障害者の集会があったとき、会場から発言した私に、壇上にいた大熊由紀子さんが、「あら黒岩さん」といったために隣の人が、休憩時間に私に話し掛けてくれたからなのでした。

 事務所から、15分ぐらいナビを頼りに自分で運転していった所は、畑の中に立っている平屋の建物でした。10年前に、新発田市から譲り受けて授産施設として改装したのだそうです。25人定員の利用者さんは、私が入っていくととっても友好的な笑顔で迎えてくれました。「ここにきてくれる人はみんな味方だった思っているらしい」と職員の言。刺し子や、箱折など、見慣れた風景の中で、一人の男性が、退屈そうに座り込んでいるのでした。話し掛けようとしたら、施設長さんが、「希望の家の歌を作詞作曲したのがこの人なんです」といったとたんに、きらりと目が輝いて、別人に変身しました。
 
 10年前にここができて、他の施設から移ってきた大塚一訓(かずのり)さんが、自分で、歌を作るといい、2年だったかを掛けて作り上げたというのです。新発田市の小中高の校歌は全て知っている、早稲田大学の校歌も歌ってくれた。ここに入ってすぐ、周りにある山の名前を聞いて、山や川の情報を集め、詩作し、曲をつけたというのです。自作の歌をうたってもらったら、とってもいい感じで、山に囲まれた畑の中に建っている建物を実に巧みに表現してあり、うっとりと聞きほれました。私に「どこの学校?」と聞くので、子どもたちが通った「浦佐小学校」と言うと、しばらくして「浦佐小学校の校歌は、相馬御風が作詞、中山晋平が作曲でしょう?」というではありませんか。多分そのとうりなのだと思います。驚きました。

 この大塚さんは、36歳。とっても豊かな才能をもちながら、生活はなかなか大変で、脳性マヒで手が不自由、恵まれた能力が誇り。なかなか仲間に溶け込めず、時々かんしゃくが。そういうときに、「あれを外すよ」と言うとぐっとこらえるのだそうです。「あれ」とは、歌の歌詞が書かれている額が壁に掛かっている、そのことなのです。彼にとって最高の宝物が、この額なんですね。それを外されるということは、自分を全否定する事になる。と思っているのでしょう。

 才能を持たない人たちは、穏やかにつながってニコニコしている。どちらがいいのでしょう。才能があるためだけに人とつながれない人、実は、結構たくさんあるんですよね。彼は、前にいた施設では、そこの歌を作るといっても、職員が、認めてくれなかったそうで、ここに来て認めてもらえた事が、とってもうれしいことなのでした。

 最後に、施設長さんが、袋の中から取り出したものは、私の著書の数々でした。7冊もあるのです。「この本のお陰で、子育てが、楽しめました」と。それから、手をつなぐ育成会の会報「手をつなぐ」に時々海映が書いている文も読んでいるとのこと。そういうこともあって、とにかく、障害者にとって住みよい社会に近づけてくれるからたかひろを支援するといって他の職員たちも好意的に見送ってくれました。この施設と同じ法人が経営している他の施設も今度案内していただくことになっています。この法人は、新発田市が、1984年に造った社会福祉法人で、たくさんの施設を持っているのでした。



引き回され記
                   2008,9,21   

 20日、新潟市女性会館アルザで、女性議員を増やそうネットワーク新潟、の主催で糸数慶子参議院議員の講演を聞いて、そこに新発田から参加していた芹野さんの車で引越し荷物を積んで、ここ新発田にやってきました。芹野さんは宇洋の新発田事務所ができたとき、毎日きてくださっていたとっても貴重なかた。5月からは、新発田女性会議という超党派の組織の代表になったために、表の活動は控えるということになってしまったのでした。

 浦佐の事務所に勤務していた小林君、藤田君、佐藤君たち懐かしい人たちを含めて、私の手料理で、夕食をとりました。もちろんそれまでは、ぎりぎり電話掛けだったのです。

 今朝は、早速川東地区で、引き回しをしていただきました。元郵便局職員だった方が、隅々まで地理がわかっていて、案内してくださいます。結構感触がよくてありがたかったです。日頃、支援者の皆さんがいかに動いてくださっていたのかよくわかりました。ポスターもたくさん貼ってありました。ただ、「うちは、民主党は嫌いだから、いりません」という家が2件あり、受け取ることを拒否されました。でも、ここは自民党員、と紹介された家では、「今回は変えなくちゃだめだから、応援するよ」と握手を求められたのには、感激!そんな感じの家が、何軒かありました。

 川東地区は、土地がいいのでしょう、特別おいしい米が取れるところなのだそうですが、そこでも、減反したたんぼが無残な姿をさらけていました。農政のひどさです。



NPO在宅医療を支える診療所・市民ネットワーク全国集会
          2008,9,14,15    於、京都同志社大学

 京都で、14,15と開かれた全国ネットの合宿に行ってきました。13日の前夜祭から丸二日間のイベントでした。大会実行委員長の永原宏道さんが2年間にわたって、心をこめて作り上げてきたもので、たびたびその準備のために我が家にも現れていたので、私も、いくつか協力したことがあり、まるで、主催者のような気分で参加しました。

 13日の前夜祭では、永原さんが、私のことを「私のアイドル」として紹介し、その私に、上野千鶴子との交渉を任せた。と話し終わったところに、当の上野千鶴子がやってきました。今回も、とっても安い謝礼で来てくれ、彼女の在宅医療にかける意気込みが感じられていました。「パワーポイントで、在宅医療のことを話す」と本人が言っていて、その後の打ち合わせでは、一緒に記念講演をする立岩真也を驚かせていました。

 14日、黒岩卓夫代表、大会実行委員長永原宏道さんからと続いてあいさつがあり、二人とも、今回の大会のメインテーマは、「家族」であるといいました。在宅医療というのは、家族がいることが前提になっているけど、それでいいのか?これに対して、立岩真也さんは、長いこと入院生活をしていた人が、退院するところが、家族なしのアパートだった場合、どうすればいいのか?という問題を立てました。ALS(進行性の難病で、最後は、あらゆる筋肉の動きが不能になる)を発病して入院していた男性が、実家へではなく、自分の家に帰りたいということで、24時間のヘルプ体制がとられることになった。それは既存の制度をつなぎ合わせて、なんとか暮らしている。立岩真也が書いた本は、なかなか句読点が出てこなくて、かなり読みにくいのだが、話は、そうでもなくて、言っていることはほぼ理解できた。

 上野千鶴子さんの話は、さらにわかりやすく、特に感動した言葉を披露しますね。社会学者として、いろいろな調査結果を披露してくれ、介護してもらうのに、いちばん抵抗が強いのは、女性の場合は「婿」。男性も女性も、もっとも抵抗がないのは、「中年女性」。一番大変なのは定年退職したばかりの夫に介護される場合、今まで働いていた時と同じように、管理介護。女性は、「介護されるボランティア」になっているという。うちのケアハウスにもそういう夫婦がある。妻は、車いすに乗ってはいるが、夫がいなければ、自分で伝い歩きをする。夫がいる限り、車いすからおろしてもらえない。この妻こそ「介護させてあげているボラ」だと思った。また、この話では、「嫁」に介護を期待するというのが、どんどん後方に退いてその代わりに、息子、娘が、同居でなくても増えているのが現状だという。
 中でも一番共感したのは、「家族にできない介護とは、『やさしい介護』」とのこと。職員は、時間が限定されているけど、家族は、無限定だから。と言っていた。それより、私の場合でいえば、他の人が言うのなら、そうね。と言っていられるのに、自分の母が言うと「やめて」と言いたくなってしまうセリフがいくつかあった。それは、私から見ると、彼女の「差別感情」がふつふつとあらわれる時だった。
 施設に入りたいという高齢者は、そうは多くない。子どもたちによって入れられてしまう。「おひとり様でよかった」と彼女のセリフ。おひとりさまが、在宅でみとりをしてもらうには、
1,24時間巡回訪問介護
2、訪問医療
3、訪問介護
この3点セットがあればいいけど、と上野千鶴子が言うと、黒岩卓夫がそれを受けて、「うちでは、それ全部ありますよ。」と応じた。すると千鶴子「新潟だけでしょ?」と返す。いやいや、この在宅医療ネットワークはそれを保証するということで、存在しているのに????

 上野千鶴子の語録、もう一つ。「当事者とは」
児童虐待などの場合、親も虐待をしている意識がなく(しつけだと考えている)、子どももされているという意識がなく(親というものはこういうものと考えている)、でも、第三者が、確実に虐待だと感じて、そこにコミットしようとしたら、その人が「当事者」だという。

 二人の基調講演がおわると、厚労省の老健局長、宮島俊彦さんと、黒岩卓夫が加わって、シンポジウム。厚労省は、医療福祉のかじを、在宅の方向に切ったので、そのことははっきり言うものの、具体的なことになると、財源をどこからということが言えなくては、何ができるかということは言えない。とかなり慎重なまま。卓夫は、「施設でもなく、実家でもない≪自分の家≫に帰りたい。そこから新しい生活とケアが、果たして始まるのか?」「家族は必要でなく、家族性=人間関係があればいいのでは?」と問題を提起した。実は、私の母を看取った時に、私たちは、これでよかったんだよね。と確認しあったのでした。やさしくしてくれる職員たちと過ごし、毎日、やさしくはないけど、ありのままの自分を出せる娘や、その夫が来てくれる、という環境が母にとって最良だったのでは?と。

 初日の午前中は、問題提起で、午後から、「ランチョンセミナ」「実践交流会」で、昼食を食べながらもお勉強で、随分いろいろなことを聞くことができた。

 14日午後、ランチョンセミナは、紛れ込んだところが、「口腔ケア」のところで、歯科関係の人たちの集まりだった。口腔ケアを確実にして、口から食べるということに取り組んだ、急性期リハビリ病院の取り組みでした。米子市の錦海リハビリ病院では、かなりたくさんの職種の人たちが、連携をして、急性期病院から管をつけてここに移された人たちを「口から食べる」という目標に向かって心を合わせているのでした。実は、私の母がいたグループホームに食べ物を肺に行かせないようにする機能が衰えた人がいて、その人には、すべてとろみをつけて、肺にいかないようにしなくてはなりません。まずは、すべての食べ物をミキサーにかけて、とろみをつけて、1時間ぐらいかけて食事の介助をしています。ご本人の「口から食べたい」という意欲がとても大きいので、職員たちの大変な努力が続いているのです。確かに、口から食べ物をとれなくなったら、相当生きる意欲が低下しますよね。写真入りで、このような口の中だった人に、口腔ケアをすることで、こんな口に変化して、食べられるようにすることができた。という発表は、感動的でした。

 実践交流会では、在宅緩和ケアの分科会に行きました。2時から5時の3時間に16もの発表があるのです。でも、どれも興味を持って聞くことができました。毒を盛られたという妄想を持っている在宅の認知症の方が、ヘルパーに毒を盛られたということで、そのヘルパーの事業所を変えたいと言って、今回発表した事業所に回されて来たのだそうです。「毒は盛っていない」とその人の言うことを否定するとパニックになるので、否定することをやめ「これからは、しないから」というように心がけたら、段々に毒盛られ妄想もなくなっていったという話だった。

 在宅患者訪問栄養食事指導という制度があることがわかりました。在宅の患者さんのところへ、医者の指示に従って訪問して、食べ物に関する「指導」をするのだそうです。月2回まで。その会場には、100人以上人がいたのに、そういう制度を知っている人は、ほんの2,3、人でした。うちのヘルパーの利用者さんで、タンパク質とでんぷんしか食べない人がいて、野菜を何とかして食べてもらおうと思っても、そこの家には、野菜がなく、買いたいというと金がないと言って出してくれない。自分の家から持っていくというのは、いけないことになっているとのこと。そんな利用者の方のところへ、訪問栄養士が派遣されたらいいかな?いや、駄目かな?とか考えました。

 二日目は、午前中「当事者主権」−差別禁止法を考える、という分科会に行きました。ここは、しょうがいを持っている人の分科会で、立岩真也さんが座長、たかひろが一時務めていたアビリティーズ社の社長伊東弘泰さん、自閉症の画家田中瑞木さんのお父さん阿部公輝さんなどがシンポジスト。中でも驚いたのは、初日の立岩真也さんの話に登場していたALSの患者さんご本人が、登場した事でした。甲谷匡賛(まさあき)さん(50歳)は絵かきで、ヨガやマッサージなどをする治療院も開設。02年にALSを発症し3年間入院生活。退院は、一人暮らしの自分の家にしたいということで、たくさんの友人たちが、ネットワークして、24時間のサポート体制を作り上げた。この日、彼の発言は、文字盤を使ってなされたのだが、この文字盤は、私にとっては初めてのものだった。透明な盤に字が書いてある。甲谷さんの指示で、サポーターが読み上げるのだが、どのようにして「指示」しているのか、私にはわからなかった。どうやら、動くところが、顔の中では、眼だけらしく、視線で、文字を特定しているらしいのだ。それを透明な盤越しに読み取っているのが、通訳者。すごい技!

 もう一人、堀川優さん、1952年生まれ。高校卒業後交通事故で、4肢麻痺、10年の入院生活の後、頚椎損傷者の自助グループを単身で設立。自立生活運動を始める。
 伊東さんは、差別禁止法の必要性を訴え、時間をオーバーして演説。阿部さんは、瑞さんから頂いた豊かなものの話をし、お母さんの阿部愛子さんと瑞木さんの絵でできた本を読み上げ、瑞木さんは、その絵を皆さんに見せるという形で参加。

 会場からの発言があり、京都で、障害者の自立生活ができるような仕組みを作りたい、という。それで一番喜んだのは、大会実行委員長の永原さん、それこそが、今回の狙いだった。ということで、甲谷さんの周りの人、ALS協会の川口有美子さん、立岩真也さん、堀川優さんたちが、ここでつながることができたので、たぶん、これから何かが動き出すのでしょう。

 しょうがい者の親の立場で話してくれる人はいないか?と永原さんがここに来た時に話が出て、阿部愛子さんを紹介したのでした。今回阿部さんたちも、いろいろな人とつながれて喜んでいた。

 魚沼地域でも、山内さんが、自立生活センターを作るということで、八王子に研修に2泊で行く。そのための随行員を探しているところ。京都にも、自立生活センターがなかったので、今、できようとしているという点では、魚沼と同じようだった。

 二日目の午後は、三好春樹さんの講義を聞きました。彼の本は何冊か読んでいるし、周りの人はほとんど聞いたことがある人ばかりという感じなのだけど、私は、初めてでした。前夜の懇親会に現れた彼の風采は、全然想像していたのと違いました。とっても普通の感じがする人でした。

 はじめに、高校中退して、仕事に就いたけど、3日たつと辞めたくなって、でも、3カ月勤めれば6カ月失業保険がもらえるから3カ月は我慢して働いたとのこと。そんなことを繰り返しているときに、特養(特別養護老人ホーム)から声がかかって、この道に入ってきたそうです。なぜ高校中退だったかといえば、高校生の全共闘運動での退学だったとのこと。これは、卓夫からの情報。一緒に退学になった人が、こちらの病院で医者をしていたそうです。

 彼の話は面白いという評判は、聞いていましたが、なぜか、専門家の間では不評だという情報もあり、私は、自分の目で確かめたかったのです。でも、1時間半、彼の話を聞く限り、私は、共感することばかりでした。「薬をやめたら、認知症が治った」話。認知症に効くという薬、効くものはないと言い切っていた。そういう言い方が、医者たちには気に食わないのだろう。「医療の相手は、人体だが、介護の相手は、人生」。だそうで、これも医者が嫌がるかも?

 今、介護の用語辞典を作っているそうで、近く岩波から出版されるとのことです。彼が、初めてこの道に入ったときに、辞典は、と探したけど、どこにもなく、言葉がわからなくて、勉強するのがとっても大変だったからだそうでした。医者の悪口を言うので、医者に嫌われ、医者以外の人たちからは、共感を得ているようでした。

 永原さんと、黒岩卓夫が、今までの集会とは一味違ったものを作ろうということで、それがかなり成功したのでは?と思いましたが、萌気からの報告は、どれも最後のまとめの報告に残りませんでした。各分科会の座長は、発表されたものの中から、一つを選んで、総括会議に報告したのでした。たとえば「ケアする人のケア」という分科会には、子育て支援を追求してきた「ハッピーケアプロジェクト」の発表があり、これは、どこの事業所でも女性が圧倒的に多いはずですから、本当は、かなり意味のある発表だったと自負しているのですが、これも残らなかったのです。卓夫は、萌気が、先を行きすぎているだけだ。と言っていますが・・・・
 私が理事長を務める桐鈴会では、25日に全体の職員会議をするのですが、そこで、このハッピーケアプロジェクトの発表をしてもらうことになっています。

 長々とおつきあい、ありがとうございました。



虹を呼ぶオペラ歌手、高波礼子さん
      2008,7,27     於、地域交流伝承館夢草堂(浦佐)

 7月26日(土)桐鈴会の近くにあるイタリア料理レストラン「ブドウの花」で、オペラ歌手高波礼子さんのコンサートがありました。友人と二人で、花束を持って出かけました。高波さんは、私の歌の先生柳元子さんの先生で、この近くの北里大学や、国際情報高校の音楽の先生もしておられます。コッテッジ風の音響効果がいいレストランなのです。高波さんの声は、本当にすばらしいソプラノで、皆が聞き惚れていました。

 さて、その翌日、高波さんが、北里大学の学生たちを連れて、夢草堂で、演奏会をしてくださいました。ちょうどその同じ時間に長野県の大町から、市長を含めた5人が、視察に来られていました。鈴懸の会議室で、卓夫がパワーポイントで説明していたのですが、私は、この学生と高波さんの演奏会があまりに素晴らしかったので、隣の鈴懸に5人の客を呼びに行きました。もうあと10分で終わりという頃に、夫を含めて6人がどやどやと入ってきました。すると広田セツ子さんが、高波さんに耳打ちをして、「もう一曲歌って」と言ったのです。高波さんは「今日はものすごい雷雨なので、雷に関係した曲はないかと考えたのですが、考え付かないので、「雷の後には、虹が出るので、『虹の彼方に』を歌います」と言って、前日「ブドウの花」で歌ったアメリカ映画のテーマソングを歌ってくれ、お年寄りたちも、お客さまも、大変感動して、終わりとなりました。

 その夜、私たち夫婦は、さくり温泉健康館で、(萌気園の関連施設です)お客様と懇親会をしていて、気がつかなかったのですが、あとで聞くところでは、その日の夕方、ものすごく大きくて、二重の虹がかかったというのです。高波さんの歌が、虹を呼んだのでしょう。お客さんたちは、夢草堂がどんなふうに使われているのか、見ることができたし、高波さんの歌が素晴らしかったし、とっても感激して帰って行かれたことでした。



フェミニスト議員連盟全国合宿

        2008,8,30〜31   於、富士市男女共同参画センター
 富士山のふもとの富士市の市会議員横井美由紀さんが大会実行委員長で、市の男女共同参画センターを会場に開かれました。30日は、全体会、交流会、拡大世話人会と1時半から、夜の10時半まで。
 全体会は、マリンバの演奏で始まりました。若い女性が全身をこめて奏でてくれるマリンバの音色は実にすばらしいもので、オープニングにはもってこいのものでした。基調講演は、「パリテの論理」という本で、フランスのパリテ法(同数法)ができるまで、を紹介してくださった糠塚康江さんが「男女共同参画の技法」と題して講演しました。大学の教授にしては、かなりはっきりと歯に衣を着せずに批判するところは批判していたので、聞く人たちは、すっきりするとことがありました。政党にポジティブアクションを課して、何%の候補者を女性にすること、と決めたら、それを破った政党には、政党助成金を出さない、というようなやり方で、女性候補者を増やしていったらどうか、などと提案があった。
 そのあと、静岡地方区選出の参議院議員坂本由紀子、富士市長鈴木尚、糠塚さんと3人のパネルディスカッション。市長さんが、なかなか理解がある人で、この日、女性議員3人のほかにも、男性の富士市議も3人ぐらい来ていた。三井マリ子さんのコーディネイトが、とてもうまくて、3人を上手にからませて、いろいろな発言を引き出していた。その中で印象深かったのは、坂本さんが言ったことだった。「日本で一番初めに女性が選挙で投票したのは、この静岡県金谷なんです。当時は、まだ『浜松県』と言われていたころです。」つまり戦前のことだったようです。実は、この金谷は、今島田市になっていて、この11月に夫と二人で呼ばれていくところです。

 31日午前中は3つの分科会に分かれました。
1、DV
2、お産
3、女性議員
 私は、第二分科会に行きました。そもそも、この分科会を作ろうと言ったのはだれなのだろう?と興味を持っていました。30日夜の拡大世話人会で、共同代表の陣内やすこさん(八王子市議)が、「私は、4人の子どもをみんな助産院で産みました」と言った。大会実行委員長の横井さんは、5人の子どもすべて、助産院で産んだと言った。ところが、分科会が終わってもう一人の富士市議小沢映子さんと話したら、彼女の子どもは、まさに病院で産んだがために重度の障害児となって生まれてきた。というのです。何の予兆もないのに、病院の都合で、陣痛促進剤で、3日がかりで産んだ結果だというのです。そんなこんなで、この分科会ができたのかと思ったら、分科会が始まってみたらわかりました。会場の参加者の半分ぐらいが、どうやら、近くに住んでいる若いお母さんたちなのです。富士市の病院の産科の医者4人が、全部いなくなってしまうということで、大々的に署名運動をし、16万の署名を集めたのだそうです。それを中心的に担った人たちが、この日集まっていたとのこと。そして講師の助産師番内和枝さんは、富士宮市で開業している方でした。その方が、かけてくれたビデオが、とっても感動的でした。1999年に福島放送が作った番組「助産婦革命」というビデオの内容は素晴らしいものでした。1999年にすでにこんな番組が作られていたということにまずはショックを受けました。その年、日本では、助産婦制度ができて、100周年が祝われていました。1945年の終戦までは、ほとんどが、「産婆」と呼ばれていた人によって自宅で取り上げられてきたのです。ところが、「産婆」という制度を持たないアメリカ軍が、上陸してきて、妊産婦死亡率を減らすために産婆制度をなくし、病院出産を広めるよう、厚生省に圧力をかけた。当時の厚生省の助産婦さんが話します。「GHQは、よほど日本は遅れた国だと思ったのでしょうね。やってきて、私たち助産婦に『試験管を見たことがありますか?』なんて言うんです」でも逆らうことはできず、厚生省は、通達を出し、10年ぐらいで、ほとんどのお産が病院になってしまった。現在助産師の80%が病院に勤務しているとのこと。

 個人開業の医者が話します。「異常がある出産は、5%ぐらいです。あとの95%は、自然に生まれてくる。ところが、5%のために不必要なことをあとの人たちはされているんです。」この医者は、そこで働いていた助産婦さんが、助産院を自分で始めたいと言ったとき、やめられるのは、痛手だけど、助産院は必要と考え、その助産院の顧問というのかな?そんな形になります。助産院を開いた塩野さんのところに来る妊婦さんは、この医者の所に行って、助産院で産むことが可能かどうか判断してもらう。95%の人には、OKを出すのだそうです。助産婦さんと妊婦さんとは、家族ぐるみの付き合いになる。産む時には、夫の肩にもたれて、陣痛と付き合い、最後は、立膝のスタイルで、赤ちゃんが出てきます。病院出産に疑問を感じた人たちが、塩野さんのところにやってきます。
 その後、アメリカでも、助産婦制度ができ、アメリカ人の助産婦が、いかに日本の助産婦が素晴らしいかということを語ります。この感動的な番組を作ったテレビ局の人は、女性だったように見えました。
 また、病院の中でも新しい試みとして、助産婦さんたちが、妊婦さんと心を通じ合うには、妊婦さんを助産婦の担任制にしようということで、そうしたということが報じられていました。そこの病院では、助産婦さんが休みの日でも、担任の妊婦さんの出産が始まったら、その助産婦さんがやってきて取り上げるというようにしたとのことでした。病院のほうから、助産院に近づく取り組みをしていると思いました。

 40分ぐらいのビデオ(実際のを少し削ってある)が終わってから、番内さんの話。つい最近、静岡県の保健関係の部長をはじめ5人が訪ねてきて助産院を見て回った。それは、妊婦検診の公費助成を助産院まで対象とするかどうかの判断のためだったらしい。公費助成は、「検診券」が渡され、それを病院に持っていくとただになる仕組みだが、これを助産院にも使えるようにするかどうかは、市町村が決めるのだという。静岡市では、市議を先頭に運動して、助産院でも使えるようになったけど、富士市、富士宮市では、使えないのだという。そうすると、検診を病院で受けてきた妊婦が、臨月間際になって助産院にはじめてくるようになるので、助産婦としては、経過について、不安がある、とのこと。この「検診券」が、以前は、2枚だったのが、今年からか、5枚になり、舛添大臣は、14枚にしようと言っているそうだ。新聞でそれを読んだとき、結構なことだと思ったけど、それが、病院でしか使えない代物だとは、考えてもみなかった。

 私は、娘が、助産院で初子を生んで、二番目は、自宅で産み、今は、助産婦になるため仕事をやめて、看護学校の受験勉強をしていると話し、また別の娘は、東京の広尾日赤で、水中出産をし、自分で産んだという満足感を味わえたという話をした。すると浜松医科大学で、助産学を教えている方が、「日赤は、産科を健康棟の中に作っているから、そういうことができるんですね。」と言っていた。終わってから、番内さんと話したら、帆姿が初子を生んだ時の助産師さん朝比奈さんのことをよく知っていた。たぶん一緒にロビー活動などをしてきた仲間らしい。つい最近は、助産院は、産婦人科の病院と提携しなくてはならない。という法改正があり、これに反対して、助産婦さんたちが頑張ってこられたけど、この法律が通ってしまって、立ち行かなくなった助産院が、数多くあるということだった。

 番内さんの助産院を回ってみた県の役人たちは、何が不足していると見たのか、との質問に対して、番内さんは言う。「たぶんエコーの機械がないというあたりだったのでは?エコーだと確かに見えるけど、私たちは、触ってみればたいていのことはわかるのです。妊婦さんや、その連れ合いの方にここに頭があって、と触らせてあげるととっても感動している。私は、あえて、高価なエコーは不要と考えている」とのことだった。

 たくさんの質問や意見が出て、最後の全体会が始まるまで質疑が続いた。

 30日31日の昼食のお弁当が、なかなかで、特に31日に有機食材のみでできたお弁当のおいしいこと!みんな、こんなおいしいのは食べたことがなかった、と絶賛していた。合宿は、隅々まで配慮が行き届いていて、参加者は、120人を超え、内容豊かな「来てよかった」と言って帰る人がたくさんの合宿でした。



桐鈴会役員会
          2008,8,18     於、浦佐田中屋

 長い間我が家に逗留していた、孫たち子どもたちの最後が、18日帰って行き、にぎやかなお盆が急に静けさに戻りました。その日の夜、桐鈴会の役員会と、懇親会となりました。今回の役員会は、桐鈴会の理念、を通過させることと、初めての人事交流と納骨堂についての経過報告をすることだけでした。

「理念」については、私が出した原案は、以下のようなものでした。
・ 終の棲家を目指す。
・ 「迷惑をかけあえる関係」を目指す。
・ 「差し障りのあること」を言い合って育て合おう。
・ 高齢者、しょうがいしゃ、子どもたちが安心して住める地域を創ろう。
       
 昨年、新入職員研修をした時に、桐鈴会の生い立ちについて話したのですが、その後、それを聞いた職員の島村からそこに立ち返って考えられるような「理念」というようなものがほしいとの提案がありました。とっても嬉しい提案で、私が作った原案をそれぞれの職員会議で検討してもらい、このたび全員の了解を得て、また、理事会評議員会でも了承され、「桐鈴会の理念」ができあがりました。
 「終の棲家を目指す」というのは、実は、かなりしんどいことです。これまで何人もの職員が、この標語故に涙を流しています。「これ以上はできない」と思うこともたくさんあるに違いありません。そこを何とか、みんなの知恵を絞って乗り切っていきたいものと考えています。ケアハウスの場合、「部屋にポータブルトイレを置かない」という規則があったり、介護度が3になったら退去する、と契約書にあったりして、途中で、出ていかなくてはならないところが圧倒的、グループホームでさえ、介護度が上がると別の施設に移らなくてはならないというところが圧倒的らしいのです。
 この中で、特に職員会議で議論になったのは、「迷惑をかけあえる関係を」というところでした。私は、「迷惑をかけあおう」という標語を自分の名刺に刷り込んでいます。その名刺を見て反応してくださる方は、たいていの場合家族にしょうがいを持つ人がいます。「迷惑をかけるな」という言葉で痛めつけられ続けてきた方々が、「この言葉に出会えてうれしい!とおっしゃいます。そしてさらに「この言葉が、もっと流通するようになったらいいと思うのですが」とまでおっしゃいます。私はもし自分の田んぼを持っていたとしたら、その真ん中に「迷惑をかけあおう」と書いた看板を立てたいと考えています。その看板は、なるべく多くの人が見られるように、国道や、鉄道線路のそばに立てたいと考え続けてきました。
 ただ、今回も、「誤解されないように」という意見を出してくれた人がありました。ずいぶん前のことですが、鳩山由紀夫さんが、さわらびに講演に来られた時、「黒岩さんは、迷惑をかけようと言っています」というではありませんか!あの頭脳明晰な方がそういうのですから、誰もがそういう誤解をする可能性がありますね。だから、私は、「かけあおう」のところに傍点を打つことにしました。
 私の名刺には、もう一つ刷り込んであります。「さしさわりのあることを言い合おう」。これは、お互い、言いにくいことを表現し合わなくては、お互いの成長がないということなのですが、「喧嘩はダメ」「自分さえ我慢すれば平和が保てる」などによって多くの方が胸にしまいこんでいるのではありません?そこを何とかして勇気をもって口に出してほしいのです。同僚とまずくならないためにと思って胸にしまいこむということが、実は、入居者の方々にとっては、かなり過酷なことになるというようなことが結構あるのではないかしら?そして、少なくとも、私に対しては、どうか、遠慮なく「差し障りのあること」を表現してくださいね。
 これら二つの標語は、昔のように隣近所との距離を縮めるということにつながると考えています。経済成長の恩恵で、人と人との距離が遠くなってきてしまっていないでしょうか?もっともっと近づきましょうよ。という呼びかけでもあります。
 前回の役員会でもめにもめて、「差し障りのあることを言い合う関係」に対する反対が多すぎて、その後、私の見解を皆さんに配ったりしてみたものの、心動かされる方は皆無でした。「そんなことを言い合ったら、大変だ」という心配が主な論点だったと思います。かなり話し合いましたが、一向に納得していただけそうにないので、今回は、それを取り下げることにしました。「迷惑をかけあえる関係」ということの中に含めるということも考えられるというご意見も出ました。
そこで、「理念」は3つ目を外して、次のようにしました。
―――――――――――――――――――――――――――――
・ 終の棲家を目指す。
・ 「迷惑をかけあえる関係」を目指す。
 〜〜高齢者、しょうがいしゃ、子どもたちが安心して住める地域を創ろう〜〜
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そのようにしてこの地域が、誰にとっても住み心地がいいところになることを願っています。


「初めての人事交流」
 この8月1日付で、桐鈴会始まって初めての人事交流をしました。おはようヘルプ(ヘルパーステーション)の柳婦美子さんと、桐の花(グループホーム)の佐藤雪江さんです。当事者の同意を得て、7月には、それぞれが「同行」という形で心の準備をして「軟着陸」となったはずです。このことを先日の役員会、懇親会で、みなさんに報告したのですが、ちょうど一年前のこの暑気払いという懇親会の席上で、人事交流の話が浮かんできたのでした。それでさっそく取り掛かって交換になる二人の職員に話したら、一人が、どうしても嫌だというのです。そこで、もう一度、別な人にお願いして、OKをもらい、当事者の了解を得ての交流となったのでした。
 鈴懸と、桐の花は、同じ法人のものであり、隣に建っているので、行き来は自由だし、職員旅行などには一緒に行ったりしてはいましたが、それぞれの職場の特殊事情がかなりあるので、なかなか理解しがたい場面もありました。先日、福井県坂井市の市議さんたち9人が視察に来られ、その方々に聞きました。「グループホームに入居する条件は?」何と9人ともが答えられませんでした。そこで、多分、このHP読者の中には、わからない方もあるのでは?と思い、ちょっと解説を入れますね。高齢者のグループホームは、認知症があることが条件です。ケアハウスは、60歳以上の自立可能な方、が条件ですが、わが鈴懸は、介護度がある方も入れてきました。すでに、30人(定員)中過半数が介護度をお持ちです。鈴懸の中に用意されたヘルパーステーションが、介護にあたっています。
 今回人事交流をして、一番おもしろかったのは、佐藤雪江さんが、「お昼が少なくて、おなかがすいて大変」と桐の花の冷蔵庫をあさった、という話を聞いたことでした。桐の花は、皆さん高齢だということもあって、ほとんどの方が、主食はお粥で、ほんの少ししか食べられません。入居者が9人で、その盛り付けを終わってから、職員の盛り付けは、かなり大盛りにします。ところが、鈴懸では、職員も、入居者も区別なく盛り付けがなされ、職員たちは、ご飯とお汁で調節する、または、残った副菜は、お代わりができるように出されているのですが、初めて来た人にとっては、盛りきりだと思ってしまった。などが判明し、早速厨房から、おはようヘルプにおにぎりが届けられたりしていました。鈴懸の職員たちは、入居者と一緒に食べるのですが、ヘルパーさんたちは、昼食の介助を終えてから食べるので、遅い時には、2時ごろ食べていることもあります。その頃になると、お代りの分がなくなっていることもあったとかで、これからは、そういうことがないように気をつけようという話になりました。
 なにはともあれ、お互いに新しい職場に入って、新しい目で見て、違う風を送っていただきたいというのが、人事交流の一番の眼目です。そして、職場の皆さんには、新しく来た同僚への心配りを「学習」していただくチャンスと考えています。同じ法人の同じ職員だという一体感をもちたいということです。懇親会の席上で、司会者が、「初めての人事交流なので、お二人に感想を」とマイクを渡しました。柳さんは、もともとグループホームに勤めたくて、応募したのに、結果としてヘルパーステーションになってしまっていたので、初めの意図が実現してうれしい、とのこと。佐藤雪江さんは、「ヘルパーとして、利用者さんのおうちに一人で行って、食事を作ったり、介助したりすると、この仕事が、在宅高齢者にとって、なくてはならないもの、しいて言えば、在宅のかなめは、ヘルパーだということが分かり、やりがいを感じている」とのことでした。
 桐鈴会には、鈴懸の事務所、厨房、おはようヘルプ、桐の花、と4つの職場があります。これからも必要な人事交流を続けていこうと考えています。



「納骨堂検討委員会」
     安穏廟を訪ねて 2008,6,30 新潟県旧巻町
 というタイトルで、報告してありますが、そこは、墓地でした。墓地と納骨堂の違いがあります。墓地は、行政が作るもので、ただ一つ宗教法人が、行政から依託されて作ることが可能です。したがって、私たち社会福祉法人は作れないのです。納骨堂のほうは、そういう規制がありません。納骨するというのは、墓地に埋葬する前の一時預かりという感じのものだということでした。安穏廟の場合は、墓参りすることがなくなってから、13年たつとその墓地をなくして、次の人に渡し、お骨は、引き上げて、共同墓地に埋葬しなおすということになっています。
 わが桐鈴会の納骨堂については、今後の課題として、お守りする人がいなくなったときの対処の仕方を検討する必要があります。ということで、この日の報告は終わりにしました。



ホヤ
           2008,8,18    於、南魚沼市立保育所

 皆さん、軟体動物のホヤ、ご存知でしょうか?
 三陸海岸で釣れるホヤを始めて口にしたのは、上教大に留学していた工藤さんが、岩手に帰ってから送ってくれた時でした。こんなにおいしいものがあるとは!それが私の感想でした。その後なかなか口にするチャンスがなく、海映の介助に行っていた時に、近所の魚屋で、毎日売っていたので、よく買ってきては食べていました。今回、萌実が、工藤さんのところに行って食べたホヤがとってもおいしいというので、送ることを頼んだら、見事に真っ赤なホヤが、5個届きました。私は嬉しくて早速二つ食べてしまったのですが、海映夫婦も、卓夫もおいしいとは言わず、残ってしまった2個のホヤをどこに持って行こうかと考えました。

 今回、電話で萌実が話したことがとっても興味深かったのです。先にある二本の角を、始めに切ると水が飛ばない、そして切ってみると片方が、プラス、もう片方がマイナスだというのです。いやいや本当に驚きました。角の先に口が開いているところが、マイナスとプラスの形をしていて、どうやら、どちらかが、「口」で、どちらかが「肛門」だということにもとても興味を覚えました。私が持って行くところといえば、桐鈴会ですが、そこは、お年寄りと職員だけ。できたら、子どもたちに見せたいと思いました。一番近くの浦佐幼稚園は、まだ夏休み、そこで、保育所に行くことにしました。所長さんが、昔の同僚で、話が通りやすかったのです。すぐにOKで、ホヤ二匹、キュウリ二本、出刃包丁に菜っきり包丁、酢、生板に、ガラス食器。所長さんが、私を紹介してくれます。0歳クラスを除く40人ぐらいの子どもたちに、「黒岩さんは、いつも面白いことをしてくれた人」と言って、私が登場。まず、ホヤを見せて、なんだろう?と問いかけ、近くまで持っていって全員に臭いをかいでもらいます。「生ぐせー」などという子もあります。海に行ったことがある子たちは、「海の匂い」とも言います。そして、角の先にプラスとマイナスがあることを見せ、プラスが、「口」マイナスは、「お尻」。というと笑いが・・・・。

 半分に切って中を取り出し、小さく切った後、酢をかけておきます。(殺菌効果あり)次にキュウリを一人一人に包丁を持ってもらって、一切れずつ切ってもらいました。2歳児さんから始めます。怖くて、包丁をつかめない子もあります。私が手を添えて、でも、力は、子どもの力で切ってもらいます。4歳、5歳になると家でやっている子たちもあり、自信を持って切るこたちもあります。さて、出来上がったのを、食べさせてくれては困るというのが、保育所の厨房。何しろO157以来清潔ということには大変な神経の使いようで、保育所で、料理をするとなると、前々から、計画書を出して、たとえば、草もちをこねるために、家から、小さなボールを持ってくるには、前日持ってきて、消毒しておいたのを使うのだそうです。そんな状況の中で、生モノ、それもノロウィールスとか、いろいろ神経をつかわなくてはならないところで、これは、大人に食べてもらうということで始まった料理でした。

 さて、そんなことをしているところへ、男性のお客があり、食べてもらいました。警察官と、業者の二人ですが、二人とも、食べたことがないそうで、子どもたちは、そんな珍しいものなのかと感動します。保育士さんたちは、気持ち悪くて食べられない人に、食べてみた人に、皆さん誰も、見たことがないとのこと。食べた一人は「これで飲んだらおいしいでしょうね」と。本当に酒のつまみとしては、私には最高だと思えるのですが。

 最後に水道で、洗い物をしている私のところに来て、女の子が言いました。「今度から、こんな気持ち悪いもの持ってこないでね」すごーい!こんなことを言ってくれる子がいるということに感動しました。(ここまで19日記)

 さて、ホヤの続きがあります。翌日は、少々心配だったので、所長に電話を入れました。「腹痛とかなかった?」と言うや、「実は、午後おなかが痛いと言ってきた子があって、すぐに聞いたわよ。ホヤ食べた?ってね。食べないって言うから一安心。ところが、5歳児で、魚介類博士みたいな子がいて、その子は早速図鑑で、ホヤを見つけたのね。ちょうどお迎えに来たお母さんにその図鑑を見せて『このホヤを食べた』といったの。そうしたら、お母さんの表情がさっと変わって『生ものを子どもに食べさせたんですか?』って。それを聞いた厨房の職員が『食べさせません。見せただけです』って言ったんで、そのままその日は終わったの。だけど、実は、この子は、普段お迎えに来た人にその日のことを話すというようなことはなくて、心配していたくらいなの。その子が、たまたま来たお母さんに、そのことが話せたということは、私たち職員から見たらとっても嬉しいことだったの。だから、私は、その現場にいなかったから、何も言えなかったのだけど、今日そのお母さんに本当のことを話してこようと思っている」
 子どもには食べさせないといっても、料理が終わって、のぞきこんでくる子どもたちに、「食べたい?」って聞けば、何人かは、うなずきます。せめてその子達にだけは、ちょっとでいいから食べさせてあげたかったのです。極力細かく切って、もしものことがあっても被害が最小になるように配慮し、酢で、殺菌をしたのでした。
 終わってから、手をあげてもらったら、食べた子の方が食べない子よりずうっと少なかった。「まずい」と言われたから食べなかった。という子がたくさんでした。そこで、まずかった人。と聞くと、大多数。「おいしかった人」は、3本手が挙がりました。確かに、これは子どもの味ではない!我が家の孫たちは、だれも食べませんでした。
 21日、次のようなFAXを保育所に送りました。
「ほいくしょのみなさん、きのうは、きもちわるいものをもっていったのに、つきあってくれてどうもありがとう。ゆうきをもってさわったり、くちにもっていったりしてくれました。きらきらしためでみていてくれてうれしかったな。『こんどくるときは、あんなきもちわるいものもってこないでね』といってくれたひとがいました。これもうれしかったな。そんなことがいえるひと、すばらしいとおもいました。またこんどあそびにいくね」



桐鈴会の夏祭り
            2008,8,8    於、桐鈴会広場

 8日は桐鈴会の夏祭りでした。朝は、5時半から、役員、職員、地域のボラさんが、屋台作りを始めます。私も6時半に合流しました。力仕事は、若者に任せて、電球や、提灯を取り付けるなどを私がします。
 前日、5人の孫(目黒3人、滋賀二人)がその親たち3人とやってきましたが、一人の親は前日帰って行きました。朝は、その人たちの朝食の準備があって、私は7時半に帰ることになりました。職員たちは、一日中準備に取り掛かり、屋台の食物は、全部手造り品です。4時ごろからは、大和中学の生徒さんや、北里大学の看護学部の人たちが来て、おにぎりを握ったり活躍してくれ、6時からの始まりを待ちました。入居者だけでなく、地域の方々も時間前からたくさん来られて、まだ暑いさなか、見事な太鼓の音で、はじまりました。
 車いすの山内さんも初参加、「こんなに盛大なお祭りだとは思いませんでした。」司会者が紹介します。「ここのヘルパーステーションは、高齢者だけではなく、障害者も使っていただけるように去年からしました。それにあたって、講師としてヘルパーに教えてくださった山内さんです」他の事業所のヘルパーさんと一緒だったためか、途中で帰らなくてはならず、残念でしたが、楽しんでいただけたようでした。大学生の時に交通事故にあい、頚損で車いすに。
 入居者や、ボランティアの方々、そして津軽三味線の専門家が、夜勤職員として勤めていてくれるので、その演奏などを見たり聞いたりしながら、屋台で、購入した食事をとり、その後、盆踊り。これがとっても盛り上がるんです。私も、毎年浴衣姿で踊りまくります。今年は、私の後ろに孫が3人(5,3,3才)ついて踊りました。3歳の男の子は、すぐにいなくなりましたが、残りの女の子たちは、それこそ楽しそうに踊り続けたので、そんな姿を初めて見たと3歳の孫の母親(帆姿)は感激していました。

 屋台は、みな職員や、ボラさんの手作りなので、おいしいこと!今年初めて登場した冷うどんが一番の人気でした。たこやきは、魚沼市にある知的しょうがいを持つ方たちの授産施設堀之内工芸の皆さんが、毎年来て作ってくれます。特産品の八色スカイは、毎年のことながら、無料で、食べ放題です。生ビールも100円なりで人気。

 最後にくじ引き、全員(職員は除く)に配られた番号札について、同じ番号札をつぼの中から私が取り出します。当たった人たちは、大喜び。ところが、当たらない小学生たちが、次々に前に出てきて、自分が当たらないことを抗議していきます。最後には、当たらなかったといって、泣きだした子もいたと娘が言っていました。そのぐらい盛り上がったともいえるし、「来年からは、全員に何かがいくようにしたら?」と娘は提案していました。来年はどうするでしょうか?
小さい子どもたちがいない人たちも地域のお祭りのように楽しんでくださっていたようでした。盆踊りは、お年寄りが、「先生」で、皆がそのあとに続きました。

 今年は、初めて母がいないお祭りでした。いろいろな人が、「お悔やみ」を下さり、ついでに「たかひろさんは?」と言ってくれる人も何人も、去年も、おととしもほとんど毎年来ていましたもの。グループホーム桐の花の入居者は、もうほとんど老衰という感じで、部屋から出てこられない方たちがいるのですが、その方たちも最後まで部屋に帰らずに、夜空のもとで、遠方から来られた家族の方と楽しんでいたそうです。8時半に幕引きとなりました。



女政のえんー上野千鶴子のトーク
            2008,8,2    於、花の宴(東京渋谷)

 何しろ言葉というものは、記憶が難しく、正確さに欠けるので、上野さんに送って、直していただくことにしたのです。そうしたら、間違いだらけだそうで、直すにはとても時間がかかるとのお返事でした。

 いつもは、いろいろなmlに呼びかけて参加者を募るのですが、どこかで聞きつけた方々からの参加申し込みで、7月のうちから、閉め切らざるを得ませんでした。でも、立ち見覚悟ならどうぞと言っておいたら、立ち見覚悟で来られた方もありました。赤松良子さんは、時間を間違えて、3時に来られたそうで、6時には、もう来られませんでした。

 上野さんは、時間より30分ぐらい前に会場に入るなり、「ああよかった。何にもメモを持ってこなかったので、104に電話をしたら、じょあん(前は、そういう名前だった)では載っていないといわれて、どうなる事かと思っていたけど、やっと来られて良かった」というのです。ここですでに、「私の仲間」って思ってしまいました。10年ぐらい前に来ただけで、その記憶を頼りに探してきたそうです。

 今までの場合には、たいていはじめの1時間話していただいて、というやり方でしたが、上野さんは、「講演会は飽き飽きした。トークで行きましょう」とのこと。そこで秩子がインタビュー。「70年代の学生運動や、リブの運動をどんなふうに見て過ごされました?」からトークが始まりました。6時から7時半までは、みんなぎゅうぎゅうつめて、座っていたのだけど、夕食が出ると半分が立ち上がらなくてはならなくなったにもかかわらず、途中で交代したとはいえ、9時半までだれ一人帰る人がいなかったというのが、上野スピーチの魅力でした。終わってから、かなりの方から、興奮したような感動の思いが届いています。以下は、上野さんが訂正してくださったものです。

 1967年に京大文学部社会学科に入学し、翌年、同期だった山崎君が、 羽田のデモで亡くなった。その追悼のデモが私の初めてのデモでした。当時大学進学は、5%ぐらいだったから、同世代の中では、とても少ない人たちの体験です。バリケードのなかで過ごしましたが、69年には学生運動は退潮期を迎えました。

 その後に、リブが東京で始まりました。が、地方都市にいる身には風聞を耳にしただけ。1970年夏のリブ合宿のことも知りませんでした。「集団」にとことん絶望していたわたしは、コレクティブに参加することはなかったでしょう。それに最終的な打撃を与えたのが「連合赤軍事件」でした。
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 ここで、このリブ合宿に参加した人に手をあげてもらったら一人だけいました!林郁さんです。「家庭内離婚」で当時すっかり名をはせたノンフィクション作家の方です。私と同世代。その年の10月21日の女性だけのデモにも参加し、その時に捕まった人の救援活動をしていたということでした。
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 女性学とであって一番ありがたかったのは、自分を学問の対象にしてかまわないと思えたこと。社会学なんてつまらないと思っていたし、 女である自分をテーマにできるとは思えなかったので、目からウロコでした。私は、いつも男性に囲まれた中にいて、女だけの集まりは、苦手でした。京都にできたばかりの日本女性学研究会に行ってみたら、魅力的な人が多くて、とてもやさしくしてもらった。女子校文化のよさを味わいました。女の集団は、男が一人でも入ると変わる。だから男には、この雰囲気はわからないでしょう。どんな女性の経験でも語る価値があるというのが女性学の趣旨だったのに、その会が権威主義的な集まりだったので、仲間と語らって「無血革命」を実行しました。理事長職を廃止、理事長の方が下りて、一会員となり、代表も、理事会もない、「口を出す人が手も出す」という参加型民主主義の会を実現しました。原則は(1)やりたい人がやる、やりたくない人はやらない、(2)やりたい人はやりたくない人に強制しない、 (3)やりたくない人は、やりたい人の足をひっぱらない、などの組織論を展開。「それってべ平連ですよね」と岡田弥生さん、すると上野さんが言う。「べ平連よりもっと前よ。谷川雁の『工作者宣言』」そこで深くうなずく人は、ほんのわずか。そういえば、60年の学生運動が、引いて行ったあと、残った学生は、この「工作者宣言」にひかれ、谷川雁を呼んで話してもらったりした。三池炭鉱の労働組合と並行して、筑豊の閉山されそうな山で、仲間を作った人たちの集団の在り方だった。「誰も誰をも代表しない。誰も誰にも代表されない」という原則を掲げて、代表制民主主義に反対して、総会も廃止。情報が集まる所に権力が集まるから、会報も、毎月担当者が変わるなど、権力が発生するしくみを徹底的にチェックしました。初心者とベテランが組んで「徒弟制」を導入、会報や年報を担当できる人たちの層を厚くしました。その時の女性学研究会の仲間とはいまでも同志的な信頼感があり、本当にいい関係よ。

 1982年に私は、二冊の本を出しました。「セクシィギャルの大研究」「主婦論争を読む」この二冊の本を同じ人が書いたとは、信じられなかったそうです。

 結婚てなんだと思う?私に言わせたら、「自分の身体の使用権を、特定の異性に生涯にわたって譲渡すること」なの。よくそんなことできるわね。(と秩子を覗き込んだ)私にはそんなふうに束縛しあうことは堪えられない。

 私は、ずうっと選挙には行ったことがなかった。だって、支持できる政党がなかったからね。でも、40歳を過ぎたら、それまで「こんな日本に誰がした」と言っていられたのが、今度は言われる番になってしまったと思ったの。そのころから、選挙には行くようになった。でも、私が投票した人で当選した人はいなかった。そういえば、川田龍平くんが例外。初めて思いがけなく当選したわ。

 2005年、国分寺市が、東京都と共催事業の人権講座で、私を講師候補にしたところ東京都が介入、「ジェンダーフリー」を使うかもという理由で中止になりました。1999年に石原都政が始まるまでは、私は、都の講師陣に入っていたのに、石原都政では危険人物扱い。さっそく抗議したら、のちに亡くなった若桑みどりさんが、「上野千鶴子を孤立させるな」と言って、ML等で呼びかけて3日間で1808の署名が集まった。それまで仲が悪かったフェミ業界でこんなことができたとは異例なこと。国分寺市は、1年後に独自事業で上野の講演会を実現しました。私は、「男女共同参画」という言葉が嫌いなの。だって「男女平等」 ということばを避けたい行政の関係者が作り出した言葉でしょ?私は行政には評判悪いみたいね(笑)。

 DV防止法関連講座のドタキャン事件でつくばみらい市に抗議に行った時には、黒岩秩子さんがついてきてくれて頼もしかったわ。私、がたいが小さいでしょ、だからこういう大きい人がいるとうれしいの。

 障害者との出会いは目からウロコでした。関西に金満里という人がいて、これがものすごく魅力的なのよ。変態のさかさまで「態変」というパフォーマンス集団を作っていてね。関東では車いすの中西正司さんにナンパされたの。八王子に会いに来いっていうからのこのこ行ったのよ。話し始めたら、お互いに、「あなたもそうだったの」だらけで、意気投合。「当事者主権」の本をつくりました。

 バックラッシュってそんなにたいそうなもんじゃない。枯れ尾花見たいなもんかも。論者も西岡、藤岡、西部、八木、林など、3流の人たちばかり。それでも実害があるから闘わなくちゃならない。

 私は、女が議員になりさえすればいいなんて全然思っていない。田中真紀子とか、山谷えり子がなったって期待できない。女は平和的というのだって、歴史的に見れば嘘。戦争中兵隊さんを旗を振って戦地に送り出したのは女たち。女性兵士も登場した。アメリカのフェミニストには、「軍隊の男女共同参画」を求めるひともいる。

 これに対しては、私(黒岩)は、自分の意見を対しました。国会の中で見ると、「このテーマでやりたい」と言って国会に来た人が、男より女のほうが率が高いと思いました。

 ここで、土井たか子さんが、ここぞという時に女性の期待にこたえてくれなかったという話に発展。そのぐらいだから、クオータ制に彼女が反対なのは当然と思えたので、質問しませんでした。神永さんごめんなさい。


何十年ぶりの面接試験
     2008,7,14     於、新潟県庁

 新潟県の男女平等条例に基づく「男女共同参画審議会」の審議委員の公募に応募したら、14日が、その面接試験でした。何十年ぶりのことでしょう。3人の試験管の前に一人座らされて、小さくなっていた(《いや違う!》の声あり)私。どうして応募したのか、審議委員になったら何がしたいのかなど、想定内の質問ばかり。

 実は、14日10時に県庁で行われるというので、ちょうど海映の産後介助に行っている時のはずなので、海映に聞いたら、一日ぐらいはどうにでもなるからいっても大丈夫といわれたので、応募したのでした。ところが、ここ目黒から新潟県庁に10時に行くというのは、きつい。朝早く出るぐらいなら、前日でる方が、体も楽、と考えて、最終便で浦佐に行き、一泊して出かけました。10時10分前についたら、「10時半からです」と言われ、事務室でまっていたら、「10時の人が来ないので、どうぞ」といわれて案内されました。「何人の応募ですか?」「5人です」そのうち一人が欠席だから、3人取るということなので、落ちる確率は4分の1。

 私としては、男女共同参画に向けてなら、やりたいことだらけ。まずは、魚沼地方だと「私、子どもが3人だから、3回職を変えた」なんていう人がざらです。子どもを生むたびに退職して、また新しい仕事を探さなくてはならないのです。産休、育休の代替要員を入れるのに、21世紀職業財団から助成金が出るということを、もっと広報すれば、やめなくてすむ環境はあると思うのです。また、新潟県内のあらゆる職場に、子育て中の女性のみならず、男性も、早く帰れるように、事業所が、配慮するようにということを事業所にお願いして回るということも考えられると思うのです。審議会はたった1年に2回しかないそうですが、いろいろな提言をすることは可能なのだと考えています


さつき会総会・中村桂子さん講演
       2008,7,5     於、東大駒場ファティハウス

7月5日、東大女子卒業生の同窓会の総会があり、いつものように会員に中から演者に選ばれた中村桂子さんの講演が感動的でした。中村さんは、お忙しい中、私の原稿を手直ししてくださいました。深く感謝しつつ。

 中村桂子さんは私より3年上。理学部の化学科を59年に出て、大学院に行くときに、一人だけ、分子生物学に進みました。同級生は、どうして?という人が多かったのだけど、 20年後は、DNAへの関心が高まりうらやましがられたくらいだったそうです。
「私は『生命科学』から始めましたが、生命誌に変りました。科学は、生きも のを機械のようにみなすこと、また近年は、技術につなげ経済に役立つかということばかり言われるからです。数値やお金から生物を考えたくないと思う。 20世紀は、機械と火の時代だったが、21世紀は生命と水の時代だと思う。 Biohistory Research Hall、「生命誌研究館」は、生きものを歴史的存在と捉え、研究成果を音楽と同じように楽しく表現することで多くの人と生きものの魅力を共有する場です。生命が誕生した38億年前からの生命の進化を表現し た『生命誌絵巻』、展示ホールには研究を正確に表現し、楽しさを共有する試みの場として、さまざまなものが展示されている。

 研究の話を一つ。熱帯雨林の中で重要な役割をしているイチジクにはイチジクコバチが入り授粉をする。ハチはイチジクの中で子どもを育てる。つまり共生。700種ほどあるイチジクには1対1の関係できまったハチが入るのだが、この関係は2億年ほどかけてでき上った共進化の結果である。このような小さなハチの営みがイチジクを支え、それが大きな熱帯雨林を支えている。生物の世界はこのようにして、38億年も続いてきた。

 人間の遺伝子は、22000、ハエの遺伝子は14000、余り違いません。人間も、他の生物と変らぬ生きもの。金融市場原理、科学技術至上主義は、生きものには合わず、生きものである人間も生きにくいと思います。」

「生命誌研究館」は、大阪府高槻市にあります。072−681-9750、http://www.brh.co.jp

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私が大学に入学したとき、同じクラスに女性が二人でした。全部で、9クラスまであり、女性はたった4人ですから、同じクラスに二人というのは、とってもレアケースでした。この日、その女性と、50年ぶりぐらいで再会しました。彼女は、結婚したけど、研究(物理)と子育ては両立できないと思ったから子どもは作らなかったといっていました。それもひとつの選択ですね。私も、あの頃は固くそう誓っていたものでした。



水中出産をした海映
    2008,7,2    於、広尾日赤医療センター

 7月8日が予定日だった海映の3番目の子どもが、2日朝生まれてきました。今回は水中出産だというので、私は、知らせを受けたらすぐ駆けつけて、立ち合わせてもらう約束になっていました。1日に上京したので、帰りに電話したら、まだだというので、かえって来ました。翌朝珍しく寝坊をして、海映のパートナーが、6:15にくれた電話を受け取れず、留守電を聞いたのが、9時ごろだったため、それから駆けつけることは無理で、今回、貴重な体験を見逃す羽目になってしまいました。
 7月5日、上京するついでがあったので、その帰りに日赤に立ち寄り、赤ちゃんと初対面をしました。一番上の志重にそっくりなボーイッシュなはっきりした顔でした。その帰りに目黒に来て、翌日の退院に付き添い、以来、お産賄を続けています。
 水中出産のおかげなのかどうかはわかりませんが、ほとんど赤ちゃんの泣き声が聞こえません。以前、私の友人の娘さんが水中出産したときにも、やはり赤ちゃんが泣かないといっていました。もしも因果関係があるとすれば、お湯の中に出てくるということは、いきなり空気の中に出てくるよりは、環境の変化がはげしくないので、適応が楽なのかもしれませんね。
 体温と同じぐらいのお湯につかると、まず妊婦は、リラックスして、気持ちがよくなると言っていました。陣痛自体和らぐといわれています。分娩台に仰向けになっている体勢に比べて、お湯に浸って浮力に支えられた状態で、立ち膝のような姿勢をとることで、いきみやすいということもあって、海映の場合には、10分ぐらいで出てきてしまったそうです。でも、お湯に浸ることでかえって陣痛が緩和しすぎて遠のき、また分娩台に戻されるケースもあるそうです。また、水中分娩は、人手がたくさんかかるそうで、その体制が取れないときには、あきらめてもらうしかないとのこと。その結果、水中分娩を希望した人の3割ぐらいしか実現しないのだと助産婦さんが言っておられました。だから、今回できたということはとってもラッキーだったということなのでしょう。
 この1年半で、30例ほどしか成功していないということです。

 まず、助産婦さんに取り上げてもらうのではなく、自分で取り上げます。その瞬間の写真を助産婦さんが撮ってくださってありました。胎脂でくるまれたピンク色の赤ちゃんを自分で取り上げた瞬間の写真は、これまでどこでも見たこがない光景でした。人に任せるのではなく、自分で生んだんだという実感が大きいといっていました。
 空気に出てくるまで赤ちゃんはお湯の中で呼吸をしないので溺れることもなく、むしろお湯の中でパッチリ目を開けて、赤ちゃんによっては手をばたばたさせてまるで泳いでいるような格好をするそうです。
 私が生んでいた頃は、取り上げたらすぐに産湯につけていましたが、今は、4日目に初めてお湯につけたのだそうです。まず、胎脂は、誕生直後の赤ちゃんにとって保温・保湿効果があり、そのうち自分の皮膚で吸収してしまうので、しっかりふき取る必要もないとか。生まれたらすぐに裸のまま母親の胸にうつぶせにおきます。赤ちゃんは、自分で、乳を探して、吸い付くのだそうです。それをカンガルーケアというのだと、帆姿が教えてくれました。彼女は、水中ではなかったけど、助産院でも、自宅出産でも、このカンガルーケアはしていました。今は、かなりのところでそうしているようですね。
 おなかがすいても泣かないで、おっぱいダンスをするんです。生まれてきた赤ちゃん(まだ名なしです)おなかがすくと普通だったら泣いて知らせるのに、この子は、口を開けて、左右にその口を振って、お乳を探すのです。その姿がとってもかわいくて、手足もばたばたさせるので、「おっぱいダンス」と名づけられました。


性差医療の勉強会
    2008,7,1     於、ユニゾンプラザ(新潟市)

 1日、ユニゾンプラザで、佐山光子さん(新潟大学医学部保健学科教授)による性差医療の勉強会がありました。新潟県女性財団主催です。もともとにいがたジェンダー研究会のメンバーでもあるし、たかひろの応援団でもある佐山さんの話なら聞いてみたいところに持ってきて、性差医療にはとっても興味があるので、午後、横浜に行かなくてはならないのに、午前中、新潟に行きました。行っただけのことはありました。

 アメリカが日本より10数年早く、性差医療に目覚めた。それまで、実験動物は、男だけを使っていた。なぜなら、女は、ホルモンの量が波型になっているため、薬の効き目などが、生理の後と前では違ったりするためだという。ところが、男と女では、いろいろな違い(病気の発症時期や、薬の効果など)があることが分かってきたら、それぞれのデータを取らなくてはならないということに気がついた。1985年ごろから、マイノリティーを含めた実験が始まり、1991年には、20万人の女性を対象として、ホルモン補充療法の実験が行われた。その結果、投与初期には、血栓性疾患が、それ以後には、乳がんの発症率が増加する。という結果が得られたため、この実験は2年で終わりになったという。私は、ずいぶん長期間(11年間)更年期障害で大変だったので、このホルモン補充療法もやっていたことがあります。こんな実験結果があるとは初めて知りました。

 男性だけの疾患、例えば前立腺肥大、などは、女性の病気に比べて訴えが遅れる傾向にある。なぜなら、男性にとっての性器は、男性性の象徴となっているために、病気を受け入れがたいのでは?と佐山さん。

 日本では、堂本さんが、千葉知事に就任し(2001)その年に、東金病院に女性外来を置いたのが最初だったと思うのですが、そこに医者として赴任した天野恵子さんは、更年期障害についての私の訴えを参考にした、と後に語ってくださっていました。千葉の女性外来は、瞬く間に全国に広がりました。それだけ必要性があったのでしょう。




安穏廟を訪ねて
           2008,6,30    新潟県旧巻町

 30日(月)桐鈴会の職員と役員4人で、共同墓地を、納骨堂を作る実行委員会として見学に行ってきました。初めに行ったところは、同じ南魚沼市の田崎という集落が、1971年に建てた共同墓地でした。高い塔が建っていて、その下に、かなり大きな(直径が8メートルぐらい?)円筒型の石が建っていて、その周りに46軒の家の名前が彫ってあります。戦後、生きていくだけが大変で、とても死んだ人のことまでかまっていられないという時期に、部落中が寄って、共同墓地にしようと話し合って決めたのだそうです。そのうち、お金が入ると、個人の墓を造るようになって、周りには、普通のお墓もかなりあるようになっていました。それらのお墓の中で、飛びぬけて高い墓石に、個人の名前が書いてあるのは、戦死者のもので、最後の字は「英霊」となっていました。あとのお墓は、「マルマル家の墓」となっているのでした。

 午後は、巻町にある安穏廟という妙光寺が持っている共同墓地を見に行きました。「墓をめぐる家族論」の中に写真入りで出ていたところです。「継承を前提としない墓」というのが、1989年ごろから、そこここに出来ていく、そのはしりだったところですが、行ってみたら、本にあった写真のとうりの直径10メートルぐらいの小高い山には、草が生えていて、その中心には塔がある。山の下は、上から見ると大きな8角形になっていて、石で1メートル弱の高さの一つ一つが区切られた墓石のような垂直の区画がありそこには、「絆」「千の風」などと書かれていたり、名前が書いてあったりする。よく見ると、その名前が、黒のところと赤いところがある。それは、死んだ人は黒で、生きている人は、赤だという。つまり生きているうちに、自分の死後の居場所を決めている人たちだということなのでした。なんとその形の共同墓地が、4つもあるのでした。

 妙光寺の住職小川英爾さんから話を聞きました。
 このお寺では、檀家という言葉を使わず、檀徒というのだそうです。つまり、家という概念ではなく、個人ということなのですね。生前に自分の死後を考えた人たちがここに集い、1年に一度、シンポジウムなどを開いて、会員、檀徒、地域の人たちが、交流しあう。戒名というものは、仏教徒になるときに、新しい名前を付けるもので、キリスト教で、洗礼を受けた時、新しい名前をもらうということと同じらしい。(戒名を付けるとお金をとられるなんて言うのはおかしいそうだ)ここの会員の多くは、生前に戒名をもらうとのこと。「葬式仏教」と揶揄される、仏教の現状を何とかして変えていこうと考えた小川さんの取り組みが成功して、檀徒も増えるし、会員はどんどん増え、一つの墓地が、108のお墓からなるのですが、その一つは、10年ぐらいで満杯になるのかと考えていたのに、4つの合計432が、12年で満杯になってしまった。そこで、もっと小型の、ひとつが、8区画になっているものを、40個作ったという。今、建設中のものもあって、中を見せてもらいました。かなり広い空間があって、10人分ぐらいのお骨は、入れそうです。箱とか、壺とかがない場合には、100人ぐらいは入れるでしょう。何しろ総面積が5000坪という巨大な敷地ですから、周りには、旧来通りのお墓があります。そして、お寺の本堂には驚かされました。人がたくさんで入りきらなくなり、屋外までが、本堂の延長になっているのです。そこには、なんというものか忘れましたが、板のようなものが敷き詰められていて、はだしのまま外にでられるようになっています。雨ざらしになっているので、確か、防腐剤が塗られているのでしょう。それにしても、19年間、夏の終わりごろ1泊2日のフェスティバルをしてきたけど、一度も雨に降られなかったそうです。250年前のお寺には、覆いがかけられていました。遠くから見ると不思議なお寺だと思ったのですが、それは、たんに経費節約のためだそうで、周りの柱は、鉄骨、屋根は、アルミでおおわれているだけなのでした。だから、外観は、「これがお寺?」という感じ。 

 外では、鶯の声、山から吹き下ろしてくる風が運んでくる木々の香り、こんなロケーションのところに眠りたいと思ってしまう空気がありました。
 住職の個人史も興味深いものでした。大学3年の時に、父が亡くなり、末っ子の自分が後を継ぐことになり、母と二人で経営をしていた。妻が23歳、自分が28歳の時に結婚し、お財布が母から自分たちに回ってきた。すると途端に母がぼけ始め、被害妄想で、「英爾がとるから」と言っては、兄や姉のところにいろいろ自分のものを預けに行く。お金を渡しては、「私の最後は頼む」と言っていた。でも結局、最後にはだれも来なかった。
 自分の子どもは、娘が4人、この4人は、いっとき、4人とも中学生だった。1、1、2、3と4人。つまり年子を3人つづけて産んだら、最後が双子だった。ということで、子育てと母の介護で、家族とは?と考えさせられたことが、このような共同墓地への道をつけたことになる。今のところ、4人とも後を継ぐ気がないので、後継者問題は、深刻。とのこと。

 2時から用事があるということで、1時過ぎに伺ったのだが、住職さんは、話に乗ってしまって、3時過ぎまでいろいろ話してくれることになった。私たちが、ケアハウスを運営していることを知って、実は、自分のところでも、ケアハウスを作ってくれと言われ、かなり検討したのだけど、歩いて買い物に行けるところがないような山の中なので、ここを住処にするには、老人は無理だと判断した、とのことだった。確かに人里離れた空気がいいところというのは、お寺や、死後の居場所にはいいかもしれないが、老後のすみかは、人家の中のほうがいいだろう。そんな気がした。
 医療の心を考える会、を運営していながら、このお寺を誰も問題にしてこなかったのが不思議に思えた。ここの住職は、長岡西病院のビハーラ病棟(ホスピス病棟の仏教版)のことはよく知っていた。
 たかひろの選挙の時に、東京の河瀬直春さんが、選挙のお願いに入っていたので、ご存じだった。河瀬さんは、ここの会員で、共同墓地を購入しているとのことで、今回も、連絡先を教えていただいたのだった。直春さんは、3年前に亡くなっているのだけど、遺族の方が教えてくださった。住職は、もちろん、河瀬さんのことはよく知っておられた。





静岡県島田市

 
    2008,6,28    於、東京駅

 11月22日は「いい夫婦の日」ということだそうで、今年のその日に、私たち夫婦が、静岡県島田市に呼ばれていくことになりました。そのための打ち合わせがしたいから、上京のついでに、と言われ、28日勉強会が終わってから、東京駅で、島田市の、教育委員会社会教育課青少年係の畑中利博さんとランチをしました。彼は、今から15年前にうちの町に集団で来て、私たち夫婦と夜の時間を共有したのでした。その後、何かにつけて電話がかかってきていろいろなやり取りをしてきたのですが、今回初めて二人で話したら、なかなかおもしろくて、うちの町との共通点もあって、皆さんにも報告したいと思いました。

 彼の年を聞いて驚きました。まだ45歳。親子の年齢差です。若いころから、いろいろな情報に耳を傾け、川根町という静岡茶が主な産業の町で、6000人の町役場職員でした。町長に新しく立候補するという人にインタビューに行ったら「自分が社長をしている会社を息子がやるというので、私は、職にあぶれるから、町長になる」と言った。それでも、現職は、立たず、無競争で当選。その後、島田市、金谷町と合併協議会を始めたのに、途中で、「抜けた」といい、その後、上流のもっと小さい二つの町の合併協議会に入れてほしいと言ったら、拒否され、島田市からはゴミの受け入れを拒否されることになった。住民は、まちづくり会議を組織し相談した結果、町長と議会のダブルリコールを選択するに至り、議会は全員辞職したものの、それでも町長は居座り、大差でリコールとなった。新しい町長となり、仕方がなく、元の島田市、金谷町が合併したところに入れてもらうこととなった。

 実は、南魚沼市ができるときにも、同じ状況だったのです。塩沢町が、住民投票で合併協議会から外れ、にもかかわらず町長選では、合併派が勝ち、結局塩沢は、六日町と大和町が合併したところに吸収されるしかなかったのです。

 ところで、川根町での話に戻すと、リコールされた町長のもとでは、意欲のある畑中さんは、町長にとって邪魔な存在だったので、税務課・地籍調査係に押し込められていた。この町でも、黒岩の町長選挙にかかわった職員は、水道課と税務課に押し込められていました。でも、力がある職員たちは、押し込められてもそこで、しっかりと何かをつかんで出てきます。畑中さんも新しい町長になって、重宝がられて、活躍してきたようでした。この4月に島田市との合併が成立し、「合併うつ病」(南魚沼でもたくさんだとのこと)の人も現れているそうです。彼は、4月から、早速私たち二人を呼ぼうということで、上司に働きかけて、実現にこぎつけたのでした。

 川根町というのは、大井川の中流にあり、さらに上流に行くと昔金嬉老が朝鮮人差別を訴えて立てこもった寸又峡温泉があり、金嬉老と文通をしていた私は、本川根町(現・川根本町)の寸又峡温泉に萌宇を連れて行ったことがあるのでした。金谷町というのが、そこへ行 く電車の出るところだったのです。





全国地域生活支援ネットワーク総会と勉強会

     2008,6,28     於、研究社の会議室(飯田橋)

 東京の飯田橋、研究社の会議室で、全国地域生活支援ネットワーク総会と勉強会があり、28日上京しました。勉強会の内容が、スウェーデンにおけるしょうがい児の個別支援計画に関するレポートが学芸大学の加瀬進さんからあるので聞いてみたかったのでした。大きな会議室が、5分の一も埋まっていない状態で、総勢50人を下回る参加者です。片桐公彦さんによれば「毎年こんなもんです」それにしては、参加費が500円とは安い!

 私がスウェーデンに行って一番感動したのは、ハビリテーシヨンという部門があることでした。これは、生まれたときからしょうがいがある人を対象とし、その中の一部が、中途しょうがいの人たちに「リハビリテーション」ということになるのです。り、というのは、元に戻すという意味があり、初めからしょうがいがある人には、「り」がつかないのです。

 さて、そのハビリテーションという部門では、一人一人の個別支援計画を作ります。医療、福祉、教育、の各部門から参加して、協働の支援計画です。学校に入ると、すべての子どもは、地域の学校に籍がある状態が作られます。「原籍」という。知的しょうがいを持つ子どもだけは特別支援学校(と言ってもほとんどの特学は、普通学校の敷地内に立っていて、日本でいえば、特別支援教室のような形)に原籍がある。ほかの障害を持つ子どもたちは、病院の中に教室があったりするが、籍は、ホームといわれる地域の学校にある。リソース学校(この名前の由来はわからない)という「凶暴性」のために普通の学校では、過ごせない子たちの学校が一番心に残った。何回か、傷害事件を起こしてそこに来たとか、学校もいくつか変ってから、ここにきたとかいう子どもたちがあるということ。日本でいうところの少年院みたいなところかもしれない。そういう学校については、学校が、ホームの学校に戻す努力をしているかどうか、6年に一度の監査があるとのこと。

 加瀬さんは、スウェーデンに、かなり特別な学校があるということに驚いていたが、分離することによって、統合を目指しているのだというように理解しているとのことだった。




国際大学の卒業式

    2008,6,26    於、コミュニティーホールさわらび(浦佐)

 26日はこの町にある国際大学の卒業式でした。それが、我が家にとって深い意味があるというのは、揺光の彼女スージンが卒業するからなのですが、それより大切だったのは、これを機会に、スージンのご両親が、ソウルから来られるということでした。そもそも、スージンは、外国人との結婚など許すはずがない両親に、揺光を紹介することができず、揺光が、ソウルに2回行ったのですが、2回とも彼女に家にはいかずに帰ってきたのでした。

 ところが、今年の春休み、スージンはソウルに帰って親に揺光と付き合っていると打ち明け、両親はすっかり落ち込んでしまった。それから、今回の対面が用意されたのです。まず、昨日の昼、尾道から上京した揺光と両親が、東京駅で対面。4人が、夕方こっちに来て、私たちと6人で夕食ということになっていました。韓国語の片言をスージンから習って、私たち二人も戦々恐々。新幹線の中からかかってきた揺光の電話では、「よかったよ」の一言。少し楽な気持ちになって対面すると、まずは、お父さんから、用意されてきたらしい話が。私たち夫婦がこの地で何をしてきたのか、韓国語の本で読んで予習がしてあったのでした。商社マンから、牧師に転職したお父さんは、キリスト教会が、するべきことを私たち二人がやっているということで、自分
たちも、これから福祉に力を入れたくて、社会福祉士の資格を取ったというのでした。お母さんは、自分の祖父が、日本軍に殺されたので、まさか自分の娘が、日本人と付き合うとは思ってもいなかった。でも、スージンは、いろいろ言い寄られてもなかなか彼女は気に入らなくて、これまでもほとんど付き合いをしてきていない。だから、そんなスージンが、今回は気に入ったというので、私たちは、娘の気持ちを大切にしようということになった。

 そうなったら、結婚式を早くしてほしいというのです。そもそも、何を結婚というのか?韓国では、戸籍がすでになくなっているので、手続き上での結婚もみんながわからないといいます。私たちは、同居することをもって結婚と呼びました。今の揺光たちは、スージンが、難民支援のNGOにこの7月から就職するので、東京が住まい。揺光とは別居状態が続きます。そういう中での結婚というのは、どうなものでしょう?と言うと、週末だけの結婚というのも韓国でもあると言っていました。そもそも、スージンが言うには、韓国では、結婚と決まったら、女性の家族は、「早く早く」男性の家族は、「遅く遅く」となるのだそうで、今回は、スージンの両親は、できたら、今年中に、と言っています。でも最終的には、当事者二人で決めること。ということを確認しあいました。とにかく、韓国の結婚式というのは、沖縄と同じで、何百人と集まるのだそうです。

 とにかく、次は、私たち夫婦がソウルを訪ねるということになるので、早速、10月11,12,13の連休に行こうということになりました。

 そしてやっと国際大学の卒業式です。ホテル岡部にとまったスージン親子を朝迎えに行って、萌気会の「地蔵の湯」そして桐鈴会の「ケアハウス鈴懸」「グループホーム桐の花」を案内してコミュニティーホールさわらびの卒業式会場に着きました。スージンは、上が黄緑、下が、赤に近いえんじ色のチマチョゴリ、それはそれはみごとなもので、その姿に吸い寄せられるように「地蔵の湯」では、おじいさんが、スージンに近づいて腕を組み、写真を撮ってほしいとポーズ、シャッターを押して大笑いとなったぐらいです。さわらびに集まった卒業生たちのほとんどは、アメリカ式のくろっぽいガウンです。ベトナム人らしい女性のアオザイ姿が目立ったぐらいで、圧倒的にスージンが目立っています。ガウンは、レンタルで4000円とかだといいます。卒業生以外の人たちが、会場のわきを固めて、入場する卒業生を拍手で迎えます。式が始まるとすべてが英語なので、ほとんど理解できない私とスージンのお母さんは、みんなが笑っていても笑えず、ただ雰囲気を感じ取るだけでした。ただ、卒業証書を一人ずつ渡すときには、名前と国籍が読み上げられ、ヒューというような歓声が上がる人、上がらない人。でもみんなそれぞれが、嬉しそうにもらっていました。2時間もかかったこの卒業式、「起立、礼」が一度もなかったね。と後で話し合いました。スージンの英会話の生徒さんたちや、学生に日本語を教えたりしているボランティアグループなど、地元もたくさん来ていました。

 駅前のレストランで、昼食をとっているときに、お母さんは、「朝案内していただいた施設では、とっても感動しました。私たちの教会で作ろうという話が出ているのに、なかなか取り組めずにいたものが既にできているので、帰ったら、早速取り組みたいと思いました。老人の施設といえば、どれもみんな病院みたいな建物なのに、古い日本式の家を使っているので、本当に素晴らしいと思いました」再会を約して、浦佐駅で、見送ったことでした。我が家に下宿していたスージンは、荷物を目黒のアパート(海映の住んでいる母屋に接して建てられている部屋代が2万円という4畳半)に送り、半年の下宿生活を終えたのでした。私は、近々生まれてくる海映の3人目の出産介助で、目黒に行くので、スージンとはまた一緒の生活になります。ご両親が、スージンを世界中で一番素晴らしい娘、と考えていることそのものにも感動しましたが、自分で考えを進めていって、娘の選択を受け入れるところまで来られたその柔軟性に最も感動しました。この素晴らしいスージンを育ててきた両親だけのことはあると、改めて思ったことでした。


新潟市の不登校対策と、督促書、鈴木塾
           2008,5〜6月       

 「想うこと」のコーナーに新潟市の不登校半減プロジェクトについての考えを書きました。今回は、その現場で起こっていることです。

 ことの始まりは、5月13日、新潟市から、3人の女性が我が家に現れました。一人が、不登校の子ども二人をもつ母(N)、その子どもたちの居場所を作っている人(S)、その支援者(W),の3人。Nさんのところに、督促状が来たというのです。「お宅の子どもは、正当な理由がないのに、欠席しています。ただちに出席させるよう新潟市立学校管理運営に関する規則第13条第2項により督促します」というもの。南魚沼市の教育センターにいる岡村勝さんに相談に来たら、私のところに行けと言われたということで、すぐに来られたのでした。

 その人たちがいる時に、グループホームから連絡があって、母が倒れたと言うことで、その後、泊まり込みとなり、メールや電話でやり取りをしていました。その結果、5月29日付の新潟日報と、毎日新聞のにいがた版が、この問題を取り上げて、記事にしました。日報の記事は、「13人に出席督促書、新潟市の小学校保護者から反発も」というタイトルなのですが、最後の締めくくりが「学校教育法によると、督促書送付後も子どもを登校させない状態が続き、教育委員会が裁判所に告発した場合、10万円以下の罰金が科せられる」となっています。

 この記事の結果、Sさんの元へは、犯罪者か?というようなリアクションがあったり、Nさんは、すっかり落ち込んでしまったり、そこへまた、ヤフーが運営している毎日jpというサイトに攻撃的な、ひどい書き込みが始まりました。昔、私の掲示板を閉じるしかなかったあの時を思い出します。とにかく暇な人がずうっと一人で、書き込みを続けているらしいのです。毎日新聞に連絡したら、自分たちではどうすることもできない。運営はヤフーがしているということでした。

 以前から、新潟市の不登校半減プロジェクトが問題だということで、私は、新潟市のHPにも投書したし、篠田市長にも直接お便りを手渡しました。返事は来たものの、官僚が書いたとしか思えない内容で、そのままになっています。今また、再度篠田さんにお便りを出そうと考えているところです。

 このことを全国紙に投書しようと考えて、6月4日には、新潟市教育委員会に電話してみました。まず、不登校半減プロジェクトについて聞き(始ったのは、3年前だということが判明)それとの関連で、今回の督促書というものがあるのでは?というと、それは関係ないという。では、督促書の係をと頼んだら、学校支援課長代理という感じの人(南とかいったと思うのだけど、自信なし)が出てきて、ことの経過の説明がありました。去年10月に小学生の不登校児の保護者が、「ホームスクーリングで対応するので、登校させない」といい、どうやらそれが、今年の春にかけて広がってきたということに危機感を持ったというのが、督促書に至った基らしいことがわかりました。今年の4月に入学するはずの生徒4人が、入学式に欠席、それも、市教委の危機感につながったようです。私は、「たった4人ですか?」と聞きました。それは、きっと、入学式に欠席した生徒数ではなく、その中の一部では?と思ったのですが、のちによくわかることになりました。
 さて初めに対立したのは、「学校にいずれはいかせようという前提があって、ホームスクーリングならいいけど」という姿勢についてです。私が塾で体験したのは、「学校にある適応指導教室とか、行政が運営している教育センターなどでは、『学校にいずれは出ていく』ことが期待されているので、楽でないといって、そのように出口を一つに決めていない大地塾に来ている子が多いということでした。圧倒的な「常識」は、「子どもは学校に行くもの」というものであり、私のように、行っても行かなくてもいいところと考えているのは、圧倒的な少数派、つまり「非常識」ということです。その「非常識」が、不登校の子どもたちと共通するので、お互いに共鳴し合って楽しめたのでした。

 そんな私でも、不登校の子どもたちを理解するのは、大変なことで、大地塾を始めた年は、本当に脱毛、不眠、食欲不振、さまざまな方の手を借りて4年がかりで、何とか理解できたという感じでした。

 ところで、市教委の方は、6月3日付、新潟日報下越版の記事によると、保護者と面会をするとのこと。私は言いました。「不登校の子どもの親御さんとの面会で、親御さんが、本音を話してくださるということは並大抵のことではないと思います。何といっても、市教委というのは、権力を持っておられるのですから、今回のように督促書を送ったことについて、申しわけなかった、ぐらいのことを言わなくては、話し合いにはならないでしょうね。督促書なんていうのは、一番まずいやり方だったのではないでしょうか?」そういうと、相手は、結構「そうかもしれない」と思ったりしている様子なのです。それでも、次に出てくるのは、「保護者の方々から、子育ての方針などを伺って…」などと言い始めます。「不登校の子どもの親で、その子どもの子育て方針など話せる人は皆無だと思いますよ。とことん落ち込んでいますから、とにかく、生きていてくれるだけでいい、というところまでいっているはずですから、子育ての方針、などと言ったとたんに、何もしゃべれなくなると思います」そういうと、ハッとするらしくて、「そうなんですね」となるのです。「もしお読みいただけるようなら、そこらへんのことを書いた私の著書をお送りしましょうか?」というと「そこまでご迷惑をおかけするわけにはいかないから」と丁重に断られます。最後に聞きました。今のポジションに就いたのは、何年前?「この4月から」とのことでした。のちにわかったのは、この3月まで校長だったとのこと。それにしては、現場のことが全然分かっていないという感じだした。

 とにかく子どもが行きたいと言っているのにいかせないという親であれば、義務違反ということが成り立つと思いますが、子どもがどう思っているのか、実は、これもとっても難しいのですが、本当のところ、どうなのかということを調べることを提案しました。親の言い分だけ聞いて、市教委が、カリカリしていては、事態はますます悪くなるばかりだと思います。

 読売と、朝日が、5月30日の新潟版で、紹介していましたね。

 6月11日、不登校の子どもを持つ親御さんに督促書が送られた一件で、先日ここを訪ねてくださった方の一人がやっているという鈴木塾を訪ねてみました。矢代田まで迎えに来ていただき、車で5分もかからないところです。以前講演に来たことがある矢代田小学校のすぐ近くでした。

 そこは、使わなくなった工場の跡地で、広いことにまずはびっくり!部屋が、いくつもあります。小学生だけで、何やら勉強をしている部屋、小学生が、カナダ人の先生から、英語を習っている部屋、かなり広いホールみたいなところでは、中学生がソファーに座って、おしゃべり。床を張り替えて、体育館風になっているところは普通のそれの4分の一ぐらいはあるでしょう。そして、私が通されたところは、事務室兼応接室。20畳以上あります。お母さんたちが、20人近く、その中には、スタッフの男性も。

 この間うちに来た3人の方が宣伝して下さった結果なのか、私を見ようと、または、聞こうということで、集まってこられたようです。といっても、ここのところほとんど毎日様々な取材が入り、みんなかなり疲れているようでもありました。取材に来られたマスコミの方々は、一様に「誤解していました」というそうです。市教委は、たくさんいる不登校児の中から、ここに通っていることをつかんだ人にだけ督促書を渡したのでした。つまり、ここをこの4月から始めた鈴木優子さんが、教祖であるカルト集団、という宣伝を市教委がしているのです。市教委あてに親と子どもが書いた手紙のコピーをいただいてきました。その内容は、実にすばらしく、特に子どもたちの文章は、本当に個性的、学校への不満と、鈴木塾での自主性を重んじた、そして一人ひとりを大切にしてくれる姿勢に感動しています。

 今回誤解を正したいということで、3人のお母さんが、市教委に面会に行きました。その人たちすべてに対して、督促書を撤回したそうです。つまり、親たちは、学校とも話し合っているし、親の考えで学校に行かせていないのではなく、子どもが行きたがらないからだということが伝わったからでしょう。一人ひとりと面接をすると言っているので、9人(子どもは、13人だけど、親は、9人)全部一緒に面会しましょう。全員、鈴木塾にいるので、すぐ連絡できるし、一回で済んでいいでしょう?といっても、「一人ひとりプライバシーがありますから」と言って、大勢とはあいたくないらしいといいます。とにかく一度訪ねてきてくださいと言っても、教委の人は、きそうもない。ただ、理解のある校長は、年休を取って見学に来ると言っている人があるとのこと。

 マスコミに事実でないことを伝えているようで、例えば、3人のお母さんと面会しているのに、「一度も会ったことはない」といい、マスコミの人が、「昨日、本人たちから面会に行ったと聞きました」というと「昨日は、伏せておいたのです」と自分の嘘を認めたそうです。どうやら、全体としてみると、明らかに教委が、「負け」という感じになってきて、逃げ場を失いつつあるようです。実際1990年、91年に福島、石川両県で、これと同じような督促状を送りつけたことについて、教委の方が負けて、謝罪しているということも分かっているのですから。

 お母さんたちの結束力は大したもので、鈴木優子さんを代表からおろして、別の人(親という立場)が、代表になって、鈴木さんは、経営からも手を引くということになったそうです。親の希望で、この4月から、開いたものだということを示すためだそうです。
      
 11日は、障害者自立生活研究会の勉強会で、青木学さんが、新潟市子ども権利条例について報告するということなので、私は、そこで、今回の不登校の子どもの家に督促書を渡した件について話し合いたいと提案しました。それが、認められて、私が、そこで報告するつもりでいました。
 新潟に11日に行くといってあったので、鈴木塾の皆さんは、その前に塾にきてと言われたので、行ってみたのでした。その驚きは、お伝えしましたね。そしてその時に、これから私はこういうところに行くのだけど、一緒に行きます?と誘ったら、なんと6人もの人が行くことになったのでした。鈴木優子さん、男性スタッフの岡島さん、お母さんたちが4人。

 新潟青陵大学がいつもの勉強会の会場です。行ってみたら、会員の参加者は、10人ぐらい。子どもの権利条例というのが、そもそも、ちょこちょこっとでっちあげてしまおう、という感じだったようで、それを聞きつけて、市民として入りこんだ品田浩子さん、(障害を持つ子どもさんのお母さんで、、建築を専門にしており、バリアフリーに改築するときなどに力を発揮してくださっています)が、不登校児、しょうがい児、外国人などマイノリティーの子どもたちの意見を聞こうと言い続けてこられたそうです。それでも、それに耳を傾けることもなく、最後に、アリバイ工作であるかのように、子どもたちヘのアンケートを7000人に実施して、そのままとん挫しているという状況のようでした。その方面では、有名だという福田雅章氏が、検討委員会の委員長、とのことですが、その人の口からこんな発言が飛び出したそうです。「動物愛護条例を作る時、動物の意見を聞かないように、子どもの意見など聞いても仕方がない」そういう人が委員長なのですから、推して知るべしです。

 そういう中で、品田さんたちは、「市民有志案」を作って提示したそうで、その案が配られました。見事に子どもの権利条約の、「子どもの意見表明権」を主体とした構成になっています。

 そのあとで、鈴木優子さんから、今回の全く子どもを無視した市教委のやり方について、報告があり、質疑が交わされました。聞いた人たちは、結構驚き、鈴木塾関係者は、子どもの権利条例が検討されていたということも初めて知った、ということで、お互いに実り多い勉強会になったようでした。お母さんたちからも、学校や、市教委の強圧的な督促書に対する怒りが語られ、マスコミの心ない報道についても語られました。

 しかし今回督促書のおかげで、お母さんたちが、結束で来たこと、運営を自ら引き受けたことなど、実に見事に必要なことをやってのけている姿に感動しました。


医療の心を考える会
          2008,6,14     於、八海山村神社(大崎)

 午前中、夢草堂での「歯の話」が終わると、夢草堂運営委員たちと講師の岡田さんは、一緒に昼食を取って、午後の会に流れて行きました。
 今まではいつもこの会は、お寺を会場にしてきたのですが、今回初めて神道の神社が会場でした。南魚沼市大崎から八海山に上る登山口にある神社なので、八海山の木々からたくさんの気が送られてきているような感じがするちょっと別世界を感じさせる会場に100人ぐらいが県内外から集まりました。

 東京から来られた花園神社の宮司片山文彦さんは、「このような会に100人も人が集まるというのは、すごい」と繰り返しておられました。片山さん自身、毎月講演会、シンポジウムなどを何年も続けてこられての感想ですが、毎月しているのと、年に2,3回しているのとの違いはあるでしょう。それにしても、老若男女、さらには、人種もいろいろで、あとで聞けば、チェコ人も最後まで聞いていて、懇親会にも出たので、どういう経緯で来られたのかがわかりました。何年か前に、上越教育大学で、当時上教大の教授だった太田将勝さんが主宰して、ターミナルケアのフォーラムをされたときに、卓夫がメインゲストで呼ばれ、上越教育大学で、「命の教育を考える会」を主宰している徳丸定子さんと一緒にシンポをしたというつながりで、徳丸研究室の研究員として来ていたのでした。

 片山さんも、八海山の宮司山田泰利さんも、宗教間の対話を追及している方々なので、今回のイベントで、仏教の関係者と対話できることを楽しんでおられる様子でした。袈裟を付けたいつものメンバーもありました。片山さんは、「神道は、タテ社会の宗教です」といい、それは、先祖を神として拝むことだとのこと。そういえば「ご先祖さまに申し訳が立たない」という言葉がありますね。日本人の宗教観というのは、先祖を神として崇めるという感じが強いのですね。どうやら、無宗教ではない、ということがわかってきました。男系男子で相続する天皇一家とつながっている、そことの距離で、価値を測るのが日本人の価値観なのだといいます。

 シンポジウムの一番バッターは、107歳の佐藤茂一郎さん。萌気園のデイサービス「地蔵の湯」の職員二人に介助されながら、歩いて登壇しました。そこに座っているだけで、十分な存在感です。顔が、布袋様そのもの。100年間草履を作ってきた、といって、自分の作った草履を持ってきています。神様に奉納していかれました。茂一郎さんが住んでいるところは、大和町きってのへき地、後山です。ここは、田中角栄さんが、トンネルを掘ってくれたということで、村を挙げての越山会。茂一郎さんの3女が、鈴懸の待機者で、たかひろもいろいろとサポートしていただいている大森ミチさん。今回は、彼女は、すでに予定が入っていて来られずでした。布袋様そっくりの笑顔を振りまいている茂一郎さんに育てられてのミチさんだということ、よくわかりました。後山の人が、街に出てくるのに、彼女(70代後半)が、アッシー君を引き受けて、ボランティア運転手として活躍しているのです。

 その次のスピーカー吉田英雄さんは、鈴懸に入居してまだ1年しかたっていないのに、雑木林を開墾して花壇を作ったり、畑を借りてたくさんの野菜を作り「桐の花」に食材を提供して潤わせています。20年間教員をやり、虚業だと感じて、牛飼いに転じ18年。今年に入って、肝臓がんだと診断されたけど、「見るべきものは見つ」という心境で、今までどおり生きていくと宣言。花壇が土から出来上がるのは5年。そう思ってこれからもそのまま続けていく。という86歳。

 仏教の立場から曹洞宗天徳寺住職の中野尚之さん(41歳)が話されたことはかなり興味深いものでした。彼は、自分の時間ができたら、神道の研究を徹底的にしたいと考えてきたそうです。仏教では、生まれたときから、人間は仏だといわれているのに、なぜ修業が必要なのか?と考えてきた。それは、ほっておくと錆びてしまうからだと思う。座禅を組んだとき、「自分で考えろ」ということを徹底的に仕込まれた。安易に人に聞くな、ということだと思う。そのあと質問する人は、この言葉を意識せざるを得ませんでした。

 そのあと、黒岩卓夫が、認知症グループホームで、「うちに帰る」というとき、その「うち」とは?と考えて出た結論は、具体的な「うち」ではなく、自分の人生の中で一番輝いていた時の人間関係が持てるところ、というような意味なのでは?と提起し、「それなら、自分も、やさしい人に囲まれていれば、母ちゃんがいなくても生きていけると思った」と発言。笑いをさそっていました。 
 吉田さんは、「支えてくれる人がいなくなってさびしい」と訴えたのです。数年前に妻がなくなってしまったのでした。それで、今年の冬には、鈴懸の隣の畑と、その隣の田んぼとの高さの違いを利用して、雪を掘って小さな祠をたくさん作り、そこに夜ろうそくをともしました。最後には、亡くなった妻の年齢の数までこの祠を作って母ちゃんの供養をしていたのでした。

 夜の懇親会は、さくり温泉健康館に場所を移していつものように一人ずつ自己紹介と称して、喋りまくって飲みまくって、ゲストの皆さんは、そこに泊まられたのでした。岡田弥生さんは、そこまでずうっと一緒に参加して、帰って行かれました。


歯の話
        2008,6,14    於、夢草堂

 14日(土)10時からの岡田弥生さんによる「歯の話」は、斎藤久美子さんが亀田から、また、桐鈴会の会報「桐鈴リンリン」の読者で、5年前に一緒にスウェーデンに行った青木孝子さんが川西町(現十日町)から来てくださり、小さな子どもを連れたお母さんや、ご両親などの参加を得て、夢草堂で始まりました。地元の参加者は、ゆきぐに大和病院の歯科医星野さんが来られたことにはびっくりして、驚きの声を上げていました。私は、地元の歯科医さんには来てほしいと思っていたので、かなり早くから、もえぎ歯科とやまと病院には、チラシと本「むしばってみがけばとまるんだよ」をもってご案内に行っていたのでした。星野さんは、大和病院の医者でただ一人、この町の出身で、病院ができた時からずうっと勤務を続けてこられた方でした。まだできたばかりの頃、「歯磨き粉には、合成洗剤が入っている」という事実を知らせたところ、「厚生省が認めたものだから、毒な物は入っていないはず」といったにもかかわらず、調べたらしく、その後しばらくして「確かに合成洗剤が入っていますね。そして、それには問題があることがわかりました」と言われたことをとっても良く覚えています。

 さて、岡田さんの話です。まず、歯磨きは何のためにする?の質問。実は、子どもは、虫歯予防だけど、大人には、歯周病予防、お年寄りには誤飲性肺炎予防ということで、目的ごとに磨き方も違うし、歯ブラシは、一人一人に合ったものが必要とのこと。虫歯がない人?と言われたら、一人手が挙がりました。鈴懸施設長広田セツ子さんの娘亜樹さん、実は、妹の愛さんも、虫歯がないとのこと。珍しい姉妹ですね。「歯磨きはどこでしますか?」洗面所という人と、それ以外という人が半分ずつ。「テレビをみながらするとかいうのがいいですね。ゆっくりできて、よく取れるものね」と岡田さん。でも、歯磨き粉をつけると洗面所ですることになるでしょう?だから、つけなくていいんですよ。とのこと。永久歯が生えてきてからの1年は、特に歯磨きが必要。なぜなら、新しい歯は、1年かけてエナメル質を強くするのだそうで、1年たったら、虫歯になりにくくなるのだそうです。

 「虫歯と癌は似ている」これが岡田さんのテーゼです。時間をかけて進行する、そして早く見つければ止められる、という点が似ていて、遅くなると手遅れで、そうなると進行するしかなくなる。虫歯は、削らざるを得なくなる。削られると歯医者が嫌いになってしまって、行きたがらなくなる。だから、早めに検診に行って、治療が可能な時期に見つけてもらうことを勧めるというのです。そうすれば、痛い治療をしないで済み、なるべく早く検診に行こうということになる。

 歯並び、かみ合わせ、などが悪い人は、体全体に影響があるので、20歳までにきれいな歯並びをプレゼントしてあげてほしい。とのことでした。矯正に保険が利かないのは、おかしいと岡田さんは、ずうっと前から言い続けています。まだまだ理解が得られないみたいですね。

 大和病院の星野歯医者からは、しょうがいを持つ人が、20歳ぐらいで上の歯が虫歯になるというのがなぜなのか?と質問され、岡田さんは、発達しょうがいの方は、特に触られるのを嫌がる場合が多く、説得が利かないので、しばりつける場合もあるとのこと。亀田から来た斎藤久美子さんは、保育園の中に「言葉の教室」があって、ずうっと前からそこで発達しょうがいの子どもたちと付き合ってきているので、皆さんがいろいろと大変だということでした。

 フッ素によるうがいのことや、かみ合わせと、歯並びの関係、歯ぎしり、指しゃぶりなど、多岐にわたる質疑があり、皆さんが、満足して帰られたようでした。斎藤久美子さんからの個メール、了承を頂かないままここに紹介しますね。どうぞみなさんJANJANクレームを付けてください。

>黒ちゃんへ
今日はありがとうございました。
思いもかけない岡田さんのお話に魅了された2時間でした。関心ある内容ばかりで、彼女の講義を受けたいほどです。何年ぶりかに足を運んだ浦佐、すっかり様変わりしてしまっていて驚きましたが、心いっぱいに潤い、気分よく帰って来られました。


南魚沼自立支援協議会
           2008,6,6    於、南魚沼地域振興局講堂

 自立支援法で、しょうがいしゃが地域で暮らすことを保証することが模索されていますが、その中心的存在が、地域の自立支援協議会だということを、これまでに何回か聞いてきていたので、関係者に何回か問い合わせ、私も、メンバーとして加わりたいということを伝えてきました。その結果、6日に開かれる協議会の委員であるということが2日前に伝えられてきました。地域振興局で、2時半が始まりだというのは、どうやら、その後の懇親会の時間から逆算された時間だと思いましたが、とにかくどういう人たちがやっているのかを知るには、懇親会に出ることも必要だと考えて申し込みました。

 南魚沼市には、行政が立ち上げた南魚沼福祉会という社会福祉法人があり、この法人がたくさんの福祉施設を持っていて、南魚沼市に合併していない南魚沼郡湯沢町まで網羅しています。今回の協議会にも、その関係者がとてもたくさん(もしかしたら半分以上)参加されており、この協議会の事務局も、そのメンバーが引き受けています。南魚沼地域でただ一つの相談支援センター(人口7万人につき一つということになっているのですが、南魚沼市と湯沢町を合わせるとちょうど7万なのでした)が事務局です。去年私が、理事長になったときに、あいさつして回ったので、そのときであったかたも何人か見えていました。

 今年の3月に参加した「うおぬまフォーラム」で、「福祉界のトシモト」こと福岡寿さんが、この自立支援協議会の初めての会合を演出して見せて、皆をさんざん笑わせてくれたのですが、そもそもこの協議会というものが、何をする所なのか行政の方や、施設の方々はよくわからない、というよりわかろうとしないと言ったほうがいいのかもしれません。ところが、今回は、新潟県で一番分かっているであろう片桐公彦さんを講師に呼んで、1時間話してもらうという企画でした。彼の話は実にすっきりしています。「障害者が、地域で暮らすには、何が必要なのか、それを作り出すのが、この協議会です」施設の方が、「施設解体」といわれるのでは?と心配しておられるようですが、施設を解体するのではなく、施設の機能を分けて、考えるのです。「暮らしの場」(泊まれる機能)「日中活動の場」(作業所、就労体験などの機能)「余暇・社会参加の場」と3つに分けて考えます。今までは、これらが、すべて、施設の中にあったので、そこから出ないという生活でした。でも、これからは、外の場を利用することもできるようになります。日中活動は、Aで、余暇活動はBでというように選択できるようになります。それも、月曜日は、どこで、火曜日はどこ、という選択も可能です。だから、今までのように、月単位で計算せずに、日割り計算となったのです。

 とのことです。ところが、今まで、施設といえば、人里離れたところに造ってきていますから、そこで生活していた人が、その中ではないところを利用しようとしても、どこも実に遠いいのです。また、よそにどんな所が存在するのか、その情報を入れてあげなくては、知的しょうがいの重い人は、何も選択の余地がないでしょう。片桐さんは言います。「相談支援センターに、地域で暮らすにはどこに行ったらいいのでしょう?」としょうがいしゃ、または、その家族が相談に来ても、社会資源がなかったら、何も紹介できない、これについて、だれかの言葉「なきゃ作る、ありゃ使う」だそうです。片桐さんは、リトルライフというNPOを立ち上げましたが、はじめは、とにかく、家族が、預かってほしいといえば、レスパイトケア(介護者に休養を与えるために一時預かること)ということでとりあえず始めたのだそうです。ところが、必要に応じて、泊めたりしていると、旅館組合から、クレームが、食事を提供していると、食堂の組合から、洗濯をしてあげているとクリーニング業界から、とクレームがつくのだそうです。でもとにかく必要なことから始めることだというので、レスパイトをするには、どんな資格がいるのか聞いてみたら、何も要らないのだそうです。じゃあこれだ!うちには、夢草堂という場所がある、でも、卓夫は、骨董品がたくさんあるから、暴力をふるう可能性がある人は、避けてくれと言います。困ったなあ。

 質疑の時間に、以前からの知り合いで、彼が、町営住宅に入居するときに、支援したこともある車いすバスケットの選手池田広さんが、発言しました。「障害者、という字は、害虫みたいでいやだからということで、障がい者と呼ぶことにして、南魚沼市の文書は、そうなっているのですが、湯沢町のは、障害者となっている」と指摘。それについて、新潟県の保健福祉部の文書もそうなっているので、関係者がこう言いました。「呼び方の問題ではなく、中身の問題なのだから、ということで、変えないことにしたのです。法律の言葉もそうなっているし」それを聞いて池田さんは、「下から上げていって、最後に法律が変わるんだ」と発言を求めることなく言っていました。湯沢の人も県の人と、同じことを言い、委員の一人も、それに賛成の意見を言ったので、私は言いました。「当事者が、いやな思いをされているのだったら、それを大切にしたほうがいいのでは?」そこで討論は終わりになってしまいました。

 一通り終わってから、私が言いました。「片桐さんが言われたように、この協議会は、任命された委員というやり方ではなく、だれでも参加した人が委員、というあり方がいいのでは、と考えています。委員は、今回自己紹介をしましたが、委員でない方々は、それなりの情熱を持っておられるに違いないので、その方々に自己紹介をしていただきましょう」すると、これも、先に紹介した福祉会の方が大半でした。でも、その中に、わが、鈴懸施設長広田セツ子さんがいました。「ヘルパーステーションの名前が、おはようヘルプと言います。朝、7時から、夜9時までやっています。本当は、おはようお休みヘルプと言いたいのですが、」と笑わせて、「ほかの事業所が引き受けない夜の8時から9時というのを365日休みなくやっています」と紹介。後で個人的な話になったとき、片桐さんが、「それなんです。ほかが引き受けないことをやっていかなくては、広がっていかない」と。

 懇親会になってからは、当事者団体の方々とかなり話ができました。


「性暴力被害者支援を考える」
              2008,6,1      於、東京ウィメンズプラザ

 6月1日(日)東京ウィメンズプラザのホールで3時間にわたって、内容の濃い集会があり、250席が満席で、遅く来た人は、入れないという盛況でした。主催者は、NPO「女性の安全と健康のための支援センター」で、ここの会報を海映から見せてもらったことがあり、かなりすごい団体だということは知っていました。それでも、参加してみて、もっともっとすごいのだということを認識しました。
 まずはじめが大藪順子さん、30代のフォトジャーナリスト。コロンビアカレッジを卒業して、フリーのカメラマンとして活躍していた2001年、自宅で就寝中に、レイプの被害にあう。その時、同じアパートに住む男性に助けを求め、警察に行くと、セックス、クライム(性犯罪)という部署があって、事情聴取をすると、病院に送られ、検査、手当、などをしたのち、隣の部屋に行くと、夜中の3時だというのに、カウンセラーがいた。「あなたのせいではない」とまず言われて、ほっとする。3日後に加害者が逮捕され、20年の懲役刑を受ける。アメリカでは、平均性犯罪の加害者は、3〜5年の刑を受け、刑務所内での素行によって、1年ぐらいで出てきては、また犯罪を繰り返すということが一般的。被害者は、終身刑にさらされるのに、加害者がこれでは、かなわない。20年の判決が出た時、被害者の言い分が通って、サバイバー(生き残り)として活躍できる下地ができた。その後、ネブラスカ州に引っ越して、黒人が多い教会に通うようになり、そこの牧師がカウンセラーとなった。「犯人に手紙を書いたら」と提案され、相手がどう思うかと無関係に、自分の思いを書き、投かんした時に、笑いが、出てきた。解放された。ここの教会に通う男性とその後結婚し、子どももいる。詳しくは、「立ち上がる選択ーSTAND」という著書参照。

 次のシンポジウムは、角田由紀子(弁護士)、佐々木静子(産婦人科医師で、まつしま病院長)、佐藤喜宣(杏林大学臨床法医学教授)、三角順子(まつしま病院の助産師)の4人。主催するNPOの理事長が、角田さんで、副理事長が、佐々木さん。このNPOが目指しているものがどこなのかということがよくわかるシンポでした。
 唯一の男性である佐藤さんは、ローマ大学の法医学研究室で、この問題に出会い、日本にも、レイプセンターを作りたいということで、奔走中。中核は、MSW(メディカルソーシャルワーカー)、今、杏林大学病院には、6人のMSWがいる。男性であることで、やりにくいのでは?との質問に対して、「女性でありたいと何回も思った」とのこと。被害者には、なるべく接しないように、他の人に対応してもらっているとのこと。

 まつしま病院には、24時間対応の、SART(対応チーム)がある。センイ(SANE)と呼ばれる性暴力に対応できる医療関係者を養成しているので、この日集まった人たちは、その関係者が、多かったのでは?と思った。
 世界で、レイプが一番多いのは、南ア、次が、アメリカ、イギリス、日本、という順番だと聞きました。きっと身近にもいるのでしょうが、ほとんど話さないので、いないと思ってしまっているようです。

 佐々木静子さんは、学生時代にあったことがあるので、終わってから話に行ってみたら、彼女は、以前仕事を探しに、私の家に来たことがあるというのです。食事もしたし、泊まったとも言っていて驚きました。彼女の高校の同級生が、私の大学での同級生、という関係だったということがわかりました。まつしま病院で、活躍されていることは、知っていましたが、うちに来たことがあるとは、まったく忘れ去られていました。
 日本でも、レイプセンターのようなものができて、誰にも言えずに苦しんでいる人たちの支援ができたらいいですね。


女政のえんNO8−樽川通子さん
          2008,5,31        於、花のえん(渋谷道玄坂)

 31日、足の具合が悪くて、新宿駅のホームから改札まで歩くことをやめたいということで、高速バスで、新宿まで来られた樽川さんを午前中出迎えて、ホテルにご案内して、一緒に昼食を済ませて、フェミ議連の総会、勉強会に参加し、またタクシーで、「女政のえん」会場までご案内しました。フェミ議連参加者が半分ぐらい、後は、男女共同参画にかかわる地方公務員の方々など、30人しか入れない会場は、まさに満杯でした。樽川さんと同じ年の赤松良子さんも「樽川節が聞きたい」ということで参加者としてこられて、いろいろ発言されていました。

 食事をしながら、樽川さんの母親のことを聞いて驚きました。なんと、彼女は、ずいぶん小さい時に、父親が亡くなり、母一人、子一人という環境で育ったのだそうです。このお母さんが、樽川さんとは全然違って、優しくて、おとなしい方だったのだそうです。娘に対して「あなたのやっていることはすばらしい、間違いない」というメッセージだけを送っていたとのこと。だから、いつも、自分は愛されていると思えたし、自信がもてた。でも結婚してから、夫には、そんな自分を批判された、と言っておられましたが、私には、「だから、人に対して攻撃的なところがないのだ」と大変納得できたのでした。はじめのうちは、下諏訪町の中で、そのうち長野県の中で、女性たちをまとめて、そのリーダーとして活躍されたのですが、「私は、嫌いな人というのがないの。それぞれ、これは問題があるけど、これは、その人の長所、というように一人ひとりを見てこられたから」樽川さんでなくては、と言ってなかなか後継者ができなかったことにもつながったように思う。とのこと。

 下諏訪町の区長になるとき、「私は、自分のことは自分で決めますから、お引き受けします」と言って、その場で引き受けたということは、以前お伝えしましたが、長野県のマスコミは、「県下初」ということで、大々的に報道された。なぜ、彼女に区長の声がかかったのかということも、今回わかりました。樽川さんが住んでいる地区の公民館が、古くなって建て替えなくては、という話が出た時に、すぐにこういう提案をした。一戸あたり30万出さなくてはならないことがわかったので、月5000円ずつ積み立てよう、ということで、5年かかれば、30万がたまる。このことがあって、公民館の建て替えがスムースにでき、「区長に」と推薦されることになった。先への見通しがいいのですね。女性議員を増やす品の学校も、10年という期限を切ったというのも、先の見通しがいい樽川さんのやり方だと思います。「どんな組織でも、必ず、続けることが大変になるのでね」とのこと。

 「議員に立候補したりすると、いろいろな攻撃にあったり、いやなこともいっぱいあったのでは?」という質問に対して、こう答えました。「こんな嫌なことがあったのよ、でもあなた立候補して」なんて言ってもだれも立候補なんてしないでしょ?だから、いやなことは話さないことにしている。とのこと。こういうところが、スパッとしていて、実に見事です。
「黒岩さん、娘さんに、長野県に越してきて、と伝えてください。そうしたら、国会議員になってもらいます」などと言われます。彼女の頭の中では、長野県に女性の国会議員がいないことを何とかしたい、という思いがいつもあるようです。
現在は、「サロン下諏訪」という活動をしており、毎週土曜日には、誰かを呼んで話してもらうということを続けています。誰もが話を聞いてもらえるということはうれしいらしくて、すでに50人ぐらい頼んで断られたことはないとのことでした。このサロンは、仲間たちが、交代で、昼食を作って、食堂としても活躍。いつでも行けば人がいるというたまり場にしているそうです。町議などの経験者もここで昼食つくりに参加しているとのこと。

 終わってから、8月で、閉店になる「花のえん」という有機のレストラン、の代わりになる会場があるだろうか、ということで、これからについての話し合いが参加者全員で持たれました。樽川さんは、「会員制にすべき」というご意見を、また、会場は、持ち回りでしたら?という意見が出ると口々に「うちでもやってほしい」と言われ、埼玉、千葉、茨城、新潟、栃木、など名乗り出がありました。世話人会をそのうち開いて、今後のことを決めようということで、別れました。「のんべい」を自称している赤松さんと樽川さんは、「酒が飲めない会場では、面白くない」というご意見でした。二人とも、「酒が飲めないから女は」と言われたくなくて、飲み始めたら、のんべいになったということでした。

「DV被害の現状とDV法」―フェミニスト議員連盟勉強会
      2008、5,31      於、渋谷勤労福祉会館

 「DV被害の現状とDV法」と題して、吉祥眞佐緒(よしざきまさお)さんと黒岩海映の対談。吉祥さんは、名前からの想像に反して、5児の母で40歳、DV被害女性のためのピアサポートグループ「エープラス」主催。だから、相談に来る人たちの具体的な現状を話したのですが、想像を絶する悲惨なケースがたくさんです。
 DVであるという認識が持てるのも大変だが、認識を持って、家を出る決心ができても、出て行ったところが、何もないただ部屋があるだけというシェルターに耐えきれず、戻ってしまうと、さらに夫の暴力はエスカレートする。やっと一人立ちしたと思っても、収入が少なくて、生活保護を申請するが、30代の人が圧倒的に多いので、「若いんだから働けるでしょ?」と言われて、なかなか生保がもらえない。離婚調停の係属中は、所帯主に児童手当が出るので、別居していても、妻はもらえない。アパートに入ろうにも、実家とうまくいっていない場合が多いので、保証人がいない、などで、なかなか入れない。着の身着のままで出てきたけど、置いてきた荷物を取りに行かれなくて困っている人もある。子どもを連れ去られても、親権者は、二人なので、連れ去りが、犯罪にならない。だから、いつも、連れ去られるのでは、と夫の影におびえている。それが、10年も続いている人もある。離婚が成立すると、一般の母子家庭とおなじ条件におかれるが、母子家庭の平均収入は、171万円。就労問題、住宅問題。など抱えながら、相談相手がないケースが多い。そんな夫婦の一番の被害者は、子どもたち。

 黒岩海映からは、ここに集まっている方々の半分は、地方議員の方なので、今年の1月にDV法の第二次改正があり、市町村が、DV対策基本計画と、配偶者暴力相談支援センターの設置が、努力義務になったということなど、市町村の課題について、話しました。意識啓発という点では、小学校の現場から、始めるべき、文科省に働きかける必要ありとのこと。また、同じ市町村のシェルターに入ったのでは、加害者が、見つけやすいので、広域的な連携を可能にして、遠くのシェルターに入れるようにする必要ありとのこと。市町村の窓口に相談する場合が多いので、市町村職員に対する研修の機会が重要。児童虐待防止法に倣って、関係機関の連携による総合的、継続的で一元的な支援が必要。個人情報保護法によって、ほかの機関に情報が流れないという不都合がある。情報管理と守秘義務との課題解決が急がれる。

 DV法第一次改正で、配偶者だけだったのが、子どもにまで拡大、第二次改正で、被害者の親族、支援者にまで保護命令の範囲が拡大した。また、はじめは、肉体的暴力だけだったのに、言葉の暴力まで広がった。とはいっても、裁判に持っていくには、証拠がなくてはならないので、言葉の暴力の証拠が難しい。携帯へのメールは消される可能性があるので、それをデジカメに収めておくとよい。携帯メールを、PCに転送すると、日付がなくなってしまうので、ケータイのまま写真にとる必要あり。電話に録音機をつけるのも手軽。
 保護命令は、申し立てたら、80%が、認容されている。却下される可能性があると思われるときには、ダメージが大きい(暴力がエスカレートする可能性が大)ので、保護命令を申し立てないようにしている。とのこと。

 司会の三井さんからは、つい最近の事件の解説がありました。地方議員が、被害者と共に逃げた子どもの転校先を教えるようにと校長に圧力をかけ、その議員が逮捕された。この校長は、圧力に屈せずすばらしい。と。

 いつもの勉強会なら、30人ぐらいだというのに、この日は50人もが、来られたので、レジュメが足りなくなるというハプニングがありました。4時からの女政のえんと相互に知らせあったので、相乗効果もあったようでした。

三条高校での講演
        2008,5,18、    於、三条高校研修室

 母がこん睡状態だった5月18日、揺光カップルに頼んで、前の年から頼まれていた三条高校のPTA総会後の講演に行きました。その前何泊か、母のところに泊って風邪をひき、鼻水とせき込みで、どうしようかとも考えたのですが、たぶん話し始めれば、治るに違いないと考えて出かけました。実際、話し始めるや止まり、終わって帰ってくるときには、元通りになっていました。

 250人ぐらいの保護者の皆さんが、熱心に聞いてくださり、質疑の時間も手が上がって、とっても鋭い質問が出たりしました。「成長するといわれましたが、成長した先には、何があるのですか?」「たぶんそれは、死でしょうね。死に方は、生き方そのものですから、私としては、一枚一枚衣を脱いで死に向かっていきたいと思っています。あなたはどう思われますか?」「私も同じです」とのこと。

 終わってから、校長室に行くと、司会をしていた女性が、名前を言って、当然私が知っているだろうという感じでした。そして思い出したのは、去年、私に講演依頼をしてこられた方が、その女性だったのです。その時はこんな始まりでした。「7月の選挙で、たかひろさんを応援したのですが、そのことを話したら、友人が、お母さんの書かれた本を読んだというのです。それで、私も読んでみたら、とっても共感したので、是非来ていただきたいと思ったのです。」こんなうれしいことはないけど、いいのかな?また、校長辺りから、キャンセルが来るのでは?と考えていたのですが、とうとう期待外れで、当日を迎えたのでした。その女性は、たかひろのウグイスをしたといいます。そして聞いて驚いたのは、子どもさんが、6人とも男の子だというのです。そのうちの4,5番目が、この高校に来ていて、PTAの役員をしているとのこと。校長先生に、「政治的なかかわりがあるというのに、よかったのでしょうか?」と聞くと「政治の話じゃないのだからいいと思います」との答え。この6人の男の子のお母さんとは、その後文通が続いています。

 その後しばらくして、親から話を聞いた生徒が、図書室へ私の本を借りに来たということでした。母が、私と三条高校に行かせてくれたことに感謝しました。


母の看取り、結婚式、葬儀

 3月半ばごろ、「桐の花」管理者星野淳子さんから「弟さんたちが春休みに来られるのだったら、なるべく早く来たほうがいいと思います。いつ何が起こってもおかしくないと思っていますから。」と言われ、弟たち二人都合がつくときに来てくれました。4月半ばに三途の川を渡り始めて戻ってきたときにも、いつ何が起こるか分からないということで、4月末、連休と、子どもたちカップルが、孫を連れて訪ねてくれました。宇洋は、「いざといえばすぐ来られるから今は来なくていい」と言ってしまったために、いざとなったときには、もう意識がなく、祖母との交流ができなくなっていたのでした。祖母とのお別れができていなかった揺光と宇洋が、こん睡状態になってから泊りに来てくれて、これで母も心残りなく川を渡れるのでは?というところです。ところが、もう一つ難関があります。

 3男乙水の結婚式が、5月24日(土)です。母がそれを避けてくれるだろうと皆が言ってくれているのですが、ただ祈るしかありません。20日は、初めて、全身清拭と、痰の吸引をしてきました。13日に発作が起きたのが、入浴中だったので、一週間ぶりの清拭です。見たところは、まったくきれいではありますが、やはりそれなりのところはそれなりです。まだじょくそうができていないのが、せめてもの救い。心をこめて拭きました。足の先は、すでにチアノーゼが始まっています。体の厚みが半分ぐらいになり、すっかり軽くなってしまっている母でした。

 職員が、全部で10人いますが、だれもがとっても心をかけて対してくれるので、本当にうれしく、頼りにしています。私の体にも気遣ってくれ、何かあったら呼ぶから、泊らなくていい、と言ってくれ、18日から、我が家のメンバーにも頼まずに家で寝ています。職員たちが、北大路さんはおしゃれだったから、浴衣ではなく、素敵なスーツで、旅立たせてあげたい。と言ってくれたので、その日に、職員にスーツを選定してもらいました。葬式も、88年も生きてきたことをたたえるものにしようと考えています。桐の花の続きにある「夢草堂」が会場です。(5,19記)

 24日は、3男乙水の結婚式でした。母の容態が心配で、早くに来た子や私の弟たちの心配をよそに、母は、13日以来何も体に摂取していないにも関わらず、心臓、呼吸ともに続けています。その生命力に感動しながら、この日は、乙水の結婚の披露宴に、十日町当間リゾートベルナティオに私たち夫婦は、弟の連れ合いに母を託して出かけました。

 乙水たちは、東京に住んでいるので、8月に東京で大勢の披露はするということなのですが、今回は、妻の夏美さんの実家が、南魚沼市だということもあって、親族中心の会なので、この近くで行ったのでした。詳細の報告はするつもりがないのですが、夏美さんが、ご両親あての手紙を読み始めると、乙水が泣き出して、涙をこぼれるままにしていたというのです。最後に乙水が挨拶をしたのですが、その時にも、涙をぬぐって「ドラマなどを見ていてもいつも涙が出てしまう」と言いながら、話しました。この乙水の涙は、私の位置からは全然見えなかったのですが、多くの人が終わってから感動したといって、話してくれました。

 「さすが私の息子!」と大層感動してしまいました。生命体としては、女性より弱く作られているというのに、「男は泣いてはだめ」と言われながら育った男性たちは、気の毒だと思ってきました。これまで、そんなに回数が多いわけではありませんが、何回か参加して結婚披露宴で、新郎が泣いたというのは見たことがなかったので、感激しました。でも、最近は、結構あるのだそうですね。それも時代の変化なのでしょう。

 24日は、夫が、「桐の花」に泊まり込むといって、先に帰ってきたのですが、私も、ついさっき帰ってきました。どうも、母の様子が、思わしくないということを聞いたこともあって、一人で運転してきたのです。母は、確かに足や手の先に血が通わなくなってうっ血してきましたし、呼吸がますます弱くなっていますが、おそらく明日も、このままなのでしょう。私は、夫に託して一人帰ってきました。

 子どもたちは、7人すべて、カップルとなったので、子どもたちを寝かせてから14人で、語り明かすとか言っていました。これで、母が亡くなったら、私たちの親はいなくなるので、次は、私たち夫婦の番です。どんなふうに看取られることになるのか、それを楽しみに待つことにします。(5,24記)

 25日2時半に夫が私を起こしに来ました。何を隠そう、私が受話器を枕元におかなかったので、彼は、自分でやってくるしかなかったのでした。私は、すぐにグループホーム「桐の花」へ。確かに母の呼吸は弱くなっていました。30秒の無呼吸には変わりがなかったのですが、その後の呼吸が弱いために、30秒では終われず、45秒となり、70秒にまでなって、その後、無呼吸がなくなりました。「虫の息」とはこういうことか、と思えるような弱弱しい呼吸です。私たちは、一つの布団に寝転んで、寝息に耳をそばだてていました。実に小さい寝息なので、心配になっては起き上がって確かめます。これは、またこのまま続くのでは?と思い始めて、私は起き上がって、居間で新聞を読んでは、部屋に通いました。何回目かに入って行ったら、すぅーという音がしたまま無呼吸になりました。2分も続きます。卓夫を起こしました。懐中電灯で、目玉をみると開いたまま!5時20分でした。

 亡くなる前には、下顎呼吸があるものと考えていたのに、ないままでした。夜勤の職員は、訪問看護の高橋計子さんと、管理者の星野さんに連絡。その間に私は、湿った脱脂綿で口の中をふきました。出ることでること!タンのような少し血が混じったような、いろいろな物がたくさん出ました。すぐに二人が来てくれて、痰の吸引をした時には、ほとんど出ませんでした。それから3人で、便を取り出します。おなかを押しながら、ゴム手袋をはめた手で、描きだします。12日間全く出なかったので、そのまえのがたまっていたのでしょう。すっかりやせ衰えて、ぺしゃんこになったおなかを押すとまだまだ出てくるのでした。それから、背中をふいて、下着と、ピンクのブラウスに、黄緑色のスーツで、お出かけです。星野管理者が、お化粧をしてくれました。これがとっても見事で、亡くなってからのほうが、ずうっと素敵な顔に若返り、見て下さった方々を驚かせています。

 25日夜は、お通夜、26日の10時から葬儀です。ベルナティオからほとんどの親族が午前中にやってきて、遺体を夢草堂に運び、母の部屋の荷物を我が家に運びました。人足が多いので、瞬く間に終わります。夢草堂は、お花で覆われました。色とりどりの華やかなお花に皆さん驚かれていました。今夜は、ゆっくり寝かせてもらいます。(5,25記)

 前日の雨がすっかりあがって素晴らしいお天気の下、26日夢草堂での北大路隆子とのお別れ会が行われました。夢草堂専属の在家僧侶榎本宗俊さんの御経、その後二人の方の弔辞。はじめは私の友人で、鈴懸施設長の広田セツ子さんの弔辞です。
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 私は、娘が、大地塾にお世話になったという関係で、15年ぐらい前からおつきあいをしています。不登校の子どもたちの親の会で、秩子さんからいつも聞いていたのは、「親は子どもを愛しているからいろいろとするのですが、そのことが、子供から見たら、親に愛されたとは思えない」ということでした。それは、秩子さん自身が、隆子さんとの親子関係の中で感じてきたことであり、不登校の子どもの親へのメッセージでもあったと思います。
 鈴懸に入居された隆子さんが、グループホームに移られるちょっと前のことです。玄関から一人で押し車を押して出て行かれたので、追いかけて行ってみました。するとすぐそこに証券会社ができたから、そこまでいってくるというのです。秩子さんに頼めばいいのでは?というと『秩子はあてにならないから』というのです。浦佐には、証券会社はないので、一緒に行ってみましょうと言って、車でドライブをしているうちに、隆子さんは証券会社のことを、すっかり忘れてしまわれました。こういうことがあって、隆子さんはグループホームに移られたのですが、その後、隆子さんがなくなるまでの秩子さんの親孝行ぶりは、皆さんがご存知のとおりです。
 大地塾で秩子さんがいつも言っていた「親は子どもを愛しているが、子どもは愛されているとは思えない」という言葉は、私のなかで変わっていきました。「こどもも親を愛している。親がこどもを愛したと同じくらい」。秩子さんと隆子さんをみていて、そう思いました。

 大地塾で隆子さんと何回か会った子供たちからメールが届いています。これを紹介して弔辞とします。
「隆子さん、突然の悲報に接し、未だに信じることができません。大地塾時代、それぞれの悩みを抱えていた私達に、隆子さんは優しく声をかけてくださり、『自分らしく生きればいい』と教えてくださいました。
いま、私達はそれぞれの人生を歩み始めていますが、隆子さんが教えてくださったこと、隆子さんとお会いできたことを、決して忘れません。どうか安らかにお眠りください。

平成20年5月26日
大地塾生  広田愛 目崎美絵 小林 みちる あゆみ
 次は母が住んでいた「桐の花」管理者の星野淳子さんの弔辞。

 4年前、桐の花ができたときからのお付き合いです。そのころは、入居者に対して『あなたシャツが出ているわよ。そんな恰好していたら、駄目じゃない』というような怖いところがありました。それが、職員たちが、心をこめていろいろとやってくれたことによって、だんだんに丸くなって、穏やかになってきたのです。下のお世話をしていた時『あなた、こんな仕事をしていていやじゃない?』と言われたことがありました。『この仕事が好きでしているのですから』というと、『あら、偉いわねえ』と。
 今回、北大路さんには、床ずれが、どこにもできませんでした。これは、職員たちの努力です。本当によくやってくれました。
 北大路さんは、歌が好きなので、よく一緒に歌っていました。そのうち、ハーモニカが、上手だということがわかって、ハーモニカを買ってきました。いつも、伴奏してくれていました。
入居者の方々に、どのような死に方をしたいかとお聞きしています。北大路さんには、『目黒で死にたいでしょう』とお聞きしたら、『あそこは、孫が住んでいるから、私は、ここでいいわ』といわれました。「How are you?」というと「I'm fine」と言ってまわりを楽しませてくださいます。そんな北大路さんが、おられなくなるというのは、本当にさびしいです。
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私の喪主としてのあいさつです。
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 3人の子どもの中で一番反抗したつもりの私が、母の人生最後の9年を共に暮らしたということに、そしてまた、こうして喪主を務めていることに感慨を覚えます。母は、1919年に新橋で生まれ、3歳の時に関東大震災で、焼け出され、浦和に転居します。そのころすでに、父親が、別の女性と生活していたということなどから、経済的に苦しい生活が続き、女学校2年で、学費が続かなくなって退学します。このことは、とても残念だったと見えて、今回亡くなる直前に私のインタビュー「もう一回生まれ変わるとしたら、どんな人生にしたい?」に即座に答え「研究者」でした。「何の?」「わからない」とのこと。母は、女学校を中退したということによるのでしょう。大変な学歴コンプレックスを持ち続けていました。専業主婦であることについて、常に愚痴をこぼしていたので、私は、絶対に仕事を持ちたいと思い続けていました。そういう意味では、反面教師として、大きな役割を演じてくれました。母も、今の時代だったら、子どもたちを保育園に預けて、仕事をしていたに違いないと思っています。

 東京の目黒で、父が亡くなり、一人暮らしになって1年過ぎたときに、私たちが、ここにケアハウスを建てることになりました。その時、母は、こちらに来る決心をし、引っ越してきました。4ヶ月間私のうちで暮らしてから、ケアハウスに移りました。私は、母をかなり受け入れられるようになったと思ったから、こちらに誘ったのですが、実際に来てみるとまだまだけんかが絶えませんでした。まだ、ケアハウスにいるころ、広田さんの話にあったように「秩子はあてにならない」という私でした。だから、何とかして、母を受け入れようと思って、沖縄の友人のところに何泊かして相談してきたこともありました。それが、星野さんの話にあったように、グループホームに移ってから、母がどんどん変わっていきました。それは、職員の皆さんの心をこめた対応によるものと思われます。一人ひとりを大事にして、お茶や、汁物は、熱くなくては嫌という母には、冷めると取り替えてくれたりというような配慮のし方でした。職員の皆さんと母との関係がどんどん良くなって、母はとっても穏やかになり、そのおかげで、私も、受け入れることが容易になりました。この9年間というものは、私が、母を受け入れるのに必要な年月だったような気がします。ここにいる限り、毎日欠かさずここにきていました。でも、そのたびに「私がここにいることがどうしてわかったの?」と言っていました。自分がいるところがわからなくなっていたのです。

 2年前に心筋梗塞の発作があり、その後も、心不全などが続き、今年の1月ごろから、食欲が落ち、職員の方々が、いろいろと工夫をして食べてもらおうとしたのですが、なかなか増えることはありませんでした。3月初め、星野さんから、「いつ逝ってもおかしくない状態だから、会いに来る方があったら早いほうがいいと思う」と言われて、弟たちは、3月4月に会いに来ました。私の子どもたちも、4月の末から、5月初めにほとんどが会いに来て、会話をしながら、お別れができました。実は、24日が3男の結婚式だったので、お葬式が、前になるか、後になるか、と心配していたのです。ところが、結婚式が終わった翌日の朝亡くなるという、見事さでした。そのおかげで、十日町のベルナティオに泊まっていた親族は、そのままこちらに来てくれることになりました。母はきっと一番親族にとっていい時まで、待ってくれていたのでは?と思われます。

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 おトキのときに、参加者が一人ずつスピーチをしました。私の兄弟とその子供たち、私の子どもたちと孫たち、のほか、長野、埼玉から、私のいとこたち、それから、当地の友人、と中学時代の友人などの話を総合すると、母にとって一番大切だったものは、小学校の時の通知表だということが判明。私の子どもたちのみならず、そのガールフレンドや、私の中学の時の友人にまでそれを見せていたということがわかったのでした。ところが、認知症が始まった時、萌実が、演劇部の顧問として、劇に使うから貸して、と言ってきたときに、どこを探しても見つかりませんでした。グループホームへの引っ越しの時に、なんと、げた箱の中から出てきたのでした。彼女にとってそんなに大事だったものも、げた箱に入れるということで、自分の中から捨て去ったのでしょう。それが、「桐の花」に行ってからの変化になっていったのかもしれません。


えにしを結ぶ会
         2008.4.26    於、日本プレスセンター

 大熊由紀子さんが、朝日新聞社を辞めるときに、彼女の知り合いの人たちが集まって始まったこの「えにし(縁)の会」。2001年5月の第一回の時に参加したきり、その後毎年、何かとぶつかっていかれないでいました。今年は珍しく4月に行われるためはやくから、申し込んでいました。

 申込者が殺到して、かなり早くに締め切りというメールが流れました。いつも会場は内幸町のプレスセンターですが、450人で締め切ったとか。これに参加するという方の多くは、どこかで講演などをしている方なので、参加者名簿を見て大熊由紀子さんが、テーマを決めて壇上に上がってもらう人を決めるというやり方です。

 第一部は、「社会保障のこれから〜経済財政諮問会議の呪いから逃れるために〜」
尾辻秀久元厚労大臣、堂本暁子千葉県知事、坂本昭文鳥取県南部町町長、樋口恵子さんがコーディネーター。尾辻さんは、個人的恨みも含めて、学者二人と財界人二人だけの経済財政諮問会議が、いかに横暴であったかということを具体的に話しました。「それは、今の法律ではできません」というのに対して「法律なんかそれに合わせればいいんだ」と学者が言うので、それは重大問題だと追求したら、議事録から消されたこともあるとのこと。とにかく、社会保障費を毎年220億減らすという至上命令で、絞れないところからまで絞った結果が、今の格差社会となってしまった。財界は、日本をアメリカ型にしようとしているが、日本はもっと優しい国だった。これからは、もっと助け合いの日本にしていきたい。とのこと。

 坂本さんから、これからは、施設を緑豊かな地方に作ってほしい、との提案がなされたけど、堂本さんから、下町で生活してきたお年寄りは、みどりよりも下町がいいという。慣れ親しんだところがいいのでは?と反論。

 樋口恵子さんは、先日来取り組んできた介護職員確保のための法律が、前日通ったという報告と共に、「でも、これは、民主党が作った法案をみんなで骨抜きにしてしまったため、今のところ『絵にかいたモチ』でしかないが、これを本当の「モチ」にしていこう」と呼びかけた。

 第二部との間が、「えにし結びたい・む」で、40分席を立って名簿を片手に会いたい人のところに会いに行くという時間です。知り合いの人たちがたくさんいました。市毛えい子元衆議院議員、山田正人さん、上野千鶴子さん、羽田澄子さん、浦河ベテルの家から、向谷地さんご夫妻などなど。

 第2部は、「医療崩壊の真実」
先日ご紹介した資生堂の岩田喜美枝さんが、元厚労省局長、今、小児科医の母として、医療現場の労働条件を告発して、短い時間でたくさん話そうということなのでしょう。手話通訳の方がとっても大変そうでしたが、とにかく、医療現場を何とかしなくては、とみんなが思った時間でした。

 午後1時から、4時半まで、が終って、第3部は、場所を変えて、軽食を取って始まりました。4月26日発売の大熊由紀子著「恋するようにボランティアを〜優しき挑戦者たち」に登場している方々が、スピーカーでした。

 戸枝陽基さんは、知多半島の半田市で、大判焼きと蕎麦屋を社会福祉法人「むそう」として始めました。「自立支援法の規制緩和のおかげ」と言っては、「自立支援法こそ諸悪の根源」と考えている人たちから、袋叩きにあいながら、半田駅前商店街の空き店舗で、店を始めることができたのでした。「商工会の人も、行政の人もみんな協力的」と戸枝さん。「役人は、役に立ちたいから、役人になったのだから、今まで一度も嫌な思いをしたことがない」と言い切る戸枝さん。
「ふわり」という会報には、楽しそうな当事者のみなさんの写真がたくさんある。

 雲仙コロニーの田島良昭さんは、雲仙コロニーを解体してグループホームを作っていたのだが、今では、そのGHを解体しているという。好きな人と暮らすという場を作っているとのこと。結婚というのか、言わないのかは、いろいろあるとはいえ、好きな人と新しい家庭を作るという形での生活が始まっている。「浅野史郎なんていうののおかげで、ちょっと寄り道してしまったけど、」と言いながら、今では、古巣の雲仙で、楽しそうな活躍をしているようだった。浅野史郎は、そのすぐ目の前に座っていて、タイムキープを自ら買って出て、まさにボランティアで時間が来そうだと立ち上がって、「あと30秒」とかいう役目。彼が宮城県知事だった時に、この田島さんを副知事にするという提案を何回かし、そのたびに否決され、とうとう田島副知事は実現せずに終わりました。

 門屋充郎さんは、帯広で、精神病院から患者さんを救出して、街での暮らしを支えている。どこかで聞いたことがあると思っていたら、「週刊金曜日」の4月18日号に大熊一夫さんが、「精神病院をぶっ壊した国イタリア」の連載最終号で、日本にもモデルがあるといって紹介していたのが、この門屋さんだったのです。

 この第3部のコーディネーターは、大阪ボランティア協会事務局長早瀬昇さん。この方の話も面白かった。彼は、Volo(ラテン語だそうで、ウロと読むのだそうです)という雑誌を出しています。これは、ボランティアの語源で、「恋するようにボランティア」の出所だということで、「好きでやる」という意味。それが、Moloとなると好きでもないけどやる、Noloは嫌だけどする。ということなのだそうでした。

 上の3人は、みんな施設の職員だったのをやめた方々でした。戸枝さんが、面白いことを言っていました。施設を辞めてから、そこに入居していた知的障害を持つ人が、ものすごく喋りまくるので、どうして前には喋らなかったのか聞いてみたら、「戸枝さんだって、中にいたときには、しゃべられたって困っただろう?何もできないはずだから」と言われたというのです。入居者はちゃんと分っていたのです。

 第3部には、その後がありました。ここからは、当事者の登場です。
まず、大変目立つ姿の3人の男性。3人とも、髪の毛が、白または、黄色。皮膚の色も白い。アルビノというのだそうです。メラニン色素がないという障害だそうで、そのために皆さん弱視。今では、インターネットのおかげで、オフ会を開いたりして、一人ではないということがわかってきたけど、誰も知らないころは、母親が責められて、大変だった。今、セルフヘルプの活動を始めたので、母親孝行にもなっているとのこと。

 その次は、千葉の聾者の代表として差別禁止条例を作る委員会に入っていた植野慶也さん。彼は、手話で語り始めました。「聾者協会ができて60年がたつけど、今までどこからも声がかかったことはなかった。今回初めて仲間に入れたのは、堂本さんのおかげ」目の前で、ずうっと聞いていた堂本さん。これを言葉に訳してくれるのが、手話通訳の方。「犬でさえ、法律ができているのに、手話通訳の方についての法律がない。したがって、資格も問題にされない。ぜひ、手話通訳の法律を作って」と植野さんが訴えた。

 次は、中2の時に父が自殺してしまったという山口和浩さん。「母は、離婚していたので、父と二人暮らし。自殺の第一発見者が私。」あしなが育英会のおかげで、大学を出て、Noloでかかわり始めたのが、「家族を自殺で亡くした」人たちの自助グループ。まだ、Moloぐらいにしかなっていない、と。とにかくひとりじゃないんだということを伝えていきたい。「ぼくのお父さんは自殺した」(そうえん社)を出したそうです。

 フロアから、山本孝さんの妻が発言。山本さんは、去年12月に亡くなったばかり。まだ涙が収まらないままのゆきさんでした。山本孝さんは、もともと兄を事故で亡くしていたので、あしなが育英会にかかわり始め、大学卒業してからも、ずうっとボランティアを続け、そこから国会に出て行き、もっぱら、福祉関係の立法にかかわってきて、最後に、ご自分のがんを国会で披瀝して、がん対策基本法を成立させたのでした。

 フロアからは、浦河べてるの松本寛さんが、「ぼくは、中学時代、将来なりたいものということで、統合失調症と言いました。今は、べてるで幸せ研究所をやっています」向谷地夫妻が隣でにこやかに聞いていました。

 この第3部は、ボランティアの方ばかりだったのですが、不思議なことに、今回壇上には、男性ばかりで、女性は一人しかいませんでした。その方は、安岡厚子さん、練馬に「十人十色」という今で言う宅老所のようなところを15年も前に作ったという方でした。制度が、後を追っかけてきたという感じだったようです。

 浅野史郎さんが、まるで強迫するかのような迫力で本を売っていましたが、私は、持つのが重いので、家に帰ってからと、27日アマゾンに注文しようとしたのだけど、まだアマゾンに届いていないようでした。「恋するようにボランティア」です。26日が、発売日とのことでした。


山本美智子さんのお話
      2008,4,12     於、夢草堂

 12日(土)午後、夢草堂で、山本美智子さんのお話がありました。桐鈴会の会報「桐鈴リンリン」を読んでいつも「行ってみたい」と言っているので、「来るならあなたの話、聞かせてよ」ということで、この日それが実現しました。チラシには、こういう文章が踊っていました。
「34歳で結婚、二人の娘を連れて48歳で夜逃げ。60歳で大学生。62歳で再び花嫁に!」これだけで十分波乱万丈な人生が想像できるでしょう。私が、大地塾をしている時、「親子お泊り会」というのを毎年していたのですが、そのたびに新聞に「ボランティア募集」と出していました。そこに引っかかったのが、木の間美智子さん、すっかり不登校児たちと仲良くなってしまって、新年会や、ディズニーランドにも一緒に行ったとか。

 私より先に、卓夫のことを知っていたのだそうです。彼が始めた「医療の心を考える会」の第一回目から会員として参加していたのだそうです。私と出会ったとき、その卓夫の妻だということは知らなかったとのこと。自分でいろいろな情報を取り寄せて、必要と思われるところには、顔を出していたのですね。一番驚いたのは、国連の専門機関で、ユニフェムというのがあります。発展途上国の女性を支援するための組織です。それができた時から、会員で、年会費2万円を母子家庭の時から払い続けてきていたのでした。

 初めの結婚相手は、「マザコン」の人で、夜逃げして年末にアパートに引っ越したら、夫が迎えにきた。子どもたちにお餅の一つも持ってこず、ちょっと待っていてもらったら、その間にいなくなっていた。すっかりあきらめがついて、3人の生活を始めた。子どもが大学に行く、留学する、などのときには、銀行から借り入れたり、いよいよ困っていると、友達が、へそくりを貸してくれたり、日頃人の役に立つことをしようと心がけていることで、いざという時には、助けてもらってしのいできた。のだと私には思えました。

 子育てが終わって、大学生(通信教育で)になっていたら、お見合いを世話され、じいちゃん、父さん、せがれさんと3人の男だけ家族に「じいちゃんの世話をして」という要望にこたえて、魚沼市旧広神村に嫁いできた。5年じいちゃんの世話をして見送った。田んぼにもち米を植え、餅をついて、その餅を売る、というのが、生業。実においしいおもちです。私のお歳暮は、このお餅なんです。1995年、私が初めて参議院選挙に立った時、広神村の山本美智子さんからお米が差し入れされ、ビックリ!電話したら、結婚したから名字が変わったというではありませんか!その時62歳。7月に結婚してすぐに差し入れを下さったことになります。選挙は、確か7月23日だったはず。

 彼女の意欲的、後ろを振り向かず、やろうと思ったことはやってしまう迫力、みんなが圧倒され、でも、なんだか彼女の明るさに元気づけられ、いつまでもそこに浸っていたいような心地よさを感じながら終わりになったのでした。話のあと、彼女が作ってきた自家製のおカキを食べながら、自己紹介かたがた感想を述べ合い、それぞれが思いを胸に、帰路につきました。


グループホーム入居者にとって「家」とは何か?
     2008,4,10    於、グループホーム「桐の花」

 うちのグループホーム「桐の花」でタイトルのような勉強会が開かれました。卓夫が次のように問題提起をしたのです。老人ケアの道しるべとは何か。それを理解するためにその理念として、安心、尊厳、希望をキーワードとしたい。この趣旨に沿ってグループホーム「桐の花」の住人の気持ちを検討する。
 というのは、卓夫は、萌気会がグループホームを経営しているために、「開設者研修」を受けなくてはならず、それには、自分の経営でないところに行って実習をするというメニューがあり、運営が別組織なので、社会福祉法人桐鈴会のグループホームで実習をしたのでした。その報告をもとに語り合いました。

 この「桐の花」には、私の母隆子が、開設の時から、入居しています。3年半前に隣のケアハウスから認知症が深まったので、引っ越してきたのでした。彼女は、「うちに帰る」と言って玄関から飛び出すというようなことが、はじめのころはよくあり、今では、足や、心臓の具合で、飛び出すことはできないけど、私が、行った時に昼寝から目覚めて「いいところへ来たわ、今、うちに帰るところだから」と言ったりします。その「うち」というのが、はじめのころは、ここに来る前に住んでいた目黒でした。ところが、その後、「新橋」(生まれて4歳の時に震災で焼け出された)「浦和」(小学校のころのすみか)などに変化します。卓夫のレポートでは、隆子さんだけが「うちに帰る」というのは、地元ではなく東京にいたからそういうことになったのだろうか?というと、職員たちは、口をそろえて、「すべての人がうちに帰りたい」というといいます。
 それから、一人ひとりにとって、「うち」とは何を指しているのか、個々の検討に入りました。9人の入居者全員が、女性です。99歳、98歳が二人、平均年齢は、91,3歳。その人たちの「妄想」ということになるのですが、子どもを追いかけて叱っていたり、夫に夕食を作らなくては、とか、昔自分の役割だったことをしようとしているのだそうです。職員たちは、よく一人一人のつぶやきをキャッチしていました。「夫がのんべいで、結婚しても良かったことは何もなかった」「夫の教え子たちが来るから御馳走をたくさん作らなくては」。「隠居してから、夫と菊作りをしたのが楽しかった」。「うちは、動物の医者だったから、いい生活をしていたの」という人の子どもたちが来ると、本当はとても貧乏で、大変だったということを聞きます。どうやら、苦労は、みんな忘れて、楽しかったことだけを思い出しているようだとも。私の母は、私には、夫の愚痴をさんざん聞かせていたのに、「やさしい人で、また生き返ったら、この人と結婚したい」と言ったそうです。みんなそうして、人には、愚痴を言わず、いいところを見せようとしながら、生きているんだということがわかってきました。

 そして、彼らにとっての「うち」とは、自分の人生で、輝いていた時の人間関係があったところ。ということなのでは?というのが結論でした。そして、何人かの人は、うちに帰りたいけど、うちには帰れないことを納得しているということです。私の母も、話していると帰るところがないということを理解したように思えることもあるのですが、今いるところが、自分の「うち」だとは、絶対に思わないのです。職員たちの素晴らしい処遇にも関わらずです。「いつ退院するの?」「いつまでもここにはいられないわ」が口癖です。

 でも「安心」とは?それは、人的環境なのだろう。安心できる「ひと」と一緒に暮らす場が「うち」といえるのでは?私は、いつも、一人ひとりを大切にする素晴らしい職員たちに囲まれて、母は、今までになく安定していて、穏やかになっていると感じています。このように安心が保証される時と場こそが「うち」ということになるのでは?私は、これからも毎日「ここがあなたの『うち』なのよ。優しい人ばかりいるでしょ?」と繰り返していこうと思います。
 この方々にとっての「希望」とは?についても語り合いました。その日その日の満足ということになるのか?
 「尊厳」とは、その人らしさを失わないということか?などなど時間のたつのも忘れて語り合いました。

 長崎暢子さんからこれについての問い合わせがあり、それへの返事が以下です。

 ありがとうございます。とっても嬉しく拝見しました。ケアハウスとグループホームは、かなり違うものです。ケアハウスは、軽費老人ホームの個室バージョンで、自立可能な老人の食事付きアパートです。一般的には、介護度が、3になったら出て行ってもらうとか、部屋にポータブルトイレを置いてはいけない。というような規則を作って、障害が重くなったら出て行ってもらう方策が考えられています。ところが、うちのケアハウスは、もともと「終の棲家」と言って作ったので、高齢化に伴い、介護度が高い人がどんどん増えています。食事を自分で運べない人が、すでに半分ぐらいになっています。はじめのうちは、必要な方にはヘルパーさんに来てもらって対応していましたが、朝早く、夜遅く来てくれないので、ケアハウスの中にヘルパーステーションを作って、「おはようヘルプ」と名付け、朝は、7時半から、夜は9時までというかなりきつい労働条件でやっています。

 ということで、なんとか、介護度の高い人でも、ヘルパーの力を借りながら出て行っていただくことをせずに乗り切ってきたのですが、認知症がひどくなって、どこの部屋でも、自分の部屋だと思って入り込む人が現れ、みんなが在室中もカギをかける事態に至り、とうとうその方に特養(特別養護老人ホーム)に移っていただくことになってしまいました。そこで、ケアハウスの隣に認知症対応のグループホームを作りました。9人定員のグループホームです。ここでは、労働といえば、料理に関すること、皮をむき、野菜を刻み、洗濯たたみなど。また、タオルを半分に切って、おしりふきに使う。などできることを入居者の方々にやっていただいています。これらは、とても喜ばれます。長崎さんがおっしゃるように、「尊厳」にかかわることで、自分も役に立っている、という喜びが感じられます。私は、今、歩いて7分ぐらいの所なので、毎日歩いて行くのですが、道の両側につくしがたくさん出ているのを摘んでいきます。これの袴とりをとても喜んでしてくれるのです。そして職員が料理に使ってくれます。ここは認知症の人しか入れないところです。入居者9人に対して、職員も9人です。夜7時半から、朝の7時半までは、夜勤の職員が一人です。昼間は、3人で対応します。

 ケアハウスは、元気な方々は、いろいろな活動をしています。隣の畑を借りているのですが、その畑をやってくれる人が何人もいて、野菜がおいしいし、安上がりになるため、おかずの品数が増えるし、近くのほかのケアハウスから移ってきた人は、一様にここは食事がおいしいといいます。投書箱があって、いろいろな意見を書いてもらい、食べる人の要望を取り入れているということもありますが、畑の野菜効果はかなりあるといいます。また、隣の林を開墾して畑にして、花を植えたり、野菜を作ったりしている人もあります。そうかと思うと、談話室というか、お茶会などを開く共有の部屋があって、そこには、役員たちが持ち寄った図書コーナーがあるのですが、その本の整理をしてくれている人がいます。元教員だったかたで、作者の頭文字で並べているらしいのです。今日は、行事があって、そこに参加して、自己紹介ではこう言っていました。「きょうは仕事を休ませてもらって来ました」と。本当に長崎さんがおっしゃるように、自分で作り出した仕事ができるということがとってもうれしそうなのです。昔NHKに勤めていたという方は、近くにある幼稚園や、小学校に読み聞かせにボランティアで行って居ます。みんなが、なんとかして人の役に立ちたいと思っているんですね。習字を教えている人もあります。ケアハウスは、食事が出てくるだけの老人アパートなのです。入居者は、30人です。

 認知症の人たちは、お金を払って入居しているということをすぐに忘れてしまうので、「金も払わんで世話になってわーりーのう」とよく言っています。だから、皮むきなどを頼まれるとうれしそうなのです。朝早くに起きて、洗濯たたみをしてくれたり、とにかく働くこと大好きな人が多いです。職員はなんとかして、してもらう仕事を作り出しています。


うおぬまフォーラム
        2008,3,22    南魚沼市コミュニティーホール「さわらび」

 家から歩いて5分のところにある「さわらび」ホールで、うおぬまフォーラムが開催されました。基調講演が、厚労省障害保健福祉部専門官、大塚晃さん。彼は、国立高崎コロニーから、厚労省に抜擢されて、自立支援法を作るという役目を与えられていた方だということがよくわかりました。出来上がったので、この3月退官して、上智大学の福祉部に移られるということで、昨日が、彼の専門官として最後の講演だったのでした。始まる前に控室にあいさつに行き、「うちの施設は、ここから歩いて3分だから、ぜひ見ていってください」と提案。では、終わってから行く、ということで、はじまりました。

 しょうがいのある方を施設に中に閉じ込めるのではなく、地域に出て、普通の暮らしをしていただく、というのが自立支援法の趣旨、それを支えるのが、地域で作る自立支援協議会だということで、昨日のメインテーマが「おいしい自立支援協議会の作り方」というものでした。自立支援法については、たくさんの批判があったので、経済的な負担を緩和してきたわけですが、その具体的な説明にかなりの時間を割かれていました。私の心に残っていることは、刑務所に入っているしょうがいしゃのことでした。山本譲司さんの本(獄窓記)に出てくるように、娑婆に出ても暮らしていけないから、再犯を犯してまた戻ってくることが多いということを何とかして解消したい、と言っていました。住所不定になっている人もかなりあるので、その人たちの受け入れは、地域の自立支援協議会では、無理なのでしょうから。
 最後に質疑の時間があり、毎月私の家に現れて、私にとっての「精神障害に関する『先生』」である曽根晴雄さんが、精神しょうがい者としての自らの体験を披露しました。

 午後からは、二つのシンポジウム。「わが町の自立支援協議会」柏崎、魚沼、そしておなじみの福岡寿さん。いつものことながら、福岡さんの話は面白い!「福祉界の吉本」といわれるゆえんです。この日は、「自立支援協議会」をアリバイ工作のように立ち上げる行政の姿をリアルに描いてくれ、それが笑いを誘ったのでした。とにかく集まってみましょう。ということで、自己紹介程度でお茶を濁す、というやり方をしたら、それですっかり期待がしぼんでしまう。とにかく、個別の事例について、一つでも、解決していくということがこの協議会の存在意義だということ。自分のところでは、二つの成果がある。ということで披露しました。そのうちのひとつ、家事援助というのは、掃除や洗濯だけで、当事者と一緒にするということができない。それをすべて身体介護、にすれば、本人と一緒にやれる。ということで、それを行政に認めてもらったというのです。これはすごく大きいこと。確か、身体介護は、家事援助の倍額なのですから、ヘルパーさんにとっては、同じ時間働いて、倍額もらえるのですから。いや、ヘルパーさんにとってはきっとあまり変わらないかもしれないけど、ヘルパーステーションという事業所の収入が倍になるのです。

 二つ目のシンポは、上越市の行政、相談支援センターの相談員,NPOリトルライフの理事長片桐公彦さん。コーディネータを務めた福岡さんは、上越市に、糸魚川、妙高両市をも含めた上越圏域の拠点として、高田盲学校跡地に、上越地域福祉総合拠点という膨大な施設を来年2月にオープンさせるということにかなり驚いていました。片桐さんや、このシンポのシンポジストたちの連係プレイが効果を発揮したからなのでしょう。実り多いものでした。

 私は、今回のフォーラムの主催者に、桐鈴会も、しょうがいしゃ問題に取り組むことになったので、自立支援協議会に入れてください、と頼んできました。
終わってから、県の福祉課長武井さんと、大塚さんを歩いて桐鈴会に案内しました。武井さんも、この3月で、転勤。教護院に行くのだそうです。武井さんは、本当に現場をよく知っていて、心のあるお役人さんなので、本庁からいなくなるのは、さびしいことです。でも、彼のことだから、どこでも変わらずしょうがいしゃの立場で取り組んでくれることでしょう。

 福岡寿さんの話で、もう一つ付け加えておきますね。長野県中野市、では、保育士、臨床心理士、保健師など7人で作るチームで、市内の保育園、幼稚園、小学校などを回ることになったのだそうです。そこにいるしょうがいを持った子どもについてのカンファランス(ケア会議)を開くということです。保育園や、幼稚園から小学校に進んだ子どもについても、そこで継続して問題点を出し合えるということでした。

 今回福岡さんは、次の予定があって、桐鈴会を案内することができなかったのですが、帰りに最近出たばかりの本を下さいました。「地域生活のススメ」。とっても面白い本です。またたくさんとりよせて押し売りすることにしましょう。1000円という安いものです。2003年に田中康夫知事に抜擢されて、県の社会部障害福祉課専門員となって、西駒郷のコロニーから地域へ入居者を返す事業に取り組んだ軌跡です。


WINWIN勉強会、岩田喜美枝レポート
      2008,3,19   於、銀座

 WINWIN(女性議員を増やす会)は、1200人の会員を擁していたころに比べて、すっかり小さくなってしまっていますが、毎月1回、住田裕子さん(「行列ができる法律相談」で一躍名をはせているらしい)の法律事務所で勉強会をしています。いつもは、日帰りで最終新幹線(20:52東京発)で帰ってくるので、途中で抜けるのですが、19日は、休みの前日だったので、東京に泊まることにして、休みには、孫たちと遊ぼうという計画でした。

 この日は、厚労省雇用均等・児童家庭局長を退職して、自ら資生堂に移られた岩田喜美枝さん(この方の退職金が寄付されたおかげで「ベアテの贈りもの」が出来上がったのでした)による「企業における女性の活躍についての問題提起」というレポートがあり、その後みんなで語り合ったのでした。岩田さんは、この4月から資生堂副社長に就任されるのは、新聞報道で知っていましたが、彼女が資生堂でどんな取り組みをしているのか、とても知りたい内容でした。

 たくさんの情報が語られたのですが、その中で、特に私の心に留まった資生堂における彼女独自の取り組みについてご報告しますね。2003,12に資生堂に入社し、CSR(企業価値創造委員会)のメンバーとして、男女共同参画部会長になり、アクションを提起。今年の4月からは、岩田さんがCSRの委員長となります。彼女の提案で始まった二つのことを紹介しましょう。

1、男性の育児休暇促進のために2週間の有給育児休暇制度
  資生堂は、あの汐留のビルの狭間に企業内託児所を作るなど子育て支援には、先進的だったのですが、それでも男性の育休取得者が、たった1名しかないと聞 いて驚いていました。ところが、この制度ができて、1年目16人、2年目17人が  取得したのだそうです。もちろん、子の育休は、男性のみではなく、女性にも与え られるものですから、企業にとっては、かなりのコストになるでしょう。
2、美容職の短時間勤務のための代替要員(カンガルースタッフ)
  育休後職場復帰した職員が、短時間勤務を要求するが、一番必要とされる4時 過ぎのスタッフが足りなくなってしまうので、その時間帯の「短時間契約社員の美 容職」を創設した。初年度500人採ったが、今年はその上に200人採ることにな っている。とても人気があるとのこと。

 それから、女性リーダーの育成・登用の数値目標を2013年までに30%としているとのこと。官庁が、2020年までに30%としているが、それより早くに達成するという見込みらしい。ここで、岩田さんが「女性優遇策は取らない」といったことから、さまざまな議論となりました。女性たちがリーダーなどしたことがないので、アファーマティブアクションとして取り組まなかったら、無理なのでは?という意見が出され討論になりました。岩田さんはこう言います。「誰が見ても、それだけの力がないということが明らかな人を優遇策で登用したら、その本人にとっても気の毒」これについてはいろいろ議論となりました。

 私は、出産育児は、個別企業にとっては、プラスにならないどころか、マイナスになることもある。でも、社会全体にとっては、プラスなのだから、出産育児については税金で補てんすべきという意見を出したのですが、岩田さんはこう言いました。「出産育児については、企業にとっては、コストは零です。例えば、年収400万円の女性社員が1年間育児休業するとすれば、育児休業中は無給ですから、400万円以内で代替要員(契約社員、パート、派遣)を採用すれば良いのです。育児休業をとる女性社員と同等の能力の人はいない、というのであれば、他の社員の仕事の分担を見直し、その職場で最も簡単な仕事だけをひとり分集めて、それをやってもらうために年収200万円でひとり雇えばよいのです。他の社員から見れば、従来よりも高度な仕事ができ単純な仕事はこの200万円の人にやってもらえるわけですから、喜ぶはず、という論理です。女性の雇用はコストになるとか、仕事と育児の両立支援策はコストになる、という思い込みを払拭したいのです」説得力ありますね。

また、参加者で、50人ぐらいの従業員を抱える社長さん(大きなお腹で、来月が出産予定)がこんな発言をしました。「子育て支援策が出れば出るほど、子どものいない人から逆差別だといわれる」「仕事は人より遅い人から、早く帰るようにと言わないでください。私は、時間をかけて人と同じ仕事をやり終えたいので、残業代はいりませんから、そうさせてくださいと言われた。どう考えたらいいだろう?」

 初めの問題については、岩田さんから、「なるべく大勢の人が利用できるように条件を広げて、その逆差別という批判をかわしてきた。育児だけでなく、介護にも適用するとか」二番目の問題は、大きな問題ですね。時間という価値が、ひとりひとり違っているのですものね。私の法人でも同じ問題に突き当っています。同僚たちから、能力の高いほうの人にたくさんの時間を振り当ててほしい、と言われ、パートさんたちにとっては、時間数が、給料なので、能力が低い人が結局は、給料が減るということにならないように、工夫していくことが、使う立場の人の任務なのでしょう。

 もうひとつ、岩田さんの言葉を紹介しますね。「ワークライフバランスとは、業務改善です」結局今まで通りの実績を保ったうえで、労働時間を短縮するとすれば、業務改善をするしかない。そして、業務改善とは、不採算部門を削るとこ。だそうです。こういう経営感覚を持って、改善していく岩田さんのすべてを評価したうえで、副社長に任命した社長の慧眼と新しいものに挑戦していこうという迫力に感心しました。
 役員6人のうち、女性は岩田さん一人だけど、外国人もいるし、40歳代の人が二人だといいます。ダイバシティ(多様性)を重視していることは一目でわかるようにしたということでした。


屋台デー「春一番」
               2008,3,14  於、鈴懸
 去年から始まった冬の屋台デー。今年も2月21日に予定されていました。ところが、入居者林葉さんのお別れ会で、一月延び、3月14日に行われました。
 職員たち手作りの屋台を出すのです。まだまだ雪におおわれていますから、屋内です。食堂と玄関の間のドアを取り外して、それぞれ工夫をしたお店を宣伝入りで作ります。私も仲間に入り、前日得意のリンゴケーキを天パンに2枚焼いて準備しました。お好み焼き、おでん、やくもち、中華まんじゅう、味付けちまき、施設長広田セツ子のハンガリーカレー、ラーメン、デザートコーナーは、リンゴケーキと、スウィートポテト。ビールに酒、コーヒーに紅茶、各種飲物。各自家で作ってきた人に、休日返上で作った人にどれもこれも愛情がたっぷりふり注がれています。

  職員やその友達が踊ったり、入居者の歌、男性ヘルパーが、お母さんと組んで、尺八に合わせて民謡を披露したりなど、そのあと各自が、好きなものを取ってきて宴会となりました。入居した時から、8年以上ずうっとここに生活してきた男性が、こんな楽しい行事は初めてだ、と言ったそうです。どの料理もとってもおいしくて、いつもよりたくさんがお腹に入り、隣のグループホーム「桐の花」の平均年齢91歳というおばあちゃんたちも(男性が〇なんです)いつになく食欲旺盛となりました。私のケーキは、見たところおいしそうにみえないので、なかなか売れず、私が持って押し売りに出かけました。食べてみるとおいしいと言って、いつも、レシピを頼まれるのです。ほかのメニューは、押し売りしなくても、かなり売り切れ、それでも、往診に来た黒岩卓夫もみんなから差し出されて、たくさん食べていました。いつも、お茶会のメンバーになっている地域の皆さんも、うちにホームステイしているスージン(私の末っ子のガールフレンドで、この町にある国際大学の学生。韓国籍)も参加して、盛り上げてくれました。

 雪に覆われた冬のケアハウスで、何か楽しいことをと考え出したのは、最年少職員で、料理はできないという小林裕子。それに乗って実行委員長を買って出るのは、森山栄子。職員一動乗りに乗って去年から始まったこの屋台デー、前の施設長森山里子も、やくもちや草もちを作ってきて、店を出してくれました。そんな職員たちの誠意がうれしくて、報告します。

 本当は「桐鈴会の理念」ということで原稿が書きあがっていたのですが、18日の理事会評議員会で意見が出すぎて、議論沸騰し、継続審議ということになったため、原稿を急遽差し替えました。


イタリア報告
       2008,3,7〜12

 初めてのイタリア旅行でした。
 2月の末にいきなり「ベアテの贈りもの」上映会があることがわかって、それからチケットの手配をして、そそくさと行ったので、今回は、ウーディネで2泊、ミラノで2泊という短い旅でした。ウーディネ市主催、日本領事館後援、というイベントです。イタリア最東端のトリエステから,ちょっと北に行ったところが、人口10万弱のウーディネ市です。なんとウーディネは、これまでも、毎年、インドとか、中国とか、外国を紹介する国際交流の月間があったようで、今年は、それが日本だったのです。3月いっぱい多様なイベントが企画されていました。タイトルが「芸者,no芸者」というのです。この「芸者」みんなが気に入らないのだけど、西洋では、「日本=芸者」でしかないらしいのです。ジュネーブで上映会を主催した栗崎由子さんと、ピティエ亮さんも、ミラノで合流し、ミラノ在住イタリア語字幕を作った石橋典子さんと4人で、ミラノから飛びました。

 プログラムによると、映画、ダンス、写真展、漫画展、着物展、など3月いっぱいたくさんの行事があり、なかでも、8日は、女性デーであることから、いちばんたくさんの行事が詰まっていました。午前中は、金原ひとみ、桜井あみさんの本がイタリア語に翻訳された記念として、記者会見がありました。そこに行っていたので、ベアテについても、日本のNHKみたいな放送局(Rai)からの取材を受けるっことになったのでした。前日は、田口ランディさんの記者会見もあったそうで、この方々皆さん、7日の宿泊が同じホテルだったので、8日の朝は、みんな一緒になり、勝手に記念撮影をしました。

 このホテルというのが、もしかしたら、昔のお偉いさんの豪邸だったのでは?と言っていたのですが、かなり豪華な建物で、ウーディネ市庁舎に近いこともあって、市のお客はここに泊ることになっているそうで、私たち4人も、招待客として遇していただきました。ウーディネ市というのは、世界中の椅子も、かなりの割合をここで作っているのだそうで、おしゃれな椅子も、またそうでないのも、かなりの種類が作られているようでした。

 この行事にベアテを入れようということで、声をかけてくださったのは、内田洋子さん、という方で、日本人としてイタリアに住み着いた草分け的存在の方でした。その方からの紹介で、実際に窓口をしてくださったのは、石橋典子さん、2年前に、ジュネーブまで見に来たなかの一人でした。なかなか上映が決まらず、それでもやっておこうと字幕の翻訳を石橋さんは、イタリア人の手を借りながら取りかかり、3月に入ってから完成した出来立てほやほやのものでした。

 上映会は、60席しかない小さな会場でしたが、ちょうど満杯となり、初めに私が、少し解説をして、石橋さんが通訳をしてくれました。終わってから、質問を受けたら、まずどの人も「イタリアと同じね」という反応でした。私は言いました。「同じではありません。日本の上映会では、男性は10%もいないくらいでしたが、ここでは、30%ぐらいですね。」若い人たちは、先輩がこんなに苦労をしてきたということを知っているのでしょうか?という質問もありました。語り継いでいくしかないですね。私たちは、若い人には、フィルムを半額で貸し出しています。と言えばよかったとあとになって思いました。高校生、大学生には、割り引いているのです。若い人に見てほしいですもの。

 席に戻ると、隣の人が、「ありがとう」と日本語で言います。「どうして日本語を?」と聞くと「息子が日本でイタリア語を教えています」とのこと。また、日本語を習っているという人もいました。日本が大好きなのだそうです。そういえば、ミラノからトリエステ行きの飛行機には、日本人の団体があった。トリエステには、作家の須賀敦子さんが、住み着いていたので、日本人がたくさん来るようになったとか。この須賀敦子さんは、石橋さんが、大学の薬学部を卒業して製薬会社勤務ののち、イタリア語学科に学士入学した時、語学を習ったのが、この須賀敦子さんだったという。

 その日の夜は、1200席のホールが満席で、日本人のダンスがあった。行ってみたら、あまりにエログロで、見るに堪えない作品で、私たち4人は、感想を求められない内にとさっさと会場を後にしたのでした。

 翌日は、夕方まで観光しようと言っていたのですが、どこに行っても「芸者,no芸者」というパンフレットが置いてあって、いろいろな日本関係のものが展示されているのです。古いお城の跡の建物には、「syoku」と書いてあって、日本的な食べ物の写真展でした。レンコン、菊の花、ごぼう、その他とってもおいしそうに見えるものばかり。また、美術館には、[byobu」という展示会があり、常設展の隙間に屏風が飾ってあるのです。

 昼食をとっていると話しかけてきた人があり、私が、マイクで、ベアテの宣伝をしているのを聞いて、上映会に来たという人でした。その人が言うには、大勢外で締め出されていたというのです。入りきれないぐらいだったということが分かり、2回目をするとかすればよかったのにね。と話し合いました。でも、イタリア字幕ができたので、次は、ローマ、ということで、取りかかるようでした。

 ところで、イタリア料理はおいしいと聞いていましたが、ピザも、パスタも、あまり好きではない私ですから、当然なのでしょうが、ほとんどおいしいというものには出会えませんでした。まるでざくろのような色のオレンジジュースが、とってもおいしかったくらいで、ほうれん草は、べたべたに炒めてあるし、珍しいものとしては、アザミのつぼみが、大きな魚のグリルの付け合わせとして付いてきた程度でした。

 アリタリア航空で往復したのですが、行きも帰りも、乗務員を呼ぶスウィッチを押すのですが、誰も来てくれず、出かけて行って、日本人スチュワデスに「あれを押しても音が出ないのですか?」と聞くと「チャンと音が出ているんです。でも、何しろイタリア人ですからね」だって。いいのかなあ?そんなことを言って。

 ウーディネで、興味深いことがありました。
3月8日に午前中、金原ひとみさんと、桜井あみさんのスピーチで、二人ともかなり小さい時から、物書きをしていたらしい。一人の世界に閉じこもっていたという二人は、大地塾にいた人たちを思わせる感じが漂っていました。桜井さんが、こんな話をしました。
 よく読まれている漫画で、「チョビッツ」というのがあり、それは、男の子が持っているパソコンが、男の子に呼ばれると女の子に変身して、恋人になる。その子は、男の子がしてもらいたいことを何でもするのだけど、男の子と結ばれたら、その関係は破壊される。という人魚姫のような存在。それとちょうど反対の小説を私は書いている。男の嫌がることを自己主張し、男にとっては都合が悪い存在。そういう女が主人公の小説は、男たちは嫌がるだろうと思っていたけど、結構そうでもないことがわかった。自己が強烈で、自分をもってしまう、男にとって都合が悪い女性をこれからも書き続けていく。という、実際桜井さんは、カップルで来ていた。金原さんは、カップルと赤ちゃんまで連れてきていました。「蛇とピアス」で芥川賞かなんかをとった人です。

 ところで、そこに集まっていた女性たちは、ほとんどが、桜井さんの小説の主人公みたいな人たちだったのでは?とりわけ、私など、夫にとって本当にいやなことばかりをして一緒に暮らしてきたのでは?と思えてしまいます。だから、結婚記念日には、毎年、「よくぞ一緒にいたものね」と激励している!


最後に輝いた林葉さん
           2008,2,28    於、夢草堂

 2月20日夕方、ケアハウス鈴懸からのただならぬ感じの電話、「お風呂で林葉さんが浮いていて、心肺停止です。病院に運びました。」病院に駆け付けるとしばらくして、人工呼吸をあきらめた医者からの宣告。霊安室で警察による検死。結果は、「心臓関連死」

 あとで聞いたところをつなげるとこんな経過でした。5時半ごろお風呂場で、入居者が浮いている林さんを発見。ナースコールを鳴らす。その時、事務所は、不在。一人は骨折の入居者を病院に送って行き、もう一人は、診療所からの紹介状を病院に届けに行き、もう一人は、夕食準備で、車椅子の方のお迎え。事務所前を通りかかったヘルパーステーションの岡田としいさんがコールを聞きつけて5階のふろ場に直行。服のまま浴槽に飛び込んで、掬いあげ、洗い場で、心臓マサージ。呼吸が戻らないので、外に出て館内放送をかける。入居者、職員すべてが集まり、ヘルパーのチーフが、口から口への蘇生術を。それでも駄目で、救急車で運んだ。まだ73歳という若さでした。

 検死の途中で、兄夫婦、その子どもと孫、妹たち家族が到着。私たち一同は、「ごめんなさい」。でも、家族からは最後に幸せな生活ができてよかった、といわれるのみ。独身を通してきた葉さんが、ここ鈴懸で、親しい男性が現れたことを、家族にも話してあったのです。22日の夢草堂(桐鈴会が運営するグループホーム桐の花に併設されたお寺)での葬儀では、私、施設長広田の弔辞の後、その男性が弔辞を読んでくれました。司会者は、こう紹介したのです。「入居者、職員公認のボーイフレンド」日ごろの様子を知らない桐鈴会の役員たちの間では、ざわざわ、としたのですが、知っている人たちの中では、微笑みが広がりました。弔辞も、まるで夫であったかのように読まれたのでした。お姉さんは、「堅物で、男性と手を触れ合うことさえなかったのに、こんな方が現れて、本当に良かった」そして、この男性井口さんに家族としてお礼が言えてよかったとみなさんが口をそろえて言いました。井口さんは、お斉が終わってから、二人で楽しんだラブラブの写真を家族の皆さんに見せていました。いつもローカを手をつないで歩き、夜は、抱き合ってお別れをしていたのです。

 私はちょうど前日、お部屋を訪ねて、おしゃべりをしてきたところでした。NTTの交換手として働いていたこと、でも、脳腫瘍や、脳梗塞の手術をしたりしたので、定年前に辞めたこと。お兄さんの家の隣にご自分の家を建てて、一人暮らしをしていたけど、中越地震の年の春、この鈴懸に入居しました。
 その時、まだ胸のあたりの筋肉痛が、完治しておらず、ベットの中でした。一週間前に、よる川のところに行ったら、きれいな女の人が、着物を着て手を出してくれたので、それにつかまろうとしたら手を引っ込めてしまった。その時どかんと川に落ちてしまってものすごく痛くて翌日病院に行った、骨は何ともないということで、湿布薬でだいぶ良くなってきた。とのことでした。この川での話は、彼女の夢の中だったようです。
 それでその日、ヘルパーさんと一緒にお風呂に入り、翌日は、一人で行かれたのです。残念な結果でした。
 私は、生まれて初めて、大和病院の霊安室で、ご遺体に浴衣をきせました。まだぬくもりのある林さんと心で交流しながらの作業でした。
 お別れが終わってから、葉さんのお姉さんがこう言いました。「母親の故郷でお葬式ができてよかった」聞くと、お母さんは、浦佐最後の開業医だった駒形医者の親と兄妹だったよし。私たちがここに引っ越してきた時この街最後の開業医として働いていた方でした。葉さんは、南魚沼ではなく、北魚沼の方でした。
 広田セツ子施設長の弔辞がそこに集った70人の心を打ちました。「いつも私たちは林さんにいそいでねとお願いしていました。ごめんなさい。これからは、あなたの持ち前どうりゆっくり暮らしてくださいね。私たちもそうしていきたいと思っています」脳梗塞の手術をして以来、脳の一部をやられていて、ゆっくりの動作で、介護してもらうと「ありがとね」と言っては、介護者をねぎらっていた方でした。


メーリングリストで皆さんに紹介したものを、桐鈴会の職員の方にも読んでいただこうと思いました。皆さんへの感謝の意をお伝えしたいのです。よろしくね。


女政のえん第7回目――三井マリ子さんを迎えて
        2008,2,23    於、花の宴(渋谷)

 三井マリ子さんを迎えての女政のえん。三井さんは、ノルウェーから、前日帰国したばかり。ノルウェーとの友好を進めたということで、ノルウェーから招待されての旅だったようです。内閣が、半分以上女性になったそうです。

 三井さんも私と同じように、政治なんて汚くていやだと思っていたのに、1986年5月に朝日新聞が「女性の内閣誕生」というノルウェーの記事を載せ、それを読んでショックを受け、当時都立駒場高校で英語の教員をしていた三井さんに翌年当時の社会党から、出馬要請があり、悩んだ末、都議会議員補欠選挙に出ることに。当選してその後の本選にも当選。1992年日本新党から、衆議員への出馬要請。出たが、落選。その後、ノルウェーに行って生活しながら、取材し、本を出す。「男を消せ」など。フェミニスト議員連盟を立ち上げる。

 2001年全国公募した大阪府豊中市の女性会館「ステップ」の館長に。60人の応募の中から採用された。1年契約の非常勤館長だったが、「4年ぐらいはやってくださいね」と言われていたので、そのつもりでいた。ところが、2002年の春ごろから、豊中市議北川悟司を中心としたバックラッシュの動きが活発になってきて、ジェンダーフリー攻撃、三井館長攻撃が強まっていく。なかなか巧妙で、後になってわかったところでは、豊中市は、男女共同参画条例を作ることと、三井館長の雇い止めをBL(バックラッシュ)派とバーターをしたらしいのだ。筑波みらい市で活躍したBL派も、2005年の男女共同参画社会基本法の改正のための公聴会に大挙して押しかけたBL派も、日本全国主張は同じ「男女共同参画は、マルクス主義」「男らしさ、女らしさ、専業主婦を大切にし、家庭を大切に」など。昔どうりの男権社会に戻そうというバックラッシュそのものだ。
 三井さんは、2003年3月で、職を失ってしまったが、その後、資料集めをして、豊中市女性財団を相手に提訴した。横山ノックの時に活躍した女性弁護士たちが沢山で弁護団を結成して裁判に臨んだが、昨年秋に、敗訴、今上告中。この2月26日が、その第一回の控訴審で、三井さんが、陳述をすることになっています。

 朝日新聞の竹信三恵子さんも参加者として、かなり突っ込んだ発言をした。マスコミ批判、朝日新聞批判に対しては、個々の記事について、直接新聞社に抗議してほしい、そして、いい記事を書いたときにも、新聞社にメールを送ってほしい。新聞社は、どういう反響があったのかということを○一、×二というように表現するぐらいだから。とのこと。
 BL派は、とにかく、戦略を立てて、物語を作って、全国展開をしているのだから、こちら側も、物語を作らなくては、との提案がありました。

 6時までの一次会も、気が付いたら6時半直前という状況だし、二次会は、8時半過ぎに、三井さんが帰った後も話は続き、9時前に、大阪茨木市議に立候補するという安孫子さんが来られ、それから、ゆっくりお話を伺って、海映のうちには、夜中につきました。


田中優講演会
         2008,2,17    南魚沼地域振興局講堂

 17日は、この冬一番の降り。車を出すのに、スノーダンプで雪を片づけ、大汗をかきました。そして出かけたところは、六日町にある地域振興局の講堂。3女帆姿が、田中優さんの講演を聞いて感動し、六日町でもあるからいくように、と言ってきたので、行ってみました。「農地・水・環境を活かして地域を創る」というタイトルで、地域活動をしている人たち(一人残らず男性)70人ぐらいで聞きました。

 温暖化防止のために具体的にどうしたら省エネができるのか、ということ。例えば、アルミサッシは、部屋の熱を外部にたくさん放出するが、サッシの上に木材を薄く貼ると大変な断熱効果がある。新しく家を建てるには、断熱効果が高い、特殊な工法があることなど画面で紹介されました。
 また市民からの出資で集めたお金を「環境」「福祉」「市民事業」といった事業に限定し、低利で融資を行っている非営利のバンクである未来バンクを立ち上げました。そこが今回融資先として選んだのが、新潟でペレットストーブを製造している(有)さいかい産業です。16日には、ユニゾンプラザで、その会社の社長さんと一緒にワークショップを開催していました。
 「寒いのに耐えて」とかいう我慢を強いる省エネではなく、ちょっと工夫をしただけで、十分に省エネができるノウハウをたくさん持っていて、これが普及していけば、うれしいことだと思いました。
 彼の著書が彼のHPに紹介されています。http://tanakayu.blogspot.com/


「改正DV法の徹底を地方自治体に求める院内集会」
    ーDV被害当事者支援をすべての地域でー

  2008,2,12、   於、 参議院議員会館第一会議室

 参議院議員会館にしばらくぶりで行ったら、勝手が違っていて驚きました。新しい建物が建っていたのです。第一会議室は、真新しい部屋でした。

 参加者は約100名、岐阜、鳥取、北海道など全国各地からの参加者でした。議員は12名(自、公、民、社、共)、秘書による出席は4名。内閣府、厚生労働省、警察庁、文部科学省からも出席。報道は読売、毎日、赤旗、北海道放送など。

 まず、呼びかけ人を代表して上野千鶴子さんから、この間の経緯と集会の趣旨を話し、DV法を作った時の中心にいた南野議員と小宮山議員が挨拶。その後、被害当事者支援団体の方がたから、改正DV法およびDV支援における問題点について、関連省庁に要望。民間団体との連携やDV独自の予算がないこと、予防教育について、被害者が夫に殺害された宇都宮事件の警察の対応の問題点など。
 上野さんからは右翼と結びついた、つくばみらい事件の意味と自治体の自主規制への危惧、内閣府への市町村への指導助言についての要望、マスコミの報道姿勢に対して「暴力に中立はない」という批判。最後に講演会を開催した長岡市の主催団体を代表して、女のスペース長岡の荻野茂子さんからの発言。

 要望に対しては各省庁から回答がありましたが、いかにも「お役所」という感じものであり、内閣府は啓発等の一般論ではなく、今回の事件がこれ以上波及しないように、市町村への指導を行なうべきだという要望に対して、後日きちんと回答するという言質を内閣府からとりました。福井県の県立図書館にある、ジェンダー関連の本を撤去するようにというバックラッシュ派の圧力で、県が撤去した時には、内閣府が「どうなっているの?」と聞いたこともあって、本が元に戻されたという経過がある、今回は、つくばみらい市が、内閣府に相談していたというのに、中止が決まってからは、内閣府は全く市と連絡を取っていない、そういうこと自体がおかしいのでは?と上野さんが指摘。

 議員のほとんどが最後まで席を立たず、ジェンダー・バッシングがDV法まで来たことの意味、日教組事件、松山など各地のバッシングの動きなどに触れながら、市民と力をあわせて議員としてもバッシングに対抗していくことなどを、議員一人ひとりが発言しました。熱気あふれる集会となりました。ジェンダー・バッシングへ立ち向かう強い意思を再確認した、画期的な集会だったと思います。


スージンによる講義

 揺光のガールフレンドスージン(韓国籍)が、この1月から、我が家に下宿しています。この町にある国際大学の学生だからです。日本に来て1年半、かなり日本語が上達したとはいえ、いざとなると電子辞書に頼って、夕食後語り続けます。話題は実に広く、私が興味を持っていることは何でも、彼女の興味の対象です。彼女は、お父さんが、元商社勤務だったために、世界中を歩いていて、博識です。ある日の彼女の講義は、国家保安法のことでした。すでに、戦後の韓国の政治史は、かなり講義されてきています。先日の大統領選挙で、10年ぶりに革新から保守に代わることになり、3月から新政権が発足します。この革新政権の10年間、死刑は一つも執行されず、国家保安法をなくすということがテーマであったにもかかわらず、とうとうできずに終わった。それは、彼女の話では、はんなら党(保守)が、絶対になくさない、という信念が強かったためとのこと。国家保安法によって、非合法とされる団体に属している人は、大学の中に住み、決して外には出ない。親の葬式に行って、待ち伏せしていた警官に逮捕されたということもあるそうですから。
 
 韓国の徴兵制はみなさんご存じのことでしょう。以前は、3年だったのが、今は2年に縮められたとはいえ、兵役を終えて帰ってきた男性は、みなかなりの変貌を遂げてくるとのこと。学生時代より確実に保守化してくる。付き合っていた女性とは、たいていは、その期間に別れることになるのだけど、かろうじて付き合いが続いていても、帰ってきた男性の変貌によって、付き合えなくなるケースも多い。
 
 韓国の教育熱がすさまじいことはご存じと思いますが、小学校高学年から、学校で夜の10時頃まで勉強して、それから塾に行き、夜中に戻る、というのが、当たり前になっているとのこと。韓国の子どもが一番かわいそう、とスージン。スージンのお母さんも、スージンを育てていた時には、普通の教育ママだった。でも、妹さんが、発達障害があり、そのおかげで、お母さんはどんどん変わってきて、今は、スローライフに転換し、教育ママから脱皮した由。妹さんをありがたい存在と言っていました。

 水曜日だけ授業があるので、それを終わると夜行で、揺光がいる奈良に行き、翌週の水曜日の朝、夜行でこちらに帰ってくるというサイクルです。水曜日の午前中私たちのために英会話教室をやってくれています。


DV講演会inもえぎ
  2008,2,4   
          於、萌気園二日町診療所デイケア曼荼羅華(まんだらげ)

 2月4日夜7時半から、萌気園診療所まんだらげ(デイケア)にて、次女黒岩海映によるDVの講演会がありました。萌気園と、桐鈴会と外部の数人だけで、120人の参加者。関心の高さに驚きました。
 海映は、弁護士10年目だそうですが、早くから、東京都のウィメンズプラザで法律相談を担当し、たくさんのDV被害者とのつながりがあります。私は、かなり聞いてきたつもりでいましたが、知らないことが結構たくさんありました。海映がかなり詳しいレジュメをメールで送ってくれたので、必要な方は、個メールでお申し出でください。

 加害者は、基本的に男性。支配する道具としての暴力。言葉(「お前は馬鹿だ」「生きている価値がない」など)だけで支配できたら、身体的暴力はいらない。加害男性は、社会的に信頼されるような地位や人格の人が多く、加害者として逮捕されるときに、接触する警官を味方につけてしまったという人もある。妻に対する以外は、一般的に紳士的。被害者は、経済的、社会的、などによって、ここから逃れることはできないと思い込まされている。ところが、このDV防止法ができてからは、意外と簡単に訴えることができ、支援してくれる人もあり、お金も2500円あれば、「申し立て」をすることができる。一番難しいのは、証拠。日記でもいい、ノートに書きつけて記録してあれば、それが証拠になる。警察や、支援センターなどに相談に行くこともその記録が証拠になる。というような情報を一番ほしがっているのではないか。情報が得られたら、その後は、ご本人が、決断できさえすれば、とんとんと進む。しかし、この本人の決断というのが大変。海映がかかわってケースでは、27回逃げて、またもどりということをやった末、28回目に成功した。そして、その方は、今ではDV支援の活動をしている。

 申し立てした人の80%に対して裁判所は、保護命令を出している。保護命令には接見禁止令と退去命令がある。退去命令は、加害者の所有物であっても、被害者が暮らす家から2ヵ月退去しなくてはならない。その間に避難先を見つけて避難する。接見禁止命令は6か月、初めは被害者のみが対象だったのに、子どもにまで広げ、今回の改正では、親族等にまで広げられた。そのため、実家とか、支援者も対象となるようになった。ところが、6カ月たつと、何をしてもいいことになるので、避難先を突き止めて、接触を求めてくることがある。6ヵ月ごとにうつ病が悪化するという人がある、外国では、接見禁止は、1年とか2年になっている。次回の改正では、これが課題の一つ。
 保護命令は、申し立てから、1週間ぐらいで出る。とにかく、「逃げ道はあり、それは、結構簡単である」ということを当事者に届けたいものと強く考えた。しかし、あくまで、当事者が、現状から逃げたいという意思をしっかりと持つまで、待つことが必要だということも、具体的な例を提示されて、認識させられた。

 最後に卓夫が、自分自身DV家庭に育ち、父親の暴力が始まると恐怖から布団をかぶっていたことなど話し、「暴力の連鎖といわれるが、自分は、父を反面教師として暴力は使わないようにしている、でも、その代わり大声を出したり、聞いているふりをして聞いていなかったり、ということがあり、それもDVだそうで…」というと、もえぎの職員のみなさんの中で、くすくすと笑いが広がった。9時半まで皆さん熱心に聞いてくださいました。

 DVから逃れて平和な日々を送っているという人が、「成功の秘密は、誰にも相談しなかったこと」といったそうで、相談すると答えを求められていると誤解をして、「子どもがいるのに離婚などとんでもない」「我慢が足りない」「すぐに別れなさい」などと言ってしまう。そうではなくて、本人の訴えを聞き続けて、情報を出すだけにとどめ、とことん、寄り添っていくという姿勢が求められていると思いました。



大町でのネットワーク
  2008,2,2〜3  長野県大町市

 7月の選挙の時に、長野県大町市から駆け付けてきてくれた卓夫の従姉の息子武内元雄さんを訪ねようと以前から計画していた大町行きが、実現しました。元雄さんは、大町市近辺の私たちのネットワークをさらに広げるべく、さまざまなことを企画、実現してくださいました。2日(土)には、黒岩の親戚5人と私達との7人の宴会。私以外はすべて、美麻村という村をあげての離村で有名になった所に住んでいた人達です。わなを仕掛けてヒワをとったり、ハチドリやウサギとの格闘。幼い頃の思い出話に花が咲きました。

 大町温泉に泊まって、3日朝は、まず、古民家を移築して自分たちの家を建て替えたという親せきの家を見に行った後、私は、この地域の女性団体「みちを拓く会」の方々とホテルのロビーで話し合いました。この会は、2000年にベアテ・シロタさんを呼んで話を聞いて以来会員67人で運営しているとのこと。中心メンバーの佐藤節子さんは、国鉄職員で、国労の組合員でした。民営化するとき、組合をやめるよう言われたけど、やめなかったので、踏切り番、ということで、一日中ただ踏切りに座っているだけというような仕事をあてがわれ、そんな嫌がらせの中で、全国で200人もの自殺者が出た。その後、松川村村議に立候補するとき、姉から「憲法を勉強しなさい」と言われて、「1945年のクリスマス」(ベアテさんの自伝)を読んだら、感激して、100冊以上出版社から買って友達に売りまくった。それで、柏書房(その本の出版社)がベアテさんの来日を知らせてくれ、聞きにいってすっかりとりこに。大町にも呼ぶことになったそうです。
 佐藤さんが帰られてから、池田町から、二人の女性が。以前、私が、池田町に呼んでいただき、翌年には、夫婦で呼ばれ(どうやら、私の言ったことが本当かどうか、証人として夫が駆り出されたらしい)その時の担当だった方が二人で会いに来てくださいました。その時、夫は、すぐ近くにある斎藤清さんという画家のアトリエに行っていて、そこには、医者探しをしている大町市長もいるということなので、私たち3人も、そこに行きました。するとまあ!色々とつながりがあって、まず、上記の佐藤節子さんは、斎藤清さんのいとこ、池田町から来られた市川操さんは、以前小学校の先生をしていた時の教え子が、たくさん斎藤清さんのお弟子さんに。牛越大町市長は、佐藤さんたち「みちを拓く会」が主催した元参議院議員久保田真苗さんの講演を聴きにいっていた!

 市長の権限がいかに強いかということで、今回のDV講演会が、つくばみらい市で中止になったのに、長岡では、挙行された話をしたら、森民夫市長を知っているとのこと。森さんは市長会長ですからそうでしょう。つい最近の大町市のフォーラムについて、斎藤清さんの妻が、「基調講演が面白くなくて、ぞろぞろ途中で帰ってしまった」という話をしました。「それにシンポなんて、カッコつけて」と言っていたので、奥州市のフォーラムでコーディネートした玉山さんが、シンポのことを「井戸端会議」といったためにすっかり場がほぐれてしまったことを話したら、市長さんがいたく感心して、メモしながら、今度はそれでやろう、と決意を示していました。斎藤清さんのアトリエというのが、人がたくさんたまれるように作られているので、まさにここで井戸端会議をということで盛り上がりました。また「サテアン」と斎藤さんが呼ぶ別宅は、その作りそのものが「芸術品」で、不思議なものが沢山配置された、まきストーブつきの心地よい空間になっていました。

 私が行く前に卓夫が、「単に医者を探すということだけではなく、町全体をどうコ−ディネートするのか」ということでいろいろ提案していたようです。もちろん医者探しの方法なども、一本釣りを含めて伝授していたようでした。

 武内元雄さんが、人と人をつなぐべく、様々な資料(HPやら、このMLやら)を作って配ったり、現地での運転手として、私と夫とを別々に運んでくれたりと、大活躍。長野駅までの往復も、送迎して、大雪の中を運んでいただいたのでした。ありがとうございました。

 この後の続きがありました。私が、持っていった桐鈴リンリン(桐鈴会会報)にベテルのことが書いてあるのを見て、斎藤清さんが、驚いたそうです。ベテルを世に送り出した新潟市在住の清水義弘さんを知っていたからです。私は、彼が出した本や、彼が作ったビデオなどで、かなり前からベテルを知っていたのでした。清水さんとは、篠田新潟市長を誕生させるべく、一緒に戦った同志です。斎藤清さんと電話で話して、太い糸でつながっていたことを確認。次回は、斎藤さんを隊長に、大町勢が、ここ魚沼に集まるということで、盛り上がりました。



DV防止講演会中止事件をめぐって
   2008,1,20〜2,1

「つくばみらい市における平川和子さんの講演会直前中止に抗議し、改めて実施を求める署名」
私も呼びかけ人になって、みなさんに署名をお願いし、たくさんの署名を送ったうえで、それらをもって、つくばみらい市と、4つの主務官庁を回ってきました。3つの新聞記事と、ネット署名へのリンクをつくってあります。それまでの経緯をご存じない方に経過を報道しているWEBをご紹介しますね。
http://www.againstgfb.com/index.htm

文書と署名フォームへのリンクページ(ダイレクトリンク)
http://www.againstgfb.com/tsukubamirai_shomei.html 

 2月1日は大雪の中を朝早く出て、つくばみらい市に出かけました。つくばエキスプレスで乗り込んだのが6人(2621人の署名をもって)、現地で合流した茨城の人が3人(この方々は、別の署名110を持ってきた)、11時につくばみらい市役所に到着しました。市からは、部長、課長、課長補佐と3人の担当が対応。1月4日から抗議が始まったけど、15日にはその抗議を拒否していた。16日に拡声器でがなりたてたので、当日市民に危害が及ぶのを恐れて中止にした。というので、東大教授上野千鶴子さんが、「その後、その代表である西村修平に抗議をされて、危害が及ぶというのを訂正したのはなぜか」と聞くと、もう3人とも答えられなくなっていた。西村グループは、自分たちの主張に賛同したから中止にしたのだと、HPで述べている。さらに「DVの被害者をその暴力から守ることが義務付けられている市役所が、暴力に屈していたのでは、暴力を受けている市民はとっても市役所に相談することはできないだろう。役所の判断は、とても重いということを自覚してほしい。実際、近くの高校では、役所がやめるというのだから、うちでもやめるといってデートDVの講義を中止してしまった。中止したことを反省して、改めて、この講演会を実施してほしい」と申し入れ、「これから検討する」との回答を得ました。そして、その検討結果を知らせてほしいというと、しぶしぶ認めたような回答でした。すべての決定は、市長がするとのことで、今回のことは、「長岡では、同じ条件でありながら、市長の判断で、実施できたのだから、つくばみらい市でもできるはず、するのだったら、協力するつもり」ということで、記者会見に臨みました。このやり取りを
聞いていたマスコミ関係者数人が、少し質問しました。朝日新聞記者「反対派が言っていることにどうこたえるのですか?シェルターでは、被害者をかくまって外に出さないそうじゃないですか」とかいうのです。被害者が駆け込んできて、かくまってくれというのですよ。外に出て、加害者に見つかったら大変なんですよ。とかなり初歩的なことを答えなくてはなりません。

 終わってから、記者さんと名刺交換。私が、毎日の人に「うちの息子が、毎日の記者で」と言ったとたん「僕の同期ですよ。2年目でしょう?」というではありませんか!

 午前中でつくばみらい市を後にして、エキスプレスの中で、コンビニおにぎりを食べて、霞が関に向かいました。主務官庁は、厚生労働省、法務省、警察庁(国家公安委員会)、 内閣府(内閣総理大臣)の順序に30分刻みで回ります。その中に移動時間も含まれるので、実質的な会談は、10分から15分。上野千鶴子さんが、手際良く、午前中のつくばみらい市の対応を報告し、こちらからの要望を伝えて、少しだけあちらの言葉も聞いて終わりです。その中で分かったことは、DV法が去年改正され、この11日から施行されているので、内閣府は、その徹底に追われているさなかの事件でした。今回改正された主な点は、

1、DV防止、被害者保護のための基本計画策定を市町村の努力義務とする。(これまでは、都道府県のみ)
2、DV相談支援センターは、今まで都道府県に設置されていたのですが、今度は、それを市町村に置くことを努力義務とする。
3、保護命令の拡充。これまでは、接見禁止令が、被害者に対してのみだったのを、被害者の親族等にまで拡大。

  それによって、実家も支援者も、守られることになった。

 今までは、都道府県を対象に説明して、そこから市町村に届けていたけど、今回は直接市町村に説明しているとのこと。今回、つくばみらい市は、1月4日から始まった「講演会中止要求」について、内閣府に相談していたのだそうです。15日までは、確かに中止しないということでやっていた。ところが、16日にマイクでがなりたてられ、中止を決める(市長の決断だとの回答を得ました)とき、まったく内閣府には相談がなかったそうで、マスコミを通して中止を知り、びっくりしたそうです。
「どうしてそうなったのか、つくばみらい市に聞きましたか?」と聞きましたが、何もしていないのです。せっかく相談をかけてきていたのですから、電話ぐらいしてもいいのでは?というのは、私の単なる素人考えのようでした。どこの官庁も一様に「市町村に介入することはできません」という官僚そのものの対応でした。
 つくばみらい市での役所の3人をはじめ、主務官庁でも、出てくるのが、男ばっかりだということが気になっていたら、警察庁(国家公安委員会)と内閣府は、どちらも、若い女性でした。警視庁警視という肩書の若い女性は、今回のことには、大変興味を持って、かなり勉強していることがわかりました。

 その次に、衆議院会館で、記者会見。今度は、それこそこの問題に興味を持っている人ばかりが集まっていて、どんどん質問が出ます。先ほど報告した、朝日新聞記者の質問を、社名を伏せて報告した時、そこにいた朝日の杉原里美記者が噴き出してしていました。日ごろの言動を知っているからでしょう。このとき、記者の中に一人だけ男性がいて、その人が質問しないことが気になっていました。それで、私が、その人を指名して質問を促したのですが、まkkになっているまま、とうとう言葉が出ないままでした。いじめてしまったか?私は、誘えば何か言ってくれるかと想像したのですが、可哀そうなことをしました。杉原里美記者は、「16日に拡声器で何と言っていたのですか?」と聞きましたが、私たちは、つくばみらい市の人たちにそれを聞いてこなくて失敗したと思いました。彼らがつくばみらい市に出した要請書には、すごいことが書かれています。「普通の夫婦間に経度・単純・単発的な『暴力』はあって当たり前です」そういう考えで、「世紀の邪法DV防止法は、家族解体法である」という見出しのチラシを長岡でも配っていたのでした。

 同じ講演会をつくばみらい市は中止、長岡は挙行、この違いはなにかという話になったのですが、市長だということに収まりました。市長はそれだけの権限がある。改めて、森民夫さんの「株」がうなぎのぼりでした。


男女共同参画講演会,in南魚沼
   2008,1,19  於、南魚沼市庁舎

 19日、南魚沼市の市庁舎で、男女共同参画講演会がありました。ものすごくおもしろかったので、その報告をさせてください。

 藻谷浩介さん(日本投資銀行地域振興部参事役)の話が、2時間半続いたのですが、眠くならずに引き込まれて聞いていました。1964年生まれの若さで、テンポよく地域経済のことを話しながら、女性をいかに活躍させうるかが、地域活性化のカギ。という話なのです。これから労働力人口が少なくなるのを、外国人労働力で補うというが、それには、日本語を覚えてもらうための投資が必要。それより、何の投資もいらない専業主婦が働ける環境を作ったほうが、安上がり。その日の聴衆は、半分ぐらいが男性。というのは、商工会が共同主催者なので。かなり年配の男性がたくさんだったのでした。その人たちに「あなたの奥さんに働くなと言ってはダメ」というメッセージを送っていたのです。家事をやっている女性たちは、それなりに有能なのだから、社会に出てもらおう。1655万人もいる専業主婦の3分の一が働いてくれたら、労働人口は減らないで済む。それには、男性が家で家事をしなくてはだめ。というので「あなたはどうしているの?」と大声で叫ぼうかとも考えたのですが、しばし待て、と抑えていると、最後に本人がこう言いました。「ぼくは、男3人兄弟で、母親が、家事ができなくては、結婚相手がいないと言いながら、家事を仕込んでくれた。だから、何でもできるし、している。とのことでした。

 「少子化になったのは、女性たちが働くようになったから」と考えている人が多いが、全く反対。専業主婦が増えるに従って、子どもを産まなくなったのだ。、子どもと二人で家にいるというのは、女性にとって息が詰まる状態で、とてもたくさん作る気にはならない。実際専業主婦が多い東京、大阪が、いちばん出生率が低い。そもそも、専業主婦というのは、戦後の高度成長期に、急速に増えたのであって、江戸時代の日本では、ほとんどの女性は男性と一緒に働いていた。大昔の日本では、アマテラスオオミカミが女性の神様だし、その後、国が出来てからも、卑弥呼は女性だった。日本は、女性を大切にしてきたのが、明治時代以後、おかしくなり、戦後、専業主婦が増えて、今のようになってきただけ。男にしては良く分かっていると思いました。私も、専業主婦だったら、7人も生んでいなかったと思うのです。昼間子育てから解放されているので、たくさん作る気になったと思っています。


NTTデータ労組役員研修
    2008,1,16 於、熱海後楽園ホテル

 16日は、熱海後楽園ホテルで、NTTデータ労組役員研修で男女共同参画にかかわる話をさせていただいてきました。たかひろの中高の同級生今成隆さんが、NTTデータの職員で、労組の事務局をしている西山さんに私を紹介してくださって、今回の講演が実現したのでした。
 全国から、労組の役員が90人、そのうち女性は5人です。これだけ男性が多い集まりで話をするのは初めてでした。男性は、こちらの話に対する反応が、とてもわずかなので、話しにくいのですが、労組の役員とあって、政治的な話には、乗ってきてくれます。前夜の懇親会がたたって二日酔いの方々もあったのでしょうが、眠っている人が二人ぐらいだったので、まあまあ上出来かと自己採点をしました。

 女に生れて嫌だったことからはじめて、35歳でやっと女性に生まれたことをよかったと思えるようになったのは、母親が一番子どもたちによって育ててもらえる位置にいることがわかったから。父親も、子どもに育ててもらえるようになるには、料理など家事にかかわることが手っ取早いのでは?と提案。私が、夫に家事を「しつけた」やり方を披露しました。

 話し終わってから、会場とのやり取りを45分もしました。男性たちが、手をあげて意見や質問を出してくれ、そういう点では、やりがいのある講演会でした。

 朝9時からだったので、前日夜遅くに行って、温泉にゆっくり入ってまた朝もゆっくり温泉につかってからというかなり贅沢な出張となりました。

 前夜事務局の西山さんと話していたら、彼女は、高専(5年制)の出身で、彼女の学年は、女性が一人、二年上に二人、全校で女性が3人しかいなかったというので驚きました。私が、数学科で女性が一人だったとはいえ、ほとんど毎年一人ずつはいましたから、女性のトイレがないなどということはなかったのですが、彼女の高専は、女性トイレがなく、職員トイレまで行かなくてはならなかったそうです。理科系は、男性がいくものという「常識」がまだまだあったのですね。彼女はいま42歳です。20代になってくるともう少し違っているのでしょうね。

岩手講演の旅(1月25日〜27日)

「人権てなーに?」
   −宮古のまちづくりを考える市民の会 新春講演会

                 2008,1,25 於、宮古市シートピアなあど

 4年前、中越地震のその日に、宮古で講演をしたのが、私と岩手県との出会いでした。その翌年も呼んでいただいたので、今回宮古は3回目です。でも、この日初めてという人がほとんどで、平日の昼間という中でも、30人ぐらいの方が熱心に聞いてくださり、質疑の中では、高齢の男性が、「うちの嫁が塩沢(南魚沼市の一部)から来ている」などと発言して、意外に遠くはないという感じになりました。
 そもそも、私は、このタイトル、困ったのです。できたら、「人権」というような言葉を使わないで、トラブルの解決をしたいものと日頃考えているので、そこを率直に話しました。江戸時代までは、そんな言葉がないまま地域の中で「切れ者」といわれる人たちが解決してきたことが多かったのでしょう。でも、その頃もあった「部落」と言われていた人とか、その後在日韓国人といわれる人たちが、「人権」という言葉を武器にするしかないような、そういう事態があるとき、仕方なくつかわれてきた少数者の最後の武器と言えるようなものなのでは?と話しました。DV被害者とか、慰安婦といわれてきた方々とか、しょうがい者や、難病のみなさんなど、「自分たちも人間の仲間に入れてくれ」という叫びまたは、祈りが「人権」に集約されるのでは?

 その日の夜の二次会は、いつものように知的しょうがいしゃを雇用している焼き鳥屋さん「とりもと」でこじんまりと行いました。とりもとのオーナー小幡勉さんは、なんと私と小学校が同窓、東京都品川区第二延山小学校です。妻も東京の出身、子どものいないお二人は、宮古養護学校の知的しょうがいを持つ生徒さんを実習先として、預かり、焼き鳥のくし刺しを教える中で、そのことに没頭して、たくさんのしょうがいしゃを雇用することになったのです。しょうがいしゃだけで運営できるお店をと考えて、カレーら作れる、ということでカリー亭というお店を作り、今では、東京のデパートでかなりの高値で売れるようになり、そこで働くしょうがいしゃは、運転免許を取って、生き生きと働いているのです。堂本さんが千葉知事になってから、しょうがいしゃ雇用に功績のある方を表彰していますが、数年前に小幡さんはこの表彰を受けました。
 ここを会場に、宮古市の教育委員長平井二三子さん、教育委員の斎藤玲子さん、(しょうがいじを持つお母さんです)あとで紹介する宮古市長熊坂義裕さんの妻伸子さんとその秘書さんとおいしい黒豚の刺身などをいただきながら、語り合いました。食べ物を選んで飼えば、豚も生で食べられるそうです。



「子育ち、親育ち、地域育ち」という講演とシンポジウム

              2008,1,26 於、水沢商工会議所
                  主催 水沢商工会議所女性会

この題名自体、私はとっても気に入っていました。子育て、ではなく、子育ちですよね。そして、今回私を呼ぶ原動力だった玉山幸芳さんは、岩手県国際交流の事業で、アメリカに行き、ペアレントプロジェクトジャパン(PPJ)を立ち上げた農業者です。当日は、コーディネーターとして「井戸端会議のようにやりましょう」と呼びかけ、参加者のだれもが何でも話せる雰囲気を作ったのでした。私の話が終ってシンポジウムは、まず二人のシンポジストに「どんな親でしたか?」と聞きました。普代村教育長の熊坂伸子さんは、「私も、黒岩さんと同じで、実験と言うのが好きです。子どもをこっちの方向へ向けようと考えずに、どうするかな?って見ていました」それに対して、奥州市(地元)教育長の菅原義子さんは「すべて人任せにして、仕事一筋でやりました」と。数学の教員で、最後は、校長でした。「中学の校長をしていたときに、車椅子の特殊学級の生徒が、僕も普通学級に行きたいと言ってきたとき、体育館に連れて行って、『ボールが飛んできたらどうするの』と言ってあきらめさせた。そのことをあとで大変申し訳ないと思い、障害を持っている子どもに対して違う対応をするようになった」と話し、最後に、後藤新平記念館に掲げてある新平の言葉「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、報いを求めぬよう」という言葉を変えなくてはと思った、と発言しました。私が話した「迷惑をかけあおう」の話からでしょう。翌日、この町出身の後藤新平の記念館に行き、実物を見てきました。今度行くとき、書き換えてあるかどうか、楽しみです。終わってからの二次会では、今日は二つの奇跡が起こったと皆さんがいいました。ひとつは、いつも長々としゃべって皆さんのひんしゅく買っていた人が、この日のシンポの最後にとってもいい話を短くして座った。もう一つは、奥州市の教育長が、変身してしまったというのです。上記のような話をしてしまった所も驚くことだし、「人のお世話にならぬよう」がおかしいと気づいたことも奇跡らしいです。この日、奥州市議会は、議会を延期して、みんなでこのフォーラムに来てしまったのです。奥州市議会議長が、こんなメールをくれました。
>26日は、大変ありがとうございました。黒岩先生の、ご講演をお聞きし、私のこれまでの価値観(男性的かつ保守的)を見直す必要があることを、痛感しております。



「人権てなあに?」〜もう一度ベアテの贈りもの

               
2008,1,27 於、久慈市中央公民館

 27日は、岩手の北部久慈市で、ベアテの贈り物のビデオ上映の後、講演しました。保育園の園長さんから、「今日のテーマとは関係ないのですが、教えない子育ての結果は?」と質問され、揺光の様々な行動を話すことになりました。
 この日、ここに私を紹介してくださったのは、熊坂伸子さん。熊坂義裕宮古市長の連れ合いで、市長になった時に財政学を勉強して、と頼まれて、東北大学の財政学の大学院に入学。卒業後、滝沢村の助役、そして今は、譜代村の教育長です。2年前には、譜代村に呼んでいただいたこともあり、岩手入りするたびにお目にかかっています。譜代村の近くである久慈市とは、とても親しくしていて、久慈市の女性団体「もんめの会」の顧問という感じでもあります。

 奥州市から一緒に来た熊坂伸子さんは、その日5時の電車で宮古まで帰るということで、それまでを二次会としました。その後、三次会。みんながそれぞれの思いを語ります。夫が知的障害者の移送サービスのNPOをしているという公務員、精神障害者の雇用を始めようとしている方などがあり、二戸駅から久慈まで私たちを乗せて運んでくださった工藤茂広さんに浦河ベテルの家を語ってもらいました。彼は「弱さの絆」「上る人生から降りる人生」「三度の飯よりミーティング」などについて語り、何人ものが「今度行く時連れて行って」と言い出すさまでした。ところが、帰ってきていろいろなメールが届いていたのですが、夫が知的障害者の移送サービスのNPOをしているという公務員から「実は、うちの子どもが重度の自閉症で」と書かれて、「皆さんにそれを言い出す勇気がなかったのかもしれない」というのでした。ショック!そんなことが言い出せない雰囲気でしかなかったのか?「家族に障害者がいるの?」と聞こうかと思っていたのに、聞かずにすごしてしまった自分を悔みました。
「門女(もんめ)の会」のみなさんはとっても活発で、個性豊か。大声で笑い続けていたり、ベテルの話なれば実に真剣に聞き入る人たちだったのに、彼女にとって一番大切なことは、胸にしまっておく、しかなかった。彼女へは、深くお詫びをしてから、「次回お目にかかれることがあったら、その時こそ、みなさんに話しましょうね」とお返事しました。

熊坂伸子という人

 熊坂伸子さんと、25日の宮古二次会から一緒で、翌日の朝、宮古駅から、水沢商工会議所女性会主催の講演会までずうっと一緒でした。その日は、同じホテルのツウィンで同じ部屋、翌日の見学から、久慈市の男女共同参画講演会までほぼ丸2日間、一緒に行動し、とんでもない人だと思うようになりました。彼女は、人のこともよく「変な人」というのですが、自分のことも「変な人」と言っています。外見は美人で、おしとやかに見え、全然変ではないのです。ところが、話し始めると驚くことばかりです。

 東北大学を中退して、弘前大学の医学部に入ってきた熊坂義裕さん(福島出身)と、茶道部で知り合って理学部を卒業後すぐに結婚。その時、宮古出身の彼女は熊坂になるのは嫌だと言ったのだけど、旧姓よりも熊坂のほうが、姓名判断では未来が開けている、という結果をもってきた義裕さんに寄り切られ、二人とも熊坂になって暮らすことになった。彼女は、裁判所に勤めていたけど、子どもができるとすぐにやめて、専業主婦に。

 夫が許してくれないことを二つ内緒でやった。一つは、運転免許取得。3人の子どものうち、下の二人を預かってくれる自動車学校に行き始めた。ある日、夫が午後家に物を取りに帰ってきたら、妻がいない。小学生の子が遊んでいる。それで、妻がいないことがばれてしまったけど、妻は、ウソをついてきたことをわび、もうやめるという。でも夫は「ここまでやってきたのだから最後までやれ」という。結局免許を自分のものにした。
 もう一つは、視覚障害者のための図書館で、テープ吹き込みのボランティアをするための講習に出るのを、今度は、宮古に移ってきていたので、伸子さんの実家にこどもを預けて、盛岡まで通い始めた。しばらくして、伸子さんの誕生日に、吹き込み用のテープレコーダーをプレゼントした義裕さん。伸子さんが「ボランティアをしていることをどうしてわかったの?」と聞くと、もう子どもが大きくなっていたので、子どもから聞いてうすうす知っていたとのこと。嘘をつくことを怒らずにこうやって応援してきた夫もすごい。

 私とはまるで反対。正面突破しか知らず、真正面からけんかして敗れること多かりき。ところが、伸子さんは、けんかすることなく、自分のやりたいことはとおしてしまう。聞いていると家庭裁判所の調停員を10年ぐらいやった。夫が19床の診療所を建てると、経理から、経営から、まかないまでやっていたという。夫が市長選に出れば、まるで自分のことのように選挙活動。大学院に在学していたときには、調停員もやっていたというし、どこにそんなエネルギーがあるのか?
 滝沢村の助役になってからは、県内各地に講演に行き、そこここで、女性議員の必要性を訴え、実際に女性議員誕生をサポートしている。今回、私が、奥州市に行くことを耳にするや、すぐに、宮古、久慈と働きかけたのは彼女で、3日連続講演会が実現した。行くとこ行くとこで、彼女の足跡が分かる。

 やることが速いことにも驚いた。今回私から、ベテルの話を聞き、次の土日で、ベテルに行くそうな。「早いでしょ?」とメールで言う。本もたくさん読み、勉強もたくさんし、女性たちを勇気づけ、行くとこ行くこと変えていってしまう。助役としても、教育長としても、村長に向かってきちんと自分の考えを伝える。村長たち二人は、採用したことを後悔しているのかもしれない。でも、村民のほうに目が向いているから、村長もむげに扱うことはできない。「市長にも賞味期限がある」と言っている夫はいま3期目ので、次期宮古市長は、伸子さんがいいと私は言っている。「宮古のヒラリー」の出現か?
 結婚当時の収入は、夫の奨学金と、彼女の失業保険のみ。親切な役所の人が、「生活保護を取っらどうか」と提案してくれたこともあったそうな。そんな二人の絆は太く、お互いの信頼は厚い。伸子さんが市長選に立候補したら、義裕さんがどんな風に応援するのか楽しみだ。
今度は、伸子さんに新潟に出没してもらうことを考えよう。

 さて今回3日間続けて、午後話をし、夜懇親会でまたしゃべりということをしたら、最後には、声が出にくくなり、私もやっぱり年だなと実感しました。


樽川通子受賞祝賀会
     2007,12,9(日)   於、ホテル国際21(長野市)

 12月9日(日)午後、170人の参加により樽川通子受賞祝賀会が催されました。国会議員、県会議員、など著名人もいる中、座席は、樽川さんと、3人が中央に並んでいるだけで、あとは事務局数名を除いてすべてくじ引きで決めるのでした。「男女共同参画社会づくり推進功労賞」は、下諏訪町、長野県が推薦したことによって受賞の運びとなったようで、下諏訪町長、県の監査委員仲間、県議、市議などの参加がたくさんでした。長野県外に住む人たちも結構沢山で、午前中は、そういう県外に住む参加者をコメンテーターとして、樽川さんが主宰している長野県政治学習塾の第3回学習会を開くなど、いかにも樽川さん、と思わせる企画もありました。「女性議員を増やすネットワークしなの」の10年間の活動を垣間見る思いでした。8人のコメンテーターに話させ、そのコーディネーターは、樽川さんが務めます。テーマは、「理想とする国家像」というものです。さすがは、女性たち、このテーマであっても誰も抽象的なことに走らず、自分の日ごろの活動に根ざしてそのテーマに迫ります。

皆さんの発言を聞いていておもしろかったのは、「今日は、学習会だというので、自分が学習するつもりでいたのに、こんなところで話すことになって」という人ばかりだったことです。もちろん私もその仲間。そこにいってはじめて紙を渡され、それを見ると自分が、コメンテーターの中にいる!これも樽川流なのだそうです。ご本人は「ちゃんと知らせたでしょう?」なのですが、「あなたがコメンテーターです」とはどこにも書いてなかったのでした。

でも皆さん話ができる人ばかり、一通り話し終わるとすかさず会場から手が挙がり、次々に質問やら、意見やらが出ます。昼食が終わって、休み時間中にも、どんどん意見が出て、質疑が続きました。私は、DVのこと、地域で、民間の手だけで、ケアハウスや、グループホーム、地域交流伝承館夢草堂などを作ってきたことを話したので、たくさんのリアクションをいただきました。自分のDV被害体験を語り始めた人もあり、皆さん他人事ではなく聞き入ったりもしました。「ネットワークしなの」の卒業生で、県議になっている方々もたくさん参加しており、そういう方々は、現在参議院の厚生労働委員会に所属している下田敦子さんに、法案の行方を質問したりもしていました。下田さんは、青森県議の出身で、参議院比例区での立候補のとき(2004年)WINWINで推薦をした方でした。でも介護の世界で働く人の給料が安いという話の中で、下田さんが、「月給13万位では、お嫁さんももらえない」と言ったのには少々驚きました。まるで男社会にいる人のようでした。

祝賀会が終わってから、遠くから来ている人たちで、お茶会、夜には、6人で、ちゃんこ鍋を囲んでの宴会でした。樽川さんは、こういう機会を利用して、いろいろな人が出会ったり、結んだりしてほしいと願っていて、今回は、鳥取から来た枠島和江さん、大分からの藤原真由美さん、フェミ議連の三井マリ子さん、関良江さんが最後まで交流しあい、来年は、群馬県で、女性議員サミットを開こうという話で盛り上がりました。新潟は?と言われたのですが、なにしろ、衆議院の選挙がいつになるか、ということがあって、予定が立てられません。選挙が終わったら、西村ちなみさんたちと話し合おうということにしています。2000年に長野で開かれた第2回の女性議員サミット。田中康夫知事誕生後の初めての知事公務が、このサミットでのあいさつだったそうで、それはそれはものすごいマスコミの数だったそうです。そのサミットの実行委員長が、樽川さんだったので、樽川さんが一躍有名になり、これを実行委員会で支えた人が、「ネットワークしなの」の人たちだったので、「しなの」もすっかり長野県で存在感を増したのだそうです。このときの樽川さんの発言は、「女性知事の誕生を願っていたのに、残念でした」と田中知事の目前でいってのけたところを目に付けてだったのか、その後の県の監査委員の入れ替わりの時、田中知事は、樽川さんを任命したのだそうです。田中知事でなかったら、私が監査委員になることなど、ありえなかったと樽川さん。

長野県には、女性の国会議員は一人もいないのですが、県議会での女性の比率は、確か20%ぐらい。これも、日本一のようです。県下全体の女性議員比率が、この春の統一地方選で、日本一に輝いたことが、今回の受賞になりました。10人ぐらいが、受賞したそうですが、あとの人はすべて、行政の人だったそうです。「仕事」として、男女共同参画に尽くした人たちだったとのこと。この授賞式に、県の行政の人が「ご一緒しましょうか?」というので「結構です、ひとりで行けますから」と断ったのだけど、自分以外は、みな、誰かと一緒に来ていたのだって。たくさんの樽川節に出会えて、元気と勇気をいただいてきました。


DV根絶国際フォーラム、第10回全国シェルターシンポジウム
        2007,11,23〜25  於、千葉市幕張メッセ

 DV根絶国際フォーラム、第10回全国シェルターシンポジウムに参加しました。ものすごく濃密な3日間を過ごしてきました。

 まず、国際というのは、中国、香港、モンゴル、韓国の人たちが来て、23日には、日本と合わせてアジアの5カ国の代表によるシンポジウムでした。これは幕張メッセで、同時通訳の補聴器(というのかしら?)を耳につけての参加でしたが、とても聞きづらい同時通訳だったこともあり、眠気に襲われていました。ひとつだけ強烈に残っているのは、中国の人が、DVの相談に来る人の70%が離婚はしたくないという女性たちだということでした。殺されそうな目に逢っているのに、離婚はしない。とすれば、それに甘んじるしかないのでしょう。
 離婚の前に立ちふさがるのは、まずは、経済でしょう。食べていけるのか?そして、周りが認めてくれるか?この二つがクリアーできなければ、暴力に甘んじて生きていくしかない。そう考えると、今、日本で離婚が増えているというのは、いいことなのかもしれませんね。何とか、離婚しても食べていけるし、周りも認めてくれるようになってきたのでしょうか?

 大変な数字を耳にしました。日本では、3日に一人の妻が夫に殺されている。5日に一人の夫が妻に殺されている。妻が怪我するのは、夫からの暴力によるものが一番多く、事故を上回っている。妻がを殺す大多数は、DVに耐え切れなくなり、そこから逃れるには殺すしかないと思い込まされてしまう結果。アメリカでの統計によると、妻が殺す、妻が殺される。昔は同数だったのが、シェルターなどができてきて、妻が殺すのが減っているそうです。
 去年、函館で夫を妻と長男二人で殺した事件、関係した方々から詳しく聞きました。この事件が報道されるとすぐに、弁護士がボランティアで担当し始め、その直後に、函館で、第9回の全国シェルターシンポが行われ、そこに参加したその弁護士が、函館のシェルターとつながり、東北大学でジェンダー学を専門としている教授沼崎一郎さんを知り、意見書を書いてもらった。函館でシェルターをしている人たちは、「押しかけ支援者」として、弁護士から紹介してもらって、加害者(実は被害者)たちに接見したり、差し入れをしたりとしてきたそうです。驚いたことに、自分の家庭がDV家庭だということも気が付いていなかったそうです。もちろんシェルターがあるということも知らなかった。実は、かつて自分も被害者として、このシェルターの支援で離婚が成立して自立できた女性が、その被害者であり加害者になってしまった女性をシェルターに紹介しようとしていた矢先に事件が起こってしまったのだそうです。

 この事件の発端は、妻への暴力のみならず、子どもにも虐待をしており、中学生の長女が、養護の先生に訴え、すぐに児童相談所に保護され、その結果、夫に殺されると思った妻が殺害を決意、それに長男が、協力したという事件なのです。睡眠薬で眠らせての殺害でした。「人に話したら殺すぞ」と常々言われているので、殺さない限り、殺されると思ったのです。殺されそうな目に何回もあっているのですから、そして誰にも相談できなかったのですから、「殺すしか逃げる道はない」と思ってしまったとしても不思議はありません。函館の一審では、妻も息子も罪をきることになっていたのですが、札幌の二審では、当時16歳だった息子については、刑罰ではなく、少年審判に回すという判決でした。たぶん少年院に入っていろいろなサポートを受け、「前科」がつかないまま社会人となる道が開かれるだろうということでした。
 もう一つ、聞きづてならないことは、徳島の事件です。妻がシェルターに保護され、夫に保護命令(注)が出た。夫は興信所を使って妻の居所を突き止め、子どもたちが見ている前で、刃渡り57センチの物で妻を切りつけ、顔を滅多打ちに刺したというのです。興信所は、保護命令が出たとわかると調べてくれないけど、それを隠して他へ頼んだら、その日のうちに教えてくれたというのです。そして、夫への保護命令というのが、ただ紙切れが届くだけだと聞いて驚きました。もっと人間同士の対面があって、なぜこういう命令が出たのか、夫に知らせる機会があったらいいのにと思いましたが、そんな手ぬるいことではだめなのかもしれません。興信所に対しても、保護命令が出た人について知らせておく手立ても必要でしょう。

 殺す殺されるという恐ろしい話でいま私の体の中は、煮えたぎっています。卓夫の両親もDVでしたし、最近は、桐鈴会の職員も、かなりすごいDVだということが分かり、次女海映が代理人となって、長岡支部で離婚の調停が進行中です。何と30年以上もがまんし続けてきたんです。この被害者は、何回か、けがや打撲で医療にかかっており、確か、卓夫も診察しているはず。それで海映は言いました。「医療機関の人が一番見つけやすい立場にいる。だから、萌気の職員の皆さんに話を聞いてもらいたい」そこで、2月5日(火)夜7時半から、9時半まで、萌気園で、海映の話を聞くことにしました。海映は、東京都の女性会館ウィメンズプラザで、女性の法律相談を担当しています。だから、今回の幕張でも、海映の話を聞いたという人に何人も逢いました。また、海映が私の娘だということを知らなかったウィメンズの職員もありました。またあらためて、海映の話をお知らせしますが、DV関係の方をご存知の方、知らせてあげてください。ほかの方でも聞けるようにセットするつもりです。桐鈴会の職員も聞きますし。

 桐鈴会のショートステイは、介護保険適用外にしているので、DV被害者のシェルターになることもあるし、最近では、こんなケースもありました。夫の暴力で、自分も子どもたちも被害を受け、今では、夫は死んでしまっているというのに、残された子ども二人とその母親の3人は、それぞれがその後遺症で一緒に住めなくなり、息子と二人東京から逃れて新潟県内に居を構えた。ところが、息子の暴力で殺されそうになって、母親がうちのショートステイにたどり着きました。子どもたちは、二人とも40代。母親は、70代だけど介護度は0です。3人分の生活費を稼いでいた娘が、小さな会社の営業で、会社自体も落ち込み、彼女の営業も落ち込んで、借金を重ねてきていました。桐鈴会への払いは後回しにしてもいいといっても大変律儀な親子で、借金をして払うのです。その借金も、カードローン。だからものすごく高い利子です。とうとう、母は、娘が東京へ連れて帰りました。また息子を世帯分離して、生活保護をもらう方向で、行政に動いてもらい、今度は、母娘を「生活苦による心中」事件にならないように、今、電話でやり取りしているところです。夫の暴力が、何十年もあとにまで影響していることをつぶさに見せられました。

 たくさんのDV後遺症で苦しんでいる人たちを知っています。DV防止法が作られて救われてきたことをご紹介しましょう。今回のフォーラムには、千葉県知事の堂本暁子さんが、ずうっと参加しておられました。彼女は、参議院議員でいたとき共生社会に関する調査会のメンバーとして、DV防止法の作成に深く携わってきました。もう一人同じように深くかかわってきた元法務大臣の南野知恵子さんも来ておられました。私が議員になった時に、この共生社会に関する調査会に入ろうと思ったら「もう法案が出来上がってしまってあとは提出するだけ」といわれてしまい、本会議に法案が上程されたときに、賛成のボタンを押しただけでした。

 この法案つくりが大変だったことは、いろいろなところで聞きました。今回も、小宮山洋子さん、福島瑞穂さん、かなりの議員さんたちが来ていて、そこここで発言していましたが、まず、「日本では妻を殴る夫なんて存在するわけがないだろう」というようなことを言っている男性たちに現状を理解してもらうところから始まり、2年半かけて作り上げたとのことでした。いつだったか、外務省の職員で、カナダの総領事館の男性が、暴力をふるい、妻が病院に行ってそのことがわかると「自分の妻を殴ってどこが悪い!」とのたまったということが新聞に出ていました。そういう男性たちを説得しながらこの法案つくりができたのは、6年間いられる参議院だったからだとみなさんおっしゃっていました。小宮山さんは、途中で、衆議院になったので、さらにそのことがわかったようです。本当に衆議院はいつ解散になるか分からず、いつも、選挙が頭から離れないという状態ですものね。この共生社会に関する調査会は、ほとんどが女性で、でも少し男性も入っていたようです。確か江田さつきさんなどが入っていたのでしょう。この日も、江田さんからのメッセージが読み上げられていました。その中にこの共生社会に関する調査会のことが触れられていました。参議院の議長として、参議院でできたDV法は記念すべきものだということでもあるのでしょう。

 DV防止法が2001年4月に成立し、2001年10月に施行されました。その結果「犬も食わない夫婦げんか」としていたものが、「犯罪」と言われ、現行犯ならすぐに逮捕されるように変わったのでした。被害者は、裁判所に保護命令を申し立てることができるようになり、「殺す以外に殺されるところからの逃げ道はない」状態から脱することができるようになったのでした。これこそまさに「政治が生活を変える」典型的なことと思われます。この法律は、女性議員が頑張っただけではなく、大勢の被害者や、その方たちをサポートしてきた支援者の皆さんとの協働としてできた法律でした。議員立法として提案者が提案理由の説明をし、質問を受けます。女性団体の皆さんも大勢が傍聴に行って質疑の模様を自分の目で見たり聞いたりして法案成立に寄与したのでした。その後2004年、2007年に少しずつ改正をして、だんだんに使いやすくなってきました。でもまだまだです。

 内閣府特命担当大臣(少子化対策/男女共同参画)上川陽子さんにも何年振りかで出会いました。近づくと「まあ、黒岩さん、何十年ぶり!」がご挨拶。実は、彼女がはじめて静岡1区から無所属で出馬する2000年に大学の後輩だから応援を頼むと言ってきた静岡の人がいて、静岡まで応援に行ったのでした。彼女にとっては、議員になる前に会ったきりの私なので、何十年ぶりと感じたのでしょう。まだ、7年半しかたっていません。でもよく覚えていたものです。しかも、「息子が」というと「わかっています。内閣委員会で質問を受けたことがあります。とてもしっかりした質問をされました」と。彼女の評判を周りの人に聞いてみたのですが、「とてもしっかりとして男女共同参画を理解し、やる気がある」と何人かの方が言っていました。期待しましょう。9時過ぎに会議が終わると、堂本さんが、食事に誘ってくださり、千葉県庁の方、船橋市議だった佐藤ももよさんと4人で夕食。堂本さんとこんな時間が取れるなんて、想像していなかったのですが、いろいろな楽しい話になって、それでも、翌日にならないうちに別れました。

 ところで、医者を含む医療関係者がDV被害者を見つけることがあるのですが、どういう症状で見つけるのかというと、圧倒的には、けがや打撲などの外傷です。ところが、実際の被害者は、ストレス性の不定愁訴や、うつ病など精神的な病気が多いのですが、それを見つけ出せる医者はとっても少ないようです。人に言ったら更なる暴力が心配だったり、自分自身恥ずかしくて言えなかったりで、医者に聞かれてもなかなか本当のことを言いません。それでも、信頼できるお友達には、相談することがあると思うので、皆さんに理解していただくことがとても意味のあることだと思えるのです。

 加害者教育プログラムというものがあります。私は、10年ぐらい前に、札幌でシェルターの国際会議が開かれた時、ちょこっとのぞいたら、ボストンで、DVのシェルターをやっているエマージュというところの黒人男性が話していることに大変興味を持ち、萌実がアメリカの大学院に行っていた時に、一緒にそのエマージュを訪ねたことがありました。1970年代の黒人たちの公民権運動の中で、家庭の中で夫
婦が手をつなげないようでは、公民権どころではない。ということで、DVをなくそうという趣旨で作られたのが、エマージュでした。そこでは、シェルターのほかに、加害者プログラムをやっていました。マサチューセッツ州では、DVの加害者に対して、刑罰を刑務所で受けるか、エマージュでのグループカウンセリング(GC)を受けるか選択制になっていました。多くの加害者は、GCのほうを選択します。その日も、10人ぐらいの加害者である男性たちが、GCを終わって出てくるところに行き合わせました。札幌に来た男性が、私たちを受け入れてくれたのですが、彼は、「GCの効果は、追跡調査をしていないのでわからない。」と答えました。

 今回のシンポで、沖縄県宜野湾市の竹下小夜子さん(精神科医)が、加害者について、かなりはっきりとした、また示唆に富んだ発言をされており、最後に堂本さんが「加害者プログラムは、効果がありますか?」と質問すると「まったくありません。」が答えでした。アメリカで20年にわたって、やってきて、その20年DVについて変化なしだったというのです。これに対して、日本で、加害者プログラムをやっている人は言います。「アメリカでは、強制的にやらされているでしょ?日本では、自発的にきているのだから違うはずよ。それに、私たちは、男子高校生に対して、予防プログラムを提示しているの。長崎県では、去年1年間に40の高校に行っているのよ。高校生に向かって加害者プログラムは効果ないなんて言えないでしょ?」というのです。堂本さんは、千葉県の予算をつけて、4年間加害者プログラムをやってきているので、効果がないといわれてショックだったようでした。私は、この効果について意見を保留しています。希望としては、効果があってほしいのですけど。
 竹下さんの意見では、加害者に対しては、厳罰で行くしかない。とのご意見でした。

 去年7月、ニュージーランドへ視察に行ったグループのほとんどが、今回参加していたので、一日目の夜その同窓会をしました。8人で、懐かしんだり、DVのことで話し込んだりと一夜を楽しみました。

注)、保護命令というのは、次のようなものです。千葉県のHPのその部分を紹介しましょう。

保護命令
被害者が配偶者からの更なる身体に対する暴力によりその生命又は身体に重大な危害を受けるおそれが大きいときは、裁判所が被害者からの申立てにより、加害者に対し発する命令です。命令には、「接近禁止命令」と「退去命令」の2種類があります。(加害者は、今まで婚姻関係または事実婚の関係にある者が対象でしたが、H16年の改正で、元配偶者も含むことになりました。)

 接近禁止命令とは、加害者に、被害者への身辺へのつきまとい等を6か月間禁止するものです。今回の改正で、被害者だけでなく、被害者と同居する子についても接近禁止命令を出すことが可能になりました。再度の申立ても可能です。

 退去命令とは、加害者に、2か月間、住居からの退去を命じるものです。今回の改正で、再度の申立ても可能になりました。
 なお、保護命令に違反した者には、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処せられます。


浦河ベテルの家、訪問記
          2007,11,19〜20

 11月19日(月)。工藤茂広さんと萌実と3人で札幌からバスで3時間20分、浦河につきました。そこは、襟裳岬に近い海辺の町です。そのバス停に、知り合いの中山祥世さんが迎えに出てくださっていて、「今、当事者研究をしています」というので、そろそろお昼だから食べに行こうか、なんて思っていたのが吹っ飛んで、バス停のすぐ前にあるベテルの本部に入り込みました。雑然と椅子に座っている人たちが、本部の机のないところで、マルクなっています。マイクを回して、仕事に就くにはどういう条件があればいいのかというテーマで話し合っていました。「安心があればいい」と何人かが言います。司会をしている向谷地さ生良さん(ソーシャルワーカーで、そもそもこのベテルを立ち上げた人)が「どういうことがあれば安心なの?」と聞く。「話を遮らないで聞いてくれる人がいる」「不特定多数の人が出入りするところは嫌」だから、女性4人だけで、オフィスを作って働いている、という人がいた。その人は、音楽家で、自分で歌ったり、レコードを販売したり、何やら、お金になる事業をしているそうです。
壁に掲げてある「ベテル理念」が実に興味深い。
・三度の飯よりミーティング
  金曜日は定例のミーティングがあり、そこでは、一人一人全員が、一週間の中で、楽しかったこと、苦労したことなどを話します。そのようにして、一人の問題を皆で共有するのでしょう。
・安心してさぼれる職場づくり
・自分でつけよう自分の病気
・手を動かすより口を動かせ
・偏見差別大歓迎
・幻聴から、幻聴さんへ
・弱さの情報公開
・公私混同大歓迎
・弱さを絆に
・場の力を信じる
・勝手になおすな自分の病気
・ベテルに染まれば、商売繁盛
・利益のないところを大切に
 幻聴大会で優勝した人の幻聴をお知らせしましょう。「小泉純一郎が、私に結婚しようという。私の体の右半分が、小泉さんのところに行ってしまった。向谷地さん、東京に行ったら、右半分を取ってきて」この話をうちの桐鈴会でしたら、認知症の人たちが、黒岩卓夫の子どもをうんだとかいうのも、たいしたことないんだね、との感想でした。

 精神しょうがいの当事者たちが、代表とか、社長、理事長などを務める事業体がいくつもあります。有限会社、「福祉ショップベテル」、社会福祉法人のほうは、地域生活援助事業部(1)、浦河べてる(2)、ニュウべてる(3)、の三つを持っていて、(1)は、グループホーム3つと共同住宅4つ(2006年現在)を持ち124人が住んでいる。(2)は新撰組事業部(製麺、水産、環境清掃、農産)と地域交流事業部(イベント、オリエンテーション、研修,ICT)(3)は4丁目ぶらぶらざ(地域交流、店頭販売)販売製造事業((出版、ビデオ、グッツ、うまいもん)となっていて、これらには入れなかった人たちが、近くのアパートに住んで、べてるのミーティングに出て、元気をいただくということも結構あるみたいです。中山さんもその一人。私たちを案内してオリエンテーションをしてくださった荻野施設長は、自分でつけた病名が「逃亡失踪症」。ストレスがたまると妻を連れて逃亡するのだそうです。すると、ほかの人が、「副施設長」や「副副施設長」を名乗り、勝手に名刺を作って、見学者に配っているということです。

 医者にかかる時の一番大事なことは、「本当のことは言わない」だそうで、本当のことを言ったら、薬が増えたり、入院ということになってしまうからとのこと。これはもちろん、よその医者のことです。ここの方々がかかっているのは、浦河日赤病院の川村先生で、彼は、「医者にかかりすぎだよ」と言ったりする医者です。べてるを支えている人の一人です。

 べてるの超有名人、早坂潔さんを20日朝尋ねました。10時半のバスの時間まで、早坂さんの住まいを訪ねたのでした。1978年、浦河日赤病院第7病棟(精神科)の回復者クラブ「どんぐりの会」が活動開始。1980年ごろから、退院してきた人たちが、日本キリスト教団浦河伝道所に住み始める。1983年から、そのメンバーが昆布で稼ぎ始める。早坂さんが、7病棟から、べてるに退院してきたのは、1983年4月9日。だと彼が言う。
 私たちがそれぞれ自己紹介をし、工藤さんが、養護学校の教員だったと聞いた彼が、「実は、僕も養護学級にいたんですよ。中学のときね」というので、「どうして?」と私が聞くと「今この人と話しているんだから、遮らないでください」と遮られてしまいました。この方は、一人の人と濃密に語り合いたいんだな、と理解して、口をはさまない努力を始めました。しばらくして、彼が言いました。「ぼくは、こうして話しているときに、電話が鳴ったり、人がトイレに出入りしたりするととっても嫌なんだ。さっきも失礼かと思ったのだけど、工藤さんと話しているときには、それだけしかできないということを黒岩さんに伝えた。それは、SSTで習ったこと」と言いました。SSTとは、ソーシャル・スキル・トレーニングのことだという。人と付き合うとき、されて嫌なことは人によって違うので、自分は、それはいやなのだということをちゃんと伝える訓練をするのですね。そのスキルを身につけられたら、ずいぶん生活しやすくなりますね。
 養護学級にいたのはなぜなのか?いまだと「発達障害」とか言われるのかもしれません。彼は、数字には詳しくて、とてもよく覚えているので、知的しょうがいには分類されなかったのでは?まあどっちでもいいですね。彼は、中学では、普通学級にはいなかった。そして中3で発病しています。
 彼は、仕事は一時間半までといつか聞きました。でもしゃべらせれば何時間でもとも。それで、彼がモノを売ると人より売れるらしいのです。それで、彼は、いつも、どこかに呼ばれると同行して、販売係、そして、講演をこなします。べてるに来たばかりの頃、よく爆発して、家を壊し、そのたびに修理するので、家がきれいになると言って向谷地さんを喜ばせたそうな。
 爆発といえば、爆発ミーティング、幻聴ミーティング、とにかく何でもミーティングです。一日のうちでも、午前中の終わりにミーティング、午後もまた終わりにミーティングです。心の中に何かつかえるものがあったら、そこで、皆さんにさらけ出してしまおうということなのでしょうね。そういうの私も大好きです。
 ただ、私たちがつく寸前に爆発があったそうで、たまたま私が荷物を載せた畳の下を見たら、壊れているのです!喧嘩になってものにあたったそうで、午後のミーティングのときに、向谷地悦子(生良さんの妻)さんがこう言っていました。「物に当たるのもいいけど、高いものには当たらないでね」と。これも本音なのだろうなと思いながら聞きました。

「上る人生から降りる人生」「そのまんまがいいみたい。それで順調」ここら辺は、私がやっていた大地塾とつながっていると思いました。

 本も、ビデオもたくさん出ています。「早坂潔はかく語りき」を買ってきました。
Hpを覗いて大笑いしてください。楽しいですよ。
http://www.jinken.ne.jp/challenged/beteru/beteru_3.html

 8月に帆姿の家で家政婦をしていたとき、帆姿の友達がよく訪ねてきてくれました。その中に、浦河町出身だという人がいてびっくり。今回私たちが行くということを帆姿から聞いて、その方が、お父さんに連絡してくれました。というのは、そのお父さんが、べてるの関係者だというのです。私たちがつくとすぐに、逃亡失踪症の荻野さんが、「高田さんが黒岩さんと会いたいそうです。高田さんは、5時過ぎにここにきます」と言いに来てくれました。高田さんとの話し合いは、稔り豊かなものでした。
 彼は、この地域の自治会長で、「地域の人たちをべてるの人たちから守る」のが自分の使命だとの認識で、社会福祉法人浦河べてるの家の常務理事になって毎日ここに通ってきているというのでした。実際、いろいろな事件があったはずだし、地域の方々がそれを見てもいたに違いありません。高田さんのお話では、なかなか地域を耕すことができないとのことでした。高田さんは、ご自分で、水産加工業を営み、自治会長の上に常務をしておられるということで、まさに、地域とべてるをつなぐ方に違いありません。その方からかなりシビアな現状をお聞きすることになったのでした。これは永遠の課題なのかもしれません。それでも、高田さんのようにその役を引き受けた人があるということはすごいことだと思いました。


障害のある人もない人も暮らしやすい新潟に
  〜野沢和弘さん講演会〜

        2007,11,17    於、新潟市西新潟市民会館

 11月17日(土)の午後、新潟市西新潟市民会館で開かれた自立生活研究会主催の野沢和弘講演会に桐鈴会から4人で、参加しました。このhp「感動した本」で紹介した「条例のある街」の著者で、毎日新聞の夕刊編集部長である野沢和弘さんです。日本で初めてのしょうがい者差別禁止条例が千葉県でできる過程の話なのですが、はじめのうちノートを取っていたのですが、だんだんに手が震えてきていて、ノートが読めない状態になり最後には、何も書いてないのでした。野沢さんの話が終って、休憩時間にロビーに出るとどの人も、目が「泣いていました」という状態です。私も、涙涙でノートなんかとっていられなくなったのでした。話の内容は、「条例のある街」で読んだことがあって知っていることがほとんどだというのに、こんなに泣けるのは、きっと野沢さんの生きる姿勢が心を打ったのだと思います。
 
 彼は、「自閉症」といわれる息子さんがいるために大熊由紀子さんから声がかかって千葉県の差別禁止条例を作るための29人の研究会の座長を務めることになったのです。はじめのうちは、知的障害者の親ごさんは自分の不幸についてのみ語り、ほかのしょうがいの人たちもみんな自分のことばかり語っています。ところが、何回かするうちに他の障害の人たちもそれぞれに大変なのだということに気がつき始める。平日の夜県庁の一室での会議。県庁職員たちも、各課ごとに参加して聞いている。20回にわたる会議はどんどん変化していく。2006年2月の議会に差別禁止条例として提出。ところが、自民党の強烈な反対にあって、継続審議になってしまった。6月議会では、修正に応じたことをもって「そんないい加減な条例を出した・撤回しろ!」の声。翌朝、知事は、撤回した。その時の敗北感は、いかばかりであったろう。その当日の本会議場。すべて終わって、みんなが出て行ってしまったのに、170を埋め尽くした傍聴席はだれも立ち上がらない。見ると前のほうにいる知事も座ったまま。傍聴席から「知事これからもがんばってください」の声が飛ぶ。知事は、傍聴席に向かって深々とお辞儀。涙。涙。
 
 ところが、その時から、自民党の良識的な議員の動きが始まる。攻めたり引いたりという駆け引きが物事を決めていくことは知っていたが、この時、知事は決して駆け引きをしたのではない、と思う。そのまま、条例が闇に葬られることをも覚悟して、撤回したのだろう。ただ「多くの関係者が、この条例の成立を待っておられるので、9月議会には、再提出させていただきます」と付け加えた。その後、事情をよく知る自民党の議員たちが、それから動き出して修正した条例を9月議会に提出。10月10日の本会議で議決にこぎつけた。しょうがい者関係者、企業家たち、議員たちと知事、県職員、そんなたくさんの人たちをめぐる大きなドラマの展開は、「愛は地球を救う」なんていうキャッチフレーズが飛び出しそうなきめ細かなものだった。野沢さんの言葉が、会場の人たちすべての心に届いた証拠には、桐鈴会の職員で、今まで私が持っていった本など一度として目もくれたことがない人が「条例のある街」の本を抱えて帰って行ったことに表れていました。私は、その本の出版記念会で、注文して、すでに30冊を売りまくってあったのでしたから。

 そして、この千葉に始まるドラマは、次が岩手、鳥取に引き継がれていくだろうと野沢さん、さっそくその岩手のキーパーソンを私の岩手人脈につなげようと考えているのですが・・・・

 11月21日(水)NHK教育テレビ、福祉ネットワーク「市民がつくった障害者差別条例」20:00〜20:29 をみました。野沢さんの話に出てきた高梨さんという全盲の方を拝見することができました。彼は、こう発言したそうです。「私が市長になったらこういうことをしようと思っています。その市は、盲人が半分以上の市です。『財政難につき、市内全部の電気を止める』後の人たちはわがままを言わないでください」と。そんな話が出たりしながら、差別する人と差別される人をわけるのではなく、違いを持った人同士が、お互いを認め合いながら共生していく方法を探ったのが、この差別禁止条例つくりだったのですね。だから、罰はなし。公表もしない。知事の成果とせず、研究会に集う、当事者たちの成果として報道されていました。

 この番組の中で、野沢さんがこんな発言をしておられました。「これまで攻撃型だった方が多かったのではと思える当事者の研究会メンバーが、提案型の条例つくりにはまり込んだということが、一番大変だったことなのでは?」そうなのでしょう。私は、そういう意味でも、新潟で条例つくりに取り掛かりたいと思いました。


オランダのイエナプランに学ぶ
   2007,11,10   於、法政大学

 10日(土)昔在学していたことがある市ヶ谷の法政大学に行ってきました。ものすごく高い建物になってしまっていて、昔の面影は全然ありませんでした。でも、校舎の中に入って学生たちが、寝そべっていたり、床に腰をおろして、食事をとっていたりするところを見たら、懐かしい雰囲気だと思うことができました。
 
 初めに登場したリヒテルズ直子さん、彼女は、オランダのハーグ在住で、「オランダの教育」(平凡社)をかなり前に出しておられ、2005年5月にオランダに行くときにこの本を読んで、ダルトンの小学校に行ったことが、私のHP活動報告(1)に載っています。

 オランダからこられた3人の先生たちの通訳をして下さったのが、リヒテルズさんでした。はじめに、「イエナプラン教育」というのは、メソドとか、マニュアルではなく、ビジョンだという話からはじまりました。初めは、ドイツのペーター・ペーターセンがイエナ大学の実験校で実践していたもので、1920年代にドイツで起こったこの教育運動が、1960年代になって、オランダで開花したのでした。オランダに持ち込んだのは、スース・フロイデンタールという女性です。彼女の夫は、「リアリスティック数学教育」で名をはせた方で、当時ユトレヒト大学(揺光が修士課程を学んだところ)の教授でした。スースさんの写真が、映し出されたのですが、だれもが、その顔を男性だと思い込んでいたので、女性だと言われた時に、笑いが広がりました。とても力強い感じで、肝っ玉母さんだったのでしょう。

 イエナプラン教育の内容については、異年齢の子どもたちが、グループを作って個別学習と、グループ学習がかなり上手に組み合わされている感じです。学校の校舎の作りからしてかなり違っています。日本の校舎は、刑務所がモデルであるということを初めて聞きました。つまり、ローカが北側にあって、刑務官がローカから室内を見通せる、という構造。イエナの学校は、大きくても、300人ぐらいが全校生徒。その全校生徒が集まる所を真ん中に置いて、各クラス(リビングルームと言っている)が、花弁のようにでっぱている構造だったり、かなり工夫が凝らされています。日本でも、富士宮市にある通称「泥んこ保育園」(正式名称は野中保育園)などは、ずいぶん工夫された構造になっていて、どこの部屋にも、子どもしか入れない隠れ家があったりします。昔、大地塾で毎年泊まりに行っていた妙高少年自然の家も全体が迷路のようになっていたり、各部屋に隠れ家があったり、工夫されていました。それに比べると公立の小学校などは、今は違うのかしら?私が知っているのは、「刑務所スタイル」ばかりです。

 さて、リビングルームでは、5〜6人のグループが、一つのテーブルを囲めるようにもなっているし、椅子を移動して、クラス全体が、円形になって、話し合いをする、担任の先生は、グループリーダーと言われています。異年齢というのが、日本でいう3学年にまたがっています。だから、新年度には、3分の1が、卒業して次のクラスに行く、その分下から上がってくる、ということで、毎年3分の1のメンバーが交代するだけで、担任はいつも同じ部屋にいる。オランダでは、幼児教育と小学校教育の連続ということで、1985年から、4歳の誕生日に学校に上がることになっています。だから、4〜6歳、7〜9歳、10〜12歳というのがクラスを作る集団です。日本でも、保育園では、縦割りというところもあって(ごく少数だけど)その場合、4〜6歳の集団が、一クラスになっています。学習は、個別ですることもあるし、グループですることもあるし、クラス全体ですることもある。個別に学力をつけていくだけではなく、人との関係のとり方を学んでいけるシステムです。

 オランダが、一番うらやましいのは、私立学校でも公立学校でも、すべてお金は、税金で出されるので、私立校が授業料で運営される日本とは大きな違いがあります。日本では、毎年毎年私立学校への助成金を減らさないでという署名集めをして、やっと少ない助成金を得ているというのが現状です。萌実が務めているので、私たちは、毎年この署名集めに協力しています。新しい教育を実験するのは、ほとんどが、私立校ですから、そこが一番うらやましい。教育にはお金をもっとかけなくてはいけないと常々考えています。

 リヒテルズ直子さんが、2006年、9月に出された「オランダの個別教育はなぜ成功したのか」−−イエナプラン教育に学ぶ、(平凡社刊)を会場で買ってきたので、かなりのところは、それを参考にさせていただきました。

 私が聞いていて特に珍しい話はなかったと思ったのです。「ビジョン」そのものは一致している。以前見学したダルトンの小学校も、雰囲気としては同じようだったし、ヨーロッパでは、モンテッソリー、シュタイナー、ニール、フレネ、などいろいろなオルタナティブ教育がお互いに影響し合いながら成長していったのだと思います。個人の学力と、人間関係を作る力をそれぞれどうやってつけていくのか、それが工夫所で、いくつかの派に分かれているけど目指すところは似ているのだと思います。

 今日も午前中、3度目の高校入試に挑戦するというちーちゃんのご両親と去年落とされた高校の校長と面会に行きました。総合高校なので普通の高校よりは、ゆるやかになっているのかと思ったら、全然そんなことはなくて、制服は厳しく、アルバイトも禁止というところでした。去年受けたときには、別室で代読の方についてもらっての受験だったのですが、終わった時におそらく終わったことがうれしくて、代読の方に抱きつき、そのあと校長にも抱きついたというのです。その話になったら、校長が「首になるかと思った」というのです、一瞬何を言っているのかとわからなくて、聞き返したら、やはり同じことを言うので、考えてみたら、セクハラを疑われると勘違いしたのだろうと理解しました。つまり、生徒に抱きつかれて、うれしいよりは先に、首になると心配になったというのが、校長です。お母さんは、とっても理解のある校長だから、そして、お兄さんもこの学校だったから、ぜひこの学校に入れたいというのですが、私とお父さんは、とっても無理、入れる気は全くなし、だと判断しました。どうやら、ちーちゃんもそれを理解しているようで、今回の受験は、しなくていいという意思表示をしているようなのです。代読がついてもすべて0点しか取れず、排除しようとしている学校には入りたくないと考えているのだと思えてなりません。これまでにも、何回か高校入試に挑戦してとうとうあきらめた人たちを知っていますが、受験をして落ちる、という体験が、どんなに大変なものか思い知らされてきた感じがしています。

 私は校長に言うだけのことは言いました。「学校では、学力をつけるというだけではなく、お友達との人間関係を学ぶということもあると思うのです。ちーちゃんは、中学まで、お友達との関係が大好きで、先生方からもその点では、心配がないと言われていて、9年間登校をしぶるということもなく学校を楽しんできました。だから、今回入学が許されたら、たぶんお友達との関係では、何の心配もないと思うのですが・・・・」そういうと校長もその通りです。とはいうのです。「でも」という言葉を飲み込んだのでしょう。「入学試験は、入試の結果と内申書によって審査します」とだけ言うのでした。
 「総合高校というのは、他の高校と比べて大変なんです。自分で何を勉強したいのか選んで、の単位をとるということなのですから」単位制との違いは?については「単位制は、定時制だし、こちらは、着物の着付けとか、実習とかもそろっていて、そのたくさんの中から選べるのです」という自尊心に支えられていると感じました。

 オランダでは、しょうがい児特別支援教育について、先の本によると、2003年から、リュックサック政策というのがとられたということです。正式な名前は、個別生徒補助金政策というもので、一人の生徒に必要な支援を詳しく調べて、それに必要な補助金をその子が選んだ学校に持って行く。ということです。その学校というのが、一つではなく、二つでもいいようです。普通校と特別支援校と、というように。オランダでは、すべての子どもが、どこの学校を選んでもいいようになっているので、障害を持っていても同じです。さらに親たちの要望によって、複数選べるようにもなったとのこと。普通学級でも、個別指導体制があるので、かなりのことが可能になっているようです。

 オランダでは、ダルトン、モンテッソリー、フレネ、などを含めて、イエナプランもどんどんその学校の数が増えてきて、子どもの幸福度が世界一、ということになったようです。学力世界一のフィンランドより、私は、幸福度世界一という方がはるかに価値があると思えてならないのですが、オランダ人という人たちの気質が、かなり柔軟で、夫と妻が、3分の2ずつ働いて、あとは家庭生活を楽しむというワークシェアリングに現れているようなそういう精神土壌でこそイエナプラン等が、広がっていくのだと思えてなりませんでした。



第6回「女政のえん」上川あやさんトークの報告。
     10月27日(土)  於、花のえんin渋谷

 世田谷区議上川あやさんは、性同一性障害で、性転換をした人というだけで見てみたいという単純な興味を持っていた自分、現れたのは、だれが見ても女性!背が高く、颯爽としていてカッコイイ!
 話し始めたら、大変なものでした。まず、人間は、男でも女でもない人が、2000人に一人はいる、という事実。そして、生物学的には、男、女であっても、その中間というか、自分の性が自分の心と合わない人、恋の対象が同性に向いて行く人、実に様々なセクシュアリティーが存在するということ。でも、ほとんどの人はそれを隠している。新宿二丁目のセクシャルマイノリティーの人たちが集まるところに行って、自分の本音を語っても、名前は、本名を言わず、仮名で語り合うといいます。本名で話して、職場を失う人、勘当されてしまう人、それが現実であることを知りつくした人たちです。生きていくためには、仮名。「上川あや」もその時に使っていた名前だそうです。

 いろいろな世論調査の結果では、セクシャルマイノリティーの人たちは、かなりの数字に登るそうで、家族にも言えず、友達にも言えずに、隠している。だから、あなたたちの家族にいるかもしれないし、友達にもいるかもしれない。「私は、小さい時から、兄とも、弟とも、遊びが違う。いつも女の子と遊んでいたそうです。野球とかには興味がわかない。自分のことを僕とか、俺とか言えない」中高と男子校に通い、恋をする。でもその相手は、そのうち女性を好きになり、離れて行った。

 背広すがたで、5年間サラリーマンをした。体調を崩して、やめて、性転換を決意。17歳の時に、すでにそれらしきことは話してあった母に27歳で告白。「驚かないわ」と母は受け入れる。父も、「君が幸せなら…」と認める。「変えてゆく勇気」(岩波新書、2006,2,20刊)を読んで一番印象深いのは、毛を抜く作業でした。一本ぬいても痛い。全部抜いても、また出てくる、埋まっているのをすべて抜くには、半年かかるそうです。その上、のど仏を削る手術!まさに「身を削る」作業です。しかし何と言っても、ご両親の理解ある受け入れが、彼女のエネルギーのもとだということがよくわかるお話でした。

 その人が、世田谷区議に当選。今年の春は、二期目の選挙、現職では、トップでした。それもそのはず、その活躍は目覚ましいものでした。人工肛門の人が入れる公衆トイレを、聾者には、手話だけでなく、口述筆記を、などなどマイノリティーに関する問題を取り上げて、行政に実現させる。国会にロビイングに行き、とうとう、性転換した人の戸籍を変えられる法律を成立させました。本当は、戸籍に性別を書き込むことそのものがなくなればいいのですけどね。アメリカなどの多くの州では、履歴書に、性別、生年月日の欄がないそうです。性別差別、年齢差別をなくすためとのこと。

 彼女のHPをのぞくとたくさんの情報があります。議員になってからも、「オカマの議員へ」という張り紙を電信柱にされたりとかいろいろあるけど、彼女の本気になっての訴えを受け止める人が現れて、つながりがどんどん深く広くなっていくことに、参加者一同感動と元気をいただくことができました。今回も、滋賀県から出てきての参加者もあり、東京都桧原村(宅急便が東京からでも翌日届かないへき地)の村議丸山美子さんからは、たった10人の村議会で、議院運営委員長になって、改革に取り組んだら、傍聴に来る人が増えて、議会が楽しくなってきた話がありました。この村は、老人会が、持ち回りで傍聴するというしきたりがあったそうで、これはいいしきたり、早速私も南魚沼市でその提案をしてみようと思っています。傍聴者がいれば、議員たちだってそんなに恥ずかしいことは言っていられなくなりますものね。

4時から6時が、1次会、6時から9時半が二次会、それから、上川さんも含めて3次会。帰ったのは、日にちが変わっていました。上川さんもとっても楽しかったと言われましたが、参加者一同、もらい泣き、大笑い。そして、一同勇気をいただいて帰りました。


日本女性会議in広島
     10月19,20  於、広島国際会議場など

 日本女性会議というのは、今年が24回目。国際婦人年の後、名古屋を皮ぎりに毎年持ち回りでいろいろな県を回ってきたのだそうです。私は今回が初参加でした。去年の下関大会は、行政主導で行われ、民間の人たちからは、いろいろな苦情があったと伺っていました。今年の広島は、民間主導で、手づくり集会。参加者が、3500人、実行委員会が500人というなかなかのものです。

 19日は、13:30から16:30、16に別れた分科会と夜の交流会のみでした。私は、「女性の政治参画」という分科会に出ました。韓国からこられたリ・ユンスク前ハンナラ党副総裁、前国会議員の基調講演の後、山下泰子文京学院大学大学院教授がコーディネーターで、白井文尼崎市長とリ・ユンスクのシンポジウム。3人とも、なかなかのかたがたで、それぞれが、印象深いことを話されました。
リ・ユンスクさんは、「女性たちは、就職がないと嘆いていないで、議員になりなさい。そうすれば、世の中を変えられるし、仕事にもありつける」1991年にアルゼンチンで始まった割当て制(クオータ制)が、世界中に広まって、それによって女性議員が増えてきた。日本もぜひもっと女性が活躍できるように、一緒にがんばっていきましょう。と激励。ただ女性には、女房がいないというハンデがある、といって笑わせていました。

白井尼崎市長は、若くて美人、話がとっても上手。リ・ユンスクさんからも「プレゼンテーションがすばらしい」と絶賛されていましたが、敵を作らない感じの実にすっきりした容貌と話!男性を敵に回さない、ことを強調されていました。多額な財政赤字を、一期目に相当な額をなくしたということで、市民の共感を得たようです。その結果二期目は自公推薦の候補を10万対47000で破ったということでした。

 夜の交流会では、随分いろいろな人と出会いました。「経産省の山田課長補佐、ただいま育休中」の著者、山田正人さん、〔子育て支援分科会、基調講演〕、性教育で活躍の産婦人科医、河野美代子さん〔心と体分科会、シンポジスト〕、新津子育て支援センター館長椎谷照美さん〔災害と女性施策分科会、シンポジスト〕そして交流会の後は、椎谷さんが、出会いたいといっていた矢島洋子さん〔内閣府男女共同参画分析官を努めておられ、就労・働き方分科会のシンポジスト〕が一緒だった男女共同参画局長板東久美子さんと椎谷さんと4人で、海のすばらしい夜景が見える23階の喫茶コーナーで、語り合いの時間が取れました。矢島さんは、今年の4月から、三菱UFJリサーチandコンサルティング主任研究員を務めており、エコファンド、ファミリーフレンドリーファンドを作り上げて世に出し、いろいろな賞をとっている筑紫みずえさんと組んで、ワーク・ライフ・バランスの重要性を広報している方ですが、内閣府に3年おられたので、宇洋のことは、「厳しい質問をする人」ということで、ご記憶とのこと。

 次世代育成のMLで、私がこの報告を載せたら、矢島さんからこんなレスがありました。
「黒岩さん
 日本女性会議では、会場の熱気に煽られ呆然としていた私と山田さんに声をかけてくださって、ありがとうございました。メールの内容以上に、実際にお目にかかった黒岩さんはパワフルでした。板東局長への質問攻めもお見事でした。ちなみに、私は、たしかに三菱UFJのグループ企業に勤めてはいるのですが、最初からシンクタンクに入社しているので、金融関係のことはまったくわかりません。筑紫さんとお目にかかったのは2度目で、大変意気投合しましたが、筑紫さんがコーディネートして、三菱UFJ信託が販売しているファミリーフレンドリーファンドにも、まったく関わりがありません。残念ながら。私がパネラーとして参加した就労の分科会でも、誤解されている方が多かったようです。」

 板東久美子さんは、個人的なことも隠すことなく語られ、また、政治的なことも、警戒せず、いろいろと語ってくださったので、大変興味深く、いろいろとインタビューしてしまいました。「安倍内閣は、耳障りの悪いことが、首相の耳に入らないという構造だったので、短命だろうとは、霞ヶ関の誰もが思っていた。松岡大臣のことは、霞ヶ関では、知らない人はいなかったと思う」とのことでした。耳障りの悪いことが耳に入ってくる体制をいつも作っておく必要があるのですね。       
              

 20日には、午前午後とびっちりありましたが、午前中に、30代の女性3人が、「平和を創り出す若者たち~広島から世界へ発信」ということで話しました。この3人は、広島女学院という中高一貫の女学校の同級生同士でした。この学園時代に、先生からの話で、平和に興味が向いたとのことでした。札幌の、萌実が教員をしている北星学園女子部と似ているのでは?もしかして、姉妹関係になるところでは?って思いました。北星でも、兵役拒否をした海兵隊の人を呼んで生徒に話してもらったりしていますから。北星は、校長を教員が投票で選んでいます。終わってから萌実に聞いたところでは、やはり姉妹校で、以前北星が広島に修学旅行で行っていたころは、広島女学院の生徒が、北星の生徒を案内していたそうです。

 午後の池田香代子さんの講演は実に興味深いものでした。「世界がもし100人の村だったら」ですっかり名をはせた方ですが、とっても若い感じで、「がんばらない」を書いた鎌田實さんと同級生だったと聞いて驚きました。まず、日本の子供の犯罪が、増えている、凶暴になっている、などは、「うそ」だということで、実際に数字を挙げていました。世界の子供と比べると、断然日本の子供はいい子なのだそうです。犯罪ということで言えば、アメリカや、ヨーロッパが、日本の数倍、どうしてか?それは、日本が戦争をしてこなかったからというのが、デーン・アーチャー氏の説だとのこと。かつて藤原正彦が「国家の品格」に「今の日本の子供は最低」だと書いたそうで、調べてみたら、犯罪率は、50年前は、今の5倍だったそうです。その頃は、まだきっと戦争の名残があったからなのでしょう。「戦争をすると殺人事件が増える」というデーンさんのテーゼは、とっても納得がいくものでした。


「だれもが安心して暮らせるまちづくりとは」
   --中越地震からの手探り

     2007,10,14    於、小出ボランティアセンター

 14日(日)隣町の小出ボランティアセンターで、タイトルのような集会がありました。これを主催したのは、車いす生活をしている山内俊博さんを実行委員長とする実行委員会でした。私も、そのメンバーなのですが、これまでいつも準備会に出られなくて、10月8日にやっと参加でき、そこで、私の役目は、新幹線浦佐駅の前に住んでいるので、講師の人たちのお迎えと送りでした。

 阪神淡路の被災者支援を目的に小室等、永六輔、牧口一二等が呼びかけ人となってできたNPO法人夢かぜ基金の理事八幡隆司さん、と弁護士の大澤理尋さんをお迎えに行って会場に向かいました。大澤さんは、弟さんが、宇洋、萌実の同級生。その一つ上の理尋さんは、萌実とは小学校から大学まで一緒でした。新潟市にお住まいで、無年金障害者の弁護団でもあるので、宇洋とも、付き合いが続いています。ご両親とも、福祉の世界では、この地域では、よく知られています。八幡さんは、大阪で、小規模作業所を運営しながら、全国に講演にまわったり、被災地支援に飛んだりと忙しい生活を送られています。30歳から46歳まで、4期箕面市の市議をしていたそうです。講演の中で、「水害にあって避難所に行ってみたら、そこには、タオル、雑巾、の類が何もなかったという。防災訓練をする時には、何がそこに備えてあるのかをチェックするという役目もある」と話していました。

 このフォーラムは、今年の春ごろから企画が始まっていて、その最中に、またして、中越沖地震に見舞われたのでした。初めに、実行委員長の山内さんから問題提起がありました。

 「3年前の中越地震の時、自分は、避難所にはいけないとすぐに思った。車いすで入れるか?雑魚寝という状態では、寝られない。空き地に避難するようにと言われたが、体温調節ができないので、とても寒さに耐えられないと思った。幸いなことに、近所の人が、発電機を持っていたので、それを借りて、自宅で過ごしました。人は、「家族と一緒でよかったね」と言ってくれるが、施設、家族しか、障害者にとっての暮らす場はないのか?自立生活をしたいと思っているが、その時に被災したら、ヘルパーさんも被災しているとなるとどうしたらいいのか?しかも、雪が積もっていたら、車椅子で外には出られない。そういうことをどうしたらいいのか考えたい」いつもながら、なにも見ずに、実に的確に話を進めていく山内さんに感心しながら聞いていました。

 南アルプス市の社会福祉協議会の課長さん、斎藤節子さんの話は、結構驚きました。何と言っても、二村、四町の合併が、住民からの発案で、住民主導で行われてこと、その中で、住民との共同作業で、「あったか色のまちづくり計画」ができ、その中で、「防災を切り口としてだれもが安心して暮らせる地域づくり」ができてきたのだそうです。帰りには、この斎藤さんを駅に送るのが仕事でした。彼女は、ボランティアコーディネーターという役割があるそうです。それは、ヘルパーとか、さまざまな制度上の支援では、賄いきれない所をボランティアの力で補うことをコーディネイトするのだそうです。それっていいアイデアですよね。山梨県で始めたときに、お声がかかって、専業主婦を卒業したのだそうです。帰りに時間があったので、私たちのケアハウス、グループホームを見ていっていただきました。

 大澤さんからは、日弁連の人権擁護大会の決議が紹介され、住宅再建支援法が、中越沖地震にまでさかのぼって適用されるようにしていきたいとの決意が述べられました。

 新潟から、障害を持った方たちが来られ、地元の方は、ほんのわずかでしたが、全体では、50名ぐらいの参加で、障害当事者の山内さんが、主催されたということに大きな意義があったと思いました。


「世界びっくり子育て」
    2007,10,13  於、南魚沼市役所大会議室

 13日(ど)、午前中、タイトルのようなイベントが行われました。南魚沼市男女共同参画会議子育て教育部会主催で、私もその部員の一人で、コーディネーターをあてがわれました。南魚沼市にある国際大学の学生さんたちにいろいろな国の子育て事情を話してもらって、許容量を広げていただこうというのが、主催者の意図でした。春のころから、話していただく方を探し始め、7人もの方が話してくれることになり、その方々は、みな日本語だと思い込んでいたコーディネーター。30分前に打ち合わせということになっていたのに、ひとりのパネラーの子どもさんが熱が出たとかで、あらわれたのは、15分前。そこで初めて分かったのは、日本語ができる人は、7人中2人だということ。そのうちの一人(スリランカ)が、通訳をしてくれるそうな。

 主催者側で、お国事情とか、世界地図だとか用意したというのに、みんなが、自分のお国事情から話し始めるので、その上、通訳です。時間がかかること!
 それでも、いくつかの新しい発見もありました。スピーカーは、モンゴル、キルギス(二名)、スリランカ、ネパール、インドネシア、アメリカ。アジアの各国は、どこも、かなり伝統的な子育てをしていたけど、どこも女性が働きに出るようになって男女の役割分担も変わってきている。キルギスの二名は、子どもを夫に預けて、単身で学生として日本に来ています。少子化も、どこも進んでいて、モンゴルでは、5人以上子どもを産んだ人、9人以上産んだ人それぞれに特典があるようになっているとか。また、少子化策でしょうか?国立病院では、出産費用は〇になっているという国がいくつかあるので、みんなが、国立病院に押しかけて大変でしょう?と聞くと、いえ、国立病院は下手だから、お金がない人しか行かないとのこと。経済発展のおかげでしょう。

 アメリカ人信田グレッチェンさんは、日本人の教授の妻で、ご自分も、就職カウンセラーとして国際大学の職員さん。日本には17年住んでいるので、アメリカと日本の違いをかなり鮮明に話してくれました。アメリカでは、自分の意見をきちんと言えるということが価値ありなので、そういう訓練をする。小さいときから親とは別の部屋に寝ることになっているのだけど、日本人の父親がいるので、中途半端いなっているのだそうです。信田さんの子どもは、浦佐小学校3年生で、まだ、完全には一人で寝てはいないそうです。

 初めての試みだったので、事前の打ち合わせも、ちゃんとできていなかったりするけど、いくつかの新事実が出てきたり、第一回目としては、まあまあというところかもしれません。これを機に、もっと国際大学の人たちと近づきになれたらいいと思いました。揺光のガールフレンドが、国際大学の二年生スージンです。一年生以外の人はみんなスージンのことを知っていました。今、卒論の調査にタイに行っていて、来年までここにいません。ちょうど、彼女が、ビルマに行ってタイに帰ってきたあくる日にあの暴動が起きたのでした。


県議補選、長谷川きよさん激励女性議員リレートーク

   2007,10,11   於、小千谷サンプラザ

当日の夕方、突如として舞い込んだタイトルのような会に参加しました。小千谷の県議は、一議席、塚田さんの選挙違反で、現職自民党県議が議席を失ったために、今回は、その補選です。12日が告示日、21日投票です。前日の段階では他の立候補者はない見込みで、無投票当選になる可能性が高いのですが、12日は、一日中、街頭演説をして回ります。

さて、会場に行ってみたら、福島瑞穂、中川智子(元衆議院議員)、松川キヌヨ県議、後は、魚沼市議星野邦子、柏崎市議池田千賀子、十日町市議大田祐子、が会場に対面で並んでおり、私には、「中川さんの次に話して」といわれました。

一人10分、日ごろ話をすることを生業としている人たちだけあって、300人ぐらいの会場を埋め尽くした聴衆を唖然とさせるエネルギーあふれるものばかりでした。中でも、中川智子さんのは、一段と迫力があって、会場は、大爆笑、かと思えば、涙涙の話。10分などとっくに過ぎていたのでしょうけど、ストップもかかりません。関西の地震の時に、現地のボランティアとして活躍したときのこと。中越地震で翌日長谷川さんに頼まれたものを持って駆け付けたら、きよさんが、それはそれは献身的に病院の中を動き回っていた。きよさんは、以前報告しましたが、お年寄りのグループホームとデイサービスを古家を使って運営しています。その利用者さんたちを病院にお連れしていたのでしょう。

そして、政治によって、人を殺すこともできてしまうし、安心の生活を保障することもできる。被災者支援法はできたけど、被災者の住宅を補償することができていない。それがこれからの課題。鳥取県で地震があった時、当時の片山知事は、被災者全員に何百万円かの助成をしたために、一人も県外に移住しないですんだ、県レベルでそのぐらいのことはできる。長谷川さんに県議会に行ったら、こんなことを、ということで、大変な迫力でした。

そのあと登壇した私は、中川さんとハンセン病裁判の後控訴しないようにと小泉内閣に迫ったり、女性議員懇談会で、いろいろやってきた話をしていたら、「長谷川さんのことを話して」と中川さんから檄が飛ぶ。「中川さんを新潟に呼んで、講演をしていただいたときに、長谷川さんと一緒に新潟まで聞きに来てくださったのですよね。」というと、何人もの方が手を挙げていました。確か30人ぐらいで、バスを仕立ててはるばる来てくださったのでした。長谷川さんのお年寄りの施設を見学したことなどを話し、こういう方にぜひ県議会にということで、4月の選挙にも街頭演説をさせていただきました。

去年の12月に、うちの夢草堂で、樽川さんの講演会をした時に、長谷川さんは、娘さんと二人で参加され、素晴らしい意見を述べ、樽川さんに激励されたのです。樽川さんは、長野県で、女性議員を増やす活動を続けて、とうとう、今年の4月の選挙で、東京、大阪を抜いて、女性議員比率が、日本一になりました。そのために内閣府の男女共同参画局から、表彰され、12月9日には、その祝賀会があります。新潟県議長谷川きよさんと一緒に参加しましょう。と呼びかけました。

新潟県には、男女平等条例があります。平等という言葉を嫌う男性が多いことから、他の県では、そういう名前になっていませんが、新潟県では、当時松川キヌヨさん、西村ちなみさんが、52年ぶりの女性県議として、そこにおられたので、この平等条例ができたのでした。長谷川さんをくわえると4名の女性県議となります。活躍を期待しています。

12日は、当選祝いとなりました。


ベアテさん講演会
   2007,10,7   於、小平市津田塾大学

津田塾大学同窓会主催のベアテ・シロタ・ゴードンの講演会に行ってきました。7日(日)14:00〜15:30というものです。道に迷ったりして少し遅れて行ったのですが、300人ぐらいの会場は、満杯でした。「女性たちのさらなる飛躍を願って」という演題で、たくさんの経験談を話されました。ベアテさんの自叙伝「1945年のクリスマス」の中に出てくる話が多かったのですが、じかに聞くと彼女の人柄のせいでしょう、何やら楽しく聞こえるのです。以前お目にかかった時よりも少し痩せたのでは?と心配しながら聞いていましたが、実に楽しいお話しで、会場を沸かせ、「私まだ疲れていませんよ。疲れるまでやりましょう」と言って司会者を困らせていました。15:30に終わろうとする司会者に「あなたが疲れているんでしょう?」などと言って笑わせます。「日本の憲法は、アメリカのそれより素晴らしいものです。それは、何と言っても9条があるからで、アメリカのにはありません」と言って、平和への希求を表現していました。質疑になって会場の人が「長野県大町市に昨日は行っていました。ずうっと前に、ベアテさんが、そこで『みちを拓く』という演題で、お話をされ、その後、それを主催した人たちが『みちを拓く会』という集団を作って今でも活動をつづけています。その会の人たちに呼ばれて行ってきたのです。」ベアテさんはとてもうれしそうでした。後で、主催者に聞いたら、この発言をした人は、元参議院議員の久保田真苗さんだということなので、連絡を取って、その大町の方とつながりたいと思っています。というのは、大町というのは、昔卓夫が住んでいた過疎の村美麻村が、合併して大町市になっているからです。

主催者が言うとおり15:30で終わってしまったので、私は発言する機会を頂けませんでた。終わってから、演壇を囲みました。サインをしてほしい人や、語りかけたい人、握手を求める人と列をなし、私も並んで番を待ちました。そして、去年ジュネーブで「ベアテの贈りもの」の上映会をして、私は、製作委員会の一員として、質問を受けに行ったこと。その時主催をした栗崎由子さんが、ジュネーブにベアテさんをお呼びしたいということで、FAXを送ったのですが届いたでしょうか?というと、「呼んでくださったら喜んで行きますとお返事を出しましたよ」というのです。PCが不調で、時々届かないことがあるとのこと。そこで私は、アドレスを書いていただいて、帰ってきてすぐにその旨を栗崎さんにメールしました。栗崎さんはすぐにメールを送ったので、今度こそ、ベアテ講演会、inジュネーブが実現することでしょう。

その後、大町市在住の卓夫の親戚に連絡を取ったら、「みちを拓く会」のことがよくわかりました。2000年にベアテさんをお呼びして、それ以来活動を続けている会員が、67名の会だそうで、代表の方(興国和美さん)を紹介していただき、電話で話すこともできました。樽川さんが主宰していた「女性議員を増やすしなの学校」のこともよく知っておられ、それでは、12月9日(日)の樽川さんの受賞(女性議員を増やしたことで、内閣府から受けた)記念の祝賀会でお目にかかりましょうということになっています。大町の親戚を訪ねたときには、ぜひ立ち寄らせていただこうと考えています。


心に残る結婚式
   2007,10,6   於、軽井沢レストランピレネー

 6日(土)大地塾で知り合った元登校拒否の女性(28歳)の結婚式に軽井沢に行ってきました。彼女は、15歳の時に、私の著書(正確には、25人の共著)「未来をはぐくむ大地から」を自分で買って読んで、中学を卒業したときに一人で大地塾にやってきたのです。たちまち、同じぐらいの女の子たちの中で、「大地塾のマドンナ」と言われて、みんなに慕われ、人気者になってしまったのです。絵も、歌も、楽器も上手で、大地塾のイベントでは、いつも中心になって企画していました。翌年だったか、六日町高校の定時制に入学しました。その時に、ちょうど鳩山由紀夫さんが、講演に来られて、こんな話をしました。「私が、議員になった時、先輩議員が、こういったのです。『一年生議員の役割は、二年生議員になることです』」するとこの愛ちゃん、手をあげて発言「国会というところは、定時制高校と同じなのですね。私たちもいつも、『一年生は、二年生になることが仕事』と言われています」すると鳩山さんが「あなたは素晴らしい、私と場所を交換しましょう。ここに上がってきて、あなたが話をして下さい」それでも、結局定時制を退学しました。その時、「もっと面白い先生がいればいてもよかったのだけど」と言っていました。昼間の演劇部に入って、主役を演じ、県の代表として、関東甲信越の大会にまで行ったので、大地塾生が大挙して埼玉まで見に行ったこともありました。
 その後、大検をとって、県立の看護短大を卒業し、東大の医学部保健学科に編入して卒業し、今は、東大病院の看護婦をしています。

 保健学科の同級生伊吹君とすぐに仲良くなって、3年半越しの恋が実って、今日の結婚式となりました。去年の暮れあたりから、同居して、結婚届けも出してあり、今回は、妊娠5か月とのことで、みんなから大きな拍手が送られました。

 この広田愛さんの姉亜樹さんが、弾き語りというのでしょうか?オルガンを弾きながら歌ってくれたのですが、その歌の由来を愛さんが話してくれました。「いつもケンカは決まったパターンなのです。私が、怒って口を利かなくなり、彼が、何とかとりなそうとして語りかける。…そんなある日別れようといわれて、私が、謝って仲直りした、その時かかっていた曲」語りながら泣きだした愛さん。

 そして最後に伊吹さんの挨拶。「二人とも大変な時期を過ごしてきましたが、今、こうしてこの日を迎えられたのは、皆さんのおかげ」いやいや、本当にとっても大変な時期を知っているだけに、感慨もひとしおでした。大地塾の輝きの星です。ちょうど、その前日、9月30日の新潟日報への私の投書(「想うこと」参照)を読んだと言って、最近登校拒否になったばかりの中学生の母、祖父が来られ、愛ちゃんが描いた絵を指さしながら、「明日この人の結婚式」というと、とても励まされたと言って帰って行かれました。ニート、引きこもりの中にいる人たちにとって、結婚なんて言うのは、夢の夢。大地塾での結婚第一号でした。

 愛さんの姉亜樹さんも、この6月に結婚し、私も、参列しました。会場が、うちのすぐそばのワイナリー「ブドウの花」というレストランでした。この結婚式もとっても心温まるものでした。亜樹さんが、行動的で、どんどん走る、夫の米山さんは、石橋をたたいて渡る。この二人について、最後に米山さんのお父さんが、あいさつの中で、こう言われました。「弁証法という言葉があります。Aというテーゼに対して、反Aというのがあり、この反する意見がたたかいあって、その次には、Aでもなく、反Aでもなく、Bに発展する。という議論で、二人が、違いを持って、戦い合いながら、Bに発展していってほしい」この話に感激した私は、それが終わってから、米山さんのお父さんに手紙を出しました。「弁証法とは、なんてなつかしい言葉でしょう!60年の安保闘争のころいつも使っていた言葉です。本もいろいろ読みました」そうしたら、最近そのお返事がきまして、この方も、60年のころ東京にいて学生をしており、樺さんがなくなった6、15では、自分も国会に行っていたというのでした。同じ時代を生きたもの同士だったことがわかりました。
 そしてこの方は、長野県立高校の美術の先生を44年やっていたそうで、先日は、卓夫の住んでいた過疎の村、美麻村で書いた絵を2枚、額に入れて送ってくださったのでした。その一枚は、萌気園の待合室に飾ったそうです。

 この、愛、亜樹の姉妹の母親は、広田セツ子さん、今、私のところのケアハウスの施設長です。愛さんが、大地塾に来たことがご縁で、大役をしていただいています。


「支え合う地域の創造」
 --NPO在宅ケアを支える診療所・市民全国ネットワーク
                        第13回全国集会 --
     2007,9,16,17  於、東京国立市の一橋大学

 16,17タイトルのような全国集会に参加してきました。卓夫が代表を務めるNPO在宅ケアを支える診療所・市民全国ネットワークの全国集会です。卓夫が理事長を務める萌気会からは、24名の参加、バスをチャーターして、朝5時出発、私が理事長を務める桐鈴会は、私を含めて3人だけでした。

 16日のメインイベント「トップ討論」で、つい先日更迭された辻哲夫厚労省前事務次官は、「在宅医療は、そちらの方向に向かうことが必然である」ということで、彼が事務次官になってから、急速に在宅医療への舵切りがなされたのでした。彼は、滋賀県に出向した若いころ、当時から先進的だった滋賀県内のあらゆる施設に出向いて泊まり込んで実態を把握してきたという人です。出向いていく、それが在宅医療とつながっているんですね。今回、彼が事務方のトップとして、事務次官を辞めなくてはならなかったことは、大変残念なことでした。でも、彼は在任中に、国立長寿医療センター在宅医療推進会議を設置し、その会長代行として、黒岩卓夫を任命しています。卓夫は時々、上京して、その会議を取り仕切っているようです。

 辻さんの発言によると、国交省とのプロジェクトで、高齢社会のモデル住環境として、一つの提案をするとのことでした。それは、マンションの1,2階部分を医療福祉関係の様々な拠点とし、その上に住みかを建てるという簡単に言うとそんな形の高齢者用集合住宅をこれから作っていくというのです。
 それから、女性医師の確保が課題だとも言っていました。医学部の学生では、すでに40%が女子学生なのに、実際の女性医師は、ずうっと少なくなる、そうならないような働き方になるよう、医学部の定員を増やして、医者の数を増やすとも。

 障害者福祉徹底検証、の集まりでは、元労働省で、障害者の雇用をずうっと担当してきた安井秀作さんの発言に注目しました。障害者は、「労働者」という規定から外され、無権利状態に置かれている。共同作業所、授産所に通う障害者は、全国で二十万人いるが、なんとかその人たちの収入を倍増するように5カ年計画を策定した。とのこと。

 新潟県では、新聞などでその名をはせている小山剛さんの話を初めて聞きました。こぶし園の園長として、日報のコラムを連載していたりしますから。さすがに彼の話はわかりやすくて、その比喩が実に的確。今の福祉の現状は、「富士山の頂上に行きたいのに、8合目あたりに山小屋を建てて、そこに押し込めている」のだそうです。

 中辻直行(兵庫県の社会福祉法人の理事長など)さんは、実に数字に詳しい方で、私がかねてから正確に聞きたいと思っていたことを夜の懇親会の場で聞くことができました。社会保障費の3,8%しか、子どもに使われていないということがどういうことなのか知りたかったのです。いやいや驚きました。社会保障費が、このところ一般会計を上回り84兆円(一般会計は82兆円)となり、その半分は、年金、そして、30兆円は、医療費、そして子どもへの費用というのは、保育所への補助金も含めて、ずうっと、3,7とか3,8%でしかないというのです。次世代育成のmlなどで、このことは言われてきたのですが、半信半疑でいました。少子化対策という言い方も気に入らないのですが、多くの方々が、子どもが産みたいのに産めないという現実、がちっとも変わっていかないのは、当たり前ですよね。

 二日目は、「看取りができる地域社会の創造」という会場に午前、午後と一日中参加していました。

パネリストは
 長野県泰阜(やすおか)村長             松島貞治
 岩手県一戸町長                     稲葉 暉
 栃木県栃木市長                     日向野義幸
 東京都福祉保健局
  高齢社会対策部住宅支援課長           村田由佳

 泰阜村は、田中康夫知事が、住民票をそこに移したことで有名になった過疎の村ですが、1985年に着任した網野医師が「福祉あっての医療」との考えで、在宅福祉が進められた。ところが、最近は、親のみとりを「あらゆる手を尽くして」と言ってやってくる子どもたちの考えで、入院させられてしまう。家で亡くなる人が減っている。とのこと。
 稲葉町長は、カナンの園という知的障害者の施設(200人収容)が、キリスト教会によってたてられ、また県立の精神病院があるので、精神障害者のグループホーム、ケアホームなどを運営する泉の園」もあり、その上、岩手県の社会福祉事業団「中山の園」は300人を収容する施設、それらを含めて「福祉の街」として存在している。毎年私を岩手県にお呼び下さる工藤茂広さんの職場が、二戸市で、一戸はその隣町。カナンの園の職員の方が聞きに来て下さって、埼玉県のアナン(吉澤好子さんが作った)と深くつながっていることを知って驚いたところです。

 栃木市は、日向野さんが市長になってから、一人の人間をトータルにサポートしていくシステムを作っているとのことで、今のところは、生まれてきた子どもが、障害を持っていると宣言された時に、関係者が集まって話し合うシステムができ、まだ、青年期ぐらいまでしか整っていないが、亡くなるまでのライフステージをサポートする体制を作り上げていきたい、とのことでした。トータルサポートセンターがすでにできています。
 東京都は、いろいろな統計を取ってこれから来る超高齢化への対応を模索中とのこと。

 午後は、質疑が行われ、かなり突っ込んだ討論がなされました。私は、泰阜村長に「入院させてしまう子どもたちをどう説得しているのか」と質問。「どうしようもない」という答えだったので、「迷惑をかけ合おう」と名刺に刷り込んだこと、迷惑をかけ合う方が豊かな関係であることなどを発言しました。「迷惑」について、かなりの方々が、発言され、キーワードである、ということが共通理解になったようでした。

 終わってから、日向野さんに、「スウェーデンのハビリテーションに通じているのですね」というと「私は、アメリカのノースキャロライナでできたティーチなんですよ」と言われたので、「それは、アメリカでは広まらず、スウェーデンでは、国中がそれでやっていますね。」というとそうなんです。とのこと。この会場には、数年前にスウェーデンに一緒に行った岡田弥生さんもいらして、「ハビリテーションね」と言って午前でわかれてしまったので、午後の最後に日向野さんに話しかけて確認したのでした。岡田さん、ありがとうございました。
 日向野市長は、まだ二期目で、若い感じだったので、これからが期待できると思いました。



「言論の自由を守る」碑 除幕式
         2007,8,26  於、鶴岡市、精三会館

 26日は、新潟駅から、いなほで、鶴岡まで行きました。そこは、加藤紘一さんの住処があるところです。去年8月15日に彼の靖国発言に抗議するということで、お母さん(当時97歳)の住んでいた家と、精三会館を焼かれてしまったことに対して、高校の同級生から声が出て、「言論の自由を守る活動」を始めました。その一環として、新しく建った精三会館の一角に記念碑を立てることになり、26日はその除幕式だったのです。

 いなほに乗ってしばらくして同級生たちを探しに歩くと、すぐに一団を見つけることができ、早速列車の中が同級会になってしまいました。この日来ていた同級生たちは昔から、紘一さんとの交流が盛んで、鶴岡に来たのがこの日初めてというのは、私ぐらいしかいないようでした。紘一さんのお父さんが精三さんだということさえ知らず、精三会館がなんたるかも、この日初めて知ったのでした。宇洋は、実は、ここには来た事があるそうです。大学に入ったばかりの頃、加藤事務所にボランティアで行っていたときに、選挙があり、一週間ぐらいここに泊まってお手伝いをしたとのことでした。この日現地に後援会のかたがた以外、私たち13人が駆けつけました。同級生同士で結婚した星さん夫妻の片割れと、私以外は男性のみ。除幕式には、地元のマスコミが何社か来ていたので、今日の新聞に報道されたのかもしれません。

 二次会になったら、女性の特権で、紘一さんのテーブルに座りました。ここで思わぬ事態が明らかになりました。私の父は、大学卒業後名古屋県庁に就職し、そこで私が生まれたのですが、その半年前に、紘一さんも、名古屋で生まれていたのです。お父さんが、総務省からの出向で、名古屋県庁に勤めていたというのです。私たちの父親は、一時同じ職場にいたということがわかったのでした。26日の事件で3人組が女性を殺したというのが名古屋市千種区の事件だったので、紘一さんが、高校時代に私が出した手紙の差出人住所が名古屋市千種区だったことを思い出したということで、こんな話になったのでした。

 そんなことで驚いていたら、懇親会が始まり、まずは、紘一さんの挨拶から。これも結構面白かったのです。「今の情勢ですが、自民党の中は、静かです。安倍内閣に入りたいと思っている人は、あまりいない。『私か、小沢か。』といって選択させたのに敗れたまま引き下がらないといっているのですから、そんな内閣に入りたい人はそうはいない。でも、それでも静かにしていれば、指名が来ると思っている人たちが、今は静かにしているけど、指名が来なかったことがわかるや、思いを口にし始めるから、かなり面白くなるでしょう。安倍さんに反対している人の急先鋒が私だと思われているので、今年の4月ごろまでは、チルドレンとよばれているような人は、私には、挨拶も返さないし、目もあわせなかった。それが最近は、話しかけてきたりするようになっています。日本は、もうすでにゆれもどしに入っていると思う。これから、もう少し、みんなが自由にものを言うようになってくると思います。そこにいる同級生の黒岩さんの息子さんが、今回の参議院選で、新潟選挙区から出ていたのですが、民主党が二人を公認して、落ちてしまったのです。仲良くしている民主党の議員たちから聞くところによれば、小沢さんが、ひどいえこひいきをしていたそうで、今回は残念だったけど、これから、いくらでも道があると思う。民主党だけど、私は、黒岩君を応援しているのです。」とまで言ってくれたのでした。何しろ、彼の息子の家庭教師をしていたことがあるのですから。

 その後私は、その日のうちに滋賀まで帰らなくてはならず、庄内空港から、羽田に飛ぶことになっていたのですが、同じ飛行機で、紘一さんも東京へ行くことがわかり、車の中で、少しでしたが話を聞くことができました。「安倍首相は、国粋的なことを言っているけど、それは、アメリカとぶつかるということになることを理解していない。アメリカは、今のところいちばん強力だといわれているF22という戦闘機を日本には絶対に渡さない。核武装などといっているけど、それも、アメリカとぶつかることになる。こんな安倍内閣がそう長く続くわけがない」「小池防衛大臣が、事務次官を切ろうとしたのは、正しい。何しろ、守屋事務次官がしていたことは、ひどいことなので、今回切ることができて、防衛省内では、みんなが喜んでいるでしょう。でも・・・」そこで、車が付いてしまいました。

 懇親会の会場は、この8月1日にオープンしたばかりで、そこのオーナーが紘一さんの後援会長さん早坂さん(聞き覚えのある名前ですね)。聞くところでは、「加藤の乱のあと、全員引いてしまったので、小学校の同級生だった私が引き受けることになったのです」とのことです。この「ルナ」というお店は、築160年の酒蔵で、ものすごく頑丈な柱に梁、夫がやっているデイサービス「地蔵の湯」ととても雰囲気が似ている空間で、食べ物はめずらしいものがいっぱいあってどれもおいしいものばかりでした。今度、夫を連れて行きたいと思いながら帰ってきました。早坂さんも、地蔵の湯を見に来たいとのことでした。

 紘一さんは、あの「加藤の乱」の後1年半、一日平均二回の集会をこなして、そして勉強をして、返り咲いたとのことでした。
滋賀の家に帰りついたのは、ぎりぎり26日でした。



黒岩たかひろ「出会いをありがとう」の会
         2007,8,25  於、万代市民会館和室

 25日、タイトルのような会が、事務所に一度でもこられた方300名程にはがきを出しただけで開かれました。

時間 18:30〜
場所 万代市民会館 2階 和室
会費 1,000円(1品持寄りは500円)

 その日私は、滋賀の娘の家から、娘の夫の会社が休みなので、許可が下りて、参加することにしました。上越新幹線浦佐駅で途中下車をして、私が理事長を勤めている社会福祉法人に立ち寄って、いくつかの仕事をしてから、新潟市の会場につきました。始まる30分前だと言うのにもう既に10人以上の方が待っていて、料理を届けて帰ったと言う人も二人もありました。伝さん夫妻やその仲間と会場の準備を始めました。50人ぐらい来ればいいね、と言う話で、机を出したのですが、なんと始まる時間が過ぎた頃には、机をもっともっと出して、バンダイ市民会館の和室がいっぱいになってあふれんばかりです。130人ぐらいとのことでした。懐かしい「同志たち」でした。
毎日毎日一緒に暮らした方々もありました。その中の一人菅井重一さんが音頭を取って乾杯となりました。菅井さんのおっとりとした性格が事務所の空気を和ませ、いろいろなトラブルは、みんな彼が吸い取ってくださったような感じだったのです。

 宇洋が「今日は事務所で手料理をしていて遅くなってしまい、ごめんなさい。今日は、妻の美春も一品作りました」と言うや、「えっ! ホント?」の掛け声がいくつか。さらに続けて、「感謝感謝で、これからは過ごす」と挨拶し、皆さんはすべての方が、一言ずつ発言して、宇洋を激励してくださいました。9時にはその会場をきれいにして出なくてはならず、すぐ近くの二次会へ。ここでは、一次会で発言しなかった秘書さんや私もそれぞれ発言しました。美春さんの話では、このところ宇洋が落ち込んでいたけど、今日の皆さんとの出会いのおかげで、最近にないいい笑顔で嬉しかった。のだそうです。最後の3次会は、カラオケでした。11時半についたところは、40人も入れる大きな部屋があるカラオケ。16人のメンバーが、それぞれ想いを込めて歌い、踊り、絶叫しました。浦田理(あや)子さん、内山克明くんは、ダンサーに転職した方が良いくらいの動きでした。美春さんが歌った「栄光への架け橋」は、良くぞこれだけ今の宇洋夫婦の気持ちを代弁してくれる歌詞があったものだと感心するばかりでした。紫竹の家に帰りついたのは、1時半をまわってからでした。楽しい1時間半を若者たちに感謝しました。

 この日は、千葉県木更津からの高橋てる子さんがいちばん遠かったのでは?彼女は電話かけにすでに4回も来て下さっていました。だれだったか忘れてしまったのですが、「沖縄から来ていた小泉さんは?」と尋ねてきた男性がありました。今日はこられないんですといっていたら、司会者が、小泉さんからのメッセージを美春さんに披露させました。大きな拍手を浴びたメッセージでした。

本当に皆さん、どうもありがとうございました。


娘の出産介助で、滋賀県に来ています
                     2007,8,20〜9,7

 3女帆姿が12日に自宅分娩で次女を出産しました。夫の慶君がお盆休みも含めて、20日まで休みを取ってくれることになり、私は、18日に北海道の最高峰旭岳登山を巌志家族4人、海映家族4人、萌実、卓夫と11人で登ってから、滋賀に来ました。長女想を助産院で産んだ帆姿が、今度は自宅分娩を選びました。とても安産で、元気な女児が生まれ、在(ある)と名づけました。生まれた直後に想は赤ちゃんを抱き、すっかりお姉ちゃんになっていたそうです。夫の慶くんは、ひとりでなれない家事、育児、全般をこなすのは、かなりきつかったらしく、もっと早くに私がきてあげたら良かったのかな?と思ったり、いや、お父さんとして、大切な試練なのだから必要だったのでは?と考えたりしています。私が来る頃には、帆姿の体もしっかりしていていたのですが、始めの一週間は、かなりきつかったに違いありません。

 想ちゃんはお母さんをとられたと言う感じがあまりなく、安定していますが、わたしと2人で車で外出するには、4日間を要しました。在ちゃんはとてもおとなしくて、よく食べよく眠る赤ちゃんです。

 私は、今日(28日)は、想ちゃんと琵琶湖で水遊びを楽しみました。

 9月6日に6人目の孫との対面を果たすと言っている夫卓夫と一緒に7日に帰ることにしています。



中山祥世さんとパトリック


 中山さんは、2〜3日前の予告で10日朝浦佐につき、その日は、そのままこの地域のいろいろを案内することになりました。初めに驚いたのは、私のhp、著書などをことごとく読んで頭に入れているという事実でした。こういう来訪者は実に珍しいことです。著書は、浦河町の図書館にほとんどあったそうです。「3男が」、というとすかさず「乙水君ですね」と合いの手が入ります。今は引っ越して浦河町には住んでいないそうですが、「べてるの家」を訪ねて5年前にそこに住みついたとのこと。ご両親が先生で、その重圧に痛めつけられて、べてるを訪ねたということでしたが、2年前にお母さんが亡くなって、つい最近、お父さんとメキシコ旅行をしてきたということで、お父さんとの和解がとてもうれしく思えました。
 彼女は自分のブログで、新潟に来た時のことを報告しています。
http://blogs.dion.ne.jp/sachiyon7536/archives/6053701.html
http://blogs.dion.ne.jp/sachiyon7536/archives/6060285.html

 9日に我が家についていたパトリックは、国籍はフランス、住んでいるところもフランスで、ローヌ川を越えるとジュネーブという国境地帯なのです。それで、指圧の治療院は、ジュネーブにあるので、私は、スイス人だと思い込んでいたのでした。彼は、両親はエジプト人で、世界中の国を回っていて、コスモポリタン、という感じですが、中でも特に、日本にはとっても興味があるそうで、今回も、治療院の改装で3ヶ月間休診になるので、日本に日本語を習いにきたということでした。しかし話してみると日本語はかなり上手だし、教育でも、宗教でも、心理学でも、何にでも興味があって、話がはずみます。シュタイナー、モンテッソリー、ニイル、フロイトにユング、年齢を聞いて驚きました。34歳だというのです。我が家の子どもでいえば、5番目になります。指圧は、ヨーロッパで日本人の先生を見つけ、その方にならったのだそうです。

 彼の指圧が、12日から始まりました。まずは、美春さん、卓夫、私、午前中3人してもらいました。私が受けた感じは、指圧というより、愉気という感じでした。この愉気というのは、野口晴哉(はるちか)さんの整体の言葉。「気を送る」と言ったら、皆さんに通じやすいでしょうか?野口晴哉さんの名前が彼の口から出てきたことに驚きました。私は、36年前、まだ東京に住んでいた時に、友人の紹介で、野口整体に通いました。野口さんの書かれた本もかなり読みました。その後しばらくして、卓夫が脳血栓を患い、言葉が出てこなくなって、診療ができなくなって、新潟大学の神経内科に診察にいったりしていました。その時、私は、彼の首にできていたしこりを愉気で治したと思っています。卓夫は、それを信じていませんが。ところが、その卓夫が、今回パトリックについて、かなりの「評価」をしていました。「彼は、勉強している!」そして、自分の持っているからだ関係の本を彼に見せます。彼は、それを見て大変感激しています。日本語で書かれた本の一冊は、彼自身が持っているというではありませんか!東洋医学と西洋医学のことなどで、すっかりわかりあえたらしいのでした。そこで、夫が建てた町立(今では、南魚沼市立ですが)「ゆきぐに大和総合病院」を夕方案内しました。そこには、和漢診療科というのがあって、富山医科薬科大学から、漢方の医者が来ているのです。その帰り道、医師住宅の前を通ったら、若者たちがソーメン流しをしていました。「あれがそうーメン流しというの」と案内をしていたら、その中の一人が「食べていきません?」と声をかけてくれ、好奇心旺盛なパトリックのこと。食べていこうということになりました。「ここは医師住宅ですよね。松原さん?」というと、「私が松原です」と、最年長らしき男性が。そして「私は黒岩です」というと「あら。ベアテの贈りもの、見に行きました」と松原さんの連れ合い!そういえば、二人の子どもを連れて隣町の小出郷市民会館に見に来ていたのでした。実は、パトリックもベアテつながりであることを話し、今、大和病院を案内してきたところ。というわけで、全くの初対面の人を呼び込んだこと、それなのに、ベアテ、大和病院などつながっていて、本当に不思議な出会いでした。ベアテまで出てくるとは、パトリックが本当にびっくりしていました。ジュネーブで「ベアテの贈りもの」の上映会を主催した栗崎由子さんの指圧の先生が、パトリックで、彼は、バーゼル、ベルンと二つの会場で、この映画を二回見ているのでした。

 13日から、認知症のグループホーム「桐の花」でパトリックの「治療」が始まりました。まずは、併設されている夢草堂(浄土真宗のお寺を移築してきた)をパトリックがとっても気に入ってしまいました。阿弥陀如来の前に畳が敷いてあり、その空間こそ、自分が望んだもの、という感じで、そこに布団を敷き、治療をする体制を整えました。私の母が一番先でした。彼女は、彼の日本語が上手だと言って盛んにほめていたのですが、後で職員に聞くところでは、「北大路隆子さんの言語指導が入っていた」とのことでした。パトリックは日本語の勉強に来たので、それは、双方の利にかなっていたようですが・・・・。

 その後、お昼に彼を迎えに行くと、管理者の星野さんが、「秩子さん、お昼食べていかない?お盆ごっつぉうができてるから」というわけで、私も、パトリックもお赤飯と煮物、その他、この土地のお盆の料理がたくさんできていて、舌鼓を打ちました。夕方迎えに行くと、次々に入居者の方々を「治療」し、私が行った時には、89歳のキミさんが盛んにパトリックをほめていました。「男衆の手とは思えない、優しい手だ」「こんなことをしてもらうのは、生まれて初めてだ」「どっけに払えばいいもんだか」というので、お金はいらない、ボランティアで来ているんだから、と言っても「そっけなわけにゃいかん」「農協に行っておろしてこんば」とか言いながら、とにかく、やってもらった人すべてが、宣伝隊となってしまっているのでした。そして、彼もすっかり気に入って「今日はここに泊まることにした」そして、翌日は朝早くに起きて、畑の草取りをするということになってしまったのでした。。

 とうとうパトリックは、夢草堂の住人になってしまいました。食事は、「桐の花」で3食食べています。「治療」が終わると、どの人もみんな深い眠りに落ちてしまうのだそうです。入居者のみならず、桐鈴会の職員たちも、恩恵にあずかっています。

 14日の夜は、管理者の星野さんが夜勤で、パトリックと話があってしまって、15日夜は、星野さんのうちにホームステイをすることになりました。そして、私たち夫婦が、17日から北海道に行くので、彼は、16日に帰ることになっていたのにそんなことには無関係で、いつまでも居そうな気配になってきました。「私の前世は、日本人だったのだと思っています」とのことです。


中越沖地震、被災地訪問
    2007,8,11   柏崎、西山町

 11日、やっと被災地訪問が実現できました。新潟県田上町出身、北海道浦河町近くに住む中山祥世さんと、フランスに住み、ジュネーブで指圧の治療院を開業しているパトリックと3人で朝出かけました。初めに目指したのは、障害者関係のトライネット、ここは、デイサービスとか、日中一時支援、ヘルパー派遣など障害児者をサポートするNPO法人で、以前新潟県アメニティーネットとか、移送サービスネットなどで出会っているところです。今回、いろいろなところから、ボランティア募集というメールが届いていたので、まずはそこに行ってみました。中山祥世さんが、新潟県の地図を持って助手席に座って道案内をしてくれるので、カーナビよりも私にとっては簡単でした。柏崎までは、すでに何回も行ったことがあるので、どこか車が通れないところがあるのでは?などと心配している間に、すでに近くまで来ていました。柏崎地区に踏み入れた途端にがれきの山が目の前に現れます。被災地初めてのお二人はもうすでに驚きの連続!

 近くに車を置いてえんま通りといわれる一番ひどい通りを少し歩くと、すぐ前にトライネットと書かれたバスが!両隣りはがれきの山だというのに、トライネットの建物は外から見る限りどこも何も変わっていないようにしか見えませんでした。中に入ってみても、被害はなさそうで、ただ、職員たちが、被災しているので、勤めに来られず、その穴埋めにボラさんが必要だった由。11日は、土曜日なので、利用者が少なくて、ボラさんは特に必要なし。昨日神奈川からのボラさんが4人帰って行ったところとのこと。中に入ってみたら、大きな遊技場があり、去年の暮れにここへ引っ越してきたばかり。とても頑丈な建物なので、ここの被害は、食器戸棚が壊れたことぐらいだそうです。確かに食器戸棚は、ガラスがなくなっていて、中の食器はすでに新しいのが入っていました。それを買うたしにして下さい、と言って、3人から1万円ずつ預かっていた義捐金を渡して辞してきました。

 東本町通り、西本町通り、と歩きました。パトリックは、シャッターを押し続けていました。ヨーロッパでは、地震という体験はないそうで、ただただ驚いているのみ。同じ通りにありながら、建物によっては、全く被害がなさそうで、貼られている紙も、みどりだったり赤だったり。道がほとんど傷んでいないということが、中越地震と全然違うという印象を受けました。すでに修理が終わっているところもあったようですが、道が通れないところは、倒れかかっている家を壊そうとしている車で、道がふさがれているところだけでした。あれからすでに26日目でしたから、すっかりきれいに片付いて、更地になっているところもありました。お蕎麦屋さんを探して昼食をとり、午後は、知り合いの家を訪ねました。まず、東本町には、双葉幼稚園の園長さん、禿(かむろ)美沙子さんの家があります。5年前の選挙の時に、お願いに来たのが最後でした。お寺の中にあるその家はしまっていました。名刺にメッセージを書いて入れ、お墓を見て回ると、墓石が倒れて壊れてしまっているところが多く、まだ生きている人のことにかかり切っていて、とても、お墓までは、手が伸びていないのだろうとそこの持ち主の家の事情を想像しながら歩きました。

 車まで帰るのに、一本違う道を戻ってみることにしました。たった、100メートル足らずのところに平行にある道ですが、さっきの道とは、全然被害状況が違います。両側の家が、ほとんど被害を受けていないように見えます。地面の下の違いによるのでしょうか?

 その次は、車で中村日出美さんの家を尋ねました。ご夫妻で、後片付けとしている最中。突然の来訪に歓声を上げていただき、3人で、お家に入って、ご夫妻から話を聞きました。昨夜やっとガスが出るようになった。水道は、27日から、電気は、3日でついた、とのこと。被災直後に野菜と卵を送ってくれた友人があったけど、水道も、ガスもないので、作ることはできなかった。自衛隊の炊き出しをもらい、水道が出るまでは、毎日水運びが一番の仕事だった。ガスは卓上コンロで何とかしのげた。90歳のおばあちゃんもそのうち顔を見せてくれ、お茶を飲んで、八色スイカを置いて辞しました。
               
 次に尋ねたのは、西山町別山の若月さんのお家です。柏崎からは、かなり長時間車で走りました。別山コミセンで、場所を聞いて尋ねました。行ってみるといろいろなことがわかりました。裏山が地崩れで、もう少し落ちてきたら、家が被害を受けるという状態のために赤紙が貼られていました。その地崩れのところには、青シートがかけられて、そこの手当ては、行政がしてくれるということだったけど、自分でしなくてはならなくなったらしいとのこと。家そのものは、かなり古いものですが、頑丈そうで、ほとんど被害がない状態。でも、農道等が、亀裂が入っているのを、私と同じくらいの年のお父さんが、セメントで補修をしておられ、お母さんも片付けに大わらわのところをお邪魔してしまいました。お家の前で、写真を取り合ってお別れしました。土曜日なので、若月さんも家で、片付けに精を出しておられ、お目にかかれてよかった。

 今回の地震も、中越地震もそうでしたが、どうやら、地盤が悪いところがやられているようで、「中心地が一番ひどくてはなれているところはだんだんに被害が軽くなる」というわけではないようなのでした。別山は、鉄道の駅では、石地駅から行くのですが、石地の部落は、ほとんど被害がなく、そこから離れた周りは、青いシートがかかっている家がほとんどなのでした。

 帰りは、長岡周りで、来迎寺の駅に中山さんをおろして、パトリックと浦佐についたのは、6時近くでした。二人で、浴衣を着てもえぎのお祭りに行くつもりだったのに、着替える時間もなくなったし、暑くてとてもかなわないから、そのままの格好で、祭りに行き、その後、宇洋の南魚沼幹事会懇親会に行きました。落選したというのに、大勢の方がお集まりくださって感激。女性がとても少ないという感じでしたが、一人の女性は、「とってもそんなところに行ってられない」ということだそうです。もう一人の方は、まだまだ悔しくてとても行かれないとのことで、こういうところでも、男女の差がありますね。

 井口一郎南魚沼市長、若月県議、お二人とも、落選経験をお持ちで、それが糧になると励まして下さったそうです。私たちは、遅くに行ったので、宇洋の話は聞けなかったのですが、聞いた方が、「いままでとは違って、大変な迫力だった、こうなればやっていけるんだ」と確信をもって話して下さいました。美春さんまで、「今日の宇洋さんは今までと違った。今にも涙が出そうで心配した」といっていました。



中島通子さんの葬儀
     2007,8,6  於、禅林寺・霊泉斎場(三鷹市)

 中島通子さんは、1975年「国際婦人年をきっかけに行動を起こす女たちの会」を立ち上げた方で、その年の秋、この会の合宿に参加して、初めてお目にかかって以来、尊敬してきました。国会に行っていた時には、彼女が、育児休業法の改正に向けてのロビイングで、私の部屋にも来られました。イラク戦争が始まる2003年の春には、私は毎日国会へデモ行進で行っていましたが、中島さんも毎日来られていて、一緒にデモをしていました。今年の初めに働く女性の全国センター結成大会でお目にかかったのが最後となりました。

下記のようなご葬儀に私も参列しました。
 ・葬 儀   8月6日(月) 午前11:30〜午後1:00
 ・場 所   禅林寺ホール(禅林寺・霊泉斎場)

 女性運動の闘士として、1975年の国際婦人年から彼女の名前は、その世界で輝きだしました。今日はたくさんの知り合いと出会いましたが、一番驚いたのは、毎月勉強会ガイアを開いている弁護士の中下裕子さんが中島通子さんを頼りに京都から東京に出てきて、中島法律事務所に10年勤めていたということでした。中下裕子さんは、女性弁護士158人の代表として、ダイオキシン・環境ホルモン国民会議結成の呼びかけ人であり、事務局長として大活躍の方です。

 彼女の話を聞いてその勉強会に行くようになった次女海映の誘いで、私は、都合がつく限り新橋にある中下さんの事務所に月一で通っているのです。うちの家族は、帆姿夫妻、揺光カップル、海映家族、夫の卓夫まで、このガイアのメンバーです。葬儀では、隣に座って、いろいろな情報を得ながら5人の方の弔辞を聞きました。始めのスピーカーは、福島瑞穂さん、後輩弁護士として、中島さんの弁護士としての活躍を披露してくれました。中島さんは、文学部を卒業後、法学部に入りなおして弁護士になりました。中下さんも、大学こそ違え、京都で、文学部卒業後法学部に入って弁護士という経歴です。二人とも、文学部を出ても職にありつけなかったそうです。

 土井たか子さん、大脇雅子さん、山内恵子さん等、社民党の議員だった方々がたくさん。その上、森山真弓さんもおられました。社民党関係の方は、みな第一声が「残念だったわね」でした。一番心がこもっていたのは、福島瑞穂さん、いろいろなところで、一緒に活動してきたからでしょう。

 中島さんは、女性の人権ということに一番力を入れて、「均等待遇」ということを求めて、そこここで戦ってこられ、最近は裁判でも、かなり勝訴が出るようになってきています。今年1月に結成された「働く女性の全国センター」には力を尽くしておられたようです。ハワイの海で、心臓麻痺による水難事故なので、だれもが、全く予想もしないでいた突然のことだったので、ご家族をはじめ、彼女を慕う女性たちにとっては、受け入れがたい事故だったのです。とってもきれいな安らかなお顔でした。

 その帰りに、美春さんの父上が入院されている秋葉原の三井記念病院に見舞ってきました。かなり具合が悪いのに、選挙中に来てくださり、事務所で手伝ったりして、お疲れだったのに、もう一度来ようとして、車で長岡まで来てやはり無理で帰って行かれたこともありました。今回の結果、かなり気を落としておられるようで、申し訳なく思っています。少し良くなってきたということで、美春さんとお姉さんの孝子さんは、私と同じ新幹線で、新潟の自宅兼事務所(紫竹)に帰りました。選挙後の資金管理報告が今週中とかで、大変そうです。お大事に。



選挙結果
    2007,7,29

皆様からの熱い想いをいただきながら、結果は次のようでした。

  塚田一郎  403,497  (自民)
  森 裕子   355,901 (民主)
  黒岩宇洋  344,424 (民主)

  山本亜希子  91,016 (社民)
  武田勝利   54,537  (共産)
  楠原光政    7,806

宇洋のhpから、

29日投票日、残念ながら結果は落選。されど34万票以上の御支援を県民から頂戴した事は厳粛に受け止めます。

 午後11時過ぎ、落選が決まると選挙事務所にお集まりになった支持者の皆さんに御挨拶(写真1枚目)。御支援に対する御礼と御期待に添えなかったお詫びを申し上げました。

 更に当選された森裕子さんと塚田一郎さんにお祝いの弁を。特に森さんには民主党に対する期待大いに応えて頂きたい旨を申し上げました。民主2議席独占を目指しましたが、私がしくじった分を森さんの奮闘に託します。

 「時」は平等です。老若男女、古今東西、今生まれし赤子も今死にいく老人も「時」を等しく刻んでいきます。そして誰もがその「時」を止める事も戻す事もできないのです。勿論私も時を遡る事はできません。ですから先へと前へと進むしかないのです。

 私はこれからも政治の道を歩んでいきます。何故ならばこの国は私の目指す「民主主義国家」に未だ到達していないからです。長い長い政治の道程はまだ道半ばです。

 今朝、いつもの月曜朝街宣。新潟駅前と市内街頭(写真2枚目)に立ちました。今日から次の挑戦が始まります。

 新たなステージが幕を開けました。「時」はいつもと同じ間隔ですが、今まで以上に躍動感をもって刻まれていきます。

写真付最新活動日記 http://www.t-kuroiwa.jp/




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みなさま、長い間一生懸命支えて下さって、どうもありがとうございました。昨日の結果は、厳粛に受け止めるしかありません。宇洋が、直後に皆さんの前に現れて自分でも書いているようにお礼とお詫びとそして、これからもどうかよろしく、とお願いしました。少し、笑みをも浮かべての冷静な挨拶でした。「すべて潔し」を座右の銘としている宇洋の面目躍如でした。

多くの方から、個メールや電話で励ましと、「残念でした」をいただきました。私のhpの活動報告で、直前まで、お伝えしてきましたが、宇洋の応援団(連合の皆さんも含め)は勝利を信じて活動していました。26日に読売が、宇洋は3位という世論調査の結果を出しました。それで、引き締めようということになり、檄を飛ばしたのです。ところが、27日の朝日は、また「黒岩、安定的にリード」と出しました。いい方を信じたいのが、人間の心。29日夕方近くなって、出口調査の結果、1位のもあれば、2位のもある、3位もあってとそれぞれのマスコミの調査結果でした。つまり横一線に並んでいると理解しました。夕方から親族一同は、(夫、次女、二男、3男)宇洋夫婦を含めて、SOSを支援者に出すことを始めました。後で考えるとこれをその日の朝からやっていたらもっと違ったかもしれない。とか思ってしまいますが、タラレバはやめましょう。宇洋が言う通り、候補者本人の力が足りなかった、という一言ですね。これを機に、宇洋には勉強して、力をつけてもらいましょう。

候補者の敗戦の弁を聞き終わっても応援団の方々、帰っていく気配がありません。事務所の中でも、外でも、たむろしていて離れがたい様子でした。12時すぎてから、内山君が「これで終わりにして、片付けに入ります」と大声を張り上げると、動き出しました。そして、1時半ごろみんなが帰ってから、事務所の二階で宴会が始まり、朝まで友好をあたためていたそうです。

今朝は、7時45分集合で、早速お礼とおわびに新潟駅に行きました。朝まで宴会をしていた支援者のコンチャンこと加藤りえさんも含めて街宣車で行きました。25日の女性リレイトークをしたのとおなじ場所で宇洋がハンドマイクで呼びかけました。するとバスの中から手を振って下さる方、歩いているところから駆け寄ってきて、握手を求める人、「ご苦労様」と言いながら通り過ぎる人。様々でしたが、帰りの新幹線で一緒になった地元の人が、「今日早速マイクを握っている姿を見て感動した」と言ってくれました。新潟へ、新幹線通勤している人でした。

30分の街宣を終わって、事務所に戻ると支援者の皆さんがぞろぞろとおいでになって、それぞれの部署で後片付けが始まりました。私たちは、片付けをしながら、大きな紙に習字の筆で「ご支援ありがとうございました。また頑張ります。黒岩たかひろ」と書いていただき、外に貼り出しました。それをちらちら見ている小学生らしき集団に「越後の暴れん坊」知ってるの?と聞くとにこにこして宇洋に近づき、みんなが握手を求めました。「越後の暴れん坊」という言葉は、子どもたちには人気です。「暴れん坊がいる!」と指さされることもあります。また高校生には、チラシを渡して、「親御さんに持って帰って渡してね」とお願いします。そうするとちゃんと渡してくれるらしく、今日来た業者さんは、「高校生の娘に言われて、黒岩さんを入れてきました」と言っていました。「この人が言っていることは、まともだ」と彼女の娘さんが言ったそうです。そんな皆さんの期待を背に受けて、力をつけてくれることを期待することにしますね。
                          2007,7,30   (黒岩秩子)




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今回の敗戦は、支援して下さった皆さんには大変申し訳ないのですが、もしかしたら、「修行せよ」との神の思し召しなのかもしれないと考えました。「越後の暴れん坊」という名前も、そろそろ返上すべき。との意見も、今回の選挙中によく耳にしました。40歳にもなれば、暴れん坊ではなく、もっとちゃんと未来を見越した政治家になってほしいという支援者の皆さんの愛情が感じられる言葉でした。

今回の落選を最も痛手と思っておられる集団は、ほかでもない、無年金障害者の訴訟を闘っているなさんだったのではないでしょうか?学生無年金のMLでは、29日に「本当でしょうか?」という投稿が流れました。おととしの9月にもう一人の相棒だった泉房穂さんが落選してしまいました。宇洋がいなくなったら、どなたが、事務局長を引き受けてくださるのか?

宇洋の選挙事務所では、新しく来られた方には、必ず学生無年金の訴訟の最高裁への署名をお願いしていました。全国10の裁判所で戦っていましたが、過半数で勝利、でも、高裁では、すべて負けてしまい、今度最高裁に行きます。ずいぶんたくさんの方が書いて下さいました。7月20日が締め切りだったので、そろそろ最高裁へ届いているのではないかと思います。宇洋が、5年間の活動の中で、最も力を注ぎ、最も大きな成果を上げた問題でした。

新潟県内各地で活動して下さった方、県外からいろいろと物心両面で支えて下さった方、本当にどうもありがとうございました。
                         2007,8,1  (黒岩秩子)


選挙情勢
     2007年7月26日

26日付読売新聞の世論調査では、塚田、森、黒岩が横一線であるとはいえ、黒岩は3位と言う結果が出ています。
これは大変ピンチ。どうか皆さんのお力で引き締めて一票一票を呼びかけて下さるようお願します。


女性によるリレートーク
         2007,7,25

25日夕方、新潟駅万代口の交差点で、女性によるリレートークをしました。小宮山洋子さん、西村ちなみさん、菊田真紀子さんの国会議員のほか、星野邦子さん(魚沼市議)、佐々木志津子さん(見附市議)、長谷川きよさん(元小千谷市議)志太きえこさん(元南魚沼市議)、篠田マレ子さん新潟市長夫人、連合新潟副会長の小林真知子さん、連合新潟女性部委員長西村幸子さん、田中せつ子さん(宇洋応援団女性の会コスモス代表)滝沢エミカさん、清水春代さん、鈴木なつこさん、斎藤代江子さん、三条の障害者施設職員小林久美さん、に日本アビリティーズ社社長伊東弘泰さんが黒一点。袖山由美子さんが司会。

もえぎの職員が、13人で来てくれ、しゃべらない11人(耕輔を含む)が、聴衆になってくれて役割を十分果たしてくれました。そのおかげで通る人たちがたまってくれます。まずはじめに宇洋が「私は、どういうわけか、各種の世論調査で、女性の人気がないということなので、なぜかと考えました。一年半前に結婚したからだというと、全然違うと言われ・・・・・」と始めたので、場が和み、まずは、小宮山洋子さん。国会の中での活躍と、民主党の中での必要性を訴えます。顔が知られているので、立ち止まる人もぼつぼつで始めます。西村さん、菊田さんになると、地元の支持者が、握手を求めたりしてくれます。皆さんの話を聞かずに、私はチラシ配りをしていたので、その報告はできないのですが、地元の新聞配達業を経営していた清水春代さんは、宇洋が、小学校6年の時に新聞配達をしていたことを話し、「たぶんお金がなかったからでしょう」と言って、笑いをとっているのだけが聞こえました。

「宇洋の母親です」というと、顔を見返して、チラシを受け取ってくれるということが多かったので、私は、チラシ配りがやめられませんでした。私の話を聞いた、本を読んだ、という人たちが何人かいたり、山古志村の虫亀小学校に私を講師として呼んでくれた当時の校長先生が通りかかって再会を喜び合いました。「母です」と言っている隣で「妻です」と美春が言います。中には、「いままでは、何々さんを入れるつもりだったのですが、このはがきが来たので、黒岩さんに変えました」と言って宇洋の公選葉書をバックから取り出しました。見ると、「応援します」の欄に「新潟市長篠田昭」と書いてあるのです。大変な威力だと思いました。途中大雨が降りだしたりもしましたが、結構楽しいチラシまきでした。

前日、「袖山ホテル」に泊まったので、25日の朝は、皆さんと同じ場所で、朝のチラシまきを7時半から8時半までしました。夕方、「朝もらいました」という人が結構いて、その人たちは読んでくれているという手ごたえがありました。

宇洋は自分が喋っていないときは、チラシを受け取って下さった人に走り寄って握手をしていましたが、かなり高齢の女性が、宇洋のところに進み出て、握手を求めているので、近寄って行って「母親です」というと「私は、この人が大好きで追っかけをしているのです。」と言います。聞けば十日町から来たのとこと。新聞を見てきてくれたのでしょう。私のことを「たかひろによく似ている」と言っていましたから、ちょっと目が悪いのでは?

竹を割って、拍子木を作り、それをカチカチ鳴らして、聴衆が、反応します。それが結構楽しくて、皆さん盛り上がっていました。話の途中で、かなりそれが鳴らされていましたから、聞きごたえのある話が多かったのではないでしょうか?

期日前投票で、黒岩を入れてきたという人が結構いて、心強く思いました。


中越沖地震
   2007,7,17

皆様、ご心配どうもありがとうございます。メールや電話、たくさん頂きました。昨日午前中、新潟の事務所で大揺れ!それもかなり長時間!横揺れでした。余震もたくさんありました。そして、上越新幹線が不通になったために私がご報告できなくて、皆さんにご心配をおかけしました。

現地の状況のひどさは、本当にすさまじいそうで、宇洋は、南魚沼で街宣をしていた時に地震が起こり、震源地が分かるとすぐに現地に飛びました。新潟日報によれば、1時には現地についていたそうで、現職国会議員では、一番乗りだったようです。道が寸断されていたので、現地に入るのは相当大変だったのではと思います。市役所に行き、避難所に行って、被害者の皆さんからの声をいただいていたそうです。

事務所では、電話かけを中止にし、はがきの始末や、発送に集中しました。また、被災者支援のカンパ箱作りなど、岩手、東京、千葉、神奈川などから来てくださったボラさんたちと余震でゆられたりしながらいつもとは違う事務所風景となりました。夕方5時に、喜納昌さんを交えて古町で祭りをする予定だったのが中止となってしまいましたが、その時間に事務所に来られた喜納昌吉さん、ボラさんにせがまれて、「花」の最後だけ歌ってくれました。「泣きなさい、笑いなさい、いつの日か、いつの日か、花を咲かそうよ」ちょうど私たちの心を表現してくれた感じで、みんなで盛り上がりました。

終電で帰ろうと思っていた私に、誰かが新幹線は不通であると知らせてくれました。泊まる用意は何もしていない。寝巻がほしい。半袖は私の腕の現状では無理なので、長袖長ズボン…すると「ドンキホーテに行けばあると思う」と誘ってくれたのは、神奈川からのボラさん。一緒に行って、何と500円なりを見つけてきました。あとは何とかなりそう。遠来のボラさん3人と私の4人は、袖山ホテルに泊まることに。いつも、事務所の二階に泊まっている男性たちが使っている公衆浴場に5人で行って、袖山邸に泊めていただきました。

事務所では、明日からの選挙運動をどうするかということで、選対会議を続けます。結局、17日も、基本的に選挙運動はしない。ただ、宇洋による被災地の現場報告をしながら、カンパを募るということをしようということになり、夕方、古町と新潟駅で、街頭カンパ行動をしました。渡部恒三、末松義規、古賀一成、の三議員が応援をしてくれ、渡部恒三は、知られていますね。何人もの人が、振り向いて、見たり聞いたりしていきました。若い子たちが、かなりカンパをしてくれたのには驚きました。額は全然わかりませんが、昨日夕方だけで、17000円集まったと言っていましたから、今日は二か所だし、応援弁士がいて長い時間だしで、きっともっと集まっているのではないかと思います。カンパはすべて、民主党が責任を持って現地に届けると言っていました。西村ちなみ議員が、司会者でした。西村さんも、宇洋も国会から借り出している防災服を着ていました。二人とも、現地から駆けつけたのですから。(ちなみにこの日のカンパは、5万だったというこのです)

今日は、新幹線が開通(実は、昨夜遅くに開通し、夫は、東京から帰ってこられたのでした)し、夕方帰ってきましたが、どこも何ともなかったようです。3年前の地震では、玄関の床にひび、トイレと、風呂場のタイルがはがれたりしていたのですが。それから、頭の上にあるふくろ戸が開いて、瀬戸物が落ちて壊れていたそうです。その時も、うちは、だれもいなくて、一番先に帰ってきた夫がすべて片付けを終わったところに私が帰ってきたのでした。それでも、傷跡がありましたが、今回は全くありませんでした。柏崎、西山、刈羽の友人たちが、かなりの被害を受けているようです。それでも、明日からは、選挙運動を再開します。

ところで、朝日新聞の社会面全国版の記事に、「候補者たちは現地入り」というタイトルで、なんと、宇洋だけは、書いてないという記事だったので、一番先に到着している人を書かないとは、なぜなのか、、文書での回答を要求中です。

いつも、事務所に来てくださっている胎内市の元市会議員皆藤さんは、柏崎に一人暮らしをしていた、お母さんを見舞って、運んできたということでした。それ以外、事務所関係の方での被災はありませんでした。


期日前投票
 2007,7.15

夫と新潟に一泊して、昨夕帰ってきました。母を期日前投票に連れて行ったのです。認知症がかなり進んでいて、選挙ということも、毎回言わなくては忘れています。「たかちゃんは、学校卒業したの?」とか言うこともあるぐらいです。「なにしているの?」と聞くので、「議員よ」というと「まあ!」とか言って驚いていることもあります。だから、昨日は、行こうということで立ちあがったら、足がふらふらするから、行かないと言い出す始末。「孫の選挙なんだから行ってね」とほぼ強制的に連れ出しました。

役場の裏口から入って行ったのですが、今回から投票所の場所が変わっていました。エレベーターのすぐ前の大きな部屋になっていたのです。そして、チャンと監視人まで付いてこの前のときには、もっと狭い部屋で、監視人なんかいなかったように記憶していますが。母は、まだ字を書くことができます。間違えたりもしたけど、なんとか書くことができて、無事終了でした。

「エレベーターの中に椅子があるといいと思いました。」と夫が言うと、さっと立ちあがって、椅子を運んでくれた職員の方があり、とても気分がいい期日前投票でした。母は、全身の体重をかけて、私たちの手によりかかってくるので、エレベーターで座ってもらえると、こっちも助かるのでした。以前は、裏口から登って行ったところのすぐそばの小さな部屋でした。裏口は、階段で登るので、手押し車を持っていきませんでした。エレベーターは、表口のすぐそばにあるので、ここは、ちゃんとスロープが付いています。今度からは、手押し車を持って行けるということがわかりました。足腰が大変な老人たちが、大勢押し掛けるのですから、そうしてもらえて、助かる人が沢山なのでしょう。


感動的な話
   2007年7月10日

昨夜は、十日町選対会議の後、南魚沼市のタウンミーティング(大崎会場)に遅れて参加しました。行政からの話が終わって、質疑に移るところでした。このところマスコミで報道されている教育特区、のことが何人かの方から出ました。南魚沼独自の教員採用方法を巡る特区構想のことです。

たまたま、昨日の朝、日報の六日町支局長山田孝夫さんのMMで、その特区構想ができてくる背景を知ったばかりでした。今年の6月にがんで亡くなった南魚沼市出身で長岡市在住の広田利三さん(51歳)からの3000万円の市への寄付、「子どもたちと国際交流に使って」というものがその源だったのです。3月に病院のベットから、市役所に電話があり、市への振り込みという形で、寄付が実現。合併前の塩沢町が、同じような趣旨で使おうとためておいた1億円をそれに乗せて、急遽スタートした子どもたちと国際大学との交流構想、その中で、国際大学の学生さんが、小中学校に「先生」としてこられるようにということで、特区構想が固まった。というのでした。

この夏休みには、子どもたちの国際大学での合宿が実現します。特区構想は、今回は、諦めたけど、9月には、もっと内容を固めて、提出するということでした。大和町に国際大学があって、外国からの大学生の子どもたちは、地元の学校に来ていて、自然な国際交流はできていたし、もちつきなどの行事には、大学生たちを呼んで交流するということはしてきていました。でも、日常的に、学校の教壇に立つということはされておらず、できたらいいのに、という思いを持っていた人はたくさんでした。

それが、ご自分の定年後のためにとコツコツと貯めてきた3000万を、寄付という形で、町の子どもたちのためにプレゼントしてくださった広田さんの想いを受けた市の学校教育課が、このような構想として実現に向けて走り出してくれたことに感動しました。この4月に私たちの昔からの仲間南雲権治さんが学校教育課長に就任、それが、とんとんとこういう構想になってきた原動力になってきたのでしょう。南雲権治さんは、一級建築士で、ずうっと建設課にいた人です。このたび、子ども園(保育所と幼稚園の統合されたもの)建設のために学校教育課に移ったのでした。昨日も、会場に市民として来ていましたが、発言は、「特区申請を9月に出します」とだけ言って控えめでした。寄付された、広田さんの親は、南魚沼在住です。「息子の想いがこのようにして残るのは、私たちもうれしい」と言って後押ししてくださったということでした。広田さんは、亡くなる時、独身でした。

4年前にがんを宣告されてから、撮りためた写真を自費出版し、その一冊の写真集を市の図書館に寄贈、これも、素晴らしいものだそうで、選挙が終わったら、ぜひ見に行こうと思っています。


年金問題勉強会
   
 2007年7月10日

たった3日前に企画した勉強会、MLや、メール、ファクスなどを通してかなり広報したつもりですが、参加者の数は、マスコミ関係者とどっこいどっこい。マスコミの皆さんは、ほかの候補者と違って、集会というものを基本的に開かない、黒岩宇洋の数少ない集会ということで、ほとんどの方が来られたという実情だったようです。

しかし、人数というのは、少なければ少ないだけ、突っ込んだ話ができるというメリットがあります。金さんは、在日韓国人として、年金に入れてもらえなかった結果としての無年金で、今回の無年金障害者に対する特別給付金というのも、結局は、外国人を抜かしてあり、附則としてはそれも入ったもののいつまでという期限が付けられなかったと話されました。私が国会にいたときにも、在外被爆者救済の件で、「日本人ではないのだから」と公然と発言する方がありました。在日韓国人の皆さんは、税金だけが、日本人と同じにとられて、参政権も、被選挙権もないという信じられないところに置かれ続けています。すでに白真さんが、3年前の参議院選で当選されている(ですよね。事務所に便覧を置いてきているので、確かめられません)在日韓国人でしたよね。この方も、金さんも、日本国籍を取って立候補することになったのでした。

宇洋は、2002年5月8日に初登院をして、6月4日に初めての無年金勉強会を主催しています。この日も参加された和田光弘さんから議員連盟を作ってほしいて言われて、議員さん全部にチラシを配って、集まったのは、たった3人だったそうです。この3人が、幹事となって、その年の12月に議員連盟を立ち上げてその事務局長になりました。とにかく、会長には、自民党の人になっていただかなくては、ということで、江田さつきさんが紹介してくださった方から八代栄太さんに会長を引き受けてもらったといういきさつが話されました。群馬からこられた方を始め、魚沼などからの本当に深い関心を持つ方々だけだったので、皆さんとても熱心に質疑にも参加されたのですが、マスコミの方々に宇洋の国会活動を知っていただくことができてよかったと思います。その後、各紙が宇洋が国会活動の成果として、この無年金の特別給付金のことを紹介してくれていました。


遁所直樹デー
   
2007年7月7日

この3日間ぐらいは、明けても覚めても「遁所直樹さんからのご紹介で」と言いながらの電話かけでした。遁所さんが、ご自分の名簿を出して下さったので、そこへの電話かけです。「遁所さんが、無年金障害者の裁判をしておられることはご存知でしょう?無年金障害者の問題を国会で取り上げて、議員連盟をつくり、その事務局長をしているのが黒岩たかひろなのです」というと、半分以上の方が、それは知らなかった、と言われます。それで、ご支援をお願いすると大抵がOK、もちろんそうはいかない、どうやら、社民党支持者らしき方もおいでです。でも全体としてとっても好意的で、気持ちのいい電話かけが続きました。大量のはがきの注文も何人かの方からいただきました。

しかし、今日は驚きました。とっても好意的で「ぜひ当選してください」というので、はがきでお知り合いを紹介していただけないかしら?というと「それはできません」ここまでは、多くの方が同じです。ところが、そのあとが全く違っていました。「友達はたくさんいるのですが、住所を知っている人はいないのです」「メールのやり取り?」「そう」とのこと。なるほど。若い方々は、メルアドが住所そのものなのですね。そのうち、この公選葉書というものがなくなる時が来るのかもしれないと思いました。「それでは、どうか、一人でも多くのご友人にメールでお願いしてね」と言って電話を切りました。

遁所さんが、海で頸椎を損傷して、入院した新潟中央病院で一緒だったという、その時患者さんだった人や、看護婦さんだった人とも話すことになりました。患者さんだった方々は、一様に無年金裁判に深い関心を示しておられました。看護婦さんだったという方は、第一声が「えっ!お母さんがそんなことをやるんですか。あなたの書いたものを読みました。子どものことなんか、子どもに任せて、選挙運動なんかしない方だと思っていました。」だって、たくさんのボランティアの方々が、ご自分の生活をなげうって選挙をやってくださっているというのに、家族がとことん没頭するのって当たり前なのでは?というと、納得されたらしく、「実は、私の息子もたかひろという名前で、自治医大を卒業して、地域医療をやりたいということで、聖篭町の診療所に勤めています。黒岩卓夫さんの医療を見に大和町にも行ったはずです」ということで、選挙が終わったら、ぜひ母子で、魚沼に医療福祉を見に来て、ということで、長い長い電話を終わりました。

障害者関係の方には、明日の金さんとの勉強会の宣伝もして、かなりの呼び込みをしました。faxもたくさん送りました。留守をのぞいて120人への電話が終わったので、カンパをいただいた方へのお礼電話を始めたら、長野県飯田市の遁所さんからのカンパ!もしかして、親族?って思ったら、なんと叔父さんだったのです。「直樹が世話になっているから」が冒頭の言葉でした。かくて、3日間の遁所直樹デーが終わりました。明日は、どのくらいの方がおいで下さるでしょうか?

「年金勉強会」8日(日)7時から、新潟市総合福祉会館5f大会議室です。司会が遁所さんで金ジョンオク(民主党比例候補者)と黒岩たかひろが講師です。


臼杵隆人さん
     2007年7月6日

いつもお手伝いをどうもありがとうございます。はじめてきて下さった日に、とんでもなく難しい仕事を言いつけられてお困りだったのですよね。それにも懲りずに、来てくださっているという全く稀有な方です。あなたのようなボラさんのおかげで、事務所は何とか活気を保っています。手作りのシホンケーキ、バナナケーキ、パインケーキ、お稲荷さん、出来立てほやほやの春巻き、などなど皆さんからの温かさが次々に届きます。お昼を作って下さる方が、火曜日から金曜までは、にぎやかに複数の方々が、かなり凝った昼食を用意してくださり、二階に寝泊まりしている数人分の夜ごはんまで用意してくださっています。土曜と、月曜は、袖山さん。日曜日は、内山孝子さんの夫というべきか、克朗さんの父というべきか、とにかく男性料理人が、厨房に立ちます。このところ、私は、彼の料理にありつけないことが多いのですが、皆さんからの評判は、とてもよく、息子のために頑張ってくださっている父親です。

今日は、江花さんが来られて、皆さんから拍手で迎えられました。先日は、東京から、宇洋の大学時代の同級生が、出張のついでに立ち寄って、おいしいお土産をいただきました。皆さん結婚式で出会っているので、初対面ではない方が多く、うれしい限りです。今日から、5年前にも来てくださっていた、東京の市議会議員の方が、アパートを借りて住みついて下さいました。手作業が多く、また、もどりはがきがどんどん増えて、うれしい悲鳴。電話かけの方が足りません。どうか、皆さん、お力を貸して下さい。


子ども省の提案
      2007年7月4日

今日は、急遽、江田さつきさんが来てくれることになって、事務所内のスケジュール関係者は、動きが活発になりました。私の施設回りを担当してくださっている西村ちなみ事務所の後藤さんが、江田さんの街宣車に乗ることになったので、3時40分着の江田さんを迎えるまで、ということで、保育所回りをしました。

先日行ったみたけ保育園の園長さんが、ここならと言って推薦してくださった所を選んで訪問。玄関に現れた園長さんが「あら、黒岩さんじゃない?」と言われました。昔新潟大学医学部の学生たちが作っていたサークル「よろず相談」の合宿を津川でした時に出会ったということで、すっかり打ち解けて、「2時から、部屋の主任が集まって会議をするからそこに来て話したら?」と提案してくださり、他を回ってから2時に話をさせていただくことができました。保育園では、いつも「1歳児6人を一人が見る、3歳児20人を一人で見る、なんて言うことは不可能ですよね。そんなことわかりきっていることなのに全然最低基準が変わらない。それは、高齢者のことを言えば、票にむすびつくけど、子どものことを言っても、若い子持ちの人たちが選挙に行かない。だから、票にならないから子どものことはちっとも変わらないのだそうです。でも宇洋は、子ども省を提案しています。子ども省ができたら、子どもの予算をもっと取ってこられるでしょう。」と話しています。

もう一つ、今日は、日本で初めてできた保育園に行きました。赤沢保育園と言います。初代園長の孫で、5代目の園長赤沢美治さんが、私と会うのは、3回目だと言って歓待してくださいました。どちらの保育園にも、たくさんのはがきを置いてきました。

子どものための予算がこんなに少ない国は、発展途上国をのぞけば、0です。


事務所のご近所回り
           2007年7月3日

事務所の周りは、人家がなく、駅から事務所まで歩いても、ポスターは一枚も見ることができません。せっかくご近所になったのだからせめて候補者がどんな人なのか知っていただけたらと思って、3日は、隣のビルに入っていきました。オフィスビルで、10ぐらいの企業が入っています。そのうち、にぎやかになるであろうことへのおわびかたがた職員の人数を聞いて、その枚数のリーフを置いてきました。候補者の母だと名乗ると一様に驚いて受け取ってくれます。ひとつだけ、「それはできません。個人的に私が受け取ることにします」と言います。この会社は、メディカル系なので、夫が萌気園をしていることも知っているのでした。責任者がいないので、というのがその理由。

広い道(弁天橋どうり)をはさんで反対側には、レストラン、ガソリンスタンド、などのお店もあり、こういうところは、結構好意的で、「入れるからな」と言ってくれたり、「民主党さんには頑張ってもらわなくては、本当に今の政治はおかしい!」と憤っていて、はがきの説明をすると「よしわかった。紹介するよ」と引き受けてくれる女性もありました。従業員が、たった二人だけの漬物工場みたいなところでした。

選挙事務所ができたばかりのころには、ごあいさつに行っているとのことですが、そのころには、まだリーフなどはなかったので、今回この事務所の住所が入っているリーフを置いてきたのでした。

ポスター貼り、開票立会人などは、ほぼ決まってきて、選挙戦に入るムードが漂ってきました。



選挙と「失業」は相性がいい?
               
2007年6月30日

石田正三さん(宇洋の中高の同期)が、6月初めから新潟事務所の二階に泊まり込んで、電話かけに、街宣に、大活躍しています。石田さんは、宇洋の秘書をやってくれてい、家庭の事情でやめ、企業に勤めているのですが、ちょうど、今が、観光の暇な時期なので、休みを取ってやってきてくれました。ありがとう。正三さん。

事務所の二階は、今は4人のすみかです。
政策秘書の松村さん、旧大和町の藤田君(34歳)、川口町長選に15票差で敗れたとい
体験を持つ佐藤伸広さん(40歳)。彼は、先日就職試験を受けました。受かったらいなくなってしまうので、ひそかに受かりませんようにと祈っていました。神に意が通じて、不合格。
長岡市の臨時職員の入試だったそうで、長岡市在住というのが、第一条件だったそう
です。ヤッター!おかげさまで、佐藤さんは、街宣計画担当で、大活躍です。

選挙と失業は縁が深いのですよね。
5年前の選挙の時に、三女帆姿の夫慶君が、失業したというので、みんな大喜び。早速宇洋の運転手になってもらいました。そうして、毎日宇洋と一緒に時を過ごし、京都精華大のマンガ科を卒業した彼は、宇洋の似顔絵を素晴らしく上手に書き、その上、仮設トイレの壁に真紀子さんのスカートを踏む小泉首相のイラストを描いて、マスコミに取り上げられ、一時は、観光地化していたくらいでした。選挙後にそれらの絵を持って、就職試験を受けに行き、合格!
選挙運動が、就職に結びついたのでした。今もその会社で、慶君はとっても重宝がられて、昇進しているそうです。

佐藤さんも、選挙後に素晴らしい就職が待っているかもね。




開票所立会人
               2007、6月7月

私は、29日夜8時半ごろからの開票立会人の要請をしています。初めての好奇心旺盛な方、求めています。すでに決まったところもまりますが、半分ぐらいしか決まっていません。我こそはと思う方、申し出てください。初めて体験した方々は、一様に「面白かった」と言われます。合併後の市町村で一人、新潟市は、各区で一名です。全部で42名となります。

4年前の東京都知事選で、開票立会人をした田中喜美子さんは、石原陣営から来た立会人にインタビューをして、自分が編集長として出しているファムポリティクの記事を一つ書いてしまいましたよ。立ち会っている間は、他陣営の人とおしゃべりをしている時間ですから、そんなことも可能です。

こんな呼びかけにこたえて、33人まで埋めることができました。その中には、土建業大手に勤めておられる方もあり、その会社の制服を着て、立ち会いに行ってほしいと冗談を言いました。20代30代の若い方々もこの中には入っています。そういう方々
が、これを機会に、もっと政治に関心を持って下さることを願いつつ・・・・

埋まらなかったところは、連合の方が埋めてくださいます。



保育所回り、その他いろいろ
                 20076月、7 

 先日行ったみたけ保育園の園長さんが、ここならと言って推薦してくださった所を選んで訪問。玄関に現れた園長さんが「あら、黒岩さんじゃない?」と言われました。昔新潟大学医学部の学生たちが作っていたサークル「よろず相談」の合宿を津川でした時に出会ったということで、すっかり打ち解けて、「2時から、部屋の主任が集まって会議をするからそこに来て話したら?」と提案してくださり、他を回ってから2時に話をさせていただくことができました。子どものための予算がこんなに少ない国は、発展途上国をのぞけば、0です。などなど。

もう一つ、今日は、日本で初めてできた保育園に行きました。小学生が、背中に赤ちゃんをおぶって学校に来ていて、赤ちゃんがなくと外に出なくてはならず、勉強ができなくなるということで、その背中にいる赤ちゃんを預かったのが始まりです。赤沢保育園と言います。初代園長の孫で、5代目の園長赤沢美治さんが、私と会うのは、3回目だと言って歓待してくださいました。どちらの保育園にも、たくさんのはがきを置いてきました。
 
 揺光の「記者の目」626日毎日新聞朝刊に載りました。



事業所訪問
             2007,6,19

私と夫連名の手紙を持って、福祉の事業所回りをしたら、という提案をしてくださった方があって、何人かの協力を得て、福祉の事業所を新潟市の地図に落として、19日、その第一歩を始めました。私は、電車を使って、後は、タクシーでと考えて地図を見ていると、沖縄から来て泊りこんで毎日事務所に来てくださっている小泉邦恵さんが、この人に運転を頼んでみたら?、と言ってくれ、なんとその人は、これまで何回にもわたって新潟市での選挙で運転を担当してきた方でした。その方の運転で事務所がある中央区の事業所を回りました。

新潟中央福祉会という官製の福祉法人は、「市の運営ですから」と断られ、病院が経営するところでは、「理事長の考えですから」と断られ、連名の手紙とリーフ一枚置いてくることがやっと。それでも一枚でも、目にとまってみてくれる人がいることを祈りながらそこを出ます。

でもいくつか、素晴らしい「受け入れ」をしてくれたところがありました。腎臓病友の会がNPOを作って、腎臓病の人たちの作業所を運営しているところ。その場所は、地図では、駐車場になっているから、本当にあるのかどうかと運転手さん。行ってみたら、とってもきれいな建物で、聞くと2年前にできたばかり、とのこと。女性の職員二人と、利用者さんが数名で作業をしているところでした。椅子のカバーをはが
す、ことだったり、小さなものを作ることだったり。職員さんが言います。「先日の腎臓病友の会の総会に宇洋さんが来て挨拶をしてくださったので、全面的に応援します」。卓夫に話したら、腎臓病についてのレクチャーを卓夫から受けて、あいさつに行ったのだそうです。

もう一つ、特養とケアハウスを運営している民間の社会福祉法人では、男性の施設長が対応してくれ、「お二人とも、有名な方ですから、その息子さんなら…」と言って、リーフを配るわけにはいかないけど、置いてあるのをとっていくという形なら、と引き受けてくれ、ご自分ではがきを書くと言ってくれました。私たち夫婦の名前を知っていてくれたのは、この二つの施設だけでした。

実は、福祉施設の全国組織では、郵政解散の時に造反したために落選していた前衆議院議員、衛藤征士郎(自民党)を比例区で当選させようということで、話がまとまっていて、したがって、地方区も、自民党、という流れになっているようなのです。この方の復党をめぐっては、かなりの抵抗があったと報道されていますが、自民党の中では、数少ない福祉の専門家として、福祉関係者の期待を集めているのでした。安倍首相の肝いりで復党が実現し、自民党の中でも、批判を強く受けていましたが、他の人との釣り合いという公平さもかなぐり捨てて復党が実現したという人です。今年の2月、大津で開かれたアメニティーフォーラムで、数人の人たちが、衛藤征士郎の名刺配りをしていました。

幼稚園があったので、飛び込んでみました。出てきた男性の園長さん。「だめだめ。幼稚園は、自民党だよ。文科省に強い森喜郎さんとつながっているから、みんな自民党だ。」と言いながらも、自分は、かなり民主党に興味があるようで、受け取ったものはしっかり読んでくれたのでは?と期待をしてしまいました。

留守だったから置手紙をしてきた作業所に翌日電話してみたら、「昨日はみんなでマリンピアに行っていたのです。留守していてすみませんでした」と言って、「応援しています」と言ってくれ、職員と利用者全員で15人が、それぞれはがきを受け取ってくれることになり、どさんと送ることになりました。



中国からの嫁
   2007,6,19

毎日はがきを送ってくださった方にお礼の電話をかけています。18日まで中国に行っているという人に、翌日かけました。そうしたら、何と中国に「嫁さん」を迎えに行っていて、前日帰ってきたのだそうです。それにあたって、「在留許可証がとれなくて宇洋事務所にお世話になったので、そのお礼に出かける前にはがきを送ったのです。みんな相手に宛名を書いてもらって出しました」というのです。事務所の人が一生懸命に取り組んでくれたので一時は、諦めかけたのに成功したんです。とのこと。それに取り組んだのは、織部さんだったということでした。このhpの管理者、織部さんに感謝。

もう一人の立役者があります。発送を担当してくださって毎日絶対に休まず通勤してくださってい白髪の人気者須貝さん。マスコミのリタイア組です。この方が初めのころ、返信用の封筒を入れ忘れたということが、今回幸いしたのです。中国の嫁さんを迎えに行った彼は、小千谷の方。返信用の封筒だったら、電話番号を書く欄があるのですが、この方は、自分で封筒に宛名を書いておくって下さったために住所だけで、電話番号がないのです。そこで私は、はがきで紹介されている人に電話して、反対にその人に、差出人の電話番号を聞いたのです。その時、「私は、宇洋の母親で」と言ったらすぐに声の調子が変わり、「パパー黒岩さんよー」とその方の夫を呼ぶではありませんか!出てきた方は、うちの萌実の担任だった若井吾郎さん。妻の君子さんが、その「中国からの嫁」の夫君の担任だったのだそうです。そこでいろいろな情報を仕入れて、その日の電話となりました。これからもっとはがきを書くので、もっと送ってほしいというのです。

「ところで、あなたの妻は、日本語は?」と聞くと「10の単語が言えるだけ」とのこと。これからどんな生活になっていくのか想像を膨らませました。新婚の雰囲気が漂ってくる電話かけでした。



選挙運動あれこれ
              2007,6

 17日は、私は、新潟市のあるキリスト教会にバスに乗って選挙活動に出かけました。というのは、紹介はがきで紹介された方に電話したら、そのおばあちゃんが、「まあ、浦佐から毎日新潟へ来ておられるの。それならお会いしたいわ。私は、日曜日には、マルマル教会に行くからそこでお目にかかりましょう」といとも気安く言われたので、ホイホイと乗ってしまったのでした。でも、その前にと、そこの牧師さんに電話したら、OKをいただけて、11時40分には、礼拝が終わるから、そこへ、と言われて、時間どうりに行きました。するとまだ礼拝の真っ最中。私は、チャンと名前を書いて椅子に座り、御祈りや、賛美歌などに参加して、礼拝が終わると、牧師さんが、新しい人を紹介すると言って、私に選挙運動をするようにと促してくれるではありませんか!ほんの30人ぐらいの集まりでしたが、少し話させていただけて、その後、配り物をしましたが、とっても反応が良く、いろいろなことを言いながら、はがきを持っていってくれるのでした。ところが肝心のおばあちゃんは見えていませんでした。

 中でも一番喜んでくれたのは、車いすに娘さんらしい方が座って、深い眠りに落ちている(後で聞くと、34歳とのこと)そのお母さんでした。彼女は、はじめから、私に親しげなまなざしを送ってくれ、近づくと「一番初めに医療機関に行ったのは、ゆきぐに大和病院で、黒岩卓夫先生が、宮永先生(現大和病院長で精神科)を紹介してくださり、ずうっと新幹線で浦佐に通っていました。その後新潟大学の神経内科を紹介され、大和病院までいかなくてよくなったのですが、」というのです。確かそのころはまだ新幹線が通っていなかったはずだから、在来線だと2時間もかけて通ってこられていたようです。今なら、新幹線で40分で新潟まで行けるのですが。

そして私の本が出た時から読んでいたともいいます。今日は、私は、この方と出会うために来たのだ。と思いました。お名前を聞き、「またきっとどこかでお目にかかれますね」と言って名刺を差し上げてきました。

 帰りのバスの中が面白かったのです。走っていって飛び乗った私に運転手さんが、「走ると危ないですよ」と声をかけてくれ、それから、話がとんとんと弾んでしまい、新潟交通の佐渡支店勤務だったのが、企業体として佐渡が分離したときに新潟に転勤してそのまま居ついてしまい、佐渡には、実家もなくなった、というので、佐渡の人口減に寄与したのね。などと話すうち、私が、宇洋のリーフを渡して「私はこの子の母親です」と言うや、ハンドをを握ったまま私の顔を見つめるのです。とっても驚いて言うには、「うちの組合は黒岩さんを応援しています」そこで私「はがきが3枚配られたのね。足りなかったでしょう?」「そうですね」と言われるや、20枚ぐらいのはがきを入れた封筒を彼のカバンに入れてしまいました。ほんの15分ぐらいの「旅」でしたが、とっても楽しく会話がはずみ、ちょっと運転が心配なくらいでした。今度、事務所にも来ていただけることになりそうです。

 土日がいつも人手不足です。どうか、いつでも来られる方は、土日にお出かけくださいませ。今日のお昼は、内山秘書のお父さん(つまり内山孝子の夫、家の中で毎日主婦をしているそうで、手が足りなくなると彼の出番となるのでした。息子の頼みとあれば、何が何でも来てしまうという子煩悩父さんです)の作でした。卵のチャーハンと、うどん汁、いいお味でした。

うれしいことがありました
ある土曜日、初めて事務所に来られた方にどなたのつながりで?と聞いたら、「なにもありません。政治を変えたいから来たのです。」とのこと、その方は、新潟市内で、薬局を開業なさっています。「黒岩さんが当選しなかったら、最悪の事態です。」と言ってたくさんの仕事をしていってくださいました。何のつながりもなく、こうやって飛び込んできて下さる方があるのは本当にうれしい。「ノームチョムスキーのことを話したら、ある候補者は、その名前を知らなかった。そういう人には、国会に行ってほしくない。チョムスキーは、アメリカにいながら、イラク戦争に反対して、国民の世論を作っているのですから」お茶を飲みながら、いろいろな政治の話をしあいました。

翌日の日曜日には、チョムスキーの本など3冊持ってこられ、「皆さんで読んでいただけたらと思って寄付します」と言って、本を置いて行ってくださいました。早速読み始めました。面白い!娘たちが回し読みをしていたチョムスキーは、ぱらぱらとめくっていただけだったので、今回は、その方のおかげで精読させていただいています。新幹線の40分間が、読書時間なのですが、睡眠時間と半分ずつくらいになっています。



保育園回り
      2007,6,11

今日は、新潟市の保育園を4か所回ってきました。すべて私立の保育園です。初めに3つ行ったのですが、それらの保育園の園長さん二人が、昔私の話を園長研修で聞いたというのです。(いぶき保育園の園長五十嵐三司さんが案内してゆたか保育園に行ってくださったので、そこでは、3人での話し合いができたのでした)言われてみて思い出しました。岩室温泉で、皆さんは泊まり、私は、日帰りだったのだけど更年期障害の「冷え」がひどい時で、温泉にゆっくりつかってきたことを。その時に、私を呼んでくださった女性の園長さんの名前も思い出しました。橋本光子さん。するとその方々が、「みたけ保育園で、今も園長をしていますよ。」というのです。帰ってきてから、みたけ保育園に電話すると橋本さんがとっても喜んでくださって、すぐに出向くことになりました。地図を調べたら、1,6キロだというので、それなら自転車を借りて一人で行こうということになりました。ところが、そこは、陸橋で線路を渡らなくてはいけないところでした。上り坂をやっと登って行ったのに、それらしいところが見つかりません。引き返してきてとうとう電話を入れて聞くとさっきのところをもうちょっと行けばいいということが判明。またして登って下ってやっとたどり着きました。

 でもそれだけのことをした甲斐がありました。午前中行った3つの園でも、集まれる保育士さんたちを集めてくださって、私の話を聞いてもらうことができたのですが、午前中は何と言っても仕事場を抜け出してきているので、なるべく短い時間で終わるということが必要条件です。でも、多くの子どもたちが帰ってしまってから行った最後の保育園は、ゆっくりお茶をしながら語り合えたので、皆さんがよくわかってくださった感じがしました。橋本さんは、なんと昔大地塾を一人で訪ねてきて、ここに一晩泊ったというのです。もう80歳だというのに、生まれが15年と聞いて、すっかり私と同じだと思い込んでしまったくらいです。実は、大正15年だということが帰りがけに分かったのでした。映画監督の羽田さんが81歳でも驚きましたが、今日の橋本さんは、半そで、スカート姿でそれはそれは若い!

 私立保育園の集まりは、日本保育協会と言って、政治的には、自民党の支援団体なのに、園長研修に私を呼ぶなんてよく実現したものですね。というと、「自慢ではないのですが、それは、私の発案だったからです」というのが橋本光子さんの答えでした。保育園の最低基準が、いまだに変わらないままで、1歳の赤ちゃんたち6人を一人で見るというのが、基準です。そんなことは不可能です。私がいたころは、本当に最低基準しか保母がいなかったので、2歳児を一人が、7人見たりすることで、1歳児を一人が5人とか4人に抑えていたのでした。この最低基準を変えるということ、これだけだって大変な力仕事になると思いますが、宇洋のマニフェストにある子ども省が実現できたら、きっとそこへの近道となることでしょう。もっと、現場のことが分かる議員が増えて、子どもたちの環境をよくしていかなくてはいけないと思います。何しろ多くの政治家たちは、「子どものことに取り組んでも票にならないから」と言って、票になる老人のことばかりやってきたのが、この国の歴史でした。

 当選したら、ぜひ、保育現場のことを宇洋に教えてやってください。ここに来させますから、と言って帰ってきました。私が、19年保育所にいたということを聞いてかなりの保育士さんが、共感してくれたように思いました。

 話していて感じたことは、半分ぐらいの保育士さんたちは、選挙があるということを知らないようでした。だからそれを知っていただくだけでも、かなり意味があったと思いました。そして、実は、政治というのは生活の仕方を決めるのですから、関心があってもなくても、選挙結果で生活の仕方が決められてしまうのです。ということを訴えてきました。DV法ができる前には、夫の暴力で殺されそうになって警察に駆け込んでも「夫婦喧嘩は犬も食わん」といわれるだけだったのが、DV法ができてからは、すぐに加害者が逮捕されるようになるのですから。


女子寮同窓会
   2007,6,9  於、東京、港区白金フランスレストラン「おざわ」

これを最後にどこにも行かない、と選挙事務所で宣言して、9日は、東京へ女子寮の同窓会に行ってきました。

去年からこの日にそれがあることは、ノートに記していたのですが、選挙との関係で行けるかどうかわからないので申し込みはしていませんでした。ところが、応援団への電話かけをしていたら、宮城県の山奥みたいな住所の方がいて、どうして応援団?と聞くと、女子寮の時に一緒だった黒田瑞江(一時宇洋の秘書をしていた黒田真一郎君の母親)さんが、私が東京選挙に出た時に電話をくれて、その時応援団に入って以来ずっと応援団だというのです。さらによく聞いてみたら、前から、うちよりも子どもがたくさんの人がいることを聞いていたのですが、それが、彼女だということがわかり、6月9日の同窓会には、上京するというので、ではそこで会いましょうと話が決まってしまったのでした。

さて、行ってみると、私の名札がありません。それもそのはず、申し込んでいなかったのですから。私は、黒田さんが、幹事だと思い込んでいたので、てっきり申し込んだと思っていたのです。でも結局幹事の柔軟な対応で、私の席も増やしてもらいました。総勢35人の参加。8人の子持ち岩田さんとも初対面を果たすことができました。

その中には、今「時の人」になっている中山恭子さんもいました。彼女の方から、あいさつに来られ、「北大路さんはよく覚えています。活動的な方だったので、あこがれていました。私は、1960年6月15日亡くなった樺美智子さんのお母さんについて歩いていたんです。」とのこと。彼女の旧姓を聞いて、私はやっとその名前(山下)を思い出したのでした。入学は、彼女の方が一年後。救援活動をしていたというのです。今自民党になっている人たちでも、加藤紘一をはじめ、あのころは、みんなデモに参加していたんだと改めて思いました。中山恭子さんは、拉致問題解決というメインテーマで、自民党比例区からの出馬で、11日記者会見とのことでした。

この日の一番年長者が、子安美知子さん。1956年卒なので、6年上かな?「ミュンヘンの小学生」「ミュンヘンの中学生」の著書で教育関係者には、名が通っている方です。私は、昔彼女に電話したことがありました。娘の帆姿が、小学生の時に、イギリスの自由な学校サマーヒルに行っていて、それを迎えに行くときに、安い飛行機で行ったので、ドイツで二泊しなくてはならないことになりました。それをチャンス

に、ミュンヘンのシュタイナー学校に行ってみようと電話したのですが、ちょうど夏休みでその時には、実現できませんでした。その後、北海道の伊達市にあるひびきの森や、スウェーデンのヤルナというシュタイナーの総合的な村に行ったりして、(このhpで報告しています)理解を深めました。今度そのシュタイナー学校が、日本の文部科学省からの認可を得て、2008年4月から、千葉県の山の中に開校する運びとなったのだそうです。その資金集めもあって、今回同窓会に出てこられたようでした。36年かかってここまでたどり着いたと言っていました。

この日のタイトルは、寮の管理人だった「藤井偕子さんを囲んで」、ということだったのですが、3月に亡くなって「偲ぶ会」に変更されていました。そのことを知らなかったのは、申し込みをしていなかった私だけ。藤井偕子さんは、総長をしていた矢内原さんの姪にあたり、母子家庭で、3人の子どもと一緒に寮に住み込んでいた方です。自分の子どものようにして世話をしてくださったので、彼女を囲む会が、今回で3回目となる予定でした。「世界で一番尊敬している女性は、藤井さんです」とスピーチした人がいるくらいでした。偕子さんは、91歳でした。私は、藤井さんの娘の一人とやり取りが続いていて、彼女がこのうちに来たこともあるのです。彼女は、6人の子持ち。宇洋応援団の一人です。


黒岩たかひろと語る会     
            2007,6,8  於、塩沢商工会館

 塩沢後援会主催の「黒岩たかひろと語る会」に次男がんじと夫卓夫と3人で行きました。かなりたくさんの方が来て下さっていて驚きました。

 がんじが、札幌で医者をしているのですが、卓夫のやっている萌気園診療所に月一で診療に来ることになり、8日はその第一回目でした。浦佐駅に来たがんじを乗せていったために、ついたときには、宇洋の話は終わって、会場とのやり取りの最中でした。これが次々に出るんです。ほとんど知らない人ばかり「あなたの人生観は?」などという難しい質問から、「正直者がバカを見る、という政治を終わらせてほしい」「新潟県をどうしていこうとするのか」とか、かなり時間延長して、やり取りが続きました。

そして最後に、家族紹介ということで、私たち全員前に並んで、代表として、卓夫が、マイクを持ちました。がんじが来てくれることになったことを話し、そのうえで、宇洋への注文として、「国をどうしていくのかということを考えてほしい。美しい国というが、人々の生活が豊かになって初めて、そこに住む人たちが生活する国が、美しくなるのだと思う」と結びました。

 帰りがけに何人かの人が、「想像以上に今日は感動した」とか、「旦那さんの話がよかった」などと感想を述べていってくださり、家族が行ったことも意味があったかな?と思うことができました。

9日は、がんじが、萌気園で、内視鏡による診察をしてきたそうです。


京都在住の大地塾生――目崎美絵

 そして、京都在住の在宅医療に取り組む永原宏道さんと
     僧侶になった元塾生上原敬子さん
    2007,5月

フォーラム「仕事も恋も子育ても」に、私からの知らせで参加した一人に元大地塾生の目崎美絵もありました。彼女は、中学二年から登校拒否。揺光と同じクラスでしたが、一緒に授業を受けたことはないはずです。美絵は、大地塾に行ってみたいけどそこには、同級生がいるから嫌だと思っていたそうで、しばらくしてからやってきました。ここでたくさんの友達と出会い、見る見る元気になって、大検を取って京都精華大学に進学、4年で卒業して、京都に住んでいます。彼女の卒論の指導教官は、帆姿のそれと同じで、大沢真一郎さん。この方は、以前金嬉老事件の対策委員会の事務局長だったので、私の古くからの友人です。

1998年、私が大地塾を閉じたとき、子どもたちが、サヨナラパーティーを開いてくれました。その時の司会者が、美絵(当時17歳)で、全国から集まってくださった200人をまとめ上げ、素晴らしい「卒業証書」を私にくれて、参加者一同に感動を与えてくれたグループの一人です。卒業証書はこんなものでした。

「あなたは大地塾において、真実のみを語り、人を愛し、私たちに大変なことの面白さ、非常識の中の正しさを教えてくれました。その果てしない好奇心とエネルギーをもって、これからの人生を歩いて行って下さい」この卒業証書を読み上げて私に渡してくれたのは、彼らが慕い続けてきた清水スイ子さん(当時82歳)そして、この証書を毛筆で書いたのは、今は亡き上越市在住だった清水ひろ子さん、子どもたちが人選して、両清水さんを訪ねたということを後で知りました。上越市は、ここから車で2時間のところです。

このパーティーに京都から参加した京都登校拒否親の会の中川道子さんも、この日来てくださり、美絵とは9年ぶりの再会でした。私が、打ち上げ会に行っている間、この二人は一緒に夕食をとっていたそうで、私は、打ち上げ会が終わってから、美絵と落ち合って、美絵の行きつけのお店で、少し食料をお腹に入れました。この時に出てきたこのお店の女主人を美絵は、「京都のお母さん」と言って紹介してくれました。心から美絵を可愛がってくれているようで、「一人でけなげに頑張っているのだもの応援したくなるわよ」と。私がおいしがっていただいた火薬御飯を二折下さって、私と美絵へのお土産。ここはモトカレが働いているところとのこと。いろいろな人間関係を作ってきていることに感動を覚えました。

彼女は今フランス料理レストランで、働いています。頼りにされているらしく、この日も、夜6時から9時はどうしても抜けられず、夜行で帰ってくることになっていた私と出会えたのは、9時半でした。でも、「作家になる」という中学時代からの夢を実現したいので、この仕事は2年ぐらい続けたけど、近々やめるつもりだとのこと。私の著書「ヘンテコおばさんと子どもたち」の中に、彼女の中高生時代の文章と写真が載っています。またこの本の中には、大地塾の卒業証書も実物の写真として登場します。

この私の報告をmlで読んだ京都在住の在宅医療に取り組む永原宏道さんが、次のような投稿をしてくれました。

>そうですか 彼女はまだ京都で頑張っているんですね 貴女の卒業証書の内容は初めて知りました。 あの日は式の始まる前に帰ったのです。 すごい内容ですね 改めて感動しました   宏道

永原宏道さん、そうでしたね。忙しい中を京都から来て、前夜祭に参加しただけで、帰って行かれたのでしたね。そのご縁で、大学時代の美絵が、具合が悪くなったときには、主治医として活躍してくださいました。さっそく永原さんに「ヘンテコおばさん」の本を送りました。

さらに驚いたことには、長岡の浄土真宗の大きなお寺の娘さんで、やはり中学時代から登校拒否。その後さまざまな経過をたどって、京都の浄土真宗の僧侶になる学校に在学していた上原敬子さんが駆け込んだ診療所も、実は永原医院だったのです。敬子さんも大地塾でのさよならパーティーでしりあっていたのですから、偶然駆け込んだところの医者が、面識があったということをとっても驚いていたのでした。なんと今は、この敬子さんは、その時の在学、卒業、の結果として、父親と一緒に在家を回って、お経をあげているとのことです。つい先日、その元気な声を電話で聞いたばかりです。

今回龍谷大学が、前日の打ち合わせや、赤松さんの歓迎パーティーを京都東急ホテルでしてくれたのですが、その隣に西本願寺、そして地図によるとその隣に東本願寺がありました。お寺というものにはほとんど興味がなく、中学、高校の修学旅行では、みんながお寺を見ている間は、もっぱらおしゃべりに熱中していたものでした。夫が古いものには大変興味を持って、さまざまな本から知識を仕入れているので、一度だけそれにつきあって、東寺へ行ったことがある程度でした。

でも、今私が理事長をしている桐鈴会は、移築してきたお寺が、地域交流伝承館「夢草堂」として私設公民館の活躍をしています。このお寺が、浄土真宗のもので、阿弥陀様が祭られています。そこで、せっかく近くに行くのだから二つの本願寺を見てこようと考えました。ホテルに荷物を置いて、身軽になって、西本願寺から行きました。建て替え中のため半分ぐらいは、見られないのですが、一番大きな本堂に入って、手を合わせてきました。その後、東本願寺まで歩いたのですが、これがとっても遠くて、ひざをすっかり痛めてしまいました。でも、こちらでは、すごいものを見ましたよ。

「越後のお寺からの寄贈」と書かれている大きな橇(そり)、その隣にあったのは、直径10センチ以上もある黒々とした縄です。そこにかかれていた物によると、森林から切り倒した木を吊るすのに、切れないように縄に女性たちの髪の毛を使っていたというのです。帰ってから、能生町のお寺の住職とその話をしました。実は、ここの娘さんも登校拒否で、大地塾に寝泊まりしていたことがあるのです。ちょうど夫の選挙中のことで、当時中学3年だった彼女がうちのおさんどんをすべてやってくれていたのでした。

世界中のお寺や、教会、モスクなどに行っていつも驚くのは、それがたてられたころの人々の生活と比べて、なんとそれらを建てるのに費用と労力を使っているのかという事実です。今回も、この髪の毛を信者のみなさんが、何年かけて、出し合ったものなのかということです。そして、それだけ宗教というものが、生活の中に息づいていたと考えるべきなのか、権力としてそれに従えられていたと考えるべきなのか、いつも考えてしまいます。

龍谷大学の学長さんがいる席で、私が「今日は、東西両方の本願寺に行ってきました」というと「お参りはしなかったのですか」と言われてしまいました。確かに、私にとっては、お参りもしましたが「行ってきました」がふさわしいと思わせられました。龍谷大学の幹部はすべて、僧侶の方々なのでした。親鸞聖人生誕750年を記念して、どちらのお寺も、半分は改修工事で、「見られ」なかったのでした。

同じ浄土真宗なのに、どうして二つに分かれているのか、歴史を勉強しない私には、お寺を見ただけでは、なにもわかりませんでした。「おにし」「おひがし」という言い方で、お互いに結構仲良くしているようには、みえるのですが、長崎暢子さん流に言えば、「紛争と和解の文化」は、どのように実現しているのでしょうか?先日の、私たちのパネルディスカッションの副題が、「性にまつわる紛争と和解の文化論」というものだったのです。


フォーラム「仕事も恋も子育ても」
          −−−性にまつわる紛争と和解の文化論

   2007,5,12    於、龍谷大学深草学舎 顕真館

龍谷大学アフラシア平和開発研究センター代表の長崎暢子さんが作りだしたこのタイトル!なかなかですよね。長崎暢子さんは、私の大学時代の女子寮の先輩です。「感動ブック」の中に彼女の書いたガンディーについての本が紹介してあります。

12日の当日、主催者の皆さんの心配をよそに、かなりたくさん(200人まではいかなかったかな?)の方が席を埋めてくださいました。その中には、私からの知らせでという方や、このHPを管理して下さっている織部さんのお姉さん、帆姿家族3人とかも含まれています。海映と帆姿が学生時代お世話になったという青山さんという方は、「お母さんの顔を見に来た」そうでした。帆姿夫妻が、孫を連れて会場に来たことをフォーラムの終わりに司会者の方が、「子ども連れで来て下さって嬉しかった」と言ってくださったことが、私はとてもうれしかった。少しは、孫(2歳)の声が会場に響いていたので、気になっていたのですが。ほかにも、何人か、子供連れがありました。

午前中はベアテの贈りものの上映会でした。それだけを見た人が、半分ぐらい。午後は、100人を切っていたように思いました。午後一番の赤松良子さんの講演「女と男が開く未来ーーよりよい社会実現のために法律のできること」が終わって帰る人、その後のパネルディスカッションの途中で、帰る人などあって、4番目に話す私のころには、70人ぐらいになっていたのでは?

ベアテの贈りものは、学生たちに、レポートを出すという課題を課した方があって、映画を見るよりメモを取ることにけんめいという学生たちもありました。でも、総じて、男性の人数も多く、まさに老若男女さまざまの方が見てくださいました。

赤松さんは、タイトルに沿ったお話でした。「女子差別撤廃条約」を批准するには、国内法の整備が必要で、その3つのうちの一つが、男女雇用機会均等法でした。財界からの抵抗と、女性団体からの圧力との間に挟まれて、かなりの妥協をしながら、とにかく作り上げてその後に修正していくというやり方でしか、切り開きようがないという追い詰められた状態で、何とか作り上げることができたということでした。

パネラーたちは、私以外はすべて、龍谷大学の職員、しいて言えば、研究者のみ。ドイツ人の女性と、ニュージーランド男性が含まれていました。ドイツ人女性(ナディアさん)は、日本の女性史研究者で、戦前、平塚らいてふ、与謝野晶子などが言っていたことは、今もそのまま完成されていない、確かに、戸籍による女性差別はそのままになっている。戸主だとか、所帯主だとか。日本とドイツは、とても似ているのだけど、1990年ぐらいから、ドイツは変化してきて、今は、「結婚」と「事実婚」との差別がなくなったので、事実婚が増えているとのことでした。

経済学者の久場嬉子(くばよしこ)さんは、前日の打ち合わせで話されたことが衝撃的でした。「二人の子どもを産んだけど、どちらも産休を取らなかった。職場の人はだれも出産を知らなかったでしょう」子どもを産んだ時から、私はフェミニストになりました。というではありませんか。2回とも夏休みに産んだのだそうです。

長崎暢子さんも、職場には知られないように、子どもがあるということは、言わないようにしていたといいます。研究者という世界の大変さが、垣間見られました。終わってからの打ち上げ会では、「論文が書けない」ことを苦にして自殺したという人が、二人も身近な人として話題になっていました。

ニュージーランドのチャプルさんは、日本人の妻との間に二人の子どもがいて、子育て真っ最中。私が去年NZに行ってきたことをとても喜んでくれ、いろいろと話があってしまいました。私も、子育ての中での様々な話をしたので、会場からのコメントが、彼と私に集中してしまいました。裁判官をしていた時に裁判官としてははじめて6カ月の育児休暇をとったという男性は、子育ても、家事もかなりしているつもりなのに、妻からは、感謝の言葉もないどころか、一緒に子どもと出かけようといっても疲れていると言って、自分に任せてしまう、など妻への不満を語っていました。彼は今は、龍谷大学のロウスクールの教官です。裁判所での育休はかなりの抵抗があったそうです。そしてそのことは国会でも取り上げられ、当時としては、一石投じたようでした。

終わってからの打ち上げ会では、20人ぐらいの龍谷大学のスタッフで、私と長崎さんを除けば、ほとんどが、子育て世代、と子育て予備軍だったので、全くプライベイトな話に花が咲いて、「こんなに楽しいイベントは初めて」という人が多く、前日から準備でかなりの時間を取られたはずなのに、打ち上げ会は遅くまで語り合いが続きました。

私の著書が、完売して、注文まであったということでも、皆さんの関心の高さが測れました。長崎さんに深く感謝しました。



黒岩宇洋新潟事務所開き
   2007,4,28  於、南笹口事務所

4月28日は、当選してからちょうど5年という節目なので、その日を選んでの事務所開きでした。事務所に入りきれないほどのみなさんが来てくださったのもうれしかったのですが、スピーチをしてくださった方々のスピーチがどれも素晴らしく、心を打つものでした。

まず篠田新潟市長が「自分の選挙を最も応援してくれたのが黒岩さんです。ですから81万新潟市民の中で私を応援してくれた方は全員自動的に黒岩さんを応援して下さるはず。それが『科学的民主主義』です」これには会場が沸きに沸きました。

江花さんはこう言われました。「5年前に54万票あったといっても、その時の応援団が三つに割れているのですから、零から始めなくてはだめ」そう言われてみればそうだな、程度にしかその時には、理解していなかったのです。

 ところが、その後新潟の事務所に通い始めて、電話をかけてみたら、そのことの意味がしっかりとわかってきました。まさかと思う人が、山本さん(社民党の候補者)の支援に回っているのです。まるで電話かけは、そのことを理解するためにしているような感じになりました。本当は、新潟近くのお住まいの方々に、事務所においでくださいという電話かけをしていたつもりなのですが。

 でも、5年前には、知らなかった方たちが、30日には何人も事務所に来てくださいました。これからは、そういう方々を頼りに選挙運動をしていきます。皆さんもどうかお誘い合わせて、お出かけください。

30日はとっても愉快でした。リタイアした男性が、来てくださっていて、私がこういったのです。「ニート引きこもり系の人と選挙というのは相性がいいんですよ。だって、ボランティアというのは、いつ行ってもいつ帰ってもいいのだし、毎日1時間でもいい。引きこもりの人が初めから8時間労働をするのはかなり大変だから、リハビリ方々始めるにはとってもいいのです」するとその方が「僕は引きこもりなんですよ。朝、女房から、今日はどこかへ行かないのと言われています」そこで、みんなで熟年離婚の話になってしまいました。

するとそこへ、その方の妻と娘と、その従妹が現れたのです。大笑い。熟年離婚どころではない仲のよさそうなご夫妻でした。なんとこの方たちは、親戚中で、応援していて下さるのだそうです。

ところで、新しくできたリーフレットの「マニフェスト」の中に「佐渡にカジノ」が入りました。

事務所開きの翌日、来てくださった支援者の方が、「カジノって嫌だという人がいて、どう答えたらいいかわからなくて」というので、その翌日は、封筒詰めの作業をしている人たちの間にこの問題を投げかけてみました。総じて、否定的。

「佐渡が、観光地として様々な努力をしているのに、それをぶち壊すことになる」
「やくざ、暴力団のイメージが強い」
「カジノと聞いただけで、いやだという人がいる」
などなど。

これを宇洋にぶつけてみました。いうことには、「初めてカジノを提起したころには、佐渡の人たちも嫌がる人が多かったけど、今は、もう反対の人に出会わなくなった。佐渡が、それだけ廃れてしまっていて、住人の皆さんも何とかしなくてはという思いが強くなっている。それに対して、いろいろな提案をしましょう。僕は、カジノを提案します。と言っているので、皆さんがもっとほかのアイデアを出して下さることを期待している」

我が家のことを「雀荘」と呼んでいた弟たち、そんな私の昔の家も、また小学校に入る前からマージャンに参加していたこの黒岩の家もカジノに対する抵抗が、かなり弱いのでしょう。

それでも、私は、ラスベガスに行ってみようなんて思ったこともないのですが、以前、揺光が、マイアミ大学に在学していた時に、夫や、娘たちと尋ねて行きました。フロリダ州では、ネイティブの人しか、カジノの経営ができないという規則があり、家がほとんどないようなところにどでかいカジノがあったので、入ってみました。すると大半が、お年寄りで、「遊びに来た」という感覚で、楽しそうにゲームをしていたのでした。カジノというイメージを変えた場所でした。

スウェーデンに家族で行った時に、みんなで入ったカジノでは、孫の魁(当時7歳)が、ルーレットをやりたいというのですが、18歳以下はだめと言って、頑として聞き入れてもらえませんでした。また去年、スイスに行った時に、確かチューリッヒだと思いますが、国鉄の駅の前ににぎやかな店があって、なんだろうと看板を読んでみたら、「カジノ」と書いてありました。こんな町中にあるんだ。と驚いたことを覚えています。スウェーデンでも、確か町中だったように思います。

選挙事務所がいろいろな意見が飛び交うところになることを期待しています。


鈴懸施設長森山里子さんの送別会
     2007,4,23    於、ホテルオカベ

 浦佐駅近くのホテルオカベで、桐鈴会鈴懸施設長森山里子さんの送別会と新しく職員になった二人の歓迎会が行われました。鈴懸ができた時からずうっとかかわり続けて、庶務も、介護も、経営も、ほとんど一手に引き受けてきた里子さんが、10年の仕事を退職するとあって、職員や、役員はもちろん、入居者や、その家族の方まで含めて70名の参加でした。

 私は、理事長としてはじめに森山さんとの出会いから話しました。今から32年前、乙水が生まれる産休中に、東京に本部がある「がっこの会」から手紙が届きました。「今度森山里子さんという会員が、引っ越していきます」がっこの会というのは、しょうがいをもった子どもたちが「がっこいく」とよくいうので、障害を持った子どもたちも普通学級へという願いを込めた親たちやその支援者たちで作った全国組の名前です。里子さんは、小千谷高校を卒業して上京し、昼間働きながら、明治学院大学二部社会学部で社会福祉を勉強していました。その時に昼間働いていた墨田幼児教室など、障害を持った幼児たちの幼稚園で、普通学級に行くという運動にかかわり始めたそうです。私は、生まれる直前のおなかを抱えて、隣町の小出、板木部落に車を飛ばしました。出てきた森山さんも大きなお腹でした。私が男女を双子を産んだというと、「いいなあ。私も!」といったのです。すると、5月に乙水が生まれ、その秋、里子さんも男女の双子を産んだのです。私の双子の体重総量より、私よりずうっと体の小さな里子さんが、私より総量としては上の双子を産みました。その時から、彼女のエネルギーには敬意を表しています。

 それ以来、我が家に子連れで集まっては、地域で障害者が普通に暮らせるようにといろいろ話し合い、映写会や、講演会などを主催してきました。里子さんも、私の5人目と同じ双子や、その下の赤ちゃんなどを連れたり、夫の豊さんも一緒に来たりして、友好を深めました。その後、小出の社会福祉協議会の家庭児童委員や、学童保育の世話などをし、新潟県の君知事が、全国に先駆けて、知的障害者更生施設「ミニコロニー」を作り始めたのですが、その第一番目の六花園が堀之内にできた時、そこの指導員になり、20年間勤めて、退職、もえぎ職員を経て、鈴木要吉さんから450坪と5000万を寄付するという申し出でを受け、「ともに育つ会」で集まってはいろいろ話し合って、ケアハウスの建設が始まりました。今日も、ここにその時からのメンバーが、たくさん来られています。理事や評議員など役員として、かかわっている方々です。

里子さんは桐鈴会の建設に昼も夜もなくかかわり、鈴懸をその生きがいとして、取り組んできました。去年の秋「黒岩卓夫さんと秩子さん二人と話がある」というので、なんだろうと思ったら、両親の介護のために退職するというのです。びっくりしました。夫の死、長男の死、など大変なことがありながら、持ち前の明るさで乗り越えてきているし、ご両親の介護も、鈴懸おはようヘルプをお願いしたりしながら、朝は、母上の食事介助をして出勤、夜も、その時間に帰って食事介助の後また出てくるという生活を続けてきました。でも、うちにいたいというご両親の願いを受けて、心ゆくまで介助して、また新たな生活を考えてみたいというので、幸い、広田セツ子さんが、後を引き受けてくださることになり、今日の退職を迎えることになったのでした。森山さん、本当にどうもありがとうございました。

 そして、その直後宇洋があいさつに立ちました。
「森山さん、お疲れ様でした。黒岩秩子という人は、家族だったり、活動したりということだといいのですが、仕事を一緒にするというのは、とても大変な人。私の秘書をやってくれた時にはまいりました」森山さんほか、数人が深くうなずいていました。
 その後新しく職員になった人二人を紹介。中島高光さんは、障害者向けのヘルパーさんとして、小沢俊子さんは、グループホーム桐の花のケア要員として、活躍しています。

 さて、森山さんを送る余興が二つ用意されていました。
ひとつは、「銀座のカンカン娘」の替え歌

「板木のカンカン娘」
 里子かわいや板木の娘
 絣のブラウス長靴はいて
 誰を待つやら畑の真ん中
 なすび眺めてそわそわにやにや
 これが板木のカンカン娘

 3番までなかなかの歌詞がつき、この曲に合わせて踊りました。私も、10人の踊り子の一人でした。その上、結婚式などでよく使われる写真や、入居者全員の一言メッセージでつづるビデオ上映。当の森山さんは、顔を真っ赤にして楽しそうでした。その後のあいさつで、森山さん「送別会なんかいらない、と言い続けてきたのですが、こんな心のこもった会をしていただいてうれしかった。これを取り仕切ったのは、すべて広田セツ子さん、私に内緒で、こんなことができるなら、私は何の心配もなく退職することができます。」
 ところがそのあとの最後の〆で、広田セツ子さんは、「森山さんがそばにいるから、何でも聴けばいいと思って引き受けたのです。私に断りなく外国に行ったり、よめにいったりしてはいけません」と言ってのけました。
 近くのカラオケバーで二次会が夜を徹して行われ、里子さんとの別れを惜しみました。


コスモスの会
   2007,4,22  於、夢草堂

南魚沼市の宇洋応援団女性の会は、去年から時々集まりを持っていました。田中せつ子さんが代表者とり、若い世代と私たち世代とが半分半分という幹事会が何回か集まって、4月22日に夢草堂で、初めての集会を開くことにしました。この会の名前は、宇洋が10月生まれだということで、「コスモスの会」ということにしたのでした。幹事の皆さんの活躍で、当日は、70人ぐらいの方が来てくださって、宇洋の話に聞き入ってくださいました。

翌朝、歯医者で出会った地元のお年寄り、「昨日は宇洋さんの話がうまくなってたまげた。」「ちょっと長すぎたでしょう?」1時間しゃべりました。「いやいや聞き惚れて、もうあと一時間ぐらい聞きたかった」だって。驚きました。おそらく女性だけの集会というのは、宇洋にとってはじめてだったのではないでしょうか?男女共同参画の話を始めました。さすが、わが子、と思いながら聞いていたのですが、「女性が一人もいない県議会がたくさんあり」と言われては黙っていられない私。「一つよ。島根県」実は、これも間違いだったことが後で判明。

この間まで、島根と福井二つだったのですが、島根が今回の選挙で二人当選し、福井だけとなったのです。皆さんが笑ってくださったのでほっとしました。

ほかの方からも、年金の話が面白かった、と言われました。はじめて年金ができた昭和34年、積立金が100円だったというのです。知らなかったなあ!さらに、みんなが積み立てた200兆円だったかな?それすべてがまだ年金としては使われておらず、グリーンピアとか、株式とかに「運用」して、大損害を出してしまっている。そのうち100兆円はまだ確実にあるはずだから、年金が出ないという話は、デマだというのでした。

話が終わって質疑の後、またして、「嫁しゅうとめ」によるカンカン娘。今回は、チャンとピアノ伴奏が入りました。私の歌の先生、柳元子さんが、テープに吹き込んでくれたのです。歌詞カードが配られて、皆さんが一緒に歌ってくださり、アンコールまでいただいてしまいました。でも、実は次の出し物があって、そっちのほうが2回繰り返したかったのです。これは、「コイのぼり」、一番はみなさんご存知、二番がとってもいい歌詞なのです。先日のコンサートで、柳元子さんが歌ってくださったものでした。

 開ける広き、その口に
 舟をも飲まん、様見えて

 ゆたかに振るう、尾ひれには

 ものに動ぜぬ姿あり

その次に3番を替え唄にしました。これが宇洋をうならせた実に立派なものなので
す。

 魚野の滝を、のぼりつめ

 たちまち龍に、育ちゆく

 越後を背負い、世のために

 宇宙(そら)におどるや、あばれんぼう

さてこのコスモスの会は、5月に六日町、6月に旧塩沢町でもすることになり、この替え唄が、宇洋応援歌になっていくことを祈っています。この替え唄は、コスモスの会の幹事会で、みんなで知恵を出し合って作り上げていきました。一人ではここまではできなかったと思います。代表の田中せつ子さんが、宇洋応援のメッセージをくださり、女性集会ならではの、華やいだ空気が流れるひと時でした。

5月のコスモスの会は、さくり温泉で、27日(日)13:30からとなっています。


宇洋の月例会
  2007,4,21  於、南笹口の新しい事務所

いつものようにリンゴケーキを焼いて、温かいのを詰めて新潟に出かけました。先日、マージャンに没頭して正座を続けすぎたらすっかりひざを痛めてしまって、重たい荷物をしょって6分歩くのは、ちょっとやめようと思って、タクシーを拾いました。ところがここら辺と思う場所になく、地図も忘れてきて、住所も分からない。どうやら通り過ぎたらしいと思うところでおりました。そこから引き返しながら、公衆電話を見つけ、電話して、だいたい間違ってはいなかったことが判明。

ところがここらと思うところにも見当たらない。よくよく見たら、「ボランティア勝手連」という旗をガラス越しに見つけました。部屋の中に貼ってあるのです。表からは、白い紙が見えるだけ。中に入ったらすでにたくさん集まっていて、もう話が始まっていました。皆さん、よく見つけてこられたものとそのことにばかり感激していました。

全員の自己紹介があり、その中に「私の子どもはたかひろという名前なのですが、泣き虫なので宇洋さんのように元気な子になってほしいと思っています」というような話がありました。そこで、私は最後に言ったのです。「男は男らしく強くあれ、」というメッセージでどれだけの男の子が大変な思いをしていることか、大人の男だって、あんなにたくさんが自殺している。それは、強くあれ、と言われ続けているためでしょう。どうか、男の子には「泣いていいんだよ」女の子には「強くあれ」と言ってください。と話しました。実は、昨日の正午からのテレビ朝日の「奥さんは外国人」という番組で、アルメニア人と日本人のお父さんの10歳の子供が、泣き虫を治すために一人でアルメニアに行って4泊するという実際の話をやっていました。この話の「落ち」は「泣き虫を辞めなくってもこんなに楽しめる」とかいうことになるのでは?と思っていたら、何のことはない。ただ、本人は言葉の壁やら、お母さんと離れての生活やら、いいことは何もなかったようなのだけど、「男は男らしく」ということに徹する番組のままだったのでした。これは、テレビ局に抗議しようと考えていたところに同じような発言があったので、見過ごせなかったのです。そしてその後、テレビ局にも抗議をしました。

いつものようにたくさんの手作り料理が並び、おいしいことおいしいこと!そして最後に前日美春さんと約束していたカンカン娘の歌をおそろいのスーツで歌いました。6年前の私の東京選挙のときに来ていた白い「戦闘服」です。従って、同じものが2枚あったので、美春さんにも着てもらいました。大きさもちょうどよかったのですよ。そしてこれは、とっても受けました。

ここで、橋爪さんが持ってきてくださった「宵待ち草」の苗には感動!

7月22日の夜8時に黄色の花を咲かせるこの花の種を去年買って、苗にまで育てて、みんなで持って帰り投票日に咲き誇った花を持って集まろう、という提案をしてくださったのです。まだ少し残っていました。育ててくださる方、どうぞ事務所に取りに行ってください。

終わってから、一軒おいた隣にある「村さ来」というなんて言うのかしら?飲み屋?に行って、生ビールで乾杯をしました。その前においしい御馳走でおなかがいっぱいになっているので、ほとんど食べられず、最後の会計は、1000円だったとか。

今回、新しい事務所を見たいということもありましたが、政策秘書の松村さんとは初対面なので、「顔を見に行く」という目的もありました。いつも、電話で話すのだけど、取り付く島もない感じです。初めて会っても、あまり表情を崩さず、電話と同じような対応でした。ところがこの「村さ来」に入った途端、笑顔がこぼれていました。「まあ!松村さん、いい笑顔!いつもそうしていてね。選挙事務所は、笑顔が一番なのだから。」などとみんなで失礼なことを言っても笑顔が消えませんでした。これはいいぞ!


片桐公彦講演会
    2007,4,17    ドリームハウス,in浦佐

 17日は、うちの近くにある知的障害者の作業所「ドリームハウス」の8周年記念ということで、このところよく話題に上っている上越のNPOりとるらいふ理事長の片桐公彦さんが講演に来られました。実は、私はひそかにこの地に彼を呼ぼうと考えていたのですが、先を越されてしまったのです。彼が、こちらに来られるとあって、夜は、懇親会を企画し、彼の身柄は頂くことにしました。

 彼のその日の講演は「障害のある方の地域生活支援」ということで作業所をNPO法人化を目指しているドリームハウスの職員向けの話が中心でした。だからか私は半分ぐらいは眠っていたみたいです。15日に上越で聞いてきたこととかなりだぶっていましたから。聴衆は、ドリームハウスの職員、親、利用者、のほかには、すぐ近くにあるやいろの里の職員が2〜3人、南魚沼市の生活支援センター職員が2名、桐鈴会が二人(セツ子さんと)だけというさびしさです。

 終わってから夜までの時間、私は、彼をいろいろと案内しました。驚いたことに、彼のお父さんは、吉川町の国田部落の出身だということで、実は、夢草堂と呼んでいる地域交流館は、吉川町国田から運んできて移築したお寺なのです。彼もとってもびっくりして、小さい時にここで遊んだのかもしれない、とってもなつかしそうに中を眺めていました。そこに置かれているたくさんの骨とう品(階段ダンス、車ダンス、火鉢などなど)に興味を示した彼を卓夫がやっている古家達に案内することにしたのでした。庄屋さまの家を改装してデイサービスにした「地蔵の湯」、200年前の民家を新築の診療所に埋め込んだ「曼荼羅華」というデイケア、など「自分の作りたかったものがみんなできていた」という感想でした。

 夜、広田さんのほか、桐鈴会のヘルパーステーションのヘルパー3人と片桐さんで、懇親会。これが実に楽しくて、片桐さんの楽しい話がたくさん聞けました。高齢者のヘルパーをしてきた小野寺さん、岡田さんもどんどん質問をして障害者関係のことへの理解を深めました。
 障害者のヘルパーをこれまでもしていて、今も、おもにそちらを担当している中島高光さんは、片桐さんを頼りにしていて、これまでも、うちの桐鈴会に移るにあたってもいろいろと相談してきているので以前よりずうっと中島さんの表情が良くなったと言って片桐さんに喜んでいただくことができました。利用者本位にやっていきたいという彼の思いが、以前の職場では阻まれることが多かったのだそうです。特に自閉症の人への支援について、彼は上司と闘ってきたということを初めて知りました。

 片桐さんは、自分のところのNPO法人を社会福祉法人にしようかとか、どこかの社会福祉法人と合併して…とか考えていたそうで、桐鈴会と合併がどうだろうか、という話も出ていました。考えてみたら、彼と初めて出会ったのは、今年の3月3日、まだ、一月とちょっとしかたっていないことが、信じられないぐらいお互いに共感することが多くありました。一番の共通点は、制度外であっても、大変な人があれば、その人に必要な支援をしていきたいという意志を持っていることだと思いました。



へき地中の俣訪問記
     2007,4,15

 リトルライフに別れを告げて古川和代さんの運転で、走っていると「中の俣」という標識に出会いました。私はかねてからすごいへき地だというかの地に行きたいと思っていたので、古川さんからの高田公園での花見という提案を断って、中の俣に連れて行っていただくことにしました。
 8年前の県議選に立候補した石川美恵子(農業)さんの家がそこにあります。何しろ、彼女(59歳)が、結婚してこの部落の住人になって以来、一人も新たな住人が来ていないというところです。国道から、15分ぐらい走らせてやっと家が見つかったのですが、その部落からまだよっぽどあるとのこと。上ったり下ったり、結局30分走ってやっと中の俣につきました。石川さんの家は小川のほとりの林の中に建っていました。家の裏に回るとそこには、こごみや、しらねあおいなどが群生しています。こごみを摘み、しらねあおいを一株お土産に戴いて帰ってきました。山の幸を朝市で販売するというのが、美恵子さんの生業。このしらねあおいも、美恵子さんが株分けをしては林の中で育ててきたものだそうです。

 突然の来訪に驚く石川さんは、ぎっくり腰でびっこを引きながらも、歓迎してくださり、親戚が引っ越して無人となった古民家で囲炉裏をたいてお茶となりました。この家をいろいろな団体が使っているそうです。子どもたちは、火をくべるというだけでも大喜びだということで、ここに泊っていろいろな体験をするそうです。
 石川さんの子どもたちが通っていた小学校は、その子たちが卒業すると閉校になり、その学校が今は地球環境学校となっていて、NPOが運営し、年間何千人もの人が訪れているということです。
 石川家の子どもたち二人が、この3月に家を出たので、これでこの部落の50軒ぐらいの家すべてが、老人だけの二人、または一人のすみかになったそうです。お互いに生活の隅々まで知りあっているということが、住みよいことでもあり、住みにくいことでもあるということのようで、8年前に彼女の県議選を応援して以来、石川さんの生活を知りたかった私は、それなりに満足して、また30分走って、町中に帰ってきました。午後のフォーラムにやっとまにあったという次第です。
 この部落に嫁いできてくれたということは、美恵子さんの夫(56歳)にとってはとってもありがたかったことのようで、彼女が県議選に出ると言った時に、反対するどころか、「君のいうことなら何でも聴く」状態だったそうです。



NPOりとるらいふ見学
     2007,4,15
 
 NPOりとるらいふ代表の片桐公彦さんがやっているデイサービスの会場を一度見てみたいと思っていたので、15日、「自立支援法下のビジネスモデル」に参加するついでに見学を片桐さんにお願いしたら、9時半までに来られたら案内できるというので、ほくほく線で9時に直江津につき、片桐公彦さんが忙しい体で、直江津駅まで迎えに来てくださって、案内していただきました。そこは、奥まった林の中に建っている古家でした。入った途端、障子がたくさん破かれています。「猫?人間?」が私の最初の挨拶でした。「人間」がその答え。「毎年4月はこうなるんです。担任が変わることを受け入れられない発達障害の子どもたちです」障子の一番上は破かれていないので、背の低い小学生が「犯人」だとわかります。もうすぐ、障子を全部取っ払って広くするんです。とのこと。
 二階は、プレイステーションなどのゲーム場、と事務室。一階の広間(20畳ぐらいかな?)には、いろいろなおもちゃがあり、日曜日なので、利用者はおらず、想像するだけです。養護学校の放課後、ここで過ごす。春休み、夏休みなどはとても賑やかだということでした。発達障害の人は、聴力がとくに発達している場合が多く、たくさんの雑音が聞こえてしまうということです。だから、一人だけにしてほしいという状況もあるとか。この家は、車庫も含めて5万で借りているとのこと。周りが竹林で、近々筍の収穫祭とのこと。

 片桐さんによれば、自立支援法で、一割負担になって騒いでいるのは、親が、障害年金を使ってしまっているというような場合が多く、普通なら、障害年金をもらっていれば、一割負担など当然で、サービスにはお金がいるということを、知らしめた功績は大きいと言っていました。

 話していると若い職員が出勤してきます。数日前に入ったばかりの女性は、3年間タイで働いていたという方で、揺光と年も同じ。帰国してきてこういう職場を探していたということで、意欲満々という感じでした。
 午後のフォーラムの準備にかかる時間に、私は友人に迎えを頼んで、午後までの時間を二人で話をすることにしていました。その友人、古川和代さんは、以前親子劇場の事務局をしていて、そのころから、片桐さんは、親子劇場とはつながっていたので、今回お互いに顔を合わせるのは初めてだということですが、名前だけは知っているという仲でした。
 片桐さんの話す障害を持った人たちの話は、どれもとっても興味深く、そして楽しい話なので、いつまでも続けてほしいという感情を持ったまま、とりあえず別れました。


自立生活支援法化におけるビジネスモデル
     2007,4,15       於、上越

 タイトルにあるような名前のフォーラムが上越市であったので、行ってきました。これは、全国展開のもので、すでに名古屋、東京で行われていて、4月15日は3回目の催しでした。日曜日とあって、佐賀県とか、ずいぶん遠くからも参加して、会場が入りきれなくて近くへ移したほどでした。それで本当の会場の名前がわからないのです。

 2月に大津で開かれたアメニティーフォーラムで配られた「自立支援法化における地域生活支援事業所ガイドブック」がテキストです。「小規模からでも目指せる多機能・多角な経営戦略」という副題が付いています。NPO全国地域生活支援ネットワーク、が発行元。田中正博代表。

 自立生活支援法のことを「自立生活阻害法」などと揶揄する人たちをしり目に、このグループの皆さんは、これまで社会福祉法人など、行政の怠慢な性格を併せ持った福祉施設に対しては、痛烈な批判を持っていて、特に、自立支援法が、施設との契約を月割ではなく、日割りにしたということを持って批判している施設側の言い分を、とんでもないといいます。介護保険の場合には、はじめから日割りです。利用者の立場に立ったら、日割りというのは、当たり前のこと。利用者が、入院したら、その間、ほかの誰かが、ショートステイで入るというようにたくさんの人が利用できるようになるのだから、と。さらに、これからは、利用者が、日割りで選んで、月曜はこの事業者、火曜は、・・というように、本当に利用者が地域で暮らしていくことを前提に利用しやすいようなシステムを作っている。施設入居者を地域での生活に移行させようという、そのための法律なのだ、というのが、全体の主張でした。それは、私たち「ともに育つ会」でもずうっと目指してきた方向を一致するものです。

 私がとても興味を持って(=眠らずに)聞いたのは、戸枝陽基社会福祉法人むそう理事長の話でした。彼は、大学卒業後障害者の授産施設に勤めた。そこの利用者たちは、その後の就職に結びつく人は1%、つまり99%は仕事に就けない。自閉症の人は、新しい所に対して特別な抵抗があるので、就職のための訓練だったら、会社に行ってしなくては、別の所での訓練は、意味を成さない。
 そのことに気がついて、そこをやめ、もらった退職金100万を出すことにしたら、親たち5人も100万出すといい、600万で、事業を始めた。その事業たるや、どんどん発展して、ラーメン屋、喫茶店、ケアホーム、グループホーム、農園、児童デイサービス・・・・小規模多機能を目指して10年間格闘してきた。10年前に自分がほしいと思ったものを今このようにして皆さんに届けた。というのです。愛知県半田市を中心とした取り組み。
 戸枝さんの話は、大事なことだけをコンパクトに話し、無駄がない。彼によると、「施設の存在意義は、一人の人の命を一生預かる」「一人でも、その人の一生を預かる、つまり看取りまでできる事業所だけが、施設批判をしてもいい」「介護保険と自立支援法を統合しようということに反対する人がいるが、障害者だって、年をとれば、結局介護保険になるのだから、統合したほうがいいに決まっている。」

 私が、すぐにでもできると思ったのは、制度外の「たすけ合い」というシステム。これは、新潟ではまごころヘルプが、かなり前からやってきていることですが、手がほしい人と手を出せる人が登録しておいて、必要な時にお互いが助け合う。戸枝さんのところでは、1時間800円で犬の散歩などもあるとのこと。私は、ベビーシッターなどかなりの需要があると考えているので、また、手を出せるという人もいるので、これはすぐにでも始められると思いました。


私の初舞台
   2007,4,14    於、地域交流館「夢草堂」

 私が歌を習い始めてから1年半。先生の柳元子さんから「夢草堂で一緒に歌いましょう」といわれ、尻込みしながらも、とうとう歌う決心をしました。「銀座のカンカン娘」を歌いながら登場しようということになり、それでは、と私は、カンカン帽を作ることにしました。ボール紙を切って貼って、色を塗って、シールを貼ってピエロの帽子よろしく、皆さんの笑いがこぼれるように細工をしました。

 さて当日。リハーサルをして、ピアノ専門の方(島田さんといって、柳さんのお友達)のピアノと合わせました。カンカン帽を二人でかぶってピアノの前奏に合わせて颯爽と歩いて元子さんと二人で登場。拍手で迎えられ、みんなの楽しそうな顔を見ながら「カンカン娘」を歌いました。    
そして、私のトーク。
「小学校3年の時歌が下手な3人を部屋の隅に置いて音楽の時間、歌わないでいるようにと命じられ、その通りしていた。また、黒岩のおばあちゃんが亡くなる前に、私に言ったのは、人前で歌わないように。鶏が絞殺される声だから、そこで私は、その遺言を守っていました。孫ができて孫と歌っていたら、高い声の部分、私が裏声になってしまうと、孫も裏声を出すようになってしまった。そこで、昔保母試験のときには、習いに行ってチャンと声が出た体験があり、柳さんに習いに行くようになった。こんな下手な私を一緒に歌おうと誘ってくれた柳先生の許容量の広さに感動しています。
 下手な人でもできるということで、皆さんにも勇気をお分けすることができるのでは?と思って決心したのです。このコンサートは別名『ミミセンコンサート』ですのでよろしく」

 そして「もみじ」「まっかな秋」を元子さんと二重唱してから、鈴懸入居者の阿部さんが、素晴らしい声で、「チンチン千鳥」「春が来た」を歌い、元子さんの独唱と、島田さんのピアノ演奏「乙女の祈り」「エリーゼのために」。歌詞カードが配られて、みんなにも一緒に歌っていただきました。私の初舞台とあって、かなりの方に電話をかけて、たくさんの方が来てくださったので、椅子が足りなくなって、立ち見席も。70人は超えていたみたい。
 最後に「北国の春」。これは、10年ぐらい前に卓夫の妹と弟(満洲からの引き上げ途中で、餓死した)の供養に中国に行ったとき、列車の中で、病人が出て、医者に治療を頼む放送が流れ、卓夫が出向いて薬を処方。そのお返しにとの放送が入り、日本人だからということで、この「北国の春」を流してくれたのでした。

 その前置きで、歌が始まると、会場の皆さんも一緒に口ずさみます。その中でも一段と素晴らしい男性の声が響くので、私は、その方に二番からは、前に行って歌うように促しました。拒むことなく元子さんの隣で、二人の素晴らしい声が響きました。
 この男性は、3年前まで浦佐小学校の校長をしていた岡村勝さん。教頭の時も浦佐小学校にいたし、また、校長になってからも2年間、学校内の登校拒否児担当として、懐かれていた方で、定年後は、町の教育センターで登校拒否児と付き合い続けています。そのことを皆さんに紹介し、プログラムが終了しました。「アンコール」の大合唱の中で、カンカン娘をまた岡村さんと3人で歌い、会場の皆さんも大合唱に参加。キャストたちは、その後花束をたくさん頂いて、胸が熱くなる想いを抱えて終了となりました。

 夢草堂の館長広田セツ子さんは、私の声を知っているので、「4月1日、エイプリルフールということでやれば?」とからかったりしていたのですが、入居者の阿部さんの参加が決まったので、まじめにやろうということになったようでした。

 終わってから、岡村勝さんは、登校拒否の子どもたちをボランティアとしてこの施設に連れてきたいと申し出てくださり、認知症グループホームの管理者と打ち合わせをし、入居者と一緒にお茶のみをして帰って行きました。彼は、オペラのグループを作って舞台に立っているのだそうです。


都知事選、最終日、そして落選の弁
        2007,4,7〜8    於、新宿周辺
 選挙戦最終日、告示日以後初めての上京です。7日夕方西新宿の事務所に行き、その前を通る人にビラ配りをしました。
「期日前投票で石原を入れてきてしまった」という人に、どうして?と聞いてみると「オリンピックが来たら嬉しいから」という答えが続けて二つもありました。結構あるんですね。「オリンピックなんか来ないはず。だって、来年アジアでやって、8年後に来るわけないでしょ?」と言っても、来るかもしれないと思っているようです。ヨットスクールの話を出すと「でも、それでたすかっている人もいるでしょ?」といいます。30代40代の人たちが、石原をいいと思っている人がかなりあるということがわかりました。
 6時半からは、新宿東口の集会。私は、小泉邦恵さん(1年前に病気の治療のため沖縄に移住した友人で、6年前の私の選挙以来、宇洋の選挙では、4ヶ月間にいがたに泊まり込み、また、4年前の樋口選挙では、毎日二人で事務所に詰めていました)を見つけ出そうと思って行ったら、大変な人込み!集まっていました。必要なら会えるし、会えなければ、不必要ということ。といつものように考えて、のんきに探していたのですが、チャンと出会えました!お友達の米濱さんと二人で、八王子からずうっと候補者カーの追っかけをしてきたのだそうです。

 新聞に出ていなかったことだけを書きますね。
 新宿東口で街頭演説を8時までしたあと、12時まで握手をする、ということでした。8時に米濱さん夫妻が経営するお店で夕食をとって、9時ごろに戻ったら、相変わらずの人だかり!よく見るとその人垣の中心に浅野史郎あり!背が高くないので、よく見えないのですが、たすきをかけているのでかろうじて見えます。よく見ると、彼は突っ立っているだけで、握手をしたい人が寄っていって握手攻めです。そして、若者たちは、ケータイで、自分と浅野さんとのツーショットを撮ってもらっています。
 その周りを取り囲む支援者たちは、「アサノ!」「シロウ!」「東京、変えろ!」「日本も変えろ」と叫んでいます。そして踊ってもいる!さっそく小泉さんも踊りだす!とうとう、私も小泉さんと、みんなの中に入って、12時まで踊り続けました。後ろのほうで、浅野さんと握手したそうにしている人を見つけると、その人に近寄って、浅野さんのところまで誘導する、以外は踊っていたようです。やっと終電に間に合って、目黒の娘の家に帰りつきました。

 堂本さんの千葉でのはじめての選挙の最終日に、「革命前夜みたいだったわ」といっておられたのも、きっとこんな様子だったのだろうと思いながら、今夜、あの若者たちは、きっとケータイを駆使して写真を送ったり、ミクシーのブログで宣伝してくれたりするのだろう、と想像しながら眠りにつきました。
 投票日の8日、夕方、小泉さんとホテルの記者会見場に行きました。ちょうど支援者の席が二つ空いていて、そこに座りました。その列以外はすべて、マスコミ関係者たちです。8時ごろから、すでに、出口調査の結果で、ダブルスコアで負け、という結果が出ています。皆さんのご協力もむなしく、これでは、当選はあり得ないと思わざるを得ませんでした。皆さん、ご協力どうもありがとうございました。

 そこでの浅野さんの第一声は、「敗因は、私です。皆さんのご協力に深く感謝します」これは、さわやかでした。「有権者の悲鳴は、少数の方のものだったのですね。」「有権者が石原さんを選んだのですから、石原さんにつける注文はありません」これだけは、ちょっと待って、と言いたくなりました。「悲鳴を上げている少数者の声に耳を傾けて」と注文してほしかった。それ以外、彼は、ただ感謝を繰り返しており、その姿勢は見事でした。

 その後、大江戸勝手連(辛淑玉、中山千夏らが呼びかけ人)の集まり場所(新宿区役所前の韓国料理屋)に行く途中、早野透さんと会ってしまい、一緒に行きました。彼の書いた「浅野さんに火をつける」文章を読んで、沖縄から出てきたのが、小泉さんだということで、辛淑玉さんは怖いからとしり込みをする早野透さんを具合の悪いはずの手で引っ張ってとうとう小泉さんが、会場に引き入れてしまったのです。

 そこには、大江戸勝手連だけではなく、ほかの勝手連の人も結構いて、50人ぐらいほとんどが、どこかでお目にかかったことがある感じの人たち、上野千鶴子、花のえんの土井和代さん、田中美津、・・・・・。
早野透は、みんなの人気者でした。一言挨拶をして、上野千鶴子もひとこと「今度の選挙で、仲が悪かった女性グループが一緒にやれて、それが何よりだった」。そうだったのね。そもそも、上野千鶴子が、選挙にかかわるのは初めてだということですから、これを通して、つながった人たち、これから動きが始まりそう。っていう感じです。小泉さんと早野さん、土井和代さんたちとそれから又ハシゴをして、またして終電で帰りました。
 
 浅野さんがたって下さったおかげで、たくさんのつながりができました。もちろん私たちは、浅野知事誕生を目指して活動してきたのですが、とてもとても、石原の岩盤はまだまだ頑強で、崩すところまでいかなかった。浅野さんにはとっても申し訳ない思いをしていますが、7日の夜新宿東口で浅野さんが言ってくださったように「明日は、ゴールではありません。スタートです」という言葉に従って、これからの活動に取り組んでいきたいと思います。
皆さん、ひきつづきどうかよろしくお願いします。




南魚沼の福祉施設訪問
  2007,3,26と4,4
 
 社会福祉法人桐鈴会理事長に就任した秩子と、今度ケアハウス鈴懸施設長に就任する広田セツ子が、26日は、南魚沼市長井口一郎さんを表敬訪問しました。セツ子さんの夫正樹さんは、六日町病院の腕利きの外科医。開腹せずに内視鏡で手術、とか、乳房保存の乳がん手術などかなり前から独自にやっていて、患者さんからの人気を集めています。市長さんも父上とかが世話になった医者だということで、驚かれていました。

 南魚沼市の社会福祉政策のことで、お願いに行ったので、今度4月から、障害者担当のヘルパーとして勤務してくれることになっている中島高光さんにも同席してもらいました。障害福祉係長にも、資料持参で同席してもらい、自立支援法で、市町村の事業になった日中一時支援、移送サービス、生活相談事業、を桐鈴会でも始めたいということで、市の車を貸していただけたら、養護学校に通う発達障害の子どもたちの送迎ができるのではないか、などと提案して、さらに、市報などで、障害者についての理解を求める広報をしてほしいなど中島さんが提案して、友好的に別れてきました。

 その後、私は一人で、市内にある福祉施設を回って見せていただき、職員の方とお話ししたりして、いろいろと勉強してきました。2年前に六日町と、1年前に塩沢と合併したので、旧大和町以外の施設には行ったことがなかったので、今回初めて名前だけは知っている特養や、デイサービス、障害者の授産施設などを尋ねてきました。塩沢に最近できたばかり(1年前)の知的障害者の授産施設では、「肉の片山」との提携で食肉加工をしていて、ベーコン、ソーセージを作っているというので、少々驚いてしまいました。全体として、障害の軽い方ばかりという印象でした。
 ほとんどの施設が、南魚沼福祉会という第三セクターのような社会福祉法人が運営している施設で、一つ土建業者が作っているグループホームと小規模多機能施設に行きました。土建業者が、自分の仕事のために作る施設という先入観を吹き飛ばすような穏やかな雰囲気の「おおぞら」という名前の施設でした。施設長が、うちのグループホームにいる職員と一緒に特養で働いていたという人で、二人で、小さな家庭的なところで働きたいね、と言いあって、それぞれ転任したと言っていました。うちのグループホーム「桐の花」は本当に家庭的で、入居者の一人一人を大切にしてくれているので、私の母など認知症が好転してきているという印象です。
 施設は、建物よりも、ヒトだとつくづく思いました。
 
 半分回った残りを4日に全部回ってきました。ケアハウス2か所、有料老人ホーム、特別養護老人ホーム2か所、知的障害者更生施設、障害者の作業所2か所、障害者授産施設、などなど。

 ケアハウスはちょうどうちのケアハウスを同じころに作られた同じぐらいの大きさのもので、六日町と湯沢にあることは知っていたのですが、中に入るのは初めてでした。湯沢も六日町も夫婦部屋というのは存在していました。どちらも、夫婦部屋は、二人のすみかで、中はつながっているものです。ところが、新しくできたばかりの有料老人ホームは、夫婦部屋が仕切られているというのです。作る前に聞いてみたら、男性は仕切りはいらないといい、女性は仕切りがいると言ったのだそうです。そこで、女性の意見を入れて仕切ったということでした。みなさん、どう思います?仕切りを入れられてしまう男性たち。老後も妻に面倒を見てもらおうと思っているからなのでしょうか?
 先日もテレビで、「定年後の夫のしつけ方」という本を書いた女性がこう言っていました。「夫が定年になったとき、はじめに言ったことは、『昼食は自分で作ってね』でした。私は、残り物を食べているので、夫に作ってくれと言われるとかなり束縛されます。」
 「自分の昼食も作るのだから、二人分作ってもいいだろう?」と考えるのは、普段作っていない人の言い分なのです。私も、自分の昼食はいつも残飯整理なので、とっても良くわかります。


桜井寅吉さんの葬儀
     2007,4,1    於、地域交流伝承館「夢草堂」
 
 なんて無知だったことでしょう!
 気管挿管とか、気管切開というのは、人工呼吸器をつけるということだって、初めて知りました!

 今日は、ケアハウス鈴懸の入居者、桜井寅吉さんの葬儀を桐鈴会所有のお寺夢草堂で執り行いました。私の読んだ弔辞をここに貼り付けますね。

 地獄の苦しみを続けるのか、それとも人工呼吸器装着か、と主治医に選択を迫られたのだそうですが、安定剤などの投与によって深い眠りに入り、痛みを感じないですむやり方、という選択肢もあったのではないか?ということが提案できなかったことが悔やまれています。
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弔辞

 桜井寅吉さん、長い人生(83年)、お疲れさまでした。
 私にとって桜井さんは、3月1日のお茶会の姿で焼きついています。月に2回の地域の方との交流の場として、お茶会を開いてきましたが、今まで一度もお見えにならなかった桜井さんが、お茶菓子を手にふらりといらっしゃったのです。
「歩いてきて汗が出たからお茶をいただきに来ました」とのことでした。
 あとで聞くところによれば、確定申告に役場まで車で行き、帰りは歩いてきた(1,5キロぐらい)というのです。お元気なお姿に一同とても驚き、いろいろとインタビューしました。以前は郵便局に勤めておられたこと、鈴懸に来る前は、守門村で一人暮らしをしていたこと、ここにきての6年間は本当に幸せな日々であったことなどを話され、歌も何曲も歌ってくださったのでした。

 実はこの日から間質性肺炎が悪化し始めたのです。

 6日に入院し、延命はいらないという意思をはっきりと示しておられましたが、肺機能が低下し、呼吸が苦しくなるにつれ、呼吸困難の苦しみから気道に挿管をして人工呼吸器をつけることを受け入れざるを得なくなりました。12日、息子さんとお別れをして、そのまま深い眠りに入られました。
 ICUで20日間休まれ、昨日午後3時半に息を引き取られました。とても穏やかに苦しむことなく逝かれたことを家族の皆さんともども喜びあいました。

 今から考えますと、3月1日のお茶会は、桜井さんが、私たちにお別れをしに来てくださったのでは?と思えてなりません。とても楽しそうにその日の主人公として参加してくださったということは、天からの何かの知らせが桜井さんに届いたのでは?と思えるのです。

 桜井さん、周りの方々にあなたの優しい温かさを届けることがなくなってしまいました。でもきっとあちらの世界でまた、周りに温かさを届けてくださるのでしょう。
 桐鈴会の役員を代表してご挨拶させていただきました。
 桜井さん、千の風になって、私たちの周りをこれからも温め続けてくださいね。

          2007,4,1

                         桐鈴会理事長    黒岩秩子

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 最後に寅吉さんの息子さんが、親族を代表して話されたことがとっても印象的でした。
 「父は、家族探しをしてきたのです。ここにきての6年間、やっと父は、家族を見つけることができたのです。鈴懸の皆さんが父の家族だったことがよくわかった今日1日でした」涙をぬぐいながら話されました。
 ここに入る前は、病院にいて、苦しいこと、食欲がないこと、いろいろな不調があったそうです。

 ところが、施設長が読んだ弔辞の中に寅吉さん本人の言葉がありました。「鈴懸に来てから、食欲がないことも、息苦しいことも全くなくなり、鈴懸は、万病の治療所です」そして、介護の必要な人の介護を引き受け、しかもそれをごく当然のようにやってこられたこと、それが彼への治療になったのかもしれませんね。
 


 
地震対策と浅野史郎
 
 30日の女性行動に参加して、4年ぶりに出会った青木正美さんと夕食を共にしました。彼女は、イラク戦争に反対する意見広告を呼び掛けた時に、朝日新聞に一面広告が掲載され、その後に15万というお金を振り込んでくれたという稀有な人。「きっと足りなくて困っているのでは?」と書いてありました。それで、この稀有な人に会ってみようということで、田中喜美子さんと3人で会ってみたら、それはそれは、個性的なお医者さんで、銀座にペインクリニックを家業としている方でした。

 その方が、1995年の関西淡路大地震の後すぐにボランティアとして関西に入り、以来、地震被害について調べ続けてきました。関西の学者と一緒に被災についての研究会を続けてきました。その彼女が言うには、「関西はまだ立ち直れていない」
 1923年の関東大震災の後、立ち直れなくて、その後遺症として、1929年の大恐慌、そして、満州事変にいき、戦争に突入した。というのです。江戸時代にあったという安政の大地震、これも10年後に幕府が潰れた。
それが、地震の後遺症だったのでは?というのが彼女による仮説。

 今回、都知事選が始まってすぐ、浅野史郎さんに東京大地震があったときを想定して、どういう対策を考えているのか?とメールをしたら、すぐに返事が来て、「迂闊にも考えていませんでした。至急マニフェストに入れたいので、対策を書いてください」と返事が来たそうです。そのようにして、浅野マニフェストには、地震対策が入っているのだそうです。
ご覧になってみてください。
浅野史郎「夢ネットワーク」
http://www.asanoshiro.org/index.htm


県議選告示日
  乳牛のようなやさしさと、闘牛のようなファイト」
      2007,3,30   於、小千谷、長谷川きよ街宣
 
 30日は、県議選の告示日。私は、小千谷地区からの女性候補者長谷川きよさんの応援に行きました。この地区は、一人区でなんと3期連続で無投票。相手候補は一度も選挙をしたことがない75歳の現職男性。小千谷の人にとっては、16年ぶりの選挙。58歳の長谷川さんが挑みます。去年12月樽川通子さん(女性議員を増やすネットワークしなのの設立者)の講演を娘さんと二人で聞きに来て、感動的な話をたくさんしていった方です。

 8:20に事務所に着くと、すでに二階のホールで集会が始まっていました。小千谷市長が、外ではまずいけど、中でならということで、中の集会になったそうです。小千谷市長は、3期務めてきた現職には反対の立場のようです。今まで市議として長谷川さんは、この市長の「与党」だったようです。聞くと、相手候補は、土建屋さんで、かつスポーツの世界で名をなしている人で、それで強いのだそうです。

 その集会所に掲げてあった言葉にくぎ付けになりました。「乳牛のようなやさしさと、闘牛のようなファイト」
きよさんが牛どしであることから、8年前の初挑戦以来この標語でやってきたとのこと。しかし何て素晴らしいのでしょう!これこそがきよさんをそのまま示しています。また、議員として必要な資質そのものです。
 出陣式で、私は、きよさんが、福祉の世界の同業者であること、そして、この標語を作り上げた小千谷の皆さんは素晴らしい、ことを話しました。

 ひとつの会場では、「黒岩宇洋さんの奥さん」と紹介されてしまいました。3会場、どこでも、嵐の中をたくさんの人が集まっていて、頼もしい限りでした。

 新聞によると接戦だということです。どうか皆さん、知り合いがある方は、電話してくださいませんか?
 きよさんは本当に素晴らしい候補者です。



アサノ女性勝手連新宿集会
          2007,3,30     於、新宿駅西口
 
 午後は、雨の中を新宿に行きました。東京は風のみでしたが、ものすごく強い風で、新宿駅西口で街宣車から次々に女性が語っていました。風の方向が反対で、聞いている方たちには届かないということでした。結構聞いている方が沢山なので、道を渡って、聴衆の側に行きました。何と驚いたことにほとんどが知っている人!
私のml投稿で来てくださった方もありました。鈴木美和子さんは、お母さんとそのお友達と4人で。こんなに知っている人ばかりであることが問題。通りすがりの人が足を止めているのではない!

 樋口さん、菅伸子さん、鳩山美幸さん、まどかさん、赤松良子さん、都議の猪爪さん、馬場さん、野上さん、(ともに民主党)、文京区議の木村民子さん、羽田澄子さん、宝井琴桜さん、物理学者の米沢さん、最後に俵萌子さん丹羽雅代さん、そして、吉武輝子さんのメッセージを樋口さんが読みました。

 チラシ配りもしましたが、何しろ公選法のおかしさで、候補者の名前が出ているチラシは、選挙期間中には配れないということなので、チラシをもらっても、誰を応援しているのかわからないという現状です。誰か、この公選法を変えようとしないのでしょうか?
 堂本さんの時などは、「女性知事を!」と言えばよかったのだけど、今回はほとんどが男性。空しい選挙運動です。街宣車にも、浅野史郎とは書けない。「ばばー発言知事NO!」と書いてあるだけです。だから、チラシを配りながら、名前を言ってお願いしました。

 私は、浅野さんの福祉の話をしました。宮城県で「施設解体」の宣言をして地域のグループホームで生活できるようにしてきたこと、そして、東京では、「都外施設」といわれている東北など遠い山の中に作った施設で、東京都の障害者が暮らしているのですが、都内にグループホームを作ってこちらに来て生活してもらうというのが、浅野さんのマニフェストです。
 老後が安心して暮らせるのは、こういう知事のもとであって、「生殖機能がなくなったババーは死ね」「障害者には人格があるの?」と言ったりする人の下ではない。ことをはなしました。
 知り合いが沢山なので、拍手をしていただき、6年前の東京選挙を重ね合わせました。

今のところ石原40、浅野30という情勢だそうで、選挙通に言わせると一週間でひっくり返せる範囲だとのことです。どうか皆さん、都内の知り合いにも電話していただけないでしょうか?


初めての労使交渉
          2007,3,27    於、鈴懸おはようヘルプ

 27日は、夜桐鈴会のヘルパーステーションの皆さんとの「労使」交渉でした。「労」、のほうではさんざんやってきましたが、「使」のほうでやることになるとは想定外でした。ヘルパーステーションの皆さんがかなり怒っているので、ヘルメットを用意するようにと忠告してくれる職員もありました。「怒り」をよく聴いてくるつもりで、楽しみでかけました。
 当日、みんなの仕事が終わる7時半から始めたのに、10時半まで、誰も時計を見ようともせずに話し合いが続きました。はじめ、ヘルパーさんたち5人(登録さんを除いたメンバー)から、日ごろ積もっている不満を思う存分吐き出していただき、また、利用者の家を訪ねて、どんなことがあるのか、かなり具体的に話を聞き、皆さんの誤解は解いて、受け入れられる要求は聞き、謝るところは謝って、最後には和気あいあいと別れることになりました。

 ヘルメット代りに私の得意なリンゴケーキを焼き、いただいた初乳(牛乳の生クリーム分が沢山)で作ったチーズなど7時半までの仕事の方たちは、空腹なのではと思って持って行きました。

 ヘルパーという職種は、かなり特異な職種で、利用者の方からの注文が、朝早くから夜遅く、そして、昼食時に集中する。それをみんなで分担するわけだけど、なかなか続けての仕事にならず、間をあかせて訪問に行くと、その間は、パートさんの場合だと賃金に入りません。だからと言って家に帰ってまた出てくるのは、ガソリンの無駄。拘束時間の割には賃金は低い。という結果になることがある。また、認知症の一人暮らしのところに行くと大小便が漏れている床の掃除など、また、時間が終わっていても、まだ用を言いつけられ、次の訪問先が遅れるということも。

 今、介護福祉士の資格を持っている人で、実際に介護をしている人は6割だそうです。どこも、介護士不足で、外国人介護士も既に入っているようですね。隣町にできた有料老人ホームも、入居希望者がたくさんあるのに、職員が集まらなくて、満杯にできないという事態だそうです。

 そういう中で、うちの桐鈴会は、資金や土地を提供してくださる方があって、とても恵まれた条件の中で建設してきているので、地域の皆さんの必要に応じて、ショートステイは制度外でも利用できるように、ケアハウスや、グループホームは終の棲家として住んでいただくように、ヘルパーさんは、利用者の満足がいく介護を、というかたちで、地域のみなさんに役に立つ社会資源として存在したいと心がけてきました。ホームレスの方や、アル中の方、お母さんが鬱で子育てができないという一家などがこれまでにも利用されています。その分、職員にとっては、大変な仕事になるのですが、皆、協力し合ってやってきました。そういう職員に深く感謝をして、要求されたいくつかの点を受け入れる形で、これからも話し合いをしていこうと約束をして第一回は終了しました。 



アナン見学(埼玉県児玉町) 
       2007,3,12 

3月12日は大吹雪の中、私の運転で埼玉県本庄市近くの社会福祉施設アナンの見学に今度うちのケアハウス鈴懸の施設長になる広田セツ子さんと二人で行ってきました。アナンについては、これまでに何回か紹介しましたが、行くたびに新たなことを発見してきます。 その日は、自立支援法についてはどうでしょうか?と水を向けると、よその施設は、収入が減ったとか言って厚労省に押し掛けるとかしているみたいだけど、うちははじめからそういうことをあてにしないでやっているからこれでいいと思っている。とのこと。よく聞いてみると、年間1000万円ぐらいの減収になるらしいのだけど、驚いたことに、個々の職員は、「勤めている」という感覚がないみたいなのです。まず驚いたのは、パートさんの時給は500円。正職員は全員独身。理事長の吉澤好子さんは、「結婚しなさいよ」と言っているようなのですが、みんなここにいて満足しているとか、あるいはカトリックのシスターで、結婚する意思がなかったり。 アナンは、制度上は、知的障害者更生施設という30人定員の施設なのですが、9軒の家があって、26人の障害者が、5つの家に住み、そこには、職員も一人か二人住んでいます。30人定員なのだからあと4人入れれば、何千万と収入が増えるとかお役所からはいわれるのだけど、この人数以上増やしたら、いい生活が保障されないというのが、吉澤さん。昼間はみんな工場(自分のところで作っている工場で、地域で採れた野菜を出荷できるように箱詰めしたりする)に働きに行っているので、職員は、自由に生活しています。障害者と職員が一緒に生活しているというだけで、職員たちは 「仕事をしている」という感覚がないみたいなのです。したがって休憩室などない。 と言っても、障害者の方々というのが、そんなに生易しいものではないことはちょっときいただけでわかります。26人中4人だけが、両親がいるという人。片親があってもこれはまたいろいろ。兄弟がいる人でも、ここができて15年たつが、その人が入院したときだけ来て、すぐに帰ってしまった。というような家族環境の人が多い。今回初めて「亡くなった方は?」と聞いてみました。なんと15年間一人もなくなっていない!最高齢は85歳。まったく15年間同じメンバーで暮らしてきていたのです。 うちのケアハウスは、高齢者なので、比べようもありませんが、かなりなくなっているので、そのお骨をどうするというような問題があるのですが、ここでは、まだ一度も見送ったことがない、それは、その方たちが安心して暮らしているからなのでしょう。


新潟県福祉移動サービスネット設立記念フォーラム
            2007,3,10       於、巻ふれあい福祉センター

  9日夜東京にとまり10日は新潟に直行しました。巻ふれあい福祉センターで開かれた 件名にある集会に参加するためです。内山孝子さんの車で現地に行きました。 そもそも、これが何であるのか、そのうちわかるようにしますね。 実は、3月8日の桐鈴会理事会で、私は、この社会福祉法人の理事長に就任しました。この法人は、元々我が家で集まっていた「共に育つ会」のメンバーの一人から土地と資金を提供するから福祉施設を作って。と言われた始まったものです。その方の息子さんがダウン症で、親亡き後の子どものことを思っての提供でした。1999年に出来上がったケアハウスの職員として、この方の息子さんが働いていたのですが、2001年、私が東京選挙を終えて戻ってきたときに、がんで亡くなってしまったのでした。 この福祉法人は、その後認知症対応のグループホームを作り、それに隣接して移築してきたお寺で、地域交流伝承館「夢草堂」として私設公民館という感じの活動をしてきました。それらはいつもご紹介してきましたね。そして、去年、高次脳機能障害の人と出会い、うちの持っているヘルパーステーション が高齢者にしか対応出来ず、新潟市の自立生活センター(CIL)のご厚意で、こちらのヘルパーをCILの登録ヘールパーとすることで、切り抜けたのでした。 それから、うちのヘルパーステーションを障害者対応にも適応できるよう書類を作って 認可を得ました。10月1日から、活動は保証されたのに、利用者を見つけることができず頓挫していました。それが、2月の末からとんとん拍子で話が進み、隣町で働いている 中島高光さんが、こちらに来てくれることになったのです。しかも、利用者さんも、彼が連れてきてくれそうなのです。隣町の法人にはとっても申し訳ない気はするのですが、中島さんの決断なのですから、随分引き留められたらしいのですが、認めるしかなかったのです。 さて、それにつけては、彼は、すでに4年間の経験があり、話は具体的になってきます。 重度の障害者を電動車いすごと運べる福祉車両はあるのか、と言われるとない!日本財団などからの助成を受けて買うには、1年かかる。そこで、昨日の集会で、私は、中古車を譲ってください。と言いに行ったのです。 この集会は実に有益な情報がたくさん詰まっていました。11日の日報にも紹介されていますが、自分で車の運転ができない人を移送するという仕事を今、多くのNPOが行っています。 それが、またどこでも、不況にあえぐタクシー業界と対立してしまうのですね。この会の代表は、先週もお伝えした上越のNPOりとるらいふの理事長片桐公彦さん。先日35歳と書いたのですが、実は、31歳の間違いでした。35歳でも十分驚いたのですが、31歳とは本当にびっくりです。彼の話すことすべてが、納得でき、その内容たるや実に確かなものなのです。彼は、上越で、タクシー業界とやり取りしたことを詳しく話しました。「あなたたちがしているのは、ドアからドアでしょう?私たちは、ベットからベットなんです」と言ってクリヤーした。また、自閉症の人で、赤信号で止まったら、パニックを起こす人がいる。そういう人にどう対処するのか、こっちはノウハウがある。などなど。タクシー業界と、事業所と、行政とで、運営協議会というのを作ってやり取りするのだそうです。魚沼は、まだそれどころではありません。 移動ネットの集会では、私の知らないことが飛び交っていました。終わってからいろいろな風景が見えてきたというのが本当のところです。 まず、無年金障害者で裁判の原告になっている遁所直樹さんは、こう言いました。「車がほしいんだったら、行政に何か頼まれたときに、それをやる代わりにこれを買って と言えばいい」それはなかなかの卓見。実は、このところどこも受け手がない問題をわが桐鈴会に持ち込むことが多いのです。 最近では、二つありました。まずは、アル中の人がアル中の施設に入所するにあたって、 アルコールを抜いてから入ってくれと言うので、抜くのにかかる3泊を桐鈴会に頼んできた。やりくりして何とかとめることが可能になるのが、桐鈴会。詳しく話すと差しさわりがあるのでここまで。 その後また、この町出身のホームレスの人が舞い戻ってきて、実家も、親戚も引き取り手がないから、一晩泊めてほしい、その後は、片道切符を買って、東京方面にいってもらうから、というので、風呂に入れてから連れて来るという条件で引き受けた。 ところが来てみたら、体が悪くて、よろよろしている。卓夫が往診して、貧血だから入院ということで、救急車が病院へ運んだ。その日の昼間救急車が、病院へ運んだら、 名前を聞いて、その人は預かれない(おそらく、無賃入院の前歴によるのでは?)と追い返されたのだけど、医者の紹介があったので、このときは行政が頼んで入院できたらしい。 今度、このような依頼があったら、ぜひ、福祉車両を助成してと言ってみようと思いました。 そもそもなぜ、移送なんていうことが必要なのか?障害者、高齢者が、自分で運転できず、家族もそう何回も休めないなどという事情があるとき、移送を頼みたいというわけです。特に、人工透析の人など、週に3回それも、行く時と帰るとき、二往復しなくてはならない。タクシー券の補助は来るけど、4月から6月頃で終わってします。タクシーなど高くてかなわない。そこで、NPOなのだそうです。 私の地域では、きっと卓夫がやっているもえぎ園診療所が、往診をする、訪問看護、訪問リハビリ、などと出向いて行っているし、デーサービスや、ショートステイなどは、 送迎車が活躍するので、必要性がとても少なくなっているのでしょう。 障害者については、今まで、中島高光さんが務めていたかけはしという事業所が請け負ってくれていたのでしょう。中島さんは、移動ネットの人たちもよく知っているし、片桐さんからは、職員にならないかと誘われたりしてきていて、3月3日のアメニティーネットの呼びかけ人でもあるので、今回も、二次会に残った人の大半が知っている人でした。 外でも、こんなに活躍している人が、わが法人の職員になってくれたことをあらためてうれしく思いました。 二次会で、最後まで残った15人ぐらいでいろいろしゃべっていたら、片桐公彦さんと私は、ADHDだということになりました。注意欠陥多動性障害です。かなり似ているところがあってうれしかった。というのは、ダウン症の子供が、更に自閉症でもあると聞いて、片桐さんが、俄然ハッスルしたというのです。私も、そういうのって同じ。困難が多いほどやる気が出るっていうか、好奇心をそそられるっていうか。内山孝子も同じようなのですが、彼女は盛んに3人と言われると「違う!」 と主張していました。


浅野さんに火をつけよう集会
2007,3,9   於、 中野ゼロ大ホール

 中野ゼロ大ホールは1200席。それを埋め尽くそうという意気込みで準備にあたったのですが、当日は、そこまでいかず、空席があったのには、少々がっかりでした。それでも、1000人は来ていたようだし、みんなが気をひきしめるにはちょうどいい人数だったかもしれません。4年前の東京選挙で知り合った方々が、かなり見えていました。

 準備会では、浅野さんの身辺警備についてかなり綿密に計画していたのですが、ご本人は、ほとんど頓着なく、一般の人が入る入口からひょうひょうと入ってこられ、 びっくり。私は受付で動き回っていたの で、集会の始まりは、見られなかったのですが、 これも、ひょうひょうと登場して、皆さんを驚かせたようでした。
 
 初めに30分間、出馬表明のときの内容で話があり、その後、会場の方からの発言を浅野さんが聞くという設定でした。築地市場の移転問題、下北沢の開発問題などのまちつくりの後、ジェンダーについて丹羽雅代さんからのしっかりした発言、その後、手をつなぐ育成会の松友了さん、から障害者福祉のこと、続いて安積遊歩さんから、障害者本人の意見。このとき安積遊歩さんが、「浅野さんにも励ましていただいて、この子を産みました」 と、隣にいる10歳になる娘さんを指すと「うみちゃん?」と浅野さ ん。お母さんと同じ病気、骨形成不全で車いす生活をしている娘さんの名前を覚えていた!
 実は、この母子、9年前にうちの街に呼んでいるので、その時は、1歳の宇宙(うみ)ちゃんと一緒に若い連れ合いさんと3人でステージに上がって講演してくれ、それが、NHKで放映されたのでした。
 私にも「魚沼から来たの?」というので、田中角栄さんのように人の名前等々を覚える 才能がある方なのだと認識しました。

 これからは、ひたすら知り合いに宣伝していくこと、ミニ集会を開いてくれる人を見つけることなど、新潟の選挙と同じですが、私は、東京に行くのはこれを最後にやめることにしています。

 丹羽さんの発言は、前もってメールが来ていたので、以下に貼り付けますね。

以下の2点をマニフェストに入れて、実行に力を注いでいくことを提言します。

「男女平等施策の推進」
  東京都男女平等参画基本条例に基づいた、施策を進めます。職員の昇進昇格、配置など、登用に関し  て、男女平等を積極的に進め、あらゆる場所での男女平等を推進する手本となるよう、がんばります。
  性差別を助長するような発言や行動はしません。そのようなことがないように、批判や助言に真摯に耳を傾け、自他共に、男女平等の意識改革を進め、実現のために力を注ぎます。

「男女平等教育の推進」
  男女平等施策の重要な柱としての男女平等教育、ジェンダー教育を積極的推進します。あらゆる年齢であっても必要な、人間教育の基礎としての性教育の重要性を十分意識し、積極的に推進します。
  男女混合名簿は、従来の無意識のボーイファースト認識を覆す良い役割を果たすものと認識し、積極的に100%実施を目指して、引き続き進めます。

その理由
 石原氏が都知事になってすぐ、男女平等参画基本条例に向けた審議会答申が手渡された。その際、都知事は、「受取らざるをえんでしょうなあ」といいながらそれを受けとり、全国に先駆けて2000年には基本条例を持つ自治体となった。
 しかし、おなじ年、知事は経済的自立の見通しがないことを理由として、東京女性財団とりつぶしを提案する。「乳母日傘の甘えた姿勢」とは、知事が議会で女性財団を批判して述べた言葉だ。

 従来の東京都では、女性管理職を積極的に増やそうという意識の元、過去30年以上、一貫して女性部長が置かれてきた。しかし現都知事になってからはそのような姿勢は一挙に崩され、部長職に女性の姿はない。側近政治にあわせて、男性中心政治の姿勢は重大な問題である。
 
 知事はいわゆる「ババア発言」など、一連の女性差別発言を並べ、しかもその言説の責任を問われても人の発言をちょっと述べただけなどと無責任極まりない説明を行っている。このような姿勢は、許されてはならない。

 東京都の男女平等教育、性教育は、教員たちの自主的な姿勢と、それをより進めようとするとの姿勢もあって、全国的にもきわめて高い水準で進められてきた。しかしそれがいっきょにくずされていくのが、意図的に歪曲した見解を流布させた「ジェンダーフリーバッシング」であり、性教育批判であった。
 同時に進められてきている恐怖政治、強権政治とあいまって、東京都の男女平等教育、性教育は、押しつぶされようとしているのが現実である。優れた人間教育の基盤のひとつである男女平等教育、性教育は、今日の危うい社会状況の中、より積極的に進められなくてはならない。


浅野史郎出馬表明
2007,3,6   於、都庁記者会見室

6日の記者会見以後のことお知らせしますね。
まず、10ページにわたる浅野さんの出馬表明の文章を読みながら説明しました。以下にある文章です。彼は、試験の前日徹夜して勉強した時の気分だということでした。すべて、自分でPCを打ってその日の直前に仕上げたのだそうです。
http://www.asanoshiro.org/

 ここには、ジェンダーのことが何もなく、その日の夜、民主党の都連に挨拶に言った浅野さんに小宮山洋子さんがその指摘をしました。「抜けてました。入れます」という対応だったそうです。

 新聞やテレビで報道されなかったであろうことだけを書きますね。
 彼の面目が一番顕著だったのは、「選挙のやり方」でした。これまでも、彼は「選挙のやりかたが、その後の政治の在り方を決めていく」と言い続けてきたのですが、その具体的なことはその日はじめて認識したのでした。
 「ブレインというのは、側近政治と紙二重(一重に非ず)ですね。私は、都民がすべてブレインだと思っています。専門家の意見を聞くというのであれば、それはすべて公開します」
 「マニフェストは、これから皆さんの意見を聞きながら作っていきます」
yumenet@asanoshiro.orgここに提言してください。

 「選挙事務所は、できるだけ小さくして、街宣カーの運行や、スケジュール管理をするだけにし、指令を出すことはしない。あとはすべて、勝手連でやっていただく」
 「推薦願はどこにも出さない。支援はどこからでもたくさん受ける」

 そして記者たちからのたくさんの質問に答えて、「奥さんはどうされました?」の答えが「夫唱婦随です」だったのには、ちょっと首をかしげました。この言葉を何のコメントもなく使う浅野さんの認識!
 終わってからこれを言ったら、宮城県の次長として、浅野さんの男女共同参画を実践してきた方は、「夫婦の字が反対なのよ。つまり婦唱夫随。だって彼は光子さん(妻)には頭が上がらないのよ」そういえば、本人が、「私の一番のブレインは妻です」とも言っていました。

 このことについては、浅野さんにも伝えました。

 これから、みんなで、浅野さんのメールにジェンダーのことや、東京都のジェンダーつぶしの実態などを送って行って、彼のマニフェストにこれらのことを書き加えてもらうようにしようと話し合いました。

 その後、中野にて、3月9日の実行委員会があって、終電ぎりぎりまで参加して戻ってきました。
 3月9日19:00から中野ゼロホールで、大集会「浅野史朗と都政を語る」を催します。この日、浅野知事実現のためのおそらく最後の集会になるのでは?
 3月9日、来られる方は、どうかおいでください。この日発言したいと思う方は、発言内容を
    asano46@gmail.com
ここに投稿してください。そこから選んで、当日の発言者を決めます。ボランティアとして、この集会をサポートしてくださる方も、ここにメールを送ってください。
 この日どれだけ集まるかということで、共産党との折り合いがつけられるかどうかが決まってくると考えています。この日の人集めをよろしくお願いします。



新潟アメニティーネットワーク設立大会
         2007,3,3    於、県民会館小ホール

  前日になってやっと皆さんにお知らせしたこの大会に内山孝子さんと参加しました。かなり時間より早く着いたので、広田亜樹さんの案内で、講師控室に福岡寿さんを尋ねました。ドアを開けると彼が私を見つけて「黒岩さんでは?」と言いとっても喜んでくれました。 東京の杉並まで彼の話を聞きに行ったのは、2001年の秋でしたから、6年ぶりとなります。大熊由紀子さんからの「福祉界のヨシモト」を伝えると爆笑でした。「大熊さんのおかげで、知事が村井さんに代わっても却って福祉に力を入れてもらえるようになっています」とのこと。村井新知事を迎えて大きなフォーラムを催されたのですよね。福岡寿さんは、田中康夫前知事に抜擢されて、県内の施設解体に尽力していたので、知事が変わった時に、みんなが心配して、新しい知事を呼んでフォーラムをしようということになって、見事それが成功したらしいのです。 大津のアメニティーフォーラムにも福岡さんは行っていて、Aコースで発言していたのですが、私はBコースだったために出会えませんでした。しかし、先日もご紹介しましたように、 今年は、施設存続を訴え続けている団体が、施設解体と掲げるアメニティーフォーラムに参加しないようにと職員たちに通達したというのは、彼が、コーディネートしたディスカッションをその筋の雑誌が掲載し、それが、彼らの逆鱗にふれたからだということでした。 フォーラムが始まると初めが彼の記念講演。いつものように笑いをとりながら、しっかりと大切なことを私たちの胸に収めてしまうのです。この日も、施設に生活している知的しょうがいを持つ入居者が、正月を楽しみに家に帰るけど、数日経つと施設へ帰りたいと言い出すのは、施設職員たちは「やっぱりここに来ることを望んでいる」と結論するのだけど、それは、いつも家にいないので、家の中に彼の居場所がすでになくなってしまっているからであって、施設がいいからなのではないということを実に明快に話してくれました。「自分の話は、皆さんの前座というだけで、これからが本番ですから」と付け加えるのでした。 そのあとのシンポでは、民間の施設の方が二人と、新潟障害者職業センターのカウンセラー広田亜樹さん、新潟県発達障害者支援センター相談員の新保和敏さん。コーディネーターの今井洋コロニー白岩の里相談室主任と新保さんは県職員でした。新保さんが、「こういうところで発言すること、勉強したことをちゃんと実行してくれと当事者の人たちに言われる」といっていました。 広田亜樹さんは、こういうところで話すのは、小学校の時のピアノの発表会以来で、「初舞台」とのことですが、それにしては、実に明快で、内容のある話をとても上手に話し切りました。障害者が就職をする、精神障害者が、職場に復帰する、などを支援するのが仕事。先日就職した精神障害者の人は、その企業も、いつ休んでもいいし、いつ帰ってもいい というとても恵まれた条件で就職したのだけど、1週間で、やめることになってしまった。それは、「休みたい」と言い出すときを選べなかったからだというのです。それが精神しょうがいなのですね。確かにみんなが働いているときに、自分は休むって 言いだしにくいですよね。それを教えてくれる人が必要なのでしょう。お母さんのセツ子さんは、亜樹さんの妹の結婚のことで来られず、母娘ともに残念だったことでしょう。 最後に、この会の代表を務める31歳の片桐公彦NPO法人りとるらいふ理事長が30分、自己紹介を含めてこの会の目的を話しました。この話は、すごかった! 年齢を問題にすること自体は問題なのですが、それでも、31歳で、ここまでしっかりと考えられる!これは大変、感動しました。 彼のお父さんは、アル中で、さいがた病院に入院しており、お母さんは、仕事に逃げていたので、中学時代彼は自分で食事を作っていたそうです。男子中学生が、野菜などを買ってナイロン袋をぶら下げて帰るので、学校ではいじめられたそうです。そういう環境から、福祉に入るのは当然だったと語りました。 様々な福祉の事業体を有機的につなげてどんな障害を持つ人も自分の家(グループホームも含む)で、安心して生活ができるようにすること、そのためのネットワークつくりを呼びかけました。大いに共感して帰ってきました。


浅野史郎さんに火をつける会
2007,2,25  於、東京、八重洲富士屋ホテル

 25日のの集会は大成功に終了しました。400人の参加者とマスコミ関係者50人の参加。参加者は、自分の思いを紙に書いて持ってくることになっており、立ち上がってみなに見えるようにしたら、その中の一人(マッドアマノ)が、凄いポスターを掲げました。それは、東国原知事、北川元知事、田中康夫、の3人の肩車に乗った浅野さんという写真合成で作ったどでかいポスターでした。

 都民の方々が、一人一人ステージで、浅野コールを始めたところで、浅野さんご本人の登場!彼の好きなプレスリーの曲をかけて歓迎。一人一人が、ステージ上に座った浅野さんのハートに向けて語りかけます。都民だけでなく、宮城県議会の議員3人、岐阜県の元町議、現町議の夫妻からも呼びかけがありました。東京だけの問題ではない。日本を変えて欲しい。というラブコール。車椅子のしょうがい者も目に付きました。安積遊歩さんも、介助の夫とともに参加、ジェンダースタディーズMLの私の投稿で、呼びかけ人になったと言っていました。
 
 前日の「女政のえん」に来てこの集会を知った人たちも、かなり来ていて、これもうれしかった。田中喜美子さん、羽田澄子さん、北沢杏子さん、大熊由紀子さん、沖籐典子さんなど、私の呼びかけに答えて、呼びかけ人を引き受けてくださいました。

 短期間で会場探しをしたために、ホテルしか取れず、かなりの額の使用料が、カンパで殆んど賄えたということも、参加者の数が多かったためでしょう。前に座っていた人によれば、浅野さんは、涙を流しっぱなしだったとのこと。「今日は、感激して、言葉もでない。まずは、プレスリーで迎えられたこと。こんな凄い集会だと思っていなかったので驚きっぱなしです」浅野さんは、固辞していると書き続けた新聞も、26日朝刊からは、「含みを残した」という報道に変わっています。その程度の効果を持った集会でした。

そしてとうとう、浅野さんの出馬表明も間近のようです。


女姓のえんその4ー水島広子トーク
        2007,2,24    於、花のえん(東京渋谷)

 いままではどちらかといえば、「昔話」のトークだったのですが、水島さんの話はテンポが速く、ほっておけばいつまで喋っているのか心配なぐらい内容が濃く、話したいことがつまっている方でした。テレビタックルで見たことがあるという人は、あまりの違いに驚いたそうです。別のMLで知って参加した方の報告を引用しながら報告しますね。

>今日のスピーカーは水島さんで、私は初めてお話を伺ったのですが、とってもとっても面白くて刺激を受けました。内容はご自身の経歴、議員活動の中で考えたこと、現在取り組んでいるAttitudinal Healing(AH)という精神科の
治療方法のことについてでした。

AHについては,HPに詳しい。
 http://www.mizu.cx/

 そもそも、政治に入ったところが面白い。たまたま新聞で、女性議員候補者公募というのを見つけて、出してみよう。書類で通って集団面接。ほかの人は、田畑売り払って資金を用意するなどといっているが、彼女は、どうしても当選しようという気がなく、「自分の金は使う気なし」と答える。結局、面接官たちがみんな興味を持ってしまって、何事につけても一致することがなかった二人の女性の意見が一致したので、合格になったとのこと。行ったことがない栃木と言うところへ、家族で見に行く。その時は、確か、1歳の赤ちゃんと夫と3人で見に行った。それから8ヶ月間の選挙運動。

 国会の中では、AHのやり方で与党の人たちとも付き合っていたので、色々な修正ができたと思うとのこと。38歳の彼女だが、親より年上の人たちに対して、自分の意見を通して修正させて、児童虐待防止法などをかなり直して通過させた。説得力があり、たくさんの知識と、判断力で、回りに認めさせて来たことが納得行く。

 菅直人のことを話した中でも興味深かった。「菅さんは、恥ずかしがり屋」という。菅さんにそういうと初めて言われたといって、水島さんの言うことは大抵聞いてくれるのだそうだ。
 子ども家庭省の提案も、民主党ではすぐに受け入れられ、今では、自民党でも野田聖子が、子ども家庭省と言っている。

>水島さんのお話の中で一番関心を持ったのは、ご専門であるAttitudinal Healingです。初耳だったのですが、人間は本来良いものだという性善説に立った考えで社会正義の実現、人種差別、いじめなど人権侵害の逓減、再犯率の低下に効果的だという米国の手法でした。創始者は米国人のジェラルド・ジャンポルスキー氏であり、水島さんはこの方からAHについて学んだそうです。キーワードは「許し」であり、人間は攻撃を受けると@反撃する、A無視する、B逃げるの3パターンのいずれかを取るため、敵意のありそうな相手と交渉・対話する時にはこの3パターンの行動を取られないためにも相手の「恐れ」を取り払ってあげるアプローチが効果的とのことでした。これは日々の人間関係で非常に重要なアプローチだと思います。この手法の優れたところは、相手との関係においてのみ有効ということではなく、自分自身の悩みにも有効である点です。自分も何かに対して漠然と「恐れ」を抱いてたまにどうしようもなく不安になる人間なので、まずは自分を「許す」こと、「恐れ」を手放すことが自然な能力の発揮や自分らしい生き生きとした生き方に必要なぁw)?cZな、と感じました。

 攻撃する人は、その裏に必ず「恐れ」がある。その「恐れ」にしがみつくのか、それを自分から離すのか、それが、本人の選択。離すという選択が可能だということを知らせてあげる。そのためのワークショップを月一でしているそうで、最後まで残った20人ぐらいのうち、3人が、そのワークショップに申し込んだのです。すでに6月まではいっぱいだから、7月に入れておくとのこと。そのぐらい聞いた人たちには、魅力的だったのです。
 参加者の一人がこんな発言をしました。「高一の娘が落ち込んでいるので、ADの創始者ジェラルド・ジャンポルスキーの書いた『許すということ』を渡したら、読んで、涙を流していた。その後娘がすっかり元気になった」
 この日は、遠く、西宮、滋賀、新潟、から来た人たちがみんなとても満足して帰っていかれました。

次回の女政のえんは5月26日(土)、中山千夏さんを呼びます。



浅野史郎さんを都知事選に出馬させる会
                 2007,2,18   東大島文化センター

 出版記念会のあと、浅野さんが講演する江東区大島の文化センターに要請に行くという行動が提起されていて、私は、そのつもりで出かけました。出版記念会で、浅野さんに会うなりそのことを告げると、浅野さんはとても驚かれ、でも、「じゃあ僕と一緒にタクシーで行きましょう」といってくださいました。彼は、なんと16日の集会のことも聞いていないし、要請文も受け取っていない。15日から仙台を出てしまっているので、メールも読んでいない。というのです。メールは、ここに送るようにといってとんできたメルアドに大勢で「出馬して」と送ってあるはずなのです。
 大島まで、その日は東京マラソンのせいで、がらがらにすいていて、いつもよりずうっと早くついてしまいましたが、それでも、タクシー代2900円のところをずうっと喋っていられたので、こちらの情報も、あちらの情報もかなり交換し合えました。
 タクシーから降りて、二人で歩いていたら、彼が、「二人でいったらおかしいから、先に行って」と言うではありませんか。何がおかしいのかわからない私でしたが、言われるままに早足で歩いて先にいきました。会場には、それらしく思われない人たちが10人ぐらいロビーにたむろしていました。でもよく見ると青い画用紙に何か書いたものを持っていたりして、目的が同じだということがわかりました。遅く着た浅野さんにみんなが詰め寄ると折角だから、講演が終わってから話を聞きます。といわれみんな一安心。そのうち首謀者も来られ、浅野さんの講演が終わったら、みんなで出馬要請をしようと待ち構えることになりました。私を含めて何人かは、3000円の参加費を払って中に入りました。そこは、江東区の議会に立候補する無所属の女性議員の選挙運動の始まりで、浅野さんが記念講演をしていました。宮崎県知事のこと、ご自分のこと、地方分権のことなど話されて、終わってから、出口の周りを囲んで、横断幕や、手に手にもったラブコールの画用紙などを浅野さんに見せた後、用意された椅子に腰掛けて、都民の方々が、それぞれ思いを語りました。浅野さんは、多少緊張した感じで聞いていて、最後に「ありがとうございます」といって別れました。その前の講演で、役所言葉というのは、「検討します」というのは、「やりません」ということだし、「研究します」というのは、「全く考えられない」という意味、だといっておられ、このとき、そのどちらをも口にされなかったので、私は、盛り上がり次第では受ける。と言っていると判断しました。

 その後、中心メンバーが、軽食喫茶に入って、対策を練りました。ここでわかったことは、16日に同じ目的で集会を持つことにしていたグループが3つあり、たった二日前に呼びかけたのに、この3つが合流して、250人もが集まったのだそうです。
 そのときの記事を貼り付けますね。早野透さんによる記事です。それで、皆さん、呼びかけ人、又は、賛同者になってくださいませんか?なってもいいという方、肩書きとメルアドをつけて、私の個メールに送ってください。

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平成19年2月18日

タイトル:「浅野的」選択肢の必然性 〜有志の会 あふれた待望の声〜
日刊スポーツ「政治の時間」より 朝日新聞コラムニスト 早野透

東京都知事選の候補者選びが大詰めである。石原慎太郎知事は3選に臨み、共産党の推す吉田三元足立区長が名乗り出ている。民主党は迷走している。

 16日夜、国会近くの会議場「ルポール麹町」で「浅野史郎さんを東京都知事に出馬させる会」が催された。「浅野さん ハートに火を点けて」というポスターが張られた。司会の女性が「初恋の人にプロポーズするようなときめきで」と開会した。この会は、民主党から出馬を打診されたという前宮城県知事の浅野に、政党政派ではなく市民から出馬を求めようとわずか2日前に企画された。
 「厚生省の障害福祉課長だった浅野さんが初めて立ったときは、何の後ろ盾もない障害者たちが集まってぼそぼそと選挙運動を始めたんですよ。今度も無党派市民から始めたいんです」と呼びかけ人の代表格の五十嵐敬喜法大教授。

 1日のうちにメールが飛び交い、150人の部屋に250人が集まった。そこに元首相細川護煕の妻で、障害者のスポーツの祭典スペシャルオリンピックスの推進役細川佳代子が駆けつけてあいさつした。「2日前の夜、こんな会があるよと聞いて熊本からかけつけてきました」。熊本県知事だった夫護煕は、「権腐十年」、長く居座ると権力は腐敗すると2期8年で辞めた。浅野は3期12年、徹底的に情報公開して、知事交際費もすべて明らかにして透明性に心掛けてきた。「浅野さんは細川を見習ってくれた。しかし今、汚職不正、知事の逮捕が相次ぎ、悲しい日本です」。
だが、佳代子が会に駆けつけた最大の理由は、浅野が障害者のことに心を砕いた人生を送り、行政の中で闘ってきたことだ。佳代子は続ける。「障害者のある人たちは、純粋な心、思いやりの心で、わたしたちに人としての優しさを教えてくれる。その人らしく生き、助け合う、豊かな国。浅野さんがトップで率いてくれたら」。
 会場はしんとして聞き入って拍手がわき上がった。なるほど、浅野の出馬は、かつて障害者施設を見て「重度障害者には人格があるのかね」と語ったあの人との間で、人間観の違いを争う稀有な選挙になるかもしれない。

 東京都国立市長の上原公子は欠席予定でメッセージを寄せたのだけれども、日程をやりくりして駆けつけてそのメッセージを読み上げた。「東京は傷つきやすい生命を1200万も抱えた都市です。一人一人の命やつぶやきを見逃さない志を持った人が責任ある立場に必要です。自分の趣味や思いつきでほえまくることが強いリーダーシップだと思い込み、人権や権利は強い者だけに与えられている特権だと思っているかのような人とは早々にお別れしたい」。
 トラックいっぱいのバレンタインチョコレートだけでなくトラックを連ねて私たちは浅野さんの応援隊になりたいと上原は結んだ。この後、「ひとこと言わないと悔いが残る」という会場の参加者の列が並び、次々と発言が続いた。

 浅野史郎、59歳。「知事は卒業」というけれど、あなたたち団塊の世代はもう一働きして世の中に尽くしたいということではないのか。ご家族に苦労は掛けるけれど。浅野は出馬に必然性を感じない」というけれど、そんなことはない。「石原的なるもの」に「浅野的なるもの」の選択肢を対置するのは、天があなたに与えた任務ではないのか。


「条例のある街」出版記念会
       2007,2,18  於、東京神田学士会館
 
 「条例のある街」(野沢和弘著、ぶどう社刊、2007,1,22発行)出版記念会に参加してきました。前日やっと届いた本を読みながら行き、最後には、神保町の地下鉄ホームで、時間ぎりぎりまで読んで会場に着きました。浅野史郎さんが言われるように3回以上涙が出て、私も人間だと思いながら行くと、そこには、浅野史郎さんの姿が、ありました。会場を駆け回っている誰が見ても「発達しょうがい者」といわれる人だと思える青年がどうやら野沢さんのご長男武史さん(20才)だろうということが想像できました。

 封筒の中の参加者名簿には野沢さんが、一人一人にコメントをつけた蘭があり、その温かみが伝わってきます。大熊由紀子さんの「えにしの会」を思わせるものです。本の中に登場している人たちが、たくさん参加していることがわかります。

 2002年、「もう施設には帰らない」というシンポで出会った大熊さんからの依頼で、野沢さんも千葉の福祉を変えるプロジェクトにかかわり始めます。
1、子ども、しょうがい者、高齢者、という縦割りをやめて、各分野横断型の福祉を目指す。
2、政策立案段階から官と民が協同で取り組む。という健康福祉千葉方式、が出来上がります。

色々なしょうがいを持つ人たちが夜の県庁に集まって、千葉県しょうがい者計画策定の作業部会を開きます。その中の知的しょうがい者たちが、議論についていけないでいることに気がついた竹林悟史しょうがい福祉課長(厚労省からの出向で30代半ば)は、資料にルビを振った。更に、その人が住んでいるグループホームに日曜日に出かけていって資料の予習をする。そのようにしてその人たちも意見をメモに書いていって、発言が可能になる。このことは、実は、課長にとってのすばらしい学習の場ともなったのだ。

 「しょうがい者差別をなくすための研究会」のメンバーを公募する。名乗りを上げた人たちは、市町村ですでに「有名人」。そんな人が入ったら大変、との忠告も官庁でささやかれる。座長の野沢さん、事務局長の竹林さん二人は、「折角だから」とその人たちに入ってもらった。その中には、企業の人など、差別する側の人にも入ってもらって、スタート。

 研究会でのけんけんがくがくの議論、タウンミーティングでの多種多様な発言、様々な過程を経て練りあげていって完成した「差別禁止条例」が、2006年2月の県議会で否決され、その後修正協議を繰り返しながら、9月義会で成立にこぎつけるまでの、おおくの方々の努力、落ち込んでいる野沢さんを「千葉は、1センチずつ変わっている」と励ました人、毎回毎回傍聴席をいっぱいにしたしょうがい児を持つお母さんたちの努力、最後にこの条例が可決したとき、堂本さんが、傍聴席に近付いて、皆さんとともに喜びを表現し合う写真が載っていて、見る人の胸までいっぱいになる。「小さな奇跡」で最後が締めくくられている。

 パーティでは、この本に登場する人たちが、次々にステージでスピーチをした。浅野史郎さん、堂本さん、県庁の職員たち、お母さんたち、研究会の皆さん。堂本さんがスピーチをしているときに、野沢武史くんは、堂本さんの隣で、ぴょンぴょン跳ねていた。「うれしいのよね」と堂本さんが応じる。日頃からの付き合いを感じさせる素敵なシーンだった。

 お母さんの代表竜円さんは、「2月から10月まで無我夢中で生活していたので、終わった後、秋なんだ、としばらくぶりで季節を感じることができた」と話され、議会などというわけのわからないところへ、傍聴に行こうと誘う勇気は、かなり大変なものだったのだろうと想像できた。
 八代英太さんは、乾杯の音頭をとったのだが、選挙の後遺症で、「乾杯」という言葉はいやで、「おめでとう」にしようと提案。みなは了承した。金政玉さんなど、しょうがい者運動の中での「有名人」たちも見えていました。

大熊さんがたかひろのMLに参加してくださっていて、このパーティーのことを投稿して下さったおかげで、心温まるパーティに参加できたことを深く感謝しました。



女性議員を増やすネットワーク新潟
          2007,2,17  於、新潟市女性会館アルザ

 17日(土)は、新潟市の女性会館アルザで、女性議員を増やそうネットワーク新潟の総会があり、地元の田中せつ子さんと二人で行ってきました。朝、この町の仲間3人に電話して誘い、田中さんだけが乗ってこられたのでした。総会終了後の記念講演は、彩の国ネットの後上民子さんでした。埼玉県久喜市長選に挑戦した方です。そのときにWINWINとして応援しました。また、彩の国ネットとは、2003年の県知事選で一緒に取り組んだ坂東真理子選挙があります。丁度、新潟と、埼玉県とは、同じ1997年に女性議員を増やす集まりができ、どちらも今年が10周年なのでした。

 後上さんの話は、結構興味深く、「出たい人より出したい人」という言葉はだめ。という。「でたい人で、だしたい人」でなくてはならない、と。どんなにだしたいと思っても出たくない人ではだめ。出るには、勇気だけが必要。

 選挙運動も様変わりしているという。戸別訪問しようにも、マンションなんかは、インターホンで、向こうからは、こっちが見えるだけ。それでも、街頭演説をする前に、周りの家を一軒一軒訪ねて「お騒がせします。これから街頭でお話させていただきます」といってまわり、終わってからは「お騒がせいたしました」といって回っている。とのこと。これからは、インターネットを使うことが必要では?

 話を短く切り上げて、会場とのやり取りを長く取った後上さんのやり方にも共感を持ったからなのでしょうが、たくさんの手が上がり、いろいろなやりとりになりました。一緒に行った田中せつ子さんも、最後には手をあげて、質問という形で、この会にデビュー。終わってからのお茶会にも一緒に参加して、代表の関妙子さんが、「夫が浦佐の出身だから、郷里のご縁で、おごらせて」ということで、私たち二人おごっていただいてもどってきました。妙子さんの夫君は、君知事のときの副知事(自治省からの出向)その後県の教育委員長もしていらした方です。私は、何十年か前に平が岳というここらで一番高い山に一緒に登ったご縁があります。更に、彼が、教育委員長をしていたときに、この町にできた国際情報高校のありかた(県立予備校といわれている)を新潟日報で批判したとき、手紙が来て、高校のやり方を擁護した内容だった、そんなご縁もありました。勿論私は、再反論を試みたのですが、それっきりとなりました。

 話はすっかりそれてしまいましたが、山下清子さんが呼びかけている「女性と政治」のキャンペーンについても話し合われ、シールを作って、みんなで持ち物につけるという方法で、4月の選挙に女性をたくさん送ろうということになりました。この日、現職の議員は、西村ちなみさん、野口ひさみさん、山本亜紀子さん聖籠町の宮内さんだったかな?が挨拶しました。


弟たちとの集まり
2007,2,5   於、 三重県伊賀町ヤマギシ会

 2月5日(月)、揺光の運転で、帆姿母子と4人で、三重県の伊賀町にある山岸会の本部にいきました。私の下の弟順信は高校を卒業した時からここに住んでいます。ここは、財布が一つ、という共同体です。
 大学時代、女子寮で、よく語り合ったものです。「毎日食事を3食作るのって大変だから、3組ぐらいの夫婦が同じ家に住んで、6人の大人が6日に一回当番にしたらいい」というような、かなり素朴な共同体への期待を話し合っていました。その延長に私の山岸会への興味がつづいています。

 今回は、8歳違いの上の弟康信が、山岸会の直ぐそば(滋賀県甲賀郡)にプレカットの工場を作ったので、それを見に行こうというのが、山岸に行く主旨でした。康信は、ポラテックというプレカットの会社の木材部長として、この工場を作ったのです。我が家が、4人でいったので、康信の子ども二人(どちらも関西に住んでいる)もやってきました。夕方、みんなで工場を見に行って、工場長からの説明を受けました。今、家を建てる人の8割はこの建てかたで建てるのだそうです。機械が、木材のカットをしてくれ、大工さんは、それを現場で組み立てるだけでいいのです。集成材、というものも初めてみせてもらいました。木が、変形しないように2センチぐらいの厚みの板を4枚とか張り合わせてあるのです。そのときに貼り付ける接着剤が、ハウスシック症候群の元凶だということですが、今は、ホルムアルデヒドの分量を減らしているので、殆んど害が無いとのことですが、真偽の程は、わかりません。
 機械での切断の模様は、見事です。大工さんが、ノミを使ってやることに比べたら確かに嘘のように速いでしょう。釘を使わないで、組み合わせられるように工夫してありました。どでかい工場で働く人は事務系を含めてたった38人だということに驚きました。康信は、集成材の中に杉の旱魃材などを入れることで、日本の林野をよみがえらせる計画を林野庁と協働で、始めているいうことでした。

 夜、順信の子どもも二人来て、私たちきょうだい3人その子ども6人、そしてその子ども一人という大人数で、山岸製品の豚しゃぶをつつきながら、康信の子どもからのインタビューを受け続けました。「何故山岸に入ったのか?」「何故浦佐に引越したのか」などなど。語り合いが長く続いたことでした。



アメニティーフォーラム in 滋賀大津プリンスホテル
                   2007,2,2〜4

 大津プリンスホテルで開かれたアメニティーフォーラムに参加しました。
 A、自立支援法を展望する
 B、発達障害の豊かな世界
の二つのコースに分かれていますが、私は、基本的にBコースに参加することにしました。3日4日は、始まりが8:15,2日3日の終わりは、23時というとてつもないスケジュールです。

 今年は10回目なのだそうです。去年までは、1500とか1600とかだったのが、今年は、1300なので少々活気がなかったというのが、毎年参加している人の言でした。厚労省と、しょうがい者団体が手を組んで施設解体の方向に動いているので、施設を温存しようとしている人たちが、ボイコットしたからというのが、その人の解説でした。
 2晩とも、帆姿の家に泊まる予定だったのですが、夜11時まで参加するには、ホテルで泊まろうと3日は4人部屋に泊まりました。そこでいろいろな情報がいただけたのです。夜11時というのは、早いのだそうで、朝の4時までという年もあったのだそうです。

 私の参加した発達障害の豊かな世界コースの人たちは、「以前には考えられないような行政と当事者団体とのコラボレーション(協働?)が始まってきた」とのことです。発達しょうがい者支援法を作る過程でも、ヒヤリングということで、当事者団体の代表が意見を求められたり、一緒に勉強会をしたりして作ってきたので、満足しているという人がいました。勿論そういう人ばかりではなく、こんな法律ができて困るという当事者もいるみたいですが、今回であった人たちは、みんな喜んでいるのです。行政のほうも、事務次官、社会援護局長以下たくさんの官僚たちが参加していました。3日の夜の交流会で中村秀一局長が「今日ここが爆破されたら、厚労省が壊滅状態になります」といって笑いを取っていました。今や「時の人」になっている柳沢大臣がこないだけで、厚労省をあげて参加しているという感じでしたから。

 さて、中味にはいりますが、最初に感動したのは、北海道大学大学院教育学研究科教授田中康雄さんの話。精神科医として現場を持っておられるから研究者オンリーの方とは違いがあるのですが、それでも、患者によりそおうという姿勢に感動しました。
    「個人の強い自立よりも、肩寄せ合って暖を取る、非力ゆえに繋がりあうという連帯論を相互支援の柱にしたい」ということでした。年齢が、50代に見え、こういう方が、こういう世界で、多くの人から共感を得ているということに希望を感じることができました。厚労省の専門官大塚晃さんは、この人にこそ、この成果をリードして言って欲しいとおもっていると、個人的な会話で語り、帰ってきてから、彼の連絡先をメールで送ってくださり、話を聞いた直後に書いた私のファンレターを送ることができました。

 フォーラム第二日目、プログラムによるとA,B共通のシンポジウムとして堂本さんが参加されることになっていたのですが、ダブルブッキングとかで、参加できなくなり、ビデオメッセージでの参加となりました。堂本さんのビデオは千葉県しょうがい者差別禁止条例を作るまでの経過を話されたのですが、それはそれは会場の1300人の参加者にインパクトを与えました。
 「差別を受けたことがありますか?」という問いかけに対して、800の回答があり、それを参考にこういうことが差別なのだと定義し、2月に上程したけど、学校や企業からの反対にあって、いったんは引っ込めました。それから、勉強会を23回重ねて修正協議をし、9月の県議会にかけました。そのときには、170の傍聴席が全部埋まりました。とのこと。司会の川名さん(朝日新聞の論説委員)が野沢和弘さん(毎日新聞の記者)の本「条例のある街」(ぶどう社)をぜひ読んで欲しいと訴えました。これは、千葉のしょうがい者差別禁止条例ができる過程を書いたものです。浅野史朗さんは、「千葉より一日だけでいいから早く差別禁止条例を作るように」と県職員に指示を出したけど、議論百ふつで、とてもまとめることができないまま退職となってしまった、と話されました。そして、堂本さんのお話で、修正協議というものがいかに大変なものなのかがわかったことから、浅野さんがいいました。

 賛成反対だけだったら、何にも理由を言わなくていいけど、修正ということになれば「あんたが嫌いだから」なんていうことはいえなくなり、キチンと内容の吟味をしなくてはならない。それでやっと県議会の本来の姿、つまり条例を作るための議論の場、となることができたとのことでした。一つ一つ差別の定義から、加害者には、懲罰を与えるのかとか、大変な議論になったということでした。去年の2月に否決されたものを修正して、10月には、修正協議を終わらせて、成立にこぎつけたのですから、関係者たちのエネルギーは大変なものだったでしょう。野沢さんの本について浅野さんがこういったんですよ。「読んで3回以上泣かなかったら人ではない」私も早速注文しました。差別をした人に懲罰は与えず、差別がなくなっていくようにと配慮したと言うことでした。

 熊本県議会議員の平野みどりさんは、車椅子の方。当事者として「私たちを抜きにして私たちのことを決めないで」ということで、世界的な当事者組織、DPIで活動してきた。同じ車椅子の東俊弘弁護士は、年に二回ニューヨークに行って、国連の人権委員会で、差別禁止条約つくりにかかわり、2006年12月13日に成立にこぎつけた。彼は、自分の仕事を放り投げて、各省庁のキャリアに影響を与えてきたのですが、自分の弁護士としての収入が減り、そのために年金受給が再開したそうです。

 浅野史郎さんは、「千葉で一番この条例に反対したのは、教育委員会だった」とのこと。入学するときの学校選択を「親の権利」にするな、ということなのだそうです。

 埼玉大学の福祉学科の教授佐藤進さんは、東松山市のしょうがい者プランつくりにかかわり、東松山市は、就学指導委員会をなくしたのだそうです。つまり、親が子どものいく学校を決めるということを認める制度改革をしたということでした。

 その日、嘉田由紀子滋賀県知事も参加しており、挨拶に立たれました。琵琶湖の水のことから、しょうがい者施設の発祥地である滋賀県の名物糸賀一雄さんの「この子らを世の光に」という言葉を紹介して、激励されました。

 壇を降りてきた嘉田さんと名刺交換をして、選挙のときに活動したと話し掛けると「黒岩さんのお名前を伺っています」とのことでしたが、後に、それが赤松良子さんからであることがわかりました。はじめてであったのですが、とても真があって、この方なら大丈夫だろうという感触を得ました。誤解の天才が言うことですが・・・

 ところで、厚労省社会援護局長中村秀一さんの1時間半にわたる話は、細かい数字をあげて、社会保障費の使い方、そしてこれからの展望などを話しました。19年度には、国立発達しょうがい情報センターを作って、発達しょうがいについて研究広報等力を入れるということでした。
 社会福祉法人が、2025年までに今の数の2倍にしなくてはならない。社会福祉法人には、色々な規制がかかっていますが、それを緩和しなくては、とても、株式会社などと競合していけない。
 例えば、社会福祉法人が経営するケアハウス、グループホーム、入所施設などそれぞれの会計が、独立採算制になっていて、資金を横に移動することができないのですが、それをできるようにするとかいう規制緩和をすると言っていました。と言っても、全体の助成額を減らすそうなので、移動できるパイが無いらしいのですが。うちらが運営する社会福祉法人の会計担当者の言です。

 夜の交流会で、中村さんと一緒になりました。彼は、以前は、老健局長で、そのころ、老人福祉にばかり予算がついて、障害者福祉にちっともつかなかったので、彼に抗議をしたことがありました。その返事は「高齢者が道を開けば、しょうがい者にも当然行き渡るから、それまで待ってください」ということでした。実際、高齢者の施設が個室化しても、なかなかしょうがい者施設が個室化しない。という状況だったのですが、今度は、中村さん、あなたがいっていたとうりにできるポジションに着きましたね。というと、希望したわけではないけど、そうなったので、努力します。とのことでした。彼は、昔、卓夫がやっていたゆきぐに大和総合病院を見に来て、我が家に立ち寄り、私と高校が同じだというご縁や、彼が、その前に出向していたスウェーデンの話が飛び切り面白くて、私が、いろいろとインタビューした25年ぐらい前からの付き合いなのです。

 同じ交流会で、辻哲夫事務次官とも話しました。彼とは、私が議員だったとき、彼が、年金局長で、無年金しょうがい者に関する質問をして、やり取りした仲です。あのときには、「年金の根幹にかかわることですから、納めていない人に払うことはできない」という公式見解を述べただけでした。
 今回は、出会うなりこう言われたのです。「臓器別に縦割りになっている医療から生活の場に出向いていって、在宅のまま治療をする在宅医療に切り替えます」と。これは私にというより、卓夫に向けた言葉でした。最近、卓夫は、辻さんと出会う機会が多いのです。今言われたような考えに基づいて、在宅医療の審議会を始めたようで、その委員に卓夫がなっているのでした。

 翌日、辻さんの講義が1時間ありました。彼は、このフォーラムは皆勤賞で、今回が10回目の参加とのことでした。昔滋賀県に出向していて、そのときすでに糸賀さんはなくなっていたけど、田村一二さんたちから目覚めさせていただいた、といっていました。糸賀さんの「縦の発達、横の発達」という言葉を紹介されました。これとってもわかりやすいですね。きっと学校で言う発達が、縦で、人間関係が横なのでしょう。
 これからの福祉を展望して、情熱を持って語ってくれました。以前、子育て支援の集まりでも、彼の話は、胸に響きましたが、今回も、官僚には珍しく胸に響くものでした。部下たちから慕われているわけもわかった感じがしました。

 「発達しょうがい者の豊かな世界」と題して当事者二人が語ってくれたのは確かに豊かな世界でした。新聞などで多くの方が名前はご存知であろうニキリンコ(翻訳家)と藤家寛子(作家)の話を聞くのは自称「定型発達」の浅見淳子(編集者)さん。まずこの3人が出てくるところから不思議。「音に敏感な方達なので、拍手はご遠慮ください」そして出てきた「定型」ではないお二人は二人ともサングラスをかけていました。それは、光に敏感なので、光を少し遮るという効果を期待するもののようです。
 自閉症であることを名乗って「自閉症であった私へ」(だったかな?)という著書を書いたドナ・ウイリアムズのテレビを見たときにも、外にいくときは、サングラスをかけていたことを思い出しました。この3人の鼎談の中には、何の説明もなくドナ・ウイリアムズが登場していましたから、この世界では、超有名人なのでしょう。

 ニキさんが言います。学校に入るとき、健診で目が悪いことがわかり、先生が「めがねを作ってもらいなさい」といわれ、お父さんは、大工だし、お母さんも何々なので、めがねを作ることはできない、と考えた。だから何も言わずに過ごした。翌年「めがねを買ってもらいなさい」と言われたので、やっと買ってもらうことができた。というように、情報処理が独特らしいのです。「作ってもらう」と言ったら文字どうり作ってもらうとしか考えられないのが、非定型の人。
 藤家さんはいいます。学校では、不得意なものをなくせといわれ、とっても苦しかった。得意なものを伸ばせと言ってもらえたらどんなに楽だったか。

 この方達は、「自閉っ子」と自分たちを呼びます。ニキさんは本の題名にそれを使っています。アスペルガー症候群、高機能自閉症、LD、ADHDなどの違いも少しわかってきました。今まで一番人の手が必要とされるしょうがい者でありながら、なかなかそれがもらえなかった発達しょうがい者の皆さんに、支援法ができたことで、今までより少し「生きにくさ」が減ることを期待しましょう。

 2月9日の衆議院予算委員会で、山井和則さんが鋭い質問をしましたね。自立支援法で、大変な目にあっている障害児者の一人一人を紹介して追及したのですが、答える総理は「総量として自立支援法ができて利用は1割伸びている」を繰り返しました。山井さんは「政治は、命、生活を支えるためのもの」と繰り返しながら、「総量が伸びても個々のしょうがい者が、自殺、心中、離婚などに陥ってしまうのがこの法律で、正に格差社会を益々深める結果になった」「この法律ができてから、負担額を減らすために水、食物、入浴、などを減らしている人、通所施設に通えなくなった人。」を具体的に示しました。この山井さんは、今回初めて予算委員会で質問をしたと言うので、すでに議員になって7年になるのに、そのことに驚いてしまいました。


びわこアメニティー映画祭
2007,2,2〜4   於、 大津プリンスホテル

 びわこアメニティー映画祭というのが、アメニティーフォーラムの間中、同じ大津プリンスホテルで開かれているんですね。私は、その中の一つだけ見ました。
 「ありがとう」は見ごたえアリでした。
 てんかんと知的しょうがいを持つ奈緒ちゃん(32才)を従兄の監督(伊勢真一)さんが、25年とり続けたドキュメンタリーです。主人公と監督が血縁で結ばれていることによって、こんなスパンで、流れが捉えられたのですが、奈緒ちゃんのお母さんが、地域の中で、「ともに育つ」関係を作り上げ、グループホームがいくつもできていきます。奈緒ちゃんも第3のグループホームに入居します。その節々で、地域の皆さんが集まって一品持ち寄りでパーティを開きます。
 私たちが、この地域でやってきたことと通じ合い、しょうがい者が居るということで、その周りに豊かな世界が作られていくということが実感できる映画でした。
 奈緒ちゃんのお父さんとお母さんの口喧嘩もとっても興味深かった。こんなシーンが撮れてしまうのも、監督と親戚関係にあるからという面が強いでしょう。何がテーマだったか忘れてしまったけど、勿論お母さんの方に部がある喧嘩でした。それも、ここいらの状況と同じでした。



第二びわこ学園見学
2007,2,4   於、滋賀県野洲市

 2月4日(日)アメニティーフォーラム終了後、夕方奈良に居る揺光の所に行くまでの時間、折角滋賀にきたのだからびわこ学園にいって見ようと思い立ちました。たまたま、3日の夜の同室だった方が、夫さんが、元第二びわこ学園の職員だったという関係で、5日(月)に見学に行くといっていたので思い立ったのです。私は、4日しか空いていないので、予告もなく行くことにしました。帆姿の家は、守山市。野洲の隣です。帆姿夫妻と孫の想と車で着いた所は、迷わなければ、帆姿の家から、30分もかからないところののっぱらの中にありました。その日は日曜日なので、デイケアなどは休み。管理棟に行くと一人留守番という感じの年配の男性がいました。

 「ここは病院なんです」といわれ、目をくるくるさせてしまいました。
 よくよく考えてわかったことは、かつて、知的しょうがい児施設近江学園の入居者で、医療を必要とする子どもたちのために作られた重症心身しょうがい児施設で、それがびわこ学園だったのですから、病院を併設するというのが当然のことなのでした。内科、小児科、精神科の医者が、交代で勤務していることがわかりました。広々とした待合室には、子どものおもちゃや、絵本などがたくさんあるので、孫は、それらに夢中になっていました。その間に、留守番の男性が、資料や、絵葉書など持ってきてくれ、その絵葉書は、見覚えのある写真で構成されていました。それは、小林茂さんが作った第二びわこ学園のドキュメンタリー映画「わたしの季節」に出てくるものでした。べっき公明さんという入居者の方の粘土作品ばかりでした。第二びわこ学園の庭にも、病院の玄関にも、そこここに装飾品として飾られていました。

 玄関には、「わたしの季節」の大きなポスターが貼ってあり、この映画が、この学園の誇りになっていることが伝わってきました。頂いた資料によると、この映画の上映会は、びわこ学園の周囲の地域で、何回も上映会が行われてきたようでした。この映画の最後で、古い園舎から、新しい園舎に引越すことが出てきますが、私がいったのは、その新しい園舎だったのです。古い園舎のうちに映画をとって欲しいと職員で、小林さんの学生時代の友人だった方からの依頼でこの映画ができたのですが、その職員が、この映画を見てすぐ亡くなってしまったということでした。短い年月の中に凝縮した人生を送られた方なのでしょう。小林さんの本「ぼくは生きているのだ」の中に輝いている方でした。今、小林茂さんと電話で話したら、その亡くなった職員江口さんの妻も、今年の1月になくなって、小林さんは葬式にいって来たばかりだそうでした。ホテルの同室だった人の夫も、小林さんは、直ぐにわかって不思議な縁ですね。ということになりました。


アクティブミュージアム
       「女たちの戦争と平和資料館」
                    2007,1,14   於、早稲田奉仕園内

 「女たちの戦争と平和資料館」にいきました。これは2005年8月、戦後60年を記念して、女性たちの手で開かれたものです。今まだくすぶり続けているNHKの番組改ざん問題の元が女性国際戦犯法廷の報道にかかわるものですが、この法廷を作り出した故・松井やよりさんの遺産である書籍や、ビデオなどを含めて早稲田奉仕園の中にひっそりと存在していました。
 ひっそりと言っても、こういった資料館にしては、見に来ている人が多く、その日は日曜日だったからでしょうか?殆んどが若者、それも大学生が殆んど。と言っても私を含めて5〜6人です。丁度宮島美子さん(イラク戦争反対の意見広告で知り合い、去年のベアテのジュネーブ上映会でご一緒しました)が、大学生に説明していたので、私も一緒に聞かせていただきました。宮島さんたち何人かが、ボランティアで、ここの運営を支えて、いるようです。受付にいる方も、どこかで何回かお目にかかっている方でした。

 まず、はじめに飛び込んでくるのが、150人の女性の顔写真です。この方達は、日本軍の性暴力の被害者であったということを名乗り、それを公開することに同意した方々です。日本人一人、オランダ人二人を含めて、あとはすべてアジアの女性たち。どの方々も、毅然とした強い意志が感じ取れる、それでいて、愁いを帯びた長年の苦労がにじみ出ているお顔でした。

 世界地図に日本軍の慰安所があったところが、ピンで示されていましたが、その数の多さに唖然とするのみでした。一つのピンごとにそこでどんなにひどいことが行われてきたのかを想像すると、女性をただ「物」としてしか見ず、人間とは思わないまま、戦いに励んだ、男性たちの動物性、それを国家が支えて、というより率先して慰安所という形で、提供したことを告発する展示物でした。

 特別展は、東ティモールの被害状況でした。2002年にインドネシアから独立したことは知っていましたが、第二次大戦中は、ポルトガルの植民地で、ポルトガルはスペインと並んで、軍事独裁制で、連合国側には入っていなかったのだそうです。だから、日本軍と闘わないはずなのに、オーストラリアが占領したために、日本軍もそこに上陸し、性被害を与えることになったのでした。インドネシアの植民地時代にも、被害を受け、それを1995年の北京会議でポルトガルや、オーストラリアに亡命中の女性たちが告発。それをきっかけに女性たちの連帯活動が開始され、日本軍からの被害もわかってきた、ということでした。

 松井やよりさんは、1960年、私が卓夫と知り合ったばかりのころ、卓夫の住んでいた東大YMCAの寮で、資本論の原書での読書会をしていたのですが、そのチューターが、松井やよりさんだったのでした。当時は、平山さんだったのですが、その中のメンバーであった松井さんと結婚し、その後松井となったのでした。
 2001年、どこかで手にした韓国へのスタディーツアーに申し込んだら、それが、松井さん主催のアジア女性資料センターの企画したツアーだったので、やよりさんと一緒に韓国への旅が実現し、やよりさんとは、40年ぶりに再会、いろいろな話をすることができたのでした。その後、彼女は、癌に冒され、卓夫は、彼女からの相談を電話で受けて何回かやりとりしていたのですが、惜しまれながら亡くなってしまったのでした。

 松井さんが命をかけて取り組んだアジアの女性たちとの連帯、がこのような形で残され、皆さんの目に触れることができるようになったこと、せめてもの救いでした。



「働く女性の全国センター」結成大会
2007,1,20  於、韓国YMCA、国際ホール(東京水道橋)

 東京の韓国YMCA、国際ホールで開かれた「働く女性の全国センター」結成大会に参加してきました。色々な新聞が報道してくれたそうで、140席しかないところに入りきらないと困ると主催者が言っていたので、早めにいったのですが、それでも40分も前だと言うのに、たくさんの人が色々な動きをしていました。そこここに知っている人が見えたので、挨拶したりしているうちに、1時となり開会。そのころには、もうすでに人があふれてローカにもたむろしていました。最終的には、つめたり立ったりして、190人が来たということでした。こういうたぐいの会としては、熱気が感じられ、何人もの人が「待っていました、この日を」といって感動を表現していました。

 以前、東京ユニオンという個人加盟の労働組合のことを報告したことがありますね。女性たちが、不当な待遇に納得せず、この組合を頼って裁判を起こしたりして、改善をしていっている、そんな本来の組合活動をしているところです。その東京ユニオンの事務所が、今回の全国センターの事務所になり、この組織の運営委員会の代表が、東京ユニオンの前代表伊藤みどりさんですから、ユニオンと、このセンターとの関係は大きいものでしょう。
 実は、新潟にもユニオンがあります。そこからも一人来ておられました。里村さん。二人で、再会を喜び合いました。
 あと、北海道から、スペースおん、を主催している近藤恵子さん、それから、小山洋子さん。何年ぶりかの再会でした。小山さんが、札幌教組の委員をしていたときに、記念講演に呼んでいただいたという関係ですが、彼女は、定年退職後、札幌ユニオンの代表をしているとのこと。ここでも再会を喜び合いました。

 さてやっと内容にはいります。
 始めは、このセンターができるまでのいきさつを代表の伊藤みどりさんが話し、呼びかけ人15人の一人一人がどんなことをしてきたのか、そのネットワークがどんな働きをしたのか、そしてこれから何をしていくのかの話しでした。
 1985年にできた男女雇用機会均等法の改正に向けて行動してきた。これから、まだまだ労働法制の改悪が予想される。それに向けて昨年7月から4回の会合を持って、センターの結成にこぎつけた。とのこと。4回と言っても、実は大変だったはずです。何しろ、呼びかけ人の15人は、北海道から九州まで全国から集まってくるのですから。


次は、幻のフェミニスト、田中美津さんの話

              「身体から見た現代労働事情」
 1970年代、彼女は、ウーマンリブの中でひときわ輝いていました。その後、メキシコに行ったりしていて、この運動のなかからは、姿が消えました。
 ところが驚いたことに、私の東京選挙が終わった後、はがきが届きました。「東京選挙区の候補者では、あなたしか入れる人がいなかったから、いれたことはいれたけど、リーフレットが、7人の子どもがいる、ことを売り物にしているのは、どうかと思う。そういう古い観念は捨てたはずではなかったのか?」いやいや、私もそう思います。と書いて、長々手紙を書いたのでした。

 その後6年が経ちますが、田中美津さんは顕在でした!
 今回の大会のスローガンが「愛も仕事も生きがいも」だったのに、コメントをつけて「愛、というのは、遠慮してるのでは?恋といって欲しい。」そして「はっしゃーおーらい」の歌に乗せて「恋も仕事も生きがいも」と歌い上げたのでした。彼女は今、東洋医学を元にした治療院を開いています。終わってから挨拶に行くと「わかってますよ。ジェンダースタディ-ズのMLで見ています」とのことでした。そういえば、時々、彼女も投稿していたことを思い出しました。
 初めて姿を見たので、その身体の小ささにまずは驚き、その後、目の光、顔かたちなど、なるほど、一つの運動の教祖にふさわしい方なのだ。と一人納得していました。

 もう一人、あの頃のリーダーだった中島通子さんも見えていました。75年に「国際婦人年をきっかけに行動をおこす女たちの会」を立ち上げ、ご自分の法律事務所をそこの事務所に当てていた方。この方とは、女たちの会の第一回合宿で一緒になっていたほか、国会にいるときにも、又、その後イラク戦争に反対する国会行動でも、よく一緒になっていました。彼女は、挨拶の中で、「70年の頃から、女性の労働運動を作り出したいと考えていた。今こうして、このセンターができたということは、涙が出るほどうれしい」といっていました。

 韓国の女性運動のリーダーマリア・リーさんや、アメリカの方も連帯ということでこられていました。
見たことのある顔の方がたくさんいて、「どこかでお目にかかりましたよね」と声をかけると相手は、わからない様子。それを見ていた人が「この人は、住友金属の裁判の原告で、ベアテの贈りもので見たんじゃないの?」といわれました。そうそう。私は、この映画は日本でも数回、ヨーロッパでも数回見ているので、登場人物が、一方的に顔見知りになってしまっているのでした。

 朝日の竹信三恵子さんは、去年、このセンターができることを報道していて、今回も、詳しい報告を新聞紙上でするに違いありません。女性団体連絡会を呼びかけてきた私ですが、この結成大会は、その一つのきっかけになりそうな気配がして、心が躍る一日でした。


「女性と政治」シンポジウム
   2007,1,13  於、世田谷、アーニホール

 13日(土)、世田谷の用賀にあるアーニホールで、「性を語る会」主催の「女性と政治」をテーマにしたシンポジウムがあり、そこに参加しました。ゲストスピーカーが田中喜美子さんだということ、主催者の北沢杏子さんに会ってみたいということ、などで、でかけました。
 北沢杏子さんは、性教育という点では、日本では、開拓者といっていいのでは?保母をしていたとき彼女の本を読みましたし、アーニ出版の絵本も保育所で読んでいました。「僕はこうして生まれた」だったかな?孫たちも大好きな本です。彼女は長女萌実の勤めている北星学園で去年だったかに生徒たちに講演しています。
 
 「元鉄工所だった建物を買ったの」、と北沢さんが言うビルは、一階がホールになっていて、この日は20人ぐらいでしたが、詰めれば100人以上入れる広さがあります。二階が事務所で、そこで、昼食をいただきました。北沢さんが山梨の農園でご自分で作ったという有機野菜なのでおいしいこと!北沢さんは、田中喜美子さんと同じ年で、私の10歳上。熱血漢なのでしょうか?この日も半袖でした。しょうがい者の問題にも深くかかわってこられ、海映のかかわっている水戸事件の支援者も、ここのホールで話したことがあるということでした。この日も、新潟出身のしょうがい児を持つお母さんが、「医療過誤で息子がしょうがい児になり、北沢さんたちに助けられた」、といって、息子が通っている高校での介助員問題の署名を集めていました。私の無年金の署名とならべて、大勢の方にしていただくことができました。

 さて、シンポジウムの方は、田中喜美子さんが、「わいふ」という投稿誌を1976年から編集長として作り始め、1980年ごろから女性たちの意識に変化が起こり始めた。「私の足を引っ張る夫」という原稿募集したところ一通もこなかった。その女性たちの変化は、政治状況と深くかかわっていると判断し、「ファム・ポリティク」(政治的女性かな?)を発行し始めた。母子密着で、子どもの自発性を摘み取ってしまっている、それに対して、赤ん坊のときから言ったことはなんでもしてくれると子どもに思わせてしまってはいけない。泣いたら直ぐに抱くという形で、子どもを王様にすることをやめなくてはいけない、という論を展開。

 私が参加することを知った北沢さんが、私にも30分の時間を下さり、自己紹介方々政治が生活を決めるという話をして、田中さんの子育て論に対する反論をしました。田中さんが主に付き合っているお母さんが、殆んど専業主婦であるのに対して、私は勤めを持っていたので、子どもは我慢しなくてはならないことはいっぱいあった。親が子どもにしなくてはいけないことは、ただ、愛しているということを伝えるということで、親が、許容量さえ広げていけば、生まれたときに持っている自発性は、摘みとられないで済む。

 生きる力、自発性、許容量、などたくさんのキーワードが出たけど、時間はそうはなくて、しっかりとかみ合う議論はできずでした。田中さんが言うような、「子どもが王様になってしまう」という問題は、親が本当に子どもを愛していたら、言うべきことはしっかり言うというだけのことだと考えています。おばあちゃんとお母さんが子どもを取り合って、二人とも子どもの機嫌を損なわないように言うべきことが言えない。というような家庭がかなりありますが、そういうはざまで育った子どもが、ある程度大きくなって、暴力事件を起こすというような事例を近くで見てきています。この場合にも子どもから見たら、自分を愛してくれているとは思えない、ということが一番の問題だと考えています。

 田中喜美子さんが、今書いている「あなたが大切に育てた子どもが何故自殺するのか?」という本ができたら、真っ先に私に送るということだったので、それを読ませていただいてから、きっちり反論したいと思っています。

 インターネットで見つけて来たという女子大生や、小中学校で教えている先生や、いろいろな方たちが、グループに分かれて話し合う時間もありました。

 次回は、3月10日(土)、世田谷区、用賀3-5-6、アーニホールにて。参加費1500円。危険を回避する、ということで、子どもたちの危険や、デートDVについてがテーマとなります。興味がある方は、ご連絡ください。


ケアハウス鈴懸のマージャン大会
2007,1,10  於、ケアハウス鈴懸5階ホール

 いつものメンバーが入院してしまって、足りなくなったからということで、隣の認知症対応のグループホームにいる私の母と二人で来てくれといわれて、私の初仕事が始まりました。

 私の得意料理の一つ、りんごケーキを焼いて、お茶菓子持参でいきました。鈴懸のメンバーは、一人が私と同じ年の男性で、病気をいくつか持っていて、軽い知的しょうがい者。彼は、小学校のときからマージャンをしているということで、彼がパイを持っているのです。もう一人は、鈴懸に入る前に隣町のケアハウスに住んでいて、そこで、教わって「ボケ防止に」ということで始めたそうです。

 というわけで、点数が数えられるのは私一人。これでは、私の一人勝ちかな?と心配したのだけど、なんと一番勝ったのは、認知症でかなり記憶が危なくなっている私の母でした!

 母の認知症ぶりは、終わって自分の家(グループホーム桐の花)に帰っていったら「ここはどこ?」と聞くのです。「あなたのおうちよ」というと「あら、初めてきたわ」という返事です。場所がわからない。

 それから、私が母を置いて帰ろうとしたとき後ろから聞こえてきた会話。
「北大路さん。マージャンどうだった?」「?」
「マージャンしてきたでしょ?」「そんなことしないわよ」
ついさっきのことは逃げていくのです。

 さて、母は、何回も上がったのですが、あるとき、リーチをしないままあがってしまったのですが、「どうしてリーチしなかったの?」と聴かれて(リーチをすれば、点数が倍になるのに)「遠慮したの」と答えて、そのタイミングのよさにみんなで大笑い。
 母が上がって私が点数を数えていると、もう一つ役があると言い出しました。私が見落としていた役で、チャンタという言葉は忘れていたけど、それをちゃんと意識して、やっていたことがわかりシャッポを脱ぎました。

 ケアハウスというのは、自立可能な老人のアパートです。母もそこに住んでいたのですが、認知症が進んで、隣に作ったグループホームに引越したのですが、普通は、認知症というのは進行すると考えられているのですが、母は、2年前にここに入居して以来、全くといっていいほど進行していません。これは、ここの職員たちの努力によるものと感謝しています。本当に一人一人を大事にしてくれています。家族と一緒にいるよりも、いろいろな人といる方が、会話も弾んだり、(と言っても、入居者同士の会話は、殆んど同じことの繰り返しなのですが、それでも、お互いが前の話を忘れているので、会話になっている!)役割もあったりして、よかったと思っています。

 母は、昔は自分の習字はへただと言っていたのに今では、筆字を書くのは母の役目。私が毎日いっているのに、毎日「あれ私が書いたのよ」と「謹賀新年」を指差します。


2007年賀

 暮だというのに春のような暖かさ!いったん積もった雪はきれいに溶けました。
 去年は、友人が始めたカカトットという子育て支援の集まりに週2回顔を出していました。保育園に入っていない子どもを連れたお母さん(おばあちゃんもあり。お父さんはたった一人だけ)たちがあつまります。2歳ぐらいの子どもたちに遊んでもらったり、赤ちゃんを抱いたり、お母さんたちの相談にのったり。
 夫卓夫が理事長を勤める医療法人萌気会、私たちが運営する社会福祉法人桐鈴会、そして大和調剤薬局の3社で、子育てと仕事の両立にとって何が必要なのかを考えるハッピーケアプロジェクトも、この一年間やってきました。
 21世紀職業財団(男女雇用機会均等法ができた1985年に、それを実質的なものにするための労働省が認可した公益法人としてできたもの。ここのHPに詳しく出ています)から、色々な助成金が出ることを知りました。しかも、中小企業のほうがたくさん!育児休業代替要員確保とか、ベビーシッター助成金とか、両立支援をしてくれます。男性は育児休暇をとっただけで対象になりますよ。又、パートさんへの支援(正職に近づけるための様々なメニュー)もあることを発見。折角だから利用しましょう。
 ドキュメンタリー映画「ベアテの贈りもの」が、去年は、ヨーロッパを駆け巡りました。私も、ジュネーブ、バーゼル、チューリッヒ、と製作委員会の一員として参加しました。今年は又ベルン、パリ、アムステルダムなどヨーロッパをフィルムが回ります。ベアテのHPに予告や、報告が載っています。
 今年の7月には、長男宇洋の参議院選挙となります。又皆さんのお世話になることでしょう。
よろしくお願いします。
      黒岩秩子 〒949-7302南魚沼市浦佐54280
             TEL25-777-2187 FAX777-3422




ベアテの贈りもの製作委員会忘年会
       2006,12,21    東銀座松竹スクウェア

 21日は、ベアテの製作委員会の忘年会ということで、上京しました。会場が東銀座だったので、イルミネーションがまばゆい町を東京駅から歩いていきました。

 事務局から今年一年の上映の報告を受け、来年からの上映会はかなり減ったので、ベアテのフィルムを田町にある「女性と仕事の未来館」に移すということでした。HPもそのまま移し、今その管理をしてくださっている石倉さんがそのまま未来館のHPの中のベアテの部分だけは引き続き管理してくださることになります。新潟や、ジュネーブでの上映会の報告がアップされているはずです。

 去年の年末にやはりベアテの関係者が集まって忘年会を楽しみましたが、そのときに、今年の3月のウィーンの国連機関での上映会や、私が出向いたジュネーブの上映会のことが決まったという記念すべき会でした。今年は、ジュネーブ上映会の栗崎さんがまだ帰国していなくて参加できませんでしたが、国連上映会を主催した広瀬晴子さんが、この11月にモロッコ大使に転任(それまでは、UNIDOUという発展途上国への技術援助をしている専門機関の副代表でした。)し、今回たまたま帰国中だったので、参加され、モロッコでも上映会をするというので、みんなでそのときには、ツアーを組んでいこうということになりました。モロッコはアフリカの中では、ODAの援助対象から抜かされた国ということです。観光や、色々で、いわゆる「発展」が成功しているらしいです。

 そのことがベアテのヨーロッパのMLに流れると、ジュネーブの亮さん(女性で、日頃電通の様々なヨーロッパでの企画を引き受けてこなしている方)が、「モロッコツアーは、任せて」といってくださり、期待が膨らんでいます。

 電通といえば、このところタウンミーティングでひどい額を請求をした角で批判されていますが、驚いことに社員研修に使うからということで、近々ベアテのフィルムを借りるということでした。私の3男乙水にこのことを聞くと「もうやったよ、おれはいけなかったけど」と言っていました。

 それから、今年は、大学の先輩で、龍谷大学の教授長崎暢子さんが、龍谷大学で学生たちに見せるという企画をして下さっていて、5月12日には、赤松さんと私も呼んでくださるということです。
若者向けには、フィルムの貸し出し料は5万です。皆さんもどんどん使ってください。




「蟻の兵隊」
2,006,12,23   於、新潟市、シネウインド

 12月23日、新潟市のシネウインドに夫と広田セツ子さんと3人でいきました。時間ぎりぎりに行ったら、ものすごい混みようで、明日もあるからといわれて帰っていく人たちの中で、「魚沼からきました」というとそれならどうぞ、ということで入ったものの立見席で、それも、身動きできない状態。私はなんとか身を動かして階段状の所に座わって、前の人の影をよけるために首を色々と動かしながら見るという状態でした。

 そもそもこの映画は、奥村和一さんの執念が監督を動かして作られた映画なのですが、歴史の史実は不可思議極まりないものです。奥村さんは、戦争が終わってから1948年から54年まで中国の山西省に残留させられていた日本軍の兵士だったのです。何のために残留させられたのか、それは不思議な話。謎がいっぱいです。

 それはともかく、このときの残留兵士だった人たちが、国を相手に裁判を起こします。ところが裁判所は全く相手にしない。地裁はもとより、高裁、最高裁、すべて負けました。書類上は、兵士たちの志願によって残留したと言う形を偽造しているからです。

 奥山さんの行動を記録した映画なのですが、彼が、中国を訪ねる旅が真ん中に据えられていました。資料を探すことと、自分が殺してしまった人の遺族に謝罪したいということがテーマです。少年兵のときに殺すことを命じられ、銃剣で刺し殺した。その場所を訪問します。彼は、その前にすでに何回も中国へは資料探しにいっています。今回初めて、その現場に「いかなければならない」という思いでいくのです。その部落は、今まで外国人が入ったことのない、という部落で、当然のことながら、どんなにか罵声、暴力などを受けるだろうと覚悟の上だったそうですが、どちらかといえば言うだけのことを言ったら、どちらも被害者、と言う感じで、許しあうことができたみたいでした。

 卓夫が満州からの引き上げなので、一緒にそのころ住んでいた、そして同じ小学校に通っていた人たちで、その村を訪ねたことがあります。私も、子どもたち3人も一緒にいきました。そのとき訪ねた村を思い出すような光景がたくさん出てきました。

 この映画で一番驚いたのは、最後に出てきた靖国神社の光景です。鳩山邦夫さんが、鉢巻をして演説していました。「8月15日は、日本が、もう二度と敗戦はしないということを誓った記念日です」と。そして、アジアで終戦を知らずによっぽど建ってからかえってきた小野田さんが演説していました。それが終わったところで、奥山さんは小野田さんに近付いていって、こう呼びかけました。「侵略戦争美化ですか」その答えは「美化じゃなくて、正当化です。何故あなたは開戦証書を読まないんですか」日本が、戦争せざるを得ないという内容なのだと思いますが、列国によって、開戦を余儀なくされたと言いたいようでした。

 奥村さんは、戦争というものを被害加害ということではなくて、誰もが、被害者にも、加害者にもなってしまうもの、ということで、絶対に戦争はいけないものと言いたい。と結びました。奥村さんと監督の話しのあと、会場とのやり取りも長い時間ありましたが、会場には、じところにいっていた人や、そういうおじいちゃんを持っている人などがいて、話はいつまでもつづきました。


新潟自立生活研究会勉強会
     2006,12,14  於、 青陵大学

 新潟自立生活研究会主催の差別禁止法の勉強会に行ってきました。9月末に海映が講師になって勉強会をした続きのような感じでしたが、その日は、丁度国連総会で、しょうがい者権利条約が採択されたのです。まるで私たちのために、プレゼントされたみたいでした。日本からも弁護士の東俊裕さんや、金政玉さんが、何回もニューヨークに行って作る過程に加わって、やっとできたものなのです。それができれば、国内でも、差別禁止法が作りやすくなるということで、しょうがい者の皆さんが、待ちに待っていた条約だったのでした。

 当研究会副代表の相場有希子さんが、発達しょうがいの方たちとのコミュニケーションの手段として、VOCAと言うものを作りつつあることを紹介してくれ、皆さん結構興味しんしんで、実物を触らせていただいたりしました。今のところ、大学の研究の一環だから作れているだけで、市販されると言うことは考えられないという感じでした。クリックするだけで、絵と音声が出てくるゲームボーイのような電気製品は、きっとそのうち市販されるようになるのでは?と言う感じがしました。

 また、河村ちひろさんの差別禁止法についての報告のあと、11月25,26日、全国地域生活支援ネットワーク北陸甲信越ブロック研修会が、妙高少年自然の家で行われ、そこでの議論の様子や、11月27日、東京の弁護士会館で行われた「しょうがいを理由とする差別を禁止する法律」要項(日弁連試案)に関する意見交換会のことなどが話し合われ、千葉県で、とうとうしょうがい者差別禁止条例が出来上がったことを通して、新潟でもぜひ禁止条例を作ろうと言う話で盛り上がりました。ほんの10名そこそこの集まりでしたが、だからこそ密度の濃い話し合いが行われ、千葉では、自民党の人たちの反対にあって、いったんは廃案、といわれていたのですが、男女共同参画条例と一緒に修正協議に応じると言う形で、妥協が成立、その結果やっと日の目を見たのでした。どこを妥協したのか聞いてみてわかりました。差別した人や、企業の名前を公開する、ということを嫌がったので、それを取り下げたのだそうです。他にも、色々と厳しかったのを緩めたのだそうですが、今日の皆さんの共通認識では、妥協してもとにかく作ってしまうということが大切、その後直していくと言う作業に取り掛かって、本当に満足が行くものができるのは何十年か先になるだろうということで、皆さんが一致していました。

 最後に、海映たちが、水戸事件の裁判を闘う中で作り上げた「裁判における知的しょうがい者の供述」という小冊子を宣伝したら、一冊しか持っていっていないのに、5人もの人が買いたいといってくれ、代金1000円をいただいてきてしまいました。帰ってすぐに皆さんの発送しました。

 全国地域生活支援ネットワーク北陸甲信越ブロック研修会には、全国から500人ぐらいが参加(そのうち半分以上は新潟県の人だったらしい)国会議員や、県知事も参加して、それはそれはにぎやかにたくさんの内容を詰め込んで討論したのだそうです。このとき一番輝いていたのが、毎日新聞記者の野沢和弘さんだったということで、今度新潟でも、彼を呼んでたくさんのしょうがい者団体があつまれる会を考えようと言う話にもなっていました。


ハッピーケアプロの活動
2,006,2〜 於、なかよしの家(ちょっと遅れての掲載です)

 金井秀樹さんの報告をアップしてから、過去ログを見直してみたら、なんとこの活動を報告していなかったことを発見。さかのぼって報告しますね。
 もえぎ園では、職員のための託児所をもっています。ところが、医療法人は、収入をうる仕事をしてはいけないことになっているために、地域に開かれた託児所にすることができず、別会社を作ってそこが運営していることになっていますが、実は、もえぎ園と調剤薬局が出資して、古屋を借りての託児所をしています。名づけて「なかよしの家」。私の孫も一月ここに通ったことがあります。下の子が生まれたことを受け入れられなくて、母親が授乳することが困難だったので、母親が、送りにいってヤットそこに通えていたときに、我が家を走り回る巨大なねずみがネズミ捕りにかかりました。そのネズミ捕りを持って「なかよしの家」に行き、このねずみが、母親代わりをしてくれ、以来、母親がついていかなくても通えるようになり、ねずみが餓死するまでの1週間ネズミ捕りを持って通ったという託児所です。そんなことが許される許容量の大きな保母さん梅田さんが、ここの代表で、かつこのハッピーケアプロの代表でもあります。

 この2月から子育てしながら仕事を続けるには何が必要か、というテーマで取り組むプロジェクトを立ち上げました。ハッピーケアプロ、という名前もつけました。月一回「なかよしの家」に仕事帰りに集まってきました。私も、もえぎ会と桐鈴会の役員の一人としてかかわってきたのです。

 さて、このハッピーケアプロでは、始めに育児休業・介護休業法の勉強会をしました。するとたくさんのことを発見することができました。厚労省が、両立支援ということで、いくつものメニューを出しているし、パートさんを正職に近づけるためのメニューもでていました。

 たとえば、育休を取ったときに、代わりの人を入れて、その人に払う給料ぐらいは、21世紀職業財団から助成金として出る。そうすれば、企業は心おきなく職員の出産育児に協力できるってことなんです。そもそも、この21世紀職業財団ってご存知でしょうか?男女雇用機会均等法ができた時、その実現に向けた実行部隊としてできた(1986年)労働省の外郭団体でした。今は、厚労省の外郭団体。つまり特殊法人として、天下りの受け皿にもなっているのでしょう。育児、介護休業法を調べていたら、「指定法人」と言うのがあったので、厚労省に電話してみたら、それがこの21世紀職業財団だったのです。HPを覗いて見たら、あることあること!たくさんの種類の助成金が!

 大きく分けると仕事と家庭の両立支援、と、パートタイム助成金でした。どちらも6つのメニューがあります。両立支援のほうから行きましょう。事業所内託児施設設置・運営、ベビーシッター費用等補助、代替要員確保、子育て期の柔軟な働き方支援、男性労働者育児参加促進、休業中能力アップ。

 上記3企業体の職員たちで、21世紀職業財団新潟事務所の方が二人、おいでになって、詳しくお話を伺いました。

 育児介護休業法によれば、育児のために仕事をやめなくてはならなくなったときに、手が空いたら、復職したいと職場に告げて辞めたなら、復職したいと言ったときに、その人を優先しなくてはいけない、と書かれています。それは、事業主にとっても本当はありがたいことのはずです。仕事にすでに慣れている人を再雇用できるのですから。「なかよしの家」は、地域に解放してあり、誰もが使えるようになっています。でも、普通の人は月5万で、職員の子どもは2万です。その差額を事業所が出しているので、それが、ベビーシッター助成金としてもらえるのです。叉育児休業を取ったとき、代替要員を3ヶ月入れたと言う実績があれば、復職して6ヶ月たったときに助成金を申請できます。何故6ヶ月かというと、育休後に辞めてしまうケースがあるからです。それは、本人の都合のこともあるし、育休をとったために嫌がらせをされて、辞めざるを得なくなるというそんなケースを防ぐためです。このシステムに対して受け取る助成金は、なんと50万円です。(これは中小企業の場合で、大企業は40万。大と中小を分ける基準は、小売業は50人、サービス、卸売り業は100人、その他の業種は300人です)。中小の方がたくさんでるのです。医療、福祉は、サービス業なので、桐鈴会と調剤薬局は、中小。萌気会は大企業となります。

 パートについては、メニューだけにします。正社員と共通の処遇制度の導入、パートタイマーの能力・職務に応じた処遇制度の導入、正社員への転換制度の導入、短時間正社員制度の導入、教育訓練の実施、健康診断・通勤に関する便宜供与の実施、です。詳しいことは、財団の方が、出張して説明してくださいます。まずは、21世紀職業財団のHPを覗いてみて下さい。
http://www.jiwe.or.jp/

 その後、桐鈴会では、育児休業・介護休業法の中にある一般事業主行動計画を提出し、一人の職員が取った育児休業に対して、代替要員を確保したので、復職して6ヶ月を経過したことを申請し、助成金50万をいただくことになりました。
 また、県では、この春からハッピーパートナー企業登録制度をつくり、(これはどこの都道府県でも名前が違っても内容が同じものがあるはず)もえぎ園では、登録を完了しました。19番目とのこと。今は24社が登録されているのみで、南魚沼市では、たった一社とのこと。近々、桐鈴会でも登録します。県のHPに載るほか、色々な県からの出版物に公開されます。


大和調剤薬局社長金井秀樹さん

 医療法人萌気会、社会福祉法人桐鈴会、大和調剤薬局3社で2,006,2〜始めたハッピーケアプロジェクト。月に一回集まりを持って、仕事と子育てを両立するには、企業として何が必要なのか、を話し合ってきました。その中で、伺った調剤薬局社長金井秀樹さんの話は、感動的でした。

 この方は、発想力がとっても豊かで、何事にも考えて考えて、工夫をするので、思わぬことが実現してしまいます。手品師としての腕もさることながら、認知症の人に忘れずに薬を飲んでもらう方法などを開発します。
 また、薬局ですから、ご多分に漏れず女性の従業員が多いのですが、どんどん子どもを産み、育休を取ります。女性が産休に入ったところで、代わり(代替要員)を入れます。育休が終わって出てくるとその分人が増えます。何人か増えると新しい薬局を建ててしまいます。だからすでに4つの薬局、それも4つの会社でやっています。来年4月には、5つ目の会社ができるそうな。

 ハッピーケアプロが始まって一番先に出てきた要求は、年休を時間単位で取りたいということでした。萌気会では、半日単位でとっているそうな。ところが、調剤薬局では、10分単位で取っているという。その方法を聞いて驚きました。一人一人が、年休簿をもっています。そこには、横に長い長方形が何本か書かれていて、その一本は、一日ということです。その長方形を8等分すると1時間になり、それをまた更に6等分すると10分になりますね。そこに自分で、とった分だけ塗りつぶしていきます。8時間分が塗りつぶされると1日ということになり次のマスに移ります。10分単位の人に、1時間単位の人に、それぞれ塗りつぶしていけば、一月の年休、一年の年休消化分がわかるのでした。そういう工夫はすべて、金井さんの手によるもの。

 この方、実は最近では怒ったことがないという方。すばらしいですね。夫にこの方の爪の垢をせんじて飲んで欲しいところです。


樽川通子講演会
2,006,12,10  於、 地域交流伝承館「夢草堂」

 雨が降る中、下諏訪から、5時間かけて樽川通子さんがこられました。鈴懸で昼食をともにした後、夢草堂での講演会。ニュージーランドに一緒に行った、バンジー松田さんが、越谷から樽川さんと同じ新幹線で到着。袖山さん夫妻も、孝雄画伯の描いた50号の絵(駒ケ岳)を車に積んで新潟市から到着。長岡から男女共同参画会議代表の男性大橋さんがこられ、小千谷市議の長谷川きよさん母娘、小林茂さん講演会で知り合った中村康子さん(田宮病院系列のしょうがい者授産施設職員)が長岡から、大和町男女共同参画係り駒形淳子さん、前南魚沼市議志太きえ子さんのほか、鈴懸入居者や、旧大和町在住者など30人ぐらいで歯切れのいい樽川節を聞くことができました。

 樽川通子さん(77歳)は長野の下諏訪町議会議員を四期務めた方で、女性議員を増やす「しなの」学校の会長として10年間、たくさんの女性議員を誕生させました。新潟県の女性県会議員が3名に対し、長野県は8名ですから、この数字をみただけでも彼女のリーダーシップと情熱が分かります。
 樽川さんがおっしゃるには、男と女が家庭生活を営むように社会も政治も、男と女が同等に参加して暮らしやすい社会を作っていこうと言うのは当たり前のこと。特に女性が議員になるということは、一般の生活の中から生れる声が議会に届くということで、暮らしやすく、平和な世の中にするために大切な事。

 日本は戦後、「男女平等」になったはずなのに「男女平等」がなかなか進まないのは、女性自身の責任なのですよ、と歯切れのいい樽川節が続きます。
 樽川さんが議員を辞めた後、区長を引き受けたときの話には皆がドット笑い、大いに受けました。樽川さんが区長を引き受けた時、その反響は議員になったときより大きかった。それくらい女性が区長になるということはありえないことで、区長というのは、人格、見識ともに優れ、地域の人たちの信頼を得た男性と決まっていた。そういう中で、樽川さんに区長をしないかという話が持ち上がったとき、居合わせた知恵者(男性)が「男が区長を引き受けるときでさえ家に帰って家族と相談するんだ。(女性である)樽川さんが夫や息子に相談もしないで区長を引き受けたりはできないだろう」と、いかにももっともらしい話を始めたので、その手には乗らぬと「我が家では、夫にしろ私にしろ、意思決定は自分でしますので、今ここで区長をお受けしたい」と即答したそうです。

 「皆さん、何か仕事をやってみないか、といわれたら、しり込みしたり、できない言い訳を考えていないで、引き受けてやってみましょう。行動しなければ、世の中はいつまでも変わらないのです。」と言われ、「耳が痛かった」と言った人が何人かいました。
 それを受けて、現市議の長谷川さんや、前市議の志太さんから、女性議員がどんな仕事をしたのか、学童保育、しょうがい者の作業所、など男性たちが目を向けない生活の隅々のことをやってきた話がありました。男性たちからも意見が出て2時間が瞬く間に過ぎました。

 そのご懇親会に移り、夢草堂館長の広田さん、運営委員鈴木智子さん、私による手作りの料理が並び、半数の14人が残って、話は尽きず、腰をいためている樽川さんの限度いっぱいの交流会でした。

 女性議員を増やす、というようなテーマで集まってくれる人は、ほんとうに少ない。今回この30人に集まってもらうのに、どれだけの労力を必要としたことか!樽川さんが、長野県全体で、始めたときに、800人もが集まったという話を聞いて、うなってしまいました。
 その後、南魚沼市男女共同参画会議の企画運営委員会の集まりがあったとき、市の職員でこの参画会議の窓口をしている駒形淳子さんが、先日の樽川講演会の報告を皆さんにしてくれました。「女性議員を増やさなくてはいけないと思いました」と言う内容の報告でした。市の職員が聞きに来てくれたということ自体、珍しいことですが、それを皆さんに報告してくれたのには、驚きましたし、うれしかったです。

 新潟県はとっても広いので、県全体の女性議員を増やす会はあるのですが、南の地域には、とっても女性議員が少ないので、この地域だけの増やす会でも作らなくてはいけないかな?と思ってみたり、今の時期は、無理かな?と思ってみたりしています。(広田セツ子さんとの合作)


小林茂講演会ーー医療の心を考える会
              2006,12,2  於、安善寺(長岡市)

 夫が代表を勤めている「医療の心を考える会」の例会で、小林茂さんがメインスピーカーを務め、映画「阿賀に生きる」のしかけ人である旗野秀人さんもシンポジストとしてこられました。この会は、いつもお寺が会場です。今回は、長岡の曹洞宗安善寺でした。いつも土曜日の午後から始めて、夕方まで続け、その後は、懇親会となるのですが、これがなかなか面白く、常連が30人以上いるのです。

 小林茂さんは、今年の春「ダブルシフト」の上映会で映写を引き受けてくださり、当日朝、新潟市から映写機を持ち込んで、いい画面を、と努力してくださった方でした。その後、アフリカのストリートチルドレンを映画にするということで、ケニヤに行っていて、かえってきたばかりです。

 小林さんは、大学の一年生で田中正造の本と出会い、一週間後には足尾銅山まで行っている。この行動力!それが、水俣、びわこ学園、ストリートチルドレン、へと繋がる。水俣つながりで新潟水俣病患者の生活をカメラマンとしてとった「阿賀に生きる」は製作が始まる前に学生運動仲間だった最首悟(不知火調査団長だった)が、監督の佐藤真、とカメラマンの小林さんを伴って我が家にカンパ要請にきた。私たち夫婦はそれ以来の付き合い。
 びわこ学園は、大学時代の友人が卒業後そこに就職した。そこで撮った写真集の縁で、「わたしの季節」というドキュメンタリーができあがる。このビデオを私の町でまわしている。いずれ上映会をしようという心積りだ。

 びわこ学園で「反応が無い人」と言ったら、職員から「反応が読み取りにくい人」といってほしいといわれた。彼らはおなかに「命」という池を抱えている。その池に釣り糸が垂れ下がっている、その糸を頼りに「命」と対話する。それはすべての人が同じなのでは?と問い掛けた。「わたしの季節」には、淡々とそこに生活する重度しょうがい者の姿が描き出されている。新聞紙を小さく切り裂いて、たくさんたくさん自分の周りに置いて、その中で満足そうに寝ている人。粘土を顔中に塗りたくり目以外はすべて粘土になってしまう人。・・・・そのビデオを見て「人間は、みんな同じなんだってよくわかった」と言った人がある。それこそが、小林さんが届けたいメッセージなのでは?「阿賀に生きる」もそうだった。拳を振り上げない。生活そのものを表現する。そこにたくさんの受賞の秘訣があるのだろう。

 旗野秀人さんという人も、凄い人だった。彼は、貧乏から抜け出したくて、家出を繰り返し、あるとき、三里塚に行こうと東京駅に降り立つと、水俣を訴えるべくチッソの本社前でハンストをしている団体に出会う。その名前を聞いて驚いた。水俣の川本輝夫と原田奈緒雄の二人だったという。そこに旗野さんも加わって、3人でハンストになった。原田奈緒雄さんは、徑書房の社長として、私の本を2冊出してくれている。現地の人一人とたった二人でハンストをする原田さんにも驚かされたが、そこにそのまま直ぐに加わったという旗野さんにも驚いた。
帰ってきて水俣病認定患者を訪ねて、聞き取りをはじめる。たった一人でとことん水俣病の方と親戚づきあいをして1993年から年に一回水俣病でなくなった方たちの追悼集会を開いて、「阿賀に生きる」の上映を続けている。新潟県にこんな人たちがいたことを知らなかった無知を恥じた。
 来年から、旗野さんの追悼集会に参加することを誓った。

 懇親会には、宇洋も来て、アフリカに行ったときの話を聞かせてくれました。エイズで夫が死ぬとその兄弟と性交するという形で鎮魂するという伝統が今でも守られていて、夫から移った妻も死に、その妻から移った兄弟も死ぬということが繰り返されているとのこと。


しょうがい者理解のための研修会、その3
             2,006,11,30   於、ケアハウス鈴懸食堂

 私たちが運営する社会福祉法人桐鈴会のヘルパーステーションを高齢者のみならず、しょうがい者対応に広げていくための研修会の第三回目が行われました。

 精神、身体が終わり、今回は知的しょうがい者についてです。これは、本人ではなく、親である井口美賀さんに話していただきました。美賀さんは、重度しょうがい児健彦君(19才)のお母さん。大和町共に育つ会の中心メンバーです。桐鈴会の会報「桐鈴凛々」の編集長でもあります。

 15年前に、浦佐保育所に入所して保母が一人介助について、保育所生活をはじめました。元気な友達が回りにいることが大好き、バギーに乗って、手足をばたばたさせて喜びを表現していました。健彦君のバギーを押すのに順番待ちの長い列ができていました。
 浦佐小学校に入学するとき、学校側と色々な交渉をして、3月31日にようやく就学通知が下りたのでした。でも、浦佐小学校の特殊学級だったので、10分の休み時間に普通学級の子どもたちがやってきてくれるのを楽しみに母子通学をつづけました。でも、お母さんが登校拒否になり、5年生のときに養護学校に転校。
 今年の春養護学校の高等部を卒業し、今は、デイサービスに通ったり、ヘルパーさんに来てもらったりしています。寝返りがうてるだけで、後は偶然移動することがある程度で、自分で意識的に移動することはありません。ヘルパーさんたちは、なんとかして本人の意志を表現してもらおうと、「どっちへいきたい?」とか聞いて、目つきや、手の動く方向などで示してもらうのだそうです。

 高齢者のケアマネのような人がしょうがい者にもいて、その人を中心に一人のしょうがい者にかかわる人たち全体で、「ケア会議」のようなものができたらうれしいとのこと。ヘルパーステーションを利用しようとすると、親が、全部説明しなくてはならない、だから、今すでに利用しているところ以外新しいところを利用するには、又あの説明をしなくてはならないかと思うと二の足を踏んでしまう。事業所間で、情報を共有することはできないのか?という問題を出されました。
 食事介助がとても大変だという話を聞いて、鈴懸ヘルパーステーションの責任者、小野寺さんが、「ボランティアで、行ってみてもいいかしら?」と終わってから語りかけていました。

 「仮死状態で生まれて、5ヶ月のときに『典型的な脳性まひ』と告げられ、その時は、体中の血が抜けた感じだった」でも、小さい頃は、かわいいかわいいで過ごしてこられたけど、大きくなって、向こうの言おうとしていることが伝わらないときに、頑として抵抗されると本当に大変だと思ってしまう。自分自身の身体が、年とともに利かなくなっているせいでもあるけど。

 これで、3回にわたり研修が終わりました。桐鈴会の職員20人もえぎ園の職員も20人、合計40人ぐらいで、真剣に聞かせていただき、当事者の話には、誰しも、圧倒されていました。3回とも、どんどん質問が出て、やり取りが活発でした。

 終わってからケアハウス鈴懸の職員がつぶやいていました。「僕は、マルマルさんへの対応を反省させられた」と、日頃の入居者の方々とのやり取りを反芻しつつ、反省できていたのはうれしかった。


日本福祉文化学会さいたま大会
       2006,11,25〜26  於、浦和大学

 11月25,26日さいたま市の浦和大学で、日本福祉文化学会が開かれ、その中の引きこもりの交流分科会の実践発表を頼まれて出かけました。ひきこもりなら、当事者に話してもらうのが一番と思い、かねてからの知り合い松井晃彦さんに頼んでおきました。
 おもちゃ美術館の館長多田千尋さんが主催していて、全体会はかなりの人数(400人ぐらい?)がいたのですが、この分科会は10人ぐらいのこじんまりした集まりでした。ここの司会者大島美智子さんが自己紹介をしたとき、「学びのひろば」と言ったので、どこかで聞いた名前だと一生懸命思い出したら、昔、自閉症のミッタンに命を丸ごと与えてしまって、42歳の若さで亡くなってしまった中川真理子さんつながりだとと思い出しました。重い自閉症のミッタンを御茶ノ水大学の言語治療室の担当である田口恒夫さんの理論に基づいて育てきり、「開かれてゆく心」と言う本にすべてを公表したのが、中川真理子さんでした。ミッタンが3歳から8歳まで家に閉じこもって、ミッタンがしたいことをすべてやれる体制を整えたのでし
た。
ウンチこねで、じゅうたんを汚しても、洗濯代は治療費のうち、との考え方でした。5年間の閉じこもりを終えて、少し親子の心が開いた段階で、真理子さんは、昔の数学の教員だった私に19年ぶりの手紙をくれ、以来、彼女は私の自閉症についての先生、になってしまったのでした。当時ミッタンが通っていたのが、国分寺にある「学びのひろば」だったので、私のところで出している「大地」を「学びのひろば」に渡し、ひろばの会報は、私のところへ送ってくれ、と間接的なつながりがあったのでした。

 更に、この話しになったら、松井君も繋がっていたのです。そもそも松井君とはどこで知り合ったのだたっけ?と聞くと、「バクの会でしょう?」と言います。山下英三郎さんと滝谷美佐保さんが所沢で開いたオープンスペースがバクの会でした。中川真理子さんにバクを紹介したのは私。松井くんは、ミッタン親子のことも知っていたのでした。繋がっていたのです。
「開かれてゆく心」は何百冊売ったことでしょう!

 26日には、日野原重明さんの記念講演がったのですが、南魚沼市の男女共同参画の集会があったので、その日のうちに戻ってきたのでした。


 

冨士山測候所を活用する国際シンポジウム
                  2006,11,23  於、東大小柴ホール

 9月に通訳の方を頼んで、ベルン大学に行き、そこの教授に来日をお願いし、それがかなって11月23日の国際シンポを迎えました。教授は、訪ねていった私に、冨士山の測候所を存続する意味がわからないと疑問を提出され、それを短期間で解いて、来日されることが決まったのでした。22日は、本郷の学士会館で、英語のシンポでした。これは私にはかなりきつかった。殆んど理解できないからです。でも、フリュッキガー教授との再会はうれしかった。彼はとってもフレンドリーで、妻からといってすっきりしたテーブルクロスをおみやげを持ってきてくださったりしました。

 東大の理学部一号館に小柴ホールというものができて、23日は、そこが国際シンポジウムの会場でした。理学部一号館というのは、私がいた頃には、数学科があり、又自治会室もそこにあったのでした。ところが、今では、すっかり取り払われて、周りの建物との調和を欠く、どでかい近代ビルになっていて、それができる途中で、小柴さんのノーベル賞受賞がきまり、そのために予算がついて、できたホールだということでした。

 ハワイ、チベット、台湾、そしてスイスから研究者が来ており、その方たちのレポートをきいての話し合いでした。スイスからのベルン大学教授はフリュッキガーさんでした。あの時は、ポロシャツを着てとってもラフな感じだったのに、今回は、さすが、ネクタイスーツ姿でした。でも、話し始めると直ぐに打ち解けられる砕けた感じの方で、「日本にあわせてスーツにしました」とのこと。ユングフラウヨッホの写真をふんだんに使ったパワーポイントでのレポートでした。測候所の中や、周りの氷河など懐かしく見ていました。

 その後、日本の研究者によるポスターセッションがあり、その中に、筑波高専の女性の宇宙線のレポートがありました。私は、昔原子物理をやりたいと思っていただけに、宇宙線には、特別な興味があります。フリュッキガーさんも、宇宙線の専門家で、行ったときに「宇宙線とは何か?」という学生向けに日本人が製作した漫画冊子(英語)をいただいてきて、興味深く読んだので、その高専の女性に色々質問していました。私の知らない名前がいくつかあり、あの頃は知られていなかった放射線が、どんどん発見されている事を知りました。その一つが、小柴さんによるMUONでした。
 そこへ、フリュッキガーさんがこられて20歳になったばかりのような女子学生に丁寧に何か教えている様子でした。とにかく英語が殆んどわからないというハンデを嫌というほど感じてしまいました。改めてキチンと英会話を身に付けようと決意しました。

 冨士山NPOは、気象庁から測候所を借り受けることができる見通しとなり、その経営ということに関心が移っていきます。そういう点で、観光とタイアップしているユングフラウヨッホが、いろいろな点で、参考になるということです。


「三池、終わらない炭鉱の物語」
        2006,11,21 於、東中野ぽれぽれ

 三池、それは、私たち夫婦にとって、正に青春なのです。
 1960年、東京での安保と平行して、九州では、三池でした。1月に羽田で知り合い、その後、東大YMCAという彼の宿舎ではじめた読書会に行き始め、そこで、三池にいって見ようという話が盛り上がりました。YMCAの新聞に記事を書くと言うことで、「視察団」という名前をいただき1万円なりをいただいて(そのころの初任給が、平均15、000円ぐらいだからかなりの額でした)男3人女2人で春休みに夜行列車で出かけました。丁度そのころ、第二組合ができて、そことの衝突で、久保山さんが亡くなり、葬儀にも出くわしました。そこで知り合った組合の書記次長蒲池清一さんとはその後もずうっと行き来があって、浦佐のうちまで訪ねてこられたりもしたのですが、数年前に亡くなってしまったのでした。

 そこで映画です。とっても懐かしい光景がたくさんありました。7年かけて作ったという女性監督熊谷博子さんによるインタビューは、色々な意識を明るみに出します。第二組合ができるところでは、生活費一万円では生活できない、やりくりできないということで音を上げた女性たちが、生活への必要から第二組合へ変わっていった。ということでした。当時きいていたのは、男性が、ふらふらして第二組合へ行く、女性は、違う。ということでしたが。

 一人の女性がこう言っていたのが焼きついています。「どうして仲間同士がこんなに反目しあって、殺し合いにまで行ってしまったのかとずうっと考えてきました。その結論は、向坂さんが、机の上で考えたことで、私たちを実験に使ったからなのでは」このことについて、私は、否定も肯定もできません。そう思う人がいたと言う現実を受け止めたいと思いました。

 向坂さんとも向坂さんのお弟子さん本吉さんの御宅でお目にかかりました。当時医学部の学生だった卓夫に向かって、向坂さんは、「医者になってくださいよ。レーニンは、ボルシェビキの医者にはかからないといった。そんな医者ではなく、ちゃんと治せる医者になるんですよ」といわれたのを聞いて、現実主義者なのだな、と思ったことを思い出します。
 そんな方でも、現場の人たちからは、「机上の空論で自分たちは利用された」と思われてしまうのだな、と。

 それから何年かたっての炭鉱爆発で、たくさんの方が亡くなりましたが、生き残った方たち何千人もが、一酸化中毒で、大変な人生を歩いておられることを知りました。妻たちが励ましあいながら、国会周辺で、ハンストをしたりしながら、保障を要求している姿、焼きついています。

 今年になってこの映画館で上映され、なんと今回が3回目とのこと。11,4から一日4回上映しています。それも11,24に終わってしまい、後は、自主上映だとのことでした。卓夫にもぜひ見せたくて、来年の上映会を考えてみたいと思っています。観客は私よりも年齢が高い方々が殆んどで、それでも30人以上はいました。


沖縄でのこと
2006,11,3〜11

 11月3日、那覇市で日弁連のしょうがい者人権ネットによる「しょうがい者自立支援法」に関する大きな集会があるので、それに参加するという海映から子守りを頼まれて、家族に呼びかけると帆姿家族、卓夫も行くということになって、3日の朝早くに私たちは羽田から、帆姿家族は関西空港から沖縄へ向かいました。
 私たちは、午前中につき、昼食後海映を見送って、孫たちと空港の子ども広場で遊んでいると小泉邦恵さん(注)がきてくれ、帆姿家族の到着を二人の孫を追いかけながら待ちました。結局、帆姿家族も空港で遊んで、夜、海映たちの集会の会場にみんなで泊まって、翌日は、富山さんが施設長を勤める平安卿に行き、そこに二泊して卓夫は職員の結婚式だといって帰ってしまったのですが、東浜さんの運転で、二日にわたって子どもたちと一緒に楽しみ、6日沖縄を後にしました。
 ちなみに、日弁連の集会は、しょうがい者の皆さんが全国から詰め掛け、250人もの集会となり、翌日の新聞に大きく取り上げられました。

 注、東京選挙以来お世話になりっぱなし。新潟では、4ヶ月泊り込んで宇洋の応援をしてくださった。去年から、膠原病の一種強皮症にかかり、かなり大変そうになっていたのですが、去年の宇洋の結婚式で出会った沖縄の富山光枝さんを頼って、今年の5月に沖縄へ移住し、病状が信じられないぐらい軽くなっている。

沖縄選挙応援

 6日の4時に海映親子を目黒に送り、夕食を作って食べてよる8時発の沖縄行きでとんぼ返りしました。殆んど真夜中にホテルに入って、翌日朝の「朝立ち」から4日間フルに活動して11日に帰りました。途中、織部さんにFAXを送り、宇洋のMLでアップしていただきました。それを紹介しますね。

沖縄の糸数選挙事務所からです。
 本土(ヤマトンチューの地域)では、まるで糸数陣営が勝っているという様な報道がなされているようですが、現地で見る限り大変厳しい情勢です。
 マサカと思われる女性活動家が全く動いていません。だから街宣車に乗る女性が少ないのです。私なんかが糸数さん本人から呼ばれるということは、こういうことだったのかと認識してます。
 何故そんなことになっているのか、ということは立候補に至る過程の人選でアレコレであったということの結果です。
 そんなわけで本土の皆さんからあらゆる手を使って沖縄の知り合いにTELをしてほしいということをお願いしいのです。「あらゆる手」の中には例えば知り合いの人で沖縄に知人がいるかを聞き、いたらTELしてもらうというようなことです。

 どうか、力を貸してください。
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以下、帰ってきてからの報告です。

 田中康夫さんが、9日に沖縄にはいりました。私も2時間一緒に街宣をしたのですが、折角の彼特有な個性を活用すると言うことができていませんでした。離島に行くということが、彼のメインだったので、沖縄本島では、たった2時間しかなかったのです。彼が、マイクを持つととたんに家の中から飛び出してくる人が何人かいるし、車を止めて降りてくる人もあるぐらいなのです。だから、私は、自分の話す時間を少なくして、(本当は、全部譲りたかったのですが)彼にその分長く話していただこうと思ってマイクを彼に渡しました。でも、3人の弁士が、7分ずつ喋るようにというのが、街宣車のやり方なのです。彼が来たから人がたくさんいるところへ行こうという配慮もなしでした。

 彼は、自分の選挙でも、うぐいすさんからマイクを取って自分でしゃべりまくっていたそうですが、今回も、彼の「うぐいす」は、凄かった。手を振ってくれる人の特徴をつかんで、その人に向かって語りかけます。「そこの日傘を差したお嬢さん、日曜日には、デイトで選挙にいけないといけないから、今日直ぐに期日前投票に行って下さい。彼にも言ってね、モトカレにもね。」「本土から産業を誘致するなんていうけど、政府からの援助は、7割、地元が3割負担、それで、本土の企業が8割持っていってしまうんですよ。結局1割損するんです」 「女性はしがらみが無いからいい、地元を豊かにする公共事業だけにしましょう」「福祉教育で、雇用の拡大です」

 社大党、民主党、社民党、共産党、自由連合、の5党が共闘で、事務所を運営しています。各政党ごとに街宣車を持っているのですが、それに弁士が乗ると政策宣伝カーや、候補者カーに乗る弁士がいなくなり、大変です。だから、糸数さんご本人が、私に応援要請をしてきたのでしょう。

 政党関係者と言うのが、政策宣伝カーを動かしており、私は毎日それに乗っていたのですが、これはどこでもありがちなように、街宣でも、融通性がありません。本土からの応援弁士は、政党関係者のみです。
 この1週間で、少しずつ支持が広がってきているように思えるのですが、それでも、4年前に負けたときと同じぐらいしか、手を振ってくれる人がいません。

 日本の情勢がおかしくなっているので、沖縄から「平和の鐘」を日本中に響かせて欲しい、ということと、堂本さんが、女性知事として、女性医療を全国に広めたこと、しょうがい者差別禁止条例を全国に先駆けて作り、それが、国の「しょうがい者差別禁止法」を作る動きに繋がっていることなどを話す中で、女性が知事になるといかに新しいことができるかと言うことを語ってきました。

 アメリカでは、イラク戦争についての「ノン」が示されたと言うのに、自衛隊のイラク派遣を70%もの人が支持しているという日本の現状を沖縄から打開したいと言う強い思いで、活動してきました。

もう一つの選挙応援
 糸数さんの秘書宮田さん(五島正規、その他いろいろの方の秘書をしてきた方で、宇洋とも、無所属の控え室でおなじみとか)がとっても気を配ってくださって、7時からの朝立ちと、午前中の街宣のほか、時々別のメニューを出して下さいます。
 その一つが、10日の沖縄大学でのきくちゆみさんのトークセッションと「9,11目撃者」の上映でした。私がまだ東京にいたときに、きくちゆみさんが9,11の謎「ボーイングを探せ」、の上映会を議員会館でしてくださいました。

 その話の中で、きくちゆみさんは「2004年8月14日にその英語版のフィルムを見てびっくりして、一番始めに見てもらいたい人は、国会議員だと思って、8月20日に議員会館での上映会をはじめて実施した」のだそうです。この早技!
 今回初めて、私が見たものは、国内初の上映会だったということを知りました。その後、浦佐に帰り、新潟県知事選、中越地震と立て込んで、このことの追及はそれきりになっていました。その議員会館での上映会に参加した国会議員は、たった一人、喜納昌吉さんでした。
 この日、どこかで確実に見たことがある人に出会いました。でも、相手は全く思い出してくれません。ところが、私が新潟から来たといったら、彼女が思い出してくれ、11年前に、私は、阪神淡路の地震被害者の孤児になっている子どもたちの支援ができないか?という課題を持って訪ねて行ったときに、あしなが育英会などに案内してくださった方がこの池辺幸恵さんだということがわかったのです。きくちゆみさんの仲間として神戸からきていたのでした。そしてその夜、金城睦(ちかし)さんのうちのフリースペース「イチャリバチョウデイ」で、池辺さんのピアノコンサートと、糸数選挙というイベントがあるというので、この場所の名前に反応してついていきました。

 そもそも、私がはじめて沖縄を訪ねたときに、那覇空港に迎えに出てくださって、初対面で「イチャリバチョウデイという言葉があって、今日から、もう私たちは、きょうだいなのよ」といわれたのが、富山光枝さんとの出会いでした。イチャリバとは、「であえば」という意味だということもそのとき知りました。富山さんを「沖縄にきてこの人に合わない手はない」といって紹介してくださったのは、当時、沖縄タイムスの論説委員由井晶子さんでした。今回電話してわかったことは、私が帰ってくる飛行機に、彼女も乗って、東京にハンセン病の集会にスピーカーとしていくということでした。11年ぶりに由井さんと出会い、富山さんを紹介して下さったお礼を言うと、なんと全然覚えていない、とのこと。彼女もすでに私の仲間になっているようでした。

 名前につられてついていった「イチャリバチョウデイ」では、みたことも聞いたこともない楽器に出会いました。札幌在住の青年が、オーストラリアの楽器イラキを演奏してくれたのです。これは、アボリジニのもので、ユーカリの木の幹をシロアリが真ん中だけ食べてしまって空洞になっているのを2,5メートルぐらいに切り取って、それを吹くのです。穴があいてないので、旋律にはなりません、ともかく不思議な音で、30分も吹き続けるのです。息の吸い方もあるのだそうですが、電気を消してその音が響くと神への祈りのようにも聞こえます。そこへ、その場の持ち主金城睦(ちかし)の連れ合いで、オペラ歌手の久美子さんがきて、いくつか歌を披露したました。すると、イラキ奏者の青年が、「合わせていただけます?」そこで二人のライブが始まりました。これこそ正に「祈り」の世界。糸数勝利をみんなで祈念しました。

 池辺さんのピアノ演奏が、かすんでしまったひとときでしたが、糸数選挙への思いを共有するには、とてもいい空間と時間でした。

・沖縄県民の選択
 こんな結果になってしまったのは、とっても残念ですが、皆さん、ご協力どうもありがとうございました。これも県民の選択ですから、受け入れるしかありません。

 政党が政策協定を結ぶという選挙は、どうしても政党が前面に出てしまいます。そのためにボラが入りにくいという状況は確かにありました。でも、ボラが入ろうとしなかったという面もあります。何しろ、電話かけ用の電話が、どこの事務所も殆んどあきっぱなしという状でしたから。

 女性リーダーたちが動かなかったということは、大きかったと思います。


岩手県での講演と見学
        2006,10,28〜30

 丁度2年前、中越地震の日に初めて岩手に行き、宮古市で講演させていたでき、去年、今年で、3回目になります。2002年の宇洋の選挙のときに、宮古養護学校に在職中の工藤茂広さんが上越教育大学に内地留学できていて知り合ったのが始まりでした。彼は、宇洋のリーフレットを見て支援したいと思って、メールをしたら、私から返事がきて驚いたのだそうです。しょうがい者のことについて彼が書いてくる内容に私はとっても共鳴し、頻繁なメールのやり取りをはじめました。そのご縁で、彼が、宮古に帰ってから私を呼んで、コーディネートして下さっています。

宮沢賢治記念館

 一昨年いくつもりだった宮沢賢治記念館、中越地震のために行かずに帰ってきてしまったといういきさつで、今年こそ、とついたその足で、いきました。彼の世界は、子育て中にかなり覗かせていただきました。雪わたり、注文の多い料理店、銀河鉄道の夜、などなど子どもたちとその世界にひたりました。記念館は他にも色々とあるようですが、その中の一つにいっただけですが、色々な発見がありました。
 男性の書いた文章には、どこかで、ちょっとクレームをつけたくなるような言葉を見つけてしまうことが多い中で、賢治には、そういう思いをしたことがないのはどうしてなのだろうと思っていたら、お母さんや、妹さんに対する尊敬の念もさることながら、隣に住んでいた方が、その頃としては、かなり先進的な女性だったということがわかりました。山室機恵子、救世軍日本初代司令官山室軍平の妻で廃娼運動や、身売り娘救済などに取り組んでいた人です。賢治が1896年から1933年に生きた人ですから、この機恵子さんは、もっと前の人。凄い人が岩手にはいたんですね。そのほか高村幸太郎、新渡戸稲造、石川啄木。そんな方々の『気』が渦巻いているのが、岩手なのでしょう。

普代村

 28日(土)に行った普代村というのは、宮古市の北に隣接するリアス式海岸の北端に位置します。以前すばらしい展望台があるということで連れて行っていただいた黒崎灯台がある村。そこの教育長に今年の4月に赴任したのが、宮古市長熊坂義裕さんの妻伸子さんです。今回は、伸子さんが教育委員会主催、「子育て講座」ということで、企画してくださいました。熊坂夫妻とは、去年お目にかかっていて、確か去年ご紹介したと思います。このご夫妻は、弘前大学の教養部のとき、理科系のクラスで同級だったというつながりで、結婚、義裕さんは、工学部を卒業した後、医学部に入りなおして開業医をしていたのですが、丁度うちの卓夫と同じ1992年に立候補、落選して96年に当選。今3期目。彼が初当選したときに、経営学を勉強してきてくれと言われて、伸子さんは、東北大学の大学院に入学。5年間経営学を勉強して、3期目の立候補のときには、伸子さんがマニフェストを作ったそうです。先日、サンデープロジェクトで行政改革で名をあげたと言う紹介を受けた滝沢村の助役として、助役というポストを無くす作業に協力したのが、彼女でした。

 その夜人口3500人の村で、30人ぐらいの方が集まって話を聞いて下さったのですが、質疑が活発で、次々に手が上がって発言してくださいました。夫がどうかかわったのか、とか、教えないで育てる実験結果は?など、私が話したりなかったことを質問してくれるので、とってもありがたく、話させていただきました。終わってから帰っていく青年が語りかけてくれました。「今の話を聞いて胸がちくちくするお母さんたちがたくさんいたと思う。僕は、とってもすっきりした!」聞いてみたら、彼は、役場職員として、保育所に勤めていたことがあるけど今は、税務課で、30歳、とのこと。彼は、手をあげて質問してくれた人の一人でした。こんな感性と意欲をもった青年を熊坂伸子教育長はきっと伸ばしていくのでしょうね。と工藤さんと話し合いました。

 終わってから数人で、二次会。このときに聞いた話はこうでした。「村に、中学と保育所は一つずつなのに、小学校は4つあり、そのうち一つは来年4月から3人しかいなくなる。それでいいのかな?ときいてみると誰も何にもいわないから・・・という感じ。そこで、村民のアンケートをとった。結果は、8割以上が『小学校は一つでいい』という回答で、みんなが驚いた」村の議員さんはすべて男。アンケートを書くのは、多分ほとんど女性。初めて実際に子どもにかかわっている女性たちの声がわかった、というのです。

 伸子さんは、ずうっと専業主婦だったのに、どこで男女共同参画という意識をもつようになったのか、と聞いたら、夫の町長選挙のときに、一生懸命選挙活動をしていたら、息子さんにいわれたそうです。「お母さんは、そういう活動をするということで納得しているのか。自分の考えというものはないのか」といわれて考え込んでしまったというのでした。

 その夜は、黒崎国民宿舎に伸子さんも一緒に泊まって、朝風呂ですばらしい海の景色を見ながら背中を流し合いました。

盛岡手をつなぐ育成会

 29日(日)は、盛岡手をつなぐ育成会主催の「共に育つ」という講演会でした。新しくできた県民ホールの500席の大ホールが会場。500円のチケットを売って、育成会(知的しょうがいを持つ子どもの親の組織)の皆さんの2ヶ月間の活躍で、その日150人から200人ぐらいの方が集まっていました。いつものように、私は、これまでたどってきた体験談を話しただけなのですが、この町の「共に育つ会」の成り立ちに皆さん興味をもたれたようでした。終わってから、出口の所に立っているとたくさんの方が話し掛けてこられます。一番驚いたのは、まるで中学生のような目をくりくりとさせている女性。「盛岡大学の一年生なのですが、共に育つという言葉だけに引かれて今日はきました。児童教育を専攻しているのですが、そこで、きょういくとは、教育ではなく共育だと言われたのできてみたのです。障害児者のことは全然知らなかった」といって、その後の懇親会に参加したのです。懇親会は、育成会の会長や副会長事務局という方ばかりだったのに、そこに一緒にいて、目をくりくりさせながら大人たちの話を聞き、皆さんからのたくさんの質問に答えていました。18歳だというこんな人が、この仲間になってくれたこと、何よりも育成会幹部の皆さんを喜ばせました。その日帰るなり、この少女は私宛のメールを書いてくれていました。

 幹部の方は、殆んどが、しょうがい児を持つお母さんとお父さん。会長のコダシマ(小田島)さんは初めて宮古にきた2年前に盛岡から、2時間ぐらいかかる宮古まで話を聞きにきてくださって、その後直ぐに手紙を下さり、以来やり取りが続いてきた方です。去年は、夫も子どもさんたち(双子で、一人が発達しょうがい、もう一人は健常)も一緒に懇親会にこられ、夫さんは、高校の数学の教員だということがわかりました。この日、夫さんもずうっと一緒で、子どもさんは、デイサービスや、ヘルパーさんに預けて、おしどり夫婦を皆さんにさらしていました。副会長の米内さんは、「手をつなぐ」という全国育成会の月刊誌に海映が書いた記事を見て、会長のコダシマさんに語りかけたら、これが、黒岩秩子さんの娘さんといわれ、私のHPや本などを見ていたので、コダシマさんから、声がかかったときには、即座に「やりましょう」といって、2ヶ月間、「黒岩」に明け暮れしたので、初対面という感じがしないとのことでした。
 親ではない方が一人おられました。副会長の木村泰雄さん。

木村泰雄さん

 30日(月)に、盛岡の松園養護学校にいってきました。工藤さん、小田島さん、米内さんと4人でいきました。ここは、病弱児の養護学校ですが、人工呼吸器をつけた文字通りの病気の子どもたちもいるのですが、多くは、行き場所がなくてここにたどり着いてようやく息を吹き返したと言うような「難しい子どもたち」でした。校長の木村泰雄さん(盛岡育成会の副会長)は、もと宮古養護学校でで、工藤茂広さんの上司。とっても素敵な、教育現場にはなかなかいないような人でした。学生結婚で、はじめは妻(セツルメントで一緒だった)に養われていて、その妻が、結婚直後に言った言葉は「お茶碗には足がついてないわよ」だったそうです。
 
 両親が、精神病院に行ってしまって、小さいときから養護施設で生活してきた女子中学生が、校長室にいて、その子とのやり取りを感動を持って聞きました。その子の夢は「両親を殺す」だそうです。その後自分も死ぬということから、校長とのやり取りが始まったということで、その少女は、木村さんのことを「親」と認定したらしく、校長室を足場に、授業を受けに行くようになっていました。初めて出た数学の授業で、先生からかけられた言葉は「何だ、お前、授業受けるのか?」だったそうで、木村校長は、「もっとちがう対応はなかったものか」と言っていましたが、物を教えることが仕事だと思い込んでいる先生たちへの「教育」には手を焼いている様子でした。私がやっていた大地塾と同じことを県立養護学校でもやれているということが驚きでした。おなじというのは、「来るものを拒まず」ということで、正に私が理想とするアメーバ―のようなやわらかい学校で、入ってきた子どもを受け入れて、その子に必要な環境を整えるということだと思います。「転入生室」というのがありました。そこで1週間ぐらい過ごして、受け入れ態勢を作るのだそうです。
一人だけの教室がいくつもありました。二人の教室でも、机を並べたくないもの同志、両側にはなれて、机が置いてある教室もありました。大地塾でも、「あの子とはいや」という要求を満たすのに、いくつもの集団を作っていました。一人だけ、という日を作ることもありました。
 
 木村校長は、来年が定年。それから色々やっていきたいと夢をもっているようでした。彼の妻は、「来年の4月からは、『ハイじゅんこさんお弁当』とでて来るようになるのかしら?」と期待されているそうです。私の夫が10年間朝食と弁当つくりをしていたということに思いを寄せているようでした。
 セツルメントというのは、若い方はご存じないかもしれません。昔、大学生が地域に出て行って、色々な活動をしていました。子ども会(保母学園)や、料理教室(栄養短大)、法律相談、医療相談など、自分の専門を地域の方に活用していただくサークルでした。私は、黒姫山の麓にいっていましたが、彼は、東京の八千代セツルだったそうです。

 工藤茂広さん、そして、岩手の皆さん、とても有意義に時間を、どうもありがとうございました。


東京国際女性映画祭
2006,10,24   於、東京ウィメンズプラザ

 10月24日は、東京国際女性映画祭を見に東京に行ってきました。ダブルシフトの上映会を主催したので、そのフィルムを所有している渡辺芳子さんから招待状をいただいたので、いってみたのです。
12時から、2本映画を見て、夕方から記念パーティーでした。この映画祭は、今回が19回目。22日から26日まで、ウィメンズプラザを会場にして、上映されています。世界各国の女性監督の映画、14本が、上映されます。ダブルシフトも、23日上映されたのでした。

 今日は、「ショッキング・ファミリー」と言う韓国映画と「漁師と妻」というドイツ映画。
 韓国映画は、ドキュメンタリーで、監督自身が被写体になっています。かなりの迫力の作品で、その監督も来ていたのですが、とっても普通の感じで、監督と言うイメージが全然見られない人でした。と言っても、若い男性に見えて、なおかつシングルマザーで子どもを育てている人でした。その人が最後にバンジージャンプにはじめて挑戦するシーンで終わりました。丁度、ウィメンズプラザの入り口のところで、ニュージーランドに行ってバンジージャンプをした若い女性(以前紹介したバンジー松田こと松田典子さん)と一緒になったので、これはどうやら、私にバンジーをさせようと言う松田さんからの誘いに乗りなさい、という神のお告げかと思い、その方向で考えてみようと思い始めています。松田さんが言うには「あんなふうにばったり出会ってしまうなんて、これが異性だったら決定的だった」お互いに何の連絡もなく出会ってしまったのですから。

 韓国では、この映画でも取り上げられていたのですが、戸主制度が廃止されたと言うことを知ったとき、あの儒教思想が強い国で何故そんなことが可能になったのか、不思議に思い、終わってからの監督とのやり取りの中で質問してみました。すると驚くべきことが返ってきました。韓国では、戦後たくさん生まれて困るということで、一軒に子どもは2人と言う時代があり、その後一人にせよと言う時代になり、そのころに、戸主が生まれるようにということで、妊娠中に性別を知って、男だけを産むということがはやり、それが問題となって、戸主制度の廃止につながったと言うのです。

  ドイツ映画は、舞台が、新潟県の山古志村なので、これには驚いてしまいました。中越地震で壊滅状態になったのは、このロケが終わった直後だったそうです。錦鯉が恋とかけ言葉になっていて、これは、劇映画でした。舞台になっていたので、すでにこの映画は小千谷で上映されたのだそうです。

 どちらも、家族と言うのがテーマになっていて、たくさんの問題が提起されていました。


松本、諏訪、での3日間
2006,10,20〜22

 20日から22日まで、長野県内で過ごしました。
 21日(土)が、卓夫の母校松本深志で、一年生に10人の卒業生(毎年卒業後50年と言う人たちが選ばれる)が10クラスに分かれて話をするという行事があり、私も、それを聞きがてら、補助をするということで、前日から、松本入りしました。46年前に私たちが、事実婚をして6畳一間のアパートで、各界(小中高大)代表の皆さん8人に集まっていただいて、お互いにパートナーを紹介しあいました。その中の一人、卓夫の同級生、竹内崇さんの家に泊めていただいて、当日を迎えました。
 誰の話を聞くのか生徒たちは選択して聞きに来たので、医療福祉ということでは、殆んどが女子生徒でした。卓夫は、自分のしてきたことをなんとかして高校生に伝えようと、パワーポイントで説明していましたが、通じたのかどうか、聞いている同期生の大人が反応してくれるだけで、高校生の反応は、読み取れませんでした。

 翌22日諏訪で私が講演する事になっていたので、21日夜は、下諏訪のホテルで、近くの女性議員二人と、元下諏訪町議樽川通子さんと4人で懇親会。この樽川さんという方は、女性議員を増やすネットワークしなの、の会長をつとめ、今年の春、10年と言う期限がきたために組織を解散したばかりです。

 「女性会議」下諏訪、もやはり期限を限ったと言うところが見事ですね。10年やればなんとかめどがたつ、もしそれでなんともならなければ、それ以上やっても無駄。樽川さんの考えは実にすっきりしています。田中康夫知事に任命されて、県の監査委員を今も続けています。78歳とは思えない元気さで、ぽんぽんと歯切れがいい言葉が飛び出します。12月10日(日)夢草堂(浦佐)で、この樽川節を聞くことになっていて、その打ち合わせも兼ねての懇親会でした。

 22日午前中は、在宅医療ネットワークの会員で、諏訪に診療所を持っている宮坂圭一さんに関係する施設を案内していただきました。彼は、医療法人の理事長であると同時に社会福祉法人の理事長でもあって、その社会福祉法人はかなり色々な事業を行っています。その中の一つ「この街学園」という知的しょうがい者の授産施設を二つ見せていただきました。初めて作った学園は、高速を使って隣町まで行き、富士見町の高台にある、広い敷地にきれいな建物が建っていました。その周りの敷地はこの施設が借りたものだそうで、ハーブや、野菜が作られていました。その日は日曜日だったので、利用者さんがいないことが残念でした。二つめに作ったのは、下諏訪町の市街地にありました。
 これらの施設は、実質的には、しょうがい者の親御さんたちが運営されているそうですが、この4月から始まった「自立支援法」によって食費などを取られるようになったために、利用回数を減らす人たちが続出、そのために、倒産の危機に瀕しているとのこと。自立支援法は、実際は自立阻害法だといわれる所以です。
 ココで取れた野菜などを使って富士見町の市街地にあるジャスコのエリアのレストランを運営しています。富士見町と言えば昔懐かしい名前です。「エメラルド色のそよ風族」と言うヒッピーのグループが70年代に住み着いていたところなのでは?そして又、その筋では有名な大熊一夫さん(「ルポ・精神病棟」の作者)も住んでいるはず。諏訪市に戻って、街中にあるグループホーム「この街ホーム」「第2この街学園」などを見せていただいてから、宮坂医院に、樽川さんと一緒にいきました。まず、患者さん用のエレベーターがついていることに驚き、玄関に上っていく階段についている手すりが、片方は、まっすぐな普通のもの。もう片方は、波型の金物製の手すりでした。これは、水平な部分があるために、下りるときに水平部分に体重をかけることができるという利点があるものでした。

 患者さんが借りられる血圧計があったり、本や、ビデオも貸し出しコーナーがあって、必要とされるものをどんどん作り出していく柔軟さを持ち合わせておられることに感心して、別れました。

 22日(日)の午後は諏訪市男女共同参画推進課と長野日報社の共催で開かれた黒岩秩子の「文化講演会」でした。「パワフルおばさんが語る共育ち」というタイトルが付けられているとはいえ、魚沼あたりでは、「男女共同参画」というだけで、人が引いてしまうと言う状況なのに、当日は250人もの男女が集まったと言うのは、大変な驚きでした。男性の割合も3割近かったことに驚きました。いつものように、自分の紹介からはじめ、最後まで自分が体験してきたことだけを話すのですが、はじめから皆さんが笑っていると言う体制だったので、とっても話しやすく、眠そうにしていた方もパッチリと目をあけてしっかりいいてくれ、話を早くに切り上げて、質問を出してもらうことにしたら、出ること出ること、それも、私がいい足りなかったことを質問してくれるので、キチンをそこを補足することができ、とてもありがたい講演会となりました。
 10何年か前に近くの保育園で講演をしたときに、そこに通っている子どもが自閉症の疑い、といわれたと言うことで、それからずうっと手紙のやり取りをしていたお母さんが、すっかり大きくなったその子を連れて聞きに来てくれたり、私の著書を読んだといって電話をかけてきた方があり、3人子どもはいるけどどのこもかわいいと思えない。虐待してしまう。それに耐えられなくて、自殺未遂もした。と言うそんな深刻な方も聞きに来て、終わってから色々やり取りをしました。さらに驚いたのは、新潟に引越してくる前に、山岸会の実顕地を府中で作っていた堀田さんが今は諏訪市に住んでいるということで、話しているうちに、自分の4人目の子と故今井澄の3番目の子が結婚しているというではありませんか。終わってからお茶のみをしてからかえってきました。

 この日の講演のことが長野日報に写真入りで紹介され、終わってからたくさん送られてきました。もし、もらっていただける方があったら、お知らせください。お送りします。


精神しょうがい者、曽根晴雄さんの話(その1)
                2006,10,19    於、ケアハウス鈴懸食堂

 私たちが運営している社会福祉法人桐鈴会のヘルパーステーションを高齢者のみでなく、しょうがい者にも対応できるようにするということが、この10月から始まりました。それに先立って、ヘルパーさんたちへのしょうがい者理解を深めるための研修会をしようということで、19日、その第1回を行いました。「女が語る戦争体験」は2時から、この研修会は夜7時半からです。

 この日は、精神しょうがい者の曽根晴雄さんが講師です。彼は、1990年、私が保育士をやめて大地塾を始めた直後に我が家に現れ、以来、毎月1回、一時間ずつ二人でおしゃべりを楽しんできました。私にとっては、精神しょうがい者についての一番の先生です。この日も、私が彼の紹介をしました。
 彼から教わったことはたくさんありますが、まず「僕が今あるのは、はじめて訪ねた病院の医者が、入院させなかったからです」入院するしかない人たちもあるのでしょうが、彼は、かなり重い統合失調症で、何回か自殺未遂もしたと言うことですが、それでも入院させなかった。それだけ、病院と言う環境が患者によくないということを知っている医者だったそうです。

 それから、環境の変化が精神しょうがい者にはことのほか負荷が大きい。婚約が整った直後に自殺してしまった人、曽根さんの場合には、彼の強い要望で、近くにできた労働大学校に通いはじめたのですが、10日間で、退学を命じられ、その結果ものすごく悪化して、薬が、注射にまでなってしまった。大学への要望が強い彼に進学を勧めたのは私なのですが、その結果、家族が心配されたとおり、病気の悪化を招いてしまった。私の大きな反省点です。

 この日彼は、風呂に入らない、散歩しない、朝おきられない、などの症状が、病気の悪化を告げる、と話はじめ、精神しょうがい者というものを理解する手がかりになることを1時間半話しました。、その日、桐鈴会の職員は、ヘルパーさんのみならず、ケアハウス鈴懸、グループホーム桐の花などの職員ほぼ全員のほか、医療法人萌気会の職員も20人近く来て、40人ぐらいで聞きました。彼はかつて、精神しょうがい者の文集を出していたので、そして又、ある年遺跡発掘の仕事をして、年間100万ぐらいの収入を得たので、世界精神保健国際シンポジウムで、発表したことがあり(1993年)、スウェーデンの新聞に写真入りで掲載されたこともありました。でもその頃はまだ、税金を納めるところまではいっていなかったのですが、このところ、税金を納めるようになっているのです。その収入源は?ときいてもそれはだめといって答えず、そのほかたくさんの質問が出て、一つ一つ答えていっているうちに、とうとう、最後に収入源を明かしました。それは、「株式」です、と。

 自分が話すことを書きとめたたくさんのメモを持ち込んで、一枚終わるごとに、次はどれにしようかと考えて、その間、聞く人をまたせてしまうというところも、一つの症状だと納得したのでは?と思いますが、本人からの話など聞いたことがなかった人たちは、とっても興味をそそられる話だったようでした。

 彼は、7年前ケアハウス鈴懸ができるときに、資金提供をしてくれた70人の中の一人です。


身体しょうがい者の話
(その2)
          2006,10,26  於、鈴懸食堂

 26日は、夜7時半から、山内俊博さんの身体しょうがい者についての話を又ケアハウス鈴懸の食堂で聞きました。彼は、隣町小出の在住で、去年「メタセコイアの木の下で」というありのまま舎の劇映画を上映したときに実行委員長をつとめ、その後、ご両親とありのまま舎を仙台に訪ね、人とは殆んど合わない生活をしている山田富也さん(筋ジスで寝たきり、動くところは口だけの生活が4年にわたっている)と対面し語り合ってきたそうです。

 中学の教員になろうと思って新潟大学に在学中、友達が運転する車で自損事故。友人一人が死亡。彼は、頚椎損傷で、重度しょうがい者に。頚椎4番と5番の間だったので、首から上が動き、肩の上げ下ろし、右手が少し意志で動かせる。後は、皮膚感覚もないし、痙性といって意志に無関係に足などが動いてしまう、などの症状がある。又、肺活量が少ない(1200ぐらい)、体温調節、血圧調節などができない。

 しょうがい者の自立とは?と彼が問い掛けます。自分で判断し、自分で決める、ということだと思う。経済的自立とか、身辺自立だけをその定義としたら、しょうがい者は誰も自立できないことになる。介助者は、しょうがい者の自立を支援するのが仕事なのだから、自己決定を妨げないように介助して欲しい。でも、もし自己決定によって「自分を殺してくれ」とか、「万引きしてくれ」などといわれたら、それはしないだろう。難しいのは、腐りかけたものを調理してくれ、自分は何を食べても大丈夫だから、といわれたときどうするか、これについては、みんなで色々話し合いました。山内さんは言います。「健常者だったら、下痢をしても、寝込んでも自分で始末するのだからそれでいいけど、しょうがい者の場合にはその結果人に後始末をしてもらうので、それでも、自己決定といいきれるのかどうか?」難しい!「僕が頼んだ以外のことはしなくていい」といっているのに、どんどん聞かずにやってしまう人がいる、という話しになって、これは、高齢者介護でも、保育所の保育でも実は同じことが言えると思いました。子どもより前に出て、子どもの意志と無関係に押し付ける保育をしている人が多い。

 彼の生活状態をパソコンの画面で見せてくれました。家の中での異動は、天井走行式リフターで行い、入浴場面まで見られました。それはいくらなのか?という質問が出て、まず、いろいろな機能つきの車椅子は、230万とのこと。彼は、息を吸ったり吐いたりすることで、自分で動かします。この車椅子は、その必要性を納得してもらえたら全額とまでは行かなくてもかなりの額が補助されるそうです。また手動式リフターには補助が出るのですが、天井走行式リフターは補助が出ないとのこと。ただ、レールやリフトの値段だけでなく、天井補強工事費も必要になってきます。だいぶ前のことなので、値段は忘れたそうです。車椅子の補助も、今度全額払っておいて後で返すというシステムにするといわれていて、そうなると資金を持っている人しか手に入らなくなる、それは困る、とのこと。

 彼の話はとっても上手で、考えさせたり、笑わせたり、こういう人が教員になったらすばらしかったのに、と皆さんが後でいっていました。この日も、40人ぐらいのみなさんが聞きほれて帰りました。

 彼は、今よりも、もっとヘルパーさんにたくさんの時間きてもらいたい、というので、早速桐鈴会のヘルパーステーションを使ってください、ということで、第一号の「お客」が見つかったという感じでした。


女が語る戦争体験
2006,10,19  於、ケアハウス鈴懸5階ホール

 10月19日(木)、東京から「愛別離苦」(径書房1995年刊)の著者、小栗竹子さんをお招きして鈴懸のお茶会をしているホールでお話を聞きました。小栗さんは、私の母と女学校の同級生。結婚して妊娠しているときに夫を戦争にとられ、戦病死。結果として、おなかの子どもは生まれたときから母子家庭で育ちます。そのときの子どもさん、つまり竹子さんの息子さんが付き添って、二人できてくださいました。私は、母の所にあったこの著書「愛別離苦」を読んで手紙を出し、それ以来交流が続いてきました。今回が初対面です。去年、小栗さんが、残っている本を読んでくださる方があったら送りたいということで、20冊(「愛別離苦」の続き「戦後の政を紡ぐ」一葉社刊を含めて)ほど送ってくださり、私はそれを心ある方たちに配りました。

 その中の一人が、夢草堂の運営委員で、小栗さんのお話を聞きたいといったので、今回実現することになったのでした。小栗さんは、87才と言う年齢で、この夏の暑さで随分参っておられ、いかれるかどうかと不安と抱えておられました。それで、夢草堂を会場にせず、鈴懸のお茶会にあわせて企画したのでした。それでも、新潟日報が予告記事を出してくれ、それを見たからという男性が、話したい原稿を持って時間よりかなり前から玄関で待っていてくださいました。

 さて、小栗さんも、ワープロで原稿を書いてそれを読み上げました。本を出して以来、講演依頼ははじめてのことだということです。

 「私は、主人が戦地にいっていた頃は勿論、亡くなった後も主人宛の手紙を日記代わりに書き続けました。そして残された子どもが成人するまでの25年間のこの手紙をもとにして『愛別離苦』を書きました。私はこれを書きながら、あまりにも国家を信じ、かの戦争に対して何の疑いも抱かなかった自分が情けなく思われて、そうした自分を書き残すことに強い抵抗さえ覚えました。」と語り、学校での「修身」の授業などにより滅私奉公が強要された事実を話されました。この日、丁度大和中学の2年生3人が職場体験と言うことで、グループホーム「桐の花」にきていたので、その子たちにも聞いてもらいました。彼らには、修身、滅私奉公、など耳新しい言葉と言うことなので、その解説を入れながら話をつづけました。

 「靖国の妻」という呪縛から解放されるのに戦後20年もかかってしまったと言うことも話されました。このあと、原稿を持ってきてくださった地元の佐藤清一郎さん(天王町在住)が原稿を見ながら話してくださいました。まだ、年齢が達していないときに志願して戦地に行き、シベリアに捕虜として抑留され、死体を埋める穴を掘る仕事などを3年間させられたのだそうです。極寒の地なので、火を焚いて凍土を溶かしながら穴を一つ掘るのに二人で2日間かかったと言います。戦争になっては困る、あんな体験は自分のときで終わりにしたい、という意志が、お二人に共通でした。

 最後に小栗さんの息子さんにも話していただきました。三菱化学を定年退職されていますが、「丁度9,1のとき、(2001年)アメリカにすんでいた。アメリカは、民主主義の国ではないということを体験的に知った。なぜなら、日本の特攻隊みたいなテロリストに対して、ブッシュが言った言葉は殆んどそのテロリストと同次元だったから」。お父さんがいないままに育ったことはどうでした?という質問に対しては、「自分が父親になったとき何をすればいいのか、モデルが無いのが大変だった」というのが答えでした。

 聞きに来てくれた人たちは、中学生を除くと、殆んどがお年より。皆さん、バケツリレーや竹やり訓練などの体験を語ってくださいました。

 小栗さんはこの日も著書を何冊か持ってきてくださり、8月に「90歳、今言っておきたいこと」を語っていただいた柳利貞さんなど数人の方がいただいて帰られました。


三木睦子さんのトーク
2006,10,14   於、有機の食卓、花のえん(東京都渋谷区道玄坂)

 「女政のえん」も3回目となると人集めの苦労はなくなりました。丁度よい人数が集まって、丁度よい人数の人たちが二次会に残って、話はいろいろと深まったように思っています。
3時半から6時までの一次会には、34人が、三木さんの話しにうなずいたり驚いたり、それをめぐって話し合ったり、・・・・・三木さんはそこで帰られて、6時から9時までの二次会は、20人でコンパクトな話し合い。一次会には、20歳台の方が3人も参加していたというのは、とってもうれしかった。そのうちの一人はまだ被選挙権のない方でした。

 三木さんの話でインパクトがあったのは、「安倍晋三はどうして岸信介のことばかり言うのかしら?もう一人のおじいさん、つまり安倍晋太郎の父安倍寛は、平和主義者だったのよ」
 三木武夫さんもそうだったように、戦争がはじまる前から「開戦はいけない」といって大政翼賛会に推薦されないまま代議士になった数少ない人の一人だと言うことでした。

 アメリカからの留学生や、徳島から上京してきている大学生などが三木家に住み込んでいて、睦子さんと殆んど年が同じぐらいの人たちとわいわいがやがやしていたので、子どもができてから大学にいきたいといったら、夫が二人も子どもがいて大学生か?と言うのでやめた、といっておられ、そんな程度で自分の意志を曲げることもあったのかとそこは驚きました。年相応の時代には、まだ帝大といわれた大学が、女性に門を開いていなかった、それを睦子さんは、2,26事件があったからだと言っておられ、そのことははじめて聞いたことですが、戦後やっと女性に門が開かれたので、行って見たいと言ったのだそうです。女学校(今の白鴎高校)で同級生だった藤田晴子さん(ベアテの映画に登場する)が確かその第一回生として入学していたのですから彼女も行きたかったのだと思います。でも、藤田晴子さんのことを「レオシロタ(ベアテさんのお父さん)なんかにピアノを習っていたから、彼女は芸大に行かないで、東大なんかに行っちゃったのよ」なんてかつておっしゃってたことがあります。だから今回彼女もいきたいと思っていたということは、初めて知りました。

 女性新党を作るという話も、かなり進んで、鶴見和子さん、加藤シズエさんたちと記者会見をすることが決まっていたのに、その前日、政治家の男性たちが「元首相の夫人がそういうことをするものではないというので、諦めた」と本に書いてあったのですが、「もう忘れたけどそんなことじゃなかったと思うわ」とのことでした。

 9条の会については、社民党系の会と、自分たち9人ではじめた会と別になっているけど私だけが両方に入っているのじゃないかしら?みんなが、党派を意識しないでもっとまとまれるといいのにね。とおっしゃっていました。

 二次会では、「もっと9条の話がたくさん聞けるかと思ったのに、残念でした。私も聞かなかったのがいけないのですが」といっておられた方がありました。一次会では、30分ぐらい話された後は、参加者の質問に答えるという形だったので、質問という形で、そのことを話題にしていただけたらよかったのにとも思いましたが、司会をしていた私が、反省すべきですね。一番力を入れておられることなのだから、そちらに向けていくべきでした。

 中学生を持つ男性は、子どもたちに「誇りを持てといわれたけど、どうすればいいのか?」という質問が出たり、高良トミさんの娘高良留美子さんが来ていて「旅券もなくソビエトにいったリ、突拍子もないことをしてきた母ですが、」というと「わたしもそうなのよ。だから似たもの同士で友達になったのよね」と返されていました。

 アジア女性基金の代表をやめたいきさつを質問された方もあり、慰安婦だった方々をまるで見世物のようにマスコミにさらすやり方がいやでやめたとのことでした。

 ここからは、三木さんが帰られた後の二次会でのことです。

 新潟から高速バスで参加した上中幸子さんが自己紹介で「政治のことがわからない」といったのを聞いて、かつて埼玉で議員をしていた岩井さんから、「議会傍聴」をすすめられました。松戸の市議だった中田京さんも、何年も議会傍聴をして市議になり、先日市長選に出て、今回は、この11月の市議選に出ることになっていますが、落戦中もずうっと傍聴を続けて、それをお便りに書いて報告しています。
 みんなが、そうだ傍聴に行こうって思ったようでした。上中さんと一緒にこられた渋谷区にお住まいのお友達は、政治のブログを出していて、これを見て上中さんは知り合ったそうです。このブログの方は、テレビ放映されていない委員会などをインターネット中継で見てそれを報告しているのだそうです。テレビに出ないとなるといかにだらけているのかとっても興味深いとのことでした。宇洋については、「わかりやすい話しかたで、突っ込みもいい」との評価でした。

 高齢者が「少子化対策」の陰に隠れて手薄になっていると批判する方がありました。介護保険の改正で、今まで程サービスが受けられなくなった高齢者があることは確かです。でも、しょうがい者自立支援法はもっとひどい、「しょうがい者自立阻止法」という人がありました。作業所に行っている人たちが、たくさん取られるようになって作業所にいかれなくなってしまい、家に閉じこもっているケースがいかに増えたか、10月7日の毎日新聞夕刊で、詳しい数字が発表されました。とにかく小泉改革がいかに弱いものいじめになっているのか、皆さんがそれぞれ語られました。

 「経産省の山田課長補佐、ただいま育休中」の著者のパートナー西垣さんは、確かに高齢者もしめられているけど、まだまだ子育て中の両親の支援が少ないこと、非正規雇用の労働者の声を届けるシステムが必要なのでは?その他、経産省以外の事についても問題点を出して話しました。

 二大政党がどちらも改憲派なので、誰に入れたらいいのか困っているという人、やっぱり二大政党なんだから民主党に入れるという人、色々議論になりました。
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友人たちの感想を紹介しますね。まず、保健所勤務の歯医者さんで、「歯のね草のね」という市民運動を主宰している岡田弥生さんから。

 三木睦子さんのお話しは大変素晴らしいものでした。
 私が特に印象に残ったのが安倍寛氏のこと。安倍総理のもう一人の祖父が平和主義の代議士だったと初めて知ったこともありますが、官憲に追われお腹を空かせて三木家を訪れ、睦子さんのおにぎりをほおばる様子が目に浮かぶようでした。「家庭的に恵まれなくて、家に帰っても食べるものは無かったのでウチにいらっしゃって」というお話しに、どういう理由で離婚なさったのか、「お子さん(晋太郎氏)は実家に預けられて」とおっしゃっていましたが、安倍総理のジェンダー・バッシングはこの辺に根っこがあるのかと思いました。

 もう一つは、ご結婚された1940年は「戦争が始まってなかった」とおっしゃったこと。
戦争といえば日米戦?日中戦争は始まっていても国内にいる人には戦争中という実感がなかったんでしょうね、と妙に感心しました。
 満州国の経営を良いことと感じていたのは岸一派だけではなかった、多くの政治家、国民が中国侵略を悪いことと思ってなかった、感じてなかったのではないかと思いました。
 孫文やボースのことを最近読んで、三木氏も日米開戦には反対しても、中国やアジアの独立には他の政治家と同様、限界があったのではないかと感じました。「日中戦争を当時は戦争と認識していなかったとすれば、慰安婦問題など侵略戦争だと認識したのはいつ頃ですか?」と訊きたかったけど、それは失礼な気がして訊けませんでした。

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次は、新潟から高速バスで乗りつけたしょうがい児を持つお母さん上中幸子さんです。

 三木さんのお話を聴きに行きたいと思ったわけを書きます。
 三木さんが首相だったのは、私が小学生の低学年の頃だと思います。映像だけは憶えています。政治家=悪い人(悪代官のような)という見識で最近まで政治家をみていた私。で思い込み通り、三木さんも悪い政治家だと思っていた私。その三木さんが、「悪い(思想)の人ではないらしい」と知ったのはここ一年。びっくりしました。(テレビからの影響による私の思い込みは、数知れず。)それで、三木さんと同じ部屋で話を聞くことで、リアルな歴史を感じることができるんじゃないか?と思って行ったのです。

 でも、どうしても行く!というのではなく、行けた(高速バスのチケットが取れたから)から行ったという状況でもありました。障害が何もなくなり、「これは、行け!ということね。」と納得して行きました。

 三木さんのお話の内容も興味深いものでしたが、私は三木さんの発する言葉に感激して聴いていました。一言で言えば「かっこいい」です。周りからの質問には、長くない言葉でコメントされるのですが短いのに威力がある、という感じがしました。参加者の誰かが、政治家や政治のことに関して「どう思われますか?」と質問されました。三木さんは「私は政治家じゃないからわかりません。ただ〜・・・」と続けられました。その反応に、ぐっときました。生き様というか、品格というか、人格というか神性というか、(知ってる言葉を並べているけれど)そういうものがモノを言うのね、と思いました。
 
 一番印象に残った言葉は、「安倍さんは、この国を美しい国にしたいようだけど美しい国になるよりも、幸せになりたいと私は思うのです。どうでしょうか?」の言葉でした。私もそうおもう〜!

 三木さんは、「90歳のおばあさんの願いとして、みなさんには“日本人としての誇りを持って”生きていっていただきたい。」と仰ってましたが、でも、その「誇り」さえも、歪曲して解釈してしまう日本人がいっぱいいるから怖いなーと思いました。



フランスの自閉症対策、そしてアメリカのしょうがい者対策

 パリで色々伺うことができたフランスのしょうがい者対策、その後パリ在住の竹下さんにうかがっていたら、こんな返事がきました。
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 自閉症のことですが、2003年に障害者担当大臣の要請によって議員が書いたレポートを読みますと、予算は障害保険、地方自治体、国の三つ構えで、特に地方自治体には自閉症の特別枠が義務付けられていて、それをしない罰金はすべて、障害者連帯基金にまわされます。
 職業訓練は、ジョブ・コーチといわれるチューターが介助して行われます。 
 そのほかにメセナの力が大きく、フランス財団、企業ではフランス・テレコムとその財団、大手保険会社アクサAXAが、特に自閉症対策に力を入れています。自閉症一人にかかる年間費用は、家庭なら15000E(220万円)、施設で55000E(800万円)、医療施設で10万E(1500万円)が基準だそうです。
 国も、2年ほど前から国民の年間休日を一日減らし、その分の利益が障害者連帯基金にいくようにしています。75ページにもわたるレポートなのでいろいろありますが、ともかく自閉症が特に注目を集めている障害であることは確かなようです。 
 障害の支援のためのカテゴリーは要介護度別に6段階に分かれていて、その内容は身体障害でも知覚障害でも、精神障害でも、すべて含まれていて、要するに、普通の生活上にどの程度の支援実費を必要とするかという予算上のカテゴリーです。
 で、自閉症は、言語障害を伴うもの、知的障害を伴うもの、社会障害を伴うもの、などいろいろあるので、特に、各ケースごとに固有の支援が必要とされているそうです。
 でもフランスでも、ちゃんとそれぞれにふさわしい居場所を与えられている自閉症患者は10パーセントくらいしかない、というのが実体なようです。でも少なくとも定義漏れのために支援が行き届かないというのよりは現実的な危機感があるようです。
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 国民の年間休日を一日減らし、その分の利益が障害者連帯基金にいくって凄いですよね。すべての国民が、休みを返上して、一日だけしょうがい者のために働くというシステムなんですね。日本でも考えられないかしら?
 日本は自閉症の定義をめぐって大変な議論があり、そのために支援が遅れてしまってきました。一番手を必要とするのが、自閉症だと思うのですが。それだけ手厚く支援を受けているフランスでさえ、10%しかカバーできていないというのが、その現われだと思います。

 アメリカも驚いたんですよ。25年アメリカに住んでいた日本人が、精神障害で働けなくなって日本に帰ってきたのですが、月々のしょうがい者年金が11万ぐらいずつ送られてきているというのです。アメリカ国籍をとっているからなのでしょうが、そういうことはアメリカは冷淡だと思っていたのですが、日本より進んでいるんですね。



スイス・フランスの旅
       2006,9,22〜10,3

 皆さんが期待していてくださる旅のトラブルは、財布を無くして、カードもなくなったという一点だけで、後は、大変密度の濃いいつまでたっても報告がおわらないであろうような旅でした。

 今回は、24日にバーゼル、1日にチューリッヒで、日瑞協会主催の「ベアテの贈りもの」上映会のために出かけたのですが、この二回の間の一週間を前半が、パリ、後半がユングフラウヨッホ測候所と一人で旅をする。という計画でした。一人でと言っても、パリも友人二人が出迎えてくれるし、ユングフラウは、観光業者がガイドについてくれるので、本当に一人ではありません。

二つの上映会の報告
 日瑞協会は、毎年バーゼルと、チューリッヒで、上映会をしているのだそうですが、今回初めてドキュメンタリーを試みたのだそうです。いつも、30人ぐらいで見ていたと言うのに、今回は、ジュネーブで見た人たちの大活躍で、バーゼルが70人、チューリッヒが100人とそれも随分遠くからも来ていました。一番遠いいのは、ブルギナファソに住んでいる日本人女性。たまたまチューリッヒにきていたのです。「涙が出てきちゃった。ブルギナファソでも上映したい」と熱く語っていました。5人の子持ちで、末っ子は1歳だというので、子守りは?と聴くと、二人の住み込みのお手伝いさんがいるとのこと。この女性も、その夫も殆んど定職が無い状態なのに、何故お手伝いさんか?と疑問を出したら、若い女性が、殆んど収入は要らないという形で住み込んでいるというのが生き抜くための知恵らしいです。
 この夫婦は、貧乏なブルギナファソでどうしたらみんなが暮らしていけるのかということに取り組み、チューリッヒのボランティアグループからの支援を受けにきているとのことでした。

 殆んどの観客は日本人で、日本から、こんなにたくさんの活力ある皆さんが、外国へ行ってしまわれているということに、まずは、もったいない、と思ったり、いえいえ、こんなにたくさんの活力あるかたが、外国で民間の外交官として活躍してくださっているのだとも思え、日本に対する世界の目が変わっていくのだろうと思えたりしました。

 バーゼルも、チューリッヒも、たくさんの質問や意見が相次いで、うれしい悲鳴でした。チューリッヒで、男性を巻き込むべきでは?女性だけで作ったということを強調しない方がいいのでは?という意見を男性からいただきました。このことについて、帰りの飛行機が一緒だった朝日新聞の記者竹信三恵子さんがこういっていました。「これまで、男性と一緒にやっていやな思いばかりしてきた女性たちの知恵よ。男性がはいってくると、私たちから見たらトンチンカンなことをかなり強力に主張して、それに時間を掛けなくてはならないから、大変だったのよ」でも、これからは、確かにそういう男性を巻き込んでいかなくてはいけないのですよね。女性だけで、この映画を作れた、ということは、それだけ女性たちが力をつけてきたということで、そこを強調したかったのですが、会場にいらした男性たちには、耳障りだったようです。

 その後、7日にミュンヘンで上映会を主催した植澤さんのような男性もいらっしゃるのですものね。日本よりは、どちらの会場も男性の割合が高かったように思いました。ミュンヘンでは、17時と20時の二回とも130席が満席となり、大成功に終わったということです。

 DVDの注文や、自分のところでも上映会をしたいという声や、あの映画に出てくる藤田晴子さんの文章の注文や、色々な要請を受けて帰ってきました。

 おりしも、安倍政権の誕生で、外地の皆さんもとっても関心を持っていました。夫に電話で聞いていたので、情勢を報告しました。安倍というのはとんでもないナショナリストだということは、皆さんご存知でしたが、とくに、男女共同参画社会基本法を撤廃する会の存在には、皆さん信じられないようでした。
 一方では、少子化対策が急務で、それには、男女平等が一番必要だということはよく知られていることなのに、山谷、高市、などの女性たちが、何故反対の方向に向かって活動を続けているのか、追及したいですね。

中国、韓国、日本
 今回の旅には、飛行機だけ、人のツアーに乗せていただき、朝日新聞記者の竹信三恵子さん(知る人ぞ知る、かの松井やよりさんの直系と言われる)と一緒にいきました。その関係で、1日早くジュネーブに着き、翌日ジュネーブの友人栗崎由子、PITIE亮さんと4人で、国連本部の見学をしました。日本人の若い女性が、アルバイトで案内をしてくれました。色々な史実がわかりそれ自体有意義なものでしたが、一番インパクトがある情報は、国連への拠出金は、各国のGDPで決まるのですが、2005年に前年比一番高かったのが、中国で、マイナスが一番多かったのが日本だということでした。こんなことはもしかしたら、ジュネーブまで行かなくてもわかっていることなのでしょう。

 ところが、ユングフラウヨッホにいって又わかったことがあります。ココは、1893年に3500メートルのところまで電車を走らせる計画ができ、1912年に完成した世界一高いところを走る電車(ユングフラウ鉄道)なのですが、この鉄道の表示が、今までは、ヨーロッパ諸国につづいて、日本語表示だったのが、最近は、中国、韓国、日本の順になったのだそうです。実際、観光客を見ていると人数がこの順になっていました。

 とはいえ、日本人に対する信頼度が高いということは、これも実感しました。ジュネーブからパリへの電車に乗るとき、出国手続きをするのですが、そのとき、日本人だとわかるとパスポートを見ないでどうぞ、というカンジでした。中国人や、韓国人に対してはどうなのか、その観察ができていないので、この話は、前のことには繋がりませんが、日本人としては、その信頼感がなぜかうれしかったのです。先のお財布の件でも、実は、日本では、すでに何回もなくなったと思ったらでてきたという「実績」があるのです。それが日本なのかも。今回は、ほんの3分ぐらいの間になくなっていました。勿論置き忘れた私にすべての責任があるのですが。スイスの方々からの様々なご親切に対してお返しができればそれもよかったのか、と考えたりして、心を落ち着けました。

パリで知ったしょうがい者雇用
 「アメリカにNOといえる国」の著者で、「聖凱布の子」というクローン人間の小説の訳者である竹下節子さんとは、お目にかかったことが無いのに、お互いにメールのやり取りをして、パリのリヨン駅に迎えに来てくださって初対面を果たしました。数学科の先輩として私の卒業証書に貢献してくれた松本英也さんもそのとき迎えにきてくれて一緒になりました。私は、パリの国会を見学したいといったら、毎日は可能ではなく、週に何回と限られていて、しかも、上院と下院は、かなり離れていて、結局私の行程とはあわず、「その代わりに財務省を案内します。お昼はそこで食べましょう」といわれて、出かけていったら、そこに現れたのは、彼女の夫君で、なんとその方は、財務省の高官でした。ジャン=ルイ・ブスマールさんは主任監察官兼情報アナリスト。 各省庁の土地建物監査みたいなところのプログラムつくりのため出向しているそうです。 財務省は、経済産業省と合併していて、巨大な省庁になっていました。ところが話してみたら、もう一つこんなことをしていたのです。

 それは、障害者を雇用した後、そのしょうがい者の教育、特に視覚しょうがい者にパソコンなどを教えているというのです。省内の情報工学の研修センター(特に視聴覚障害者)の非常勤講師を兼任でしているとのこと。そこで、立て続けにしょうがい者雇用について質問し、こんなことがわかりました。日本は、法定雇用率1,8%(民間)、官庁は2,1%となっていますが、フランスは、なんとどちらも6%だというのです。それは、全人口に対するしょうがい者の割合だからだとのこと。それで、財務省では、各税務署の電話相談の係りは、視覚しょうがい者にしているというのです。
 自閉症など、日本では、「発達障害」といわれる人たちがどうなっているのかとか、しょうがい者という時、どこまでが入るのかなど、何しろ昼休み、フルコースを食べながらの取材だったので、これから、メールで、彼女を介して聞いていくつもりでいます。

 ジャン=ルイ・ブスマールさんは、「強いものは、弱いものをサポートすべし」という唯一の基準を持っているそうで、家事育児などすべてをこなしているということでした。彼の生家に行って見ると彼のきょうだいたちみんな男性が働きまわっていて、女性たちは落ち着いて話し込んでいるというのです。彼は年をとって「強いもの」でなくなったときにはどうなるのか、そこが問題だと節子さん。
 これからずうっとやり取りしていろいろな問題を吸収させていただけそうで、胸が躍りました。

女性が戦争を止める絵
 ルーブル美術館で一番感動したのは、女性が戦争を止める絵にであったことです。その道が詳しい方々には耳慣れているらしいDabidという画家のものです。私は、画家のことも、わからないし、西洋史一般が殆んどわからないので、数学科の先輩松本さんの解説でやっと見て来たという感じです。何しろ、ナポレオンも、ルイ16世も、その違いもわからないぐらいの人ですから。
 男たちが争っている中間に立って、両手を広げて制止しているのです。若い女性が堂々と両手を広げて制止する姿は、見るものを圧倒します。この絵の絵葉書を買ってきました。

 「ベアテの贈りもの」の映画の中でベアテさんがいっています。「これまで男たちが戦争をしてきた。それをとめられるのは、女性です」こういういい方は、男性たちには耳障りがよくないと思いますし、女性たちの中にもライスのような人もいるので、言い切ることは難しいですが、それでも、男性に比べて、子どもを産めるという特権をもっている女性たちこそ戦争を止める力が大きいと思います。

 モナリザも見てきましたよ。さんざん探したのですが、たいした人だかりもないので、見落としそうでした。広田セツ子さんは、昔東京にモナリザがきたとき、長い列になっていて、ようやく見る番がきたと思ったら、「たちどまらないでください」のアナウンスで、結局よく見られなかったのだそうです。
 現地に行くと心ゆくまで見られました。70センチ50センチぐらいの大きさです。確かに不思議な微笑ですね。どうやら、以前は、夫が亡くなった後、喪に服しているとき、といわれていたのが、最近、出産直後、だということがわかったというニュースが、私が日本にいない間に流れたのだそうですね。そのほうが納得が行きます。

ユングフラウヨッホ
 そもそも、ヨッホという意味がわかっていなかったために、ユングフラウとユングフラウヨッホの区別がわからないまま現地に行った私でした。
 まず、ベルン大学の教授の所に行って、そのレクチャーを聞きました。ヨッホというのは、つなぐというような意味で、馬の鞍などを指すのだそうです。ユングフラウは、4107メートルで、ユングフラウヨッホは3571メートル、ヨッホの方に測候所があります。これができたのは、1931年で、75周年記念行事が終わったばかりでした。その記念誌ができたばかりで、まだ校正していないけどといってできたての英語版をいただいてきました。同時に50周年のときの記念誌をいただいたのですが、両方の写真を比べて見ると構造が違います。昔の方はスフィンクスといわれる頂上が半円形のドームになっている建物のみです。このドームは、元は星を見るために使っていて、今は、レーダーになっているとのこと。

 この測候所は、国際財団が運営しています。ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア、ベルギー、フィンランドの国々のほか、スイス国内ではスイスアカデミー、ユングフラウ鉄道コーナグラード鉄道(チェルマットからマッターホルンへ行く)、チェルマット村が出資してこれを建てたのですが、毎年は、スイス国(これが一番大きい)各国のアカデミア、研究者たちの使用料、によって運営している。測候所を立てるときには、財団が7分の3、ユングフラウ鉄道が、7分の4出資したのだそうです。

 研究者たちはココでしたい研究のプログラムを申請し、財団本部がおかれているベルン大学の教授(その一人と登る前日あって、レクチャーを聞いた)たちが審査する。2005年は41団体がココで研究をした。その団体は、機材を持ち込むのみで、研究者は、下にいたまま送られてきたデータ―を使うというグループと、自らココに来て研究をするグループがある。2005年には、1432延べ日数が宿泊施設を使った。一日平均4人が泊まっていることになる。宿泊施設は個室9を含めて12人分がある。その世話をしているのが、管理人夫妻の妻のほう。ものすごく背が高いので驚いていると「私、オランダ人」と教えてくれる。(オランダ人は世界一高い)180センチ以上ある。その夫は、雪を掻いたり、機材のメンテナンス、のほか、1日3時間おきに5回の観測を行い、それをチューリッヒにある気象庁に送る。温度、湿度、風力、風向、雲の具合、日射の状況など、目で見た結果を伝える。この管理人夫婦は、3週間働いて、11日間休み、その間は、もう一組の夫婦が代わりをする。気象衛星は、ヨーロッパに一つあるが、スイスでは、72箇所で観測して、予報を出している。

 1996年に測候所が増築され、小型のドームができていた。これは、太陽が見えると自動的に蓋を開いて、太陽を追っていき、自動観察をする装置。そのときには故障中で動いていなかった。放射能測定器もあり、宇宙線の専門家であるフリュックガー教授(私に講義してくれたベルン大学の方)は、ココで測定しているようだった。

 グリンデンワルドにある日本語観光案内所を経営している安東夫妻は、23年ココに住んでガイドをしているというのに、ここの測候所の中に入るのは初めてとのことで、ガイドをつとめてくれた康代さんに夫君は写真をとってきてと頼んでいました。観光客の入れるところは広いエリアがあって、そこには、レストランや、お店、展望台のほかに「氷の宮殿」という氷河をくりぬいたすべすべのトンネル、ひろば、などがあり、観光客は測候所には入れなくても充分に楽しめます。この観光部門を司っているのは、ユングフラウ鉄道で、全くの別会計なのですが、財団と鉄道はお互いに持ちつ持たれつ協力し合って、成り立っています。3545メートルまで鉄道がいき、そこに氷河をくりぬいた観光名所があリ、そこから120メートル、エレベーターで登ったところに展望台と測候所があるのでした。このエレベーターは、観光客と一緒に使います。

 「Between heaven and earth」というタイトルの観光案内がたくさんの言葉でだされていますが、丁度日本語が切れていて、今年中に増刷すると言っていました。その日本語訳をしたのが、富士山測候所のメンバーなのでした。

 私は、富士山にかかわり始めたら、このユングフラウヨッホという名前がよく出てくるので、単純にそこに登ってみたいと思い、その計画をはじめたら、NPO富士山測候所を活用する会から、お使いを頼れることになったのです。というのは、11月22,23日に富士山測候所のNPO主催国際シンポジウムを開くので、そのシンポジストとして、どなたか来て欲しいということを申し入れ、いくつかの質問書を持っていって、回答をもらってくるように、というお使いなのでした。事前に、質問書とそれに答えられる人を派遣して欲しいという要望書をメールで送っておき、私が、回答をいただいてくるという役目になりました。私が出発する2日前に、ベルン大学から、測候所に行っていられないので、(行ってみてわかったのですが、75周年記念行事で忙しかったから)回答を大学でしたい、というメールが来て大慌て。予定を変更して、ベルンのホテルを取る、ベルンのドイツ語通訳をお願いする。それをてきぱきとこなしてくれたのが、ジュネーブ在住の友人ピチエ亮さんでした。しかし、ここ二日で、ばたばたとしたのが、実は、財布を無くす遠因となったのでした。フリュックガー教授と約束した時間の1時間前にベルン駅に着き、駅前のホテルでチェックインをしてから行く、という予定を立てたのですが、ホテルが駅近くでとれず、トラムで5つ目というところしか取れなかったので、通訳さんと1時間をお茶のみして過ごすことになりました。駅の二階がベルン大学(大学のほうが先にできていて、その一階部分を駅に改装したのだそうです)なので、研究室に荷物を置いて、お財布だけもってお茶のみにキャンパスの中の屋外レストランにいきました。そこで、若い日本人女性の通訳さんにベアテの贈りものから、ジェンダーにいたる話を熱っぽく語って、時間だからと立ち上がって、まだ続きの話しに夢中になっていました。何も持っていないと気づいて走って戻ってみたら、すでになくなっていた。当たり前ですよね。日本では、そのまま置いてあることもあるから凄いんですよね。財布の中に入っていたカードを止めるのが、通訳さんの初仕事となりました。

 ユングフラウヨッホのHPにある写真を見ていったので、教授がとっても親しみやすい人だとは思っていたものの、本当にあけすけの方で、今年4ヶ月を名古屋で過ごしたそうで、日本の習慣とかをそれなりに知っていて、受け取ったお土産を直ぐに開けてはいけないとか思っていたのを、私が「あけて」と言ったので、驚いていました。お互いに自己紹介をし合ってから、シビアな話しになりました。彼は、11月22日には、来ようと思えばこられるのだけど、まず、乗鞍に測候所があるのに何故富士山も必要なのか、国際シンポの目的は?など、疑問を解く必要があったのです。彼は、10月5日から、長い休暇に入ってしまうというので、私が帰ってきてからでは遅いと思い、国際電話で、土器屋由紀子さん(冨士山NPOの中心)に報告して直ぐメールを出すようにと伝え、3日には、成田からの帰りに東京で、詳しく報告し、とうとう、教授が納得して11月22日には、東京でのシンポに来てくださることになりました。又会えることに!

 土器屋さんまで、ユングフラウとヨッホとの違いを知らなかったというし、国際財団が、測候所も観光もやっていると思い込んでいたので、私からの新しい情報がかなり役に立ったことになり、二人で、乾杯をして喜び合いました。

 帰ってきてから、この地の私の第一の友人、大久保勝彦さんの所にいって旅の報告をしたら、彼は、すでにユングフラウヨッホのみならず、マッターホルン、モンブランすべて登っていました。彼は、毎日3食作って、両親の介護をしています。妻のマサイさんは、植物だけで作ったサンダース化粧品の販売をしているので、毎日主夫をしている夫に休暇を与えました。そこで、スイスにいって来たのでした。
 そして、勝彦さんと話して、20世紀の始めにトンネルを掘り続けて山の上まで電車を走らせてしまったスイスの技術に改めて感心してきました。何しろ、その電車は、アイガーとメンヒという二つの4000メートル級の山ノ中をトンネルで抜けて3つ目の山にたどり着くのです。途中、二つの駅があって、そこで下りると山の肌に窓があって、下の氷河が見えるという構造になっているのです。急な坂道は、小学校の頃に習ったアブト式という歯車が活躍しているのでした。

地方分権のスイス
 スイスの直接民主制は有名ですが、地方分権もかなりのものです。観光立国というのはこのようにして成り立つ、という見本のようなものですね。ユングフラウ鉄道の始点であるグリンデルワルトという村のことです。案内をしてくれたガイドさん安東康代さんの話では、4000人ぐらいの村ですが、随分昔から、家は、三角屋根で、壁の色は、白、茶色などと決まっていて、更に家の向きもすべて南向きと決まっているのだそうです。それによって実に「絵に書いたような」風景が演出されているのです。村民の8〜9割が観光業で、残りはすべて酪農農家、牛が、牧草を食べてくれることによって緑の景観が保たれている、夏は3000メートル近くの上のほう、寒くなるにしたがって、下に下りてくる、そのようにして、どこも牛に食べてもらう。実に見ごとな景観です。

 更に驚いたのは、スイスでは1975年にやっと女性参政権が獲得できたのですが、ある一つの村では、女性たちが参政権は要らないといい、今でも、男性だけが広場に集まって、挙手をして、物事を決めているんだそうです。ところがなんと、それを観光の売り物にしていて、飛行機が一緒だった竹信さんは、その村の直接民主制を見て来たというのでした。もしかしたら、女性たちは、充分に男性を操ることができていて、だから、それを観光資源に利用しようとまで考え付いたのでは?と想像してしまいました。夫にいわせると「現状に満足しているのだよ」、それもそうなのでしょうね。

・マロニエ
 チューリッヒでのこと。街のど真ん中に大きな湖があります。朝散歩をしていたら見覚えのある実がたくさん落ちていて、思わず拾い上げました。うちのほうでは、「栃のみ」というのですが、こっちではなんていうのかしら?と思い、やはり散歩している同年輩らしい方に英語で語り掛けました。すると名前は「マロニエ」というのです。驚きました。思いがけなかったのです。今年の5月にジュネーブで丁度マロニエの真っ盛り。友人たちの話では、日本の桜前線と同じようにマロニエ前線というのが報道されるというのです。ちょっと黄味がかった白い花ですが、どう見ても「きれい」とは程遠い。数は少ないけどピンクのものがあって、これはきれいでした。あの花の実がこれ?と不思議がっていると、その女性が手振り身振りでこう言いました。「これを手の中にもっていると体が温まって、肘や膝が痛いときによくなるの」私は、薬なのね。というと「そう、昔の薬」と応えてくれました。

 それだからなのか、レストランなどのテーブルにこの実がしゃれたざるに入れて置かれているのを何回も見ました。その身を包んでいる皮ごとおみやげに持ち帰って、近くの人に見せました。するとこういうことがわかりました。マロニエのことは「西洋栃の実」といい、温まる効果があるので、その実から薬用入浴剤が作られているとのこと。ドイツとスイスに工場があって、友人の大久保マサイさんは、化粧品と一緒にその入浴剤を販売しているのでした。こちらでは、栃のみは見たことがあるけど、その花は見たことがない。本当にマロニエとおなじ

・金融王国スイス
 ジュネーブの町は[BUNK」の看板がいたるところ。中でもプライベイトバンク、というのが数多くあって、私は、初めて行ったときに聞いてみました。すると、個人の資産を管理する銀行なのだそうです。なるほど!ホリエモンもこういうところに預けているのか!

 そうしたら、もっと凄いことを今回聞きました。イケヤ、っていうスウェーデンの家具製造業の社長は、なんと住民票をジュネーブに移してあって、そうすると税金はジュネーブ、そしてスイス国にはいるのだそうです。スウェーデンが税金が高いことは誰でも知っています。そして彼がジュネーブ一の納税者とのこと。イケヤは、これから日本にも支店を作るって最近のニュースで聞きました。大量生産で安いのがとりえとのことでした。

 ジュネーブの中心にある大きな湖レマン湖(大きいので、確かジュネーブ以外の市町村も湖岸にはあると思います)の湖岸は、誰でもが遊べる所は少なくて、個人の持ち物(資産)になっているところが多いのだそうです。確かにレマン湖畔を鉄道で通るといかにも金持ちと言う家がたくさん建っています。世界中の金持ちがココに集まり、銀行を発展させ、怪しげなお金もみんな集めてしまうシステムを作ったのでしょうね。

 友人の栗崎由子さんは、よくいっています。「永世中立国なんて、嘘っパッチ。大国に囲まれて生き延びていくための方便なのよ」
 それでも、永世中立国だということで、平和憲法を持つ日本となぜか並び称されたりして、スイスに近親感を持つ日本人はたくさんあるのではないかしら?


終わりに
 イラク戦争の反対する意見広告のご縁で、ジュネーブの栗崎由子さんと親しくなり、そのお友達のピチィエ亮さんとも繋がり、ジュネーブ上映会、そして今回のバーゼル、チューリッヒ、へと繋がってきました。人と人ののつながり、そのおかげで、こんなコンパクトなそしてスリリングな旅が実現できました。関係してくださったすべての皆さんへの感謝をこめて。


三木睦子さん訪問記
             2,006,9,9

 9日は、女政のえんの会場である「花の宴」のオーナー土井和代さん(筆名漆田)さんと二人で、10月14日(土)に行われる三木睦子さんトーク(お知らせコーナー参照)の打ち合わせに渋谷南平台の三木亭にいきました。睦子さんが待っていてくださって、歓迎してくださった上、娘さんである高橋紀世子さんもいらして、何年ぶりかで、お目にかかることができました。

 睦子さんは、89歳の怪物と言う感じでした。打ち合わせをするつもりだったのですが、「打ち合わせをしてもみんな忘れてしまうから、好きに話させて」と言われてしまいました。勿論、何を話しても、桁外れのかたですから、打ち合わせは止めて、色々な話しにうち興じました。井出さんの世紀子さんとこちらの紀世子さん、どちらも、「世紀の子」ということでこうなったのだそうです。井出家と三木家は本当に親しかったようで、臼田町の井出家にも何回もお邪魔したとのこと。
 
 井出一太郎さんは三木内閣の官房長官で、読まれた歌に、どんなに大変なことがあっても二人で首をかけてやっていく、というのがありますから、お二人は、まるで夫婦のようだったのでしょう。戦争中に、三木武夫さんは、「日米開戦ならず」という演説をしていたので、よく殺されなかったですね。というと、それはそれは、官憲はいつもついていたんですよ。でも、三木の話を聞いて、説得されてしまうらしいの。とのこと。確か、三木武夫さんは、地盤看板などないまま演説だけで、25歳にして初当選。S12年と言う時代ですから、大政翼賛会の推薦がなくては当選できないといわれていた時代。反戦演説をしていては、推薦などもらうわけはなく、非推薦で、当選しているのです。
 その説得力がある演説と言うものを聞いてみたかったと思いました。
 
 女性新党を作る話(「三木と歩いた半世紀」東京新聞出版局参照)を聞きたかったのだけど、忘れちゃった、のだそうです。確か、1989年に鶴見和子さん、奥ムメオさんたちと試みたらしいのです。忘れたい事件だったのでしょう。
 10月14日、もうすでに10人の申し込みが来ていますが、益々楽しみになりました。(9,14記)


カカトット(その2)
        2,006,8末
 今年の4月から、友人の鈴木智子さんがはじめたカカトットと言う子育て支援は、当事者の皆さんからの必要性に支えられて5ヶ月が終わろうとしています。子ども同士の交わりもさることながら、大人同士の交わりも大きなことで、悩みを抱えて相談にくる人、二人目の子どもが生まれて、上の子と遊んであげられないで困っている人、上の子が、その不満を色々な方法で表現し始めている、その解決方法を求めている人、などが、集まってきて、それはそれはにぎやかです。

 子どもがもう手がかからなくなっている私たちのような人をスタッフといっていますが、ときには、スタッフがただ一人、二人しかおらず、親同士自分の子が寝てしまったら、人の子を抱いて、上の子とその親が1対1でかかわれるように気配りする人もあって、参加者同士がどんどん仲良くなってきています。
 
 私も、ゆるす限りは火曜と金曜の午前中、ほんの1時間ぐらい参加させていただいています。しょうがい児を抱えて困っているお母さんの話を聞いたり、登校拒否児の悩みを聞いたり、ここらでは「おとみっこ」と言っていますが、おなかに赤ちゃんができたことを察する子どもの退行現象などの相談に乗ったりしています。先日は驚きました。東京都の東村山に住んでいると言う乙水と同級だったと言う人が、こちらに住んでいる妹さんと二人で初めてきました。東村山といえば、私がはじめて出産したところです。つまり宇洋と萌実が生まれたところ。その病院の名前を言ったら、その人の3人の子どもの一人はそこで生まれたと言うのです。先日、丁度宇洋が来て、同じ病院で生まれた同士が対面したのでした。

 新潟日報の六日町支局長山田孝夫さんが中越版に写真入の記事を書いてくれました。その記事を見て初めてきたという人は、3月に生まれた赤ちゃんが、その日初めて集団と接するとのこと、これまで5ヶ月間ずうっと家の中で、二人っきりですごしてきたというのです。結婚してこの地に来て、すぐ出産したと言う人たちにとって、この交流の場は、なかったらどうしていたのだろうと思えるほど必要としている人がたくさんです。

 引っ込み思案で、人と交わることは不得意だったのにココに来て子どもたちと遊べるようになリ、帰ろうと言っても帰りたくないと言う2歳の娘さんのお母さんは、育休がもうすぐ開けるので、それまでは、毎回来たいと言っています。

 3人目をおなかに抱えていた人が、出産でこなくなったと思ったら、すぐに退院して、まだ「赤ちゃん」そのままの状態(顔が赤い)でやってきました。核家族だと、上の子の面倒が見られないと言う切実な思いを抱えているようでした。みんなに大歓迎されて、上の子が、少し満足できて帰っていったようでした。ココにいる限りは、少子化ってどこの現象?といいたくなるほど、次々に生んでいます。


さきがけ塾同窓会ーー井出山荘にて
                    2006,9,2〜3

 長野県八ヶ岳の麓にある井出山荘(井出正一さんの別荘)でさきがけ塾同窓会があり、行ってきました。

 今年の5月にもえぎ園に視察にきた長野県信濃町の町議塚越恵美子さんが、もとさきがけ塾だった人で、同窓会の存在を教えてくれたのでした。1998年に井出さんを比例区の候補者として参院選を戦ったときに、さきがけ塾学生キャラバン隊というのができ、大きな街宣車で日本中を回っていて、最後に井出山荘で合宿をしたのが始まりで、それ以来毎年ココを会場に行われて来たというのです。

 今年はいつになく人数が少なく、外来者が、私を含めて8人、井出さんの秘書をしていて、今は、長野議とか、佐久市議とか井出正一さんを含めて現地の方が4人。塚越さんは直前になってこられなくなったので、女性は私一人。みんなが、年齢が若い順に、この1年の活動報告をしあい、鹿児島から毎年参加している県議落選中の寺田さんは、新党さきがけの九州支部長だったという。さきがけ本部の職員だった深沢さんは、今武蔵野市議で、副議長。幹事をしてくれているのは、もと本部職員だった田中秀和さんで、不動産鑑定士をしながら、政治への関心は一向に衰えず、いつか、市議選にという思いを持っているように思えました。

 私は、初めての参加なので、長々と、堂本さんと知り合ったきっかけから、立候補にいたる経過、そして今の活動などを話しましたが、「ベアテの贈りもの」のことについて知っている人が殆んどいなかったことには驚きました。これだけ政治のことに詳しい人たちでも、女性に関することはこんなにも、ニュースが届かないのだなと思い、堂本さんが、女性たった一人で、議員団の中でいやな思いをたくさんしていたことが、手にとるようにわかりました。

 井出正一さんは、三木武夫さんの本に井出一太郎さんのことが何回もでてきていましたが、井出家と三木家はとっても親しくて、同じ頃に生まれた女の赤ちゃんに、井出世紀子、三木紀世子と似通った名前を付けたと言うのも偶然ではないようです。世紀子さんとは、60年の安保にかかわり、その後彼女は幼稚園、私は保育園で言うなら同業者だったことで、彼女とは、長い付き合いになっていましたし、紀世子さんとは、参議院で出会い、会館の部屋がすぐ近くだったこともあって、又、息子が秘書、夫が医者という共通点もあって、よく語り合っていました。井出家、三木家が、自民党の中のリベラルの勢力で、石橋湛山が、1945年の10月に靖国神社をなくそうと提案しているのが先見の明だと正一さんが話していました。石橋さんの「小日本主義」の系譜が自民党の中の「野党勢力」として続いてきているのが、正一さんの日中友好協会の長野県の代表に繋がるのがよくわかりました。正一さんの人柄の魅力で、毎年この会が続けてこられたと言うこともわかりました。

 井出山荘というのは、僻地の小学校が閉校になるのを建物だけ買い取ってくれないかと行政に頼まれて、標高1200メートルの避暑地に移築してきたものだということで、2階には、講堂兼体育館、下は、きっと改築して小さな部屋を沢山にしたもので、布団は何十組もある大きな山荘でした。野外でバーベキューをして、私は、早くに寝ましたが、井出さんも含めて3時半まで寒い中で議論が続いていたのだそうです。

 在りし日の「さきがけ」を偲び、政治談義をする、そんな会が、参加者を勇気付けていることがわかりました。


第二回目の富士登山
        2006,8,12,13

 8月12日、卓夫、萌実、小学生の孫二人と5人で、朝早くに目黒の海映のうちを出発。三島からバスで、富士宮口(2400メートルという一番高い上り口)に予定通りつき、昼食をしたりして1時間過ごし、(高山病対策)登り始めました。小学1年生の瑞(みずき)のペースなので、しばしば休みながら、それでも無事6合目には、30分でつきました。そのころの天候は、快晴とはいえないけど、晴れていたので、日焼け止めを塗ったのです。道もそんなに急ではなく、植物を観察しながら歩いていると、雲が広がってきて、「雨だ」の声を聞くとすぐに大粒の雨が降り出し、その直後「ヒョウだ!」大粒のヒョウが大きな音と共にたたいてきます。

 雨とわかって、雨具を取り出して身につけるのですが、それまでに全身がずぶぬれです。雨が振り出す前に、瑞が寒いと言いだしたので、彼女にだけは、雨具を防寒具として、着けさせていたので、私たちは、自分のことだけすればよかったのです。それでも、あまりの急な出来事で、対応は遅れます。6合目の小屋と、次の新7合目の小屋は、ガイドブックでは、1時間というコースで、雨に遭ったのは、すでに3分の2ぐらい来たところでした。だから引き返すという選択は考えられず、ひたすら、上に見えた小屋までと瑞を励ましながら雷雨とヒョウの中を登ります。

 やっと小屋に着くと外に雨具を着けたたくさんの人が立っています。混み合って、入れないのかと、中を覗くと、閑散としています。小屋の人らしき人が、「注文はありますか?」「宿泊です」というや、態度ががらりと変わって、どうぞどうぞ、の体制になりました。外に立っていた人たちは、注文をしないで休もうとしていたということが判明。人命救助という役割もあるはずの山小屋が、こんな対応でいいのか?などと思いはじめたのは、すべてが完了してからのこと。ずぶぬれの衣類を着替えている間も、屋根をヒョウがたたいていました。その後の新聞記事によると2時半から3時まで30分間降り続いたとのこと。7合目から上には、ヒョウが積もっていたとのこと。

 この日は全国的にあれたそうですね。翌日新聞を買ってわかりました。去年は何のトラブルもなく、頂上まで簡単にいかれたので、こんな悪天候は実は想像していませんでした。翌日は、ご来光を見に行かれたのは、私と萌実だけ。瑞、卓夫は、高山病の感じで、とてもその日頂上まで行くのは無理。晴れ上がった空の元、6合目まで下り、そのすぐそばにある宝永山の火口まで歩いて下山。ふもとの温泉で、ゆっくりしてかえってきたのでした。

 その後、聞くところによれば、富士山の登頂率(登るつもりで登れた人の割合)は58%とのこと。そのぐらい登頂は難しいということなのですね。去年があまり簡単だったので、軽く考えていました。6年生の孫(魁)は又いきたいと言っているし、萌実は来年行くと言っているのですが、小1の瑞は今度いつ行く?ときかれて、考えた末、「17歳になったら」と答えていました。かなりしんどかったようでした。私も、膝に自信がもてなかったので、雷雨様様かもしれません。

 12日、富士山測候所を活用する会というNPOでは、山頂で、高山病講座を開き、13日の静岡新聞には、その記事と、悪天候だった記事が出ていました。

 9月末、スイスのユングフラウヨッホの測候所を見学してくるつもりなのに、今回いかれなかったのはとても残念でした。


フラードーム見学
2006,8,6   長野県東御市

 7月8日に講演に行った長野県北御牧中学のPTA役員藻谷ゆかりさんが、始まる前に彼女の建てたうちを見せてくださり、「バックミンスター・フラーの考えに基づいて建てた」といったことに大変な驚きを感じました。
 「フラーが僕たちに話したこと」という本を友人が紹介してくれて、とっても興味深く読んだのは、確か去年だったと思います。フラーは、数学、物理学、哲学、などから、世界観を説き起こし、とっても興味深い説を小学生3人に説き起こしているのです。まず、すべての地球上のものは、三角形なら安定するけど、四角形は、不安定。力を加えたら形が変わります。

 そこで、この藻谷さんのお家は、三角形を組み合わせて作ってあるのです。実は、外から見るだけしか時間がなかったのですが、ドームの形をしています。今度はぜひ夫と中を見せていただくように出かけてみようと思いながら帰ってきました。。 彼ら夫婦は、千葉からココに移住し、インターネットで仕事をしているので、住むところはどこでも関係が無いとのことでした。夫はアナリスト、ゆかりさんは、インターネットで、インド紅茶の販売をしているのです。子どもを塾に行かせたくないから移り住んだのだとのことでした。この地域は、長野県では珍しい水田の地域で、ずうっと昔の人たちが、溜池を作って水田に水を引いていたため、とってもおいしいコシヒカリが取れるのだそうです。

 このお家を見に行く機会は早くも8月6日にやってきました。私たちが運営している社会福祉法人桐鈴会の敷地に納骨堂を建てようということが前から言われていました。入居者の方の中にも、役員の方の中にもお墓を持っていないという人があって、われわれ夫婦もその仲間です。そろそろ本格的に稼動しようと言うことになり、そこは、宗教にとらわれない建物にしたいということで、夫と、理事の小沼和夫さんと3人で、北御牧(現在は東御市)の藻谷さんのお宅を訪ねました。三角を基本形として、まあるいドームになっています。中に入って広いことにまず驚きました。回り階段が部屋の真ん中についていて二階は、子ども部屋と客間の4室ができています。とにかくこの建物は、「これ何?」と立ち止まってしまうような、好奇心を呼び起こすものであること、間違いなしです。
 夢草堂が、仏教のお寺だということで、そこに入らないと言うほかの宗教の信者があるので、今度は、無宗教であることがすぐにわかるものに、ということです。この摩訶不思議な納骨堂ができるのかどうか、見守ってくださいね。