百万本の薔薇の花 小さな家とキャンバス 他には何もない 貧しい絵描きが 女優に恋をした―― うららかな午後の日射しを浴びながら、アフロディーテは遅い朝食を摂っていた。おりしも聖域の教皇シオンが、書類を持って彼の住居を訪ねて来た時のことである。 「……アフロディーテ……お前がそんなに寝坊だとは思わなかったが……」 ねぐせのまま、パジャマの上にセーターといういかにも人を食ったいでたちに、教皇は出された紅茶に手もかけられないでいた。 「フッ、かく言う貴方も書類なんか小脇にかかえて。極東のサラリーマンじゃあるまいし、美しくありません!」 「……フッ、そうか。せっかく今月分のパン代の支給が来たから手続きしようとこの私が自らわざわざ出向いて来たと言うのに……どうやらいらないようだな」 アフロディーテの顔色がまともに変わった。黄金聖闘士といったところでお給金がもらえるわけでもなし、ここ聖域のアゴラにおける商工会のあったか〜い申し出がなければ、天下最強の12人もキャッサバとかヤムイモとかタロイモとかを主食に、超精進的な食生活を送るしかないのである。 「教皇!最強の称号も欲しいがままの前聖戦の功労者!いやお美しい!貴方の傍にある限り、そのお徳用書類袋さえもお美しい!」 「………………。」 教皇の沈黙を尻目に、玄関のベルがにぎやかに鳴った。「へえへえ」と生返事をしながらアフロディーテが仕方なく外に出てみると、仏頂面をしたシュラである。いや、よくみるともう一人、ちびっちゃい青年が横に立っている。 「こいつがどうしても、ピスケスのアフロディーテの家に連れていってほしいと――」 「アフロディーテさん!お願いします!!私に薔薇を百万本売って下さい!!!」 瞬間、アルデバランよりも重い沈黙が座を支配した。シュラの話を邪魔しただけでも命が危ないのに、よりにもよってアフロディーテに商談ふっかけようなんざあ、良識ある聖域人の風上にもおけぬ人物である。教皇が誰何の声をかけようとした時、しかしながら、アフロディーテは言い放った。 「嫌だ。」 「そ……そんな!!あなたを頼ってここまで来たのに!一体なぜ――なにがお気に召さなかったのでしょう!?」 「面倒くさい。」 口にくわえたトーストをもぐもぐさせながら、至極不マジメにアフロディーテは青年の情熱を一蹴してのけた。しばらく茫然としていた青年はずりおちた眼鏡を直し、なおしつこく食い下がる。 「そんなこと言わずに、どうか話だけでも!私はキルナ・エリヴァレといって、画家をしております……」 「ますます嫌だな。」 「な……なぜ!?」 「まず、名前が美しくない。それから、画家は好かん。」 「おや、美の戦士を自称しているお前にしてはおかしなことを言うな。芸術も美のうちではないか。」 先刻から二人のやりとりをおもしろそうに聞いていた教皇が言った。 「そうですよ!そこのお方の言う通り……と……もし……?その仮面はひょっとすると教皇様でしょうか?」 「タキシード仮面にでも見えたか?」 「画家といっても非常に貧しくて……」 恐るべき画家キルナ氏は、聖域の最高権力者を完全に無視した。 「そんな、しがない私ですけれど、…恋をしてしまったんです!…とは言え、相手は今をときめく女優のユリア・ネホープさん…」 キルナは語尾にハートマークをつけかねない有様である。シュラはもはや全く興味を失った様子で勝手にコーヒーを入れている。だがしかし、逆にアフロディーテの目は燦然と光り輝き始めた。 「決して実らぬ恋……フッ、なかなか劇的な奴だな。しかしそんな貧乏画家が薔薇百万本とは、予算がないだろう」 「そう、問題はそこなんです……アフロディーテさんの薔薇はそんじょそこらの薔薇ではないし、きっとお値段もはるんだろうけど……。でも!だからこそ!私はあえて買いたい!!百万本の最高級の深紅の薔薇の海を、ユリアさんに見せてあげたい!!」 最高級、という言葉に魚座の黄金聖闘士の口元はひくひくっと笑みの形をとりかける。かろうじてそれをかみこらえ、アフロディーテは腕組みをした。 「……で、代金のあてはあるんだろうな?言っておくが、私の薔薇は相場の2倍はするぞ。」 「にっ……2倍?」 「当然だ。フッ、うちの薔薇はいかんせん質がちがうのだよ、君。農薬皆無、水はアクエリアス印シベリア氷を解かして作ったカルキ0%、超希少物件!!花は紅玉より紅く、とげは針より鋭い、この私が手塩にかけて育て上げた絶品ぞろいだ。2倍でも安いほどだな」 アフロディーテの背後でシュラが両手をメガホンにして口パクで「オニ!」と叫んでいる。教皇は、そこはかとなく暗かった。 「家と……キャンバスを売れば……」 ぽつり、キルナがつぶやいた。 「家とキャンバスを売れば、足りるでしょう。ぼろ家だけど……土地もあるし……」 「な……何?」 キルナは、きっ、と顔を上げた。 「売ります。代金はそれでいいですよね?」 その表情は空を貫く陽射しのように、どこまでも突き抜けて明るい。数時の間をおいて、アフロディーテは承諾の首肯をした。 「――それで、誰もとめなかったんですか?!」 つめよったのは瞬である。ピスケスのアフロディーテと商売を、などという酔狂な貧乏画家のうわさは、いつのまにか聖闘士の間でも有名になっていた。 「お金のない人に相場の……にっ……にばいの値段ふっかけて……あんまりです!聖闘士の品位が疑われます!これじゃまるで中世の免罪符ですよ!」 くるり、とその時シュラは初めて振り向いた。そして一言、真剣な面持ちで、 「ひっかかる奴が悪い。」 唖然として突っ立っている瞬を尻目に、軽やかな足取りで立ち去って行った。慌てて星矢が呼びかける。 「おい、シュラ、どこ行くんだよ」 「バ・イ・ト。」 ――バ・イ・ト……。星矢はその場で標本になった。隣のミロが沈痛な様子で解説する。 「星矢も瞬も、つくづく羨ましいぜ……保護者が財団のお嬢様で、しかもアテナだからな……。収入のない俺たちの生活の細きよすがは、フッ……スズメの涙ほどのタダ券とバイト代くらいのものさ……。まあどうせ俺たち全員、肩書きは無職だからな……フッ……」 ちなみに今日のシュラは石切り場で手刀を振るうことになっているらしい。星矢と瞬は乾いた笑みで、何とかミロに気まずい相づちを打った。 (……うーん……でも何か今、すごくはぐらかされたような気がする……) 不満気に瞬が考えていると、突如真後ろの建物の上から声がふってきた。 「アフロディーテの薔薇は本当なら相場の2,3倍じゃすみませんよ。」 「えっ……?」 おどろいた瞬にミロがどうかしたのか、と聞いてきた。どうやら瞬にしか聞こえていなかったらしい。 (でも、たしか今の声は……) その時ミロが不意に真っ向うの家の屋根の上に呼びかけた。 「ムウ――!何をやっているんだ、そんな所で――!?」 ひょっこりとムウの顔が、煙突の脇からのぞいた。いつの間にそこにいたのか、つくづく気配の仙人じみている青年である。 と、彼は力なく微笑んで、「……聞かないほうがあなたのためですよ、ミロ……」 そう、つぶやくように言った。 「何を言っている?お前、何か悩みでもあるのか?それでふさぎこんで屋根にのぼってガーベラの花びらを1枚1枚むしってたんじゃあないだろうな?何でもいいから言ってみろ、俺たち仲間だろう!」 「……そこまで言うのなら……。実は……」 「実は……?」 「……煙突修復のアルバイトなんです……」 ……数秒後、星矢と瞬は広場の真ん中で聖域の冷たい風に吹かれながら「フッ……どうせ……どうせな……」 と虚ろな目で呟く蠍座の黄金聖闘士の姿を、気の毒そうに見やったのだった。 幾日か経った頃、家とキャンバスをお金に替えて、キルナが再び魚座の黄金聖闘士を訪れた。 「あーあ、これで私は一文無しだ」 言いながらもキルナは平然と、むしろ舞台に臨む役者のような一種の高揚感さえ持って、全財産をそっくりアフロディーテに手渡した。 「しかし、百万本も一体どのようにしてプレゼントするつもりなのだ?」 尋ねるアフロディーテに、キルナはいきなり猫撫で声で説きはじめた。 「アフロディーテさん、あなたは自分の薔薇がかわいいですよねえ、もちろん。自分の手から離れてしまった後でも、愛し子……もとい愛し薔薇が、そんじょそこらの薔薇よりもまさっているにこしたことないですよねぇ……?」 「フッ、まわりくどい奴め。言いたいことがあるのならさっさと言うんだな」 「……実は、ユリアさんは今度アテネを訪れて数泊する予定なんです。彼女の泊まるホテルも部屋もすでに確認済み!それで、そこから見降ろせるアゴラがあるんですが……」 「まさか……」 「そう!アゴラを薔薇で埋めたいんです!きっと一面の薔薇の海は、他のどんな方法で贈る薔薇よりも美しく咲き誇るはずです!ああ、想像するだけでぞくぞくきませんか?これこそ究極のプレゼント!最高だ!万歳!!」 「……フッ……言われなくとも……」 アフロディーテの目が危険な笑いを閃かせる。もしこの場に同僚の聖闘士が1人でもいたならば、即刻自らの必殺技を繰り出してでも彼を取り押さえたに違いなかった。 「そ、それじゃあアフロディーテさん!!私と共に今世紀最大の絵を……広場というキャンバスに深紅の薔薇で描きましょう!!」 「フフフフ……ハーッハハハハハ!!当たり前だキルナ君!!まさかこの美と愛の戦士アフロディーテが、このような一大イベントを辞退するとでも思ったのかね!?」 辞退どころか拒絶してのけたはずである。いつものアフロディーテなら。だが事ここに至って「美」の話題を持ち出された今、彼が完全にお空の彼方へイッちゃうのをとめることのできる人物など、あろうはずもなかった。そう、黄金聖闘士はおろか教皇にすら恐れられる彼のこの状態を、巷では恐怖を込めて「病気」と呼ぶのである。ちなみに発病した彼とその道でタイマン張れるのは聖闘士多しといえどもリザドのミスティのみである、ともささやかれている。ただし実際にミスティの助けを呼ぼうとする者など、地上はおろか海界にも冥界にもエリシオンにも存在しないだろうと言われている。 「それではキルナ君、善は急げだ!大輪の薔薇百万本、アテネ市街へすべからくはこぶべし!!」 「ラッジャー!!」 かくて、二人の高笑いが広く往来に響き渡ったのであった。 「ではキルナ君、私が薔薇を小分けにして持ってくるから、君はここで数えてそちらの水に活けておいてくれたまえ。」 双魚宮から下ること数分、少し開けた場所に二人はいた。別段危険もない今のような平常時、十二宮に各黄金聖闘士はおらず、ただ雑兵の警護が宮外のそこここにあるのみである。 「でもアフロディーテさん、何でそんなに他の聖闘士さんたちの目を避けるんですか?」 「フッ、彼らは美の何たるかを理解していないのだ。これまでにも私の試みの数々があいつらのジャマでおじゃんになっている。どうも美しすぎるものはねらわれやすいとみえるな、実にけしからんことだ。」 いや、彼らは彼らなりに聖域の平和を守ろうとしたんだと思うよ、アフロ。 「それにこればかりは人の手を借りるようなことをしたくないのでね、できるだけ内密に事を進めておかねば……。」 「そうですね。もし人づてにユリアさんの耳にでも届いて、計画が事前にばれたら、感動も半減してしまいますし!」 「フフ……、そうとも言うのかな」 アフロディーテの目が少し優しげに笑った。 「でも、どうせなら私だって数を数えるだけじゃなくて、もっとがつんと働きたいんだけどな」と、キルナ。 「心配せずとも、後でいやというほど働かせてやる。ユリアがアテネを発つ日の前の夜、徹夜でむこうまで運ばねばならんのだ。だが今は待て、君とて自分のアトリエを他人に観察されたくはなかろう。」 「ああ、なるほど、そうですよね。それにかわいい子薔薇たちに最後の別れのキスなんかしなきゃならないし。」 「だっ誰がだ!!」 いや、アフロ、君ならやりかねない。 「それではいくぞ、キルナ君」 「はい!」 何はともあれ、賽は投げられた。ルビコン川は足下である。キルナは興奮で頬を紅潮させながら、昨日の出来事を思い出していた。そっと懐から2枚の紙片を取り出し、しばらく眺め、にっこりと笑ってまたしまう。実はこれはシャカのお手製による魔除けのおふだなのだが、もちろんキルナ当人はそのようなことは知らない。このたび、 「どうもいかん。悪い予感がする。アフロディーテは今回珍しく誠実にマジではあるが、この一件が無事に終わるとはどうしても思えない。差し出がましいことだが、キルナ氏の身の安全のため、ここはいらぬおせっかいをさせてもらおう」 ……と意見の一致した黄金聖闘士達が、キルナにご武運祈るとか何とか言って持たせたのがこのおふだであり、昨日のことだったのである。もちろんおふだはユリア・ネホープの分も含めて2枚。彼女のホテルの窓の下にでも貼ってやれば、きっと彼女のこれからの女優生活も安泰だとか何とか四苦八苦して説明し、2枚とも彼の懐にねじこんで後も見ずに一目散に立ち去ったのは、聖域の誇る黄金聖闘士、レオのアイオリアであった。何も知らず、聖闘士達の暖かい激励の声に胸をじんと熱くさせている絵描きに対して、「すまん!!キルナ!!」とひたすら念じながら……。いやはやキルナ君、君は果報者だよ、うん。 ところが噂というものは実に抜け目のないものでして。アフロディーテとキルナが何やらたくらんでいるらしいということは、いつの間にか皆の薄々感付く所となるのであった。 「でもおふだも手渡したことだし……そんなに気を回さなきゃいけないものでしょうか。」 「……氷河よ……思えばその甘さがお前の弱点であり、最大の……」 ……お説教のくだりは執筆者の一身上の都合により省かせて頂く。 「お前はアフロディーテの真の恐ろしさを知らんのだ。」 「真の恐ろしさ……ですか。」 今一要領を得ない、という風に氷河は小首を傾ける。 「やつの真の恐ろしさ?何だそれは。」これはカノン。 「カノンよ、お前にはわかるまい。双魚宮と隣り合わせになっているこのカミュの涙ぐましい苦脳の果ての絶望は。」 「……何だそれは」 「いや、私はわかるぞカミュ!教皇の間に不法占拠とは言え長いこと在住していたこのサガには!」 「おおサガ!!それではお前も……!!」 「そうだ!!ある朝出勤してみたら入り口でキューピット像が口から水噴いてたり!!」 「まさかと思って裏口に回ってみるとヴィーナス裸像がでかでかとしなを作っていたり!!」 「少しでも油断したが最期、宮の周辺一帯が二枚貝と珊瑚で飾られていたり!!」 「宮に通じる階段にびっしりと真珠のだまだまが敷きつめられていてそれに足をとられ、真珠と一緒に磨羯宮まで転がり落ちてしまったり!!」 「一度なんかそこら中に香水が撒かれていて、匂いがデモンローズのそれと混ざり合い、風に乗って教皇の間まで漂って来たぞ!!その後1週間程教皇の間には、ハエ1匹寄り付かなかった!!」 「どうでもよいが頼むから自らの特大ブロマイドを作って掲げる時は、せめて宝瓶宮じゃない方向に向けてほしい!!」 「私なんか純白のリボンを……」 熱く語られる2人の会話を前に、氷河はただ佇む以外に何ができたたろうか、いや何もできはしなかっただろう(反語)。そしてカノンは、今初めて黄金聖闘士があんなにまで恐れられる所以がわかったと思った。 「……これまでに己の肌で体得した経験からして、今回の一件が穏便に済むわけがないと思う。」 「アフロディーテが恋愛問題に首つっこんで、コトが丸く収まるはずがない。絶対に何か起こるに違いない。」 徹底的に悲観的になっている先輩達を見ながら、氷河は自分の中で黒雲のようにわきおこる不安の念を、気象衛星ひまわりの視点でうつろに認識するしかなかった。 「だから我々も注意して奴の様子を見ているのだが、全く不審な点が見受けられない。ああ、それだからよけい心配なのだ!!ううっ……」 ……サガ達の苦労は続く。 いよいよ決行の宵が落ちた。かねてから双魚宮に潜んでいたキルナは、例の場所でアフロディーテと落ち合った。 「でもどうやって人知れずアテネ市街まで……?他の聖闘士さんたちや一般市民に気づかれてしまうんじゃないですか?だってほら……この……」 言って、彼は傍らに積み上げられた、天にも届こうかという程の薔薇の山を見上げた。 「フッ、そこでこれを使うのだ。」 一体何処から盗って来たのか、そこには大きな気球セット1組が……。しかし燃焼装置がない、といぶかしがるキルナに、アフロディーテはまあまかせろ、と片目を閉じてみせる。 数刻後、キルナは夜の街をはるか足下に感じながら、叩き付けて来る風の断片に激しく髪をなぶられている自らの姿を見出していた。すぐ隣では、アフロディーテが己の小宇宙を最大限に燃焼させながら、気球の風船部に膨張した熱空気を送り込んでいる。「天と地のはざまに輝きを誇る」なんてのが言い過ぎかどうかはさておき、さすがに薔薇の聖闘士だけあって、下に吊るした花々はしなびもせず、アフロディーテに同調するかのようにますます誇らかに匂いたつのであった。 「すごいんですね、アフロディーテさん。貴方と薔薇のそのチームワークの良さ!うん、やっぱり黄金聖闘士ってすごいなあ!」 気の毒な画家はまだアフロディーテという人物を把握しきれていなかった。 「フフフフ……そうだろうキルナ君。ピスケスのアフロディーテある所に薔薇もまた之有り!この私と薔薇との絶妙なコンビネーション、そして最強並びに最美の史上まれに見る芸術的ハーモニー!!この高尚な和と美の精神を理解できるとは、君もまたアテナに選ばれた真の眼力を備えた戦後まれに見る芸術家だということだ!!ハーッハハハハ(以下略)」 「あっ!!アフロディーテさんが興奮して熱空気の勢いが増している!!……しかも爆発的に……こっこれは!!」 瞬間、ガクンと大きな衝撃と共に、キルナは床――気球のそれを床と呼べるなら、の話だが――に投げ出されていた。 「なっ、……なんだ?!」 外の景色を見渡し、キルナは愕然として色を失った。熱気球がマッハの速さを飛んでいる。そんな馬鹿な。 「アッ……アッアッアフロディーテさん!!しっかりして下さい!!」 「ハーッハハハハハハ!」 今やアフロディーテのテンションは雲よりも高く、オゾン層を抜けて大気圏のそのまた向こうに消えてしまったのではないかと思われた。この状態を同僚の聖闘士達は恐怖を込めてこう呼ぶのである。 ――アフロディーテ、ご乱心。 「いやあああああっ!!」 キルナの叫び声が地上に虚しくこだました。外は漆黒の世界である。ぐっすりすっきり、快眠に浸っていた罪なき一般人は、空から突如ふってわいた身の毛もよだつ音声らしきモノに飛び起きた。ちなみに、キルナの悲鳴にドップラー効果がかかっていたことは言うまでもない。 「何事だ!!?」 ほとんどすべての住民がまず初めにしたことといえば、とりあえずこれからの活動の拠り所として光源を得る為に、部屋の明りをつけることであった。 ……半狂乱の様相を呈し、今となってはもはやわめくより他にないといった有様のキルナであったが、気絶寸前の彼の視界の隅で、ふと、深海の奥底から突然現れた一面の蛍火のように、真夜中のアテネの街いっぱいに灯の花が咲いた。 ――いっぱいに……広場いっぱいに。 「あ――っ!私はこんなことをしている場合じゃない!!」 ――百万本の薔薇の花、あなたにあなたに、あなたにあげる。私のすべて。私の奇蹟。私の残せる最大の奇蹟。家族も友人も離れていった。かまわない。わかってた。すべてが今日のために。私の人生のすべてが今日のために。 「――アフロディーテさん!!起きてくださいっ!!」 「ハ――ッハハハハ(中略)ハハハ」 こりゃあかん。キルナは今さらながら目まいを感じた。アフロディーテはもはやお花畑の住人である。 ……よし、こうなったら。キルナは一か八かの賭けに出た。すなはち―― 「正気に戻ってくれないと、アフロディーテさんの肖像画を描いてやりますからねっ!」 「な、なにい!?そ、それだけは……!!」 やった。思った通りだ。キルナは小躍りした。チェルノブイリ原発並みだったアフロディーテの目の異常な光は急速に鎮まって、今や背骨の曲がったおじいさんかおばあさんが近所のガキを集めて昔話でも語りながらつっつきまわしている囲炉裏の炭火程度に弱まっている。これで今度こそ正確に目的地に進行してくれるだろう。 ……とかく、自らの美貌に絶対の自信を持っている輩には多いのである。ちっちゃい頃にその辺のストリートの怪しげな似顔絵描きに似顔絵を描いてもらったはいいが、その完成作品を見た時の天地を揺るがすほどの精神的打撃を、成人した後もなおひきずっている奴が。 「……だから画家はキライだったんだ……」 アフロディーテのつぶやきが風にかき消されて虚しい。 「ほらほら、落ち込まない!」 対照的にキルナ氏は明るかった。 そうこうしているうちに目的地に近づいてきた。いよいよだ。キルナの胸は高鳴る。 「着陸、用意!!」 アフロディーテが朗々とのたまった。気球は、ゆっくりと、夜のアテナイに吸い込まれていく。 ――と。 「……アフロディーテさん。」 「……なんだろう。」 「今ちょっと思ったんですけど……この気球を使うって決めた時、着陸場所について考えましたか?」 「……………フッ。」 瞬間、キルナは固く心に決意した。二度と聖闘士に商談ふっかけるなんて愚かな真似はするまい、と。 ……とりあえず、目標の広場に不時着する前に数十箇所に激突してようやく減速したアフロディーテとキルナは、己のもてる小宇宙の、まさしく全てを賭して百万本の薔薇を死守しきった、ということだけ述べておく。 2人が気球の残骸を処理したのち、広場いっぱいに薔薇を並べ終わったのは、それから何時間後のことだっただろうか。2人は超近未来に確実に襲い来るであろう筋肉痛を、完全に覚悟した。そしてもちろんキルナは、例のシャカお手製の魔除けふだ――本人はお守りと信じている――を、愛しのユリアさんのホテルの窓の下に貼って来るのを忘れなかった。一刻も早く彼女の傍へ近づきたかったのと、それともう1つ、キルナ自身、何となくユリアの身の安全が気になってきたためである。どうもこのまま安穏と、いやこれまでの段階ですでに安らかでも穏やかでもなくなってきている状況ではあるが、ともかくこのままこれ以上何事もなく無事に終わるはずがない――彼の頭のどこかで、理性がそう叫んでいたのかもしれない。 辺りはまだ暗く、薔薇の海を見ることはできないが、キルナの鼻腔を甘くたおやかな花の香りがくすぐった。――何て強烈なにおいだろう、とキルナは思う。頭の隅々までこの香りに染められてしまいそうだ。しかし、それでいて少しもくどさをかんじさせず、むしろ心地よい眠りをさそう芳香のように、感覚に馴染んでくる。 「いい薔薇ですね。」 キルナは心からそう言った。 「フッ、そうだろう。何しろこれは特別な薔薇なのだよ、キルナ君。世界でも珍種のうちの1つだ。」 「種類のことは残念ながら良くわからないんだけど…でも、素敵だな。」 「朝が来れば、君の感動は倍増どころか累乗されるだろうと、保証するよ。」 傍らの男もいつになく嬉しそうだった。いつものカッコつけてる姿より今の方がずっとキレイな表情をしている、と貧乏画家は思った。 「少し風が出てきたようだな。」 アフロディーテが言った。微風に乗って薔薇の香が、キルナを、アフロディーテを、ユリアを、アテナイの街を、優しく包みこむかのように広がった。 ――突然、のことであった。今横にいたと思ったアフロディーテがいつの間にか、広場の前で男数人を吊し上げていた。 「ここで何をしている。」 声がマジである。こうなっては一般人には止められない。男達はわななき、おののいた。 と、次の瞬間、物陰から同じような格好をした男が五、六人飛び出した。手には棒を持っている。しかし彼らはアフロディーテの方には行かず、向きを変えて、薔薇の方に襲いかかった。 「ちいっ」 アフロディーテは塞がっていた両手を放し、いや、ただ放したとは言うまい、掴んでいた手を放して最初の男達を新手の男達に向かって叩きつけ、全員まとめて十数メートルふっとばした。この時ようやくキルナも駆けつける。 「お前ら、よくもひとの薔薇を襲ったな!!アフロディーテさんに殺されても知らないからな!!」 「……おいキルナ、それでは私がまるで悪玉みたいな言い方ではないか。」 「……それだとアフロディーテさんが悪玉じゃないみたいに聞こえますが」 「……それだとやっぱり私が……、いやよそうか、こんな会話」 「不毛な時間でしたね。」 2人が漫才している間に、しかしながら男達は気丈にも立ちあがり、薔薇の所に駆け寄るなりいきなり何かを取り出した。その手に握られているのは―― 「農薬散布器!?」 「なっ、何だというのだ一体!?」 「と……とにかくアフロディーテさん、止めましょう!」 「……よし!!」 アフロディーテの両の手から光がほとばしる。男達はあっけなく吹き飛ばされた。その光でキルナは、男達の格好を詳細に見ることができた。全身黒ずくめの、怪しげなデザインの衣装に包まれている。ご丁寧にも奇怪な形のゴーグルまでつけており、何と言ってもとどめは酸素ボンベのような醜悪な型のマスクであった。 「同じ顔形を隠すのに、一体どういうわけでわざわざこんな変てこな、カッコ悪い姿にならなきゃならないんだろう……」 半ば呆れ顔で、キルナは独白した。この趣味の悪さはあんまりだ。芸術家のはしくれとして、そして何よりも女優・ユリアに薔薇を贈る者として、許してはおけない。 そのかたわらで、アフロディーテは農薬散布器を調べていたが、やがてゆらり、と立ち上がった。顔は影になっていてキルナからはよく見えない。が、心なしか目が底光りしているような気が……。 「……中身は、塩酸だな」 凄みのある声で、魚座の黄金聖闘士が男達をねめつけた。 「……貴様らがどういう了見でこのようなことをくわだてたのかは知らぬが……」 これからなぶり殺しにでもしそうな口調で、アフロディーテが言う。 「いや、自分達で企てようが、仮に人から頼まれたのであろうが、そんな事はどうでもよい。」 もはや手後れである。 「仮にも美の戦士と二つ名の付くこのアフロディーテ!!自らの美的感覚と美的哲学に基づいて、貴様らをただで返すわけにはいかん!!」 ……それでも必殺技を繰り出さなかったのは、彼の理性の為せる技か、それとも恐ろしいまでの薔薇に対する気遣いによるものか……。いずれにせよ、またしても男達は豪快にブッ飛んだ。 「弱い……あまりにも弱すぎる……」 人のことはあまり言えないキルナが言ってのけた。全くその通りである、この男達はとてつもなく、どうしようもなく、なすすべもなく弱かった。しかしその不気味なところは、何度倒されてもその度に立ち上がり、攻撃をやめないということであろうか。 「……それにしても敵ながら天晴れな奴ら……ここまでしぶといのはあの青銅のヒヨコ達に匹敵する。いや何と言おうか、気力と根性のみで向かって来ているという感じがするな……」 アフロディーテまでがしみじみと情趣の念に浸っていた。その時、男達のうち1人が初めて重い口を切った。 「だ……だまれ……」 それが導火線となったのか、他の男達も次々にうめき声ともののしり声ともつかぬ音をたて出した。 「き……きさまらなどに……」 「負けて……たまる……ものか……」 「負けるわけには……いかん……」 と、その時リーダー格らしい男が鬼気迫る様子でしゃべった。 「やっ……やめろお前達……!しゃべったら死ぬぞ……!!」 ……1分程して、アフロディーテとキルナはことごとく気を失った男達の群れのただ中にいた。 「……一体……」 「しゃべると地球の酸素が体に合わなくて呼吸困難をおこすんでしょうかね……?」 「……さあ……」 「結局何者だったんだろう、この人達……」 「……さあ……」 東の空が白々と明けて来た。もうすぐユリアが起きてくる。 「ひとまず、こいつらを動かさねばな」 そう言ってアフロディーテはハンティングの獲物のウサギにでもするように無造作に、男達の足に縄をかけて通りの向こうに引きずって行った。 「……それではキルナ君、」 魚座の黄金聖闘士は、改めて戻って来てから言った。 「君に今後とも女神アテナと、そして女神アフロディーテの加護があるように……」 「アフロディーテさん……」 キルナは何も言えなかった。ただ、ぺこりと頭を下げた。アフロディーテはゆっくりと、背を向けて歩いて行く。 ――ふいに立ち止まり、そのまま、ふと思いついたというように口を開いた。 「これからどこへ行くつもりだ。……もし君さえその気なら、聖域にもバイトの口などいくらだってあるのだが。」 キルナは一瞬戸惑ったように下を向いた。が、すぐに真っ直ぐに顔を上げ、 「お気遣いなく。私が自分で選んだ結末ですから。」 「自分で選んだ、か……。」 アフロディーテは前を向いたまま呟く。 「はい。私は、自分がしたことで悔やんだことはいっぱいあるけれど、自分が決めたことで後悔は絶対しませんから。」 「……。」 キルナはアフロディーテの姿が角を曲がって消えるまで、ずっと後ろ姿を見送っていた。結局一度も振り返ってくれなかったなあ、と思いながら。 「ああ、それにしても、何て静かなんだろう。」 実際、静かだった。無音の中で、太陽が顔を出した。彩色された光線に、刹那のうちに全世界が染まる。そして、キルナの視線は眼前の光景に釘付けになった。 ――紅、紅、紅。花弁にしっとりと輝く、露、露。白玉の群。 まぶしい、目の前は、一面の薔薇の海。 人気女優のユリア・ネホープは、薔薇の香に包まれて目を覚ました。その朝彼女は真っ赤な薔薇の海を見て、幼子のように瞳をきらめかせ、薄紅の唇からは深い、深い吐息が漏れた。だけど彼女は、どこかのお金持ちが、ふざけたのだと思っていた。 ――貧しい絵描きは、窓の下で彼女を見ていた。 キルナは、体中に広がる幸福感を、じっくりとかみしめていた。おりしも今朝は、こんな時間になっても誰も起きてこない。画家はこの美しい光景を誰にも乱されることなく眺め続けることができて、この上なく幸せだった。 ――後日のことである。アテネ市街中心部において「魔の三角地帯」が発生した、というニュースが巷に流れた。詳しいことは未だ明らかではないが、この地域のまさに中心点ともいえる地点から奇跡的に生還した人気女優のユリア・ネホープさん以外、現地の様子を語る者はいないと言う。 ニュースキャスターは語る。市捜査本部の発表によると、魔の三角地帯発生当夜に周辺の住民から花粉性の中毒症状・昏睡状態に関する通報が相次いだことから付近一帯に市の消防隊員を向かわせたが、三角地帯の中心点付近で突如消息が途絶え、現在も行方不明のままとなっている。行方不明当時、隊員は防毒マスクをつけていたが機能は弱いもので、会話をするだけて毒を吸いこみかねない不十分な設備体制を懸念する声も出ていた。また花粉が付着した場合に後々判別しやすいように、全身黒色の防護服を着用していたとのことである。 なお、この係員の捜索に出た第二次調査隊も依然行方をくらましたままで、当該地域内の住民は電話にも応じず、電波も届かぬ、まさしくブラックボックス――全員行方不明状態となっている。しかし専門家による大気中の花粉成分の調査により、この大惨事を招いたのは100%、世界でも珍種と言われる猛毒の薔薇、「ロイヤル・デモン・ローズ」であるということが明らかになった。……現在、調査続行中である。 夕食中このニュースを聞いた教皇は、無言でその場にくずおれたと言う。 ……さらに後日、聖域から多額の見舞金がアテネ市に寄付された。そのほとんどが、アフロディーテが百万本のデモンローズの代金としてキルナ氏から受け取ったものであるということは、言うまでもない。 ――貧しい絵描きは 孤独な日々を送った けれど薔薇の思い出は 心に消えなかった―― キルナの行方は、誰も知らない。 ********************** あいやすみません。これを書いたとき、私はたいへん若かったのです。 ある日突然思いついた最後のオチを書きたいばかりに、2日くらい夜更かしした記憶がうっすらとある。 しかし今思えばアフロはそこまで壊れたキャラじゃないだろうとかそういう趣味は持ってないだろうとか 色々突っ込め過ぎて笑えますな。 つーか人生で初めて書いた小説がこれだというのはどうかと思うよ自分…。 ちなみに、キルナとエリヴァレはアフロの出身国の有名な鉄山の名前です。 受験生はこうやって地理を覚えるのです(バカな) |
Written by T'ika, maybe in early spring 1997