5.夢


 それはいつしか降りてきた、静かな夜の帳の中――。


 夢を、見ていた。昔の夢を。石の館に、独り、いる。生き物の気配など何処にも無い。己の足音のこだまだけが、いつまでもいつまでも跳ね返る。……狂ったような、永遠の静寂。
 ムウは沈黙から耳を塞ぐように、階から階へとさまよい歩く。その人を捜して、さまよい歩く。石造りの冷え切った室内に、一人分の靴音だけが延々と響く。待ち侘びている、その人は来ない。二度と来ないと、知っている。
 静けさに、気が狂う。終わらない時の長さに、気が狂う。取り憑かれたように、山脈中を捜す。息づくものなど何も無い、荒漠の中にその人を捜す。いま一度だけ昔のように、帰って来てはくれぬかと。
 恋しさに、気が狂う。拷問のような孤独に、気が狂う。
 貴方が、いない。何処にも、いない。

 うわごとのように、名前を呼んだ。絞り出すように、悲鳴のように。
 ――シオン。




 気がつくと、その人に強く身体を揺さぶられていた。切羽詰った様子でこちらを覗き込むシオンの表情に、ムウはゆっくりと我に返る。ほとばしるような悲鳴はまるで、自分のものではないかのように思えた。強張った全身が酷く汗に濡れていて、荒い息を繰り返すたびに、肺の奥に痛みが走った。
 激しく二、三度咳き込んで、ムウは体ごとシオンの視線から顔を背ける。胸の奥深いところから、突き上げてくるような感情の渦。
 心身が弱っている時には、今でも悪夢を見ることはあった。しかし、傍らにその人しかいない状況で、知らず知らずのうちに気持ちが緩んでしまったのだろうか。こんなに酷い錯乱の仕方は、久しぶりだった。敷布に埋めた片頬がやけに冷たくて、初めて自分が泣いていることを知った。
 大丈夫か、とシオンが問う。しゃくりあげながら答えかけて、ムウはもう一度咳き込んだ。止まらない嗚咽をこらえつつ、浅く短く息を吐く。傍らの人は黙ってムウの背を撫でた。だが不意に、その手のひらの温もりがどこか遠くへ消えてしまうような錯覚に襲われて、ムウは思わず両手を伸ばす。緩やかに背をさすってくれていた優しい動きさえ遮って、縋り付くように、その腕に。
 シオンはわずかに、眼を見開いた。
 「……ムウ?」
 いつになく取り乱す弟子の様子に、シオンは敢えて強過ぎるほどの力を込めて、しがみ付いてきたムウの手を握り返す。
 「そんなに怯えなくていい。悪い夢だ。……もう、終わった」
 かけられた言葉に、乱れた長い髪の間から覗いていた肩先がぴくりと震える。握りしめた手は離さぬままに、シオンは黙ってもう片方の手を伸ばし、静かにその肩を抱き寄せた。爪を立てるくらいにきつく取り縋ってきていたムウの両手から、徐々に力が抜けていくのを感じながら。
 「――落ちついたか?」
 声はなかった。しかし差し伸べた腕に押し当てられていた額が、微かに頷くのをシオンは感じた。つい先刻までの狂乱が嘘のように、虚脱にも似た様子でその全身からは力が抜け落ちていく。押し殺した嗚咽も徐々に呼吸の中に鎮められて、震えるような吐息へと変わっていった。
 ……いったいどれ程の長さだったのだろう。彼にとっての十三年は。
 シオンは無言で、剥き出しになっていたムウの肩に毛布をかけ直す。そうして普段は小憎たらしいくらいに冷静な、揺らがぬ彼の微笑みを思う。
 このような形でしか己の傷跡を晒せぬほどに、鍛え上げられてしまったその強さを悼みながら。

 「――シオン」
 ポツリと呼ぶ声に、シオンはゆっくりとムウを見た。こちらを見上げてくる両の瞳は、表面上は穏やかさを取り戻してはいたけれども、どこか酷く不安定で、少しの衝撃でも崩れ落ちそうなほど脆く見えた。
 シオンは少しだけ体を動かして、病人の枕元へと身を寄せる。あまり大きな声を出させなくても済むように。そして微かな吐息に触れられるほどの、近しい距離で応えを返した。
 「何だ?」
 涙と混乱とに疲れ果てたような、浅くて弱い呼吸の下から、ムウはシオンに微笑みかける。
 「……昔、私が熱を出したとき。ジャミールで」
 思いがけない言葉の内容に、シオンは包み込むような眼差しで、そっと続きを促す。ぎこちなく文節で区切られた科白は涙声で少し掠れていて、嗚咽の中へ引き戻されないようにと、努力を重ねた跡が見えた。
 「傍にいて、くれたでしょう?……嬉しかった。」
 悪夢の残滓に切り刻まれながら、ぼろぼろの表情でその人が微笑う。込み上げてきたものをこらえるように、シオンはわずかに瞼を細める。何故だか無性に目の前の人が哀しくて、そうして無性にいとおしいと思った。
 「ああ。お前が六つの、冬だった」
 「憶えていて、くれてるんですね」
 ムウの口元がほころんだ。潤んだ瞳が嬉しそうに笑う。
 「忘れているとでも思ったか」
 仕方のない奴だ、と、いつになく優しく微笑って、シオンはムウの髪に手を伸ばす。慈しむように撫でた後、一房だけすくい取って口付けた。
 くすぐったさそうに笑いながら、ムウはほのかに染まった頬で目を伏せる。その瞳のふちから涙の雫がまた一つ二つこぼれ落ちて、白い敷布に小さく丸い染みを作った。シオンは片方の手の平で、そっと涙の跡を包み込む。敷布の染みは瞬く間に五つ六つと広がって、シオンの指にも幾筋か、濡れた雫の跡が残った。
 「……本当は、ずっと貴方に言いたかったんです」
 震える声で、ムウはささやく。
 「傍にいて、って――ずっと」
 無言のままシオンは、悲しみにも似た眼差しでムウを見つめる。言葉が絶望的に無力になる瞬間があることを、己の痛みとして知り尽くした眼で。
 「お前は聡い子供だった。……言わせてやれなかったのは、私だ」
 幾ばくかの沈黙の後、呟くようにシオンは言う。ムウは殆んどそれとはわからぬほどの微かな動きで、首を横に振った。
 「貴方に無理をさせていたのは、私です。……そのことがとても、つらかった。いつもあんなに、疲れていたのに」
 黄金聖闘士の数も少なかったその当時、聖域と世界各地を結ぶ様々な業務に忙殺されて、シオンがジャミールに立ち寄れるのはいつも、ほんのひと時に過ぎなかった。それでもわずかな時間を裂いて可能な限り訪れてくれた師父の、決して口に出しては表現されることのなかった優しさを、今でもムウは憶えている。
 「……ずっとそのことを、考えていました。私のために無理をして、貴方はいつも、疲れていたから。十三年前のあの時も、もしかしたら、そのせいで、――と」
 肯定も否定もしないまま、シオンは黙ってムウの頬を撫でる。溢れ出した涙を、ぬぐうように。ムウはゆっくりとシオンを見上げ、泣き笑いのような表情で、震える唇をかみ締めた。深い眼差しのシオンの口元は、ほんの少しだけ、微笑っているように見えた。
 「……すみません。何だかあの時に、戻ってしまったみたいで。朝からずっと手間ばかりかけて、まるで子供のようですね」
 軽く頭を振って呟くムウの言葉に、シオンは困ったようにふっと息をつく。
 「まったく――朝からずっと、謝るなと言っているのに」
 「でも――」
 「だから、言ったろう?お前は子供なのだ、と」
 「……?」
 視線を上げて窺ってみると、からかうような響きを含んだ声音とは裏腹に、シオンの瞳は酷く優しかった。
 「私を一体幾つだと思っている。七才も二十才も、二百四十八年の前には大して変わらぬわ。――だから私は別に、お前が如何ほどに子供でも良いし、したがって、迷惑でも何でも無い。好きなだけ子供返りするが良い」
 きっぱりと言ってのけたシオンの表情に、ムウは思わず小声で笑う。それが彼の優しい嘘だと、今ではムウにも判っていた。――十三年の歳月が、わずか七才の孤独な子供の、何をも変えない筈が無い。姿も中身も、確実に違う。取り返しなど付かないほどに、損なわれてしまったものだってある。……この人はそれを、知っている。
 「言っておくが、礼には及ばぬからな。師匠の前でくらいボロを出してもらわんと、私としてもつまらんのだ」
 言ってシオンは、悠然と笑む。その面影が眩しくて、ムウはうっすらと瞳を細める。流れるような豪奢な癖毛の、暖かな色が懐かしかった。濡れた頬をもう一粒だけ、涙の雫が伝い落ちて行くのを感じた。
 ああ、そうだ。冷静になれないのは、貴方の前だからだ。こんなに感情が動くのは、貴方がそこにいるからだ。何年経っても、変わらないだろう。貴方がこの世に、いてくれる限りずっと。
 「――シオン」
 呼びかけた言葉に、その人が少しだけ眼差しを上げる。収まりきりそうもない思いのすべてを、ムウは一言に込めて差し出す。
 「……ありがとう」
 私の人生を再び訪れてくれた、貴方の何もかもに溢れんばかりの感謝を。
 言葉を受けたシオンは、視線の先で柔らかく笑む。差し伸べられた温かい手が、一番新しい涙の跡を、いとしむように、そっとぬぐった。


 ――それはいつしか降りてきた、静かな夜の帳の中。睦言のように交わされる、ささやきまでもがどこまでも静かで。

 「シオン」
 「何だ?」
 「お言葉に甘えて1つだけ、我儘を言ってもいいですか?」
 「……何なりと」
 「……そばに、いてくれる?」

 返答の代わりにささやかな口付けが、熱を持った唇に落とされた。



*************
シオンさんはこのあとがっつり風邪をうつされて、童虎から蹴られた。
…に、3000点。(何)
そしてその際には当然のごとく、教皇勅命でムウさんが看護士として任命された。
……に、さらに3000点。

そういやこの間、よく考えてみたらこれはシリーズものなのではないかという気がしてきたのですが、あまりにも内容がこっ恥ずかしいので、やっぱり目立たないように単品集の方に入れておくことにします。
(2021.3.11追記 やっぱりシリーズってことにしました)
今回は全部で5つもお話があったのに、ネタを思いついてから最終話を文章にするまでに1年かからなかったので、頑張ったと思います自分。(←待て)

どうでもいいのですがこの間ふと手元のチベット本をパラ見してて気付いたのですが、粥って、チベットにもあるんですね。(←前作参照)
まあいいや…。名称違うし材料も米じゃないだろうし。

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Written by T'ika /〜2005.1.15