FRONTIER



 いつものように窓を開ける。
 明け方の空気が露を帯びて押し寄せ、乾いた肌を優しく包む。薄暗い室内を、沈んだ蒼がしっとりと染める。
 少し惰眠を貪りすぎてしまったな、と思う。
 ベッドの横のテーブルに開きっぱなしになっていた本を取り寄せて、銀の栞を挟んで閉じる。散らばった羊皮紙を重ね揃えて、ペン先からインクを拭き取っていると、ささやかな低音が不意に静寂を揺らした。
 まだ眠っていれば良いものを。
 背後からかけられたその声にムウは振り返る。馴染んだ姿を瞳に映し、光が溶けるように微笑して。
 わたしがこうしたいのだからいいんです。
 抑えた動作でゆっくりと立ち上がり、紙と本の束をムウは差し出す。先日の任務で不覚を取った手首の小さな包帯が、夜明けの光に白く浮かび上がる。受け取ったシオンは少しだけ頷いて笑む。その傍らにムウは歩み寄る。法衣を纏った眼前のひとを、見送るために扉を開けて。
 せっかく久しぶりに会えたのだから、起こして下さっても良かったのに。
 見詰め合ったシオンは一瞬、ほんのかすかに透き通るような、珍しい種類の表情をした。
 遠くの空に夜明けが見える。薄闇の中に目の覚めるような黄金色を滴らせ、曙を映して東雲が光っている。
 いってらっしゃいと囁いて、いつものようにムウは微笑む。
 明け方の蒼い光を背にして、シオンはそっと手を伸ばす。温かいその指が、眼を閉じたムウの髪にかすかに触れる。そしてそのまま送別の言葉に応えるように。いつものように、別れのキスを。
 途中までしかけて、ふいにやめる。



 陽光を照り返して白く輝く神殿の遠い輪郭を、幾度目か眺めてムウは息をつく。
 やっぱり何か、あったのだろうか。
 確証を持てるほどの兆しを見せてくれることは流石になかったけれども。あれはやはり、様子がおかしい。おかしかったと、ムウは思う。
 昨夜は何も気付かなかった。
 窓の外から視線を離し、手元の書物に無理に目を落とす。先刻から一向に進んでいない。ページを繰る手を幾度か止めて、さらに幾度目かの紅茶を淹れ直した頃、やはりそのままではどうしても落ち着かず、結局引かれるようにムウは外へ出た。
 適当な要件も思いつかぬまま、緩慢と運ぶ足は自然、教皇の間へと向かう。己の心も決めかねたまま、寂れた廃墟をいくつも過ぎて、岩場の隘路を漠然と通った。けれども巨大なその神殿を前にしてついに、足が止まる。
 こんなふうに声をかけてもいいものかどうか。
 逡巡しながら佇んでいると、当代の牡羊座の姿を認めた警護の雑兵が、御用件は、と跪礼を取った。仕方なくムウは声をかける。
 教皇は、中に?
 はい、執務中です。お目通りになりますか。
 少し考える振りをして、結局ムウは否と言う。訝しげに首を傾げる雑兵に、それでは伝言だけ頼めますかと、出来るだけ軽く声をかけて。
 あの方はお疲れのようだから、今日は早く休んでくださるようにと。

 物思いに耽りながら十二宮の石段を下っていると、行手からこちらに近づいてくる、黄金色の聖衣の人影が見えた。
 昨日帰っていたそうだな、ムウ。
 軽く手を挙げてミロは呼びかける。久方ぶりの挨拶と、情報交換もついでに兼ねて。――東国の古狸はどうだった?
 大したことはありませんでしたよ。しらっと返したムウの応えに、ミロはニヤリと視線で示す。それじゃその手は不覚を取ったのか?
 別に、ただのかすり傷です。貴方のその脚とおんなじで。
 平然とムウは言う。気付いていたかと、屈託も無くミロは笑い飛ばす。この頃あちこち不穏だからな。俺達皆揃って、御苦労な事さ。肩を竦めて、ひらりと手を振り。
 聖衣の方は後で頼むぜ。
 澄まし込んでそう告げるミロの背中に、ふざけるな、と笑いながらムウが返したその時。
 ああ、そうだ、覚えているか?
 思い出したようにミロが振り返る。さっき下の方で魔鈴に言われて知ったんだけどな。
 今日は俺達の命日だそうだぜ。
 遠くの方から不意に風が吹いた。煽られて流れた長い金の髪が、見開いたムウの瞳を隠した。
 俺は日付なんぞ一々数えちゃいないが、嘆きの壁からそんなに経ったんだな。お前らは殺しても死なないからと、魔鈴には憎まれ口を利かれたけどな。
 茶化すように軽口を叩いて、笑いながらミロは高い空を見る。
 下手をしたら今頃は涙の中で、皆に悼まれていたのかもしれないぜ。



 いつものように灯りをともす。窓から漏れる温かな金色が、夜道を来る人の標になるように。闇の色濃い夜空には、星座が輝き出している。
 けれどもその夜シオンが戻った時刻は、いつもよりも確実に早かった。
 いつものように扉を開けて、お帰りなさいをムウは言う。シオンは僅かに口元を緩め、静かな瞳でムウを見る。ささやかな衣擦れの他には物音もない、無言の中でほんの少しだけ、気遣うようなそのまなざし。
 はっとしてムウは息を呑む、まさか伝言を違うふうに解釈されたのでは、なかろうか。
 けれどもそんな、寂しいから早く帰ってきて欲しいなどとまさか、わたしがあなたに言う筈も無いのに。そんな誤解を、どうしてあなたが。
 しばらくだけ迷って言葉をかけた。いいえシオン。そうではなくて。意を決したように真っ直ぐに見つめる、遮蔽された彼の、瞳の奥を。
 朝からずっと心配で。……少し疲れているでしょう?
 遠まわしに伝えるメッセージ。わたしは気付いているのだと。
 いいや、と意外そうな声音で応えてシオンは笑う。別に大したことはない、おまえの気にやみすぎだろうと。その笑みの色にムウは唇を噛む。あまりにも静かで綺麗すぎる微笑み。
 ご存知でしたか、シオン。無粋を知りつつムウは敢えてそれに触れる。あの聖戦から一年経つのだそうですね。今日帰り道で偶然ミロと会って、何だかそんな話になって。……シオン。
 ねえ。
 叫び出したいのをこらえてムウは口を噤む。無言で微笑むそのひとの横顔の静けさに。そのまま遠くに行ってしまいそうな気がした。……泣きそうになった。

 あなたがそんなに沈んでいるから。

 長椅子に掛けたシオンをまっすぐに見おろして、その正面にムウは立つ。悲しみが滴り落ちている。他にどうすればいいのかわからない。立ち尽くすムウをシオンが見上げる。訝しむように、ほんのかすかに眉根を寄せる。

 息を殺して瞳を閉じて、ムウは最後の永遠の一歩を詰める。





 重なる湿ったその感触に、シオンは思わず眼を見張る。意外すぎるその行動に、一瞬幻覚かとも思ったけれども。
 柔らかく濡れたこの温もりは、確かに彼の唇で。
 あの健陀多の前に降りてきた、金色の光の蜘蛛の糸のようだ。何かを考える前にぼんやりと、そんな童話のようなことを、思った。

 もしもかつてわたしがおまえをここまで導かなければ、戦うことも人を殺すことも、おまえは知らずに済んだのだろう。自ら死地へと向かうことを望む、過酷な聖闘士の生き方さえも、一度も知らずに済んだのだろう。
 自分が教えてしまったという罪の意識が胸の奥に在る。誰に漏らすことも許されない、唯の人間としてのささやかな感傷。
 彼を死なせかけたあの日の記憶。
 薄闇から浮かび上がる暁の光の中で。戦いと殺戮の泥濘にまみれ、その血でおまえをも染めたわたしには。
 その身に触れる資格など、無いような気がしていた。

 視線の端で金の髪が揺れる。その光が美しいとシオンは思う。眼と鼻の先のムウは真面目な顔をして、至近距離からキスをする。緊張した面持ちで固く瞳を閉じて、浅く優しく不器用に、ついばむような長いキスをする。
 唇を重ねたまま、祈るようにずっと。かすかな痕跡を、繋ぎ止めるように。
 おまえからキスなど、珍しいな。
 声には出さずにそう呟きながら、微かにわらってシオンは見つめる。そうして静かに瞳を閉じて。
 シオンは世界へそっと手を伸ばす。



 温かな手がそっと髪を撫でる。その感触に一瞬だけムウは眼を見開いて、泣きそうな想いで再び瞳を閉じる。
 ああ、受け入れてくれたのだと。
 唇と唇を浅く交わし合ったまま、シオンの身体にムウは手で触れる。シオンの右手がその手に重なる。
 静かな動きで引き寄せられる。

 この先どこへたどりつくのか、あなたもわたしも知らなくていい。


《END》

***あとがき***
割とどうでもいいんですけど、東雲はしののめと読んでください。
(ルビが打てないのがもどかしかった部分)

ちなみにこのお話は「ellen」のクリコさんと、「カヒガロ」の田中色居さんとお話しているうちに
何だか色々コラボ的に発展してしまったお話です。萌えイラストパワーも巨大でした。
お二人がいなかったらこのお話はありませんでした。(捧げます!愛を込めて!)

いやしかしそれにしても宿題って緊張しますね難しいですね。
どうかあの萌えの百分の一でも伝えられていればよいのですが。

ちなみにこのあとのミニ話も出てきてました→おまけ

***追記***(2007.9.24)
ちょっと前からですがクリコさんのところに例の萌えイラストがアップされております!
ログ集の「5」。何度見ても萌え死ねる。ははは。


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Written by T'ika /〜2007.7.8