CELESTIAL BLUE



 心の果てまで染め抜くような、永遠の青の下であの人を待つ。

 いつもの場所で空を見る。瞳の中に天が落ちてくる。遥かな高みへとそびえ立つ、ここはヒマラヤの巨大な峰の上。世界のどこよりも高い山脈は、塵ひとつなくくっきりと澄みきった、無限の虚空にさらされている。夜の露出と見まがうほどに、晴れわたる空の奥はくろぐろと蒼い。さえぎるものもない透徹の中、身を焦がすような灼熱を放ちながら、白銀の太陽がじりじりと燃える。
 天の頂きに腰かけて、わたしはあなたを待っている。祈りのように幾たびも、心に思い描くのは、遠く恋しいあの姿。時空のはざまをふいに切り裂いて、荒れ果てたこの地へ音もなく降り立つ、炎のようなあの姿。癖のある長い髪に高山の風を受けて、流れる法衣の裾をはためかせ、あなたは静かに空を仰ぐだろう。それからゆっくりと振り向いて、その強い瞳がまっすぐに、わたしの心を射抜くだろう。
 そうしてまなざしの奥が少しだけわらうのだ。
 岩と山と空と、永遠と。この土地のすべてを包みこむ、苛烈で優しいあなたの小宇宙。人の世の外れの荒漠に立つ、果てしない孤高のその影は、美しい金色の光のようで。
 その姿を初めて見た時は、古い古いヒマラヤの昔話のように、神様が舞い降りたみたいだと、思った。

 吸い込まれるような天上の蒼は、あなたの深いまなざしの色。

 わたしの視界を埋めつくす、その双眸に手を伸べる。どんな生命も育たない、訪れる人のひとりもない、この魔境では時さえ止まったかのようで。どこまでも限りなく広がる永遠を見上げていると、ここが空の頂きなのか、それとも蒼い水の底なのかすら、だんだんとわからなくなっていく。
 むかし見た湖をふと思い出す。
 万年雪の奥底深く、千年も眠る深いうみ。岩と氷に閉ざされたこの山脈の、幾重もの孤絶のただ中に、ぽっかりと湛えられた蒼い水。足を踏み入れる者もない、忘れ去られた湖のその静けさに、わたしは息を呑んでただ魅入られて。
 その傍らであなたは高い空を見つめ、少しわらった、ような気がする。

 ちっぽけな痛みも苦しみも、過ぎ行く時の流れさえも忘れ、わたしは世界に眼を奪われて。何も言わずただ密やかな約束のように、あなたはわたしの側にいて。生き物を寄せつけぬ高地特有の、一切の不純物を含まぬ水は、怖いほど底知れず青く透きとおり、何者にも犯されぬ静謐の中、その深淵には天の色が溶け込んでいた。
 強く、深く、果てしない、ラピスラズリのような蒼。
 おまえの心は感じるだろうか。この湖には神が在る。わたしの頭上でささやくように、古い言い伝えをあなたが語る。限りなく天に近いこの高所では、あらゆる峠に泉に峰に、神々や精霊たちが舞い降りるのだと。気が遠くなるほどの長い時を超え、この土地に宿り続ける永遠の意思。今はもう忘れられて久しいけれど。
 人の眼に見えぬものが在ることを、おまえは憶えておくといい。
 風の隙間をこぼれおちる、その声があんまり優しくて。わたしは思わずあなたを見やる。光のまぶしさに一瞬の眩暈。遥かな空の高みから、世界のすべてを見透かすように、あなたはゆっくりとわたしを見下ろす。

 その双眸の深い青。

 そんなにこの湖が気に入ったのか。随分と長い間、見とれていたな。あなたがわらう。蒼いうみが光る。わたしの胸を締めつける、底知れず静かなその眼の色は、この世で一番好きな青。初めて出会った時から魅入られたまま。
 わたしは俯いて少しだけ迷い、それから小さく頷いて、言葉は心の中だけで飲み込む。……それは、シオンの瞳の色だったから。
 あなたはしばらく無言でわたしを見つめ。
 やがてまたゆっくりと湖を見て、そんなにこの蒼が好きなのだったら、それではギリシアの海も気に入るかなと呟いて、揺るぎない天の色のまなざしでもう一度、静かに笑んだ。



 あの微笑みを、思い出す。くりかえし、くりかえし、この胸の奥で。飽くこともなく、祈りのように。わたしの魂を焼き焦がす蒼。
 ここでずっと、あなたを待っている。
 遥か足下に世界を置き去りにして、このヒマラヤは地上のどこよりも高く、この地上のどこよりも天の果てに近く。見上げる無限の彼方には、宇宙の闇さえ透けて視えている。遮るものなど何もない、くろぐろと晴れわたる真昼の夜空。
 月のない夜にはあなたと二人、いつもここから星を見た。百千億のきらめく銀砂のような、強く儚いあの瞬きは、白日の陽光のもとでは呑みこまれて消えてしまうけれども。それでも本当はこの空の向こうには今でも見えない星が、闇を裂いて輝く無数の星が在る。いつの瞬間も変わらずそこに在る。
 見えない星がそこに在るように、あなたもここへ来てはくれぬだろうか。
 この場所でずっと、待っている。遠く恋しい、あなたのことを。燃えさかる天の高みには、強い風に巻き上げられた氷の結晶が、閃くように時おりきらきらと光る。あたりには百葉蓮華の花弁のごとく、重なり合った雪の山脈が、空の色を映して青く咲いている。
 眼に見えぬものの意味や存在を、おまえは大切にするがいい。
 どこまでも深く鮮烈な、なつかしい永遠の青の下、わたしはあなたの声を聞く。この世で一番あたたかい、迷いなく優しい、遠いあの声を。
 いつでも、いつまでも、この胸の中で。
 決して途切れることはない。




 静けさの中で瞳を閉じる。闇の向こうにもうひとつの蒼い水が見える。耳の奥でよみがえる波の音。だんだんと大きく、近づいてくる。地の底から鳴り響く轟音のように。
 わたしをあの朝に引き戻すために。
 誰もいない廃墟の丘の上、岬の断崖にわたしは立っている。遠い沖合には弧を描きながら、水鳥の群が舞っている。どれほどの時間が経ったのかわからない。波の音だけが、ただ過ぎてゆく。
 そうやって、溢れ出る宝石を溶かしたような、蒼い蒼いギリシアの海を見ていた。
 剣の峰も、雪もなく。凍てつく氷河の風もなく。澄んだ陽差しに照らされて、広い滄海はなだらかに世界を満たし、大気はどこまでも濃く円やかで。ささやくような波の音。髪をそよがす光の微風。潮の香りが肌に絡みつく。丘を包む暖かな磯の空気には、かすかな鉄の味がする。
 血潮の匂いと混じりあってもう分からない。
 明け方の海にただひとり、時を忘れわたしは立っている。粗末な平服の布地には、乾きかけた返り血が点々とこびりついている。ほんのついさっきまでまだ濡れていた。星の流れる長い長い夜、無数の怒号と混乱の中で、幾人の追っ手を死なせたのだろう。大切なはずのことなのに、覚えていない。
 立ちつくしたまま、海を見る。明るく穏やかな、海を見る。沖の孤島には灯台の影。あの日本の老人は今ごろ船に乗り、遠い故国を目指して港を発ったのだろう。腕の中には赤子を抱いて。数え切れぬ者たちの運命を抱いて。
 明けてゆく世界にあなたはいない。
 糸が切れたようにわたしは佇む。視界のすべてを蒼が染め上げる。言葉もなくただ、佇んでいる。水平線までひろがる輝きは、いつかあなたが話してくれた、深い深い紺碧の海と空。吸い込まれるように鮮やかな、遠い無限をうつす色。
 その蒼はあまりに美しく、残酷なほどなつかしく優しくて。
 わたしの世界が終わった今も、この永遠は変わることさえなく。透きとおるように静かに、わたしを染める。蒼く、優しく、この胸のなかを。
 いつまでも、いつまでも、傷跡のように。




 いつもの場所で、空を見る。燃えたつような蒼のなか、遠いあなたを待っている。わたしの光。わたしのすべて。
 あなたは今もそのまなざしで、わたしの魂を支配する。
 宇宙の静寂にさらされた、この山は無窮へつづく場所。輝く尾根の切っ先は、天の果てにひらかれた光の玉座。神々や精霊が舞い降りるこの場所で、待ち続けていればいつの日か、わたしはあなたに逢えるだろうか。見えない星が輝くように、あなたもここに降りて来てくれるだろうか。
 深く静かなあの双眸は、この胸のなかで色褪せることもなく。
 この場所でずっと、待っている。天に縋って待っている。二度と帰らぬあなたのことを。星の流れるあの長い夜に、最期の小宇宙が消えたきり、亡き骸に逢うことも叶わぬあなたのことを。
 呼吸が止まる。世界が歪む。声もなく、涙さえ流せず、嗚咽が漏れる。誰にも聞こえない、静かな嗚咽。絶望の中で夢に見る。見えないあなたの、見えない影を。
 想いを伝える言葉さえない。
 来ぬ人を待つ。この山で待つ。深い瞳に抱かれながら待つ。血に濡れた心で仰ぎ見る、世の果てはなつかしい天上の蒼。
 あの微笑みを思い出す。静かな温もりを思い出す。闇の果てまで貫くような、揺るぎない強さを思い出す。狂おしく。痛みのように。焦がれつつ。
 そしてあなたの死をおもう。

 幾千回も。


《END》

***
→少し長いあとがき



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Written by T'ika /2008.4.1〜2008.10.6