1下村正太郎

下村正太郎氏御所蔵品第二回入札 明治43年12月5日 京都美術倶楽部
大丸下村家所蔵品入札 明治44年6月8日 京都美術倶楽部

 下村正太郎は、江戸時代中期、下村彦右衛門正啓が京都伏見に創業した呉服商大文字屋(大丸)の12代当主。大丸は、明治維新後の近代化の波に乗ることができず、経営上の苦境に陥り、正太郎の父11代正太郎も急死したため、早稲田大学在学中であった正太郎は、急遽退学し、大丸の再建に携わることとなった。正太郎は、伝来の家財等を売却し、借財の整理に当たる一方、大丸を近代的なデパートへと改革することで、苦境を脱することを企図した。
 その家財整理の一環として企図されたのが、伝家の美術品等の入札による売却である。下村家の入札は5回にわたって、京都美術倶楽部において実施された。京都・大阪で江戸時代以来の老舗として威勢をふるってきた大丸の伝来品だけに、江戸後期の京都・大坂画壇の著名画家の作品が数多く含まれていた。
 その中で、特に注目されるのは、『大丸下村家所蔵品入札』の表紙に掲載される祇園南海筆「墨竹図掻取」(現、メトロポリタン美術館)である。この作品は、江戸中期、泉州泉佐野の豪商で、江戸中期の儒者、文人の支援者として知られた唐金興隆が、その妾の婚礼のため、紀州藩儒であった南海に、執筆を依頼したものであった。興隆の曾孫(ただし、興隆には実子がなかったため、義理の曾孫)が大丸下村家に嫁入りした際、これを持参したものであるという。『大丸二百五拾年史』(大丸二百五十年史編集委員会編 株式会社大丸 昭和42年)は、下村家6代目の下村正立の妻女について、「正立の妻貞は泉州の富豪唐金家の女で、正立二十二歳の寛政九年に入嫁した。その嫁入り道具の豪華が語り草になったと伝えられている」としており、この時に下村家に齎されたものであろう。江戸時代中・後期の上方における豪商の縁戚関係とかれらの文人文化の継承を象徴する作品といえよう。
 なお、この「大丸下村家所蔵品入札」には「垂裕堂十二景詩歌巻」が収録されているが、この垂裕堂とは、唐金興隆の書斎名であり、これも「墨竹図掻取」同様、唐金家から下村家に伝来した作品と思われる。