2西本願寺大谷伯爵家

大谷家(本派本願寺)旧御蔵品入札第一回 大正2年4月1日 本派本願寺御殿
大谷家(本派本願寺)旧御蔵品入札第二回 大正2年4月25日 本派本願寺御殿
大谷家(本派本願寺)旧御蔵品入札第三回 大正2年5月6日 本派本願寺御殿
西本願寺大谷家御蔵器 大正2年11月7日 西本願寺御殿

 西本願寺門主の大谷家は、浄土真宗開祖親鸞聖人の血脈を引く家系であり、同寺の歴史とともに、多くの美術作品・文化財を収蔵してきたことは、今更いうまでもあるまい。現在においても、多くの美術作品・文化財を所蔵する西本願寺ではあるが、大正初期に実施した4度の売立により、多くの美術作品・文化財が流出した。
 明治後期、西本願寺門主の地位にあった大谷光瑞は、中国西域地域等の仏教遺跡等の探索のため、大谷探検隊を三次にわたる派遣した。また、神戸六甲山の別荘二楽荘の建設などへの巨額な出費が、光瑞の大きな負債となり、その返済に西本願寺教団の資金を用いたという疑獄事件にも発展した。そのため、光瑞は、門主の地位を離れ、大谷家の美術作品・文化財も処分されることとなった。
 この入札で、特に注目されるのは、「大谷家(本派本願寺)旧御蔵品入札第一回」に出品された尾形光琳「燕子花図」屏風(現、根津美術館)である。この作品については、105,000円で、鶴印と通称する同寺勘定方、壇信徒、関係者の設立した団体が落札し、本山からの流出を防ごうとした (『書画骨董雑誌』大正2年4月号) 。しかし、翌大正3年、早急な借財整理の必要に迫られたことで、根津嘉一郎に50,000円で売却されたという(『書画骨董雑誌』大正3年6月号)。
 一方、「西本願寺御蔵器入札」に出品された伝牧谿「半身達磨図」は、50,000円で山中商会の山中吉郎兵衛が、自身の所有のため落札した。この吉郎兵衛が大正6年に亡くなった後、川崎男爵家に納められが、昭和3年の川崎家の入札会に出品された際、再び山中商会が買い戻したという(『骨董太平記』)。
 5回の入札を通じての西本願寺大谷家のコレクションの流出は、美術作品・文化財が、本来の所有者の許から離れたものであることでは、惜しまれる出来事であったが、これらの中には、その後の大正・昭和前期の大入札会時代に、たびたび入札に付されて、美術に関心を有する者の話題を占める物もあったし、また現在、多くの美術館に所蔵されているものも多い。