壁に取り付けたスクリーンには、青い星が映っていた。

海の濃い藍と白い雲が織りなす自然美。おもむろに見つめていた時ふと、広い藍の中の一点で視線が止まった。

自然と口から零れる言葉―――

 

「…君だったら、なんて言ってくれるかな…」

 

飾り気のない無機質な室内は、スクリーンとローテーブルとソファーのみ。

戦争を知らなかった子供のころはもっと明るい部屋で、お気に入りのおもちゃを出しっぱなしにしては母――カリダに怒られてばかりだった。

何処にでもいる、普通の男の子がそうであるように。

しかし、最初の大戦で、あの事実を知ってしまってから、何処か空虚な自分になってしまった。

 

―――『最高のコーディネーター』―――

 

無機質な冷たい人工子宮の中で、数多の同胞…いや、兄弟と言っていい…彼らを犠牲にし、得たこの命。

(―――「力だけが、僕の全てじゃない!」)

そう言って自分のアイデンティティーを保持したはずだった。

「だけど…」

ソファーに身を沈めたまま、ポツリと呟きが漏れる。

おもむろに自分の両手を掲げ、照明の光源に逆光を受けるその手は、黒々としていた。

黒…いや、寧ろ血で赤く染まっている。どす黒い血の色だ。

自分の、そして守りたいと思った仲間たちの命の為、結局はその「力」で敵の血を流し、その命を奪ったことに変わりはない。

 

その黒い手で顔を覆う。

知りたくなかった。あのまま無邪気な子供のまま、生きていきたかった。

そうすれば、自分の出生の呪いも知らずに、戦いも知らずに、平穏なまま生きて行けたかもしれないのに。

 

あの時―――そう、ヘリオポリスの地下施設で、Gシリーズを見つけなかったら…

マリューさんを助けなかったら…

そうしたら、ストライクに乗ることも、アスランと戦うこともなく、さらには自分の出生の現実をクルーゼから突き付けられることもなかったのに。

 

「違う…そうじゃない…」

首を振って否定する。

なんでこんな他人のせいにする考えが浮かんでしまったんだろう。

マリューさんを助けに行ったのは僕の意志だ。

アスランと戦うことを選んででも、友達の命を守るために連合軍に入ったのも僕の意志だ。

でも、クルーゼから突き付けられた現実だけは、見たくなかった!聞きたくもなかった!

なのに―――

 

<コンコン>

「っ!」

突然予期せぬノック音がして、僕は慌てて起き上がった。いつの間にか僅かに滲んだ眼尻に残っていた光るものを、乱暴に拭ってドアに向かう。

(誰だろう…今日は面会の約束とか入っていないのに…)

またジュール隊長が「貴様、こんな記録書もロクに書けんのかっ!」と文句を言いに来たのかもしれない。

寧ろ今はその小言でも聞きたい。脳裏に浮かぶ嫌な靄が、あの怒鳴り声でかき消えてくれるなら。

そう思ったが、ドアの前にいたのは、イザークではなく、寧ろ真逆の人だった。

「こんばんは、キラ。」

「ラクス…どうしたの?何かあった?」

ラクスはいつも部屋に尋ねてくるときは、事前に声をかけてくれる。でも今日はそれがなかったのでびっくりした。

そんな様子の僕に、ラクスは、

「今日は何の日か、覚えていらっしゃいますでしょう?」

そう言って空色の優しい瞳をニコニコとさせて、彼女が後ろに隠し持っていた物を、そっと差し出してくれた。

「お誕生日、おめでとうございます。キラ。」

「え…」

思わず目をぱちくりして思い返す。

「今日って…」

「『518日』ですわよ。お互い忙しい身の上、でもせめてこのくらいは、ご一緒させていただきたく思いまして。ケーキを作ってみましたの。」

隠し持っていた箱の中はケーキみたいだ。

「ラクスが作ってくれたの?」

「はい!」

曇り一つない満面の笑み。眩しくって美しい。

「ありがとう。嬉しいよ。」

自然と口角が緩む。

 

不思議だ。

ラクスの心には曇りがない。

そのせいか、僕の心にかかる靄が、彼女から凪いてくる風でゆっくりと晴れていく感覚を覚える。

 

「お茶、入れますわね。」

時々様子を見に来てくれるため、僕の部屋のどこに何があるのか、そして何が無いか、ラクスは十分に把握している。

しっかり用意してきたらしい、彼女の好きな紅茶の葉。クライン邸で保護された時、よく出してくれたリーフの味がした。

二人並んで座るソファー。そうして切り分けてくれた、イチゴの乗ったケーキを口にする。

「美味しい…」

「よかったですわ。」

そう言いながらラクスも一切れ口にする。すると、彼女にしては珍しく、唇の端にクリームを残していた。

「ラクス、唇にクリームついてるよ。」

「あらあら、私としたことが。…キラ」

「ん?」

「取ってくださいませんか?」

「え!?///

彼女がこちらにしっかりと向き、目を閉じて触れるのを待ってくれている。

「…」

ふと僕が伸ばした指先が、そっとラクスの唇に触れ―――る前に、急に何かに拒まれたように手を下ろしてしまった。

 

「…キラ?」

ラクスが薄く目を開けば、そこに映るのはきっと一番見せたくない僕の表情。

初めて出会った時から、僕は彼女を前にして、何時もこうして思い悩んで苦しむ表情ばかり浮かべている。

大戦が終結し、軍人でなくなったあとも、何か心は虚空を彷徨うようなままだった。

笑顔を見せてあげなきゃいけないのに、ずっと彼女は支えてくれたのに、それをしたくても、時々急に僕の心を何かが締め付けてくる。

「…いかがされましたか?」

ラクスは下ろした僕の手に、そっと自分のそれを重ねた。

 

柔らかくて、温かいその手はいつも彼女から触れてくれる。

何時も先に触れるのはラクスの方だ。

確かに二度目の大戦で、何度か命の危機を乗り越えたとき、感極まって二人で再会した時抱きしめ合ったこともあったが、それ以上の関係にはどうしても進めない。背中からいくつもの黒い手が伸びてきて、光まばゆい彼女に触れるのを許そうとしない。

 

もう誰憚ることのない恋人同士だと思いたいのに、心は繋がっているはずなのに、まだ最後の枷が、僕を諫め、彼女に手を伸ばすことができないんだ。

それでも―――ラクスは僕を責めはしない。

 

かつて彼女は言ってくれた。

「キラは悲しい夢ばかり見てきた。」と

彼女からの接触は、少しでもその枷を取ろうと、辛い夢から引き出そうと必死になってくれる。

でも、きっと、僕の抱える闇に僕自身が決着をつけなきゃ、ここから先へは進めないのだ。今後ずっと…おそらくは、一生―――

 

責めるでもなく、でも問いただすでもなく。

ラクスは、ただ待ってくれる。僕から彼女を求めてくれるのを。

しかし、視線は口より雄弁に語っていた。

 

―――「何故、貴方は私が求めるのを拒むのですか…?」―――

 

その瞳に応えなきゃいけない。それが彼女が僕にくれる想いへの精一杯の誠意だから。

「君に、触れていいのかな、って…」

「え…?」

「僕のこの手は沢山の血で汚れているから。ううん、それだけじゃなくって…」

 

愛だと思いたかった。

少なくとも身を捧げてくれたフレイとの繋がりは、過ちだったのかもしれない。

でも、それでも縋りたかった。それしか心が逃げる術はなかった。

フレイを抱いたのは、欲に溺れてでも現状から逃れるためだった。

それを彼女に謝りたかった。でも彼女は目の前でクルーゼに殺された。

彼女に許しを越えないまま、心は穢れたままだ。

 

「僕はね、君に触れる資格なんて無いと思うんだ。…アスランの友達を殺し、それにアスランとは2度も戦い合って、殺し合った。殺したくない人も手にかけた。それより何より―――」

悔いが溢れて首を垂れる。

「僕は…何百、何千という兄弟の犠牲の上に生まれたんだ。生まれながらにして、それだけの兄弟たちを殺してきたようなものだから―――」

「違います!」

僕の言葉にラクスが否定する。彼女にしては語気が荒く、初めての叱責だった。驚いて顔を上げれば、ラクスは涙を湛えて咎めてくる。

「キラがどのように生まれてきたとしても、それは貴方が背負う罪ではありません!それに、貴方の手が血で汚れているというなら、私も、既にこの手は血で汚れきっています。」

「ラクス!?君はそんな訳―――」

「私はこの手で二人は確実に殺しています。」

彼女の口から「殺す」などという言葉が出るなんて…驚きのあまり絶句していると、ラクスが顔を歪めた。

「貴方もご存じのはずです。私は最初に最も大切な人を手に掛けました…私の父です。そして…二人目はミーアさん…」

「ラクス、それは違―――」

「いいえ、貴方が自分の手が穢れているとおっしゃるなら、私も同じです。私が動けば父に嫌疑がかかると分かっていながら、私はそれでも貴方にフリーダムを託しました。その結果、父は…」

彼女は俯く。全身を振るわせて。長いピンクの髪の隙間から、光るものが落ちている。

たまらず僕はラクスの肩を抱く。俯いたまま、絞り出すような声で彼女は続けた。

「そして、ミーアさん…彼女は私が動いていれば、あんな形で彼女の夢を、歌を、そして命を奪うようなことはなかったはずです。私が手にかけたのも同じこと。」

 

「それは違うよ、ラクス」と言ってあげたい。

だが今のラクスの告白は、そのまま僕に返ってくることを意味する。

そんな陳腐な慰めなど何の救いにもならない。ということは、彼女にとってもそれは同じだ。

何と言って支えてあげたらいいのだろう。

きっとこんな時、カガリだったら、誰よりも欲しい言葉をくれるはず。

双子なのに、心に触れる力が似なかったのは、僕だけが母の身体から生まれ出たものではないからなのだろうか。それとも、遺伝子をいじられた結果、最強となるためにはいらぬものと、消されたものなのだろうか?

 

「…」

ただ黙ってラクスに触れるしかできない。力を持っていても、人ひとりの心も救ってあげられないのだろうか。

暫くしてラクスは「申し訳ありません…」と涙をぬぐいながら顔を上げた。僕は首を横に振る。

「謝るのは僕の方だよ。ごめんね、ラクス。でも僕はこんな人間なんだ。君は言ってくれたよね。「優しいのはコーディネーター同士だからじゃない。僕だからだ」って。僕も思った。「力だけが僕の全てじゃない」って。でもどうしても時々怖くなるんだ、自分自身が。そしてこんな人間が、君みたいな無垢で綺麗な心を持つ人に触れていい資格はないって…」

「キラ…」

ラクスが僕の頬に手を伸ばし、その優しい指先で、いつ気づいていたのか、先ほど眼尻に残していた雫を拭ってくれた。

「貴方がそうおっしゃるなら、私も同じです。私の発する言葉一つで、多くの命が奪い奪われました。今謝ったところで、彼らはもう帰ってくることはできません。ですから私が彼らにできることはただ一つ―――彼らの一番の願いだったはずの「もう戦争を起こさない」こと。そして、ナチュラルでも、コーディネーターでも、何処の国の人でも、どの言葉を話す人でも「同じ人間」であることを伝え続けること。これが私の罪の償いです。そして―――」

ラクスは視線を天に向けた。

「私があちらの世界に行った時、父に、そして母に、あの戦争で亡くなった多くの人に「ラクスはここまでやりました」と、胸を張って伝えられるよう、精一杯今を務めること。それが奪われた命への何よりの償いです。でも私1人では成し得ません。私にはキラやアスランのような戦う力はありません。あるのは言葉…でも言葉だけではダメな時もあります。だからその時は―――」

ラクスは涙の痕を残しながら、微笑んで言った。

「キラ、私を助けてくれますか?」

 

澄み切った心の持ち主だと思った。そして強い心の持ち主だと思った。

だが、彼女もまた「人間」の一人だ。完ぺきな存在ではない。

だから思う。彼女を心から助けたい。いつも傍らにいて、支えてあげたいと。

 

「こんな僕で、いいのかな…?」

「貴方だから良いのです。私は、どんな貴方であろうと、貴方を愛する私を誇りに思っています。」

そして彼女は思いの丈を込めた。

 

「生まれて来てくださって、ありがとう。キラ。何回でも言います…私は貴方に会えて、本当に幸せです。」

 

こんな僕を必要と言ってくれる。

生まれて来てくれたことに感謝してくれる人がいた。

 

―――「ほら、行けよ。」―――

 

久しく聞いていない声が、耳元で囁いた気がした。

促されるようにして、ラクスを抱きしめ、そして

「僕も、君に会えてよかった。ラクス。」

腕の中でラクスがそっと目を閉じる。

僕の背にいくつも絡みついてきた、あの沢山の黒い手は、いなくなっていた。

代わりに背後から、金色の柔らかい風と、優しい翡翠がそっと僕を押してくれる…

促され…ううん、僕の意志で初めて重ねた唇は、優しく温かく、雲の隙間から日差しが切り開いていくように、澱を押し流していく。

 

心がさざ波立つような喜びと、温もりに満たされると、ゆっくりと唇が離れた。

そして今度こそ、心から口にできた。

「僕の隣にいてくれて、ありがとう、ラクス。」

「私も、傍に居てくれてありがとうございます。…でも、貴方の傍に居るのは私だけではありませんのよ。」

「え?」

イザークやディアッカのことだろうか。

そう思っていると、ラクスがパッドを差し出してくれた。

「実は私、今日のこの日のために、カガリさんから伝言を頼まれていましたの。」

「え?カガリから?」

「はい。といっても、カガリさんには映像録画の許可は取っていないのですが、直接キラにお届けした方がいいという、私の独断です。」

「カガリさんには内緒にしてくださいませ」と茶目っ気を込めて言いながら、通信動画を再生し始めた。

そこに映し出されたのは、久しぶりに見た僕の半身―――

 

(―――<ラクス、忙しいだろうけど、518日はキラの傍に居てやってくれないか?>)

(―――「えぇもちろん。キラとカガリさんのお誕生日ですもの。でもどうしてわざわざ?」)
―――<アイツな、誕生日になると、いつも凄く思い悩む表情をするんだ。>)

カガリが手にしたのは、僕も持っている、生みの母と思われる人と二人の映る写真。

(―――<アイツは話してくれないけど、きっと一人でそれを抱え込もうとしているんだ。私を巻き込まないようにって。でも―――>

カガリが写真に落としていた視線を上げた。

<―――<キラは何があってもキラだ。お前はきっと自分の出生を責めているかもしれない。でもな、お前は力を手にする前から、既にもう、一人の人間の命を救っていたんだ。そう―――『私』だ。>)

「僕が?カガリを?」

僕が驚くのをまるで見ているかのように、カガリは優しく語りだした。

(―――<私は「キラ」に助けられたんだ。あの日、ヘリオポリス地下のGシリーズを見つけてしまった後、ZAFTの攻撃を受けたときだ。あの時、お前がいなかったら、私は多分あのままあの施設に取り残されて、もうとっくにこの世からいなくなっていたはずだ。それはコーディネーターじゃない。最強の力を持っているからじゃない。「キラ・ヤマト」っていう人間の心が私の命を救ったんだ。初めて出会った時も、そして再会した後も。そしてお前と出会わなければ、ラクスとも、それに、アスランとも…きっと出会えることはなかった。だからな、その、キラに伝えておいてくれ。>)

カガリは一度大きく深呼吸すると、満面の笑みでこういった。

(―――<生まれて来てくれてありがとう。命を助けてくれてありがとう。一緒に歩んでくれてありがとう。大切な人に巡り合わせてくれて、ありがとう。それから…私をたった一人にしないでくれてありがとう。…私はいつでもお前の幸せを願っている。離れていても、お前は私の大事な家族だからな。―――以上だ。>)

照れ臭いのか、その後急に真っ赤になって、俯くカガリに、ラクスは涙を湛えながら答えた。

(―――「大事に、大事に伝えますわ。カガリさんの一言一句、決して漏らさぬように。」)

(―――<ありがとう。キラの事、よろしく頼むな。>)

(―――「お任せ下さいな。お姉様。」)

そうして、モニターの向こうの半身は、嬉しそうに何度も頷いていた。

 

(―――「…君だったら、なんて言ってくれるかな…」)

もうカガリは答えてくれていた。僕が聞くよりも前から。

 

―――「生まれて来てくれてありがとう。

一緒に歩んでくれてありがとう。

そして、私をたった一人にしないでくれて、ありがとう。」―――

 

カガリの声に、心が透き通っていく。

彼女を通して、僕とカガリの、出会うことのなかった兄弟たちまで、僕の存在を許してくれているような気がして。

幾筋も温かいものが、頬を流れていった。

(涙が…止まらないや…)

まるで幼子に戻ったように、泣きじゃくりながら何度も腕で乱暴に涙をぬぐう。

「僕が力を…ストライクを手にする前から、僕は、カガリを…」

「はい。貴方が生まれ出る時、もう貴方はちゃんと守っていたのです。多くの犠牲があった中でも、唯一無二の兄弟の命を助けるという約束を。きっとお母様はお喜びですわ。」

ラクスが写真を見つめる。慈愛に満ちたその笑顔―――今の二人を見たら、きっと彼女は変わらずあの笑顔で、カガリのように何度も頷いて、喜んだに違いない。

「そう…なんだね…僕はここにいて…」

「はい、貴方がいてくれて、良かった。だから一緒に今度は守りませんか?未来を―――」

「…うん。ありがとう、ラクス。」

そう言って再び唇が重なり合う。

 

この先を望みたい。でも今は慌てなくていい。

この先の未来はずっと守っていく。

守り抜いた先に、きっと二人が結ばれる未来がある。

時が満ちるのを待てばいい。この先を生きる楽しみができるというものだ。

 

唇が離れると、お互い自然とスクリーンに目を移す。

丁度あの海の上に、もう一人の自分が生きている。

「カガリも今日は誕生日、祝ってもらっているかな?」

「もちろん、アスランですもの。きっとカガリさんが驚くようなプレゼントを用意していますわ。」

かつてたった一人でヘリオポリスに乗り込んできた無鉄砲な少女が、今やあの青い星を抱いて守る地の女神。

彼女がいなかったら、きっと今の地球はなかったと思う。

そして…僕は君と出会わなかったら、今の僕はいなかった。

そうだね、カガリ。

今の自分が幸せなのは、歩んできた道の結果なんだ。

もう、振り返らない。懐かしむことはしても、後悔はしない。

 

だから、それを教えてくれた君へ―――僕と一緒に生まれてくれて、出会ってくれてありがとう。

 



・・・Fin. (&To be story of the other self.「Cagalli」)