愛が強すぎる子             もどる

私が研修した病院は600床の大きな病院だった。一つの病棟が50床くらいで、病棟医は一人か二人で、研修医がくると、どこかの病棟へ配置され、病棟医が指導医となって、指導をうけることになる。はじめの半年、私は女子病棟に配置された。病棟医は二人いて、大がらで大らかな医長と、三年目になるレジデントだった。そのレジデントは、きれいな字で、仕事も、全くミスがないコンピューターのようなブラックジャックのような、病院の強い戦力的存在だった。名前を仮にA先生としておこう。別の病棟の背のたかいコンピューターにくわしいB先生に通院でかかっていた女の患者が症状悪化して、入院することになった。B先生は男子病棟うけもちだったので、入院中はA先生が主治医になることになった。患者の意に反しての医療ホゴ入院である。患者はよほど、医者−患者の信頼関係がよかったのか、というか、B先生には内からにじみでるしずかなやさしさ、があり、B先生に全幅の信頼を寄せていた、というところだろう。その子はB先生という強い心のささえ、があったから生きてこれた、といっても過言ではないように思える。その子はB先生を医師としてだけではなく、一方的に恋愛的な感情も、入れていたようだ。いかなるものも私とB先生をひきはなすことはできないわ、といったカンジ。
外来で、入院に納得しないので、B先生が呼ばれて、やってきた。すると、その子は、トコトコとB先生のフトコロに入ってきて白衣にしがみついて「B先生でなきゃいや。」と言う。その子は愛が強すぎるのだ。女子病棟では、病棟主治医制がわりとつよい。主治医制はグループ診療より責任の点でいいが、融通はつける。受け持ち患者以外は、みてはならない・・・ということはない。夏休み、その子の主治医のA先生が一週間休みをとって、結婚したばかりの女性とハワイへいってきたが、その間の主治医は、もう一人の上のベテランDrで、権力をもった人だが、心も体同様おおらかで、いっつも宇宙人的な笑い方をする。地球人的笑い方ではない。エート。A先生がハワイへ行く前、その子が「先生。ウフッ。来週、ウフッ。私の主治医のA先生が、ウフッ。休みますけど、ウフッ。先生は主治医でないけど、ウフッ。はなしてもいいですか、ウフッ。」と言う。その子は性格がいい、かわいい子なので、ちょっとやりにくい。私とて本心は・・・。が、医者にあっては、モラルは本心に絶えず勝つ。その子の主治医のA先生は美形だけど、ちょっとキビシイ先生で、ある別の患者が「先生はキビしすぎる。ぜんぜんほめてくれない。主治医をかえてほしい。」と言ってたが、その訴えは私も感じていたことではあるが、なぜかというと、「先生はキビしすぎる。ぜんぜんほめてくれない。指導医をかえてほしい。」と私も思っていたからである。キズつけるわけにもいかず、かといって医者はラブラブごっこしているわけじゃなく、あえていうなら、その子は愛が強すぎて、人間関係を恋愛妄想的に考えてしまう。キビしくしてはキズつけるし、やさしくしては、恋愛妄想を強めてしまう。やりにくい。わたしは美形ではないが、患者の話を一心にきくので、その子も、なにかの時「先生には先生のよさがあるんで・・・。」と言ってたが、「はなしていい?」(○とかXとか手できく)ので、ニガ虫をかみつぶしたような顔でしぶしぶよそを向いてうなずくと、翌週の朝、さっそくはなしかけてくる。早足に行こうとすると「どうしてそんなにサッサと歩くの?」と言ってくる。医療は不倫ごっこではないのである。かわいいが、しかるわけにも親しくするわけにもいかない。その子はナースセンターにきて、(患者は症状が悪くなると自己中心的になる)「B先生と話したいからデンワつないで。今すぐ。病院の中にいるんでしょ。全館放送して。」という。ふつう、まじめなDrは、ここでしかるが、私は原則をやぶろうとしたがる性格があるので、よーし交換に言って全館放送したろかーと思ったが、そこまではしないで、B先生の病棟につないで、その子に受話器をわたした。その子は一心にはなしていたが、少し話してから、私が呼ばれ、患者が言ったからって電話かけてくるな、ともっともなことをいわれた。その子はB先生に詩をかくからわたして、といって、詩をかいた。「看護婦さんの仕事はたいへんなのよー。知ってるー?」と言う。(たいへんにしてるのはあなたじゃないか。)「知ってるよ。」と言うと「どうしてわかるのー?」ときく。「いや、想像すれば、何となく・・・」と言うと「あはっ。想像すれば?じゃあロマンチストなんだ。」なんて言う。(ロマンチストなのは詩でメッセージをかくあなたではないか。)その後、その子が、何か要求したが、何だったか忘れたが、私はあんまり相手を直視して話ができないので、その子の長々とした説教をきいてるとだんだん顔が教師にしかられる生徒のように、うつむいてくる。と、彼女は「人と話をする時はちゃんと相手の顔をみなさい。」ともっともなことを言う。三回くらいいわれた。ナースがその子に「あなた。B先生だっていそがしいのよ。○○先生はやさしいからって、先生に命令するなんて失礼なのよ。」とちょっとキビしくいわれると、本当になきそうな声で「ゴメンなさい。ウェーン。ゴメンなさい。」という。本当にやりにくいかわいい子である。男子病棟へ移って、そこにすっかりなれて、四ヵ月くらいしたら病院の歌謡大会があって、女子病棟では、その子が「love is all music」とプログラムにのってて、あいかわらずだなーと思って、その子を思い出して、かいてみたくなった。



カエルの子

その子、は、かわいい、まるい顔のケロヨンっぽい子だった。精神科の患者は、年齢より少し若く見える。体の症状の訴えの多い子で、ある夜、足が痛い、と訴えてきた。関節痛、関節痛と考えて、リウマチ、いや、既往歴にない、カゼひいた後の関節痛だからヘノッホ、シェーンライン、いや発疹がない。考えてみれば。自律神経症状で関節痛がでるんだから、関節痛を訴えたら、まず自律神経性のものと考えるべき。しどろもどろして、困ってると、研修の先生ですか、というので、はい、と答えると、緊張してますね、というので、はい、と答えると、キンチョーしないでください。キンチョーされるとこっちもますますキンチョーしてしまいます。という。当然。湿布をする。その子は別の病棟にいたのだが、病院内の都合から、こっちの病棟にうつってきたのだった。数日後、入院患者の年中行事の一つとして、6月頃だった。バスハイキングで、○○臨海公園へ30人くらいで行った。その時、その子は渚に足を入れながら、他患とうれしそうに話していた。昼食の時、私が一人で弁当たべていたら、ある患者に、先生、一人でお弁当食べておいしいですか、ときかれた。ちなみに精神疾患の患者の食べ方の特徴の一つに一人で食べるということがある。6月の頃はそんなふうで、明るくよく話す子だった。だが秋ころから話さなくなり、ついに全く無口、だれとも話さない。利き手の右手を使わず、左手で、つげられる人にだけ書いて意志を告げる筆談状態になった。こういうことはきわめてめずらしいことである。その子は自分がある上人の生まれ変わりという妄想をもってて、誇大妄想、○○学会に入っていた。七月のタナバタのたんざくに、みなさんがはやくよくなりますように、とかいたりしてて、やさしい子だった。私が彼女の筆談の相手になると、彼女は左手で、苦しそうなカナクギ字で宗教的な訴えや、個室に入れてほしいことを訴えた。個室に入れられることを自ら申し出る患者はめずらしい。その子は個室に入れられないと、念仏をとなえて、みなにメイワクをかけるから、とかいた。個室にいれてくれるなら何でもします。はだかおどりでもします、とかいた。失礼な。私がモテそうにみえないから、私が彼女のはだかおどりをみたい、と思っているのか。自分のかわいさ、に、ちょっぴり、うぬぼれているぞ。たしかにかわいいが。悲劇のヒロインぶってるぞ。だが、それは全然、彼女の認識不足。子供の見方。医者も聖人ではなく、性欲もあるが、公私混同はしない。というより、そういう感覚になるのである。なんとなれば、病人というのは、社会的弱者であり、元気がなく、体格も貧弱で、また患者として人をみている時、頭は診断のための医学辞典と化している。が、次の日、その子は、下はズボンをはかず、パンツ姿で歩いていた。彼女の意思表示である。もちろん私は目をそむけ、その子と目をあわせないようにした。そんなカッコで歩いてちゃこまるでしょ、と、ナースに注意され、やむなく、ズボンをはいたようである。その翌日、筆談でまた彼女は、みなにメイワクをかけるから、個室にはいりたい、個室に入れてもらえないとタイヘンなことがおこる、と書いた。が、きいてもらえなくて、ナースステーションにやってきて何人かのナースのいる前で、口をきかずに、目をさらのようにして、口をイーして、せまってきた。いいたいのにいえないもどかしさ。やさしい子なので、おこってもあんまりこわくない。自分の信じる宗教の非暴力で、自分をしばっている点もあるのだろう。ナースの一人が、こりゃ、カエルだね、といったが、私も内心そう思っていた。もともと、カエルっぽいかわいさの子だったが、おこった顔はますますカエルになる。その日、彼女は同室の人をみな、けっとばした。小さなハルマゲドン。力のない彼女がけっても、他患は大ケガはしなかった。が、他患にメイワク行為あり、で、隔離の理由ができ、又、しなければならず、
(基本的医療の精神はできるだけ人権尊重から、隔離はしないものなのだが、他患に暴力ふるうとなれば、カクリ、むしろ、しなくてはならない。他の入院患者の人権と安全を守り、もちろん本人の安全のためにも、)カクリで個室に入れられたら、その子はとっても明るくなり、話すようになった。信じられないような話だが、こんなことは本当にあるのである。私はそのあと一ヶ月後、男子病棟へ行って、女子病棟へは顔をださなくなったが、その子は元気に退院したらしい。
四ヶ月くらいしたある日、職員食堂で食事してたら、その子が、外来診療がおわったあとで、両親と食事してて、私をみつけると、
「あっ。先生。こんにちは。おひさしぶりです。」
と、以前の明るい笑顔で言ってきて、とてもなつかしく、うれしい気持ちになって、
「こんにちは。」
と笑顔であいさつを返した。



おたっしゃナース

あるナースについて、かいておかなければならないのだが、ナースは何といっても、医療における権限の点で、医者より弱者なので、弱者をいじめることはイヤなのだが、文人の筆にかかり、文の中で生命の息吹をあたえられることを多少は、うれしいと思ってくれるか、逆におこるか否かは知らぬが、世のHビデオでは、ひきさきたいものの上位に、ナースがあがってるが、それは医療界を知らない外野だからそう思うのであって、心やさしい聖女、なんて思ってるんだろうが、ナースは仕事がつらくて、夜勤があって、イライラしているため、とてもそんな気はおこらない。人間を相手に仕事をしている人間は神経がイライラしてしまう。パソコンを相手にしているオフィス・レディーは主客一致で、ひきさく魅力のある、やさしい聖女だろうが。で、医者でいるとナースインポになる。だが思うに、あのナースは、容姿と性格を世の男が知ったら、引き裂きたい、と、思い、それが妥当であるめずらしいケース。そのナースは、瓜実顔で、うぬぼれが、整合性があう程度にある。世の男は、女につきあいを強要するらしい。そういう男のため、こちらはどれだけメイワクをこうむっていることか。どうも、男は、女をみると、抱くことしか、考えないのらしいが、また、それが、この世で一番のたのしみらしいが、芸術家は描くことが一番のたのしみであり、他のことは、すべてえがくのに最高のコンディションが保てるようにと、思っているのだが。いずくんぞ芸術家の心は知られんや。そのナースは、私が、その病棟から、よその病棟へうつる時、去る者の優越心とともに出ていかれ、たまに顔を出されるのがいやだ、と思ったのか、おたっしゃで、と言ったが、おまえのおまんここそ末長くおたっしゃでいろ、と、ハードボイルド作家ならかきかねないぞ。いろいろ習いごとをしていたようで、積極的で、意欲旺盛で、精力が強いのだろう。そのナースが、「あなたを先生と呼んでいるのは職場の上で、いやいやそう言っているのよ。病院から離れれば、あなたなんか先生でも何でもないし、心の中から先生と呼んでいるわけじゃないのよ。」と思っていることは、ほとんど目にみえていた。こういうツンとしたナースだから、読者が、想像でひきさいてほしく候。だが6月頃、一度、病院行事で、病棟の患者30人くらい、ナース、ドクターつきそいで○○臨海公園に行ったのだが、雲一つない初夏の青空のもと、患者の手をひいて浜辺を歩いていた姿が思い出されるのだが、あの、つかれた歩き方、芸術家にとっては、さっぱりわからない、あの人間というものの姿は美しい。ナースがフダン着になると、すごくエロティックである。女とみてしまうからだろう。またナースキャップをしていると、前髪がかくされて、額が強調されるため、ナースキャップをせず、前髪が自然に流されている方が似合う。このナースは、どんなに、当直あけで、つかれていても、「先生。注射おねがいします。」と、ツンと、言うのである。心の中では、「何もできない、何も知らない無能な先生。」といって笑っていることは、ほとんど目にみえていた。病院は、医者が上でナースが下、ではない。ナースはナースでツンとまとまっていて、自分らは自分らの仕事をしますから、ドクターの仕事は、ドクターでおねがいしますよ、と、ツンとつきはなす。



本を読む少年

さて、当直病院で、何か書こう書こうと思いつつ、もっとも私には、ワンパタ、耽美的なものしか書けないが、ある若い男の子、が入院した。父も母もおらず、天涯孤独で、友達もいず、中卒後、アルバイトをいくつか、しただけの少年で、くわしいことは知らないが、病気発症し、衝動的にコンビニでカッターナイフを買って、公園で手首を切って、入院してきた少年だった。少年は個室に入れられるや、気持ちが落ち着くや、まず、「本が読みたい。」といったそうだ。病歴から少年は読書が好き、とはわかっててたが。コトバにたよりなさがあり、主治医の先生が彼を内向的と言っていたが、まさにその通りである。人といると、緊張してしまう性格と、カルテにかいてあったが、まさにその通りである。私は、つい、仲間意識を感じてしまったが、主治医になる気もないのに、おもしろ半分、興味本位で、問診するのは、よくないと思ったので、話さなかったが、おきれるようになって、たよりなげにヨロヨロ廊下を歩いているところをむこうが、「こんにちは。」と、あいさつしてきたので、私も「こんにちは。」と、あいさつした。むこうも私がコドク病をもっている人間と瞬時に直覚しただろう。その少年の顔は、はっきりみてないが、弱々しそうな内気な少年である。本を読む人間は、必ずしも勉強ができるとはいえない。読書が好きでも、学科の成績は、あまりよくない、という人間も私のようにいる。ただ本を読みたがる人間は、静かさ、が好きなのだ。マイペースで、文字の流れから、頭でイメージしていくことが好きなのである。もちろん、元気な人間だって本は読めるし、読むが、元気な人にとっては、本も刺激であり、多くは一読で、次から次ぎへと新しい本を求める。しかし、少年にとっては、パンに飢えるように本に飢えているのであり、弱々しい心がすがれる心のよりどころなのである。私がその少年の主治医になっても、けっこう波長があったかもしれない、が、性格が似ているほど相性があって、よい主治医になれる、ということもなく、その少年の主治医は、やさしく、私よりずっとベテランで、治療能力がある。それに、私は彼を描きたいと思い、えがくために離れたいと思った。しかし、開口一番、本を読みたい、と言った患者は、はじめてである。そういう少年は夏、海に行ったりしない。しずかな所で一人本を読む。だがもし仮にそういう少年が夏、海に行ったとする。すると、綿アメのような夏の入道雲、活気と倦怠、やるせなさ、をおこすあの無限の青空のもと、きわどい輪郭の水着の女性が、空同様、心にくもりは、まるでなく、あるいは女を求める小麦色にやけたビーチボーイ、が、生をおもいっきり楽しんでいるのを、本を小脇に持って、自分とは無縁の世間の人間、と少しさびしく、うらやましく思う。そんな姿がイメージされる。



婦長さん

さて、ここで私はあることをかいておかなくてはならない。ちゃんと小説をかきたく、こんな雑文形式の文はイヤなのだが、やはり、かいておきたいことはかいておきたい。今の私が研修させてもらってる病棟の婦長さんは、すごい純日本的なフンイキの女の人なのだ。当然、結婚してて、ご主人もお子さんもいるだろうが、スレンダーで、髪を後にたばねて、仕事している時の真剣な表情は柳のような眉毛がよって、隔世の美しさである。婦長さんは絶対、和服が似合う。年をとっても、美しさが老いてこないのである。若いときの写真は知らないが、今でさえこれほど美しいのだから、若いときはもっと美しかっただろうとも思う一方、年をへて、若い時にはなかった円熟した美しさが表出してきたのか、それはわからない。ともかく、今、現役美人である。街歩いてたらナンパされるんじゃないか。私は位置的に、いつも、婦長さんの後ろ姿をみるカッコになっているのだが、標準より、少しスレンダーであるが、量感あるおしりが、イスの上にもりあげられ、行住坐臥の私を悩ます。性格は、まじめで、人をバカにすることなどなく、ふまじめさ、がチリほどもなく、良識ある大人の性格。ジョークはそんなにいわず、神経過敏でなく、あっさりしていて、人に深入りしないが、あっさりしたやさしさがある。日本女性のカガミという感じ。つい、いけないことを想像していまうのだが、後ろ手に、縛ったら、眉を寄せて、無言で困惑して、限りない、わび、の、緊縛美が出そう。和服の上から、しばればいい。憂愁の美がある。婦長さんは、多くの人間がもつ、倒錯的な感情を持っていない。のだ。そういう性格が逆に男の緊縛欲求をあおるのだ。(なんのこっちゃ)婦長さんにはメイワクをかけた。あまり病棟へも行かず、医局で、せっせと文章ばかり書いていた。病棟の数人の移動があった時、歓送迎会でるといっといて、でなかった。私は、ガヤガヤした所がニガ手で。つい、でません、と興ざめなことばがいえなくて、行くと言ってしまった。翌日、先生、まってたんですよ。ナースでも、そうなんですけど、そういう時は、会費は、料理の用意はできているのだから、お金は、出席しなくても払うことになっています。料亭では当日キャンセルはできないので。他の人も、そういうキソクなので、といって、言いづらそうに会費をおねがいします、と言った。私はガヤガヤした所がニガ手だけだったので、お金を払うのは何ともない。ので後で幹事の人に払った。そしたら、すごいお礼をいってくれた。その他、すごく、何事につけ、よくしてくれた。医療は、ならうより、なれ、であり、そうむつかしくなく、ベテランナースなら、かなりできるものである。しかし、責任所在性から、医・看分離は、現然として、存在する。レントゲン読影、その他、看は医への深入り、自己主張は、できにくい。どうしても、上下関係となってしまう。婦長さんも、四年の看護大学をでて、医学生ほど膨大量ではないが、解剖学から、一通り、人体の構造、病気の理論は学んでいる。専門は看護学というものなのだろうが、一般の人よりはずっと人体、や、病気にも医学的にもくわしく、毎日、病人をみている。しかし、医学生は、人体の構造から、病理学、この世にあるすべての病気を、しらみつぶしにオボエさせられていて、やはり、知識の点ではナースは医者には、その点かなわない。
私は自分にハッパをかけるため、自分の知ってることは、人に話すようしているのだが、きどりと、思われそうで、つらいところ。知らない。知らない。とケンキョな、ナルシなくせをつける人は成長しにくいのである。己を成長させるハッタリというものを知らない人は武士道の心得をかいた葉隠をよんでない人である。
医者もナースも、人の気づかなかったことを、正しくいいあてたり、診断できると、得意で、うれしいものである。ナースが脳CTで小脳がどれかわからないので、ちょっとおどろいた。その他、体のスライスや胸部CTの見方など。脳の立体的構造は、ちょっとむつかしいものである。又、医学生は、人体のすみからすみまで、オボエさせられ、又、レントゲン読影にしても、検査値や、患者の症状と関連して、理解する勉強をつめこんできたのである。しかもナースはレントゲンを医者のように、ほこらしげには、手にとってみるのはできにくいフンイキではないか。勝負の条件が対等ではない。それは、ちょうど、医学の勉強に99%自分の時間をギセイにし、小説、レトリックの勉強をする時間を全然もつことをゆるされなかった人間が、十分凝った文章で、スキなく、たくさん小説をかくことができない、のと同じである。ベテランナースは、患者が、こういう症状の時は、どう対応すればいいか、ということは、研修医とはくらべものにならないほど知っている。又、キャリアから、人間なら、だれだって、プライドがでてくる。研修医は、宮沢賢治のようにオロオロするか、弁慶の勧進帳をするか、である。医者は学んでいるが、ナースは医者ほど学んでいない。人生のキャリアで上の人に、先生、先生と、たてまつられた呼び方をされ、学んだから当然知っているだけでCTでみえる臓器の説明をするなどプライドを傷つけてしまうので、つらいのである。もっとも私はレントゲンの読影も感染症の理論も、専門家からみれば全然わかっていない。バレンタインデー、二月十五日、の日が近づいてきた。看護婦さんはもちろん、婦長さんも、チョコはくれないだろうなーと思ってた。
力山を抜き、気は世をおおい。もし、私が医学に私の命をかける気なら、毎日徹夜で勉強する医師になっただろう。やる気がないのではない。私は、小説家、ライター、作家になることに私の全生命をかけているのである。病棟のナースとも、全然うちとけなかった。だけど、バレンタインデーの当日、はい。先生。と、屈折心の全くない笑顔で、言って、チョコをくれた。うれしかった。表面はポーカーフェイスで、さも、無感動のように、ああ、ありがとうございます、と言ったが。内心は、おどりあがっていた。義理だろうが、何だろうが、かまわない。全部その日の晩、一人で食べて、あき箱は宝物としてとっておこう。ホワイトデーにはごーせーな、お礼をするぞ。一万円くらいかけて、病棟のみなさん全員にもたべてもらえるようなチョコ返すぞー。