Es ist eine Sünde.
―エス・イスト・アイネ・ズュンデ―

 いつの間にかあんたに掴まれていた手を残りの手で押さえ込めば、カタカタ耳障りな音は止まって聞きたい音だけ聞こえるようになる。
 どんな雑音にも邪魔されず鮮明に耳まで届く音は煩わしくなくていい、ただ活きがいいわけじゃなくて他を掻き分けて掻き分けて蹴落として、最後に一つになってグッサリ人間の耳に脳に刺さるからとてもキレイに響くから。
 そんな音を最後のところで邪魔しないで迎え入れてやる、俺はきっと今とても優しい。どん底のあんたがもっと惨めになるように、きっとずっといつもより優しい。

 さー。

 やけに奇麗な音だった。少し奇麗すぎやしないかと、俺は眉を顰める。
 例えばこの場所に突然あいつが現れる、バーンと扉を開けてその第一声がごきげんようだった時みたいに。でなかったらそれを追ってきたあいつがまず始めに部屋の中を見回してチッと舌打ちするみたいに。そしたら俺はその音の方を優先して拾うけど、今はそんな音はしないからそこにある奇麗な音をじっと迎え入れてやる。

 さー。

 だけど残念、この音はマチガイだ。なぜなら俺はこんな結果は望んじゃいない。
 望んじゃいない結果は嘘だ。でも消せない、消せない結果の残り時間は有効に活用するのがスジってもんだから俺はスウと息を吸い込んで心の底から腐った言葉を吐き出してやる、

「あんたの言葉が俺らを不幸にする」

 なぜなら俺があんたが嫌いだから。不幸になればいい、あんたなんか。
 どん底を見てこいよ。それでそのまま沈んでろ。冷たい水の底に尻をつけて足を抱きよせて膝を抱えて。目は退化して閉ざされて、でなければ進化しすぎてギョロギョロしたのを水に浮かべてぐるぐる周りを見回せばいい。みっともない姿のあんたの目に見えるのは、同じように膝を抱えて見えもしない光を見ようと足掻いてる奴らだけだ。同類だけだ。優しくされた後に突き落とされた奴だけ。
「―――――ォト…、」
 誰に救いを求めてる?
 どれだけ願っても、助かる奴はここにはいない。

「俺は俺のままで死ぬ。あいつはあいつのままで死ぬ。あんたはあんたのままで死ぬ。
 いいか、この死に様の、全員が証人だかんな!!」

 さー。
 さー。
 生きていない物質になんかなってやるもんか。
 今は生きている?けれど死ぬ?
 なら俺は俺の意思で俺が決めたときに俺の終わり方で俺は…!!

 とっくに血の乾いた刃で、一息に喉を切り開く。
 KILL YOU...
 KILL YOU...
 TOTE SIE...
 ああそう、先にあんたを殺しとけばよかったね。

「あっは!」

 風に舞う赤錆に、俺は負けるわけじゃないと目を閉じる。負けない、負けない、負けるわけじゃない、負けるわけにいかない。
 例えばあいつはまだ10にも満たない年で俺の隣の位置を無くして、あいつの隣のあいつはバカヤロウと俺を罵る。
 そして瞼の内側、右の隅の隅の隅の方からびっしりと詰め込まれたのは闇に浮かび上がる赤い華。その花弁のやわらかさ。
 ベルベッドってこんな感じかと馬鹿なことを考えながら、俺は再び瞼を上げる。見上げた空は大泣きしていて、あああの人はきっと泣くなと頭の隅っこで考えた。それは左の隅の方、まだ華に満たされていないスペースだけがあの人の泣く姿を考える場所。
 そしてたぶんもう一人のあの人は、俺のためでなく大粒の涙を流して赤い砂を握りしめる。律儀な人だって聞いたから、きっとそうする。
 だから俺は言う。

「…s―…st……in―――de」

 …ねえ?
 笑いながら思い出せ。


 メッタ刺し。
 に、なってたらしいぜぇ?
 部屋中真っ赤になってりゃあ、そりゃそうだ、活きのイイところをザックザクってのは当然だろ。
 んで刺すたびに血が飛び散る、と。
 最初の一撃で死んでたとしても、何かすぐには身体機能停止ってなんないらしいぜ。俺医者じゃねーし詳しいことは知らんけどさ。
 ああー?取り置きの血ってンな簡単に盗めんの?てか別に撒くとかはやんねーだろ。必要ないって。
 や、誰がどいつをどうしたのかってのは分かってねーんだけどよ。
 現場検証したらそうだったって。とりあえず3人分の…何つったっけ、ルミノール反応?じゃなくって?DNA鑑定?
 だから要するにそこにいた3人の血だって確認はされてるわけ。
 そうそ、ドア開けたら白い部屋が赤い部屋に変わってました、みたいな。
 あれお前平気なの?想像力足りねーんじゃね?
 ったく、もっとちゃんと想像しろよなー、ここはキショ!って顔すっか、モウヤメテクダサイヨーっつって耳塞ぐとこだろ。
 はァ?だからそれは奴に聞けって。知らねえよ動機とかそーいうのは。
 考えたってムダムダ。言ったろ、精神科だって。
 あ?言ってねかったっけ?んじゃ今言った。ん、まーだからアレだ、事情聴取とか無理だったワケ、そいつには。たぶんな。
 おまけに最後が赤錆だしなー、事件にしたくてもできなかったんじゃねーの、警察も。
 ニュースにはなったかも知んねえけど、俺あんまTV見ねーから。
 …その先?
 や。止めとく。お前反応つまんねーんだもん。ったくどうしてそう固い筋肉してっかねー?
 しかも何か一人で冷静だしこの人。名探偵の落ち着きってやつ?
 お前だったら理由とか分かるんじゃね?
 あ、ラストの言葉?何々、結構乗り気だったりすんの、事件の真相解明。
 や、そんな普通に否定されても。
 あ、あったあったこれこれ。調べんのメンドくてそのまんまなんだけど、お前この意味分かる?ってか何語これ。
 イッツァシンん??
 ああ、It's a sin.何、英語訳なワケ?
 や、いくら何でもこれくらいは俺にだって分かっけど。お前も何か複雑な思考回路してんのな。
 もっとペラペラ喋りまくれば、そっくりそのまま奴みてえ。

 っとぉビビッたいきなりドア開けんなよお前ぇー。
 て、もうそんな時間?あーマジだこりゃ急がねーと雷落ちっかな。怖ぇんだよな顔が笑ってっから。
 と、と、と、待て、ちょい待て、オチ!オチがあンだよこの話。
 いいじゃんもーちっとくらいだったら変わんねーよ、はい座った座った。ほれほれ。
 聞いて驚け、てか驚いた顔しろ、でないと俺が浮かばれねェし、な!
 いいか、奴はこのあとこう続けやがったんだ、あのすました顔でよ、


 おや、君、いつの間にそんなにしてしまったんだい。
 違うよ、違う、牛乳だ。僕の牛乳。
 入れ物ごと握りつぶすなんて君は妙な趣味を持っているのだね。それとも手が臭くなるのが好きなのかな、えぇーんがちょ、えんがちょきーった。
 …何だいノリが悪いねえ…。
 いいよもう、早く手を洗ってきたまえ。机も君が拭くのだよ。雑巾は臭くなるからよく洗ってね。
 うん?話の続き?

 Alles das ist.

 続きなんてないよ、そういう話さ。
 気になると言われてもねえ、僕はあの人ではないし、こんなけったいな作り話の続きなんて考えられないよ。
 …おや?
 おぉーや?
 君、今の話を全部信じたのかい、かわいい人だねえ!
 だいたい今日みたいな天気の日に空が青いはずがないだろうに。
 ンン、どこからが嘘だったかって?
 さァ、それは。

「僕の兄弟の話をしようか」

 始めの言葉は何だったっけねえ。


 彼はひどく苦労しながら、止めていた呼吸を再開した。
 彼の動きを縫いとめていた始めの衝撃は、全てと言えないまでも、和らいでいた。
 ぐるりを見回す。その行為ができるということは、彼が錆びてはいないという証拠であった。
 ただし、その代償ででもあるかのように、彼のすぐ側の床には、そこにいたはずの人物が一人、姿を変えて横たわっていた。
 その人の死因は、確かにあの赤錆の奇病ではなかった。
 慎重になって、再度辺りを見回す。一人と一つと大勢の存在がそこにはあった。
 記憶に残るのは気味の悪い薄ら笑いと理由の知れない哄笑。
 そこにどれだけの存在があろうと、彼のその空間を満たすものは、掠れた声で綴られる深い深い慟哭だけであった。

 …Es ist eine Sünde.
 乾いた唇からもれる言葉は、例えひとかけらであってさえも。

 それでおしまい?
 で、死んだのは誰だって?


全くもって不要な蛇足