全くもって不要な蛇足

 その時、空の口からKJの名が出たのは予想外であった。
 いや、名前が出たくらいでは別段驚くようなことはない。
 件の人物は空と彼とで共通の知り合いでもあったから、不思議ではない。
 けれど空の言うKJが自分の知るKJであるか確かめる意味もこめて、彼はここで初めて空の話に口を挟んだ。
 口を挟まれた空の方は、ああそうそれ、と答えを返す。
「ったくまいるよなー」
 語尾を上げた同意を求めるような言葉に、彼は静かに先を促した。
 それで?
 部屋に備え付けの椅子に浅く腰掛けた彼は、姿勢はそのままに、机の上に乗った空の腕に視線を落とす。
 話したいのならば聞いてやるが、時間はあまり無いのだぞと示す動きであった。
 手にしたピックをくるりと握りこみながら、空はやっと本題に入る。
 3人の人間の運命の日、舞台はとある病院。
 Y、とイニシャルのみを上げたが、空は特に隠す必要を感じていなかったらしい。むしろ嬉々として、どこの病院だと思ったか彼に訪ねた。
 山田総合病院。
 彼は答える。
 山田総合病院、棟は、
「さーってどこでしょーか」
 外科?内科?
 尋ねられた彼は口を閉ざし、空はセンスが無いと言ってカラリと笑った。
 空とKJとで気が合うのは、結局そういうところが似ているからなのだろう。
 彼は何も言わずに先を待った。
 彼のだんまりはいつものことなので、空も慣れたように先を続ける。
 人形を相手に演技の練習をするように、空は一人でよく喋り、よく動いた。
 時々は彼も口を挟もうとする。だがその殆どは、空に正しく届かずに消えた。
 空はぺらぺらと話をすすめる。
 白いベッドに白いナイフ、このナイフを持ち込んだのは20代の女だった。
 丁度良くそこにナイフを持っていたのか、目的があって持ち込んだのかは、その女しか知らないことだ。
 当時17だった男、その男の父親は、彼の年若い父親よりも少し上の年齢。
 男と男と女、3人が白い病室を赤く変えた。
 その話は知っていたが、空が楽しそうな顔で「続けるぜ」と言うので、彼は頷いた。
 どちらにせよ話は続くのだから頷かなくても良かったが、彼は頷いた。
 そして目を伏せた姿は、空の言い付け通り情景を思い浮かべているようにも見えた。

  * * *

 メッタ刺しになったのは、男の父親だけだった。
 3人分の血があったと科学的に確認されたのならば、そうなのだろう。だが何度も何度も切りつけられたのは男の父親だけだ。
 それで部屋まるごとが赤く染まるなどとは、彼には全く思えなかった。
 輸血用の血でも持ってきて撒いたと言った方が、しっくりくるような赤い部屋。
 彼にとって、思い浮かべるのは容易いことだった。
 やろうと思えば、まるで今この部屋が真っ赤に染まってでもいるかのように身近に感じることもできた。

 表情を作れだの耳を塞げだの、空が難題をふっかける。
 何故、
 彼は呟いた。
「だからそれは奴に聞けって」
 空は答えを投げた。
 KJに聞いてもおそらく答えて貰えないことだったが、彼はまた大人しく口をつぐんだ。
 視線を先に右横に逃がして、それを追うように顔を右向けると、そこには時計が置いてある。保という名前の人物が置いていったものだった。
 カチリと小さな音をたてて針が進む。
「名探偵の落ち着きってやつ?」
 空がからかうような口調で言ったが、理由など考えても分かるものではない。
 エス・イスト、
 口端に乗せたその言葉の意味も、彼にはよく分からないのだ。
 けれど呟きを聞きつけた空は、ぐっと身を乗り出して問いを重ねた。
「結構乗り気だったりすんの?」
 いや。
 彼は首を振る。
 カチリと針が音を立てた。
 彼の仕草を見ないまま、空はポケットを漁っているようだった。
 空がポケットから取り出した紙切れは、ぺらりとしていて端が折れていた。
 彼は紙に手を伸ばす。
 It's a sin,
 …It's a sin.

 あの日の空は青かった。
 白い部屋は赤く染まり、金色の糸は朱に染まり、そして言葉は黒く蟠った。
 彼女は赤く染め、自らも赤く染まり、そして彼は黒いままだ。

 時間だ。
 彼は立ち上がり、密閉された空気が外へ逃れる手伝いをする。
 それを空が呼び止めた。
「聞いて驚け、」
 再びの難題……、


―――Alles das ist. 続きなんてないよ、そういう話さ―――