血の味と錆の味とは似ているらしいが、どこがどう似ているのか、彼にはわからなかった。
 女の持ちものであった赤と、男の作り出したそれの違いは、何か。
 今でも彼は考えていた。
 彼女のあの言葉の意味と、あの日あの時あの場所に彼女らと共に在った意味、目にしたもの。
 彼はずっと考えている。

Es ist eine Sünde.
―エス・イスト・アイネ・ズュンデ― 


 僕の兄弟の話をしようか。
 兄弟と言っても僕は早いうちに家を出てしまったし、向こうは向こうで今何をしているのやら、なかなか会うこともない兄弟なのだけれども。
 うん?そんなことは聞いてない?
 まあまあ、いいじゃないか、君、今暇だって言っていただろう、暇なのだ、暇なのだろう?
 僕の方は誰かと話したくってうずうずしていてだねえ。
 つまるところ今暇である君くらいしか話を聞いてくれる人がいないというわけだよ、そして話すネタがない時はこの話をすることに決めている。わかるかな、暇な君?
 いやいや別に怒らせたいわけでも怒られたいわけでもないのだよ。
 そう思う君の方こそカルシウムが足りていないのだと思うなあ。ほら、牛乳でも飲むといい、玄関先に置いてあるよ。
 んんん?どうして玄関なのかって?
 そりゃあ、冷蔵庫まで運ぶ手間を面倒くさがったからだろうね。
 誰がって、僕がさ。
 そのくらい察してくれなければ困るよ、君。ちょっとした推理だよ。僕の辞書にはビッテという文字はないのだからね。
 うん、すると君は救世主だね。ドイツ語で言うとハイラントだ。言葉を操れない牛乳の変わりにこの僕が礼を言ってやろうじゃないか、ありがとうと。
 ありがとうありがとうありがとう、繰り返すとあまり感謝しているような気がしないねえ…。
 ああほらほら早く牛乳を救ってやらねば腐ってしまうよ、買ってきたばかりだとはいえ玄関だからねえ、外は暑くて夏真っ盛りだ。
 夏真っ盛り。
 あの日もこんな天気だったのだろうね、空が青かったからとあの人は言うのだよ。
 空が青かったからと。


 てわけで奴が話し始めてからがまた長くてさ。
 つーか途中で脱線すっからな、あいつ。聞いてもねーこと答えるし、言ってもねーのに言ったことにされるしで…、ん?ああそう、それ。いつものあの調子で。何だお前も知ってんじゃん、ったくまいるよなー?
 あ?
 ん、あー…っとゴメン、んで本題な、本題。こっから。
 始まりは別にどってこた無い話、その辺探せばごろごろありそうなことでさ。わりィけどこの辺はしょらせてもらうぜ?気になンだったら直接奴に聞きゃー嬉々として話してくれるだろーしさ。
 んで、運命の日。
 運命のなんつったって、毎日が誰かの運命の日だけどーって、何か俺詩人?さすがオンガクカさま?はは。
 まあそれはそれ、話題の3人の運命の…何つーの?転機の日っちゅーことでな。
 舞台はとある病院、名前出すとお前気にするだろーからオフな。
 あー…ちゃうちゃう、その病院自体にゃあんまし特別な意味とか無いし。Y病院とでも。
 あ、分かっちった?
 まあ行動範囲とか考えっとな。分かって当然か。Yだしな。
 ―――今お前考えたの、どこの病院だった?
 ん。ん、ん、ああ。そう、やーっぱ正解。
 お前行くことあっても変な顔とかすんなよ?今はまた元の真っ白に戻ってるだろーしさ、その事件のあった個室。
 ま、お前にゃ縁は無いかもだけどなァ。
 さーってどこでしょーか。どこだと思う?…ハァ?外科?内科?お前センスねーなあ…。まあいいや、次。
 いいか、思い浮かべてみろよ。小道具に白いベッドと白いナイフ。
 このナイフは林檎の皮とか剥くやつな。てかその日もちゃんと本来の使い方で使ってたんだろうけど。
 おあつらえ向きっつーか何つーか、なあ?髭剃り用の剃刀とかじゃ格好つかねーし、丁度いいモンが丁度いいとこに。
 あらまあ素敵、ってか?
 笑い事じゃねーっつの。うりゃ。
 ええーと、んで登場人物が3人、内訳は生きる奴と死ぬ奴、んじゃなきゃあ刺す奴と刺される奴、んー…錆びる奴。
 錆って錆だよ赤錆。崩れて死ぬやつ。あ、男と男と女な。
 年ィ?関係あんのかそんなん。ちょっと待て思い出す、っと、ああそうだ、17とー20代と…あと一人は分かんねェ。お前ンとこのおやっさん幾つだったっけ?あの人よりもチと上くらいじゃねーかな。奴の話ぶりからすっと。
 んで、い?続けるぜ。
 その病院のその部屋でその3人が顔合わせて何が起きたかっつーと、


「あんたが!あんたがズカズカ踏み入ってくるから悪いんだっ」
 俺はあんたの上に馬乗りになって、膝で肩を踏みつけた。踏みつけるだけじゃ足りなくて、肉を抉るように捩じ込んだ。
 手にしたナイフをその首筋に押し当ててあんたの動きを封じる。後から後から沸きあがってくるこのどす黒い感情は殺意だ。もう随分前に一度だけだけど同じ気持ちになったことがあるから分かる。殺したい。ただそれだけの欲求。死ね馬鹿。
「あんた何様だよ、憐れむ資格があんたにあンのかよ、一緒に死んでやる気もないくせにさ!」
 見動かないあんた。いつも通りに何の表情も見せない顔と顔を見合わせて、ハンと鼻を鳴らす。泣いて止めてくれと言えば、まだ死にたくないと言えば、心から憐れみながら切り刻んでやるのに。こんな時でさえ少しも動かない表情を見ていると、自分がこんなに必死になってるのが馬鹿みたいでムカツク。

 知ってるさ、あんたには別に、そんな気はないんだ。

 イライラに任せて噛み切った親指から滴る血をあんたの顔になすりつける。
 なあ、優しくすればするほど後で辛いんだって知ってるか?比べてどん底に沈むんだとよ。
 水面に顔を出してやっと肺一杯に詰め込める新鮮な酸素を口にしたと思ったら、その記憶を抱えて暗い暗い水底に沈んでいくんだ、そんな気持ちなんだ。次にいつ口に出来るか分からない空気を求めて口をパクパク動かして、光の届かない深海じゃあいずれ目も退化する。
 慣れたらもう戻れないだろうさ、だから俺はあんたに優しくしてやる。慈しむように頬をなぞり、唇をなぞり、歯列を割って指を食い込ませ。俺が生きている証の血をどくどくと注ぎ込む、ああ、注ぎ込む、あんたを染める勢いで。
 内側から汚染してやる。

「どうせ私は一人で死ぬのだよ」
 苦しそうに息をつきながら、薄い唇が動く。だけど残念、その言葉はマチガイだ。俺はそんなこと聞きたいわけじゃない。
 肩の上に乗り上げたまま見下ろせば、言葉になる以前の言葉だって朧げになら分かるけど。
 ああ、分かった。今のあんたの台詞は、さしずめ「あなたが望むなら」?死んでやるっていうのか。死んでくれんの?あんたが?ハッ。
「死にたがりかよ。後追い自殺は自分でやんな」
 フンと嘲りながら吐き出してやると、抵抗するように首がブレた。当てていたナイフがぷつんと皮膚を切る感触にぞわりと戦慄が走る。
 せっかく食い込ませた毒の注入器、舌に押し出された手を引き寄せて眺めれば血がもう止まりかけていて、根性無しと罵る唇の端で皮肉に見えるように気をつけながらせいぜい凶悪に嘲ってやった。そしてその先に見たものに、俺は声をあげてのけぞる。

 赤い錆?まさか。俺は―――


Trrrr... Trrrr... Trrrr... カチャ。

 ええ、そう。その通りです。
 こちらの206号の久瀬さんの。
 ええ、ええ。
 一緒にいらした方はジンさん、ジンナオトさんです。神様の神に「尚何々です」の尚に…ええ、はい。そうです。それで「ナオト」さんです。少し珍しいお名前ですよねえ。
 あ、いえ、こちらはまだ。それにあの部屋は暫くの間使わないことになりまして――ええ、ええ、それでしたでしょう?そのせいで。
 業者さんも嫌な顔なさるんですよ。
 私ですか?ええ、いえ、そうですけど。
 でもあの病室はちょっと――…
 例のだけでしたらねえ、元々は人間だったのを考えなければ平気ですよ。仕事ですし。
 え?いえ、けれど採血やオペとは…違います。あそこまでになったら管轄外ですもの。

 あ、ちょっと済みません、そろそろ定期の時間だわ。
 ええ、はい。そちらの方は意識が戻り次第…ええ。
 もしもこちらにいらっしゃることになりましたら、事前に連絡を…はい、こちらの方で。よろしくお願いします。
 はい、では失礼します。
 はい、はい、ではまた…。


 えっ?いいえ、例えばあの方は錆びてはいませんでしょう?
 ええ、でしたらその言葉は嘘ということになりますね。
 いえ、慣れていますから。

カチャン。ツー、ツー、ツー、…

Warum hat sie so etwas getan?