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静岡・小諸・恵那峡 その1

2011.10.20 

半年ぶりの富士山です。
今年の4月には仕事帰りに富士山をとっくりと拝んでましたが、今回は往路での富士山参拝?となりました。

前夜の0時。
ザクッとした普段着からキリッしたスーツに着替えて車に乗り込み、まずは静岡某所の商談先へ向かいました。
この齢になっての夜間ドライブは、かなりきついです。
運転免許を持たない私は、眠くなればいつでも寝られる境遇なのですが、社長の看板を張ってる相方がドライバーとなれば、何となく眠る事ができないのです。
所以、6時過ぎに現場近くに着いて、やっと仮眠ができた次第。

ホンマにねー。
千円高速料金がキッチリと施行されていたなら、こんなに苦労せずとも済んだものと、政権を取ってる某党には言いたいことが山積みになりまする。

朝一に訪問した商談先では良い反応があり、後は運と縁に託すのみ。
私の場合、人事を尽くしきっても解決できない難題を抱えている時に生で富士山を見る事があると、不思議に抱え込んでいた懸案事項が解決する時が多いのです。

静岡の商談先を辞して、我々は長野の小諸を目指しました。
東名高速道路に入ると、掛川辺りで腰回りに雲をはべらせた富士山を拝む事ができ、半年前から富士山フェチになった私は大喜び。

しかし当日は「東名高速・集中工事」の終盤にて、車線規制のポールが延々と立ち並び、走行できる車線は一車線のみ。
その為に車の列が延々と続く大渋滞になり、由比辺りでは信号機も無いのに車はしばし停滞。
当初からの予定では、時間的余裕たっぷりで信濃入りするつもりでしたが、実際には大幅に遅れる事になりました。
大好きな富士山はとっくりと眺める事ができましたが、気分はビミョー。

富士インターから西富士道路に入り、富士宮からは在来線の国道139号線へ。
富士裾野である朝霧高原から右手に見える富士を堪能すると、青木ヶ原、そして精進湖畔。
半年前に通った行程を真逆に走る事があるとは夢にも思ってみませんでしたが、それが実現すると「また楽しからずや」の心地になりました。

県境を越えて山梨に入ると、時は既に13時過ぎ。
先年にこの辺りを訪れた時、相方は商談のために甲府近郊へ、私は別件の打ち合わせのために松本へと、互いに別行動をとった事がありますが、それは極めて珍しい事でした。
その際に相方は甲府の郷土料理である「ほうとう」を食し、とても美味しく思ったとか。                今回は、相方お勧めの郷土料理であるほうとうを私も頂きました。

お店のメニューにはカボチャ入りと記載されていましたが、ネットの料理サイトに記載されている所によると、「ほうとう」には必ずカボチャが入るものだそうで、関西の「きつねうどん」には必ず「甘辛く煮た油揚げ」が入るものと同じような道理。
この店では、なんでわざわざ「カボチャ入り」と書かれていたのか、ちょっと謎。
それはともかく、とても美味しくいただく事ができ、またこの地を訪れる事があったなら、また賞味したい一品でした。

その後は、宿泊地のある長野県小諸を目指すのみ。
車窓から見える木立は紅葉のシーズンに入り初め、見事な錦模様を見られる所がありました。

相方は朝の仮眠時にグッスリと眠れたそうですが、私も一応はウツラウツラの時は過ごしたものの、眠りが浅かったのかこの時点で「ゲーム・オーバー」(苦笑)
朝一の商談を終えてからは長野の宿泊先へ向かうだけと思うとつい気が緩み、車の振動も手伝ったか、気持ちよ〜くウトウト。
雪化粧無しのスッピン八ヶ岳を撮ったのが、車内最後のカメラワークとなりました。



小諸駅前のビジネスホテルにチェックイン。
何度履いても慣れないパンプスを脱ぎ捨て、ビジネススーツからジーンズに着替え、やっと得られた解放感。
それに浸る間も無く、携帯電話からは聞き慣れ過ぎた着信メロディ。

「おーい、着替えは済んだかー? 今から『壊古園』へ行くでー。」<相方
(達者なオッサンでありまするわー。)

「懐古園」とは小諸城址の事で、明治4年(1872年)の廃藩置県の際に廃城となった処、明治13年(1880年)に払い下げられ、小諸藩の旧士族達に依って本丸跡に神社が建立されました。
それに「懐古園」と名付けられた事が始まりです。

なんてエラそうに書いてますが、この地に来た時はそのような史跡であるとは露ほども知らず、既に17時を回り、夕闇が迫っていたのでカメラも持たず・・・
実は・・・、山本勘助が縄張りした小諸城は、別の所にあると思い込んでいたワケでありまして(大恥)
(以下の画像は、二週間後に再び小諸を訪れるチャンスを得て撮影したものです。)

「懐古園」の入り口付近には「三の門」があります。
この門と、懐古園から県道を挟んだ所に在る「大手門」は国の重要文化財に指定され、往時の姿をそのまま残しております。

「三の門」そばの「『仙石秀久』が築いた石垣」という看板に気づくと、仙石秀久ファンの相方は大興奮!

ああ! 何でもっと早い時間に来られなかったのかと後悔しきりでありました。
しかも、この地を訪れた事が翌日の商談に大きく係わってくるなど思いも寄らなかった、相方と私でありました。

現「懐古園」こと小諸城の歴史は古く、平安時代に木曽義仲の家臣「小室太郎光兼」が現在の城址の東側に築いた「宇頭坂城」が始まりと伝えられています。
その小室氏は南北朝時代に衰退し、その後に小諸を治める事になった大井氏は、戦国時代の戦乱に巻き込まれ、本家筋の大井宗家は滅亡してしまいました。
大井氏の生き残りがこの地の二の丸付近に城を築城し、自然の要害を大いに取り込んで打ち続く乱世に備えたものの、当時の巨大勢力であった武田氏に攻め滅ぼされてしまいました。

そして武田方の城として新たな縄張りを任されたのが、山本勘助でした。

実は私、山本勘助の隠れファンで、すごく好きだったりします。
確かに勘助は、顔は不細工で片目がつぶれ、体中に傷があり、足も不自由でチビだったらしい。

でもさ、「オトコは顔じゃないよ、中身だよ」なんですよね。
殊に、川中島四度目の戦いで、主君である信玄に立案した「キツツキの戦法」に失敗した時、主君を含む本体を守るべく、死を決して僅かな家臣たちと戦の最前線に突入し・・・
この辺りで私、山本勘助の「漢(オトコ)」を、思いっきり感じるんですよねー。
私の高校時代、「せっかく秀でた才能を持ってるんやから、生き延びて主君のために尽くし続ければいいのに。」と言った歴史好きの級友がいましたが、「自分自身の限界」知ってしまった者にとっては、このような形での身の処し方しかせざるを得ぬ人もあり、それを躊躇無く実行した勘助に、私はある種の「美」を感じているんです。

武田氏が滅び、豊臣氏が小田原攻めに成功した後にこの地を治めたのが、相方が大好きな「仙石秀久」でした。
「仙石秀久」は、少年の頃は美濃のマムシこと斉藤道三に仕え、浅井家に仕え、二十歳前くらいから織田家に仕え、豊臣家に仕え、最終的には徳川家に仕えて譜代大名の一人となりました。

気質は豪放零落。
加えて「転んでもタダでは起きない」タイプで、相方はそれを座右の銘にしているのではないかと思えるほど、相方との共通点が多い。
半年近く前に善光寺を訪れた際、相方はおみくじで「誠」の文字を引き当て、まんまその通りのバカ正直なのですが、仙石秀久にもそのように見える部分がある。

仙石秀久は「九州の役」に失敗して豊臣家をクビになった後、豊臣の北条攻めの際に徳川家の陣に居候をし、体じゅうに鈴を着けて「無」の旗印という超目立つ格好で大奮戦しました。
古今東西、自分に非があっても、仕えていた主人(会社)から「クビ」を言い渡されると、主家に対して逆恨みを持つ人が多い。
大抵の場合、その元・主家に一大事があった場合、知らんふりをするか、もしくは敵側に着くか・・・。
しかし仙石秀久はそのどちらにも属せず、再び元の主に見出されるべく、必死の働きをしてのけました。

漢の司馬遷が著した「史記・侠客伝」」には、事あるごとに「士は己を知る者の為に死す」というフレーズが目立ちます。
すなわち、「自分の真価を知り、それを認めてくれた人の為には、死んでも良いと思うものだ。」という意味なのですが、仙石秀久もまさにその通りの思惑を以って「鈴なり武者」の異名を着けられながらも、かつて自分の真価を見出してくれた秀吉の元に、再び仕えたいがために決死の覚悟で戦いに挑んだんですよね。

この辺りが相方の琴線に触れたのでしょう。
ここだけの話、相方には「仙石秀久」に似ている所が多くて、この辺りは特にそっくりと思えるのですが、それを相方に言うと、絶対に相方は有頂天になり、留まる所を知らず・・・。
そこの処も「仙石秀久」によく似ていると思うので、私的には極秘にしております(笑)。

小田原城攻めでの好戦の結果、秀吉の許しを受ける事が叶い、仙石秀久はこの小諸の地を拝領することとなりました。
これは歴史上では極めて珍しい事のようで、クビになった元家臣が戦功をあげて元の主家に戻れた例は、"wiki"では「仙石秀久」と、他には小姓時代に同僚だった「拾阿弥」を斬って主君の信長から追い出された「前田利家」しかないと、翌日にお目に掛かった方から教えていただきました。

小諸城址の南側から富士山を望める「富士見展望台」では、柵が無ければ足がすくむかと思えるほどの断崖絶壁になっていて、西側の千曲川を見下ろせる「水の手展望台」も然り。
東部と北部には町が広がっているのですが、そこからは小諸城内を急角度に見下ろせる作りになってます。
と言うのも、小諸城は「穴城」と呼ばれる例えの通り、旧小諸城下町よりも低い所に建っているんです。

現代は高架を作る技術が発達していたからこそ、我々は日のあるうちに山梨経由で小諸に行き着く事ができましたが、往時の人々はメチャクチャ急峻な山道をやっとの思いで越えていたと思えるほどに、小諸を取り巻く道路はすごい坂道ばかりでありました。
要するに、断崖絶壁のちょっと上方に市街地があり、ちょっと下がった所にお城があり、その下は千尋の谷。
まさしく自然の要害にて少々手狭ではありますが、真田の上田城攻めの際に徳川秀忠がこの城を本陣とした理由がよく分かります。

この日は、気の済むまで懐古園を堪能したかったのですが、秋の日の入りはつるべ落とし。
あっという間に暗くなってしまって、仕方なくホテルへ舞い戻る事となりました。


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