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吉野・天川村へ その1

2010.09.04 

私が生れ落ちてからこの方、こんなに暑い年はあっただろうか。
2010年の夏、大阪市内では35度を超える猛暑日が29日もありました。
9月に入っても残暑は厳しく、9月の半ばまで最高気温35度超の日が何日もあった記録が大阪管区気象台に残っております。

9月初頭、俄かに出張の予定が入り、しかし「泊りの出張」と聞かされるといささかゲンナリする事もある私ですが、この時ばかりは心がウキウキ。
何故なら、避暑ができる期待が大だったから(自爆)


今回のお出かけ先は、吉野。
吉野といえば全国的には、源義経の潜伏先として知られ、同時に吉野の桜が有名ですかしら。


大阪を出発してまずは、高野山の近くにある「立里荒神」に参拝しました。
前年、「立里荒神」に参拝したことがあります。
私は神社で願い事はしないほうですが、心の隙間から「問題がいち早く解決しますように。」との願望が漏れ出た事は否めない。
その願解きのつもりでの参拝でしたが、以前に参拝した時にまた来たくなったというのが一番の理由でしょうか。

入口の鳥居をくぐり社務所兼休憩所の前を抜けると、まるで「稲荷社」を思わせるように鳥居が連立している階段があります。
金毘羅さんか、室生寺か、とにかく石段の数が半端じゃない。
前年に詣でた時は、本殿の前に行きついた時点で息が上がり、お参りもそそくさと、後はへたりこんでゼーゼーするしかなかったっけ。

今回はなぜか階段を楽に駆け上がることができ、フィトンチッドを大量に吸い込んだためか、本殿の前に立った時は心底から清々しい心境になっておりました。
ここは私にとっては取って置きのパワースポットの一つともなっているのですが、神仏を全く信じない相方でさえ「また来たい。」と言わしめたほどの、ものすごいパワーに満ち満ちてる。

それにいち早く気付いたのが、弘法大師こと空海。
彼は、高野山を開くに先立ち、この地に「荒神」を勧進して、高野山の鎮守としたと伝えられています。

そのおかげなのか、高野山は「平治の乱」や「応仁の乱」から始まった戦国時代などの戦乱に何度となく遭遇してきましたが、高野山の屋台骨が揺らぐ事無く生き残り、明治初期の「廃仏毀釈運動」にも巻き込まれず、平安時代に繁栄したそのままの姿以上の規模で今に至っております。

その後はお仕事関係で、山道を小っちゃい車であっちこっちウロウロ。
ときには同じ道を行ったり来たり(疲)。



山の奥深いところで「小辺路」と遭遇しました。
「小辺路(こへじ)」とは、数ある熊野古道の中の一つで、起点から終点の熊野本宮までは70キロという比較的短い距離で高野山と熊野本宮をつなぐ道です。
その代り、坂が急で何度も峠越えをしなければならないので、熊野街道の中では一番厳しい参拝道と言われています。
しかも当初から参拝道として開かれた道ではなく、近世までこの地域周辺の住民の生活道として使われ続けられてたので、道幅も細く一部はけもの道のようになっているのだそうです。
しかし、そのような辺鄙さが「お忍び」で歩かねばならない人たちには好都合だったようで、かつては平家の落ち武者が通り、後醍醐天皇の王子護良親王が鎌倉幕府の追討を逃れて落ちのびた際に利用したとも伝えられています。

我々を乗せたムーブちゃんは、一部は小辺路に沿って開かれた県道を走っていたのですが、上り坂はキツイは道は曲がりくねってるはで、エンジン音はまるで悲鳴を上げているようでした。

そのうちに「平」という集落に入り、道もなだらかになって少しホッ。
集落のはずれに、多分これが集落の名称の元になったのだろうと思われる大きな塚がありました。

「平維盛」
父は、平清盛の長男である平重盛。
平家が都で全盛を誇っていたころに生まれた清盛の嫡孫にて、正真正銘のオボッチャマ。
彼が宮廷にいた頃には、「光源氏」の再来かと持てはやされるほどの、類稀な美貌の貴公子だったという記述が史書に残されています。

その後、源氏の挙兵を鎮圧するために出かけた富士宮では、水鳥の羽音に驚いて京都に逃げ帰り、清盛から大目玉を食らいました。
倶利伽羅峠の合戦では、年長の侍大将たちと覇権を争っている隙を木曽義仲につかれて合戦に敗れ、数万の兵士を失いました。
そして一の谷の戦い前後には敵前逃亡と、武将らしくないヘタレの汚名も史書に残されてしまいました。
戦場から抜け出た維盛は高野山で出家し、熊野三山を参詣した後に入水自殺をしたとの伝承が残ってますが、こんな所にお墓があるとは知りませんでした。


   


その後もしばらくは山道をグルグル。
この地域では「天の川」と呼ばれている清流です。

ちょうどアマゴ釣りの解禁が終わった直後で、川沿いを走る距離が長かったのに釣り人の姿は無く、最初は穏やかに旅情を満喫しておりましたが・・・、
「アマゴの解禁期間は終了」の看板を何度も見るにつけ、釣りバカ本能はやたら増幅されて煩悩満載の旅となったのであります。



「天河大弁財天神社」
内田康夫著のミステリー小説がヒットしたことに端を発し、それが映画化され、テレビドラマとして全国に配信された「天河伝説殺人事件」の表舞台がここなのです。

「日本三大弁財天」に数えられるこの神社の歴史はかなり古く、中国から仏教が伝来する以前の山岳信仰が盛んな頃に、天武天皇によって大峯山系最高峰の弥山の鎮守として定められました。
水の神である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が祭神として祀られていますが、仏教伝来とともに芸能の神であるインドの女神サラスヴァティー神(弁財天)と習合し弁財天社との社名がつけられるようになりました。

境内をぐるり一周すると思った以上に小さかったのですが、本宮は弥山の頂上にあって女性は立ち入ることができないことになってます
境内には能舞台などがしつらえられていて、日本の芸能界に所属する人達にとっては、かなりメジャーな神社のように見受けられます。
折しも、我々が弁財天神社の境内に入ろうとした時、お雛様の衣装みたいな金銀の縫い取りド派手なスーツに身を包んだオジサンに引率された、舞台衣装そのまんまの数人がタクシーから降り立っておりました。

私は、数年前に放映された「天河伝説殺人事件」に登場した変わった形のお守りをゲットできただけで、十分に満足。



その夜の宿泊場所は、天川村にある洞川(どろがわ)温泉境と相成りました。
ちょうど「大峰山回峰」のシーズンたけなわの頃で、しかも土曜日。
急に決まった泊りの仕事なのに宿が取れた事は奇跡とも思いましたが、多勢で組織されている大峰山修業の「講」に属されている方々は大部屋で雑魚寝するのが一般的なそうな。

宿に着いて旅装を解くと、相方と連れ立ってちょっとお散歩。

この道路をしばらく行くと、途中から車両の通行は出来なくなって、大峰山系の山上ヶ岳に通じる登山道になります。



大峰山とは奈良県南部にある大峰山脈の一部で、狭義では山上ヶ岳の事を指し、大峰山修業とは「山上ヶ岳」から熊野までの「大峯奥駈道」をひたすら勤行とともに走り歩くことを言います。
ここは今現在の日本では唯一女人禁制の地とされ、今もなお、山伏姿の修験者が苦行をするために訪れる地となっております。

女人の私にはこの地は訪れる機会はありませんでしたが、男子校の強化合宿の一環としてこの地へ行かされた息子の言によると、ものすごい悪路で断崖絶壁の険しい山道だったとか。
そんな所を走るのですから、一歩間違えば死に繋がる場合もある。

大峰山が「女人禁制」になっている事については戦後間もなくから色々と取りざたされてますが、宗教家にとっては大事な聖地であり、その聖地を物見遊山のハイカーに荒らされたくないというか、自然界を甘く見る人たちによって事故を起こされたくないという気持ちが強いのだと思います

でも、女性とて自分を高めたい人はいっぱいおられる。
洞川温泉街から少し外れたところに「総大峰山蛇之倉七尾山」という看板と、工事中でしたが大きな門構えが見えました。
そこに近づくと、ハンドマイクを通して聞こえたと思える野太い声の「六根清浄」の声が漏れ聞こえ、一拍おいて女性達かもしくは子供達か、「六根清浄」と半ば叫ぶような黄色い声が漏れ聞こえてくる。
この門内から稲村ヶ辻を経て、山上ヶ岳手前のレンゲ辻にある「結界門」までを女性の修行場として定められているそうですが、あちこちのブログなどで画像を見ると、この道の険しさも半端では無さそう。
そろそろ17時になろうとしていたので、きっと山から下りて来られる方々の声が漏れ聞こえていたのだと思います。

もうしばらく歩を進めると、「『ごろごろ水』採取場」に行き当たりました。
「ごろごろ水」の名の由来は解りかねますが、環境省によって指定された「名水100選」に上げられるほどに美味しい水として、近隣の人々だけで無くかなり遠方の方も汲みに来られているようで、駐車場には見慣れない地方ナンバーの車も停まってました。。
そして我々は、その片隅にあったカフェでコーヒーブレイク。

さすがに名水です!
コーヒーがとても美味しく、宿が自慢しておられた、名水で作られたお豆腐の料理がとても楽しみになりました。

宿に戻ると、ゆっくりと温泉に浸かって旅の疲れを洗い流し、そして食事。
メインは牡丹鍋。



食事を終えると、夕涼みがてら宿の周りをそぞろ歩きしてきました。
参道に通じる「行者さん通り」と呼ばれる道沿いには、沢山の小さな温泉宿が立ち並んでいましたが、みんな開放的で中で宴会をしている人達の姿が丸見え。
ビールのグラス片手に談笑しながら縁側で夕涼みしている人達があり、またそぞろ歩きを楽しんでいる人達もあり。
そのほとんどの人が修行のためにこの地に来られているのか、お酒を飲んでいても酔っぱらって見える人は皆無でした。

宿の裏手に回ると「天の川」がせせらぎの音を立て、そして天上を見上げると「天の河」が空いっぱいに広がっておりました。

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