トップ >一人歩き >番外編 >西安 いにしえの都を訪ねる 2

西安 いにしえの都を訪ねる 2 


兵馬俑坑と秦始皇陵


小さな画像をクリックすると拡大画像を見る事が出来ます。

兵馬俑入口一晩経って目が覚めると、外はまだ真っ暗なのに、私の携帯アラームは元気に鳴り響いている。
日本時間の午前6時半に合わせていたアラームを、うっかり消し忘れていたらしい。

西安と日本との時差は一時間。
日本時間の午前6時半と言えば、この地域では午前5時半に当たる。
でも、この時期の5時半にしては暗すぎる。
しかし、せっかく目が覚めちゃったし、まずは起き抜けのシャワーを楽しむ事にする。

中国のホテル事情については、仕事の相方を始め取引先の方々など、中国通の人達から情報を貰っているが、私はかなりラッキーだったらしい。
水道の蛇口をひねると、綺麗な透明の水が勢いよく出てくるし、蛇口回りからの水漏れもない。
昨夜は遅かったにもかかわらず、給湯栓をひねれば、熱くて透明なお湯がたっぷりと噴き出してきた。
バスタブにはヒビは入ってないし、トイレも綺麗に掃除がなされてる。

兵馬俑公園緑地夜中にワケのワカラン電話も掛からず、ドアノブをガチャガチャされる事もなく、前日の疲れは残しながらも快適な朝が迎えられたのは、日本では当たり前の事だけど、中国ではよく真夜中のハプニングに遭遇らしい。
それほどに中国って国は、何でもありの面白い所なんでしょうね。
それを面白いと思えるか、不快に思うかは、人によって違ってくる。

少しぬるい目の湯をはったバスタブに寝そべると、少しずつ熱いお湯を足しながら体を温め、そしてシャワーで洗髪。
バスルームの中は湯気で充満しているのに、喉のイガイガ感がなかなか取れてくれない。
空気中の湿度は、日本国内でも乾燥がちな大阪とは大差無い気がするが、やはり埃っぽいのが喉に来たような気がする。

西安の北には、すぐそばまで黄土高原が広がり、北西のタクラマカン砂漠まで、砂漠化して荒廃した台地が続いている。
風の強い日には、10メートル先も見えないほどの砂嵐になる時もあるそうで、西安は普段でもかなり埃っぽい町だそうな。

「この町で生まれ育って、ずっとここに住んでいる私でさえ、よそより埃っぽいと思うほどですし、秦の始皇帝の時代から明朝が滅ぶまで、ずっとこの町が中国の都でしたので、すごく誇り高い町だと思いますよ。」
生粋の中国人のガイドさんなんだけど、日本語のギャグがお上手。
そのガイドさんの笑いに誘われ、つい、つられて笑ってしまった。

兵馬俑公園緑地午前9時の約束で待ち合わせをしていたロビーに、少し早い目に降りていくと、ガイドさんは既に到着していて、コンセルジュから傘を借りる交渉をしてくれていた。

外は雨。
私にはごく普通の雨に思えたが、ガイドさんの感覚によると、かなりの大降りらしい。
しかし外に出ると、雨は本降りになっているのに、空気の湿りはあまり感じられない。
昨日に引き続き、外は埃っぽくて、近くで解体工事でも行われているような、独特な臭いが鼻を突く。

埃っぽいので飲料水を用意するようにとのアドバイスを受けて、前夜は夕食の帰りにコンビニを探しておりました。
コンビニは無いかと諦めかけた頃、「7−12」なる屋号のコンビニを見つけた。
やっぱり、さすがに中国です(笑)

部屋にもミネラル・ウオーターは用意されていたけど、サニタリーに置いてあるのは無料。
しかし、このミネラル・ウオーターは歯磨きやうがいをする時に使いたい。
この国では、生水は一切口に入れない方が良いんですよね。

ベッドルームにもミネラル・ウオーターの用意がされていたけど、こちらは有料で一本40元(日本円で、640円)もする。
それで遠足用のミネラル・ウオーターを買いに行ってたんですよね。
ついでに、喫煙用のライターも購入。
水が1リットルで5元、ライターは1元、しめて6元(96円)のお買い物となりました。

兵馬俑公園緑地車に乗り込むと、西安でのハイライトとも言うべき兵馬俑を真っ先に目指しました。
頃はちょうど、通勤と通学ラッシュの時間帯。
けっこうな雨なのに、傘をさしている人は少なくて、大抵の人は濡れ放題で歩いている。
この土地は、傘など持つ必要がないほど、雨は少ないのだろうか。

ホテル前から道路に出ると、ドライバーさんは頻繁にクラクションを鳴らしながら車を走らせる。
フロントガラスから見える光景は、もう、危なっかしいったら無い。
指示器も出さずに車線変更をするタクシーやバスが後を絶たない。
その混雑した中に、信号のある交差点を渡らず、道路に飛び出してくる歩行者も大勢いる。

旦那と二人、メッチャ怖いねーと話していたら、ガイドさんから質問を受けた。
「この国では、車、オートバイ、自転車、人。 色んな立場の人が道路を利用してますが、誰が一番強いか判りますか?」
日本なら、事故などが起こった時は、一番ダメージを受けやすい歩行者が強者になる場合が多い。

「この国では、度胸のあるモノが一番強いんです。」
ワッハッハッ・・・。
言い得て過ぎて、ため息も出ない。

東の城門を抜けると、しばらくは市街地が続くが、そのうちに周りの光景が一変する。
通りに沿って長いフェンスがあると思えば、その向こう側には木々に囲まれた立派な建物が見えている。
そのフェンスが、コンクリート製の塀になったり、または柵になったりするが、その奥にある建物の雰囲気は、どこも似たようなものになる。
この辺りは大学街だそうで、西安には何と百件以上もの大学が集まっているそうだ。

兵馬俑公園緑地そーいえば、夜の西安市はまるで学生街を思わせるほどに、若い人達ばかりがあふれていた。
朝の車窓から見られる人達も、二十歳前後の若い人達が大多数を占める。
とても古い町なのに、まだこれからも発展を続けている町のようにも見える。

車は料金所のような所を越え、高速道路に入った事を教えられた。
日本の高速道路とは違い、高速道路と言われないと気づかない要因が多々ある。

例えば、一般道路と交差している所がいっぱいある。
これじゃあ、料金所の手前で一般道路に入り、料金所を越えた辺りで、また高速道路に入るって事も簡単にできる。
つまり、ただで高速道路を利用する方法がいくらでもあるという事。

トラックを満載し過ぎたトラック一応は「自動車専用道路」を示す標識はあるけど、完璧に無視をされているっぽい。
向こうから道路を逆送してくる自転車があったりする。
冷や汗かきました。

スイスイと走っていた筈なのに、何故か大渋滞。
高速道路の渋滞を作り出していた原因は、一車線をまるまる潰して、山羊数頭を連れて歩いていたジイチャンだったりする。
笑うしかなかった。

そんなこんなで、ドライブをする時はいつもスリル満点。
日本では、トラックの過載は厳しい処罰対象になるが、中国では関係ないらしい。
すぐ斜め後ろにいるのに、前のトラックのサイドミラーさえ見えないほどに、大きな荷物を積んでいるトラックがやたらに多い。

大型ユンボを二台も載せているトラックそんなのに出くわすと、追い抜くに限るんだけど、相手はいつ車線を変えるか分からない。
そこで隣を走っている車を追い抜く時は、やかましいほどにクラクションを鳴らし続ける事になる。

これは思いっきりNGやろ!
と思えるような荷物の積み方をしたトラックにも出くわした。
またしても笑うしかない。

車の走行中は、怖くて怖くてカメラなんぞを取り出すゆとりも無かったけど、サービスエリアでトイレ休憩をすると、幸いにもそのトラックが駐車場に停められていた。
当然のように、激写(笑)
本当に、日本では考えられない貨物の積み方ですわ。

シャッターを切ったと同時に、すぐ横で、まるで爆発でも起きたかのような黒煙が上がった。
せっかくモラル水面下の土地に出向いている事だし、野次馬根性を最大限に使ってみた(自爆)。

石炭をぶちまけた石炭配達トラック走り寄って見ると、そこには黒い石ころのようなモノをぶちまけているトラックがあり、しかし、黒煙は消えていた。

「あ〜! 西安では石炭がたくさん取れるんですよ。
 ここでは石炭を燃料として使う所が多いので、それを配達して廻るトラックがあるんです。」
ん〜。o○ 「配達」というには、かなり乱暴な配達と思われ。
しかし、ここでは当たり前の方法なんだとか。

こんなに埃を立てられちゃ、近所迷惑も甚だしいだろうなぁ。
「えっ? 近所迷惑って?」
ガイドさんの反応から察するに、大きな音を立てて真っ黒い大埃をあげても、近所迷惑とは認識されないらしい。

トイレで用を足し、ドライバーさんと仲良くタバコ休憩を終えた後は、我々夫婦はまた車中の人となった。
しばらく小止みになっていた雨は、また雨足を強くし、車窓から見える景色を幻想的なものへと変えていた。

ハイウエイを降りると、すぐそこが兵馬俑坑。
雨に煙るその先は、茫洋とした景色が広がっていた。

兵馬俑博物館公園コンクリート打ちっ放しの簡素な入場門が無かったら、所々に灌木の生えてるただの荒れ地にしか見えなかったかも知れない。
しかし、入場門の手前には土産物用の玉製品を扱う商店やレストランなどが軒を並べ、荷物の一時預かり所などがあり、そこが有数の観光地である事を示していた。

入場門を通り抜けると、整備された公園の景色が目に入ってきました。
植えられた木々の中には、梅や桃が多く見られ、いかにも「中国!」と感じられる花木が選択されていて、でも、押しつけがましさはあまり感じられない。
それ故、花の盛りはもちろんの事、新緑の季節になれば、もっと楽しめそうな雰囲気の、とても広い庭園を気持ちよく散歩しておりました。

兵馬俑博物館正面あまり曲がりくねっていない通路を10分近くも歩くと、正面には「秦始皇帝兵馬俑博物館」が見えてくる。
その右手には、兵馬俑一号坑館が見える。
しかし、この地点からはかなりの距離がある。

兵馬俑の発掘作業は、ある理由のために、今は中断せざるを得ないらしい。
必要最小限の建物は建てているけど、発掘候補地はまだまだ沢山あるので、そのためにだだっ広い風景になっている。

博物館の扁額最初に向かったのは、兵馬俑一号坑館。
秦の始皇帝時代に、数種もあった書体を「篆書」に統一された事に因み、建物の扁額にはすべて篆書が使われていました。
篆書と言えば、日本人にとってはハンコに使われる書体として馴染みが深い。

秦の始皇帝が秦王として即位したのが、紀元前246年。
その当時の中国は戦国時代の名残で、韓・魏・趙・燕・斉・楚・秦の「七雄」が中国を分割しておりました。

始皇帝が生まれる前、父である子楚は長らく趙国で人質としての生活を余儀なくされておりました。
しかしその頃の大商人であった呂不韋の支援を得て帰国し、そして秦の王として即位しました。
その頃、呂不韋の愛人であった女性を譲り受け、その愛人との間に生まれたのが、後に始皇帝になる政です。

皇帝の馬車の先導車紀元前246年、父王の子楚が薨去すると、その後を引き継いで政が秦王として即位しましたが、政はまだ13才の少年であったと史書に記されております。
王が年若かった為なのか、近親者やそれらに近しい者が次々と謀反を企て、それによって父の代から丞相として仕えてきた呂不韋は急速に力を弱め、紀元前238年には、秦王自らによる親政が始まりました。

内憂を一掃すると、法家思想に基づいた君主独裁、郡県制、厳罰主義を推進し、強力な独裁体制を築き上げていきました。
それと同時に、周りの諸国家への侵攻を開始し、有能な武人を次々と登用すると、秦軍の少数精鋭化を断行し、韓・趙・魏を次々に滅ぼしました。

皇帝の玉車その頃の秦の戦法は一風変わっており、敵と対峙した時の最前列には、敵国の捕虜や囚人または奴隷などが立たされたと聞き及んでおります。
彼らは、自分の命が尽きるまで敵と戦うか、もしくはその場で自害して果てるかの選択しかできず、逃亡をはかると味方の兵士に斬り殺される。

合戦が始まると、最前列の兵達は敵兵の目前で自らの首を切り、自分の胸に刀を突き立てる。
その様子が相手国の兵には、極度のインパクトを与える事になり、結果、相手国の志気は下がりきってしまうんですよね。
その隙に乗じて本隊を繰り出して敵を攻め滅ぼすのを常套手段にしていたとか。

兵馬俑一号抗館内・全体風景血も涙も無いむごい事をすると思いましたが、そのせいか秦王の政にとっては芳しくない諸説が、後世に流布される原因になったようです。
例えば、かつて母親の愛人であった呂不韋が、政の実の父親だったという説がありますが、それは秦に攻め滅ぼされた国々の民による恨み辛みが、そのような説を産みだし、また流布したのだろうと言われております。

紀元前221年。
燕、楚、斉も滅ぼし、事実上の中国統一を完了させた秦王は、この時初めて「始皇帝」と名乗るようになりました。

身分の低い士卒達広大な領土を得た彼は、中国全土を48の郡に分割し、行政担当の「守」、軍事担当の「尉」、監察担当の「監」をそれぞれに配置し、郡はさらに「県」単位に分割されて、そこにもそれぞれの担当役人をおいて統治しました。
また、今でいう交番のような施設を街道沿いの10里ごとに設け、治安の維持だけでなく、人夫の徴発や官吏の宿泊施設として活用させました。

豊臣秀吉による刀狩りは、日本の歴史上に於いて無視できない大きな事実ですが、その範を示したのが、秦の始皇帝でした。
やや身分の高い士卒達彼は中国統一を切っ掛けに、民間人の武器所持を禁止して没収し、それを材料にして中国統一を現す大きな釣り鐘と、重さ千石(約30トン)の銅像を十二体も造ったと言われております。
さらに、度量衡や貨幣、車の車輪の幅も統一させました。

各地それぞれに違っていた文字の書体を統一し、篆書を標準の書体として採用し、精密で合理的な中央集権国家を築きあげました。
それは後世の中国統一王朝にとっても、大きな模範になったと言われてます。

兵馬俑と少女像のモニュメント兵馬俑一号抗館に入ると、入口から階段を降りきった所に大きな兵馬俑をかたどった像が、女の子の像と仲良く手を繋いで立っていました。
その大きさは、その下にいる団体客の身長と比べれば、容易に想像できそうですね。

その奥に入ると、ガラス張りのショウケースに馬車が二台展示されてました。
先にいる馬車は、つまり今でいう先導車の役割を果たし、後ろの馬車が皇帝の乗る玉車なんだそうです。
これらもこの付近で発掘され、数年もかけた修復作業を終えて後は、国宝と指定されてこの博物館で展示されています。

未整理の兵馬俑その周りをくるっと一周し、いよいよ向かったのが、第一号抗館。
入口を占拠している団体客達をすり抜けると、目の前に広がったのは、時折見かけた写真通りの光景でした。
でも、やはり、写真で見るのと実物を見るのとでは、迫力が違いすぎる。
とにかく、やたらに広い!
立っている兵馬俑の数もすごい!

この兵馬俑は、戦地での陣立てに倣った配置がしてあるそうで、最前列に近い部分に立っているのは、鎧も着けていない、まるで民間人ともおぼしき隊列でした。
その後ろに控えている兵馬俑には、皮や鉄片をとじ合わせた鎧を身につけた武者達、各隊列の後方近くにはその隊列の指揮をしたと思われる将軍の馬車が配置されていたようで、車輪のあった痕がクッキリと残されておりました。

馬と馬子兵馬俑というと、たくさんの塑像が建っている光景を真っ先に思い浮かべますが、実際の発掘現場では塑像のほとんどは壊れていて、この状態で展示できるようになるまでは、大変な人力と時間を要したそうです。
それを物語るように、発掘されたまんまの姿を留めて展示されている部分がありますが、かなり酷い有様になっていました。
また、ほとんど手つかずの部分も残されてますが、土の上に残っている縞模様は、土累と土累の間に兵馬俑の塑像を置き、その上に太い木材で蓋をした、その痕だと言われています。

二号抗次に向かった二号坑は一号抗よりやや狭く、しかし発掘と塑像の修復作業はほとんど進んでおらず、全体を見て回っても、大して面白い見物には行き当たりませんでした。
三号抗は、掘り出された兵馬俑坑の中では一番小さく、そこも手つかずの部分がたくさん残されてましたが、皇帝の馬車列を模した物があり、その隣り合った所には閣僚達が会議をしている部屋、また鹿の骨を焼いて占朴をする部屋などがあったりで、とても興味深く楽しむ事ができました。

兵馬俑の見物が終わると、しばしは売店近くでトイレ休憩。
売店では日本語の図録があったので、さっそくそれを購入しました。
もしその場に博物館長がいらっしゃる場合、買った図録にサインをして貰えるそうで・・・・・・。

士卒の兵馬俑ガイドさんが「館長さんがいらっしゃりますよ。」と、指を指す方向を見ると、
竹製の大きなキセルで、ゆったりとタバコをくゆらすご老人の姿を認める事ができました。
しかも、「禁煙」と大書された看板の真下にね ……(o_ _)o パタッ

気を利かしたガイドさんのはからいで、図録にサインをして貰うと、日焼けをした大きな手で握手をして貰いました。
その方こそ、兵馬俑の発見者である楊さんでした。

隊長クラスの兵馬俑1974年、農業で生活をしていた楊さんは、自分の畑に水を引こうとしてせっせと井戸を掘っておりました。
この辺り一帯では、井戸を掘ってもすぐに水を枯らしてしまう化け物がいると噂されてましたが、植え付けた麦が枯死してしまうと、自分達も食べていけなくなる。
背に腹は代えられぬ心地で井戸を掘り進めると、中から土器の欠片のような物がザクザクと掘り出されてきた。
これが世界的な大発見に繋がったのだそうです。

本当かウソか、この辺りでは「有名人になりたければ井戸を掘れ。」という諺のようなものが出来たそうですが、当の有名人は有名になったがために大変な目に遭っておられるらしい。
博物館が完成すると、中国政府の要人が次々と訪れて、その相手をしなければならない。
それだけでなく、界外からの賓客も頻繁に来られるようになり、その度に粗相があっては一大事と、大緊張を強いられてしまう。

将軍クラスの兵馬俑その頃から、各国の取材陣はもちろんの事、たくさんの観光客からカメラのフラッシュを浴び続けている間に、目を傷められたそうで、今は博物館内で唯一、撮影禁止の対象になっておられます。
また、1998年に当時のアメリカ大統領だったビル・クリントン氏が西安を訪れるまで、楊さんは全く文字の読み書きができなかったのだそうで、アメリカ大統領からサインを求められた時は、とても恥ずかしい思いをなさったとか。

兵馬俑の発掘作業は今や完璧にストップしてますが、その一番大きな理由は、兵馬俑の褪色なのだそうです。
兵馬俑が発見された当初は、遺物の褪色よりも遺跡そのものの発掘を重きにおいていたようですが、発掘作業が進むにつれて遺物の褪色は無視できない問題となりました。

民間人の兵馬俑私の知る兵馬俑は、灰色や赤茶けた色合いの物ですが、土から掘り出されたばかりの兵馬俑には、見事な極彩色の色づけが施されていたそうです。
しかし、その色彩はあっという間に褪せてしまい、多くの人が見知っている土色の塑像になってしまうのだそうな。
それで今現在は、発掘された遺物の修復に重点を置くと共に、兵馬俑の褪色を防ぐ方法を煉られているそうです。

売店のある建物から正面出口に行くまではかなりの距離を歩かなければならないそうで、雨に不慣れなガイドさんは最短のコースでドライバーさんと落ち合いたいらしい。
売店のすぐそばには博物館の裏口があり、そこから外に出てドライバーさんの迎えを待つ事にしました。
しかし、裏口は関係者しか使えない通用口なので、我々が観光客だとばれると、そこから外に出して貰えない。
車輪の跡そこで、カメラを上着の中に隠し、ラフな服装でいた事が幸いしたのか、無言で門を通りすぎると、そのままパス(笑)

程なくドライバーさんの運転するワンボックスカーに乗り込むと、次は秦の始皇帝陵を目指しました。

市販されている物も含む旅行ガイドブックでは、兵馬俑抗と秦の始皇帝陵を別々の見出しで解説している場合が多いので、読者はそれらは別物のように錯覚してしまいがち。

確かに兵馬俑坑と、始皇帝の陵墓である小高い丘は、それぞれ離れた場所にあるので、旅行者向けに観光地として紹介するなら、そのような記載方法しかできないのかも知れません。
しかし、実際は兵馬俑坑は陵墓の周りをぐるりと囲むように作られていて、兵馬俑坑も始皇帝陵墓の一部なんですよね。

海棠桜の並木始皇帝陵の本体とも言うべき陵は、エジプトのピラミッドを平たくしたような、四角錐になっています。
司馬遷の史記によると、始皇帝の遺体安置所の近くに水銀の川や海が作られたと記載されていますが、近年の調査でこの周辺から水銀の蒸発が確認され、史記に記載されている事は本当だという可能性が高くなったそうです。

今現在、発掘されて公開されている兵馬俑は戦車が100台、馬が600頭、そして武士の像が8000体あると言われています。
しかし、秦の始皇帝陵全体の広さはいまだにはっきりと分からない。
発掘された部分だけでも2万平方メートル以上もあり、あんなに大きく思えた第一兵馬俑抗がそのごく僅かの部分にしか過ぎないと思うと、全体の広さはいかばかりなんでしょう。
もし後日にその数値が分かっても、その光景はとても想像できそうもありません。

兵馬俑坑博物館から車で約5分。

始皇帝陵の碑海棠桜の並木が見えてきたと思ったら、そこが秦の始皇帝陵でした。
始皇帝陵は前述のような形状の小高い丘になっていて、自由に上り下りができるようになってます。
しかし、雨が強くなってきていたのと、墓の上に立つとその地に眠る死者に対して失礼なような気がして、陵墓に上る事はしませんでした。

その代わり、陵墓の正面辺りのみをウロウロ。
スケジュールの都合で、約20分位しかその場にいられなかったので、ちょうど良かったのかも知れません。

陵墓の周りには数種の花木が植えられていましたが、早春に花をつけ始める梅が今は盛りに咲き乱れ、木蓮も大きな花びらを開いて梅とその盛りを競い合っているよう。
驚いた事に、春の盛りに花をつける桜や桃も満開で、特に梅の並木は見事でした。

満開の木蓮長年続いた戦が終わったばかりで、疲れ切っている民に、力仕事を強要すれば必ず嫌がられる。
ましてや、征服した土地の民に強制労働を強いれば、怨嗟の念の起こらない筈がない。
でも、始皇帝はそれをやっちゃった。

始皇帝は万里の長城を築き、文字通りアホみたいに大きい「阿房宮」の建設を始め、そして、またまたバカでかい「始皇帝陵」の建設も始めてしまった。
でも当時の始皇帝の立場では、そういった行動をとらざるを得ない状況だったのかも知れない。

中国において史上初めて中国を統一した彼は、中国史上初めて「皇帝」を名乗りました。陵墓前の広場
称号を変えるという重大さは、ごく一部の知識層には理解されたでしょうが、学のない一般民衆には解らない。
たぶん、「それって何?」って感じ(笑)

そこで、一般大衆にも始皇帝の偉大さを認めさせるには、今までかつて無かったような壮大なモニュメントを見せつけて、その力を誇負するしかなかったと思うのです。

体制が大きく変わると、その変化についていけない人は必ず居るもので、その中には一部の儒学者が含まれていました。
彼らは始皇帝が採用した「郡県制」に反対し、古い時代からの「封建制」の採用を望んでおりました。

始皇帝陵の頂上しかし、当時の儒家達の学んできた国家経営に関する思想は、狭小な国家ならば有効だったのでしょうが、大国になった今では通じない。
言い換えれば、創業数百年の老舗でも、パパ&ママ経営の小店舗から、大きな自社ビルを構えた大規模チェーン組織にまで発展すれば、それに併せて経営方法を変えていかなければ、企業としては続かない。
国家組織も同様で、大国では大国の元首としての施政を執らないと、すぐに国中が乱れてしまう。

そこで始皇帝は、思想書や秦以外の外国の歴史書など、始皇帝の施政ビジョンに相反する畏れのある書物を、ことごとく焼き払わせてしまいました。
そしてまた、民衆を惑わせるような思想を説く学者達を集め、見せしめのために生きたまま穴埋めにしてしまいました。
北庭の梅並木その一連の事件は、後世では「焚書坑儒」と呼ばれ、始皇帝は暴君とのレッテルを貼られてしまう結果になりました。

1956年、熊本県水俣市において奇病が発生し、その原因が解明されると同時にその病気の症状が世に知れ渡ると、水銀は猛毒の一種と広く認識されるようになりました。

しかしかつては水銀は不老長寿の妙薬として、中国の歴代皇帝に愛用され、日本でも持統天皇が若さと美貌を北庭の梅並木と碑保つために服用されていたとの記録が残ってます。
確かに水銀の化合物である丹砂には、鎮静催眠効果があり、防腐作用もあると言われていて、「朱砂安神丸」という漢方薬には丹砂が使われています。

若い時から病弱であった始皇帝は、不老不死を求めて呪術や占星術などを職業的に行う「方士」を重用し、珍しい仙薬といわれている物を片っ端から試したと言われています。
その方士の中にはいかがわしい人物も含まれていたようで、国庫から多額の金銭が詐収される事態にまで及びました。
始皇帝陵の八重梅その間、始皇帝はある方士から仙薬として水銀の化合物を紹介されたようです。

世の中には「過ぎたるは尚及ばざるが如し」という言葉があるように、始皇帝は水銀を飲み過ぎたんじゃないでしょうか。
元々虚弱体質であった始皇帝は急速に体調を崩し、地方巡幸中に49才で崩御してしまいました。

雨のため陵墓の頂上は霞んでしまい、白っぽい山影のようにしか見えませんが、この広大さは現地に行かないと分からない。
「百聞は一見に如かず」とはよく言ったものです。

この陵墓が建造された頃、日本はまだまだ歴史に登場できる段階ではなく、弥生時代の最盛期。
「『三国志』魏書東夷伝倭人条」=(魏志倭人伝)で日本の事が紹介されるまで、まだあと500年以上もの年月が要るほどに、日本の歴史はゆっくりと歩を進めていたようです。

始皇帝が兵馬俑を作った理由の一つに、殉死者を無くすという意味合いがあったそうです。
秦が歴史上に姿を現してから、始皇帝は31代目に当たります。

始皇帝の時代から歴史をさかのぼる事、約400年前。
9代目の穆公の頃には、今まで一国に仕えていた一諸侯の身分から、一国の王に匹敵する力を蓄え、有能な人材を登用する事によって領土をも大きく広げて、春秋五覇の一人に数えられるようになりました。

しかし、穆公が死ぬと177人もの家臣達が、王の後を追って殉死しました。
秦は才知に長ける王と、多くの有能な家臣を一時に失ったため、僅かの間に国力は衰退し、領土そのものも小さくなってしまい、国を維持させるのがやっとという状態にまで落ち込みました。
殊に、始皇帝の父親である荘襄王は趙へ人質として差し出されていたわけで、家臣殉死のリスクがとても大きい事を、始皇帝は身を以て知っていたのでしょう。

でも殉死者の身代わりとはいえ、兵馬俑を作り過ぎても国力が窮乏するリスクはあるわけで、彼ほどの人物が何故それに気づかなかったのか、始皇帝陵の全貌と共に、それも今は大きな謎の一つだと言えるかも知れません。





大きな地図で見る
次ページへ