秦始皇陵を後にすると、我々を乗せたワンボックスカーは唐時代の史跡を目指しました。
唐と言えば日本人にも親しい国名にて、すぐに「遣唐使」という言葉が頭に浮かぶ人もいるでしょう。
私にとっての唐と言えば、「漢詩」。
好きというより、現役の中高生時代ではむしろ苦手なカテゴリーでして、当時はホント、色々と苦労いたしました。
その中で特に頭を悩ましたのが、白居易の「長恨歌」でした。
これ、メチャクチャ長い詩なのに、全部暗記させられたんだから、もう大変でした。
まぁ、しかし「鈍学功を累ぬ」の故事に倣ったわけではないけれど、今はけっこう、李白の詩は好きだったりするんですよね。
李白は唐時代の玄宗皇帝に仕える官吏でした。
彼の人生には紆余曲折が多々あったようで、道士の修行をしていた時代があったかと思うと、宮廷にあっては天子側近の顧問役を勤めながら、不埒な言動を繰り返して左遷されたり、また都に呼び返されると、今度は自分から辞表を出して旅三昧を続けたり。
当人の家族はたまらなかったでしょうが、私はこの人のオバカぶりが好きで、奔放な生き方が羨ましく思えるときがあります。
彼は本職以外にも宮廷文人として、彼の才能を開花させていたそうで、「清平調詞・三首」を玄宗皇帝に献上してました。
「清平調詞・三首」とは、楊貴妃の美しさを賛美する詩だったそうで、その当の楊貴妃が湯浴みしたと伝えられている湯船をじっくりと見てきました。
華清地は驪山(りざん)の麓にある温泉で、大変に景色の良い所ときいてます。
ただ残念な事に、ここを訪れた時にはまた雨足が強くなっていて、この地の見学は随分と早足になってしまい、景色を楽しむ時間があまり無く、ちょっとばかり消化不良気味。
ここは玄宗皇帝と楊貴妃が暮らした離宮として有名な温泉ですが、その歴史は古く、紀元前1000年位前の西周王朝がこの地に離宮を建ててました。
その後、中国歴代の王がこの温泉を保養地として利用してましたが、秦の始皇帝もこの温泉を楽しんだと伝えられてます。
玄宗皇帝が建造した離宮は、安禄山の起こした反乱の為に破壊されてしまいましたが、清の時代になってから再建されました。
今の建物は、清時代に再建された建物を元に新たに修復整備されたものですが、その修復中に偶然、玄宗皇帝と楊貴妃の使用した湯船が発見されました。
玄宗皇帝と楊貴妃は、毎年のように秋から翌年の春までの間はこの離宮に住み、その間は政治を放っておいてずっと遊んでいたとか。
現在の華清地は、写真パネルを貼り並べた真っ赤な築垣が巡らされ、派手というか、私の感覚ではけばけばしく目に映りました。
門をくぐると、京劇の隈取りで飾られた建物が目をひきました。
中国歴代の皇帝は、それぞれお抱えの京劇団を持っていたそうで、その建物は京劇役者達の練習場として使用されていました。
その建物は「梨園」と名付けられてますが、元は梨の木が植えられた庭園に芸人達が集められて、音楽教習府と呼ばれる施設でそれぞれが芸を磨いた事が始まりだそうです。
日本の歌舞伎界も「梨園」と呼ばれる習慣が残ってますが、それはこの事が元になっているようです。
梨園の横を抜けて広場に出ると、広場の中央にある半裸の女人像が真っ先に目に入りました。
ガイドさんの説明によると、最近作られた楊貴妃の像だそうで、長恨歌から受けたイメージとは、ちょっと遠くて、かなり肉感的な楊貴妃さんでした。
楊貴妃像の周りには、観光客がずらりと囲み、楊貴妃の前で記念写真を撮る人が後を絶たない。
ちょっと面白く思えたのは、カメラの前でポーズをとる時、みんな傘をささずにいるんですよね。
この時は土砂降りというほどでも無かったけど、けっこうな大降りでした。
日本人なら大抵の場合は、傘をさしたままで記念写真を撮って貰うと思うんでしょうが、やっぱ、ここのところは国民性の違いなんでしょうか。
楊貴妃の像の向こう側に見える建物が、玄宗皇帝の使用した蓮花湯と、楊貴妃の海棠湯。
玄宗皇帝の蓮花湯は、風呂とは思えず、はっきり言ってプールです。
30人位ならゆっくりと足を伸ばして湯に浸かれるほどの広さ。
浴槽が無駄に大きいようにも感じましたが、何しろ当時の皇帝の事、衣類の脱ぎ着も一切自分ではなさらなかったでしょうし、沢山のお付きの方々にも役割は細かく分担されていたようですから、案外、この程度の広さの浴槽は必要だったかも知れません。
楊貴妃専用の浴槽と伝えられている海棠湯は、かなり小さめに造られていて、それでも5人位はゆったりと入れる広さでした。
私が訪れた時には、空っぽの浴槽の中にコインが沢山投げ込まれていて、中国版トレビの泉って所でしょうか。
二つの浴槽は白い大理石で造られていて、その周りの床の部分もすべて大理石が敷き詰められていました。
今の建物は、当時の建物より一回り大きめに造られているので、昔の礎石が浴室の隅に見えました。
それは、まるでローマ時代の建物の礎石を持ってきたような、凝った彫刻が施してあり、往時は建物自体にも多くの大理石が使われていたそうで、当時の栄華が偲ばれます。
白居易の著した「長恨歌」の冒頭に「漢皇 色を重んじて 傾国を思う」(=漢の皇帝は美女を得たいと望んでいた。)とあります。
長恨歌の書かれた時は、安禄山の乱が終結して間もなくだったので、玄宗皇帝の事を漢皇と書き替えてますが、楊貴妃は文字通りの「傾国の美女」になってしまったようです。
玄宗皇帝が生まれた頃、「中国三大悪女」に数えられる武則天が権力を握り、武則天が世を去った後も、後宮を中心として皇位継承を巡る内紛が後を絶ちませんでした。
その為に皇帝が毒殺されたり、后妃の一族が皆殺しになったり、唐全体を揺るがすような事件にまで発展する事がしばしばあったようです。
玄宗皇帝は、自分が即位すると同時に、内紛の種になりそうな要因を尽く排除し、政治面では税制改革を始め、節度使制を導入し、また仏教僧達の資格を見直したりと、精力的な政治改革に乗り出しました。
その為、唐の勢力は著しく増大し「開元の治 」と呼ばれる絶世期を迎える事になりました。
しかし玄宗皇帝の治世後半では、彼は政務を放ったままで離宮暮らしをするようになり、都に残された宰相達は好き勝手な政治をするようになりました。
それが原因になって、胡出身の節度使安禄山が兵を挙げ、後世には「安史の乱」と呼ばれる大きな内乱が起きました。
安禄山の攻撃が都の長安にまで及んだ時、玄宗皇帝は楊貴妃と共に都を脱出しようとしました。
その途中、兵達から楊貴妃こそが国を乱した元凶として責められ、玄宗皇帝は泣く泣く楊貴妃を殺害したと言われています。
でも楊貴妃は、何も悪い事をしていたわけじゃないんですよね。
歴代の中国王や皇帝の后の中には、政治向きの事に口出しをし、その為に内紛が起きたり、国そのものががたついたって事は何度もあったけど、楊貴妃はただ、皇帝から遊ぼうと言われて、その相手をしていたに過ぎない。
彼女は後宮の中で群を抜いた美貌の持ち主だったため、時の皇帝に見いだされると、皇子だった夫と別れさせられて、皇帝の側に侍る事になりました。
もし玄宗皇帝に見い出せられなければ、彼女は国を滅ぼすほどの美女として有名にならなかった代わり、平穏な人生を送っていたかも知れません。
それを思うと、楊貴妃が可愛そうになりました。
華清地では敷地内に劇場が設けられていて、「長恨歌」から題材を採った歌劇が毎晩催されています。
その舞台の写真が外の築垣に貼られているんですが、その華やかさと雰囲気はまるで宝塚の舞台。
いったいどんなお芝居が舞台の上で演じられるのかが、ちょっと興味深いです。
現在の華清地はまるで工事現場だらけのようになっていて、古来から伝わる建造物の修復はもちろんの事、古代建築の遺構に基づいた復元工事や、庭園の整備が進められている最中でした。
しかし、華清地周辺は、どこからどんなアングルで写真を撮っても絵になる景色で、工事が全部完了したらどんなに素敵な所になるかと思うと、ちょっと楽しみです。
華清地の見学が終わると、お昼ご飯。
ツアーで昼食は精進料理と聞かされていて、旦那はどうも食傷気味だったみたい。
家にいる時はアッサリ系のご飯ばかり食べさせられてるから、出かけた時くらいはコッテリした物が食べたいと、まんま、顔に書いてましたな(笑)。
しかし、レストランで持ってこられた料理はみな、一見した所、ごく普通の中華料理。
まずは冷菜が三種。
その一つはどう見ても、日本の海苔巻き寿司。
皿にはショウガの甘酢漬けと煉りワサビが添えられて、小皿の醤油と一緒に運ばれてきました。
蒸し鶏のバンバンチーそっくりのサラダは、タレの味はバンバンチーそのもの。
でも、鶏の代わりに豆腐皮という大豆製品が使われていました。
冷盛の麺。
コンニャクの様に見えましたが、食感は韓国風冷麺。
ちょっとピリ辛のタレが食欲を増幅させてくれました。
次に運ばれてきたのが、肉と椎茸の鉄板焼き風。
味付けも食感も豚肉の鉄板焼きなんだけど、豚肉によく似ている素材は、高野山でもよく出される生麩の一種。
後で訊くと、味付けには日本製の焼き肉のタレが使われていたそうです。
見た目の割りに意外なほど美味でしたが、特級の大盛り状態。。
炒飯。
前夜にこの土地のご飯の不味さを思い知っていたんだけど、炒飯にするととても美味しかったです。
でも、別の意味で難行苦行感を味わってしまったりして・・・(汗)
添えられたスプーンの大きさで比較すると理解して頂けそうですが、その量たるやハンパじゃない。
日本の中華屋さんなら五人前位の盛りだろうか。
旦那も私も「お残しは許しまへんで」という時代と家庭環境で育っているから、食べきれなくても残す事には抵抗感を感じる。
メインディッシュの鉄板焼きの半量を平らげた時点で、既にお腹はいっぱい。
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ため息をついてると、スープが運ばれてきて、そしてエビのチリソースのような物が運ばれてきた。
スープの具は、中国では草魔ニ呼ばれているフクロタケの一種。
専門学校生時代、中国料理を専攻していたので、私にとっては懐かしい食材でした。
お出しはモヤシと干し椎茸からとられているようで、サッパリとした中に深いコクがある。
エビチリモドキの正体は「猴頭」、日本ではヤマブシタケと呼ばれて市販されているキノコですが、中国ではフカヒレ、ナマコ、熊の手に並ぶ「四大山海」の珍味の中に加えられています。
でもでも、しかしだ!
一品の量があまりにも多すぎる。
後日、訊く所に因ると・・・・・
中国ではお客をもてなす際、客人に不足感を与えると、大変な恥になるらしいです。
それ故、中国人主催の食事会に招かれようならば、「乾杯(カンペー)、乾杯(カンペー)」の嵐で酔い潰され、大盛り料理をバンバンと運び込まれるらしい。
それが自宅で催される宴会ならば、残り物はその家の使用人に回される。
外食の場合も同様で、レストラン側もその分のお代は上乗せしているんだろうけど、やはり大盛り料理を提供する事になってるみたい。
何故なら、接待の席などの場合、主賓の機嫌を損ねると、大事な得意客の面目を潰す事になる。
でも、この場合も、余った残飯が無駄になるって事は、あまり無いようなんですよね。
その理由は、その日の夜に解りました。
お腹がはち切れそうになってからも、尚も料理がテーブルに運ばれ、必死の形相にて、かろうじてデザートは半分は平らげる事ができた。
しかし、帰国した後の体重計が恐怖になった、今日この頃。
食事の後は陝西歴史博物館を見学。
私にとっては、大好きなカテゴリー。
ざっと見て回った後に感じたのは、3日間くらいは籠城してみたかった。
それ程に、見応えのある展示物で埋まっておりました。
いや、3日ではなく、一週間ほどねばっても私なら飽きなかったかもです。
後ろ髪を引かれまくりで陝西歴史博物館を後にすると、大慈恩寺へ。
大慈恩寺は、かつて随の時代にあった無漏寺のあと地を、唐の三代目皇帝である高宗(李治)が母親のために再建した寺として知られています。
我々日本人には、「西遊記」の玄奘三蔵法師が夥しい教典を収めたお寺として有名なお寺。
真っ先に目に付くのは、やはり「大雁塔」。
遠くから見ても目立ってましたが、近くに寄るとその高さに驚きます。
西暦629年。
当時の中国では、仏教の経典はまだまだ少なかったようで、特に仏教の原点は無きに等しい状態だったと思われます。
10歳の頃から仏教を学び続けていた玄奘は、20歳で正式な僧としての資格を認められて具足戒を受けました。
しかし、学ぶべき教えはまだ他にも有るはずなのに、国内には彼が学んできた以外の教典が無かった事から、オリジナルの教典を求めてインドへ旅立ちました。
当時の唐では、民間レベルでの交易は盛んに行われていたようですが、僧が出国する為の許可は滅多に下りず、玄奘の西域行きは国禁を破っての旅立ちでした。
16年後の西暦645年、657部という膨大な数の教典を携えて帰国した彼は、時の皇帝太宗からの勅命を受け、持ち帰った梵教の翻訳に専念しました。
当時の僧は、中国では国家公務員的な立場だったので、国禁を犯して出奔しちゃうと大罪に値する筈。
気になって、玄奘が帰国した時の資料を探し回りましたが、どの資料を見ても玄奘の無断出国に関する件についてはお咎めが無かったみたい。
それ程に、唐にとっても玄奘が持ち帰った教典は、大変なお宝だったようです。
後に三代皇帝高宗の許可を得て大雁塔が建立され、教典はその塔の中に収められました。
その大雁塔ですが、一般に知られている煉瓦では無く、硬く焼き締められた青煉瓦が使われているそうですが、黄色っぽい色をしてるんですよね。
想像はついてましたが、長年に渡って黄砂にさらされているうちに、黄砂の色が染みついてしまったとか。
黄砂、恐るべし。
でもその頃になると、埃臭さをあまり感じなくなっていました。
鼻が麻痺してきたせいかも知れませんが、喉のイガイガ感もあまり感じられない。
半日以上も降り続いている雨のおかげで、空気中の黄砂が洗い流されていたのかも。
大慈恩寺の正門と大雁塔の間には、寺の本堂に当たる建物があり、金色に輝く釈迦如来像が安置されてました。
日本のお寺で見る仏像は、新造された仏像でない限り、ほとんどの場合は煤けてしまって、塗装も剥がれ落ちてしまってますよね。
でも中国のお寺で見られる仏像は、ほとんどの場合はキラキラのピカピカ。
侘び、寂びの文化で育った私には、ちょっと違和感がありましたが、汚れたり傷みかかったままで放っておくのが良いのか、それともすぐに補修するが良いのか、日本人だと意見が分かれる部分かも知れません。
拝殿の前にはたくさんのロウソクが奉納されてましたが、これも日本と違う所で、ほとんどのロウソクは赤い色をしてました。
中国の人は赤い色が好きだからだと思ってましたが、実は違った。
中国では、願い事がある時は白いロウソクを供えますが、願い事が叶ったり嬉しい事があったりすると、必ず赤いロウソクを供えて感謝する風習があるそうです。
この日は赤いロウソクしか見あたらず、ちょっと考えさせられる風景のように目に映りました。
日本人は神社などに行っても、お願い事をするだけで終わっちゃう場合が多いじゃないですか。
願い事をする以前に、今まで生きてきた間に感謝すべき事はいっぱい有るはずですよね。
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