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「壺阪寺」から「高取城」 その2                     



壺阪寺を後にして、次に目指したのは五百羅漢磨崖仏。
羅漢というのは釈迦の直弟子で、後に聖人として祀られるようになった方々の事ですが、この日本では戦や災厄によって多くの人命が失われた時、その人々の魂を慰めるために五百羅漢像を作られる事もよくありました。

私の見た事のある範囲では、兵庫県加西市北条にある「北条五百羅漢」。
織田信長の命で中国攻めが行われた時には、敵味方の兵達だけにとどまらず市井の民の多くも命を失い、その魂を慰めるために掘られたとの説が残ってます。
岩手県遠野の五百羅漢は、飢饉によって命を落とした沢山の幼子の姿を、五百羅漢として沢山の石に堀り残されておりました。

そして、この高取。
五百羅漢像が掘られたのは、関ヶ原の戦い前後の西暦1600年頃と伝えられていますが、誰が何のために掘ったのかは不明。
でも、あっけに取られるとはこの事で、あまりの凄さにしばらくは声も出ないほどでした。

壺阪寺の脇から伸びているアスファルト道路から外れて、幅50センチほどの細い脇道を登って行くにつれ、辺りはだんだん暗くなり、深く生い茂った木々の間から、ほんの僅かな木漏れ日が降ってくるだけとなりました。
坂がなおも急になった頃、崖っぷちに掘られた羅漢像を見つける事ができました。
かなり風化していて、岩の一部は崩れ落ち、目印が無ければそれが羅漢像とは分からない部分もありましたが、夥しい群像の姿が岩盤に掘られておりました。

この山道は大淀古道の呼ばれる旧道ですが、かつての生活道路も、今はたまにこの地を訪れるハイカーしか利用しなくなると、けもの道かとも思えるほどの大悪路となってました。
今年は観測史上に残る大災害を為した二つの台風がこの地に迫り、また梅雨のシーズンにも数度の豪雨がこの地を襲いましたが、その傷跡はまだ残されたまま。
倒木が残されたままの所が何か所もあり、ハイカーのために設けられた階段が深くえぐられている所も多く残ってました。

そんな光景も、私にとっては珍しく、是非とも画像に残したいと思いながらも、カメラを構えるどころでは無く、両手を使ってよじ登らねばならない所だらけで、かなり大変な行程になりました。
しかしそれでも、当初の予定では楽に歩ける行程の筈だったんですよね。

地図を見ると、まずは高取城から壺阪寺へ抜けるコースと、その逆のコースがあったのですが、壺阪寺から高取城を目指す方が、遥かに緩やかな坂道を歩くコースになっていたわけで、この調子じゃ帰りの道はどんなものかと気になります。

風にあたると冷たさを感じるのに、実際は汗びっしょり。
ようやく高取城址の端っこに行き着きました。

まず行き着いたのは八幡社。
拍子抜けしそうなくらいの、とても小さな祠でした。
ここが高取山の頂上にあたります。

南北朝時代、南朝方の地方豪族・越智(おち)氏によって高取城が築かれましたが、その鎮守として祀られたのが八幡社でした。
山手に城や寺を築く際、山に住まいする神々の御魂を鎮め、そして神々の居所と人間界との結界を張るために、必ずといって良いほど、その周辺の山々の中で一番高い所には山に住まいする神々の社が築かれてます。
古くは空海が高野山を開く前に「立里荒神」を勧進したのも、その一つ。
立里荒神参拝のきつかった事を思い出すと、ここからは下り道が多くなると知り、気分はかなり楽になりました。

しかし、急な下り坂も、歩くのは大変でした。
坂道を降り切ってホッとしたのもつかの間、またしても急な上り坂。
足はガコガコ、気分はヘロヘロ。
「壺坂口門跡」の目印が見え、城の石垣跡を認めると、あーヤレヤレ。
さて、ここからはどのコースを行く?

手にしている地図には、城内図の詳細は書かれていませんでしたが、道路際に設置されている地図には等高線まで詳細に現されておりました。
この配慮、とてもありがたく思いました。

いきなり大手門から三の丸を攻める短距離コースもありましたが、あまりに急峻過ぎて、足腰がガクガクしている我々中年には、かなりキツイ。。
私らは城攻めに来たわけでは無いので、公的使節が通ったと思える比較的なだらかでちょっと遠回りになる、壺坂口中門から二の丸を経て本丸に入るコースを歩く事にしました。
地図を持っていても迷子になる私ですが、等高線と等圧線の読みが早いのは、亡オヤジ殿の教えの賜物なんでしょうな。

城内に入ると、カメラを三脚にセットして一番の一瞬を狙っている人達が目につきました。
紅葉の盛りには少し早いような気もしますが、樹木によっては今一番の錦秋の時を迎えた物もあり、良い目の保養をさせて貰ったように思います。
そこで私も「壺坂口中門」の手前で一発。
後で見直した中で、私的には一番のお気に入りの写真となりました。

そして本丸への入り口。 
この画像を撮るまでは、かなりの時間を要しました。
まずは、同じ方向に向けて三脚を設置していたオジサンが、なかなか移動してくれなかったんですよね。
そのオジサンは、左手の石垣から人の頭が見えなくなる瞬間を狙っていたとの事。

あー!なるほど! 私も同じショットを狙ってましたわ。
その瞬間ができるまで、どれほどの時間を要したか。
それほどに、この日は沢山の人々が高取城に押しかけておりました。
脚立を持たない私は、カメラを構えてオジサンのそばに座り込み、人の姿が見えなくなった瞬間、セーノーッ!で激写。

オジサンは満足そうな笑みを浮かべながら脚立を撤収。
その笑みを見ると、私も嬉しくなりました。


本丸に入ると、天守閣址でゆっくりとしたランチを楽しみました。
とはいえ、内心は冷や冷や。

我々は新御櫓台跡に登り、ベンチ替わりの石に腰を下ろして持参したおにぎりを頬張っていたのですが、お尻から15センチ向こうは切り立った石垣。
うっかり転げ落ちたら「イタタタタッ」では済まないと思われ(汗)

それにしても、このお城は壮大です。
「高取城」は「日本の城百選」に属し、古くから「日本三大山城」の一つと数えられておりました。

日本で一番標高の高い所に築かれた、岐阜県恵那市の「岩村城」、
山城の中で唯一、当時の建造物がすべて残る岡山県高梁市の「備中松山城」、
そしてここ、山城の中では一番敷地面積の広い、奈良県高取市の「高取城」。

往時は白漆喰塗りの天守や櫓が29棟も建て並べられ、その白壁が山裾の城下町からは雪の降り積もったように見えた事から「巽(たつみ)高取 雪かと見れば、雪ではござらぬ 土佐の城」と唄われたとの伝承が残っております。

南北朝時代の正慶元年(1332年)、南朝側についた地方豪族の越智邦澄がこの城を築いてより、長禄元年(1457年)に南朝方が滅びてもなお、長らく越智氏によってこの地が治められておりました。
しかしその後、織田信長の命によって大和国内の城は郡山城だけと定められ、高取城は天正8年(1580年)に一旦は廃城となりました。
この地から南へ下れば吉野に至り、熊野へ通じたり、または高野山へ至ったりと、神仏の加護を求める人の往来はかなりあったと思うのですが、戦国時代末期の戦略的なメリットは、多分薄かったんでしょうね。

城を放り出された越智氏の末裔にあたる越智玄蕃頭頼秀(おちげんばのかみよりひで)は、筒井順慶の家臣となっておりましたが、何らかの事情で殺害されてしまい(自殺とも)、越智氏宗家は滅亡してしまいました。

天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が死亡すると、当時の大和郡山城主だった筒井順慶は高取城を支城とし、順慶が死亡した後、天正13年には郡山城主となった豊臣秀長(豊臣秀吉の弟)の支城となりました。

大坂夏の陣によって豊臣氏が滅び、徳川政権が確立された元和元年(1615年)、幕府より「一国一城令」が発布されましたが、高取城は重要な山城として位置づけられ、大和の国(奈良県)の二つ目の城として長らく存続されることとなりました。

明治時代になると、廃城令によって多くの建物が解体されましたが、一部は近隣の寺院などに売却されました。
例えば、駅前通りの一角にあったこの医院。
思わず「頼もう!」なんて声をかけてしまいそうな大時代な門構えになっていますが、この医院の門は高取城の城門を移築した物だそうです。

高取城そのものは急峻で辺鄙な山上にあったので、明治期の解体作業が終わってからは人の手が入る事は無く、土台や石垣は今でも完全な状態で残されています。
しかし人為的な崩壊は免れても、木の根が張りだしたり風雨による浸食は防ぎきれず、石垣が崩れ始めている所があちこちにありました。
昭和28年(1953年)、国の重要な城郭資料として史跡に指定され、その後は少しずつではありますが補修が進みつつあるように思います。

それにしても、紅葉が見事!
良いお天気になって良かったです。

お弁当を食べ終わると城内をゆっくり散策し、千早門口から下山を開始しました。
侍屋敷跡の間を下る事になるのですが、足元は瓦や焼き物の欠片がゴロゴロで、横手の石垣は崩壊寸前。
下りの坂も急勾配で、カメラを構えながらの歩行は困難となりました。

そんな「取り込み中」状態であるにもかかわらず、目の端にフユイチゴを見つけると手を伸ばしてパクリ!
足元に自然の三つ葉がびっしり生えているのを見つけると、思わず摘んで帰りたくなった。
ゼンマイの群生を見つけると、来春の楽しみを見つけたようで、ついついニヤニヤしてしまう。
視線を上げると、自然薯の蔓が細い枝に巻き付いているのが見える、今は葉が黄色くなっているけど、もう少し季節が早ければムカゴ採り放題だったのになー。
と、そこまで思いめぐらして、自分の食い意地に気づき、ちょい苦笑。
旅先でのB級グルメの美味しい店探しは全面的に相方に任せているけど、自然の中にいて、いざって時のサバイバルは、私にお任せあれって事なんでしょうかね。

勾配が少し緩やかになった所は小さな四つ辻になっていて、その角に二の門跡。
その前には「猿石」がドンと置かれてました。
元禄時代に明日香村で発見された猿石をここまで運ばれたとの説明書きがありましたが、飛鳥で見られる猿石や人面石と比べて、風化の程度がずいぶん緩やかに思いました。

「猿石」を過ぎると、再び勾配の急な下り坂が、さて、どのくらい続いたんだろう。
この坂道はつづら折れになっていて「七曲り」と呼ばれています。

南北朝時代から戦国時代にかけては、敵が攻め寄せてくるとの報があると周りの木々をすべて切り払い、敵の姿を丸見えにする事によって敵の攻撃を防いだと伝えられています。
しかし、江戸時代からはずっと太平の世が続き、その間に生い茂った木々が、昼なお暗き山道の様相を呈しておりました。
その暗い下り坂が延々と続き、もしもこの道を往路として選んでいたら高取城に行き着かないうちにギブアップしていたかも知れません。
しかし階段状の下り坂では、ふくらはぎに大きな負担がかかり、下り坂も案外キツイ。

せっせと歩いて坂を降り切ると、いきなり現代社会に舞い戻ったような気分。
アスファルト道路まで行き着くと、心の半分はホッとし、もう半分は何だか名残惜しいような。

駅に向かって日の傾きかけた中で田舎道を歩きながら、久方ぶりによく遊んだ一日を満喫しておりました。

くわしい地図は、こちらから ↓
http://www.kintetsu.co.jp/zigyou/teku2/pdf/nara20.pdf



「壺阪寺」から「高取城」 その1 「ちょっとそこらのお散歩日記」