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木曾街道 梅雨の晴れ間に「馬籠から妻籠へ」1   


先週は友人と連れだって「奈良街道」を歩き、しばし運動不足故の筋肉痛に顔をしかめておりましたが、今回は中山道でもかなりの難所と言われた馬籠峠越え。
前泊した名古屋から朝の特急で中津川まで出ると、そこからバスで一路「馬籠」を目指します。
今年の夏は梅雨に入ってから雨の降る日がずっと続いていて、この日の天気も危ぶんでいたけどちょっと精進が良かったのか本日は快晴!

バスを降りるとそこでもう江戸時代に潜り込んだような光景を見ることができます。
「馬籠」や「妻籠」は中山道沿いでも木曽川とは少し離れた街道沿いにあったため、明治以降に作られた新道からは取り残されてしまい、却って昔からの宿場町の面影を強く残している所でもあります。
かつて、明治期の詩人であった島崎藤村は「木曽路は全て山の中である。」と書かれたそうですが、まさしく宿場町から外れると、山また山!
誰かが「旧中山道」と横書きした物を間違って「一日中山道」(いちにちじゅうやまみち)なんて読んだという話を聞いて大笑いしたことがありますが、実際に歩いてみると、本当に一日中山道を歩くことになりました。

ここが「馬籠の宿」の入り口に当たります。
江戸時代当時はこの宿場町は余り栄えていた訳でもなく、どちらかというとかなりひなびた町だったようで、当時の紀行文にも「駅舎のさまひなびたり」などと書かれてしまうような有様だったようです。

今現在、この「馬籠」が脚光を浴びているのは、多分ここが島崎藤村の生まれ故郷であり、そしてまた、近年に大火にあったことを切っ掛けにこの町全体を江戸期の宿場町の風情をそのまま残そうと努力された結果だと思います。

このダラダラした坂を上っていくと、「馬籠脇本陣資料館」が右手にあります。
当時の大きな旅籠であった蜂谷家、屋号を八幡屋としていた時代の古文書や民具などが展示してありますが、それ以外に「木曾五木」と言われるヒノキ、サワ ラ、アスヒ、コウヤマキ、ネズコの実物見本なども展示してあり、一見同じように見える木材もよく見ると随分その種類によって違いがあることに驚かされま す。

昔はひなびた宿場町であったらしいですが、今は観光バスのターミナルができるほどにこの町は観光化されていて、宿場町内は土産物屋さんがいっぱい軒を連ねています。

店を覗いてみると、竹細工あり、木曾檜を使った木製品あり、ワラで作られた馬の郷土玩具あり、かなり楽しい。
そこで私は「さるぼぼ」という魔よけ人形を携帯ストラップにしている物を発見。
思わず購入しちゃいました。

へへっ!とってもキャワイイの!(^▽^)V

あと買った物と言えば・・・・
オセンベでしょ、御幣餅でしょ、お焼きでしょ・・・・・・・・・・・・って、やっぱり食い気に走ってしまうなぁ、私って(苦笑)

そのままダラダラとした、それでいて急な坂を上っていくと、そろそろ息切れし始めた頃に「島崎藤村資料館」があります。
中に入っていくと、意外に大きなお屋敷だったようで当時幼少時代の藤村の勉強部屋だった所などもちゃんと保存されていて、昔は台所の土間だった所にはビデオシアターまでしつらえられている・・・
うーん、何となく違和感があったりするけど、別棟の展示館はかなり充実していて、当時の藤村の暮らしを撮った写真も多く残されており、藤村の蔵書や藤村直筆の原稿が間近に見られます。

「島崎藤村資料館」を出て100メートルも坂を上っていくと、そこで「馬籠の宿」はお終い。
このまま「馬籠峠」まではまだまだダラダラと急な坂道が続きます。
途中で家並みがとぎれるところで、梅雨の晴れ間に少しかすんで見えるけど「御嶽山」が姿を現してくれます。

ここでしばらく呼吸を整え、峠目指してレッツゴー!(いゃあ、このくらいに気合いを入れないと、今までもそうだったけど、この先の坂道も半端じゃないのよねぇ)

宿場のはずれから100メートルも登っていくと、早速道標の下に道祖神の姿が。
道祖神というのはどうも我々関西人には馴染みが薄く、信州へ行くたびに道ばたに立っている道祖神が珍しくて仕方ないのですが、もしかして、これって信州だけの特色なんでしょうかねぇ。

いつみても、何処で見ても道祖神って仲睦まじくって、すきだわ (#^.^#)
この道祖神のすぐそばには、復元された高札場があり「お上」からのお達しが所狭しとぶら下げられてました。

うーん、やっぱりここは街道なんだねぇ!って感じ。
でも、よくよく見れば「お達し」ばかりで旅人の知りたいような情報ってのはないんですよ。
当時なら、ちょっとタクシー代わりに籠を雇うこともあるだろうし、重い荷物を運んでいる人なら人足の手間賃も知りたいだろうし。
そう言う物が全然無いから、もしかしたらこれって雰囲気作りのためのヤラセなんだろか?
ちょっとばかりうがった目で看板を一瞥すると、そのまま水車小屋まで向かいました。

明治後期、この一帯を襲った集中豪雨のために大規模な山崩れが起き、この辺りに住まいしていた家族4名が犠牲になると言う惨事が起こったそうです。
この水車は当時の水車小屋を復元して立てられた物で、建物のすぐそばには亡くなられた一家の鎮魂碑と水車塚が残されています。

水車は残念ながら止まっていたけど、すぐ横に清流が流れていて涼しい風が吹いてきます。
今まではずっと坂道を上ってきたので汗みどろ。
水車小屋の横にしつらえてあるあずまやに入り込むと、人の来ないのを確認しつつ、背中にタオルを突っ込んでゴシゴシ。
そのままベンチに座り込んでペットボトルのミネラルウオーターを飲み干すと、また新たに汗が噴き出してくる。
今まではちょっと大振りのタオルハンカチで汗をぬぐっていたけど、やはりこの場合は普通のタオルでないと追いつかない。
リュックの底からタオルを取り出すと、それを首に巻いて小休止はお終い。
川沿いの山肌からは透き通った自然の湧き水が、竹筒を通して流れ出してました。
空っぽになったペットボトルに早速その水を詰め込んで、手にもその水を受けて飲んでみる。
手が切れそうに冷たくて、ゴクゴクと飲むと喉から胸にかけて冷たい物が通っていくのがよく分かります。

さて、水分はたっぷり補給したし、お昼時くらいには峠の茶店に着いてしまいたい。

と言うわけで、いざ出発!
うーっ!
この先は長そうだぁ!!
でも、坂を上るに連れて背後には美濃の景観が少しずつ広がっていく。
なんかハイキングをするにはとっても良いロケーションのようです。

水車小屋を出発すると、行けども行けどもず〜〜〜〜〜っと上り坂ばっかり。
と思っていたら、急に下り階段などがあったりして、今までせっかく苦労して登ってきたのにぃ!
なんて思ったりします。(苦笑)
下り階段の行き着く所は、広い、国道19号線とおぼしきアスファルト道路と交差した所。
信号も横断歩道もない道路は意外に車の交通量も多く、ちょっと冷や冷やしながら車の切れ目を狙って走り渡ると、また旧中山道の中に入り込む。
アスファルトの道を歩いている時はかなりの暑さを感じるんですが、森の中の道ってすごく涼しいんですよねぇ!
木漏れ日の中を歩いていると、どこからともなく涼しい風が吹いてきたりして、ちょっと汗で湿った服がヒンヤリと気持ちいい。

山道をどんどん歩いていくと、少し開けた所に十返舎一九の歌碑がありました。
この歌碑に書かれている文字は残念ながら随分風化してしまって読めなくなってる。
ここまで来ると峠まではもう少し!
さぁ! 
頑張るべー!
ハラも減ったしな・・・・・・・
ふぅ.。o○

ちょっと開けた感じの山道を歩くと、少しずつ民家が目に付くようになってきます。
景観の保護をされている地域ではないので、民家の形も随分現代風に改築されている所が多かったのですが、やはりそこは旧街道沿い。
町並み全体を見渡すと、やはり昔の面影が色濃く残っています。
この辺りは峠集落と呼ばれ、江戸の頃は牛を使って物資を運ぶ「牛方」が多く住んでいた所だと言われています。

その名残なのか一見した所は長屋風の家が建ち並び、千本格子もちゃんと残された家が多かったです。
右側のちっこい写真は、朝顔用に張られたネットの向こうでノンビリお昼寝を決め込むニャンコチャン。
こちらからカメラを向けても動じる様子さえなく、本当にノンビリ、ノホホン。
まるで、そのニャンコを取り巻くこの村全体の時間がとてもゆっくりと降りすぎているような錯覚を覚えるほどでした。
峠集落を行き過ぎると、また国道に出ます。
しばらく国道の縁を歩くと、やっと「馬籠峠」!

「馬籠峠」は国道と旧中山道が交差する標高801メートルの所にあります。
昔は馬籠の宿からこの峠までは木曾街道の中でも有数の難所と知られており、美濃から木曾までやってきた旅人は自分の馬を馬籠の宿に置いてきた所から、「馬籠」と呼ばれたそうです。

確かにここまで来るのはきつかったぁ!!
ずっと急な上り坂の連続だったもんねぇ!

確かにこんな坂道じゃお馬さんを連れて歩くのは容易じゃないみたい。

と言うことは、この先の「妻籠」は、奥さんを置いてっちゃう宿場町だったんでしょうかね?

峠には明治の頃にここを訪れた正岡子規の石碑が立っており、その横にこぢんまりした茶店があります。
ここでやっと軽めのお昼ご飯。
本当はお腹がペコペコだったけど、馬籠の宿から妻籠までのうち、峠のあるのはその行程の1/3程度の所なんですよね。
だから、峠からはもっと歩かなきゃいけないわけで・・・・・
ふぅ〜〜.。o○
今のところは木曾名物の「お焼き」だけで我慢、我慢。

その「お焼き」以外で木曾の名物と言えば「御幣餅」。

今はどこへ言っても売られているのでどこの名物料理かと言うことも分からなくなってきてますが、信州の飯田地域から西南へ愛知県の奥三河、岐阜県の恵那、また北西へ木曽、岐阜県飛騨地域の小坂・萩原町のなどの木曾街道や中山道に面した地方の郷土食だったようです。

「御幣餅」という名の由来は、神に捧げた御幣(右写真参照)の形に似せて荒くつぶした餅米を、少し幅広の串に付けたからだと言われています。
古来より人は旅に出るとその場その場の鎮守に詣でて御幣を捧げ旅の安全を祈念したものですが、殊に中山道や木曾街道は難所が多く、食べ物にも御幣の形をした物が出てくるのも何となくうなずけるような気がします。

実は、御幣餅も食べたかったんですがねぇ。
妻籠で名物のおそばも食べたいしぃ・・・
と言うわけで今回はパス。



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