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初秋の東北路 遠野編 1


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ホテルの窓から見えた、早朝の遠野の景色知らない町で夜遊びするのを楽しみにしながら、結局は夜遊び未遂。
食堂で飲んだグラス一杯のビールに酔ったのか?
いや多分、私に限ってそれはあり得ない(謎爆)

多分、久しぶりに敢行した一人旅に酔ったのでしょうね。
それに加えて、9時間あまりの長旅。

食堂から戻ってきてからもう一度、今度はバスタブにたっぷりの湯を入れて、ぬるめの湯に浸かると急に眠気が差してきた。
ホテルには遠野発信のケーブルテレビが導入されているようで、延々と地元の気象ニュースばかりが流れるチャンネルがありました。
明日の予定を頭に入れながら、ベッドでテレビを見ていると、テレビを消すいとまもなく、そのまま爆睡。

目が覚めたら、テレビはつけっ放しでした。

駅前の行商おばあちゃんと、地元おばあちゃんとの井戸端会議夜遊びは出来ずとも、久しぶりの一人旅が出来たから、それでOK。
欲求不満はみじんも感じず、爽やかな気持ちで目が覚めました。

天気予報のチャンネルでは、遠野近辺の気候が放映されていたのでしょうが、地元民では無い私には、その地名の場所がどこにあるのかが解らない。
しかし、表示される場所の尽くが、「湿度100%」。

思わず、カーテンを引いて外の景色を見てしまいました。
すぐそばにある民家の瓦は見えたけど、それ以外は何にも見えない、真っ白な世界。
一時間ほど経った6時を過ぎた頃に、やっと写真のような景色が見られました。

ササッとシャワーを浴びると、7時の朝食時間が待ち遠しい。
時間が余りすぎるので、朝食前に駅前までふらりと散歩に出ました。

ざしきわらしまだ6時半にもなっていないのに、駅前には行商のオバチャンが、そして、早くもその得意客とおぼしいオバチャンが・・・。
お二人は長々と会話を楽しんでおられましたが、私には通訳が欲しかった(苦笑)
でも、なんだかとても和める風景でもありました。

そろりとその場の写真を撮ってると、客待ちのタクシー・ドライバーさん達から声をかけられました。
「観光でおいでんさったんですか。」

「はい」と応えると、駅前で撮る写真のポイントを教えてくださいました。
都会の性悪タクシーばかりに出くわしていたから、こんな親切をされるとビックリ。

遠野駅前の信号機そこで教えて貰った、教えて貰わなければ気づかなかった被写体をご披露。
「ざしきわらし」なんですよね。

駅前にある信号機のてっぺんに立ってます。
さすがにこれは、教えて貰わないと気づかない。
「遠野交通」のドライバーさん達に、心底感謝です。

7時を回った頃にホテルに戻ると、朝ご飯。
メニューは塩鮭を焼いた物が主菜の、ごくオーソドックスな物。
早朝の散歩が功を奏したか、しっかりと完食+ご飯とみそ汁が美味しくてお代わりしちゃいました。(汗)

荷物をコインロッカーに預ける物と手持ちの物に分けると、チェックアウトの時間ギリギリまでベッドでごろ寝。
頃合いの時間にチェックアウトを済ませると、市の観光協会に向かいました。

遠野の定期観光バスこの町の「見て歩記」は、定期観光バス頼り。

観光協会で定期観光バスのチケットを買うと、10時発車のバスに乗り込みました。
ガイドさんは初老のオジサン。
お客さんも初老の域に達している人がほとんど。

その中の人から、声をかけられました。
聞けば前日に、新花巻の駅で一緒になった人だとか。

あーっ!!
そういえば、車両の開扉のボタンを押した私に、お礼を言って下さったご夫婦がいらっしゃったっけ。
恥ずかしいやら、照れくさいやら、嬉しいやらで、ちょっとフクザツ。

私がバスに乗り込むと、その後は続々と乗車客が増えて、一便しかない午前便がもはや満席。
ガイドをして下さる方は、農業を営む傍らに数人の人と交代でガイドを引き受けてらっしゃるそうな。
それにしても、まるで立て板に水を流すが如きの案内ぶりで、随分と勉強なさったのだと思います。
それに、とても楽しかったですよ。

まず最初に案内されたのは、「千葉家」の曲がり家。
「曲がり家」は、遠野を中心とする岩手県特有の建築様式で、くの字になった一棟の建物に人の住む居室と馬屋が一緒になってます。
一般的には、家の中心部に台所を含む土間があり、台所のかまどから排出される煙は馬屋の上にある破風から外に出されるようになってます。
そのため、暖気は馬屋を通り、その屋根裏にある干し草を乾燥させる事が出来る仕組みになっています。

千葉家特に遠野は、昔から優秀な馬を産出する地方と知られており、今でもその名残は色濃く残っております。
その曲がり家の代表的な例として「千葉家」に案内されましたが、これは「代表的な例」とは言えないかも知れない。

「お城」と教えられたら、そのまま信じ切ってしまうほどの大きな屋敷、それにその家は断崖の上に建っていて、まさに要塞そのもの。


聞けば、その頃の藩主から苗字を名乗る事を許されたほどの家柄で、その家の建つ高台から見渡せる景色の全部が、その家の持っていた土地だったそうな。
しかし、その身に奢ることなく、生活に困窮した小作人がいれば、その一家共々を自分の家に引き取って飢えから救ったとの説明がありました。

千葉家の土蔵急な坂を上っていくと、まずは大きな土蔵に行き当たります。
土蔵の壁の一面には板壁のような物が取り付けられており、それによって雨や風から土蔵の壁が守られておりました。
そしてもう一つ、その板壁は江戸時代は税金対策にも役立っておりました。

当時のこの地方では、土蔵の有無や、または土蔵の大きさによって掛けられる税率が違っていたそうです。
土蔵のある家は無い家より多くの年貢を支払う事になり、大きな土蔵を持っていると、それによってなお多くの年貢を課せられる事になります。

しかし、下の街道からこの屋敷を見上げると、土蔵は板で覆われているために、木造の建物に見えるんですよね。
すると、土蔵を持ってない家に見えちゃうから、土蔵分の年貢は払わなくて済む。

坂の上まで登ると、鉄筋のビルなら三階建てくらいの堂々とした大きな土蔵を確認出来るのですが、お役人のする事って、今も昔も変わらず大ざっぱだったようです(苦笑)

千葉家の曲がり家・近景千葉家の曲がり家は今から200年くらい前に建てられ、現在では「日本の十民家」の一つとして国の重要文化財の指定を受けております。
家を建てる時に樹齢四百年の木を使うと、その建物は四百年はもつと言われており、間近で見た曲がり家は悠々とした風格がありました。

資料によると、馬屋部分は13平方メートル、母屋が約400平方メートル。
豪邸とは、こういう物を言うんだろうなと、つくづく圧倒されておりました。

屋敷の周りに数十トンはありそうな巨石がゴロゴロしているのですが、その巨石を活かした庭造りがされていて、それを見ているのもかなり楽しい。

家の裏手には鳥居が立っていて、その先に行くとお稲荷さんの社があります。
今でも、ビルの屋上などにお稲荷さんの祠を祀っている所はいっぱいありますが、個人的にお社を建てた所は初めて見ました。
当時の豪農の生活って、すごかったんですね。

この屋敷には今も千葉家の方が住んでいらっしゃり、我々観光客に家の一部を開放しながら、この家を守っていらっしゃいます。
そろそろ茅葺きの屋根を修復する必要に迫られているそうなのですが、それに要する経費たるや約四千万円!!
それ以外にかかる維持費を考えると、もう大変だわ。(汗)

千葉家の裏庭 千葉家の稲荷社
千葉家の裏庭 千葉家の稲荷社

「クマに注意」千葉家を後にすると、次は五百羅漢に向かいました。
しばらくのあいだ平地を走っていたバスは、山道を走るようになります。
そして昼なお暗いような地点に停まると、乗客の我々はガイドさんの案内で、険しい山道に登っていく事になりました。

すぐそばには、こんな看板が。
ガイドさんの説に因れば、クマに遭遇した時は、とにかく大声を出さなければならないそうです。
死んだ振りをするなどもってのほか。
クマは好奇心旺盛な動物なんだそうで、却って大怪我をする事になるらしい。

でも臆病な動物でもあるそうで、耳慣れない物音がすると、クマは怖がって近づいてこなくなるそうなんですよね。
その為に昔は、山越えをする馬子達は自分の馬に沢山の鈴をつけていたのだそうです。

「今日は、ご婦人達のグループが数組もいらっしゃるので、私は安心してガイドを勤める事ができます。」

「大阪のオバチャン」に限らず、オバチャンが数人も寄ると賑やかになるのは、どこの地方でも一緒みたい。(苦笑)

五百羅漢までの山道苔むした岩がゴロゴロと転がっていて、その岩の間を縫って登っていくと、湿度が高いためか、あっという間に汗が噴き出してくる。

辺りには道らしい道が無く、地面に飛び出している木の根と岩に助けられて、やっと登っていけるほどの急勾配。
私はスニーカー履きだったので、楽に登る事が出来ましたが、一行の多くは年輩の人達で占められていて、その地点に行き着くだけでも一苦労。
でも、「遠野物語」の背景を知るには、この地点の見学は欠かせないんです。

一行がある地点で停まると、ガイドさんの説明が始まりました。

十四世紀から十九世紀の後半まで、地球規模では最後の小氷河期に入っていて、ヨーロッパでは冬になるとライン川やドナウ川さえ凍り付き、西暦1780年の冬にはニューヨーク湾が凍結し、マンハッタンからスタッテン島へ歩いて渡ることができたような、低気温の続く年代でした。

その頃の日本は今より三度も平均気温が低く、梅雨の長雨が続いて夏に気温が上がらなかったり、干ばつや虫害など、頻繁に不作や凶作、または大凶作に見舞われておりました。

殊に、日本の「四大飢饉」として挙げられている「宝暦の大飢饉」と「天明の大飢饉」には、この地方では夏に吹いた「やませ」と呼ばれる冷たい風の影響を受けて稲の成長が止まってしまい、台風と季節外れに降りた霜のため、その年の収穫はゼロという歴史始まって以来とも言える大凶作になりました。

それはその年だけにとどまらず、数年間も続いたと言われております。

その為に多くの餓死者が出る事になったのですが、飢饉のために亡くなった人は餓死者だけとは限らないんですよね。

この地方に伝えられている話によると、食べ物を求めて泣き叫ぶ子供が母親に石で打ち殺されたり、たった一個の芋を盗んだために家族全員が村人達の手で生き埋めにされたり、生まれたばかりの子供を川に流したり。

南部藩に残されている史書にも、嬰児の死体が橋の下に累々と重なり、川の流れさえもせき止めるほどだったと記されているそうです。
飢饉のもたらす栄養失調が原因で、赤痢やチフスなどが流行し、多くの村人達がバタバタと倒れていきました。

その飢饉の狭間の明和二年(1765年)、その間の様子に心を痛めた大慈寺の義山和尚は、数年間の歳月を掛けて、この辺りの岩の一つ一つに線彫りの五百羅漢を彫り上げて、犠牲者の冥福を祈りました。

掘られた五百羅漢の一体一体を見て歩くと、そのほとんどがまるで幼子のような顔をしてました。
それを見るにつけ、当時の犠牲者の多くは幼い子供達だった事が容易に偲ばれます。

ザシキワラシのいる民家我々一行がバスに戻ると、午後便利用の人と合流するために、いったんは駅前に戻る事になりました。
途中で通りかかったのが、この家です。
信号待ちのおかげでシャッターチャンスを得る事が出来ましたが、見た目は何の変哲もない古い民家。
しかし、この民家には今でもザシキワラシが出るそうで、ザシキワラシに会うために宿泊を希望する人が、後を絶たないのだそうです。

というのも、ザシキワラシはこの地方では幸運をもたらす神のような存在として伝えられているからなんです。
実際に、ザシキワラシの姿を見たりその気配を感じたりする人の多くに幸運が舞い込み、そのお礼としてオモチャや縫いぐるみが沢山送られてくるそうな。



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