トップ >一人歩き >あおい流「女の一人旅」 >初秋の東北路 遠野

初秋の東北路 遠野編 2


小さな画像をクリックすると拡大画像を見る事が出来ます。

遠野駅遠野駅前に着くと、次の発車までに時間があるので、駅の隣にある「語り部館」に足を向けました。
そこでは、毎日無料でその土地の言葉での民話を聞かせて貰えます。

遠野の民話には、必ず出てくる決まり文句があるようで、話が始まる時には「むがす あったずもな(昔、あった事だけど…)」、そして話の終わりには「どんどはれ」で締めくくられます。

「どんどはれ」の意味には二つの説があって、ワラ打ちなどの座り仕事が終わって次の仕事に取りかかる時、前掛けをとんとんと叩いてチリを払ったから、「どんどはれ」=「これは終わってまた次に…」という意味合いとして使われるという説。

遠野の風景もう一つは、「もうお終い」という意味で使われるという説。
この地方では人の背丈ほどもある大きなタンスのような容器に米を蓄えていて、足元近くにある小窓から少しずつ米を出して使います。
米を継ぎ足す時には上の蓋を開けて継ぎ足すのですが、米がどのくらい残っているかは、その容器を上からとんとんと叩いて調べるのだそうです。
コンコンと高い音がする場所には米は入ってるけど、どんどんと大きな音がする場所は米が無い。
上から下まで容器を叩いていって、下の方までどんどんという音がしたら、お米はおしまい(=はらい)。
チト説明が長くなりましたが、それから転じて「どんとはらい」と言う言葉ができたという説。

いずれにせよ、独特の語り口で伝えられる民話には、とても懐かしいような感慨があります。

駅前のカッパ達この日に聞かせて貰った民話は、ザシキワラシに逃げ出されてしまった名家が落ちぶれてしまう内容でした。
もう一つは、この地に伝わる悲恋物語の一種でもあるオシラサマの話。

関西人の私には、東北の言葉が解りにくかったので、あとで民話の本を購入しました。

午後から観光に参加する人達が合流すると、12時ちょうどに出発。
全日コース組だけで一台のバスは満席になっているので、午後からは二台のバスを連ねての観光になりました。
まるで時間が止まったような、のどかな田園風景を眺めていると、心に貯まった澱や疲れが少しずつ癒されていくように感じます。

一行の昼食の場となったのは、「遠野ふるさと村」
そこには、「肝煎りの家(庄屋の家)」をはじめ、江戸時代から明治の中期までに建てられていた六棟の曲がり家が移築保存されており、その他にも溜池や水車小屋、炭焼き小屋はもちろん、小さな鎮守の社までもが移築されて、昔ながらの田園風景が再現されています。

こびるの家そして、「まぶりっと(守り人)衆」と称される人達が実際に農作業をしながら、同時にここで農村体験する人達のインストラクター役もなさってます。

我々が食事をしたのは「こびる(オヤツ)の家」と名付けられている家で、この家は曲がり家ではなくて、まっすぐな家なんですよね。
建てられたのは十八世紀の後半で、まっすぐな家は苗字帯刀を許された家柄の人しか住めなかったそうです。

そこで頂いたのが遠野の郷土料理とされている「ひっつみ」でした。
「ひっつみ」は今でいうすいとんの原型で、水でこねた小麦粉をひっつまんで(引っ張ってちぎる意)鍋に入れた事から、「ひっつみ」と呼ばれるようになったそうです。

ひっつみ汁のある昼食膳味付けは各家によって違い、味噌味であったり醤油味だったりするそうで、私の頂いたひっつみは醤油味のアッサリ風。
薄味好みの私にも美味しくいただけました。(#^.^#)

食事が終わると、そこらをお散歩。

この村は遠野物語にも登場する「マヨイガの村」を意識して作られた村だそうで、深い緑に囲まれた小集落内はとっても長閑。

「マヨイガの村」とは、中国の桃源郷伝説によく似たストーリーで、山の中で迷ってしまった馬子が今まで来た事もない村に入り込んでしまい、そのうちの一軒の家に入ると食事の膳が整えられ、しかし、住民は誰も姿を現さなかった。
そこで気味が悪くなった馬子は、いったんは村の外へ出ていったが、またその村に戻ろうとすると、村全体が姿を消してしまっていた。
という伝説が、この地方に伝えられています。


村内をそぞろ歩けば、水車小屋は勢いよく水をはじき、肝煎りの家にある馬屋から大きな馬が顔を出し、あちらこちらに花が咲き乱れ・・・、一年くらいはこの村に滞在したいと思うほど。
まさに、平成のアヤカシに惑わされておりましたな(苦笑)

水車小屋 肝煎りの家の馬屋 イチイの実
ヒツジグサの花 大野どんの家 ふるさと村の田畑

「遠野ふるさと村」の次に向かったのは、「福泉寺」。
その途中で、「妻(さい)の神石碑群」の前を通りかかりました。

妻の神石碑群「妻」は「塞」とも書かれ、街道を行く旅人達の安全を祈念した道祖神の一種とも考えられているそうですが、ガイドさんの説によると、

「遠野は古来より不順な天候に見舞われる事が多く、苦しい時が多く続いていました。それで神や仏の仲間と知ると、どんな物にでも縋り付きたくなったんでしょう。だから、自分達は行った事も見た事も無いような、関西の神様まで祀っているんです。」

あらら!
ひょっとして、あのひときわ大きい「大峰山」って、奈良県内にある霊場の「大峰山」の事なんだろか?

そして到着したのが「福泉寺」
「福泉寺」は大正元年に開かれた寺で、寺そのものはさほどに古い歴史があるわけではありません。
でも、ここに祀られているご本尊はすごいんです。
残念ながら写真撮影は禁止されていて、頂いたパンフレットにもご本尊のお姿は無し。(涙)

福泉寺の多宝塔この寺は一木造りの十一面観音像をご本尊として祀ってあるのですが、その像は寺の二代目住職自らの手で掘られたのだそうです。
この木像は日本一の大きさと言われ、第二次大戦後まもなく、戦没者の慰霊を慰めると共に荒廃しきった人々の心を慰めるため、樹齢千二百年の松の大木を、独力で彫り上げたと伝えられています。
その完成まで十二年もの歳月を要し、その間には精進潔斎をはかるため何度も断食などの荒行が行われたそうです。

歴史的に新しく遠野物語にも無縁のこの寺が、なぜ観光コースに含まれたのかが、最初は私にとっては謎でした。
しかし、本尊の頭を拝見して、とっさに超・納得。

本来の十一面観音は、頭上に人間の喜怒哀楽を表現した像を乗せていて、正面から見えない後ろ側には大きな口を開いている「大笑面」が乗せられています。
しかし、福泉寺の十一面観音像には、正面に見える七つの像には、それぞれに七福神の像が配してあったんです。

カッパ淵何とも頼もしく、そして力強さを感じるほどの楽観さが感じ取れる。
これが遠野人の心意気ってもんなんでしょうね。
それを思うと、写真撮影禁止の堂内が何とも恨めしい。

そしていよいよやってきたのが、本日の目玉商品?、カッパ淵。

大抵の人はカッパの顔を想像すると、緑色もしくは青みを帯びた皮膚の色をしたカッパを想像するのではないだろうか。
実は私もその一人です。

しかし、この地に伝わる伝説のカッパは赤い顔をしているんです。
これも、ガイドさんの説によると、口減らしのために川に流された赤子達が起因しているのだとか。

その当時、男の赤ちゃんはそのまま川に流されたそうですが、女の子は菰や綿入れにくるまれて、すぐには沈んでしまわないようにして川に流されたのだそうです。

なぜなら女の子は、もしも人買いを稼業にしている女衒等に拾われたなら、女郎の身に落としてでも命そのものは長らえる可能性が万一にでも有るからです。
しかし、それは万一での可能性であり、子を捨てる親の希望的観測でしかなかったんですよね。

乳堂私も実は、子をなして育てた身でありますから、我が子の新生児の時の顔はいまだによく覚えてます。
その時はおサルさんみたいな顔だと思いましたが、言われてみればカッパの顔に似ていなくもない。

遠野物語にはカッパ淵の地名は記載されてなかったと思いますが、この地に数種ものカッパに因んだ伝説が残っているのは、この地で我が子を流した母親が沢山いたことに起因しているためだと思います。

カッパ淵のすぐそばに「乳堂」と呼ばれる小さな祠があります。
今は母乳の出ない事に悩む母親や、子宝に恵まれない夫婦が詣るスポットになっているそうですが、その起源は、存分に乳を含ませる事無く葬らざるを得なくなった子供の冥福を祈るため、子供を流した母親が、我が子のために縫いぐるみのおっぱいを供えた事に由来するのだそうです。

監視カメラ実際にその祠の中を覗いてみると・・・
Vサインをしているおじいちゃんの写真が・・・・(汗)、多分、何かの間違いでしょう(爆)
その左下には沢山のオッパイ型縫いぐるみが供えてありました。

その川上には橋が架けられており、その橋桁を支える柱の一つに監視カメラが一機。

聞くところに因ると、今でもカッパを目撃した人は後を絶たないそうで、その証拠写真を撮るために某国営放送局がこのカメラを提供したとか。
それだけでは無い。
常堅寺のカッパ狛犬「カッパ捕獲許可証」なるものが市の観光協会から発行されているんです。
我思う。 「ホンマにカッパがいるんかいな?」

淵の名は付いているけど、この川は多分、私のヒザくらいまでしか深さはないと思われ。
カッパは頭のお皿が乾きさえしなければ命を長らえる事ができるので、このような浅い川でも住む事が可能なんでしょう。

それほどに、このカッパ淵近辺にはカッパに因んだ民話が数多く残されており、すぐそばにある常堅寺というお寺にもカッパ伝説が残されています。

昔、カッパが馬を川に引きずり込もうとしている所を、馬の飼い主に見つかり手ひどい目に遭わされましたが、お詫びをして許され、川に戻して貰いました。
その後、この常堅寺で火災が起こった時、件のカッパが頭のお皿から大量の水を吹きだして、火を消し止めたそうな。

常堅寺にはこの伝説ゆかりの、カッパの狛犬が残されてます。

ホップの畑そして、このカッパ淵を挟んだ常堅寺の反対側には、安部氏の邸宅後があります。

安部氏は「前九年の役」で源頼義、源義家に滅ぼされるまで、この東北地方で盛大な勢力を誇っていた大豪族でした。
康平五年(1062年)、安部貞任が厨川の合戦で朝廷側との戦いに敗れて斬首され、それが「前九年の役」の締めくくりになったわけですが、その兄弟の安倍宗任と安倍正任はそれぞれ、筑前と肥後に流されました。
その生き残りの子孫が繁栄を遂げ、安倍宗任の子孫が平成の元総理大臣、安部晋三氏だそうで、総理になられた時は、祖先の墓参りをするために遠野まで来られたそうです。

ホップの花ところで、遠野市の名産品と言えば馬肉とワサビが有名なんですが、隠れた名産品として全国的にも高いシェアを誇る物があるんですよね。

カッパ淵から「伝承園」へは徒歩圏にあるので、ガイドさんの案内でバス客一行はゾロゾロとついて歩くことになりました。
その道の両側に、ちょっと変わった植物の植えられた畑が広がっておりました。

ホップの畑なんだそうです。
ちょうど今が収穫の最盛期で、あちらこちらの畑では刈り入れが終わり、私の旅行の日程がもう少し遅ければ、この景色は見られなかったかも知れません。

ビールに使うホップは花を利用するのだそうで、小さな花が集まってボール状の花になり、それがいっぱい集まってまるで房のよう。
その一つをほぐした物を味見させて貰いましたが、猛烈に苦かったです。
いゃあ! 一気に目が覚めた感じ(笑)

オシラ堂の柱伝承園には、柳田国男に遠野の民話を伝えた「佐々木喜善」の記念館があり、また国の重要文化財と指定されている「菊地家」の曲がり家が移築されています。
その菊地家の曲がり家から「御蚕神堂(おしら堂)」までは渡り廊下があり、我々の見学メインはオシラサマ。

この「御蚕神堂」には、千体ものオシラサマが展示されていて、何だかすごい迫力のようなものを感じました。

オシラサマについては色々な伝記が残されていますが、馬と娘の悲恋物語がベースになってます。

ある村に、両親と美しい娘が住んでいて、一頭の子馬を大事に育てておりました。
娘は年頃になるとますます美しくなり、それにつれて多くの縁談が持ち込まれました。
しかし娘は縁談があるたびにそれを断り、馬屋に行っては馬に話しかけておりました。
父親は、それを不思議に思って娘に訳を尋ねました。
すると娘は、
オシラサマ「おらは、この馬っこの嫁になるもの。」
と答えたため、逆上した父親は馬を馬小屋から引きずり出して桑の木につり下げ、娘の止めるのも聞かず馬の皮を剥いでしまいました。
あと少しで皮を剥ぎ終わる時、その馬の皮がふわりと飛んできて泣いている娘を包み込むと、そのまま天に昇ってしまいました。
それからしばらく経ったある夜。
後悔と悲しみで泣き疲れて眠ってしまった、両親の夢枕に娘が立ちました。
「来年の三月十六日になったら、庭に出してある臼の中を見て下さい。その中には馬の顔の形をした白い虫がいっぱいいる筈ですから、その虫に桑の葉っぱを与えて大事に育てて下さい。三十日経ったらその虫は繭を作るので、その繭から糸をとり、織物を作って生活の足しにして下さい。」
両親は三月十六日を待ちましたが、すべて娘の言った通りになりました。
蚕を育てて繭になると、糸をとり、織物を織るとそれを売って生計を立てました。
そして娘の両親は、馬を殺した桑の木で娘の頭と馬の頭を造り、それにきれいな布を着せて一対の夫婦神として祭りました。
これが、オシラサマの始まりとされています。


遠野の馬型ベンチ伝承園ではオシラサマしか見なかった、とも言えるほどの駆け足見学になりました。
というのも、JRの釜石線は一日に数本しか便が無く、15時9分の快速に乗り損ねると、次の列車が来るまでは2時間近くも待つ羽目になるんです。

ゆえに、あちこちを見学して回っても、お土産を買う時間は皆無に近い。
その代わり、「バスが遅れると、列車に乗り遅れることになります。」との脅し?が効いていて、勝手な行動をする人も皆無。

ゆっくり・ジックリと遠野旅行をするには、ちょっと消化不良気味の観光になりましたが、また再び訪れるつもりの下見としては快適な旅行となりました。

今回は「続き石」と呼ばれている古代人の作ったストーン・ヘンジを見損ね、姨捨て伝説が残る「デンデラ野」や「山口の水車小屋」にも足を向けられずで、宿題をたくさん抱え込む旅にもなりました。

だからこそ、また来ようという気になるんでしょうね。



詳しい地図で見る