今回の旅は、4年ぶりの一人旅になりました。
仕事が忙しくて「一人旅」を実行できずにいるうちに、出かけたいと思った目的地はどんどん大阪から離れた地になり、最終的に決まった目的地は「遠野」になりました。
なぜ「遠野」が選ばれたか。
その理由は実に簡単で、地名に「遠」という文字が含まれていたから。
それほどに、現実から離れて遠い所に行きたかったんですよね。
9月4日。
新大阪駅・07時41分発の「のぞみ」に乗り込むと、東京には10時23分に着く。
しかし、10時40分発の「やまびこ」に乗ろうとすると、少し早歩きをしなければならない。
予算の関係もあって、旅先でご馳走を食べる事はない代わり、駅弁が私のささやかな楽しみになってる。
でも、その駅弁を買う間も無く東北新幹線のホームを目指すと、既に目的の車両はホームで待機していて、清掃作業の真っ最中。
自由席車両の停車している位置には長い行列が出来ていて、その最後尾に着いたけど自由席に座れる自信がない。
指定席車両の方を見ると、並んでいる人は極めて少ない。
最悪、自由席が取れなくても指定席は容易に取れるだろうと思うと、少し安心できた。
幸い自由席にも少し空き席があって、通路側の席を確保する事が出来ました。
列車は滑るように東京駅を発車すると、私は一路東北路。
外を見るとどんよりとした空模様。
果たして、大宮駅を通過した頃には大粒の雨が車窓を叩き、ちょっとゲンナリ。
そのうちに昨夜の睡眠不足が祟ったのか、いつの間にかうつらうつらと眠り込んでおりました。
郡山で目が覚め、雨が上がっている事に気づいて、ちょっぴりホッ。
でも、空は相変わらず灰色の雲が立ちこめていて、今すぐにでも降ってきそうな感じ。
それに、寒々とした感じにも取れる。
さすがに東北地方だわ。
まるで南国のような大阪とは、見た目の気候さえ全然違う。
そして東京を出てから約4時間後に、「新花巻」の駅に降り立ったのでした。
「新花巻駅」の改札を通り抜けると、自動的に駅舎の外に出てしまう。
駅前には宮沢賢治著の「セロ弾きのゴーシュ」像が私を迎えてくれましたが、それよりも早く、モワッと湿気を帯びた暑い空気が私を取り巻いておりました。
「なんじゃ? こりゃあ!」
東北は寒々とした所ではなかったのか?
私が勝手に抱いていた先入観が私を混乱させる。
この数日間は、ゲリラ雨と呼ばれる天候が日本全土をおそっておりました。
その前は、急に冷え込み、そして急に暑さがぶり返す。
私が旅した頃は、ちょうど暑さがぶり返し、停滞前線が東日本から東北にさしかかっている時でした。
あまりにも蒸し暑くて、じっとしていても汗が噴き出し、慌ててリュックの中からタオルを探し出す。
首にタオルを引っかけると、リュックを担いで「釜石線」の「新花巻駅」を探す。
まさか、新幹線の駅舎の外に在来線の駅舎があるとは思わなかったもんね。
約一時間程の待ち時間はあるけど、これには少々焦りました。
「釜石線」の場所を見つけると安心して、ちょっとそこらをお散歩。
しかし、周りには何もない!
見事な程に何もないのです。
ガランとした殺風景な駅前広場の一角に、「セロ弾きのゴーシュ」像のある小公園が彩りを持たせている他は、オシャレな喫茶店はもちろんの事、茶店さえもなかった。
あるのは、一時間以内には帰って来れそうにない距離にある、観光地の立て看板だけ。
致し方なく、「ゴーシュ」像の前に陣取ると、その方向から聞こえるチェロの音に耳を傾けておりました。
釜石行きの列車が来る頃に釜石線のホームに出ると、新幹線駅からは見えなかった景色に出くわしました。
線路が一本しかない単線だし。
案山子がこっちを見てるし。。。。
というか、案山子らしい案山子を見たのは、生まれ落ちてから初めてかも知れない。
今までゲンナリしていたのがウソみたいに嬉しくなり、何枚も案山子の写真を撮っちゃいましたよ。
嗚呼、哀しき都会人(苦笑)
その時になって急に、遠くに来た事を実感し、みちのく=道の奥という言葉が実感できました。
駅に入ってきた列車は二両編成のワンマンカー。
そーいえば、駅にも改札機はなかった。
そこら辺に立ってる駅員さんにチケットを見せると、そのまんまスルー。
いつの間にかホームには沢山の人が列車を待っていて、でもほとんどは観光客。
自分の手でボタンを押さないと、列車のドアは開かない事を知ってる人は、ほとんどいないのよ。
目立つのは好きじゃないけど、周りの人がみんなオタオタしてるから、私がボタンを押しましたさ。
そばにおられた老夫婦からお礼を言われると、妙にくすぐったい。
そして鈍行列車に揺られる事、約一時間。
15時40分 「遠野」着。
やっとたどり着きました!
家を出てから、約9時間の道のりでした。
神秘的な物に憧れて、何度、柳田国男著の「遠野物語」を読んだ事か。
難解な文語体の小説でしたが、それを物ともせずに読みふける事が出来たのは、それ相応な魅力があったからなんでしょうね。
遠野で真っ先に迎えてくれたのは沢山の河童さん達。
まずは、駅前のポストに河童さんがいた。
これが「河童像」と教えられなければ、すぐには河童とは解らなかった。
しかし、この河童像が遠野のシンボルのようで、土産物屋に行くと必ずこの形の、木彫りの河童像が売られてました。
駅から少し離れて駅舎を振り返ると、駅の鬼瓦が河童でした。
泊まった宿は、駅前からすぐ見える所にあるビジネスホテル。
遠野駅の二階部分がBBタイプのホテルになっていて、そちらの方にも興味がありましたが、土地勘がないので食事をする場所に困るかも知れない。
それで無難に食事付きのホテルを選んでおりました。
ホテルの入口には「門限はありませんので、存分に夜の遠野をお楽しみ下さい」とある。
うははっ(#^.^#)
夜遊びは大好きなのだ。
夜遊び計画を立てる前に、まずはチェックイン。
ホテル内は簡素で、ビジネス客専用ホテルみたいな雰囲気がある。
あてがわれた部屋に入る前に、まずはその階の廊下を往復して、自販機の場所、消火器&非常出口をチェック。
そしておもむろに部屋に入るってのが、私の行動パターン。
部屋に入ると、壁にかかった額の裏を見て「お札」の有無を調べる。
何しろ遠野は「ざしきわらし」発祥の地。
「ざしきわらし」は幸運を呼び込む神様的存在だそうだけど、疲れて眠っている真夜中に行儀の悪い子供にバタバタと走り回られちゃたまらない。
荷ほどきを済ませると、コンビニを探すついでにちょっとそこらをお散歩。
「遠野」の地名は、アイヌ語のトウヌップ(湖のある平らな土地)が語源だそうで、南北朝時代は奥州藤原氏の流れをくむ阿曽沼氏によって治められておりました。
当時から猿ヶ石川の東南部と、この駅前近辺では一の日と六の日に市が立ち、交互に立つ市のおかげで遠野の宿場町は大変に栄えたそうです。
阿曽沼氏が滅んだ後、江戸時代になってからは南部藩の城下町として、そして沿岸部と内陸部の各地点を結ぶ、交通の要所としてなおも大きく栄えました。
南部藩は商業活動の保護奨励と宿場町の振興に力を注ぎ、市の立つ日には入荷千駄、出荷千駄と伝えられる程に、七つの街道から出入りする人馬で賑わっていたそうです。
その当時の様子を彷彿とさせるような大きな漢方薬店が、旧街道沿いに建っておりました。
そして「遠野」は柳田国男の「遠野物語」で知られる、民話の里でもあります。
オシラサマ、河童、ざしきわらしなど不思議な物が沢山登場する民話が今でも伝えられておりますが、その陰には、慢性的となっていた不作と飢饉がストーリーに大きな影響を与えていたように感じます。
「南部津軽藩飢饉史料」に因ると、飢饉の被害の特にひどかった地域では、蜂の子やイモムシ類、犬や猫までもとり尽くしてしまい、死人はもちろんの事、生きている人間までも殺して食べてしまったとか。
例えば、自分の子と取り替えた他人の子供を殺して自分達の食糧にしたとか、死人が出ると遺体売るための市が立ったとか、悲惨きわまりない当時の模様が伝えられています。
その飢饉が南部藩の財政を窮乏させ、そして更なる重税を農民に課する事になってしまいました。
一揆を起こせば間違いなく殺される、しかし、おとなしくしていてもいずれは飢え死にする事になる。
ペリー上陸という大ニュースが日本中を震撼させた翌年、度重なる重税に喘いでいた102村1万2千人もの民衆が、弘化四年(1847年)11月20日に立ち上がりました。
現在の遠野駅の北東にある早瀬橋の近辺で、藩政の改革を要求する民衆と、川を挟んで対峙する遠野藩士達とは、8日間に及ぶ睨み合いが続けられ、それが南部の幕末運動の発端になったそうです。
その場所から約200メートルほど南。
「さすらい地蔵」という名のお地蔵さんが立ってます。
見ると、頭部は取れてしまって惨憺たるお姿。
昔、力自慢の若者達に運び出され、その場に放り出したままにしていても、必ず元の位置に帰ってきていた事から、「さすらい地蔵」の名が付けられたとか。
しかし、お地蔵さんをそんな粗末に扱って良いの?
バチが当たらなかったんだろうか。
その手の民話がこの地方に残されていて、木造の仏像を川に浮かべて船ごっこをしている子供達を見つけた老人が、その子供達を咎めると、その老人の方に罰が当たったんだとか。
「せっかく子供達と楽しく遊んでるのに、そのジャマをしたお前が悪い。」
と、急に足腰が立たなくなったりと、大変な目にあった人達の話が数話もありました。
この近辺までやって来て、まだコンビニを見つけられずにいるうちに、ザザッと大粒の雨が降ってきて、私大慌て。
地図を見るとすぐ近くような気がしたけど、実際に歩くと想像以上に遠い。
それを知らずにいたものだから、傘を持ってなかったんですよね。
雨が降ると同時に仕事の電話が入ってきた。
まあ、なんとタイミングの悪い事。
電話で話ながらは走れないから、まずは近くの祠の軒下に避難してみた。
しかし雨足は強いし、風もあるしで、足元はあっという間にビシャビシャ。
しかし電話はなかなか切れない。
もう、思いっきりブルーになりましたな。
電話が切れた頃に強い雨は収まり、しかし霧雨のような雨は続いてる。
湯殿山の末社であろう祠は、数種の高木に囲まれていて、脇には小さな流れがある。
その流れの中に座高1メートルほどの河童が両手に人形のような物を持って座ってました。
木の下で、まるで私と同じように雨宿りをしているような風情でした。
雨がまた酷くならないうちにと、早足でホテルまで帰ってきましたが、元からかなり蒸し暑かったので、部屋に着いた頃には汗と雨で全身がぬれねずみ。
シャワーを浴びて、湿ったジーパンをドライヤーで乾かし終えた頃、フロントから電話がかかってきました。
「夕食の用意が出来ました。」
何度か旅はしてきたけど、ビジネスホテルのレストランで夕食を摂ったのは、今回が初めてでした。
どんな夕食が出てくるんだろうか。
お腹も空いていたから、期待感はてんこ盛り。
いそいそと一階の食事室まで降りていくと、用意されていた夕食はとてもアットホーム。
野菜の煮付けあり、サンマの塩焼きがあり、そして中央のほうらくは?
ミニコンロに点火してくれた女性によると、
「この地方特産の『前沢牛』です。」
おおーっ!
きた甲斐があった!
こんなご馳走をそのまま食べてしまうのは、少し勿体ない。
故に躊躇無く、この地のもう一つの名産物であるホップを使った地ビールを注文したのは言うまでもない。
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