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初秋の東北路 平泉編 その2 


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一関のビジネスホテルで一夜を過ごし、7時45分の列車に乗ると、また平泉まで戻ってきました。
宿を立った頃には小雨が降り始めてましたが、平泉まで戻ってくると小止み模様。
しかし、いつ降り出すとも分からない、どんよりした雲が空を覆ってました。

平泉駅前駅前からは、毛越寺(もうつうじ)や中尊寺を経由するループバスが頻繁に発着してました。
前日にお世話になったタクシードライバーさんの話によると、平泉を世界遺産に登録させようとの動きがあった頃から、市を挙げて観光客の誘致を計り、路線バスも大幅に増便されたのだそうな。

しかし残念ながら、平泉の世界遺産登録は延期されたため、多分、しばらくすると観光客は減るだろうし、バスの便も減るだろうとの事。

平泉が世界遺産登録できなかった最大の理由は、「浄土信仰」が海外の人達に理解できなかったためだそうで、いやいや、海外の人ばかりでなく、今現在の日本人にも理解しがたい思想だと思う。

平安時代の中期以降、平安の都は「平安」の名とは裏腹に、大変に物騒な町に成り下がっておりました。

奈良の平城宮から京都の平安京への遷都を行った桓武天皇は、大変に迷信深い方だったそうで、特に怨霊による祟りを恐れておいででした。

それ故に、坂上田村麻呂を蝦夷征伐に向かわせたのを最後に、軍そのものを廃止してしまいました。
また、現在の警察に当たる「検非違使」も、宮中だけを守る門番的な役割のみで、警察組織などは無きに等しい状態。
そして罪人を処罰する最高刑の死刑も、刑死した怨霊の祟りが怖くて、廃止してしまった。

毛越寺の山門その結果、盗賊や物盗りの類は堂々と都中を荒らし回り、人さらいや辻斬りが横行し、都の中はえらい事になってました。
ましてや、街道筋や地方都市などは、もっと酷い状態だったに違いない。

平安時代の中期には、栄華を誇っていた貴族政治にも陰りが見え始め、新たな勢力として武士が台頭し始めた。
治安の状態などは最悪で、当時の人々は「ああ、世も末だわ。」なんて嘆いていたんでしょうね。
それで広まりだしたのが、どちらかというと終末論的に傾いた「末法思想」

世が末だと思うと、自分の命も短いかも知れないと感じるもの。
どうせ死んでしまうなら、自分の死後は天国へ行きたいと思うのは、現代人も同じ。

そして「浄土信仰」が広がりはじめ、京都の宇治には極楽浄土を表象する「平等院」が建立され、それが切っ掛けのように、阿弥陀如来を本尊とする寺がたくさん建立されました。
その思想の流れがこの奥州にも届き、奥州藤原氏によって平泉に壮大な寺院が建立される事になったのです。

毛越寺復元伽藍図そのシンボルともいわれる物が、平泉市民の間では「造り山」とも呼ばれている「金鶏山」。
その山こそ、平泉に於ける浄土思想の中枢になっているのですが、あまりにシュールすぎて、また難しすぎる。
その辺りの解説は後ほどにするとして、まずは駅から歩き出しましょう。

駅からまっすぐに西に向かうと、約10分ほどで「毛越寺」に至ります。
「毛越寺」は、昔は(もうおつじ)と呼ばれていたそうですが、いつの間にか言葉がなまって(もうつうじ)と呼ばれるようになり、やがてその名が固定化されてしまったとか。
確かに、寺名の漢字を見ると、「越」を(つう)とは読みませんもんね。
この寺は嘉祥3年(850年)、慈覚大師によって開山され、その後にあった大火によって荒廃していた所を、奥州藤原二代目の藤原基衡によって再建され、その後の秀衡の代に至ると、多くの伽藍が造営されました。

しばらく止んでいた雨は、毛越寺の山門に入る頃に再び降りだし、遠くに見えていた山の影は白く隠れてしまいました。

毛越寺本堂山門をくぐって境内に入っていくと、正面に本堂が見えます。
この建物は平安時代の様式をそのまま再現してありますが、実際には別の場所にあったと思われます。

山門から本堂に向かう道筋の途中に、松尾芭蕉直筆といわれている句碑が建てられています。

「夏草や つはものどもが ゆめの跡」

元禄2年(1689年)5月13日。
平泉を訪れた松尾芭蕉は、奥州藤原氏や義経主従を偲んで、この句を残したと伝えられています。

松尾芭蕉 句碑本堂の右側には、かつてはここにあった、南大門の礎石が残されていました。
南大門の事は、吾妻鏡には「二階惣門」と書かれており、桁行(けたゆき・横、東西)3間(ま)、梁行(はりゆき・縦、南北)2間(ま)の平面形式をもち、平安の都にあった御所の門にも、勝るとも劣らぬ規模だったそうです。

門があれば当然その両側には築垣が築かれていたわけで、その築垣たるや厚みは約10尺、外側にあった犬走りの幅は8尺、またまたその外側には幅6尺の溝が掘られていて、築垣そのものの高さは、3メートル以上もあっただろうと推測されてます。

これって、ほとんど、要塞の壁みたい。

当時は南大門をくぐるとすぐそばに、大きな池があり、門から金堂へ通じる橋が架けられていたようです。

南大門礎石近くに発掘された遺構をもとにした「臨池伽藍」の復元図が建てられていましたが、その規模はすごいです。
しかし、発掘された部分は元々あったごく一部にしか過ぎない。

今は本堂、常行堂の他、大泉が池と浄土庭園、堂宇や回廊の基壇、礎石、土塁、それに堂塔十余、僧坊十七坊が残されているのみですが、 奥州藤原氏が築いた寺院に関しては、鎌倉時代に書かれた歴史書である「吾妻鏡」に詳しく記されており、当時の「毛越寺」がいかに壮大な寺院だったかが、手に取るように分かります。(「9月17日 甲戌」参照)

南大門跡から見える池は「大泉が池」と呼ばれ、東西約180メートル、南北約90メートル、築山、池中立石、州浜、中島が設けられていて、中島と池の周囲には玉石が敷き詰められています。
お天気が良ければ、周囲の庭園が池に映え、素敵な景色を見られたかも知れないと思うと、この日の雨は少し残念でした。

でも、土砂降りの大雨にならなかったのは不幸中の幸いかも。

開山堂池の畔に沿って歩いていくと、庭園の西端に「開山堂」と呼ばれる建物があります。
ここには、この毛越寺を開山した慈覚大師が祀られています。

「大師」といえば、後に「弘法大師」と呼ばれるようになった空海と、「伝教大師」の最澄がまず頭に浮かびますが、日本で初めて「大師」の称号が送られたのは、「慈覚大師」こと、円仁でした。

円仁は空海や最澄と同じく、遣唐使船に乗って唐へ留学の旅に出ましたが、その往復の旅程は困難を極め、唐にあってもオーバーステイを見つかって役人に突き出されたり、滞在の延長を許可されて喜んでいたら、帰国したい時に帰国の許可が下りなかったりと、散々な目に遭われたようです。

その間、円仁は、船が博多から出発した日から、無事に帰国を果たすまでの9年6ヶ月もの間、「入唐求法巡礼行記」という日記を書き続けました。

嘉祥寺跡その旅行記は今、マルコ・ポーロの「東方見聞録」、玄奘(三蔵法師)の「大唐西域記」と並んで、世界の三大旅行記の一つと数えられているそうです。

「開山堂」には慈覚大師の像以外に、両界大日如来像、藤原三代の画像が安置されているそうですが、格子戸の向こうにある扉も固く閉ざされ、中は真っ暗。
何にも見えませんでした(T.T)。o○

開山堂から東北へ向かうと、嘉祥寺跡が見えてきます。
吾妻鏡では「嘉勝寺」と紹介されていますが、この建物こそ慈覚大師が開山した最初の寺だそうで、藤原基衡によって造営された金堂円隆寺より古い寺院だったそうです。

そしてその東側に嘉祥寺跡と同規模の金堂円隆寺跡があります。
これこそが毛越寺の中心伽藍で、本尊は運慶作の薬師如来だったそうな。

金堂跡その本尊は、京都で掘られたそうですが、あまりに立派な出来栄えだったので、それに驚嘆された鳥羽法皇は「洛外に出すべからず」と持ちだしを禁じられました。
(うーわー! いくら法皇様でも、それはあまりに手前勝手すぎるやろ。。。)

その報を聞いた基衡は、
「心神、度を失い、持仏堂に閉じ籠り、七か日夜、水漿(すいしょう=飲料)を断ちて祈請し」
(そりゃ、焦るし、しかし、神頼みするしかないだろうね。)

九条関白忠通に善処を嘆願して、ようやく平泉への搬送が許されたといいます。

講堂跡嘉祥寺跡と金堂円隆寺跡の間、少し奥まった所に講堂跡があります。
この建物も基衡の時代に建てられたそうですが、寺伝によると金堂円隆寺と一体になっていたそうな。
「一体になっていた」という意味合いが解りにくいのですが、それぞれの建物の礎石が離れている事から察するに、渡り廊下か何かで繋がっていたんだろうと、勝手に想像しちゃってます。

金堂円隆寺跡の東側には遣水(やりみず)が設けられていました。
この庭園は、日本最古の造園マニュアルともいえる「作庭記」の記述内容に則して作られていて、寝殿造りの庭園としては、現在に残る貴重な存在だと思えます。

今現在でも、かつての藤原氏の栄華を偲び、5月の第4日曜には平安時代の装束をまとった歌人達が集って、「曲水の宴」が催されています。
また、毎年5月3日に催される平泉町主催の「源義経公東下り祭」では、龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の二艘の船がこの池に浮かべられ、時のアイドルが義経役として招かれるそうですが、きっと雅な光景になるんだろうなぁ。o○。

観自在王院南門跡「毛越寺」の庭園散策が終わりに近づく頃、断続的に降り続いていた雨は、止んでいる時間が長くなり、また、空も幾分明るくなり始めてました。

「毛越寺」を後にすると、その隣にある「観自在王院跡」の中に入ってみました。
「観自在王院」は藤原基衡の奥方が建立したお寺だそうで、当時の毛越寺の伽藍と比べると、とても小さな伽藍だったそうですが、掘り出された遺構の規模を見てみると、今現在の毛越寺とほとんど変わらない。
むしろ、庭の一部のみが復元されているだけで、発掘された礎石の上には建物がないから、やたらに広く感じる。

奥方でさえこのような財力を持っていた奥州藤原氏って、いったい何なんだ?
ひょっとしたら、ビル・ゲイツでさえ裸足で逃げ出すほどの、超大財閥だったのかも知れない。

庭園の池と中島南門跡からまっすぐな広い通路を辿っていくと、小さな林が見えてきますが、近づいてみるとその林は池の中島の植え込みでした。
この寺にも「作庭記」に則って作られた浄土庭園が設けられていて、隣の毛越寺のそれよりは遙かに小ぶりながら、とても素晴らしい造りになってました。

残念ながらここは、豊臣秀吉の奥州仕置きの煽りを受けて、毛越寺共々戦火によって消失してしまったまま、長らく再興される事もなく今に至ってます。
現存しているのは、浄土庭園の中心部とも言える池と、周囲にあった建物の礎石のみ。
まさに「夢のあと」でした。

観自在王院をザッと一巡りすると、次に向かったのは「金鶏山」。
ただし、山登りができるほどのパワーは無いから、その麓に立ち寄っただけ。

「金鶏山」は「毛越寺」の真北の方角にある小高い山ですが、前述の通り、地元では「造り山」と呼ばれています。
つまり、人工的に作られた山という意味合いなんですよね。

金鶏山登山口 千手堂藤原三代の秀衡は、金箔を張り重ねた漆製の鶏型を作ると、その中に沢山の経文を詰め込んで、山の頂上に埋めたのだそうです。
その山は伝えられる処によると、「北上川まで人夫を並べ、一晩で積み上げた」のだそうで、その言い伝えによって「造り山」と呼ばれているのだそうです。

今は田んぼの中の小さな遺跡としか残ってませんが、この山の東側に秀衡が造営した「無量光院跡」があります。
これこそが、平泉を世界遺産に登録するための主なコンテンツとなった、浄土信仰の具象だったんですよね。

春と秋の彼岸に「無量光院」から「金鶏山」を眺めると、「金鶏山」の山頂に日が沈んでいく様子が見られるそうです。

義経妻子の墓この景色こそが、極楽浄土で見られる景色を具現化したもの。 
その思想を以て貴族階級はもちろんの事、一般民衆の心にも平安をもたらした。

というのが、世界遺産登録のために示していた一大コンテンツだったのですが、ユネスコはそのコンテンツが理解できなかったため、登録は認められなかった。

確かに、これは難しすぎますわ。

第一、肝心の「無量光院跡」は全く整備できてない。
所以、私もこの旅の行程から「無量光院跡」への訪問は外しちゃったもんね。

「金鶏山」の登山口には、奥州藤原氏三代の位牌が納められているといわれる千手堂があり、そこから奥まった所に、義経の妻子の墓があります。
義経の妻といえば、真っ先に静御前のなを頭に浮かべる人が多いと思いますが、ここで眠っておられるのは静御前では無くて、義経の本妻です。

義経の本妻は頼朝の家来の息女だったそうで、後に郷御前(さとごぜん)と呼ばれるようになりました。
彼女との間に生まれた子は女の子だったそうで、この戦いのあった頃は4才になっていたそうです。
郷御前は頼朝の命令によって義経に嫁いだので、頼朝と夫である義経との関係が悪くなった時点で、実家に帰っても良かったんですよね。
むしろ、彼女が義経から離れないと、彼女の実家の立場が悪くなったのでは無かろうか。

しかし彼女は義経に付き従って都からはるばる平泉まで落ち延びてきたわけで、義経夫婦の絆のいかに固かった事か。
彼女の享年は22才だと伝えられていますが、今の年齢の数え方に直すと、まだ二十歳を超えたばかりで、これから女性として開花していくお年頃。
亡くなったお子さんも、可愛い盛りだった筈。
それを考えるとお二人が哀れに思え、ふと周りを見渡すと、こぢんまりした墓のすぐそばに、珍しい花を見つけました。


「ギンリョウソウ」

葉緑素を持たず、地上には花とそれを支える茎しか姿を見せませんが、ツツジ目に属する被子植物です。
この花を撮るためにカメラを向けていると、妙齢の美女の姿が重なって見えたように感じたのは、単なる気のせいだったのだろうか。。。。

「金鶏山」で義経の妻子に会ったなら、次は義経本人に会わねばならない。
しかし、義経の首は埼玉県内に葬られ、胴体は宮城県。
何だかまるでバラバラ殺人事件の様相を呈してますが、義経が妻子と共に自刃したのは、ここからほど遠くない場所。
そこで、その現場まで足を運んでみました。

立花廃寺跡登山口から来た道を少し引き返し、そしてまた北を向いて歩いていくと、「花立廃寺跡」の前に出ます。
碑に「毛越寺境内附鎮守社跡飛地」とありますが、往時の毛越寺は五百もの僧坊があった大伽藍だったから、案外と、この辺りが毛越寺の北東の角っこだったのかも知れません。

この寺は毛越寺の鬼門を鎮めるために建てられたお寺ですが、その敷地内に「平泉郷土資料館」が建てられています。

折からの蒸し暑さのため、ここにやってきた時には汗びっしょり。
そろそろ水分を補給しておかないと、熱中症が怖い。
それよりも、少しの時間で良いから、涼しい所へもぐり込みたかったのが正直なところ(笑)。




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