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初秋の東北路 平泉編 その3 |
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大阪は真冬でも温暖で、夏になると赤道直下にあるシンガポールより暑くなる。 |
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腹ごしらえが済むと、いよいよ最後の目的地、「金色堂」へ・・・・。 この参道は別名「月見坂」と呼ばれ、杉の大木が参道に両側に連なり、聖地特有の幽玄さが感じられます。 私はこれを「緊張美」なんていう、ヘンテコリンな造語で現したりするのですが、一種独特の心地よい緊張感が得られ、ずっとこの中にいたいような気になります。 「月見坂」を登り切ると、そこが「本堂」。 「中尊寺」の中心的な建物に当たり、本尊は阿弥陀如来で、創建当時の浄土思想が偲ばれます。 「月見坂」を歩いている時は静かな佇まいを楽しんでおりましたが、ここまで来ると沢山の人出で、下で見た観光バスの数を思い出すと、さもありなん。 本堂前の広場では、中尊寺の歴史を語るガイドさんの声に入り交じって、"Joudo is.........."と英語らしき言葉で説明しているガイドさんも有り。 今は日本人でさえ理解しにくい「浄土思想」を、外つ国の人達にはどのような説明をしたのか、いささか気になるひとときでした。 本堂で会社の安泰を祈願すると、次に向かったのは「金色堂」。 中尊寺の金色堂は、藤原四代の敵側にまわった源頼朝でさえ尊重すべき寺院と認めたそうで、手厚い警護と修復が成されたそうです。 金色堂は、屋根以外は全て厚い金箔で覆われ、螺鈿や象眼細工で飾られていたため、建立されてから十数年後には、雨や霧を避けるための簡単な覆いのような「霧よけ」と呼ばれる建物が増築されていたそうです。 しかし、鎌倉将軍惟康親王の命により、もっと堅固な「覆堂(おおいどう)」が設置されるようになりました。 その「覆堂」は何度も修復され、そのおかげもあって「金色堂」は十世紀近くも風雪から守り通されました。 昭和の中期、実はこの頃には何度もテレビで報道され、物心つくかどうかの幼少期の私に、強烈なインパクトを与えたのが、中尊寺・金色堂の修復に関するニュースでした。 「鞘堂」と呼ばれていた「覆堂」を解体移築し、「金色堂」本体も大修復を終えた後、鉄筋コンクリート造りの新たな覆堂によって、「金色堂」は往時の姿のまま半永久的に存在し得る。 昭和38年、このニュースに刺激された私は、家の近所から欠け瓦を拾ってきては、両親を辟易させていたものですが、まさか、この歳になってもその習性が残ってようとは、私自身にも想像し得ませんでしたな。(苦笑) 「中尊寺」は奥州藤原氏が滅亡した後も、幕府や朝廷の手厚い庇護を受けて、大いに繁栄しましたが、残念な事に何度も大火に遭い、ほとんどの寺堂が消失する憂き目にあった事もあります。 「金色堂」のみ中尊寺の中で唯一、藤原清衡が建立した当時のまま、今に残されており、国の貴重な宝の一つと挙げられています。 鉄筋コンクリート造りの「覆堂」に入っていくと、金色堂は大きなガラスケースの中に納められていました。 その中でまず目に付いたのは、金色に輝く仏さん達でした。 中央に阿弥陀三尊像、その両側に沢山の仏像が並んでいて、数を数えると全部で十一体。 その仏像を囲むように、巻柱(まきばしら)と呼ばれる四本の柱が立っているのですが、その柱全てに螺鈿細工が施され、それは柱だけでなく、仏像の置かれている須弥壇はもとより長押に至るまで、精密な螺鈿細工で飾られておりました。 須弥壇は堂の中央に沢山の仏像が置かれた大きい物と、その両側の奥まったところに小さい物があって、全部で三つありますが、その中央の須弥壇の中に藤原清衡のミイラ、その左右の須弥壇の中には、それぞれ藤原基衡、藤原秀衡のミイラと、四代目泰衡の首を納めた首桶が納められているそうです。 金色堂そのものは、瓦以外は総金箔造りになっていて、装飾品には紫檀などが贅沢に使われています。 螺鈿細工に使われた素材の多くは、亜熱帯から熱帯の海でのみ産出される夜光貝が使われており、また、象牙細工にはアフリカ象の象牙が使われていることが、後年の調査で解明されています。 残念ながら、堂内は写真撮影禁止になっており、ごく一部のみ「金色堂」のサイトから見ていただく事にします これほどまでに贅を尽くした仏堂を建てられる、藤原氏の財力はどんなものだったんでしょうね。 「金色堂」から少し離れたところに、「鞘堂(旧覆堂)」が移築されています。 中は藤原秀衡の名を記した大きな卒塔婆が建てられている以外はガランとしてましたが、「覆堂」としての目的を全うさせるため、緻密で頑丈な造りであった事が想像できます。 そのすぐそばに、ここにも芭蕉翁の句碑が建てられ、芭蕉の銅像も一緒に建てられていました。 現在の「覆堂」には照明の設備がありましたが、当時の「覆堂」には窓などは一切無く、外からの明かりは入口から入って来るのみ。 その薄暗い「覆堂」の中で「金色堂」を見た芭蕉は、どんな事を思ったのでしょうね。 奥州藤原氏はたった三代の間に、大伽藍を配した寺を数軒も造営し、平泉の街全体は平安の都をしのぐほどに華やかだったと言われています。 その財力と強大な勢力は、鎌倉幕府にとって巨大な脅威としてうつったのも、無理はないと思われます。 藤原氏四代目の泰衡は、幕府からの圧力に耐えきれず、窮して身を寄せてきている義経を討ち取り、その首を幕府に送る事で奥州を守ろうとしました。 その為に義経を裏切る事になったのですが、結局は泰衡自身も頼朝側に寝返った、自分の家来である河田次郎によって討ち取られてしまいました。 その河田次郎は、主人を裏切った大悪人として、またもや首を刎ねられたそうで、幕府はよほどに藤原氏に脅威を感じていたのでしょう。。 「吾妻鏡」には、切り落とされた泰衡の首は、釘で打ち付けて晒されたとあり、その後の調査でも泰衡の首にはくっきりと釘の跡が見られただけでなく、たくさんの切り傷や刺し傷が残されていたそうです。 随分とむごい仕打ちを受けたものですが、泰衡の首が納められた首桶には、100個あまりの蓮の種が一緒に入れられていたそうです。 昭和25年、藤原三代と首桶の中に納められた人物に関して、レントゲンなども駆使した綿密な調査が行われました。 その結果、初代の清衡以外は、お二人揃って肥満型で虫歯の跡さえ見られたとか。 きっと、よほどに美味しい物を召し上がっていらしたんでしょうね。 泰衡の首桶から取り出された蓮の一部を蒔いてみたところ、平成5年になって、初めて発芽させる事に成功し、その5年後には直径20センチあまりの大輪の花を咲かせる事ができたそうです。 現在は「中尊寺」の境内の中に蓮池が設けられ、「中尊寺蓮」と名付けられた蓮は、毎年7月の半ばから8月にかけて、参拝者の目を楽しまれているそうです。 その蓮の花が盛りになる八月のお盆には、この地の戦乱で亡くなった多くの戦没者の魂を慰めるため、そして世界平和を望むために、大文字の山焼きが催されています。 平泉の駅からは、大文字の刻まれた山が少し霞んで見えてました。 翌日からはまた仕事。 平泉を発った私は、また9時間近くもかけて、しかし今度は電車に乗るたびに爆睡しながら帰宅しました。 |
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