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初秋の東北路 平泉編 その3 


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大阪は真冬でも温暖で、夏になると赤道直下にあるシンガポールより暑くなる。
その大阪で生まれ育ち、滅多に近畿圏から出ないでいるので、東北地方は夏は涼しく冬はとてつもなく寒い、というイメージを固定化しちゃってる。
この旅のために用意した衣類は、薄手のセーターやウインドブレーカーなどの防寒的な着替えが多かった。
ところがどっこい、この初秋の気候は本当に変だ。
一雨毎に気温が下がりつつある時期になっている筈なのに、遠野や平泉近郊はずっと蒸し暑いまま。

「毛越寺」から「立花廃寺跡」まで来た頃には、首にぶら下げたタオルはグッショリ。
Tシャツなんて、汗のためにまだら模様ができてるもんね。

卯の花清水「立花廃寺跡」の敷地内には「平泉郷土館」があり、「中尊寺」や「毛越寺」に関する資料はもちろん、藤原三代に関する資料なども展示されており、この地方の歴史を知るには良いかも。
そんな資料も見たかったけど、まずは空調の利いた所で一息つきたかった。
しかし、冷房は利かされてなくて、扇風機がクルクルと回っているだけ。
涼を求めて飛び込んできた旅人にとっては、ちょっと期待外れの処遇でありました。
いささかガッカリとしながら、でも、水分の補給だけは存分にすませ、予備のペット茶も買い込むと、高館を目指して歩を進めたのでありました。


「平泉郷土館」から「高館」へ向かう途中の、踏切を渡ったすぐそばに「卯の花清水」の碑が建てられています。
昔は名水の湧き出ている所だったようで、古い時代に建立されたのであろう、水神を祀る石碑や石仏が立ち並んでました。
その中に、松尾芭蕉と共に奥州路を歩いた芭蕉の弟子曾良の句碑も建てられておりました。

「卯の花に 兼房見ゆる 白毛(しらげ)かな」

義経堂入口の看板芭蕉主従がこの地を訪れた時には、白い卯の花が咲き乱れていたのでしょう。
その卯の花の中に、白髪頭を振りかざして奮戦した増尾兼房(ましのおかねふさ)の、面影を重ねて詠んだ句といわれております。

増尾兼房は、義経本妻である郷御前の幼少期から、守り役として御前に使えていた人だそうです。
兼房は、衣川の戦いに敗れた義経が妻子と共に自刃した時、義経の介錯をした後に高館に火を放ちました。
主人家族の遺骸が敵の手に渡らぬよう、燃えさかる館の前で奮戦し、敵の長崎兄弟を道連れに崩れ落ちる館の中に飛び込んで行ったとか。
その時の兼房は、齢66才。
当時の66歳となれば、相当な高齢者であったはず。
あまりに壮絶な大往生ぶりに、曾良も黙って通り過ぎる事ができなかったのでしょう。

残念な事に「卯の花清水」は涸れてしまい、今は水道水を使って当時の面影が伝えられています。

東北本線に沿った道を南東に向かって歩くと、やがて「高館義経堂」と大書された看板が目に入ってきます。
その角から坂道を上っていくと、あちらこちらに草むした古い石仏が建てられている事に気づきます。
その中の一つはかなり新しく「往古両軍戦死者供養塔」と刻まれていました。
よほどに激しい戦いがこの地で起こったのでしょうか、周りをじっくりと見渡すと藪の影やら大きな石碑の影にも、驚くほどに沢山の石仏が、半ば埋まるように立っていました。

なだらかな勾配の坂を上っていくと、石段の脇に「拝観券発行所」の看板を掲げた、小さな建物が一軒。
「毛越寺」で拝観料を払ったり、自販機でお茶を買ったりしたから、小銭は残り少なくなってきてる。
コッソリと階段を上っていこうと思ったけど、中のオジサンと目が合ってしまった。

しゃあないなぁ〜。。。
拝観料 200円也 ちゃり〜ん。o○

「義経堂」は、天和3年(1683年)、仙台藩主第四代伊達綱村公によって建てられた祠で、同時期に作られた義経の木像が中に納められています。
木像には別造りの甲冑が着せられていて、鎧の上に衣を羽織るなど、平安当時の武将の姿が再現されています。

肌色に塗られた顔には眉や髭がくっきりと描かれ、近年に作られたと思いこんだほどに保存状態が素晴らしい。
だから最初はレプリカだと思ったんですが、300年以上も昔に作られた本物だと知って二度のビックリでした。

「義経堂」の隣には、「源義経主従供養塔」が建立されています。
この供養塔は最後まで義経に付き従った、武蔵坊弁慶を供養するために建立されたそうです。

そして階段を挟んだ「義経堂」の反対側には、芭蕉の句碑が建てられていました。

三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。
秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。
まづ高館に登れば、北上川南部より流るる大河なり。
衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。
泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。
さても義臣をすぐつてこの城にこもり、巧名一時の草むらとなる。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。
 
 夏草や つはものどもが 夢の跡
 卯の花に 兼房見ゆる 白毛かな  曾良

義経主従供養塔他には、尊王攘夷派の儒学者で後に小塚原の露と消えた、頼三樹三郎の詩碑が建てられていたりと、この地には歴史上の有名人が数多く訪れているようです。
ひょっとしてこれは、日本人が好む貴種流離譚のなせる技なんだろうか。
そのような事をここで深く考えても、当事者でない私には、解りようもない。

来た道を引き返しかけて振り返ると、奥の細道の一文にある通りに、北上川を含む広々とした景色が一望の下に見渡す事ができます。

以前から風景写真を撮るたびに、広角レンズを装着できる一眼レフが欲しいと思ってましたけど、今回ほど心底良いカメラが欲しいと思ったことはないですね。
旅行から帰ったら無駄遣いは控えて(といっても、倹約生活はしてるんですけどね・・・)、積立預金でもすっかなぁ。。。

眼下には北上川が雄大な流れを造り、その向こうに見える丘の間には、きれいな長方形に区画された田が広がっておりました。
たぶん、往時には左の隅には藤原氏三代の居宅であった「柳の御所」の壮大な邸が認められ、右の方には「衣川の館」が眺められたのだと思われます。

北上川展望この「義経堂」のある辺りは急斜面の丘になっていて、平地になっている面積は極めて狭い。
多分、100坪程度の敷地面積を確保するのがやっとだったと思われます。
往時の義経は流人同様の身分だったので、大きな住まいにはいられなかったのでしょう。
それを思うと、都での華やかな生活から一転して、お尋ね者になってしまった義経に、命をかけてまで仕えてきた、義経の奥方やご家来衆に頭の下がる思いがしました。

現在は「高館」へ至る道の両側には、桜か桃に似た大木が沢山生えていて、こんもりとした森のようになってます。
その木々の下を歩いていると、足元にスモモくらいの青い実がいっぱい落ちてました。
「義経堂」の参拝が終わり、来た道を引き返すと、その実をせっせと拾っている老夫婦がいらっしゃいました。

そのお二人の会話の中に
クルミの実「今年は台風が来なかったから、リンゴとクルミは豊作になった。」
という意味合いの言葉が聞き取れ、初めてその木々がクルミである事を知りました。

クルミを食べる機会は数え切れないほど有ったけど、木になっているクルミを見たのは生まれて初めて。
ついつい、クルミの実にカメラのレンズを向けてしまう。
その間にも、私の周りでクルミの実が木から落ちてくる、コンという音が何度も聞こえてきました。

この旅の締めくくりは、旅のメインディッシュとも言える、「中尊寺」の訪問。

「中尊寺」は「毛越寺」と同じく慈覚大師によって、嘉祥3年(850年)に開山されました。
その事を裏付ける確かな資料などが残っていないため、慈覚大師の中尊寺開山は伝説に過ぎないとの説もあるようです。
しかし、慈覚大師によって中尊寺が開山された事が事実であっても、その後に「前九年の役・後三年の役」などの大きな戦が長く続いた事を考えると、この寺もきっと「毛越寺」と同様に荒廃しきっていたと思われます。

武蔵坊弁慶の墓長治2年(1105年)、奥州藤原氏初代の清衡によって、この「中尊寺」の再建が始まったのですが、その後に多くの伽藍が築かれ諸堂の整備が完了して、盛大な落慶法要が行われたのは、21年も経ってからの事でした。

寺説によると、藤原清衡が中尊寺を興そうと思い立ったのは、「前九年の役」で父親を失い、「後三年の役」では妻子を失うという波乱の人生を送った事に端を成したそうです。

その落慶法要の願文の写しが、現在に伝わっているそうで、前九年・後三年の役の戦没者を含め、あまたの霊を浄土へ導き、奥州全体を仏国土にしたいとの内容なんだそうです。
それが基衡夫妻に受け継がれ、「毛越寺」「観自在王院」「無量光院」の造営へと、発展していったのだろうと思われます。

旧奥州街道(現在の国道4号線)を北上していくうちに、県道と交差している部分に「武蔵坊弁慶の墓」の看板が見えてきます。
武蔵坊弁慶は、主君の義経を無事に「高館」へ向かわせるため、中尊寺のすぐ北を流れる衣川付近で奮戦し、そこで亡くなりました。
中尊寺参道入口弁慶は戯曲や物語にも登場していて、色々な伝説が残っているわりに、歴史の正書にはほとんど登場しないんですよね。
ごく僅かに、鎌倉幕府の書記達?が書き残したと言われる「吾妻鏡」に、二、三度といえども「弁慶」の名が記されているので、やはり実在の人物には違いないようです。
でも、どんな人だったのかは、謎のまま。

「弁慶の墓所」を背にして歩くと、いよいよ中尊寺への参道が見えてきます。
参道の前には広い駐車スペースがとられていて、沢山の観光バスや乗用車が停まっておりました。
その周りには土産物屋が軒を連ね、国道を隔てた対岸にも、駐車場、資料館、そして駐車場、第3セクター経営の土産物屋に、またまた駐車場。
さすがに東北一の観光地です。

参道の入口には「関山中尊寺」の石碑が建っていて、その前で記念写真を撮る観光客が後を絶ちません。
私的には静寂な雰囲気を醸し出すような写真を撮りたかったのですが、来た時間が悪かったみたい。
第一、この日は日曜日でしたしね。

仕方なく、とっても賑わっている参道入口の写真をパチリ。

頃はそろそろ、お昼を過ぎた時分。
私のお腹も鳴り出した。
小さなお蕎麦屋さんを見つけると、東北でのお蕎麦は今回で食べ納め。
メニューの名前は忘れちゃったけど、ちょっとおしゃれな盛りつけのお蕎麦を注文しました。

三段重ねの小さなお重
山芋の摺り下ろしと、
ナメコのおろし和え
一番上のお重には
薬味と具が数種
下の二段には
お蕎麦が入ってます

腹ごしらえが済むと、いよいよ最後の目的地、「金色堂」へ・・・・。

月見坂この参道は別名「月見坂」と呼ばれ、杉の大木が参道に両側に連なり、聖地特有の幽玄さが感じられます。
私はこれを「緊張美」なんていう、ヘンテコリンな造語で現したりするのですが、一種独特の心地よい緊張感が得られ、ずっとこの中にいたいような気になります。

「月見坂」を登り切ると、そこが「本堂」。
「中尊寺」の中心的な建物に当たり、本尊は阿弥陀如来で、創建当時の浄土思想が偲ばれます。

「月見坂」を歩いている時は静かな佇まいを楽しんでおりましたが、ここまで来ると沢山の人出で、下で見た観光バスの数を思い出すと、さもありなん。
本堂前の広場では、中尊寺の歴史を語るガイドさんの声に入り交じって、"Joudo is.........."と英語らしき言葉で説明しているガイドさんも有り。

本堂今は日本人でさえ理解しにくい「浄土思想」を、外つ国の人達にはどのような説明をしたのか、いささか気になるひとときでした。

本堂で会社の安泰を祈願すると、次に向かったのは「金色堂」。

中尊寺の金色堂は、藤原四代の敵側にまわった源頼朝でさえ尊重すべき寺院と認めたそうで、手厚い警護と修復が成されたそうです。

金色堂は、屋根以外は全て厚い金箔で覆われ、螺鈿や象眼細工で飾られていたため、建立されてから十数年後には、雨や霧を避けるための簡単な覆いのような「霧よけ」と呼ばれる建物が増築されていたそうです。
しかし、鎌倉将軍惟康親王の命により、もっと堅固な「覆堂(おおいどう)」が設置されるようになりました。

その「覆堂」は何度も修復され、そのおかげもあって「金色堂」は十世紀近くも風雪から守り通されました。

昭和の中期、実はこの頃には何度もテレビで報道され、物心つくかどうかの幼少期の私に、強烈なインパクトを与えたのが、中尊寺・金色堂の修復に関するニュースでした。

「鞘堂」と呼ばれていた「覆堂」を解体移築し、「金色堂」本体も大修復を終えた後、鉄筋コンクリート造りの新たな覆堂によって、「金色堂」は往時の姿のまま半永久的に存在し得る。

昭和38年、このニュースに刺激された私は、家の近所から欠け瓦を拾ってきては、両親を辟易させていたものですが、まさか、この歳になってもその習性が残ってようとは、私自身にも想像し得ませんでしたな。(苦笑)

金色堂「中尊寺」は奥州藤原氏が滅亡した後も、幕府や朝廷の手厚い庇護を受けて、大いに繁栄しましたが、残念な事に何度も大火に遭い、ほとんどの寺堂が消失する憂き目にあった事もあります。
「金色堂」のみ中尊寺の中で唯一、藤原清衡が建立した当時のまま、今に残されており、国の貴重な宝の一つと挙げられています。

鉄筋コンクリート造りの「覆堂」に入っていくと、金色堂は大きなガラスケースの中に納められていました。

その中でまず目に付いたのは、金色に輝く仏さん達でした。
中央に阿弥陀三尊像、その両側に沢山の仏像が並んでいて、数を数えると全部で十一体。
その仏像を囲むように、巻柱(まきばしら)と呼ばれる四本の柱が立っているのですが、その柱全てに螺鈿細工が施され、それは柱だけでなく、仏像の置かれている須弥壇はもとより長押に至るまで、精密な螺鈿細工で飾られておりました。
須弥壇は堂の中央に沢山の仏像が置かれた大きい物と、その両側の奥まったところに小さい物があって、全部で三つありますが、その中央の須弥壇の中に藤原清衡のミイラ、その左右の須弥壇の中には、それぞれ藤原基衡、藤原秀衡のミイラと、四代目泰衡の首を納めた首桶が納められているそうです。

金色堂そのものは、瓦以外は総金箔造りになっていて、装飾品には紫檀などが贅沢に使われています。
螺鈿細工に使われた素材の多くは、亜熱帯から熱帯の海でのみ産出される夜光貝が使われており、また、象牙細工にはアフリカ象の象牙が使われていることが、後年の調査で解明されています。

残念ながら、堂内は写真撮影禁止になっており、ごく一部のみ「金色堂」のサイトから見ていただく事にします
これほどまでに贅を尽くした仏堂を建てられる、藤原氏の財力はどんなものだったんでしょうね。

室町時代に築かれた「鞘堂」「金色堂」から少し離れたところに、「鞘堂(旧覆堂)」が移築されています。
中は藤原秀衡の名を記した大きな卒塔婆が建てられている以外はガランとしてましたが、「覆堂」としての目的を全うさせるため、緻密で頑丈な造りであった事が想像できます。

そのすぐそばに、ここにも芭蕉翁の句碑が建てられ、芭蕉の銅像も一緒に建てられていました。

現在の「覆堂」には照明の設備がありましたが、当時の「覆堂」には窓などは一切無く、外からの明かりは入口から入って来るのみ。
その薄暗い「覆堂」の中で「金色堂」を見た芭蕉は、どんな事を思ったのでしょうね。

奥州藤原氏はたった三代の間に、大伽藍を配した寺を数軒も造営し、平泉の街全体は平安の都をしのぐほどに華やかだったと言われています。
その財力と強大な勢力は、鎌倉幕府にとって巨大な脅威としてうつったのも、無理はないと思われます。

芭蕉翁の銅像藤原氏四代目の泰衡は、幕府からの圧力に耐えきれず、窮して身を寄せてきている義経を討ち取り、その首を幕府に送る事で奥州を守ろうとしました。
その為に義経を裏切る事になったのですが、結局は泰衡自身も頼朝側に寝返った、自分の家来である河田次郎によって討ち取られてしまいました。
その河田次郎は、主人を裏切った大悪人として、またもや首を刎ねられたそうで、幕府はよほどに藤原氏に脅威を感じていたのでしょう。。

「吾妻鏡」には、切り落とされた泰衡の首は、釘で打ち付けて晒されたとあり、その後の調査でも泰衡の首にはくっきりと釘の跡が見られただけでなく、たくさんの切り傷や刺し傷が残されていたそうです。
随分とむごい仕打ちを受けたものですが、泰衡の首が納められた首桶には、100個あまりの蓮の種が一緒に入れられていたそうです。

昭和25年、藤原三代と首桶の中に納められた人物に関して、レントゲンなども駆使した綿密な調査が行われました。
その結果、初代の清衡以外は、お二人揃って肥満型で虫歯の跡さえ見られたとか。
きっと、よほどに美味しい物を召し上がっていらしたんでしょうね。

平泉の大文字山泰衡の首桶から取り出された蓮の一部を蒔いてみたところ、平成5年になって、初めて発芽させる事に成功し、その5年後には直径20センチあまりの大輪の花を咲かせる事ができたそうです。
現在は「中尊寺」の境内の中に蓮池が設けられ、「中尊寺蓮」と名付けられた蓮は、毎年7月の半ばから8月にかけて、参拝者の目を楽しまれているそうです。

その蓮の花が盛りになる八月のお盆には、この地の戦乱で亡くなった多くの戦没者の魂を慰めるため、そして世界平和を望むために、大文字の山焼きが催されています。

平泉の駅からは、大文字の刻まれた山が少し霞んで見えてました。
翌日からはまた仕事。

平泉を発った私は、また9時間近くもかけて、しかし今度は電車に乗るたびに爆睡しながら帰宅しました。


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