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初秋の東北路 平泉編 その1 


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天候が下り坂になった事に気づいて、慌てて花巻を飛び出した私。
列車を待つ間、そして列車に揺られてる間は、
「太陽よ。おまえは隠れても良いけど、雨だけは降らせるな。」
なんて祈るような気持ちでおりました。

花巻から平泉までは約一時間あまりの時間距離だが、JR釜石線は概ね1時間間隔でしか列車が来ない。
2、3分も待てばすぐに次の電車が来るような都会で生まれ育った私には、列車の本数は極めて少なく感じる。

平泉駅構内私が駅に着く30分ほど前に一関行きの列車が出発しており、次の列車が来るまで30分も待たなければならない。
この日は土曜日だというのに、学生服を着た若い人達も十数人が列車待ちをしておりました。
退社時や下校時は良いけど、終日に渡って一時間に一本しか列車が来ないと、勤め人や学生さんは大変かも知れない。
インフラが整っていないから過疎化が起こるのか、それとも過疎化が進んでインフラの不整備に拍車がかかるのか、私にはニワトリと卵の関係に感じる。

ようやく列車が到着すると、ホームで列車を待ってた女子高生らしき子が、開扉ボタンを押してくれた。
この子も学校を卒業すると、仙台か東京あたりの都会で社会人生活を送る事になるのかな。
そう思うと、この地が自分の故郷でもないのに、ふと寂しさを感じてしまう。

平泉駅平泉に着くと、真っ先に目指したのは観光協会の事務所。
私の持ってるガイドブックの情報はかなり古い。
ネットの情報も、観光協会が発信しているからといって、必ずしも最新の情報とは限らないんですよね。
はたして、ガイドブックに掲載されていた展示館は閉鎖されており、バスのダイヤは、ネット上に掲示されている情報とは随分と違ってました。

一日に数便しかないと思っていた中尊寺行きのバスが、約10分間隔の発車になってて、驚くほど増便されてた。
でも、今日中に行きたいと思っていた厳美渓行きのバスは、ガイドブックやネットが示す通り、あと2時間待ち。

一応は想定内ながら、致し方無しにタクシー乗り場まで移動しました。
私が観光協会で受付のお姉さんと話していた間、順番待ちをするように後ろのベンチに座っていた女性がいらっしゃいました。

私がタクシー乗り場に来ると、まるで追ってきたかのように、その方もタクシー乗り場へ。

「あのー、失礼ですけど、厳美渓にいらっしゃるんですよね。
 もし宜しければ、私も同行させていただきたいんですけど。」

私にとっては願ってもない話。
だって、タクシー代は間違いなく、半額になるもん♪。

間もなくタクシーがすべり込み、まずはドライバーに行き先を告げて車に乗り込むと、改めて妙齢の女人同士でご挨拶。
臨時同行の方は、東京から日帰りハイキングをしに平泉まで来られたそうな。

うわー!
羨ましい。

東京からなら日帰りで、こんな最果ての地?まで遊びに来られるんだぁ!
お相手は、私が9時間かけて大阪から来たというと、腰を抜かしそうになってらっしゃいましたけどね(笑)。

達谷の巖 鳥居そんな我々の会話をタクシー・ドライバーさんも聞きつけて、三人で景気・経済の話まで盛り上がり(盛り下がり)、意外な所で楽しいドライブになりました。

平泉駅から厳美渓に向かう途中に、「達谷の巖」があります。
しかしその途中にも、ちょっとした史跡があったんですよね。
それを教えてくださったタクシードライバーさんに感謝。

「鬘石(かつらいわ)」と呼ばれる大きな岩。
奈良の平城京から京都の平安京に都を移された頃は、この地はまだ、ほとんど外国と言っていい地域だったようです。
蝦夷と呼ばれる民族がこの地を支配していた頃、いきなり朝廷がこの地は自分達の物だと言ってきた。
そりゃ、蝦夷の人達は怒って当たり前。

達谷の巖中央から国司が派遣されると、国司は必ずと言っていいほど、夫人はもちろん、側室や、あまたの女房達を伴ってやって来る。
反体制側は、その女性達をさらってきては、当時の女人が命以上に大切にしていた黒髪を切り、見せしめのように、この石にぶら下げていたのだそうです。
そして、この先の川縁に、裸にされた被害者の女人が放り出されていたのだそうな。

その蝦夷軍の司令官が、歴史の教科書にも名前を連ねているアテルイだったのだそうです。

中央から派遣された官軍は、数年にも渡って蝦夷の軍と死闘を繰り返します。
その間、官軍は数千人にも渡る、夥しい数の犠牲者を出してました。
そして征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂がかの地を攻めて、やっと官軍が戦いに勝利し、アテルイを生け捕る事にも成功しました。

達谷の巖田村麻呂がアテルイと面談してみると、アテルイはその人望の厚さが手にとって解るほどの大人物だったそうです。
坂上田村麻呂はアテルイを伴って帰京し、アテルイを生かして故郷に帰す事で、残る反逆勢力を説得させ、穏便に戦いを終結させようとしたそうです。

その頃の朝廷は、怨霊の祟りを恐れるあまり、死刑制度を廃止しておりました。
にも拘わらず朝廷は、アテルイを即刻処刑すべしとの命令を田村麻呂に下した。
すなわち、朝廷側はアテルイを人間として扱ってなかったんですよね。

田村麻呂は、中央政府に向かって
「オマエらっ!ちょっとでも現場の事を理解してくれよ。」
と、心の中で哀しい叫びを挙げていたに違いない。

「達谷西光寺」の洞窟は、坂上田村麻呂が奥州を攻めた頃に、アテルイ達が立てこもっていた砦だったのだそうです。
そこでの戦いに勝った田村麻呂が、戦いの神である毘沙門天に感謝して建立したのが毘沙門堂だったと伝えられています。

毘沙門堂は一見した所、岩に押しへしゃげられた感じなんだけど、洞窟をそのまま活かして、その中に建物が建立されています。
階段を上って建物の中に入っていくと、京都の三十三間堂を思わせるほどに、沢山の仏像が並んでいました。
しかし壁の一部は洞窟の壁そのものが使われていて、却って不思議な印象を受ける空間になってました。
堂の中は写真撮影禁止になっていて、それがちょっと残念。

毘沙門堂の床下はかなり広い空間になってますが、禁足地となっていて、諸国を行脚している僧や山伏、または乞食の類に当たる人、合戦に敗れて落ちていく武者以外の人は、その中に入る事は許されないのだそうです。

毘沙門堂から外に降りて、毘沙門堂の正面に立つと、その左側に磨崖仏の頭部が見られます。
「岩面大仏」と呼ばれ、磨崖仏としては日本の最北端にある仏像ですが、風化が激しく今は頭部しか残ってません。
「岩面大仏」と呼ばれるようになったのは、戦国時代になってからだそうですが、この仏像が彫られたのは、前九年の役・後三年の役で亡くなった敵味方の将兵を慰めるべく、源義家が馬上から弓を撃ち続けて掘ったという伝説が残ってます。
岩面大仏寺説によると、この像は大仏像の多くにある「毘盧遮那仏」ではなく、薬師如来像だとか。
いずれにせよ、あまりに崩落が激しくて、何の像か分かんなくなっているのが、またまた残念でした。

インスタントのミニツアーを組んだ我々二人は、寺の外にタクシーを待たせたままにしている。
だから大急ぎの「達谷巖」見物でしたが、寺内がそれ程広くなかったので、存分の見学になりました。


道路まで出てくると、ドライバーさんはニコニコしながら二人を迎えてくれました。
そして一路、厳美渓を目指す事になりました。

厳美渓「厳美渓」は国の名勝及び天然記念物に指定されていて、何度も写真などでは見た事があるけど、一度は自分の目で実際の眺めを見たいと思っていた所でした。

しばらくの間川に沿って曲がりくねった道を走ると、数軒の宿や土産物屋がかたまって建っている場所が見えてきました。
架かっている橋の途中で車が止まると、
「着きました。ここが厳美渓ですよ。お疲れさまでした。」
そこで東京の女性とは、仲良くワリカンでタクシー料金のお支払い。

東京の方は、一関行きのバスに乗って帰京されるのだそうで、厳美渓・一関間のバスは頻繁にあるらしい。
私はそれを知らなかったものだから、お泊まりセット等を入れたリュックは平泉駅に預けちゃってる。

それを聞いていたドライバーさんが、
「私が平泉駅まで送ってあげましょう。
 今からこの近所でガスの補給をするつもりなので、待ち時間料金は要りませんし、
 平泉の駅前まで帰るつもりだったから、サービスさせて貰いますよ。」
私にとっては、願ったり叶ったりのお言葉。

厳美渓ドライバーさんとは、降車した所で待ち合わせをする事にして、まずは厳美渓の景色を堪能する事にしました。

厳美渓は栗駒山を原流とする磐井川の中流にあり、須川岳爆発初期に噴出した石英安山岩質凝灰岩が急流にえぐられ、川床の岩盤には、窪みの中で砂や小石が水流の勢いに乗って回転し、徐々に周囲や下方をえぐり取って、ドリルで穴をあけたような釜や穴が多くあります。
そのような穴は日本では大変珍しく、国の天然記念物に指定される要因となりました。

道路から外れた川岸には公園が設けられていて、沢山の人達が厳美渓の眺めを楽しんでいました。
しかし、その公園に行ってみると、足元はまさにでこぼこの岩盤。

まだ天気が崩れていなかったから川の近くまで行けましたが、雨に濡れていると間違いなく滑って危ない。
急遽の予定変更だったけど、予定を変えて本当に良かった。

その公園の中程には東屋があり、そこから見る景色が一番良さそうな気がしましたが、土曜日とあって観光客が沢山詰めかけていました。

郭公団子の茶店その東屋から向こう岸にある建物を結ぶように、一本のワイヤーロープが渡してあります。
このワイヤーロープこそ、「空飛ぶ団子」として有名な「郭公(カッコウ)団子」の配達手段。

味はともかく(ぉぃぉぃ)、、、
この「郭公団子」は是非とも体験したかったんですけどねぇ。o○
残念な事に、店の玄関口に赤旗が掲げられていて、「売り切れ」サインが出てました。
ああああーーーっ!!残念!!!

郭公団子が売り切れてない時は、ワイヤーロープに結びつけられているカゴに代金を入れ、備え付けの木槌で板を叩くと、注文を聞いてくれ、お茶と団子がカゴに入れられて配達される仕組みになってます。
「郭公(カッコウ)団子」がワイヤーを伝って「滑降(カッコウ)」してくると思うと、何とも楽しい。

郭公団子の注意書き因みに、「郭公団子」の名が付いたのは、初代の店主がカッコウの鳴きまねが上手だった事に起因しているそうです。

東京女性とはしばしその辺りを一緒に散策し、思いっきり厳美渓を堪能してからお別れの挨拶をしましたが、最後までお互いに名乗らずじまい。
でも、こんな縁が出来るからこそ、一人旅は楽しいのです。

タクシーが戻ってくる頃を見計らって待ち合わせ場所に行くと、橋の反対側の景色を眺めてみましたが、こちらも味があって、かなりの絶景。
縁があったら、また訪れたい場所の一つに加わりました。

しばらくすると、件のタクシーが戻ってきた。

車中に戻ると、まずは
「どうでしたか?楽しめました?自分は厳美渓のすぐそばで生まれ育ったんですよ。
 どうです、良い所でしょう。」

厳美渓 橋の反対側の眺めその言葉が全く押しつけがましく感じない。
きっとそれは、そのドライバーさんの郷土愛のなせる技なんでしょうね。

車が走り出すと・・・・・
えっえっえっ・・・・
あのー。。。。
メーター、倒し忘れていませんか?(汗)

メーターが倒されて料金のカウントが始まったのは、車が走り出して5分近く経ってからでした。
後で調べてみると、平泉駅から厳美渓までの時間距離は、車で15分。

「サービスさせて貰いますよ。」とは言って貰ったけど、大サービスし過ぎじゃございませんこと?
平泉駅に着くと、破格の代金を支払い、それではあまりにも申し訳ない。

駅前で缶コーヒーを買うと、タクシー乗り場まで走って行ってドライバーさんに手渡そうとしたけど、残念な事に、そのドライバーさんは、早くも次のお客さんを乗せて走り去って行かれました。
で、ワタクシ、そのタクシーのナンバープレートを、バッチリ、しっかり、メモしておきましたですよ。
(何だか、交通違反車の告発みたい)

だってホント、
そのドライバーさんには心底感謝しましたもん。

致し方なく、自分でその缶コーヒーを飲み干すと、宿のある一関を目指すべく、次の列車を待つ事にしました。



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