ラ・ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノindexへ
  Fra DOC e DOCG(DOC、そしてDOCG)



  トスカーナ中部は、数々の歴史的遺産に包まれた魅惑の中世都市サン・ジミニャーノ。多々イタリアに存在するDOCGワインを生み出す大地として、総面積僅か1万3千ヘクタールと、おそらく最も狭い区域に浮き上がる田園風景と丘陵たちが奏でるハーモニーは、楽園トスカーナにありながらも、他に類見ることの出来ぬ絶句と感嘆譜のアンサンブル。深く香る森林が黒々と力強い大地に突き刺さり仰げば、風に揺れ流れるオリーヴの木々が優しく囁く。和やかな納屋小屋の裏手に鶏たちが忙しく戯れ、質素ながらも憂いに溢れる教会の鐘々が響かす音色たちは、銃声に飛び上がる小鳥たちをまるで追うかのごとくに、空彼方へと吸い込まれるように消散されていく。そしてこれら全ての恵みを優しく包み込むように誇りつける、もう一つの偉大な"産物"が、現時点にて総合780ヘクタール(ヴェルナッチャ種専用畑のみ)に及ぶ美しきワイン・ヤードと"ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ"。 誇り高き伝統や煌き輝く過去の名声に彩られ、そして白ワインにありながらも、この地のみで成し得る豊かなコクのために"白ワインの中の赤ワイン"とも呼ばれ続けて来たその特異的な性質により、イタリアのみならず世界においても"唯一"とさえ云われている、このイタリア原産品種白ワイン。1966年には"イタリアで最初のDOC制定ワイン"としての輝かしい功績をも付け加え、さらには70年代に沸き起こったイタリア白ワイン・ブームと共に、紛れもなくイタリアを代表する白ワインとしての"栄光"を獲得するに至るのだが、ワイン自体の"真"の実力がその高々と世界に木霊する名声に追いついてきたのは、実にここ数年来のことだと云われている。果たしてその真相は如何に。

 「そうだとも・・・。"ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ"は消滅しかかっていたのさ。」  

  994年に最古の記録を持つ歴史的な名館"クゾーナ"を所有し、1600年初頭より5世紀にも渡り地域のワイン生産を手掛けてきた名家"グイッチャルディーニ(Guicciardini)一族"の子孫"ジローラモ・グイッチャルディーニ・ストロッツイ王子(Il principe Girolamo Guicciardini Strozzi)"。1972年には、他8人の有志達と共に"ヴェルナッチャ委員会"を創設した時代の先駆者でもあり、数回の中断を挟みながらも、20年間に渡りその委員会会長を務めた、まさに"ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノの父"の証言である。

 「"ヴェルナッチャ"は、イタリアでも有数の歴史的な古典ワインでありながらも、その"商品価値"が再認識されたのは、まさにDOC獲得後のこと。事実、60年代初頭は生産者も少なく、畑は荒れ果て、当然その生産量も極僅かであった。この"伝統的ワイン"がすっかり忘れ去られようとしていた事実を見過ごすことは出来ないが、現実のところ、まったく商的なワインでなかったために、人々は"キャンティ"を重視していたと言える。"ヴェルナッチャ"が本当に再スタートを切ったのは1972年の委員会設立後であったのさ。」

 50年代における小作農民制度の廃止が生み出した"農民の田舎投げ捨て"が進行していた60年代当時、極僅かの葡萄生産者の努力も空しく、ここサン・ジミニャーノ一帯の丘陵地帯は、すっかり無残にも廃墟と化してしまっていた。国家レベルによる農産品の保護のためにDOC制度の確立が噂されていたにも裏腹に、土地再生を理由に国政府から提示された政策はなんと"羊の放牧"ですらあったという。そんな中に突如と舞い降りることとなった"イタリア最初のDOC獲得ワインとしての称号"によって、市長を筆頭に"我々にはヴェルナッチャがあるではないか"との掛け声がかかり、このジローラモ王子他8人の有志によりヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ委員会が創設された訳である。

  「絶対的に必要性があった思うし、意義や成果も十二分にあった。少なくとも、"ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ"というワインが何者なのかを確立できたことは何よりであっただろう。」

もう一人の委員会創設者であり、1986−88期には自ら会長をも務めた"ルチイ・リバニオ氏(Lucii Libanio)"の言葉である。しかし、"ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ"というワインが何者なのかを確立?"とは、これはどういう意図の発言であったのであろう。

 「"消滅しかかっていた"とも言えるけど、1966年に国がDOC(原産地統制名称指定)を我々に与えた時に、ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノというワインは"存在すらしていなかった"とも言える。」  と、再びリバニオ氏。更にこうも続けてくれた。

  「当時、幾つかの生産者によって造られていた"ヴェルナッチャ"と名乗るワイン、それぞれが全く別のワインと言っていいほどに、"別々のスタイル"を持っており、実際規制など存在しなかった為に、ありとあらゆる白ワイン用品種が混ぜ合わされ、一体何%パーセントのヴェルナッチャ種が使われていたかなんて、生産者ですら誰一人として分かっていなかった。」

 ここで、ジローラモ王子も助言してくれる。

  「当時我々が目にしていた"ヴェルナッチャ"というものは、それはそれは全く"画一性"を持たぬものでね。実際、醸造作業は伝統に従って栗の木を始めとする様々な素材による使い古しの大樽やセメント樽、ガラス樹脂樽などの、各々の生産者によりけりの状態で行われていた。」 世界が"品質を求める時代の到来"を予期し始めていた当時、この"DOC指定制度"は非常に的を得ていた政策であったと言えよう。地方性の並みならぬ豊かさにおいて知られ、悪く言えば統一性や規則に欠けていた当時のイタリア・ワイン事情において、生産意識や目標を仲間内で問いかけることにより、数限りない"生産者のワイン"ではなく、"テリトリーのワイン"が生み出されたことがもたらした成果は、消費者への商品認識を容易くし、宣伝効果の促進、利益、そして生産者、更には生産意欲の増強へと繋がっていく事となっていった。DOC制定の翌年67年に僅か12ばかりを数えていた生産者数は、72年の委員会創設後には56にまでその数を延ばし、75年には101、そして87年には2001年現在とほぼ同数の168を数えるに至り、ヴェルナッチャ種指定の総耕作面積も、この30年で約45倍にまで跳ね上がっているのです。 だがしかし、技術革新が地域全体に行き渡るには、まだまだしばらくの時間が必要であった。

 そもそも、ここ伝統的生活様式の深く残る現代の秘境"トスカーナ州"の農民にとって、ワイン生産というものは"出来るだけ多くの実を成らし、最後の一滴まで搾り取る"ことであり、"質を上げる為に葡萄の収穫量を下げる"という、現代においては事実明瞭なテクニックでさえ、当時の農民には"神への冒涜"にさえも映った時代の話。ここで再びジローラモ王子。

  「発酵作業のみならず、熟成作業においても人それぞれ。そもそも、近代的な最新設備のより初めて可能となった"フレッシュ・タイプ"のワインは当然存在していなく、あえて言えば全てが"リセルヴァ・タイプ"、つまり、収穫後一年以上経ってから、当然これも人それぞれだが、飲まれていたものであったために、ほとんどのケースは"すっかり酸化しきっているもの"に仕上がっていた。残念ながら当時は、極少数の生産者達しか技術革新の必要性を信じていなかった。実際、冷蔵醸造システムを導入したその頃、我々は皆に気違い扱いされていたよ。"施設投資に必要な大金をドブに投げ捨てる浪費家、もしくは金持ちの娯楽"だなんてね。」

  誰もが世代から世代へと引き継がれてきた伝統に固く縛られ、素人目にも可笑しい"生産方法"を当たり前のように行い続けていたらしい。収穫後も平気で数日放置されては"酸化"しまくっている葡萄たちが落ち着く行き先は、ろくに清掃されてもいない使い古しの大樽、セメント樽、そして樹脂ガラス樽。 早くから白ワイン醸造におけるモストの冷却処理システム、コンピューターによる温度管理のもとの醸造設備を唱えていた、かの"サッシカイア"を生んだ名エノロゴ"ジャコモ・タキス氏(Jacomo Tachis)"の助言を聞き入れる才量を持ち合わせていたフィレンツエからの実業家"リッカルド・ファルキーニ氏(Riccardo Falchini)"が証言するには、1976年に購入した彼自身のワイナリー、"カザーレ・ファルキーニ(Casale Falchini)"における最初の収穫の際に、"なんと樽の中で再びモスト(葡萄の搾汁)が煮上がっていたのを見た"というくらい深刻な事態であったのです。

  サン・ジミニャーノの著名な歴史家、"イオーレ・ヴィキ・インベルチャドーリ女氏(Iole Vichi Imberciadori)"のつづる本"ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ(Vernaccia di San Gimignano/Nardini Editore.2001)"の中に、実に印象的な光景が描かれているで引用してみましょう。

 "それにしても、あの頃サン・ジミニャーノを訪れた人たちは、焼き栗の香りと入り混じっては街を包み込んでいた、葡萄の絞り粕の鼻を突き刺す悪習を忘れる事はできないであろう・・・。(Ma chi visse nella San Gimignano,,,,,,non puo dimenticare il pungente afrore vinacce confuso al profumo delle caldarroste,,,,,.)"

  何はともあれ、80年代に入ると、出遅れした生産者たちも少しずつではあるが、一歩一歩と近代テクノロジーの導入へと挑む方向性に進み始めることになる。そしてそれは、"ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ"の可能性に新たなる兆しを与える大切な働きをすることになる。

  「80年代の初頭に、DOCG制度なるものが新たに生まれた。"DOC"の更に上を行き、規則の厳格性により保証される品質を認定するという、難易度、希少価値、そして重要度のどの点においても理想的な制定制度の誕生。"これだ"と思ったね。当時、"バローロ""キャンティ""タウラージ"などの偉大な赤ワインのみしか認定されていなかったから誰もが"不可能"だと考えていたけど、私はそれが欲しかった。」

  こう語ってくれたのは、1986年のヴェルナッチャ委員会会長就任と共に猛烈に"DOCG獲得運動"を提唱し始めることになる、ルチイ・リバニオ氏であった。 "DOCG獲得"にまず何よりも重要な課題は、地区全体のワインの質を向上させること。極一部の優秀ワイナリーを除き、多くの葡萄生産者は自らの醸造所を持たず、例え持っていても近代的醸造技術の乏しさの苦しんでいた当時、市場に流れていたワインの多くは多大なマーケティング力を持つ大型製造元のワインであり、買い取られてから圧搾までに物理的な時間の掛かってしまうそんな "ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ"全体のレベルは中の下あたりを彷徨っていたという。そんな不甲斐ない状況の中リバニオ氏は、自ら所有する100ヘクタール近い畑から生まれる葡萄から、多くの大型製造元へ流れる"ヴェルナッチャ・ベース"を製造することへの専念を心に誓っては、巨大なカンティーナを構築し、こうして直接、地域全体のレベル・アップに多大な貢献をする。

  そしてもうひとり、"DOCG獲得"を心から欲していた生産者がいた。"ルイジ・ヴァニョ―ニ氏(Luigi Vagnoni)"、50年代にマルケ州から集団移民してきた農耕民たちの子孫で、パンコレ地区に正統的な"ヴェルナッチャ"を造ることで知られているワイナリー"フラテッリ・ヴァニョ―ニ(Flli,Vagnoni)"を掲げる情熱的な生産者。ヴェルナッチャ委員会創設時のメンバーでもあり、近年、委員会、フィレンツエ大学などとの共同プロジェクトである新しい"ヴェルナッチャ・クローン"の実験栽培に、自らの所有する土地を提供するほどの積極的な姿勢を見せる有志である。

  「"DOCG"の規定というものは"DOC"のそれと比べると一段に厳しい。それが故に、余計なテマや細かい監察が入ることを好まぬ生産者達も残念ながら多くてね。それに、"ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ"が、葡萄、醸造、保存、マーケティング、どの点においても、"サン・ジミニャーノ"のテリトリー内で行わなければならないことを示唆するものでもあったために、葡萄だけを買い取って、よその地で活動を展開していた大型醸造所には痛手であったこともある。とにかく、全生産者の同意を取り付ける作業は大変な苦労であった。」

  しかしながら、止まらぬ勢いで成長を続けていた生産者達の努力は報われることになる。1987年にDOCGを最初に獲得した、エミリア・ロマーニャ州の"アルバーナ・ディ・ロマーニャ(Albana di Romagna)"に先を越されたとは言え、堂々と白ワインとして史上2番目のDOCG獲得を達成するのに至るのである。 時は、統計上173生産者、総耕作面積719ヘクタールと3786200リットルのヴェルナッチャを生産するに至っていた1993年のこと。12生産者、総耕作面積22ヘクタールと70800リットルのヴェルナッチャが全てであった、DOC獲得時から27年、56生産者、総耕作面積130ヘクタールと462000リットルのヴェルナッチャを生み出していた委員会創設当時から僅か21年後のことであった。"消滅しかかっていたワイン"が"イタリア最高の称号"を獲得するまでに費やされた時間は・・・。