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"Un monaco" nel "Badia a passignano(バディア・パッシニャーノの修道僧)

"Chianti Classico Casasilia`97"


"バディア・ア・パッシニャーノ"


"ポッジョ・アル・ソーレ"


”カザシリア”とその兄弟達


”バディア”の裏手に広がるワイン・ヤード


”キャンティ・クラッシコ”と”ジョバンニ”


              CHIANTI CLASSICO CASASILIA`97
                 (キャンティ・クラッシコ・カザシリア)


           POGGIO AL SOLE (ポッジョ・アル・ソーレ)
     Caterina e Giovanni Davaz(カテリーナ、ジョヴァンニ・ダヴァツ)
         Badia a Passignano 50020 Sambuca Val di Pesa(Firenze)
                      Tel/Fax:+39(0)335−8117306




  フィレンツエより、キャンティ・クラッシコ指定地域の玄関、サン・カッシャーノを抜けて、シエナへ向かう主要国道沿いの、比較的活気のある中世都市タヴァルネッレ・ヴァル・ディ・ペーザは左手のサンブーカから一気に下っては、そしてまた昇る。

  "Badia a Passignano(バディア・ア・パッシニャーノ)"

 人里離れたその行く先の険しさを砂利道が否応無人に語り始める頃、くぼんだ大地に切り立った一直線に続く狭いレンガ道と、その先に佇むひとつの質素なカステッロ(お城)が浮かび上がる 。
 11世紀から12世紀に掛けて構築され、フィレンツエ教区最大の砦のひとつとして栄華を誇っていた時期もあったという、4つ角に立ち聳える塔が見る者に抽象的な圧迫感を与えるこのカステッロ。それにしても、何か寂しい。
 それもそのはず、所有権の交錯は度々起こりながらも、その半生をベネディクト会はヴァッロンブローサ大修道院の支部として過ごしただけあってか、一切の装飾的な産物が見られず、全ての要素が最小限の幅に抑えられている印象がどうしても拭い取れない。
 連れなる美しき丘陵地帯に点在する"ブローリオ城"や""ヴェラッツアーノ城"等の煌びやかなカステッロ達が無言なまでに語りかける"高貴さ"で有名なトスカーナ、特にこの"キャンティ・クラッシコ地区"に於いて、明らかに独自の存在を誇示して譲らぬ"尊大さ"が、ここには漂っている。

 そして更に進む。

 もはや完全に非舗装のあぜ道には、おいおいと茂る木の葉が覆い被さり、眩しい太陽に開けたと思えば閉じ、閉じたけと思えば、一面に下りつける段々状の葡萄畑を曲折しながらも、再び昇りつめる道が投げ打つ果てしない当惑感に駆られる。  
 修道僧への試練でもあったのだろう。燦々と晩夏の太陽光線が照りつけた葡萄の収穫は大変であったに違いない。  
 それにしても、一軒のカザーレ(村落)すらも見当たらない。収穫した葡萄は何処まで。そしてどうやって運ばれていたのであろう?  
 やっとのことで緩やかになり始めた峡境に行き着いたとき、オリーブの木々に囲まれた勾配の先に一軒の作業小屋らしきものが伺える。  

 "Agenda Agricola POGGIO AL SOLE(アジェンダ・アグリーコラ・ポッジョ・アル・ソーレ)"

 そう、この小さな一軒の簡潔な建物が、ヴィンテージ97年に於いて、おそらく全てのゾーンを含み、最高のものの一つであったのあろう、キャンティ・クラッシコ、"カザシリア"を生みだしたワイナリーなのである。

 "ジョバンニ・ダヴァツ"、スイス人。

 これだけの秀作を世に放ったにしては、あまりにも知られていない一人の物静かな男。
 今思えば、既に"キャンティ・クラッシコ95"で、世を騒がすレヴェルの傑作を造り上げていたものの、あのヴィンテージのキャンティ・クラッシコ地区では全てが当たり過ぎていたのであろう。"クエルチャべッラ"のスーパー・モダン"キャンティ・クラッシコ95"が業界全体を跪かせ、"ラ・マッサ"の"ジョルジョ・プリモ95"、ブローリオの"カザルフェッロ"、バディア・ア・コルティブオーノ"の"サンジョベート"、"レチーネ"の"ジョイア"等など、あまりものスター・ワインが過去を塗り替える業績を見せ占めていた為に、陰にすっかり隠れてしまう結果に終わっていた彼のワイン。
 確かに、「97」も史上に残る当たり年であって、それはそれは多くの銘ワインが生まれた。だが、今回注目されたものは、明らかに、ここ"バディア・ア・パッシニャーノ"から、"パンツアーノ"に至るゾーンの爆発的でさえあったと言える大収穫で、あの"アンティーノーリ"や、"ヴィッラ・カファッジョ"の"コルタッチョ"等と共に、一気にその日の目を浴びる成功を成し遂げた。とは言え、それまでの彼のワインの品質から考えても、やはり、あまりにも遅すぎた成功であったのかもしれない。
  スイスは、チューリッピ郊外の田舎町に、あるワイン生産者の3男として生まれた彼、ジョバンニ・ダヴァツ氏は、優れたエノロゴ(醸造技術者)であった父の膝元を片時も離れぬ幼年期を過ごし、当時は、収穫時に葡萄に背が届かなかったことから、一生自分には出来ない仕事なのだ、と決め付けていたことを思い出しては、爽やかな含み笑いをもらしていた。
 その後年を重ね、一旦普通の事務職に携わっていた彼だが、幼き日々にその全ての情熱を持って追い掛け回していた"何か"を忘れ去ることが出来ず、再び"プロ"としての醸造学の勉強に励むが、当時のスイスで沸き起こっていた土地値高騰などの理由もあってか、祖国でのワイン生産を断念。そんな時期に、彼の妻であるカテリーナ女史との結婚後の1990年、ふと試みたイタリア団体バス・ツアーの際に(何故、こんな秘境をツアー会社がコースに選択したのか、未だに理解できないそうだが)、走り抜けたこの地を見てはすぐさま一目惚れ、思わずバスから一人降り、仲間達とはぐれてしまったと言う。
  若かったからね、と語り、今ならおそらく考えた、とも付け加えた彼だが、そのときは即決。有り金全てに借金までこしらえて、現在の約3分の2の土地を購入するに至る。
  イタリアに於いての事情を学ぶために、当初はベテラン・エノロゴ、フランコ・ベルナベイ氏の助言を得ていたとのことだが、1994年より、エネロゴ、アグローノモ(農業地質学者)を全て一人でまかない、それこそ朝から晩まで、畑仕事に受け暮れる毎日であったと言う。
  好きなことであったし、他のワイナリーみたいに、耕作人を何10人も雇えるほど"貴族"でもなかった、と語る彼だが、問題もあったらしい。
 当時、既に付いていた"ポッジョ・アル・ソーレ"という名前を、そのまま前代オーナーから契約上の理由で引き継ぐことになった訳だが、「スイス人の若造にワインなど造れるはずも無い」、とタカを括っていた地元の古い業者からは、"取引中止"の通達が相次ぎ、自ら、近所のリストランテに商談を持ちかけても、全くと言うほど、相手にすらされなかったと言う。
 「時が来るのを待つ、そして何より、良いワインを造る、それしか他に選択はなかった」
  現在は、その生産量の少なさからも、せっかくここまで来て、買いたいと言うお客にワインを譲る事が出来ない場合が多いため申し訳ない、と謙虚にそれまでの様子を語りながら、遠くに掠める"バディア・ア・パッシニャーノ"の修道院を透かしグラスを傾けていた仕草が、妙に板に付いていたのを覚えている。おそらく、この十年というもの、いつもこうしてきたのであろう。
  僅かにオリーヴの木の残る中庭では、カテリーナ夫人の手に引きつられ小学校から帰宅した3人と一人の赤ん坊達が、一匹の大きなドーベルマンと戯れる喧騒が優しく歌声を上げ、下りつけ、そしてまた昇る葡萄畑では、一足早く春の訪れを先取りしたメルロー種の芽が、微かに、降雨の続いた今冬の抜け切らない湿気を含んだ風に揺れている。徐々に傾き始めた陽が大地に描き出した、何千本もの従士が静かに見守る中、教会からは5時を次げる鐘が鳴り響き、ルビー色輝く聖水に穏かな波紋を立てては、もとの静粛へと戻っていった。


ヴィンテージ\ガイド・ブック ガンベロ・ロッソ誌 ヴェロネッリ誌 エスプレッソ誌
DOCG カザシリア‘1998 ★★★ ★★(89/100) 16/20
DOCG キャンティ・クラッシコ
‘1999
14,5/20
IGT シラー1999 ★★★ ★★★(91/100) 16,5/20
IGT セッラセルヴァ
‘1998
★★★ 16/20



               ”グルメ・ジャーナル、2001年10月号”掲載

                      2001年5月3日 土居 昇用