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Maialino genuino "Cinta Senese"(究極の子豚を求めて)

"チンタ・セネ―ゼ"


"パオロとファブリツイア"


"チンタとパオロ"


”仲良くお昼寝の”チンタ”達


"リヴォルノ産の地鶏"


緑に囲まれたアグリトゥリーズモ


サラミの試食も出来るホール

    AGENDA AGRICOLA E AGRITURISTICALE MACCHIE
               (アジェンダ・アグリーコラ・レ・マッキエ)


       Paolo e Fabrizia Parisi(パオロ、ファブリツイア・パリージ)
           Via delle macchie n,1-2 56030 Usigliano di Lari(Pisa)
                        Tel:+39(0)587−685327


    究極の子豚を求めて

 ここ、トスカーナ州はピサ県の郊外、多くの観光スポットの裏手に隠れるように潜み、まるで別世界(Fuori del Mondo)のような田園風景の美しさが保たれた、ラーリ(Lari)という小さな片田舎の村の外れに、現代の食肉飼育業において、「奇跡」ともいえる偉業をなし遂げた、ひとりの情熱家がいる。  

 パオロ・パリージ、44歳。ここ数年イタリア・グルメ業界で話題となっている幻の品種の子豚「チンタ・セネ―ゼ」をその絶滅の危機から救い、北はミラノの「アイモ・エ・ナディア」、マントヴァの名門「ダル・ペスカト―レ」。そしてここトスカーナでは、フィレンツエの「エノテカ・ピンキオッリ」、そしてサン・ヴィンツエンゾの「ガンベロ・ロッソ」などなど、あのミシェランのガイド・ブックにその星を連ねる、まさにイタリアを代表する「錚々たる」トップ・クラスのリストランテたちに「究極」の素材を提供するに至った男である。  

 12世紀ごろからその生存が確認され、おそらく「シエナ」地区の原産であろうと云われている豚で、全身を真っ黒に覆われながらも、前足の右、左を結んで一筋の伸びるその白い帯がベルト(チントゥーラ/cintura)のように見えることから「チンタ・セネ―ゼ」と呼ばれているのだが、「ほぼ自然そのまま」の森を発育環境として要とする「半野生」的で、非合理、そして非経済的なその飼育方法のために、現代においてはほぼ消えうせていた「幻」の古代品種である。  

 この2,3年でその飼育業者の数は、20と幾つを数えるほどまでに逆のぼったが、パオロ氏が本格的にその飼育を始めた十数年前には、「趣味」として育てていた彼の友人が所有していた50頭のみしか公式には確認されていなかったという。  当時、アヒルの養育に従事していたパオロ史が「チンタ・セネ―ゼ」に出逢ったのは、その友人宅に招かれたとある晩餐でのこと。そのあまりにも滋味に溢れたテイストの目の前に愕然とし、すぐさまその場で買い取ることを決めたと語る。  

 歴史の流れと共に、「嗜好」そのものも変わりつつあるこの現代において、必ずしも「原産品種」が我々の口に合うとは限らない。特に鳥類などは「過度の運動」は肉質の硬化を生み出し、「成長」は脂肪分の臭みともたらすことが多いし、相当量の「飲み水」が必要とされる夏期には、余分な水分が調理を妨げる事すら稀にあるこの世界、常に一定した味や肉質の柔らかさ、そしてその消費をまかなう一定量の数、さらに確実な納期を約束する為の短い過程のサイクルや、小さな飼育スペースなどが要求されることからも、「ブロイラー」なるものが主流となり、そしてそれを口にして育った世代の人間にとっては、多くのジビエや農家の家兎、家鶏などが持つ「素材そのものの臭い」なるものが鼻をつくことも度々ある。「豚」にしても同じことで、サラメ類における加工業が、古き良き伝統スタイルのごとく「乾き肌寒い風による自然環境の産物」であった「2月の風物詩」でなくなり、一年中回り続ける機械が所狭しと並ぶ「工場」にてコンピューター管理される「商品」である今日、大方の主流は「ラージ・ホワイト」と呼ばれる大量、安定生産型の品種により占められているのが現実である。  

 「チンタ・セネ―ゼ」種の特色はその発育の遅さにあり、激しい太陽光線の差し込む大地、そして涼しげ森に覆われた適度な広さの自然環境において、草、ドングリ、栗の実などを突付きながら育つ中にジワジワと形成される良質の脂肪分が包む「柔らかい肉身」が、何よりもの魅力。生後2,3ヶ月のものはそれこそ、どんな小牛にも負けない「深み」に溢れた白身が舌に溶け込み、6ヶ月位に育ってくると、僅かにワイルドさを持ち滋味に溢れた、「肉身本来」の姿であろう「豊潤」そのもののテイストが、衝撃的なまでに忘れられぬ快楽の世界へと我々を導いてくれる。

 その希少さと品質に敬意を表する意味でも、「子豚」として食されるべき素材と言えるであろう。先述したように成熟したものの持つ「半野生的」な風味は、当然調理法によってはそのまろみを損なわずに生かすことも可能とは言え、やはりプロシュットなどの「サラミ類」としてその本領を発揮する。このサラミ天国トスカーナにおいて、ただのひとりもこの品種の持ち味を生かすことの出来る業者はいないと断言し、氏の知り合いでもあるマントヴァの達人にその手を委ねるのも、塩、胡椒があまりに利きすぎることによる「風味の消失」を懸念しての策。塩には最高級の厳選されたフランス産を使用し、その他の地域生産業者からは「気違い扱いされた」と語るパオロ氏ではあるが、厳選された腿肉のみを使用するためにも、かの「クラテッロ」よりも値段が高いにも係わらず、引き手あまたのそのプロシュットが醸し出すビロードのような食感はまさに究極の逸作。サラミ、フィノッキオーナなどの力強い脇役達も並外れたまろやかさが完璧に演出された出来栄えを誇り、唯一、トスカーナで仕上げられている、歴史的にも希少的価値の高い逸材「ラルド・ディ・コロンナータ(コロンナータ産のラード)」においても、他を圧倒的に凌ぐ評価をほしいままにしている。

 そんな、パオロ氏が、料理研究家でもある愛妻ファブリツイア女史とその経営を共にするアグリトゥリーズモ農園「レ・マッキエ」の次なる看板は「リヴォルノ産の地鶏」と、そしてその卵。世界中どこにでも分布する「地鶏」の中でも、特異的に「エネルギッシュ」な性格に溢れる事でも有名なこの「リヴォルノ産の地鶏」は、国内では「フランスのブレス産にも負けない」ともっぱらの評判も品種。しかしここで特に注目すべきは、人間様が飲む牛乳を飲まさせることにより、不思議なまでに豊かなコクに溢れる純白な卵。そのどこまでも黄色い卵黄部分が持つクリ―ミーな味わいが繰り広げる「奥行き」の深さは天下一品で、やはり通常の数倍の価格を持つとはいえ、上記にした一流リストランテのメニューに「農園の名前付き」で加えられているのだから、多少の非難や中傷の声には聞く耳すらもたなかったパオロ史の選択が正しかったことを立証するには充分の功績なのではないであろうか。

 イタリア料理というものがこれほどまでに広く、多くの人々に愛されている理由はなんであろう。ピッツアやトマト・ソースのスパゲッティ等の軽食に始まったとは言え、今やその「シンプルさ」に基付く「素材第一主義」により、世界の頂点にまで駆け上がった「クチ―ナ・メディテッラネーア(地中海式料理)」。偉大なるトップ・クラスのリストランテにおいて調理されるべき「究極の素材」を提供する努力を惜しまぬ業者、そしてそれら素材への敬意を誇り、生産者たちの払った愛情に応えるかのように「最も素材を生かす」料理をあみ出していく天才シェフたちが築き上げている、現代イタリアのリストランテ・シーンの旺盛。パオロ氏はこう続ける。

  「Non e che volevo diventare famoso, neanche a avere grande sucesso come uno bisiness. Quello che mi emoziona e l`incontro e l`amicizia con I grandi chef che apprezzano mia roba genuine.(有名になりたかった訳ではないし、ビジネスとして大成功を収めたかったわけでもない。何よりもの励みは私の育て上げる本物の素材を心から評価し、大舞台へと持ち出してくれた素晴らしいシェフ達との出逢い、そして友情であろう。)」

 中でも、最も敬愛して止まない人は、全てのブームの火付け役となった、「リストランテ・ガンベロ・ロッソ」のフルビオ・ピエランジェリーニ氏だという。お互いにゼロから始め、長い長い「下ズミ」を経験したもの同士の間に結ばれたものは、友情をこえた兄弟関係みたいな「絆」であり、その「44年」の人生に得た多くの財産の中でも、最高に輝いて、そして消え去ることのない大切な物であると語った彼の瞳が、遠く彼方に霞み見える、彼の居る「ボルゲリ」であったことは気のせいであろうか。

 洒落たベンチが敷かれ、一面に緑と色とりどりの花たちを見渡す素敵な中庭では、「リヴォルノ産の地鶏」が所狭しとあたりを駈けずり回り、特別に設けられた柵の中では「親とはぐれたらしいから」と養っている2匹の可愛らしい小鹿たちが戯れている姿が名残惜しい。都会の喧騒から遠く離れた片田舎に訪れた小さな「サクセス・ストーリー」が、それこそ仮想の「オトギ話」に思えてしまうほど、心地良い風と強烈な日差しに優しく包まれた、とある6月の午後のひとときでした。

            ”グルメ・ジャーナル、2001年10月号”掲載
 

                    2001年6月22日 土居 昇用