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キャンティの里のパリジェンヌ
フランコそしてエレナ夫妻に捧ぐ

LA BOTTEGA DEL 30(ラ・ボッテガ・デル・30)
Santa Caterina,2 Villa Sesta Castelnuovo Berardenga<SIENA>
火曜、水曜日休業
 土曜日曜のみランチ・タイム営業、
それ以外はディナー・タイムのみの営業

TEL/FAX +39/0577/359226 E-mail /labottegadel30@novamedia.it
  *車利用なら、フィレンツエより約2時間、シエナより約40分、シエナよりバスも出てるが本数が極めて少なく、夜は走らない為、タクシー利用が無難。予約は必要です。ハイ・シーズンは空室の期待は薄いですが、この村にホテルを数部屋は確保しているそうです。近くに”サン・グズメ村もあり、大き目のホテルもあるのでそちらのご利用をお勧めします。
  *夏期には近くに特設した厨房にての”料理教室も開催され、アメリカ人を中心に数多くのファンを獲得しています。グループ単位での講習が主であるらしいので、お友達と応募して見てはいかがですか。詳細は彼らホーム・ページ http://www.labottegadel30.it にてご覧頂けます。(英語版有り)




「 むしろ、いや明らかにそれは"無謀に近い賭け"と言うより他はなかった。」

本格的なシーズンの開幕を告げる"復活祭"を数日後に控えたとある3月の末日、名残惜しく吹きさす冬の風が残り火の弾ける暖炉の存在を引き立てる中、肩を素敵に寄せ合うフランコとエレナのカップルはこう語った。  ここシエナ県はキャンティ・クラッシコ地区、フィレンツエからグレーヴェ、カステッリーナ、ラッダ、ガイオーレの壮大な葡萄畑を抜け、「元祖キャンティ」でお馴染みの「カステッロ・ディ・ブローリオ」を眺めた直ぐ後に広がる、"キャンティ地区最後の秘境"カステルヌオーヴォ・ベラルデンガはサン・グズメの近くに潜む、人口百と数人程度のこじんまりとした村「ヴィッラ・セスタ」。近くにあの有名なワイナリー「サン・フェリーチェ」を構え、遠くに霞める古都シエナへ向け下りつけ香り立つ森、夕日の照り返しに踊る葡萄苗樹が艶かしく"素朴さの美"を魅せつけるその村の入り口に佇む、一軒の小さなリストランテ "ラ・ボッテガ・イル・30"の入り口のガラス戸の向こうに微笑むそんな2人の笑顔が、遥々遠い道のりに果した疲労を瞬時に吹き飛ばしてくれる。
 「ヴォナ・セーラ!!!(こんばんは!!!)」と、どこまでも響き渡る、根っからの"トスカーナっ子"、主人フランコ氏の挨拶が空を木霊し続け、豪快に笑いかけ止まらないと思えば、このまま食べられてしまうのではないかと疑ってしまうほどの強い抱擁を迫ってくる。そばでは"シェフ"のエレナ女史が、そんな彼と戸惑う私を優しく見つめ、キチンと纏った真っ白なコック服に僅かに傾いた帽子が可愛らしいその姿を、しなやかに揺り動かしながら、真っ赤になって照れて笑いしている。  客席に腰を下ろすと、相変わらず豪快なフランコ氏が客一人ひとりの肩に手を置き(時には叩いて)、他愛の無いお喋り、若しくは軽い説教を交わしては、見ず知らずの客同士、言葉の解らぬ外国人さえを含む皆を容易に、"一つの家夕食会のゲスト"として繋ぎ止める。続いてエレナ女史、
 「Oggi Abbiamo,,,,(今晩のコースはね、、、。)」  メニューは存在しない。前日の残り物を提供するのが嫌いな彼女は、特に肉料理に於いてだが、その日の予約客数に合わせて、その日に仕込みを行うという。ある意味では"押し売り"とも呼ばれかねない料理の提供法だが、この地ではよくある事であるし、多少の選択をも残して一品ずつ丁寧に説明を惜しまぬ"心地良い押し売り"であるとも言える。 まず、運ばれてきたのは、可愛らしく盛り付けられた"季節野菜のアンティパスト"、名物のフレッシュな"ぺコリーノ・チーズ"も添えられ、自家製のパンにグリッシーニが食欲をそそる。 次なるアンティパストは香り高い田舎風トマト・ソースの上に乗せられた"ナスのスフォルマート"、その場で削られたパルミジャーノ・チーズとの相性が抜群で、柔らかく調理されたナスが立派に主役をこなしている一品。 最初のプリモ・ピアットは、茸のソース、イラクサ風味のペーストが、1キロ当たりの小麦粉に対し、30個という大量の卵(黄身の部分だけだが)により練り上げられた味わい深い自家製スパゲッティとの一見相反しそうな組合せの中に絶妙なマッチを魅せる逸作で、次なる料理は、滋味に溢れる野兎の詰め物が、やはり野兎によるラグ−・ソースと程よく馴染むように繋ぎ目を上を向けて盛り付けられた、この地の伝統を誇らしく語る自信作。他にも、可能な限り欠かさぬ、というトリュフをふんだんに振りかけたキジのミネストラや、"マルファッティ(いいかげんに丸められた)"という名のリコッタ・チーズ、ほうれん草による団子状のニョッキみたいなもののぺコリーノ・チーズ・ソースなどのヴァリエーションは魅せてくれる。 そして、彼女の18番と言えるであろう、カモのローストが続いて運ばれたが、忘れられないテイストをカモに与える"野生のウイキョウによるスパイス"の香りと、皮はカリッと、そして身は柔らかくしっとりと焼かれた仕上がりも、その日に焼かれたことを裏図けるには充分の肉汁に演出されて、すっかり満足。 デザートには、この地方のフレッシュのリコッタ・チーズとマーマレードを組合せる伝統を取り入れられたプティン・ガトーが優しくディナーの締めくくりを演出し、いくつものマーマレードを楽しめるように工夫を凝らされた粋な盛り付けも可愛らしく満点の出来栄え。この地方名物の小さな乾燥菓子等も添えられ、全体的にシンプルな提供の中にも小さな心使いが伺える素晴らしいものである。
 「Com`e? Andava bene? (どうだった? 美味しかった?)」  と、頻繁に私の顔を覗くエレナ女史が、優しげにテーブルに歩みよれば、
 「Se mi dici che non e buono, Ti mando via. (もし、まずいって言ったら追い出すからね。)」  と、ふざけることを忘れないフランコ氏の洒落に付き合いながらも、心底、"とても美味しい"と彼女に答えると、途端に満面の赤み、そして笑みに覆われるその表情が、何故だか私までもを幸せな気持ちにさせてしまう。  "御もてなしの心"、、、今時そうは見られない、接客業の基本であろうそんな事が、当たり前、そして自然に交わされる、、、何故だろう、、、そして彼らはこう続けた。
 「Perche siamo fatti cosi, insomma Ci Piace. Ecco,tutto qui. (これが僕達の"地"だからね。要するに好きでたまらないのさ、それだけだよ)」
50歳代の半ばを迎えようとしている、70年代のイタリアの象徴的な明るい性格に溢れるフランコ・カメリア氏と、彼より5,6歳若いフランス人女性、エレナ・ストークレット女史が出逢ったのは、20年近く前、シエナはとある町内会のお祭りでのこと。
「E stato un corpo di fulmine. Mi sono messo ginocchio a terra, e l'ho bacciata subito a mano.(一目ぼれだったよ。すぐさま跪いて、彼女の手の甲に口をつけたっけ。)」  そんなフランコ氏の有様に顔を赤くして驚いたというものの、ドキドキしてたまらなかった、というエレナ女史。その日からすっかり逆上せ上がって仕方が無かったフランコ氏はひたすら一途に彼女を追い求め、次なる機会、とある家庭のおけるパーティーに押しかけて彼女に贈った物はなんと、
「Era quello che piu pregiato nel quale ho fregato da cantina di mio babbo. Non mi chiedere di dopo. ("親父の一番の宝物"だった。その後のことは聞かないでくれ。)」  という、フランス産の名白ワイン、そしてエレナ女史の最もお気に入りの一本であったと言う "シャトー・デ・パフ、、、"。 こんな風にして始まった2人の生活は、激しく、そして甘く続き、83年のこと、兼ねてからエレナ女史の憧れであった田舎の一軒屋(現在のリストランテ)を借用するに至るが、そこでこの2人にある疑問が湧いた。
「Cosa facciamo adesso? Cos`e che ci piace a noi due? (さて、どうしようか?どうやったら2人で愉しんでいれるだろう?)」
そう、彼らの言うとおり"無謀に近い賭け"であったとも言えるだろう。シエナで骨董品を売っていたフランコ氏にはサービス業の経験はひとかけらもなく、フランス語の教師であったエレナ女史の料理好きも、家庭レヴェルを超えるものではなかったからである。だがしかし、きっと彼らは知っていたのであろう。それまでに心の奥底に潜み続けていた"夢"を適える為の情熱に溢れ、そして何よりも、最良の相手に出逢えたという事実を、、、。
「Era tutto da scoprire e imparare. (何もかもが新しい発見で、そして学ぶべきことであった。)」 と続ける彼らは、いつも2人で多くのリストランテを研究に回ったと言う。そして、多くのイタリア人女性が家庭の台所から離れ、古き良きエポックが"過去の産物"、"本物のトスカーナ家庭料理(多くの手間と、長い調理時間、そしてその全ての苦労を一時の食卓のみの為に捧げる献身的な情熱によるもの)"が"伝統的歴史の成した遺産"とそのナリを下げつつあったさなか、シエナ中の"骨董品的存在"の料理の達人であるお婆ちゃんを探し見つけては頭を下げてはその秘伝を学んだ女性とは、、、そう、かのフランスからこの地に惹かれた一人のパリジャン、エレナ女史であったのである。 その"賭け"は"成功"へと向かった。"世界で最も人を惹き付け止まない、森に囲まれた丘陵地"として有名なここ「キャンティ地区」に於いて、ただでさえ美味しい料理を出すリストランテが少ないのに加えて、その他頻繁にガイド・ブックに取り上げられる"名リストランテ"たちのスペチャリテ(スペシャル、つまり得意料理のこと)が、軽食文化へと流れる"魚料理"に終わってしまっているのが現実のこの世の中。数々のガイド・ブックに於いて"申し分のない"評価を獲得し、あのミシェランに於いても、"一つ星"の称号を長年に渡りを保ち続けるに至るのである。
「Dicono che siamo uno dei 100 migliori ristotanti d`italia,ma non me la sento.poi non e che m`importa tanto. Noi facciamo solo quello che ci piace. Almeno se ce gente che viene da noi da tutto questo tempo,,,14anni,,,che siamo aperti,,,vuole dire qualcosa,,,.  (イタリアの名リストランテ100選に選ばれたって言うけど、そんな感じはしないね、それにそんなに大事なことでもない。僕らは僕らの好きな事をやるだけさ。そうしてきたこの14年間、通い続けてくれる人達がいるって事は、それが受け入れられているってことだろう。)」  
土地の産物による土着の料理にこだわり、何時までも変わらない"貞操観念"のある料理を提供し続け、今現在ヨーロッパ中が頭を悩ましている"凶牛病"の問題のために控えざるを得ないとは言え、真の"キアニ−ナ牛"による"ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ"を提供し続けていた本当に数少ない内の一軒、そんな彼らの宝物のこのリストランテが、ガイド・ブックに於ける評価をこれ以上に上げることはないだろう。まず、第一にそれが彼らの目的ではないし、時々彼らを煩わす事柄も起こり、戸惑ってしまう事も多いと言う。そう、よくあることだが、ガイド・ブック、特に"ミシェラン"に於いて"星"を獲得すると世界中の若い料理人志望の見習いたちに"良い経験を積む為の修行先"若しくは"出世へと掛け橋"として認識されるため、数々の修行僧が頭を下げて押し寄せてくるものなのだが、彼らが若ければ若いほど、料理人としての経験と実力が無ければ無いほど、"絢爛豪華な高級素材のオンパレードと最新のハイ・テクニックの結集による料理"というものを頭に描いていて、挙句の果てに"想像と違ってた"という台詞を残し消えてゆくという。この日もそんなうちの一人が腕を組んでは厨房に突っ立っている中、
 「Qualquno deve fare,,,(誰ががやらなきゃね)」
 と、ささやき、ひとりお皿を洗っているシェフのエレナ女史の姿が私の眼には悲しく映ったことはいうまでもないだろう。だが同時に、何処までも人間味に溢れ、"料理"というものを愛する一人の優しい女性、さらに"料理人でいる以前に一人の人間として忘れてはいけないもの"を大切に持ち続けている一人の素晴らしいシェフの姿として、私の胸を強く揺さぶり、一際の感銘さえをも呼び起こした。
 燻り始めていた暖炉の火が森の香りと絡むように溶け込み、そして幾千もの星を散りばめた晩冬の夜空へ緩やかなカーブを描きながら消散していく中、8歳になろうとしている彼らの忠実な犬"ペピート"が中庭で残りの骨に齧りはしゃいでいた。現在、そして過去を想い彷徨い、フランコ氏が大声で突然怒鳴りだしたかと思えば、そんな彼を窘め静めるエレナ女史との、ささやかな口論の裏では、テーブルの下で手を繋ぎ、そしてお互いを温め合っている2人の姿がそこにはあった。こんな人達に出逢えた事を感謝したい。宿を提供すると言っては聞かぬ彼らの申し出を丁寧に辞退し、家路へと向かう山道の中腹では、唐突にその影を見せた1頭のヤマアラシが、あたかも僕を誘導し見送るかのように、照らされたライトの先を突き進んでは深い森の中に消えていった。


                                   ”グルメ・ジャーナル、2001年7月号”掲載

                                           2001年3月28日 土居 昇用