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とある物語・・・

   INCANCELLABILE・・・消し得ぬ想い・・・

 29.後書き


  『Le Fragole!!! Mangio Io! Mangio Io!(イチゴだ!!! ワタシの!ワタシの!)』 と、サンドラの友達が分けてくれたこの春一番の地元産の採れたてイチゴに、我らが子供たちが厨房内に押しかけては群がっている。 1ケース満杯にあったから、当然余るだろうとは思っていたが、念のために"まさか、今、全部食べないよね、余ればこのイチゴで何か特製のデザート作るよ"と聞いてみたら、
  『No! Finiamo Tutte Adesso!(いや、全部、今食べちゃうわよ)』 と、我が先よと争う感じで、左手に抱くお椀にイチゴをブチ込んで砂糖をまぶし、レモン汁を振りかけては、スプーンでグチャグチャ潰して(いわゆるマチェドニアの基本なのだが)、口の回りを赤く染めながら、本当に瞬く間にそれを全部、終わらせてしまった。

  こういう美味しいものに目がない人のことをイタリア語では、"Goloso(ゴローゾ)"というが、一般に辞書に書き付けてある訳注"大食い、大食間、食い意地の張った"とは少しばかりニュアンスが違うようで。 そう、この子たちは、本当にそういった彼らの食感をそそるものを見つけると先述した様に、まるで僅かな遅れが命取りにでもなるかのような勢いでかじりつくかと思えば、そのままその歓喜の陶酔に一日中浸って はニコやかな笑顔を見せるのだが、逆に美味しくないものや、理解しかねる組み合わせのものを見ると、例えどんなにお腹が空いていても、フンと顔を背けては、しばらくの間は機嫌が悪かったりするのだから怖い。
  でも、そんな子供たちの姿を見ていると何故か、そんな簡単すぎる食べ方が一番理想のイチゴの味わい方に見えてきさえもするが、もしかしたらそうなのかもしれない。 これこそが、降り注ぐ太陽をいっぱいに浴びて香る大地からもぎ採られたばかりの滋味に溢れるイチゴの正しい食され方なのであろう(正確には初苺は熟しきっていないために、こうして手を加えたほうがよいと言う理由もある)。

  そしてきっと、この抜群の土壌環境から生まれるそんな"Semplicita(簡単さ)"を伴う食文化、そして選択を幾千にも増やし、人生を複雑化しかねない"Novita(新しいもの)"を好まない頑固さにより成る"伝統の美"が、ここトスカーナをあの南仏プロヴァンスと並んで、世界中の人々を魅せつけて止まない桃源郷の一つに押し上げる理由なのでしょう。

  だけど、確かにそんなトスカーナにおいても、押し寄せる時代の変化の波に世代も替わりつつあります。 人々は重労より軽労、努力よりも効率、そして伝統よりも変化、そう"Novita"を求め始めているのです。 そしてこれは当然の成り行きで、尚且つ、必要に応じたことでもあります。 でも、果たして彼らに、かつて我々日本人がいとも簡単に、そして変わり身よく幾十もの他国の文化のいいところだけをを受け入れてしまったように、それを受け入れる事が出来るでしょうか。

  シルビアは言いました"私もあなたのように夢を探しにいけたら・・・"、

 彼女もこの変わりゆく時の流れの中、自分をも変えてくれるかもしれない"それ"を探してみたい気持ちを持っているのです。 では何故、それを実行しないのか、勇気がないからであろうか、いや、違います、それは彼女が自分自信が変わり得ないこと、自分が雪崩のように崩れ迫る新しい世界に耐えることの出来ない"頑固"な人間であることを、よく分かっているからなのです。

  彼女はこうも言っていました、"私はここで生まれ育ったから・・・"、

 これが意味するものは単なる郷土愛でしょうか。やはりそれも疑わしい、ならば身体中に流れ騒ぐ"血"の呼びかけるもののことなのでは。

  そんな"不器用"とも言える人々の"土"、トスカーナのとある田舎で巡り合った100%真実の物語りの中で、僕の存在とは一体どんなものでしょうか。それは正に、"Novita"の一つであったのでしょう。 それでも歓迎され、そして温かく受け入れられました。 皆に愛されていた、とも言えるでしょう。 だが、同時に混乱と当惑、恐怖、そして不和と争いを巻き起こす"きっかけ"となってしまっていたのです。 お互いを罵倒し、そして傷つけ合った辛いドラマでした。 でも、こんな事件の後に、僕はこの人達ことを嫌いになったでしょうか、答えは"NO"です。 確かにそれを理解するのには、少しばかりの時間は必要でしたが、そんな正直でしかいられない"不器用"な彼らは僕にとって、かけがえのない人達、そして彼らと共に過ごした"感情"が溢れ止まらなかったこの4カ月間は、正に"Incancellabile"、永遠に消し去ることなど出来ない、大切なものであり、自分が探していただろうものに気が付かせてくれた人間模様(ドラマ)でした。

  そう、人のいるところ世界中どこでもドラマは起きています。でも、人はその人生の中でそれに気が付かないでやり過ごしてしまうことが往々にあります。 それは何故でしょう。 それは恐らく、問題や困難を目前にした時、無意識にしろ意識的にしろ、それを予期して避けてしまうからではないでしょうか。 そしてそれはきっと、他人、又は自分に対して"正直"でいることを忘れてしまっているからなのでは。

  この物語りをこうして書き終えることが出来て、本当によかったと思っています。 何よりも自分のために、そしてもし誰かに少しでも"何か"が伝わることがあれば、それ以上に光栄なことはありません。

  最後に、物語り中の僕に投げかけられた言葉をイタリア語で書き添えてあるのは、このただならぬイタリア・ブームの中、増加しているイタリア経験者の方々にも楽しんで頂ければ、との配慮です。 そしてこれからイタリア語を勉強しようと思っている方々の何かの役にも立てば幸いだとも思っています。

                                                    1999年12月4日 土居 昇用