ピンクの蓮華のライン

東京暮らし7年


 ユニーク人生の第1歩、それは中学受験でした。盲学校の中でも別格と言われる筑波大学附属盲学校への入学を実現させるべく、はるばる東京まで出かけました。そう、筑波大の附属校といっても、校舎は東京にあるんです。
 1月末のこと、東京では雪が降っていました。南国育ちの私は雪が珍しくてすっかり大はしゃぎ。このことは入学してから後後までクラスメートたちにからかわれました。
 とにもかくにも入試に合格した私は、4月から東京都民になりました。親と離れての寮生活。さすがにちょっと心細い。せっかく友達ができると楽しみにしてたのに、クラスメートは男の子だらけ。初めは学校生活に慣れるのに夢中だったけど、しばらくすると強烈なホームシックに陥ってしまいました。家は恋しい、でも宮崎の寂しい学校生活に戻りたいとは思いませんでした。
 男の子だらけでも、いっしょにいるとけっこう楽しいし、なんと言っても、授業やテストのときに競争相手がいるのがたまらなく嬉しかったですね。だいたい、根が元気でワイルドな子でしたから、遊びだって男の子に負けちゃいませんでした。
 友達が増えたこと以外にも、東京で中高生時代を過ごしたことは、私にとってすごく大きな意味を持ってたと思います。視野が広くなったというか、ものの見方がガラリと変わりました。自分自身でしっかりと将来への希望を掴むことができるようになりました。どういうことかと言うと…
 今でもそうですが、その当時は特に、視覚障害者の辿る道は、ある程度決まっているものと思われていました。盲学校を出てマッサージや鍼(理療)の資格を取り、そういった関係の仕事に就く。優秀な人は理療を教える先生になる、といった感じです。私も小学生のうちから、自分もそんな路を進むのかなぁと、なんとなく考えていました。東京へ送り出してくれた担任の先生も
 「理療科の先生になって帰っておいでよ」
とおっしゃっていたからです。
 けれども、東京の学校には、視覚障害を持っていながら、実にいろいろな路を目指している先輩がたくさんいました。皆、周りから言われたからではなくて、自分で夢を持って、それを自分で実現させようとがんばっていました。もちろん理療の路に進む人もいましたけど、決して周りが言うからというのではなくて、よくよく自分で考えて決め手いるのですから、真剣さも違いますよね。
 いったい私は本当は何をしたいんだろう?私も自分に目を向け始めました。ちょうどそんなとき、同じ学校の卒業生である全盲の女性が、英語の先生として赴任されたんです。衝撃的な出会いでした。正直なところ、それまでの私は英語が嫌いだったんです。英語が嫌いだった人間が英語の先生やってるなんて言うと、皆びっくりするんですよね。それくらい、あの先生の存在は大きかった。私を完全に変え、将来への夢を与えてくれたのですから。英語を勉強しよう!何になるかは後で決めるとして、とりあえず方向は決まりだわ。中2の私の心に生まれた新しい希望でした。
 その希望と共に、私は高校へ入学。高校時代もすごく楽しかった。勉強もスポーツも、友人関係も充実してた。途中10ヶ月間、アメリカにも行かせてもらった。東京での7年間は、私を大きく育ててくれたすばらしい時間でした。


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