知ることと試算することConnaître et estimer

 二つ目の財政上の史料の集合体は、義務から生じ、そこでは、各領主なり諸侯なりが、彼らが当てにすることが出来る潜在的な財源、それが常時の物であれ、非常時のものであれ、それを知ることから見つかる。

 占有地《を中心とする王の諸権利》を守ることについての心配は、十四世紀から明らかに活発になっていくと言うのは、その改善もしくは再編《réformation》が命令されている勅令から分かるのだが、たとえこの種の文書がこれより前には知られていなかったとしてもそうであるのである《王の諸権利の再編についての勅令はこれより前の時代にもあるのだがたとえそうだとしてもこの時期から活発になったといえる》。この勅令は十五世紀の中ごろには到る所で増加し、この十五世紀と言うのは経済上の危機がその頂点に達した時期であり、復興が可能であると予言するような再開の兆しが現われ始めた時期である。最も上手く行った場合でも、こういった勅令と言うのは作成されたと言うよりは、土地、年貢、租税調査に関する台帳を再現実化したというべきである。発明だときちんと言う事が出来ないのは、その先祖がカロリング朝の財産目録や920年から1120年ごろの西ヨーロッパの様々な地域に現われていたそういったものに他ならないからである。しかしこういった種類の文書は十四世紀にしか盛んにならなかった。法律的には、土地所有証明書terrierというのは、公証人notaireによって受理され、法廷で証言された物なので、年貢帳censierや地代帳rentierと言ったそれにその発想と目的が似てはいるがその真正性の効力は持って居ないものとは、原始的に区別されている。しかしながら、そういった区別が中世末期においてあらゆるところで適切かどうかは分からない、というのも、中世末期にはブールゴーニュの土地所有証明書やブルターニュの地代帳はそれぞれが、公証人の下署をうけて真正文書としての形式をとり始めたからである。その場合、税金或いは地代、それらはその土地の上位の所有者に対して永遠の支払い義務があるのだが、それらの合計について再び数え上げた台帳が問題になってくる。時にそれは、独占施設の使用強制権(風車、パン焼き竈、市場)の行使された農場、その使用から要求される使用料を再検討した税額査定表《pancartes》を伴ったそれらから構成される。そういった種類の財源に関する関心は、再編réformationの為に行われた調査の手続きの詳細から、その使用料の形態や期間、危機の時代において連続した組織破壊の時期の真ん中に発生した土地の横領、などについて教えてくれるのだが、その関心は増大した。財政史、(所有の形態に関する)法制史、行政史、経済史、社会史、生産技術と生産手段の歴史、はその利点を見つけるだろう。しかし、それが同じく以下のことを可能にするつまり、土地《terrain》に関する独特の接近手段を、というのも、地代台帳は町の建物や通といったような土地区画の分配にとって必要な風景の要素を記述しているからである。つまり、地代台帳は多くの地名や家族の名前を保存しているので、それらに加えて言語学や人名研究にとっても興味深い物である。同じく考古学者も、熟考する素材を見つけることが出来るだろう、たとえば1544年のブレストの地代台帳のなかの叙述にある証言の様に。それは独立戦争の際に破壊された城館の建物の遺跡についての記憶をとどめる唯一の資料である。

 加えて、余が見つけたのは、上述のかつての証言、この上述の城館の門の付近其処にはバン領主権に基づくパン焼き竈がありまだ其処に所属しているのだが、それがあったと言う証明証により、土地の高さ一杯一杯まで、赤い城壁があり、裁判官の目には火で炙られたように見えるのだがその城壁が余の言うところの、形態と様式のパン焼き竈である。同様に、如何なる遺跡も古い城壁、前述のサン=イヴ通りに続き海岸まで広がるその道に面した壁も依然として其処に属している。
それゆえ、その利用の可能性は様々である。たとえ、その限界を無視てはならないとしても。後代の文書のなかの純粋で単純な要素の再開による型に嵌った傾向があった。つまり、詳細だが間違った印象、それからかすかな地理的な目印の使用(景観の要素と名前の照合)には、利用は今日では難しい、土地全体を不完全に覆っている、というのも、その作成を命じた領主の占有地、それはしばしば不連続であったのだが、それにしか興味が無いのでである。

 三つの種類の文書は、地代と年貢の台帳が伴われ、それによって完璧になる。まず、地代のミニュ《minus》と呼ばれるもの、これは、巻物あるいは帳面によって提示されるのだが、その名前が指し示すように、王領地における毎年の地代を細分化するものである。そして、一般受取人receveur ordinaireたちは、しばしば自分の会計にこれを編入した。つぎに、「新しいバイイ管区」《nouvelles baillées》の記録つまり新しい土地と占有された所領、再編の進展により競売にかけられて引き渡された土地を競売した記録がある。それらは農村の景観の記憶を保存しておりある時期から別の時期にかけてのある土地の立地による値段と形態の変化の記録も保存している。最後に臣下の誓いと人口の算出がありこれらは原理的には、領主あるいは臣下のどちらかが代替わりした場合にはすべての直接授封者が要求されたものである。実際には、これも定期的に提出されたものではないが、王の諸権利あるいは諸侯の諸権利を取り戻そうとする行為が再開したときには数が増え、それを受け取りそれを保存する役割を負っていた会計法院の記録庫の中に膨大な記録を今日において構成していることをよく説明してくれる。その利点はさまざまである。多くは、簡潔であり、情報の多いものは少ない。あるものは、羊皮紙の一枚に記録されているものもある。あるものは、十数枚にも及んでいることがある。しかしながら、貴族の土地所有を、あるいは、領主制の構造やその重要性(領主の諸権利、君臣関係における勢力範囲、主従関係など)を、とりわけ、貴族の生活様式というものを理解するためには無視できないものである。今日ではその大部分が失われてしまったのだが、貴族の大邸宅を調査すると、彼らが財産没収を経験することは避けられない。とはいえ、彼らが自分のその弱さを隠すすべを知らなかったというわけではない、とりわけ、彼らが、彼らが仕えねばならない義務のある主君に関係する財産しか書いていないという事実からわかるように。つまり、一人の臣下が、一人の主君しか持たなかったというのは極めて稀であるし、臣従の誓いの保存は偶然の法則に従っており、主君の所領や財産の部分的な視点しか与えなかった。

 家産的諸権利《『通常収入』・占有力の収入》に関する資料の重要性は、当然それらにはきわめて基礎的なところを研究した会計に関する《『非常時収入』の》文書を付け加えなければならないのだが、以下のことを提示する、つまり、通常財政は、税制《『非常時収入』》による収益と比べれば少し実入りが少ないように思われるかもしれないが、中世末期の財産管理人の注意を引き続けた、ということを。実際、家産的諸権利に対する関心は、その財政的な産物だけにとどまらず、それが上流層を統制する、補助的な力と局地的な水準での権力との基礎的な中継地点でありつづけたことは周知のとおりである。

 しかし、この後者は、もはや通常収入を満たすことはできず、また公共の予算は、非常時財政は大幅に非常時財政にその場を明け渡していたので、税制の誕生に呼び起こされた様々な文書は、十四世紀の初めから急速にあらゆる場所に蔓延るようになった。直接税の税制に関する限り、その目的は、少なくとも人間の数、それは、課税可能な単位ごとに集められ、最もよい場合は、彼等の経済的な『《負担》能力』ごとに一緒に集められるのだが、それを数えることである。教会も、目録作成の熱狂からは逃れられず、というのも、教会も、「財産目録pouillé」を持っており、十三世紀の終わりごろから、そういった財産目録は、司教区ごとに小教区を列挙し、そこには聖体拝領者のことも付記されており、それぞれが教皇庁の役所に送った委任状の総計も其処に付記されている。しかし、《そういった教会の史料ではなく》世俗の史料こそが、やはり私の注意を惹き付けて止まない。

 都市の内部においては、直接税の出現は、少なくとも南部においては、十三世紀以後まず国王の側の要望により引き起こされ、つづいて、地域の防衛の視点が付け加えられた。南フランスのほうが、北より広く蔓延していることは、証書の原本の管理の仕方によって説明できる。ある場所とそれ以外の場所では、呼び方に変化が生じているが、人々はそれぞれの租税台帳を、『査定評価estimes』台帳だとか、『調査queste』台帳だとか、『割当taille《タイユ税》』台帳、『財産vaillant』台帳、『ペイタpeita』台帳あるいは、『土地台帳cadasteres(catasti)《カダストルとは、イタリア語のcatastoをフランス語にしたもの。catastoとは、ギリシア語のkatastikhon、Καταστιχωνリストのこと。》』、『コムポワcompoix《コンポワとはラテン語のcumu-pensusu、一緒に計量するから来ている》』台帳とさえ呼んだ。それらは全て、自発的な報告か、調査官による委任調査によって、それぞれの家庭の家長の財産、本来の意味でのそれを調べるための物である。つまり、本来の意味とは、動産、不動産、都市に持っている財産、農村部に持っている財産、それらを、金額に換算してつまり、様々な控除や減税の要素を適用した後に、リーヴル及びスーに変えるために、評価するための物である。この手続きは、台帳化と呼ばれる。このように計算された課税基準から、課税の決算が導き出せる。

 同じく、ペイタのリーヴルに関しては、次のような新しいやり方で実施すること。つまり、前述の都市のあるいは、街区、小集落などに住む住人のそれぞれは、尊敬すべき行政官たちに対して、非課税の物であれ、課税される物であれ、彼らがどのような財産を持っているか、宣誓の下で、言うか宣言することが義務付けられており、また、 その納税額或いは金額を払う人々に対してその名前を宣言することが義務付けられている。また、選ばれた行政官は、上述の財産を文書に記載することが義務付けられている。

 こういった史料の利点はしばしば強調されてきた。しかし、その脆さ、それは、申告に違反があったり、調査の手落ちがあったり、えこひいきがあったり、特権階級に対する、内密の課税があったり、不公平に穏やかな数字を適用したり、ということから生じるのだが、それを考慮に入れたとしても、『課税見積もりestimes』は、家産的諸権利の中の財産の中では、正確であった。それは、都市の人口を調査することを可能にしてくれる(勿論、財政上の竈の固有の概念と言う障害はあるものの。)。更に良い台帳は、人口構造に関する分析方法を或いは、家族構成に関する分析方法を、あるいは財産の管理における、女性に与えられた役割に関する分析方法をも可能にする。それらは、都市における社会的な地層学や、社会的地区割り、そして、職業空間に関する情報を与えるし、農村に対する都市の支配力をも明らかにする。固有名詞研究、つまり地名学と人名研究は、それが列挙している名前の表から大きな利益を引き出している。一般的なやり方では、都市研究における情報量と、正確さの度合いは、大部分が、『課税見積もり台帳』の存在の有無にかかっている。

 領邦国家の枠組みにしろ、君主国の枠組みにしろ、ほとんど変わらない。効果的な調査、それは直接税制の発展にとって必要不可欠だったのだが、それが、十四世紀から何度も繰り返されることになった。それは中央政府によって決定され、それは、一般的には、一時的な災難に関わる住民たちの「要求と不満」に答える為にだったのだが、 会計法院の権威の下或いは、フランス国王の総徴税人或いは被選徴税人《エリュ》の権威の下に実行された。都市は、しばしば、税制における例外措置を享受しているので、優先的に地方の特権に関係していた。

 フィリップ、神の恩寵によりてブールゴーニュ公(中略)たる余は、余の親愛なるそして忠実なるリールの余の会計役人達に親愛の情を込めてご挨拶申し上げる。余の知るところによれば、(中略)余の(リール、ドゥエ、オルシーLille, Douai, Orchiesの)城主としての支配権の及ぶ地域の農村地帯《plat-pays》の多くのよき人々、田園部の村、小集落、村落に住む村人やその住人、彼等の要求と懇願により、多くの人々が死んだ際あるいは、軍隊が宿営した場合には、(中略)その他、人口が減り貧しくなったような場合には、彼らが完全に荒廃しないように、もはや彼等の税、余に援助を与えるために払うことになっているそれらの税を払うことをせずとも良い。

 このような手続きは、恐らく、割り当てられた課税の場合によりはっきりと証明されるだろう、というのも、最終的な課税による収益は、それぞれの炉《世帯》の数にかかっていたからである。税制における公正さと、それぞれの場所に住んでいる人々の数とか税額との一致とに関する配慮は、その手続きを必要不可欠なものにし、最も流布した仮説によると、課税の分配におけるそれは、地方の段階で担税者の間で割り当てられることになるのだが、中央の権力によりはっきりと全体の合計があらかじめ取り決められていた。

 それに関する多くの文書があるが、フランス王国の物より、諸侯国家の物のほうが良く知られている。我々は、例として、ブルターニュの公領の例と、ワロン語圏のフランドルを借りてくることが出来る。其処には、詳細な調査の一部分がありと、その調査の手法は十五世紀から、正確になっていったのだが、そこでは、会計法院に委任を受けた特任官たちが、集団ごとに教区の人口を分析していた、たとえば、貴族、貴族と結婚した者、聖職者、困窮者、寡婦、そして「担税可能者contributiffs」などであるが、この一番最後の集団の家庭が、実際には唯一の、

 聖コランタンの街カンペールの近く、サン=マヘ《Saint Mahé聖マシュー?》、其処には嘗て五十個の炉があったのだが、そのうちの十六は聖堂参事会、四つは司教のものだったのだが、調査によると、現在、上述の教区に住んでいるものは、以下の通りである。貴族は、四戸、小作人は一戸、十九戸は寡婦、二十三戸は貧窮者、二百十四戸は担税者であるが、そのうち、153戸は、ブルターニュ公の税を支えることになっており、四十二戸は聖堂参事会の担税者であり、十九戸は司教の担税者であり、七十一と三分の一戸が《ブルターニュ公から》戻され…
 但し、三年ごとに更新せよ、というのも、職人や賃借人は、ある場所から別の場所へ移り住むかもしれないからである。

 こういった史料のそれぞれは、熟考されるのが相応しい。総体的な記録は、地図作成術による書き換えとともに、記録が十分に正確ならば、課税のための人口調査enquêteの行われた地域全てに関する人口学的調査を、可能にする。しかしながら、慎重さをもって進めることが重要だ。この作業は、課税のための人口調査enquêteが課税され得る人々(つまり、払うことの可能な世帯feux poïables)だけに限られず、様々な分類の課税免除者を含めて小教区内の全ての住人を数え挙げている時にのみ可能になる。典型例としてあげた上記の例でも、「世帯feux」によって推測されることが好まれ、というのもそれは、様々な乗数の作用によって間違いを拡大するのを防ぐためであり、つまり、厳密に言うと、「世帯主chef de familles」、つまり財政上の架空の世帯数の構成方法が知られているので、その世帯主の数で推測される。

 地域を限定した課税の為の人口調査に関して言えば、それらは、似たような公共機関を研究する歴史家を、推測を研究する歴史家にし、 住民の人口構成や、社会階層学や、農民の所有物や、遺産の構成や、領主たちの税の徴収や、時には、課税の種類を研究することを可能にするが、人名研究や地名研究を忘れ去ってはならない。

 1449年の十一月の第十二日、レキンLesquin小教区内のあらゆる平民が、余の前に出頭し、即ち、ジュード=ル=メールJude Le mesre、ジョラール=ヴレディエールJorart Vrediere、シモン=ランベランSimon Lambelin、ジャックマール=ベルナールJacquemart Bernard、ジャン=クロンベJehan Crombet、マヒウー=ランベランMahieu Lambelin、そして徴税人collecteurのジャン=バタイユJehan Bataille...。前述の教区の平民たちに要求されたのは、そして、彼らが払う規模は、以下の通りである、つまり、ジョラール=ヴレディエールは、二つの場所に、九ボニエbonnierの土地《1ボニエは土地の面積であるが、各地域によってその大きさはまちまちで、例えば、ある土地では1.1121ha、ある土地では0.8253haほどの広さを持つと言った具合である。》を持っているので、6リーヴル6スー、シモン=ランベランは、一つの場所に、六ボニエの土地を持っているので、4リーヴル6スー、ジュード=ル=メールは、一つの場所に、六ボニエの土地を持っているので、68スー(3リーヴル8スー)を...。同じく要求されたのは、もし上述の期間内に、彼らが豊かになったり、あるいは、誰かが上述の教区に居住しにやってきた場合、何も払わなくて良い。租税調査における彼等の土地がどのくらいの価値があるのか、また、その他の物から一部だけを売った場合はどのくらいの価値があるかは、それが、課税評価としては、一ボニエ当たりの収穫が、十四ラジエールrasiere《容積の単位。石炭や、ジャガイモ、林檎など乾いた物体を図るのに使う。約50リットル。》と評価され、また、売却した場合、一ボニエ当り四十八フランの価値があり、一ボニエ毎に、三ラジエールの小麦の地代を払う必要がある。

 それらは、精神性の研究にも向いている、というのも、それらは、一種独特の財政上の不正行為の試みに取って代わられるし、それゆえ、課税に直面した人々の態度を、写実主義者の詳細に述べるやり方で証言してくれる。

 ニコラ=ブリドゥNicolas Bridou、彼はポメリPomeritに住み、其処に一軒の家、牧草地、家畜、その他の食糧を持っている。そして、フアージュを安くする為に、グドランGoudelin教区の彼の家の近くの拱門の近くまで行き、そこに小さな小屋を借りて、夜は其処で彼ら、つまり彼と彼の妻が寝ているのだが、にもかかわらず、ポメリには彼の家があり、上述のグドラン教区の取り決めにより、彼が嘗て住んでいた上述のポメリ教区ではその二倍を払っていたにもかかわらず、十スーしか払わなかった。

 納税者の一覧表は、調査の結果として起こったのではなく、徴収の実施、それは、タイユ税やフアージュ或いは、1377年から1381年までの人頭税《poll taxes》、その登記簿が我々に残されており、十四世紀末のイングランドの人口、少なくとも成人に関するその証明証を再現することを可能にしているのだが、それは、ハイランド(スコットランド国境から、ウェールズの辺境まで)、不毛の土地でありむしろ羊の飼育に割り当てられることの多かった土地と、大穀倉地帯であるロウランド(ノーフォークやサッフォーク、ノーサンプトンシャーやベッドフォードシャー)との差を対比したり、同じく穀倉地帯であるロンドン盆地と、中くらいの土壌であるサリーやサシックスあるいはハンプシャーとの差を対比させるのだが、その人頭税でさえも当てはまるのだが、そういった税の徴収の実施の結果としても起こっただろう。この種の会計関係の史料に現われた文書、入念に作り上げられたそういった史料は、通常財政や税制の調査の大部分に不可避的に到達する。


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