会計と監督Compter et contrôler

 王領地などから得られる収入と税制による収入の会計は、諸領主そして諸君主の文書館から出てきているのだが、その文書のかなりの膨大さによって提示において特権を受けている。そういった文書館が明らかにしていることは、中世社会において財政の分野が拡大していることであり、そういった活動の記憶を記録しておくことが必要だと言う意識があったということである。国王の会計が保存されているのが最も早いのは、イングランドにおいてであり、1129年からPipe rolls《財務府大記録》が残っており、またフランドルにおいては1187年からGros Briefが残っているが、フランスにおいては、もっと遅く、1202年から1203年において最初の国王会計が存在しており、その記録が本当に豊富になるのは1285年以降、とりわけ1328年以降である。史料の破壊(1737年のパリの会計法院の火災や、革命期の入れ替えなどによる)にもかかわらず、会計報告や、会計簿の断片などの百万を超える史料が、フランス国王の宝物庫le trésorや王邸L'hôtelや、貨幣打造局L'argenterieなどにたどり着くために、歴史家達によって豊富に利用されてきた。国王による中央の会計の多様性の極端さは、ある時期とそれとは別の時期とのあるいは、業務の種類による保存の度合いの違いに応じて変化し、どのようなものであれ、その構造の総括的な提示に対して障害となっており、またそれを行うために人々は、十九世紀や二十世紀の研究者達がその身をささげた、目録や、校訂や分析の豊富な業績にまでさかのぼることになった。こういった、中央の会計は、アラゴンや、ナヴァール、ブールゴーニュ家の諸領邦、サヴォア、プロヴァンス、エノー、アルトワ、教皇庁の会計局などなど、にも同様に残っており、そこでは、それらの種類は、時に驚くべきほどの連続性を持っているが、依然として、必要とされていると思われる財政史の集大成を書くことを許してはくれない。それでも、公共財政史の量と、国家財政の手段の変化の歴史が、再びそれを頼ろうとしている。 また、支出の割り当てなど予算の判断の知識や、行政役人への知識、そして、給料の与えられる役職や、贈与や年金等によって直接関連している、上流の政治社会への知識、そして、国家の暮らし向きに関する知識、そして、権力の表象と表現への知識などは、その体系的な活用次第であり、例えば、それを現しているのが、次のような文章、大きな花形の飾りにおける、ブルターニュ公の王冠を正確に記述した、唯一の文章であり、《ブルターニュ公領の》国庫の財務役人の会計報告からの抜粋であるのだが …

 ブルターニュ公の大額冠、ブルターニュ公であるフランソワがレンヌの彼の封に入る時に被っていたそれは、十個の基座を持ち、その基座は以下に宣言するとおりの物を備えていた。即ち、最初の基座には、巨大な方形のバラスルビーを備え、三つの大きな真珠と、二つの大きなダイアモンドを盾型紋地の上に備えており、そのダイアモンドは沢山の面を持つようにカットされていた。そして、上述の基座の三つの大きな真珠の上には花形の飾りがあった…。
 加えて、ここで言う基座には、全て、エナメルを引いた金による、様々な色や形をしたつぼみの飾りと小さな花の飾りが備わっており、六マルク三・五オンスの重さであった。

 もし、《中央で集められた》総会計と言うのが、第一の関心事であるとしても、在地の会計簿、そこから得られた物は、その地域や土地の小さな歴史にのみは限定されないのだから、その在地の会計簿からきたもの全てを無視しできると言うわけにはいかない。実際、二つの種類の会計簿と言うのは、技術的には、十四世紀頃に同時に発展し、それは、羊皮紙の巻物から紙の台帳へと漸次的に移行することによって助けられた。 前者と後者とを分ける分類は、変化に乏しい日常の徴収額と支出との記載を受け継いだが、というのもそれは、時には、現金による収入或いは現物での収入を別々に分類するものであり(それはブルターニュにおいてもそしてナヴァールにおいてもだが)、徴収額における儲けそこないは、支出と同じ金額になるようにその理論的な地位を是が非でも記載されるか、しかるべく判断された記入によって埋め合わされるかするように、要求する物であったからである。そういうわけで、十五世紀には、大部分の会計報告が、単純だが効果的な論理展開を採用した。つまり、導入部の後に、上書きの形態をした文、そこで役人は、一体化し、地理的な管轄区域と執行の日付、彼がその名前の下に行動する権威の名前を正確に述べ、その後、金額、あるいは、『請求charge』が来、それらは多かれ少なかれ収益の本質そして、受取人の地位などに応じて発展したものなのだが、続いて、支出、つまり『ミーズmise』、それらはしばしば詳細に述べてある、 というのも、その雇い主に対して自分の恩義を減らす余地があるあらゆる要素を一切忘れないことが会計士にとっては得策であったからである。 記録簿は、差引残高つまり、『受取額から必要経費を控除した物deduction de mise à recepte』、それは、役人の報告書を役所と差し向かいで立証することを許す物であり、債務者つまり貸し手に対する彼の残り物を決定することを許す物であった。

 会計の様々な部分の内容は、その性質に応じて変わる。ブルターニュの例、それは、王国のほかの場所でも出会うことになるそれとほとんど変わらないのだが、それを元にして、次のような概要を提示することが出来る。公としての固有の権利domaineに関わる台帳に関して言えば、現金による要求と、現物による要求を区別することが出来る。そしてそれぞれは、変動しないドメーヌつまり、サンス《年貢》や、ラント《地代》など、場所と時期に応じて分類されたものと、変動するドメーヌ、つまり、水車小屋の請負契約や、パン焼きがまや、通行料、市場税、御料林、土地、つまり、封建的あるいはレガリア特権に基づく収入、つまり、封地安堵税や、買い戻し金《傍系親族相続税》、遺産譲渡税、公定価格《taux》や、罰金、私生児の遺産相続や、占有離脱物取得権などである。現物による受納は、同じように、地域の市場における生産物の販売においても用いられた。ミーズ《mise》に関しては、それが次々と連続的に列挙するのは、まず、振込みか割当かによる、封土や施し物、領主に対する支払いや、或いは自分の中央の財政管理機構への支払いなど、強制された出費であり、それから、在地の行政機構に対する賃金や経費など、裁判費用、農業上の出費、インフラの維持費など必要な支払いなどであり、そして、最後に、『返ってきたお金と徴収できなかったお金denier rendus et non reçus』、つまり、請求金額《徴収の予定金額》の中で記載された収益のうちの幾つかの徴収における不足であり、『請願と要求supplications et requestes』のように、管理者によって許されることになっている、不完全な徴収、あるいは、正当な書類によって、保護されていないか不味くしか保護されていない、多かれ少なかれ重要な数字、のことである。 結局の所、支出の列挙と言う物は、中世の心性の状態、そして、その時代の優先順位を極めてよく反映したある種階層的な秩序にしたがっている。まず、神を、そして、彼等の聖人たち、つまり、彼等の地方の守護聖人達を満足させ、修道士達の施設、続いて、その土地の領主、上級の行政機関、最後に、資金が残っている場合に、雇用者達は、役人達、出入りの業者、そしてドメーヌ《領主としての財産》の維持における中間団体に支払う。最終的な収支決算は、受取人たちの管理者によって証明証を発行される対象となる。

 フアージュの会計簿の構成は、ブルターニュに残されている貴重な証言から判断する限りにおいては極めて単純なように思われる。徴収の理論上の合計金額を顕にする為に、封土や教会における地域区分など土地の単位を結果として区別する一方で、請求金額は、教区ごとに税制上の世帯数を記載するだけにとどめている。免除に関しては、状況を考慮して変更可能な幾つかの項目を作ることに帰着する。つまり、「引当資金《蓄え・損失準備金》provisions」のリスト、言うなれば、小教区に対して君主から同意を得られた課税の一時的な減額や、貴族になった世帯の控除、極端な人口減少や戦争など深刻な事態の結果として生じた、中央の行政機関に対する振り替えや割当による支払いの未払い、それらは、税制の押し付けの限界と、課税に対する抵抗のやり方に対する証言をしてくれているのだが、それらのことである。

 こういった会計簿に関する関心は、それが在地の物であれ、中央の物であれ、同じ考え方、そして、登記簿と一緒になった資料に関連している。実際、会計簿は、その具体的な性格、自発的な描写などによって推薦に値する。会計報告というものは、お喋りで、逸話も多くその上、絵画的であるが、そうであるだけなお一層徴収や支出の動きは判断するのが難しいのである。徴収の管理者によって余白に書かれたメモは、同時に、行政機関の心性の歴史、つまり、厳密さを重んじる精神、というか、妥協を許さない心情或いは、会計役人達の傲慢さの歴史にとってはそういったメモが極めて貴重だと言うことを、こういった印象に付け加えてくれる。会計の冷淡さどころではなく、その史料の本質がその無関心さを信じさせておくのだろう。証拠となる書類は、それぞれの活動ごとに(受領証、見積書つまり《feurs》、一致の証明書つまり《renables》)必要とされていたのだが、それらは、具体的な側面を強調する。そういった書類は、かつて、《poche du compte》に置かれていたのだが、時には次のような理由で紛失した、つまり、近代の文書館員が、会計上の系列とは別の系列で再分類しない限り、彼等が、時には主観的(領地内の建物や、宗教上の基金、給料などなど…)なやり方で、彼等の目的にしたがってそれらを分類していたとは言え。

 こういった会計関係の書類全てを考慮に入れると、研究される分野がどのようなものであれ、会計の歴史に対する例外的な貢献を測定することになる。財政の歴史を思い出さなくとも、出来事の歴史に対するその貢献を思い出してみよう、というのも受け取り金額における収入における残念な出来事、つまり、戦争や、気候上の事件などの衝撃についてほぼ機械的に会計報告は記載しているからである。行政の歴史にとっても、避けられないものであるが、行政の歴史とはつまり、地域区分の歴史、役人たちの歴史、そして管理方法の歴史のことであるが、それらは、経済史や社会史にとっても更に貴重な物であり、というのもその指標となる大量の根拠(人口や、農産物や工芸品の価格、給料、貨幣、領主収入の変化など)を供給してくれるからである。そう言った証拠となる書類は、技術の歴史においてそうであるように、建築物(軍用であれ、民用であれ)の歴史にとっても主要な物である。司法の判断、特に罰金刑や、身体刑(手足の切断や死刑の執行)などを記録しているので、そして、拷問や処刑の道具の購入にも言及しているので、会計報告は、行動と規範の歴史にとっても興味深く、そこで供給されている物は、特に量的に充分に活用されていない。結局、会計に関する社会学的な関心は明白な物である。つまり、人名研究や宗教的な心性の歴史(信心深い基金)や行動の歴史、日常生活の歴史、つまり、住環境や、余暇(狩猟や祭典や遊戯)あるいは、食習慣のことなのだが、それらは、次のような種類の文書を省察することによって素材を見出すであろう。

 宴会の必要経費、それは、この町、つまりレンヌ市の人々に、ジャック=ド=ゴンドボー修士maistre Jacques de Gondebaud、われらの君主であるローマ王《神聖ローマ皇帝ハプスブルグ家のマクシミリアン一世は、ブルターニュのアンヌ女公の婚約相手として取り沙汰されていた。》の大使にして秘書である彼に、ジャン=アゴマール殿Jehan Hagomar、ラ=リヴィエールの領主である彼の邸宅にて、国璽尚書殿その他大勢の同席の元、1490年《復活祭紀元暦を使っているので、現在の暦では1491年の一月二十四日である。》の一月の第二十四日目にひらかれた宴会の物である。
かかった費用
リーヴルスードゥニエ
コルヌアイユの去勢された鶏、ヤマウズラ、ヤマシギ、鳩、その他の小さなジビエ10  
同じく、大きな肉、例えば、仔牛や去勢された羊など10 
パン、ブルターニュワイン、マスタード、酸っぱくなったワイン、食酢、皿に飾る茶色のパン、
それからよその地方のパン
10 
おなじく、串刺しにされたラード 25 
柴と木片 20 
お菓子、タルト、メティエmestiers《ゴーフルに似た焼き菓子》  
同じくワイン、88.5クウォート《1クウォートは2パイント、四分の一ガロン》、が望ましい
同じく、香辛料、イポクラス酒《ワインに香辛料と蜂蜜を混ぜた飲み物》 71
同じく、上述のこの宴会に急いで来てくれる料理人 20 
同じく、上述のこの宴会を急いで助けに来てくれ、勤勉に働いてくれる三人の人間に対する食事のため、
それからsallyになった布を白くするために
70
同じく、上述のこの宴会に用いるために借りてきた食器の代金として 20 
竈と薪の代金40
その他 10 
合計48
1リーヴル=20スー(ソル)=240ドゥニエ
よって、33リーヴル、303スー、12ドゥニエ
=33リーヴル、15リーヴルと3スー、1スー
=48リーヴル、4スー

 結局の所、会計報告は、「完全な史料source complète」なのであり、それは、構成要素(例えば賃金や給与だが)を比較することを我々に可能にしてくれ、データを批評することを可能にしてくれるものなのである。 更に幸運な場合は、連続した歴史を提供してくれる。それは信頼のできる史料源だが、もし数学的な誤りを考慮しなければだが、もちろんそれは我々が思っているほど頻繁ではないが、というのも、我々がそれを使って活用するその要素のなかに、不法行為が紛れ込むだけの充分な理由、特に金銭の記述や行動に記述に関するときにそういう理由が存在するからである。それでも、我々は方法の困難さを過小評価してはならないし、限定してはならない。その困難とは、古文書学に関するその相対的な難しさに起因しており、また、それが関係する財政的な機構に関するあらかじめ必要な知識にも起因しているし、技法の上でのその語彙の複雑性にも起因しているし、計測の単位や、様々な通貨の使用、それらは、財政史家には良く知られているし、それ以外の歴史家にも良く知られている障害なのだがそれらにも起因している。残っている史料の残滓の貢献をかなり限定している、一続きの史料が中断していることを無視することは出来ないし、時には型にはまりきった会計台帳の性格や、会計法院の前で彼等の業務を監査される時に必要不可欠な書式への尊重のために、ある役人の、何時からかは分からないが恐らく無頓着さの故に廃れてしまった嘗てのやり方(ラントやサンスの表、入金されなかった徴収の欄など)を再開する性向などについても黙っていることは出来ない。

 実際、経験的に、管理は会計の全ての活動に関係があるので、その管理の実行は、会計法院に戻ってきた。会計法院は、必然的に会計役人衆gens de comptes、中世の末期から人々は彼等の名前を挙げることが出来るのでだが、彼等が、その財産の点検に参加し、その現状の維持或いは現在の価値の維持を監視し、或いは、行政上の決断をする会計活動の最後の行程を変更する、その彼等を監査する体制に干渉する。こういった管理は、徴収の役人の聴聞の手続きに従った記録簿への口うるさい書き込みによって、会計簿の中に現われる。これらのメモは、業務や機能についても教えてくれるのだが様々な形をとって現われる。書き込みが少ない場合には、一つの単語或いは、一つの記号、例えば受け入れたことを示すアルエallouéや、単純な拒絶を示すレフュゼrefusé、さらに会計上の活動の待機をしめすdeportなどに限られるかもしれない。さらに制度が進んだ場合には、拒絶の理由が説明してある場合と、補足の要求書を持って援用している場合、つまり、正式に有効性をもった検査証付き書類vidimusに由来する正当化のための補足の書類を要求している物がある。更に情報量が多い場合は、会計報告の余白に、聴聞の手続きの詳細を明らかにし、会計士の存在が義務化されている緻密な討議を反映しているそれと対応している本当の文章によって構成されている場合がある、丁度、ギヨーム=ド=ケルプワソンGuillaume de Kerpoisson、嘗て1445年に、ナント司教管区の一部、ロワール川までの地域decza la Loireを管轄していた、フアージュの徴収人である彼の会計報告の監査の抜粋が提示しているように、 それは次のようなものなのだが、

 グランシャンGrantchampの小教区の信者達から差し引かれた15の世帯のための45リーヴルの合計金額は、上述の小教区の信者達がそれによって喜びを得るように、連絡を待つ為に留保されていたのだが、そういった理由で、免除されるよう請願があり、この監査により、そういう風になった。
ゆえに、45リーヴル。
 割当。ギヨーム=ド=ケルペッサンGuillaume de Kerpeissonが、自らのフアージュの会計報告によって、責任を負わされた世帯は、43年の一月に63スーを課され、55年の二月にはグランシャンの小教区にて十五の世帯に課されたのだが、この小教区と、カッソンCassonの小教区ここには十六世帯があり、サヴネーSavenayの小教区、ここには、76と三分の二世帯が、結局あわせて、百七と三分の二世帯になるのだが、前述のフアージュの五分の一を、上述の会計報告の中に現れた書類により減額され、その上述の五分の一は44リーヴル12スーに上るのだが、前述の場所であるグランシャンの小教区の信者達を喜ばせる為に待機し、留保されていた。49年の十一月に行われた、上述のフアージュのための監査は、上述のグランシャンの小教区の為に前述の留保分を免除することを要求し、上述のカッソンとサヴネーの小教区の信者達に、19リーヴル12スーは割り当て、結局45リーヴルになった。つまり、会計報告による誤りが発生している、つまり、上述のカッサンとサヴネーの小教区の五分の一は、つまり、92と三分の二世帯であり、世帯ごとに60スーを課すと、55リーヴル12スーになるからである。上述の二つの小教区を通過する時に、36リーヴル、そして、上述のグランシャンの小教区、そこには既に言っているように、課税された十五世帯があり、十四と三分の二世帯の五分の一の価値がない、というのも、三分の一世帯は、ギヨーム=ショッスGuillaume Chausseの邸宅の為に、上述の会計報告からは、聖堂参事会として貴族扱いをされるようになったものと、減額された世帯は、8リーヴル8スーしか、上述の場所の小教区の信者達を喜ばせる為に、停止されなかったからである。
そういった理由で、上述の事柄の為に彼に割り当てられたのは、44リーヴル8スーである。

 極めて走り書きが酷いとか、省略だらけであるとか、書かれたものを読むことの困難や語彙或いは統語法の障害だとかを、確かにそれらは複雑だが、一旦克服すれば、余白の注記は、方法に関する知識や、財政上の選択に関する知識、行政府内部の秘密の原動力や、構造や、仕組み等に関する知識の為に、そして、心性と対象の振る舞い、会計、そして、最終的な統制の責任を負わされた役人、彼の口やかましい性格は、上記の抜粋から透けて見えるが、それらについての研究の為に、この上なく貴重であると分かった。

 最後に、忘れてはならないのは、会計役人衆gens des comptes、彼等は、財務役人集団のえり抜きの集団に所属しており、しばしば、諸侯国家の上層の領域を取り巻いており、それ自体が研究の主題になりうると言うことである。彼等は、良く知られているように権力への奉仕者たちのなかに出現し、単なる会計簿の役人以上の存在であり、三部会の出席者達と同様に、中世の最後の世紀における近代国家の誕生と関連する選良たちを知る為の、豊富なプロソポグラフィー的で、計り知れない価値を持った研究の対象となっている。


結論Conclusion

 中世の財政史料の極端なまでの多様性は、現実にそれらが、文書館の寄贈文書、そこでは、大部分の史料が、アンシャン=レジームの史料を再編成している分類によっているのだが、そこに分散しているからである。先行している概観は、網羅性を狙わない、というのも、教会に起源をもつ史料や個別のだからこそ税制の文書全体の一部なのだが、会計簿、特に間接税の文書は、経済史に基礎を提供しているにもかかわらず、それらが故意に沈黙しているからなのだが。 それは本質的には、歴史家にとって、彼らの関心が、物事の技術的な側面と、行政或いは財政の管理の歴史という領域とを大きく超えているということを思い出させることが重要だ。幾つかの種類の書かれた文書は、我々に以下のことを提示することを許してくれる、つまり、活き活きとした史料、特に、雄弁なそれは、わざと、生活の具体的な現実の周囲を旋回し、現在の我々の会計簿の抽象性や難解さをはるかに超えている。実際の唯一の無念さは、その保存が、経年劣化や、歴史上の事件や、人為的な不注意や、故意の破棄などの結果によりしばしば断片的であることに原因がある。 民間の書類の登記簿の多く、革命期から第一帝政期にかけて製本されたそれらは、十四世紀から十五世紀の羊皮紙によって、バラバラの会計簿の台帳のページの表紙として使われた。しかしこの嘆きは、真性のものなのだろうか。残っているものは、非常に印象的であり、総括する試みを落胆させるのに十分であり、何世紀か後に製作された謄本が、行政機構の改革の時あるいは、文書館の移動の時に作成された表題の目録が、中世の史料の欠落を埋めてくれる。それゆえ、若手の研究者は、最初は取っ付き難い外見をしているこの仕事によってやる気をなくすという間違いを犯しており、また、幾つかの記述は見かけの上で複雑であるが、その史料が提供する活用の可能性は計り知れないものであり、それを考慮に入れると飛び越えるには小さく比較的に簡単な障害であり、つまり「中世においては、ほかの時代と同様に、財政こそがあらゆるものの基礎となり、あらゆる物を決定付け、あらゆるものに反映される」と言うことが真実であるほどに。