中世後期フランスにおける貴族階級、特権、財政

John Bell Henneman, French Historical Studies 13, 1983

 フランスの近世の歴史家達は、一般的に言って、貴族達は最も重要な国王課税とりわけタイユ等の支払いを回避していたと言うこと、そしてこの免除が、アンシャン=レジーム期における非貴族身分の者達をいらだたせるものとして存続していたということとに関しては、一般的に合意しているように思われる。しかしながら、十四世紀においては、国王課税が規則性と組織化した形態とを獲得し始めていたので、貴族達はそれらを回避しようとする彼らの努力の根拠を着々と失っている様に見えた。1340年から1380年のさまざまな文書をみると、貴族たちが直接税を十六世紀まで回避できるなどとはとても予言できなかった。明らかに、14世紀に顕著だったこの傾向は、深刻な反動を経験した、政治的発展によってしか説明されないような反動を。

 我々が貴族の免税特権について語るとき、実は我々は、三つの起源の違う歴史的伝統の交わるところに付いて語っているのだ。「貴族階級」の伝統をみると、最近ではかなり関心を集めているが、長い間無視されてきた。「特権」の伝統は特別な権利つまり「自由であること」に関連しており、その自由であるという特権は、彼等の社会に占める場所や、血統や、法的地位や生まれた場所によって人々に属していた。国王「課税」の伝統はかなり最近の起源であり十四世紀になってやっと形をとり始めたのだが、十四世紀とは、言うならば、より古い二つの伝統と衝突したときである。この衝突は、法律の問題、行政の問題、そして特に政治的な問題を産み出した。

 我々がどのように貴族身分というものを定義しようとも、十四世紀の多くの人々は、武装して軍役奉仕に就くことが貴族の主な仕事だと考えていただろう。しかし、こういった伝統的な義務として負わされた奉仕は、十四世紀の君主が要求する、特殊化した軍事的要求すべてに答えることはできなかったし、戦争費用の増大は、頻繁な国王課税へと次第に導いた。フランスの諸王達はこう考えた、もし税金を「戦争補助金」と呼んで、それらを軍役奉仕の義務に結びつけることができたなら、政治的損害が少ないまま、より大きな税収を上げることができると。それを避けるために、あるものは、軍役奉仕の義務がない(聖職者であるとか、特許状を持った都市だとかがそうしたが)と主張したり、またあるものは、つまり貴族達はよくそうしたのだが、一般的な軍事義務と交換の一般課税に貢献するより、自らの奉仕や有給の代替物によって奉仕する権利があると主張した。

 資金ではなく自らが奉仕したような人々は、「血の税」を払っていると言われた。この様なやり方で、財政的あるいは軍事的な義務を取り扱う権利は、もし認められたなら、貴族達を一つの階級として区別し、国王の、彼自身の選択により新兵を召集する権利を奪うものである。もし、この「血の税」が拒否されたならば、貴族達の特別な地位は弱められ、軍隊はより専門的なものになるだろう。十四世紀においては、貴族の特別な財政的身分と有給の専門的軍隊とはお互い両立しないもののように思われた。

 貴族達はまた、農村部の彼らの臣民達に対する領主権も保持していたが、彼らの国王課税に対する責任と言うものは争われた。領主達はしばしば、彼らの領民は免税されるべきだと要求した。とくに以下のような地域、つまり多くのものが依然として「彼らに同意の意思があるときだけ課税可能」であるとされた地域では。歴史家たちが、この初期の財政的な特権に関する闘争において、貴族達が彼らの小作人を守ろうとした努力を強調してこなかったのは、アンシャン=レジームの小作人は貴族達が免れていた実質的な税を負担していたからだ。

 それよりももっと議論の的になったのは、貴族達は果たして、その地域の共同体の税金を払う義務があったのかどうかという事である。十四世紀初頭の断続的な戦争の臨時税は、地域あるいは諸都市にたいする支払い額の総計の形をとる事が多く、それゆえ人気の無かった国王役人との交渉や、税の取り立て請負人の逸脱行為を最小化する事ができた。地方の為政者は、望む時にその地域の住人に課税する事によって、その資金を埋め合わせる事ができた。こういった税を脱税すると、同僚の市民を敵にまわし、そのうえ、地方の官憲まで敵にまわすことになった。国王の役人達は、税が都市の防備強化を意図するようになると関わりを持ち始め、そうでない時は、臨時税として国王に約束された金額を徴収し始めた。一まとまりの総額の国王への支払いの実行は、1340年以降戦争のための臨時税がより近代的な形態をとり始めた北フランスでは消え去り始めた。この事が始まる前でさえも、ラングドウィーユの貴族達は、自治体の財政への議論に巻き込まれる事は少なかったというのも、彼らの多くは、住居と財源を都市というよりは農村部に持っていたからだ。しかしながら、南フランスの貴族の間では、状況は違い、支払い額の総計に基づいて税は徴収されつづけた。

 ラングドックの多くの貴族達は、都市の資産から収入を引き出していただけではなく、都市に住み、都市の政治に参加した。あるものは戦士でもなく、武家貴族の家系でもなかったが、専門的な職業、おもに法律家や法律学者であった。軍事的でない国王への奉仕に対する貴族への授爵はフランスでは極めて稀であり、しかし、南部の貴族達がこの地域の法律あるいは司法職に就いていたという事は、後の時代の法服貴族を想像させる。ラングドックの課税は、長い間、セネシャル管区や諸都市の間で割り当てられた、その「炉」の数に基礎をおく一まとまりの合計額として存続した。その「炉」とは、もともと実際には課税可能な世帯の数だったが、1360年代以降次第に行政的に確立された「税の割り当て」になった。この制度は、富裕な財産の所有者、彼らの都市の財産は、彼らが貴族であるかどうかに関わらず、庶民(非貴族)の炉として数えられていたが、それから徴収されたので、都市の住人とその当局をかなり不安にした。次第に、田園地帯の所領は貴族の炉として数えられたが、貴族達は都市の(庶民の)財産に基づく課税を逃れようとし続けた。フランスの財政の実際の慣行を一般化しようとすると、この基本的な北と南の差異を無視する事になるが、この時期の国王の政府はこの事を完全には理解していなかったように思える。

 貴族達は、1294年から1356年の戦争の補助金の時代、つまり、次第に補助金が求められる頻度が増加して行っていても、依然としてある特定の戦費をまかなうための短期の支出だと理解されていた時期の間に、次第に国王課税の新しい現象に直面するようになっていた。王権は法的な根拠よりも実際の資金に関心を寄せていたが、その実用主義的なやり方は、1314年の大規模な叛乱を妨げはしなかった。その後は、戦費の調達は、少なからぬ量の交渉が必要とされるようになった。1318年そして1319年には、貴族達の集団が、軍役奉仕の代替あるいは、その他の国王からの特権への返礼として資金提供に応じた。1328年にフィリップ六世は、ノルマンディーの貴族達に彼等の「住民つまり臣民」からの御用金の取立てを許可したが、国王の親任官が、「上級裁判権」を持たない貴族の土地に課税しようとした時には不満の声が上がった。国王は以下のように定めた、つまり、国王の役人は自らが奉仕していない貴族の臣民には課税することができるが、戦場において国王とともにある貴族達の臣民に対しては課税できないと。1338年になると、今やフランスはイングランドとの戦争状態に突入していたが、王権は、西部の幾人かの貴族達に、彼等の臣民に課税することを許可したが、その一方で、ラングドックにおいては、有力な領主の臣民は国王の御用金から免除されていた。1339年になると、フィリップ六世は、彼の役人に対して、その年の間はシャンパーニュの貴族の領民からは税を徴収してはならないと命令した。

 これらの散在している文書が明らかにするのは、貴族達がある時は奉仕するのを避けるために税を払い、またある時は、奉仕していたおかげで支払いを免れることができたということである。もちろん、「住民」と、「臣民」が同じものを意味するかどうかは明らかではないが、これらの文書がほのめかしているのは、国王であれ、直接の領主であれ、これらの人々に課税するには、お互いの黙認が必要だったということである。国王の役人達が、上級裁判権の下にない人々からの税の徴収をしようとしていた一方で、国王は、上級裁判権の保持よりも、軍役奉仕を、領主がその領民に課税するその根拠にしようとしていた。 明らかに、貴族達は、特別な取り扱いを受けていたが、1339年にはその財政的な責任に関して確固たる決まりはなかった。

 1340年のイングランドとフランスの間の紛争の拡大は、徴税努力の強化、その中には貴族の収入のうち2%を税とするものも含まれていたが、それへと導いた。ある貴族は、もし彼が軍隊で軍事奉仕を行ったり、あるいは代役を派遣したりすれば、それを払うことを免除されると反論した。おそらくこの主張は一般的には受け入れられ、そのおかげでフィリップは1340年にとても大規模な軍隊を召集した。ラングドックにおいては、1340年に、フィリップが命令したのは、今まで税を払ったことのある貴族身分の臣民は税を払わねばならない、ということだったが、もし強力な抵抗に直面したならば、彼には交渉する用意があった。ブロワ伯との交渉に関する連続的な文書が仄めかすのは、フィリップはこの領主の臣民への課税に次第に成功していったということだ。1328年には、この伯は彼の領土に課された臨時税の全額を保持していた。1340年には、彼は国王とそれを等分した、彼の軍隊が国王課税を払わなかったという理由があるにしろ。1341年の臨時税は、食料あるいは商品の売り上げに対して課された形をとったが、伯領全体から徴収され、1342年にはその収入を国王と分けあったが、ブロワ伯の分け前は3000リーブル=トゥールノワに上限が定められ、彼が国王とともに作戦行動に従事するための特別な出費に用途が定められていた。この断片的な証拠からわかるのは、要約すると、国王の政府は1340年代までに貴族そして彼等の領民から資金を獲得する努力において長足の進歩を記録したということだ。しかしながら、我々は「血の税」の原則に対する異議申し立てを見つけることができないので、軍隊は依然として、世襲的な権利に基づいて奉仕するたくさんの戦士達を含んでいた。そのうえ、政府の収入は減り続けていた。1340年代と、1350年代は、貴族に対する課税に影響を与えたであろう深刻な政治的反動の時代だった。

 王権の政治的問題はフィリップ四世の治世の晩年に始まり、1316年と1328年の王位継承の危うさによりさらに増大した。反体制派の貴族達は、臣従義務を彼の競争相手であるイングランド王エドワード三世に移すことによって、フィリップ六世への反対を合理化することができた。フィリップの地位は1330年代に強化されたにもかかわらず、ブルターニュでの1341年以降の内戦と、北西部の有力な貴族の間の深刻な亀裂の後は、それに先立つ三十年の間の鬱積した不満へのフィリップの脆弱さを強調した。このような政治的状況の下、我々は貴族の臣民から課税を免除するたくさんの文書を見つけることができ、その中で最も気前がいいものは、ブロワ伯の臣民へのそれであり、また、ある司法上の裁定は、武装した兵は、国王の役人の招集というよりは彼等の領主の旗の下で軍役を勤めよと宣言することによって軍隊の専門化を挫折させたように思われる。

 政府はこのような反対をうまく取り扱う技術、それは特に議会の使用によってだが、それを示したにもかかわらず、イングランドの1345年から1347年にかけての勝利がフランスの反体制派をより大胆にし、ヴァロア家の君主としての自信を傷つけた。次の王であるジャン二世は、1350年のウー伯と1356年のアルクール伯を即座に処刑することによって、さらに北西部の貴族達を敵対的にし、また同時にイングランドに支援された党派はブルターニュで優位を獲得した。ヴァロア家に敵対する貴族達は常にイングランドの王を支援したわけではない。つまり、彼らはより本国に近い、エヴルー伯シャルル、同時にナヴァール王でもあり、ルイ十世の孫でもある彼を指導者にしていた。ジャン二世が敗北に向かって突進し、1356年にポワティエで捕虜になるころまでには、彼の国内の敵は、広大な海岸沿いの地域、つまり北はフランドルの前線から《フランス》西部のサントンジュにまで反時計回りに広がる地域《フランドルの市民、アルトワ伯、ノルマンディーのエヴルー伯、ブルターニュのモンフォール党、ガスコーニュを支配するイングランド軍など》の貴族を含んでいた。

 軍事的な敗北は、貴族達にも同様に政治的な衝撃を与えた。戦場における彼等の失敗は、以下の二つを弱めることになった、つまり、軍事的な献身に基づく、彼等の特権と特別な地位に関する主張とを。声高な市民の代表の増えた三部会は、次第に、よりよく組織され、資金調達された軍隊に関心を持つようになり、彼らが過去には逃避していた財政上の主導権をとるようになった。1340年代の後半には、王権と三部会は、軍隊の単位―つまり武装した兵士の給料で―で税金を数える方式を考え出し、その徴収を新しい行政組織、その中には最初のエリュも含まれるのだが、彼らに徴収を求めた。これらの税に貢献するように求められたとき、貴族とその領民は抵抗できる立場になかった。1355年から1356年の敗北のあと、三部会は、非貴族の裕福な人々よりも、貴族達に支払いを求めるようになったが、ここでもそれほど成功を収めることはできなかったようである。貴族達は、議会を欠席するようになり、最終的にはそれを役立たずとした。貴族に対する民衆の敵意は1358年に噴出し、それは二月のパリの暴徒による二人の有力な軍事指揮官の殺害と、その四ヵ月後の短いが残虐な反貴族暴動となって現れた。北西部の貴族たちの不満の増大は、国王が税を徴収するときの貴族の不満の声を無視することをより難しくして行ったが、軍事上の敗北を景気とした民衆の貴族に対する反応は、経済的な不況の時期にあって貴族たちを孤立させることになった。貴族たちが財政上の特権に基づき自分の不満を正当化させることは次第に難しくなって言ったし、後のシャルル五世が彼らと親交を深める手段をとったとき、王権による便宜を受け入れることはたやすくなっていった。 我々は再びこの貴族への課税への「接近」について考えなければならない。

 1340年から、1360年の間の年は、また、ラングドックとそれ以外のフランスとの間の課税に関する相違が大きくなっていった年としても注目される。多くの点で北部の政治的大変動にかかわりのなかったので、南フランスは、社会的そして政治的安定、さらに独自性を増しつつあった財政機構を保っていた。しかしながら、ここでは、貴族たちの課税を回避しようという能力は、政治的状況の変化に強烈な影響を与えられることになった。我々が見てきたように、一番の問題は、都市に財産を持つ貴族は、果たして、王権に約束された金額を徴収するために課された都市共同体の税を払う責任があるのかどうかということである。1337年に百年戦争が勃発したとき、カルカッソンヌの貴族たちは、彼等の封土に対して、彼らの持つ庶民としての財産にかかる都市共同体の税を払う責任があると言うことを知らせながら課税しようという王権の試みに反抗した。南部の貴族の多くは、同じように都市共同体の課税を逃れようとしていたが、1340年代から1350年代にかけて、王権は彼等の主張を原則的には容れなかった。しかしながら、この問題に関する国王の規制が繰り返されたにもかかわらず、粘り強い訴訟者たちは免除を訴え続けた。

 現存する文書の内の多くは、広大な東部のセネシャル管区のボーケール=ニームおよび、その中で最も人口の多い都市であるモンプリエ、そこは、名高い法律学校があり、訴訟に長けた都市のエリートがいるところだったのだが、そこに関するものである。恐らく、あまり確証はないのだが、この地方がラングドック全体を代表していたようだ。ジャン=ロゴジンスキーによる最新の研究では、よく保存されていたモンプリエの文書館の古文書に基づいて、かなりまれな貴族の特権の効力に関する政治的駆け引きの詳細な見取り図を提供してくれた。モンプリエのもっとも裕福な市民達から選ばれた都市執政たちは、都市共同体の課税の査定における堕落とえこひいきに関して彼ら《執政たち》を糾弾する、「民衆の」徒党(ポピュラーレス)からの激しい抵抗に直面することになった。この「民衆」とは、実際は権力から遠ざけられたと感じた裕福な市民達の集団だったのだが、1323年から1331年の間に、訴訟と暴力をうまく組み合わせて、結局、都市執政達に以後の課税は財産(つまり、そのものの庶民としての財産の価値)によって査定されるタイユ税にされるべきであることを認めさせた。ロゴジンスキーが示したのは、この取り決めの以後、都市執政達との個人的な取引で公式に課税を回避していたような人々がもはやそうはしなくなり、あるものは、自らの貴族としての地位に基づく免除の要求を法廷に持ち込むようになった。この長い議論はいくつかコメントする価値のあるものを提起してくれた。(1)都市《モンプリエ》の当局は、免除の要求に対しては精力的に抵抗した、というのもそれが課税可能な都市の「炉」の数を減らすことになるからである。(2)我々は、モンプリエをラングドックの典型だと呼ぶ前に、それと比較できるようなほかの都市の議論の情報を必要としている。しかし、(3)ラングドック中で、貴族としての地位と財政的な特権に関する訴訟は、訴訟当事者と同じ社会的背景を持つ地方の法曹関係者によって構成された法廷によって扱われたし、こういった集団が、後の世代においては貴族層を社会的な階級と定義する際において王権より重要な役割を演じたと思われる。

 地方の政治的駆け引きと、社会状況が明らかに重要だったにもかかわらず、ラングドックは、地方を越えた国全体の政治的変動とは無関係ではいられなかった。パリにある政府は、いつも南部独特の伝統を考慮に入れてくれるわけではなかったので、王権の政策は時に特別な問題を引き起こすことになった。1360年の終わりに、ジャン二世の身代金を払うために必要とされたお金を集める一連の間接税を王権は創設した。これらの税はラングドックでは問題を引き起こすことになった、というのもこの税の形態が慣習に沿っていなかっただけではなく、人気もなかったからである。主に都市の代表から構成されていた三部会は、それらの税をそれに匹敵するような税、つまり二度の黒死病の襲来で「炉」の数はもはや時代遅れになっていたにもかかわらず、伝統的なやり方で都市の間で割り当てられる税に置き換えることに成功した。国王の解放のための資金調達への貢献を嫌がっていなかったにもかかわらず、南部の貴族たちは、彼等の庶民としての「炉」への都市共同体の課税を通して貢献することをしり込みした。伝統的な封建的課税は、ラングドックではその他の場所より馴染みのあるものではなかったし、オクシタニアの徴税のやり方と絶対に両立しない性質のゆえにいつも抵抗に遭遇することになった。しかしながら、この時期においては、諸都市は従順であるのに対して、貴族達、彼らは、彼等の知行に基づく徴収には従順であるはずだが、非貴族と同じやり方で査定が行われることには反対を表明した。これらの訴えは、国王代官の政治的無能さを食い物にする試みとしてもまた理解されるだろう。


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