著名でハッキリとマルムゼだとわかる人々
名前 出身 日付 身分 その他の属性
オリヴィエ四世、
クリソンとベルヴィルの領主
ブルターニュ出身。 1336〜1407年。
フランス王に仕えたのは1370〜1392年。
旗騎士。 1380年から1392年にかけてフランス大元帥。1371年には、トゥレーヌ、アンジュー、メーヌにおける国王代理。1383年から1386年には、モンティエリの指揮官。
クラン家と極めて近しい有力家系の出身。また、ブルターニュの有力家系であるラヴァルやロアンといった家門と婚姻する。父親は1343年にフィリップ六世によって大逆罪に問われ処刑。ジッケルは、主流を占める系図的な作品に反して、彼をオリヴィエ五世と呼んでいるがその主張を実証するハッキリとした証拠は提示されていない。
ブルターニュにおいてモンフォール党に属し、1370年までフランスに敵対する。フランスの側に加わってからは、ブルターニュ公ジャン四世の宿敵となり、最終的にはブルターニュにおいて敵対する党派の後継者と、自分の娘を結婚させるにまで至る。アンジュー公ルイと緊密に提携し、それゆえ、オルレアン公ルイとも提携した。ベリー公とブールゴーニュ公の政敵。
ニコラ=デュ=ボスク、
バイユー司教。
ノルマンディ 1374年から1408年までフランスの王冠に仕える。 聖職者 1374年には、王邸のMaster of Requests。1375年には、援助金の上級顧問官。その後は会計法院総裁。
ブルジョワ出身であり、貴族に叙せられた。ブルジョワの家系に生まれ、法律を学び、高等法院に勤める。
シャルル五世の官僚であり、シャルル六世の叔父たちとは敵対していた。
ジャン=ル=メルシエ
ノヴィオン=ル=コントの領主
不明 1358年から1392年まで王に仕える。 1374年に貴族に叙せられ、1383年に騎士に叙勲される。 1360年代にはドフィネの書記官であり、財務官僚であった。1369年から戦争財務官になる。1372年には、援助金の上級顧問官。1390年までは、オルレアン公ルイの顧問官かつ侍従。
ブルジョワ出身で貴族に列せられる。そのハッキリとしない出生にもかかわらず、貴族の女性と二回も結婚する。
1373年以降、ブールゴーニュ公フィリップから年金を受け取っているにもかかわらず、彼に忠誠をささげることは拒否している。次第にオルレアン公ルイと親密になる。
ジャン、モンテギュの領主。
ランの司教代理
イル=ド=フランス 1350年ごろ〜1409年。1383年からフランスの王冠に仕える。 1383年から騎士。1404年には旗騎士に。 フランス王邸大侍従。1380年代と1390年代はフランス王の顧問官を勤める。1398年から1409年にはバスティーユ要塞の司令官。
ブルジョワ出身であり、貴族に叙された。国王の秘書官かつ、財務官僚で騎士に叙勲された男の息子。司教である兄弟が二人居り、その両方とも会計法院を主催したことがある。アミアン大司教ジャン=ド=ラ=グランジュの姪と結婚。
少しの失職期間を生き抜いた代表的なマルムゼだが、最終的にブールゴーニュ公によって処刑された。オルレアン公ルイの支払い名簿に1392年と、1400年、1401年に名前が載っている。
ビューロー、ラ=リヴィエールの領主 東部(ニヴェルネ) 1358年から1392年にかけて仕える。
1400年に死亡。
騎士。1372年に旗騎士。 1358年からドフィネの侍従。シャルル五世とシャルル六世の筆頭侍従長を務める。国王顧問官。1367年にはモンジョワの司令官。1376年にはヴァンセンヌの城の司令官。1370年代と1380年代には、どんな主要な戦役においても、大規模な分遣隊を指揮する。
中流から下層の貴族出身。1366年に死んだジャン=ド=ラ=リヴィエール、彼もまたドフィネの領主であったシャルル五世の侍従だったのだがその兄弟。ジャン=ダンジェラント、シャルトル司教であり、後にボーヴェー司教になった彼、彼はジャン二世とシャルル五世の顧問会議における重要人物だったのだが、その人物の甥。
1373年以降、ブールゴーニュ公フィリップから年金を受け取っていたが、彼に忠誠をささげることは拒否し、彼の敵になった。親ブールゴーニュ勢力の有力貴族であるリュクサンブール家(神聖ローマ皇帝のルクセンブルク家の分家であるサン=ポル伯の家系)のヴァレランの政敵でもあった。クリソンと緊密な関係にあった。
ヴィレイヌの「吃音」と呼ばれた、ピエール、
リバデオ伯、マリコルヌの領主。
恐らくイル=ド=フランス 1360年から1407年にかけて勤務。 騎士 1389年から1407年のラ=ロシェルの国王総督。シャルル五世がドフィネの領主《一般にドファンはフランス王太子をさす。》であるときから侍従。国王顧問官。1380年代には、主要な戦役には参加。1388年から1392年には侍従かつ、政府の主要な構成員。
中流から下層の貴族出身。
1392年には、きわめて短い期間だが失職。政治的に耐久性のある人物であった。

マルムゼだとは確認されたが、その党派については良くわかっていないものたち
名前 出身 日付 身分 その他の属性
ピエール=エスラン、
ラン枢機卿
中部フランス
(おそらくブールジュの周辺)
1360年代から仕え始め1388年まで 聖職者 1363年から1370年までヌヴェール司教。1370年から1388年までラン司教。枢機卿。1364年には、総財務官、そしてもっとも活発な王の顧問官。シャルル六世の顧問官でもあった。
有力家系の出身。十三世紀後半から、フランス国王に仕える法曹にして高位聖職者を排出し続けた家系の有力な家門の相続人。
明らかに、クリソンと事前に取り決めをして、1388年の秋の国王の顧問会議に、国王が彼の叔父たちの助けなしに政務を見ることを提案した。それゆえマルムゼ体制は権力を握ることになった。邪推したくなるほどの突然さで、そのすぐ後に亡くなった。
ジャン=ド=モケンシー
「羊」と呼ばれた、ブランヴィルの領主。
ノルマンディー 1322年ごろ〜1391年。王冠には1348年から1391年まで仕える。 旗騎士 1365年には、ポン=ラルシュの司令官。1364年から1382年には、ルアンの城砦の司令官。1364年、1369年から1370年にかけてには、ノルマンディーにおける国王の代理人。1365年にはヴェルノンの司令官。1368年から1391年までフランス元帥。
有力家系の出身。ノルマンディーの貴族達と深く結びついており、その祖先は、十二世紀にまでさかのぼることができる。彼の娘は、トルシーの領主コラール=デストゥートゥビルと結婚している。
シャルル五世の配下の有力な将軍の一人。1370年代にはその軍事指揮能力で王と深く結びついていた。
ギヨーム=デ=ボルド イル=ド=フランス 1361年から1396年にかけて勤務。ニコポリスで死ぬ。 1361年には従士。
1364年に騎士叙任。1388年に旗騎士に叙任される。
シャルル五世に、彼がドフィネの領主であったときから仕える。1364年には王の侍従。1389年には、国王の顧問会議に席を得る。1373年には、サン=カンタンの司令官。1377年には、モントローの司令官。1379年には、コタンタン半島における総司令官。1383年に、フランス大王旗保持役。
中流から下層の貴族の出身。息子は、ギヨーム=ド=シャトラン=ド=ボーヴェー、この時期の国王の将軍の中の一人である彼の娘と結婚。
シャルル五世の将軍達と長い間付き合いが会った。特にクリソンと。
ジャン、
ブエイルの領主
西部フランス(トゥレーヌ) 父親ジャン三世は1367年から1391年に
息子ジャン四世は、1383年から1415年にかけて勤務。
ジャン三世は1386年以降旗騎士。
ジャン四世は騎士である。
ジャン三世はランやロッシュそしてシノンの城砦の司令官であった。1374年から1376年にかけてはボケールのセネシャル、1377年から1383年にかけてはトゥールーズのセネシャル。ジャン四世は、フランス弩兵総監。
中流から下層の貴族出身。ジャン五世は恐らく、十五世紀においてだが、フランス大提督。
ジャン四世は、明らかにオルレアン派だが、恐らくマルムゼに違いない。1397年には、オルレアン公の支払い名簿に名前が見られる。

この種の名前はさまざまな問題を提起する、というのも多くの連続するブエイルの領主達が同じ名前を持つからである。フロワッサールは、王の叔父達が1392年に追い出したいと願っていたマルムゼの中にジャン=ド=ブエイルの名前を挙げている。しかし、ジャン三世はその精力的な軍歴の後1391年に死んでおり、確かに彼は、マルムゼの一人だったにちがいない。ジャン四世は1397年にはオルレアン党であり、恐らくフロワッサールの頭の中にあったのはこちらである。ここには両方についての情報が提供されているが、どちらのジャンもマルムゼとしての奉仕期間はお互いの計算に入れられていない。
フェリ=カシネル
オセール司教。
イル=ド=フランス 1390年に死んだ。 聖職者 国王の書記で秘書官。ルアンの大助祭。1382年から1390年までオセールの司教。1390年にはランス大司教。
ブルジョワ出身で、貴族に叙される。イタリアの金融業者の孫。兄弟のギヨームは、政府の中にたくさんの役職を保持し、良縁に恵まれた。
1390年には、ジャネット=デストゥートゥビルや、ピエール=ド=シュヴルーズとともに、ラングドックにおける国王巡察使を勤める。
ピエール、
シュヴルーズの領主。
西部フランス(トゥレーヌ) 1361年から1393年にかけて王冠に仕える。
1393年に死亡。
1360年代後半までには騎士になっている。 1361年には国王の財務官。1362年には援助金の上級財務官。1363年から1368年にかけては、アンジュー、メーヌ、トゥレーヌにおける援助金の特任官。1369年からは国王の顧問官。1372年には、援助金の上級顧問官。1390年には、ギエンヌの総督。1390年から1391年にかけては、ラングドックの総督。フランス王邸侍従長。
ブルジョワ出身であり貴族に叙された。父親は、トゥールのブルジョワであり、シュヴルーズと呼ばれたが、国王の造幣所に勤めていた。ピエールは、ドフィネの領主《王太子》に雇われると、貴族になり、1365年にシュヴルーズの領主権を買いとった。同じ名前を持っていたことで貴族への同化は容易に進み、ピエール=ド=トゥルソー、フィリップ六世の役人の一人で、同じ名前のその息子はシャルル五世配下の有力将軍であったのだが、その娘と結婚した。
長い間、シャルル五世の取り巻きを構成し、そのほかの有名なマルムゼたちと緊密な関係を築いていた。彼と、フェリ=カシネル、に加えて、ジャネット=デストゥートゥヴィルは、ラングドックにおけるベリー公の堕落した統治のマルムゼによる大掃除をやった。
アルノー=ド=コルビー
ジェニーの領主
イル=ド=フランス 1369年から1413年にかけて勤務 騎士 高等法院の第一部長判事。1388年以降フランス大法官。
中流から下層貴族の出身。
1364年から1369年にかけてはブールゴーニュ公フィリップの側近。しかし、それ以後はシャルル五世の政府と提携し、マルムゼ達によって、大法官として据えられる。
ギヨーム=デストゥートゥヴィル
リジウー司教
ノルマンディー 1375年から1414年まで司教として仕える 聖職者 1375年から1376年にかけてエヴルー司教。1377年から1382年にかけてオセール司教。1382年から1414年まではリジウー司教。
有力家系の出身。エストゥートゥヴィル家のコラールやジャネットの従兄弟。
シャルル五世の政府にもっとも深くかかわった、有力家系における最も著名な聖職者。
ジャン=デストゥートゥヴィル
「ジャネット」と呼ばれたヴィルボンの領主。
ノルマンディー 1373年から仕え始める。1412年にはまだ生きていた。 従者 1374年から、1406年まで、ヴェルノンVernonの指揮官。1389年から1390年には、ペズナPézenasの城代。1408年には、サン=ローSaint-Lôの司令官。国王の顧問官(すくなくとも1389年から1394年までは)。
有力家系の出身。この人物の地理的な詳細については、更なる調査をしなければ徹底的に調査し尽くされたとはいえないが、ルウLehouxとファミリエッティFamigliettiによれば、ジャネットという名前のエストゥートゥヴィル家の人間は、実は二人居り、どうやら二人は兄弟であり、ほぼ同時期に国王に仕えていた。系譜学的な史料によれば、このような印象は与えてくれないのだが、エストゥートゥビル家門のヴィルボンVillebonの家系の創始者は、九人の子供の末っ子であり、その兄弟のうち年上のものには、トルシーTorcyの領主コラールColartやボーヴェーBeauvais司教のトマThomasなどを含んでいた。従兄弟には、リジウーLisieux司教や、エストゥートゥビルの領主とオレボOrebosの領主とを含んでいたが、その両者とも将軍として著名である。
アンゲラン=ドゥダン、シャトーヴィランの領主 不明 1367年から1391年まで仕える 騎士 1369年から1370年までコロトワの指揮官。1373年も。1370年にはトゥレーヌの総督。1389年にはドフィネの総督。1385年には、ボケールのセネシャル。
中流から下層の貴族の出身。
ジャン=ド=ガランシエール、クロワジーの領主 ノルマンディ 1379年から1415年にかけて仕える 騎士 十五世紀初期のカーンの指揮官。1389年にはオルレアン公ルイの侍従。国王の顧問官。
中流から下層の貴族出身。長い間国王の任命するカーンの司令官であったガランシエールの領主であるヨンYonの弟。彼らの父親もまたヨンという名前で、もともとはナヴァール王であるシャルル《二世》悪人王《ナヴァール王はノルマンディーにエヴルー伯として領地を持っていた》の支持者であった、というのも、その領地がエヴルーに近かったからである。彼は後にエヴルー家と関係を絶ち、ジャン二世の政府で重きを成した。
1389年と1404年のオルレアン公ルイの支払い名簿に名前が載っている。マルムゼの絶頂期から、アジャンクールの戦いまで有力なオルレアン党だった。
ジャン=ド=ラ=グランジュ、アミアン枢機卿 東部フランス(フォレ) 1369年から1380年にかけてフランスの王冠に仕える。1402年に死亡。 聖職者 1369年には国王の顧問官。13671年には援助金の総財務官。1373年からアミアンの司教。1378年には枢機卿。
ブルジョワの出身であり貴族に列せられた。1320年代後半にフォレの書記官の息子として生まれる。彼の兄弟のエチエンヌは、ピエール=ドルジュモンを受けついで、高等法院の部長判事になる。
彼もまた、1357年から1364年にかけては、国王に反抗的なナヴァール王シャルルの非常に初期からの支援者であり、エヴルー家の後援の下、フェカンFécampの大修道院長になる。1364年に、シャルル悪人王を支援することを断り、シャルルは彼を投獄した。彼が脱出し国王の宮廷に逃げ込んだことは、ノルマンディーに在ったナヴァール側の要塞への国王の攻撃の開始につながった。国王の財政に非常に深くかかわるようになり、ジャン=ル=メルシエやその他のシャルル五世の役人達と協力した。恐らく、国王の叔父達の復権を恐れて、1380年に政府を去り、教皇の宮廷で暮らすようになった。
ギヨーム=マルテル、バックヴィルの領主 ノルマンディー 1374年から仕える 騎士 1377年から1405年まで国王の侍従。1402年から1405年までシャトー=ガイヤールの要塞司令官。1402年から1405年までフランス王旗保持役。1405年から1407年まで国王の顧問官。
有力家系の出身。ノルマンディーの有力家系の出身で、彼の系譜を作ることは非常に難しい、というのも多くの彼の従兄弟が彼と全く同じ名前を持っているからである。マオ《マルグリットの愛称》=デストゥートゥヴィルと結婚し、彼らの息子のジャンは、やはり国王に仕えた。この家門の多くはアジャンクールの戦いで潰えた。
常にオルレアン党であったが、政治的に生き延びた。
ギヨーム四世、ムーラン副伯、タンカーヴィル伯 ノルマンディー(タンカーヴィル伯領) 1369年から1416年にかけて仕える 騎士 1378年にブレトゥイーユの指揮官、1380年にはコンシュ、サン=カンタン、の指揮官、1404年にはシェルブールの指揮官。1382年以降は、相続によりノルマンディー大元帥。1378年には国王の侍従。1402年には、フランス大献酌役。
有力家系の出身。ムーラン副伯としては、その家系は十世紀にまでさかのぼることができる。ギヨームの父親のジャン(1318〜1382)は、彼の母親からタンカーヴィル伯領を受け継いでいたのだが、長い間、国王の将軍であった。ギヨームは、彼をノルマンディー出身に分類することを許すほどの結びつきを築いた。彼の娘は、アルクール家に嫁いだ。彼の叔父たち、ギヨーム(1345年〜1376年。サンスの大司教)とアダム(ジャン二世の筆頭侍従)とは、1350年代から1360年代の間は、政府においてきわめて強力な人物であった。
マルムゼの絶頂期には、精力的に活動していたが、有力者なので報復を恐れなくてもよかった。その後も政府にとどまり続け、次第にオルレアン党と結びつくようになった。
フィリップ=ド=ムーラン、ノワイヨン司教 不明 1383年ごろから1409年まで仕える 聖職者 パリの司教座聖堂参事会員であり、聖歌唱者であった。1383年から1388年にかけてエヴルー司教、1388年から1409年にかけてノワイヨン司教。パリの高等法院の参事官。1389年には国王の顧問会議の構成員。1390年から1391年にかけては、ラングドックや、教皇庁に対するきわめて重要な使命を請け負った。
不明。
コルビーやエスランと一緒に、1383年に、小玉璽の保管役になる。オルレアン公ルイと非常に緊密な関係にあった。
ジャン=ド=ルッセ 不明 1388年から仕え始め1411年以後も仕えた 騎士 1388年まで、オルレアン公ルイの侍従。1409年から1411年にかけて王妃の邸宅における家令長。1411年にはムーランの指揮官。
中流から下層の貴族出身。
長い間オルレアン公ルイと協力していた。1389年から1391年にかけて精力的に国王に仕える。
ジャン=ド=ヴィエンヌ、ルランの領主 東部 1341年ごろ〜1396年。1362年から1394年にかけて仕える 1361年に騎士に叙勲される。それより早くはないとしても1383年までに旗騎士になる 1373年から1396年フランス大提督。1374年から1381年にかけて下ノルマンディーにおける国王代理。1372年には、バール=シュール=セーヌの1373年と1374年にはオンフルールの司令官。
有力家系の出身。ブールゴーニュ《フランシュ=コンテ、ブルグント自由伯領》出身の抜群に有名な家系の傍系。1396年にニコポリスで死亡。
ブールゴーニュ公は決して彼を敵だと考えていなかったし、公の息子は彼を彼が死ぬことになる《公の息子も捕虜になる》ハンガリーへの《オスマントルコに対するニコポリス十字軍。》十字軍に誘ったほどだったが、シャルル五世の政府における重要人物であり、クリソンのきわめて親しい友人であった。近代の歴史家によって彼はマルムゼだと考えられていた。

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