恐らくマルムゼだと思われる人々、というのも一般的にオルレアン公との友好関係から
名前 出身 日付 身分 その他の属性
ルノー=ダンジェンヌ、ランブイエの領主 イル=ド=フランス 1380年から1416年にかけて仕える。 1399年に騎士に叙勲される。 従士だったので、1380年代は、国王の「切れ者の執事Valet trenchant」であった。1397年から1416年にかけてルーヴルの司令官。1405年まで国王の侍従。1406年と1407年には、国王の顧問会議の構成員であった。1413年までは、ドファン《ドフィネの領主。シャルル五世以降、王位継承者に与えられる。》のギエンヌ公ルイ《シャルル六世の王子。夭折。》の侍従であった。
中流から下層の貴族出身。
1390年のオルレアン公ルイの支払い名簿に名前が載っており、1406年から1407年の顧問会議では、オルレアン党員であると考えられていた。
ジャン=ド=ビリー 不明 1378年から1380年にかけて、1389年から1391年にかけて仕える。 不明 オルレアン公ルイの、「筆頭執事」
中流から下層の貴族出身。ゴティエ=ド=ビリーと縁続きで、ゴシェ=ド=パサックの下で、1383年から1388年まで活躍した将軍。
マルムゼが権力を握っているときには、オルレアン公ルイに仕えていた。
ジャン=ド=サケンヴィル、「サケ Saquet《ノルマンディーの方言で『小さな袋』》」とよばれたブラリュの領主 ノルマンディ 1377年から1405年にかけて仕える 騎士 1378年にはパシーの司令官、1383年、1386年、1387年の戦役に参加。1406年には国王の顧問会議に出席。
中流から下層の貴族出身。1360年代の重要な国王軍の将軍であった、ブラリュの領主であるギヨーム=ド=サケンヴィルの息子。
1397年と1405年のオルレアン公ルイの支払い名簿に名前がある。この家門は1350年代には、ナヴァール王シャルル《エヴルー伯としてノルマンディーに領地を持つ。》を支援していた。
ロベール、ボワッセの領主 ノルマンディー 1368年から1408年にかけて仕える。 騎士 1399年から国王と、そしてドファンの従者。1401年から1407年にかけて国王の顧問会議の構成員。1404年から1411年にかけてディエップの司令官。
中流から下層の貴族出身。
1405年のオルレアン公ルイの支払い名簿に名前がある。
ギヨーム=ル=ブテイエ、サン=シャルトリエの領主 中部フランス(ブールジュの近辺) 1369年から1416年にかけて仕える。1420年に死亡。 1369年から1381年まで従者、1385年に騎士に叙勲される。 1385年から1387年にかけてアングレームのセネシャル。1389年にはヴァンタドゥールの司令官。1397年には、リムーザンの国王総督。1390年から1395年にかけて、1398年から1416年にかけては、リムーザンのセネシャル。1397年から1402年、そして1410年から1411年にかけてはムーランの司令官。
有力家系の出身。父親は、エルムノンヴィルの領主ギ二世の末の息子であり、サンリスのあたりでの彼の家系は、十二世代は遡る事ができる。このベリー地方の傍系の家門は十七世紀まで存続した。
オルレアン公ルイと長い間協力関係にあり、1403年と1405年のオルレアン公の支払い名簿に名前がある。
ジャン=ブラク イル=ド=フランス 1368年から1407年にかけて仕える。 1370年には従士だったが、1373年には騎士であった。 1370年代は、アンジュー公ルイの下でラングドックで仕える。1376年には、ノルマンディーの河川森林監督局の長官を勤める。1396年以降は、オルレアン公ルイの家政を取り仕切った。
ブルジョワの出身であったが貴族に列せられた。パリの市民出身で、国王に財務官僚として仕えることによって身分上昇し三世代目にして貴族となった家系。
アンジュー公からオルレアン公に引き続いて協力した。
ギヨーム、「ブラケBraquet《短い剣》」とよばれた、
ブラクモンの領主。
ノルマンディー 1378年から1415年にかけて仕える。 騎士 1389年には国王の侍従。1403年にはオルレアン公の元帥。
中流から下層の貴族出身。アルクール家やその他のノルマンディーの家門と血縁関係を結ぶ。弟は、フランス大提督《Amiral de Franceロベール=ド=ブラクモンのこと?》になった。
1360年代初頭は、フランス王に敵対して、ナヴァール王シャルルと連携していた。1390年からオルレアン公の支払い名簿に名前が載り、1404年から1405年にかけてはルイによってルクセンブルクに派遣され滞在していた。
ジャン=ド=シャントメルル、「トパンTaupin《コメツキムシ》」と呼ばれた。 東部フランス(トロワの近辺) 1370年から1400年にかけて仕える。 騎士 1372年から1400年にかけてジゾールの司令官。1381年には王邸総差配役。1386年には国王の侍従。
中流から下層の貴族出身。彼の息子のチボーは、1400年に、その時彼は既に騎士で国王の侍従になっていたのだが、彼のジゾールの司令官職を受け継いだ。もう一人の息子、「小トパン」は、1405年にオルレアン公ルイの支払い名簿に名前が見える。
二人の国王の下で、宿将として働くが、ノルベールによると彼は反ブルゴーニュ党員であったと考えられている。
チボー=ド=シャントメルル、コンシの領主 東部フランス(トロワの近辺) 1390年から1415年にかけて仕える。 1400年までには騎士になっていた。 1400年以降ジゾールの司令官職。
中流から下層の貴族出身。トパン=ド=シャントメルルの息子で、小トパンの兄弟。
王邸の従士でしかないころからオルレアン公ルイの支払い名簿に名前が現れている。
エルヴェ=ル=コワシュ、ラ=グランジュの領主 イル=ド=フランス(サンリスの近辺) 1364年から仕え始める。1400年過ぎまで生きた。 1364年に騎士。1388年に旗騎士。 1375年から1382年までサントンジュのセネシャル。1389年にはシノンの司令官。国王の侍従。
中流から下層の貴族出身
1393年にオルレアン公ルイの支払い名簿に名前がある。
フララン=ド=コンブレ、
ブサンティエの領主
北部フランス(アミアン近辺) 1378年から1404年にかけて仕える 1378年や1381年には従士であった。1383年からは騎士である。 1403年には国王とオルレアン公ルイの侍従であった。
中流から下層の貴族出身。
1403年から1404年のオルレアン公の支払い名簿に名前がある。
ピエール=ド=クラン、
フェルテ=ベルナールの領主
西部フランス(メーヌのセネシャル管区) 1379年から1392年にかけて仕える。恐らく1409年ごろ死亡。 騎士 1388年から1391年にかけて、国王とオルレアン公ルイとの侍従。
有力家系の出身。シャトーダン副伯ギヨーム一世の末の息子。オリビエ=ド=クリソンとは又従兄弟(親が従兄弟同士)。アンジュー、メーヌそしてブルターニュの軍人貴族達と広く血縁関係がある。
マルムゼが権力を握っていたときにはきわめて活発に活動していた。1391年に寵愛を失うまでは、オルレアン公ルイの非常に親密な近習であった。1392年にクリソンを暗殺しようと試みたが、失敗してブルターニュに逃げ込んだ。
コラール=デストゥートゥビル、トルシーの領主 ノルマンディー 1364年から1415年にかけて仕える。 1364年に騎士、1386年には旗騎士。 国王の侍従であり、国王の顧問会議の構成員であった。1373年から1388年にかけての主要な戦役にはほとんど参加した。1378年から1409年にかけては、アルクの司令官、1406年から1415年にかけては、シェルブールの司令官。1389年から1403年にはトゥールーズのセネシャル。
有力家系の出身。このノルマンディーの古い尊敬を集める家門のトルシーの分家の棟梁。ジャネット=デストゥートゥヴィルや、ボーヴェー司教トマの兄弟。リジウー司教ギヨームは従兄弟であり、その他多くの主要な将軍の親戚である。母親は、ピカルディーのフィエンヌ家の出身。妻は、ブランヴィルのムトン《羊》の娘である。
1389年の「マルムゼの大掃除」の時に、トゥールーズのセネシャルに据えられる。1406年までにはオルレアン党員だと考えられるようになった。
シャルル、イヴリーとブルドポールの領主 ノルマンディー 1370年から1415年にかけて仕える。 1370年には従士。1378年までには騎士になっていた。 1378年にはイヴリーの城の司令官。1406年には、国王の顧問会議の構成員であった。
中流から下層の貴族出身。サケンヴィル・ブラリュの一族と縁戚関係にあり、国王によって彼の従兄弟だと表現された。
1403年のオルレアン公ルイの支払い名簿に名前が載っている。
エルヴェ=ド=モーニー、トリニーの領主。 ブルータニュ(下ノルマンディーにも領地を持つ) 1371年から仕え始め、1411年に死亡。 旗騎士 1383年には、下ノルマンディーにおける国王代理、1403年と1405年にはオルレアン公ルイの侍従。
有力家系の出身。オリヴィエ=ド=モーニーの弟であり、その他にも王への軍事奉仕において卓越した家系のメンバー二人とも縁戚関係があった。マリー=ド=クラン、ピエール=ド=クランの姉妹と結婚し、それゆえクリソンやブルターニュの貴族たちとも縁戚関係にあった。
クリソンと非常に親密であったが、クリソンが失墜しても王への奉仕は続けた。1400年以降、オルレアン公ルイの支払い名簿に名前がある。
ジャン、モンカヴラルの領主 不明 1378年から1394年にかけて仕える。 騎士 1389年に王の侍従。1394年には、オルレアン公の侍従。1385年のスコットランドへの遠征にも参加。
中流から下層の貴族出身。
1389年と1394年のオルレアン公の支払い名簿に名前がある。
アモリ=ドルジュモン 東部フランス(サンス近辺) 1381年から1396年にかけて勤務。1400年に死亡。 聖職者 会計法院の書記官。1382年にMaster of Requests。1384年にはブールゴーニュ公の侍従。オルレアン公ルイの尚書局長。
ブルジョワの出身であり、貴族に列せられた。
国王に仕えた法曹として有名な家系の出身。
その初期のブールゴーニュとの関係にもかかわらず、マルムゼが権力を握っていた時の政府で活発に活動。リヴィエールやガレンシエールや、クランといったマルムゼの中心人物と一緒に重要な使命をこなす。
ジャン=ド=ラ=ペルソンヌ、アシーの副伯 北部フランス? 1362年から1399年にかけて奉仕。 騎士 1372年から1373年にかけては、プワトゥーのセネシャル。1383年から1395年にかけては、サン=タントワーヌ要塞の司令官。1387年から1389年にかけては、ロシュフォール=シュール=シャラントの司令官。1393年から1397年にかけて曽和ジーの司令官。1384年には王の侍従。マルムゼが支配していた時期を通して王の顧問官であり続けた。
中流から下層の貴族出身。幾つかの史料は、彼を、アシーの副伯ではなく、オネーの副伯と同定しているものも在るが、それぞれの称号の下の受け取りで全く同じ紋章が封緘されていることから、我々はそれを分割できないものとして扱わねばならない。婚姻によってアルクールやクーシーや、ネールの家門と結びついていたようだ。
最も活動していた時期は、1383年から1393年。マルムゼにおける彼の役割は疑問の余地がある、というのも、リヴィエールやル=メルシエは、1392年には王の叔父達によって、彼の監督下におかれたからである。しかしながら、それに先立つ年間において彼は彼らと協力して精力的に活動していたことは否定できず、1393年以降は、きわめて限定された政府の役職にしか就かなかった。
ルイ=ド=サンセール 中部フランス(ベリー) 1342年ごろ〜1402年。1358年から奉仕を始める。 旗騎士 クレイユ、シャトーヌフ、そしてコニャックの城の司令官。アンジュー、プワトゥー、リムーザンにおける国王総督。1368年から1397年までフランス元帥。1397年から1402年まで、フランス王軍最高司令官(フランス大元帥)。
有力家系の出身。サンセール伯ジャン三世の弟。
彼の義兄弟であるギシャール=ドファンは、忠実なブールゴーニュ党であり、彼自身も、王の叔父達が権力を握った時でも国王大官として留まっていたにもかかわらず、彼はマルムゼの政府と協力し、シャルル五世時代の有力な将軍と親密であった。
ギヨーム、ティニョンヴィルの領主 不明 1386年から1408年まで仕える。 騎士 1389年から1407年にかけては、シャルトルのバイイ。1401年から1408年にかけては、パリのプレヴォ。1398年までは侍従。1401年には王の顧問会議の構成員。1407年にはモントレリーの司令官。
中流から下層の貴族出身。
1402年から1403年にかけてのオルレアン公ルイの支払い名簿に名前が載っている。

マルムゼであった可能性のあるもの(家族的あるいは政治的な紐帯により)
  • エストゥートゥヴィルの領主ロベール
  • ボーヴェー司教トマ=デストゥートゥヴィル
  • モー司教ピエール=フレネル
  • マコンのバイイ、ジャン=ド=フォンテーヌ
  • ガレンシエールの領主ヨン
  • アラン=ド=モーニー
  • プワティエ司教、つづいてパリ司教になったジェロー=ド=モンテギュ
  • 小ピエール=ド=モルネー
  • プワティエの私生児、ギヨーム
  • ロベール=テッソン
    そのほか、クリソンと親密なブルターニュの貴族達の集団や、1400年前後にノルベールによってオルレアン党員だと区別された人々が加わる可能性がある。