百年戦争における海上の争い
Histoire Militaire de la France, Chapitre VII, par Michel Mollat du Jourdin

百年戦争における海上の争い

Les enjeux maritimes de la guerre de Cent ans

 フランス人の記憶は、クレシー、ポワティエそしてアザンクール、時にはフォルミニュイやカスティヨンの名前を記憶に留めている。カレーの市民の平凡なイメージが、この都市が港であるということを忘れさせる。レクリューズ(スロイス)の海戦について言うことは、騎士達の愚かさを強調する。彼らは、まるで平原の真ん中であるかのように、まとめて繋がれた船の甲板の上で接近戦を行ったのだ。ジャン=ドゥ=ヴィエンヌ(シャルル五世に仕えた提督)を人々は記憶する。その皮肉のもっとも極端な例として。このフランシュ=コンテ出身の提督は内陸部の生まれである。ブルターニュ人は海賊としての役割をさせられた。イングランドに関して言えば、ノルマンディーの海岸に、まるで空飛ぶ絨毯に乗ったかのように、彼らのメール=ブリタニクム(ブリタニア海)の上で抵抗に遭遇することなしにそこに出現した。そういうわけで、アメリカの提督マーハンの証言、つまり「イングランド人の目からは、海は彼らの敵の海岸を彼らの国の前線として提供している」、という証言を証明してしまったかの様だ。歴史学は、主として博識なイギリス人の学者のおかげで、もう少し客観的で冷静だ。

 それでも、幾つかの疑問が問題となる。どの様にして、戦争の始めから、フィリップ六世はスコットランドに艦隊を送ることが出来たのか、また1340年にレクリューズで破壊されたラ=グランド=アルメ=ドゥ=ラ=メール(大艦隊?)を集めることが出来たのか。10000人のイングランド人が、およそ700隻の船に乗り、戦わずして彼らのクレシーの勝利に駆けつけたのはどの様に説明されるのか。イングランドの海岸部の州がほぼいつも警戒している状態はどのように説明されるのか。どのようにして、シャルル五世は1372年に、ラ=ロシェルの手前で、イングランドからボルドーに向かう艦隊を打ち破ることが出来たのか。どのような手段で、ジャン=ドゥ=ヴィエンヌは1377年にイングランドの海岸をしつこく悩ませたのか、そしてどのような手段でシャルル六世は1386年から1387年の、ナポレオンを先取りしたブーローニュ(パ=ドゥ=カレー県、)での作戦行動で、イングランドを侵略するための海上と陸上の大軍をグラヴリン(ダンケルクの要塞、ノルド県)の周りに集めたのか。それとは逆に、ヘンリー五世が1415年にアルフルーに上陸した時のフランス海軍の無能力はどの様に説明されるのだろう。その仕返しに、どの様にしてフランスは、1451年のシャルル七世のもとでジロンド(ガロンヌ川の河口・ボルドーの近く)でイングランド支配下のボルドーを維持するための増援を邪魔したのだろう、そしてどの様に1457年のサウザンプトンに対する急襲を行ったのだろう。

 疑問と同じ位問題なのは、この戦争の「海上での争い」のに関わった、海軍の雇われ人の能力はどのくらいだったのか、艦隊に割り当てられた使命とは何だったのかという事であるである。

最初の失望:レクリューズとカレーDéceptions Initiales : L'Ecluse, Calais

 1336年から、イングランドのスパイはエドワード三世に以下の事を知らせた、つまりフランス王のアヴィニョン(当時教皇庁が在った)への出現は囮であると。彼の十字軍の計画は敵対的な計画と入れ替わっている。つまりスコットランド王への援助であり、ポーツマスへの海軍による牽制である。この計画は続かなかったが、この断絶は1337年の万聖節において深くなり、フィリップ六世をより積極的にした。フロワッサール(この時代の年代記作者)によれば、「…彼の王国に海上であるのにまるで地面であるかのように与えた」あるいは「…彼の王国の国境を海上から地上に変えるかのように再び一つに蘇らせた。」その準備は加速した。まずフィリップ六世は、幾つかの秘密の任務を彼の顧問官の一人であるニコラ=ベユシェに言いつけた。艦隊の集結とその武器供給に関してはクロ=デ=ガレ(ルーアンにあるフランス最大の武器工廠)の責任者であるトマ=フケと彼の同僚の中のギルバート=ポラン、彼はルーアンの市民であるが、彼が特に専門家であるので、彼に責任を負わせた。実際には命じられた人々は水兵や海戦技術の専門家というよりは、行政官であった。ジャン=ファヴィエ(百年戦争研究の大家)はベユシュを評価して、「全てに関わりを持つ天才的な人物だった」、と言っている。彼は会計の責任者も務めていた。1336年に任命された提督ユー=キエレに関して言えば、彼のボーケール(ニームの辺り、ガール県)のセネシャルとしての役割は海上における彼の指揮権を彼に準備していたわけではなかった。

大艦隊 La 《grande armée de la mer》

 少なくとも、こう言った人々は、まとめ役としては有能であった。特にラ=ロシェルやノルマンディーやピカルディーの港の交通にかかる税金を取るときには、何らかの補助が必要だった。ノルマンディーの海岸を防衛するための税金は、船の建造と修理の為、それに付け加えて海軍の給料として払われた。クロ=デ=ガレは1337年から1344年の間に115000以上のトゥール系リーブルを受け取った、その内の三分の一はパリで受け取られ、三分の二はノルマンディーのバイイ管区で受け取られた。出費は必然的に、船の建造、用船料と乗組員の給料に関連している。シャルル=ドゥ=ラ=ロンシエールとアンヌ=メルランシャゼルの研究は、1340年の「大艦隊」を港毎、船毎に、トン数、所有者、指揮官そして乗組員の情報つきで描写している。年代記を使って「200隻の大艦隊」について語れば正確だろう。ノルマンディーはその四分の三を供給した。クロ=デ=ガレの別館で、ルアーでは42隻その内の一ダースは(三隻のガレーと一隻の平底舟を含む)王に属していた。ディープでは21隻の大型船が続いた。その内の六隻の平底舟は王の物であったが。クロ=デ=ガレは後方兵站の必要不可欠な基礎の役割を果たしていた。低地ノルマンディーでは、アーグやバルフルーそしてシェルブールがあわせて21隻を供給した。ピカルディーとブーローニュからは七つの港から37隻の船を供給したが、その内の11隻の平底舟はアベビーユ(ソンム県の要塞)の王所有の船であった。付け加えねばならないのは、偶然にも、予想外の過程で、サントンジュにおいて、サン=サヴィニアン(シャラント=マリティムの要塞)の二隻の船が付け加わったことだ。トン数に関して言うと、100トンから150トンの大型船が最も多く80隻であり、150から200トンの大型船の42隻という数字と比べても約2倍、もっとも小さい船である80から100トンの21隻に比べても四倍の多さを誇っている。もっとも大きい200から240トンの数は21隻だった。やって来た地域を見ると、低地ノルマンディーからはもっとも小さなタイプの船の半分つまり十隻がやって来ているし、カーンは単独でもっとも大きな船のうち四隻を供給している。。それとは反対に上ノルマンディーでは、ルアーが11隻、アルフルーとディープで殆どの大型船と六隻の平底舟を供給していた。

 最も大きい船では、乗組員は少なくとも98人、時には200人に達していた。100トンから150トンの船には78人から100人を乗せることが出来た。これに加えて一隻毎に210人を乗せた二十隻のガレー船の兵員が加わる。このガレー船は、ジェノヴァやモナコそしてニースから来ており、アントニオ=ドリアと彼の九人の郎党やシャルル=グリマルディに指揮されていた。リグリア海岸は、この後のスイスのカントン(州のこと)が傭兵を供給した様に、水夫達の貯蔵庫であった。フィリップ六世とエドワード三世の代理人達はイタリア人の奉仕をめぐって争ったが、今の所はカペー朝の代理人がプランタジネット家(イングランドの王家)のツキを吹き飛ばした。

 フィリップ端麗王(フィリップ四世)からヴァロア伯フィリップ(フィリップ六世)までのイングランドとの戦争による奪回の業績を始めから追求することは命令の組織についても自然に明らかにする。1338年には、まるで地上の戦いのように、ある艦隊を三つに分ける戦闘隊形をとった。一つは、海軍の提督自身によって指揮された。船の進行の命令は昼も夜も信号によって規制されたのだが、昼は旗、夜は炎によってその信号は出された。その勅令は提督の権利と特権を固定し、副提督の職を制定した。不幸にも、スパイがその命令を明らかにし、それと一緒になった侵略の計画もイングランドの当局に露見した。この勅令が海軍Navyを設置の採用を限定するものではなかったと、Black Book of Admiraltyは言っている。もっと重要なのは、この侵略の計画を暴露して周知させる為に、セント=ポール寺院の墓地に召集されたロンドンの民衆のもとで「この王国の民を熱狂させる目的で」使われた事だ。

 不安は活性化された、ブリテン島の海岸への奇襲が続くことによって、サザンプトンには二回、ポーツマスとワイトに対して一回、ライとヘイスティングスその上ガーンジーに対しても一回と言う様に、フランスによって攻撃された。州長官達は新しい攻撃が来るたびに鐘を鳴らさせた。「海上の見張り」が内陸に六リウーも入った所で組織された。イングランド人達は、侵略を予想すると、ブルターニュやサントンジュ海岸の、トレポールやブーローニュに対してお返しをすることを忘れなかった。まるでお互いが定められた一連の地点に報復性の襲撃を固定したかのようだった。もっとも痛い所はフランドルの海岸であった。そこではイングランドとの貿易が最も重要だった。にもかかわらず1339年に、権力者たちはフランス側に好意的だった。

 ヴァロワ家の大艦隊に直面して、エドワード三世は、最大限の努力をした。勿論彼は、1335年にシンクポーツ(特別五港)に30隻の船を出すように命令した。それらは、(現物ではなく)現金による貢献に置き換えられようとされていたので、1333年に徴発によって50トンから60トンの大型船を獲得していたのだが、結局それらの船は外国に賃貸しされることになった。このやり方はフィリップ六世のものに似ていた、が財政上の欠乏が船の軍隊としての奉仕の数と時間とを制限していた。経済学によって戦時の臨時徴用に頼る最後の時を予想できた、というのも。思い出してほしい、エドワード三世は、彼の債権者達、バルディ家やペルッチ家を最初の遠征で破産させていたこと、そして議会が彼に資金を与えることに対して煮え切らない態度だったと言うこととを。おまけに、彼は議会に従順でなければならなかった。にもかかわらず、(配下の)機関自体は悪くなかった。ロンドンのアーセナルタワーは質の点では及ばないものの、クロ=デ=ガレのライバルだと目されている。海軍提督の資格をもつ二人が、一人はテームズ川の北、もう一人は南において艦隊に対する指揮権と城館、崖の城によって保証された海岸の防衛の責任を持っていた。しかしながら、1340年には王は海軍の集結に関する彼の意志をすべて必要としていた。一月には、議会はシンク=ポーツの手当てを要求され、西の港へは30トンの船60隻が必要とされて居たので、30トンの船に関して臨時徴用することを命令した。一斉集結がウィンチェルシーで行われると予想されたが、エドワード三世がそこで見つけることが出来たのは、40隻の大型船のみであった。

レクリューズL'Ecluse

 結局レクリューズの遭遇の直前のエドワード三世の軍隊は、約190対200でフィリップ六世のそれと比べて数の上では少しだけ劣っていた。質の上では、フィリップ側は、檣楼(トップ)やその他の甲板の上部構造から放たれる射撃能力と、その漕ぎ手のおかげで急速な旋回に適しており、相手の喫水線の下で平底舟をうつことが出来るガレー船の柔軟性が合わさっていた。フランスの提督達は自分達の能力の優越性に信頼をおき、丁度600年後の今からすると、自分が最強であると信じていたから保証された軽率な勝利への予想をその時産み出していた。

 エドワード三世にとって、フィリップ六世のフランスの王冠に意義を唱えることの賭け金が多かったとしても、問題の核心は、フランドルにあり、そこでは織物業を営む市民達がイングランド産の羊毛を必要としており、彼らが、ジャック=ヴァン=アルトヴェルド(ヤン=ファン=アルテフェルデ)の扇動により、自分たちの伯を否認し、エドワードの主張に同意していた。1340年の一月にガン(ヘント)にやってくると、夏には軍隊を率いてやってくると約束した。彼の帰還を予想したため、「大艦隊」は六月にはフランドルに向けて出発し、ズウィンの港に陣地を取り、レクリューズ、今日ではオランダのスロイスと呼ばれるところだが、の前のブリュージュへの接近を命じた。

 フロワッサールによれば、六月二十三日に斥候から報告を受けたエドワード三世は、「そのマストが森の様に感じられるほどの船の量の大艦隊」に攻撃を仕掛けることをためらったそうである。イングランド側から見てジョフロワ=ル=バケが言うには、この艦隊は、戦闘の準備は万端で、まるで要塞のような外観で整列していた。ユー=キエレやニコラ=ベユーシュをその指揮官補佐としての役割を考えると、お互いを太い綱で繋いだ三つの船の塊の仕掛けを、旗艦である四つの大きな船の後ろに置いたことで、非難する人があるかもしれない。彼らは敵がこの列を突破できるとは思っていなかった。この列の破壊の成功と夜まで続いた殺戮は、キエレとベユーシュ、の間違いを示していた。彼らはその間違いに自分の命を支払うことになった。彼らを弁解するならば、まずこの戦闘隊形は慣例であったという事、1302年にゼーリックジーや1334年のスミルナでは彼らに勝利をもたらしていたことを挙げなければならない。もう一つは、海上の対決というものは接近戦の様に認識されており、地上での個人同士の殴り合いに似ていると考えられていたことを考えなければならない。みんな同じように考えていたし、エドワード三世も彼の船トーマス号の上で自身が負傷している。この傷はベユーシュがまるで犯罪者の様に、帆桁で吊るし首にされる直前に傷つけたものである。フランス側の二人の指揮官に責任にがあるのは、彼らの位置の不利さ、朝には太陽が彼らの目に入る上に、昼の間中、満潮がイングランドの進行に有利であるということ、を認識していなかったことである。それに加えて、採用された作戦が彼らに全ての行動を禁じていた。エドワード三世は、それとは対照的に潮の流れを利用していた。フランス軍はエドワードが撤退し始めると思っていたので、警戒を緩め、不注意にもその偽りの臆病さを嘲笑した。一旦戦闘が始まると、フランス側の好戦的な者はイングランド側の死傷者のもとに押しかけた。しかし状況はひっくり返った。夜にはフランドルの小船による艦隊がフランス側の戦列の後から、防御不能の攻撃を加えたからである。

 破綻のもう一つの原因は指揮官達の不和である。ベユーシュとキエレはバルバヴェラの助言を却下した。フロワサールによれば、バルバヴェラは敵の到着を予期すると、二人の指揮官にこう言った、「全ての船を沖に移動させましょう。もしそこに留まればイングランド側は、風や太陽や潮が彼らに向かっているので、我々はなにもしなくても近づくことになります」と。沖に留まるとこのジェノヴァ人はキエレのガレー船の移動を禁じた。もしこの自由な移動が保障されていたら、約30隻の船の撤退を保護しただろう。すぐにこの意見が、犠牲者の運命には気の毒だが、バルバヴェラに戦闘での撤退の責任を負わせる。

 勇気(の欠乏)が原因だったのではなく、司令部に欠けていたものは、協調の他に、戦闘や海上での経験が教える想像力や戦術の勘であった。艦隊の四分の三が破壊されたことにより掻き立てられた感情は、年代記に表現されている。フロワッサールは自分の弔辞を何人かの貴族に限り、乗組員、船乗りは軽蔑を受ける対象だったのでので、彼らまでには弔辞の対象を広げなかった。彼は書いている、「フランス人はこれらのノルマンディー人を大して尊重していない。何人かは、『これらの海賊が死んでも我々はなにも失う所がない』、と言っている。奴らはこそ泥でしか無い…。フランスの王は彼らの死によって200000フロランを儲けた。彼らの四箇月分の給料を払わなくて済んだし、海が彼らの海賊行為から解放されたからだ。」と。興奮は敗北させたことの驚きに由来していた。エドワード三世は彼の息子に当てた手紙のなかで、神の介入による奇跡のおかげだとしている。フランスでは、この驚愕は、例によって指揮官の無能とジェノヴァ人の裏切りの所為とにされ、つづいて、勇志達に対する国家的な哀悼へと変わった。船乗りたちは、彼ら自身で彼らの死の仇を討ち、汚名を雪ぐことを決めた。七月から、ノルマンディーの小艦隊が、臨時の司令官であるロベール=ド=ウーデットの下で、イングランドの海岸部に対する警戒を発しつづけていた。九月の終わりからは休戦が休憩を提供した。

 レクリューズの重要度は歴史家によって再検討されて来た。特にアングロサクソン族にとっての重要度だが、レクリューズはエドワード三世に制海権、この概念が彼の同時代人よりも彼にとって馴染みのあるものではなかったし、これを与えるのに十分ではなかった。彼にとって重要に見えたことは、彼の敵対者の領土が戦場になったと言うことである。彼の勝利の六ヶ月前に彼は書き残している、「もし私の艦隊が適当な時に準備が出来ていたなら、敵のそれに対して利点を持つことになるのだが。」、と。その事件の直接的な結果は、フランスの勢いをとめ、主導権と自信をイングランドの陣営に移したと言うことである。

 エドワードが予想していなかった勝利は、彼に自分の海軍の弱さを掴まえさせた。構築や組織の努力なしに、1342年の260隻の船をブルターニュの相続を利用して、ブレストを占拠する為に自由に使う事が出来なかったし、1346年のクレシーの戦いの軍隊を運ぶ為の数千隻のバティマン(大型船)や、1347年にシンクポーツ(特別五港)とカレーの間を往来した船や、アキテーヌと本国の間の輸送部隊を保護する艦隊なども自由に使う事が出来なかった。海軍の使命は、この様に姿をあらわしたが、それにたいしてフランスの海軍の使命は攻撃的と言うよりは防衛的なやり方であった。後者は海岸の防衛、商人の船団の防御、侵略してくる軍隊への妨害、そして最後に敵の海岸への逆襲と、遠く離れた場所への牽制。とにかく、その仕事は一定のやり方で、恒常的に処理された。

 レクリューズの海戦のあと、フィリップ六世は新しい提督、彼の遠い従兄弟であるルイ=デスパーニュ(スペインのルイ)、またの名を、ルイ=デ=ラ=セルダといい、聖王ルイ(ルイ九世)とカスティリヤのアルフォンソ十世の外孫であったのだが、彼を任命するのに八ヶ月も手間取った。彼は前任者より航海に長じており、ラ=ロシェルからカレーまでの待機中の船を再調査し、バスクの都市同盟の協力を要請する為にスペインに向った。しかし、この《カナリア諸島の君主》は、1345年からカナリアの領地の為にフランスを去り、その責任をある有名人物、つまりピエール=フロット、綽名はフロットン=ド=レヴェルといい、先祖の名声、つまり彼の父はフィリップ端麗王(フィリップ四世)のシャンスリエ(国璽尚書、大法官)だったのだが、その名声は彼の無能を埋め合わせる事は無かったその男に負わせた。交互に訪れた好機を利用した奇襲の混乱はブルターニュ、そこではフランスとイングランドがそれぞれ対立する党派を応援していたのだが、そこでの戦争を強調する。バスク人とジェノヴァ人の援助は、ジェランドとナントを、ラ=ロシェルとサン=マロを保持している国王の海軍に防御拠点として付け加える事を許した。ブールヌフ湾内、ガーンジーの沖、ヴァンヌ(ブルターニュ、モービアン県)の目前、などでは軍隊の運命は好ましい物であったとしても、それがイングランドがブレスト(ブルターニュの都市)に拠点を築くのを妨げなかったし、ダービー伯が1345年にサザンプトンからバイヨンヌまで率いていった軍隊を妨げもしなかっただろう。

カレーCalais

 ノルマンディーの親イングランド勢力の間に根を張りつつあるエドワード三世に立ち向かう為に、フィリップ六世は、シャルル=グリマルディに率いられた、二十隻のモナコのガレー船からなる艦隊と点検中のノルマンディーとピカルディーの船を再建しようとした。事態は急を要した。しかしグリマルディーの艦隊は、バレアレス諸島で、タホ川(スペイン)で、ラ=ロシェルで、サントンジュとブルターニュの島々でグズグズとして、1346年の八月の半ばまでセーヌ湾に到着しなかった。エドワード三世はすでにノルマンディーを荒らしまわった後だった。エドワード三世の出航準備を妨げるような激しい嵐を英仏海峡の反対側の世論に与えるために占星術師を金で雇っても、イングランド王の幸運を妨げるような試みは無駄だった。凪にもかかわらず、フランス側の海上の見張りはかなり衰弱しており、ポーツマスからサン=ヴァースト=ラ=ウーグまでの間、数万人兵士を積んだ七百隻の船が抵抗に遭わずに済むほどだった。 上陸すると、エドワード三世はラ=アグからカンまでの間の百隻以上の船舶を拿捕して焼き払った。オンフルールやアルフルールは、急いで防衛の状態に入ったが、クロ=デ=ガレと同様危険にさらされていたのだが、イングランドの軍隊がカレーに進路を変え、その途上に八月二十六日のクレシーの戦いの幸運を見つけることになった。

 フランス側は、エドワード三世と沖にいて前進を続けている彼の海軍との間の連携を分断したいと思っていた。アブヴィーユとブローニュとでの抵抗は、粉砕された。そのイングランドへの近さと西ヨーロッパの海上交易路の一つにおけるその位置とから、戦略的な魅力が明白であったカレーは取り残された。

 海軍によるカレー包囲の逸話は、孤立した籠城軍と六人の市民≪six bourgeois≫との逸話と比べると集合的な記憶≪フランス人の一般的な歴史認識?≫に余り残っていない。包囲を破るためには、九月の十七日のグリマルディ率いる何隻かのガレー船が、フランス軍の何隻かのバルジュ船を伴って、通行を塞いでいた二十五隻のイングランド船を拿捕した最初の段階での成功を利用するべきだった。しかし、慣習に従って、ジェノヴァ人達は、冬営地に引きこもったので、イングランド軍は小要塞を港の入り口に作ることが出来、水路を塞ぐためにボートを沈めることが出来た。この陣地に食料物資を補給する観点から、ピカルディー、ノルマンディー、そしてスペインから、五十二の大型船Bâtimentが四百人の兵隊を乗せて、包囲をこじ開けようと四月の終わりまでに五回か六回試みた。イングランド軍は七百五十隻の船を輪番で監視に当たらせた。六月が終わり七月になると、海上においても陸上からでも、この町を開放しようという試みが何度かなされた。その最初の試みは、イングランド軍の八十隻の大型船Bâtimentにより粉砕された。二つ目の試みは、連携と船の使い方の誤りにより挫折した。その合間に二隻のカレーの船が脱出を試みた。その内の一方は、フランス王に宛てた絶望的な伝言を海上に放り投げたが、最終的にそれはエドゥアール≪エドワード三世≫の手に落ちた。この後の話は有名である。八月六日にこの都市は降伏し、住民は総て追い出されイングランド人が代わりに入植した。九月二十八日の休戦がこの事実を承認した。

海上におけるスペイン人の活躍Les Espagnols-sur-Mer

 三年後、ブリュージュからやってきた四十隻のカスティリヤ船は、イングランドの艦隊によって、1350年の八月二十九日にウィンチェルシーの沖で破壊されたり拿捕されたり、或いは逃走させられた。この出来事は、今日までイングランドでは大変な反響を保っており、今でも海図に「海上のスペイン人Les Espagnols-sur-Mer」として書き留められ注記されているほどである。この勝利は、エドワード三世の要求、1336年に彼の提督達に宛てた手紙の中で、彼の前任者達、海と海を渡った土地の支配者≪domini maris et transmarini passagii≫あるいは、イングリッシュ=シーの支配者≪lords of the English sea≫の受け継いできた伝統に従うと言っているのだがこれを正当化したように思われる。イングリッシュ=シーとは、ブリタニア海Mare britannicumと海図で呼ばれるところであり、1347年からイングランドが二世紀にわたってその接近を禁じることになった。カレーで演じられたドラマは、片方には、誇りと野望の発生源であり、もう片方にとっては、苦さの源であると同時に活力を刺激する者であったのだが、海洋史の転換点の一つである。

 それ以後の数年間は、有能なイングランド王、彼は以前は三十隻程だったのだがその代わりに五十隻の船を自由に恒常的に使えるようになったのだが、その彼と、カレーを取り返すには、そしてイングランドの輸送船団が英仏海峡を往来するのを防ぐには無能なフランス王ジャン二世との間の対象はクッキリとしている。勇気が足りなかったのだろうか。いいや、そうではない。では、主体性が足りないのだろうか。時にはそうであった。だが、当局の機能低下と国内の無秩序への汚染がしばらく続いたのは確実だ。

 おそらく、クロ=デ=ガレは、その仕事を追及し、三十隻の船その内二十隻はガレー船だったのだがそれを艤装し、また、ブロワ伯シャルルのためにレ=アール=ド=ブルターニュ≪Les Halles de Bretagneブロワ伯シャルルは妻の権利でブルターニュ公位を要求していた。≫と呼ばれる新しい作業場を拡大した。しかし、アルフルーそして、この三角江全体に対するイングランドの脅威(1357年と1360年のそれ)が、ナヴァール王の破壊活動や、コンパニのクロに対する破壊活動と同様に、その活動を制限し、1364年には、ロルボワーズRolleboiseの城から撤退したほどであり、本来なら海に向けられるべき船と乗組員とを上流に向けて避難させねばならないときもあった。財政上の窮乏が、新しい船の建設と、ジェノヴァかカスティリアの船の賃貸借か、それとも≪中古の≫船を買うかの間で対立を生じさせたが、1352年には、十五隻ほどのフランドルのコッグ船を買うことになった。結局、指揮権というものは、軍事的な手段の限界を定めるだけに限定されない政治的な偶然、提督を任命したり解任したりするそれに左右されがちであった。

 しかるべき地位について十年間、ヨハネ修道騎士団修道士ジャン=ド=ナントゥイユは、「軍事的偉業apertises d'armes」を探し求める真の「海の騎士chevalier de la mer」であったのだが、1355年に黒太子が300隻の船と共にプリモースからギュイエンヌに上陸するのを防ぐことが出来なかったし、やり方も分からなかった。しかし、彼は、1356年の六月にランカスター公がサザンプトンからラ=ウーグに五十二隻の船と共にやってくるのを四隻のガレー船で邪魔することは出来なかったのだろうか。彼は、エチエンヌ=マルセルの影響の下、アンゲラン=キエレEnguerran Quiéret、おそらくレクリューズの英雄の親類である彼の利益になるように解任された。その上、虜囚の身である王は、海軍に関する総ての企てを放棄するように勧めて混乱に拍車をかけた。1356年の十二月十二日付の彼≪ジャン二世≫の書いた商人会頭≪prévôt des marchands、パリ市長≫宛ての手紙の中で、イングランドに侵入したり上陸したりすれば、彼≪ジャン二世≫の解放が困難になると指摘している。またそれより少し後には王太子≪後のシャルル五世≫に「艦隊は動かすな」と命令している。

 フランス王もその息子も、事態の主導権を握れなかった。オンフルールを解放しようという試みの後、また陰謀が再発したのだ。アンゲラン=キエレは、1358年初めに提督としての職を、陰謀家ルノー=ドビニーRenaud d'Aubignyの為に失ってしまった。彼≪ルノー≫は、ポワティエの戦いで捕虜となり、最近解放されたばっかりだったのだが、王太子の周りで、彼の父≪ジャン二世≫の解放の交渉に当たるために実権を握っていた。全国三部会は、キエレの復職を要求したが、彼の後任のアンゲラン=ド=マントゥネEnguerran de Manteneyはわずか十五日しか提督でなかった。1359年、ベリー公はこの話題についてこう言っている、「我々は、有ればイングランドが世界で最も恐れる海軍を持っていない」と。

 続く十月、エドワード三世は、何の苦労もなしに軍隊と共にカレーに上陸した。そのあいだに再建は始まった。1359年六月に新しい提督、ボドラン=ド=ラ=ウーズBaudrain de La Heuse彼は海のことをよく知っていたのだが、彼は九年間その職にとどまり、全国三部会は、「イングランドに対する良き戦争を行うfaire bonne guerre à l'Anglais」ことを決議した。唯一の可能性は、海上において、そしてイングランドの海岸線に対して執拗な攻撃を仕掛けることであり、それは1360年の春まで続けられた。三日間(三月の十二日から十五日までの)のウィンチェルシーの占領は、イングランド人を動転させた。アルフルーに対する攻撃は延期させられた。エドワード三世は、シャルトルの近くのブレティニで休戦条約を締結したのだが、海上交通が妨害されることの危険を正しく評価できていた。デンマーク王ワルデマール三世は、王太子≪シャルル≫に自分の船をイングランドに対して差し向けることを申し出ていた。しかし後者≪シャルル≫にはその必要はなかった。彼の父≪ジャン二世≫はカレーと、ブルターニュからギュイエンヌまでの海岸線とを放棄する代わりに解放されていたのだ。ラ=ロシェルは抵抗したが無駄だった。

イングランド人達は、彼らの王がフランスの王冠に対する要求を放棄したことに満足していなかったし、カレー条約の曖昧な内容にも満足していなかった。王太子は休息を利用して、復讐を考えなかったのだろうか。あるいは、レイモン=カゼルが考えるように、大西洋側での犠牲を甘んじて受け入れ、彼の伯父、神聖ローマ皇帝カール四世との同盟を使って大陸側の政策に迂回したのだろうか。十年も経たないうちにシャルル五世は海を選ぶことになった。

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