補足事項です。

Michel Mollat du Jourdinって。深沢先生の翻訳(『ヨーロッパと海』平凡社、1996)があったのね。結構有名な歴史家か。

1.カレーの市民
いまいち意味が良くわからない。Rodinの作品les Bourgeois de Calaisと何か関係あるのだろうか?


…………、詳説世界史研究ごときに………記述が。以下抜粋『1347年八月三日、ドーヴァー海峡に面したカレーは一年近いイギリスの攻囲戦に疲れ、ついに落城した。このときエドワード三世は市民の皆殺しを要求したが、結局6人の名士市民が人質となることで、残る市民の命は救われることになった。東京上野の西洋美術館の庭に、この事件をモチーフにしたロダンの彫刻「カレーの市民」が展示されている。』だそうだ。
2.マーハン
誰?


有名な戦略家の人らしい。A.T.マーハン。プロイセン国王の海軍政策に影響を与えたとか、主著が中国語に翻訳されて中国思想文化の図書館に入ってる(馬漢マーハン)ので随分昔の人らしい。
3.「彼らの王国〜」
ここのフランス語全くわかりません。
pourvoir son royaume tant sur mer comme par terre
rapareiller et rafraichir toutes les frontieres de son royaume tant sur mer comme par terre
(ラパレイエはPが重なっていませんが、rappareillerだと判断しました。ラフレシールは一つ目のiの上に、シルコンフレックスが、フロンティエの一つ目のeの上にはグラーヴがついてます。)
4.セネシャル
この時代のセネシャルは王の下級役人(南で、北はバイイ?)といった所かしら。昔は、給仕役=陪膳と言うのはえらい役だったの。セネシャル=主膳長、シャンブリエ=官房長、ブティエ=酒甕長、コネターブル=主馬頭というのはフランクの重要官職。神聖ローマ帝国で世俗の四君主はこの役職に任じられていたので(よく覚えてないけどザクセンが主馬頭とか)他とは別格だった。
5.リーヴル
リーヴルはお金の単位。基本的には、鋳造場所によりトゥール系とパリ系に分けられる。ブルゴーニュ家が鋳造を始めたみたいな記述を呼んだ事があるようなきがするが、覚えていない。
6.バイイ
国王裁判官って言っとけばイイのかね?王のために働く下級官僚?われらが封主の「バイイとセネシャル」と言う論文を読んでいただければ良いのではないだろうか。←よく読んでない。
7.black book of admiralty
Black Book of Admiraltyって、提督黒書(表紙が黒い報告書、白ければ白書みたいな奴の事?警察白書とか環境白書とか?)か?恐らく海軍の年代史なのでは。

Black Book of Admiralityとは、海事関係の法令、判例を集めた法典だそうで。提督職の職務規定なども含まれるそうです。
8.リウーlieue
長さの単位。里、約四キロ。
9.シンク=ポーツ?Cinque Ports
イングランド南海岸の特別五港。Hastings、Romney、Hythe、Dover、Sandwich。特権と引き換えに王に対して軍船を提供する義務があった。
10.自分たちの伯
フランドル伯、ヌヴェールのルイ。民衆の暴動から救い出してくれた、フィリップ六世に忠誠を誓っていた。エドワード三世の羊毛輸出禁止措置にもかかわらず彼の忠誠は変わらなかった。ヘントの手工業者ギルドは、羊毛が手に入らず暴動を起こして、彼らが市政を掌握した。1345年にファン=アルテフェルデが暴動で殺されるまで。
11.ゼーリックジー
オランダの沖の海。ゼーラントはドイツ語でシーランド(海の国)でオランダのこと。………のはず。
12.「ベユーシュとキエレは………」
この段落もいまいちよくわからず。
13.カナリア諸島の君主 《prince des îles Fortunées
カナリア諸島は、極楽諸島、幸運の島と呼ばれてるらしい。
14.ダービー伯le comte de Derby
エドワード三世の四男ジョン=オヴ=ゴーント(ガン=ヘント生まれのジョン)の正式名称。妻の権利でランカスター公を名乗る。息子はヘンリー四世。再婚相手が、カスティリアのペドロ一世残忍王の娘コンスタンスだったので(カスティリアでは奥さんの権利でも国王を名乗れる)、カスティル=レオン国王を名乗る。
15.エチエンヌ=マルセルEtienne Marcel
エチエンヌ=マルセルは、パリの水上商人組合の会頭≪パリ市長≫であり、度重なる貨幣の品位低下、悪政に対抗して反乱を起こし、王の顧問官の入れ替えなどを行った。
16.虜囚の身である王
当時のフランス国王ジャン二世善良王は、ポワティエの戦いで、イングランド軍の捕虜になっており、ロンドンに滞在していた。
17.オリヴィエ=ド=クリッソンOlivier de Clisson
デュ=ゲクラン亡き後のフランス王軍長(コネターブル)。コネターブルにはいろんな訳がありますが、この場合は王軍長。王の厩の長=コメス・ステーブル(コメスは伯とよく訳される)でコンステイブル(警察署所長じゃないよ)と英語では言いますが、この時期はグランテキュイエと呼ばれる連中がいるせいで、軍事指揮官としての役割しかなかった。大元帥と訳す場合もあるが、マレシャル=元帥と区別する為に王軍長が良い、と騎士道辞典に書いてあった。
18.東方 levant
日が昇るse leverするってことでlevant。イタリアが東ってのはわかるけど、でもカスティリアってフランスの東だっけ?まあ、この当時の印象としては地中海で活躍してる連中はみんなレヴァントだったんだろうね。
19.bourgneufの塩
塩の産地として国際的に有名だった?ファヴィエのLa Guerre de cent ans p.56によれば、「フランスは豊かな国であった。フランスはその国土に沢山の資源を持っていた。ノルマンディーとピカルディーは豊作でなくても小麦をイングランドと北方の国々とに輸出していた。ガスコーニュのワインはサザンプトンとブリュージュにとっては必要不可欠な輸入品であった。ペッカイとイエールそしてベールの塩はジェノヴァで売られたし、ブールヌフとそして勿論ジェランドの塩は、ベルゲンやノブゴロドといったところまで、北方ヨーロッパのどこでも売られていた。………」
20.ペンブルック伯
エドワード三世の五女マーガレットの婿。ジョン=ヘイスティングのこと。
21.バッキンガム
バッキンガム伯。後のグロスター公。エドワード三世の八男、トマス=オブ=ウッドストック。
22.死に掛けの王による税務上の制約
シャルル五世は死ぬ直前、自分が創設した人頭税を廃止した。これについてはここを。
23.フィリップ=ル=アルディ Philippe le Hardi
ジャン二世の四男。シャルル五世の弟。フランドル伯の女相続人、ルイ=ド=メール(ヌヴェールのルイの息子)の娘マルグリット=ド=メールと結婚した為フランドル伯となる。豪胆のあだ名は、ポワティエの戦いで、父王ジャン二世とともに勇戦した事からつけられたという。
ちなみに、フランス国王フィリップ三世も、Philippe le Hardiというあだ名である。
24.ローズベック
ローゼベーケ?1383年一月二十七日。ヘント市民がルイ=ド=メールに敗れフランドル伯領を彼に奪回された戦い。ヘントは1379年に黒死病以来の生活費高騰に対し、織布工達が暴動により権力を奪取していた。フランドル伯は包囲を続け、兵糧攻めを行ったが、ヘントの指導者フィリップ=ファン=アルテフェルデは食料が尽きると、市の外に出て決戦を挑み、フランドル伯の軍隊を粉砕してしまった。フィリップ=ル=アルディは自分の未来の相続地の運命を気に掛け、フランスの宮廷に働きかけ鎮圧に向った。で、その戦いのはず。
フィリップは、ヤン=ファン=アルテフェルデの息子らしい。
…どうやらクールトレ(コルトレー)の戦いが、「金拍車の戦い」と呼ばれているらしい。で、シャルル六世は勝利の記念として、1302年以来クールトレのノートル=ダム教会の壁に掛けられている黄金の拍車をはずして来たらしい。この拍車はクールトレの戦いで、フランスに勝った記念としてフランドルの市民達が飾っていた物である。拍車というのは騎士の象徴で、市民が騎士に勝った記念と言うことらしい。
25.到着の遅れ。
王の伯父達は戦に逸る甥の気持ちを静めようとしていたらしい。
26.ブルターニュ公ジャン四世
ジャン=ド=モンフォール。イングランドの援助を受け、ブルターニュ公を名乗る。彼はエドワード三世の四女メアリーと結婚していた。彼の従姉妹ジャンヌ=ド=パンティエーブルもブルターニュ公位を主張した為、戦争となる。パンティエーブルの側は、フランス王が援助。彼女の娘が、シャルル五世の弟アンジュー公ルイと結婚した。パンティエーブルの夫シャルル=ド=ブロワが死亡した(1364年九月二十九日、オ―レの戦い)際に、ブロワ党は公位をあきらめ、モンフォール党は、イングランドと手を切ること(フランス王に武力を発動できず、中立化)を条件にブルターニュ公位を認められた(1365年四月十二日、ゲランド条約)。しかしこの時再びイングランド側についた。因みに彼の次男アルチュールが、ジャンヌ=ダルクの時代のコネターブル、リッシュモン伯である。ブルターニュ公はイングランドのリッチモンド伯を兼ねていた。リッシュモンとはフランス読み。
モンフォールって、シモン=ド=モンフォールとなにか関係あるのかな?
27.モン=サン=ミシェルMont-Saint-Michel
ノルマンディーにある修道院。戦の守護神である大天使ミカエルを祭っている。ヴァイキングの襲撃に備える為に要塞化して以来重要な軍事拠点でもある。何時かは行って見たい。
28.大西洋岸 Ponant
正確には地中海の西側の事をポナンと呼ぶと辞書に書いてありましたが、クロ=デ=ガレのあるルーアンやラ=ロシェルって大西洋岸ですよね。でもその辞書によるとポナンはイタリア語起源で、レヴァントの対語だと書いてあったので、M. Mollat du Jourdan氏の印象では、イスパニアを含めて地中海の意味でlevantを使ってるので、それ以外の地域で、大西洋岸と考えているのではないでしょうか。
29.ブールジュの王roi de Bourges
王太子シャルル、後のシャルル七世は、大叔父のベリー公ジャン(ジャン二世の三男)が死んだ後、アパナージュ(親族封・親王采)のベリー公領を相続していた。ブールジュはベリー公領の中心都市。で、シャルルは、アングロ=ブルギニョン同盟の前にベリー公領以南に逼迫していたのでこう綽名されていました。