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WEB掲載日:04/06/18
掲載誌:週刊「かけはし」2004年4月5日(第1824号)
3千人の結集―多様性が表現した京都反戦運動の力
「反戦・反政府」デモ隊も元気良く

 3月20日の朝は、ときおり小雨の降る中で明けた。全国各地でのとりくみと同様に、京都を基盤に活動する多くの運動家は年が明けて以来、この日のために準備をかさねてきた。おりしも、米英の戦争に荷担してきたスペイン・アスナール政権が選挙で敗れ、イラク駐留軍を派遣しているその他の諸国でも撤退するか否かが政治的課題として急速に浮上してきているという情勢である。占領をやめさせる。自衛隊を引き戻す。それは、できる。この日のデモが、決定的だったのだと歴史に書かれるかもしれない。そうした予感が人々を会場となった鴨川三条河川敷へと駆り立てた。

 この日の取り組みは、左派、市民運動、宗教者が連合する「きょうとネット」を基盤とする実行委員会に「東西本願寺共同行動」が歩調をあわせた。実行委員会に代表を送っていない諸グループも、この実行委員会のデモに合流することをきめた。連合系とは残念ながらデモの統一にはいたらなかったが、個人レベルでの合流は相当数にのぼったはずである。また、独自の集会やデモを前段のとりくみとして組織するグループもあった。

 私がその隊列にくわわった「3・20反戦・反政府デモ」はそうした取り組みのひとつである。正午、全体集会の開始を2時間後にひかえて、会場のちかくに集まったおよそ30人の学生・青年の集団は、新自由主義とミリタリズムのグローバリゼーションの下、戦争はもとより、ますます進む若年層の使い捨て労働力化、野宿の仲間への弾圧、監視国家化、反戦運動への不当逮捕、教育現場での国家主義の横行などに怒りを炸裂させる前段集会をもった後、デモに出た。シュプレヒコール。きわめて原則的なスローガン。沿道の人々には幾分か時代錯誤的に思えたかも知れない。だがしかし、原則を貫けば貫くほど周縁に追いやられ、ともすれば「テロリスト」のレッテルを貼られるこのとんでもない社会状況の中で、僕らはあえて「反政府」をかかげたのである。

 全体集会の開始時刻とほぼおなじころ、僕らの隊列はデモをしながら全体会場へと入場した。直前、三条大橋のうえから河川敷を一望する。息を呑む。様々な団体ののぼり旗、横断幕、この日のために実行委員会が用意した数十枚の虹色の旗が翻り、その隙間を色とりどりの傘が河川敷を四条大橋のところまで埋めているのである。三条大橋の北側河川敷では個人参加をかかげる「ピースウォーク京都」がこれもまた色鮮やかな独自集会を行なっているのが見えた。驚いたことに僕らが河川敷に降りたあとも、続々と入場してくる人の流れはなかなか絶えなかったのである。

 この日の集会の特徴を一言でいいあらわすならば、「多元的」という言葉をおいて他にない。直接的原因としては主催者側が用意したステージと音響設備に対して、集会規模が大きくなりすぎたためであるが、ひとつの会場の中でたくさんのグループが、一つの集会に統一されえないで混在し、そのなかの幾つかは独自のアピール活動を行なっているという状態になったのである。そこでは、ある表現手法が他の表現を制圧するというようなことは全く起きていなかった。そればかりか実行委員会は、勝手に集会をやっている「反戦反政府デモ」や「ピースウォーク京都」にも全体集会でのアピールの機会をくれたのである。

集会やデモのスタイルをめぐる新旧の活動家間の軋轢はどの地域でもだいたい発生してきたようにおもえる。京都においてもそれは9.11以降の世代とそれ以前との世代の間で、あるいはアナキスト系とその他のグループとの間で、繰り返し起きてきた。しかしイラク戦争からの一年は、活動家間の双方向的な討論がもたれてきた一年でもあった。相互作用的関係を保ちつつ相互の表現を許容する方向へと、反戦運動は質的に成長してきたといえるのではないか。

 雨が上がった。ゆっくりと、デモの隊列が街へ出る。「反戦反政府デモ」のグループは、全体の最後の方にくわわることにした。目の前をそれぞれのスタイルで歩く各グループが通過してゆく。この日の参加者はおよそ3000名でありこれは、一年前とほぼ同水準である。が、京都の反戦運動の実力は数よりもむしろ、その多様性に表れたのだと僕は主張したい。

僕らの「反戦反政府デモ」の隊列は、元気良くシュプレヒコールを街頭に響かせた。繁華街に翻る「日の丸」を弾劾し、ファストフード産業に怒りの声をぶつけながら歩き、そして意識的に道路全体へと広がっていこうとしたこの30人の小集団を、警察は押さえ込むことが出来ない。警察の予測をはるかに上回るデモの規模に、かれらの防御ラインは薄く延びきってしまっているためだ。そしてついに、僕らは終着地点付近の八坂神社前の交差点でいっぱいにひろがって踊りくるい、「路上解放」したのである。ちなみにこのとき、沿道は、デモ終着地点で流れ解散して引き返してくる人々で埋め尽くされていた。これも一年ぶりの光景であった。

「反政府」のメンツはその後近くの公園で小集会をもち、弾圧下にある「立川自衛隊監視テント村」への救援カンパを募ったのち、解散した。改憲勢力による大攻勢のこの時代に、「反戦反政府デモ」の闘いは、まだ緒についたばかりだ。


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