本紙02年3月18日号に掲載された拙稿「京都ウトロ地区の在日韓国・朝鮮人強制立ち退きを阻止しよう!」を覚えておられるだろうか。
ウトロ地区(宇治市伊勢田)は戦時中の軍事飛行場建設工事に従事する朝鮮人労働者が起居した飯場に起源をもち、五十年以上続く在日朝鮮人の集住区である。そこに住む人々は、日本政府や軍需産業からは何らの補償もなく放置されてきたが、協力し合って町作りをしてきた。ところが同地区の所有権を軍需企業から引き継いでいた「日産車体」が、住民に知らせることなく一九八七年に地上げ屋に転売。このため、地上げ屋によって立ち退きを求められたのである。
二〇〇〇年末に最高裁で住民側の上告が棄却され「建物収去・土地明渡命令」判決が既に確定している。いつなんどき強制代執行(=警察権力を動員したウトロ住民に対する実力排除)があるかもしれないという緊張感の中、ウトロの人々は暮らしている。
今回は五月二十七日の住民集会に行った時に、あるハルモニからうかがった話をお伝えしたい。黄順禮(ハン スンレイ)ハルモニ(69歳)。ハルモニは京都の東福寺で生まれた在日二世である。戦争中、ハルモニの一家は仕事があり、かつ同胞が集まっている宇治の飛行場建設現場の飯場に移り住んだ。当時の朝鮮人への差別は、例えば空襲時に防空壕に入れてくれないという程であったという。
戦後ハルモニの父は早く亡くなったので、オモニが農業の手伝いや、米軍演習場で砲弾の破片などを集めて屑鉄業者に売るなどして順禮さんら三人姉弟を育てた。日本帝国主義が敗戦したとはいえ、日本本土に取り残された朝鮮人の暮らしは楽ではなかった。
順禮さんら子どもたちは、することがないので毎日遊んでいたそうである。そんなある日、通称「山下さん」という同胞がウトロに住むようになった。戦争で家族を失った朝鮮人が、ウトロに来るというのはよくあることだった。彼と最初に話をするようになったのは順禮さんら子どもたちであった。
遊んでいる子どもたちに、「山下さん」が、「日本人に差別されて、毎日遊んでいてはずかしくないんか」「自分たちの言葉でお父さん、お母さんて言えるか?」と語りかけたそうだ。最初はいぶがしがっていたが、子どもたちには彼の真剣な思いが伝わったのか、すぐに仲良くなり、毎日彼にハングルを教えてもらうようになった。そして、「山下さん」はウトロの人々に受け入れられ、彼を講師にして飯場の長屋の一室に子供たちが集まって勉強をするようになったのである。
ちょうどこの頃、日本本土各地の在日朝鮮人の集住地でも、皇民化教育により失われた言葉と文化を取りもどそうと、自然発生的に「国語講習所」がつくられていく時期にあたる。ウトロ地区の民族教育は、このように始まったのだった。
その他にもハルモニにはさまざまな話をうかがった。ウトロの裁判が始まってから、ウトロ農楽隊の結成に参加して各地で公演してこの問題を訴えてまわったこと。支援運動の日本人や、周辺の小学校、解放同盟の人々、海外との交流のことなどである。その中で黄順禮ハルモニが繰り返し語ったのは「人間、なんぼ年をとってもな、死ぬまで勉強やで」ということである。さまざまな人々に直に会い、言葉だけでなく、表情、手足、全身でコミュニケーションをする時、必ずその出会い、交流から学ぶことがあるのだという。「差別はあかん。人間を浅く見たらあかん。人間対人間のつき合いをせなアカンのやで」というハルモニの言葉は、豊富な体験から得た至言であろう。
実はこのハルモニ、私が住民集会の日を誤ってウトロを訪れた時、「来てくれてありがとな」といって、私の遠慮を押し切ってパンとジュースを持たせてくれた気さくな人物である。上述の話を聞いた日も、住民集会のあとに自宅に私を招じ入れ、パンとコーヒーを振る舞ってくれ、帰りは自ら四輪駆動車を運転して駅まで送ってくれた。「人間対人間のつき合い」はハルモニの実践なのだ。黄順禮ハルモニ、カムサハムニダ!
ウトロは、このようにとても暖かい人間的な繋がりのある町である。この人々とその空間を守るために、是非力を貸して欲しい。